屋上ボーイズ

 それほどまでに深刻なのかという驚きもあるし、それほどでもないはずなのにという認識が覆されるおののきもある。ニュースとして伝えられるのみならず、小説や映画や漫画といった世界で「いじめ」の問題が、これほどまでに取りざたされていることに対する感情だ。

 例えば2008年11月に公開された映画「青い鳥」。いじめが原因で自殺未遂を起こした生徒が転校したあとの教室で、赴任してきた教師が“本気の言葉”を軽んじるから、相手の本気を感じられずに人を傷つけてしまうんだと、吃音の声で噛みしめるように言葉を吐き出し、本気の意味を感じさせる。

 ここに描かれたいじめの構図が、事の根深さを如実に示す。最初は、軽くちょっとイジってみたというだけのふるまい。それが集団を動かしてひとりをパージしたり、ひとりにタカったあげく、のっぴきならない事態へと至る。

 けれども、仕掛けた方はそれがどうして? と逆に意外に感じてしまうから話が噛み合わない。反省させようにもされられない。

 結果として起こった深刻な事態を見据え、それがわが身にふりかかってくるかもしれないと、想像をたくましくすれば踏みとどまれるのかもしれない。けれどもそれができないのは、身体性の拡張ができないといのだろうか。あるいは想像力が貧困というべきなのだろうか。

 衝動だけて突っ走って、己のことも、周囲の状況も客観視できないよう、仕込まれて育ったからなのだろうか。わが身が無事なら、すべて無事といった程度の思慮に留まって、外へと目が向かわない。向かおうとする意識すら動かない。

 子供たちに限らない。「ジコチュー」というものが世界を通念として覆ってしまい、総理大臣や都道府県知事といった偉い人から、メディアから、芸能人から、企業の社長から何から何まで俺が俺がな雰囲気の中で生きている。軽い言葉を軽々しく口にして、その場しのぎの存在感を見せようとし、間違いを反論されれば上辺で謝り、本音でどうして自分が? と開き直る。

 この風潮を、どうすれば改められるのか。いじめが原因で起こる悲劇の当事者になってみるしかないのか。いじめられてこの世から去らざるをえなくなる悲劇。いじめが他人を追いつめて起こった悲劇に一生を苛まれる苦しみ。味わえばまず間違いなく何かを感じ、改めるべきだと思うだろう。

 けれども、それはあまりに悲しいことだ。誰かが現実に虐められ、命を脅かされ、心を苛まれ、苦しめられる。そうではない、そうはらないために数々の小説は書かれているのだし、映画も撮られた。

 集英社の「2008年ロマン大賞」を受賞した阿部暁子の「屋上ボーイズ」(集英社、514円)も、そのなかのひとつ。読むことで何かを感じ、何かを変えようと思いを抱き、実際に何かを変る人たちが現れることを願って、紡がれたに違いない物語だ。

 父は忙しく、母は外でカルチャースクールに通っている。間柄が冷え切っている訳ではないものの、うまく繋がっていなさそうな空気がどうにも苦手で、家を抜け出し父方の叔母が営むアクセサリーショップで、アルバイトみたいなことをしていた高校生の和也。アウトローを気取って避難訓練を嫌がり、学校の屋上へと上がると、そこに同級ながら別のクラスにいる小林親和という少年がいて、ひとりで本を読んでいた。

 何とはなしに言葉をかわすようになった2人。その後、和也が教室に戻ると、鷹司という高貴さから話題にされやすい名字をもった、やや弱々しげな少年がクラスの人間から全員にジュースを買ってこいと命令されている場に行き当たる。

 鷹司はそれを嫌がらず、文句もいわずに実行する。その姿を見て和也は気分が曇る。とはいえ積極的に見方になるかというとそうでもないところに、場の空気というものを崩したくない心理が漂い、もやもやとした気分を和也にも、読み手にも抱かせる。

 かといって注意をしたらしたで、今度は矛先が和也へと向かう。不良じみた経歴を広められ、誰も和也に話しかけようとしなくなった。もとから一匹狼的なところがあって、激しく落ち込むことはなかったし、物を壊されたり、盗まれたり隠されることもなかったから、日常に大きな変化はなかったのだが。

 これを気弱な人間がやられたら、やはり気分はどん底に陥ったことだろう。いじめによる自殺、といったものが取りざたされるのも、そうしたささいなきっかけがエスカレートした挙げ句の事態。ささいなきっかけだからこそ、後でおこる悲劇の虚しさ、痛ましさもよりふくらむ。

 和也と同じクラスにいる、どこか超然とかまえて裏でいろいろと画策する少年が少し動いたら、鷹司を中心になって虐めていた少年が、クラスから阻害されることになってしまう。これもまた何とも気分の悪い話だ。

 小林親和の弟も、やはり小学校で虐められていて、心理的に参っていた。和也の支えがきいたのか、いじめていた相手に反旗を翻し、虐げられていた立場を抜け出し前に向かって進み始める。和也のクラスの方は、いじめられていた鷹司に、いじめていたものの逆にのけ者にされた少年も含めて、どうにか救わていきそうな未来が見えてくる。

 和也自身も、覚えていた家庭の不和に対して思いを正直にうち明けることで、家族関係に改善が見られたもよう。落ち着くところに落ち着いた展開に、誰もがこうあれば良いと思わずにはいられない。

 とはいえ、そうそうまくいかないのが現実というもの。だからこそ物語から何かを感じて、少しでも普通を取り戻そうと動き始めることが大切なのだろう。


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