「プガジャ」の時代

 名古屋に在住していた身には「プレイガイドジャーナル」と言えば「名古屋プレイガイドジャーナル」であって略称は「なぷかじゃ」で、たとえ大阪に本家の「プレイガイドジャーナル」という雑誌が存在していてそれが「ぷがじゃ」と略され、愛され終末期には題字もその「ぷがじゃ」になっていたからといって、名古屋にいれば目にする機会も手に取るチャンスもなく、従って読んだこともない雑誌だったから思い出なんてまるでない。

 ないのだけれどもその本家「ぷがじゃ」の最後の編集長が、実は「なぷがじゃ」で編集長を休刊になる82年3月頃まで務めていたとあっては無関係ではいられない。大阪府立文化情報センター編として刊行された「新なにわ塾叢書」の1冊「『プガジャ』の時代」(ブレーンセンター、1200円)には、名古屋から大阪へと移り編集長となった小堀純をはじめ歴代の編集長や編集者たちが連続して登壇して行った講演の記録が綴られていて、あの時代にそんな凄い雑誌があったのかということを、87年の実質的な終刊から20余年を経た今に思い出させてくれる。

 「プレイガイドジャーナル」とはタイトルもそのままにプレイガイドが販売するような催し物、すなわちエンターテインメント関連イベントの情報を集めた雑誌。今で例えるなら「ぴあ」ということになるけれど、当時はまだ東京がメインだった「ぴあ」に対して「プレイガイドジャーナル」は大阪に根ざして、大阪に勃興していた小劇団や関西在住のミュージシャンらを積極的にフィーチャーして世に送り出し、それでいて東京からやってくる俳優やミュージシャンといった大物のインタビューも載せていた唯一無比の存在だった。

 今でこそ「ぴあ」があってそして角川書店の「ウォーカー」シリーズがあって講談社の「一週間」シリーズがあったりと、情報誌の種類もひとつではないけれど、どれも情報がメインで記事は添え物のような体裁をもった雑誌。ともにインターネットの興隆に押されてネット媒体に情報発信の窓口を奪われ、ややじり貧といった状態におかれている。対して「プレイガイドジャーナル」が出ていた当時は、東京に「シティロード」という情報誌があって、文芸評論家として活躍する仲俣暁生が編集に携わっていた。名古屋にも「名古屋プレイガイドジャーナル」のほかに「アワーシティ」という情報誌があって、別冊の飲食店マップのようなものを出して頑張っていた。

 ネットが当時もあればすぐさまに粉砕されただろうという意見もある。けれどもどうだろう、ネットにはどんな情報でも掲載できるし、サーチエンジンを使えば検索も簡単。見たい公演のタイトルを打ち込めばすぐに出てくる。チケットだって買える。でも知らないことは探せない。マイナーでも画期的な映画とか、インディーズだけれど衝撃的なバンドをネットは真っ白な状態から教えてくれない。「プガジャ」だったら編集者がこだわって集めた情報が並んだページを眺めているうちに、興味のなかった演劇や映画やライブに行きたくなる。そんな興味の横移動が起こる。

 振り返れば「プレイガイドジャーナル」は執筆陣にもこだわりがあった。今でこそ誰も知らない人はいないいしいひさいちや中島らもが無名だった頃から連載していた。次代のノーベル文学賞候補を言われ続ける村上春樹も短い小説を載せていた。そんな“伝説の雑誌”の勃興から終幕までに関わった人たちが、入れ替わり壇に立って語った話を読めば、「プレイガイドジャーナル」はちょっと違うぞと思えてくる。

 オレたちの時代はすごかったんだぜとオヤジ世代が懐かしがっていだけの本だと下の世代は言い出すかもしれない。けれども、ネットですら巨大検索エンジンの元に情報の集中化が起こっている現在、「プレイガイドジャーナル」が並べてきた目次を振り返る意味は極めて大きい。

