縮刷版2022年4月下旬号


【4月30日】 ようやくやっと「エスタブライフ グレイトエスケープ」の第4話「民主主義から逃げられない」は半分くらい「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった」だったというか、マルテースが上野のクラスタに潜入してバトルしている最中に、脳内でどうやってエクアに迫ろうかと考える描写が分裂した自我による脳内会議。「はめふら」の場合はカタリナのさまざまな個性がお互いに主張をしていたけれど、「エスタブライフ」では物理的にも分裂可能なスライム人間のマルテースの最小単位がそれぞれに自我めいたものを持って、強行派やら穏健派といった立場から派閥に別れて議論をしていた。

 それが攻撃の最中に撃たれてほとんどまっぷたつになってしまったことで、穏健派が主流のボディと強行派が主流のボディとに別れてしまった上に片方が上野のクラスタに残されてしまったことから、いったん湯島のクラスタに戻ったエクアたちが上野に戻ってマルテースを探すことになる。脳内会議の描写事態は「はめふら」でも見た感じではあるけれど、5つくらいのパーソナリティを演じ分けた内田真礼さんとは違って長縄まりやさんは穏健派と強行派とあとはノーパン派に議長といった感じで大きく振れてはいなかったかな。それでもいろいろな演技がベースをマルテースに起きつつ出来ることは見せてくれたので今後、いろいろな役を演じていってくれそう。

 ある意味で上野クラスタのシンボルでもある巨大な西郷隆盛っぽい何かの像をぶっ壊してしまって逃し屋として大丈夫なのか、住人になっていた獣人たちから非難囂々とはならないのかってあたりは気になるところ。というか置いて行かれた獣人たちの暮らしぶりが優雅だったり表でテント暮らしだったりと色々なのもそこに格差めいたものが存在しているのか。設定めいたものもあるかもしれないけれど、とりあえず今回は分裂して異なる性格となったマルテースがバトルする面白ささえ描ければ良かったのであまり突っ込んでは設定されていないかも。そうした中で自分の命すら平気でかけられるカタリナの正体にいろいろと不思議も浮かんでくる。自在に移動できるパスとかどこで手に入れたんだ。そんな疑問を含んでシリーズは続く。見ていこう。

 久々の立川シネマシティで久々の片渕須直監督による久々の「この世界の片隅に」の舞台挨拶。そもそもが舞台挨拶自体が「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の公開後、新型コロナウイルス感染症が流行って行えなくなったこともあって中断していた感じで、シネマシティでは3年ぶりくらいの登場になったみたい。上映も「この世界の(さらにいくもの)片隅に」が完成してからはそちらが主流になっていたので、ある意味で見慣れていた「この世界の片隅に」を改めて見てやっぱりこちらもというか、こちらが僕は好きかもしれないと思うのだった。

 「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が「この世界の片隅に」の“完全版”ではなくってそれぞれに独立して存在する1本の映画であることを舞台挨拶で改めて話してくれた片渕監督。原作のどこをどう切り取るかによってそれぞれに1本の映画になるといった話で、それがどういった風に別々なのかを見てなるほどやっぱり「この世界の片隅に」はすずさんとう存在の経験を通じた昭和の日常から非日常へと進んでいくパブリックな変化の物語であり、一方で「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は変化していく日常の中ですずさんという存在が何をどう感じどう変わっていったかを描くパーソナルな物語なんじゃないかと考えるのだった。ちょっと乱暴だけれど受ける印象はそれくらい違う。来週また上映される「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を見てそうした違いを感じ取りたい。

 青木杏樹さんの「女王の番犬」(ファン文庫)は3つに別れた国家のそれぞれが領土をめぐって戦い合っていた中で、10才の少女が母の女王も姉の王女も暗殺者に殺されてしまったことで残り即した王国で、その暗殺者がひっそりと生かされ女王を守る存在となっていたという状況から始まるファンタジーでありミステリー。女王であることの証とも言える鏡が盗まれ、代わりに東の諸侯同盟の盟主の証である宝石が置かれていたことで、王女は近く行われる和平に向けた三国の協議で地位を証明できない恐れが出てきた。元暗殺者のブラッドフォードは女王の命をうけて宝石を諸侯同盟に返しつつ鏡を探すことになるが、出向いた諸侯同盟で今度は西の帝国の玉座を証明する剣で盟主が殺害されていた。

 鏡は誰が盗んだのか。そしてどこにあるのか。国家間をゆるがす謀略が進行する上で生かされた番犬は戦い女王の命に答えようとする。その女王自身が10才にして知略をめぐらせ15才にして国家間の争いを終わらせようと動く英明ぶり。ただの人間とも思えないその才知がクライマックスで炸裂して進行していた謀略の裏をうかがわせる。ただ者ではない彼女をあるいは三国の王と仰いで他国の侵略を退ける物語が始まるのか、それともこれで一端の完結か。ユニークなキャラだけに活躍して欲しいのだけれど。


【4月29日】 山梨県で数年前に行方不明になった少女のものらしい骨と靴が発見されたとの報。散々っぱら捜索して見つからなかったものがどうして今になってといった声も出て憶測も浮かんでいるあたりややっぱり事件がミステリアスだからだけれど、狭いようで広い国土をくまなく探すのはやっぱり無理だということもあるし、当時はそこになくても時間の経過とともに流されてきたといった可能性もあるから、そうした理由も含めて検証が行われていくだろう。誰であれご冥福を祈りたい。

  キネマ旬報に映画評を寄せる人たちの映画を観て作品を観ない鈍磨した感性にはやはり難しかったかもしれない実写版「xxxHOLiC ホリック」は蜷川実花が撮る映像の色彩的な美しさのみならず、細かくカットを割って1つのシーンの1人のセリフも何方向から撮って切り替え、内心の揺れてせり上がり沈んで浮かんで破裂する感情めいたものも感じさせる冴えがあって目が飽きる暇がなかった。

