縮刷版2019年8月上旬号


【8月10日】 無敵で不遜で圧倒的な将棋の才能がありながらも体力的な面から九頭竜八一に遅れをとっているだけかと思っていた空銀子だけれど、本人は自分は定跡こそしっかり抑えていても新手を見つけて膨らませる天才には足りてないと自覚して、八一やライバルの神鍋歩夢を“将棋星人”と見なして天上人のように恐れあがめていたりする。そして、イカサマもすれば番外戦術も使ってその将棋を勝とうとするけれど、それではやっぱり追いつけないことを師匠に諭される様に、見かけによらない“凡才”としての空銀子の苦悩が見えた白鳥士郎さん「りゅうおうのおしごと11」(GA文庫)。

 いよいよプロ棋士を目指して三段リーグに上がりながも、三連敗して次負けたらもうおしまいかと言われる状況。そして次に対戦するのが無敗の小学生とあって苦悩し逃げ出したりしたところを八一が見つけて共に旅をしながら過去を思い出していく、ってのが11巻のストーリー。そこでの銀子の八一に対する隠していた情愛めいたもの、そんな八一を喪うまいと将棋を勝つための執念めいたものの凄まじさもなかなかだけれど、供御飯万智なんかがかけた呪いめいたものも凄まじくって、京女のイケズぶりが改めて浮かび上がる。

 八一と呼ぶなと銀子が命令すれば、万智は銀子に「浪速の白雪姫」とあだ名を付けられ重荷にする。そんな関係も女流から抜けだそうとする銀子には後に置いていくもの。強敵を相手に目いっぱいの勝負を仕掛けて棋譜を汚してでも勝とうとした執念があれば、そのままするりと女性発のプロ棋士になってしまうのかな。そうなるまでにはあと数巻。その前に最近あまり目立っていない八一自身の物語が欲しいとおろ。竜王位を防衛して名人のタイトル獲得100期を阻止したものの別のタイトルで100期に達して国民栄誉賞ももらった名人が、残された永世位を狙い竜王位に挑んで来るだろうから。そちらに傾けば今度は雛鶴あいのドラマが薄れる。どうやって裁いていくかなあ。次も期待。

 もとより仕事に行ってない土日祝日なのに、休んでいたら1円にもならないフリー業の現実というものに覆い被さられて、居ても立ってもいられなくなるのはやっぱり心がまだ、フリーであるという現状に適応しきれてない現れなんだろうなあ。その間も書評用の本を読むとか、月末締め切りの原稿について考えるとか、やることはいろいろあるにもかかわらず、そっちに手が向かわないのもトータルで収入を想定する頭に切り替わってないからか。早く慣れないといけないんだけれど、それにはもうちょっと仕事への意義を自分の中に見いださないと。

 これは普段の行動にも関わってくる問題で、以前だったら教養という自己研鑽なり娯楽という自己満足からアニメもアートも見れていたし、音楽だって聴けていたのがいつしか報道という行為に紐付け、それに役立つからだと考えるようにすり替わっていった。結果として、報じることを通じての承認欲求の材料としてアニメやアートやマンガや音楽を見たり聞いたり楽しんだりするようになってしまっていんだけれど、仕事を辞めて出し口を持たなくなってしまった今、見たいから、楽しいから展覧会に行きアニメを見て音楽を聞くといった以前の意識を取り戻すのに時間がかかっていて、あいちトリエンナーレ2019の作品を見ていてもソウナンデスカといった以上の楽しみが湧いてこない。

 これがメディアの少ない時代だったら、自分の日記に書くといった行為でもささやかな自己満足が得られたし、そこから外のメディアに何か書いてと言われる機会も得られていた。今は誰もがメディアを持ってSNSやらインスタやらに投稿するようになっていて、名の知れた人とかハプニングに行き当たった人がピックアップされてバズることはあっても、個人に声がかかることは滅多になくなってしまった。

 そんな状況で、自分がアニメを見てアートを見てマンガや本を読んで音楽を聞く”意味”をどこに置くか、あるいは取り戻すかがこれからを生きていく上で大切になって来るのかもしれない。今のアーカイブの仕事に紐付けて、創造され創作されたものを見せる、残す、伝えるとはどういうことかを考え、理解し糧にして戻そうとするとかありかなあ、それも結局は仕事を理由にしてしまっているから拙いかも。いずれにしても自分の高慢さが生む腰掛け感なり居候感を払拭し、そこに居ても良いんだ感を沸き立てることが今は必要。その延長として美少女を見た、嬉しかったで1日を楽しく追われる心が戻って来るのだと信じたい。

 まあ、それでもせっかく開かれているんだからとあいちトリエンナーレ2019。やっぱりこれが凄いといった感動感慨が湧いてこないんだけれど、たとえばこれだけ世間を騒がせた表現の不自由に関して、現在進行形で権威権力に挑んでいて将来において不自由さを被りそうなものがあるかを探したものの、あまり世間的に話題になっていないのか思い当たらず。敢えてかろうじて目についたのが、路上に描かれたジェームズ・ブライドルによる実物大のグローバルホークの影。いわゆる無人偵察機という奴で、もちろん用途は戦争なり紛争地域への投入なんだけれど、それを日本が買った意味とか考えた時に、外に向かって何かしたいといった意図があって、それを専守防衛から外れた何かと見て取る意味なんかも浮かびそう。あからさまじゃなく、洗練されているから不自由にはならないだけかも。

 ざっと見て名古屋市美術館へと回ろうと思ったらサカナクションによる「暗闇 KURAYAMI」と名付けられたパフォーマンスの当日券を並べば買えそうだったんで、2時間弱ならんだらB席だけど無事確保。東京でのライブすら見たことがないサカナクションがいったい何をしでかすのか、真っ暗になるので途中の入退場はできず暗闇に目立つような服装も避けてといったアナウンスから、黒い服を着た人が目立つパフォーマンスが始まるのと、5階というほとんど見下ろすような場所から鑑賞する。

 といっても暗闇だからステージは見えない。事前に機材が置かれた台がボックスの中に入れられて、そこに現れたメンバーが礼をした後は入って公演がスタート。真っ暗になってしまって何が行われているかがまったく分からない中、ただ音楽だけが響き渡る。それだけなら家で目をつぶって聞けば再現はできるかもしれない。でも、大きなホールの中に響く音が振るわせる空気の振動は家では感じられない。この身体性はライブの会場ならではと言えるだろう。暗くなると飲んでる薬のせいか眠くなって、音楽を聞いているのか暗闇から響いてくるのか分からなくなる曖昧さもあったけど、それも含めて真っ暗闇の中に自分が個として置かれて、音楽に包まれ振動に揺さぶられるような感じがした。観客席とステージとの一体感はなく個とし場に捉えられた感じ? そんなパフォーマンスだった。明るく楽しいサカナクションとはちょっと違った荘厳なサカナクション。1時間と短かったけど、それ以上いるとネガティブな思いがスパイラルを招いて沈んだのでちょうど良いかも。名古屋市美術館は行けなかったけど、まあいっか。


【8月9日】 週末を含めて1週間休もうとも、あらかじめ含まれた休暇として処理されもらう月給には変わりがないサラリーマン的生活を30年は続けて来て、年末とかに6日間は休み夏も4日は休んで帰省とかしたりイベントを見て回ったりしていたのが今年は、休めばそれだけもらえるお金が減ってしまう身となって、休むことに恐怖を覚えてたりするのがある意味で新鮮だけれど、これがいつまでも続くと大変に困ったことになるなあといった不安も浮かんで、抑えてあった焦りが浮かび上がってきて気持を沈ませる。

 これが失業中なら雇用保険が1日幾らで入っていたけれど、そういう身でい続けることの方が恐怖でさっさと自営を選んで抜けてしまった今は、休みは休みでしかなく1銭にもならない。分かってはいたけどこれがなかなか大変。とはいえ、社員となって1週間はびっちり仕事に縛られるというのも、今度は割と時間に融通が利いた記者という職業とは違いすぎてちょっと慣れそうもなかったりするから、そこはお金と引き替えにしてでも自由が得られる今の立場の方が良いのかもしれない。とりあえず休みたい時にはお金さえ犠牲にすれば休めるのだから。

