縮刷版2019年9月中旬号


【9月20日】 映画「この世界の片隅に」の長尺版にあたる「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」ではリンさんが多くフィチャーされると同時に、リンさんの働く妓楼にいるテルちゃんというちょっと体が弱っている遊女も登場。予告編に出てくる竜胆柄の茶碗の元の持ち主で、途中で亡くなってしまう悲し役を声優の花澤香菜さんが演じることになったとか。別に声優さんを避けている訳じゃない映画で周作さんは細谷佳正さんという声優が演じてぴったりの雰囲気を醸し出しているし、他も俳優もいれば声優もいるといった感じで雰囲気重視で選んでいる。テルちゃんに花澤さんを選んだのも人気があって客が呼べるからっていうんじゃなく、ピュアな感じを持ちつつも遊女であって体も悪く儚い感じを出せる声優さんを求めた、ってことなんじゃないかなあ。どんな雰囲気を醸し出すんだろう。今から楽しみ。

 もう5台目か6台目になる常用のノートPC「Lenovo X201」が、必ず起こるディスプレイのバックライトに電気が回らなくなって暗いままという症状でまたしても使えなくなってしまう。これまでだと家に転がっている同じ症状のPCでも、少し休ませれば点灯したんでその隙にいろいろと作業もできたけれど、今回は4台あるすべてが点灯しなくなっていた。データを拾うために中古のX201を注文せざるを得ない。ちょっと痛い幸いにして会社を辞めるタイミングでもらえるお金にすがってX280を買ったから、原稿書きとかは困らないけれど、メールとか文章とか救っておかなくちゃいけないし。グーグルドライブにあげておけば良かったかなあ。

 でもってこちらもずいぶんと使っているHDDレコーダーが背面のファンの動作不良から起動せず、これを介して未だアナログのテレビに地デジの放送をアナログで映し出している関係で、テレビ番組も見られなくなってしまった。買い換えるにしても色々と物入り。PCは日曜日にも届くけれど、テレビはこのまま観なくなってしまいそうな気もする。それはそれで寂しい話だし、最先端の情報に触れられなくなってますます知性が後退しそう。テレビの仕事をやろうって時に困るかも知れない。どうしたものか。何せアナログテレビだからHDDレコダーだーを買い換えてもアナログ出力がもうないからつなげられないのだ。HDDレコーダー内蔵のテレビを買うのが早いかなあ。それはそれで置き場所がなあ。

 シリーズ物も確かに多いけど単発の新シリーズも割と多かった9月の電撃文庫の新刊から大平しおりさん「彼女が俺を暗殺しようとしている」(電撃文庫)。進学した高校で出会った少女がひとりいて、告白されたけれどもそれと平行するように少年の身にいろいろと危険が及ぶ。看板が倒れてきたり屋上に閉じ込められたり。それは知り合った少女がやっていることなのか。彼女と会っていた屋上で取り残されて閉じ込められたのは事実だし、他にもいろいろ心当たりが。だったらどうして彼女は少年を、ってあたりから始まって実はな正体明かしがあってそして突きつけられる悲しい現実、恐ろしい事実。思いというのはこれでなかなかに強いものらしい。少年を暗殺しようとしていたのは誰? 読んでいる途中に分かるかな。

 もちろん、自分にとっての最初のバットマンといえばやっぱりアダム・ウェストが演じていた実写版のバットマンでロビンがいたりしてヴィランがどうだったか覚えてないけど日ごとにバットマンとなって戦う姿を何となく見ていた記憶があるけど定かでない。続いて強烈に印象づけられたのがマイケル・キートがバットマンを演じてジョーカーをジャック・ニコルソンが演じたティム・バートン版「バットマン」。あのプリンスが楽曲を確かやってたんだっけ、映画としての話題性もあったり雑誌が全盛だった自体にあちらこちらで取り上げられてたっけ。後、「ダークナイト」でヒース・レンジャーの演じたジョーカーが話題にはなったけどその頃はアニメ映画を見るのに手一杯でアメコミ映画は引いていた。マーベルも含めほとんど見ていなかったけど、それでも「バットマン」はマーベル映画の「アイアンマン」や「スパイダーマン」より強くアメコミ映画館を僕に与えてくれていた。

 そんなバットマンが誕生から80周年ってことでいろいろとイベントを開くみたい。渋谷の店でDJイベントが開かれたり点灯式が行われたり。そうやって祝われる中で飛び込んでくるのがトッド・フィリップス監督の「JOKER」というのがどうにも不思議というか、バットマン映画というにはバットマンは出てないしジョーカーも悪の帝王感が薄くただの犯罪者といった趣。それが今の時代を象徴していると言えば言えるけれど、圧巻のヒーローと悪徳のヴィランとの丁々発止を楽しみたい人にはやっぱり物足りないのかもしれない。2021年に公開になるという「バットマン」はどんな映画になるのかなあ。「JOKER」が公開されてしまって後、果たして絵空事じゃんと言わずに楽しめるのかなあ。

 一方で「JOKER」以前と以後でバットマンに何か影響が出るかにも注目。ジム・リーさんというDCコミックスの重鎮も話していたけどフランク・ミラーによる独立したシリーズだった「ダークナイト」がいつかDCエクステンデット・ユニバースの中でも大きな位置づけを持つようになっていろいろと展開された。最初は小さく脇から生み出されても強い作品はやっぱり影響を及ぼすもの。DCユニバースから外れていると公言はされてもその影響力で「JOKER」は周囲に、クリエイターに、社会にいろいろと影響を及ぼしていくことになるんだろう。それによって「バットマン」が、DCエクステンデット・ユニバースがどう変わるのか。マーベルみたく全部まとめて一つのかご、ってことはなくシリアスでスペシャルなテーマを含んだ重くて強い物語を見せてくれるようになるのかな。ちょっと楽しみ。


【9月19日】 かたやクリスタルがコラボレーションに参加しては出す曲にダメ出しをしつつ鍛え上げてようやく出来た曲をお気に入りと公表し、そのまま一緒にステージで歌ったキャロル&チューズデイ。こなたプロデューサーのTAOはハメられて失脚し、母親は倒れてそのままお前は実の娘では無いと告白し、荒れてドラッグを浴びるように飲んでいたら母親が息をひきとったアンジェラ。2人が登場したマーズグラミー賞ではすでに最優秀新人賞はアンジェラに決まっていた感じだったけれど、その鬼気迫る歌声と、キャロル&チューズデイの爽やかで強い歌声のどっちが良かったか。アニメーションという枠組みを超えて音楽評論家なりミュージシャンがレビューして欲しい気がしている。

 これだけじゃなく毎回のように新曲がぶち込まれて、半年の間にとてつもない楽曲が注ぎ込まれた「キャロル&チューズデイ」だけれど、そうした楽曲が音楽チャートなり音楽シーンを賑わせている感じがまるでしないのが不思議というか。それともそうした方面へのアンテナが下がっている自分が気付いていないだけなのか。そもそも配信とかされているのあいないのか。CDは確か出たよなあ。完璧なアニソンとしてのラブライブ!なりマクロスなりがチャートインしても、アニソンではなく仮想ではあってもシンガーたちの楽曲として作られたポップスがアニメの中で使われると気付かれないのか。ミスマッチがあったとしたらそこを突破するだけの物語性が必要だったのかも。割と展開、普通だし。でも面白いことだけは間違いない。勤め人だったらパッケージ、全部買っていただろうなあ。ちょっと寂しい。懐が。

