縮刷版2019年3月上旬号


【3月10日】 東京国際映画祭でも上映がなかった新劇場版3部作「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System」の最終章にあたる「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__」が公開されたので早速見に行ってとりあえず花城フレデリカさんの大きさに感嘆。それは人間としての大きさというか、外務省の人間なのに紛争地へと乗り込んでいっては4WDを荒々しく運転し、遠隔操作でドローンを操縦し、分厚い装甲だってぶち抜けそうなライフルを撃ちまくって敵をばったばったとなぎ倒す女戦士としての大きさでもあるんだけれど、一方でやっぱり肉体的な部位の大きさでもあって、同じ画面に成長期の少女のそれが映ることもあって比較してやっぱりその大きさに頭が下がる。

 それはそれとして物語としての「Case.3 恩讐の彼方に__」は復讐を巡る物語と同時にぐるぐると同じ場所に止まって回っていた狡噛慎也がいよいよその輪を抜け出して新しい場所、あるいは古く見知った場所へと歩き出し戻っていく物語でもあった。公開と同時に『PSYCHO−PASS サイコパス』のテレビシリーズ第3期の製作が発表Sあれたこともあって、2人のどうやらまだ若い男性の監視官たちが登場する物語への関わりなんかをいろいろと想像したくなる。「PSYCHO−PASS サイコパス」といえば長く常守朱が主役を張って、その超然として正義を貫き曲がらず折れない態度でもってシビュラシステムに挑み変化をもたらしてきた。それもいよいよ終わって次のフェーズに入っていくのだとしたら、朱とは縁遠いメンバーが仕切る公安局刑事課一係と狡噛との対決、そして厚生省と外務省との対決めいた図式を想像してみたくなる。

 とはいえ、過去のシリーズから劇場版、そして今回の「SS」も見ておく必要があるストーリーを今、持ち出しても新しいファンは得られないのだとしたら、第3期は諸々の関係をリセットした上で新しいメンバーによる公安局刑事課一係の物語として半ば独立した形として進んでいくのかもしれない。いっそ局長が霜月美佳あたりになっていたら面白いんだけれど、それだと時間で5年は経っていないと間に合わないから流石にないか。「Case.3 恩讐の彼方に__」では日本の公安局刑事課一係がまったく出てこなかったから、先に花城フレデリカに誘われていた須郷徹平とかどうしているか分からないのだ。

 「Case.3 恩讐の彼方に__」で少し不思議だったのは、ずっと逃げていた狡噛慎也が大きくて新しい1歩を踏み出すことを決断したのか、といった部分で、マッチポンプでも平和をもたらそうとした「停戦監視団」を率いていたギレルモ・ガルシアと戦った際に、何も生み出さない傭兵の稼業をいつまでも続けていることの苦悩を聞かされ、居場所を得たかったと告げられたことが、狡噛の漂い続ける心境に変化をもたらしたのかもしれない。すでに幾度もの復讐を遂げ続けて来た自信の汚れた手なら、花城フレデリカたちが目論んでいるおそらくはシビュラシステムへの挑戦に使えると思ったのかもしれない。父親をゲリラに殺害されて仇を討ちたいと願うテンジンのような少女を出したくないという意識も働いたのかもしれない。世を捨てて彷徨っていた男が帰還を決断した、それが理由なり背景なのかもしれない。どうだろう。いずれ語られるだろう。

 気になるのは、そこに至るまでに何か作為がなかったのか、といったこと。あの場所、チベット・ヒマラヤ同盟王国に狡噛がたどり着き、難民避難バスを助けて英雄視され、「停戦監視団」への住民たちのシンパシー向上にも寄与し、そして「停戦監視団」への戦いを挑むことになった裏に、シビュラシステムほどではなくても緻密で奥深い謀略がなかったと言えるのか。尖兵として活動をした花城フレデリカの思惑が結果として果たされたその過程で、いろいろな戦いが起こってさまざまな死も余儀なくされた。それらも含めた謀略に狡噛は絡め取られたのではないか。想像を巡らせたくなる。その真相も含めて、きっとこれからの展開で語れると期待したくなる。どうだろう。あとやっぱり、花城フレデリカという女性の豊満すぎる肉体が露わにされる場面がまた来ることも。現有の刑事課一係に所属する常守朱に霜月美佳に六合恂生では足したところでかなわないからなあ。凄かった。もしまた炸裂するなら、「PSYCHO−PASS サイコパス」第3期の成功間違いなし。絶対に。

 これもまた新しい異世界転生の処理の仕方か。南野雪花さん「異世界再建計画1 転生勇者の後始末」(レジェンドノベルス)は前に転生した勇者が美味しいご飯をもたらしたために栄養不足が起こり大変になったので、日本から公務員が召還されてビタミンB1がが豊富な食事を提供しようと走り回るといったストーリー。良いことをしてもそれだけではどこかにひずみが生まれるといった皮肉が効いているし、だったらどうしたら良いんだという対処からいろいろ学ぶこともできる。まずはやっぱりエダマメか。それから豚肉。あとはどう調理するか。知っていれば簡単だけれど、知らないとどうしてと思うだろうなあ。

 現実の歴史でもそうしたことは過去に起こっていたけれど、何百年もかけて思索した果てに明らかになった対処法を、異世界から来た人間が一気に出して大きく時間を進めてしまった。それが正しいかは歴史改変だったら問題だけれど、舞台が異世界になったことで急進だって許される。というより元がおいしいご飯というあり得ない1石が打たれたからだから仕方が無い。物語は公務員が妙に日本に詳しいドラゴンを相方にして問題に解決の糸口を付けたところで壁が立ちふさがってまずは1幕の終わり。異世界の急速な改変が招く混乱を指摘しつつそれを認めず改めない元勇者の子孫の愚劣さも見えてこれからが大変そう。退場したけど戻って挑む公務員はドラゴンの正体を知ってそれでいろいろヤらかすのかにも興味津々。どこからリスタートなんだろ?

 東京アニメアワードフェスティバル2019で開催されている高畑勲監督の追悼企画第4弾となる「かぐや姫の物語」の上映とトークイベントを見物に行く。映画を観るのはもしかしたら2013年11月の公開時以来5年とちょっとぶりになるかもしれない。TOHO日劇の大きなスクリーンで1回だけ見てもう十分と思った記憶があるけれど、改めて見るとやっぱりとてつもなく凄いことをやっていると分かる。絵本のようなクリエイターの線をそのまま残して動かすという力業。なおかつそうした線が歪まずちゃんとキャラクターとして動き回る。

 インディペンデント系のアニメーションならそうした個性を残して動かすことは可能で、セバスチャン・ローデンバック監督による「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」がまさしくそれをやり切っているんだけれど、商業作品でデジタルも多用して大勢のクリエイターでやり切ったのはやっぱり凄い。その凄さがどこまで評価されているかというと、東京藝大特任准教授のイラン・グェンさんがあまり凄さが理解されていないようなことを話していた。「おもひでぽろぽろ」とか「ホーホケキョ となりの山田くん」なんかで使ったリアリズムだったりマンガ的だったりする表現なんかは今でこそ普通で、大ヒット中の「スパイダーマン:スパイダーバース」にも流用されている気もするけれど、その源流にある高畑勲監督のリアリズム的演出以外の技法への評価ってそういえばあまり気にされてない。だからこそこうやって振り返られるのが重要なんだけれど、来年はどうなるか、再来年はとなるとちょっと気になる。宮崎駿監督のようにテレビで放送される訳ではないからなあ。だからこそ語り継がねば。高畑勲ボックス買っちゃおうかなあ、掴みがねがたんまり入るだけに。


【3月9日】 新約ではない「とある魔術の禁書目録」でおよそ映像化なんて無理無理、だってやろうとしたら1クールじゃとても足りないと思っていたフィアンマ戦をじっくりしっかり描くために2クールにして来た「とある魔術の禁書目録3」がいよいよ佳境に。空中にういた都市でもって繰り広げられるバトルがあり、英国にフランスが合同で挑む展開があってなかなか派手。御坂美琴も追いついてきてクローンの妹がいたりラストオーダーがいたりミサカワーストも加わったりしてどれこもこれも御坂な状況にもなっているけど、上条当麻はしっかりオリジナルを選んで学園都市へと帰還していくんだろう。ラストーダーには一方通行がいるし妹たちは興味なさそうな中、浮いてしまうミサカワーストはいったいどこに収まるんだっけ。新約に出てたようだけれど最近の新約はアレイスターが可愛くなり過ぎていて他に目が向かないんだよなあ。そっちのアニメ化は流石にないかな。ともあれ残る数話を堪能堪能。

 「とある全国紙の超大型構造改革」に乗るというか落とされる形で、4月からの会社員として無職化することは決定済み。今はその時に向けて気持が上がったり下がったりる状況がずっと続いている。10年は年収計算でまあそこそこを維持できる手元資金はあるからと安心しては上がり、その歳に続く20年をどうやって生きれば良いんだと下がり、だったら10年の間に手に職を付け頭に知識を入れ込んで備えれば良いじゃないか、語学だって創作だって調理だって何だって10年あればひとかどの者にはなれるんじゃないかと盛り上がり、それで何とかなるなら世界中の人たちが何とかなっていると自己否定に走って落ち込む繰り返し。長く組織に属しているとそこから“解放”されることが喜びよりも苦しみに思えてしまうものなのだろう。

