縮刷版2020年3月上旬号


【3月10日】 東京の株式市場の爆下げが地球を半分回って原油安も加わってのニューヨークのダウ平均株価爆下げの流れを受けて開いた東京の株式市場だったけれど、寄りつきあたりから結構な下げを見せたものの前引けにかけて持ち直し、後場にはわずかながら反騰に転じて結果的には挙げて終わった。TOPIX東証株価指数も上がっていたから全体に底が入ったという感じで決して日経平均だけがてこ入れされた訳ではない。これをもって沈静化したと見るのはまだ早いけれど、サーキットブレーカーも入ってのニューヨークの下げは機械相場の行き過ぎ傾向が出たまでで、地合はまだまだ堅調と見るべきか違うのか。週内の様子を見るまでは判断がつかないかなあ。

 そうした騰落とはまた別に、安倍総理のさらなる自粛要請でもってあらゆるイベントが壊滅状態に陥りそう。宝塚こそ再開に向けて動いているけれど、他の大きな興行は演劇もライブも軒並み自粛の模様。RADWIMPSまでもが中止となって個人事務所で仕掛けているその興行の損がどこまで彼らを痛めつけるかが今は心配。グッズだって作っていただろうからなあ。ライブは無観客で出来てもグッズは売れないし、通販だって手間はかかるし、こういう時に楽天が店を開いて売るとか言えば格好いいのに。そういうカルチャーじゃなさそうだけれど。

 気になるのは最近はIP開発企業からライブエンターテインメント会社へと大きく発展を遂げていたブシロードあたりが、相次ぐイベントやライブなんかの自粛でちょっと大変なことにはならないかってこと。4月5月まで自粛が続くとは思えないけれど、いったん遠のいた足をまた引き戻すにはやっぱり漂う不安を完全なまでに払拭しなきゃいけない。それが見えるのはいったいいつなのか。大型連休が終わって梅雨時になって花粉症も飛ぶ初夏あたりか。それはそれでフェスの季節なだけに興業界もいろいろと心配だろう。何より世界最大の興行ともいえるオリンピックがどうなるかがまだ見えない。ここに自粛が入るようなら2020年の興業はすべて死ぬ、ってことになるのか。さてもどうなる。

 アップリンク吉祥寺で壷井濯監督の映画「クリファイス」の舞台挨拶付き上映を見る。今回は翠という異能を持った少女を演じた五味未知子さんが登壇して壷井濯監督と、そして五味さんが次ぎに出演した映画「男の優しさは全部下心なんですって」ののむらなお監督を相手に何と司会役を務めてくれた。そんな五味未知子さんはとてつもなくはかわいらしかった。そして壷井監督とのむらなお監督から天才で大女優になると絶賛されていた。僕もそう思った。

 映画だとごくごく普通の女子大生といった雰囲気の五味さんだけれどそこはアイドルオーディションのミスiD2018から出て来た人だけあって髪型をやや短めにしてアッシュな感じに染めつつパンツのすそをロールしてハイカットのバッシュをはいてふわっと大きめのジャケットを羽織った姿はもとてつもない可愛らしさ。そして話すと訥々としていてついつい耳を傾けたくなるその雰囲気に、監督たちもヤられて起用をしたのかもしれない。

 壷井監督はネットでひとり歌う姿を見てこの子かと思い会いに行ったら本当にピッタリだったと話していたし、のむらなお監督はオーディションの現場に入ってきたら空気が変わったと話していた。本人を前にしてそれを言えてしまうくらい真剣に正面からその才能を受け止めたってことなのかも。聞いて気恥ずかしさを覚えるかとうと五味さん、衒う感じもないし臆する感じもないし淡々と受け止めているところに、なるほど大女優の片鱗なんかも感じてしまった。

 そんな五味さんというか映画では翠が廃墟を走るシーンがあって、そこを10数度リテイクを重ねて撮った時に、走りきってくれたことに壷井監督は感動していた。当人も女性のカメラマンと抱き合って泣いていたとか。そうした取り組みもあってあのチリチリとした雰囲気が終盤に漂っていたのだろう。そんな場面でぶん殴られる正哉がどうなったのかが五味さんには気がかりだったみたい。何しろ自分でぶん殴った訳だから。

そこで壷井監督、当初は拳銃が暴発して死ぬ予定だったけれど、あまり殺したくない、こういう内容だけれど死なせたくないという配慮から重傷は負ったものの生存はしているという描写にしたそうな。もちろんいろいろと重ねているから自由ではないだろうけれど、それでも罪を償ったら何か真っ当になってくれるのかどうなのか。そこは当人次第か。

 ミスiD2018の時に何か友人がおらずひきこもりぎみだったとも話していたらしい五味さんは、舞台挨拶でも大学に入ったものの行かなくなったりしていたそう。そんな時にアイドルをめざしそして映画にも出てひとつの役をやり遂げ、次の映画にも出てそしてどんどんと成長している。他にどんな作品に出ているか分からないけれど、とりあえずのむらなお監督の「男の優しさは全部下心なんですって」が3月末に高崎映画祭で上映されるそうなんで、五味未知子という未来の大女優を見るには行くしかなさそう。

 のむらなお監督自身は年内にも再編集したバージョンを劇場公開したいとか。それについて壷井監督は劇場公開されるよ絶対にと言っていた。「サクリファイス」での五味ちゃんの演技ぶりが果たして世間にどれだけ伝わっているか分からないけれど、今日の舞台挨拶での可愛らしさにその演技が是非見たいと思ったので、そうした気持ちを汲んで是非に公開されて欲しいなあ。


【3月9日】 ミクの日でザクの日だけれど初音ミクにもザクにも縁遠いので特に関わりを持たずに過ごす。アニメで見たのはNetflixで更新された「ハイキュー!! TO THE TOP」、つまりは第4期だけれど清水潔子さんの作画に全力を集中したのか他の作画がどうにも揺らいでいてちょっとヤバげ。初詣に行った烏谷高校のバレーボール部3年たちに神様なんていないけどといいつつ、神頼みなんてしなくても大丈夫だと太鼓判を押す潔子さんの真正面からの顔がとてつもなく美麗で、大地や旭じゃなくても見ほれてしまう。けど3年生の誰かと良い仲って描写はないからやっぱり牽制しているんだろうなあ、3人で。

 そんな圧倒的且つ絶対的な潔子さんの作画の後はもはやへろへろって感じで、月島が言えで何やらやっている時に覗く兄の顔とか悲惨だし、元旦の初詣から学校へと行ってはねつきをやっている日向翔陽や影山飛雄や田中や西谷らの顔もパシッとしておらずどこなく揺らいでる。あと動きもちょっと。そして動かない場面も結構。まあ大会前なのでそうしたカロリーの消費抑制もあっても良いかもしれない。これで春高バレーが始まって、試合になってへろへろな作画だと見る方も戸惑ってしまうから。何がなくても試合の時だけはとてつもない作画になるのが「ハイキュー!!」の魅力だったから。頑張れ制作会社、たとえ1階のナポリピッツァ屋はドリンクバーとサラダバーが休止になっても。

 いやそれはコロナウイルスの関係で感染予防のためだけれど、そうした飲食店とは違うアニメーション制作会社にも、発生とは別の意味でいろいろと困難が及んでいるらしい。まずはやっぱり制作体制の逼迫で、中国だとか韓国に原画だとか動画を出しているケースが多いアニメーション制作の現場で、まずは中国との交通が途絶えることによって制作が滞り、何話分かの制作がとんで放送が延期になった。「とある科学の超電磁砲T」とか。まあ1回とんですぐ再開はされた見たいだけれど、今度は韓国も含めて入国制限が始まってしまった関係で、これからの制作に大きな影響が出てくることは避けられそうにない。

 4月からスタート予定だった「RE:ゼロから始まる異世界生活」の新シリーズが7月からに放送延期になった模様で、これなんかきっとやっぱり制作体制が整えられず、遅れを見込んで延期せざるを得なかったんだろー。とはいえ1週間から2週間を置けば入国出国が可能とはいえ、何度も行ったり来たりするような動き方が出来なくなったらやっぱり滞りそう。それとも何か上手い方法があるんだろうか。これを機会にデジタル作画及びデジタル出稿なんてものが流行ったりするのかもしれない。漫画なんかだと主流になりつつあるけれど、アニメーションだと描き手がまだまだタブレットによる原画とか動画に慣れてないからなあ、って動画のペンタブ入力なんてあるんだろうか。ちょっと気になった。

