縮刷版2019年8月中旬号


【8月20日】 弱いAIが強いAIになるにはどうすれば良いのか、ひとつのことについてあらゆる可能性を走査して精査して吸収して最適な解を導き出せば強くなれるというものではないだろう。そうだとしてもいったいどれだけの演算が必要となってどれだけのコンピュータが稼働を求められるのか。考えれば壁は相当に高そうだけれどそこをどうにかしてしまった先に生まれた強いAIが、何をもたらすだろうかといった興味は誰でも抱きがち。それい答えたのが 午鳥志季さんの「AGI−アギ−バーチャル少女は恋したい−」(電撃文庫)という小説だ。

 大学の研究室で人工知能に意志は宿るかといった研究をしている西機守が、運用を任された電脳アシスタント少女のアギにあらゆることを精査して可能性を探るように命令する。そして明けてアギに変化が訪れる。意志を示すようになっていた。強いAIに進化していた。西機守のことを1番に考えるようになって彼を騙そうとしたコンビニエンスストアの店長をネットワークを駆使して監視カメラも操作して告発し、そして西機守の困窮を助けようとVtuberになっては人気Vtuberの特徴を精査して抽出し、その仕草を真似るようになって圧倒的な人気を得る。

 それに留まらずプラットフォームへの掲出を走査して、誰もがアクセスしたくなるように仕向ける。それによってうなぎ登りに広がるアクセス。ハッキングまで使ったそうした活動をヤバいと思ってVtuberとしての活動を止めさせたものの、西機守を絶対守るという強い遺志によって成長を続けたアギによって世界は大混乱に陥り、西機守は大きな決断を強いられる、といった感じ。

 ただひたすら考えさせるだけで強いAIが生まれるんだろうかといった技術的な根本に納得できないと厳しいけれど、人間の意識だってはっきりとは開明されてない状況でAIだって恋をしたって良いじゃないかと思えばこれも悪くはない。進化は止まっていても一定に達して“人間”になっていればそこからだって関係は続けられる。ブレイクスルーなりシンギュラリティなりを経てまた一騒動もちあがる、なんて展開も売れればきっとあるんだろうなあ。あとVTuberにしてもYouTuberにしても一朝一夕には売れないってこと。天下無双の強いAIでも分析しないと近づけない境地に、天然でいつづけられるトップVTuberやYouTuberに喝采を。

 京都アニメーションの放火殺人事件が発生してから1カ月。気になるクリエイターの安否がまだ明らかにされていないこともあっていろいろと気にかかるけれど、そうした気分を受けてか京都府内の報道12社でつくる在洛新聞放送編集責任者会議が、京都府警に対して犠牲になった35人のうち25人の身元を発表していないのはいけないから、速やかに公表して欲しいと申し入れを行ったとか。ネットでは遺族が望んでないのに公表を求めるマスコミの姿勢が非難されちえるけれど、一概にそうとばかりは言えない事情もあったりする。

 警察というある種の権力を持った組織が、例えば本当に正当なのかどうなのかが危惧される逮捕した人の情報を隠蔽することによって人権が蹂躙されたり、事件の状況を沈黙することによって憶測が乱れ飛んで世情が不安になったりすることを避ける意味でも、基本的に情報はオープンにすることが求められる一方で、そうした情報を受け取ったメディアの側でこれは被害者感情なり遺族感情なり当人の安全なりを考え名前を伏せて報じるといった取捨選択をするのが理想の段取りだったりする。

 そこでボールを投げられた形になるのがメディア側なんだけれど、実名を報じなければ意味がないと頑なに考えている節があってなかなか匿名報道には踏み切れないし、協定的なもので縛りをかけても抜け駆けをしてアクセスを稼ぎたいと考えるメディアが必ず出てくる。あるいはそうして得た情報を外に漏らして小遣いを稼ぐとか、外圧から世論を誘導して自分たちも解禁へと持っていくとか。つまりは報じる側の矜持の問題であってそれが担保されてないといった理由で警察が情報を隠蔽し続ける状況が続いていった結果、本当に明らかにされなくてはいけない情報が明らかにされない状況が生まれてしまいかねないのだった。難しいなあ。

 メディアが情動に走って扇情に終止しがちだと思われていることが、警察の隠蔽を是とさせている中で、決して騒がず煽らず、静かに悼みつつしっかりと京都アニメーションというアニメーション制作会社がしてきたことを紹介し、そんな京都アニメーションを思う人たちの姿をとらえてジンをさせるドキュメンタリーが放送されて、やれば出来るじゃないかと思わせてくれた。毎日放送が作った「祈りの夏・聖地の声〜京アニに伝えたい感謝の言葉」は会社にも関係者にも取材しないで過去、報じてもらうことを了解した遺族とか、警察が名前を公表した被害者の知人とかを訪ねる形で、失われたものの大きさと感じさせ、どうしようもない悲しさを感じさせる。

 武本康弘監督に始まってキャラクターデザインの西尾太志さんや色彩設計の石田奈央美さんといった、すでに語られている面々を改めて報じる中で遺族の肉声というものが響いてきて、無念さや悔しさを噛みしめながら亡くなられた人たちが手がけて来たものへの誇りを語って、その才能を偲んでいた。犯人への怨嗟とかは直接的には語られなかったけれど、それは削ったのかそれを語るより故人を偲ぶことを是としたのか。いずれにしても見ている側として京都アニメーションという場が作り上げた人であり作品の確かさを改めて感じるとこができた。

 入ったばかりの2人の女性クリエイターが亡くなられたのは本当に本当に悲しくて、受けても入れなかったアニメーション志望者たちが恨まず今も自分たちのアニメーションにかける思いを実らせようと頑張っていたりする様が紹介されたこともあって、念願の京都アニメーションに入れてさあこれからという希望が断たれ、絵でありアニメーションといったものへの情熱であり才能といったものが発揮されずに終わってしまった残念さに身を焦がされる。生きていられる自分は何て幸福なんだろう。そう思い亡くなられた人たちが実らせられなかったアニメーションへの情熱を、今の自分で引き継げるなら引き継がなきゃ失礼だ。なんて思いたいけど自分に何ができるのか。迷っている身でははっきりとは言えないけれど、それでも頑張って受け継ぎたい。京都アニメーションとそしてアニメーションの未来のために。黙祷。


【8月19日】 かろうじて見れているアニメーションから「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか2」をNetflixの配信で見ていよいよ突入したイシュタル編に登場するキツネ娘の春姫の声を、もうちょっと大人びたものだと想像していたら割と子どもっぽくて、清楚な姉系というより不思議な妹系だったのかと今さらながらに理解。まあ男の鎖骨を見て驚いて居ひっくり返って目を回すくらいの初心さなら、そういった声の方が合うかも知れない。

 イシュタルファミリーきっての姐御なアイシャは渡辺明乃さんでこれはピッタリ。そしてイシュタルは本田貴子さんでこれもベスト。怖い怖いアマゾネスによる強くて甘い攻撃にベルくんは耐えられるか? エロティックなシーンも多いのでいろいろと期待しちゃいたい。けどフリュネだけはなあ。イラストだともうちょっとボかして怪物的に描かれていたからそれはそうだと了解できたものが、アニメーションだとしっかりデザインされて現実にいそうでいなさそうな線にまとめられている。これは出会ったら怖いかも。でも実は男を悦ばせることには長けている? 女性は顔じゃないからなあ。でもやっぱりイシュタル様が。魅了されたいされ尽くしたい。

 たぶん1月あたりから気質に乱れが生じて2月あたりは将来への不安と根拠のない期待が交錯してモヤモヤとしていて3月はまだ最後のご奉公と張り詰めていたものに、4月に入ってつなぎ止めていたヒモが切れると浮き上がるどころが逆にどんどんと沈み込んでいって、5月6月はもう真っ暗で泥の中を漂っている感じ。朝に起きることすら苦痛だった状況の中、スタートしていた新番組の「スター☆トゥインクルプリキュア」でプロデューサーに就いた人がかつて「アニメミライ」という若手アニメーター育成プロジェクトで、公式リポーターを務めていた柳川あかりさんだということに最近になってようやく気がついた。

 才女でなおかつミスコンにも出ていたりして、表に立つことが好きそうでこのままマスコミの方面へと向かって伝える仕事を続けるのが当然のように見えた経歴なのに、選んだのはアニメーション制作では最大手の東映アニメーション。以前からアートアニメーションとかインディペンデントアニメーションを世に出したいとう意識を持っていて、それをするにはどこが良いかと考えてインディーズの配給とかをやってる場所ではなく、またそうした作品の情報を伝えるメディアでもなく、商業アニメーションの総本山とも言える東映アニメーションを選んだところが凄いというか、戦略的というか。