 とにかく自信が湧いてこない。アニメーションについて書いたけれど、深くクリエイターに踏み込んでその考えをまとめた感じではないし、玩具も展示会に行って新商品を紹介はしたけれど、開発のプロセスなりマーケティングの要諦なりについて詳しく調べて解説できるだけの知見を得た訳ではない。ゲームもかつての創業者たちが続々と引退していき知らない人ばかりになって伝手がない。音楽だって出版だって触れてはいるけどのめり込んだ感じではな。すべてが中途半端で身についた知見も頼れる人脈もない……といったマイナスの自信だけが浮かんで雁字搦めに身を縛る。ここで自分は凄いのを書いて来たから、雇ってと言えればどんなに気楽か。ネットでこうした記事を欲しがっているところはあるんだろうけど、僕ならマッチしたのを書けますと言える自信が湧いてこない。拙いなあ。

 何か特定のテーマを持って仕事してきたというよりは、目に見える面白いもの、というかこれから面白くなりそうなものをとらえて媒体を通して紹介して、世の中にも面白がってもらおうとやって来たけど、それはその瞬間には世間ではあまり知られず、周囲にも気づかれないまま過ぎていく。媒体力ってのもあったのかもしれない。それでも数年が経って盛り上がってきた時にヤったという気にはなれたけれど、個人のポイントにはまるでなっていなかったところに寂しさも募る。でも今さら言っても仕方が無いし、どうやらそうした若者向けのエンターテインメント系情報からは遠ざかる気配も見せているんで、居残って揉まれた挙げ句に現場に戻ってもやっぱり居場所はなさそう。そこで張りついて生きるだけの道か、10年をかけて何かを掴むか、そんな岐路にあってやっぱり安定と安心が良かったなあと悩むただの小心者であった。誰か俺に自信を、というのもやっぱり他力本願の小心者だなあ。

 たった1日のそれも異世界でも未来でもないむしろ過去の世界の街での少年少女の1日を描いただけのアニメーションが、これほどまでに濃密でビンビンにいろいろと感じさせられるとは、さすがは高畑勲演出というべきか宮崎駿のアニメーション力というべきか、やっぱり小田部羊一の作画監督力なりキャラクターデザイン力というべきか。それらに加えた他のクリエイターの総合力ってことなんだろうなあ。東京アニメアワードフェスティバル2019で行われる高畑勲監督の追悼企画の第1弾で、「アルプスの少女ハイジ」と「母をたずねて三千里」と「赤毛のアン」からそれぞれ1話づつを選んで上映するイベントが開かれて取材がてら見物に。「ハイジ」はおんじが暮らすアルルへとハイジが上がっていく第2話が上映されて、あの火で炙ったらとろけるチーズのエピソードが登場した。

 似たものはあってもあれほどとけるチーズはやっぱりないそうで、それなのにそこにあって不思議はないと思わせ、なおかつ美味しそうだと思わせるところにそれらしさを選び描いて見せるアニメーションの力と、そう誘う高畑勲演出の力があるんだろうなあ。なみきたかしさんはハイライトの変化が美味しそうに見えたと話してた。宮崎駿さんや小田部羊一さんの作画力ってのも大きく関わってきそう。ないけどあるってのはその2話ではいじが干し草を集めてベッドを作った際に、のって跳ねる場面があってあんな風に跳ねるはずはないのにそう描いてみせた高畑演出を指摘していた。それでハイジの浮き立つ気分とか伝わるなら間違いかどうかは気にしない。現実に即したリアルじゃなく心情に重なるリアルさを求めたアニメーションが、かえって見た人のリアルを喚起して本物と思わせるんだろー。

 それにしても40年とか昔に今も通じる貧困と高齢化の問題をこれほどまでにくっきりと切実に描いていたとはと思わされた「母をたずねて三千里」と「赤毛のアン」。前者ではマルコの母親が遠くアルゼンチンへと出稼ぎに行ったもののたいした額は遅れていない切実さが描かれ、さらに同じアパートに暮らしている夫婦の夫がせっかく工場に働きに出ても16時間動労とかさせられ休憩が少ないからと3日で辞めてしまってのんだくれている姿が描かれ、労働の大変さって奴がビンビンと響いてきて無職化が決まっている我が身に突き刺さる。「赤毛のアン」の方はカスバート兄妹が60歳近くになってどちらも独身で子がいない中で歳をとった場合を考え面倒をみてくれる子を養子でもらおうとしている話が出てきて、こちらも同様の境遇をどう乗りこえるかを強く考えさせられる。甥っ子に頼る訳にもいかんしなあ。それを40数年前に描いても、後の経済拡大からバブルで脇に追いやられていたものが、今になって改めて突き刺さってくる。テレビで放送すれば阿鼻叫喚を招きそう。そういう意味でのリアルさを今のアニメにも追求して欲しいけど、作って受け入れられる時代でもないのがまた。現実から目を背けては現実に殺されると知れ。


【3月8日】 「政治論だ」と甘利明氏が言って、違法にアップロードされたものを、そうと知りつつダウンロードする行為が違法とされる法案を、自民党の総務会から差し戻しされても修正せず、国会へと提出しようとしたところで総理大臣が出てきて、それはいけないと削除を求めたとのこと。官房長官にはそんなことはないと表向き、否定はされているけれどもそうした展開も含めた流れ事態がまさしく「政治論」であって、ボクたちにとってイヤなことを我らが総理が認めてくれたと喜んで、さすがは総理と喝采を贈ればもう万々歳、漫画の味方のような顔をしてボクたちから喝采を浴びた麻生太郎元総理と似たような図式を得られれば、政治としてそれは良いって判断だとしんだととしら甘いと言いたいところだけれど、結果として削除されたのにどうして文句を言うのと反論を封じられるだけだだろうから難しい。

 結果が良ければプロセスなんでどうでも良いというのなら、独裁でもって評判のいいことばかりを繰り出し支持率だけを高めておいて、そして見えないところで苦労している人たちが大勢居てもその声は浮かび上がってこない状態だって起こり得る。今回の場合は総務会が差し戻した段階ですでに削る判断をすべきだったのに、なぜか突っ張ってみせたことで総理にポイントがついた。まさからそれが狙いだったなんてことはないと思いたいけれど、その権威を高めよう、その人気を上げようとして様々な立場の人たちが、仰ぎ見て忖度を行っている状況だけに、いろいろと勘ぐってみたくなる。いったいどうして甘利氏は蹴飛ばしたのか。それがすぐさまひっくり返るのか。政治以外に何もなさそうなその裏側が気になります。鶴の一声はいつもボクたちに嬉しい方向に転がるとは限らないしね。

 カンヌ映画祭だったっけ、ネット配信のNetflixが作って流した作品については映画祭から閉め出すって判断をしたのは、フランスにおける映画館の興行を行っているところが、仕事に差し支えるからと反対したって話しがあるし、やっぱり映画は映画として撮られて映画館で上映されてそれで見られてこそのものだっていった観念が、ずっとあったりするからって言われれば何となく分からないでもない。とはいえもはや映画館で映画を観る行為だけが映像に親しむルートではなく、大勢に一度に見せる術として発達したスクリーンサイズでの観客を多数入れての上映形態は、あくまで形態であって誰に何かが届きさえすればそれは映像であり映画でもあるといった味方も出来る。もはや壁なんてないと言ってしまえばそれまで。あとは見る側の感覚だ。

 とはいえ、やっぱり映画を映画として作り映画館で上映して収益をとってもらいそれで大勢が潤うようなシステム全体を大きく「映画」と言い、それに携わる者たちを「映画人」と規定するなら、スティーブン・スピルバーグはまさしく映画人の中心にいる人であって、その人が映画は映画館で観るものだと行った時、やっぱり逆らいがたい雰囲気が漂う。第91回アカデミー賞の外国映画賞を受賞した「ROMA/ローマ」はNetflixが配給権を買って自分たちで流したということで、テレビ映画めいて見られているけれども元はしっかり映画として企画され作られたものらしい。それがファーストウィンドウの違いだけでこれは映画ではないと言われ排除されることは果たして映画的に正しいか。クリエイティブな意味での映画人の心が作品に傾いても、ビジネスとしての映画人の気持は違うと反発する、そんな狭間にまだスピルバーグがいるのなら、面白ければそれは映画といった単純さに向かって欲しいけれど。どちらに傾くかなあ。

 ハローキティは仕事を選ばないというけれど、今回新たに「仮面ライダー電王」とのコラボが発表されてちょっぴり可愛らしい雰囲気の仮面ライダーたちがこれから登場してくることになりそう。すでに去年に「仮面ライダー555」がハローキティとのコラボを発表していて、電王に出演していた中村優一さんは羨ましいと思っていたとか。キティさんと呼ぶくらいに讃えていたから今回のコラボはきっと嬉しいだろうなあ。7月7日にサンリオピューロランドでイベントがあるみたいで、中村さんの仮面ライダーゼロノスとかそのイマジンのデネブとか、モモタロスとか電王とかいろいろと出てきて賑やかなイベントになりそう。というか平成ライダーってそういうイベントが成り立つくらいに古典となりつつあるんだなあ。放送終了からもう11年。10歳で見ていたら大学生だし20歳なら30過ぎだもんなあ。「仮面ライダー」なんて古典どころか古代だな。

 ハローキティーはほかにもSTU48ともコラボレーションして船に乗ってコスチュームをまとったハローキティとか登場してくるみたい。ちょっと可愛い。一方でシナモロールも人気YouTuberらしいスカイピースの☆イニ☆(じん)とコラボレーション。トレードマークになってる眼鏡をかけてピースサインをしているシナモロールのぬいぐるみとかが出てくるみたい。ってまるでスカイピースなんて知らないんだけれど225万ものチャンネル登録者を抱えて子供たちの間では大人気というからそれこそテレビで活動している芸人なんてとうてい及ばない知名度をそうした層から得ているってことだろう。一方でテレビには出てこないから大人は知らないというこの断絶が、10年後20年後にテレビをどこへと向かわせるかが目下の興味といったところか。これが3年前でもネットで人気の誰かさんとサンリオキャラが組むなんて考えられなかっただけに、代わる時代をしっかりつかんでキャラクターを浸透させようとする意識はやっぱり長年、人気を探ってヒットを得てきたサンリオならではの凄みって奴かもしれない。

