女と女の世の中
鈴木いづみコレクション4

 「キ」が違っていたのだろう。それは季節の「季」だったり、空気の「気」だったり、容器の「器」だったりするのだが、いずれにしても80年代という時代の「キ」が、鈴木いづみを受け入れるに足るものではなかったのは確かだ。

 今でこそ、現実世界の営みを直接的に描くのではなく、ともすれば妄想と取られかねない幻想的なビジョンを織りまぜながら、人の心の葛藤や、人という生き物の滑稽さといった現実を描く、「純」文学系の作家が大勢いる。というより、そういった幻視の能力を持った作家でなければ、複雑にして奇怪な今という時代を、とうてい描くことが出来ない。だが、80年代、現実の繁栄に酔いしれ、未来の華やかさを信じて止まない人が大勢いた時代、その裏に潜んでいた虚無感や絶望感を敏感にすくいとり、小説の形にして見事に幻視してのけた鈴木いづみを、時代の「キ」は受け入れることができなかった。

 あらゆる制約から開放されたSFというジャンルのみ、鈴木いづみを歓待することができたのだが、しかし、鈴木いづみの見せるビジョンは、SFというジャンルから自分が得たいと期待したビジョンとも、また微妙に違っていた。SFを読む楽しみは、現実には起こり得ないシチュエーションの中に身を投じ、登場人物に感情を投影して、しばし幻のビジョンに浸ることにあると、当時はそのように考えていた。だが、鈴木いづみの書く作品は、非現実を描きながらも、あまりにも現実を描き過ぎていた。現実のウサを忘れようと、「SF」とレッテルの貼られた鈴木いづみの作品世界に感情を投影したとたん、忘れようとした現実が、重く心にのしかかって辛くなった。

 81年に、初めて鈴木いづみの「カラッポがいっぱいの世界」を読んだ時、そこに描かれていた毒々しい色、騒々しい音に満ちた世界を、すんなりと受け入れることが出来なかったのは、「SF」というジャンルへの固定観念に縛られていたおのれの「キ」が、鈴木いづみを受け入れるには、十分に広がっていなかったからだろう。16年の年月を経て、時代の「キ」、自分自身の「キ」が代わった今、鈴木いづみは自分にとって、また世界にとって、なくてはならない存在となった。

 「鈴木いづみコレクション」の第4巻に当たる「女と女の世界」(文遊社、1900円)の表題作、「女と女の世界」という短編が描いているのは、燃料や食糧が枯渇しかかった近未来、男の数が極端に減って、女ばかりが暮らすようになった世界を舞台にした、甘やかで残酷なラブ・ストーリーだ。その世界では、男はすべて、「特殊居住区」という名の「ゲットー」に押し込められ、生涯をその中で暮らさなくてはならない。しかしある日、窓の下を見おろしていたユーコは、男の子が道を歩いて姿を見かけてしまった。気になってしかたがないユーコは、再び窓の下を通った男の子にメッセージを送り、家を抜け出して男の子の隠れ家へと向かう。

 しかし「女と女の世の中」は、それ以外の例を絶対に認めない。そんな世界では当然の帰結を経て、ユーコは自分の暮らしている世界が「女と女の世の中」であることを強く認識し、「これはこれでいいのだ」(50ページ)とまで言い切る。だが次の瞬間に、「あんなことを知ってしまったわたし」の心は、「いつかきっと・・・・。なにかがおきるだろう。」と身ぶるいする。

 当然だと信じていたものが欺瞞だったと、ひとたび知ってしまった心は、もう2度と、以前とは同じものには戻らない。信じていたものが実は「タテマエ」で、その奥底には「ホンネ」が潜んでいることや、「オモテ」の反対側には「ウラ」があることを、人は成長するに従って知ってしまう。けれども人は「タテマエ」や「オモテ」を唯一のものとして、振る舞っていかなくてはならない。鈴木いづみがユーコに感じさせた身震いは、欺瞞に満ちた今の社会に生きる人々なら、認識しているとしていないとに関わらず、誰もが持っているものなのだ。

 「SFマガジン」ではデビュー作となった「魔女見習い」は、魔法の力を授かった妻が、浮気性の夫を懲らしめるという、よくあるユーモア話の形態を取っている。近年再評価の動きがある「バカSF」にも通じる、ハチャハチャなおかしさに満ちている。口紅を付けて戻った夫に、妻は「そんなに女がすきなら、自分が女になればいいんだわ」と怒りをぶつける。すると、そういいおわらないうちに、夫は女になってしまい、慌てた妻は「もどれ、もどれ」と声を出すが、今後は夫の姿が原始人になり、毛むくじゃらの赤ん坊になり、未来人になってしまう。

 牛になったりティラノザウルスにされてしまった夫は、最後に残酷な仕打ちを受けてしまう。主従の関係にあった夫婦のあり方を見直し、強くなってきた女の力を象徴した話なのだと、この短編が書かれた時代背景をもとに、そう分析することも可能だろう。だが、鈴木いづみの筆致はあくまでも軽やかで、したり顔した第3者の深読みなど、鼻先でけちらしてしまう。あまりにも見事なけちらし様に、かえって裏にある意図を読みとらなくてはと、真剣な気持ちにさせられる。

 「アイは死を越えない」は、3年という余命を宣告された男とその妻が主人公。男は残りの人生を楽しみたいと、女遊びにうつつを抜かしていたが、人の命を自由に移し換えることが出来るようになったと知るや、命を移し換える手術を受けようと妻に媚びる。夫の愛を「愛じゃない」(162ページ)と直感しつつも、妻は2年半の命しかない男に、31年の命の15年分を与えてしまう。残りの人生が増えた男は、危険な手術を受けた英雄としての評価にも後押しされて、前よりいっそう女遊びにうつつを抜かす。

 そんな男を見た妻の最後の決心は、自分を永遠に覚えていて欲しい、けれども永遠に分かれていたいという、女にとっては望みどおり、男にとっては恐ろしい結末となって現れる。軽い文体で、「愛」とか「死」といった重たいテーマを描ききって見せる鈴木いづみの文章の冴えを目の当たりにして、「SF」という当時も今も閉じられたジャンルでしか、こうした作品が認知され得なかったことが、とてつもない損失のことのように思えて来る。

 「キ」が代わった今だったら、小川洋子や松浦英里子や笙野頼子や川上弘美が「純」な文学として評価され、おおぜいの人々に受け入れられている今だったら、「SF集2」としてくくられてしまった本巻におさめられた7編も、「SF集1」におさめられた7編も、ジャンルの枠を超えて認知され、注目を浴び、評価を受けたことだろう。鈴木いづみを「SF」の手元に取り置いておきたい気持ちは、SFのファンとして強く持っているが、それでは「キ」が小さいというもの。昔にくらべて広がった、自分自身のSFに対する「キ」に、ようやくおさまった鈴木いづみの存在を、これからは世間の「キ」が認知し、受け入れていくように、後押ししていくことこそが本道だ。


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