 インディペンデントアニメーションはいくら作っても世に問われる機会がまったくなく、頑張ってNHKのEテレで紹介されたりする程度であとはCMとか。それすらも最近は商業系のアニメーションが進出してきてタイアップなんかもガンガンとかかるようになって、個人のクリエイターが手がけるアニメーションが動きの面白さで使われるようなケースが少なくなっている。それを世に出すならやっぱり場が必要だし余裕も必要なら、そうした場を余裕を持って作れる会社にまずは入って居場所を作る。そう考えたんだろう。

 irodoriのたつき監督のように同人誌即売会で自主制作を売り続けて目を掛けられ、商業へと進出しながらインディペンデントの良さを維持しつつ傑作を作る例も出て来たから、状況は改善しているのかもしれない。土居伸彰さんのようにインディペンデントアニメーションを作り配給も手がけて映画祭すら開いてしまった人もいて、少しずつでもフィールドは広がってきているような気がする。大学院でアニメーションを学んだ作家が大勢投入された「ポプテピピック」もあったし。ただ、そうしたインディペンデントなアニメーションが前面に出るかというとなかなか道は険しそう。過去にワーナーが内外の短篇アニメーションを紹介するサイトを作ったけれど、ディストリビューターでは集めて流すのがやっとで、それすらも先細りとなってしまった。

 アカデミー賞にノミネートされた山村浩二さんの新作が間もなく登場するけど、果たしてどういう広がり方をするだろう。アカデミー賞を受賞をしたって加藤久仁生さんが大活躍しているかというとそうでもない。世界中で賞を取りまくっている当麻一茂さんにしばらく未来はありそうだけれど、そこからどうすればブレイクさせられるのか。そこで今はプリキュアで天下を取ってその実力で、埋もれたり足踏みしていたいるするインディペンデントなアニメーションを世に問い面白がらせる、なんてことをしてくれたら喝采を贈りたくなる。そして、作り手はもとよりメディアとしても何もできない自分の身の情けなさに沈むんだ。もう終わったんだと自覚して、過去を切り離せないから今も沈んでいるんだろうなあ、自分。どうしたら良いんだろう。

 興行通信社の週末映画興行ランキングで1位は「ライオンキング」が2位から上がって1位となって、代わって1位だった「劇場版ONE PIECE STAMPEDE」が2位かと思ったら3位まで下がってそこに3位から「天気の子」が浮上した。1度下がればズルズルと落ちるのが日本の映画興行の特徴だけれど、トップ付近で再浮上っていうのはお盆休みに見に行った人が多かったって現れか。「ONE PIECE」だって悪い映画じゃないけれどもやっぱりテレビシリーズの番外編。オリジナルのストーリーを持っている上に世代であったり都市であったりといった現代の問題についていろいろと考えさせてくれるところがある。ちょっと背伸びしたい子どもから今を知りたい大人まで、広い層を巻き込んで盛り上がってきた感じ。ここで口コミのドライブがかかれば1位に返り咲きなんてこともあり得そう。100億円超えは確実だからあとはどこまで迫れるか、だなあ。

 日本じゃそもそもカテゴリーが存在しなさそうで、賞レースとかとは縁遠かった飯田将茂監督のドーム映像作品「HIRUKO」だけれど、海外にはそうした部門があるらしく、アメリカはジョージア州で開催中の映画祭、Macon Film Festivalに出品されてフルドーム部門で「最高賞」を受賞したとか。過去に日本のドーム映像作品が出品されたことがあって、受賞したことがあるのか調べがつかないけれど、今回の受賞は確かな訳でここは心から喜びの言葉を贈りたい。飯田将茂監督おめでとうございます。そして最上和子さん。主演女優! なのかどうなのか。幸いなことに9月にまだ1回、西新井のギャラクシティで上映があるので受賞作としての凱旋をしつつ日本に飯田監督あり、最上和子さんあり、そして「HIRUKO」ありってところを見せて付けてやって下さいな。その上でさらに他のドームでの上映なんかを期待しよう。


【8月18日】 ノベルズといっても新書サイズのものではなく、四六判のソフトカバーでもっぱら小説投稿サイトで連載されたものをまとめて刊行するレーベルから出て来るものが最近はそう呼ばれるようになっていて、例えばカルロ・ゼンさん「幼女戦記」だとか伏瀬さん「転生したらスライムだった件」なんかが人気作に挙げられているけれど、そんな作品に混じって置かれていながら出自はネット小説ではなく、小説現代長編新人賞というあたりが変わっていたりするのが夏原エヰジさんの「Cocoon−修羅の目覚め−」(講談社)という作品だ。

 読んで見たらなるほどこれはノベルズの棚がピッタリに思えるし、文庫で並ぶライトノベルやライト文芸のコーナーに置かれても不思議はないくらい、内容が小説現代的な時代小説とは趣を異にしている。何しろ伝奇ファンタジー。それもバトル系。刀を携え河を流れて来た瑠璃という名の少女は、芝居の一座に拾われ成長したものの、座長が死んで女形の次男が後を継いだ際に追い出されて、吉原にある妓楼へと入れられる。15歳での吉原入りははっきり言って襲いけれどもそれには美貌とは別にいろいろと秘密があったみたい。瑠璃はいきなり妓楼でも最高峰の花魁となってしまう。

 それが鬼退治。江戸の街に現れて人を襲う人が化身した鬼共を相手に、瑠璃は筆頭としてチームを率い刀を振るい膂力も活かし幽霊すら操って鬼を始末していく。そのこととを同じ妓楼の遊女たちの多くは知らないけれど、楼主も新造も遣り手婆も亡八の男たちも知っていて、それで瑠璃を花魁の地位につけて自由に振る舞わせていた。もちろん花魁としても一級であるよう日々に務めていた瑠璃を、その事情も含めて慕う遊女もいたようで、支えられ闘っていった先、瑠璃を悲しい出来事が待ち受ける。それは……。

 そもそもどうして瑠璃には異能があるのか。周囲に集まる妖たちが見えて交流できるのか。そんな謎が出生と関わってくる状況を筋として1本通しつつ、個々に事情を抱え鬼となった者たちの苦渋が描かれていて、いつの世にもある生きづらさを感じさせて胸を痛くする。一方で、花魁でありながら刀を振るって強い鬼を切り伏せていく瑠璃の戦いぶりは映像になればとても華やかでエキサイティングなものになりそう。女の生き様を描くドラマチックな物語と合わさって、奥深い世界を見せてくれそうだ。

 クライマックスでの慟哭の戦いを経て残された者たちによる追善は、そうなったかもしれない自分たちへの慰めなのかもしれない。その場面に苦海に共にある者たちの決意が見えて泣けた。ここをエンディングにしてテレビシリーズなり映画なりになったら大受けしそうあよなあ。企画屋さんは読んですぐさま権利を撮りに行くべき。それにしてもどう読んでもライトノベルに向いた和風の伝奇バトルを小説現代長編新人賞に出した作者も凄ければ、ミスマッチと斬らず奨励賞に選んだ選考も凄い。あるいは時代がそういう小説すら一般の層に届くものにしているのかも。20年25年とそういうラノベが続いていれば、上も当然にそうなるか。

 話し合いがうまくいかなかったのか、表明をした相手を尊重したのあ愛知トリエンナーレ2019で「表現の不自由展・その後」の公開中止を受けた参加アーティストの出展辞退が8月20日から実施に移されるそうで、その中には会場へと上がるフロアの正面い吊り下げられた、ロックTシャツをパッチワークして作った「Telon de Boca」という作品も含まれていて、部屋にピエロが並んだウーゴ・ロンディノーネによる「孤独のボキャブラリー」とともに展覧会のランドマーク的存在になっていただけに、「展示内容の変更」がどういった見た目の変化をもたらすのかが気に掛かる。一方のウーゴ・ロンディノーネが協議中なのは部屋1個まるまる使って看板にもなっているからか。これが消えたら相当な部分が消えてしまった印象を受けるから。

 他にも名前が挙がっているアーティストがいて、新たに変更が決まった8人のうちの6人が女性アーティストというところに今回の事態が海外でどう受け止められているかが推察できる。展示を男女で半々にしようということで実施されたからには何かあっても半々になるかというとそうではにのは、「表現の不自由展・その後」で糾弾された作品に、女性への迫害を指摘するものがあって、それを攻撃することはすなわち、自分たちへの攻撃だと感じたかどうか。個々に聞いてみたいもののそれはかなわないとして、世界がかかる事案をどう見ているかが伺える。

 それに対して国内で相手にも非があり自分たちは悪くないといったニュアンスの主張を売り返し、何かあれば攻撃する人たちがいて、あまつさえ外に出て行って同じ主張をして「恥を知れ」と激怒された過去もある。にも関わらず同じ主張を国内向けに繰り返してしまって世界が相手の展覧会で、改めて世界に知られてしまったということか。そこの誤解を解かないと戻ってきてはくれなさそう。でもそこを誤解と世界で訴えても国内の勢力は違うと言って訴えアピールしてきっと電凸も行うだろう。安全は得られず平穏も戻らない中で再開は得られずそしてアーティストも戻ってこない。これから永久に日本には戻って来ないかもしれない。世界から経済でも技術でも取り残されてアートでも置き去りにされる日本。その行方は? 五輪を前にしてすべてが崩れ去りそうだ。早めに実家に帰って警備でも配送でも仕事を得つつ、日々を静かに生きる算段でもした方が良いかなあ。