 そんな映像によって紡がれる世界はおそらくは漫画版の「xxxHOLiCホリック」から感じられる四月一日君尋のあたふたとして巻き込まれ逃げようとして関わっていくようになる変化から、それを見守り引き入れ導き救う侑子さんの厳しいようで友愛に溢れた雰囲気をしっかりと描いていたように思う。

 実を言うと漫画はあまり読んで織らずアニメも観ていないため原作の雰囲気を熟知している訳ではないのだけれど、CLAMPの作品ならといったフォーマットに沿いつつも、コミカルさよりは耽美さに力点を置いて幽玄とした雰囲気をセットによって作り衣装によって作り空気感によって作り上げた実写版だと思っている。そのように表現されていた映画がだったら漫画では、アニメではどうなっているのかを遡って確かめたい気にかられている。

 四月一日と百目鬼はどこまで絡み合うのかとか、女郎蜘蛛はどこまで嫌らしいのかとかも。というか多分原作ではそうした状況はあまりなく女郎蜘蛛も侑子さんと対決するライバルキャラといった感じでもないのだろう。そこを映画では対立する存在とした上でその間に人間だけれどあやかしが見えてしまう四月一日を置いて右へ左へと振り回し、揺さぶった上で生きる道を選ばせる物語としてまとめ上げた。

 そこに母性という要素を入れたのあるいは映画オリジナルの要素だとしてその状況すら陳腐というなら世の映画の多くは陳腐なフォーマットの上に構築された伽藍の塔になってしまう。それをどのように見せるかという部分で絢爛とした装飾であり衣装でありVFXを用いて時に色彩を操り時に抑えて銀灰色の世界に迷わせた蜷川実花の感性を僕は大いに指示する。それがあってベタな物語にミステリアスな雰囲気が漂ったのだから。

 神木隆之介があと10年若ければといった気持ちはないでもないけれど、今でも立派に高校生が演じられるのは凄いというか素晴らしいというか。侑子さんを演じた柴咲コウも可能ならあと10年若い方が侑子さんらしかったかもしれないけれどそれは原作よりの方。この映画で四月一日の過去の傷を癒やし導く存在とされたのならあの年上然とした雰囲気であり物理的な加齢も意味を持つ。持っている。持っていると思うよ。うん。

 女郎蜘蛛の吉岡里帆は本当にいやらしくて良かったし、眷属のアカグモを演じた磯村勇斗はイカしててイカれて最高だった。ひまわり役の玉城ティナは顎が……いやまあそれはともかくキャスト陣も良く演じて世界に溶け込んでいたと思う。見終わって不満のまるでないのは原作を知らない身の特権かもしれないけれど、そういう人に作品への扉を開いた作品として原作ファンにも受け入れられる良いかな。とりあえず改めて原作を読み直してアニメを見直してまた見に行こう。吉岡里帆の胸に頭を埋もれさせる神木隆之介への罵声を心で浴びせかけるためにも。

 見つかったといえば知床半島で消息を絶った遊覧船が100メートルほどの海底に沈んでいるところが見つかったらしく、引き上げれば行方不明になっている人たちも船室に残されている可能性もあってこれから検討が進められそう。100メートルから引っ張り上げるとなると費用もハンパではなく運営会社にはとても無理だろう。だからといって自治体なり国なりが出せるかというとそれも難しいとなるとどういった方法が考えられるのか。セウル号のような国家的一大事と任じて国が動いてくれればと思わないでもないけれど……。ともあれ早く上げてやってくださいな、春とはいてまだ冷たい海から。


【4月28日】 4フロアあったのが削られてGUが入って2フロアだけになってしまった新宿のタワーレコードで降幡愛さんの新作ミニアルバム「メモリーズ・オブ・ロマンス・イン・サマー」を買う。シティポップの名曲ばかりをカバーしたコンセプトアルバムでジャケットからして懐かしいアニメーションとった風情だけれど、それに負けずに楽曲も和田加奈子さん「夏のミラージュ」にカルロス・トシキ&オメガとライブ「君は1000%」に中原めいこ「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」にCCB「Lucky Chanceをもう一度」に中山美穂さんで角松敏生さん:You’re My Shinin’ Star」とそして山下達郎さん「RIDE ON TIME」。オリジナルで聴いた楽曲ばかりだ。

 それだけに耳も厳しくなるけれど降幡さんはどれもひねらずまっすぐにオリジナルを尊重するようなトーンで歌っていて耳に馴染む。「君は1000%」なんてちょっとあの口調を真似したくなるけれどそこはおさえてちゃんと透き通った声で聴かせてくれるし「Lucky Chanceをもう一度」は声優だけあって掛け合いな感じで雰囲気を出している。そんな中でやっぱり気になる「RIDE ON TIME」もひねらずイントロもつけないで無音の中から立ち上がるボーカルをしっかりと歌ってあの楽曲の中に連れて行ってくれる。好きだからこそのシンプルなアレンジであり歌い方。だからこ流行だからではなく本気でシティポップをやっていると分かる。ライブ、行ってこようかなあ。

 そんなシティポップの先駆けとも言えそうな「パープル・モンスーン」を聴かせてさわやかな気持ちにさせてくれた上田千果とKARYOBINの上田千果さんが死去。報道だと今井美樹さんに書いた「PIECE OF MY WISH」の作曲家といった書かれ方をされるしこの楽曲は大勢の人にカバーもされた名曲なんだけれど、シンガーとしての上田千果さんの素晴らしさを伝える意味でも「パープル・モンスーン」をもっと取り上げて欲しかった。そこはちゃんと分かっているクリス松村さんはbayfmの番組「9の音粋」の中で取り上げてくれた。とても残念な想いだっただろうことは想像できるけれど、そこをぐっとこらえてさっと出してくる優しさを上田さんも喜んでくれたのではないかなあ。安らかに。