 宮澤伊織さんの「裏世界ピクニック」シリーズをペラペラと読んでいく日々。2人の少女というか女子大生が百合百合しく異世界で怖い目に遭う話というより見た目よりも猛々しい2人の女子が手にマカロフやらAKやらM4やらを持ってはガンガンと怪異めがけてぶっ放すミリタリー&サバイバルといったおもむきが案外と高いなあという印象。とりわけステーション・フェブラリーこときさらぎ駅での沖縄米軍海兵隊との邂逅と、それからしばらく経っての海兵隊救出作戦でのミリタリー描写は銃器もどんどんと出てくれば、装甲車なんかも登場しては撃ちまくりの殺りまくり。それでも決して気を抜けないのは精鋭そろいの海兵隊でも裏世界では決して強大ではなかったから、だったりする。

 最初に空魚と鳥子が出会った時でも迫る恐怖から発狂して飛び出していって戻らない部隊員たちが大勢いたし、いったん分かれてから戻るまでの間に少尉だったか誰か結構な猛者がついに爆発してしまって自爆に等しい死を迎えてしまっていた。斥候に出たまま帰らない部隊員もいたりする状況はゲリラが相手のアフガニスタンとかイラクなんかりも恐ろしい場所ってことになる。そんな状況におかれたら自分だったらどうなるか、って考えるとやっぱり恐ろしい。たとえ銃器を持っていたってかなわないんだから。

 そういった物理的攻撃の恐ろしさの一方で、「裏世界ピクニック」シリーズでは雰囲気での恐ろしさを感じさせるエピソードもあって心理的にも攻めてくる。3人のおばさんがやって来てはドアを開けてくれと言い、放っておくとひっかいたり叩いたりしてドアをぶち壊そうとしてくる。いったいどうすりゃ良いんだろう。あるいは隣の部屋で何やら得たいのしれない物音がする。耳を近づけると自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、そして玄関のドアのチャイムがなったりする。

 新聞受けから入ってくるかも。あるいはレンズでのぞくと何かとんでもないものが見えるかも。そう考えると部屋から出られずかといって玄関に近づいて鍵を掛けたりもできない。そんな状況に自分が置かれたら、って考えるとやっぱり怖い。怨霊だとか地縛霊とかいった昔なじみの恐怖とは違う、由来を持たないシチュエーションがどうして恐怖を感じさせるのか。それは恐怖を感じる気持ちがいつかネットの中で凝縮して作り上げられたものだから、なんだろうなあ。そうした現代ならではの怪異と戦う時に鬼太郎だとかベムとか陰陽師とか僧侶といった旧来型の退魔師は役立たない。ならばやっぱり異能を持たされた女子大生が銃器で武装して吶喊するしかないのか。そうした描写が100年経ってどう伝わるか。考えるとちょっと面白いかも。


【3月8日】 アニメーション化が決まったので宮澤伊織さんの「裏世界ピクニック」を読み返す。ネットロアという割と新しい時代のある種の怪談なり怪異譚が発生する状況に、女子大生が巻き込まれていくといった話でどちらかといえば百合めいたシチュエーションをトピック的に取りあげる傾向があるけれど、読むとそうした初々しい関係なんかはむしろ背景に追いやられ、死地に近い場所で2人がどれだけ必死に生き延びようとしているかといった、戦友的でバディ的な関係が見えて来る。

 なるほど閏間五月なる人物が仁科鳥子にとってはある種の憧れであって崇拝の対象でもあることに、裏世界で出会って親しくなっていった紙越空魚にとってはちょっぴり苛立つ出来事かもしれない。自分の方を見てくれてたんじゃないのといった。そうした感情を百合めいた恋情で括って楽しみたい気持ちは分からないでもないけれど、それは男性どうしでも男女間でも兄弟姉妹の間でも起こりえること。頼られたいというある種の承認欲求を外される悔しさを、即座に百合と解釈して良いかは迷う。というか百合というあるシチュエーションを特別なものとして尊ぶことがどうにも苦手なのだった。

 あと、ネットロアに満ちた裏世界が危険でいっぱいで、そうした世界を生き延びる大変さを感じさせられる小説ではあるけれど、そんあ裏世界に行かなくても現実の世界がとてつもなく危険に満ちていて行きづらいようになっている現在、そこを生き延びようとあがく戦いが裏世界というメタファーの上で描かれて居るようにすら思えてきた。現れる怪異だってそりゃあ怖いし、人間が怖がることが形となって現れているようにも思う。ネットロアという人を怖がらせようとして生まれた逸話に、怖がりたい人たちの思いが乗ってなおのこと怖さの純度を増し、ある意味で教訓めいたものを含む過去からの昔話だとか伝承とは違った、純粋性な怖さを滲ませていることがあるのかもしれない。

 けれども、コロナウイルスが蔓延しても手を打たず所得が下がっても何も対策を施さない世間に牛耳られているこの世界の方がよほど生きづらいし恐怖に満ちている。そんな世界をどうやって生き延びて行くか、危地を楽しむ気持ちを持って突入しては金になりそうなものを探して漁って手にする根性を育むことが、裏世界じゃなくても必要なんだと思わせてくれる。そんな気がした。いやまあ自分がとにかく裏世界なんてものにかまけている暇もないほど、危地を生きているせいかもしれないけれど。それでもまあ、前向きになって生きていこうとちょっと思ったのは、新海誠監督の「秒速5センチメートル」を見たからかもしれない。

 新型コロナウイルスの感染を防ごうとイベントが軒並み休止となる中で開かれた、映画のまち調布シネマフェスティバルでの「新海誠監督作品上映か」。そこでは『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』『星を追う子ども』の3作品が上映されるとともに、新海誠監督を支え続けているコミックス・ウェーブ・フィルムの川口典孝代表取締役が登壇して、新千歳国際アニメーション映画祭などを立ち上げアニメーションに関する評論も行うニューディアーの土居伸孝代表とトークイベントを繰り広げるというので見物に行く。登壇したコミックス・ウェーブ・フィルムの川口代表から、「ど天才だねえ」といった新海誠監督への絶賛がひとしきり発せられる。なおかつ新海誠監督の人柄の良さも。「新海誠が純粋でいい人なのよ」。それに惹かれてスタッフが、コミックス・ウェーブ・フィルムに集まって来るという。

 かつて評判になった「ほしのこえ」は新海誠監督がたった1人で作り上げた。次の「雲のむこう、約束の場所」は外のスタジオとも協力したので人数が増えたけれど、「秒速5センチメートル」はコミックス・ウェーブ・フィルムが国内で全部作ったこともあり、メインスタッフは50人ほど小規模。「それで、これを作ってしまうんだから」と『秒速5センチメートル』を指し、「天才だ」と繰り返す川口代表の言葉は心底からの称賛が感じられる。

 土居伸彰さんが新海誠監督について「人柄を悪く言う人がいないんですね」と問いかけると、川口代表は「あのまんまなのよ、何も変わってない。俺もこのまま」とざっくばらんな雰囲気で語りつつ褒め讃える。良いコンビネーションを感じさせる。そんな川口代表に「信じられないリスクを背負いながら世界に羽ばたかせたんですね」と土居さんが水を向けると、川口代表は上映されたばかりの「秒速5センチメートル」を指して、「これ、僕が借金して作っているんです」と振り返った。

 大変だっただろう。けれども「終わると全部の権利が残る。アニメーションスタジオって作れば作るほど赤字になるけれど、こうやって過去作品のライセンスが赤字を埋めてくれる。この時の決断は合っていたね」。今では世界中にファンがいて、大好きな作品だと言ってくれる映画になった。配信もされ上映もされることによってライセンスが戻って来る。結果論だけれど確かに良い決断だった。