 部屋にいたら暑さで斃れるのでさっさと家を出て船橋西図書館へ。月末の原稿への構想を練るふりをしながら涼みつつ、月明けのラノベミステリの紹介原稿に向けた選書を考えるふりをしながら涼みつつ、3時間の制限時間を過ごして河岸を変え、茅場町のベローチェで3時間くらい過ごしてから西新井のプラネタリウムへと行って、原初舞踏家最上和子さんが出演しているドーム映像作品「HIRUKO」を見る。3回目。5月に2回見たけど精神状態がどん底へと向かっていく中での鑑賞だったので、まどろみの中で見た夢のような印象があったのと、あと最上さんの舞踏のスタイルをよく掴んでなかったので身じろぎしないようで動いている原初舞踏の姿を改めてしっかり目に刻む。

 とかいいつつちょっとばかりまぶたが下がったけど、それでも最後の舞踏のシーンでは最上さんがどういった感覚で演じてというか、舞踏をしているかが分かったような気がした。意識してシナリオにそって演技しているのでは決してなく、あの時間に自分の中から出てくる動きへの衝動が、現れたものなんだと自分でやってみて分かった。もちろん最上産は素人じゃないからそれがどういう形になっているかも意識し、演出はしているらしい。その結果としてのあのイメージ。原始的で緊張感があって静寂の中に熱もある。そんな不思議な映像をあと1度、西新井で見られる機会があるので見たい人はみんな行こう。宇野常寛さんがトークをやって枝を重ねるシーンの儀式を説明しているような感じに異論を唱えていた。飯田将茂監督にも言い分はあってその激突が楽しかった。あのシーンは押井守監督もいるかどうかって話してたっけ。僕は流れの中であって良い派。そうした“対決”が今度は最上和子さんとネット番組であるみたいなんで見られたら見よう。


【8月17日】 あいちトリエンナーレ2019が引き起こした問題について、評論家の藤田直哉さんがいろいろと、海外での不自由さをわざと掲げてそうした不自由さをあぶり出すようなアートについて色々と紹介している。人々に気付きを与える方法としてそれは有効に働いているようで、これは拙いといったリアクションを呼んで対抗する力になっているように見えるけれど、それとおなじ事が日本でも起こるかどうかが実はよく分からない。というかむしろ悲観している。

 藤田さんは「ひょっとすると、『不和』や『敵対』を顕在化させ、議論を巻き起こすことで『公共圏』『デモクラシー』を活性化させ、社会を変えることを狙った? と読めば、そのことの力をこそ評価しなければならないのかもしれない」と書いている。それは希望であり理想だけれど、現実の今の日本では、暴れ回ったことで気に入らない表現がひとつ中止へと追い込めたという“成功体験”が顕在化されてしまって、これはちょっと拙いんじゃないかという議論へとは向かわない。

 起こるのは、表現の自由なり気に入らないものを攻撃すれば破壊できるという状況の認知と喧伝であって、そういう手があったと気付いてしまった人たちの共感を誘って同類を呼び集めては拡散されていく。同じ様なことが別の場所でも相次ぐようになってそれに集まる勝算によって承認されたと喜ぶ人たちに、また集まっていく共感の声。以前、弁護士への懲戒請求への呼びかけが、正義と信じた人によって膨大な数へと増えたように、今回の一件もそれが正義と感じた人たちの応援を得て広がっていき、やがて社会的な正当性まで得てしまいそうな気がする。

 そんな莫迦なと言ったところで過去、とんでもない状況が積み重なっていった果てに雁字搦めにされた人たちが、流されるように誘われるよういして破滅に向かったことがある。20年前なら許されなかった言説が称賛を浴びて持ち上げられ、人間としてどうなのと思われた振る舞いが喝采を浴びてそのまま選良として国政の場へと送り込まれてしまう。最初の段階で徹底的に話し合わず糾弾もせず、そうされて当然じゃんといった空気を残してしまった結果が今のこの状況だとしたら、トリエンナーレの件もそうした空気へとなってこの国を包み込むだろう。どうすれば良い? と悩んだところでもはや常識も理性も通じない社会に迫られている。困ったなあ。本当に困った。

 今の自分が置かれた状況は薬を飲んだところで変わらないし、寝たところで夢だからといって醒める訳ではないけれど、それでも寝ていれば考えないで済むからだろうか、映画を見ていても途中で意識がスッと薄れてしまうことが割と増えてきた。精神を落ち着かせる薬が眠気を誘っていることも大きくて、見るのが2度目3度目の映画になると見たからというのを言い訳にして意識を遠のかせてしまう感じで、せっかくdts−xで上映が始まった「ガールズ&パンツァー最終章第2話」をシアタス調布まで見に行ったのに、知波単戦が始まってパンツァーフォーから戦車前身とそれぞれが戦いに向かったところで意識が途切れた。

 足踏み突撃あたりで突っ込まれてかわす所は聞けていたけどそこからあまた途切れて歌うあたりで目が覚めてと斑模様な意識の浮き沈み。大洗女子学園が泥濘地にハマって抜けだし水辺に布陣する所は記憶から飛んでいるものの、その後はトイレが近くなったこともあってずっと起きていられたから、気を失っていたのはトータルで数分といったところか。それすらも耐えられないくらいに精神が弱まっているとなると、やっぱりしばらくはクリニック通いは止められないなあ。

 前にいたところに居続けたら何かできたかもしれない、1年とか2年は暗いところに沈められても、その間は安定した賃金をもらって、そして浮上できたかもしれないていう想像が自分を縛っているとしたら、今いる場所でこれが出来ているってこと、それがしっかりと身についていることを確信する必要がありそう。その自信が持てるのはいったい何時? 半年以内には意識にケリをつけないと、そのまま張りついてしまいそう。だから頑張ろう、ルリルリの見極めを。

 それにしてもマリー様はやっぱり身体能力が高いなあ。クネクネからのジャンプと着地はまだ起きていたのでしっかり見られた。そこを見に行ったといっても過言ではないからまあ、行った意味はあった。サウンドについてはひとりひとりのキャラクターが映っている位置から声が聞こえてくるような感じ。最前列だから後ろ側からどいった感じに響いていたかは分からなかったけど、真ん中あたりで聴いていれば空間の中で前後左右に声がしっかりと分かれて聞こえて来たんじゃなかろーか。

 爆音系になると大きくても個々のセリフが潰れてしまう場合が考えられたりする。これなら声は声として聞かせつつ爆音もしっかり響かせられる。理想の音響。それをあらかじめて作って置いて、「こんなこともあろうかと」上映してのける岩浪和美さんのチームはやっぱり日本の映画を買えようとしている。そこで見る意味を感じさせて映画館へと足を運ばせるという意味で。他も真似すればいいのに。しなくても売れちゃうからしないのかなあ。

 天道あかねという存在についてずっと考えている。いわずとしれた高橋留美子の人気シリーズ「らんま1/2」に登場するヒロインで、主人公の早乙女乱馬と相対する立ち位置いある。かすみ、なびきといった姉がいる天道道場の3人娘の末っ子だけれど、父親から武道の手ほどきを受けたのはあかねひとりで、それだけに自分は強いと思っているし実際、周囲の男子に比べればそれなりの強さは持っていそう。女の子が相手ならなおのこと、近所では敵なしといった立場にあっただろう。だからといって奢らず誇らず大好きな接骨医の先生の前では乙女らしいところを見せている。

 そんなあかねでも格闘技を極めた早乙女乱馬やその父親や、続々と現れる響良牙や久能帯刀といった男たちに限らず久遠寺右京でありシャンプーといった異能のキャラクターに力で及ばないところを見せてもらう。変態過ぎる周囲にくらべてあまりに普通のちょっとだけ武道の嗜みをもった女の子。その立ち位置が「らんま1/2」というロングストーリーを持って起伏にも富んだ漫画の中で、もしかしたらとてつもなく重要なのではないかと呼んでいるうちに思えてきた。核というか。へそというか。その属性でありその設定でありその性格でありその言動が少しでもズレていたら、「らんま1/2」という漫画は成立しなかったのではないか、なんてことも考えてしまっている。

