縮刷版2019年2月中旬号


【2月20日】 カルロ・ゼンさんの「幼女戦記11」(エンターブレイン)が出ていたので買ってそのまま一気読み。嗚呼。とてもとても重大なことが起こっていよいよ帝国は終局に向けて動き始めた。もちろん方策としては最善だったのかもしれないけれど、それが最善であるということ自体がもはや終局しか道は残されていないことを現していて、あとはだからどこまでの範囲で終局を止めるかってことになるんだろう。まず示されては排除された方策だったら単に死に際に手足をばたばたさせては鳥追わせる人の顔に拳が当たる程度で、そのまま棺桶へと放り込まれて焼かれて終了だった。そして選ばれた道は牢獄で会後されながらも最期を看取られ煙草の1本、ワインの1杯くらいは嗜ませてくれての終末になるかもしれない。そうはならないかもしれないけれど。

 読んで思ったのは軍人として最高に優秀であっても与えられた戦争での勝利という責務から外れての思考がなかなか養われていないということか。勝つために勝つのは当然として負けないために勝つことすら思考の埒外にあるような頭に、負けるためにそこで勝つなどといった思考が伴っているはずもない。だからすべて勝とうとして無茶をやっては完全なる敗北を余儀なくされる。それならばと立ち上がったものの適勢力もなかなかに老獪。期せずして彼我の目的が重なって内に手を汚さずに済んだことは幸運だたtのか、それとも。とはいえ状況はより悪化してもはや世界に身か譚おいなくなった帝国が、これからどんな終末への道を歩むのかが目下の関心事となりそう。WEB版に描かれているような展開になるのか、それとも我らがターニャ・デグレチャフ大佐にはまた違った道が用意されているのか。読んでいくしかないなあ。

 しかし、こうなってくるとターニャ・デグレチャフ大佐の出番も前線での軍団指揮に限られてしまって異世界から持ちこんだ最終戦争への知見がそのまま軍事や政治や外交に繁栄されなくなってきているのも残念なところ。小さいながらもその戦略眼が老人たちを感嘆させては窮地の突破をもたらすものの、一方でのとてつもない軍事力を買われ前線から話してもらえない悲劇というか喜劇的な姿を楽しめていたものが、今はもう参謀本部の大将たちの駒となって動くのみ。幸にして配下には優秀な魔導師がいて砲兵機甲歩兵もいて軍団としては万全だけれど、それで戦術は打てても戦略は繰り出せない。残った参謀の優秀者に縋って最前線でどう振る舞う? それともここで一気呵成の逆転に打って出る? そんな興味も湧いてきた。いずれにしても続きが気になる。次はいつかなあ。

 あれはユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座だったか、当時はまだテレビ中継があった全日本プロレスでジャンボ鶴田が保有していたタイトルにアブドーラ・ザ・ブッチャーが挑戦した試合があって、長い死闘の果てにブッチャーが王座を獲得したんだけれどその時、ブッチャーが泣いているように見えた。ブッチャーといえば悪役プロレスラーの代名詞で新日本プロレスに参戦していたタイガー・ジェット・シンと双璧を張るくらいに危険な印象があって、試合をすれば途中からフォークを取り出して滅多差しにして、そしてテーピングでグルグルに固めた指で地獄付きを行い、エルボードロップを落として追い詰めるものの最期は反則をとられるか、リングアウト負けを喫するというブックの上で最大限の活躍を見せてくれていた。

 それはロールとしての悪役であって決して弱いこと、悪いことを意味してはなかったんだけれどそうしたスタイルの上にプロレスが興業として運営されている以上、決して崩すことはないまま悪くて強いけど届かないような印象を植え付けられてしまっていた。それがUNヘビー級王座の試合では違っていた。どこまでも必至に戦ってはジャンボ鶴田を倒してのタイトル奪取。しばらく前にPWFヘビー級王座というこれも全日本プロレスにとっては看板のタイトルも獲得はしていたけれど、エースと呼ばれたジャンボ鶴田の全盛時代を相手に引けを取らないプロレスを見せての勝利に、ブッチャーというレスラーの持つポテンシャルの高さを感じたような記憶がある。1980年のことなんではっきりとは覚えてないんだけれど、それでもタイトルをとってベルトを掲げるブッチャーの目に涙が浮かんでたような記憶だけは妙に覚えている。