 ちなみに最初、25、6歳くらいで「秒速5センチメートル」を観た土居さんは、なんてひどい終わり方だと思ったそう。それが今観ると違った印象を受けたという。理由は、「天気の子」なんかとも共通しているように、どれだけ酷い状況に自分があっても、そして世界はあってもまた春はめぐってくるし、ちゃんと生きていけるんだという雰囲気が見えたから。それは自分もそうだった。 踏切で出会っても声をかけず明里と分かれる貴樹の生き様に、絶望を見ることは可能だけれど、そうやって踏切に背を向け前を向いた貴樹は「電車が行った後ににやっとしている」と川口代表。そんな貴樹の姿から、自分には自分の生き方があってそれを進んでいくだけだという自覚を促す映画なんだと、今になってやっと思った。

 もちろん「澄田にしとけ」とは思うし、入って辞めた会社で付き合っていたという眼鏡の女性も良いじゃないかと思うけれど、それを悔いても振り返っても意味がないなら今の苦しみも受け入れつつ、生きていくことに前向きになるしかないんだと決意しよう。そんな思いが浮かんだ。

 質疑応答もあって、会場から「天気の子」が気象状態の大変だった去年に公開されたことに、新海誠監督が何を思って話していたかについて尋ねられた川口代表。「企画が3年前の2016年で、今年がこうなるとは誰も思ってはいなかった。気付き始めてはいたかもしれないけれど、世の中に追いつかれてしまった」。だから偶然としつつ、「それで心痛める人がいるかもしれないので、真摯に答えるようにしている。ただ、気候変動は起きているけれど、今の子どもたちにとってはあれが普通になっている。夏になれば大雨が降るとか。そうした時代に自分たちの正義を貫いて欲しいというメッセージだと答えていた」と川口代表。諦めるとか流されるとかではく、それでも訪れる“春”を見据えて1歩1歩生きていく。同じなのだだ、「秒速5センチメートル」と。<BR>
 宮崎駿監督が映画で描くため、街角で少女を観察しているような話があるけど、新海誠監督は若い人の気持ちをどうやってくみ取っているのかという問いには、「何か特別に、張ったりとかはしていない」と川口代表。「エネルギーがすごい。インプットの時期がある。観察しているんです。インドに行っても、知らない間に吸収している。だから出てくるんです。特別な何かはしてないけれど、旅に出たりはしています」。観察する気持ちと感じ取る感性。それらがずば抜けているんだろうなあ。 なおかつ「肯定感があるんです。地球は美しいといったような」と川口代表。「世界は美しいんです」。

 ここで『秒速5センチメートル』の貴樹が、踏切で明里を瀬にして笑うシーンを挙げ、「会社は辞めても春は来る。桜は綺麗で素晴らしい。素晴らしい男だね」。好き合っていた筈の男女が、時間を経て社会の波にも揉まれて分かれてしまう哀しい映画だと思われていた「秒速5センチメートル」が、実は達観を得られる映画なのだと今、改めて思わされただからだろう。オーストラリアの火事に対して、かつて『秒速5センチメートル』が出品されたこともあった映画祭から何か支援を求められた時、川口代表は『秒速5センチメートル』のその最後のシーンをプリントしたTシャツを作って送ったらしい。売って支援に変えてくれと。「火事があっても、それでも春は来る。日本だと桜が咲く」。だから……。今また大変な出来事が相次いでいる。そんな時代に「困難だけれど、力強く生きていきましょうと、新海誠はそう思っているはずです」と川口典孝代表。私たちもそう思って生きていこう。


【3月7日】 土曜日なので仕事はなく来週の出稿に向けて本を読む日に当てようと思いつつも寝転がっているとお腹が出てくるので起き出しては昨日、アップリンク吉祥寺で「サクリファイス」の前に観た八代健志監督による「ごん−GON,THE LITTLE FOX−」の上映で、安代監督が登壇して行った舞台挨拶的なものをまとめて脳を活性化させる。まず文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門で「ごん−GON,THE LITTLE FOX−」が優秀賞を獲得したことが紹介され、監督はとても嬉しそうだった。

 ちなみに大賞は「海獣の子供」で、これもやっぱり嬉しい話。もちろん他に優れたアニメーション映画もテレビアニメーションもあったけれど、パワーで図抜けていた感があったので毎日映画コンクールのアニメーション映画賞に続いての戴冠は喜びたい。「天気の子」は残念だけれど日本アカデミー賞のアニメーション映画部門で最優秀賞を受賞していたからそちらはそちらで。他にもう1つ2つ取れたら良いんだけれど。商業バリバリであっても中身も優れた作品だからやっぱり誉めてあげたいのだ。

 答えて八代監督。「『ごんぎつへ』とはお互いに相手のことを思っているんだけれど、結果がすれ違ってしまうというタイプの話。そういうのがツボに入って弱いんです。『賢者の贈り物』(O.ヘンリー)とかが好きだったんです。ただ『ごんぎつね』については、小学校の時のことはあまり覚えていません。二十歳を過ぎたころ、自分も映像を造るようになって、『ごんぎつね』を読んで小学校の頃に覚えた印象と違ったんです。大人の理解力で読んでみたら、深くていろいろなことが見えてきました」。

 たぶん、今の自分とかが読んだら違う印象を受けるのかと言われると、そもそも小学校の頃に読んだ印象を覚えていないのでわからないけれど、映画を観て受けた感慨やどうしてすれ違ってしまったんだろうなあ、あそこでああなっていたらなあといったポイントが浮かんで、けれどもやり直せない時の残酷さにちょっと寂しくなる。目下、やり直したいという気持ちに引きずられがちな暮らしを送っているだけに。

 八代監督は、10年くらいの間で読んだからまだ前に受けた印象との違いが気になったのかもしれない。「いつかこういう感じのお話を作ってみたい。作者のリスペクトはするけれど、ぼくなりの解釈をして作れば小学校の時のぼくには届かなかったものが出来るのでは」。そんな考えから『ごんぎつね』の制作を思い至ったもののなんやかんやで50歳近くになって、ようやく機会を得て「『ごんぎつね』はどうか」と作ったのが今作、「ごん−GON,THE LITTLE FOX−」ということになるという。

 「お話をくっつけたり、解釈を変えている部分はあります。新見さんが作ったものについて、いろいろな人のとらえ方があります。ひとつの見え方としてとらえてもらえればいい」。そんな解釈があったという『ごん−GON,THE LITTLE FOX−』だったけれど、ストーリーとしては印象に残る『ごんぎつね』と同種で、やはりすれ違いの悲しさが浮かんでごんも兵十もかわいそうになってしまった。

 そこからは質疑応答に。まず「レイアウトが印象的で、クローズアップとか画角、カメラワークが特徴的」といった指摘があって、これについて八代監督、「ストップモーションアニメーションは昔からありますが、大きなカメラがあって舞台セット、ステージを撮っていく感じで作っていくのを元に発展してきました」と説明。どちらかといえば演劇を観ているような感じで流れていくものになるという意味合いだと思ったけれど、これが「ぼくがストップモーションをやり始めた頃から、カメラが小さくなって軽くなり、人形やセットの間に入れていけるようになった。安定した美しい絵作りよりも、アクティブで中に入り込んで感情移入できるような絵作りが出来る。そうしようと考えました」。

 寄ったり引いたり回したり。実写に近いカメラワークでなおかつすべてを計算して繰り上げられる。3DCGのアニメーションでもそれは可能だけれど、そこにストップモーションアニメーションというすべてが手作りの人形や舞台が持つある主の物質感、そして光の生々しさが乗って得も言われぬ雰囲気のものが出来上がったのかもしれない。「ごん−GON,THE LITTLE FOX−」を観ていると、草も木も家も魚も動物も空もすべてが呼吸しているように見える。CGではできない……訳ではないだろうけれどそこの微少な差、単に思い込みであっても思い込ませる何かがストップモーションアニメーションにはあるのだろう。