 かといって、それでもうずっと休んでて良いと言われてしまうのもまた恐怖。幸いにして行けば仕事はありつけそうだと分かっているので、この週末を挟んで前後に1日ずつくらいをフリーの身としての夏休みをじっくりと噛みしめよう。とりあえず帰省はしたので、土日あたりを選んであいちトリエンナーレをのぞいてくるつもり。「表現の不自由展、その後」はもう見られないけれど、ほかにもわんさか現代美術が出ていてそれぞれにいろいろと主張はしているだろう。むしろ今、言うべきことは現役のそちらのアート作品にある訳で、見て回っていろいろ感じてみたい。現在進行形に不自由な立場に追い込まれそうな作品はあるのかな。わたし気になります。

 三鷹に通うようになって1カ月とちょっとが経って、その間に社長の人を見たことは1度もなかったけれどオシイさんは1回だけ、店頭にあるナポリピッツァの店の前に用意された喫煙スペースで煙草を吸っている姿を見かけたっけ。そんなオシイさんとは姉と弟にあたる最上和子さんが原初舞踏家ののソロ公演を9月29日に開くというので予約を入れる。バレエはシルヴィ・ギエムによるボレロを上野に観に行ったことがあるけれど、舞踏というのは初めてでそれも土方巽さん大野和男さんといった舞踏ではなく原初舞踏というもの。どんな感じになるかが今からとっても気になっている。

 その一端には出演というかほとんど主演のドーム映像「HIRUKO」でも触れられて、その上映が8月17日にもあって、3度目を観に西新井まで行く予定で、そこに最上さんが登場して宇野常寛さんと一緒にトークするのを聞くけれど、行っても舞踏そのものはそこでは見られないし、映像はやっぱり映像。生とはやっぱり違うだろう。7月にあったワークショップに最上さんも来てはくれていたけれど、教える立場で自身が何か舞踏をするということはなかった。だからいったい、どんな感じで動いているのかをいつか見てみたいと思っていたら、久々というソロ公演。これは行かねばと思った次第。オシイさんが来るかは分からないけれど、お顔がそっくりなので入れ替わっていても分からないかもしれないかな。

 最上さんといえばオシイさんと対談した「身体のリアル」という本も出ているけれど、別に生い立ちを書き記した「私の身体史」という小編がAmazonからKindle版で出ていて、ワークショップのあとにダウンロードして読んだらこれがなかなかに凄まじい生い立ちだった。若いころはまだ学生運動が盛んだったけれども参加することなく過ごしていたらアパートで酒を飲んでゴミに埋もれて暮らす感じになていたとか。今でいうならひきこもりに近い状態で、そして今の自分にちょっぴり重なる感じ。つまりは人間として壊れてしまっていた感じで、そこから最上さんは肉体を取り戻そうと看護の仕事を始めてとりあえず歩き出す。

 やがて資格もとったけれども元より体力のない身での看護はキツかったのか体を痛めてしまったとか。そこから舞踏へと関心を抱くも不倫めいた心境から心を痛めたりもしたのをどうにかしようとお見合いをして結婚をして、居場所を定めつつだんだんと今のような舞踏の世界へと進んでいったらしい。つまりは相当に歳を経るまでは心を壊し体を痛め足掻きながらの暮らしだった訳で、それでもどうにか自分を確立させられたのを見るにつけ、その歳までまだ結構ある自分にもどうにかできるんじゃないかと思えてきた。のめり込める何かがある訳じゃない。使える力がある訳じゃないけれど最上さんだってオシイさんい頼った形跡はまるでなく、自分自身で考え動いて今に至った。それなら自分にも……って思いたいけどそこまでの道を探るためにも今一度、ドーム映像を見てそして公演を見て考えよう、自分の身体のリアルさを。

 9日に発売された「アニメージュ」「アニメディア」「ニュータイプ」のアニメ誌3誌が共に京都アニメーションで起こった痛ましい事件に対する追悼と応援のメッセージを載せた企画を掲載。個別に作られたページかは確認してないけれども3誌が連名で追悼とお見舞いの文章を載せたり、過去に描かれた京アニ作品の表紙絵を乗せたりしているらしい。校了まできっと時間の無かっただろう中で起こった事件で、1ページを作り出すのは大変だっただろうけれど、それでもやらざるを得ない気持を持ってくれたこと、そして3誌が合同で動いてくれたことにアニメーション・ファミリーとしての矜持を感じる。来月号は個別に追悼が行われるのかな。とはいえ発表されてる個人以外で犠牲者もいたりする中で、何をどう扱えば良いか判断に迷いそう。予想はできても推測で動くのは礼を欠く。今はだから見守りつつ応援し続けることが1番なのかもしれない。

 例の小泉進次郎議員と滝川クリステルさんの官邸訪問からその流れでの会見へと至ったことについて、毎日新聞の官邸詰め記者があれば官邸を訪れる人には何かを聞くことになっているぶら下がりであって、小泉進次郎議員が進んで会見をした訳ではないといった状況説明を行ってた上で、そうやって番記者にぶら下がられることを想定して訪ねた2人と、訪問を受けた総理や官房長官の企みにハマって騒いだメディア側に「最後に『こんなに騒ぐことか』という批判がありますが、それは私はその通り」と思うと書き、また「踊らされず冷静に価値判断をすべきで、反省しないといけない」と自省している。

 ごもっとも。とはいえ既に乗ってしまって喧伝の片棒を担いでしまった状況で、いくら反省したって意味がない。「最後に」ではなく「最初」に自省をし自戒をしつつそういう状況に陥っているメディアのあり方を変えるための意思を示して欲しい気がする。でなければ同じ様なことが繰り返されては、ぶら下がりなんだからという言い訳、そして官邸に来る人に話を聞くのも仕事といった意識、なおかつバリューがあるならまずは報じるべきだといった考えに押し切られて、どうでも良い人へのぶら下がりが横行するようになるだろう。その場でこれはぶら下がりをすべき案件ではないから外に出てやれと告げ、それが公然とメディアで伝えられるようにならないと変わらないんじゃないのかな。そういう風になってしまったから、メディアという世界は。やれやれ。


【8月8日】 デズモンドの山寺宏一さんに続いてフローラの林原めぐみさんが出演を果たした「キャロル&チューズデイ」はまるで「日本アニメ(ーター)見本市」って感じだけれどボンズが作っているってことを考えるならむしろ「カウボーイビバップ」か。かたや大成功したシンガーで、こなた成功はしながらも騙されて孤独になって歌えなくなったシンガーという対比。どちらもよくあるパターンでそしていったいキャロルとチューズデイはどちらを目指すのか。

 言えるのは歌うことが素晴らしいのだという境地を保ち続けることかなあ。そのためにはやっぱり成功が不可欠? でも成功してもフローラのようになったりするし。難しい。でもとりあえず火星にもあったサウス・バイ・サウス・ウェストに出演を果たして脚光は浴びそう。道ばたで拾ったバックバンドが上手すぎるけどそもそもギターとドラムとベースという3人でいったい何をやっていたんだあいつらは。ボーカルもいなければジャズみたいにサックスなりトランペットといったリードを取る楽器もない。ピアノだって。そういうご都合も含めてサクセスへの道を走った先に来る衝撃。とりあえずアンジェラの前に何か起こりそうで、それがキャロルとチューズデイにどう跳ね返ってくるかに目下、注目。

 相変わらずというか、言いたいことのためには本来の意味をズラしてでもそちらに心証を持っていこうとするところがあって、それが世間の苦笑いを誘っていることに今も気付いていない。あるいは気付かないふりをしている。あいちトリエンナーレ2019の企画展で起こった中止の騒動について、それが「ヘイト」にまみれた作品であるから中心は当然といったスタンスからいろいろ書いているメディアがある。
B  「芸術であると言い張れば『表現の自由』の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか」。いやいや、“ヘイト=憎悪”というのはそうだけど、よくヘイトとして用いられる言葉はヘイトクライムの略であって、それは単純に憎悪とは略せない。そして憎悪なり憎しみなりといった感情の発露もまた表現に数えられる。けれどもヘイトクライムは違う。だから規制もされる。そこの切り分けを曖昧にして印象を操作している。あるいは本気でヘイトもヘイトクライムもいっしょだと信じているとか。