 東京アニメアワードフェスティバル2019が今年も池袋で始まって、そして毎年恒例のようにひっそりとWACCAで行われている功労賞の人たちに関する展示。朝にいけばデータ原口さんとかが一つ一つ並べている様子も見られたかもしれないけれど、朝にバンブルビーカフェをのぞいてそれからサンリオに回ったんで、すぐには見られず夕方になって寄ったらやっぱり誰もいなかった、見物客も含めて。ある意味でアニメの歴史が語られている場所だから行けば勉強になるし、二宮常雄さんだなんて78歳にもなるのに未だ現役で「ロクでなし魔術講師と禁忌経典」だなんて最新のアニメの原画なんかを描いていたりして、腕に衰えはなく完成に摩耗はないんだって諭される。若いアニメーターも年を経てなお美少女を描く将来に向けて精進を。


【3月7日】 Netflixで4月から配信が始まる予定だった田村由美子さん原作の「7SEEDS」が制作の遅れからなのか6月スタートに変更になったと発表。作りながら走ることができないNetflixは一括納品できなければ次となるみたいだけれど、それでも半年延びることはないってあたりにまだ、救いがあったって言えるかも。「ちはやふる3」の方は確か半年延期になっていた感じ。手がけるマッドハウスは決して小さなスタジオではないんだけれど、それでもこの情勢ではクリエイターの確保が難しいのかそれとも別の理由からの延期か。

 声優さんだとしたら宮内先生役の藤田淑子さんに原田先生役の石塚運昇さん、そして綿谷始役の有本欽隆さんと重鎮が相次ぎ亡くなって代わりを探すのも大変そう。メインキャストは真島太一役の宮野真守さんを筆頭に綿谷新の細谷佳正さんとこちらも人気者ばかりになってしまったし。こういうケースは今後まだまだ増えるんだろう。それがアニメーション業界の崩壊に繋がらなければ良いけれど。だからといって本数を絞れば絞ったでこの業界に入ってきてくれた人たちに大勢、職からあぶれてしまう人たちも出てくる訳で、そこもしっかりサポートしつつうまく回っていく方法はないものか。制作会社の集団である日本動画協会とかクリエイターが所属する日本アニメーター・演出協会あたりががっつり組んで、良い方向に持っていって欲しいなあ。

 あれがたとえば真っ白いつなぎに「白血球」と書かれた帽子だったらもう世界は大騒ぎだったかもしれないけれど、どこかの塗装工か電設工の人みたいな格好で、それも使い古されてはいない新品のつなぎでもってぞろぞろと同じ軽ワゴンに乗り込めば、これは絶対に怪しいて誰もが思うだろうし、いったいどうしてそんな格好をしてしまうんだと訝るだろう。ってか格好良くなカルロス・ーン氏。ここは絶対に愛車の日産GT−Rを拘置所前に横付けしてもらって、それにレーシングスーツでもって颯爽と乗り込みアクセル全開……ではスピード違反で捕まってしまうから交通法規は遵守しルールを守って走ってくれると思ってた。あるいはフェアレディZとか。でも日産ではなくスズキの軽ワゴンだったところに日産自動車への複雑な感情が渦巻いているのもしれない。電設工事の仕様のワゴンがスズキしかなかっただけなんだろうけれど。

 保釈となってとりあえずは箱根かどこかでゆっくり保養し、体力を回復しつつ来る裁判を待つんだろうけれど、日本から出られないことだけじゃなく、出入りは監視カメラで見張られるとか移動も通信も制限されるとか、刑務所が外へと広がったような感じでとてもじゃないけど人権国家と言えなさそう。ネットはもはやインフラであってそれを制限されると息をするな飯を食うなな風呂に入るな歯も磨くなと言うに等しい蹂躙であって、それを提案して保釈にこぎ着けた弁護士さんは有能かもしれないけれど、そこまでさせる日本の司法がやっぱりどこかズレている。今までの証拠で裁判に持ちこんで有罪にさせられるから起訴したんじゃないのかなあ。だったら何をどうされようと平気なんじゃ。そういうところにやっぱりこの一件の不思議さが漂う。さてもどんな結末を迎えるか。ゴーン氏は積極的に出歩いてイメージアップに努めると面白いよ。ニコニコ超会議で生配信だ。

 りょうにりょくも登場してこれで6姉妹が本編にも勢ぞろいした「ケムリクサ」。前に梅田地下ダンジョンでわかばが体面したりくが仄めかしていたように、その体にはかつてのヌシとの戦いで死んだらしいりくとりょうとりょくが重なって存在してたようで、たぶん富士山めいた島までたどり着いたもののタガメのようなヌシが中をうごめく壁に阻まれ、立ち往生して作戦を練り直していた一行から、夜にちょっとだけ抜けたわかばの前に最初はりょうが現れ、戦い好きなところを見せてくれた。手にしたパイプはあればやっぱり肉体ととセットになっているんだろうなあ。残されていたものは前に地震で路面電車が傾いた時に落ちていった感じだし。目は見えないけど嗅覚で察して戦うその戦い方が、続く旅程で披露されてはりんたちを懐かしがらせるのか。それとも現場に出てくるのはりくの方か。めっさ気になる。

 りょうの方は眼鏡っ娘で知識欲がおう盛なところがオタク受けしそう。橙色の四角いケムリクサに書いていたのはやっぱりりょうで、ある意味で日記めいたものをわかばに読まれてうげえっとなっていたところもナードっぽかった。あれでBLな日記でも書いていたら悶死するか、読んだわかばを即座に抹殺していただろう。あれでやっぱり戦うだけの力は持っていそうだったし。戦闘に関する作戦の立案は、あるいはりょうの役割だったのかもしれず、壁の中のヌシを倒す方法を提案してわかば経由でりつに伝えた。といってもわあばはりくもりょうもりょくもまだ、その姿を保って現れることができるとは言ってないみたい。それとも言って現れても他には見えない? りんだけはりょくの目をもらっているから見えるかな。そんな関係性がまだ謎なまま、富士山の向こうに広がるあれはきっと東京へと向かい進んでいくんだろう。終着点はどこだろう。中野かな。へんたつが出迎えるのかな。

 それほど長くはない物語だけれど、とてつもなくセンシティブなメッセージを持った物語を、事態から数カ月のうちにしっかりと漫画として描いてみせた萩尾望都が凄いことは分かっていた。だからそんな物語「なのはな」を劇団スタジオライフがどうやって舞台の上に作り上げるのかに、とてもとても興味を惹かれて見に行った劇団スタジオライフ公演「なのはな」。2011年3月11日に東北で起こった大きな地震と、そして福島で起こった原発事故によって住んでいた場所から引き離され、そして一緒に暮らしていた人を失った家族やいろいろな人たちが今も帰還を願いながら果たせないでいる。そんな人たちが抱えているさまざまな思いを、憤りも哀しみも苦しみも含めて取り込んでは今を、そして明日を生きていこうとひとりの少女が決意するまでの物語が、しっかりと舞台の上に描かれていた。

 ナホという少女が学校でチェルノブイリで怒った原発事故について教師から教わり同級生たちと会話する中でじんわりと、置かれた境遇の大変さがにじみ出てくる。校庭で遊べない日がある。外を歩くときはマスクをした方が良いと言われる。8年が経った2019年もまだ、そういう状況だとは言えないけれどもそれでもなお入ってはいけない場所が残っていることに、事態の深刻さは伺えそうした場所から離れて暮らす人たちを縛るさまざまな感情が見えて来る。

 地震のあとの津波でナホはおばあちゃんを失っている。海に近い場所にいたらしくそのまま帰って来なかった。もう帰っては来ないだろうと分かっているけれど、おじいちゃんはそれを認めたくないのか今も快活そうにして立ち入り禁止区域に入れる時には何かおばあちゃんの縁の品を持ってこようと言って周囲を惑わせる。知らない訳でも認めていない訳でもないけれど、断じるにはまだ足りていない気持の整理があるのだろう。それはナホの母親たちも同様。そうした引きずって漂うような心情を目の当たりにしてナホは認めない彼らに憤り、認めたくない自分に苛立つ。

 そこに現れたのが石田音寿という東京でCMソングを作っているミュージシャン。ナホと同じ集落の出身でお兄ちゃんと慕っていた彼が金髪になって戻ってきては祭りで歌うと教えてくれた。そして歌うさまざまな歌。奪われて抑えられた気持ちを爆発させるような歌があり、生きよう、止まらないで進もうといった前向きさのカタマリのような歌があってナホと家族を涙させる。もうひとつ、ナホの幻想の中に現れるお下げ髪の少女がいて、おばあちゃんの陰とともにナホに何かを伝えようとする。

 チェルノブイリで起こったこと。今も起こっていること。それでも種をまいて菜の花を育てて土を綺麗にしようとしていう話しを聞き、幻想の少女が祖母の使っていたのと同じ種まき機を持って回してなのはなの種をまいている姿を感じ取って自分もここから種をまこう、未来へとうなげようとする意思を持つ。止められたままではいたくない。止まったままではいられない。苦しいけれど、厳しいけれど歩みだそうとするまでが1時間と少しの舞台の中に描かれる。