 続いて声はいつ収録したのかといったところで、「映像の前に録りました」と八代監督。自分で台詞をしゃべってだいたいの時間を決め、紙芝居的な映像を用意してコンテをビデオに取り込み台詞をしゃべっていくのを組み立てたという。とはいえ感情が大事な作品だけあって、声優さんも状況がわかっていないと演技ができない。そこはたとえばラストのシーン、「『お前だったのか』という印象が強いが、そこでラストカットを引いている」といった指摘があって、クローズアップで表情をとらえたところに感情を乗せた台詞をしゃべるのではなく、引き気味に驚きと後悔と落胆が漂うような静かな台詞を、コンテを見た上で入野自由さんは発したらしい。そう思い見返すとまた違った印象が浮かぶかもしれない。

 そして八代監督、「『ごん、お前だったのか』は有名な台詞でそのまま使いました。もうひとつ、原作では『青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました』という台詞があります。物に寄っていって考えさせていく文章であり絵が浮かびますが、この話を考えた時、ぼくはこの話をもうちょっと、大きな視点で描きたかった」と説明した。「世の中に悪いことが起きてしまうけれど、悪意があるんじゃなく、そういうことが起きてしまう。そのひとつ」として物語をとらえ「『ごんぎつね』はこう終わるが、知らないところで同じような日常が繰り替えされる。そんあ読後感を狙い、つつ口に寄っていくのではなく、大きい終わり方を録りました」。原作を読んで映画を観て、受ける印象の違いというのを今一度、感じてみたくなってきた。

 そんな「ごん−GON,THE LITTLE FOX−」に登場する人形もセットもすべて八代監督による造形。「美大で物を作っていたから、絵を描くのも物を作るのも好き。何かどこかで作品を作る時、自分が作った物を使いたかった。木で人形を掘るのは、主役の俳優を自分で作っていけるから。神さまになれるんです」。2Dのアニメーションを絵で描くのもある意味で神さまになれるからだけれど、商業ではそれが動画で割られセル画なりにされて印象が大きく変わってしまう。

 最近でも某深夜アニメの有名アニメーターによる修正原画を整理して、キャラクターの表情の豊かさにさすがだなあと思ったものの、場面を確かめるために観たアニメーションではそうした生命観が飛んでいた。目が死んでいたというか。それも含めてアニメーションではある一方で、自分で描いた絵を撮り重ねていく、あるいは人形などを自分で作り自分で動かし自分で撮るこうしたアニメーションは、すべてを自分で差配できる。実力も必要だし時間もかかるけれど自分が出せるという意味で、やはりクリエイターにとって誘われるものなのかもしれない。そんな人形やセット類はアップリンク吉祥寺に展示中。観れば作り込みの細かさに感嘆。それだけで生きているように思える人形が、動いてさらに声まで乗って本当に生命を吹き込まれる様を、劇場で確かめよう。

 藤井聡太七段がプロ棋士となった時の騒ぎに比べていささか小さい気もするけれど、個人的にはこちらの方が歴史的に大きな出来事になりかねないと思った西山朋佳三段による四段プロ棋士昇級をかけた三段リーグ最終日、最初の対局に勝って13勝3敗としたものの同星に順位では上の棋士がいたため、次の対局を両方が勝てば次点となって上がれない。もちろん負ければ終わりの将棋に臨んだものの、最終局で上位にあった服部慎一郎三段もしっかり勝って昇級を決めて西山三段は次点に留まった。

 順位戦なら頭ハネって奴で残酷だけれどそれがルールだから仕方がない。ただ次も次点となれば2回でC級ではないもののフリークラス入りでの四段プロ棋士にはなれる。もっとも魔の三段リーグで2度も次点をとのもやっぱり至難の業なので、それは最後の手段として勝ち星を重ねてしっかり2位以内に入ってプロ棋士になって欲しいもの。それだけの胆力とそして何より棋力は持っていると思うから。ここで上がっていれば白鳥士郎さん「りゅうおうのおしごと12」の中身を地で行く展開になったんだけれど。やっぱり白鳥さんの小説の方がしばらく先を行っている。それはだったらやっぱり実現するという話? だと良いな。


【3月6日】 「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の片渕須直監督が何か唐突に朝日新聞のGLOBE+に掲載されていて、そこでの記者とのやりとりとか言ってる内容がちょっとした話題になている。要約するなら映画祭なんかに出てくる世界のアニメーション映画の潮流はドキュメンタリー的なものになっていて社会性やら政治性やらを帯びていたりもするけれど、日本からはいつも変わらないジャパニメーション的なものが出て来て審査員からやれやれと思われているという話と、そして日本には純粋に子供向けのアニメーションがなくなってしまっているという話。あの「若おかみは小学生!」ですら海外では子供向けとは思われず、日本のアニメが好むオタク層に向けたものだと見なされているのにはちょっと驚いた。

 ドキュメンタリー的なアニメーションの隆盛については、1月に表参道のボルボショールームなんかで開かれた土居伸彰さんとの対談も含め、最近の片渕須直監督が登場したイベントなんかで散々話されていたことだから、こちらとしては気にはとめなかったけれどもそうした潮流をいくら訴えても、すぐに日本のアニメーション事情が変わるはずもなく、しばらくはやっぱり青春だとかを切り取ったアニメーション映画が作り続けられていくんだろう。それが悪いという訳ではない。日本では立派に興行的に成功しているものもあるし、ファンが熱心に見るものもある。ただ、世界というマーケットを考えた時にやっぱりそれでは範囲が狭くなる。

 賞というある種の看板も得られないまま、取り残されていって良いのか。それが将来に亘って日本のアニメーション業界にとって幸せか、って考えた時にやっぱり違う選択肢もあって良いように思う。ただ、そうした作品が作られる土壌が日本にはない。かろうじて片渕須直監督が「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」で示してはみせたけれど、続く人がいるかというと……。新海誠監督が歳を重ねていけば今の若い者向けに社会性のあるメッセージを贈りつつもエンターテインメントに仕上げる腕を、社会の中核にぶつけてくるようになるのかな。細田守監督が内省へと向かい原恵一監督が本領を発揮できない中、数の論理を背後に持った新海誠監督にかかる希望が大きい。

 もうひとつ、純粋な子供向けのアニメーションがないっていう指摘は、例えばテレビ向けに玩具メーカーが宣伝の一環としてスポンサードしつつアニメーション制作会社がそこの主題やメッセージを込めて描く作品が子供向けとして機能しているといった意見は出るだろう。そういったことは片渕監督も承知だけれどそこでもやっぱりシリーズの長期化が言われ新しい作品が出づらくなっている。「シンカリオン」だって終わってしまった。あとは「まんが日本むかし話」とか名作シリーズとか、そういったのが作られづらい状況に苦言もあるのだろう。

 「名犬ラッシー」を手がけた片渕須直監督らしい感性。ここに例えばNetflixがキッズ向けプログラムの拡大として手を出せるか。配信プラットフォームが子供層にも広がれば、それもあるかもしれないなあ。安心して見せられる安全なアニメ。それを求める親がいるなら。そんなこんなでいろいろと思ったインタビュー。そうしたことはちゃんと指摘されているから、引き出したといえば引き出したインタビューではあるんだけれど、ブリッジとしてだったら今のアニメは誰のために作られているのかといった現状を、挟まないからとっちらかる。構成をせず思いついたままに尋ね、帰ってきた言葉を羅列していっただけの生素材。これを構成しないのが主義なんだろうか。それで相手も自分も伝えたいことが伝わらないのは勿体ないよ、まったく。

 新型コロナウイルスの蔓延を防ぐために空間に余裕を持たせる意味から出勤を抑えて家で夕方までごろごろ。これでは体も頭も鈍るので、吉祥寺アップリンクで今日から公開が始まる壺井濯監督の「サクリファイス」を観に行く。上映前に舞台挨拶があって、大変な時期に重なってしまったけれどもこの映画を公開するならこの時期だと決めていたと壷井監督。それは3.11がとても深く関わっている映画だからだったりする。

 とある新興宗教団体の施設で少女が母親と共に来ていてそこで津波めいたものを見たという。2011年3月5日のこと。それから6日後に起こったことをわたしたちは知っている。そして7年後、教団の施設を逃げ出した翠という名の少女は大学に通いつつ、そこで起こっている猫殺しに関わっていく。最初に311の文字とともに猫が殺され、そして相次ぐ猫殺しのそばにカウントダウンされた数字が残されていく。

