縮刷版2020年1月下旬号


【1月31日】 マクドナルドとバーガーキングのどっちに良く入っていたかというと、値段が安くて地下に座る場所が広く置かれたマクドナルドの方だった記憶がある昭和通り添いのハンバーガーショップ。けれどもどうやらマクドナルドが引いてバーガーキングが残ってその勝利宣言を長くライバルとして競い合ってくれてありがとうとちったポスターの文言に縦読みで込めて、ちょっとした話題になっている。あまりライバル意識を剥き出しにした比較広告をやらない日本で、こうした告知を行うことはやっぱり異例だけれど、チェーンの規模として比べれば及ぶべくもないバーガーキングだけにいろいろと快哉を叫びたがったんだろう。

 もっともマクドナルドはヨドバシカメラの前にもあればそこからガードをくぐった中央通りのそばにもあってと秋葉原中に絶っている。中央通りを末広町まで歩いた先にもあったっけ。それだけ他店舗展開している中で1店舗が引いたからといって勝利を宣言とはバーガーキングも必死すぎと言えば言えるかも。ワッパーとか以前は食べていたけれど、最近はあまり入ってないバーガーキング。歌舞伎町にある店か渋谷のセンター街にある店に時々入る程度かな。それでも居心地は悪くないんで秋葉原の店も頑張って存在感を保ち続けて欲しいもの。昔ほど気軽に入れなくはなっているけど、時々は利用させて頂きますから。

 「劇場版メイドインアビス 深き魂の黎明」の会場で思ったのは女子率の意外な高さで、午後8時20分からの上映でも会場の半分くらいは女子だったように感じられた。なるほどキャラクターは可愛いけれども内容は結構グロテスクで、残酷なシーンも多いことはテレビシリーズを見ていたり、漫画の原作を読んでいれば分かっている。そうした情報だってもちろん得ての劇場版の鑑賞だっただろうから、キャラクターに誘われてふらりと劇場に入ったとは考えにくい。つまりは最初から「メイドインアビス」というシリーズが持つ残酷性でありグロテスクさを知っての鑑賞。そして憤りもしないところに女子の好みといったものも伺える。

 むしろ男子の方が見て地獄だったと騒いでいるような感じがあるのは、本当にそう思っているのかそう言うのがトレンドだからなのかは難しいところで、今だと実写版「キャッツ」を批判しないのは評論として嘘だといったような風潮があったりする中で、どうワルクチを書くかで大喜利をしている状況あったりするから判断には迷う。ただ女子は痛みに強いとか、血にも慣れているといった風評なりがある状況を鑑みるに、男子よりは残酷への耐性もあって展開をドライに眺めていたのかもしれない。逆に可愛い少女キャラに感情移入をした男子には反動が大きかったと。そんな分析が可能かどうか、本当の鑑賞者の男女比を知りたいなあ。

 「天気の子」を見たのはいったい男子と女子でどっちが多かったのかも気になるところだけれど、それはさておき日本映画製作者連盟が発表した2019年の映画収入はそれこそ過去最高だそうで、映画人口も遠い昔に達成していた2億人に迫ったとか。「天気の子」のヒットがあったお陰ではあるものの、「君の名は。」には遠く及ばなかったその興行収入だけで何とかなるものではない。ほかの「アナと雪の女王2」であったり「トイ・ストーリー4」であったりといった洋画系に、「名探偵コナン 群青の拳」であったり「劇場版ONE PIECE STAMPEDE」であったり「映画ドラえもん のび太の月面探査記」といった人気シリーズが大ヒット。「キングダム」「ライオンキング」も好調だったことが働いて、過去最高を記録できた。

 見れば分かるとおりにアニメーション映画であったりアニメーションが原作だったり漫画が原作だったりする映画ばかり。黒澤明のようにオリジナルの脚本で映画を撮ったような作品がまったく上がってこないところに全世界的な映画が置かれた状況めいたものがあるんだろう。洋画だってマーベルだとかDCといったコミックからの映画化が人気な訳だし。「タイタニック」であるとか「アバター」といった新作オリジナルが興行のトップを席巻するような時代はまた来るのかなあ。日本に限って言えば”お家芸”のアニメーションがトップを走り続ける状況がしばらくは続くかなあ。2020年にそれだけのアニメーション映画があるかはまだ分からないけれど。

 笑うところだろうか。「桜を見る会」が開かれる前の日にホテルで開かれたパーティーに出席した人たちが会費を払ってそれを総理の事務所がホテルに支払ったことから政治資金規正法にのっとって収支報告書に記載すべき金銭のやりとりだっていった指摘に対して、これまでは払ったお金がすぐに出て行ったんだから収支はゼロ、だから記載の必要はないといった説明をしていたはずなのに、そうした収支がゼロであっても事務所にいったん入ってから出ていったのならそれは記載するんじゃないのといった答弁が選挙管理委員会からあった途端、いやいお金は参加者が直接ホテルに払ったもので事務所は通してないからと変化したとか。

 パーティーを主催しているのに会費は受け取らずホテルと直接だなんてことがあり得るのか。ってところで噴き出すしかないんだけれど、法律の枠から逃れるためにはそう答えざるを得ない。すでに言ったことすらひっくり返しても。そんな二転三転の場当たりが、一時点が万事的に繰り広げられているところにもはや苦笑しか出ないけれど、それで世の中を無茶苦茶にされた結果がこの経済的政治的倫理的な惨状な訳で、やっぱりどうにかしないといけない時期に来ているんじゃかろーか。それでどうにもなる状況でもないからなお辛い。やれやれ。


【1月30日】 何でも実写にすれば良いってものではないんだけれども、ディズニーですら「ライオンキング」を実写にしてそして「バンビ」も実写化するという話で、いつかミッキーマウスが出てくる「ファンタジア」まで実写にしたらいたいどんなミッキーマウスが現れるのか、それが気になって仕方がないけれどもそれはまだ先になるんだろう。むしろ日本のアニメの実写化がトレンドで、「カウボーイ・ビバップ」だとか「ソードアート・オンライン」なんかの実写ドラマ化がハリウッド界隈で進行中。そこに加わったのが「ONE PIECE」のNetflixでの実写ドラマ化だ。

 「カウボーイ・ビバップ」なんかを手がけているところがこちらも手がけるって話らしいけれど、そもそも「ONE PIECE」って海外でどれだけ人気があるのかがちょっと掴めない。「ドラゴンボール」は言うに及ばずとして、「週刊少年ジャンプ」作品だと「NARUTO」の圧倒的な海外での人気ぶりと比べると、「ONE PIECE」は今ひとつのような気がするんだけれど、こうしてドラマ化の声がかかるということはそれなりに知られているんだろう。

 気になるのはやっぱり再現度だけれど、ナミとかニコ・ロビンとか外国人の女優が良い感じに演じそう。ゾロとかサンジもまあそれなりに。問題はやっぱるルフィか。外国人顔だと妙だけれど日本人顔でもないあの独特な表情と、それから細身に描かれた姿態と伸びる手足を実写でやったらどこかチグハグにならないか、漫画だから描けてアニメだから動かせるものも実写になると途端に珍奇に見えてしまうのが世の常だけに。そこは今のCG技術でどうにだってできるんだろうなあ、それこそ「マスク」の時代から人間のゴムゴム化は行われていた訳だし。映像が出来るまでは気にしておこう。

 紀伊國屋書店の地下のモンスナックでカツカレーをかき込んでらEJアニメシアターで「劇場版 メイドインアビス 深き魂の黎明」を観る。親の同伴があれば観られるPG12から15歳未満は絶対に観られないPG15プラスに指定された映画だというから、いったいどれだけなんだという恐怖心はあったけれど、印象として特に気分が悪くなるようなことはなく意識も飛ばされずに済んで明日寝込んだままになることはなさそう。おそらくは指定の原因とされる描写なりその設定なりが、ファンタジーとかSFとかで出会えたりするようなことで非道とは思いつつもそれを悲しみと憤りに変えつつ前へと進む力に変える物語なんだと踏まえておけば、描写に足踏みをすることはなくそこを乗りこえていけるのかもしれない。