 読売新聞東京本社がソニーグループでマーケティング関連事業を手がけているSMNと業務提携をして、新聞やテレビの顧客基盤を活用した広告展開やら消費者サービスやらを行うとか。こうした動きについてずっと思っているのは、新聞なりテレビが公器としてたとえば記者クラブなんかを官公庁に置かせてもらい、国民の知る権利の代行者として情報にアクセスする権利を有しているのなら、そうやって集められた情報は国民に還元することが第一義であると同時に唯一の目標であり、且つそういった事業によって集められた顧客の属性なり関心といった情報も、ニュースを効率よく的確に伝える方向でのみ活用すべきなのではといったことだったりする。

 対するに読売新聞東京本社が行おうとしている顧客情報を利用した広告ビジネスやマーケティングは、公器としての優位性を商業に流用して金を稼ごうとしているものであって自分は企業とそして媒体が儲けるために知る権利の代行者を頼んだんじゃないと言われて説明ができるのか、といった疑問も浮かぶ。それを言い始めたら新聞に入る広告もテレビに乗るCMも媒体力を頼みにした商売ではあるけれど、それは媒体を維持するための必要経費であってだからこそ記事量を超えてはならないとかいったいろいろな制約が課せられている。そうした枷を顧客情報の活用が外しているのならやっぱり問題な気もするけれど、それでしか稼げなくなっているのが実際だからなあ。そうやって信頼性を切り売りしていった挙げ句に媒体力も落ちて共倒れなんて未来が遠からずやって来るんだろうなあ。やれやれ。

 あの中裕司さんですらゲーム会社で蔑ろにされて見くびられて叩き出されてしまうのかと、昨今の話題を追いかけながら溜息が出てしまったけれどもそれを言うならあの小島秀夫さんですらゲーム会社の中で居場所を奪われ飛び出してしまった訳で、企業というものが目指すこととクリエイティブが目指すことの齟齬がそれぞれのケースで出てしまったと言えそう。とはいえこれがすべてではなく京都方面の会社なんかだと長くゲーム造りに携わって本当に良いゲームを出すことにこだわり続けていたりするからそこは体質なんだろう。あるいは経営者の資質か。創業者が退き中興の祖もいなくなった時に残るは数字だけを絶対視する商売人。誰のためのゲームかすら分からない人が金勘定をしている状況で生まれてくるものがこれからどうなるかを考えると、未来は暗いのかもしれない。それとも今回の一件で気づいて改めるかな。改めるようならここまでこじれないか。どうなるもんか。


【4月27日】 暁を覚えない春の眠りで正午くらいまで寝てしまったのでこれは拙いと起き出して、本を読むために電車に乗ってゆらゆらと阿佐ヶ谷まで行く途中で武田綾乃さんがNetflixで近く配信が始まるアニメーションをノベライズした「バブル」(集英社文庫)を読む。映画だと空から降ってきた泡の少女が少年を見初めたことで大爆発が起こって少年の家族も亡くなり東京が水に沈んだかのようにとれてしまったけれど、実際は逆で地球が滅ぼされるのを少女が防いだってことらしい。

 。なるほどそうした理解を得て観ると、前に試写で観たときとは違った印象を持てるかも。機会音声めい女性の声で会話する前身スーツのバトルクールプレイヤーも別に女性ではなく中身はどうやら男らしいと分かって安心。あとは日々の泡壁の中での暮らしがどうなっているかといった解説も、アニメだと何となくそういうものだと思わせてはくれるもののよく分からないところを小説はしっかりと文字にしていた。畑を作り鶏を飼って野菜を収穫し卵をとったりしているとか。米なんかはたぶん外から持ち込んでいるのかな、さすがに田んぼは無理だろうから。

 「響け!ユーフォニアム」でキャラクターの心情をねっちりと描いた武田さんらしい心情描写もたっぷりで、キャラクターの内面に迫ってどうしてそこにいるのか、どうして戦っているのかといった理由から今なにを考えてバトルクールをしているのかまでよく分かる。シナリオを並べただけのノベライズも少なくない中で構成も変えて独自の展開も載せているところは流石に小説家。プロデュースした三木一馬さんは良い仕事をしたんじゃなかろうか。アニメだとやっぱり迫力のバトルクールから始まるけれど、小説はバトルクールにのぞむ前夜のメンバーの心情描写がメインだったし。そこから入って派手なバトルがあってそしてヒビキとウタとの出会いとなる。それをあらかじめよんでおけばアニメへの理解も深まるなら観てから読むより読んでから観ても良いんじゃないかと思うのだった。どうぞお好きに。

 阿佐ヶ谷に到着したので「ぱすた屋」が4月の売りにしている福岡名物のペペたまを食べる。これで2回目。ふんわりとした溶き卵をペペロンチーニの上にかけているだけのものだけれども混ぜ合わせて食べるとやっぱり美味しいのだった。可能ならそこにコショウをもっといっぱいかけたかったかも。あるいは細切れのベーコンが混じっていればさらに強力になっただろうけど、カロリーも一気に高まるからそこは卵だけで我慢するのが吉なのかも。ご当地パスタシリーズはこれでおしまいみたいなので以後はまた、いつもの大盛パスタに戻って食べよう。あるいは久々に阿佐ヶ谷のミート屋に寄ってみるか。