 なるほど目次の記録をながめて懐かしさに浸るオヤジもいるかもしれない。そんなオヤジはいつまでたってもオヤジのまま朽ちていくだけ。大切なのはここから何をつかむかだ。今に通じる情報誌作りの神髄を見つけられるかだ。その意味で「『プガジャ』の時代」はどんな世代にも読まれるべき意義を持つ。とりわけ下の世代に届いて欲しい希望を持つ。

 メジャーな雑誌が金に飽かせて有名人や人気アイドルをガンガンと取り上げ、そしてその人気に頼って雑誌を売って肥え太るという構図を一方に見つつ、地方であってもマイナーであってもお構いなしに、それならそれで出来ることをやってしまおうというスピリッツ。無名だけれど未来のありそうな人たちをフィーチャーし、それが10年後20年後の英雄へと成長してく様を見るのはとても痛快だ。編集者冥利に尽きる振る舞いだ。

 同人誌ですら明日にもブレイクしそうな人を寄せ集めて売上を競う世の中になって来ているだけに、「プレイガイドジャーナル」が展開して来たことを振り返り、なぜ潰れたのか、そして何が今も求められているのかを精査することで情報誌の、そしてエンターテインメント・ジャーナリズムの未来が見えてくるに違いない。

 「『プガジャ』の時代」そのものの面白さでは、「名古屋プレイガイドジャーナル」の惨状がいしいひさいちの貧乏漫画を地でいくようでなかなかの読み応え。実を言えば何号か買って読んでは映画の鑑賞券プレゼントに応募して、当選の通知を何度か受けて、栄は錦三丁目という歓楽街のど真ん中にあった編集部へと、チケットをもらいに行ったことがある。郵送ではなく編集部まで取りに来いとはまた余りな仕打ちだけれど、小堀純の講演録を読むと、とにかく名古屋の「なぷがじゃ」には金がなかった惨状が見えて来る。

 取材に出向く交通費すらなくて、今池から名駅あたりはすべて徒歩で通って取材にあたっていたというから泣ける。遂に金庫が空になってしまった時には、壁に張り出されていた名古屋で公演を行った劇団なんかが出した大入り袋を開けて、5円玉50円玉をかき集めていたというからよほどの貧乏ぶり。当選した人にいちいち郵送でチケットを送っていた日には破産してしまう。取りに来いというのも読者とのコミュニケーション以前に切手代を節約する意味があったのかもしれない。

 そういえば当選葉書を持って編集部をたずねて当選した品物と引き替えた時の様子をすぐさま、「なぷがじゃ」のページの脇に1行だけとられている読者からのコメントを掲載するスペースに、明るい人たちだったと書いて送ったらそのまま採用されて、掲載された翌月号に「そうだっけ、みんな暗かったぜ」という返答が載った記憶がある。

 華やかな仕事をしているような人たちがどうして暗かったのか。小堀純の講演にヒントがあった。翌年早々には休刊してしまう「名古屋プレイガイドジャーナル」が当時置かれていた環境は前述のように悲惨のひとこと。今月払う給料どころか今日取材に行く金もないとう状況を告げられて、編集部もゲンナリとした気持ちでいたところに行き当たって、暗さを見たに違いない。

 給料は遅配で取材費はゼロ。出前を取るどころか外に食べに出るお金すらなく、編集部で自炊していたらしい「名古屋プレイガイドジャーナル」の編集者たちが、常に明るくなれるはずもない。それでもそんな中から当時はまだ無名で、CBCラジオの深夜放送「星空ワイド今夜もシャララ」の金曜日のパーソナリティを「ゴールデンハーフ」のエバと一緒に努めていた時期より前に、今でこそ誰もが知る劇作家の北村想と知り合い、連載を頼んだというから驚く。

 80年には連載に戯曲もつけた本を出し、それがかの「岸田戯曲賞」の候補となって世間に広く存在を知らしめたというからなかなかの仕事ぶり。中島らもやいしいひさいちに負けないスターを「名古屋プレイガイドジャーナル」が送り出していたと聞くと、ますますもって雑誌作りとは何かということについて考えてみたくなる。夢を未来に開く仕事。そんな雑誌作りへの意気込みを「『プガジャ』の時代」から感じて、メディアに関わる者たちは奮い立とう。


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