にんげん はじめました  にんげん ゆめみました

 まず帯を外そう。それから表紙をじっくり眺めよう。吉岡平の「にんげん はじめました」(朝日ソノラマ文庫、476円)をそうすることで、読者は体の奥底からわき上がって来る熱情を感じるだろう。

 メイド風の扮装をした美少女。球体関節を持つ人形のような彼女が、硬質な脚の間に人間の少女を抱え込んだ構図の、抱え込まれた少女が下半身に何も身につけておらず、必然としてだらかな曲線がこちらを向いた状態になっているイラストレーション。男でも女でも、誰でも心乱され、震わされるはずだ。

 つまりは美少女への偏愛が喚ぶ劣情か? それとも退廃的なエロティシズムがもたらす淫靡な情欲か? 否。硬い手足で人間の少女をぎゅっと抱きしめるその仕草は、人間に憧れ人間になりたいと願う人形の少女の、強い想いの現れに他ならない。

 よく見れば人形の少女と、人間の少女の姿形が似ていることに気づく。互いを慈しみながらも何かを強く思い詰めるその眼差しは、苛烈な運命を背負って生まれた少女たちが、過酷な戦いに臨まざるを得ない物語の、哀しくも美しい結末を、「にんげん はじめました」の表紙は暗示しているのだ。本当だってば。

 所は群馬県のI市。ある日突然、何者かによって結界が張られて外へと出られなくなったその街に、たまたま取材に来ていて閉じこめられたフリーライターがいた。知り合った老タクシー運転手を伴って、脱出を試みるものの果たせず、街へ戻ろうとした彼らは、ひとりの少女を拾い共に暮らすことになる。

 エリンという名の彼女は、実は人間界へとやって来て街を結界で閉じこめた魔物たちを、断罪するために使わされた異端審問官。化鳥のベスナールを伴って、13体いる魔物をすべて倒す戦いを始める。褒美は人間への転生だ。

 本来は人形の姿をしているエリンは、時折人間のような姿になるものの、それは形だけで体温もなければ脈もない紛い物。本当の人間になりたい。そんな願いを叶えようと戦うエリンとベスナールに、フリーライターの陽一と老タクシー運転手、に見えて実は国内でも有数の悪魔学研究者で、その怪しげな研究を糾弾されて大学を終われた元教授だった佐伯静雄は協力して、現れる魔物たちを1体、また1体と倒していく。

 閉じこめられた街。食べられていく人間たち。窮乏する食料。シリアスな状況に、当然ながらパニックが起こるはずで、実際に起こりかかっているものの、俗物ながらも市長や警察署長がそれなりに冷静で、それぞれの権限を発揮して淡々と政を執り行っている。住民たちも困窮しながらも日常の生活を、学校も含めて送っている。

 閉鎖空間が舞台になった物語では、人間たちが食料その他を奪い合うような、悲惨で陰惨なシーンの連続となる場合が多々ある。「にんげんはじめました」も食料のために身を売る少女が出てくるものの、行政や警察がおおむねうまく機能していることもあり、血で血を洗うような抗争へとは向かわない。これは目新しい。

 「にんげんはじめました」に続く下巻にあたる「にんげん ゆめみました」(ソノラマ文庫、495円)でも、そんな流れは変わらない。人が魔物に次々と食われ、食料も逼迫して来ているにも関わらず、市長や警察署長はゴルフ場に出向いてラウンドを楽しんだりする。どこか飄々とした空気が漂う。

 陽一と佐伯もディスカウントストア(「サンチョ・パンサ」という名で圧縮陳列が名物!)へと出向いて食料を調達しつつ、エリンを世話しつつ結界からどうやって外に出ようかと模索を続ける。どこかほのぼのした雰囲気がわき上がる。戦いの場面も似たような雰囲気。「にんげん ゆめみました」で病院に現れた吸血鬼と戦う場面では、佐伯が事前に持病の治療の為にと受け取っていたインシュリンが勝利をもたらす。

 「サンチョ・パンサ」に現れた犬頭人身の魔物ツァカリとの戦いの場面では、陽一と佐伯が手に入れていた魔法の本を持って「イ*ナズンか、*ァイグか? それとも基本に忠実にザ*ルか」と叫ぶ言葉を迷い、挙げ句に2人で本に手を置き「バルス」と叫んで魔物を倒す。何ともはや大爆笑。いざという時に役立つ、ゲームやアニメやマンガは決して害悪ではないのだ。

 他にもエリンの古くからの知り合いで、今は敵に回っている魔物の1人で、普段はメイド喫茶でメイドの扮装をしてアルバイトをしている(!)少女と戦ったりと、切なく激しく厳しいバトルにも、どこか楽しさを感じさせる描写が織り交ぜられている。ところが訪れるクライマックス。それまでの飄々とした雰囲気が一変して、シリアスな問題が起こり陽一や佐伯、エリンとベスナールたちを苦しめる。

 最後の魔物を倒して、エリンは人間へ無事転生できるのか。それとも傷つき息絶えそのまま消滅してしまうのか。最後の魔物が倒れて、陽一や佐伯は無事にもといた世界へと戻れるのか。それともかつて1度、同じような閉鎖された空間からただ1人しか戻れなかったように、多くは崩壊する結界と運命を共にするのか。空気が緊張感を帯び、登場人物たちの痛みが読む人の身を刺す。

 そしてもたらされる結末は、「にんげん はじめました」の表紙と、こちらは人間のような少女が人形の少女を抱きかかえた構図の「にんげん ゆめみました」の表紙が共に暗示するように、切ないながらも美しいものとなって読む人の心を打つ。大勢の犠牲を伴った。更なる混乱も巻き起こした。そんな苦難を超えてたどり着いた邂逅が、歓喜となって読む人の全身を震わせる。

 劣情を覚えても構わない。情欲を高ぶらせても良いだろう。そうした方面へのサービスが決して皆無ではない。特撮ファンやアニメファンが歓喜して小躍りするような蘊蓄的描写も少なからずある。けれどもそれは決して本意ではない。たぶん本意ではないと思う。

 人間を始め体と夢見た人形の少女が、苦難の果てに幸せを手にし、少女の願いを叶えたいと戦った男が、苦闘の果てに喜びを手にする物語が放つ、切なくて、哀しくて、美しいメッセージにこそ作者の本意が込められている。いるんじゃないかな。ともかく手に取ろう。そして表紙を眺め、中身を読んで歓喜に奮い立たせよう。上も。下も。


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