 アーケードを抜けて丸ノ内線まで歩いてお腹をこなしてから地下鉄に乗って新宿へと出て新宿武蔵野館で「猫は逃げた」を観る。前に観た「愛ななのに」とは逆に城定秀夫監督音脚本を今泉力哉さんが監督した作品で、やぱりエッチなシーンはあるもののそれは関係性の確認みたいなものであってメインは離婚しかかっている夫婦がいてその間で飼っていた猫をどっちが引き取るかといったところで話しは中断。その関係で夫の編集者が同僚としていた不倫は続いているものの先が見えず、一方で妻の漫画家が編集者と始めていた不倫もダラダラと続いていた所で猫が行方不明になってしまうといった展開。

 ある意味でひっかかりでしかなかった猫が逆に鎹となって離婚しかかっていた夫婦をつなぎとめるところは俗に言う「猫はかすがいの甘納豆」といったところか、ってそれは俗には言わないか。最初にみつけたのは夫だけれど家にいる妻が面倒を見ていた関係で離婚しても引き取るのは当然といった顔をしたら夫が受け入れなかったところに、どういったこだわりがあったのかが気になるところ。譲ってでも不倫相手と一緒になりたいと思わなかったとしたらやっぱり猫を通して妻に未練があったってことなのか、それとも妻にかこつけて猫に未練を残していたのか。そのどっちもなのかもしれないなあ。人間の感情は複雑怪奇。

 シーンでは4人が並んであれやこれや言い合うのをワンカットで抑えているところが凄いかも。何かを言う度に状況が少しずつ変化して上下関係なんかも微妙に揺れて受けが攻めに転じるようなところもある。それを文章でやっても大変なのに演技としてやるとなると表情とか口調も含めて自然な感じを残さなくてはならないだけに、どれだけリハーサルをしたのかが気になる。それとも1発で撮ったのか。だとしたら役者って凄いよなあ。でもやっぱりカンタを演じた猫が凄い。彼女との逢い引きから妻と夫への媚びの売り方から何もかも完璧。そりゃあ手放せなくなるよ。日本アカデミー賞の最優秀助演猫賞決定。


【4月26日】 SNSはポン酢の発見器とはよく言ったもので、右も左もよく見ず考えもしないでつぶやいては失笑を買いまくっている。ウクライナの軍隊が武器を支援してくれた国々に感謝のメッセージを伝える動画を作って配信したらそこに日本の名前がないと元杉並区長だとか、元イラク派遣部隊の隊長だとかが国会議員の資格でもってウクライナけしからん外交問題だと騒いで文句を言うとツイッターで喧伝しまくった。

 いやいやだからウクライナへの軍事支援が顕著だったところに軍隊が感謝したもので、そうではない支援をしたところはスイスであってもイスラエルであっても名前は載ってない。いやいや防弾服とかヘルメットを贈ったぞと後で付け加えていたけれど、それはドイツがヘルメットを贈って失笑を買ったレベルのものであって感謝はしているとはしても今回の映像に並べるものではない。

 というかむしろ並べてもらっては困るよだって僕たちは見返りなんて求めずやれることをやったんだからと胸を張るのが大和魂って奴だろう。道徳だって黙して語らずそれでも行動することを尊ぶような話しが喜ばれるのに、この人たちは世界が讃えてくれないと満足しないらしい。何をしたかを知ってもらえることが票につながる政治家だから仕方がないのかもしれないけれど、それでもやっぱり見ていてカッコ良いものじゃない。

 かの安田財閥を作り上げた安田善次郎は篤志家として東大の安田講堂とか日比谷公会堂なかを寄贈したけど生前には一切名前を出さず、それでもってケチだ何だと言われて暗殺されてしまった。死語にそうした活動が明らかになったことは残念ではあるしもったいない話しではあるけれど、それでもやっぱり黙して語らなかったその篤志家としての信念に惹かれるものがある。たいしたことをしている訳でもないし、それを自分の懐を痛めてやっている訳でもない政治家が自分たちこそ日本人の代表であるといった顔で世界にいちゃもんつけて笑われている状況こそ、愛国の反対だということに世間も気づく時が来たんじゃないかなあ。

 そんな自民党のポン酢とは対極にいる共産党の人が「名探偵コナン」で毛利小五郎がみそ汁をこぼしてそれを蘭が脱がしたことをもって男性が女性に服を脱がさせるなんてといちゃもんをつけて、いやいやそのシーンはテレビのニュースに呆然とした小五郎がついみそ汁をこぼしてそれに気づかずにいたのを蘭が見かねて脱がしたもので、後から小五郎は自分で洗い物を運んでいたりするから共産党の人がいう汚れたら脱がせて洗わせる役割の固定化なんてものでは全くないって突っ込まれている。それで改めればまだマシだけれどきっと突っ張るんだろうなあ、それもまたSNSでしくじる人の特徴だから。

 用事があって上越新幹線で新潟県の南魚沼へ。越後湯沢で降りると冷たい風はすでに無く、温かい空気が漂っていて新潟といえどもちゃんと春が来ていることが分かったけれど、それでも見上げると山には雪が残っているあたりに雪国だってことが感じられる。上越線で石内まで行ってそこから取材先へと向かって魚沼産コシヒカリに関連した取材を2時間ばかり。積雪地帯ならではの工夫って奴を目の当たりにしていろいろなことを考えてそれを実行に移す人の凄さに感じいる。取材を終えて今度は大沢駅から上越線で越後湯沢へ。駅にあるラーメン屋でつけめんをかきこみ上越新幹線に乗って東京へ。面白かったけれども原稿は書かないといけないのがこの仕事の大変さ。でもそれが読まれて話しが広まる面白さもある。だからライターは止められないのだ。