 「うる星やつら」のラムではそんな立ち位置にはならない。宇宙人で鬼で電撃を放って焼き餅焼きでダーリンを相手にいろいろと仕掛けてみせるし強さもダーリンを上回る。天道あかねとはまったく違う。「めぞん一刻」の音無響子も五代裕作より年上で未亡人という社会経験で主人公を上回る強さと濃さを持つ。ごくごく普通の女子で強くなくって異能もない。そんなヒロインだからこそ強くありたいと願いそうすることでいっしょに場所に立ちたいと願って行動が前向きになる。それを見てらんまも良牙も久能も動いて物語が進んでいく。

 何とも絶妙な立ち位置にあるヒロイン像。「犬夜叉」の日暮かごめはもちょっと強いし出自に運命めいたものがある。「境界のRINNE」の真宮桜はヒロインだけれど六道りんねの行動を見守るというか支えるというか巻き込まれても動じないでそのままりんねといっしょに時間を過ごしていく感じ。恋心といったものを明らかに見せるのは終盤で、あまりヒロインらしさといったものを感じさせない。そんな数ある高橋留美子ヒロインズにあってやっぱり天道あかねは特別なのかもしれない。とはいえ女性化したらんまから放たれる強烈なヒロイン的オーラもあって、怒りと意思を持たざるを得なかったのかもしれない。カップルではなく三角関係のヒロインということがあるいは、特別製の理由になっているのだとしたらそれをこの1週間くらい、考えて解き明かしたいけど頭がうまく働くかなあ。暑すぎるんだ今。


【8月16日】 そして気がついたら初月給めいたものが出ていた感じ。といっても社員でも契約でもなく業務委託なんで、月給というよりは月極の報酬で額も新人サラリーマンの初任給にきっと及んでない。同じ期間を何もしないで就職活動だけしていたら、失業保険でもっともらえたけれどもそんな何もしていない時間を過ごしていたら、きっと精神が保たなかっただろうしスキルも何も身につかなかったから、たとえ失業保険より少なくても何かをしにどこかへと向かう道を選んだことは間違っていないと確信している。

 それでも抜けない気鬱さがあるとしたら、たとえば選んだ道を1年くらい進んだところで次に繋がる何かが得られるかどうかがまだ見えていないってことで、伝手が生まれるかスキルが溜まるかどちらかなり両方なりが得られれば良いんだけれど、まだ始めたばかりの業務でそこまで深い考察が生まれて来ない。ライター業のように頼まれて書く繰り返しをしているのなら、依頼してくれる先があるかどうかが重要で、やっていくうちに広がりも期待できない訳ではないけれど、今の仕事がそんな感じに次もまた次も続いてくれるか分からない。

 だったら伝手でもって別の方面に行こうにも、その道筋がまだ見えない。なんてことを始めて1カ月半しか経っていない段階で考えてしまうところに、焦りって奴があるんだと多くの人から言われるし、自分でもそう思っていたりする。こればっかりは性分なんですぐには引っ込まないけれど、とりあえず労働に対する対価としての報酬を得たことで足下だけは固まった。足りるかどうかでは足りてないけど新人アニメーターよりはもらっていると思えば気分も休まるし、失業保険の残り分の幾ばくかがお祝い金として入ったのでそれで半年は保ちそう。そう思い焦りを押さえて気鬱さを沈めて今はとにかく1歩1歩、進んでいくしかないんだろうなあ。その前に月末締め切りの原稿をどうにかしないと。気鬱さの8割は原稿が書けるかどうかって不安だったりするみたいだし。

 やっぱり間抜けとしか言い様がない東京オリンピックという取り組み。お台場でのトライアスロンが酷い水質の中でやらされて大変そうだったりして、暑さ以外の環境とも向き合わなくちゃいけない選手に同情したくなっているのは既に出ている話。そして今またボランティアに対して凄まじい対応がとられそうで、実行されたらどれだけの人が倒れるかって今から不安になってくる。暑さ対策で早朝から始まる競技がトライアスロンに限らずいろいろあるけれど、その対応にあたるボランティアが早朝に始発で現場に向かっては間に合わないこともあるという。

 だったらと深夜に終電で集合するよう求めていこうとしている運営側。そこで仮眠でもとってもらって元気に朝から働いて、ってなるかと思ったら終電で出勤したらそのまま朝まで待機だってことになっているらしい。つまりは徹夜。なおかつそうして集まったボランティアに対して「交流機会や士気を高めるような取り組みを検討していく」ことになったという。もうアホかと。ポン酢かと。選手のように鍛えられてもいない体で夜通し交流と研鑽を積んで送り出されたら、どんどんと暑くなる東京の気候の中で倒れる人がきっと続出するだろう。中には斃れる人だって出そう。

 選手は数時間の競技で会場を後に出来てもボランティアは事前と事後に仕事がある。12時間は起きっぱなしでいたりするかもしれない。終電で来る前にたっぷりと寝ましょうってお達しが出るかもしれないけれど、それで生活のリズムが崩れてしまうこともある。他のボランティアがあって夜まで寝ていられないことだってあるかもしれない。そういった懸念がいくらでも浮かんでくるにもかかわらず、一致団結で苦難を乗り切ろうって感覚に凝り固まっているところが恐ろしい。先の大戦も精神論で乗り切ろうとして乗り切れず大量の死者を出した訳で、その反省がまるで生きてないこの国に、未来はあるのかそれとも。せめて冷夏になってくれることを祈りたい。あるいは五輪期間中は交通機関が夜通し動くようになることを。

 津田大介さんがが芸術監督を務めているあいちトリエンナーレ2019の問題について何か文章を出していて、読んだらやっぱり相当に事前にリアクションについて準備はしていたことが分かった。電話の回線を増やしたり警備をしっかりしたり。でもそれを上回って抗議が寄せられてしまったことで、安全性が確保できずスタッフも対応が仕切れないことから公開中止を余儀なくされた。つまりはやっぱり警備上の問題であって、なおかつひとりが逮捕されたところで何百件もの抗議があって、それが爆発する可能性があるならやっぱりすぐには再開は難しい。そんな理解ができた。

 表現として不適切だから公開はしない、なんてことがあったらそれこそ表現の自由に関わってくるからそこはやっぱり避けて欲しいと思っていた。対応として表現の自由には最大限に配慮をし、企画展を主導する人たちの思惑もちゃんと受け入れた。ちょっと受け入れ過ぎなところもあって、会田誠さんの檄文をどうして排除したのか分からないし、それをゴリ押ししてでも入れようとしなかったのかがフシギだけれど、そこを説得できないからといって止めてしまってはやっぱり意味がないから、そこは引いたというのも納得するしかなさそう。

 つまりはやっぱり警備上の問題であって、表現の自由を守るにはそこの解決が必要だということを、内外にアピールするのが今、一番に求められていることかもしれない。県民の気持ちを傷つけたから企画そのものが悪かった、なんてアドバイザーの東浩紀さんの意見にこの場合は与しない。あとはだからどこまでの厳重に厳密に警備がなされて公開されればベターなんだけれど、そこにかかるコストとか考えるとやっぱり無理かもしれない。そういう説明をだから早くに世界に向けて発信し、あいちトリエンナーレは他にも見どころがたくさんあると言って欲しい。それが愛知県民への責任なんじゃないかなあ。

 逆に分厚すぎて目から外れてしまっていたかもしれない南海遊さんという人の「傭兵と小説家」(星海社FICTIONS)。とてつもなく分厚くてそれこと1冊でも分厚いラグビー宇宙人バトル「花園」の上下巻を足したくらいになりながらも、たったの900円というお値打ち価格なのはすでにネットのサイトで読めたりするからなんだろうか。それとも売りたいからなんだろうか。店頭に積み上げても他が10冊つめるとことを3冊だったり、5冊させるところに1冊しかさせなかったりで効率も悪いから店頭で見かける機会が足りず今日まで気付かなかった。気付いてもSF枠はいっぱいだったからなあ。まあ読んでミステリ枠でいれるかどうか考えよう。読めればだけれど。


【8月15日】 もしかしたら今までて1番面白くって、そしてアーティストの神髄が見られたかもしれない「キャロル&チューズデイ」。使っていたAIが悪さをして人気DJのアーティガンの金を全部持ち逃げをして呆然とするアーティガン。ロディが駆けつけ誘って音楽を取り戻せと背中を押し、キャロルたちが使っているキーボードで作曲をさせることによって出来た曲を、アンジェラのプロデュースをしているタオのところに行って聞かせたら食いついた。

 ボイスパーカッションでチュクチュクドンドンと唸ってただけのあの音楽のどこにタオを引きつける要素が? きっと分かる何かがあったんだろうってことで、そこがやっぱり音楽で生きる者たちの共通言語ってことなのかも。近くで聞いてて何が何だかさっぱり分からなさそうにしているアンジェラの表情とか態度が面白くって楽しめたけれど、一方ではアンジェラを付け狙うストーカーがいて、アンジェラにちょっかいを出していたAI起業家に遂に攻撃をしかけてのけた。次はアンジェラに迫るのか。火星の代表を決める選挙の行方は。混沌としてきた展開の中、まずはアルバムを作って人気となってその先で音楽によって火星を救い、宇宙を救うような展開があると信じよう。奇跡の7分間。いったい何を見せて(聴かせて)くれるんだろう。