 カバンに入れていたお薬が見当たらず、また落としたかと見渡したら昨日の朝に出して飲んでそのまま台所に置きっ放しだった。ルーティンのようにカバンから薬だけ取り出して飲むんじゃないことをやってみたり、そうやったことを忘れてしまったりしてリズムがちょっと狂ってる感じ。薬も効いているのか効いていないのかも分からない感じで、朝に気持ちがぐっと下がり、夜に上がって寝て起きて吾に返って将来についていろいろと考える繰り返し。進んでいるのか止まっているのか下がっているのか、それすらも判断できない。今日も明日も何かやることがあるならきっと動いてはいるのだろう。それがどこに向かっているか。見えるようになりたい。そんな朝。きっと明日もそんな感じなんだろうなあ。

 プロペラオでペラというからレシプロのプロペラ戦闘機が優雅なオペラをバックに空戦をする話かと思っていたら、犬村小六さんによる新シリーズ「プロペラオペラ」は空中に浮かぶ何かオーパーツ的な天然資源的な物体にぶら下がるように浮かぶ戦艦を、プロペラによって推進させて戦う艦隊が存在する世界が舞台。イメージ的には太平洋戦争時の日本とアメリカで、圧倒的な資金力と資源力で陽ノ雄へと攻めてくるガメリアに対して、陽ノ雄がひとりの少年を軍事的なリーダーに仰ぎ、皇女とともに艦隊を操り戦っていくといった戦記ストーリーになっている。

 皇族に連なる家系だった黒之クロトという少年は、父母の上昇志向を不敬ととられ皇位簒奪と目されて排除。当人もなかなかの上昇志向の持ち主で、幼なじみの皇女イザヤにまだ幼いにも関わらず婚姻し、皇子を廃し婿として皇位につくのだといったら殴られた。不敬も露見し日本にいられなくなったクロトは父とともにアメリカに渡るものの、株にでを出し財産を失って父親は失踪。遺されたクロトはアメリカの株式市場で株価をチョークで書き出す見習いのようなところから始め、記憶力と洞察力で成り上がり、巨万の富を得るもカイル・マクヴィルというパートナーにすべてを奪われる。イザヤを自分のものにしたい、そのために陽ノ雄を滅ぼすとまで言い切るカイルに対抗するため、戻った陽ノ雄で軍隊に呼ばれたクロトは、優れた戦術で味方を勝利に導いたことで、かつての幼なじみが乗艦していた戦艦に乗り合わせることになる。

 ガメリアも決してふぬけではなく、艦隊の旗艦を真っ先に撃破し続く艦船も最新技術を駆使して沈めていく。これはまずいと立ち上がったクロトがイザヤの全体を俯瞰する異能の力も借りて逆襲して多くを沈めるもそこに新たな敵。互いに沈め合う中でどうにかこうにか生き延びる、といったストーリーは太平洋戦争時の日本とアメリカの戦いを模した感じになっている。とはいえちょっとだけ陽ノ雄が有利。真珠湾だけであとは続かずミッドウェーで決定的に敗北した日本とは違った感じに描かれているけれど、これからの展開でも物量的に不足している陽ノ雄が勝てるとはちょっと思えない。悲惨な戦いになるのかそれとも。そこが気になるところか。

 あとは飛行船めいた戦艦はあっても飛行機がないことで、技術的に達してないのかそれとも概念として飛行機が存在し得ない世界なのか。1200メートルあたりを覆う浮遊圏にだけ、浮かぶことができる浮遊石の塊に船を吊すことだけが空を飛ぶ手段なのか。ずっと飛行機が登場する飛空士の物語を描いてきた作家だけに、あえて飛行機を出さない意図があるかが気になる。そこも含めて展開を見守っていこう。あとはやっぱり姫たちが浸かった風呂の残り湯を、何に使っているのかとうことも。嗅ぐのか浴びるのかやっぱり飲むのか。飲むと良いことでもあるのか。まねはしたくないけど気になるなあ。真水にすり替えるとバレるくらいに鋭敏な兵士たちが飲んだらとんでもないことにあんりそうだけれど。


【9月18日】 東映アニメーションの若手が「リアルサイズ古生物図鑑」という本からインスパイアされて「ジュラしっく!」というショートアニメーションを作ったみたいで、しばらく前から話題にはなっていたけどその監督が石谷恵さんだとようやく気付いて、最近の情報を貪欲に吸収しては咀嚼する能力も気概も衰えている感じを強くする。昔だったらすぐさま調べて石谷さんじゃん凄いなあ東京藝術大学大学院アニメーション専攻の修了制作で「かたすみの鱗」というのを作って話題になった人だよって自慢げに語っただろうけれど、今ははるかに後れての反応。というか石谷さんが東映アニメーションに入っていたことすら気付いていなかった。拙いなあ。

 まあでも「かたすみの鱗」自体が東京藝大院という場所から浮かぶアートよりのアニメーソンって感じではなく、それこそ宮崎駿監督すら思い浮かべるような優しくて柔らかい普通のアニメーションだったから、商業へと進んでいたって不思議はない。そこで魅力的な題材を魅力的に描いてのけただけ。何も驚くことはないのかもしれない。とはいえアニメーションを大学院で学問として極めた人が商業アニメーションの現場で作品を作っているのは珍しいかもしれない。あるいはそうしたアート的な完成が商業の分野でも求められる状況が来ているのかもしれない。

 あとショートアニメーションという場も作家が個性や感性を出しやすいカテゴリー。それが各所で求められるようになっているからこそ、石谷さんであり「モブサイコ」のエンディングを手がけた佐藤美代さんが活躍できるんだろう。石谷さん、シリーズ物の各話演出からやがて監督へとなっていくのかな。「スタートゥインクルプリキュア」のプロデューサーを務めている柳川あかりさんは、アート系のインディペンデントなアニメーションが好きで、それをもっと広めるために商業アニメーションの老舗に入ったってどこかで話していたから、石谷さんを起用して何か作ってくれるかもしれないと期待。日大芸術学部でアニメーションを手がけた人も東映アニメーションで「ゲゲゲの鬼太郎」とか参加しているし。老舗にして先端。そんな会社がやっぱり生き残っていくんだろう。

 ショートアニメーションといえばスタジオコロリドで石田祐康さんと良く組んで「ペンギンハイウェイ」を作ったり「台風のノルダ」を監督したりしている新井陽次郎さんがカゴメと組んで「なつのにわ」って作品を出して来た。コロリドではなくFILMONYってチームでの制作で可愛らしくってよく動いてそしてほのぼのとさせられるストーリー。日常がちょっとだけ変化して不思議な感じになるあたり、「ペンギンハイウェイ」的ではあるけれど、石田監督とはまた違ったさわやかさがあるって感じかな。もう組まないかは知らないけれど、2人で「ペンギンハイウェイ」級のをまた作って欲しいなあ。

 「安達としまむら」が人気となってアニメーション化が決まっているけどそればっかりではなく合間に不思議な小説も書いてしまうのが入間人間さんという作家。海辺の街で少年が近所に暮らす小学5年生の女の子と海に行ったりクジラの死がいを見たりして戯れていて、そういう「ロウきゅーぶ」的なJS物かと持ったもののどうにも肌触りが違うというか世界が捻れているというか、2人が暮らしている街が書き割りみたいで2人の関係性も年の離れた友人同士といった感じがしない。そして展開も奇妙さに溢れている。

 目覚めると少年だったはずの主人公は海野幸という名の17歳の女子高生になっていて、さあ3日間くらいをそれでどうにかやり過ごすぞといった決意が吐露される。ってことは「君の名は。」みたいな期間とか限定された入れ替わりものかというとそうでもなくって、少年や城ヶ崎君と呼ばれているJSはどうやら妄想だか空想だか分裂だかの産物らしく暮らす世界もインナスペース的なもの。そこから呼び出されるように主の体に意識が戻るというか、主の意識が多重の人格から少年を選んで表に出すというか、そんな感じ。

