ORBITAL CLOUD
オービタル・クラウド

 サフィール3が落ちてこない。それがどうしたと地上にいる大半の人は思うだろうし、普段から宇宙を観ている人でも全員が全員、これはいったいどういうことだと思うとは限らない。そんな中でこれは大変だと気がついてしまった人々がいた。

 そこから始まる藤井太洋の小説「オービタル・クラウド」(早川書房、1900円)が見せてくれるのは、現在あるテクノロジーを少し先へと延伸したところに現れる世界のビジョン。人類が新たな可能性を得てより外へ、より未来へと飛躍する可能性を示唆する展開が、読み終えた大勢の人の心を感嘆へと導く。人類にはまだまだ、やれることがたくさんあるのだと背中を押す。

 サフィール3とは、イランから人工衛星を打ち上げたロケットで、衛星を周回軌道に投入した後、2段目がデブリとなって地球を周っていたものが、そろそろ大気圏に突入するのではと見られていた。そうしたデブリの突入で起こる流れ星の発生を予測して、ウェブで情報を提供している<メテオ・ニュース>をひとりで運営している木村和海という青年は、予測がうまく当たればサイトへのアクセスを稼げると思ってデータを集め、落下時期を調べたところ、どうもサフィール3の動きがおかしいことに気が付いた。

 落ちて来ない。むしろ上がっている。どういうことなんだろうと思いつつ、その時はアメリカ戦略軍が提供しているデータを流した<メテオ・ニュース>を、セーシェル諸島にいるオジー・カニンガムという男が読んで、それならと天体観測をしていてとんでもない現象を見てしまう。サフィール3が<メテオ・ニュース>の流したデータの場所に現れず、憤りながら自前で調整した望遠鏡の先に現れたロケットの周囲で光が何度も瞬いた。

 オジーはかつて有力IT企業を店子に持って支援する代わりに、未公開株を受け取り公開によって大金を得ていた。配当も受け取れるようになり、好きなことができるようになった今はセーシェル諸島に移り住み、とてつもない電波望遠鏡を買い込んで宇宙を観測しては、Xマンとう名前で撮影した天体写真を流したり、ユニークなニュースに仕立てて流していた。

 サフィール3の周囲で瞬く光を見たオジーは、これはチャンスだと感じ取った。サフィール3を軌道上に投入された兵器か何かと疑わせる話をでっちあげ、「神の鉄槌」と命名してはそれらしい画像もネット上で募り添えてサイトから発信。すると、そこに含まれた情報を今度はCIAが気にして、どこかの国の謀略かもしれないと調査を始めてしまう。

 一方でオジーは、自らの観測結果を<メテオ・ニュース>の情報が間違っていたという文句に添えて和海へと送りつける。それを見た和海は、膨大なデータを<メテオ・ニュース>のIT面をサポートしてくれている沼田明利という女性の、かつてJAXAにいたという叔父からコーチを受けて育んだ天才的な情報処理能力に支えられて解析して、サフィール3の上昇は真実であり、そしてとでもない事態が宇宙で進行していることを突き止める。

 そして狙われる。そう、それは偶然でもなければ単なる事故でもなかった。こうして始まったのが冒険と謀略、探求と対決の物語。木村和海に沼田明利にオジー・カニンガムに加えて、コンピュータもネットも使えないイランのテヘランで電卓を叩いて計算しながら宇宙に夢を抱く男がいて、アメリカの北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)で宇宙を監視する軍人がいて、才覚と情熱で空に挑む起業家とその娘でジャーナリストの女性がいて、そんな人々の行動と思考と能力とがウェブのように繋がり、パズルのように組み合わさって世界を変えようとする事態に挑む。

 オービタル・クラウド。タイトルになっているこの言葉が意味する事態が浮かび上がって来た時に受けるものには、ひとつには現行のテクノロジーが進化していった先に得られる大いなる恩恵であり、そして底知れない恐怖がある。というより先に恐怖として進行していた事態は、無能な政治家による無意味な権勢欲の発露がテクノクラートの失望を招くことによって失われる国益があり、また脅かされる世界秩序があるのだと示唆する。

 今の政治主導を名目にした政治家たちの人気取りに過ぎないパフォーマンスが、この国の社会や経済や文化をとんでもない方向へと引っ張っている事態への警鐘が鳴らされる。同時に、世界で進行している諸々の事態の背後にどこかの誰かによるどんな思惑が動いているのかといった想像をかき立て、改めて周囲を見渡し手元のパソコンや端末すらも怪しむ気持ちを引き起こさせる。

 天才的な頭脳によって巡らされる思考が、社会秩序にとってネガティブに働いた場合に起こる事態を避けるには、いったい何が必要なのか。それはクライマックスを経て天才を受け継いだ日本人と、天才を返上されたイラン人とで分かれた道からも想像できる。

 誰でも使えるフリーオフィスを拠点にして、パソコン1台とネットへの接続環境を得て情報を集め、技術を借り知恵をもらって鍛え上げた頭脳が生んだ、人類を未来へと飛躍させる可能性。ネットから遮断されコンピューターの使用すら禁じられた中で、得られる書物からの知識と伝わってくるニュースだけを元に、電卓と紙と鉛筆だけを使い作り上げた理論が、時代から大きく取り残されていると知って絶望した感情が生んだ暴走から破滅への道。

 環境だけが天才を育てるのではない。そう思いたいけれど、より良い環境の中でこそ天才はより天才へと昇華していける。だからこそすべきことは何か。開放と接続。連携と協同。遍く世界でそれが日常となることを願わずにはいられない。

 幸いにして物語では、善意が勝り挑戦の意欲が秘密主義の壁を越え、ネットの存在が隠匿の悪弊を駆逐して、誰もが自由にその情報を得てその可能性に挑める世界が訪れる。恐怖の象徴にもなりかねなかったオービタル・クラウドが、人類の未来を約束する存在になった。

 そこまでを描いたストーリーのその先は果たしてあるのか。才能を持った者たちが集まり、政府すら対立を越えて結集して始まった壮大な試みのその先に待っている、より大きくてより素晴らしい世界の訪れはあり得るのか。それが描かれれば、藤井太洋は小松左京になれるし、アーサー・C・クラークにもなれるだろう。来るべきファーストコンタクトの果てに、銀河へと飛躍してく人類のビジョンを見せてくれるだろう。

 けれども、そうした物語なら小松左京がいてアーサー・C・クラークもいる。ならば藤井太洋には、もっと描いて欲しい、テクノロジーの未来を、それが善意と協同によって駆動していった果てにもたらされる幸福を。読んで人類は決意する。その託宣を実行しようと。

 絶対にできるはずだ。人類に与えられているのは電卓と紙と鉛筆だけではないのだから。世界と繋がり相互理解を促すインフラがあって、コミュニケーションに役立つ言葉があって、進化し続けるテクノロジーがあって、なにより藤井太洋という作家がいる。その導きの下、迷わないで挑め、とどまらないで進め。邪魔する者を退け、手を取り合って未来をその手につかみ取れ。


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