The Brief History of The Dead
終わりの街の終わり

 死から人は、絶対に逃れられない。死ねば肉体は朽ち、土か灰となっていずこへと消える。過ぎ去る時間の中に埋もれていく。それだけだ。

 怖いか? 哀しいか? 仕方がない。永遠に生きられる人間など存在しない。だからせめて人々の記憶の中に残り、あるいは歴史の中に刻まれたいと願ってあがく。忘れ去られてしまう恐怖はもしかしたら、死ぬことより切ないかもしれない。

 名をあげる。名を残す。そんな力も金もないと諦めてしまうなら早計だ。別に大金持ちにならなくたっていい。世界を征服しなくたっていい。誰かを想い、誰かに想われること。それだけで人はつながっていける。

 優れた短編に与えられるO・ヘンリー賞を受賞し、優れたSF作品が選ばれるネビュラ賞の候補にもなった掌編を長編化して、2006年に刊行されたケヴィン・ブロックマイヤーの「終わりの街の終わり」(金子ゆき子訳、ランダムハウス講談社、1800円)は、人間が死ぬとたどり着く”終わりの街”がひとつの舞台になっている点で、ネネビュラ候補に相応しいSF的な雰囲気を漂わせている。

 死なない人は存在しないのだから、いずれ街は人類であふれかえってしまうのかというと、そうはならない。“終わりの街”に止まっていられるのは、死んでしまった人を記憶している人が、現世に残って生きている間だけだからだ。

 これは息子なり、孫なり知人なりに覚えてもらえていれば、何十年だってその街に止まっていられることでもある。永遠の安寧を約束された天国なり、49日まで魂が止め置かれる中陰もしくは中有とは違う。その街で死者たちは、家族を得て、商売をしながら現世と変わらない暮らしを続ける。

 ところが。現世で何かが起こったのか、その街にやって来る人が急に増え始め、同時にその街から消えてしまう人たちも急激に増え始めた。どういうことか。急速に現世で人間たちが死んでいる。とりあえず“終わりの街”へとたどり着くものの、逝った人を現世で覚えている人までもが次々に“終わりの街”へと来てしまって、どんどんと別の世界へと押し出されていく。

 いったんは死んだ人たちばかり。だから“終わりの街からどこかへ行くことを畏れている風はないけれど、次第に閑散としていくその街で、自分を想ってくれている人もいつかはこちらへと来て、現世には誰もいなくなってしまう切なさが浮かび始める。その様が、読む者たちに想われる大切さ、想ってもらえる有り難さについて感じさせる。

 やがて、今はまだ踏みとどまれている人たちは、とある人物を共通に知っていることに気づく。その人物が一方の舞台となる現世のメーンキャラクターだ。国家財政が破綻したその世界で、企業が国すら超える存在として世界を覆っている現世。代表格がコカ・コーラ社で、他の数社と共同で南極を買い取り、事業に利用できるかを調べるために、野生動物専門家のローラ・バードという女性を現地に派遣していた。

 ローラが極寒の地にいる間に、まさにグローバル企業であるコカ・コーラ社の特質に沿う形で、人類に病がまん延していく。小松左京の歴史的傑作「復活の日」にも重なる全人類滅亡の危機。そして危機は南極にいる人たちも襲い、調査地に残って様子をうかがっていたローラだけが、極寒の地にたったひとりで取り残されてしまった。

 これが「復活の日」のように、ローラの奮闘によって人類が復活へと向かう物語なら、本格的なSFとして楽しまれつつも、「復活の日」との対比に埋もれてしまっただろう。けれども「終わりの街の終わり」の物語は、そうした設定をメーンには置いてない。全人類の滅亡と、一切の記憶からの消滅という絶望に向かう展開の上で醸し出される強烈なメッセージ。それを味わい感じ取れるところに、現代文学としてこの本の立ち位置が見え、受け入れられている理由が伺える。

 想い、想われて人々はつながっているのだということを教えてくれる物語。想う程に人は、人に想われていないのだということも知らしめてくれる物語。想われなければ消えてしまう。いなかったのと同じになってしまう。それは悲しい? それは寂しい? 仕方がないと諦めるのもひとつの道。けれどもやっぱり誰かに覚えていて欲しいと願うのもひとつの真理。どちらが是なのかを答える必要はない。どちらも真なのだと認めて、後は自分で選べばいい。どうしたいのかを。どうありたいのかを。

 ただひとつ、言えることがある。もしも世界がほんとうにこの物語のような仕組みだったら、否、世界はほんとうはこの物語のような仕組みではないのだとしても、多くを想ってあげるこで救える魂があり、多くに想われたいと願うことで救われる魂がある。だから今を精一杯に想う。内なる想いに閉じこもらずにあらゆる関心を外へと向けて、他人を、世界を想うのだ。

 終末のビジョンへの思索を喚起し、グローバル企業が世界を支配する未来を想像し、存在が失われる切なさを覚えさせ、そして今を一所懸命に生きるのだと考えさせてくれる傑作小説。こういう本がさらりと出て来ては、主流として認められるアメリカの凄さに驚くけれど、日本にだって非現実の現実が人心や社会に及ぼす波を描き意表を突く三崎亜紀がいて、ささやかな非日常が人々を幸せに導く様を描く橋本紡がいる。

 日本で、そして世界で生み出されるこうした文学たちを糧にして、見えない未来への怯えを振り払い、眼を見開いて歩を進めよう。


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