 原作のマンガはひととおり読んではいたけれども詳細を覚えているほどではなく、アニメの方はほとんど見ておらず状況的にどうなんだといった前知識が、極めて薄い状態だったもののそこは観ながらでもだんだんと情報を重ねて状況を理解していけるアニメ者。いきなり「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です」からガルパンに入ったような人間なので、リコとレグとナナチがアビスの深層に向けて旅をしている途中に起こった色々だという機軸から、枝葉を伸ばしてボンドルドなる存在を感知し、その存在感なり振る舞いがもたらす驚きが、この映画のメイン展開になっているとさえ分かればついていける。

 その上でボンドルドの己が大事というか己が成すことが絶対といった感性があり、そこのしばらく浸っていながら今は離れたナナチの苦渋があって、相克があったんだなあといった理解をまずはする。そんなナナチと共に旅をするリコでありレグが感じる悲しみ、受ける暴虐を経て痛快ともいえるバトルへと向かって進んでいく展開を味わっていく。過程に出会いがあって信頼が生まれても引き離されて閉ざされる。それでも残された思いがリコやレグやナナチを導くといった救いがあったのも、観ていて悲嘆に沈まなかった理由かもしれない。

 あとはナナチの可愛らしさを味わえれば十分か。ふれればもふもふとしていそう。レグがおっ立つそのもふもふぶりはただのもふもふなのかそれともぷにぷにもあるのか。中身がそど子である可能性もあるのだけれど、今は見かけたもふもふでぷよぷよなら十分ってことで。それにしてもレグが強いなあ。その戦闘能力はアビス1? 知らないけれども普通じゃない。ボンドルドの続く秘密はまだ十分には理解できていないんで、単行本を読むなりして理解を深めよう。ああ良い声だ。あと言っておたいことがあるとしたらプルシュカなかなか胸がある。いい子だったなあ。

 武漢から戻ってきたチャーター便に乗っていた日本人から新型コロナウイルスへの感染者が見つかったという報があって、200人くらいの帰国者から何人も見つかるというのはなかなかの確率と見て良いのかどうか、ちょっと迷うところ。他も含めて日本での発症者は10人を超えてきて、さてこれからどういった広がりを見せるのか、果たして死亡者は出るのかがこれからの関心事項となるだろう。こうした事態に武漢からチャーター便に乗ってきたのに検査を拒否して帰宅した2人が検査を求めて来たとかで、それで感染していないと分かれば良かったと言えるものの、感染していたと分かったら帰宅して誰かにうつしてないかが問題になりそう。以後、帰国者は全員隔離の上で検査って流れになるのかな、そうするために2人を見逃した? そういう戦略があるとは思いたくないけれど、今ってすべてが裏側を想像したくなる時代なんでねえ。さてもはても。


【1月29日】 積もっているのに積雪はしていないなんてことはないし、肥えているのに肥満はしていないと言っても誰にも通用しない。食べてはいるが食事はしていないと言って店を出ようとしたら無銭飲食で捕まるし、借りてはいるが借用はしていないと踏み倒せば返せと訴えられることは必定。どう言葉を換えようともその現象は現象であってなかったことには出来ないにも関わらず、日本国の宰相ともあろう人が「募ってはいるが募集はしていない」と例の「桜を見る会」への参加者について国会の場で堂々と言ったそうで、笑っていいのかそれとも悲しんでいいのかまるで判断がつかない。

 朝食はとったけれどもご飯は食べていないと、その“ご飯”を米の主食に限定して逃げようとすする論法を繰り出しまくっているだけのことはあるけれど、白馬は馬にあらずの詭弁にすら持ち込めない同義語を違う意味だと主張して、平気でいられる神経はもはや人知を超えたものとなる。それは果たして正気なのかといった疑問も浮かぶ中、今日も国会ではそんな論戦が続いているのだろうなあ。とはいえそんな宰相に「募る」という文字を紙に書いて意味もそえて突きつけて、いったい何の意味がある? なんてことは思う。そういう辱めを受けさせる場ではなく、真実を追究する場なんだから国会は。あっちもこっちもにっちもさっちも。

 そんな首相が果たして根回しをして言ったかどうか、不安もあったけれども中国政府もどうにかちゃんと答えてくれたようで、日本から飛んだチャーター便が武漢から200人くらいの日本人を連れて帰ってきてくれた。封鎖されて出るに出られず、飛行機だって飛ぶに飛べない地で、いくらきっとおそらくは大丈夫だろうと思ってはいても、家族も含めて心配するだろう人もいるから帰れるなか帰りたかった人も多いはず。そうした人をちゃんと救うところは日本政府もまだまだ足腰はしっかりしている。

 帰国の費用を8万円くらい請求するって話もあって、タダじゃないのといった声も出ているけれど、アメリカだって政府関係者以外はチャーター便で通常より高い料金を請求するって話も流れていた。それを思えば今の時期で緊急だったら10万円くらいは行くだろう料金を、8万円に押さえたのはまあ妥当と言ったところ。そりゃあ割引なら往復で6万円くらいだし、格安なら往復で3万円のものだってあったりするけど、その値段でいつ乗れるか分からないなら8万円で直行直帰が出来るのならラッキーと思うしかないのかも。帰国者の扱いについてはいろいろあるみたい。検査を受けずに帰った人がいたとか。隔離しろとは言わないけれど、検疫だけはしっかりと。何がどうなるか分からないのがパンデミックの世界だから。

 香川県が子供のゲーム依存を防ぐためにゲームの時間を制限したり、スマートフォンを扱う時間を決めたりしていろりろと物議を醸している問題で、なぜか北海道新聞が「新聞に教育を」というキャンペーン的な紙面でこの問題を取りあげて、四国新聞のキャンペーンを讃えつつ香川県議会議長にインタビューもしてその方針を批判とかじゃなくむしろポジティブに報じている。ここで気になるのは四国新聞が長くキャンペーンを手がけて来た成果として、議会が動き条例が出来ようとしていることをポジティブにとらえている点。もちろん新聞が問題を提起して世の中が動くケースは、読売新聞が大昔に展開した売血問題を問うキャンペーンがあるし、行政改革を問うた産経新聞の例もある。それ自体は悪いことではない。

 ただ、ゲーム依存に対する問題的は果たしてどこまで科学的な根拠にのっとったものなのか、そして誰かの思惑で動いている話ではないのかといった部分で疑義も出て、ストレートに社会問題提起のキャンペーンだとは乗り切れない。四国新聞という新聞社の背後にあるだろう経営側の意図が、地域権力と一体かどうかといった部分を考えつつ、二人三脚的に進めたものではないかといった疑問の答えも探りつつ、翔陽すべきかこれはメディア権力と公権力の結びついた例だと指摘するかを考えなくちゃいけなさそう。にも関わらず四国新聞のキャンペーンを子供のためと手放しで認めつつ、これを新聞を売る材料にしようとしてしまうのはちょっとヤバい気がする。批判も出ているから北海道新聞が本紙面なり社会面なりでどういった記事を出してくるかに注目したい。社説で肯定してしまった某全国紙は論外として。

 常滑市が舞台だから名古屋アニメだって言うと名古屋モンロー主義だと言われそうだけれど、そこは東三河ではないんだからまあ名古屋だと言わせて下さいってことで、佐藤準一監督が柴山智隆監督とともにスタジオコロリドで作る長編アニメーション映画「泣きたい私は猫をかぶる」が発表に。佐藤順一監督はいわずとしれた大御所だけれど柴山監督は「ペンギンハイウェイ」で絵コンテを手がけたり「心が叫びたがってるんだ」で共同演出を手がけたりといった感じの経歴で、監督となるともしかしたら今回が初かそれに近いかもしれない。どういう役割分担があるかは分からないけれど、佐藤監督自身も「ユンカース・カム・ヒヤ」くらいしかテレビシリーズからの延長じゃない映画作品がないから、その意味で大いに期待したいところ。原恵一監督や湯浅政明監督や新海誠監督がどんどんと世に名を示す中、その演出力を存分に見せてくださいな。


【1月28日】 原作では「終」とありながらも終わってなくて、正崎善はサミットの惨劇を目撃しつつも生き延びては、曲世愛の振りまく悪と対決していくはずだったように記憶しているけれど、終わっていない原作をそのまま使えないならとアニメーション版「バビロン」は、アメリカ合衆国大統領をひとり矢面に立たせてまずは自殺しようとする少女の説得を試みさせ、その対話から彼をひとつの結論へと導かせたその先で、誘い囁いて追い込んだ。そして行おうとした最悪の振る舞いを、善は極端な方法で止めようとする。