 「『「日本国の象徴であり日本国民の統合』である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった」。なるほど確かに天皇陛下への侮辱は快いものではないだろうけど、憎む気持を持つ人がいるのも理解する。そしてそうした気持はヘイトクライムではなく日本人全体への侮辱でもない。少女像も同様で、戦時下におこなわれたことへの非難は今を生きる者をも含めて糾弾しているものではない。自省しつつ次を探る礎にするべき表現だと思う。

 「作品説明の英文に『Sexual Slavery』(性奴隷制)とあった。史実をねじ曲げた表現である」。そうなんだ。というか狭義では当てはまらなくても国連なんかのいう広義の定義には入ってくることがだいたいのところ認められていて、世界中で指摘を受けていたりするのに未だ引かない。譲れない何かがあるのだろう。そして表現の自由は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」という憲法の文言によって制約を受けることもあるらしいけど、その「公共の福祉」とは別に公的機関の主義主張ではない。今回は、公的機関の長たちが平気で作品を語り検閲を行い糾弾したから問題になっている。

 そうした原理原則をすっ飛ばして、感情だけで語りそれを正当化させようとする言説に、乗っかるかのように情動を誘うような記事が、どうしていつまでも載り続けるかちうとこの立ち位置から動いたらもはやすべてが崩れてしまうからなんだろう。だから立ち続ける。悩ましいのはその立つ場所が案外に頑強なことで、むしろ強化されつつあるからこその不自由展の不自由になったりする。逮捕されることが分かっていても、正義と思ってファクスを送る普通の人がいる。それは弁護士を懲戒請求した大量の人と同じで、正しいと思ってやっている。その正しさを支える感情を芽生えさせ育て広める装置に国全体がなりつつあって、お先棒を担ぐメディアがある。どうにもこうにも息苦しい。だから出て良かったかとうとそこは月収が……という訳で自分も揺れている。人間貧すると鈍するなあ。

 「たんすわらし。」と「わすれなぐも」は文化庁の若手アニメーター育成プロジェクトから出てきた作品として上映だかパッケージだかで見ているし、湯浅政明監督がクラウドファンディングで作った「Kick− Heart」もパッケージが売っていたのを買って見たから知っている。でも今日マチ子さんの作品に関わっているらしい「みつあみの神様」は実は観てないし、「Oval×Over」という作品もまだ観たことがなくって、そんなプロダクションI.Gが手がけた短編アニメーションを集めたパッケージが海外で出ていると知ってちょっと欲しくなった。DVDとBlu−rayがセットになったスペシャルエディションめいたものがあるみたいで、DVDはともかくBlu−rayならリージョン関わりなく見られるのかな。ネットで調べるとBlu−rayだけのパッケージもあったんで取り寄せるのも良いかも。22ドルくらいだけど送料考えると4000円くらいになるのかなあ。調べてみよう。

 1000日も上映が続くなんて日本のアニメーション映画史どころか日本の映画史としても画期的で革命的なんじゃないのかなあ。片渕須直監督による「この世界の片隅に」の上映がそれだけ続いているってことで、土浦がほとんど専門劇場と化して上映しているのが大きいけれど、それ以外に上映会的な場所でも断続的に上映が行われていて、すっかり国民的映画になった感じ。とはいえジブリ作品のように子どもが喜ぶものとは違うから、まだ見ていない人も結構いそうで、そうした層に広まっていくことによってまだまだ上映が続けられそう。とか言ってると「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が公開されてしまいそう。その場合は1000日に繋がるのか別枠か。「この世界の片隅に」もそのまま上映されるのか。いろいろ気になる。いずれにしても1回くらいは土浦で見ておくかなあ。


【8月7日】 そうかLINEノベルからの出版でもLINE文庫エッジにはイラストが入るけどLINE文庫は表紙絵こそイラストながらも中にはイラストは原則つかないんだ。つまりはメディアワークス文庫的。キャラクター文芸なりの位置づけでもってライトノベルのLINE文庫エッジと切り分けていくんだろう。でも僕が読めばそれはライトノベルなんだけれど。作者もライトノベル出身だし。ってことで三雲岳斗さん「アヤカシ・ヴァリエイション」(LINE文庫、650円)はいわゆる付喪神もの。真継晴という青年が機械の修理屋でアルバイトをしていると、長身の青年が訪ねてきて筺がないかを訪ねてきた。

 見覚えがないと帰ってもらったその機械修理屋にドラッグで正気を失った運転手がトラックを突っ込ませて店は損壊。けれども晴は無事で先に店を訪ねてきた青年たちに助けられる。彼らは特殊骨董処理事業者として、普通ではない骨董を扱うことを生業としてきた店の従業員。そして付喪神。人間に禍をもたらす付喪神を取り締まることで存在を許されていた彼らは、晴の実家にあたる大金持ちの家と関わる奇妙な筺を探していた。そこに絡む遺産相続をめぐる謀略。そして筺を狙う別の特殊骨董処理業者。晴の持つある力が発動して付喪神たちの新しい一面が花開く。

 意識を持って肉体も得た付喪神たちにとって自分を扱うことができる「使者」の存在は心地良いのかそれとも嫌悪すべきか。とりわけ人を斬ることが生業だった刀剣の付喪神にとって、使者によってまた人を斬ることになるのは嫌なのかそれとも自分の本来の力を試せるから嬉しいのか。そこが少し気になった。あと晴自身の出生にも。いっしょに邸を逃げ出しながらも事故にみせかけ殺された感じの母親は、本当に晴の母親だったのかそれとも。そこから始まる新しい関係はつまりあの娘の再登場も意味しそう。SF作家でもあるけど伝奇も得意な三雲岳斗さんのあやかし付喪神ディティクティブストーリー。続いていくなら読んでいこう。

 本番が始まっている全国吹奏楽コンクールで京都府大会が順々に繰り広げられているようで、「響け!ユーフォニアム」のシリーズで北宇治高等学校が目指している高等学校の部Aはまだみたいだけれどもその北宇治高校を描くにあたってモデルにしたという京都府立東宇治高等学校が小編成で出場し、見事に金賞を獲得した。といっても府の代表として関西大会に進めない、いわゆる“ダメ金”と呼ばれているもので、中学時代に高坂麗奈がそれをもらっても嬉しそうな顔を見せず、逆に悔しくて死にそうだと嘆いたもの。最新の映画「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」でも久石奏が同じ様な悔しさを関西大会でもらった“ダメ金”に対して向けていた。

 でも、今年に限っては関係のあった人たちに多大な被害が出て犠牲者も出てしまった一件を身近に感じ、それでもしっかり出場をして金賞に値する演奏をしたことをやっぱり心から讃えたい。取材自体はきっと随分の前に行われていただろうから、今の部員が京都アニメーションの人を知っているかは分からないけれど、それでも映画を観て入部した人、入ってからここだと気付いた人もいるだろう。映像の中にリアルに再現された音楽室の様子に繋がりを感じていたかもしれない。そんなアニメーションを生み出した場所に起こった悲しい出来事を、高校生としていろいろ感じつつ演奏を成し遂げた。立派だなあ。

 やれることをやっただけかもしれない。でもそれが今は1番大事。関わりもなく住まいも遠くの僕にやれることがあるか分からないけれど、今の仕事がアニメーションの何かに繋がるのなら日々、目の前に来る仕事を覚えつつこなしていってその先にあるだろうアニメーションの明るい明日を作りたい。そうなるための仕事なんだと今は信じてる。信じているけど業界全体に漂うモヤモヤとした感じだけはちょっとどうにかしたいなあ。「天気の子」がいくらヒットしても、アニメーション業界が儲かっているようには見えないのだ。テレビシリーズで社会現象になるくらいにヒットしている作品もないしなあ。気付いていないだけかなあ。

 大臣であるとか副大臣といったところだったら、内閣の一員であって総理大臣という役職にある人の元を訪ねて何かを相談することはあっても不思議ではないけれど、もっと下の政務官でしかない人物がまったくの私事に過ぎない結婚を報告に官邸に内閣総理大臣を訪ねて面会できてしまうことも不思議なら、そんな結婚の会見を官邸でやってしまうことも不思議極まりないし、はっきり言えば公私混同であってそれをメディアが何の批判もしないでワイドショーの時間だからと中継し、平気な態度でいることも含めて、この国がどうにかなってしまっていることが伺える。

