縮刷版2019年5月上旬号


【5月10日】 何を狙っているかが掴みづらい「さらざんまい」とは違ってフジテレビの同じ深夜枠でも+Ultraの「キャロル&チューズデイ」は無名のユニットが有名になっていく過程を分かりやすく、というか割とありがちなパターンをなぞりながらも絵で見せキャラクターで見せ声で聞かせて音楽で引きつけて関心を引きつけ続けている。最新エピソードではAIじゃない音楽を聞かせる数少ないライブハウスの偏屈なオーナーを相手に頼んでどうにか獲得した前座の1曲をしっかり演奏したら次が、といった展開。偶然が重なるわらしべ長者じゃなく、実績を積み上げ少しずつでも這い上がっている感じが見えて感じが良い。

 一方の子役あがりのシンガーも厳し鍛錬を経て声が出せるようになっていたのか、ヘッジファンドの大物投資家の前でアカペラで歌って聞かせてどうにか合格。大金を引き出すことに成功した。ここから楽曲を得て大々的なプロモーションも行って一気に駆け上がっていくドラマがキャロルとチューズデイの成り上がりストーリーをいつまで並行して描かれるか、それとも重なり合ってくるかが残る話数での興味のポイント。追いつ追われつ抜いて誰かが勝利を掴むのか、それとも共に歴史をかえた7分間に関わるのか。そもそも奇跡の7分間って何なんだ。そこで驚かせてくれたらパターンを分だシンデレラストーリーから大きく抜けだせるんだけれど。

 原初舞踏家の最上和子さんがプラネタリウムのドーム型スクリーンで舞踏する「HIRUKO」の上映後のトークで最上さんが、若い人たちがあまり危険な方を選ぼうとしない傾向があるかと聞かれて答えていたのが、若い人たちに自信がないこと、それでいてネットでは他人を攻撃するようになっていることを指摘していた。これはとっても裏腹な関係で、自信があったら誰がなにをしたって気にせず自分を保てるけれど、自信がないと他の自信満々な人たちがどうにも気になって仕方が無く、そこでつい攻撃を向けてしまうといったところななんだろう。攻撃に向かう自信すら無い身ではあっても趣旨は分かって心に刺さる。とはいえ失っている自信を取り戻す術すら見つからない今、何をどうしたら良いものか。舞踏に行けば何かが変わるといっても永久に舞踏を続ける訳にはいかないし。迷う5月。

 始まった「甲鉄城のカバネリ 海門決戦」を金曜日だけれど見に行く。見に行けてしまえる身がどうにももの悲しいけど、それでも劇場にいっぱいの人が来ていて世界にはこんなに金曜日の昼に映画を見られる人がいるんだと驚く。一応はテレビシリーズからそのまま繋がるストーリーってことで、実はよく見ていなかったテレビシリーズでは物語が完結といったところまでは届いていなかったことになるのかな。故郷へと戻る甲鉄城が日本海側でさしかかった海門には、城があってカバネたちが巣くって人々を通さない。ならばと奪還に乗り出した連合軍だかに協力する形で甲鉄城も戦線に加わるんだけれど、どうもカバネたちの動きがおかしい。というか統率がとれている。

 何かある、と感じた生駒が調べに出ようとするけれど、そんな生駒にプレゼントを渡したい乙女な無名への配慮がくて関係がちょっとギクシャク。挙げ句にカバネ化して独房に閉じ込められたりもして身動きがとれなくなる中、攻略の計画は着々とす進み、一方でカバネたちを操る存在も見えてきて決戦のその向こう側が心配になってくる。このままでは背後をとられ敗れ去る、とか。それを防ごうとする甲鉄城の面々の、とりわけ無名が頑張りそこに生駒も追いついて生まれる友情というか愛情パワーが強敵を粉砕するのかどうなのか、ってあたりざざっと振り返ったストーリーになるのかな。

 ビジュアル的には冒頭で長い銃を振り回しながら体術も使ってカバネを倒して行く無名のアクションが見どころ。むちっとした脚をしっかりのぞかせ時に蹴り上げるポーズも見せてくれて、それがスクリーンに結構なサイズで映し出されるから無名ファンには嬉しい劇場版ってことになる。途中の巨体のカバネ相手にも披露され、最後には敵の親玉に対してバーサーカー然としたモードも見せてくれる無名の活躍ぶりをまずはたっぷり味わいたい。あとは乗務員で危険な制動を見事に成し遂げた侑那の決断ぶりか。巣刈を使って計算をしてそれに合わせてピタリと甲鉄城を止めてみせる。その腕がなければスイッチバックに突っ込んで大破だったから。そうした個々人のスキルの上に無明の力も乗り繰り広げられて来た冒険の物語があるのなら、これは見返してみるしかないかなあ。劇場版からテレビに入って全体を好きになるケース、最近割と多いかも。ガルパン、サイコパス、ユーフォニアム……その意味でさっとアクセスできる劇場版って重要かも。

 「我が国固有の領土」であって「日本に帰属する」と言い続けてきたはずの北方領土についての記述が、最近の外交に関する発言を元にしたペーパーでもって消えてしまったことに与党の国会議員の人たちもこれは何だと起こっているとか。そりゃ当然で、長くそれは鉄則であって変えてはいけない主張であって、それがあったから日本が大好きな人たちは自民党を支持してきた。同様に竹島であり尖閣諸島に対しても実効支配の部分、歴史的経緯の部分から主権を主張していられたけれど、大元に近い北方領土で主権も帰属も主張しないとなった時、同様に実効支配されている竹島についてどれだけの強気のことが言えるのか、って問題が浮かぶ。

 言えるのならなぜロシアには言えない、って話になった場合は状況は同じでも相手によって主張を変えるのかって話になる。経済的な問題が云々という理由もあるかもしれないけれど、それでどれだけの経済拡大が見込めるのか。むしろだったら中国との関係を深めて相手の資本を導入した方がよほど経済にプラスだろう。でもやらないのはそれが金科玉条になっているから。ならロシアへの金科玉条はどうして変えたかって話でブレる政権の立場への会議が浮かぶ。いやすでにそういう政権だってことは知れ渡っているから、ああまたかとスルーされるだけかも。そして実効支配は主権としての支配もロシアに渡してしまうのだ。そうした国を売る行為ですら今の政権なら許す空気があるのがどうにも怖い。どうなってしまうんだろうなあ、この国は。

 「孔雀王」よりは「夜叉鴉」の方を割と読んでいた荻野誠さんが死去。病気を患いながらも回復をして描き続けてはいたようだけれど、痛めた内臓が復活するということはなかった模様。これからそうした年齢へと突入していく身だけに健康には留意したいけれど、健康診断とかない状況で食生活も細りがちな中、どこまで自分を管理できるかでこれからの5年10年の生き方も変わっていきそう。真っ当に就職できればそこで立て直しはできるだろうけれど、フリーが続けばやっぱりツケは溜まりそう。目先にフリーな立場ではあっても有意義そうな仕事があってそれを頑張れば1年は続けられそうな空気があって、そちらに乗って規則正しい生活を送ることで健康だけは厳守できそうな気もする一方、1年後にどうなるか分からないのと手取りの問題があってちょっと迷ってる。せっかく得た機会とお金はそういうところにぶっ込むんだって言えば言えるかもしれないし。どうしたものかなあ。


【5月9日】 線引きができるかというとボーダーなところがあって、今回、話題になっているドール用のグラスアイの場合については、眼球という繊細な作業によって生まれるひとつひとつが違ったグラスアイは、それぞれが作品であって後の世に至高の芸術として伝わる可能性を持ちつつ、けれどもそれはドールの眼として使って表情を作るためのパーツでもあって、そうだろうと言われてそうではないとはなかなか言えない。そこはだから判断であって、グラスアイにしてもドールヘッドにしても手漉きの和紙にしても独創的なテキスタイルにしても、それぞれは素材であると同時に職人なりアーティストの手から生まれたひとつのデザインの形であって、表現者が集まるデザインフェスタという場所に出すに相応しい気がする。

 手漉きの和紙なら便せんに使うかクラフトに用いるか、テキスタイルならそのままタペストリーとして使うか服に仕立て直すか、それとももっと違った使い方を考えるかといった新たなデザインの源泉となって、次のクリエイターを生み出す土壌になるならそれもまたデザインフェスタという空間に歓迎すべき出展者たちのような気がする。とはいえ、どんどんと出展者がが増え抽選で参加の可否を決定する状況にも陥っている中で、より完成品に近いものを出したい人たちがいるなら、そちらに席を譲ってという声も分からないではない。難しいジャッジを運営も迫られているのかもしれない。その過程でつい、口調が激しくなってボーダーにあるものにまで及び今回の騒動に至った、なんてことはあるのかな。