 それをやっては世界が彼の敵に回るかもしれない。けれども大統領の威信は保たれる。その構図からどうにでも言い抜けができると計算をして善はそれを挙行した。そして現れた曲世愛。いやあなまめかしい。声だけでも存分に誘われるのに、ビジュアルがつくとなおいっそう誘われてしまうところにこのアニメーションのすべての力が集約されているようにも思えた。病院をセーラー服で歩く場面とともに「バビロン」の、あるいは日本のアニメーションにおける歩きの作画の絶頂にあるかもしれない。

 原作はまだ続くけれどもアニメーション版はいったんの終わり。銃声とともに移り変わったその先の世界で少年は田舎で飛んできた帽子を受け止める。返した先にいた女は。いったい何しに。そして善はどうなった。なんていろいろと想像もしてしまうけれどもとりあえず、善は絶たれて悪が勝ち、そして世界は新しいフェーズに入ったと思うのが良いのだろうか。劇場版とかあり得ないその帰結の潔さ。「正解するマド」もまた物議を醸した最終回だったけれど、今回もかなか不思議な終わり方。野崎まど作品はいつも思考をもたらしてくれる。

 三鷹ネットワーク大学でのアニメーション文化講座 表現の追求 “手描きのアニメーション美術”、第三回は野崎透さんが登壇して井岡雅宏さんが手がけた背景について主に語る。対象は高畑勲作品の「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」。まずハイジにおいて背景美術が持つ意味について語り、見ている子供達に山でハイジが体験したことを、同じように疑似体験してもらう必要があったと。それがなければフランクフルトに連れて行かれたハイジが、山に帰りたいという気持ちを見ている子供達が共有できないとのこと。そうした情景を描くには、希代のアニメーターだった宮崎駿を場面設定に起用せざるを得なかった。そのレイアウトを元に描いてのけた井岡雅宏さんの力もあったってことらしい。

 「宮崎さんという優れたレイアウトの人がいる。それを色彩として表現する美術が必要。色の表現力に優れた井岡さんに参加してもらう」と野崎透さん。そんな感じ。結果、仕上がってきたのは決して緻密ではないし、手前が描かれていなかったりもするけれど、それでも山らしさってのが見える背景美術。それを色彩によって情感も含めて描いてしまう。山が燃えているとハイジが言うエピソードとか、オーバーラップによって色を変えていく。

 「山が燃えている」というセリフを絵として表現できなければ、それは情報として伝えるだけになってしまう。それをしっかりやってのけたのが井岡雅宏さん。高畑さんの演出プランなり色彩設計なりがどういう具合に働いているかは分からないけれど、美術監督として受けて表現してのけたところにやっぱり強い貢献があったのではないだろうか。

 講座では、初期からだんだんと井岡雅宏さんの美術が変わっていったことも話されて、最初は輪郭線もあったのが写実的になっていったらしい。近景も描き込まれたりして、水も”水色”ではなく黒にして透明なところになにかが映り込んでいるようにしたりとか。「アニメーションの背景画がどういった力を持っているか」。それを考えて描いていったとう。

 「赤毛のアン」でまた高畑勲監督と組んだ井岡雅宏さんが、背景美術ではなく美術ボードとして描いたグリーンゲイブルズの風景とかはもはや絵画。野崎透さんによればそれを高畑さんは「泰西の名画、バルビゾン派」と言ったとか。目指すものを示した上で描かれたその背景はどれも素晴らしかったけれど、それだからこそ高畑勲さんの挑戦的な演出もできたのかも。第2話、家へと向かうアンが橋の上で馬車を止めて見渡し語る場面とか、おしゃべりだけで描くんじゃなくイメージシーンにして木々を入れ池を描き天使が降りてきて水面を触り波紋ができるようなシーンを描いた。

 「見事ですね」と評したらしい高畑さん。そうしたイメージシーンをもっと入れたかったらしいけれどもスケジュールに押されて多くは入れられなかったとか。それでも実現したのは井岡雅宏さんの美術があったからってことなんだろう。宮崎駿監督とのタッグは良く語られるけれど、背景美術との関係から作品を語るといった機会はなかなかないだけに、今回はとても勉強になった。そう感じて見るとまた違う見え方がしてくるのかもしれない。ほかのアニメーションとその美術の関わりを考える時も同様に。

 そんな野崎透さん。最近のアニメーション美術についてはやはり「埋没している」と感じているらしい。「大学で教えているが、印象に残っているシーンを聞いても答えられない。写実で描けば良いとして何を表現するかが重要。その表現が入っていない。やろうとしていない訳ではないが、それより先に細かく描いてしまう」という。

 あとは美術への関心か。高畑さんは「アルプスの少女ハイジ」のロケハン時か何かでスイスの画家、セガンティーニーの絵を見てきたという。あるいは「赤毛のアン」でフェルメールを例えに出したりを絵について関心があり、井岡雅宏さんら美術の人たちも絵に造詣があった。小林七郎さんも野獣派を自らを言いポロックやデ・クーニングなんかも出してきていた。「今の背景の人に絵の話をすると通用しない。温室の中の葉っぱの絵やレイアウトを見て『田中一村だね』と言ったら誰も知らない。アンリ・ルソーと言っても誰も知らない。絵の話をしない」とか。

 「背景が語る。自己主張する。過剰にやられたら困るが、やはり自己主張は期待する」。そういった背景が出てきて欲しいと野崎透さん。今だと誰がどの絵がそうなんだろうなあ。「プロメア」とか「海獣の子供」とか「きみと、波にのれたら」あたりかなあ。そんな井岡雅宏さんの早世を高畑さんは一言、「痛恨です」。このことばにその惜しむ気持ちが存分以上に込められていると野崎透さん。確かに分かる。「高畑さんは観る人を信じている」とも。リテラシーは必要だけれどそうした観る人たちの観ようとする意思、そして見て感じる心を信じて冒険もして挑戦もしたからこそ、生まれた「ハイジ」や「アン」の美術たち。その再来を、今誰が? 気になります。

 会場にはそんな「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」のプロデューサー、中島順三さんも来られていて、当時の思い出なんかを語ってくれた。「井岡さんの背景は大好きです。水のきれいさはなかなか描けない。高畑さん井岡さんコンビでハイジとアンを作れた。僕にとっては幸運なことです」と中島さん。そして「三善晃さんのことを話して頂いたのはありがたい」とも。

 「ハイジの時にオープニングとエンディングを岸田衿子さんに書いてもらって、赤毛のアンの時も岸田さんに頼みたいと思い、岸田さんも引き受けてくれた。岸田さんが詞を書いてくれたことで、それが三善さんとの繋がりで三善さんが岸田さんの詞だから引き受けてくれた」と中島順三さん。エンディングに絵がないのは、高畑さんがあの曲に絵は付けられないと言ったらしいと野崎さんが話していたくらい、強い印象を持つ楽曲となった。貴重なお話。こうして言葉が聞ける内にどんどんと聞いておくのもまた、アーカイブなのだろうなあ。頑張ろう。


【1月27日】 アニー賞でも新海誠監督の「天気の子」は受賞をを逃したみたいで、「未来のミライ」に続いての日本作品の受賞とはならなかった模様。受賞作は「失われた手」でアヌシーに続いての栄誉。アカデミー賞の長編アニメ映画部門にもノミネートされているから、インディペンデント系のアニメーションでは2019年で最高の1作ってことになるんだろう。上映している時に行けば良かったけれど体が動かず。でもNetflixで観ようと思えばいつでも観られるからそれは良いのか。

 っていうかNetflix関連ではインディペンデントではない本筋の方の長編アニメーション作品賞を「クロース」が受賞。キャラクターアニメーション賞とかキャラクターデザイン賞とか監督賞とか美術賞とか絵コンテ賞とか編集賞なんかも受賞とほとんど総なめ状態で、「アナと雪の女王2」だとか「トイ・ストーリー4」といったディズニー&ピクサーの鉄壁を破り「ヒックとドラゴン3」もライカの「ミッシング・リンク」も押さえての受賞はちょっと凄い。監督は「ノートルダムの鐘」なんかに関わってきたというセルジオ・パブロス。そういう所にお金を出して栄冠まで持っていくところに、映像配信会社の今の隆盛ぶりも伺える。