 これが例えば自民党本部を訪ねて自民党総裁としての安倍晋三を訪ねて了解をもらい、自民党本部で会見するなら文句もなければ異論もない。あるいは自民党総裁としての安倍総理を訪ねただけだと言って、会見は党本部でと言えば異論も疑問も浮かばなかった。それが官邸という行政の場で国会議員が私事の会見を平気で行う。以前だったら非難囂々で役職どころか国会議員の立場ですらかかって来たような異常事態。それがさも明るいトピックとして流されてしまうからたまらない。

 この異常さを、どうやったら異常なんど思ってもらえるようになるのか。メディアが騒ぐしかないんだけれど、そのメディアが特落ちはイヤだと官邸での会見を止めもせず、疑義も挟まないでその場で捕まえ会見させたような感じがあるからむしろ、公私混同を助長しているような節がある。真っ当を真っ当とせず異常を平気で正常の如くにすり替えていくこの条項。すべてがグチャグチャになって底が抜けてしまった。この流れでいろいろなことが官邸で行われるようになって、それを報じることで政府与党の意向なりイメージが世に流布させていくようになりそう。憲法改正とか。たまらなんなあ。


【8月6日】 某所で「這いよれ!ニャル子さん」のアニメーションに関連した資料なんかを眺めていたりするんで、最近何書いているのかちょっと気になっていた逢空万太さんがあのLINE文庫エッジから新作をリリース。その名も「リトルウィッチアカデミア」ではなく「ウィッチクラフトアカデミア ティノと箒と魔女たちの学院」は男の子なのに魔女になって空を飛びたいと思ったティノという少年が、基本は女の子ばかりの魔法学院に入学して空を飛ぶための訓練を始めるというストーリー。

 別に女の子しか魔女になれないって訳ではないようで、資質があれば飛べるけれどもそういう人が滅多にいないという話。でもってティノには資質があったようで、田舎に居たときに師匠からいろいろと鍛えてもらった上に、姉がなかなかの強豪のウィッチクラフトと呼ばれる箒に乗って空を突っ走るレースの選手で、その推薦もあってティノは魔法学院への入学を果たすことができた。そして始まった練習だけれど、飛ぶのがどうもうまくない。

 田舎に居たときは普通に飛べたのに、学院では使っている箒に馴染めないのかどうにも制動が上手くいかずにカーブが曲がれなかったりしてふらついたりする。それでも学院に行く途中で知り合ったウルスラという少女や、最初はレースをふっかけてきてやいじめっ子かと思ったら、その身にティノいじめの烙印を背負うことで他からのちょっかいを防ごうとしたらしいマルタといった同級生に支えられ、ティノは訓練を閑雅って行く。もっとも、やっぱり練習ではうまく飛べずビリばっかりで、このままでは退学の危機。なおかつ氷の女王と呼ばれる正確無比な飛び方で圧倒的な強さを誇る少女が立ちふさがる。

 まさにピンチといったところでティノに対してウルスラの妙な行動があってティノがレースで本当の力らしいものを見せる。それができた理由から推測すると、ティノはもしかしたら天才かというとやっぱり慣れてないだけなのかもしれない。それでも持てる力を発揮して、逆転へと至る歓喜といったものを味わえる。加えてウルスラに漂う謎。彼女はティノの故郷での飛び方から何を推測したのか。そしてどうしてそれを知っているのか。ティノの故郷での師匠とは何者なのか。いろいろ浮かぶ謎が明かされつつ進む展開でティノの成長を味わっていけそう。ニャル子さんほどヒット作に恵まれていなかった感があるけど、これは続いて欲しいなあ。続くと思うし。

 コンピューターゲームをプレイするより先にSFとかに出会って創造された仮想の空間を真実と耽溺して生きていたら、それは現実ではないと教えられて驚き嘆き苦しむような展開にいろいろな形で触れてきた。一生涯をそこに浸り続けることが不可能ならば、いつか戻らなければいけない現実を、思い出させてくれつつも一時の夢を与えてくれる仮想の世界を真っ向から否定し、壊してしまわずそこにいつでも戻っていけることの喜びも、同時に感じさせられたような気がする。

 だから、観たとある映画についてもゲームとはそもそもそいういうものであって、仮想世界の楽しさと現実世界の確かさを共に称揚するようなものだと受け止めれば、別に憤りもしない。喝采を浴びせるということもない。どこかで観てきたストーリー。それが最高品質の3DCGによるビジュアルによって描かれていて、楽しいストーリーとともに繰り広げられているのだから、どこに文句を言えば良いのかが分からないといえば分からなかった。

 ただ、そこに用いられた仮想の世界に強い思い入れがなかったからこそ言える言葉であって、何時間何十時間もそんな世界を歩き回って冒険を繰り返し、良い思い出として抱えていた人たちが、社会に出てふと思い出すこともあった物語を改めてそれは仮想世界だたのだよと突きつけられて嬉しいかと言われて、どうだろうと迷う気持は分からないでもない。確かにそうだったよねと流せる人もいるだろうけれど、言って欲しくなかったと憤る人もいて不思議はない。だから起こっているのだろうなあ、賛否両論の論争が、その映画を巡って。

 これが超ベストセラーのゲームを題材にしたものではなく、架空のコンテンツをめぐって繰り広げられた現実と虚構とのせめぎ合いのような物語だったら、ある種の提言として機能したかもしれない。いやいや、使い古されたネタを今さら出してこられても迷惑だと拒絶されたかもしれない。目覚めればそこは厳しい現実。ならばと戻る夢の世界。今はそうした願望を異世界転生系の物語が満たしている感じもあったりする。そうした異世界から叩き出さる物語が売れるとも思えないように、分かっていることを改めて突きつけられても鬱陶しいだけかもしれない。

 ましてや、自分が青春をかけて耽溺した世界が、どういったストーリーで映像化されるかって点にのみ、興味を持って待っていた人たちがそうしたストーリーと世界観の映像化を越えて、ストーリーと世界の虚構性を突きつけられたのだから、それは違うと叫んでも当然かもしれない。観たかったストーリーがそこになかった。それは嫁のどちらを選ぶべきかという論争とはまったく違う次元での異論を巻き起こした。もっとも、そうしたストーリーへの耽溺がない人間で、虚構は虚構で現実は現実だという主題を幾度となく見せつけられてきた身には、ああ、またそういった作品が出て来たと笑って受け止めつつ、絵が良く動き背景がリアルでキャラが可愛く、それにしては胸が揺れないなあと思って笑って流せる映画になっていた。

 同じクリエイターが関わる「ルパンTHE THERD」というフル3DCGによるアニメーション映画では、予告編を見る限りしっかり揺れそうなのでそこは安心して良さそう。そして同時に、ここまでの映像を作り上げることが可能な監督ならばスタジオは違っても同じだけのクオリティを持った3DCGによるルパン三世を見せてくれるのではといった期待も膨らんでくる。次元大介とか本当に格好良さそうだったから。そうしたキャラクターへの愛があるいは、国民的と言われるゲームのアニメーション化では及んでいなかったのかもしれない。ご長寿アニメーションと違って、ゲームへの愛は世代によって大きくズレることもある。そこにハマりこんで浮かんださまざまな批判と賛辞をどう受け止めて権利元はどう動くか。次に向かう興味はそっちだ。アニメーション化、また動くかなあ。

 もしも「アストラル・アブノーマル鈴木さん」の松本穂香さんを先に見ていれば、「ヒロインにはTBSのドラマ『この世界の片隅に』を見て『若いのにうまいなあと思った。笑い顔が魅力的で感情表現が豊か』と松本に白羽の矢を立てた」とはならなかったかもしれない。それくらいぶっ飛んだ女優で「きみと、波にのれたら」でも妹ちゃんの声を演じていた松本穂香さんを起用してあの角川春樹さんが監督を務める映画「みをつくし料理帖」が登場予定。どんな作品になるかというより、どんな演技を見せてくれるか今から楽しみ。