 枠だけの扉があって箱のような椅子が4つほどあってそれだけの舞台が背景へのプロジェクションによってチェルノブイリに変わり、菜の花畑にも代わって舞台の世界を変化させる。その上で男性ばかりのキャストが小学生の少女ナホを演じ、そんなナホが出会う少女を演じているのを見て少女じゃないとはまったく思わない。むしろ登場した瞬間に小学生の女の子たちだと覆ってしまうくらいに佇まいもしぐさも女子になっている。かといって声音はそのまま。作らない声だけれど、服装であり仕草でありセリフに込める心情がそこに男子で割と歳をいってていも小学生の女の子たちを現出させる。いつものスタジオライフだ。

 加えて今回は石田音寿というミュージシャンが加わった。演じるのは漫画「なのはな」で音寿のモデルとなったミュージシャンでCMソングクリエイターでもある明石隼汰。聞けば誰だって知っているCMソングを幾つも幾つも作り作ってきた人だけれど、今回はシンガーとしてステージに立って「アララ」の歌などを披露する。金髪でロッカーといった出で立ちになって底の分厚い靴を履いては歌い踊りも見せるその姿は、スリムじゃないし若くもないのに声の良さと音楽の良さが相まって、現役のロックシンガーに互角の存在感を見せてくれる。

 フォークソングだったはずの「アララ」の歌がビートの利いたロックになって2人のダンサーをバックに繰り広げられるステージが、嘆美で名高い劇団スタジオライフのものとは瞬間、思えなくなるけれども誰が何を演じようともその役に心でなり切ろうとしてなり切ってみせるスタジオライフならではの空気が、ちょっと太めの中年すら越えかけているミュージシャンを人気があって実力もあって、何より真摯で自分たちの故郷のこと、そこで生きる人たちのことを思った正義のシンガーに見せてしまう。もちろん稽古を経て舞台にも何度か立って調整し、フィットさせてきた明石隼汰の実力にも喝采。

 ラスト、出演者が並びたって「なのはな」とだけ言うようなシーンがあって、それぞれが万感の思いを超えて言う「なのはな」を聴ける。役者の心情もきっと乗ったその言葉の響きから、それぞれが今を苦しみながら明日を開こうとする時に、導き手となってくれる黄色い花、見守ってくれる黄色い花を思い浮かべている様を感じ取ろう。この日は終演後にまた驚きが。明石隼汰がワンマンショーを見せてくれては32年の時を経て出せたアルバムから何曲か披露してくれた。そして数々のCMソングのメドレーも。そこに知ってる曲ばかりか今なお口ずさまれる曲も多々あることにこの金髪、何者だといった思いを改めて抱いた次第。CDには何と萩尾望都のジャケットが。描き下ろしか何かの利用かは分からないけれど、萩尾望都のワークスにあって異色かもしれないアイテム。忘れ去られないためにファンは購入必須。そしてCDを聞けばその楽曲の素晴らしさも噛みしめよう。


【3月6日】 ネットに新しい記事が出て、採用が2人とか退職が180人とかいろいろと話題になっているのに、こっちに大丈夫なのと尋ねて来る人がいないのはそれだけ関わりを持ってる人間って知られていない現れかなのかもしれない。フリーの書評家でライターだと思われている? それはそれで1枚の看板だけれど、使って稼げるほどになってないのが悲しいところ。なので希望というなの退職街道を選んだ人に、会社が当てがってくれる丸の内の再就職支援サービスの会社を見学。就職だけなら50代でも出来そうだとは分かったけれど、やれることかやりたいことかやらされることかやってもらいたいことかといったモヤモヤはまだしばらく晴れなさそう。それはライター仕事をやったとしても同じなんだろうけれど。あと5年くらいはどこかで働くかなあ。向こう半年くらいかけていろいろと求人を見せてもらいながら考えよう。コワーキングスペースっぽい場所も使えそうだし。使える伝手は何だって使わないと。

 「シン・エヴァンゲリオン」の完成に向けて動き始めたってこの前出ていた庵野秀明監督がなぜか突然に「シン・ウルトラマン」を撮るんじゃないかと言われているって報。それも2019年のうちのクランクインってことで、そのためには「シン・エヴァンゲリオン」をそれまでに完成させなきゃいけないって話になっているらしい。でもアニメーション映画って実写みたいに撮るだけ撮ってあとはポスプロって訳にはいかず、ギリギリまで絵を描いてスキャンして彩色して効果を入れて撮影して編集してダビングなんかも行ってアフレコも別に行って音を被せて調整してって作業がそれこそ公開ギリギリまで続くもの。間に合わず延期ってことだってありかねないアニメを公開よりはるか前に完成させるなんてちょっと考えられない。

 そう思うとあり得ない話しにも思えるし、「シン・ゴジラ」にはまるでまったく出ていなかったジャニーズ事務所の岡田准一さんを主演に起用するって話もそれはちょっとないんじゃないかって気にさせる。いろいろと展開する上で手間がかかる話を呑むとはあまり思えないから。そもそもすでに「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令」をDAICON FILMで作っていてそこで自らウルトラマンに変身している庵野秀明が、今さらどうして「ウルトラマン」を映画に撮るのかってところが見えない。オフィシャルにやってみたい気も想像できるけど、目の前のアニメを放り出して行くものでもないからなあ。とはいえ火のないところに煙は立たないなら、何か根っこがあるのかもしれない。様子見。

 でかいでかいでか過ぎる。シアタス調布のULTIRAスクリーンで上映されている宮崎駿監督の長編アニメーション映画「風の谷のナウシカ」を最前列のセンターに陣取って見ると、もう目の前に広がるのは腐海であり風の谷であり空中でありそして「風の谷のナウシカ」という映画の世界。包み込まれて入り込んではそこで繰り広げられているナウシカをはじめとした登場人物たちのやりとりを、いっしょになって体験しているような気持になれる。いったい「風の谷のナウシカ」を映画館で見たのは何時以来になるのか覚えてないけれど、もしかしたら1984年に劇場で公開された時に見に行って以来かもしれない。その時は劇場に安田成美のあの歌が流れていたけれど、シアタス調布ではそれはなかったのがひとつ心残りか。

 まずは鳥のような大きな生き物に乗って動く老人が現れ、巨大な黴とも菌類とも見える植物たちに埋もれた街を見せ、世界が滅びに向かっているような様を示す。それから、無尾翼機を操る少女が現れ森というには木々が不思議な形をしている場所に入って巨大な蟲の抜け殻を見つける。ナウシカ。そして王蟲。「風の谷のナウシカ」で両極に位置するキャラクターが示され、とりわけ王蟲のその巨大さとその偉大さを強く感じさせられた後、ユパという名だった老人が蟲たちに襲われ王蟲に追われているのをナウシカが助けて彼女がちょっと普通ではないことを観客たちい分からせる。合流してタイトルにもある風の谷へと戻り、父親と再会したナウシカの団らんがその夜、大きく変化する。

 谷の上に船が現れ崖に当たって墜落炎上。ひとりの少女が死んでそして何かを残しそれを狙って別の船が続々と押し寄せ風の谷を蹂躙する。急テンポだけれどそれらを一気に見せることでもうナウシカが世界の激動から逃れられないことを強く感じさせる。トルメキア。クシャナ。巨神兵。世界を変える力を持とうとした王女の思惑は、けれども都へと戻る旅程で変化し、そしてナウシカの運命を風の谷を、というより世界を救う方向へと導いていく。腐海の価値。蟲たちの意味。それを知らずすべてを人間の手に収めようとして人間を拒絶し世界を浄化しようとする動きが加速する。

 もっとも、腐海の浄化された底でアスベルが感じたように、汚れた世界のすべてを浄化しようとして広がる腐海はそこに人類との共存は見ていない。同じ汚れた存在として飲み込み消し去ろうとしているようにも見える。そんな運命に抗うべく立ち上がったクシャナたちを誰が責められよう。それに対抗したペジテの反撃も卑怯で愚劣だけれど誹れない。人間は抗うべきなのか。それともどこかに共存の道はあるのか。そんな思いをひとつ満たす可能性が押し寄せる王蟲の大群と対峙して世界を救ったナウシカの行動と、それを受け入れた王蟲の行動にあるようにも見える。その場限りの局面に過ぎないのか、共存しながら命脈を保つ道は果たしてあるのか。助かったという感動のその向こう側を改めて強く思わされるだろう。

 そんな強いメッセージ性を極上のエンターテインメントに込めて描いた「風の谷のナウシカ」を、ULTIRAスクリーンの最前列で見ると本当に世界がそこにあるよう。ナウシカの顔も大きくその胸はとてつもなく大きくその谷間は果てしなく深く見える、気がする。1984年の劇場ではまだ最前列で映画を観る癖はなく、中央付近で見守っていたからその巨大さは体感していないし、家でテレビで放送を見ればなおのこと、浴びるような体験には絶対に至らない。映画館で上映されたからこそのこの体験。そしてそんな拡張された世界を薄いと感じさせない濃密な絵、圧巻の動きを眼前で味わえる。映画はやはり映画館でこそ輝くものなのだ。

 日本の住宅200選に選ばれて評判になった住宅を設計した一級建築士がいて、それを看板にいろいろと仕事も求められるようになったけれど、その住宅を見て見たいからと訪ねた希望者が見ると誰も住んでいるようには見えない。家族で移り住むはずだったのにおかしいと思った一級建築士は、やはり見ておくかと行ったら確かに誰も住んでいなく、そもそも住んだ気配すらなく中にブルーノ・タウトの作ったものらしい椅子が残されていた。横山秀夫さんの新刊「ノースライト」(新潮社)のそんなサマリーを聞いてこれは世田谷みたいな一家惨殺の上に行方不明にされたのか? なんて話を思い浮かべたけれど、そうではなくって別の思惑があったことが示され、意外なところに決着する。

