ノベライズ この世界の片隅に

 原作者としてこうの史代、ノベライズとして蒔田陽平が携わっている「ノベライズ この世界の片隅に」(双葉社、565円)は、タイトルにあるように、こうの史代の漫画「この世界の片隅に」(双葉社、1−3巻、各648円)を原作にした小説だが、同時に片渕須直監督が作り上げた長編アニメーション映画「この世界の片隅に」のノベライズにもなっている。

 単行本で3冊から成る漫画の要素を抽出しながら、エピソードを取捨選択して、それでも2時間以上となった映画の筋におおむね沿って描かれていて、昭和のはじめに生まれて戦前戦中戦後という、一般には苛烈と思われている時間を生きていたすずさんという女性の、それでも淡淡と毎日を積み重ねていった日々が綴られている。原作の漫画を読んでいる人なら、どこのエピソードを映画では主に拾っているかが分かり、そして映画を視た後で読めば、繰り広げられた物語を言葉によって蘇らせられ、感慨に浸ることが出来るだろう。

 そして映画では惜しくも削られてしまったエピソードも、「ノベライズ この世界の片隅に」に入っていることがある。すずさんという女性とは対称の場所に立つリンさんという女性とのふれ合いは、原作の漫画に沿ってしっかり描かれている。あの時代にあったもうひとつの日常といったものを感じさせる存在となって、すずさんの生きていた時代に膨らみを与える。残しておいてくれてありがたい。そんなエピソード群だ。

 そんなノベライズが言葉で綴った 片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」とはいったいどんな内容なのか。やはりそれは戦争という悲惨な経験を描いた作品で、愛しい人たちが次々と死んでいったり、戦時下という異常な状況下で理不尽な扱いを受けたり、これは戦争とは関係なしに、女性が恋愛とかいったものとは切り離されて、家の道具のように扱われて嫁に出され迎え入れられ、夫の姉に邪険にされつつ堪え忍んだりするような展開に、見終わって悔しさと悲しさの涙が浮かぶだろうというとちょっと違う。

 だったら何かというと、それは嬉しさだ。ほとんどラストに近い場所でふわっと漂い、さっと心をなでてグッと涙がこみ上げて、ジンと目頭を濡らす。観た人なら分かる救いのあるシーン。訳も分からない中を否応なしに離別させられ、最愛を失ってしまって漂っていた時に見えた光明。そこにすがったら厭われず、優しく受け止められたという展開に、失ってしまった憤りを埋めて、新しい未来をひとりが得て、大勢が得て、新しい毎日をどうにか歩んでいくことができるようになった、その道筋の明るさに嬉しさが湧いて涙が出る。良かったねえと思う。そんな映画になっている。

 泣き所というなら、切実な死別といったものが幾つもあって、理不尽な扱いというのもあって、哀切やら痛切といった感情から涙をこぼしたくもなる。でもグッとは来ない。それは、あまりに淡淡とした日常が続いて、その中で毎日を懸命に、けれども楽しげに生きているすずさんという女性がいて、そんなすずさんを中心とした人々の日常が、だんだんと戦火に入り込んでいきならがも、それを苦とせず厳しいけれども風と流して生きている姿に、感化されてしまったのかもしれない。

 あるいは、そうやって淡淡と日常が描かれる中で、だんだんと暮らし向きが変化していくのを見て当然だと思うようになった、あるいは仕方が無いことだと思うようになってしまったからなのかもしれない。そこに起こる空襲の暴力、死別の悲劇、離散の苦悩もまたあの時代、あの状況にあっては至極当たり前のことと感じてしまう頭になってしまったからなのかもしれない。

 そういう風に馴らされてしまった果てが、あらゆる苦難を受け入れるんだといった洗脳にも似た状況。けれどもそれが玉音放送によって解けて、いったい何の苦労をしてきたんだと分かってしまった時、怒りと悔しさがない交ぜになった気持ちが浮かんで、すずさんは泣き叫んだ。そんな気がする。他の家族が至極当然と受け止めていたのとは余りに対照的だったその姿は、慣れようとして馴らされてしまった自分への怒りもあったのかもしれない。

 日常。淡淡とした日常。営々と続く日常。それがだんだんと変わっていくけれど、変わってしまったこともまた日常になってしまうあの時代の日常を、どこまでもリアルに、そして愛らしいキャラクター描写によって描いた希有な作品を、その希有さがより際立つような形で動きをつけ、背景を整えてアニメーション映画として送り出した。

 観れば感じる。そこにはあの時代の日常があって、そこに自分も入り込まされる。そして気がつくと銃後の暮らしに馴らされてしまって、それが幸せかもとすら思えてしまう。でも、そうではない様々な悲惨があったことを思い出させ、その上に出会いを載せて今一度、日常を取り戻そうと強く決意させる。そんなアニメーション映画だ。

 のん、というより能年玲奈の声はもう徹頭徹尾完全無欠。ほとんど喋りっぱなしのモノローグ映画にすら思えるくらいの活躍ぶりを、どこにも抜けがなくばらつきもなしに演じきったところが凄い。というか演じるよりなりきったとでも言おうか。ボーッとしつつも時折みせる静かな怒りや激しい嘆き。そんな変化をきっちり演じきってしまう才能に感じ入った。広島弁や呉の言葉への違和感はネイティブでもないので一切無し。棒さ加減も微塵も感じない。凄い女優を起用して凄い演技をさせたもの。これは名演。それも永遠の。

 話題になっている映画だけに、たぶん大勢が観に行くだろう。それが設定から浮かんだような戦争の悲惨を描いたものではないと知って、感動したい気持ちで出かけて肩すかしを食らったような気分で映画館を後にする人もいるかもしれない。でも、そういった気持ちではなく、何か珍しいものでも観に行くつもりで劇場に入った人は、繰り広げられる日常に知らず引き込まれてしまだろう。のほほんとしてドジなところもあるすずさんの可愛らしさに見入ってしまいながら、戦中へと誘われ戦争末期にさらされ戦後にたどり着かされるだろう。

 120分以上ある映画だが、見終わって長いものを見せられた感じはない。むしろ短いとすら感じさせられるくらいに展開に惹きつけられるのは、丁寧な表情や仕草の描写があり、フッと心を癒やされるコミカルな描写もあって、気持ちを保ち続けられるからだ。

 そんな笑いがあの時代にあったのか? というのは先入観に染められた見方。日常はあって笑いもあった。そういう認識へと引き戻された上で、ふっと梯子を外される状況に呆然とする。その呆然をこそ噛みしめ、そうならないための方策を探るのもひとつの見方かもしれない。などと言葉を並べたところで、世に名のある人たちの言葉にはかなわず届く範囲も限られよう。それでも書いておく。そして絶対にヒットさせる。片渕監督にまた新しい作品を作ってもらうために。


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