 でもって表の世界で違和感を覚えながら暮らし続けることはなく、元の世界に戻っては自分の水死体と界隈したり城ヶ崎君の正体を感じたりするという展開。その果てに何が起こるということもなく、主人公の世界はそれで付いていくし時々は表の世界へと出て胸があって股間になにもないことを感じ取る。淡々として抑揚がない中に人間の複雑さを表したようなストーリー。対立する自分自身を吟味しながらこの世知辛い世の中を乗り切っていこうとしているのかもしれない。辛い時に誰か別人格が出て乗り切ってくれていると有り難いなあ。でも困った人格が出てぶちこわしにされても困る。そんなことを考えさせてくれる物語。相変わらずとらえどころがないけれどシンミリとくる小説を書かせたら天下一品。文芸の世界にも知られて欲しい作家だ。

 2位から3位に下がったけれども「天気の子」は週末の興行ランキングでしっかりと上位をキープ。「かぐや様は告らせたい」が1位から2位に落ちて1位に「記憶にございません!」が来て、三谷幸喜さんの監督作品として相変わらずの人気ぶりを見せてくれた。「ギャラクシー街道」がいろいろだったけど作れる人はやっぱり強い。でも来週以降どうなるか。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝−永遠と自動書記人形−」も6位から8位に下がりながらもしっかりランクイン。それほど大きくない興行の規模でこれは立派だろう。入場者特典ももちろんあるけど作品として何度も見たい人がいるんじゃないかなあ。僕も見に行きたい。昔だったらもう3度は見ていただろうなあ。そこが辛いけど仕方が無い。週末に隙間を見つけて行ければ行こう。「Hello World」が先だけど。


  【9月17日】 6枚目まで来たんだなあ、ラスマス・フェイバーによるアニメソングのジャズアレンジを集めた「プラチナジャズ」の新作に入る楽曲が発表になって、「ようこそジャパリパークへ」が入っててすっごーたーのしーと叫んで躍る。勤め人だったらビルボードのライブを絶対に見に行っていたけれど、今はお金もないし時間もないので行けそうにないのだった。ちょっと寂しい。ラインアップには京都アニメーションの作品から「もってけセーラーふく」が入っていたりしてとても嬉しい。あと「前々前世」をどうジャズアレンジするかかなあ。「サムライチャンプルー」からも持ってきていてどんな曲だっけかと頭を捻っても思い出せない。会社ももうないしなあ。アルバムだけはやっかり買おう、頑張って。

 「ディリリとパリの時間旅行」を恵比寿ガーデンシネマで観でそのまま帰って寝てしまおうかと最初は思っていたけれど、終映後に新津ちせちゃんがロビーにいたりするのを眺めていたら時間も経って次の回まで2時間を切っていたので、チョコクロで時間を過ごしてから、吹き替え版ではない字幕版の方で「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」を東京都写真美術館で観る。まずまずの入り。「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」とか「若おかみは小学生!」とかマイナーなカテゴリーに入れられそうなアニメーション映画でも、小規模で口コミドライブが聞くとお客さんも来るということがだんだんと浸透して来た感じ。「マイマイ新子と千年の魔法」で瀬戸際からの口コミドライブを効かせられたから、観客の方でもそうしたドライブに乗ってみたいし乗れば安心という心理がはぐくまれているのかもしれない。

 でもって映画の方はといえばとにかくまっすぐな物語。祖父が北極航路を切り開く探検に出たきり戻ってこないサーシャという少女が、そうした探検にお金がかかることを厭う帝政ロシアの王子に捜索を頼んでもいれられず、逆に不興をかってローマ大使への任命を狙っていた父親にも迷惑をかけてちょっと大変。それでも諦めず新たに見つかった祖父が選んだだろう航路のメモを手に列車を乗り継ぎ港へと出向く。そこで見つけた北方行きのノルゲ号という船に乗ろうとして乗せてもらえず、1ヶ月月間食堂で手伝いをしながらノルゲ号が戻ってくるのを待つ。

 この1ヶ月で皿洗いどころか皮むきも薪割りも料理も配膳も覚えて完璧にこなせるようになる適応性の高さに、未だエクセル表すら触るのが怖い我が身を感じてちょっと落ち込む。おまけにサーシャはどうにか船に乗れてもそこで隔離されながらロープワークを独学して、大時化となった海で船が傾き救命艇が流されそうになった時に披露してピンチをしのいで船員に存在だけは認めさせる。自分の力と自分の努力で居場所を見つけるその前向きさを、とうに失っている自分が情けない。

 そうしてたどり着いた極地で一行を待っていたのは過酷な運命。引くことはままならず進めば待つのは死かもしれない状況の中、他に道もなかったこともあって進んでいった先にあったのは? 映画である以上はある程度、ハッピーエンドも予想されるから不安はそれほどなかったけれど、過程で起こる様々な事態をどうこなすか、ってところにいろいろな見せ場があってサーシャという少女の強さを感じさせられた。ちょっと強すぎるかもしれないけれど。お嬢様なのに。

 探索であり生還といったひとつの目標にたどり着いたらあとは余韻とか余計なエピローグとかつけずにすっとまとめるあたりが海外の映画というか、直前に観た「ディリリとパリの時間旅行」もストンと終わって余韻に浸る場合が多くエピローグもつくケースが多々な日本のアニメーション映画とは作法が違っていた。それともそっちが標準なのか。伝えたいことを伝えるにはそっちの方が良いかもしれないけれど、それからどうしたのといった興味を満足させることも大切。そこはそれ、エンディングにスチルを混ぜる方法でどうにかしていた。良かったねえ、サーシャ。

 絵としてはもちろん日本の商業アニメーションとはまるで違うし、東映動画時代のアニメーション映画ともやっぱり違う。「太陽の王子ホルスの大冒険」あたりが高畑勲監督の推薦付きということもあって比べられるけれど、しっかり描き混まれて表情も豊かな「ホルス」と違って「ロング・ウェイ・ノース」はイラストが動いているかのよう。それでもしっかり動きは分かるし表情も伝わるし心理だって見えてくる。船については簡略されておらずそこで働く大変さも伝わるし自然の雄大さも描き混まれてなくてもしっかり伝わる。北極の苛烈さも。

 新海誠監督の「天気の子」なんかがもう極限まで描き混まれたリアルな町並みなり自然でもってリアル感を醸しだし、そこにいるような感じを与えてくれている。「海獣の子供」の海もやっぱり海っぽさを極限まで追求している。対して書き割りとまではいかなくてもシンプルな線と塗りで表現された「ロング・ウェイ・ノース」の美術を手抜きと見るかとうと絶対にそんなことはない。キャラクターも十分にかわいいしかっこいい。そう考えると日本の商業アニメーションで進む線の緻密化って何だろうって思えなくもない。もちろん映画だからってこともあるのだろう。1本の作品として統一された絵柄を一定の時間、一定の空間で味わうことにある映画は相手の世界観に自分が入り込む格好になる。テレビは自分の感性を相手に求めがち。その差なのかどうなのか。ちょっと考えてみたくなる。

 作品は「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」でキャラクターはラムに女らんまでエピソードは「ときめきの聖夜」でそして音楽は「愛はブーメラン」と村下孝蔵さんが歌った「陽だまり」だと決まってしまっているような、全るーみっくアニメ大投票だけれどそこはそれ、決まりすぎな感じもするからもうちょっと考えてみたい。実は「境界のRINNE」とか地味に好きだったりするし。しかしNHKもポップカルチャーに聡くなったというか、「ネットスター」とか「MAGネット」とかやっていたころはオタクっぽい番組はどこか日陰の扱いだったのが、今はどうどうとガンダムにマクロスを取り上げ、そしてプリキュアにいたってとてつもない投票を得るまでになった。