 イーロン・マスクがツイッター社の買収に乗りだしたと聞いて浮かんだ歌、その1。「ビビンビリビリイーロン、ギュワギュルルルイーロン、権力を穿つ言論が、おれの望みだ願望だ、ネットの自由を守るため、ツイッターでのポリコレを、とことんまでにやっつける、 イーロンマスクは ネットの勇者だ、イーロンイーロンイーロンイーロン、イーロンマス」。歌えるかというとサビの部分はなんとなく覚えていても、再放送とかがなく耳に完全に入ることがなかったので実は歌えないのだった。封印作品だけれどいつか見たいな。その2。「くらいネットの密林に、きょうも荒しが跋扈する、おしつけがましいポリコレに、自由のキックをけりいれろ、ゆけゆけイーロンイーロン、イーロンマスク。こちらは大丈夫。歌ってイーロン・マスクの行動を見守ろう。


【4月25日】 知床半島での遊覧船沈没事故は行方不明者が発見されたもののやっぱりというか皆さん亡くなられていて残念にして無念の状況になっている。水温が3度くらいの海に放り出されて10分もすれば意識が遠のくというからまだ見つかってない方々の安否も正直言えば厳しいのだけれど、もしかしたら頑張ってどこかにたどり着いている方がいるかもしれないと今は思いたい。

 難しいのは知床半島をぐるりと回った東側には国後島があって北方領土としてロシアの実効支配下にあること。海の流れによってはそちらへと流されてしまう方もいるとなるとロシアに面倒を見てもらう必要も出てくる。目下の政治外交状況下でそうした相互協力が難しいのは承知ではあるものの、人道の見地からここは政治外交状況を抜きにして話し合って欲しいもの。頼みます。

 朝から「実写映画化」がキーワードとしてバズっていたので何かとみたら顎木あくみさんんお「私の幸せな結婚」がアニメ化に続いて実写映画化されると発表されていた。発行の女性が嫁いで幸せになる話だから当然に女性の方が“主役”なんだけれど、そこは日本の映画状況がジャニーズのタレントさんを主役にしたがる風潮ということで、SnowManの目黒蓮さんを“単独主演”と持ち上げていたところに、原作ファンがちょっぴり怒っているみたい。

 そりゃそうだよね、薄幸の女性に自分を写して幸せになりたいと願い幸せになれたと喜ぶ作品なんだから。たとえ認知度がジャニーズの方が上でもそこはやっぱりちゃんとして欲しかった。同じジャニーズでも「今夜、世界からこの恋が消えても」の場合はなにわ男子の道枝駿佑さんとと福本莉子がダブル主演ということになっている。そこに原作をリスペクトしているかどうかといった製作側の認識が絡んできそう。せっかく「最愛」で話題になった塚原あゆ子さんが監督を務めるのにちょっと先が思いやられるかなあ。

 SnowManの目黒さんって誰ってちょっと前なら思ったけれど、今だと「『おそ松さん』のチョロ松」と言われれば何となく想像が付いてしまうところにあの映画の意味があったとちょっとだけ噛みしめていたり。とはいえ全員が同じような顔かたちだという設定だった「おそ松さん」と比べると、銀のロン毛で冷酷無比な雰囲気をまといながら根は優しい久堂清霞は特徴が際立つから、そこにピッタリとハマれるかどうかも気になるところ。一方の斎森美世を演じる今田未桜さんはちゃんと演じてくれそう。ダブル主演ではないところが業腹だけれど映画は映画として見に行こう。公開は来年かあ。アニメとどっちが先だろう。

 2月25日になくなった元XEBEC社長でスタジオ・マザー社長を務めた下地直志さんを偲ぶ界が中野サンプラザで開かれたので弔意を寄せに行く。XEBECが携わった作品のポスターがずらりと並んでなかなかに壮観で、「機動戦艦ナデシコ」やら「爆走兄弟レッツ&ゴー」やら「シャーマンキング」やらといった1990年代の作品から「ぺとぺとさん」「えむえむっ!」「かのこん」「ToLOVEる」といった美少女でちょっぴりエッチな感じが漂う2000年代のXEBECらしさに溢れた作品群まで並んで振りかえってアニメが楽しい時代だったなあといった想いをめぐらせる。

 「機動戦艦ナデシコ」でカードダスの1シリーズがコンプリートで貼り付けてあるポスターなんてものがあってこれは貴重。プリントかと思ったら立体的だったからやっぱり貼り付けてあるんだろうなあ。そんな会場にはボンズの南雅彦社長がいたようで立ち姿から「宇宙戦艦ヤマト2199」を監督した出渕裕さんもいた感じ。ほかにもアニメ業界のヒトがわんさかと詰めかけなかなかに盛会だった。寄せられた献花もずらりと並んで荘厳で、それくらい広い交流を持った人だったんだってことを改めて感じた次第。だからこそもったいないなあ。スタジオ・マザーには頑張ってくださいとエール。


 【4月24日】 まるで関心を持っていなかった「SPEC 警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿」がふと目に引っかかって、AmazonPrimeビデオで見始めたら面白すぎて一気見してしまう。まずテレビシリーズの冒頭を見てそしてスペシャルの「翔」、劇場版の「天」とそれから「結」の前後編を一晩くらいかけて観賞。その世界観をおおまかだけれど理解する。

 目にひっかかったきっかけは戸田恵梨香が演じている当麻紗綾のぐだぐだなキャラクターぶりえ、とりわけ就職活動でもしているような長めのスカートからのぞく足のゆるんだ白いソックスとローファーのバランスが醸し出す俗っぽさであり、それを体現する戸田恵梨香の演技ぶりだった。だけれど、そんなキャラクター性からだんだんと異能バトルへと流れそして地球人類vs先人類の対決という宇宙スケールへと発展していくストーリーを衒いなく堂々とやってのけるパワープレイに押しまくられて連れて行かれた。

