ライラの冒険シリーズ1
黄金羅針盤
NORTHERN LIGHTS/THE GOLDEN COMPASS

 「親の心、子知らず」とは良く言ったもので、勉強しなさいとあれだけ言われて「関係ないね」と斜に構えた挙げ句に進学で、就職で、出世で学校の成績が良かった人たちにどんどんを先を行かれ、そこでようやく「しまった」と思って、親の言葉がズシンと身に重くのしかる。

 と同時に「子の心、親知らず」とも言える訳で、例えば子供が音楽に、演技に、絵画に、医学に、科学に才を見出し伸ばしたいと思い、それが果たせる進路を希望したとしても、親が自分の価値観で一般的な進路を強要した挙げ句、才を摘んでしまう例もおそらくは枚挙に暇がない。摘まれても伸びるのが真実の才と言われればそれもなるほど一理あるが。

 誰だって子供だった頃がある訳で、だからこそ子供の言い分を聞いてやりたいという気持ちは持っているが、逆に誰だって大人になる筈で、だからこそ子供の言い分など一時の迷いと断じる気持ちがあって当然だろう。大人と子供のどちらが正しいなどと問うことは不可能なのだ。一生を子供のままで過ごせるか、それとも大人として生まれ育ち死ぬように人間が出来ていない以上は。

 フィリップ・プルマンの「黄金の羅針盤」(大久保寛訳、新潮社、2400円)は、その形態を見る限りにおいて、子供が対象の子供を主人公にした子供の立場に立って書かれたファンタジーだ。主人公はオックスフォード大学の寮に預けられて、そこを家にして育った少女ライラ。やんちゃでお転婆で近所にやってくるジプシャンなる放浪の民の子供と喧嘩して、時にはボートの栓を抜いて沈める悪戯もする。

 ある日のこと、ライラを寮に預けたアスリエル卿なるライラのおじが寮を訪れ、北極へと降り注ぐ不思議なダスト、そしてオーロラに浮かぶ異世界の都市の話を披露し、北極へと探検に向かう費用を引き出す。だが、おじは消息を断ち、鎧をつけた熊が護る牢獄に監禁されてしまう。

 一方、ライラの身の回りではジプシアン、ライラの友だちを問わず子供が次々と姿を消す事件が起こっていた。ライラ自身は彼女を引き取りたいと寮を訪れたコールター夫人なる女性と一緒に街へと出たが、そこでコールター夫人が子供をさらう「ゴブラー」の一味と知って夫人の下から逃げ出す。程なくライラはジプシアンの一行と落ち合って、寮を出る時に預けられた未来を予見することの出来る「羅針盤」を持ち、北極へと子供を探しアスリエル卿を救い出す冒険へと向かう。

 「黄金の羅針盤」の舞台になっている世界では、人間は誰もがダイモンという分身を持っていて、ライラもパンタライモンと名付けた、様々な動物へと姿を変えることの出来るダイモンと常に一緒に生活している。ただし、ダイモンはそのパートナーである子供が成長し、大人になると変身できなくなってしまう。

 ダイモンが変身しなくなる、すなわち大人になるとはどういうことなのか。その際にダストが与えている影響は。「ゴブラー」なる組織は一面で、そういったことを研究していて、子供とダイモンを切り放すことで、子供を救おうとしていた節があった。

 それは大人にとって、大人たちの社会にとって良いことだという認識があっての行為だったのかもしれない。けれども当の子供たちにとっては、常に身近にあったダイモン、その身が傷つけられると本人までもが痛く辛い思いをする一心異体のダイモンを切り放されることは、哀しいどころか恐ろしいことであり、決して認められることではない。

 そんな子供の価値観と大人の大局観がせめぎ合うなかで進んでいく物語を、大人はきっと安閑とは読んでいられないだろう。身勝手な子供、我侭な子供、世間知らずの子供と非難したくもなるだろう。けれども逆に子供だった時分、大人の勝手な価値観に縛られ、今を後悔しながら生きている「元・子供」の気持ちが真正面からの子供への非難を遮る。子供が正しいのかもしれないと思わせる。

 立場の違う者たちの思いは相容れないもので、本編でもゆっくりとしか歳をとらない魔女と、100年も経たずに老いて死ぬ人間との、恋と別離のエピソードが間に挟まれ、成長していく哀しみと同じくらいに、成長しない哀しみもあるということが示される。子供のままでいたからといって、不幸ではいけれど幸せとも言えない。かといって大人から老人へと歳を重ね続けることも、多分幸せとはいえないし不幸でもない。

 子供にいつまでも子供のままでいろと言いたいのか、それともやがて来る大人の世界に脅えるなと言っているのか。子供のために書かれた本書が表向き指し示すのは前者だろう。けれども同時に利発で明晰な子供だったら、当然の如く訪れる子供の終焉と大人の到来を想起して迷うだろう。

 正解はおそらく存在しない。だからこそ考え続けられるのだし、1つの意見に縛られず、独善に陥らず、常に周囲への目配りと気配りを忘れない、大人であっても子供であっても共通の「人間」として持つべき心が芽生えるのだろう。我侭勝手な子供は嫌いだが、唯我独尊の大人ももっと嫌いだ。用意された答えなど答えじゃない、迷いの中から道は開けていくものだから。

 ラストシーン。ライラは大人への余りの反発から、大人が忌避する物を正義と思いこみ、大人であるアスリエル卿による破壊を防ぐべく別世界へと冒険に出かける。「ライラの冒険シリーズ1」とされた「黄金の羅針盤」から、次に描かれる舞台がどこかは知らないが、そこで果たしてライラは何を見、何を知ることになるのだろうか。子供としての正義か、大人としての真実か、そのどちらでもない真理か。元子供の大人として、明示される物語の行く末を哀しみつつ楽しみたい。


積ん読パラダイスへ戻る