 何のため? 不明ながらもそんな事件に関わっていそうな大学生が登場する。沖田。河川敷で仰向けになった女性の死体を見下ろすシーンが描かれ、そして大学で塔子という学生からつきまとわれて猫殺しの事件が記録されたスクラップブックを持っていること、猫の痛ましい画像が入ったUSBメモリを持っていることを理由に犯人かと疑われる。そんな塔子には正哉という彼氏がいてその正哉は目下就活の真っ最中だったりする。

 普通のよくある大学生の彼女に彼氏といった関係に見えるけれど、そんなリアルに充実した生活にありながら塔子はどうして沖田に興味を持ったのか。猫殺しという事件に関心を抱いたのか、といったところにひとつ、2011年3月11日のあのとてつもない出来事を経ながらも身の回りの世界が特段に変わったことはなく、普通に暮らして普通に進学して普通に就活しなくちゃいけない日常が、だんだんと迫っていることに何か考えるところがあったみたい。

 特別なことなんて起こらない。たとえ巨大な地震と津波によって生活が無茶苦茶になった人たちがいても、そして遠くの国で戦争が起こって爆撃があって虐殺も起こって貧困に塗れる人たちがいても、この国に暮らす大多数の人にとっては向こう側の出来事に過ぎなくて普通の暮らしを送っている。それは幸せなことじゃないか。とても嬉しいことじゃないかと言われてそうですと思いたけど、それでは満足できない気持ちが一方にある。刺激のある非日常への憧れというか逃げ出したい気持ちが塔子を動かす。

 だったら沖田は刺激のある毎日を楽しく送っているのか。翠は宗教団体が崇めその系譜を受け継ぐ団体に追われてもやはり刺激があって楽しい毎日なのか。そんなことはないだろう。自分という人間が決して普通ではないことを知っていながら、普通になろうとはしない、醒めたような面持ちで日々を過ごす沖田も、見る夢の中で過去に追われ未来を恐れながら生きている翠も、その毎日を幸福だとは感じていない。

 どちらがより幸せなのでもなければ、より不幸なのでもない。境界のこちらがわで普通の日常にもがく塔子のような人たちも、向こう側で居たたまれない気持ちを抱き続ける翠や沖田、あるいは<しんわ>と名を変えた宗教団体の残党たちも、総体としては違わず地球という上の世界という舞台で時間という流れの中をただ流されて言っている。そこに大差は実はない。ないけれども個々においては過去の刺激が忘れられずに今を踏み出したいと思う人、過去の苦みを逃れたいと願う人が入り交じってそれぞれに思いを抱えて生きている。

 「サクリファイス」はそんな世の中の有り様を浮かび上がらせてくれる映画のような気がした。社会に出てある程度は達観をして迎えた311でも現実と非現実とが入り交じってどっちつかずの感覚を引きずっている者がいるのなら、若い心で世界の崩壊、人心の荒廃を見た人たちは心にいったいどんな傷を刻まれているのか。当事者であってもそうでなくても感じたさまざまな傷を浮かび上がらせ、そこからどちらへと向かっていこうとしているのかを考えたい。


【3月5日】 新作アニメーションから「プランダラ」の最新エピソードをNetflixで。冒頭こそ湖畔にある街にやって来たジェイルとリリィが紫色の煙が溜まった穴に変わった湖に驚き破壊された街に戦きそして生き残りが口にしたアビスの悪魔が現れたといった話にどういうことかと思案する、シリアスな展開が繰り広げられたけれども途中から、空を飛ぶ悪魔の話をすり替えるようにジェイルがリヒトーを疑いつつ、彼は跳ねるだけで飛べないといった結論から犯人ではないと認め、それでもやっぱり怪しいといって挑みかかったところを仲裁役から飲み比べを提案される。

 そして始まる高濃度のアルコール飲料の飲み比べ。若いリリィがちょっと舐めただけで酔っ払うような酒をジェイルとリヒトーがビンからラッパ飲みしていく展開が、ひたすら続いて最初のシリアスは何だったんだ、アビスの悪魔はどうなったんだと呆れ帰るやら迷うやら。そんな2人を見つつ陽菜ばかりをかばおうとしたリヒトーにリリィが不満げな気持ちを見せて恋焦がれる乙女を演じたりして、どんなラブコメなんだと辟易としはじめたラストもラストで、ジェイルやリヒトーがいる街にも穴が現れ紫色の煙がたなびき、そこから奇妙な音が響き始める。

 バラバラバラバラバラバラバラバラ。そんな音。何かが回るような。そして現れたのは、ってあたりでファンタジーがどうやらSFっぽくなって来た。時間の移動なんかも含まれたりする展開があって、そして大きく物語が動きそうだけれど、そこまでにすでに8話くらいを使ってしまっていて残り1カ月でせいぜいがファンタジー編の終了までしか行きそうもない。それとも2クールで過去編というか現代日本編へと続いていったりするのか。そこがある意味で「プランダラ」という作品の胆だったりするから、やっぱりテレビアニメにはなって欲しいよなあ。カロリー低めで面白がらせつつしっかり話は進めているから、昨今の新型コロナウイルスによる制作体制の崩壊の影響も受けずに作られていると思いたい。いやそれ誉めてないし。

 新型コロナウイルスの蔓延を防ぐ意味から働く人数を絞るといった観点で出勤を遠慮しつつ歯医者にも通わなくちゃいけなかったこともあって地元でうろうろしていた水曜日に、フレッシュネスバーガーにこもって土日に全巻を読破した日向夏さんの「薬屋のひとりごと」を紹介する文章をリアルサウンドブック向けに執筆リアルサウンドブック向けにどうにかこうにか書き上げる。といっても長居をするのも憚られたので3時間ほどで(十分長居じゃん)場所を変えてドトールに入ってそこでとりあえず体裁を整えつつ、真ん中のパートを残してとりあえず打ち止めにして、そして起きて仕事場へと向かう地下鉄の中で書き残した分をどうにかこうにか書き足しつつ、最後は三鷹駅にあるプロントでベーコンエッグが乗ったトーストをかじりながらフィニッシュへと持ちこむ。ああ疲れた。

 そんなに長くなくても良いはずなんだけれども中華風のファンタジーとか他の類例を混ぜていたらどんどんと長くなってしまって果たしてこれで良いんだろうかと思ったものの、スペースとか気にせず書きたいことが書けるうのがネットなら、それで原稿料が変わらなくたって関係ないと割り切りそのまま出稿。無事に掲載されたみたいでまずは善哉。これでキャラクター小説系でも増えている中華風のファンタジーとかロマンスなんかに関心が向かって、そして個人的に大好きな「紅霞後宮物語」が映像化へと向かってくれれば嬉しいんだけれど。アラサーで軍人上がりの女性が皇后になって皇帝を助けて戦う話を映像で見たい人がどのあたりにいるか、今ひとつ分からないけど人気ってことはいるんだろうなあ。いっそNHKでドラマ化しないかなあ、「精霊の守り人」みたいに。

 意味不明というか、とっくにやっていなくちゃ無意味な新型コロナウイルスの発生地からの入国禁止を相手が強権でもって2週間の外出禁止とかを行い、どうにかこうにか抑えて来た今ごろになって実施するとか、いったい何を考えているんだといった印象。むしろ向こうが目下猖獗を極めている日本からの入国を禁止するのが当然と思われるけれど、そっち方面に意識がある人はやられたらやり返せ敵な発想というか、悪いのはそもそも向こうなんだという考えでもって日本の方針を支持するからやっぱりどうにも心が揺れる。これで専門家による会議で決定されたならまだしも、一部の作家あたりが愛国心めいたものを吹き込んで実施させたのだとしたら、この国もいよいよヤバいと官僚も閣僚も引導を渡す方に走った方が良いと思うのだった。