 ジャッジを下す側がどういう意図でどこまで状況を見渡して答えたか、分からないだけに真意を判断するのは難しいけれど、日本ホビーショーというクラフト向けの展示会があってそちらにいっぱいでてくるような、ホビーやクラフトのための材料ではないそれぞれが手作りで、独創性があって単体で表現と認められるものならパーツに見えても素材であっても、出すのは認めつつあとは抽選でもって公平に判断するのが、この状況をデザインフェスタ側が乗り切る上で必要なことかもしれない。それこそ20年近く通っているけれど、ブースで機械をつかって音楽を流すことはやかましいからと止めても、それぞれの表現の形を運営側がジャッジしたことはない気もする。何でもあって楽しいのがデザインフェスタの心情なら、今回も一応は釘を刺しつつそれも表現なんだと認めてスルーして欲しい。見に行くかなあ。もうメディアじゃないけど最初もメディアじゃなかったし。

 ブロックチェーンがどういう仕組みか分からないけれども、ネット上にあるコンテンツの所有を自分に限定するといった仕組みを使ってAniqueという会社が「進撃の巨人」のデジタルイメージの販売をスタートさせた。アニメーション版からの名場面なのか描き下ろしの版権イラストになるのか、さまざまなキャラクターが登場するイラストが結構な点数用意されているけれど、それを所有できるのはたった1人で、所有した人はそれを元にしたセル画調のアートワークを購入する権利を持つという。そうした権利が貴重かどうかというと作品そのものに関わるアーカイブ的なものとしての価値は小さいけれど、そのキャラクターが描かれた世界にひとつのアートワークと考えると、ファンにとっては嬉しいものなのかもしれない。

 もうひとつは、こうした権利は譲渡が可能ってことでつまりは人気があるキャラクターなら、自分が欲しいという人が現れ申し込んで対価に持ち主が納得すれば、次のオーナーに所有権とか複製セル画の購入権も引き継がれていく。ある意味でのセカンダリーマーケットが成立しているってことで、例えばリヴァイとか大受けしそうなキャラクターなら最初に1万円の売り出し価格で購入しておけば、世界での人気の高まりによって結構な値段で転売できるかも、って思惑も浮かぶ。ということは、今回の売り出しでもそうした騰貴を狙っての購入申し込みも結構ありそうだし、自分でもちょっと入れてみたくなった。

 買って即転売なんてことが可能なのか、それがどこまではねるのか、まるで見えないけれども絵を媒介にした仮想通貨の売買が、ここから始まるって考えることもできるのかも。それだとクリエイターはまったく蚊帳の外じゃないかという意見については、こうしたオーナーの移動を伴う売買ではクリエイターへの還元が行われるとか。そうした“名目”があるなら所有し続けて塩漬けにするより、世界に解き放って動かしてもらいながらクリエイターへの還元を多く得るってことも堂々、やって恥じない行為となる。そこは巧いと思った。Aniqueという会社自体がブロックチェーンなり仮想通貨でどこまでの信頼ご技術を持っているかは不明だけれど、儲け話に良い話も混ぜてファンの納得を誘うのはいい手かも。今後別のキャラクターでも始まるなら、様子を見て幾つか入れてみるか。世界でハネそうっていったら誰だろう、サーバルちゃんかなあ。

 「ケムリクサ」の第6話に登場して、いなくなったはずのりくが現れわかばと対面して触覚があることを喜ぶ場面に登場した大阪は梅田の地下街にある噴水がリニューアルにともなう撤去に向けて閉鎖されたとの報。あの光景自体が廃墟となった噴水だから現実に見られることはないと分かっていたけど、これで廃墟になる可能性すら消えてしまって現地に立って雰囲気にひたることもできなくなてしまった。『ケムリクサ』ファンにはなかなか寂しい話だし、梅田の地下で待ち合わせとかに使っていた人たちにも感傷を刺激される話だろうなあ。街ってそうやって変わっていくんだ。名古屋の地下街にあった日産ギャラリーもクリスタル広場も確かもうないし、新幹線西口の壁画も消えてしまったし。残る『ケムリクサ』の聖地だと富士山頂の山小屋か? それとも近場で新宿バスタか? バスタは当分あるだろうからそのうち行っておこう。

 押井守監督とお姉さんで原初舞踏家の最上和子さんは顔がとてもよく似ているというのはさておいて、プラネタリウムのドーム型スクリーンに投影して見せる映像作品として作られた飯田将茂監督による「HIRUKO」はなるほどドームとを見上げるようにして眺める映像ということで、視界いっぱいにひろがる魚であったり、むこうから釣り下がってくるような巨大な顔であったり、迫ってくるような人々であったりその人々が置く木々であったりが投影されて、ドームという空間で見上げて眺める意味をもった作品だった。

 舞踏という言葉から受ける絢爛たる舞のようなものはなく、最上和子という原初舞踏家が横たわったような姿でで身じろぎをする姿を捉え続けたような映像部分がクライマックスに投影されるけれど、そこに内面を無にして身体の言葉を聞こうとする舞踏家の探求めいたものがあると感じられればどそれはそれで理解に近づけそう。初見では苦しそうに蠢いているだけに見えてしまったけれど、上映後に登壇した最上さんと飯田監督のトークなどから、そこに肉体なり身体を突き詰めようとした舞踏家の探求があって、たどり着いた時には恍惚とした感覚もあると教わって、そうした域に今近づいているのか、そして到達したのかといった関心から眺めていられそう。

 最上さんによれば人間にとって身体ほど危険なものはなくって、だから押し込めよう統御しようとしたってことで、それを解き放とうとする舞踏なんてものはだから危険極まりない行為ってことになる。でもやってしまうのは危険の向こう側にたどり着いた時に得られる感覚がたまらないからなんだろう。最上さんですら最初は何度もたどり着けるものではなかったけれど、それを潔しとせず自分でどうすればたどり着けるかを探求し、言葉で誘うメソッドも学んだそうで稽古場ではそうした言葉に導かれることもあるって飯田監督が話してた。

 クライマックスの舞踏のシーンを撮るには自信も舞踏でもって身体を高めていなくてはいけなかったとかで、30分かけて起き上がり、そして20分だかかけて動き出すという鍛錬をしたとのこと。体から一切の力をぬいて横たわっている状態から、さあ起き上がるとしてどこをどう動かしていけば良いのか、どうやって起き上がるところまでもっていくのかってのを本当に考えることになるそう。その過程で身体とは亡いかを突き詰めることになるらしい。家でやってやれるものではないから試してみるしかないのかなあ。そういうビデオを見てもきっとやっぱり分からないんだろうなあ。

 最上和子さんは身体とか舞踏とかについて何か書きたいそうだったけれど、とてつもない話なので書けるかどうかも分からないみたい。でも書こうとする気はあるみたいなのでそこは時間と導くパッションがあればってことなのかな。16日には押井監督との対談があるみたいだけれど無事完売。とりあえず買ったので時間があったらのぞく。14日の分があまり売れてないようなので、これから見たい人はそっちを買おう。


【5月8日】 大童澄瞳さんが「月刊!スピリッツ」で連載している「映像研には手を出すな!」が、いよいよもってテレビアニメーション化で、それも新作映画の「きみと、波にのれたら」を仕上げて公開を待つばかりとなっている湯浅政明監督が、間髪を入れずに監督を務める「ピンポン the Animation」以来のテレビシリーズというから、これは話題性も抜群。原作漫画はマンガ大賞2018で最終候補にノミネートされたことがあって、アニメを作る女子高生たちを描いたポップカルチャーの真ん中を行く作品だったけに受賞なんて考えたけれど、その時は受賞とはならなかった。マンガ大賞2019はノミネートもされなかったけれども連載は続いて巻数も重なる中、ついにテレビアニメ化にまでたどり着いた。

 面白いのは、これがNHK総合テレビでの放送ってことで、湯浅監督が拠点にするサイエンスSARUだったら関係が深いフジテレビのノイタミナなり+Ultraあたりが枠として適当な気もしたけれど、深夜の深い時間に放送されても今時のアニメってあまりバズらず、それならむしろNetflixなりを挟んで世界で一挙配信を行い上がりがもらえる範囲を広げる方へと向かっている。とはいえ、日本の学生たちがアニメーション制作に燃える女子高生たちを描いた作品が、Netflixによる世界配信向きかというと迷うところで、それなら国内で目いっぱい、届く範囲にまずは伝えようとしてNHKを選び、そしてNHKも若いアニメ好きを引きつけたいと依頼したのかも。そのあたりはいつかどこかに載るかな。

 キャラクターデザインは「おそ松さん」の浅野直之さんという人で、デフォルメされても動きや表情が分かるキャラクターをきっと見せてくれることだろう。元より「映像研には手を出すな!」の雰囲気が湯浅監督の描く世界とマッチしている気もするだけに、途中でシュールな展開とかにいかなければスタイリッシュな中にアニメ制作という濃い部分も描かれた作品になるんじゃかなろうか。単行本も2巻までしか読んでないけど近く出る4巻も含めて読み返すか。来年のマンガ大賞2020入りにも期待がかかるかな。それにしても美術設定とかなかなか凄まじい。キャラクターデザインよりも注目はむしろそちらかもしれないなあ。