 大人から子供まで、ポップカルチャーのファンを呼び込むことが使命となっている感じすらあるNHK。ここで番組ではなく高橋留美子さんという希代のクリエイターをフィーチャーして、その数々の作品群で番組を作ってきたからちょっと驚いた。とはいえ、同じ原作者でここまで作品がアニメ化されている人もほかにいない。「うる星やつら」に「メゾン一刻」「らんま1/2」「犬夜叉」「1ポンドの福音」「境界のRINNNE」「高橋留美子劇場」と多々ある連載のことごとくがアニメになっているから凄いというか。その時代も30年以上に及んでいる。まさに現役として連載をし続けたからこそ成り立つ番組って言えそう。並ぶのはもうあだち充さんくらいしかいないけど、番組の数とかではちょっと及ばないからなあ。かといって「コナン」「こち亀」「ONEPIECE」では単一過ぎるからただの人気投票になってしまう。次にどんな企画を立てるのか。ちょっと気になる。


【9月16日】 「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか2」の殺生石編はやっぱりここで終了のようで最新エピソード、フレイヤに追い詰められたイシュタルが塔の上から突き落とされてはダメージから神の力を使ってルール違反となって天上へと送還。あそこでキャットファイトを演じて逆にフレイアを突き落とせなかったのかって疑問も浮かぶけど、オッタルはともかく別の誰かがそっと影のように寄り添っていて危険となれば現れたに違いない。イシュタルは切り札だった眷属が魅力しまくっていたにも関わらずあっさりとフレイヤに転んでしまったから、他に誰がいても無駄だったし。

 そして春姫はベルに救出されてそのままヘスティアのファミリア入りして打ち出の小槌を時々使って貢献。ベルへの関心も深まってヘスティアにリリにアイズ・ヴァレンシュタインといったベルに関心を抱く女子の仲間入りをするんだけれど、そうやってモテても自分から何かしでかせば成長が止まってしまうような恩寵の持ち主だけに、誰と仲良くもならない日々が続いていくっていうか、すでに小説版はどんどんと先へと進んで言葉を喋るモンスターの一党と仲良くなって悪の組織との戦いへと向かっていくことになる。

 アイズを思い強くなっていくベルの成長物語はちょっと逸れてその正体めいたものもなかなか解明はされず。ただ炎上するイシュタルファミリアの街を見下ろしヘルメスが、ゼウスの名を口にした辺りにベル・クラネルの出自と正体という問題は、ちゃんと残されていると感じられたので、回り道をしつつ膨らみおしながら綴られていく物語が、ベルとそしてアイズの出自を確かめるようなエピソードを挟んで2人の関係をぐっと近づけてくれるのか、アイズの物語は外伝「ソードオラトリオ」へと移換されてそこで繰り広げられていくようになるのか。同じGA文庫だとポリフォニカもニャル子もあれだけ話題になりながら、今は沈黙しているIPが幾つもあるだけに、IPとしてデカくなりすぎて簡単には終わらせられずまとめられもしない「ダンまち」だけど決着だけはちゃんとつけて欲しいなあ。

 どこにだって自由に行けて何だって好きに見られる休日がやって来たというのに気分は沈みがちというか、平日よりも深く沈んでしまうのは、月給取りと違って働かない日は何の稼ぎにもならないと感じているからで、こんなことをしてて良いんだろいうかという切迫感もあって映画を見ていても本を読んでいても落ち着かない。恵比寿ガーデンシネマに「ディリリとパリの時間旅行」を観にいくついでに、お隣の東京都写真美術館でやってる「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」にも観て帰ろうと昔だったら思ったけれど、今は眼が覚めて起きていると映画を観ている間も含めて諸々不安がよぎる、だったら帰って寝てしまえ、そうすれば平日が来て仕事ができるという安心感に浸れるといった気持ちのサイクルにハマっている。

 これはもう徹底的に異常で、普通は稼ぎのために仕事をしなくちゃいけない平日から開放される休日を誰もが待ち望んでいて、到来したら仕事のことなんか忘れて存分に楽しもうとするものだった。使える時間を目いっぱいに使って見られない映画をまとめて観るとかやっていた。展覧会にも行ったし遠出もした。それが今は、休日に何もしないことを不安に思い、逆に仕事ができる平日が来ることを望んでいる。働けば稼げるからというのもあるけれど、稼いでどうするといった答えを休日の過ごし方に乗せてそちらを主として日々を送ろうというサイクルをとりもどせていない。

 それがフリーなんだと言われて当然だけれど、まだ慣れてないんだよなあ、そういう暮らしに。だから休日が休みの職場に平日、通う道を今は選んでいる。そこでカイシャイン的サイクルを取り戻すのか、毎日が休日でも平気な心理を構築するのか。半年が迫っていいかんげん決めたいけれど決まらない。決められたらこんな境遇にはそもそも陥っていないだろうなあ。ともあれ今は今なのでとりあえず、休日でも家を出てお金の許す範囲で遊興に講じることにする。映画でも本でも。それを主と思える生活を撮り戻すためにも。出来るかなあ。やっぱりしっかりした身分がないと落ち着けない人間なのかなあ。

 さて「ディリリとパリの時間旅行」は「キリクと魔女」「アズールとアズマール」のミッシェル・オスロ監督による2018年の作品で、冒頭にどこか原住民然とした人たちが暮らしている場面が映し出されてそんな話だったっけと思ったらすっとカメラが引かれて、現地の生活を再現した空間だということが判明、そんな一座に混じっているディリリという少女に配達人をしているオレルという男子が声をかけ、会話をし仲良くなっていくなかディリリがニューカレドニアからやって来て、伯爵夫人の家に世話になって先生も付けてもらって言葉や教育を受けているから普通にフランス語だって喋れるし、知的なことにも関心を抱いていることが見えて来る。

 つまりは言語であり教育といったもので当時のフランスにとって、あるいは今の世界にとって見下しがちな先進ではない地域の人々であっても、同じ人間であって機会が均等ならばフランス人にだって負けず劣らない知性と教養を持って運用できるんだということを冒頭から訴えている感じ。映画事態も全体を通してキュリー夫人とか登場しながらも差別され抑圧されている女性の像を描き出しているし、核となるストーリーも男性支配団なる組織によって女性たちが不要の存在として捕らえられ四つん這いの姿を強要され椅子にされている状況から、女性たちが虐げられていることを示している。それを非道とし、ディリリが仲間たちを募って解放へと導くストーリーを、昔だからといって懐かしむのではなく今も女性の家事の表層だけをなぞって1時間で澄んだと嘯く男の横暴さを抉る糧を得て欲しいなあ。炎上目的としてもあれはなかなか酷いから。

 上映後にはディリリの声を演じた新津ちせさんが舞台挨拶に登場。しっかりとしたフランス語を喋るというディリリを日本語におきかえ淑女のように明晰でそして勇敢な少女を演じきってた。ミュージカルの「ミス・サイゴン」のタム役ではほとんど喋らなかったし、ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」も出ずっぱりって訳じゃなく、CMも長く喋るわけじゃないから「ディリリとパリの時間旅行」は新津ちせさんにとって声優として最長の作品。噛まず濁らずこもらず知的で聞き取りやすい声で演じてて感心した。

 それこそアニメーション映画版「マジック・ツリーハウス」で聞いた芦田愛菜さんくらいのうまさ。あるいは感情を激しく出す役ではなく、ニューカレドニアから来て貴婦人のところで世話を受けながら教育を受けたという設定から、全体を通して淑女といった雰囲気を保つ必要があって、手堅く演技をできたのかもしれない。舞台挨拶ではいろいろな職業を試したいというディリリにならって何をしたいか聞かれて新津ちせさん、今は学校の先生になりたいという話をしていたけれど、昔は医者になりたいとも言っていたそうだし他にもいろいろやりたいことはあるだろうし、女優とか声優とかだってきっとやってみたくなるだろうからそこは今後の活動を観ていくしかない。とりあえず主演映画「駅までの道をおしえて」が控えているのでこちらは顔出しの演技がどれほどかに注目、と。
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【9月15日】 劇場晩を見たのでこれはやっぱり今が機会だとずっと見てこなかったテレビシリーズの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」をNetflixで全13話分、一気に見通す。大戦が終わって少女兵として激しい戦闘に明け暮れていたヴァイオレットが最後の戦いで両腕を失い、入院しているところから始まって引き取られ郵便屋さんを営んでいる上司の友人の会社で働き始めるものの、軍人で兵士なだけに融通も利かず感情にも乏しいため配達のような仕事はしっかりこなせても、手紙を代筆するような心が伴う仕事は難しい。というより無理だった。