【8月5日】 こちらが置かれている状況が変わって、会社組織にしがみついてでも仕事をこなしつつ鬱憤をデスメタルを歌うことで晴らしたり、会社の先輩や同僚たちと交流を深めていって自分の居場所を確立させていくようなストーリーを、心が受け付けづらくなっていて「アグレッシブ烈子」のシーズン2を実はまだ観ていないけれど、それでも世界で大ヒットしている様子は伝わってきていた。とはえい日本ではあまり爆発的なブームを呼んでいるといった節はなく、アニメエキスポやコミコンでの発表もなかったから、このまましばらくシーズン2が展開されるのかと思っていた。

 そしたら何と台湾でもってシーズン3が作られることが発表されて、台湾のメタルバンドとの共演も行われたという。これがそのまま台湾を含めたアジア市場にシフトするってことを意味しているのではなく、元よりアジアでも人気はあったけれども欧米に比べるとやや知名度的に下がるところもあるから、アジアでの人気アップにつなげようと発表を行ったとかいった見方もできない訳ではない。やっぱりハローキティにマイメロディにポムポムプリンにリトルツインスターが強い地域なだけに、アグレッシブ烈子の発表を行うことで認知がされて人気も広がる、なんてことはあるのかな。

 だったらまずは日本でって思うけれど、これだけやっても母国なのに広がらないなら敢えて選ぶ必要もないのかも。どうして広がらないのかは謎だけど。まあシーズン2を経てじわじわと認知も上がっているようなので、シーズン3が始まる前までにはどこかで改めてテレビ放送とかされて一気に広がって、「やわらか戦車」なんて越えるブームが来ると思いたい。しかし日本発のアニメーションでシーズン3まで言ったのが、いわゆるクールジャパン的なアニメーションでも萌え系でもなく「アグレッシブ烈子」というのが不思議というか。世界が求めているのはやっぱりこうしたペーソスとアイロニーとパッションを持ったアニメーションってことなのかな。続く作品はあるのかな。

 思想信条の問題ではなく憲法という国の根幹をなす決まり事に対して誠実であるかどうかがまずは問われているのであって、だから愛知県の大村知事があいちトリエンナーレ2019で行われていた「表現の不自由展、それから」に対して名古屋市の河村市長が難癖を付けて中止を求めるような発言をしたことに「憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか」と指摘することに一切の不都合はない。「憲法21条には、“集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。”“検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。”と書いてある」。その憲法を変えたいといった意見があったとしても、現行の憲法に背くようなことを権力者がやってはやはり拙い。それだけのことだ。

 加えて大村知事は、「公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない」と話して、お金を出すからその出しての意見に逆らってはいけないといった風潮を批判する。下準備の段階で行政なりの意見が反映されず気にくわない展示が出てしまったことを嘆き、憤ることはあるかもしれないけれど、いったん出てしまったからには後は、権力の側にあるなら憲法を守るべきだと大村知事は言っている。それに対して反日だのどうだのとレッテルを貼るのはまったく筋が違っている。でも今の風潮は、憲法違反であっても表現の自由への挑戦であっても、気に入らないものでありそれを自分たちが反日と感じたものは、批判され撤去され時に燃やされても当然だといったものになっている。ただひたすらに恐ろしい。

 犯罪被害者なり事故災害の犠牲者の名前を果たして実名で報道すべきかどうかといった問題は古くからあって、メディア的にも議論が重ねられているけれど、基本姿勢として新聞テレビといった報道機関の実名を報じるというスタンスに変化はなく、あとはそこにどういう意味づけを持たせるかといったところでいろいろな意見が繰り出されている。本音はたぶん誰か知りたいじゃないかという好奇心からなんだろうけれど、それを言ってしまえば身もふたもないから今は個々の犠牲者なり被害者の名前を伝えることで、それぞれが匿名の誰かではなく名前を持った個人であるということを訴えられると主張してる。

 でもどうだろう。別にそれが仮名の誰かであっても真実が書かれてあるならそこに人生を感じることは可能だろう。仮名だからといって嘘が書いてあるとは思わない。そう思わせないよう事実だけをメディアが積み重ねてきたかは問われるけれど。憶測が乱れ飛んで存命の誰かが命を落としたと思われ迷惑を被る可能性があるといった主張もあったりするけれど、実名を出すことで憶測から逃れられた誰かの一方で名指しされてメディアに押しかけられる誰かが出て良いのかという話になる。

 むしろ今、実名報道の問題はそうしたメディアスクラムに集約されていて、名前が公表すらされていない段階から散々っぱら調べられては訪問されていろいろと聞かれ、記事にされてしまう。そこの段階で遺族がそうして欲しいと願ったならそれは認められないこともない。でも、実名こそが報道の基本だと言ってしまうと遺族の思いはまったく通らなくなってしまう。いくら自主的に線引きしても他がやればうちもとなるのがメディアの人情。だったら最初から完全非公表の絶対匿名をルールづけるしかない。

 それもでも、どれだけの価値ある存在が喪われたかを世に伝え、これからの助力に繋げるかをオミットしてしまいかねないだけに難しい。京都アニメーションの一件では、ほかにも大勢の知られたクリエイターが安否不明のままでいたりする。どうなったか知りたいと思うしどうなるかを考えたいという思いもあって、それをメディアに仮託して公表してもらって、メディアスクラムだ何だと非難するのはやっぱり卑怯になってしまう。分からないしモヤモヤするけど静寂を求めたい相手方に配慮し自分もメディアも自重すべきか、いっしょになって名を知り悼みつつメディアスクラムの“加害者”という立場を甘受すべきか。問題は根深くそして重い。せめて今までに発表された名前の誰がではなく全ての人たちに、それぞれの人生があり成してきた事があったと感じて等しく悼もう。

 LINEノベルが始まってLINE文庫とLINE文庫エッジがレーベルとして創刊されたので本屋さんで物色。リストラクチャリングを食らって前ほどお金も持ってないので4冊しか買えなかったけれどもSFマガジン向けのSFやファンタジーとミステリマガジン向けのミステリなりサスペンスなりホラーをとりあえず抑えていく方で考えよう。最近とある事情で版権イラストとか観る機会が増えた「這いよれ!ニャル子さん」の逢空万太さんによる新刊とか入っててこれがなかなか面白そう。三雲岳斗さんもいたり知らない誰かもいたりと混交だけれど玉か石かは読んでみないと分からないからなあ。ネットなら無料で読めるけれども本になってないと書評もしづらいので頑張って読んでそして働いて買おう。あとは読む時間か。出歩かないと移動の時間に読むってのが出来ないんだよなあ。


【8月4日】 リリルカ・アーデの試練からアポロン・ファミリア相手のウォー・ゲームでの勝利まで、一気に描いてしまっていてテンポ早すぎな気がしないでもない「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか2」の第4話。原作を読んでいるからどういう流れになっているか分かっているけど、すっと出てきて不安ばかりを口にするカサンドラ・イリオンの存在が、ただの不安症なだけなのか予知の力があってそう言っているのかを理解できたか分からない。横で窘めるダフネ・ラウロスがどうしていつも窘めてばかりなのかも。

 あと「豊穣の女主人」亭で働いているシル・フローヴァがベル・クラネルに何か渡したものがどういう働きをしたのかも。それは何となく分かるかな、身代わりめいたもので大元はフレイアあたり。ベルの存命を見届けているあたりに彼への並々ならぬ関心の深さが分かるけれど、展開がいくら進んでもその成長をスパルタ気味に促しはしても、イシュタルのように直接手は出そうとしていないんだよなあ。ベルの出自とかその能力とかについて何か知っているのかな。エルフなのに魔剣を使ったと誹られている理由もたぶんアニメだけ見て来た人には通じないような気がするリュー・リオンは、戦闘の時に身に着ける緑ブルマが目にも鮮やか。リリはあれで意外とグラマラス。そして得た新しい拠点で借金返すために奔走、と。

 次はイシュタル戦。これも4話くらいですっ飛ばして第8巻のクロッゾの魔剣にまつわるエピソードと、ヘスティアの拉致から始まるベルとの絆の再確認か。でもそこに絡んで来るアイズ・ヴァレンシュタイン。彼女の物語も「ソード・オラトリア」シリーズで進んでいるだけに全部がアニメ化なんてなったらあと10年は戦えるだろう。そして発行部数も5000万を超える、と。ポリフォニカとかニャル子とかいろいろ作って来たけどGA文庫は結果、ダンまち文庫になってしまったしこれからもそうなっていくのかな。いやいや面白いシリーズはきっとまた出てくる。なろう系ノベルズに負けない文庫ライトノベルの牙城を守り続けて欲しいなあ。