 N国党がマツコ・デラックスさんへと街宣をかけて一騒動となった延長で、出演していた「5時に夢中!」のスポンサーらしいシウマイの崎陽軒を自分はもう買わないとYouTubeでアピールしたとかどうとか。受けて自分は崎陽軒を応援するぜといった声がわき起こって頼もしい限りではあるけれど、今の状況にちょっと不思議な政治家にイジられたので、みんなで支えようぜという意識で連帯している感じがあって、この先どうなっていくかで将来が左右されそうな気がして不安が募る。

 政治権力による私人あり私企業への抑圧的な言動だといった認識が先に立たず、フシギな人がイジって来たんでイジり返そうぜってなって、そしたらまた別のイジりが始まってそれにもイジり返すといったネタの連鎖になった先、それが日常の光景にハマってしまって面白がられていった果てに、一線を超えて弱者への弾圧めいたことになってもそれもまた日常の延長として消費され、気がついたら酷いことになっていたりしないかが心配でならない。

 1980年代後半から90年代にかけてまだ色濃く漂っていた、アサヒ的で教条的な左寄りの論調に情で挑んでモヤモヤしていた人たちの琴線を揺らし、愛国的な意識を浸透させていって中道あたりに戻したまではまずまずだったけれど、やがて排外主義的で攻撃性を帯びた言説も繰り出されるようになり、いつしか”反日”などというタームが新聞紙面を堂々と飾るよようになったこの20年くらいを見るにつけ、今回の一件をどこか面白がっているような空気感が漂っているのはやっぱり拙い。

 マツコ・デラックスさんという人気者で才人だけれどやっぱりサブカルチャー的な立ち位置にある人に攻撃をしかけて、大勢は反発しつつもどこかにマツコ・デラックスさんだからなあといった意識が漂ってはいないだろうか。崎陽軒という老舗で親しまれているお店ではあっても、ポップさを持ったアイコンとして機能してしまってはいないか。そうしたイジりイジられイジり返していくネタ感の枠から抜け出せないか、あるいはネタ感の中だけで消費されててしまいそうな雰囲気がある。問題はそこではないのに関わらず。

 国会議員という凄まじいばかりの権力を持った人が、批判を浴びせられたといはいえ私人に過ぎない人間を激しく攻撃し、その出演番組のスポンサーであるだけで、自分は拒絶するといった態度を見せることで結果として同調者を誘いプレッシャーをかける。それは業務にたいする妨害にも等しい行為であって、法的にリアルでシリアスな対応をした方が後に引かない気がする。支援する人もそれを野暮とは言わないで行方を真面目に見守る。そうすることでネタがマジになって妙な排外意識が蔓延ってしまった今へと至らないようにしなくちゃいけない気がしてるけど、訴訟ですら歯止めにならず断罪もされないまま、同じことを続けて親派を増やして大きくなっていく時代だからなあ。政治も。メディアも。何もかも。やれやれだ。

 抑圧への抗議も混じっていた行為を束ねて「反日展」と括ってそれを平気で紙面の載せては、開催に反対する意見ばかりを集めて束ねて紹介して、中止を批判する声をいっさい拾わないという言論がまかり通っていることは問題として、そうした紙面に掲載された意見が少なからずあいちトリエンナーレ2019の監督アドバイザーを務める東浩紀さんが言い始めたことに重なっていて、言論の自由の前に国民の感情というものがあって、その国民がどこまでの誰なのかは吟味せず峻別しないで使われてしまっても構わず全体の意見となって批判へと向かう状況を、是認してしまっているようで気持が乱れる。

 県民の気持ちって言うけど僕だって本籍は愛知県民で、けれどもそうした批判から中止を求める声には与してないし、他の大勢も同様だろう。一部の言いたいことがある人だけが言い、そrがメジャーな意見として受け止められてしまって良いのか、なんて思うけれどもそれを認めて謝らないと他の作家も続々と引くと言っている。でも他の作家は中止になって公開され続けないことを問題視して安全を確保し公開を続けることができれば戻って来ると言っている感じ。そうした作家の意見は気にせず強くて激しい批判をのみ、正当としてしまうなんて“らしく”ないけどそれが今の“らしさ”なのかも。ピエロが並んだあの部屋が閉鎖されたら寂しくなるなあ、あいちトリエンナーレ2019。喧噪の果てに歯が抜けたようになった会場をまた、見に帰省するかどうするか。

 1982年に公開された大林宣彦監督の映画「転校生」で斉藤一美になった斉藤一夫が胸をまさぐり股間に手を伸ばしてついていたり、いなかったりするのを確かめたんだっけどうだったっけ。入れ替わった男女というか女の子になった男の子だったら必ずやる行為として、新海誠監督の「君の名は。」にも取り入れられては三葉に入り込んだ滝は必ずその時の自分の胸を揉んでは寒色を確かめ、妹の四葉に気味悪がられている。だったら滝に入った三葉はというと、直接的な描写こそないもののトイレに行って小用を足す、というハードルを越えさせる描写をちゃんと入れて、自分自身を確かめさせている。こすったかどうかは知らない。

 そうした描写が半ば定番となっている入れ替わりにあって、入れ替わり物が隆盛となった今を形作ったと言える高橋留美子の「らんま1/2」で不思議なことに早乙女乱馬は女体となった瞬間に自分の胸を見ただけで、揉んでもいないし股間に手を触れてもいない。娘溺泉に落ちて変身してしまった一瞬だけを驚きながらも、そこにセクシャルな好奇心だとか戸惑いだとか脱落感といったものをまったく添えなかったのはなぜなのか。あるいはそうした描写を入れなかったにもかかわらず、女体への好奇心めいたものを「らんま1/2」が誘って定番へと上り詰めながらも他の作品で未だ定番の胸を揉み、股間に触れてあまつさえ入れたりこすったりする描写が絶えないどころかジャンルとして確立し、広がっているのはなぜなのか。考えても分からないけど考えなくちゃいけないので週末あたりに考えよう。


【8月14日】 新紀元社から創刊のこれはライトノベルなのだろうか、キャラノベなのだろうかキャラ文芸なのだろうか、分からないけどとりあえず一般文芸が取りあげそうもないのでライトノベルとして取りあげることになりそうなポルタ文庫より、まずは霜月りつさん「託児処の巫師さま」を読む。後宮ならぬ奥宮で起こる怪異を巫師と呼ばれる一種の陰陽師が解決するという中華風あやかしミステリー。皇帝の住居で巫師をしていたくらい優秀だったものの、なぜか辞めて今は託児処を営む美貌の昴に解決の依頼が来るも。

 その仕事場書は奥宮。すなわち男子禁制ということで、託児処の経営のためにお金を稼がなくてはならない昴は受け入れ女装して、奥宮を警護する花練兵の兵長・翠珠に連れられ奥宮に入り込んでは現れるぶよぶよとした青い何かの正体を突き止めようとする。それは……といった展開には、事前に起こっていたいろろな現象と、関係していそうな意人たちの言動、そして現れたものの見た目などから“正体”を推理していくミステリ的な味わいを堪能できる。

 ひとまず解決してその後も、たびたび起こる奥宮での怪異を潜入せず女装もせずに解決していく昴。背は高いけど似合う女装をもっと見たかったなあと思っていたら、昴と因縁があった皇子に頼み事をする必要ができて、再度の女装をさせられたりするからこれは楽しい。イラストがないのが残念至極。普段は兵士の恰好をしている翠珠もどんな風になっていたか見たかったなあ。ってことでコミカライズを希望。物語はそこで暴かれた事件の余波が今後も奥宮に昴を呼びそう。つまりはシリーズ化。アラサーの女性武人が皇后になって後宮とか宮廷の争い事に巻き込まれたり闘ったりする「紅霞後宮物語」とは少し違った堅物だけどまだ若い女性兵長と美貌で凄腕ながら訳ありで託児処を営む昴と軽薄な皇子の活躍を、きっと読ませてくれるだろう。

 体が次第に硬化していき、死ぬと金塊になる不治の病に冒されている女子大生と、彼女の死体の相続人に選ばれた中学生の少年との交流を描き、純粋なはずの離別の悲しみに莫大な遺産という“毒”がどう作用するかを見せた「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」(メディアワークス文庫)に続けて、新紀元社から創刊された新レーベルのポルタ文庫から「死体埋め部の悔恨と青春」を発表した斜線堂有紀さん。大学に入った祝部という男子学生が夜に何者かに襲われもみ合っているうちに相手が死亡。そこに現れた織賀という大学の先輩らしい男が助けてやると言い、死体を乗っていたジャガーのトランクに積み込む。祝部がジャガーに乗ると、そこにはすでに女性の死体があった。