 本当かどうかは確認していないものの、「プロレススーパースター列伝」で読んだような悪役レスラーにして実力派というイメージからもそれほど外れていない印象は抱いたんじゃなかろーか。もしかしたらそうした描写で実は虚構も多かった「プロレススーパースター列伝」を信じてしまったのかもしれない。UNヘビー級王座はほどなくしてジャンボ鶴田に奪い返され、その試合では妙にあっさりと負けてあの感涙はなんだったんかと思った記憶もやっぱりある。それだけブッチャーという存在は強力だったんだろうなあ。2019年2月19日、ブッチャー引退。すでに78歳でリングに立てる体つきでもなかったけれど、1人の偉大なレスラーがジャイアント馬場というこれも偉大なレスラーの追悼イベントで“現役”を退いたことに、平成が終わろうとしている今、昭和という時代の空気を思い出して味わい、平成ともども過去になっていく様を体感しよう。

 昔だったらコバルト文庫から出ていただろう集英社のノベル大賞で2018年に佳作となった水守糸子さんの「ナイトメアはもう見ない 夢視捜査官と顔のない男」はコバルトのオトナ部門を踏襲したような集英社オレンジ文庫から刊行。ヒロインの笹川硝子が京都弁を喋る刑事という、およそコバルト向きではない内容から察するにもう、少女小説の登竜門としては認識されていないような気もする。さて内容はといえば、夢を視る能力というのがあって、硝子にはその能力があって今は警察で殺害された遺体から記憶を読み取り死に際を視ることで捜査に役立てている。ある意味で夢枕獏さんのサイコダイバー的ではあるけれど、非合法ではなくてしっかり警察にも認知されていて、組織内にはそういう能力を持った捜査官が幾人か所属している。

 そんなひとりが川上未和で、物から残留思念めいたものを読む力があったけれど、なぜか硝子と飲みに行く約束をしていた夜に失踪していしまう。そして浮かぶ夢を視る特殊捜査官が使う薬品を未和が横流しをしていたという疑惑。程なくして未和は首を吊った自殺体として見つかり硝子を驚かせ嘆かせる。ところが、葬儀の場で本当は勝手に視てはいけない未和の記憶を硝子は視てしまった。そこにはとんでもない人物が関わっていた、といったとから浮かぶある謀略。相手は強大で権力者でもあって、硝子だけでどうにかできるものではなかった。そこに現れた過去、硝子と因縁を持っていた人物。かつて硝子が夢を視る力を把握して良い方に導いた施設とも関わりを持ったその人物とともに硝子は未和の敵討ちに挑む。

 浮かぶのは、ひとつの特別な成果がもたらした恩恵にすがろうとする人々の醜悪さ。大事の前には小事と思う気持は決して否定できないけれど、それで果たして犠牲が増えて良いものか。角を矯めて牛を殺すことにも繋がりかねない暴挙を、それでも目的化してしまった存在に対して硝子たちは打てる手を打っていく。何より親友だった未和の無念を晴らし、自身にも関わる問題を解決しようとする硝子たち。強大な相手によくも潰されなかったものだけれど、権力の側も決して一枚岩ではないし、二項対立でもないってことなんだろう。隠して状況は解決され、排除ではなく継続の方向で改善して今後、硝子の活躍もまだまだありそう。今度はどんな事件を視るのだろう。京都弁の強気な女性が刑事でヒロイン。そんな設定だけでも十分なのにSF的でミステリーでもある作品のシリーズ化を今は希望。


【2月19日】 解釈するならセルリアンの研究という危険なことをしているから、逆に住居を高い塀で囲って暴れ出したセルリアンが外に出ないようにしているんだと言えないこともないけれど、周辺の誰も寄せ付けない高い壁の中に暮らしている存在を、他のフレンズたちが文字通りのフレンドだと思ってくれるのか。そこがまずひとつ分からなかったし、そんな住居が文明的な装置によって飾られていたことに、コンサートで証明とかマイクなんかの機材を用意してしまえる博士と助手が傍らにいたとしても、ジャパリバスの1台を修理するのに皆で強力したこともあった「けものフレンズ」の技術水準からは、ちょっとかけ離れすぎている気がする。