 そんなNetflixからこの春に期待の作品として登場することになりそうな「攻殻機動隊SAC_2045」のキャストが発表されて、予想どおりに田中敦子さんが草薙素子を演じることに決定した。バトーは大塚明夫さんでトグサは山寺宏一さんと、最初の「GHOST IN TheSHELL」から「イノセンス」を経て「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」へと至った流れを踏まえた感じ。荒巻課長が阪脩さんなのはS.A.Cと同じだからそこは神山健治組の公安九課が結集したって言えそう。御年89歳だけれどまだまだ声は出るって感じかなあ。もしかしたら義体化されていたりするのかな。

 いやいや、本編での荒巻課長は電脳は積んではいても義体にはしていないからこそのあの風貌。そんな荒牧課長も含めて「攻殻機動隊SAC_2045」に登場するキャラクターたちがどこか人形っぽいのはちょっといろいろ考えてしまう。つまりはCGで描かれた草薙素子がフィギュアっぽいってことで、いくら義体が等身大のフィギュアだとはいっても人間そっくりかそれ以上に作り込まれているからこその義体であって、無表情でもなければ無機質でもない。けれども公開された映像の草薙素子は、イリヤ・クブシノブさんによるデザインを取り入れつつもどこか人形っぽいつるりとした感じ。表情もなく陰影もない感じはちょっと前のゲームのキャラクターを思わせる。

 今ならそれこそ「DEATH STRANDING」で人間の役者にも迫る表情が描ける時代、「龍が如く」シリーズだってどんどんとパフォーマンスが上がって今はキムタクをよりキムタクらしく描いて登場させることができる。そうした時代だからこそ草薙素子もリアルさを持ちつつキャラクターとしての風貌も残した感じのものが出て来て不思議じゃなかったんだけれど、神山健治監督と荒牧伸志監督が繰り出して来た映像は「アップルシード」の時代をそのまま踏襲したような、懐かしさを感じさせるテイストを持っていた。ここから作り込んでいくのか否か。「ULTRAMAN」も当初はのっぺりとしていながらパフォーマンスの良さで世界ヒットした。そんな展開を期待したいけれども果たして。

 少しはアニメも観られるようになったので「ハイキュー!! TO THE TOP」の第3話。宮城県の高校チームの合宿に潜り込んだ日向翔陽は影山がいなければボールを合わせられないだろうと思われ眼中の外に置かれて球拾いを続けていたけれど、そんな中でも上がるボールからどんなコースにスパイクが放たれるかを読むようになってボールに体が追いつくようになったのがひとつの成果。合宿の面倒を見ているコーチがそうした学習の成果が身について自動的に働くようになるかもって話してて、それって自分たちにとっては敵に塩を贈っているに等しいことなんだけれどプレイヤーが成長するのは嬉しいのが、バレーボールを愛するコーチっぽい。そんな期待に応えた選手になれるのか。考えすぎてボールだけ叩いてた頃よりパワーが落ちたら意味ないけれど。

 興行通信社の週末興行ランキングが出て「キャッツ」が堂々の1位に。この勢いが続けば10億円くらい行ってしまいそうで、早くに公開されている英国の410万ドルとかドイツの100万ドルとか韓国の502万ドルの収入を抜いてアメリカ以外の国で日本がトップに立つことだってありそう。何しろアメリカ本国だってたったの2700万ドル。もしも日本が30億円とか言ってしまったら世界でもっとも「キャッツ」が観られた国にだってなりかねない。そこはやっぱり化け猫文化があって化け狸文化もあってと妖怪変化に事欠かず、また手塚治虫さんほか漫画やアニメにおける動物の可愛い擬人化も行われている国。そして「猫城記」の表紙絵がああなる国だけに、「キャッツ」くらいで驚きも慌てもしないんだろう。悪食と観るか柔軟と観るか。世界が気にするその感性。

 元NBAプレーヤーにしてスーパースターのコービー・ブライアント死去。乗っていたヘリコプターが墜落したらしく娘さんともどもなくなってしまったとう。ロサンゼルス・レイカーズ一筋でシャッキール・オニールらとともに3連覇なんかも成し遂げ、その後も2度ばかり優勝した偉大なプレイヤーだったけれど、日本ではそのコービーという名が神戸由来だったことで親近感を抱かれた。別に神戸に親が住んでいたってことでなく、神戸牛のステーキが美味しかったかららしいけれど、そのお父さんは後に日本のbjリーグだとかJBLだとかのチームにヘッドコーチとして就任。日本となじみが出来た。そんなコービーだけに残念さも募る。黙祷。


【1月26日】 京都アニメーションから出ているKAエスマ文庫の新刊が発売された。2019年の7月に大変なことがあって、仕事だって滞りがちの中でしっかりと編集して1冊でも出して来てくれたことにまずは感謝。そして連続しての刊行があってキャンペーンも行ってくれる頑張りにエール。そんな足がかりとなる1冊は、あのスタジオの窓越しにキャラクターの設定ががのぞいていた「二十世紀電氣目録」を書いた結城弘さん「モボモガ」(KAエスマ文庫、638円)。前のが当時の想像としての電気仕掛けをSFとして描いたけれど、こちらは時間の移動が絡むSFだった。

 他人の時間を貯めて時を超える力を宿す“貸時計”なるものが存在する世界線、大正7年の京都にある時計店で働いていた紫苑景季という少女が、店にいるところを何者かに襲撃される。店主から託された時計を守ろうとしていた景季が、ふとしたはずみで時計のボタンを押すとその力が発動。気がつくとそこは100年後の2018年の京都だった。そんなきっかけから始まるストーリーは、鹿児島の指宿から出て来て京都にある時計店に居候として転がり込んでは、店主の手伝いをしていた光太という少年が景季と出会い、彼女を100年前の世界に戻そうと奮闘する展開へと進んでいく。

 過去で狙われただけでなく、現代でも誰かに追いかけ回され狙われ続けている景季。助けようとする光太にも、“貸時計”の不思議な力が降りかかって、気がつくと別の場所にとんでいたりする。危険ば場所にいたり病院にいて柱にぶつかったり。まるっと時間が奪われるところが不思議。そうした力を発動する“貸時計”が幾つも存在しているという状況も。とはいえ、100年もの時の移動を成立される“貸時計”はなかなかない。それを探す景季と別の何者か。いったい誰がと探った先に、100年前の景季が襲われた事件が重なってそれなりに仕組まれた事態であることが浮かんでくる。

 戻れば過去は変えられるけど、それですべてを無かったことにして良いの? そんな気持ちも浮かぶストーリー。現実には過去は変えられないなら今を変え未来を変えるしかないというメッセージでもあるのかもしれない。大正娘が現代に来て、スカートの短さに恥ずかしがったりスマートフォンに吃驚したりといった描写もあるにはあるけど、メインは家族の関係、生い立ちから来る執念、恋情といった人の関係が入り組みながらもしっかり描かれ読ませる。なかなかに重厚。

 車から誰か人間によってよって放り出された袋から、すっくと現れ立ち上がった白猫ヴィクトリアを、そのまま家に連れて帰ってギュッと抱きしめて愛でたいと思えたのなら大丈夫。映画「キャッツ」はそんな貴方のための映画であり、その意味では僕のための映画でもあった。猫でもあるが人間のような姿態をしている猫物(じんぶつ)たちのビジュアルを、どう頭が処理するかによって映画「キャッツ」を観て喝采を浴びせるか、悪夢を見たと感じて寝込むかといった反応に違いが出る。まるで化け猫のようだと違和感を覚え、人間の等身を持ったボディにびっしりと生えた毛の感触を思って身震いをするような人にとって、映画「キャッツ」を観ている時間は猫が爪を立ててひっかくガラスの音を聞かされているに等しい。

 逆にその姿態を美しいと感じ、柔らかい手触りを想像しつつその下にあるだろう肉感を想起して、抱きしめた時の感触を想像できるのならば、映画「キャッツ」を観ている時間はずっと官能の頂点にある。それは白猫ヴィクトリアが出ている瞬間でも、マキャベティが出ている瞬間も同じだ。雌猫ならばおそらくは引き締まりつつもふくよかさを感じさせ、雄猫なら弾力のある筋肉を感じさせる。そうした接触への期待があり、また猫であっても人間のような顔立ちをした表示に、すこし毛深い人なのかもといった意識を持つなり、表情が豊かな猫だといった感覚を抱くなりすれば化け猫だとか妖怪だといった違和感は乗りこえられる。