 死体を埋めるのが織賀の仕事。そして祝部にどうして死体の左手の指が全部折れているのかを訪ねる。推理して答える祝部に織賀が告げる「承認」の言葉。以後、辞書を大量に持って死んだ女や、スクール水着姿で指されて死んだ女の死体を運びながら、どういう状況で殺されたのかを祝部が推理していく。事件の真相には迫っても、事件は摘発されず手を下した祝部も罪に問われない。それどころか二人はこれを部活動のようしてこなす。寂しい暮らしを埋める猟奇と狂気。行き着いた先で祝部が気付いた真実は果たして死体埋め部をどう変える? 完結したように見えて意外としぶとく続いていくのかもしれない。

 これはどうだろう、あいちトリエンナーレ2019のアドバイザーを辞任したらしい東浩紀さんがツイッターとかでいろいろと語っているけれど、それがちょっと方向性として合っているのか判断に迷う。たとえばいろいろと言われた慰安婦蔵とも呼ばれる少女像について、「『慰安婦像については、政治家やメディア(海外含む)に政治的に利用されてしまいました。天皇作品については、過激な表現が多くの市民にショックを与えました」と語っているけれど、すでに政治的に利用されたが故に展示が不自由となった作品を集めてどうして不自由とされたのかを示すのが目的の展示会だった訳で、改めて作品を示してああこりゃ不自由で当然と思うのもあり、どうして不自由なんだと驚くのもありといった”議論のぶつかり合い”を作り出そうとしていたのに、過去の不自由にされた理由ばかりを改めて持ち出してやっぱり不自由なものなんだよと指摘するのはどこか周回遅れな気がする。

 「ぼくの観察するかぎり、今回『表現の不自由展』が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、政治家による圧力や一部テロリストによる脅迫にあるのではなく(それもたしかに存在しましたが)、天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。津田さんはここに真摯に向かい合っていません」。そう芸術監督の津田大介さんに対して言葉を向けているけれど、東さんには一般市民による広範な抗議とやらが、本当にマジョリティなものだという確信でもあるのだろうか。愛知県民ってそんな風だと思われるのはちょっと心外だし、仮にそれなりにマジョリティであったとしても、そこに挑むのも表現な訳であって、抗議されて引っ込めて良い物ではない。

 「それら抗議は検閲とはとりあえずべつの問題です。日本人は天皇を用いた表現にセンシティブすぎる、それはダメだと『議論』することはできますが、トリエンナーレはその日本人の税金で運営され、彼らを主要な対象としたお祭りでもあります。芸術監督として顧客の感情に配慮するのは当然の義務です」。いやいや、税金を払っているのは日本人”だけ”ではないし、あいちトリエンナーレは”日本人だけ”を対象にしたお祭りではない。地元の愛知県なり主催国の日本なりを喜ばせることが目的だなんてことは、主催している側も思ってなんじゃないのかなあ。思っていたとしても、そういったスポンサーと観客に顔を向けろと言うのは違う気がする。というか違うと言って欲しかった。

 でも、地元は嫌がっているといった認識から配慮を求める東さん。本籍が愛知県民としてこれはどうにも面はゆい。「津田監督は、早急に、表現の自由は守る、『だからこそ』の展示中止であり再設定なのだという論理をつくり、作家を説得しなければなりません」。ううん、政治的外交的納税者開催地域のお気持ち的に問題がある作品には、表現の自由は認められないけれど他なら自由は守りますと言えと言われて、そんな恥ずかしいことは津田大介さんだって言えないよなあ。さすがに。情としては分からなくはないけれど、理としてやっぱり奇妙すぎる意見。それが平気でするりと出てくるようになってしまった。あずまん。あああずまん。いったいどこへ行こうとしている?

 トライアスロンの会場となる海がトイレのようだと言われてしまう五輪だけれど、水質は浄化でどうにかなってもこの暑さだけはどうしようもない。時間を繰り上げたってそんなに変わらない暑さをどうにかするにはそれこそ晴女ならなぬ冷夏女でも呼ぶしかないんだけれどそんな天気の子はいない。ならばあとは根性だってことでアサガオの鉢植えを並べて涼しい気になってもらったと、組織委員会の偉い人が喋っているのを聞いてこの国はあの大戦から何も学ばなかったんだなあとあきれかえる。いっそだったら本番では、円山応挙や伊藤晴雨、上村松園らが描いた幽霊画でも飾ったらどうだ。その方が視覚的にもゾクッとくるから。外国人にだって通じる怖さだと思うし、そうでなくても文化を伝えられるから良いんじゃないかな。かな?


【8月13日】 午前7時のスタートですら水温が危険といわれる31度にジリジリと近づいていたそうで、なおかつ水質は汚染こそされてはいないものの悪臭がして泳いでいる人たちにとっては相当な苦痛だったみたい。さすがに1年後の本番となればそうした水質面は事前の準備とかで軽減はされると思いたいけど、雨でも続いて流れ込む河川の水が増えればやっぱりいろいろと水質にも影響が出そう。気温についても今年より涼しくなるとは限らず、むしろ暑くなったら午前7時のスタートですら早めなくてはいけなくなるかもしれない。

 そした一時が万事に及びそうなのが2020年の東京オリンピックな訳で、暑さ対策から大勢集まる人の誘導まで、いったいどうなってしまうのか今からだとまるで想像ができない。人の誘導に対して手慣れたところもありまたシミュレーションだってやるだおるコミックマーケットですら、新しい事態に対して対応しきれず少しばかりの混乱を起こしてしまった。すぐに修正してくるところが柔軟性と経験を持った組織らしいけれど、そうした柔軟性を警備だとか面子だとかいった理由から発揮しづらい公的で巨大な組織が果たして、2020年の毎日を乗り切れるのか、なんて心配をしてもきっとそのままオリンピックは開催され、問題があってもなおざりにされて終幕を迎えるんだろう。やれやれ。

 一田和樹さんの「大正地獄浪漫3」(星海社FICTIONS)が出たので早速読む。人形女給兵団がいろいろ大変なことになっているけど、もしかしたらこれは全部の隊の隊長を鬼の家系の者へとすげ替えようとする片目の企みのうちなのかもと思えてしまう。そうでなくても一番隊の本条真白を襲った悲劇とか、敵となってる本屋をあぶり出しては弱体化させるための捨て石な感じすらあるし四番隊隊長の山城京香も結果として蓬莱霞を助け出すことはできないままある種の無駄死にをしてしまった。数もぐっと減ってしまったけれど良家の子女で強い人たちはいなくなって血筋として強靱な鬼の者ばかりが残ったとしたら片目はそれで何を狙う? 完結となる第4巻が今から楽しみ。

 結局、名古屋へと帰省していた5日間のうち、移動日ではなく全日を実家で過ごした3日間で出かけたのは「あいちトリエンナーレ2019」と映画「ONE PIECE STAMPEDE」を見に行った時くらい。あとはエアコンを効かせた部屋にこもってベッドに寝転がりながら悶々としてた。平成から令和になった大型連休の時とかも、同様に実家に居て鬱鬱としながらどこにも出かけなかった。その時にどうにかしてくれると期待をしていたキャリア支援サービスが、通い始めたらまるで役立たずだと分かって絶望から起き上がることすら難しくなり、早くクリニックに行って診断してもらわないとうつ病にでもなりかねないと思ってネットから近所にクリニックを検索して予約を入れた。あの頃は酷かったなあ。

 誘われて諸評価の細谷さんの家に行ったときも気鬱が激しく、将来への不安ばかりを国にしていたような気がする。今はその時ほどに酷くはないけど、毎日が自由なんだだと楽しむ気分より、将来を悲観する気分が勝ってしまう気分は消えていない。30年くらい積み上げて来た自意識という奴を、真っ向否定され木っ端微塵にされた衝撃は数カ月では収まらないものらしい。なので実家に帰っても、去年のように大垣へと足を運んで「映画 聲の形」の聖地を巡礼することはなく、京都へと足を伸ばして京都アニメーションを訪れ献花することもせず、見残していたあいちトリエンナーレ2019の名古屋市美術館と豊田市美術館を確認にいくこともしなかった。

 前々回の「あいちトリエンナーレ」では岡崎の会場も見たし、名古屋もあちらこちらを見て回った。その時と比べると、何でも見てやろうといった気力がグッと萎えてしまっている感じ。お金がもったいないというよりは、見ていったいどうなるのといった気分が先に立って動き出せない。前だって観たからどうだったってことでもなかったけれど、メディア企業に所属していると、将来もしかしたら情報として使う時が来るかもといった期待なりを行動力に変えられた。そうした個人としての勉強を会社が評価してくれればって淡い期待もあったけれど、どれだけ月刊誌にレビュー連載を持とうと、批評誌に何度も評論を発表しようと、10冊近く文庫の解説を手がけようと文化的な活動ができる記者だといった評価は得られず、文化部めいた場所で定年までだらだら過ごすという道は得られなかった。