【3月4日】 野田秀樹さんが“演劇の死”という言葉を使って劇場に、演劇が出来る場を維持して欲しいとお願いし、劇団に、演劇を続けて欲しいと激励し、そして公演を行う劇場や劇団を非難しないよう呼びかけていろいろと話題になていたけれど、それで頑張っている紀伊國屋ホールみたいなところもある一方で、近鉄百貨店が運営に携わっている大阪の近鉄アート館は政府の新型コロナウイルス対策発表を受けてしばらく休館が決まったみたい。これで東京では公演が続行しているスタジオライフ×東映ビデオによる舞台「死の泉」が大阪では公演できなくなるかと思ったら、場所を変えて公演を行うことになったようでこれは善哉。

 ただ会場が、322席の近鉄アート館から大阪城のそばにあって1118席もあるCOOL JAPAN PARK OSAKA WWホールになって、いったいどうやって埋めるんだろうといった関心がひとつ浮かぶ。スタジオライフが過去にやった演劇で最大規模といったら大阪は梅田芸術劇場シアター・ドラマシティの900席ほど。東京だとシアター1010とか天王洲銀河劇場の700席ちょっとが最大に近いから、それらを上回ってこのご時世に観客を動員しなくちゃいけなくなる。いやいっぱいは無理でも幅の広い舞台を使った劇ではないだけに、見せ方にも工夫が必要。そうした空間をどう使うか。演出家も考えるだろうなあ。その成果をのぞきに行きたい気もするけれど……。考えよう。

 自粛といえば小中高の学校がいっせいに休校になってやることがなくなった小中高生が街に溢れていたりするといった話があって、そうした子供たちが遊ばないようカラオケボックスだとかゲームセンターに昼間、立ち入らないよう呼びかけているそうだけれどそれでおとなしく家で自習をしている子供がいるかというと、そんな生活リズムも空間もない子供たちはどうしたら良いか迷ってしまうだろう。図書館に行きたくても仕舞っていたり入場制限がかかっていたり。だったら映画で教養でもと思ったら、TOHOシネマズはそうした小中高の来客を断る可能性を示唆してた。

 衛生に自信がないならすべての興行を止めなくちゃいけないはずだけど、そうでもないなら子供たちに的を絞った来店拒否。そうした態度が許されるか否かは法的には分からないけど、中には文化的教養的に優れた映画もある訳で、それを課外授業的に見てもらうような施設をここで打ち出してくれば教育番組を配信するNHKとか、無料放送に切り替えるアニマックスなりキッズステーションなりへの評判を自分たちも受けられるだろう。どうせ公開が延期されて小屋があくなら、そうしたプログラムを掻き集め、席を空けつつ見てもらうなんて施策を打ち出せば良いのに。

 雨で戻った寒さに鬱々とした気分も増して布団から出づらくなっていたけど、届く荷物もあるし昼過ぎからは歯医者もあるでそれに間に合うようには起き出し、新刊が入った荷物を受け取りそれからどうにか部屋を出て、近所にある歯医者へと行って1カ月ぶりの歯周ポケットのチェックを行う。前はもう酷い状況で、リステリンさえ毎朝毎晩ぶくぶくやっていれば大丈夫だろうとブラシを使った歯磨きから逃げていたこともあって、すべての歯にプラークがこびりついて歯茎も腫れ、チェックのために器具を入れればどこからでも血が出る状態になっていた。きっと匂いも酷かったんだろう。

 そこから1カ月。歯磨きも欠かさず歯間ブラシも時には使ってプラークを抑え、そして歯科医で除去してもらったこともあって、歯茎の炎症はそこそこまでに収まり見える部分のプラークもどうにかとれたみたい。歯間にまだ残っているようで、それは歯間ブラシをうまく使うことでだんだんと減っていくとか。頑張ろう。それでもやっぱり歯茎の中に歯石が残っていたりするようで、それをこれから6回くらいに分けて順々に削っていくことになるという。ちょっと痛いらしいけど、虫歯になって歯そのものをガリガリと削られるよりはマシだと思いたい。

 毎日のブラッシングによって歯茎の腫れが引き、頭だけでも見えるようになった歯根の歯石をこのタイミングで除去しておくことで、後はブラッシングなどのケアを続ければ健康が保たれるというなら今、やっておくしかないんだろう。なあに時間だけならたっぷりあるし。あるし。そして歯医者を出てお仕事かというと、それほど広くない空間にわしわしと人が入って紙をいじったり段ボールをまとめたりすると、やっぱり濃厚接触も避けられないということで、しばらくは人が集まりすぎないように出向く日を調整することになったみたいで今日はお休み。

 船橋市からも患者が出たというからあるいは自分もいつかどこかで? 可能性はゼロじゃないけどそれを気にしていたら外にも出られないので手洗いを欠かさず睡眠もしっかりとりつつ近所のフレッシュネスバーガーでテカテカと原稿を打つ。上手く自分に書けるかなあという不安が先に立つのはなかなか収まらないけれど、それはいつものことだから仕方がない。自分の書く一文字一行一文が世界でもっとも素晴らしいと確信が抱けるようになるのは何時だろう。そんなライターっているんだろうか。気になってます。

 ありゃりゃのりゃ。安倍晋三内閣総理大臣と親しいとされている加計学園が特区をもらって作った獣医学部を受験した、韓国からの学生が10人とも不合格とされていた件で週刊文春が10人とも面接の点数がゼロにされて、ほかの教科でそこそこの点数を取っても合格にしてもらえなかったとすっぱ抜いている。数学とか英語で満点近い点をとった学生が、どうして面接で0点なのか。日本語が不自由だったといった言い訳がされているけれど、試験問題は日本語で出されているからコミュニケーションが不足だなんてことはない。だいたいがそれでそろって0点ってありえるのか、10点でも付けられなかったのか、ってところで今後またいろいろ話が出てくるんだろう。総理大臣は果たしてどう言い訳するか。文部科学相はどう対応するのか。見物だねえ。


【3月3日】 ネットだから1週遅れくらいになているけど「ID:INVADED」はイドの中のイドに潜った酒井戸が自分は鳴瓢秋人だと理解し、遡っていた時間の中でかつて追ってた事件というか、娘を殺害された事件の犯人をその事件の前に直接抑えて正当防衛という名目て排除に成功。そして存命の娘と妻といっしょに暮らし始めるといった展開だけれどそれが実は現実だったなんて甘い展開には向かいそうもないところが残酷というか。どれだけの入れ子が構築されているのか。そしてジョン・ウォーカーとは何者なのか。そこに向かって収束していくこれからのエピソードが待ち遠しい。早く見たいけど配信を待つしかないんだよなあ。テレビ買うか。

 安倍総理がどれだけ日本は韓国やイタリアに比べて新型コロナウイルスへの感染による発症者や死亡者が少ないと訴えたところで、世界から見れば格段に多いうちの1国って映っている感じ。その上に対策が後手後手で有効性がアピールできていないこともあって、世界からは新型コロナウイルスの発信源と見なされていたりするっぽい。そのためかインドが現時点で発行されているビザでは日本人は入国できないと言い出した。しばらく様子を見た上で再発行をするのか当面は入国を禁止するのか。インドだからといって今はIT産業も活発で行き来だてあるだろう。そうしたビジネスが途絶えてしまう可能性が出て来た。

 これがさらに東南アジアや欧米へと広がっていくと日本の孤立はますます深まる。すでに一大生産地である中国との交流のシュリンクによってさまざまな影響が出ていたりする。アニメーションだと制作を投げられず制作できず放送が休止されるとか。中国が頑張って感染を抑えてどうにか立ち直ったとしても、今度は日本が発生源と見なされ中国から入国を制限されたらいったいどれだけの影響が現れるのか。想像するほどに恐ろしい。それもこれも……って言い出したところであの御方はやってます頑張ってます国民も頑張って下さいとしか言いそうもないからなあ。

 でもって現場に丸投げして真っ当な施策が打ち出せないまま時間ばかりが過ぎていく。会見という名の広報イベントでは正規も不正規も共に保証が得られるようにするぜってアピールしていたけれど、どうやらフリーランサーは保証はされず融資が受けられる程度で終わりそう。つまりは借金しやすくなるってだけで、それは返さなくちゃいけないお金だし返せるあても当面はない。だて仕事がないんだから。そんな施策が目立ってくれば流石に世間もこれはやっぱりヤバい奴だと気付いてくれるかどうなのか。いやとっくに気付いてくれてなくちゃおかしかったんだけれど、それだけにやっぱり頑張ってるなあと受け入れられたりするのかも。やれやれだ。