 身が底へと沈んでいたりする状況で、底辺に彷徨うかトップを掴むかといったサバイバルなゲームが舞台となった小説はあまり読みたくないんだけれどもそっちはそっちで何とかするしかないだろうから、とりあえずフィクションはフィクションと割り切って七切聖虎さんという人の「Abyss 1 賞金2600億円のVRMMO」(レジェンドノベルス)を読む。手術費800万円で治ると思った妹の病気が余命幾ばくもなくそして治療には3億円かかると分かって絶望状況の兄、小鳥遊夕人だったけれどもそこに勝てば2600億円もの賞金が転がり込んでくるゲームがあると知り、エントリー料が300万円するにもかかわらず妹のためならと払ってゲームに乗り込む。
BR>  そこで無双ができるようにはなっていないこのゲーム。それでも魅了の力はあったみたいで、それを使って仲間を得てチームでまずは攻略に乗り出していくところが流行りの異世界転生俺TEEEとはちょっと違っている感じ。仲間といっても目的は賞金の訳でそれを得て独り占めするのが狙いだったら仲間なんかはいらないはず。とはいえそれで勝てる訳がないなら今のうちだけは仲間になったふりをしているのか、それとも賞金は山分けでいいから信じた友と難題に挑むことに燃えていたのか。はっきりと掴みづらい状況の中、それでも戦い続けた4人組の1人が敗れ別のプレイヤーに隷属されそうになった時、すぐに反攻できないようレベルが下がるのも構わず自分をキルしたあたりに、打算ではない真意が見えてメンバーたちを驚かせる。

 そんな仲間を引きずり込んだ強大な敵を相手に小鳥遊たちは勝てるのか、ってあたりが第1巻のクライマックス。そしてまだまだ続くだろうゲームの先にはどんな敵が待っているのか。2600億円もの賞金を出して惜しみないゲームの真意とは何なのか。そんなあたりが続刊でもって語られそう。こういうのってたいていは裏があるからなあ、何かの開発か政治的な謀略か。ただのお金持ちの道楽ってことはないだろうね。レジェンドノベルスでは6月に「幼女とスコップを魔王眼1」ってのが出るみたいだけれどスコップで何をするんだろう。すでに「スコップ無双」というスコップで波動砲を発射するようなとんでもない莫迦ラノベが出てたりするけど、こちらは大人しく幼女がスコップで魔王をたおすだけなのかな。だけじゃないじゃんそれだと。確かに。

 シド・ミード展から告知が出ていて、展覧会のキュレーターを務めていてコレクターでもある松井博司さんが展覧会の解説をしてくれるナイトツアーが展覧会の会場で開かれるとか。まさにナイトミュージアムだけれどそれでシド・ミードの車が出現して走る訳でも、ターンエーガンダムが立ち上がって歩く訳でもない。とはいえ天下のオーソリティがその場で作品を見ながらあれやこれやと解説してくれるのは貴重にして今後また同じ規模の展覧会が開かれないとしたら奇跡のようなツアー。ファンなら行って損はないし、こうしたポップカルチャーの展覧会が今は芸術とはかけ離れていてもこれからの世にどれだけの価値を持つかを当事者から、オーラルヒストリーとして聞いておけるという意味で、世のキュレーターにとっても大いに意味のありそうなツアー。行きたいけれども無職の身ではやっぱり気が重いなあ。かといって残っていたら行ける時間でもなかったか。そこが微妙。決まっていれば気楽に行けるんだけれど来週月曜日では。それでも未来への投資と思いのぞいておくか。

 元の職場が宛がってくれた転職支援サービス会社で利用だとか活動のガイダンスをいろいろと受ける。履歴書の書き方とか面接の時の態度とか受け答えの仕方とか、この歳になって教えてもらうとは思わなかったけれどもとりあえず、自分のこれからだとか自分のこれまでだとかを考える上で役にはたった。とはいえ今さらそうした表面的な言葉のやりとりをしなければ、いけないというのはつまりやってきたことの中身なんてまるで関係ないってことで、そういう蓄積が通じない世界に飛び込んでいってどれだけのことが出来るかって考えると、なかなかしんどい気もしないでもない。とはいえそれだけのことをやって来ながら、中ではあまり関心をもたれなかったのだから仕方が無い。関心をもってくれた外を相手に勝負するのが良いのかなあ。それも茨の道だけど。やれやれ。


【5月7日】 入間人間さんの映像化というと、デビュー作の「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」が染谷将太さん主演で大政絢さんが出演した実写映画が公開されたほかは、「電波男と青春女」がテレビアニメーション化されたくらいであまり記憶にないのは、長くシリーズが続いてアニメ化に耐えるものがないってことでもあるんだけれど、そんな中で珍しく続いている「安達としまむら」がいよいよテレビアニメ化ってことみたい。5月10日に8巻も出て「嘘つきみーくん」シリーズの10巻、そして「電波男と青春女」の8巻に続き並ぶシリーズとなるからこれは選ばれたも当然だけれど、ライトノベルシーンで話題になっているかというと、それほど知られているとはあまり思えない。

 深く読み込んで追いかけている訳ではないので、青春なのか百合なのかギャグなのかシリアスなのかもちょっと図りかねているけれど、そこは捻った作品が多い入間人間さんなので、単純な2人の女子高生の関係に寄らない不思議な設定なんかがあるんだろう。それとも純粋に百合でSFなんかで起こっている百合ムーブメントが波及してこれだと企画が浮上した? それはないか、そういうのって何年も前から企画化が進むものだから。いずれにしても岐阜県岐阜市とか各務原市とか大垣市とか愛知県名古屋市なんかが出てくるみたいなで、それがちゃんとアニメでも再現されれば聖地となって愛知県から「アニメ聖地88」に初めて登録されたりするかもしれない。どうだろう。「やっとかめ探偵団」はいつまで経っても続きが出ないからなあ、「八十亀ちゃんかんさつにっき」が先に入るかな。

 大型連休も明けてとりあえず、再就職にしろフリーで活動するにしろ今後の展開に繋がるきっかけをもらいに行こうと、都心まで出て宛がわれていた再就職支援会社でいろいろと状況を説明する。はいそれならここがピッタリですだなんて答えが出るはずもなく、サービスを使うための手続きをしたそうだけれども転職情報サイトが基本的に若年層向きで、そこからいくら応募したって途中でハネられるのが当然の扱いを受けてきたから、間に担当者が入って直接企業にコンタクトをとってもらえるのは有り難いと思うのが良いのだけれど、見知らぬどこを紹介される状況にやっぱり不安も感じて気分は上下左右に振れ動く。

 どこにトバされたって冷や飯ぐらいにされたって、見知った人が周囲には大勢居るだろう環境でしばらくでもしがみつき、そこそこの給料を頂いていた方がそれなら良かったかというと、それが2年3年続くなら良いけれど、それを2年3年も続けられるほど足腰も強くない状況だっただけに一緒に倒れるか、切り離されていただろうことを考えるとやっぱり離れて次を探って正解だったとここは思いたいし、思わないとちょっとやっていられない。2年先に迷う路頭なら今から彷徨った方が目端もつくと言えなくもないし。ただやっぱり決まるまでは決まるんだろうかという不安が先に立って、これまでどおりに寝られても起き上がれない日々が続くんだろうなあ。参ったなあ。

 企業人とかサービスとかを取材して、記事にしてそれを企業内サイトのブランドアップにつなげようとする動きも出てくる中で、そうした記事を専門に書くライターめいた仕事ってのもこれからはきっと増えてきて、そうした時に企業とかサービスを取材して特集とかにしてきた産業専門紙上がりの記者ってのは多分、それなりに使えるだろうといった考えに沿って、フリーでそうした仕事を請けて動いて頑張るって道もあったりしそうで、それは嬉しいしすぐにでも飛びつきたいところではあるものの、ずっとフリーで行く覚悟がまだ決まってない身だけに、即答できないのがちょっと恥ずかしい。自分のことであっても決められないのは、自分のことだからなんだろうなあ。明日のためには動きたいけど、10年後にどうにかなるかというとそれもまた。あるいは1年でも修行できる仕事をしつつ、合間があるならそうしたフリー仕事も請け負って、時間を埋め財布を満たしたいものだけれど。やっぱりまだまだいろいろ話を聞かないと。

 つまりはおっぱいが最強であって、揺れれば目を奪われ、触れれば心を奪われるくらいに凄まじい威力を発揮するおっぱいを持った峰不二子の最強ぶりを存分に味わう映画かと「LUPIN THE VRD 峰不二子の嘘」のことを言えば良いかというと、言えば良いのだけれどもそれだけではない峰不二子の素晴らしさが、全編にわたって描かれている映画だというのがこの場合はピッタリかもしれないと試写で観て思った。父親が5億ドルを横領して逃げている一家にメイドとして入り込み、父親に追っ手が迫る中で5億円の在処を記憶しているジーンという心臓病を抱えた息子とともに逃走。父親はビンカムという人に言うことを聞かせる呪術めいた技を繰り出す殺し屋に迫られ爆弾を爆発させるが、ビンカムは平気で逃げた不二子とジーンを追い始める。