 そうしたある意味のミステリ的展開は実は脇役で、本筋は設計士として世に出て求められたもののバブル深いで仕事を失い苦労を重ね者たちがたくさんいて、今も苦労をしていたり別の仕事をしながらやがて設計士に復活して小さな事務所で仕事をしていたりといった、人生の流転の諸相が描かれていて目下そうした事態に直面していたりする自分にずっしりと響く。腕はあるし自信もあっても世間はそれを評価しないという絶望。そこで腐らず諦めないで腕を買ってくれる人が訪れるのを待つのも手だけれど、間にこなした平凡な仕事で牙を抜かれては復帰がかなってもどこか気の抜けたものになってしまうというのも注意。そこでひとつの事態が動いて復帰への背中を押してくれた青瀬稔という主人公は幸運かも。でも事務所は崩壊しかかっていて未来がない中、それでも友人の意思をかなえようとしてコンペに臨む姿は格好いい。挫折するもの、迷うもの、今が我が世と思う者など様々な人生の岐路を生きている人が読み、迷いつつ考える基点を得られる物語、って言えるかも。


【3月5日】 そしてたどり着いた「けものフレンズ」第8話「ぺぱぷらいぶ」以来のライブステージで繰り広げられた「けものフレンズ2」でのPPPのライブは、きっと手付けのダンスだった第1期から進歩して、PPPの中の人たちによる動きをモーションキャプチャによって取り込みペンギンたちのスキンを被せてアニメーションにしただけあって、すでになり切っているメンバーのなり切りぶり+それぞれの個性も染みたものになっていたって言えるのかな。ペタペタとした感じは薄れていたけど手はちゃんと伸ばしてペンギンの羽根を再現しようとはしていたし、目線もちゃんと動いていたからそこは手がけた「ラブライブ!」なんかを手がけている会社にセガのモーションキャプチャ技術がしっかり機能したって言えそう。

 マーゲイに会えば何か進捗するっぽい前振りがどうなったか、1回観ただけではちょっとお呼びがつかなかったけれど、マーゲイに会いPPPに会うことでキュルルとサーバルちゃんとカラカルちゃんの一行に次へと向かう指針が得られたかとうと、キュルルだけがセンザンコウにアルマジロの2人組に拉致されえっちらおっちら運ばれてしまった。待ち受けているあのフレンズはいったい誰? ってところが目下の関心事。エンディングでも××××で不明だったけど見る人が見れば何のフレンズか分かるのかもしれない。まあ来週には分かるだろうからそれまでのお楽しみ。新フレンズではタヌキが出てきて狸寝入りをやってくれた。声も舞台と同じ加藤さん。お腹を叩いて欲しかったかもしれないなあ。ポン! って。

 「どろろ」はどろろの過去が明らかになって娘のころからどろろと呼ばれていたことが判明。どうしてそんな名前を付けたんだろう。両親は野盗の集団のリーダー核で村は襲わず侍だけを襲っていたけどそれが禍したのか反撃も喰らって転戦の連続。それでも体勢を立て直したところをそうやって逃げるだけの日々に倦んだ手下のいたちが裏切って、同意する仲間も引きつけお頭たちをハメて侍に殺される。かろうじて逃げ出した一家だったけれど、たとえ相手が侍であっても家族や仲間はいるもので、襲撃されて殺された過去を持っていた侍に着られて父親は死に、母親と2人で旅するどろろだったけれどやがてやっぱり行き詰まる。母親は死にどろろはひとりに。それから百鬼丸と出会うまで、どういう生活をしていたんだろうなあ。その観に秘密を隠して。

 って別に隠すほどのものでもないというか、その体つきではさすがに誰も食指を伸ばさないだろうけれど、中には趣味が共和国の書記長同士みたいな人もいるから分からない。百鬼丸にとってはどっちでも良いことかもしれないけれど、どろろ自身にはいろいろと恥ずかしい気持もあったんだろうなあ。そうした意識がどんどんと肉体を取り戻していく百鬼丸の前で濃くなっていった果て、どんな態度を見せるようになるのか。同時に成長なんかもあってどろろに次のフェーズが訪れるのか。原作漫画がどこかバサッと終わってしまっている節があるだけに、苦労したどろろにはハッピーエンドを迎えて欲しいもの。そのためには胸と背丈をもうちょっと。あの上着では隠せなくなってもそこはやっぱり。

 レジェンドノベルスから刊行の原雷太さん「世界を救うまで俺は種族を変えても甦る 1 トライ・リ・トライ」がちょっと凄い。異世界転生スライムから始めて俺TUEEEEかと思ったらエッジオブトゥモロウ、世界を救うポイント探して繰り返す戦いの終着を想像させる物語だった。興味を削ぐから詳細は避けるとして、異世界へと転移だかした人物がいて最初はスライムみたいな状態から、ナビという世話人の言葉に従ってさいころを振って出た目の数をステイタスに割り当てる。力に振ってオークとなってダンジョンを探索してモンスターを倒してレベルをどんどんと上げていった先、とある町まで出向いてそこで邪険にされているエルフを見て助けようと近づいたら相手はオークが大嫌いなエルフだったため激しく攻撃してきた。そして……。

 ってところからエッジオブトゥモロウなんだけれどそうやって次は上手くやってドワーフの鍛治師で美人の女性と知り合い良い仲になって彼女が求める種火をとるべく冒険の旅に出てそして巨大な敵が現れそこで……となって次だ次だとなりながらもどうしても世界に平穏は訪れないだったらとまさしく「種族を変えて」挑む新たな冒険が、今はどこに帰結するかが分からない。ただ、オークとドワーフだけでは絶対に避けられない滅びをエルフも混ぜることで救えるのか、それともまた別のやり方があってそこにたどり着くまでの何度も種族を変えるのか。そんなパズルのようなゲームでベストのルートを探るような物語を楽しめそう。1度の成功体験を次に帰るのは難しいけれど、それで行き詰まるなら新たな道に進むしかない、って意識を感じさせてくれる。まさに今の自分の心境。でも失敗しても甦られないのが人生だからなあ。難しい悩ましい。

 これはやっぱり警察に法律の判断を委ねるのは恐ろしいなあと思わざるを得なかった、ブラクラへのリンクを張っただけの少年が補導されてしまったとう件。確かに迷惑だけれどブラクラを開いたPCがハッキングされる訳でもなければデータが破壊される訳ではない。そっとタブを閉じれば消えるといった話しもあるイタズラを、サイバー事件の代表格のように取り扱っては被害がどれほどあるとも言えない一件で少年を補導するという、司法コスト的にどうなんだ的対応に至らしめたのはいったい誰の判断なんだろう。そうすることによって日本に俺らサイバーコップだ最高だって言えると思ったのなら逆効果。判断させた側にやっぱりちょっと至らないところがあったと思えてくる。とはいえ世間ではネットからのコンテンツ入手において新たな犯罪要件を作り出そうとしている。司法コストや世間体からそれで逮捕はない、って言いたかったけれども今回の一件が可能性を可視化させてしまった。ややこしいことになりそうだなあ。


【3月4日】 そして東京藝術大学大学院映像学科アニメーション専攻会い十期生修了制作展のユーロスペースでの上映に登壇した「少女革命ウテナ」や「廻るピングドラム」の幾原邦彦監督によるトークイベント。いずれも大学院生の女性2人の聞き手と女性1人の司会による進行で始まった中身は、4月からフジテレビ系のノイタミナ枠で放送となろ「さらざんまい」のPVが流れて浅草方面がいっぱい写し出されて、そういうアニメなんだろうと想像させつつどういう内容なんだろうと興味を誘う。ってかそもそもどうして浅草? ってのはトークの中でも出た話、でいずれ「ローカルを舞台にしようとして煮詰める中で、浅草になった」とのこと。浅草の地を見てこれだと感じたらしい。「隅田川の流れを見ていてスカイツリーも見えて雷門もある」ような光景に何か惹かれたらしい。

 キャラクターデザインに起用されたミギーさんは桜庭一樹さん「荒野の恋」のイラストなんかを手がけている人で、僕が文庫版の解説をした張間ミカさん「楽園まで」とそれから「星をさがして」でもイラストなんかを手がけてた。その意味ではもうベテランの域に入る人だけれども、学生さんがそういった具合に感じた懐かしさが、大人の感覚ではそうではないと幾原監督が話していたのが印象的だった。10年なんて自分の中ではあっという間。それ故にずっと引きずりがちになるんだけれど、そこでこだわっていては失敗するし、受け入れられないというのがトークイベントでの白眉とも言える発言だった。

 「10年経つと代替わりがあって、自分の話が通じなくなる。共感性を得るには自分が意識しないといけない」。幾原監督のこの言葉は、「少女革命ウテナ」から「廻るピングドラム」まで大きく開いてしまった背景に、自分の立てた企画が世代とのギャップを読んで受け入れられず、通らない経験を何度もしたことがあった敬意から、抱くようになったものあらしい。とはいえ、世代に合わせて譲ってもコアな部分は自分がそうだと思ったら卓袱台だってひっくり返す。「廻るピングドラム」も最初はSFでロボットアニメだったものが日本を舞台に、動物園ものにしようと思ったけれど日毬のペンギン帽子のインパクトをとって、他の動物は出さないことになったらしい。

 そうしたちゃぶ台返しも始終あるから企画が企画として決定し、制作が動き出すまでがとても大変。だから幾原監督は「粘り強くやる。企画は三歩進んで二歩下がる 。積み上げたものの大部分は捨てる。その徒労感に耐えられないといけない」と諭してた。途中まで一緒にやって来たスタッフもそれで怒って辞めてしまうか、次の仕事が入っていて抜けていく。それは仕方が無い琴だけれど、監督だけは諦めない。「トラブルを恐れていたら作れない」。そんな意識が「ユリ熊嵐」や「さらざんまい」のような独特な世界観、独特なビジュアル、独特なストーリーのアニメーションを生むのだろう。