 不自由な扱いを受けてきた展示物を敢えてまた展示するからには、どういった不自由さを被ってきたかを理解して、同じことがより激しい形で起こってより不自由な扱いを余儀なくされる可能性も考慮に入れて、それでも展示するための道筋を作り、理解も得て安全も確保した上で挙行したんだろうと思いたいから、あいちトリエンナーレの側がそれでも中止にせざるを得なかったのは、あらゆる予測を上回る反応があり圧力があり危害が加えられる可能性があってもはや守れるレベルを超えていた、といった理解をするのが正しいのか、それともどこか予測に甘さがあって、準備が足りず跳ね返すだけの対策がとられていなかったのか。

 などと挙行したキュレーター側に対して思うところが幾つかあったとしても、この一件は表現に対して展覧会を実行した組織に関わってすらいる権力を持った人間が、議論を踏まえず気持ちだけで断罪して中止を求めた上に、そうした展示をしたことについて誰かを(自分を?)傷つけているから謝罪せよとまで言っていることがとてつもなく恐ろしい。どう言いつくろっても権力を持ち権限を持った側による検閲であり、命令であってそこに表現とは何か、それを守る意義はどれだけ大きいのかといった根幹への議論はまるでない。

 けれども、中止は実行に移されいずれ謝罪を求める声も広まっていくのだろう。国会議員方面に広がりも見せ始めているようだし。たとえば、中止が表現的に不適切であって中止されて当然だと訴えるなら、それがどう表現的に不適切なのかを双方が議論する必要がある。それなくして一方的な理解なり感情だけで撤去されることを許せば、あらゆる表現が右だろうと左だろうと権力側のお気持ちによって揺さぶられることになる。倫理であっても気分であっても、それがどういうものかを開示し合って納得を得るような努力。それがあってしかるべきのような気がする。

 一方で、ガソリンが撒かれるといった脅迫があって中止したのなら、それは気持にそぐおうと反していようと脅迫であり、暴力であり、テロリズムであって絶対に屈するべきではないと訴えるのが権力の側、主催する側の姿勢だろう。それなのに、反意をもってテロに屈することは仕方が無いといった雰囲気を漂わせて、中止を求め叶えられれば正当化する一群がいたりるす状況があり、それを大いに支持する人たちがいたりする状況がある。

 これが割とカジュアルに行われてしまう今の雰囲気がさらに進めば起こるのは何か。権力のお気持ちに反すれば暴力を受けて排除されて当然という流れではないのか。それが意味することは。いよいよもってとんでもない時代になって来た。左へと傾いてしまった状況への小さな反発を認め是正しているうちは良かったけれど、それが感情に働きかけて広がり、右へと傾いた時に諫めず横暴でも少しだからと許してしまって来た積み重ねなんだろう。困ったなあ。

 去年だったらMaker Faire Tokyoに行き真夏のデザインフェスタに行きFGOのイベントに行き刀剣乱舞のゲネプロに行って記事にしていただろうけど、そういう立場でもなくなると、FGOはともかくMaker Faireやデザフェスに一般で入って目新しい技術なりフレッシュなクリエイティブに触れたいという意欲が減ってしまうのがなかなか辛い。どこかの媒体に乗せて喧伝することで世の中の役に経ったような気になって、それで承認欲求を満たしていたのが不要とされて行っても外に出せないなら、自分がわざわざ行かなくても良いと思ってしまう。

 これは自分自身の知りたいという欲求が存在していないことの現れ。昔はそうじゃなくパブリックに外に出さずとも自分の日記で紹介できれば嬉しかった。ここのレベルにまずは自分を戻さないといけないなあ。問題はあらゆる場所に出没するためのお金がないことか。もらったお金ならあるからそれを“投資”と思えるかが鍵かなあ。日々の仕事がいつか途切れるんじゃないかという不安もあったけど、どうやらいっぱいありそうなんでそこは安心して良いのかな。何だってやるさ。

 高橋留美子さんの「らんま1/2」について考え始める。女体化しても乱馬は別に胸を揉んだり股間に触れたりして自分の女性を確かめようとはしないし、心も女性となって男性からの告白にドギマギとはしない。お好み焼き屋を経営している右京も男装で登場するけどそれは生き方の都合であって心が男性化している訳ではないし、店では普通の女性の恰好をしてお好み焼きを焼いている。くノ一の小夏はみためは美少女くノ一でそれで男たちを惑わすけれども意図して女をアピールせず見た目で勝手に騙されてくれている感じ。意識は男性のままで女性が近くにいれば嬉しがる。トランスのらんまですら性自認は男性のままで、右京や小夏といった異性装はそれが“仕事”だからといった感じ。そこに今のTS・性転換ムーブメントにおける性自認の揺れはない。時代だったらか。避けたからか。かがみあきらの「鏡の国のリトル」で主人公は女の子になったら股間に触れる。確かめる。それすらない不思議をどう解釈するのかを1週間くらい考えよう。


【8月3日】 昨夜はせっかく三鷹まで通っているのだからと準備中の阿佐谷パールセンター商店街に立ち寄って、今年のハリボテが何かを確認したらやっぱりだった例の店。一昨年は「けものフレンズ」からサーバルちゃんとセルリアンを出して大いに話題になりながら、いろいろあった翌年にネット発のへんたつ鬼を飾って意地を見せ、絶対的な味方の立場を示してくれた。だかた今年はと思った予想はどんぴしゃ。「ケムリクサ」からりんが抜かれ作られていた。

 夜はまだ制作途中だったので、写真にはとってもそのまま公表は避けて帰って寝て起きた朝、どうせ定期券があるのだからと阿佐谷にあるユジク阿佐谷まで映画を見に行く途中で阿佐谷パールセンター商店街に立ち寄って、始まった阿佐谷七夕まつりの中を歩いてりんのハリボテを確認にいく。他に飾りはなかったけれど、りんが単独でぶら下がっては手にケムリクサを持ってあたりを睥睨していた。彼女に守ってもらえればこんなに心強いことはないよなあ。あるいは時間をおいてわかばとか作られていたかもしれないので、時間があったら明日また行こう。隣は伝説の山田たえだった。バルキリーは見なかったなあ。

 サーバルちゃんが飾られた2017年8月はまだ、「けものフレンズ」の続編に関する期待が大いに高まっていた時で、飾られたサーバルちゃんのクオリティの高さとも相まって、どんどんと盛り上がって日本を代表するコンテンツになるんじゃないかという期待もあったけれど、9月25日に起こった“政変”でもってすべてがひっくり返って、そして翌年のへんたつ鬼になってそして今年は「ケムリクサ」。上がって下がってそして盛り返したたつき監督とirodoriの壮絶な2年がその間の変遷には込められていると言えそう。そして僕自身も。去年とはまるで違った立場で見上げる「ケムリクサ」。放送されていた時はまだ……って思うと浮かぶ苦みもあるけれど、それも含めていろいろあった2年間。そして1年後は何が飾られそれを僕はどういう立場で見上げるんだろう。生きていられればそれで結構なんだけど。頑張ろう。

 ユジク阿佐谷では2015年に1度だけ上映されて、その時も見ていたドキュメンタリー映画「飄々〜拝啓、大塚康生様〜」を鑑賞、割と満席だったのは今、まさに大塚さんがある意味でモデルになっているキャラクターが登場している「なつぞら」がNHKの連続テレビ小説として放送されているからなんだろうなあ。あの奇矯な天才は本当はどんな人なのか、誰だって興味あるだろうし。映画自体は2度目だからだいたい内容は知っていて、大塚さんがルパン三世というかモンキー・パンチさん風の絵を最初はあまり描けなかったのが、練習を重ねたかどんどんと近づいているという話をおおすみ正秋さんがしているのを改めて聞けた。

 子どもの頃から本当に写生好きスケッチ好きで、昭和19年とかに描いた機関者の絵が綴じ込まれた冊子なんかがあってそれがもう完璧に完全な機関車で、子どもの頃から本当に上手かったんだってことが分かった。というかそこまで描き続けて来たから上手くなっていたのか。それなのに最初は麻薬取締役官になって、そこからまた絵の世界に戻っていってアニメーターになる。なおかつさらに練習を重ねてさらに上手くなっていく。天才であると同時に努力家でもある人物。それが大塚康生さんとうアニメーターなんだろう。