 待ち合わせ場所に父親が現れず、やはり死んだのではとジーンに告げる峰不二子。だったら2人で5億ドルを持ってそれで心臓病を治し、逃亡しようと誘うもののそこにルパン三世と次元大介が絡む。不二子が手練手管でジーンから貸金庫の在処と暗証番号を聞き出して、5億ドルを独り占めしようとしていると思って横取りなりしようと企むものの、ジーンは父親が死んだと憤って復讐するまで暗証番号を言いそうにない。女性の色気も詐欺的な話術も通用しない子供相手に峰不二子もタジタジ? それとも本気でジーンのことを考えている? そこはやっぱり峰不二子だけあって目当てはただ金、そのためには嘘だって平気でついて子供を騙すことだってするんじゃないかという感性が一方にありつつ、ジーンを狙うビンカムという殺し屋を相手に単身で挑むような格好良さも見せたりして峰不二子という存在の真意を掴ませない。

 それもやっぱり自分のため? 金が手に入ったから行きがけの駄賃? 何を言っても嘘に聞こえるが、その美貌その肢体からどこかに本当も混じっていたらと思わせて止まない峰不二子という存在の魅力と怖さを、存分に感じさせられる映画になっている。映画といってもテレビシリーズ2本分くらいの長さだけど。そんな峰不二子の前にジーンも落ちたかどうか。あるいはランディも? 分からないけど目の前にあのおっぱいが見えてそして触れさせられたらもうきっと何かが変わるくらいの衝撃を受けるんだろう。アニメは絵なのにそう思わせられるくらいの柔らかさが感じられぷにぷに感も現れている。巧い作画。そしてモーション。描いた原画の人は描いて楽しかっただろうなあ。

 小池健監督の「VRD」シリーズらしくクールでスタイリッシュでシビアでシニカル。ただ峰不二子が全面に出て子供相手の母性めいたものを見せたりもするから全体にソフトな感じも今回は漂う。ただし後半はそんな不二子が殺し屋相手に圧巻の体術を見せてくれるからもう驚き。そんなに強いならルパン三世だってかなわないんじゃないかな。次元大介を演じた小林清志さんの声が今回は良かった気が。最初から雰囲気完璧。若いとはいわないけれども歳を感じさせない声を聞かせてくれている。そしてルパン三世。おっちょこちょいの三枚目より栗田貫一さんは小池ルパンのニヒルでクールな感じがやっぱり良く似合うよ。ランディ役の宮野真守さんもふざけたところがなかった。そりゃそうだ。そんな感じに声も良く絵も良くおっぱいもいっぱい。こりゃあ劇場で見るしかない。最前列で見上げてその柔らかさに押しつぶされそうになるしかない。


【5月6日】 帰省中にハードディスクレコーダーが本体、外付けともに満杯になっていて、撮れていなかったものもあってちょっと困ったけれど、今、アニメを見る気もあまり起きなくって撮っても溜め込んでいるだけだったりして、これじゃあ1日を自由に使える時間があっても、しばらく暮らせるお金があってもまるで意味がない感じ。長く働くことを日課として、その上で生きてくると人間なかなかボーッとはできないものらしい。あとはやっぱりしばらく暮らした後のことも考えてしまうし。

 だったらそんなボーッとしている時間を勉強にでもあてられれば良いんだけれど、そういう気にすらなかなか至らないのは長い時間を船に乗り、揺られてきたその影響が今も頭を揺らしているからなのかもしれない。しばらく強制的に自分を社会から切り離し、情報からも隔離してみた方がいいのかなあ。それでも溜まっている分から幾つか見ようと、「キラッとプリ☆チャン」のセカンドシーンのここ数話分をまとめて見たら、主役がすっかり桃山みらいたちMiracle Kiratsから金森まりあに変わってた。

 何でも可愛い可愛いとウザいくらいにつきまとってくるけど悪意がなく、て純粋にすべてを可愛いとポジティブに讃える気持が分かるから拒絶できないといった感じ。そんな声を真中らぁらと同じ茜屋日海夏さんが、まったく違う感じに演じているんだから声優としてもやっぱり力があったんだ。それは萌黄えもの久保田未夢さんも同じか、ツンとした北条そふぃから騒がしいえもえと演技をまったく変えてきたから。そんな金森まりあが引っ張る感じで進んでいくストーリーでは、Miracle Kiratsからだいたいみらいがピックアップされて次のジュエルオーディションにエントリーされていく。3人がいっしょにやっているのにどうしてみらいばかり? って感じるけれどもそこはやっぱり主役だから? ってことなのか。

 そんな展開に絡んで来るのが前髪目隠れ美少女の虹ノ咲だいあ。ときどき目が見えるところがポイントだけれど引っ込み思案でみらいたちといるとまるで喋れないのに、Miracle Kiratsが、自分たちのPVをどう作ろうか悩んでいる場面で一緒にいたのがふっと消えたと思ったら、バーチャルアイドルのだいあがMiracle Kiratsのことを取りあげて、3者3様の良さがあると言ったことでみらいたちは気付いた。つまりは虹ノ咲だいあは……ってあたりはまだ秘密。分かっているけど分からないふりをして進んだ展開の先で、驚く皆をみて楽しむ時が来るだろう。そのときはアニメを笑顔で見ていられるといいな、自分的に。今はやっぱり落ち着かないのだどうにもやっぱり。とりあえずどこかに落ち着きたい。1年でも良いから。

 「なんでここに先生が!?」は松風真由編へと入って強面の鈴木凛との関係が綴られることに。鈴木一郎が去ってひとりで弁当を食べ散るところに現れた真由だったけれどもじたばたしているうちに池に落ちてスカートが脱げたり、いっしょに満員電車に乗っているところで真由のシャツのボタンが外れたりしていろいろと大変。もちろんテレビではそうした場面では何かが被さって見えなくなっているけれど、これが外れたパッケージ版ではいろいろと見えたりするんだろう。パッケージ版の発売がぐんと遅くなるのもよく分かる。この内容ならAnimeJapan2019の会場でボディタッチが可能な等身大パネルが並んだことも分かるか。それに対して子供に見せるものではないといった意見が出たのも分からないでもないけれど。最近にしては珍しくストレートだものああ、描写が。パッケージ版どうするかなあ。

 無職だからといって沈んでいては出没者の名も廃ると、気合いを入れ直して文学フリマへと向かう。いつもの東京流通センターだけれど会場が、前に確か1度くらい使ったことがある第一展示場へと移って会場も広くなった感じ。コミケによく発生する霧で向こうが見えないほどではなかったものの、なかなかの熱気で隅から隅までずずっと本が並んで人もいっぱいいて、マンガの同人誌とか評論の同人誌だけじゃなく、小説も写真集も自分で書いて自分で作って自分で出すことがもう普通になってきていることをうかがわせる。っていうか文芸の同人誌っていうのはもともと自分たちで書いて作って出すものだったんだけれど、それが資本によって事業化されてそこから出すのがステイタスめいた状況になってしまった。

 でも、そうした商業からの出版が不興なのかだんだんと縮小気味になる中で、例えば自分で電子書籍化して売ってそれなりに稼ぐ人たちが出て来たり、小説投稿サイトで連載をして好評を得てから紙の出版電子の出版へと向かう人が出て来たりで、出版社という資本であり機能を第一義としない状況が生まれてきた。渋って出してくれないなら、出しても部数が少ないのなら自分で書いて自分で作って自分で売ったら良い、ってことになったのがこの5年とか10年とか。もともとは既存の文学だとか評論が今ひとつなら自分たちで出そうって感じで始まった文学フリマだった記憶があるけど、今やこっちが出版の主流になりつつあるのかも。それはまだか。でも自由だし、反応もダイレクトだし。ここでそれこそ壁サーが出て何百冊も売る同人作家が出て来たら……すぐ商業出版されるか。そこは漫画とは違ってここだけの作品ってのが生まれにくいからなあ、二次創作とかも含めて。

 とりあえず柿崎俊道さんがやってる「聖地会議」へとお邪魔して「ケムリクサ」の全12話に関する論考をまとめたコピー誌を買い、そして本シリーズとなる「聖地会議」の静岡新聞で「ラブライブ!サンシャイン!!」を追い続けた記者へのインタビュー本を購入。橋爪記者ってそうかインデックス・マザジンズで柿崎さんといっしょに仕事をしていたのか。そこから静岡新聞社に転職。地方紙て割と地域のエリートが入る印象があったんで、意外な感じがした。今はそういう人もいっぱい採っているのかな。だったら僕も……って歳はやっぱり考えなくちゃ。

 沼津方面を担当してていもう4年もそこにいて、1つの事象を長く追いかけ続けて記録に出来るのが羨ましいというか。それが新聞と言う媒体の良いところで、だからこそ長く資料であり史料として利用されるんだけれど、最近は一過性の情報を掲載して、それもオリジナルの取材ではなく通信社の配信も含めて載せてまとめて一丁上がりなところもあって、後になって記録をサルベージして時系列でまとめるのが難しくなっている。かといってネットもまた発表の羅列で事象そのものを追っている訳ではない。