 「若い時は時間が無限にあった。けれども結婚して子供が出来れば家にお金を入れるのが重要になる。それに昔は違っただろうといえば壊れる」。自分の意識に周囲が付いてきてくれると思ってはいけない。「タスクは絶えず変化する。前にやれたことがやれなくなる」。だから新しい人たちをやれることをやるようになる。そして「ジェネレーションが離れると通用しない。俺がズレていると覚する」大切さも話していた幾原邦彦監督。時代を読んで状況に合わせる柔軟さは持ってきたようだ。とはいえ、その時のトレンディなクリエイターなり状況に乗っかる是非について、有名漫画家の求められての起用など「してくれとは言われるが避ける」ということだった。

 それは「 物を作る主体が外になる」から。「有名漫画家がバリューとなって通った企画はは揺さぶられる」。誰にってやっぱり権利を持っている人たちなんだろうなあ。そうした声に左右されて企画が曲がるなら、最初から自分がこれと思ったクリエイターと組んで作る。さいとうちほさんも星野リリィさんも丸丸さんもそしてミギーさんも。そうした組み合わせが尖った空気を生むのだろう。「10年後を見たいと思えるものがいい 」。それには「見ている人とテーマを共有できるか」が大事。「バズってる事だけでやれば消費されてしまう。今を共有できることを中心にして作れば10年後に見てもそうだと思える」。だからどの作品もなるほど、古びてないなんだろう。そんな幾原邦彦監督の言葉をもっぱら引き出していた質問者は東京藝大院アニメーション専攻1年次生の石館波子さん。なんと「ペンギン・ハイウェイ」とか「台風のノルダ」とかで原画やられてたプロだった。1年次作品の「Pupa」は部屋から動けないOLっぽい女性の日々が生活感も含めて描かれた必見の1作。機会があれば是非。

 白鳥アンジュの引退からのデザイナー生きを支援しつつ新しいプリチャンアイドルを見つけ出そうと画策するデザイナーズ7の中にあってマジカル・レーンこと一色カレンだけはどうも反対の立場らしく、アンジュさんの気持を尊重したいけど黙ってもいられずモヤモヤしていた桃山みらいのところに出向いて説得し、すでに本戦行きを決めていたMeltic Starに続いてMiracle Kiratsの方も本戦行き。そこでどんな戦いが繰り広げられて、それを見て白鳥アンジュがどんな決断をするかがこれからの話数、シーズン1のクライマックスってことになるんだろう。次からプリチャンという概念もなくあんるみたいで、どういう段取りでアニメを進めるかが気になる所。ってことはプリチャンアイドル決めても意味なくない? そこも含めて3月4月の「キラッとプリ☆チャン」に注目だ。

 新宿での第1回から見ているAMDアワードも取材で行くのは今年が最後になるのかなあ。24回も続いているんだからその間に偉くなってメディアの責任者になって審査員席に座っていたって不思議はなかったかもしれないけれど、新聞っていうガタイの大きな場所でマルチメディアとかデジタルコンテンツとかいったものを専門に扱う部署とかなく、それを専門にしていても人事的に浮かばれることもないので偉くならずに平記者のまま取材をし続けていたらそのままサヨウナラといった状況になった次第。まさに瞬であり金のなる木であり時代の中心でもあるITだとかデジタルだとかを専門に見ないんじゃあ、どうなるかは想像もつきそうだけれど案の定というか。まあ仕方が無い、それも運命なら受け入れて来年は遠巻きに受賞が何かを眺めよう。

 今回は第22回文化庁メディア芸術祭にのエンターテインメント部門大賞に続いて「チコちゃんに叱られる!」が大賞/総務大臣賞を獲得。単純に面白いテレビ番組ってことだけでなく、着ぐるみのチコちゃんにCGで表情を重ねてあたかもCGキャラクターが俳優やタレントたちと共存しているように見せるNHKアーツの技術が冴えわたって受賞となった模様。顔とか別に重なっている感じがなしに自然に変化するからなあ。そこが凄い。もちろん番組のフォーマットの面白さも評価の対象で、日常の疑問を皆で考え、叱咤を受けて改めて深く知るってことができる。教育にも良く心にも楽しいんじゃあ、そりゃあ人気も出るよなあ。AMD理事長賞はDA PUNPの「U.S.A.」が受賞。目の前でダンス見られた。「カメラを止めるな!」が受賞するかとも思ったけど今回は優秀賞止まり。でも2館から始まった映画がここでも受賞ってことはやっぱり凄い。次の映画がますます楽しみになって来た。


【3月3日】  割り切れなくても決着を付けての離別だったら受け入れて、受け止めてそして飲み込んで次へと歩み出せるものなのかもしれないけれど、遠くから眺めて自分自身の決着にはできなかった離別はしばらく引きずって、次の決着まで気持を漂わせるものなのかもしれないと、佐野徹夜さんの「君は月夜に光り輝く+Fragments」(メディアワークス文庫)を読んで思う。不治の病の発光病で余命ゼロの渡良瀬まみずがノートに綴ったやってみたいことを代行し、やりまくってやりきって離別を迎えた岡田卓也とまみずとの存命名頃の交流を描きつつ、卓也の友人でまみずのことが初恋だったという香山彰のことが浮かび上がってそして「ユーリと声」という短編というか中編で、卓也のようにまみずを見送れなかった香山の漂う日々が綴られる。

 女性にモテる香山は一浪して入った大学でも女性と関係を持ちまくるもののどこか虚ろで退学してしまおうかとも思っていた、そんなある日に大学でピアノを弾いていた年上の女性と出会う。市山有李という名の女性はピアノ教室で教えながら家でアナログレコードのレンタル業もしているという不思議な人。その侑李に惹かれたか気になったか香山は彼女と交流し、家にも入り込んで関係を持ったら何と結婚していた過去があって声という名の娘がいた。醒めた娘で香山に寝たのかとお聞くくらい。とはいえ嫌われている節はなく夜中に徘徊する癖がある声と会い、やがて侑李が無茶苦茶な行動に出た時には家出した声といっしょに日本中を旅して歩く。

 発光病で死んだという侑李の夫で声の父。聞いて香山に浮かぶまみずの思い出。だからあるいはと侑李に告白したら彼女は彼女でいろいろと関係が広がっていて自分は選んでもらえない。それもまた虚ろな話しになりそうだけれど、そういった離別を経ることでもしかしたら香山はまみずへのもやもやとした思いを振り切って、改めて自分という存在を確認して生きていこうと決意する。すでにまみずの死を経て自分は生きようと決意し、医大を出て研修医になった卓也の独白が綴られた短編「海を抱きしめて」で終わる『君は月夜に光り輝く+Fragments」。読めば離別との決着、死への覚悟、曖昧で虚ろな自分から戻る意思なんかを得られるんじゃなかろーか。

 やっぱり明け方に目が冴えて、ネット上で求人とか見たりしても50歳を過ぎたような人間を普通に雇ってくれそうなところはあまりなく、流行りのウエブ系メディアも居並ぶ人たちのキャリアの華々しさに自分などの守備範囲ではとても及ばないなあと沈み込む。20年くらい前に刊行の発表会を取材に行った日本版「ワイヤード」を立ち上げたコバヘンこと小林弘人さんとか、今は「ビジネスインサイダージャパン」って経済系のニュースメディアを立ち上げ運営している感じで、産業で経済なはずなのに韓国で中国に傾いてしまった新聞よりもよほど経済ジャーナリズムしている感じでちょっと惹かれる。

 もっとも、ITにしろライフスタイルにしろエコノミーにしろ大手メディアで活躍した人たちとか、外国に留学経験がある人とかが集まり作っている場所に、自分程度が入り込んで何か仕事をするような余地なんてまるでなさそう。それなりに取材はしていても、本業では経済でも文化でもない場所から余技のようにVRでありアニメでありマンガでありeスポーツであり玩具について書いていた程度で、深い取材なんてしていない。これは個人的だから誰よりも得意ではあるけれど、ライトノベルではちょっと反意が狭すぎる。まさに及び出ないといったところで、やっぱりこれは地味にライター仕事をおらいながら、せめて家賃分くらいは埋めつつ掴み金と貯金を食いつぶして還暦まで生きるしか今は選択肢がなさそう。やれやれだ。

 そういえばそんな産業で経済の新聞が、台湾の眼鏡っ娘総統こと蔡英文にインタビューをしていて、台湾側の主張を紹介していてそれはそれでひとつのジャーナリズムではあるけれど、それを伝えることに対するリアクションをどこまで考えているのがひとつ気になるところで、より独立を訴え中華人民共和国の脅威を訴え日本も含めて対抗していこうと訴えた蔡英文総統の主張、それは極めて台湾の立場に立ったものであるけれど、ここで対抗相手にされている中華自民共和国にとっては過激な意見でそのまま看過できるものではないだろう。

 だから、いずれ中国本土でいろいろとリアクションが出てくるだろうし、掲載した新聞に対しても排除とかやっぱりいろいろと対応がありそう。もちろん、排除される可能性があっても、誰かの主張があるなら載せるのはジャーナリズムとしては正しい。正しいけれど政治であり外交としてそうした主張が是か否かは別の話。今の安倍政権にとって是なら歓待されるけれど、そうでない場合には中国のみならず日本からもリアクションが向かう可能性があると、元外交官の天木直人さんも指摘している。本意を示す鉄砲玉として動いたのか、政治や外交とか無関係に媒体としての“価値”を優先したのか。今の実情を考えるなら、ここで目立ちたいと後先考えないで「台湾の蔡英文総統に因タブーしてみた!」と突っ込んでいった可能性もあるからなあ。さてもどうなる。中国外交部の会見にドキドキ。華春瑩報道官も眼鏡をかければ良いのに。