 構造自体はSFとかファンタジーにもよくある黙示録からの再生に平行宇宙なり泡宇宙も絡んで繰り返されるやり直しの物語だけれど、それをちょっとした猟奇事件から始めて段々と状況を示しキャラクターをぶち込んではブースとしていく感じが面白く、ハマれば最後まで付き合うかって気にさせらえてしまう。3作作られた劇場版がどれも20億円超えをしたことが、見放す観客のあまりいなかったことを示してる。

 だいたいが片手を吊ったヒロインだなんて普通はあり得ないことを、やってのけた制作側も凄ければ演じた側も凄まじい。その意味がテレビシリーズではあまり分からなかったのがただの荷物入れではなくって力の源であることが分かり、さらには引っ張り出す力とは反対に引っ込める力も持っていることが最後に明かされたりするその構造を初期の段階でどこまで見通していたんだろう。気になった。

 あとはやっぱり役者の多彩さで舞台系アングラ系を含めあちこちから集めた中心に竜雷太さんを置いて引き締めているのも良かった。でもやっぱり、若さとガサツさを合わせた当麻を20台前半の戸田恵梨香さんに演じさせたのが勝利の最大要因だろうなあ、今も人気の女優さんだけれど今では無理な役だし5年前でも難しかったかもしれない。その年齢に適役を得られた幸せを味わっていてくれたら役柄のファンとして嬉しい。そしてその当たり役を超えて新しいイメージをちゃんと作っているところに女優としての才を感じる。

 松坂桃李さと結婚された方で家でガサツな妻を演じてる……ってことはないと思うけど共に優れた役者なのでこれからの活躍も楽しみつつ、10年後の「SPEC」なんてものがあり得るかをちょっと考えたい。まあ無理だろうけれど。機会があれば劇場版の一挙上映なんてのをどこかで企画して欲しいかも。テレビスペシャルの「翔」からの4本。一気が無理なら2本ずつ。どうかなあ。

 せっかくなので夜のご飯は餃子にして10個くらいを野菜といっしょに一挙にかき込む。ご飯といっしょの方が美味しいけれどカロリーが多いので仕方が無い。そんな夕食を摂りつつネットを見ていたら「ヤマーダクエスト」なんて漫画が目に飛び込んできて尻がら火が噴き出すような恥ずかしさに身もだえする。いわゆる表現の自由に関連して参議院議員の山田太郎氏の活動を、次の参院選に出馬が決まっている漫画家の赤松健氏が描いた漫画だけれど、それがファンタジー仕立てて表現の自由を背負い戦う戦士が山田太郎議員であるといった感じで、身びいきが過ぎる上にメッセージがあからさますぎて読んでいてどうにも気恥ずかしい。

 日本のレギュレーションを無視して外国のレギュレーションに当てはめようとするような“ガイアツ”を退けたいといった部部など、言いたいことは分からないでもないけれど、漫画という敵と味方を単純化し戯画化して表す技法にかかると、あまりに味方への入れ込みが過ぎてそんなに単純な話しでもないだろうといった異論が浮かんでしまう。敵とみなして戦い退ける相手にも考えがあって、それへの理解をした上で、けれども問題があるといった議論の称揚があって欲しいのに、漫画では倒して終わりめいた感じで議論が続かない。なるほど相手と仲間になったなんてアフターが描かれてはいるけれど、そこには相互理解の上というより折伏したような匂いが漂う。

 宗教の教義をマンガ仕立てて描いて理解しやすくする手法が、信者には受けても外から見るとヌケが目に付き辟易とさせられるよあの感じを、強く漂わせているのも尻から火が噴き出しそうになった理由だろう。そういう反応を漫画家として描いていて感じなかったのなら、赤松健さんもちょっと感覚がズレてきているし、そんな漫画を冒頭に載せて、表現の自由とは何かを訴えようとする山田太郎議員も、議論を尽くして折り合いを探り誰もが納得するような結果へと至らせる民主主義の中の議員というより、プロパガンダによって持論に染め上げあるいは折伏し、そぐわない相手は悪魔と誹り廃する宗教家めいた存在になりつつある。どうしてこんな風になってしまったんだろう……。困ったなあ。


【4月23日】 カンプ・ノウにいっぱいの観客はバルセロナとヴォルフスブルクの試合だから当然かというとそれが女子チャンピオンズリーグの準決勝であることを考えるとやっぱりとてつもない数字。それだけ現地の人たちがバルセロナというクラブチームを愛しサッカーという文化を認めている現れってことなんだろう。日本では東京ヴェルディとジェフユナイテッド市原・千葉の試合ですら5110人というからケタが1つ違うものなあ。そんなJ2の試合は1対1で終わった後で女子の試合も行われてジェフ千葉レディースが3対2で日テレベレーザに勝利し試合数が1つ多いとはいえ3位に浮上。見に行った方が良かったかなあ。

 堂場瞬一さんの「小さき王たち 第一部 濁流」(早川書房)は昭和46年から47年の新潟を舞台に選挙を巡り行われた買収を追う新聞記者と買収を行った国会議員私設秘書の因縁の始まりを描く全三部作のある意味での序章。幼馴染みで大学まで友人同士だった2人が駆け出しの記者と政治家に別れ新潟の地で再会する。高樹は全国紙の新潟支局で県政を担当している。田岡は商社を辞め新潟一区選出の民自党代議士で政調会長をしている父親の秘書となる。