 事件や事象の現場で何が起こっているか、それを現場まで足を運んで見て記録しておけた新聞というメディアがそうした役割を果たさなくなった時、歴史から多くの記録が消えてそして記憶とともに埋もれていくことになるのだろう。寂しいけれどそれが現実。ならばこうしてネットに個人が記録していけば良いかっていうと、それも範囲が限られて内容として散漫だし、気まぐれだったりして一次史料としてはあまり役に経たない。なおかつネットが死んだらまとめて消える。ジオシティーズみたいに。ここはやっぱり紙にまとめておくかなあ、23年分の日記を、なんてことも考えたけど、たぶんやらないかなあ。

 会場を回っていたら、原田まりるさんが「ぴぷる」というAIが登場する作品を販売していたので購入してサインも頂く。とてつもなく大昔にブシロードの広報となって「ヴァイスシュヴァルツ」のイベントなんかに登壇していたのがその後、アイドルユニットに入っていろいろと活躍もしていたけれども辞めてそして哲学を解説する人になったと思ったら、小説まで書いてと活躍の幅を広げている。どこかの芸能事務所が強烈にプッシュしてマルチな才能を世にひけらかしているって感じはかけらもなく、やりたいことをやってやり遂げているといった印象。

 そもそもが文学フリマに大手芸能事務所のお抱えタレントだったら出てこないよね。そうした活動が可能なのも今が自分で道を選らんで活動し、そこで表現していける道があるからなんだろう。守ってくれず引っ張ってもれないという苦労はあるけど、進んで行けて破っていけるなら生きやすい時代。そういう時代に適応できるよう、自分を変えていけるかな、いかなくちゃ。でないと生きられないから、80歳まで。


【5月5日】 寝しなにバーボンをショットグラスで1杯半くらい飲んだら気分がスッと楽になって、将来の不安とかも現状への不満とかも吹っ飛んで、こりゃあいいやと思ったもののこれに味をしめて酔っ払ってさえいれば気楽になれると、酒量が増えていきかねないだけに自省が必要。不安だからといってのべつまくなし飲むようになったら、すぐに少しの量ではきかなくなるから。必要なのはだからやっぱり落ち着き先ってことで、大型連休が明けていろいろと話を聞きに回ることになりそうで、どこかにひとつ落ち着ければそのまま気持も楽になれそうな気がする。気のせいかもしれない。1年でも良いから毎日通って何かをさせてくれる場所、見つけたいなあ。

 毛布に潜っていても何も解決しないんで、起き出して東京スカイツリーが建つ東京ソラマチで開かれている「幾原邦彦展〜僕たちをつなげる欲望と革命の生存戦略〜」を見に行く。2200円もする割に展示物が多いかというとそれほどでもないけれど、「美少女戦士セーラームーンR」から始まって「少女革命ウテナ」に「輪るピングドラム」に「ユリ熊嵐」に「さらざんまい」といった、幾原監督が手がけたアニメーション作品に関する選りすぐりの原画や絵コンテが並んで、それがセル画になたり映像になったりした場面を添えることで、原画がどういう風に目に見られる形になるかを分からせてくれる展示になっていた。

 そのセレクトがなかなかに絶妙で、セーラームーンだとキャラクターの豊かな表情を選んで世のセーラー戦士好きを満足させ、「少女革命ウテナ」だと天上ウテナに姫宮アンシーに生徒会の面々の姿をとらえてスタイリッシュでクールなキャラクターを目の当たりにできる。「輪るピングダラム」だと躍動していたり熱情しているようなポーズや表情が多かったかなあ。あとは陽毬がプリンセス・オブ・クリスタルになっている時の、ちょっぴりエロティックな服だとかポーズとかを抜いて見せてくれるから目にも嬉しい。なおかつそんなポーズが描かれた原画が実に絶妙。巧いけど誰が描いているかといった指定がないのは、それを見せて原画マンすげえと喜ばせるアニメファン向けの展示ではなく、作品でありキャラクターのファンに来て見て喜んでもらうことが一義だからか。

 もちろん記録はちゃんとしてあるんだろうけれど、それを出す出さないの判断をしつつ展覧会を構成しつつ、欲しい原画なりスチルなりを選んで並べて飾れるのもきっとちゃんと保管がされているからだろう。作品によって制作会社も違っているはずなのに、しっかりと連携が取れて展覧会に合わせて持ってこられるのは幾原邦彦監督の作品なら、ちゃんと保管しておけばこうやって展覧会が開かれビジネスチャンスになるからって感じているからなのか。文化的側面から保管したいという声があるのも分かるけれど、それだってタダではできない訳で、一方で商業的側面からも必要といった声を高めることが、アーカイブ事業では重要になるってプロダクションI.G.のアーカイブ部門が主張している。「幾原邦彦展」のようなケースも含めてそうしたイベントが増えていけば、アーカイブの必要性も高まり予算もつくし要員も求められるのかもしれない。そんな地平に向かって今から勉強して間に合うか。ちょっと考えたい。いや割と真剣にか。

 浅草まで歩いてそこから地下鉄銀座線で末広町まで出て「シド・ミード展。大型連休中だからなのか内容が評判だからか来場者も多くいて、20分ほど外で並んでから中に入ったらそこは案外と空いていた。ギュウギュウ詰めにして見えなくなるより適当に絞って入れることで見やすくするって配慮が行き届いていた感じ。そんな展示ではやっぱり気分は奥にある「ターンエーガンダム」に向かってしまって、行くと壁面にターンエーとかターンXとかが大きく引き延ばされて描かれていて、スタイリッシュな格好良さに改めてミードガンダムが持つフォルムの強さって奴を感じる。

 過去に誰が描いたガンダムも基本は大河原邦男さんのものになる。そこから完全に外れた唯一のガンダムは、同じくヤマト2520のデザインともども、日本のアニメ史の上に特異な足跡を刻んだことだろー。もちろんシド・ミードはガンダムのメカニックデザインだけではないしヤマトのデザイナーでもない。ずっと前から都市を描きメカを描き映画の中の世界を描いて未来って奴を目の当たりに見せてくれてきた。ルイジ・コラーニのように独特すぎて人が扱うことを拒絶するようなメカではなく、人が将来において使っていて不思議のないものを予想して創造するのはインダストリアルデザイナーだからだろうか。

 車にしたって船にしたっていつか登場して来るような形をしているし、もしかしたら登場したかもしれないけれど、そうしたシド・ミードが描いた自由なデザインが蔓延る世界とは違って、生産と燃費の効率からデザインされたようなメカでいっぱいの現在。街並みも代わり映えせずポストモダンから先を見いだせないでいる中、こうしてシド・ミードの未来感が改めて展示されることで、刺激されたデザイナーが10年後なり20年後に今と違った世界を見せてくれるかもしれない。そういう種まきになれば最高だよなあ、主催者もシド・ミードも。その時を待てるとも思えないけど、見てみたい、2019年4月から5月に開かれた「シド・ミード展」が変えた世界の、日本の有り様を。

 ちょうど20年前のゴールデンウイーク前後に渋谷のパルコで開かれた村上隆さんの展覧会で、内覧会に来ていた姿を見ていた記憶というか記録がウエブ日記にあって、それがたぶん本人を見た最初だったりする大塚ギチさん。アンダーセルを設立したかするかといったたりでここから西島大介さんやコヤマシゲトさんあたりを引っ張り込み、クールでスタイリッシュな編集とか作品なんかを送り出していった。それより以前、ゲームライターとして世間を熱くさせていた「バーチャファイター」をめぐる四天王たちの言葉を引いて物語にした「東京ヘッド」なんかも出して、ゲームを文学にして語れる人だともいった印象を抱いていた。

 後、「東京ヘッド」が再刊された時に「週刊SPA!」で書評なんかもして興味を持ったものの、当人と喋ったのは随分とたった2012年、成田で開かれた真夏の炎天下でゲームをするというとんでもないイベント「ゲームサマーフェスティバル2012」の会場で、ブースを出して「TheEND OF ARCADIA」という新作を売り出したのを見に行った時。連絡があって会って喋ってぶらついて、これから「バーチャファイター」の歴史を追いかける本を書くとか言っていたんだけれどそれは叶ったんだろうか。以後もあちらこちらに顔を出し、言葉を繰り出していた大塚ギチさんが階段から落ちて脳に大変な重傷を負って意識不明となってしばらく。回復して自分から言葉を発し始めてとりあえず安心していたら5月1日に亡くなったという方が伝わってきた。