 というか、機関車のスケッチが上手いこととアニメーターとして絵を動かすのが得意なこととはまた違う話で、アクション作画とかをどうやって学んでいったのか、それをどうやって絵に落とし込んでいったのかが気になる。静止画としてスケッチするのではなく、動画としてクロッキーをしていくんだろうか。自分の中で動きを思い出しながらつむいでいくんだろうか。今みたいに録画して再生なんて簡単にできる時代ではないし、ましてやYouTubeみたいなネット動画が溢れていて、それを参考に見るなんてこともできない訳だし。

 つまりはだから、徹底した観察と記憶をサルベージするような再現。それを日々重ねていったことで生まれたフォルムと動きの調和。同じことを他のアニメーターができるかはともかく、向かう努力は必要だろうなあ。そうしないともう、かつてのようなアニメーションは生まれなくなってしまう。京都アニメーションで動きの作画を徹底して教えて基礎を作った木上益治さんも喪われてしまった今、改めて動かせるアニメーターの育成を。業界挙げて。国も支えて。

 あいちトリエンナーレでいろいろと騒動が。って別に本来は騒ぐような話じゃないのに、騒いだことで展覧会が意味したものが余計にくっきりと浮かび上がってきた感じ。世にタブーというかいろいろと圧力があって展覧会から撤去された作品が過去に幾つもあって、それらを集めて「表現の不自由展、その後」といったタイトルでこういう作品が展示されなかったんです、どうでしょうとある種総体としてのメッセージ性を持って送り出された企画が、その意図を踏みにじるというか真正面から体現するようにして、ケシカラン作品がまた展示されてケシカランといった反応だけを呼んで、撤去を求める声も誘って不自由な表現の有り様を、まさに可視化させてしまった。

 そういった曰く付きの作品が集まっている場なんだから、どうして撤去されたのかを理路整然と語り表現とはかくも不自由なものである、あるいは不自由な表現があっても許されるといった立場を語ることによって自分たちの味方を増やしつつ、不自由さに押し込めたい表現を狩れるにもかかわらず、ただ気にくわないからと改めて不自由さをつきつけるだけのスタンスに、発展性はまるでない。そうした言動も含め撤去されからっぽになるまでが「表現の不自由展・その後」というアート作品でありインスタレーションでありパフォーマンスなんだと言えば言える気もしてきた。

 ただ、そうやって趣旨のために個々の表現を黙殺され、オミットされる作品があってはいけない気もするから、展覧会そのものがインスタレーションだったとは思わない。ただ、やはり撤去まで含めてアートと嘯けば、そこで表現が不自由さを被るのを認めてしまうことになるので、突っ張って語る場にしようと呼びかけて欲しかった金髪プロデューサー。なのに関係者に迷惑がかかるから、安全のためにといったスタンスで撤去を許そうとしているところがあって、そうやって表現は潰されていくのかと思うと、また類似の圧力を生みかねない可能性にも考えが至って気が滅入る。

 知らん顔して最後まで、貫くのが良かったなあ、そして表現規制に反旗を掲げる与党参議院議員の先生も、表現者の自己責任を言うのではなく表現の場の絶対死守を訴えて欲しかった。個々の表現者に責任なんて押しつけて、危険にさらしてそれでも死んでも表現しろと? 可能な表現が圧力を受ける状況をこそ糾弾して絶対守ると言うのが表現規制に反対して当選した人間としての責務じゃないのか。いろいろとあぶり出されるスタンス。それも含めて記録して、表現の不自由が今の社会にどう蔓延り、そして将来にどんな禍を招くのかをじっくり見ていこう。見ていられれば。


【8月2日】 あれでいきなり歌ったのが「アジアの海賊」だったらキャロルもチューズデイもひっくり返っただろうけれど、喋り声と歌声がまるで違うのは蒼井翔太さんが演じたピョートルでも分かっていたことだから、山寺宏一さんが声を演じたデズモンドの歌声が「アジアの海賊」ではなくても別に不思議はないというか、「アジアの海賊」だったら不思議極まりなかったというか。体が病に冒され変化もしていく中で、デズモンドという伝説のシンガーは温室のような場所に留まりひたすら作曲と歌唱を続けている。

 気まぐれでもなければ偏屈でもなく純粋に、美しい歌を探求したいという思いでそこに留まり続けているけれど、時に気になる歌声があれば招いて交流をする。そんな生き方。そして耳にとまったキャロル&チューズデイの楽曲を気に入って招いて自分が歌い案内し、訪れた人たちから寄せられたサインを見せてそして戻り薬を拒否して歌って長い眠りに就く。あそこで命まで奪わなかったのは作品としての易しさからか、起こるキャロル&チューズデイへの反発を避けたからか。

 ただ、歌い続けるという生命のような行動をここで追えても聞かせておきたかった2人って意味から考えるなら、その2人から生まれる歌声もまた世界を変えていくことになるんだろう。奇跡の7分間。チューズデイの母親が火星の大統領選挙に出て地球に対して厳しい姿勢を見せることで支持率を集めて上に立とうとしている。過激で耳障りの良い言葉で勝っても後が大変なのはこの国の外交が証明しているのに……。そういうことへの指摘も成されてくれるんだろう。今まさに威勢が良いだけの外交が成されて世界から孤立しようとしてるだけに。

 消費税の引き上げが間近に迫っていると言われていながらもあまり駆け込み需要が見られないと、政府だか行政の担当者が言っているって記事が出ていた。たった2%上がるだけだから、なんて意見もあったけれどもとんでもない、その2%はこれまで払っていた分の4分の1の額ですなわち25%も支払い分は上がる訳でそれなら前倒しでいろいろ買っておきたいという気持は起こって当然。でもそれが盛り上がらないのはもはや駆け込み需要をしたくなるほど、消費に対して心が向かないからなんじゃなかろうか。

 ちょっと先に買っておきたいものがあるけど、今ならまだ安いから買うのが駆け込み需要。でもこの疲弊して沈滞した経済や家計ではちょっっと先ですら何か買おうという気を誰も持っていない。だから今あえて買おうという気にならない。そんなことなんじゃないのなああ。そして言われている10年後、20年後の経済不安が、今だろうとちょっと先だろうと何かを買うのを躊躇わせる。それこそその時代にインフレで価値が10分の1に下がると言われれば慌てるけれど、インフレと引き替えの賃金上昇がないため今すぐに動けるだけの蓄えもない。だからだんまり。そして動かず消費は冷え切ったまま続いていく。消費税が上がればなお冷える。そんな悪循環の可能性が見えていてなぜ実施する? 思考能力がやっぱりトロけているんだろうなあ、界隈の人たち。やれやれだ。

 部品を切り取って貼り付けて組み立てて色を塗ってといった手間が膨大で厄介なプラモデルという遊びなんて早くになくなり、完成品のフィギュアや模型に移るかと思っていたけどガチャポンで300円も出せば立派なフィギュアが手に入ったのも昔の話で、生産拠点となっていた中国の人件費とかの高騰もあってか最近は、完成品フィギュアの値段が前より随分と上がってしまっている。そうなるとやっぱりプラモデルってことになるけど、作る手間色を塗る手間はやっぱり厄介というところで、バンダイは10年以上も前から簡単に組み立てられて色を塗る必要もなく動きもフィギュア並みといったプラモデルを作れる工場を運用してきた。ガンプラが今もなお売れ続けているのはそんな背景があるからだおう。

 さらに最近はもっとフィギュア的なプラモデルを作って世の中に送り出している。ドラゴンボールとかラブライブ!とか。そんな多色他材生計の技術を後はだからどう商品と組み合わせるかってところで企画力も問われる時代になっているんだけれど、まずは生産拠点の増強ということで東静岡にあるホビーセンサーを増設させる模様。昔みたいに品切で買えなくなるなんて時代でもないからむしろ品揃えを増やして多くにアプローチできる状況を作るってところか。職を探していろいろと求人サイトを漁っていた時、バンダイホビーセンターも勤務地に入ったプラモデルの企画担当者の募集もあったっけ。そういう中から何か新しいものが生まれて来るのかも。期待して展開を見守ろう。