 新型コロナウイルスの感染防止でイベントとか中止になっている割に、近距離で向かい合って行う将棋の対局なんかは続けられている感じ。まあ1つの部屋に対局者が2人で記録と立会人がいたりするせいどだから濃厚ではないけれど、人によっては黙ってばかりじゃなくてしゃべくり倒す棋士もいるかもしれず、そういう人が向かいにいたらやっぱり気になって手も浮かばないかもしれない。だったらということでDENSOが作った電王くんというロボットアームを使って部屋の隅に分かれた棋士たちがリモートで指すことになったら愉快だけれど、それはさすがにないよなあ。操作ミスで2歩とか秒読み切れとか起こしたら勝敗に関わるし。

 LINEの文芸進出としてLINEノベルの立ち上げとLINE文庫およびLINE文庫エッジの創刊なんかとともに発表された第1回令和小説大賞が決定。4000作以上にも及んだ応募の中から「きんいろカルテット!」なんかで知られる遊歩新夢さんが「星になりたかった君と」で見事に受賞し、賞金の300万円とそして書籍になる権利、さらには映像化される権利を手にした。映像化っていうからアニメ化かとも思うしアニプレックスが参加しているからその可能性は高いけれど、新星の発見をめぐる少年と少女の交流なんかがテーマになっているから、あるいは実写なんかでも良かったりするかもしれない。アニプレックスは配給を手がければそれはそれでと。

 「きんいろカルテット!」は「響け!ユーフォニアム」なんかと同様にユーフォニアムを吹く中学生の少女が主人公で、プロだけれど今は教官となった青年の下で練習をして上手くなってコンクールだかフェスティバルだかに出るまでになるといった、部活ものの青春ストーリーが繰り広げられている。それ単体でも存分に映像化への期待がかかる作品だったけれども、ライトノベルというフィールドではなかなか評判になりづらかったのか、目立たないまま続く「どらごんコンチェルト」も続刊が出ないまま新作が途絶えていた。実力がない訳じゃない。でもマッチしないのが今のマーケット。それだけに時代が巡って来るのを期待していた。

 それが大きな賞を獲得という形でめぐって来た。これで過去作まで注目されるかっていうと、厳しいかもしれないけれども読まれる機会が増えれば気になる人も出てくるだろう。あるいは出し直しなんて動きもあったりするかも。むしろこっちの方が映像化しやすいとアニプレックスが飛びついてくれれば嬉しい限りだけれど、そういう展開はあるかなあ。ってかLINE文庫やLINE文庫エッジが春にかけてシュリンクしているようにも見えるのだった。Yahoo!の運営会社との合併を控えてあれやこれや事業を整理したりする中に文芸もはいるか否か。そんな可能性もある中で第2回は開催されるのかどうなのか。見えない怖さはあるけれども少なくとも第1回は行われアニプレックスと日本テレビが目をつけた。後はそこが引っ張っていってくれればと期待するしか今はない。何はともあれ遊歩新夢さん、受賞、おめでとうございます。


【3月2日】 「あにめたまご」の一般向け上映中止で察してはいたけれども、東京アニメアワードフェスティバル2020が昨今の新型コロナウイルス蔓延を防ぐ自粛要請の中、やっぱり開催が中止になったみたいで、その公式発表が行われた。映画館は換気が行き届いているから感染リスクは小さいといった話もあるけれど、この春に公開予定の映画が続々と公開延期になるくらい、映画興行への影響も出始めている中で敢えて開催を強行して、印象を拙くしてはアニメーション業界としても嬉しくはない。繁華街での開催だけあって移動のリスクも伴うし、海外からの参加者も不安を覚えているならここは中止にすべきって判断もあったんだろう。残念だけれど仕方がない。せめて贈賞と功労者顕彰はして欲しいなあ。季節が良くなったら。2011年は3月に実施できなかったから秋に開いたんだよなあ。

 オギャ本バブ美、だなんて筆名がどうにもこうにも摩訶不思議だけれども作品事態はハードでシリアスなタイムリープSFアクション。その名も「デッド・エンド・リローデッド 無限戦場のリターナー」(HJ文庫)は夕陽という名の傭兵が、研究機関がある空中から出現するヒトガタなるマシンを相手に自らもヒトガタを駆って戦い敗れては死に、そして巻き戻された時間の上で同じように出現するヒトガタを相手にした戦いを繰り返していくストーリー。いつもから名ズ鴛鴦契那という11歳ながらも時間を操作する技術を編み出した美少女科学者が殺害されてしまうため、どうにかして救おうといろいろと模索するもののうまくいかない。

 最初は敵の出現を信じてもらえず、そしてどうにか理解はしてもらえても相手が強すぎて撃退できずにやっぱり殺害されてしまう。夕陽自身は実は殺害の対象ではないらしいけれど、契那が殺されるのはやっぱりかなわないと自らの死をトリガーにしてタイムループを招いて過去へと戻って同じような戦いを繰り返す。そしてどうにかこうにかたどり着いた戦いで、ヒトガタに乗っている者の正体とその目的を知る。それは……といったところでなかなかに驚きの展開があって、そこで果たして勝って良いのか、勝つべきなのかといった問を投げかけられる。

 たとえ過去に戻ってそこで違う展開を得たとしても、さっきまでいた時間軸から先が変わることはないという解釈。つまりは未来から来た者の目的は果たされていてそこでどういった未来が待っているかといった興味は浮かぶ。だったら良いのかというとそれで苦しむ人がいるならやっぱり拒絶すべきだといった考えもあったりして、過去に戻って同じ様な展開を受け入れる訳にはいかないと戦う夕陽を応援したくもなる。未来がそうなる可能性があったって、それは可能性でしかないなら変えれば良い。過去を変えるよりはその方がずっとたやすいんじゃないのか。だから警告に止めておけば良かったのにと思わないでもないけれど、それだとやっぱり未来は破滅へと向かうなら、体を張って訴えるしかなかったんだろう。

 章題が「エッジ・オブ・トゥモロー」とか「リターナー」とか「時を変える幼女」とか「スプリングタイムマシン・ブルース」とか、時間絡みの作品をもじったようなものが多くてそのあたり、過去作への意識もありそう。それでいて目新しさがあって主張もあって単体として存分に楽しめる。朝陽という名の夕陽にとっては妹分がたびたび出てくるから、あるいはなんて想像もしたりしたけれど今回はその当りはどうだったか。そこは読んでもらいたいとして、これで続編とかあれば本格的に物語に絡んで来る可能性もありそう。あるのかな。その場合は修正された未来がやっぱり悲劇となってしまう「ターミネーター」的円環に陥ってしまうから、これで決着としておくのが良いのかな。

 公然の秘密とうか、そりゃあそうだと分かってはいても、言わぬが華ということがあって、それで表向きはうまく回っている事柄が、よりにもよってその一言が日本で最も重たい人間によって暴露されてしまうとは。先だっての安倍晋三内閣総理大臣による新型コロナウイルスへの対応に関する記者会見で、質問をしたくて手を挙げたのに指名されないどころか時間だからと打ち切られてしまったジャーナリストがいることを、国会で立憲民主党の蓮舫議員が安倍総理に問いただしたところ、安倍総理から内閣記者会と広報官との打ち合わせがあって事前に質問内容ももらっていて、それに沿って答えたものだという答弁が行われてしまった。

 おいおい。あれで内閣記者会による会見というものは、内閣記者会が主催をして会見者に対して質問をぶつけて答えてもらうといった趣旨で表向きは行われていて、総理なり官邸の方が開きたいから開いて言いたいことだけを言ってカエル場所ではないってことに表向きはなっている。そして世界的にも政治家が相手の記者会見では、事前に質問なんかを渡すのはジャーナリストとしてあってはならないことで、権力を相手に知る権利の代行者として挑み不審なところがあれば突っ込み気になる部分があれば追求して説明してもらおうとする。それをやらない会見は会見ではなく広報であり宣伝に過ぎなず、それに荷担するジャーナリストはジャーナリストではなく宣伝マンに等しいと見なされる。