 いっしょに飲んだことはなく、会ったのも成田での1度くらいで接点はほとんどなかったけれど、とりあえず面識はあったし相互にツイートもきっと見ていただろう人、なにより業務用ゲームの世界を熱く語って、eスポーツだなんて言葉でお上からも脚光を浴びる以前のその世界を盛り上げ持ち上げた人がさあこれからという時にいなくなってしまった。こんなに残念なことはなく、そして悔しいことはない。まだ45歳くらいならどれだけだって書けたし話せた。でもそれもかなわなくなった障害を負って、なお何かしようとしていた気概はネット上の言葉から伝わってきた。それももうかなわない。カクヨムに連載されていた物語の続きも読めない。これが居なくなるということなんだなあと、感じつつ自分にはどれだけ残せたものがあるのかと振り替えて手を見る。何もないなあ。でも生きているなら何かできるはずだと思おう。それが生きている者の務めだから。合掌。


【5月4日】 沈んではいてもやらなくてはいけないことなんで、帰省中にミステリマガジン向けのライトノベルレビューを仕上げ、AIが出てくるSFについて予定の半分までを埋め、懸案の書記業務もとりあえず形だけは付けたので、目先の課題は再就職なり仕事探しだけになったのだけれど、これがまた難物で難物で暗中模索にすら届かない状況で、目の前に差し出された巧い儲け話にコロリと言ってしまいそうな気がしないでもない。totoBIGとか。いやそれはずっと買っているけど。そこを耐えて待てば海路の日和ありと思えるかというと、なかなか切り替えられないところに気の弱さが自覚されるのだった。とりあえずだから散髪だ。坊主にしよう。

 「スター・ウォーズ」の最初から出ていたチューバッカ役のピーター・メイヒューが死去。あの中に入ってずっと顔なんか出さなかったからどういう顔かなんて知らなかったけれど、訃報が回ってきて普通に俳優さんだった。そりゃそうだ。中までチューバッカってことはないから。「スター・ウォーズ」だとプリンセスレイア役のキャリー・フィシャーが亡くなりR2−D2役のケニー・ベイカーも亡くなってとオリジンから鬼籍に入る人が出始めている。当時からレジェンドだったアレック・ギネスは仕方が無いとして、ダースベイダー役のデビッド・プラウズもC−3PO役のアンソニー・ダニエルズもそれなりに高齢。出続けられているのもアンソニー・ダニエルズくらいになっているのか。いよいよ公開が年末に迫った「スター・ウォーズ/ザ・ライズ・オブ・スカイウォーカ」でもその勇姿を見せて完走を果たして欲しいとお願い。

 やったよやった、ホリエモンこと堀江貴文さんが中心となって仲間を募り、作ったインターステラテクノロジズって民間企業が宇宙へとロケットを飛ばすプロジェクトが遂に成功。北海道の十勝は大樹町から上空113キロメートルという、まがう事なき宇宙へと「MOMO3号機」ロケットを打ち上げた。無事に着水まで成し遂げたから大成功の上に大成功が重なる大々成功。これまでの打ち上げ失敗から時には炎上したような事態ををいろいろ揶揄して、成功なんてあり得ないしあったところで意味がないと見ていたスノッブたちも、これで少しは黙ると良いけどやっぱり何の意味があるって声は出るだろう。衛星の1つだって今は軌道に乗せられないロケットが宇宙に届いたところで金にはならないとかどうとか。

 でも良いんだよ、“意味”なんて。民間の有志が技術を集めて人も募り作ったロケットが宇宙に届いた。それが今回の“意味”なんだよ。遠くに投げた石が水面を切って対岸に届いたら嬉しい。速く走ろうと頑張ったら100メートルで10秒を切って嬉しい。それぞれに果たしてどんな“意味”があるかと問われて、語る言葉があるならそれを宇宙に届いたロケットに当てはめれば良いだけのことだ。嬉しい。誇らしい。そんな気持を作り手たちが感じて、それを見て嬉しがれる気持を抱く人がいればそこにちゃんとした“意味”が浮かび上がる。今は。

 もちろんここから事業を立ててロケットを宇宙に届かせることで、何か宣伝したり何か置いてきたり何か実験したりするビジネスが生まれることも夢ではない。ただ、あまりに成果を急ぎすぎると、失敗する不安が重くなって気持も萎えてしまう。だから今は宇宙に民間でロケットを届かせるという、そこに存在する意味があるのだと思えば良いのだ。技術的にどうして今回は成功したのかは詳しい分析で出てくるだろうから後日。回収されたロケットからいろいろなデータもとれて、より高く上げること、さらには衛星軌道に乗せることといったミッションが生まれてくるだろう。それも前例があるから無意味と言われれば、世界から意味なんて消えてしまう。やること。やり遂げること。それを意味だと受け止めつつ、自分もやるべき意味を見つけよう。こちらは真面目に稼げないと生死に関わるけれど。

 ようやくやっと「キャロル&チューズデイ」の最新話。1台のカメラロボットが撮影から編集までやってくれるとか、そんなロボットを配達するのがドローンとか、未来的なシチュエーションがしっかり取り込まれているところが分かってるって感じ。でもそんなカメラロボットが安いだけあってインチキだったりする展開とかはまあある感じ。そうやって騙されて撮られたミュージックビデオは見切れていたりピンぼけだったりオフショットが入っていたりと無茶苦茶だけれど、逆に斬新な感じもあってこれが本当に人気のアーティストだったら、そのまま出しても大受けしたような気がしないでもない。無理な気もするけれど。

 遠い未来の火星の話でもマイケル・ジャクソンとかやっぱり伝えられてて人気だし、「ボディーガード」の映像なんかもしっかり知られている感じ。問題はそうした1980年代的な洋楽シーンを言われて果たして平成生まれで「キャロル&チューズデイ」を見ている20代が分かるのかってあたりで、きっとそういう音楽シーンを引っ張り出して解説するムックとかが出てくるんだろうなあ。それかパッケージ化の時にブックレットにつくとか。とは言え今ってそうしたムックにしてもパッケージにしても昔ほど作られない時代。雰囲気だけ感じて印象だけ分かれば伝わるって言えば伝わるし、製作側も無理してそういう深掘りにはいかないかなあ。いっそだから洋楽レコード会社がお金を出して、コンピュレーションを出せば良いんだけれどこれ、フライングドッグだからなあ、そしてマイケル・ジャクソンは確かソニー。うまく合致するかな。

 アメリカ版の「ソニック・ザ・ムービー」に登場するソニック・ザ・ヘッジホッグのキャラクターデザインがあまりに不評なため変更されることが決まったとか。まあそりゃそうだろうなあ、毛がフサフサな点もやっぱり奇妙だけれど手足もあんなに長いとちっちゃくて素早いソニックのイメージからまるでかけ離れてしまうから。目だってもっとキツくしてにらんでいる感じじゃないとソニックらしくないし。でも描きかえるったてあのサイズでもって計算されている画面もあったりするし、動きだってある訳で小さくして同じスピード感で動いたらもっさりしそうな感じもすれば、背景に対して小さすぎるような気もする。そうした調整をしていったら完成だって遅れそうだけれど、公開日はフィックスみたいだからいじれない。単にモデルを差し替えれば終わりじゃないのになあ。でもやるんだろうなあ。どうなることか。「名探偵ピカチュウ」が割と評判良いだけに、比較されないかがちょっと心配。


【5月3日】 第25回メディアワーク文庫賞を受賞した村谷由香里さんという人の「ふしぎ荘で夕食を 〜幽霊、ときどき、カレーライス〜」(KADOKAWA)をつらつら。古いアパートか民家をシェアハウス的に使っていて、そこに入居している青年がいて新しく入ってきた女生徒のことを気にしていたら、夜中に部屋の外に幽霊みたいなのが現れた。どうも以前も同様にそんな現象が起こっていたそうで、やっぱり住み着いているのかと調べたら何と幽体離脱、ってそれも凄いことだけれど、遠く離れて寂しい新入生の心理めいたものが伺えてほろっとした。それをほぐす家庭料理を提供したことも。

 玄関に紙人形が落ちていたって話も近隣にある神社のお祭りを盛り上げて呉って言った神様からのお願いめいたものだったあたり、割と不思議が起こる世界観ってことを感じさせる。それでいて猟奇だのには向かわずちょっとだけ不思議だなといった範囲で収めているところに、そうした不思議が普通に起こる日常の楽しさってものを想起する。あったらいいなあ。でもやっぱり現実にはないものだから残念。でもちょっとした出来事に神様とかの配慮を感じて盛り上がって生きていこうって気にはなれそう。以前の幽霊騒ぎとかはまた違う理由だったりして、不思議の裏にある人の言動にも振れさせてくれる物語。途中で本が消えてしまってカレーライス話が読めないのだった。買い直すか。

 皇居あたりをドローンが飛んだといって大騒ぎに。官邸の上にドローンが落ちていた事件以来、あまりむやみにドローンが飛ばせなくなってはいたけれど、一方でメーカーの方もドローンの制御に地図からの入力を使う場合は指定した地域をドローンが飛べないようにする仕組みを投入していたはず。皇居あたりなんてその最たるものだから、飛ばそうにも始動しないはずなんだけれどそうした地図による制御じゃなく、普通に無線で飛ばせるドローンだったら飛ばしちゃいけない法律を無視さえすれば簡単に飛ばせてしまうってことになる。