 そして総選挙。父は勝てそうだが民自党はもう1人立てることになり田岡は手伝うことになる。そこに未公認でもう1人出ることになり支援候補は当選が危ぶまれる事態となる そして田岡が始める買収工作が県議から自治体トップから企業トップまで手広いそのやりとりが生々しい。一方で買収のネタを掴んだ高樹が支局内の県警担当に仁義を切りつつ夜回りしつつコラムをこなしつつ記者の仕事をこなす様も昭和の支局の記者っぽい。携帯電話もワープロもない時代の記者って感じ。

 ブンヤがサツにネタを当てて確証を得ていくやりとりがとってもリアルっぽい。きっと今もそうしてネタをとったりとられたりが行われているんだろうけれど、互いに報道を信じ警察を信じ動く記者と刑事の気持ちのまっすぐさが時代を感じさせる。今は? 良い時代だったと思いたくないけれど……。一方で政治は酷い買収が相変わらず行われてますます混沌に。日本のためとかいった信念がどこまであるかも掴みづらい状況になっている。そんな時代まで描いていく三部作の中、ブンヤはブンヤでいられるか、政治家はどれだけ染まっていくかを見て行けそうな「小さき王たち」。続きが楽しみ。

 還付金が入ったのでオンワードのバーゲンへと出かけてジャケットでも買おうかと思ったもののサイズがつかみづらくマッチしたものもなかったので遠慮して、主にシャツとかをあさる。Jプレスで2枚ほどに福助のカットソーとそれからマッケンジーのワイドスプレッドなカッターシャツ、あとはカジュアルなチェックのシャツとかチーフとか。着ていく場所があるかどうかは分からないけれども近所で原稿を打つ時だって多少は真っ当な格好をしていないといけないからきっと役に立つだろう。きっと夏前くらいにまたあるだろうからジャケットはその時に。いつか金ボタンのブレザーも揃えたいなあ。還暦でそれ着るのも悪くない。

 午後の1時過ぎに浸水していると連絡があって、それから海上保安庁のヘリコプターが現場に到着するまで3時間もかかるというのが何か信じられないけれども現地は知床半島の先端に相当近い場所で網走から飛んだとしたって結構な時間がかかりそう。船ならさらにとなるとやっぱりそれくら時間がかかるのか、初動に何か支障があったのかはこれからの検証が必要になるかも。国後島の側ならあるいはロシアとの関わりなんかも想像できてしまうのが昨今の情勢ではあるものの、そこは半島でも西側だから関係ないとみるならやっぱり浸水からの沈没か。救命胴衣は揃っているとは思いたいけど海水温度も高くない初春の北海道。今は無事であることを祈りたい。


【4月22日】 明日からのバーゲンに備えてお金を下ろしておこうと銀行に寄ったら預金残高がぐわっと増えていた。ということは還付金が入ったってことで頑張って確定申告を行った効果があったってことでこれで少しは潤うけれどもすぎに住民税が来て国民健康保険が来てそして部屋の更新なんかもあるからまとめてすっ飛んでいくのだった。それでもゼロよりはそれで埋め合わせできるのだからありがたいと言えばありがたい。初年度は慣れず書籍代もそれほど経費に繰り込めなかったけれども2年目はだいたい入れて3年目は通信費も経費に入れて申告して、源泉徴収のほとんどを取り戻せたのだから成功といったところか。

 本当だったら家で仕事をしている分、部屋代なんかも按分して組み込めそうな気もするし電気代も大丈夫のような気がするけれどそれをやりだすと経費ばっかりが積み上がって不審がられる気もしないでおないからちょっと考え中。とはいえ実際に読んだ本も観た映画も仕事に活用している訳だからお天道様に顔向けできないってことはない。それを思えば部屋代電気代も堂々と申告していいような気もするので来年はそれも含めて頑張ってみよう。その前にとりあえず収入を増やさないと。生きていく分にはどうにかなっても楽しく生きていくにはもうちょっと必要だから。

 ぽにきゃんBOOKSなんて今はやっぱりもう無いのか止まっているだけなのか判別がつかないレーベルから出ていた「宝石吐きのおんなのこ」を書いたなみあとさんが、講談社タイガから出した「占い師オリハシの嘘」を買って読んでみた。占い師として成功しているオリハシという女性がいるんだけれど放浪癖があって相談をそっちのけで逐電してしまうので、代わりを妹が務めることになったものの占い師として超人気の姉のようには解答なんてできないので、そこを持ち前の調査力と推理力でどうにかこうにか事態を見極め、適切なアドバイスを占いの結果といったオブラートにくるんで伝えることをやって凌いでいた。

 つきあっている彼女がなにやら魔女にでもとりつかれたのか奇妙な独り言を言ったり自分に隠し事をしているような雰囲気を見せてきになった彼氏の相談については、彼女が図書館で雑誌を借りたり何かをぶつぶつを言ったりしている内容からしっかりとあたりをつけ、なおかつその心理までをも読み取って上をいくような行動を彼氏の方に示唆してのける。大学の映像サークルでリーダーとなっている女子がひとりの引っ込み思案な女子を蛇にとりつかれているからと言って主役に抜擢しようとする振る舞いについても、裏にある事情を読み取って正しい道へと引き戻す。

 そんな展開の中で浮かび上がってきたなぞの宗教組織。見透かすようなことを言ったり絡んできたりと大変な上に姉のオリハシとも絡みがありそうだと分かって大慌て。さらわれて監禁でもされているのでは。なんて状況からの意外な展開が面白いけど妹は面白がってはいられないか。占いというのは霊感というよりも直感でそれは観察力と想像力から出るものだとしたら姉はその速度がとてつもなく速いだけで、妹も演繹的にしっかりと占いの結果を出しているのだから能力はもしかしたらいっしょかもしれない。そんな2人が剛柔まじえて活躍するような展開があったら読みたいかも。振り回される姉の友人で妹が慕うオカルト雑誌の編集男子は大変だろうけど。いいじゃないか両手に花なら。