 遺物があって始めて治せる。だからまんまるが手に入ってバスは直り、きっとマイクや照明やPAもどこかのアトラクションステージに備え付けてあったのだろう。そう考えると今のかばんの暮らしている住居のすさまじいばかりの文明住宅ぶりにはただただ驚く。そして、そんな住居でかばんが博士と助手を助手とその助手として使っていることも。人間としての知性はなくても書物からいろいろと学び応用する力をもってジャパリパークの長として治めてきた博士とその助手が、やすやすとかばんに地位を譲るとは思えないし、かばんだってお世話になった博士や助手を召し使いのように使うことを、快く思うとは考えにくい。だったらニセモノ? それはなさそう。だからこそ意味が分からない。

 というか、料理に関心はあっても火は扱えない博士と助手が火を怖がらないという習性が繁栄されたヒグマを使って料理をさせていたという動物ファーストな設定が、まるで吹っ飛ばされているじゃないか。監督のお陰ではなく元から動物ファーストな設定を活かしてもらっただけだと言った原案者が見て激怒しないのか。しないからこそ放送されているのだとしたら、これもやっぱり意味が分からない。動物園なり水族館だからこそのアシカとイルカの芸なんて描写もあったしなあ。「荒海のアシカやイルカが芸をしますか?とイビチャ・オシムだったら言いそうだ。オシム監督が「けものフレンズ2」を見てくれているかは分からないけれど。

 他にも、丸いパーツだけ抜き取られてウエアラブルにされたボスが、いっしょに旅した1匹だけではなくってほかにもいっぱいいるよ感じ。引き出しに放り込まれたそんなボスたちの描写に意味があるなら、それは歩き回って倒れたボスを修理しているのか、逆に駆り立てて絶滅へと追い込んでいるのか。つまりはかばんが黒幕? 手とか足とか黒いし。それも不明だけれど、自分が情報を仕入れる端末として使っているボスを普通は引き出しにしまわないだろう。誰がアップルウォッチを引き出しにしまう? そう考えるとやっぱりいろいろと首をかしげる。どうやら海に巨大なセルリアンがいるそうで、それは何かを模倣するという設定が乗った上に海に残された巨大な何かを模している感じ。それとの戦いが最後にあったとしても、キュルルが家を探すという目的はどこかに言ってしまう。どこに帰結する? それに感動できるのか? とりあえず見続けてそして思おう。味噌かそれとも似た何かかと。

 女の子たちが異世界に行って素敵なおじさまにエスコートされて大冒険、ってそりゃジブリかよって言われそうだけれど、「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」から4年ぶりとなる原恵一監督の新作アニメーション映画「バースデー・ワンダーラーンド」の原作となった柏葉幸子さん「地下室からのふしぎな旅」が刊行されたのは1981年で、猫のバロンに案内される「耳をすませば」のシーンだとか少年が異世界に赴く宮部みゆきさん「ブレイブストーリー」だとか、少女がハタヤの稲荷から異世界に旅立つ「ホッタラケの島」なんかに比べてずっと以前のある意味“原点”に近い異世界転移もの。流行りに乗ってまた出してきたってこはあり得ない。だからむしろどうして原恵一監督が、これだけ世間に異世界転移・転生のファンタジーが溢れかえっている時に1981年という38年も前の児童文学を取り出してきたのかが気に掛かる。

 原恵一監督は「河童のクゥと夏休み」あたりから児童文学をあれやこれやと読んではアニメーション映画にしてきた人で、森絵都さん「カラフル」が続き杉浦日向子さん「百日紅」が続くような感じで、メジャーの一線から少し外れたところにある秀作傑作を可視化させる仕事をしてきた。とはいえ「バースデー・ワンダーランド」の場合は1981年の児童文学をどうしてって気もしないでもない。どこかで出会ったんだろう。尋ねて見たいけれどそんな仕事が回ってくる身でもないので誰かがやってくれると信じていよう。原恵一さんは「カラフル」のパッケージ化の時に1度だけ、インタビューしたことがあったっけ。大新聞社の大文化部ではない場所にいると、今また売りたいんだけれどメジャーなところはのってこないパッケージ化のインタビューをお願いされることもあったのだ。それも重要だと思うのだけれど、目立つ仕事ではないから世間には伝わらず、仕事をしたっていう点数にもならず雑魚のまま。そして……。まあそれも運命だから。