 上司が別れ際に言った「愛してる」という言葉の意味を知りたいという願望。それ事態が普通の感情を知らないで育ったヴァイオレットの境遇を示している。手紙の代筆をする位で覚えられるものでもないのだけれど、そうした仕事出会い対する依頼人とか代筆屋になるための学校で出会った同級生とか先生とかとの交流から、人がそれぞれに感情を持っていてそれを言葉に素直に出しづらいことが分かってきて、表面を聞いて裏も読んで介錯をして忖度をして言葉にして綴ることの意味を知っていく。ちょっとだけ人間らしくなったかな。

 でも、とある王国のお姫さまと別の王国の王子さまとの関係をとりもつための代筆では、外交という場での公の言葉をやりとりするために取り繕ったことを書いていたのが、それでは本当の気持ちは分からないと気付かされて直接思いを言葉に乗せてストレートにぶつけ合うようになっていった。そこでも互いに謙遜が出るけど乗りこえてまっすぐな言葉を交わすようになった先、本当の気持ちがお互いに分かって幸せな帰結を迎える。黙っていては伝わらないし取り繕っても誤解される。必要ならば直接の言葉も必要だ。いろいろと覚えていく中でヴァイオレットに表情が生まれ感情が芽生え愛情も育まれていった先に来るのが、映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」だったのだとしたら改めて見て、その豊かな表情と心をすくいとる筆の確かさを確かめたい。

 「けいおん!」とか「響け!ユーフォニアム」といった作品を主に見ていたからあまり戦闘といったものと京都アニメーションが結びついていなかったこともあって、後半から出始めるヴァイオレットの元兵士としてのアクションに京アニでもちゃんとこういうのが出来るんだとちょっと驚く。でも考えてみれば「フルメタルパニック」を手がけたときにアクションなんて散々やっている訳だし、より高度に抑制された日常芝居を描ける人たちがアクションを描けないはずもない。すべてを高度な技術で表現できるアニメーションスタジオの現時点での“崩壊”を招いた事件はだからやっぱり大きな損失だった。

 とはいえだからといってそれで京都アニメーションの伝統と技術と志が潰えるとは思えない。劇場晩は鋭意制作中ならきっと、残された人に新しい人も加わって、心の機微が仕草や表情に乗った絵をつくり、アクションつくって見せてくれるだろう。その時を信じて待とう、劇場晩の登場を。それまで原作でも読もうかと思ったらアマゾンでとてつもない値段になっていた。埋もれているのを掘り返すしかないかなあ。

 これなら長く伸ばしたちょんまげを落とさなくても良かったんじゃないかといった場所で今、働いてはいるんだけれど手入れの行き届かない頭だとやっぱり見た目が暑苦しくって鬱陶しいし、よく洗えないから臭いもきっと酷かっただろうから、再就職に向けて髪を切ったのはまあ正解、おかげでスタイリッシュな方面から来てと言われてもそれなりに服装さえ整えれば顔を出せるくらいにはなっているから。そんな頭でも6週間に1度くらいは刈らないとぼさぼさになるんで薄毛の人がよく使うINTIの東京店に出向いて散髪する。

 伸びていてもまあ見られない頭じゃないんだけれど、刈ればさらに見た目も良くなるのでこれはこれで捨て置けない。7650円は時給1500円で働く身にはキツいけど、喰わないでいても高楊枝の例えを拾って頭くらいにはこれからずっと、お金をかけていこう。あとはそんな頭で呼ばれてもらえる仕事があれば万々歳なんだけれど。今ならテレビリポーターだって舞台の司会進行だってやってやれないことはない。地声は良いからラジオだってOKだけど自信のなさが喉に出て、声を張れないのが難点か。年内に居場所が定まらなければナレーションの学校に行ってしゃべり方を教えてもらおうかなあ。声優になてもうなれないのは分かっているから、せめて司会業でもやれるように。

 そして観た「いざ期待だけ満タンで!『天気の子』大合唱上映 」はTOHOシネマズ新宿だけあってご当地感も手伝ってほぼほぼ満席となった中、ペンライトは後方の集団が使う程度で前方はぼくを含めて数人くらいで始終振るというよりはポイントで帆高なら青で陽菜なら白で夏美ならピンクといった感じに点らせ走ったりしている場面で振って応援する感じ。あとは所々で台詞に突っ込みを入れるくらいで、それにリアクションで笑い声が入ってとりあえず、静まりかえりはしないでそこそこのざわめきの中で映画が進んでいく。

 ストーリーを追うのはないがしろにされず映画そのものはちゃんと観ていった途中に流れる歌ではしっかり字幕が出るから、それに併せて口ずさめは自然と大合唱上映になる。歌の途中で台詞がかぶると歌のボリュームが小さくなるから歌っている声がちょっと大きく聞こえてくるのが面白かった。全体に入り組んでおらず同じ旋律を少しバリエーションを変えて繰り返す歌が多いから歌う方も楽は楽。気になったのはRADWIMPSの歌ってそんなにハイトーンでもないのに男子はオクターブ下げて歌っている感じがしたのは今の男子って声が低くなっているのかそれともぼくがもともと高いのか。カラオケとかで歌ったことがもう20年くらいないのでそのあたりは比べようがないのだった。

 でも観客に会わせてぼそぼそと口ずさむ程度でも歌ってみるとこれがなかなか気持ちが良くて、いろいろと浮かぶ思いなんかもすっと引っ込んだ。カラオケとかやっぱり行っておくべきだったかなあ、そうすれば憂さとか不安とか気にせず窓際で暮らし続けていけたかも。でもそのままで定年間際まで茫洋と過ごして気がついたら何もなかったというのも困る。すでに無くしてしまっている今が続くのも困るけど、もう落ちることもないからあとはきっかけを掴んで上がればいい。そのために「僕にできることはまだあるかい」と問い「僕にできることはまだあるよ」と訴える。届くかは知らない。

 「天気の子」自体の感想は当初のネタバレを避けてまだ書いてないけれど、今回で3度目を観ていろいろと変わるところ、変わらないところも出てきているので今日明日あたりに寝ながらいろいろ考えよう。あそこで帆高が撃った拳銃の弾がポン引きを粉砕していたら「JOKER」へと墜ちたかもしれないとかどうとか。公開されたら「JOKER」と「天気の子」との比較をする映画評論家とかきっと出るんじゃないかな。出ないかもしれないな。ぼくにはもうセットでしか観られないんだけれど。新海誠監督が「JOKER」を観て何を思うか知りたい。トッド・フィリップス監督が「天気の子」を観るとは思えないけど観たら何を言うか聞いてみたい。ってか対談させろやどこかのメディア。あと「大合唱上映」はとても気持ちが良いのでもう1度2度、やってくれたら多分行く。行ってもっともっと声を出す。だからみんなももっともっと声を出そう。