 そこには一匹の猫がいて一人の人間がいて一体のキャットがいる。そんなキャットたちが織りなす歌であり踊りであり群舞を存分に堪能し、そして奥ゆかしさや絶望や悲しみや憤りを持った者たちが日々を頑張って生き、いつか未来へと旅立つことを夢みる物語に感嘆できる映画。それが実写版「キャッツ」だった。

 振り返れば手塚治虫が描いた「W3」のノッコのように、明らかにウサギでありながらも官能を感じさせるキャラクターに触れて育ってきた。キャラクター化も擬人化もあまりされていない動物たちが立ち上がってぬるぬると動く東映動画の長編アニメーションにも触れてきた。そうした経験を経て観る映画「キャッツ」の猫たちにどうして驚きや違和感など覚えよう。それはそれとしてそこにある。ならば観て受け入れる。それが当たり前だという感性が、働く方が普通なのかそれとも異常なのか。

 世界ではやや異常だったかもしれないが、この日本、手塚治虫がいて動物の人化が普通に行われてきた国で映画『キャッツ』は普通に受け入れられるのではと思っている。あるいは思いたい。仮にビジュアルに邪魔をされたとしても、演じるオールド・デュトロノミー役のジュディ・ディンチでありバストファー・ジョーンズ役のジェイムズ・コーディンでありラム・ラム・タイガー役のジェイソン・デルーロでありマキャベティ役のイドリス・エルバでありグリザベラ役のジェニファー・ハドソンといった面々のパフォーマンスには圧倒されざるを得ない。

 さらにボンバルリーナ役のテイラー・スウィフトであり劇場猫ガス役のイアン・マッケランでありミスター・ミストフェリーズ役のローリー・デヴィッドソンでありマンカストラップ役のロビー・フェアチャイルドであり鉄道猫スキンブルシャンク役のスティーブン・マックレーで白猫ヴィクトリアを演じたフランチェスカ・ヘイワードでありといったキャスト陣が見せる、歌と踊りと演技はいずれも最高峰。たとえそこにCGによる猫のスキンが被っていても、しっかりと伝わってくる凄みがある。タップを踏むときは猫でも靴を履くのかといった意外性はあったが、肉球ではさすがにタップは響かないと思えばそれも仕方がない。

 雌猫たちであっても人間のような姿態なら胸があって欲しかったという意見もあるにはあるだろう。そこは猫だから乳首が欲しかったという意見には、だったら6つの乳首が見えていても驚かないかと返事をしつつ、そこは心眼によって感じれば良いと返答する。そもそもがフランチェスカ・ヘイワードに固有のものかもしれず、ほかの雌猫からはほんのりとでも膨らみを感じ取ることはできる。できなくてもえきる。できるのだ! だからそこは気にしない。ツルリとした股間も雌猫ならそうだと感じ、雄猫でもそうかもと思えばそう見える。見えるのだ!

 つまりはだからヴィジュアルなど気にする必要など微塵もなかった劇場版『キャッツ』。ガスがかつて栄光の頂点に立ちながらも今は落剥しつつ過去に耽溺して生きている姿に、自分の境遇を重ね立ち直れるかといった具合に、猫たちのくらしぶりそのものから受けるかすかなダメージはあるものの、そうした境遇でも自分らしく生きている猫たちの姿を見返すことで、自分もそうあればと思えるようになった。あるいはならねばと思った。僕にとっては傑作だった映画「キャッツ」。違和感があったとすればすべての猫の尻尾が長くて伸びていたことか。我が家の猫はだいたい尻尾が短かったんだよなあ。


【1月25日】 すごいな中国。春節となって海外旅行にとても行きたいし既に行き始めている中国の人民に対して海外団体旅行を禁止するお触れを出した。もちろん目的は新型肺炎の世界への拡散を防ぐって目的だけれど、1年で最も海外旅行が増える時期、中国の航空会社だって旅行会社だって稼ぎ時でもある春節をぶっ潰すような政策を堂々ととってしまうところに政府の、あるいは党の強さってものを見てしまう。SARSの時だってここまでのことはしなかた記憶があるから、それだけヤバい事態になっているってことなのかも。外からでは伺い知れないから。冬が終わって春が来て、何かが起こっているのかそれとも。とりあえず中国人観光客を当てにしていた日本の観光業界とか家電業界とか、ちょっと大変かも。

 せっかくだからと「ハイスクール・フリート」のテレビシリーズをアマゾン・プライム・ビデオで12話まで一気見して、キャラクターたちの関係性とか配置なんかを思い出す。宗谷ましろは最初は自分が落ちこぼれてしまったことに嫌気を見せつつ艦長の岬明乃の軽さやなれなれしさに辟易としていた感じだったけれど、時に果敢に挑み才気も見せつつ同じ「はれかぜ」乗組員を気遣って落ち込んだりもする人間性に次第に感化され、猫を助けるエピソードなんかも経て心を開いていった模様。その意味ではミケけちゃんの物語というよりは、シロちゃんの成長の物語といった趣の方が比重としては大きいかも知れない。

 そんな宗谷ましろに最初は強く親近感を示して貴方こそが艦長になるべきだと言っていた黒木洋美ことクロちゃんだったけれど、肝心のシロちゃんがデレてしまってはハシゴを外されたにも等しく行き場を失ってしまう。もうちょっと尺でもあればクロちゃんを参謀にしてシロちゃんをかついでクーデターでも起こして「はれかぜ」を乗っ取るなんて展開もあったかもしれない。「宇宙戦艦ヤマト2199」でイズモ計画の一派が反乱を起こしてヤマトで移住可能な星を探そうとしたような。でもけれど、最初は反乱者として追われそして武蔵を追って戦闘に次ぐ戦闘の日々の中ではそうした枝のエピソードを挟む余地もなかったみたい。まあいいか。

 マチって呼ばれる眼鏡で長身で見張りをやってる野間マチコが映画でも目立っていたけれど、なるほど本編でも中心になって活躍するエピソードこそないものの、毎回出ては見張りに立っていたり手旗を振っていたり戦っていたりとなかなかの活躍を見せていた。その美丈夫ぶりでファンも多かったんだろう。ずっとマストの上にある見張り台の上にいて手洗いとかどうしているのかちょっと不思議。降りてきて用を足してまだ戻るのも面倒ってことは、まさか上から……はさすがにないか。

 個別で目立っていたのは機関長のマロンちゃんこと柳原麻侖かな。体格的には大洗女子学園の生徒会長っぽいけど、あそこまで陰謀を巡らせるタイプではなく直情径行の職人肌。江戸っ子気質ばりばりで、神田の生まれの和住媛萌が神輿を自作したのを担いで赤道祭で大はしゃぎをしていた。ところでどういう振り分けで彼女が機関長になったり、西崎芽依が水雷長になったんだろう。入学試験でボイラーを焚いたり魚雷を発射したりしたんだろうか。座学の知識があったんだろうか。すべてがフラットなところから始まる「ガールズ&パンツァー」とはそこがちょっと違うところかな。

 あとはやっぱり万里小路楓さん。大企業の令嬢だけれどその地位に安住しないでブルーマーメイドを目指す。長刀が得意でソナー手だけあって聴力もなかなか。その力を「劇場版ハイスクール・フリート」でも見せてくれていたけれど、テレビシリーズとOVAを見てラッパの腕前だけは当初はヘタだったのが、だんだんと成長していることが分かった。赤道祭では笛も下手だったなあ。お嬢様だから何でもできるって訳じゃないのが良い。

 そんな「ハイスクール・フリート」で、やっぱり気になったのがシロちゃんのお姉さんの宗谷真冬か。劇場版では走り蹴りと大暴れしてたけれど、テレビシリーズにもちゃんと出ていたのを思い出した。番長みたい。そんな姉ともうひとり、ブルーマーメイド安全監督室室長の真霜も姉として持ち母親が横須賀女子海洋学校校長の真雪なのにねじ曲がらないでまっすぐに育ったシロちゃんもあれでなかなか強い子なのかも。続編があればいっぱい活躍して欲しい。そして立派な艦長になった姿も見せて欲しい。そしてやはり艦長となったミケちゃんと戦艦道で戦うのだった……ってそれは違う話か。