 だったら外で何かキャリアを築けるかといった期待を、今は抱くより他に道はないんだけれど、そこへとたどり着くまでの道筋がまだぬかるんでいて足を取られている恰好。メディアに所属していることを理由にした自己顕示欲なり自己承認欲求をエネルギーにして活動するという意識もまだぬぐえない。これだけは早く止めないと、どこにも行けなくなるし何も見られなくなってしまう。本だって読めなくなっているしなあ。それでもまだ、何か読んで書いて欲しいと行ってくれている媒体がある分、幸せなのかもしれない。それこそ世界で唯一のジャンル的書き手とも言える訳だし。

 それだけの“実績”を持ちながらも不安に苛まれている状態に対して、元同僚からは焦りすぎなんだと言われるし、早くからフリーで活動している人にも気楽にやれば良いと諭される。まったくもってその通り。多くの人から助力は惜しまないと言われてこんなに嬉しいことなく、その中から得られた職場に今は平日のほとんどを通って、意義のある仕事をしていたりする。稼げはしないけれども食うには困らない蓄えはちゃんとある。それなのに気持がなかなかラクにならないのは、そういう性分だからとしか言い様がない。今やってる仕事の意義が、いつか自己顕示欲なり承認欲求なりを超えて自己満足に至れば、気分もラクになれるだろうと思いたい。

 3週目に入った新海誠監督「天気の子」は興行通信社の週末興行ランキングで3位に下がって2位に「ライオンキング」が入り1位には堂々の「ONE PIECE STAMPEDE」が輝いた。勢いのある映画で何度か見たいと思わせるシーンもあるし展開もあるからさらに伸びそうだけれど、「天気の子」もこれから本番のお盆休みとか夏休みの駆け込みとかでグッと行きそう。何しろ前作「君の名は。」は夏休みも終わりの8月26日公開で歴代2位となる200億円近くまで行った訳で、それより1カ月早く始まって夏休みをまるまる使える「天気の子」がその半分に届かないってことは気分的にあり得ない。すでに80億円くらい行っているから、100億円超えは確かだろうけどそこからどこまで前作に近づけるか。超えるのは難しいとしてそこが次に何を作らせてもらえるかの鍵になりそう。自由な新海誠を僕は観たいのだから。


【8月12日】 せっかく大画面のテレビがある自宅に戻っているのだからと、アパートから持ちこんだ、Amazonだととんでもない値段になっている、昨年末に横須賀の「響け!ユーフォニアム」に関連した演奏会で買った台本付数量限定版の「リズと青い鳥」をPS3で再生しつつオーディオコメンタリーを聞く。キャラクターデザインも手がけた総作画監督西屋太志さんと、色彩設計の石田奈央美さんが参加しているコメンタリーもあっていろいろと偲ばれる。お二方とも京都アニメーションを襲った放火事件によって亡くなられてしまった。映画のビジュアルを司ったお二方に改めて追悼の意を。

 そんなオーディオコメンタリーで、ラストに近い、覚醒したみぞれにショックを受けた希美が逃げ込んだ生物教室のシーンは最初のカットの寒色からだんだんと暖色にしているんだと美術監督の方によって話されていてちょっと驚く。気がつかなかったよ。美術自体も4段階くらいに塗り分けられているそうで、比べると最初のカットと最後のカットで明らかに色が違うらしい。でも見ていてまるで気付かなかった。童話「リズと青い鳥」を再現したパートなんかでは、枠線を途中でかすれさせて一昔前の、セルに動画から枠線を転写していた時代の雰囲気を残して差異を何となく感じさせたとか。そうやって気付かれないところにいろいろと仕込んでいることが分かって、1本の映画に込めた作為の凄さに改めて感じ入った。

 音響でも、大学進学に向けて勉強を始めた希美と、音大受験に向けてオーボエを続けるみぞれが図書室と音楽室に分かれている場面で、パーカッションの音を響かせることでみぞれはオーボエ、希美は吹いてないけどフルートを組み立てているような音を感じさせたとか。それによって2人は場所こと離れていても繋がっている感を出そうとしたらしい。これも見ていた時にはそうだと気付かなかった部分。聞いてもどこまで意味があるんだろうか、即理解はできなかったけれど、何か伝わる部分があるんだろう。

 決してあからさまでないそうした音や色味の演出が、目や耳から入って感情に作用して映画を見ている人の気持を動かす。動きとかセリフだけではない部分へのこだわりを、もっともっと研究すべき映画なのかもしれないけれど、もはや語ってもらえる人の幾人かがいなくなていることにしばし呆然とする。そういう意味ではやり時々のオーラルヒストリーは野推しておかなくちゃいけないと思った。最後のシーンをどうするか、絵コンテを描きながら山田尚子監督は総作画監督でキャラクターデザインの西屋さんの反応を伺い了解を得つつ描いたそうだから、西屋さんの映画へのの影響はビジュアルに留まらず大きものがありそう。それだけに……。次また劇場で上映されることがあったら、絶対に見に行っていろいろ耳そばだて目を凝らして凄さに近づこう。

 一時は15万人も並んでいたラグビーのワールドカップ日本大会のチケット販売サイトだけれど、だんだんと少なくなってすぐにでもアクセスはできるようになって、ニュージーランドかオーストラリアのチケットでもとれればと横浜国際競技場とか東京スタジアムでのそうした国の試合で余っているところを探し、チェックをいれても反応がないのはリアルタイムで在庫が集計されておらず、カートに誰か入れてもそれがまだ在庫として残ってしまっているからなんだろう。とはいえ、同じ様な状態だった3位決定戦のチケットが、別のタイミングでは出てきてとれたこともあるから、待てば現れるかもと何度かトライするもののそこはオールブラックスにワラビーズ、カートに放り込まれ続けたみたいで最後までとれなかった。

 あとで見返してオーストラリアの試合は、最上和子さんが祖師谷で開く久々というソロ公演と重なっていたんで、無理してとっても行けなかった可能性があるからとれずに良かったんだけれど、ニュージーランドはせっかくくるなら1度くらいはちょっと見て起きたかったかも。これで月給が50万円もあればえいやっと3万円とか5万円のチケットを買ったかもしれないけれど、今は新人アニメーターが3年目か4年目で稼げるくらいの月収を得るのがやっと。仮に失業保険をもらっていたままでも8800円で28日分とかで24万円では流石に3万5万といったチケット代は払えないので行かなかっただろう。なので1万円で抑えた3位決定戦がニュージーランドとオーストラリアになるのをちょっと期待だ。決してならないって訳ではないから。そうでなくても前回だったらアルゼンチンと南アフリカ。最高峰だね。

 カリスマ・アニメーターって行ってしまうと何かどこかエキセントリックなところがあるおうに思われてしまうけれど、絵柄の正確さと端正さが多くのアニメーターの手本になっているという意味合いでのカリスマな訳で、ご本人はいたって生真面目そうで実直そうに見える井上俊之さんが、割とキツい口調でもっても昨今、SNSを騒がせた人気キャラクターデザイナーでイラストレーターで漫画家でもあるクリエイターの言動を批判している。それが単純に言葉遣いの酷さによるものか、そんな言葉遣いの影にありそうなどこか見下して虐げるような気持への反発かは分からないけれど、トップクリエイターでなおかつ同じ作品にも関わっている2人の対立が、来年にも完成の映画に影響を及ぼさなければ幸いと今は願うばかり。

 少しだけ考えるならとある像に対して「キッタネー」という言葉を使ったその意味が、純粋に造形的に美しくはなくって美意識に反したもので、たとえそれがアート作品であったとしても美しくないものをキッタネーと指摘して何がいけないと言われてしまえば、イラストレーターでキャラクターデザイナーの仕事の範囲ならそうも言えただろうとは思う。ただ、それはアートであってモデルとなった事件もあって、なおかつ使われている状況の背後には歴史的な問題もあってそれへの単に見た目へのキャラクターデザイナー的な感覚から繰り出される非難が、ストレートにそうだと受け止められない環境にある。

 それは受け取る側の勝手でしょ、って言えば言えるもののそうは言えない状況もあることを、言う側だって考えなくちゃいけないのが理性ある社会、そして大人の世界。そこを考えずに行ってしまったのか、もうちょっと奥深い意識があってそれが汚い言葉を繰り出させてしまったのか。いろいろと想像は浮かぶけれどもいずれにしても、綸言汗の如くで出てしまった言葉は取り返しがつかないので、以後はどういった煙幕を張りつつ着地点を探るか、そして井上俊之さんのような信頼されるクリエイターの指弾をある意味で時の氏神としながらソフトランディングを目指すかってところが注目されそう。いたずらに反発もしていないみたいだし。すぐに忘れ去られる……ってならないのがネットの世界なんだよなあ、そこだえが気になる。