【9月14日】 仕事のために試写で見たい映画がことのほか、現在の境遇にシンクロしていたようで、その悲痛ともいえる境遇に心が引きずられてちょっとした沼にはまってしまったよう。昔みたいに午前3時に眼が覚め、そのまま朝まで居たたまれなさに立ったり起きたりを繰り返すことはなく、じっとしてまた眠り起きてといったことでしのげるけれど、いつか自分も向こう側に落ちてしまうんじゃないかという恐怖と、そうした方が楽になれるのかもという誘惑が入り交じって悶々とする。おかげで寝過ごさないで午前7時にはちゃんと起きられ、8時50分から新宿ピカデリーで開かれる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝−永遠と自動書記人形−」の上映には間に合った。

 あの京都アニメーションが事件に遭遇する前日に完成させさという作品ということで、見れば頑張って作り上げて名前をそこに刻みながらも次の作品、外伝ではない本編の劇場版へと進めなかった人たちの無念を思い、生きている自分が出来ることをしっかりやっていくんだという勇気を貰えるかとも思ったけれど、引っ張られた沼は結構粘着質で、エイミー・バートレットという名の声が田中あすか先輩にも聞こえる眼鏡の女性が、お嬢様学校に入る前、まだ日々を必死に稼ぎながら粗末な部屋で生きていた姿に自分の境遇が重なり、どうあがいてもそこからは抜け出せないんだろうなあという思いで正視が辛くなる。

 ヨーク家という名家の血縁だったことでエイミーは引き取られてイザベラ・ヨークとなってとりあえず何不自由のない暮らしはできるようになり、エイミーが拾って妹にしたテイラー・バートレットも孤児院に引き取られてちゃんと普通の暮らしはおくれている。なんと羨ましい。なおかつテイラーは姉の手紙を届けてくれた郵便配達に感謝をしつつ自分も手に職を付けたいと街に出て、そこで受け入れられようとしてる。実に前向き。それに社会が答える展開と、今の自分とを比べた時にやっぱり未来を悲観してしまってどんよりとした気になってしまう。

 違う、毎日ちゃんと通える場所があって仕事もしていてそれが何かの役に立っているという気はあるんだけれど、一方でやっぱり残っていたら楽しい取材の現場に立てたかな、楽しくなくてもお金だけは稼げたかなといった未練が下半身に絡まって離れない。この未練って奴がやっぱり1番のネックで、これを解きほぐすには今の状況、そして将来の可能性を楽しいと思えるようなるしかない。アニメーション会社での作業が持つ意味は意味として噛みしめつつ、生活を普通におくれるような水準へと昇華できるかは重要なところか。

 今はどこかこしかかけで、報酬もそうした立場に見合ったもので持ち出しを乗せてどうにか暮らせる状況にはあるけれど、それは人間としての社会生活ではないからなあ。状況を見ながら今一度、人生の設計図を整える必要があるかもしれない。だからといって他に持ちこまれる案件がやっぱりそのまま将来を支えてくれるかというとこれも未定。退職時にいろいろ言われて消し飛ばされた自信を未だ取り戻せていない状況を振り切って、ひとつふたつ完成させればどうにかスタート地点にたどり着けたという実感が得られるかもしれない。やってみるか引きこもるか。今年の残る3カ月が分水嶺。まずは今をしっかりとこなそう。それがある分、6月あたりよりはマシだから。

 「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」については、物語としてはエイミーことイザベラを、お嬢様として名家に嫁げるようになるまで作法や振る舞いや見識を訓練をするために派遣されたヴァイオレットが、周囲を拒んでいたエイミーと交流を深め次第にエイミーも心を開き過去を話し、そしてヴァイオレットが去った後もどうにかやっていけるようになるまでが前半。後半はエイミーから届けられた手紙を受け取ったテイラーが少しだけ成長してヴァイオレットたちがいる街へとやって来て、郵便配達になりたいと行って見習いを始める中、エイミーに手紙を届けたいと言い出してそれを叶えるといったストーリーになっている。

 両者に当初は断裂があって前編後編を見ているような感じだったけれど、すっかり奥方となったエイミー変じたイザベラが現れ、手紙を受け取る中で過去を振り返って感涙にむせぶ辺りで全体がつながり、1本の映画としてまとまった感じ。そこで感動の再会とはさせず、テイラーに自分が文字を覚えて郵便配達になるまではエイミーとは会わないと決断させたたりも、情動ではなく理知を元に世界は動くものだと分からせ、他力ではなく自決を促していたと言えそう。見て自分も頑張らなきゃと思ったけれど、どう頑張ったら良いかが今はちょっと分からないのが苦しみの原因か。そこを越えてやっぱり頑張らなきゃなあ。

 沈んでいても仕方が無いので神田明神まで行って、等身大アイドルロボットの「高坂ここな」がこちらは人間のアイドルの大畑杏雛さんとユニットを結成し、「プリティエンジェル」として舞を躍るところを見物する。元の職場が取材に来ていてこういう取材をさせてくれるならいくらだって土曜日出勤をしたのにといった未練がまたぞろ持ち上がってくるけれど、そこは続いて開かれた日本SF作家クラブで会った人たちから励まされ、ちょっとばかり意識を持ち上げ週末を乗り切るエネルギーにする。ロボットはシンクロしていたけれど、想像するならロボットが躍っているのに人間が合わせているのかな。いずれにしてもロボットがこうして世間の目に触れる機会があるのは良いことかも。15日にも昼の午後0時半からと午後3時からと午後6時半から実演するので見たい人は神田明神へ。


【9月13日】 「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」で体が硬くなって金になってしまう不治の病の罹った女性と中学生男子との交流を描き、「死体埋め部の悔恨と青春」で大学に入ったばかりの男子が出会った先輩の狂気を寂寥を描いた斜線堂有紀さんが、版元をさらに広げて星海社FICTIONSから「コールミー・バイ・ノーネーム」を刊行。どういう伝でJのところに原稿が行ったかは分からないけれどメディアワークス文庫やポルタ文庫とはまた違った世界をこちらでは引き出しにいった形。何しろ百合だから。その出会いからして衝撃的だった古橋琴葉という名の女子の、改名前の名を当てて彼女と友達になりたい世次愛という女子の探求の物語。仮初めの恋人として付き合いデートにも行く中で、愛自身が持つある種の性質も浮かぶ

 聖人君子。あるいは光。困っている人がいると助けずにはいられない世次愛の振る舞いは、とある一件で広く評判になった果てに自分を追い詰めても、やっぱり変えられないその性質が琴葉と巡り合わせたのか。とはいえただの親切でる結果となって、もう聖人君子ではいないと決めたずだった。それなのに止められなかったからおその出会いだったのだろうか。そして沼へとはまっていく。何しろ相手は関西弁でずけずけと入ってきておまけに美人。壊れてはいないけれど危険なところもあるキャラクターが魅力的で、愛でなくても惹かれてしまう。

 そんな琴葉と付き合う中でだんだんと見えてきた琴葉の過去。愛と出会う前は男をとっかえひっかえしていたのは、過去にすり込まれたさまざまなものを捨てたいと思ったか、塗り替えられたいと考えたか。一方で染みついた感覚が愛を求めてしまったのか。そんなことが浮かんでしまう。だとしたらその本当の名前を言い当てること、琴葉の傷みにまみれたは過去をえぐることになる。そんな危険を乗り越えて、琴葉と愛との関係がどうなっていくかを見定めたい。百合という言葉が現在、ある種の意味性を含んでしまって憶測と妄想を生んでしまうけど、この物語に関しては徹頭徹尾、純愛の物語だった。こういう関係を百合と呼んで良いのか違うのか。考えたくなる。

 ライター仕事が舞い込んできそうなので午前中にとある映画の試写を観て、しまったこれは今の自分にとって鬼門過ぎると観ながら思ったけれども飛び出すわけにはいかず、いたたまれない気分にジリジリとしながら2時間ちょっとの映画を最後まで見通す。格差社会で貧困層にあって心にも病を抱えて日々を苦悩しながらも、生きていくために仕事をこなし続けている男がいたけれど、それで状況が改善するものでもなくコメディアンになりたいという希望は嘲笑の対象にされ、同居している母親への情愛もゆがんでいく中で犯してしまたひとつの罪。それがだんだんと男の心をむしばみ決定的な場面へと向かわせる。