 そしてテレビシリーズを観終わってキャラクターの配置と関係性を確認してからTOHOシネマズ上野で2度目の「劇場版ハイスクール・フリート」を見つつ吉月生さんの「今夜F時、二人の君がいる駅へ。」(メディアワークス文庫)を読む。「青春SFラブストーリー」だなんて20年前だったらたぶん付けられていない煽りが書かれているのも驚きだけれど、読んでなかなか響いてくるものもあって面白かった。クリスマスをいっしょに過ごしたいと願っていた彼女の希望を入れられず、パスタ屋でのバイトを入れて閉まった昴という男子が、起こる彼女と駅のホームで分かれて載った電車に衝撃が起こり、気がつくと5年後の2024年に来ていた。

 当時はなかった高輪ゲートウェイ駅。そこで降りた昴や同乗者たちは、5年という歳月が身の回りに起こした諸々に直面して嘆き、怒り悲しんだりもするけれど、そうした中で出会いもあったり、理解もあったりして自分という存在を今一度、取り戻していく。浦島太郎じゃないけれど、隔絶した時間の中ですべてを失ってしまっても、そこに居場所は得られるものなのかもしれない。とはいえ時間によって大切なものが失われてしまうことも。それを取り戻そうとあがく昴に協力する同乗者たち。彼は大切なものを取り戻せるのか。タイムスリップから悲劇へと向かった「紙はサイコロを振らない」とは違い苦さもありつつハッピーも得られるストーリーだ。


【1月24日】 これはまた、何というか独特な構成で驚かされるというか。なのであまり説明はしないけれども落葉沙夢さんによる「―異能―」(MF文庫J)は、学校で決して目立ってはいない少年が選ばれてバトルロイヤルに巻き込まれ、戦いの場へと赴いてそこで異能を発揮して勝ち残っていく物語、ではまるでないどころか主人公として認めて良いのかすら迷うストーリー。そして始まる次へ次への展開。その果てに来るゴールが実はぐるりと回った円環のスタート地点になっていたりする所に、有り体のバトルロイヤルにはしない作者の工夫と才気が見える。これは面白いけどその面白さをまるで説明できないのが辛い。だからといんかく読めと言おう。

 何しろ総理大臣からして国会でヤジを飛ばしては釈明もせず野党のヤジがどうのこと嘯くくらいの心性だから、その傘下にいる国会議員が野党党首が国会で喋っている時にヤジを飛ばして、それがとてつもなく品性に欠けているものであっても自分がヤジったとは認めず釈明もせず、あるいは堂々と開き直ることすらしないで逃げ回っているのは不思議でも何でもない。昔だったらそれこそ失言として糾弾され議員辞職にすら追い込まれたかもしれない不適切発言でも、今は総理大臣とか副総理とかが何をやらかしても誤解があったら誤ると、誤解した側に責任を押しつけて知らん顔をする時代。逃げても恥じず辞めずにそのまま居座り続けるんだろう。やれやれだ。

 いろいろと、騒動になっていたにも関わらず日本赤十字社が献血キャンペーンに「宇崎ちゃんは遊びたい!」をキャンペーンに再び使うと発表。とはいえいろいろと騒がれたあのイラストがそのまま使われるかどうかは不明で、そこで変更とかあった場合にやはり日本赤十字社は屈したのかとか、あるいはそのまま使われた場合に日本赤十字社はどうしたんだといった声を四方八方から浴びそう。それでもやっぱり続行するところに、そうした表層での騒動を超えて輸血のための献血を求めて止まない願望が感じられる。それを騒ぎになったら勝ちだといった釣り師的なスタンスを見ることも可能だけれど、ここはやっぱり強い意思だと感じておこう。さてどんなクリアファイルが出てくるか。タイトルだけとかだったらちょっと拍子抜け。かといって献血に行くのもなあ。薬飲んでるから無理なんだけど。

 マジ海戦。マジ艦砲射撃。マジ特殊部隊。そして時々の突飛なバトルもあって心底から楽しめた「劇場版 ハイスクール・フリート」。テレビシリーズの方はちゃんと最後まで見ていたけれど、同じ女子高生ミリタリーものの「ガールズ&パンツァー」と比べてパッと咲いてはすぐに下火になったと思っていたら、しっかりと火は燃え続けていたようで数年を経ての劇場アニメーション化だったにも関わらず、それなりにお客さんも入って横須賀を舞台に女子高生たちが戦艦を操り戦うストーリーを楽しんでいた。

 前半こそはOVA版もかくやといった具合に、横須賀を歩き回るご当地紹介アニメになっていた感じだったけれど、それでも外国から来た少女を交えて何か事態が動いているような感じを出しつつ後半に、植物プラントがテロリストにのっとられ、同じようにテロリストに占拠された海上の要塞とくっつき半永久的に稼動できる要塞となるのを阻止しようとはれかぜの面々が出動しては、岬明乃の采配のものとでクルーたちがおのおのの能力を発揮して、海上要塞を相手に縦横無尽の活躍を見せる。

 操船でも機関でも雷撃でも観測でも、それぞれがしっかりと見せ場を持っていて、そうした力が重なって強大な敵を相手に艦がひとつにまとまり最大限の力を発揮して打ち破っていく展開はもう最高。天上から撃ってくる敵に対して爆雷をああやって使うのかとか、臨機応変の戦術も見せてくれて西住みほとはまた違った才気ってやつを岬明乃も感じさせてくれる。今回は副館長の宗谷ましろに艦長の誘いがあって気持ちも揺れるといった展開も挟まり緊張感もあったけれど、あの八面六臂のみけちゃんの采配ぶりをみると生真面目さだでは無理だとましろも感じたんじゃなかろーか。

 そんな、誰かが真似しようったって出来るものではないみけちゃんの天才が、今後またどう発揮されるかは気になるから、続きが是非に作られて欲しいところ。こうして年期を明けても劇場版が公開されたってことは、本腰を入れて復活に乗り出すって考えて良いのかな。見どころとしてはほかに大和武蔵信濃に計画だけだった紀伊も含めた大和型の超弩級戦艦4隻が、46センチ砲をそれぞれ9門ずつ、計36門で一斉発射する場面があって、太平洋戦争ではおよそ実現しなかった戦闘風景を、シミュレーション的に見られたのがちょっと良かった。そして凄かった。まあ現実では戦闘機が雲霞の如く押し寄せ爆弾を雨あられと浴びせるだろうから戦艦であってもひとたまりもないんだろうけれど。そういった部分を描かないところがアニメなんだろうなあ、やっぱり。

 渡辺明三冠が三浦弘行九段と名人位挑戦がかかった対局で激突すれば、いろいろと遺恨も含めて騒がれたに違いなかったけれどもA級順位戦で三浦弘行九段が三敗目を喫して渡辺明三冠による豊島将之名人・竜王への挑戦権を獲得。ここで名人位を獲得すれば初の戴冠となってそのまま保持し続け二十世名人の永世称号を獲得する、なんてことも今の調子からすればあったりしそう。一時はA級すら陥落したにも関わらず、しっかりと復調してくるところに強さがあり、そして羽生善治九段とは違った“若さ"もあるんだろう。その羽生九段は挑戦権はともかくまずはA級在位を決めたいところ。3勝すれば確実なので次の久保利明九段線がまずは勝負の分かれ目か。ここで踏ん張りタイトル挑戦を決めて100期の在位を打ち立てて欲しいなあ。


【1月23日】 大学の場合だったら卒業だと卒業証書がもらえるけれども脱退では卒業証書はもらえず「学士」の学位ももらえないといった前例に倣うなら、欅坂46を卒業する織田奈那さんと鈴本美愉さんには卒業証書が与えられて、そしえ「欅坂46士」という資格が与えられて履歴書にもちゃんと書ける一方で、脱退を発表した平手友梨奈さんの場合は「中退」と同じ扱いでまあ、履歴書には書いても良いけれども「欅坂46士」の学位は与えられないってことになるんだろう。その学位がいったいどれくらい凄いものかは知らないけれど。そして脱退でも平手さんの方に世間の耳目が集まっているという事実も否定できないけれど。