 テロとか犯罪を起こそうとする勢力に法律とか関係ないからこれはやっぱり危険。だからドローンを掴めるなり落とすなりが必要になるけれど、飛んでるドローンなんて打ち落とせないからなあ。なのでやっぱりドローンをカウンターでぶつけて落とすしかなさそう。そのためのドローンアタック舞台ってのが警視庁とか各地の県警本部に作られたりしたら面白いけど。日ごろからドローンを飛ばしては別のドローンに体当たりをかませて落とす訓練とかしてたりして。それもお金がかかるから訓練はシミュレーターで行うのかな。いやだからそういう部隊が出来たわけじゃないって。でもだったらどう守る? 明日の一般参賀に現れた時の行動に注目だ。

 家から出たのは両親と双子の弟の一家といっしょに昼ご飯の中華料理を食べに行った時くらいで、今日も今日とて1日中、家から出ないで滞在部屋に引きこもって今のこととか将来のことをあれやこれやと考える。もしも普段どおりの帰省だったらさっさと家を出て、脚を伸ばして栄町くらいを歩いてゴジラの展示を見たり、頑張って半田コロナワールドまで行って上映中の「この世界の片隅に」を見たりしたかもしれないけれど、見えない将来を考えるとそんなことをしている場合なのかという不安がぶわっと浮かんで来て、会食すら億劫に思えてしまってとてもじゃないけど外を出歩ける気分にはなれなかった。長く会社員をやっていると、組織から外れただけでこうなってしまうんだなあ、人間って。皆様も要注意。

 とは言えそんな不安も例えば60歳を超えて70歳まで生きていけるのかってもので、これなんて残ってずっと同じ会社にいたって、65歳まで雇用を延長できる状況にはちょっとない中、60歳で放り出された可能性もあったりして居残ったところで同じ悩みはついてまわったはず。それでも日々にちゃんと居場所があって、そこに居さえすれば生きていけるという安心が、仕事の中身が慣れないものであったとしても心を落ち着けたんだろう。だったらおなじ事で、ちゃんとした居場所さえ見つかれば今のこのフワフワと夢の中を彷徨っているような気分も晴れるかといえば、晴れそうだけれど問題はそんな居場所が未だ定まっていないことだったりする。

 声もかけて頂いてはいるけれど、諸条件とか含めてこの大型連休明けになってようやく分かってくるかなといったところで、それがあるというだけで安心できるかというとやっぱり不安に苛まれてしまうという弱さ。「そのうちなんとかなるだろう」だなんて名セリフも、会社はどんどんと成長して文化もどんどんと広まっていった昭和30年代、サラリーマン社会の中にどっぷりとハマっていたから言えることで、ロスジェネ世代が例えば同じ台詞を10年前に聞いて、そんなはずはあるかと憤ったに違いない。というか未だにどうにもなってない訳だから。そんな世代に比べれば、手持ち資金もまだあるこちらの方が気持を大きく持てて不思議は内けどそうはならないこの気弱さを、とりあえず持ち上げることで残る大型連休を乗り切り、挑戦と検討のフェイズへと入れるように身心を整えよう。出来るかな?

 とはいえやることもあって不安がってもいられないんで、とりあえずミステリマガジン用のライトノベルミステリの評なんかをいろいろと選んで書いて送ったり、日本SF作家クラブが始めたAIとSFの関係について考える作業で幾つかAIが出て来そうなライトノベルを挙げてそこに出てくるAIの何がAIなのかを考える。山口優さんの「アルブ・レズル」とかアニメミライで短編アニメーションにもなった作品だけれど、AIというにはなかなかに複雑な手順が踏まれていたりして読み返してそうだったんだと思うことしきり。

 アニメはいずれ映画化なりテレビシリーズでも模索していたのかもしれないけれど、一部を抜き出した断片に止まっていて真相には迫っていなかった。でも今となってはそこからテレビシリーズ化ってこともないだろうなあ。最近はアニメたまごとなって東京アニメアワードフェスティバルで上映はされても劇場上映はなし。ネット配信はあるけど期間が短すぎて見る機会もない。なので何が作られているかすら覚えられないのに新作なんてないよなあ。勿体ない。まあ当時はDVDも出てたんで買ってあるんで探せば見られるかな。問題はだからやっぱり部屋のどこにあるか分からないという。本格的に掃除しなくちゃ、真っ当に朝起きて通勤する仕事に就いたら部屋が乱雑だと服を探すのにだって時間がかかって遅刻してしまうから。


【5月2日】 原恵一監督の「バースデー・ワンダーランド」の感想とか批評とかをあれこれ読んだり見たりして、やっぱり全体に平板というか上杉アカネの異世界に行くのにもそこで行動するのにも動機が薄く、最後にちょっとだけ王子に向かって積極的になっても離別が深いわけではないから感涙に至らないといった感じで、ロードムービーであり異世界観光ではあっても心を揺さぶる映画とは違ってるといった感じの声が多かった。それには同感。実際にそう思ったし。チィさんはしゃぎすぎとも。

 ただし、それらは原恵一監督がすべて意図して狙ってやったことであって、力量として情動が描けなくなっている訳ではない。やろうと覆えば「オトナ帝国の逆襲」だって「戦国大合戦」だって描ける原恵一監督が、本気で泣かせに来たら泣かずにはいられない映画になったものをそうはしなかった理由をまずは考える必要はありそう。この時代、感動だ何だと煽って誘って泣かせてはい次といくよりは、ふわっとして楽しくてさらっと流れたけれどちょろっとは残った、その残った部分をグッと握りしめてもらえれば十分と考えたのかもしれない。

 イリヤ・クブシノブさんによるシンプルで、ちょっとだけ今敏監督のキャラクターも思い出させるけれどもうちょっと整っていて、表情が優しい感じのデザインのキャラクターたちも、そうした雰囲気にマッチして美麗だけれど強烈ではない。それでいて所々で見せる仕草やポーズは楽しげなのも良い。原恵一監督の作品の歴史においてきっと他の傑作名作と呼ばれる作品に比べると、実写ん「はじまりのみち」ほどではなくてもスッと忘れ去られていくんだろう。でも僕はこれを好きな1作として記憶に強く止めたい。手足が長くてデフォルメ感が少ない上杉アカネをあれだけしっかり動かして、ポーズも固めた作画は凄いとやっぱり思うのだ。

 昔の日記をまとめるために掘り返して、1999年9月25日に東京都写真美術館で「新世代フィルムメーカーズ〜The Animation」というイベントが開かれていたことを思い出した。「人狼」の沖浦啓之監督に「青の6号」の前田真宏監督に「おジャ魔女どれみ」「魔法使いTai」の佐藤順一監督に「機動戦士ガンダム/第08MS小隊」「おいら宇宙の炭鉱夫」の飯田馬之助監督、そして『PERFECT BLUE」「千年女優」の今敏監督とおそろしく凄まじい面子が揃ったみたい。今なら数千円のチケットで満席になりそうな気がする。

 言っていたことはそのうちに、昔の日記をまとめた連載に掲載されるし今だって縮刷版に行けば読めるからここでは紹介しないけれど、こうした凄まじい弁との記録がネットを掘っても出てくるのが僕の日記くらいしか出てこないあたりに、時代がまだネットから少し遠かったことを実感する。今ならそれこそネット系オタクメディアがわんさかと来て講演録をまとめているだろうから。そういう部分で僕の日記にも少しは価値があるかもしれないなあ。最近は出不精だし行ってもどうでメディアが書くからとあまり紹介はしなくなってしまったのだった。そして今監督飯田監督がここから鬼籍に。時は流れる。

 映画化されるセガのゲーム「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」の映像が公表されてソニックになぜかフサフサの毛が生えていることが分かって、おいおいハリネズミにどうして毛がフサフサと生えているんだというツッコミがひとつと、そして動物であったとしてもキャラクターなんだからそこは柔らかい感じの質感にするのが普通じゃないのかと思ったことがひとつ。なるほど名探偵のピカチュウは毛も生えいるけどそれが薄汚れてやさぐれた感じになって雰囲気にマッチしている。でもソニックはクールで格好いい存在。なのにフサフサの毛ってこれはさすがに違うんじゃなかろーか。でもライセンス元のセガは認めた訳だよなあ。誰も止めないところにIPへの愛のなさがみえる。ってかソニックはもともと不遇だもんなあ、セガサターンでソニックが来ていれば。永久に言われる戦略ミス。

 そして1日、実家から外出ず、滞在している部屋からもほとんど出ないでベッドの上か、椅子の上にいたままで、日記をまとめたり書評を書いたりAIとSFの関係について調べていたら日が暮れてしまって、これで体は休まっても心はさっぱりまるで安まらないことが分かったので、毎日でも向かえる場所を早くに得るか、やらなくてはいけないことを得るかしないといけないと思った。30年間をサラリーマンのリズムで活動してくると、生き場所がないのはとても不安になるのだった。フリーってのも同様かなあ。仕事部屋借りるかなあ。