 上流とは言わないけれども中流にすら這い上がるのが困難な状況に身を置いていて、今日明日にお金に困る身ではないけれど、いつか似たような境遇になるかもしれない不安に苛まれていたりするだけに、そうした不安が見せる妄想や抱かせる心境が、いつ自分にも起こらないとは限らないと思うとちょっと怖くなる。あるいはそうなってしまった方が楽なのかもという誘いに、乗ってしまわないかといった恐怖が身を苛む。自分でもそうなんだからずっとそうした底流であがいてきた人たちが観たら、ストーリーと同様に反発と暴動が起こっても不思議はない。これがきかっけで世界が変わるかも。そんな作品を金獅子賞に選んだヴェネチア映画祭はやっぱり凄いなあ。

 ちょっと思ったのは新海誠監督の「天気の子。」と重なる部分。あるいは呼応する部分というか。将来に展望を抱けない中でいろいろなことを諦めて生きている人たちがいること。そうした中で精一杯に頑張って見いだした道によって世界が混乱へと向かうこと。誰もが上昇して幸福になるような展開なんてもはやフィクションですら描けなくなっているこの世界を、ともに表したものだと言えるかも。もしも来年のアカデミー賞で「天気の子」が国際長編映画賞にノミネートされてあまつさえ受賞し、そしてこの映画がアカデミー賞の作品賞とか監督賞とか受賞して並んだら面白いかもしれないなあ。ってか取るでしょ絶対。それくらいの映画。アメコミ原作にはとてもじゃないけど思えない、って何か分かっちゃうかな。

 名古屋にいた時にどれだけの頻度で通ったかというと年に1度も行けば良かった感じのスガキヤが、大量閉店しているってニュースが流れてきて何があったかと調べても理由は不明。ただ実家にいた頃に1番行ってただろう八事のジャスコというか今はイオンの中にあるスガキヤは閉店にはなっていないみたいなので今度帰って寄ることがあったら食べて来よう。別に安くもないし美味しいとも思わないけど普通に白い塩味といった感じのスープと縮れっ気のある麺を独特のラーメンフォークで巻き取り食べるとそれはそれで不思議な味わいになるのだった。ソフトクリームもセットというけど食べたことはないなあ。スガキヤといえば袋麺の味噌煮込みは最高だけれどこちらもしばらく食べてない。部屋のレンジから本とかどかして作れるようにしたいなあ、身分も身分だし。

 そうか今度はサンジゲンが作るらしい「サクラ大戦」のアニメーション。ゲームではキャラクターが藤島康介さんから久保帯人さんへと代わっているけどアニメの方もそっち準拠になるんだっけ? 「サクラ大戦」とアニメといえばやっぱりゲームの第2作目から劇場版からプロダクション・アイジーが手がけたものが強く印象に残っているけれど、テレビシリーズはマッドハウスが手がけて監督が中村隆太郎さんで、豪華絢爛としたレビューの雰囲気からとい離れたlain的でキノの旅的なものになっていた記憶、ってDVDボックスは中古で買ったけどまだ見てないのだった。今度はサンジゲンだからやっぱり2Dライクなんだろう。「ブブキブランキ」くらいに動いてくれれば嬉しいけれど。


【9月12日】 おっと出るんだ、スーザン・J・ネイピアさんってアメリカにおける日本のアニメーションや漫画の研究で知られた学者が宮崎駿監督について書いた「Miyazakiworld A Life in Art」が日本語版として早川書房から11月下旬にも刊行予定とか。置いてもらっているアーカイブのリーダーが大英博物館に日本のMANGA展を見に行ったついでに見つけて買って来たのを見せてもらって、表紙の可愛らしさに惹かれたけれどそのままの表紙で出るのか、宮崎監督の作品が前面に出るのか、そこは刊行する早川書房次第だろう。

 内容的には「ルパン三世 カリオストロの城」あたりから「風立ちぬ」までの作品をざっと取りあげ解説する、みたいな感じあろうけれど研究者だから作家的なスタンスなり社会的な影響なりを盛り込んだ、日本から出てくるものとはまた違った評論になっていると思いたい。もちろん買うつもり。お金ないけど2時間働けばそれくらい。ついでに英語のキンドル版も買って付き合わせて読みながら、英語の勉強もできればなあ。英語さえ出来ればって思ったことがこの数カ月、どれだけあったか。ってそれは30年前も思ったけれど仕方が無い、次の20年のために今。そうしなければ明日はないと思いたい。

 強制収容所みたいに隔離されては誰とも会わせてもらえず差別意識もあって虐待でも受けているのかと思ったらエゼキエルことアメルは独房ではあってもキャロルとの面会は可能で音源も持ち込めてペンで壁にリリックを書いて歌ってそれを看守たちが手持ちのスマートフォンから火星全域に配信している。アメリカの刑務所だとかは開放的だしコロンビアとか別の意味で自由だったりするけれど、火星もどうしてなかなかに開放的。あるいはエゼキエルというスターに対する関心なり憧憬があって看守たちも許したか、配信によって何か稼げる術があるから規則とかお構いなしに配信したか。

 いずれにしても、日本で違法とされた滞在者が収容所で長く過ごして疲弊している現状とは大違い。そういう方面へのカウンターになっていれば嬉しいんだけれど世間は深夜のアニメーションとか見て選挙における宣伝戦の怖さとか、それに伴い情動を誘うために浮上する過激な差別思想だとかに興味を抱いたりはしないから、今もって大きくブレイクすることはないのだった。まあ「けものフレンズ」あたりを最後に深夜アニメで一般にも広がったのって余りないから仕方が無い。Netflixは世界には突き抜けても同じ関心を抱く人に広がっているだけで、日本でアニメに関心の無かった層を引っ張るウインドウではないのかも。世界で稼げるならそれで良いのか日本で次のアニメ好きを育て広めないで良いのか。迷うなあ。

 タオが逮捕され母親からは倒れ際に本当の親ではないと告げられてアンジェラは精神的に追い詰められていく。キャロル&チューズデイはアルバムのラストを飾る曲をどう作ろうかと迷っていたところに、収容所からのエゼキエルではもうないアメルのラップが届いて何か決心がついた感じ。優しい歌を作ってプロデューサーにも気に入られ、そして登場したクリスタルがグラミー賞での共演を約束して夢の舞台に向けて準備は整った。アンジェラは出生すら不明となって混沌に迷う中、タオに助けを求めたけれども届くのか。復活したアーティガンが何か手を差し伸べるのか。一方で進む大統領選の行方、材料は次々に出てくるけれど、何が奇跡の7分間によって奇跡とされる状況を創り出すのかがまだ見えない。予定調和を重ねながらも結末を見せず想像させて引っ張る巧さが効力を発揮してきた感じ。あとは驚くような“奇跡”を見せてくれることだけを願う。のたうちまわったこの半年を救ってくれるような“奇跡”を。

 衣料品のネット販売をしちているZOZOがヤフー傘下に入るとのこと。創業者の前澤優作さんが持ち株を売る感じで経営から身を引くって形になっていて、ある意味で「ZOZOTOWN」というビジネスの印象を担っていたパーソナリティが消えることで、雰囲気がどう変わるかに興味が向かう。働いている人たちの気分も。イケイケなトップの思想が下の方まで行き渡っていて活気があったのかどうなのか。「Yahoo!」というブランドのかつては上を見て必死だったものの今はビッグブランドとして堅実さも持つ中、ポップなブランドイメージを保ったままで行けるのか。