 京都アニメーションを襲った放火事件によって亡くなられた方のうち、10人の方の名前が公表されたとか。見てだいたいが事前に情報が出ていた方で、葬儀などが営まれた際に取材が入っている人がいたりして、ひとつの線引きになっているような気がした。とはいえ、改めて武本康弘監督に西尾太志さんに木上益治さんといった名前を見ると、心に浮かぶ残念な気持もさらに益す。西尾太志さんは「リズと青い鳥」や「映画 聲の形」のキャラクターデザインを手がけた方で、あの独特のフォルムなり表情なりを持ったキャラクターの印象が、やはり亡くなられたことが親族から明らかにされている石田奈央美さんの色指定と相まって、映画の世界をビジュアル面から印象づけてくれていた。

 ある意味では演出や声優による声、音楽以上に映画の印象を左右するセクターの責任者を失って、同じ映像はもう出来ないのかと思うと寂しさと悔しさがさらに増す。どうしてだ。どうしてなんだ。憤りすら浮かんでくるけどどうしようもないこの状況が、これからどうなっていくのかはまったく見えない。まだ10人という状況が意味するこれからのショックも覚悟しておかなくてはいけないのかもしれない。今は未来をどうこう言うときではないのだとしたら、悼みつつ負傷された方々の快復をひたすらに祈りたい。頑張れ。頑張れ。世界は、そして僕たちは応援し続ける。あなたがたを。京都アニメーションを。


【8月1日】 そして目覚めたら「シン・ウルトラマン」の製作が発表になっていた。前から噂は出ていたけれども「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の完成も見えない中での噂ではやっぱり信用に関わると公式の発表は抑えつつ、エヴァの方の公開月を発表してからの公表となった感じ。見ると監督は樋口真嗣さんで庵野秀明さんは「シン・ゴジラ」とは違い総監督ではなく企画と脚本が今のところ。でも「シン・エヴァンゲリオン劇場版」をアップ次第、合流するそうなのでいろいろとアイデアなんかも入れ込んで、それを樋口監督が入れつついなしつつ良い感じに庵野色を交えた作品にしていくのだろう。

 というか、庵野秀明監督といえばやっぱりDAICONフィルムでの「帰って来たウルトラマン」であったウィンドブレイカーを来た庵野秀明さんが巨大化して怪獣と闘うストーリーが頭に強く残っている。それをまさか再現はしないだろうけれど、ウルトラマンより帰って来たウルトラマンの世界をどこか再現したものにしてくれそうな気がする。子ども向けでありながらも深いストーリーを持った。怪獣映画が根底にあるゴジラとは違いヒーロー物を捻ったり曲げたりは出来ないだろうから。

 ところでやっぱり気になたのは「東宝」ということろか。昔はそりゃあ円谷英二は東宝でいろいろと作っていたけど、円谷プロダクションを立ち上げてからはテレビ向けに作っていたし最近のウルトラマン関係の映画は松竹が配給していたりする。そうした路線とはまた違ったものを配給元を変えて提供していくという色分けを考えているのか、庵野……ではなく樋口監督が意図する映像を作るためには松竹では足りない東宝だとなっているのか。カラーも製作に入っているから出資はするんだろうけれど、元は円谷プロダクション経由でフィールズってことになるのかな。そう思えば結構なバジェットを確保できるかも。さてもどうなる。2021年かあ。生きていられるかなあ、それまで。頑張ろう.

 難病物、って括っちゃっえば括れそうな設定で、同じメディアワークス文庫から出て映画化もされた佐野徹夜さん「君は月夜に光り輝く」とも重なるけれど、そんな難病を経ての詞が死が浮かび上がらせる関わった人たちの心の色彩を思うと、有り体には括れないところがある物語。それが斜線堂有紀さんによる「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」(メディアワークス文庫)だ。体が硬化しやがて死ぬと体が金塊に変わる病気に罹った都村弥子という女子大生が、海の近くにあるその病気専用に作られたサナトリウムに入院していた。

 経済的な観点から行政によって誘致活動が行われた一方で、反対運動も行われたりしたサナトリウムの壁にはペンキでいろいろな落書きが描かれていて、その中には黒々としたクジラの絵もあったりした、そんな施設から顔を出した弥子が落としたマフラーを拾った中学生の少年、江都日向は弥子に誘われるようにして病室を尋ねて行く。そこで日向は弥子からゲームのチェッカーをして自分に勝てたら死んで3億円もの金塊になる自分を相続させるよと言われる。

 父親が消えて母親はサナトリウムの反対運動にのめりこみ、ころ柿混んで来た男は地域の活性化に早くから取り組みながらも挫折して引きこもり状態。こんな家から、こんな街から早く抜け出したいと思う江都には3億円は魅力的に映ったけれど、それにのみ執着する雰囲気は見せないまま、江都は弥子の病室に通いチェッカーをして負け続ける。すべて正解の手を指せば絶対に引き分けになるチェッカーというゲームで。それは正解を知らないからなのか。知って引き分けた先に受ける相続という成果にどこかためらいがあるからなのか。単純にまだ弱いから、なのかもしれない。

 それでも勝負は進み、弥子の病状も進む。足首から先など硬化した部分を切断しながら生き続ける弥子の姿に江都は涙を落とし、見ている僕たちも涙する。このあたりは、親しくなった人の近づく死を思い悲しむという意味で難病物の定式と言える。とはいえ、どこかに3億円が手に入れば、嫌いな街から抜け出せるのではといった思いを巡らすこともあって、弥子の死を純粋に悲しんでいるのかを迷わせる。ただそれは、不動産や金銀財宝といった一般的な財産を持った親しい人の死とも同種。弥子の肉体の死と引き替えに生まれる金塊を受け継ぐこととは少し違う。

 いや、金塊とても引き取られて金に換わるのだから財産と同じかもしれないけれど、ダイレクトにつながる手の中の金と親しくなった人の死を、同列に思えるかどうか。そこはなってみないと分からないのかもしれない。僕は未だ死にともなう相続という状態を過ごしたことがないだけい。江都の場合は揺れ始める気持に、大金と引き替えにはし難い思いの形、強さが感じられた。だから受け入れて受け止めて歩き出せたのだろう。後悔はせず。

 弥子の側は何を思って江都に接近を揺るし相続を持ちかけたのかにも興味が向かう。寂しかったからか。からかっただけなのか。自分という存在を誰かに残したかったからなのか。それがどうして江都だったのか。そもそも江都と決めていたのか。そして最後はどうしてああいった決定を下したのか。そこにもいろいろな想像を促される。『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』。人は好意を抱いた人の死に何を思う。人は好意を抱いた人に死をどう残す。そんな問いかけをもらえる物語。映画化されるかなあ。

 笑うというか噴き出すというか、天下のセブン&アイ・ホールディングスの傘下で始まったスマートフォン決済の「7pay」が9月でサービス終了との報。いきなりハッキングか何かを食らって勝手にチャージされては持っていかれる事案が続出し、いったん閉めてさて再開となったら今度はパスワードだかを強制リセットされてしまって、そして再設定してアクセスしたらチャージしていたはずのお金が消えてしまう事案が続出したらしい。もうサービスとして最悪というかサービス以前の問題で、これをどうして導入しようとしたのかが分からなくなって来る。テストとかしてないんだろうか。してもこうなんだろうか。謎。せめて11月まで運用してくれればセブンでイレブンなんだけれど、そこまで持たなかったんだろうなあ。でも流通にとってスマートフォン決済はいずれ来る道、どこかに乗るのかな、ファミマペイとか。

 今日から解体のための工事がスタートするということで、代々木にあって新海誠監督の映画「天気の子」に登場した代々木会館を見物に行く。近辺を歩いていた時はあることは知っていても特に気にもとめなかった建物が、ああやって映画で“大活躍”すると途端に特別なものに見えて来る。「傷だらけの天使」でも使われていたけど時代が古すぎてピント来ないのがアニメーションだとグッとくるのはやっぱ新しいからかなあ。他にも見物に来ていた人がいて写真とかにとっていた。テレビ局も来ていたとか。テレビ朝日だったら解体も含めてメイキングをとっておけば後でテレビ放送する時に使えるのに。そういう千恵が回る人はいないかなあ。パッケージ化の際にロケハン映像が使われることを願おう。


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