人形芝居

 似て、けれども非なる存在。

 人間と、アンドロイドとのそんな関係に気付かせてくれるという意味で、高尾滋のコミック「人形芝居」(花とゆめCOMICS、390円)はある面、とても残酷な物語だと言えるだろう。しかし残酷であるが故に人はたぶん、人であることの辛いけれども何事にも代え難い素晴らしさを、思い出すことが出来るのだ。

 舞台は西暦28××年の東京。滅びの道をひた走っているのだろうか、「西東京砂漠」なる不毛の荒野が広がる土地に、静と嵐と名乗る双子の少年が暮らしていた。「人形師」を生業とする彼らが作るのは、まるで人間を見紛うばかりの姿態をしたアンドロイド。人口増加で1つの家族に1人しか、子どもを作ることが認められなくなった代わりに、子どもが寂しがらないよう、1人っ子の兄弟となる子どものアンドロイドを作り、与えていたのだった。

 第1話では冒頭、静と嵐の暮らす工房に24年間を人間と暮らしたドールのヒロが帰って来る。ヒロは女性の緑といっしょに暮らしていたが、長じて緑が結婚することになり、役目を終えると帰還するというシステムにのっとって、最初はおそらく兄として、やがて弟として暮らした緑の家での暮らしに、自ら終わりを告げたのだった。

 もしも本当のきょうだいだったら。引き離される事に緑はたぶん絶対に納得できなかったと思う。けれども緑は静と嵐の説得を受け入れ、ヒロとの別離を受け入れる。だがそれは、やがて母親となり子を成す人としての自らの役割に、緑が気付いたからこそのものだったのではないだろうか。アンドロイドは所詮アンドロイドでしかなく、人もまた人でしかない。非なるがゆえに補完は出来ても同化は出来ないのだと、知った先に成長があるのだ。

 第2話はまさに、そんな人とアンドロイドとの残酷なまでに決定的な違いが、如実に示されたエピソードだと言える。ともに暮らしていた人間の少年サトルと、アンドロイドの少女ルリだが、時が経つに従いサトルは、大人へと向かって社会の枠組みとの接点を増やし、その中へと自分を収めようとしていた。しかしルリに、そんな知識ばかりを詰め込む暮らしはロボットと同じだと指摘され、人は絶対にロボットなんかになれないと叱られた事で口論となり、ルリを突き飛ばしてしまった。

 動かなくなったルリを抱え、サトルは静と嵐の元へとやって来た。だが双子はルリを直す代わりに、サトルにしばらくともに暮らし、家事に炊事にその他いろいろな事を体験させるのだった。人間の大人として成長していくことが、逆に人間として生まれ持った「自由」に枷をはめているのだというこの不思議。プログラムによって動き、学習によって知識をつめこんでいくアンドロイドはけれども、自由とは無縁の存在に他ならない。生まれ持った絶対に外せない枷があるからこそ、ルリはサトルを、そして自ら枷をはめようとしている愚劣な大人を叱ったのだ。

 第4話のエピソードに至っては、母親代わりに自分を面倒を見てくれたアンドロイドが遊郭に売られ、セクサロイドとして男と寝ているというシチュエーションとの折り合いの付け方に、似て非なる存在である人とアンドロイドとの、残酷というより他にない決定的な違いが感じとれる。死に先立って父親は、娘が寄宿舎で長じるまでを不自由無く暮らせるだけの遺産を残すが、その費用を捻出する為に、たとえ妻と似た面立ちであっても、アンドロイドを遊郭へと売り飛ばした。

 事故死した息子に似せて作ったロボットをサーカスに売り払った父親が非難され、サーカスから救い出されたロボットが世界の危機に立ち向かうヒーローとして讃えられる古典に準拠すれば多分、妻の代わりだったアンドロイドを遊郭に売る行為は、人間のエゴそのものであり、悪逆非道の振る舞いと糾弾されてしかるべき、だろう。

 けれども「人形芝居」の第4話から、そういった人間のエゴの醜さも、アンドロイドへのいたずらな同情心も起こらないのは、作者があくまでも物語の主眼を人間性の快復へと置き、その手助けをする存在として心優しきアンドロイドたちを配置しているからだろう。人は変わることが出来る。人は成長することができる。当たり前だけど忘れてしまっているそんな人の素晴らしさを、辛い別離の向こう側に、感じ取ることが出来るからだろう。

 かくも優しい漫画を描いた高尾滋はどうやら、これが初めての単行本らしい。しっかりとして美しい画とも相まって、醸し出される雰囲気はとにかく心地よい。「人形芝居」がさらにシリーズとして描かれているのか解らないし、他にどういった作品があるのか併録の「雪語り春待ち」を除いて知らないけれど、奏でられる音の気持ちよさから察するに、これからもきっと暖かく、そして優しい物語を描いていってくれることだろう。期待して、次も待ちたい。


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