 そうした冗談はともあくとして、この扱いの差はやっぱり気になるところ。というか欅坂46の押しも押されぬセンターであり、看板でもあり顔でもある平出さんをこのタイミングで失ったらぐんぐんと伸びてきて今や坂道シリーズでもなにでもすべての頂点に立っている欅坂46の推力がぐんと下がってしまう。出すわけにはいかなかったにも関わらず出たかった平出さんの行動を、認めたくない運営がそういう扱いにせざるを得なかったってことなんだろう。結果としてあるいは織田さん鈴本さんはすぐに活動が始まるけれど、平出さんはちょっと間があいたりするのかもしれない。それもまた芸能界的な動向で厄介ではあるんだけれど。

 アニメーション会社の方で仕事を手伝っていることもあって身近にアニメーターさんがいたりする状況からその置かれた境遇が割とシリアスに感じられている昨今、そうしたアニメーターさんの大変さぶりを描いた漫画として花村ヤソさん「アニメタ!」シリーズはなかなかにシビアで、それでもやりがいのある仕事の状況をしっかり描いているということで、いろいろと勉強になったりする。そしてようやく出ただい5巻では動画から原画へと上がる試験に落ちてしまったヒロインが、悩み悶えつつもいったいどうしてといったところで、監督の人からレイアウトをコピーしろ、そしてアイラインを考えろといった指導が出ていた。

 そういう言葉が具体的に、原画としてどれだけ必要なのかはおって描かれるんだろうけれど、絵がそれなりに描けて動きもちゃんと出せていても背景とかのパースがくるっていては原画としては成立しない。自分で空間を作り動きを作れてこその原画。そこへと至る道に必要なことってのを分からせてくれる漫画になりそう。ヒロインはちょっと脇にそれて客観的に動画を眺める意味でも動画検査に移ったけれど、そこにいる大先輩が以前は覚えていた悔しさが、うらやましさに変わってしまうともう戦えないと話してた。

 うまい原画の人とかを見て憧れても、それに追いつけない自分が悔しいと思えればまだまだ上昇しえいける。でも追いつけない、ああはなれないといった感じに才能を羨ましく思っては、もうそこには至れないし別の追いかけ方も出来ない、ってことなんだろう。自分の場合はどうか、っていったところで悔しさはあるしうらやましさもあるから、泊まってしまったのかもしれないけれども歳も歳だしそこから大きく踏み出せないのもあるいは当然。一方で悔しさを感じてもいるだけに、奮起するだけのエネルギーはあるかもしれない。そっちに火を着け爆発させられるかどうか。寒さが今は萎縮させているけれど、暖かくなったらちょっとは頑張って動き始めよう。

 それはだから見ている側の安心にもつながっているんだろうなあ、だから楽しく見られえいるんだろうなあ、テレビアニメーション「痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います」。小説版として出ては70万部も売れていて、以前でもしかしたら1億円くらい叩き出していたりするかもしれないと思うと羨ましい限りではあるけれど、攻撃力がチートで俺TUEEEEではなく、ただ守っているだけで勝ってはレベルも上がってしまうというシチュエーションを、ご都合主義みたいに感じさせないで読んでいて良かったねえ、楽しいねえ、面白いねえと感じさせる筆遣いでもって書き上げるのは至難の業。それを成し遂げた時点で原作は勝利を得られ、そしてそんな喰う移換を見事に再現したという時点でアニメも成功が確約された。バトルも結構なカロリーで表現されていて、手抜き感がないのも良い。「空挺ドラゴンズ」がやっぱり上だけれどこちらも評判になりそう。見ていこう。

 「プランダラ」は漫画が原作らしいけどまったく知らず、アニメーションで見て風采のあがらないお調子者がいざとなったら圧倒的な強さを見せる展開に、これはこれでやっぱり溜飲が下がる。人は誰でもヒーローに憧れるものなのです。人によって何を成し遂げるかが違う条件でもって体にカウントが刻まれる世界。それが全部なくなるとアビス送りにされて地中から伸びる手に引きずり込まれてしまうという。そこは現実なのか違うのか。そんな世界で母親から撃墜王を探せと言われたヒロインが、歩いた距離をカウントにしてたどり着いた街で見つけた撃墜王がニセモノだったけれど、そこに現れた街中で見かけてグダグダぶりに呆れていた男が、本性を現し格好いいところを見せたあと、悪辣な態度緒見せつつその本意を示すという、2重の転倒でやっぱり憧れさせる。お気楽に見られて楽しいアニメ。アビスでも「メイドインアビス」の劇場版は地獄だそうだし、しばらくは寄りつかずこっちで楽しもう。


【1月22日】 第74回毎日映画コンクールが発表になってアニメーション映画賞は渡辺歩監督の「海獣の子供」が受賞。試写で観た瞬間に圧倒されて劇場にも足を運んでなるたけ大きな画面で見ようとしたほど、映画としてすばらしい出来たった作品だけれど2019年のアニメーション映画は新海誠監督の「天気の子。」を筆頭に、今石洋之監督の「プロメア」があり原恵一監督の「バースデー・ワンダーランド」があり湯浅政明監督の「きみと、波にのれたら」があってとアニメーション界のヒットメーカーなりベテラン監督がそろい踏み。そうした中で原作的にも半ばカルト的な人気で、それを受けて作画的にも決して一般受けはしなさそうな「海獣の子供」は興行面で苦戦を強いられた。

 ランキングには入らずレビューも多くは出ないなか、見た人を驚かせては静かに語られていった。半ばカルトムービー化しつつもあった今、こうして改めて映画祭での受賞を得ることで再び脚光を浴びて、あの複雑にして精緻な映像をまた、そこに相応しい大きなスクリーンで見られるようになれば嬉しいんだけれど。それこそTOHOシネマズのTCXとかイオンシネマのULTIRAとか。それだけあってこそ伝わる迫力と繊細さがあるんだよなあ。ともあれおめでとうございます。2月1日のロフトプラスワンでのイベントは凱旋になりそう。見に行こう。

 そして大藤信郎賞は川尻将由監督の「ある日本の絵描き少年」が受賞。まるでノーチェックだったのもいたしかたないというか、PFFアワードと行った実写メインの映像コンテストで活躍しているクリエイターで、アニメーションの世界から出てアニメーション作品を多く作ってはいない感じ。今回は漫画やイラストを組み合わせ、その流れによって漫画家を目指す少年の心情を綴った作品で受賞。表現がアニメーションだったというか、アニメーションであり得たところをしっかり認め、広い授賞させた審査員の方々に喝采。
 それと同時に実写をメインに活動している人たちが、表現としてアニメーションに着目し参入していることにも興味が及ぶ。先だってゲンロンカフェのボルボカフェで開かれた片渕須直監督と、土居伸彰さんによる対談でもそうした実写系クリエイターのアニメ作りが増えているって話をしていた。「幸福路のチー」もそうだし、今絶賛公開中の「音楽」もそう。そうしたクリエイターによる感性が、専業でアニメーションを作ってきた人たちにはないビジョンでありテーマをもたらしているのだとしたら、やはりいろいろと考える時期にあるのかもしれない。アニメーションのプロパーにだってそれくらいのテーマ性も表現性もあるんだけれど、アニメーションの枠内で捉えられ評価され外から目を向けられない、なんて事態にもなっていそうだし。混ざり合うことでどちらも突破していけるか。目を向けたい。

 うん、やっぱりお酒のメーカーとか酒蔵が参加しているプロジェクトで、お酒の擬人化キャラクターを演じる人が糖質制限をしているからといった理由でお酒を敬遠するような発言をしてはやっぱり拙いよなあ。そんな企画があったとは知らなかった「神酒の尊」という企画で、あの越乃寒梅の擬人化キャラを演じるはずだった石川界人さんが降板。伝わってくる情報からそうしたネガティブなスタンスがあったようだと分かったけれど、人は人でキャラはキャラだと言って擁護してあげたくても、繋がりが密接すぎてちょっと外し切れない感じがする。免許を持ってなくても車のCMには出られるなら、下戸でもお酒のCMに出ていけない訳じゃない。でもネガティブなニュアンスで敬遠しては流石に。まあ降板となって次ぎは誰かって話にもなりそうで、今の声優さんの声質のカテゴリーも分かりそう。待とう。