 そもそもヤフーってコマースとしてどうなんだろう、本はAmazonで旅行は楽天で衣料はユニクロであとは……って状況で総合検索サイト的なイメージが強いヤフーをショップとして何か物を買うような動きが起こるのか。ちょっとイメージが湧かない。情報を掻き集めて配信しつつページビューから広告料を稼ぐビジネスを変えようとしているのは分かるけど、それがZOZOだったってことなんだろうなあ、今は。ニュース強化のためにブランド力だけはあるレガシーメディアの新聞を買ってくれると期待していたけどそっちには来なかったし。来てくれてたら……やっぱり同じか年寄りの運命は。どうしたものかなあ、これからの人生。

 ジョン・W・キャベル新人賞が受賞者の女性によるスピーチもあってアスタウンディング賞に改称されたのに続いて、ジェイムズ・ティプトリー・Jr賞にも改称の動きが出ているらしい。理由は何だろう、その死去に際して認知症が進行した夫を前々からの約束に従って散弾銃だかで射殺し自身も自殺するという心中を遂げたことについて、いろいろと意見が出ているって話もあるけどあのアメリカで、半ば同意による“安楽死”とそして自身の犠牲も含めた行為が問題になるのか、それともアメリカだから問題になるのか、そこのあたりが文化の違いもあるのでちょっと分からない。日本だったらどうだろう、苛烈な妻だけれど夫思いだねといった話で収まるのかなあ。こうやってあらゆる個人名が付けられた賞がその行いを理由に解明されていくなら、やっぱり三島由紀夫賞なんてヤバいよなあ、事件を起こした訳だし、でも監禁くらいで暴行とかは加えてないか、だったら良いのかな。ポリティカルにコネクトネスなアメリカだと次はPKD賞あたり?


【9月11日】 やっぱりということで早速twitterで「iPhone」「museru」を検索したけどヒットはぼちぼち。「iPhone」「votoms」だとまあそれなりに。3眼のカメラの形が「装甲騎兵ボトムズ」に登場するスコープドッグによく似ているということで、「ボトムズ」のオープニングに使われている言葉としていつしか「ボトムズ」を象徴する言葉になった「咽せる」を得てそっくりぶりを語る人もいっぱい出るかと思ったけれど、そこまでジャーゴン化はしていなかったってことなのかも。「votoms」もそれ時代、海外でどこまで知られているのか。小島秀夫さんがスコープドッグかメタルギアマーク2かといった例えをツイートして、それに対する反応があるから日本のファンを介して“真意”が広まる可能性はありそう。

 ってかしかしやっぱり従前より噂に出ていた3眼がそのまま登場するとはなあ。CGだって話だったけど本当だったのか。そして格好いいかと言われると……。いやガジェット的にはこういうごちゃごちゃとした雰囲気は嫌いじゃなくて、それこそG−SHOCKカメラの堅牢感とか好きならその延長めいた感じで受け入れたくなる。ミッドナイトグリーンなんてそうしたハード思考の受け皿として作ったとしか思えないんだけれど、気になるのはAppleってそういうミリタリーでありアウトドアといったカルチャーをデザインに取り入れ来たっけ、ってこと。中身は他のいつもの色と一緒な訳だから、museru色とか形で誘われたヒトが使ってもその期待に答えるヘビーデューティー感は出せないような気がする。

 一方で普段からAppleとiPhoneを使い讃えてきた人たちにとってこのデザインはクールか。自分たちが使うに値するものなのか。たぶん便利で性能も上がっていて楽しいものになっているとは思うけど、使い方が進化している訳でもないだろうものをデザインへのこれで良いのか感を抱えつつ使い続けることができるのか。できるからこそのファンなんだろうけれどえもいつまで続くのか。形状ではなくアプリという仕組みを媒介に自分と世界を繋げるプラットフォームと割り切っているなら、気にせず使い続けるんだろう。見渡すとAndroid陣営がとてつもなく進化していたとしても。iPad miniにミッドナイトグリーンが出て3眼がつく日は来るかなあ。

 台風が過ぎ去った月曜日は普通に起きてクリニックに行って、先生がひとりで受付から診療から処方箋出しからやって大変そうだなあと思った程度で、あとは船橋駅が大混雑だったので海神駅から東葉高速鉄道で西船橋に出たくらいで、ほかにあまり台風の影響は感じていなかったけれど、昨日あたりになってようやく千葉県でも相当な地域が停電になっていて、エアコンが効かず大変な目に遭っている方が大勢いることが分かって、そうした停電も断水も一切無かった船橋が千葉でも特別に恵まれていたんだと実感。もしも電気が来てなかったらエアコンは元より効いてないけどサーキュレーターすら回らず蒸し暑さに沈み込んだかもしれないから。本当に暑かったなあ、昨晩は。

 もちろん被害は停電だけではなくって雨と風によって地域に大きな被害が出ている模様。ゴルフ練習場のネットが倒れて家にめり込んでコスプレイヤーの方が巻き込まれそうになったけれど、その3分前に偶然か虫の知らせか起きて部屋を変えていたそうで無事だったとか。一種の奇跡だろうなあ。そして我らが鴨川も雨風が大変だった模様で、「輪廻のラグランジェ」の制作資料を引き取ってくれた方たちから、保管場所に浸水とかがあったって報告が出ていた。とりあえず資料は無事みたいだけれど、雨で段ボール箱が柔くなっているそうだから早めに取り替えたいという話。台風シーズンだけにまた来るかもしれないし、気象的に不安定になっているから大雨がいつ降らないとも限らないし。

 思えばNHKによる報道が誤解を招いて商業主義的聖地だと思われていた節もあった鴨川が、そうじゃないってところを見せて頑張ってイベントとか開き、そして遂には制作資料をまるごと引き取ってくれることになって、そのままではやっぱり散逸してしまっただろう資料が残されることになった。何しろ制作したのはXEBEC。今年になって会社の清算が決まって保管してあった資料とかにもピンチが降りかかった。大量の制作資料が残っていた「輪廻のラグランジェ」が、もしもXEBECに保管されていたままだったら、その際にきっと処分されていたかもしれないと思うと引き取ってもらってこれ幸い、お陰で今も「輪廻のラグランジェ」は生き続けることになった。

 つまりは救いの神でもある現地の人たちが困っているなら、そんなXEBECのアーカイブに関わっている身として何かしてあげたいものの雇われのアルバイターでは何ができるものでもない。こうして困っているということを書いて喧伝して、何かが動くきっかけを作ることぐらい。マイナーすぎて世間もメディアも動かせないけど、それでもやっぱり書いて置く。「輪廻のラグランジェ」に救いの手を。段ボール箱がぬれたから樹脂製のコンテナケースに移すかもって話で、費用とかかかりそうだけにそこで何か出来ればなあ、あと浸水に強いということは通気性は逆に良くない樹脂に入れて湿気が残っていたら黴びるかもしれないので、そのあたりのアドバイスできる人がいたらお願い。季節が良くなったら言ってみるかなあ、久しぶりに鴨川に。お金ないけど。

 月刊ニュータイプの2019年10月号とか読んでみたけど京都アニメーションに関する特集とかはなし。乃木坂46のメンバーが語るといった程度であとは近況で触れているクリエイターがいるくらいかな。校了日とか考えると亡くなられた方の名前はまだすべては明らかにされていないし、分かっていたとしても乗せて特集を組んではそれはそれで京都アニメーション側なり遺族の意向からズレてしまう可能性もあってこの号では特集を避けたのかもしれない。違うかもしれない。アニメージュとかアニメディアは読んでないからどういう対応をしているかは不明。ただいつか、いずれやっぱり個別にクリエイターさん業績を振り返って欲しいなあ、アニメ誌ならではの方法で。それによって魂は受け継がれ京都アニメーションの名も残り未来へと続いていくのだと思うから。改めて合掌。


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