THE NEXT GENERATIONパトレイバー1 佑馬の憂鬱

 さあ「機動警察パトレイバー」の再開だ。

 OVAや劇場アニメーション映画などに、原作チーム「ヘッドギア」の一員として名を連ねていた押井守監督が、どういう経緯からか実写版をメンバーから唯一の参加で作ることになって、その第一章となる映画がようやく完成。2014年4月5日に「THE NEXT GENERATION パトレイバー」として公開された。

 OVAや劇場アニメに出てきた初代のメンバーが抜けて、誰の記憶にも残っていない2代目もいなくなって、今は3代目のメンバーになっている警視庁警備部特殊車両二課。2班体制は消滅して、6人が1つの班で3人づつのシフトに別れて勤務しているという過酷な状況の割には、誰もが漫然とその日常を送っている。

 それというのもパトレイバーなんて二本足で歩くロボットが、出張って何かを解決するって機会はそれほどなく、レイバーという存在を他の分野で運用するための実験としても、他で運用する可能性が乏しい状況では必要とされない。よくて外国要人が来日した時に、何かしていますよといって立っている程度。鳥を追い払うかかしほどにも役立たない。

 つまりはお荷物。そんな状況だからこそ、特車二課の隊員たちは問題を起こしたか他に適性のなさそうな者たちが集められ、そこでまずない出動に備えながらカップラーメンを食べたり炒飯を食べたりゲームをしたり鶏を育てたりしている。

 そんな3代目たちの怠惰で漫然とした日常という奴が、映画ではまず「エピソード:0 栄光の特車二課」という映像で、整備班の面々の熱意だけはたっぷりある日常、それを満足とも不満足ともいえない不思議な気持ちで見つめ昔を語り、今を語る整備班長のシバシゲオの独演でもって描かれたた後に、「エピソード1:三代目出動せよ」として語られる。

 そうかだいたいこんな日常か。そしてこんな奴らか。篠原遊馬ならぬ塩原佑馬は現代風の若者で、泉・野明ならぬ泉野・明は割と自分勝手で佑馬から友達いないだろうと散々っぱら突っ込まれる。あまり仲良くなさそうで、絶対に恋人関係にはならなそうな2人。それでも明はパトレイバーだけは野明と同様に好きみたい。

 巨漢は山崎ひろみではなく弘道と良い、優しくて鶏の世話が大好きで、進士幹泰ならぬ神酒屋真司は、家庭が崩壊して離婚されてギャンブルに狂っている中年男。太田功ならぬ大田原勇に至っては、正義はあってもすでに酒で焼けてしまったアル中というていたらくで、緊急時に酔っぱらってて出動すらままならない。

 香貫花クランシーになぞらえらえるカーシャは、細身の黒いカットソーがエロいけれども、下手に手を出すと銃剣で貫かれそう。そんな異常で非常識な面々を束ねる後藤喜一隊長ならぬ後藤田継次隊長が、おれまた昼行灯というより仕事に心を入れてなさそうな感じ。真面目な顔して妙なことを吠えまくる。

 いったい何? 違いすぎない? そりゃそうだ、だって三代目なんだから。前と同じなはずながい。前の面々が見たいなら前の作品を見ればいい。これは新しいパトレイバー。新世代のパトレイバー。だから新しくそしてこれから作られていく。4月5日の公開時に行われた舞台挨拶に立った泉野明を演じた真野恵里菜も、前の作品は見ず自分自身を出そうとしたと話してたし、後藤田を演じた筧利夫も後藤隊長とは違う後藤田隊長という役を目指したと話していた。

 重ねて見たら違うけれど、その違いがすぐ気にならないくらいにそれぞれの個性が出た役になっている。1年が経って何度も見込めばそこには前なんて気にならない、忘れてしまうくらいの三代目たちが存在するようになるだろう。だから見続けるしかない。真野恵里菜のお尻を。いやそこじゃないけれど。でもそこなのか。あとはカーシャのスレンダーな割にしっかりとある胸とか。そんな映画になっている。

 4月5日の上映開始を前に刊行された押井守監督監修で山邑圭作による小説版「THE NEXT GENERATION パトレイバー1 佑馬の憂鬱」(角川文庫、480円)を読むと、劇場で公開された第一章の内容がだいたい描かれ、篠原遊馬とか泉野明といった初代の暗躍が今なお伝わる状況が示され、それを現在の3代目たちが気にするといった具合につながっていく感じがある。

 映画も今後そうなっていくのか、それともぐうたら特車二課のテキトーな日々になるのか。分からないけれど、描き込める小説版は過去と今とを描いて前からのファンを喜ばせてくれそう。あとは劇場版の第二章で描かれている警視総監の観閲式がとてつもないことになりそうな予感。小説そのままに描かれるといった感じではないけれど、二足歩行ロボットが立つということの難しさを通して、押井守が何度も語るパトレイバーの無意味さが描かれそうだ。

 戻って映画について言うなら、誰もが真剣に演じていて、そして何もかもが本物のように作られている。だからこそこの世界とのギャップといったものが感じられて、真面目なんだけれど面白がれる。そして笑える。それを狙ったからこその無駄づかい……ではなく有効なお金のかけかたをしたんだろう、押井守監督は。

 だからというか、当然のように予算は足りない。どこで埋めるか。それは見た人が押井監督やスタッフやキャストの人たちの真剣を感じ取って、ブルーレイディスクを買い劇場に何度も足を運ぶしかない。たぶん自然にそうなるとは思うけれど、それでも残る不安はこうして面白さを喧伝することによって少しでも払拭させたい。それが永遠のオシイストというものだから。


積ん読パラダイスへ戻る