 3月末で希望という名の退職街道に乗って新聞記者業を放り出されて、4月から無職になる関係で、再就職の活動なんかで必要になるか分からないこともあって、とりあえつあつらえておくかと越谷レイクタウンのアウトレットまで出向いてスーツを物色。パーフェクトなんとかみたいなスーツ専門店もあって安かったけれども素材がウールとポリエステルの半々だったりして、それも現代的ではあるんだけれどやっぱり昔ながらの素材が良いとダーバンに入っていろいろ見て回ってAB−6サイズのチャコールグレーのプレーンなスーツを購入する。3万5000円は切ってたかな。

 驚いたのは88センチのウエストのパンツがほぼほぼ直し無しで収まったことで、尻とか腿とかデカくはなっていても、そこまでウエストが肥大しているとは思ってなかっただけにちょっとショック。昔はA−5のウエスト76センチが入ったのに。痩せよう。今の食の進まなさ具合だと1カ月で10キログラムは落ちそうだけれど。裾直しもアウトレット内で行えて1時間半くらいですんで1000円だから安いし早い。これならもう1着くらいあつらえておいても良いかもしれないんで、柄は選べないけれども素材は良さそうな銀座山形屋のアウトレットを今度のぞこうか。ってそもそもスーツが必要な局面が来るのか。この歳で再就職の声なんてかかりそうもないからなあ。派遣でも契約でもそんなにお金はいらないから楽しいジャンルの仕事が来れば乗るけど、そんな声がけもまるでないし。割増退職金と貯金で12年食いつないで目指せ年金生活か。それもまた人生。

 前に馬車道でも見た東京藝術大学大学院アニメーション専攻の修了制作展が東京のユーロスペースに回ってきたので幾原邦彦監督のトークイベント付きで見る。トークの詳細は後日としてとりあえず企画がなかなか通らなかった時期があってやっぱり独りよがりではだめで、共感性を獲得していかなくてはダメだと考える様になったって離してた。それで作られたのが「廻るピングドラム」であり「ユリ熊嵐」というところが凄いけど。修了作品ではしばたたかひろさん「何度でも忘れよう」の問題性とキヤマミズキさん「くじらの湯」の映像性が際立っていたかなあ。「何度でも忘れよう」の童話風なビジュアルで繰り広げられる残酷描写にある種の暴力性を見た。「くじらの湯」は後で原画の残らない老いペインティングの一過性に芸術の花火を見た。他にも多々ある希有な作品。「何度でも忘れよう」のボツ原画が売っていたけどやっぱり買っておいた方が良いかなあ。


【3月2日】 「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第7章 新星篇」についてはやっぱり悲壮感が足りないとか感動後の蛇足とかいろいろと言われているけれども、あそこまで悲惨で感涙にむせた「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が既にあるならリメイクで同じものをカバーしたって得られる感動に変わりはなく、驚きだて得られない。あるいはテレビシリーズの方をカバーしたらそれはそれで違うだろうって話しになる中で、福井晴敏さんは浮かぶメッセージというものを考え間を取ったようなというか、そこからさらに突き抜けてくるエンディングを提示してくれたって思っている。映画の感動が得たかったら映画を観れば良いし、テレビ版の驚きを得たかったらそっちを観よう。これはこれでもうひとつの解釈。大事なのはそれが好きか、嫌いかだ。

 僕は好きな方。徳川機関長は残念だったし土方艦長は巻き添え感も強くてあっさり風味だったけれどもその逝き際が逆に自然でそうやって人はいなくなるんだなあと感じた。それは斉藤始も同様で、クラウス・キーマンとともに突っ込んでいく中で散々っぱら撃ちまくっていたのが突然途絶えてキーマンが見ると息絶えていた。戦場での死とはかくも劇的とはほど遠い当然の流れの中で訪れる。それを思えば加藤三郎の流れ弾からの退場も桂木透子の所在を見定められての排除もまだ、意味性を帯びて劇的だったかもしれない。いずれにしてもそのシーンにおいて不可欠の退場。だから半ば『超時空要塞マクロス』の柿崎みたいに爆圧の中で圧壊した山本玲の退場があっさり過ぎると思っていたら……。そういうバランスが取られていたのかと後になって考えた。もちろんアンダーアーマー力(あんだーあーまー・ちから)というものの存在にも思い至ったけれど。テレサすら認める力とは。今度着よう。

 そうやって多々、退場していった中でどうしてメインの2人だけは、って話しになるともちろんプロデュース側からの要望もあったんだろうけれど、そこを退場させてしまってまったく同じ流れを描いては新しく作る意味がないっていうのは先に挙げた理由のひとつ。そのためにどういった理屈を整えるのかといったところで、2人がというかもっぱら古代進という人間がどういう理屈で動き、何を成してきたかを紹介することによって約束を守る大切さ、何かを決断する大変さといったものを感じさせ、それらを一身に負った存在に自分は、世界はどう対峙すべきかを考えさせるきっかけを与えてくれた。ならば生かすとなった時、その生かし方を完全なる彼岸からの帰還ではなく曖昧な中からの再生として、他の面々との違いを持たせた。そりゃあ誰も彼も甦って欲しかったけれど、それをやってしまってはおっすおら悟空になてしまう。リアルな世界観の中、要求に応えそれに意味を持たせメッセージももらえる解を描いたスタッフに喝采。次はやっぱり生き残ったデスラーとの決戦になるのかな、ってやっぱり考えちゃうよねこの続き。藪が艦長になってたりして。

 「この世界の片隅に」が他の映画祭で受賞しまくっている中で、新海誠監督の「君の名は。」に最優秀アニメーション映画賞を授与しただけあって日本アカデミー賞は興行も含めての王道を行く感じ。今回はいろいろ言われながらも30億円近くを稼ぎ、アメリカの本家アカデミー賞にもノミネートされた細田守監督の「未来のミライ」を選定。やっぱりだとか東宝だからとか言われそうだけれど、インディペンデントな所から始めて本命中の本命と見なされる立場に10年くらいで来てしまったことが不思議であって、今も変わらない作品作りを大きな映画会社で行っているだけと考えるなら、その作品性から授賞に至ったことをむしろ讃えるべきだろー。まあでも5本中4本ってのは確率高すぎで、その時の他の可能性にも審査員は目を配って欲しい気が。そこはだから毎日映画コンクールとかがカバーしてくれているから良いのかな。今年は長編アニメーション映画が目白押しだけに激戦が予想されよそう。新海誠監督に原恵一監督に湯浅政明監督だもの。凄まじく素晴らしい“戦い”が繰り広げられることを期待。

 やれるだろうことは想像が付くけれど、実際にやるとなるととてつもなく大変なことを、必要だからとやってしまって、それで大成功してしまうんだからアメリカという国、ハリウッドという世界はやっぱりエンターテインメントを未来へと繋げている。アカデミー賞の長編アニメーション映画賞を受賞したばかりの「スパイダーマン:スパイダーバース」が日本でもいよいよ3月8日から公開されて、それより早くIMAXでの3D上映がスタートしたんでTOHOシネマズ日比谷へ。最前に陣取って見たそれは予告編なんかから伺える展開とか関係性とはまるで違っていろいろなスパイダーマンが現れてはひとつの目的に向かって突き進むという、ある種戦隊ヒーロー的な楽しみ方が出来た。

 基本線となるのはマイルズという警察官の父親がいて何か格好良さげなことをしているおじさんがいて、自分としてはおじさんみたいなアウトローへのシンパシーがありつつもエリート校へと転校をして腐ってた。そこでおじさんと一緒にグラフィティを描きに行った場所で放射線を帯びた蜘蛛に噛まれてスパイダーマンへ。つまりは定番の筋書きなんだけれどもその世界にはすでにピーター・パーカーことスパイダーマンがいて活躍してた。けれどもキングピンという時空をつなげて最愛の妻と子供を甦らせようと画策する男の謀略を止めようとして死亡。そんなマイルズの前に死んだはずのピーター・パーカーが現れた。老けた顔で。腹を出して。

 キングピンが作り出した装置によって時空に歪みが生じて別の世界のスパイダーマンが呼び寄せられてしまったみたい。それも何人も。元いた世界に返すには死んだピーター・パーカーから渡されたデバイスを使って装置を止めなくてはならない。そのために動き出すスパイダーマン軍団だけれど参加して間もないマイルズは力が足りず、除外されようとして落ち込む。そして考え頑張って復帰していく成長の物語が、2時間ほどの映画の中でしっかりと描かれる。出会いもあればいくつかの離別もあってそして自分を奮い立たせるというストーリーに、惹かれない子ども達はいないだろうし大人たちだって改めて、自分がすべきことってものを思い出す。そんな物語だ。

 それだけなら実写で作っても変わらないけどこの「スパイダーマン:スパイダーバース」がアニメーションとして作られたのには意味がある。マイルズをはじめピーター・B・パーカーやグウェン・ステイシーといったスパイダーマンにスパイダーウーマンたちの描写がそれぞれの“世界観”にマッチしたテイストの絵柄になっている。マイルズはそれこそコミックの「スパイダーマン」から出てきた感じでピーター・B・パーカーもそれに近いけどグウェンはの方ちょっとピクサー的ディズニー的3DCGに近い造形。ほかにアニメとしか言い様がないテイスト、古いモノクロ時代のリキテンシュタイン的コミックから出てきた様なテイスト、完全にカートゥーンの中の動物が擬人化したようなテイストでもって描かれている.