 「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」の高額な記録全集が出るので買おうがどうしようか考え中。実を言うと自分は「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」をを劇場で観たことなくって、それどおろかDVDかBDを買った時に1度だけ観たっきりで詳細まで知ってこれは傑作だから記録全集も読み込みたいといった気持ちには至ってない。とはいえ買い逃すと後で手に入れるのは大変なのは同人誌も同じ事。なのでやっぱり考えてしまう。1度だけ観た印象で言うならヒリヒリしていてそれでいてドリーミーな作品。当時もそれから1度観るまでも、そおnのピーキーさに脳がチューニングしきれてなかったんだろう。同じ意味で「伝説巨神イデオン」の発動編も長く観たことがなかったけれどそれは去年劇場で観たの、これを機会に「逆シャア」も改めて観込んでみようかどうしようか。


【4月21日】 本気だとしたら面倒で、設定だとしたらなお厄介な富川悠太氏の「トヨタ自動車所属ジャーナリスト」宣言。対象を中立の立場から公正に取材して報じることで信頼という価値の上に情報を提供するジャーナリストという役割が、トヨタ自動車という世界最大級の企業に所属する形でどうして担保できるのか。当人がいくら忖度はしないと言ったところで本当にそうなのかといった保証はない。トヨタ自動車に関する情報をジャーナリストという肩書きの下で正確に伝えることが役割だと言うなら、それはパブリシティであってジャーナリズムでは断じてなく、手がける人もパブリシストであってジャーナリストではない。

 あるいは香川照之さんを編集長とする「トヨタイズム」という宣伝戦略の上に構築された架空の媒体において、「ジャーナリスト」という肩書きで記事を書きリポートを行い情報として発信していくのだとしても、それをジャーナリストと呼んでしまった時に本当の意味で中立公正の立場から取材対象に肉薄し、伝えるべき情報を忖度しないで分け隔て無く信頼の元に発信していくジャーナリストと同じ肩書きで、2種類の人が並ぶことになって判断がややこしくなる。というよりジャーナリストにとってはそうした設定としてのジャーナリストが同じ企業取材の上に同列で存在されてはたまらない。

 肩書きなんてただの飾りで、何を伝えるかが重要だから富川悠太氏がジャーナリストを名乗ろうと気にしなければ良いんだという意見もあるけれど、同じジャーナリストとして発信された情報が扇情的で衝動的で企業の協力のもとにゴージャスだった場合に、人はそちらに靡き染められていく。そして本当に大切な信頼性を根底に持った情報はスポイルされてそれらを発信してきたジャーナリストも蔑ろにされてしまう。結果として企業にとって都合の良い情報ばかりが飛び交う世界になってしまって本当に良いの? ってところ。だからジャーナリストはそうはならないよう戦って信頼を勝ち得てきた。それなのに……。

 どうしても快楽に流れがちな世間を抑えて枷を駆け、信頼できる情報を流通させる権能をのみジャーナリストと呼ぶことで保たれて来た認識が今、粉々にされようとしているのに、安閑としていられる方がむしろ不思議。そうした意見もちゃんとあったりするにも関わらず、日本のジャーナリズムが新聞もウエブメディアも異論を唱えず諾々と富川悠太氏のステートメントをそのまま垂れ流している。そこにジャーナリズムへの危機感を示唆するような論評はない。すでにジャーナリズムは死んでいたと言えば言えるとは言え、タテマエでも踏ん張って欲しかった。困ったなあ。本当に困った。

 ジャーナリズムといえば一方で「ブランドジャーナリズム」を社名にした会社が立ち上がって富川悠太氏がステートメントを発したのとおなじ日にプレスリリースを配信した。ブランドジャーナリズムという言葉自体は15年とかそれくらい前から使われ始めている言葉で、ブランドの価値を単なる広告的な手法であったりマーケティング的な扇情ではなく、ジャーナリスティックな活動の中でだんだんと分かってもらおうとする活動といった感じで、アメリカだとワシントンポストなんかがそうした部署をもってクライアントから記事を受注していたりするという。

 日本でもハフィントンポストなんかがニュース部門とは別にブランドマネージメント的な部署を置いて企業などをクライアントにしていたりするみたいだし、産経デジタルだってニッカウヰスキーとかレクサスといったブランドの情報を発信するサイトを作って展開したことが確かあった。とはいえそれらが中立かとうとやっぱりどこか企業のPR活動の一環にしか見えず、ジャーナリズムといった公正性からはやや遠いように思えた。新会社が中立性の中に情報の信頼性を担保しつつ結果としてブランド価値の浸透につながるような舵取りを行いつつ、情報発信ができればそれは幸いだけれどクライアントの側の“広告効果”を重視する姿勢の前にあれやこれや注文をつけられないとも限らない。どんな活動を見せるのか。まずはお手並み拝見といったところ。

 甘いマスクのイケメンだけれど暑苦しさはなくて、爽やかかというと少し粘着質でもあったりして、愛妻家のように見えてしっかりと不倫はしていて、それがバレてすぐに謝る人の良さを見せながらも、平気で大嘘をついてそれが真に迫って相手にまったく疑われず、寝れば相手を喜ばせているように見えながら、実はまったく喜ばせていない下手くそだっと不倫相手に言われて落ち込むような感じだけれど、それで逆上はせず反省して上手くなるにはどうしたら良いかと不倫相手に相談してしまうという、クレバーなのか凡庸なのかそのどちらでもありどちらでもないのかまるでつかみ所のない男を演じた中島歩さんの起用が成功の最大の要因であると言っても過言ではない奴だった城定秀夫監督による映画「愛なのに」。面白かったのでまた見たいけどやってる場所が減っている。頑張ろう。


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