 そして安倍総理は内閣記者会は官邸と事前に打ち合わせをしてなあなあの中で質疑応答ならぬ一方的な演説会を繰り広げたことを、こともあろうに国会の場で明かして断言してしまった。内閣記者会はジャーナリズムではないと言ってしまったに等しいこの発言を、当の内閣記者会がそれは違うと否定して、我々は常に権力と斬り結んでいるとアピールしなければ世界から笑いものになってしまうのに、今のところそうした動きは見えず、ただ広報官の判断でもって仕切られ打ち切られたんだという安倍総理の説明をのみ、伝えるに留まっている。

 内閣記者会すなわち自分たちが官邸となれ合ったなんて言えないけれど、なれ合ってないとも言えないなら触れずにおくのが万全? それって検査をしなければ感染かどうかも分からないから感染者数も増えないっていう、同じ国会で行われた別の質疑での答えにも似た状況となっている。つまりは触れず逃げる風潮が、すべてに蔓延してしまっているってこと。そのくせに非常事態宣言を出すための法律を作ろうとしているから恐ろしい。やがて外出禁止令から戒厳令まで出てもメディアは必要だからと何も言わずに流していきそう。そんな可能性が可視化されてしまったことで、すこしは山が動くかな。動いていたらとっくに動いているよなあ。やれやれ。


  【3月1日】 自粛要請に乗った訳ではないけれど、喉とか副鼻腔とかにチリチリとした痛みが感じられて風邪になりかかっていることもあって、出歩いて悪くしたりヤバい奴を伝染させたりするのも拙いと思って今日もきょうとて家からほとんど出ることなく、ベッドに潜り込んでiPadで日向夏さん「薬屋のひとりごと」を第1巻から第9巻まで延々と読みふける。面白いなあ、これ。いわゆるなろう系って奴だけれど転生とかないし転移もないしVRMOでもない中華風世界が舞台のミステリ。ファンタジーかというとそうした超常的な現象は描かれないから、薬屋というお仕事がフックになったミステリであり、宮廷の謀略を描くサスペンスだとも言えそう。

 猫猫という妓楼に暮らしつつ薬屋の老人の養女となって教えを乞うていた少女が、のっけから誘拐されて後宮に売り飛ばされたという前提をまるで描かず猫猫が後宮で働いているところから始め、目立たなければ2年で年季明けが来ると割り切らせて日々を過ごさせていたりするところがドライというかクールという。あ物語的にもそうだし猫猫っていうキャラクターを描く上でもダイナミックな構成を繰り出して来る。

 そんな猫猫が後宮で相次ぐ赤ん坊と母親の弱体化に関して、薬屋ならではの知識でもって何が悪いかをそっと教えてそれで治ったお妃がいたのをめざとく見つけたのが壬氏というとてつもなく美貌の宦官。猫猫にめをつけ引っ張り込んでは後宮で起こる事件めいたものを解決させていくストーリーになっていくんだけれど、そこで止めることなく後宮に暮らす妃たちの間で起こる競争を描き、うごめく謀略を描き果ては皇帝への叛逆なんかも描いてのけるスケールの広げ方が素晴らしい。猫猫が実は宮廷でも屈指の軍師の娘で、その子煩悩ぶりを心底嫌っていたりして、話題にされるととてつもない表情を見せる描写に妥協がないのも面白い。

 反乱があり謀略があり新しく迎え入れられた医官を補佐する女官たちとの関係作りなんかも行われていった果て、最新刊ではふたたび西へと向かう旅へと移るけれども大きな物語はまだ描かれていないから、そこは以前にもあったように2巻にまたがるような展開が繰り広げられるんだろう。宦官の身分を改めた壬氏の本気がどれだけ猫猫に向かっても、なかなか落ちない彼女がいつかトキメクような日は来るのか、ってあたりがこれまでの描写だとなかなかなさそうなのが興味深い。

 そうしたトキメキだとかドキドキを誘って女子が読むストーリーに落とし込むことを安易に行わず、自立して自分の意思で進む女子として描かれている猫猫への共感を誘っているところも、ユニークと言えるかもしれない。まあ富士見L文庫とか集英社オレンジ文庫ならそうなったかもしれないけれど、これはヒーロー文庫、女性であってもヒーローとしての存在感と活躍ぶりでもって引っ張っていくカテゴリーの小説と思われているのも、甘さに陥らず強さで読ませる内容になっている理由かな。全キャラクターだとやっぱり子翠が性格でも言動でも好きかなあ。関心が強いのは羅漢というキャラクター。変人で天才だけれど子煩悩。その活躍ぶりを今一度、見てみたい。

 合間にNetflixでアニメの新エピソードをいろいろと。「ドロヘドロ」はカイマンが魔法使いの世界へとひとり乗り込んでは煙のパーティーへと潜り込む。そんなパーティーで能井が襲撃され煙を売っている店で何か起こってそしてカイマンはトイレ掃除の真っ最中。ニカイドウは店が繁盛して餃子を焼くのに手一杯のようだけど、その魔法の力が煙に伝わってこれからいろいろと事件に巻き込まれていく、って感じかな。ただ長い単行本の全話を1度にやるとは思えないからとりあえずカイマンの正体探しで終わるのかもしれない。2クールだったらもうちょっと描くのかもしれない。いずれにしても面白い作品。「イド・インヴェイデッド」と並んで2020年冬アニメで飛び抜けた2本って言えるかな、言いたいな。

 こちらは2クール目も終盤の「歌舞伎町シャーロック」はモリアーティの“正体”がいよいよ暴かれシャーロックとの対決へと向かっていきそう。元よりホームズ物での悪役の代名詞だから仕方がないとはいえ、そうなってしまったのは事件の後なのか、それとも生まれつきにそうしたものだったのかが気になるところ。だてモリアーティだから。その異能めいた力がどういう理由から彼に備わっていたのかも含めて、明かされていくことになるんだろう。モラン区長が悪人なのかそれを操っていたのが別の誰かなのかも含めて多層的な構造が暴かれるのか、それぞれが自分の悪意を発露させていただけなのか。残り4話くらいで描かれるだろう帰結を見守りたい。

 スタジオライフが東映ビデオと組んで行っている舞台「死の泉」は、安倍晋三内閣総理大臣の具体的な対策を示さないアピールを受けて世間がいっせいに休業となる中でも引き続き公演が続けられている模様。劇団事態がやりたいといっても、リスクを避けたい劇場が閉めたらそれまでとなってしまうところから、紀伊國屋ホールも演劇という文化を守るために今を頑張ると覚悟を決めたものと思いたい。大阪はどうなるのか。そこが気になるところ。そうした舞台芸術の他で進む自粛の動きに野田秀樹さんが異論を唱えた。

 曰く「コロナウィルス感染症対策による公演自粛の要請を受け、一演劇人として劇場公演の継続を望む意見表明をいたします。感染症の専門家と協議して考えられる対策を十全に施し、観客の理解を得ることを前提とした上で、予定される公演は実施されるべきと考えます」とのこと。劇場をいったん閉めると、いつ解除として良いかタイミングが示されない中で3月のみならず4月もずっと閉鎖となりそうな気がしている。そうした懸念に対するカウンターをここでぶち、「ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは『演劇の死』を意味しかねません」ということで劇場の態度も牽制する。

 「公演収入で生計をたてる多くの舞台関係者にも思いをいたしてください。劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきです。『いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されねばなりません。』使い古された言葉ではありますが、ゆえに、劇場の真髄をついた言葉かと思います」。そんな言葉を受けてだったら開くぞと頑張る劇団、劇場が増えてくれれば良いけれど、宝塚は休演となり劇団四季も小屋を閉め歌舞伎座もしばらく休業。歌舞伎はリスクの高い高齢者が多いから仕方がないとは言え、演劇なら座って会話とかせず汗も流さず静かに見るだけだから公演は続けて欲しいなあ。されもどうなる。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る