 令和になって世間が連休で賑わっていても、それで仕事がないと嘆く山谷で暮らす人たちの話が新聞に載り、大学院を出て博士課程を持っていながら文系の大学で常勤の講師職を得るのはまず不可能で、非常勤講師を週に4コマ6コマと受け持つか、地方の大学で働くかするしかないといった高学歴のポスドクな人たちの話がネットに載ってと、生きづらさを伝える記事の多さに自分もいったいこれから先を、どうやって生きていくかをいろいろと考え込んでしまう令和2日目。

 まあ何もしなくても60歳くらいまでは、手持ちの資産を食いつぶしていけば生きられそうだけれど、人生はそこからまださらに20年以上もある訳で、そして普通だったらそこで得られる退職金などない身になっている今、手持ちの資産を食いつぶさないで60歳までを生き延びる術を考えることがやっぱり先決になって来る。というか、60歳まで勤め上げたとしても得られた額はとてもじゃないけど一般企業には及んでいなかった訳で、そこから先をサテと考え始めるよりは、今からやっぱり足下を固めておく必要があったと思うならばこれを好機ととらえ、前のめりになるのが一番だったりする。論理的には。

 でも感情的にはやっぱりいろいろと考えてしまうこれからの6年であり、60歳からの20年。その頃はきっと景気も今より悪くなって、それでいて物価も上がって福祉は切られて困窮する人が続出しているに違いない。バブル世代ってことで就職している人も多くいて、それらがいっせいに会社から外に出て行ったらもう労働市場は大混乱。そんな中に割って入るのは無理だと思うと余計に気持もささくれてくる。向こう20年とは言わないけれど、10年は戦えるスキルをこの1年なり3年かけて身につけられるかとなった時、誘って頂いている分野から何を選ぶか、あるいは紹介を得られる分野からどこを選ぶかが大切そう。大型連休が明けていろいろ考えよう。とりあえず禿げ頭にマッチする髪型に散髪しよう。


【5月1日】 渋谷のスクランブル交差点が人で溢れたとか、道頓堀の人がいっぱい飛び込んだとか令和への改元を本当に大勢がポジティブにとらえて騒いでいるのがやっぱりどうにも不思議に思える。これで次の改元が従来どおりの崩御なりで行われたとしたら、とてもじゃないけど同じ様には騒げない。昭和天皇の時のように日々刻々と変化する体調をほじられ、その日を待ったような状況はもう御免だと、平成を治めた先代の陛下が早い退位を決意されたからこその浮かれ騒ぎをことさらにお祝いしては、次もまた同じ様な生前での退位を求めているようで気が引ける。今上陛下にもお考えはあるのだから、それを縛らず自由に決められるようにしておいて差し上げたいなあ。次代との年齢差を考えるとなおのこと、ワンポイントにならざるを得ない状況を避けようと無理をしかねないから。

 それにしても元号が令和となっても心はまったく目出度くはなれず、どんよりと沈んでいたりする今、こんな心境になっているのかグルグルと思考を巡らせて考える。それは、平成から令和へと変わるのを記念した番組で、よっぴーこと吉田尚記アナウンサーがメイン司会を張って看板アナとしてフィーチャーされていたのを見知ったからで、かれこれ15年近く昔、当時はお台場に移転していたニッポン放送のブロードバンド放送で、パーソナリティをしていたよっぴーこと吉田尚記アナウンサーに呼ばれて行って何か喋ったかして、そこからしばらくは同じようにオタクな情報をどんどんと発信していたんだけれど、次第にメジャーなシーンで吉田アナが大活躍し、今回の状況へと至った一方で、こちらは媒体を外れ書く場所を狭められ、遂には居場所さえなくしてしまったことに、半ば嫉妬めいた感情を浮かべつつもう同じ場所にはいられないのかと寂しさに歯がみしたからかなんだろー。

 もっとも、廊下のような場所からだんだんと自分の居場所を広げていって、主張もして努力もして研鑽も積んで今のところへとたどり着いた人間と、与えられた場所でそれなりには頑張っても大きく世に何かを問えず、世間に名前も知られないまま時間だけを無為に過ごした人間が、いつまでも同じベクトルで併走できる訳もないのも事実。媒体そのものの影響力の差ってのもなるほどあったとしても、やりようによっては名は広めるチャンスはあったのにやらなかった怠慢が、当方の今という境遇を招いたのだとしか言い様がない。そのことを今さら悔やんでも仕方が無いのは分かっているし、居残っていたところでチャンスが与えられた可能性が薄いのは、もうずっと壁際で塩漬けにされていたことからも明か。だったらそこからの復活はもうないと知り、別の方面から頑張って近づくか、応援に回るかするしかない。なんてスッパリと思えれば気持も楽になれるんだけれど。そうもいかないなあ。令和もしばらくは悶々とした日が続きそう。

 沈んでいても仕方が無いので、実家から歩いて行ける映画館ということでTOHOシネマズ赤池に行って原恵一監督の最新作となる長編アニメーション映画「バースデー・ワンダーランド」を観る。なるほど、オスのネコには金玉があって、仰向けになれば見えるしそんなお尻を顔に押し当てられれば丸くてゴロゴロとしたものが2つ感じられて、それは当たり前のことだけれど、敢えて描くかとなると描く必要があるのかが迷われる描写をしっかりと入れることで、物語世界の空気感がちょっぴりコミカルなものが混じっても構わず、クスッと笑えて楽しくなれるものだと思わせたい映画なんだと感じた。

 山あり谷ありの起伏はいらないし、泣いたり笑ったり怒ったりといった激しい情動の変化も必要ない。淡々としながらも時折混じるそうしたクスッとできる描写が、観る気持を楽にしつつ、退屈にさせないでスクリーンから目を離させないようにさせる。それが意図した工夫なのか、原作が元から持っている空気感なのかは分からないけれど、異世界に連れられて行って大冒険をする少女の物語と言われ、身構えつつまたかと思いつつ観て、すっと抜ける感覚にさせてくれるところは今の、何でも派手にして激しくしがちな傾向から外れて逆にお気楽な気分を誘う。それを肩すかしととるかは人によって判断が分かれるところではあるけれど。

 小学校で起こったいじめの前哨のような出来事に、荷担したことが心を咎めたのか学校に行きたくなくて仮病を使い、家で寝ていた上杉アカネ。そんな気持を見透かされたのか、飼っているオスのネコに金玉を押しつけられて尻尾を引っ張り怯えさせ、そして起き出して食事をとろうとしたら、仮病と知ってか母親が近所で古道具屋を営んでいる叔母の上杉チイの所にお遣いに出される。自分の誕生日プレゼントをもらってこいという。でも到着した古道具やでチイは聞いていないと良い、そして置いてあった手形にアカネが手を置いたらハマってしまってそして、床下から髭を生やした紳士が現れ錬金術師のヒポクラテスだと名乗ってアカネを自分たちの世界で起こっている水不足からの滅亡を止める存在だと行って連れて行こうとする。

 嫌がっていたアカネに対してチイは好奇心旺盛。呼ばれもしないのにリュックを背負ってついていく、というあたりにすでに少女が1人で異世界を冒険するという真摯さからズレた妙なおかしみが漂う。トリックスターとかコメディリリーフとかまではいかなくても、ユルさを体現する存在としてチイがとても光っていたなあ。旅路に寄り添っては落下してきた鳥の卵をスカートをまくって受け止めたり、助けた村長の家で酒を飲んだり聞きづらいことを聞いたりしてピリピリとした雰囲気へと持っていかない。世界は滅亡しそうでスラム街のような街もあって、それらがグッと前面に出てくるとリアルな辛さが漂って、今の辛い身を苛んだかもしれないけれど、ふかふかの羊で遊んだり車を転がして楽しんだり、骨董を買いあさったりする行動で旅路を楽しませ世界を和ませる。

 そんなチイの存在感が、ヒロインであるはずのアカネを背景においやりかねなかったりするところが悩ましいといえばいえる部分か。ただ主張を前面に出して異世界にくるのを嫌がっていたと叫べば途端に空気は冷えて固まる。それをやって救いをもたらすドラマがあればあったで感動も出来ただろうけれど、この物語でたぶん大切なのは前のめりになること、その1点。下がりそうになっても前を向いて歩き出す。それをヒロインが自分からやろうとし、水源の確保をしなくてはらないのに臆している少年の王子を促し前を向かせるクライマックスを浮かび上がらせる。

 そこへと至るプロセスとして、ほんわかとしてちょっぴりコミカルで楽しげで優しくてピンチというピンチがない旅路にはそれとしての意味があり、血で血を争うような強敵との激しいバトルがない対決にもそれだからこその意味がある。「千と千尋の神隠し」だとか「ホッタラケの島」だとか「星を追う子ども」といった少女や少年が異世界を旅して対決もして自分を得て戻り成長するという、過去に割とあってそれなりに楽しませてくれるストーリーを受けつつ過去にあまりなかった空気感を与えてくれる。面白かったなあ。小学生の割には肢体が育っているとか声がやや年嵩いっていることは気にしない。少なくとも見ているうちはランドセルも背負っていないアカネをそうと感じることなどないのだから。


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