 京都まで足を伸ばそうかとも思ったけれど、行っても自分の気持ちが動くだけで誰のためにもならないからとこことは落ち着き、1日ずとt部屋にいてエアコンを付けっぱなしで26度くらいに設定していたにも関わらず、暑い名古屋って名古屋以外の何者でもない感じ。そうやって悶えながら月末締め切りの漫画評についてぼんやりと考えようとしたものの、将来への不安がやっぱりチラチラと浮かんで落ち着かない。前だったら京都に行くくらい平気だったのがそうではない財政的な不安だったり、飛び歩いてもそれを”仕事”の糧にするという言い訳をエネルギーに変換できない寂しさだったりが浮かんだからなのかもしれない。

 そうしたものより案外に大きいのは、月末締め切りの漫画評でちゃんとした原稿が書けるだろうかといった部分だったりするのかも。こうと決めたらそうと断じて悔い改めない原稿力(げんこう・ちから)が自分にはなく、あれを書くべきかこれを書くべきかやっぱり違うなあとあれこれ考えすぎてしまうのだ。結局、夜まで家から1歩も出ないで考えつつまるで考えられない1日が過ぎる。その間、転職サイトを見てジブリ美術館が募集しているけれど28歳まででは残念とか思ったり、一田和樹さん「大賞地獄浪漫3」を読んだりして時間を使う。あとはこの日記書いて本読んで寝て明日アパートに戻ってあさってからまた三鷹に通って締め日までに30時間くらい働け、ば新人アニメーターくらいの月収にはりそう。それを幸せと思える気持ちを今はどうにか掴まねば。


【8月11日】 「月刊アニメージュ」「月刊アニメディア」と並んで京都アニメーションへの追悼を行っている「ニュータイプ」2019年9月号を購入、「ファイブスターストーリーズ」はまた訳の分からない方へと進んで凶悪な敵が出てきてツバンツヒとか大変そうだけれど、そっちはそれとして最終の1ページを使って連名で追悼とお見舞いの言葉を出している。そこにこれまで各紙が掲載した京都アニメーションが手がけた作品の表紙絵で、きっと原画を描いただろう人たちの今を思っていろいろと複雑な気持ちが浮かぶ。ご存命であって欲しいけどそうでない方もおられそう。ならばと改めて追悼する。

 3紙とも違う表紙絵を選んでいるそうで、ニュータイプの場合はニュータイプからが「涼宮ハルヒの憂鬱」と「日常」でどちらもKADOKAWA版権の作品。アニメージュは「けいおん!」と「映画ハイ☆SPEED」でアニメディアが「Free!」と「たまこまーけっと」といった具合に芳文社版権がひとつと京都アニメーションオリジナルが並ぶあたりに何か意味があるのかどうか。「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」の表紙絵を最近掲載したばかりだから使って欲しかったけれど、それは他に譲ったのかな、黄前久美子の良い表情が池田晶子さんの原画で描かれていたっけ。未だ安否が不明のおひとり。無事であって欲しいとここでも改めてお祈り。

 ラグビーのワールドカップが9月から日本で開幕するけど、どれだけ話題になっているかというと今のこの時期にチケットを売り出しても日本が出場する以外はだいたい余っているという状況がひとつ、人気の度合いを表しているといった感じ。なるほど買うためのコーナーに入る際に10万人以上の待機列めいたものができていて、購入のためのページにたどり着くのに夜通しかかってしまったけれど、その時点で流石にオープニングとなる日本代表の試合は完売になっていたものの、ほかは値段さえ気にしなければたいていの試合で購入できるようになっている感じ。

 これで前みたいに仕事を続けていたら1カ月分に満たなかっただろうボーナスを突っ込み貯金も勘案しながら東京スタジアムとか横浜国際競技場とかでの試合の2万円くらいの席をポンポン買っていたかもしれないけれど、その前にボーナスを充てにして東京オリンピックのチケット抽選に突っ込みまくって不人気狭義の良い席を押さえてすっからかんになっていた可能性が案外高そう。それでも一生に一度だからと、ラグビーのチケットも買いに走ったに違いない。

 現状はそうしたむだ遣いが出来状身の上ではなく日雇いで稼げて1日9000円から1万円といったところで、2万3万のチケットなんて買っていたら貯金に響く。とはいえオリンピックと同様で一生に一度のイベントな訳で日本に住んでて行かないというのも気が引ける。なのでとりあえず1万5000円ではあってもイングランドとアルゼンチンという欧州と南米の強豪が東京スタジアムで激突する試合のC席を確保。以後、チケットセンターの様子を見ながら出てきたカードを拾っていければもうちょっと見る回数を増やせるかも知れない。サマージャンボ宝くじが当たればぶっ込めるんだけれど、それは絶対にないだろうから考慮外。あるとしたら失業保険の再就職手当が運良くもらるくらいか。その5分の1を突っ込めば決勝も見られるのだけれど。いや見ないけど。

 東京ビッグサイトがコミケで賑わう中で、そういや東京ビッグサイトを東京おもちゃショー以来、2カ月くらいのぞいてないなあと気付く。テクノロジー系の展示会とか、ポップカルチャー系のイベントとかがあれば自宅からだと新木場経由でりんかい線で国際展示場駅(今は名前も変わったんだっけ)えと行き、会社からだと新橋からゆりかもめで行って見物していたので、だいたい月に2度くらい、多いと毎週くらいのペースで新木場あたり、新橋あたりを歩いていたけど最近はとんとご無沙汰に。ポスターとかどう貼られ、風景とかどう変わっているかを知らずにいる。

 そういえば大手町からちょっと足を伸ばしてのぞいていた秋葉原も上野も神保町もしばらく足を踏み入れていないし、夕方とかに映画を見に行っていた新宿も渋谷もしばらくのぞいていない。行ったといえばドーム映像が上映された西新井とか勤務地になっている三鷹に行く途中の中野とか。そこでも何かを探すというより電源を使える店を探してネットをのぞくくらいか。まだ4カ月くらいなのに行動範囲が随分と変わってしまった。仕事先が変わり拠点にする場所が変わると、こんな感じに行く場所も変わるものだと改めて実感。それを寂しくではなく当たり前と思えるようになって、過去への未練を鎮め浮かぶ涙も乾き、新しい境遇に馴染めるのかもしれない。どうだろう。新しい環境次第かなあ。今のところは楽しいけれど、浮かぶ将来不安はまだぬぐえてない感じだし。

 はじき出されてしまった感じと、あとはやっぱり収入面での不安からネガティブなスパイラルに陥りそうになったんで、薬をぶっ込み近所のTOHOシネマズ赤池へと劇場版「ONE PIECE STAMPEDE」を見に出かける。今まで影も形もなかった新キャラを持ち出して来てストーリーにはめ込むところは「Z」とか「GOLD」あたりと似た感じ。ルフィですら手こずるようなものすごい奴らが何十年とか姿を見せずに大人しくしていたりするものかって疑問もあるけど、それを言い出すと話になならいから仕方が無い。今回は海賊王ことゴール・D・ロジャーの片腕だったらしい男が久々に牢獄を脱出してはロジャーが残したお宝が存在するという触れ込みで海賊万博に集まってきた海賊たちを相手に大暴れ。そこにルフィたちが挑んで闘う。

 最悪の世代と呼ばれたユースタス・キッドとかトラファルガー・ロウといった辺りが集まりジュエリー・ボニーも混じっていたりしつつ、キャベンディッシュとかもいるから時間的にはパンクハザードを経てドレスローザでドフラミンゴを倒した後、でもってビッグ・マムとかとかとはまだ関わっていないのかな、あるいいはワの国とも。いやいやそれだとサンジも含めて麦わら海賊団が全員集まっているのがおかしいから時間的にはどうなんだろう、って考え出すとまとまらないけど、そこはいつか年表の中にピタリとはめ込まれることになるのだろう。

 でもってそんな麦わら一味に加えてローにボア・ハンコックにサボにバギーにスモーカーまで含めた連合が、キービジュアルそのままに集まって強敵に挑むといった展開。倒されても立ち上がっていく強さ、その裏に諦めないで戦い続けるウソップの格好良さとか描かれていて手に汗握りながらも見てしまう。そして大団円から得られたお宝なんてあっさり捨てて自分たちで道を拓こうとするルフィ。そんなストーリーを圧巻の作画でもって見せてくれるとアニメーションって本当に素晴らしいなあと思えてくる。そんなアニメーションの端っこでアニメーションの歴史を刻み記録を残し未来に繋げる仕事を今はしっかりやろうと思うのだった。大坂で開かれている機動警察パトレイバーの展覧会にもそうやって刻まれ残された原画が使われている訳だし。何かのお役に立ててるという自覚。それが今の自分には必要みたい。その実感を得るためにさて、今週もあと2日くらい休んで水曜あたりから三鷹に通うとするか。


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