 それらが同じマイルズの世界に混在して動き喋り戦うといった映像を、作っている人たちはいったいどうやってモデリングして配置して撮影したんだろう。骨組みだけ並べて動かせばあとはそれぞれのキャラクターに必要なスキンがレンダリングされ被せられるなんてことはないだろうから、場面において登場しているキャラクターごとにモデリングされたものを置いて動かしていったってことなんだろう。実写ではこれは不可能な絵面。漫画だったら手塚治虫調とさいとうたかお調と大友克洋調を混在させて描けないこともないだろうけど、画力がいるし見てやっぱり違和感を覚えそう。「スパイダーマン:スパイダーバース」はそうした混在がけれども画面の中で違和感なく見えるところに凄みを感じる。試行錯誤があったんだろうなあ。物語は一応の完結は見せたけれども行き来するような展開も可能だろうから続編でマイルズがグウェンの世界に行くとか見て見たいかも。どうだろう。

 どことは言わない新聞社でいろいろと動きが。ひとつは解禁された春の新卒採用合戦で2020年3月入社の学生を確保するのを止めるという話しで、もうひとつが北関東から甲信越へと届ける新聞を自前では刷らなくして別の新聞社に刷ってもらうという話し。後の方に関しては、ピーク時からグッと減ってしまった部数に対して設備が過剰になってしまった上に、ピーク時に建ててから随分とたって設備の更新が必要になっていて、建て替えても設備が余剰なら閉めて委託すれば良いってことになったって読める。メーカーだったらあり得る話し。ってか今時のメーカーは生産をアウトソーシングして受注に合わせてやりくりするようになっている。

 それで経費的な帳尻は合うけど、売っているものが極力鮮度の高い内に送らなければ無意味になってしまう新聞とう商品で、他の新聞社が自分たちの新聞を刷る前に刷ってもらうことによって遅い時間帯の情報が入らなくなってしまわないかって想像は浮かぶ。確実に商品性が落ちる訳だから。なおかつ巷間、情報が出回っているように関東や近畿から離れた場所の拠点を減らすことによって得られる情報は減って、それで商品力も下がってやっぱり読者に繋がるんじゃないかって想像も。結果、部数が減ってもう読売ですら刷るに値しないとなったら、刷れず届けられず売るに売れない状況が来てしまう。そんな可能性も伺える。

 もはや紙の新聞を刷って届けるなんて面倒は止めて、電子版を売るのだってことも視野には入っているんだろうし、それはネット時代において半ば当然の流れではあるんだけれど、地方からの情報がぐっと減りそうな状況の中、独特なオピニオンだけが突出して一般的なニュースが足りない媒体を、果たして電子版といはいえ購読してくれるのだろうか。だったらもはやオピニオンだけの雑誌になれば良いんじゃないか、って話しにもなりそう。そこも過当競争な上に同じ筆者がひしめき合っているからなあ。定期採用を見送り現場で情報をかき集めて全体の厚みを増す要員を削り、契約によってキャッチーな記事を作成できる要員と、それを束ねられるキュレーターを雇ってそれで紙面というか画面を作ろうとしているようにも見えるし、いよいよ激動が始まるのかも。どうなることか。知らんけど。


【3月1日】 キャストが発表になって、そして始まるNHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」アニメーション編のモデル探し。女性ながらアニメーターとして日本の商業アニメーション草創期から活躍した奥山玲子さんがモデルらしいと確定はしたものの、北海道編ではアニメーション関係者が出ないため、誰が誰をモデルにした役なのかが分からなかった。今回はそこが具体化。例えば「抜群の画力で入社したなつの後輩アニメーター。好きなことについて話すと止まらない情熱的な性格」というのは、誰がどう考えても宮崎駿監督だろう。演じるのは染谷将太さんで役名は神地航也。アナグラム? なってないか。

 貫地谷しほりあん演じる「まこ」はそういうニックネームが付けられていることから「わこ」さんこと中村和子さんだと想像できる。こちらも美人アニメーターで後に虫プロの偉い人と結婚をして、そして乗ってた車を大塚康生さんが借りだしてはクラッシュして壊してしまった関係で、「W3」のオープニングをやってもらったって伝説があったりする。映像化されるかなあ。そして井浦新さん演じる「東洋動画アニメーターのリーダー、日本初の長編アニメーションの作画監督として活躍」した仲努は、やっぱり森康二さんだろう。キャラクターを描かせても抜群。東映アニメーションの礎を築いた。

 「東洋動画所属の監督見習い。絵は描けないが、アニメの知識は人一倍多」いという中川大志あん演じる坂場一久はもちろん高畑勲監督だろう。あそこまで狷介なキャラクターになるかは不明だけど。麒麟の川島明さんが演じる下山克己は「元警察官という異色の経歴を持つアニメーター」だから、アニメーターになる前は麻薬取締事務所にいた大塚康生さんかな。他にも東映を仕切った大川博を角野泰造さんが演じたり、森康二と並んで東映アニメーション初期を支えた大工原章を木下ほうかさんが演じるみたい。他に何人かいる女性キャストの元ネタは、番組を見ながら探っていくことにするか。

 ブームなんだなあ、「チコちゃんに叱られる!」。メディアアートやデジタルエンターテインメント、アニメーション、マンガといったメディア芸術を表彰する第22回文化庁メディア芸術祭の受賞作が3月1日に発表されたんだけれど、去年は「人喰いの大鷲トリコ」が受賞したエンターテインメント部門を、今年はNHKのテレビ番組「チコちゃんに叱られる!」が受賞。ただのテレビ番組じゃん、って言われそうだけれども番組を見ている人なら分かるように、着グルに重ね合わせたCGでもってチコちゃんの表情をガンガン変えるあの演出が、技術をむだ遣いして面白いものを作ろうとするエンターテインメントの心意気に合致していたってことらしい。

 マンガ部門大賞はは韓国のBoichiさんがヤングマガジンに連載した「ORIGIN」が受賞。気にはとめていなかったけれど、紹介された画像は木城ゆきとさんの「銃夢」をさらに細かくしたような感じで緻密で、日本の漫画ファンをうならせていただけに今回の受賞も納得のいくものかもしれない。興味深かったのは、Boichiさんが、モーニングを創刊した伝説的なマンガ編集者の栗原良幸さんから伝わるわる、壮大なストーリーに込められた気持ちの大切さを担当編集者経由で受け継ぎ、実践したことが受賞につながったと紹介したこと。そうやって受け継がれていく思いは国境を越えて世界の漫画を買えていく、のかもしれない。

 エンターテインメント部門の優秀賞にはパフォーマンス「Perfume×Technology presents ”Reframe”」、アプリケーション『TikTok』が受賞していて、このうち「Perfume×Technology」に 真鍋大度さんや石橋素さん、MIKIKさんのチームはアート部門でもダンスインスタレーション「discrete figures」で優秀賞を獲得してた。同じ回に同じチームが2つの部門に入ったのはこれが初。エンターテインメントかアートかを考えずどちらもで楽しませるものを作っていたかったらしいチームにとっては、両部門での評価がひとつの答えってことになるのかな。

 アニメーション部門はフランスとスペインで活動するアーティストのボリス・ラベ監督による短編アニメーション「La chute」が大賞。ループしていく映像がなかなかにアニメーション的。優秀賞は優れた作品が名連綴手、フランスから応募のセバスチャン・ローデンバック監督による「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」があり樋口真嗣総監督によるテレビアニメ「ひそねとまそたん」があり石田祐康監督の劇場アニメーション映画「ペンギン・ハイウェイ」、高坂希太郎監督の「若おかみは小学生!」があってと2018年の話題作が並んだ。「宇宙よりも遠い場所」とか「リズと青い鳥」は審査委員会推薦作品に。見里朝希さん「マイリトルゴート」もそっちに入ってて賞総なめな実力を発揮してた。展示会は日本科学未来館に映るけど、場所ならではの演出はあるのかな。上映とかはユナイテッドシネマお台場を使うのかな。今年はお客で観に行こう。お客でしかあり得なさそうだし。

 観終わって思ったことは「アンダーアーマー力(あんだーあーまー・ちから)」は最強だってことか。身にまとえば爆発だって何のその。そういう意図があったかどうかは知らないし、キャラクターとしてそういう役回りを最初から帯びていたのかもしれないけれど、加藤三郎らの散華を目の当たりにしてしまうとやっぱり気になってしまうのだった。でも他の散り際の引っ張った感じからすればあっさりだったから、そこは何か意図してのその場での退場だったのかもしれない。あるいは光に飲み込まれただけで加藤三郎は無事かもって思っていたけどそれはなかったか。徳川機関長は「さらば」といっしょだったなあ。何もかも皆懐かしい。そんな「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第7章 新星篇」。桂木透子さん頑張った。でもあっさり。そこは悲しかったなあ。

 もしもあそこでミルが無事だったら宇宙はどうなっていただろう。ズォーダーはガトランティスを皆殺しにして自分も宇宙もろとも散ろうなんて思わなかったかもしれない。共に共存できる宇宙生命体であり得ただろうか。とはいえ生殖ではなくクローンで続いていくだけの種族と相容れるのか。そこはでも生命ならば大丈夫な気もするだけに、早まったデスラーの部下たちにはせいぜい懲罰が下ると良いかもしれない。ガミラスだって最後の戦いで相当にダメージ負った訳だし。それでも共に生きのびメルダ・ディッツの久々の登場もあったしハッピーな雰囲気で終わったもののガミラスの移住は必須で、その行く先をどうするかをテレサは教えてくれてない。アクエリアス文明の残党も漂う宇宙のどこかでまた、争い事が起こったらヤマトは、古代進はどうするのか。デスラーが生きのびてしまったあたりに何か予見もありそう。「宇宙戦艦ヤマト2203」とか。「3」が大きくなっているという。これで終わらせるほど甘くはないよなあ、業界も。


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