 そんな声優界に特大ニュース。「鋼の錬金術師」のエドを演じている朴ろ美さんが、「ワンパンマン」だとシルバー・ファングとか演じている俳優で声優の山路和弘さんと入籍したとか。歳の差もあるだろうし山路さんは65歳と還暦を過ぎてのご結婚。熟年で離婚する人もいる中、こうして結ばれるというのは間によほどの強い繋がりがあったんだろう。お互いに仕事相手として尊敬しているってこともあるんだろう。朴さんは前に1度、インタビューしたことがあったけど奔放な方だった。山路さんは11月に小島秀夫監督のゲーム「DEATH STRANDING」のワールドツアーに来られてたっけ。格好いい方だったなあ。ともあれ共におめでとうございます。「進撃の巨人」での共演は今後もあるのかな。聞こうその声を。プロだからのろけが混じるなんてことはないと思うけど。

 ファンタジーンの世界では昔から貴種流離譚というのはあるけど、それは貴種でありながらも放逐されたり出自が分からなかったりして苦労した果てに、ようやく陽の目を浴びて報われる展開が面白いのであって、貴種だからいきなりチートでは読んでいる方だってつまらないし、自分がそうなら権力がそのまま移行するだけでやっぱりつまらないだろうと思うのだけれど、目下のところ皇位継承権で第2位にあって天皇になるだろうことがほぼ決まっている御方が、異世界転生ものが大好きで自分が異世界に転生してそこでチートぶりを発揮する小説の設定を書いているという噂が伝わってきて、それで面白いのかと思う一方、この国では皇室は案外にチートではないが故に、もしかしたら異世界で自由奔放なチートでありたいと思っていたりするのかもしれない。聞いてみたいけどそんな機会は絶対なさそう。ワイドショーでライトノベル評論家の解説を期待。


【1月21日】  アニメーションのできの良さから「映像研には手を出すな!」とか「空挺ドラゴンズ」が入ってくるだろうと期待したマンガ大賞2020だったけれども、ノミネートには名前がならばず「空挺ドラゴンズ」推しとしてはちょっと残念。今が7巻まで出ていて来年に8巻が出るとして9巻も出てしまったら資格を失ってしまうから、今回があるいは最後のチャンスだった。アニメの第2期が確実になる意味でもエントリーはして欲しかったかなあ。「映像研には手を出すな!」の方はまだ、巻数に余裕があるから今回のアニメーションの出来を見て、推薦する人も増えるんじゃなかろーか。

 最後という意味では吟鳥子さんの「君を死なせないための物語(ストーリア)」も巻数的に最後だったので入って欲しかった。その吟さんがツイッターで少女漫画誌に連載されている作品がなかなかエントリーされないことを指摘していた。なるほど女性の作家による作品は入るけれども子供向けというより大人が読む雑誌かあるいはネット連載のものが多く、生き方なんかを語るような内容でそれは切実ではあるけれど、夢とか希望とか想像といったものからはちょっと離れている。

 萩尾望都さん竹宮恵子さんといったSF漫画の系譜を受け継ぐ吟鳥子さんの「君を死なせないための物語(ストーリア)」もミステリーボニータという少女漫画雑誌の確か連載。そうした作品が入りづらいのはそうした雑誌を読んで作品を世に紹介する人があまりいないってことがあるんだろうなあ、ネットで話題になる漫画ってやっぱりサブカルっぽい系譜のものが多いし。なので吟さんは自分で少女漫画誌に連載された漫画で面白いものを紹介していくレビューをやりたいとか。そこで読んで面白いと思われることで、とにかく最終候補に入りさえすればあとは読んで確実に上位に食い込める作品が出てくるはず。期待しよう。

 ご近所なので武蔵野市から三鷹市まで来てアニメーション文化講座 表現の追求 “手描きのアニメーション美術”に出席する。「第2回 アニメーション美術の第一人者 小林七郎がいまのアニメに物申す!」というタイトルがつけられていて何が語られるかワクワクドキドキしていたら、本当に今のアニメーションのとりわけ背景美術について厳しくも熱い言葉が飛び出した。まずは昨今の、リアルな街並みとかをそれこそ写真を取り込んで加工したような感じで描く風潮に対して。

 「固定化されたものを、ただ並べ立てるとうような、今の背景の間違ったあり方、加工映像の大流行はとんでもない! これはいつまでも続かない、これで動かしていたら明日がない!」と小林七郎さん。御年88歳にしてここまで言い切れるところが凄い。「ルパン三世カリオストロの城」なんかが有名なだけに、繊細なタッチなんかで自然を描く巨匠めいて思われるけれど、決して写実主義でもなければ印象派でも無く、源流はフォービズムとこ野獣派。わき出る完成を野獣のように描いていくことを信条としている。

 すなわち手で描いたもの、それも感性のままに描いたものをこそ尊ぶだけあって、「これからの大きな課題は人間力の復活です! カメラ映像が幅をきかしている。AI技術加工技術で人間不在の状況が作られる。そのことにいい加減飽きがきている」と訴えていた。「優れた才能が、今の加工主義でだめになないようにするには手業を磨くしかない」とも。それこそ写真の加工からAI学習によって自動生成なんて話も出かねない現代だけれど、「意外な手の動きがある。そこからこれは面白いと発見して拾い上げる。発見することがクリエイティブな上で大事だ」と、人間が感性で描く大切さを強調していた。

 東映動画に一時期いたけれど、そこでは自由さはなく決められてとおりに描かなくてはいけなかった。「○○の描き方」というような決まり事が大嫌いな小林七郎さんは1年半いて東映動画を独立。そしていろいろな仕事をしていく。その中には宮崎駿監督の「琉派三世カリオストロの城」や、高畑勲監督で宮崎駿さんも参加していた「パンダコパンダ」なんかもあるけれど、レイアウトから全て決める宮崎駿監督とは相性があまり良くなかったみたい。背景は背景として輪郭線とか入れたくない宮崎作品にあって、パンコパやカリオストロでは背景の輪郭に線が入っている。

 「やんちゃな小林だから、宮崎駿監督は疑問を持ちながらも任せてくれた」と小林七郎さん。とはいえ長続きはせず、一緒にやったのがその2作だけだったのにはそういう”対立”があったんだろう。小林七郎さんの弟子にあたる男鹿和雄さんは宮崎駿監督とはいっしょにやっている。荒ぶる筆の小林七郎さんと違って男鹿産は冬でも繊細な絵を描くから相性がよかったみたい。

 輪郭線へのこだわりは、「優れた絵本とは、同じ作者が同じ技法で物を描いている。背景だけがキャラクターと別の描き方をしたら表現としておかしい。キャラクターが輪郭線を使うなら、同じように背景も使う。息づいた線を引く方が良いんだよ」と小林七郎さん。「今の美術は存在感が薄い。おとなしい。キャラクターだけが目立てば良いだろうというもの。東映が与えた大人の価値観だ」とも。そうしたものに反対していただけあって、小林七郎さんの背景美術はキャラと同じような存在感を持つんだろう。作家性がちゃんと伝わってくる。それでいてしっかりキャラともマッチする。

 そんな成功例が出崎統監督と組んだ「宝島」や「ガンバの冒険」「家なき子」といった作品群。「大きな出会いでしたねえ。出崎統は感情移入がはっきりしている。客観的な目線を越え、主観の塊のような人、自分の実感をひたすら追いかける人でした。もうひとつの巨匠と大違い」とひとしきりくさしつつ懐かしむ。出崎統監督との相性の良さが、あれらの独特なテイストを倦んだのかも知れない。もうひとつ、自分の仕事では「少女革命ウテナ」も挙げた小林七郎さん。影が赤いあの背景には「かなりデタラメな冒険的な意図がある」とか。「グラデーションはなく色面だけで立体的な表現にする。(幾原)監督は所詮、こおn世界は現実ではなく舞台の世界なんですよ」と話してた。

 繊細で美しく丁寧な背景美術な人という思い込みの逆を行く、野獣派でポロックとかデ・クーニングとかが好きで激しく荒く手描きの描線の計算されていない感性の発露を重んじた絵を描いてきた小林七郎さん。だからこそ今の写真的背景ばかりな状況が歯がゆく腹立たしいのかも。それこそ最前線に立ってまた教えて欲しいけれど、歳も歳だし自分が出て行くことで萎縮する人たちもいるならああして喋るに止めているのかも。そんな言葉を聞いて出でよ、自分を貫く美術監督たちよ。


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