 異世界転移・転生めいた設定なら古くはルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」がありライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」があって西洋ファンタジーでは珍しいものではないし、日本でも隠れ里のような伝承が異界との繋がりを描いていたりする。ある意味で古典とは言えるけれど、それが「地下室からのふしぎな旅」を含め1980年前後に例えば聖悠紀さん「黄金の戦士」だとか新井素子さん「扉を開けて」といった同種の設定を持った作品がいろいろ生まれた。柏葉さんは児童文学だから読んでなかったけれど、聖さん新井さんはSF系だったので接触もして、それで同種の話が賑やかになって来たなあって印象づけられた。今でこそジャンルとして異世界転生・転移が確立していたりするけれど、1980年代にそれらがどうして賑わったのかは記憶を探っても思い出せない。何か映画にあったっけ。「バンデットQ」はもうちょっと後だし。まあ今のこの異世界転生・転移が大流行していて映画もバンバン作られた後に「バースデー・ワンダーランド」が来ると、後追いだと言われそうなのでそうではないと言っておく。公開は4月26日かあ。観に行こう劇場へ。

 タレントのフィフィさんが蓮舫議員に関する明確な誤りをツイートして撤回・謝罪に追い込まれたことは、ネット上に転がるそれっぽい見解をそれっぽいんだからそれなんだとう確信のもとに紹介してしまうライティな言説によくある話で、それがなかなかデマが途絶えない理由にもなっている。阪神・淡路大震災で辻本清美議員が何かやったなんて話は事ある毎に浮上しては撤回に追い込まれているんだけれど、そういうデマを堂々と新聞で書いては名誉毀損で訴えられ、敗訴したにも関わらず未だに大メディアで論説とか書いていたりする人間がいる状況が、デマを飛ばしても罰せられないといった認識を生み出して、瞬間の脚光を狙い口走らせてしまうのかもしれない。だいたいが国を代表する総理がデマを飛ばしても、それを頑として撤回しないんだからどうしようもない。

 問題はそうした状況とは別に、誰か有名な人がちょっと意見めいたものをツイッターなどで発信したり、ラジオとかで語ったりすると、とたんにスポーツ新聞とかが拾っては1本の記事に仕立て上げたりする状況が、ここのところ激しさを模していること。誰か専属でネットをパトロールしていて、話題になりそうなコメントをひろいコピペする仕事をしているみたい。もう反射的に注目コメントを拾っていく状況で、果たして本当のことかなんて検証している時間はない。速さがアクセス数なんだから、。見たら拾って貼り付けて放流。もはやまとめサイトとしか言えない所業を、それなりの信頼性を持った題字の下でやり続けていたらいつか信頼を失うし、実際に失いかけている。今回の1件でちょっとは改める気になったか? ならないだろうなあ、それをやっていたら数で負ける。今後もすべての責任を発信者に押しつけ自分たちはピッカーですと開き直っていくんだろう。それがジャーナリズムかなんてもう問う時代じゃないのだ。


【2月18日】 過去に幾度か遭遇しては撃墜されたという零戦にまた遭遇して追いかけても追いつかず撃っても当たらず、逆に後ろに付かれて巧みにエンジンの上だけを撃ち抜かれてキリエの隼一形は飛行停止。墜落とはならず目覚めるとテーブル上の岩場にいてしっかり脚も出ていて綺麗にランディングした模様だけれどもそれを本人が意識しないでできるのか、それともパニック状態だったから覚えていないだけなのか、って感じに少し状況に謎も生まれた「荒野のコトブキ飛行隊」だったけれど、もっと大きな謎が立ち上がってはこれからの展開、そして物語り世界の設定への関心をグッと誘う。

 キリエがまだ幼かった頃に、“穴の向こう”にあるユーハングなる場所からキリエたちが暮らすキジツという地にやって来ては、ひとり残って暮らしていたサブじいさんは、最初は邪険にしていたもののまとわりついてくるキリエに気持を動かされたのか、倉庫に戦闘機を持っていてそれを飛ばしてキリエを載せて操縦の極意を覚えさせる。ユーハングからはそうした戦闘機だけじゃなく工業なんかも入ってきたそうだけれど、ユーハング勢はそうした機器や設備を残してユーハングへと引き上げてしまいサブじいは取り残された格好。あるいは自分の意思で残ったのか。そんなサブじいに黒いスーツで顔の見えない男が誘いかけてしばらく。

 サブじいの小屋は焼かれてそしてサブじいは零戦を駆ってどこかへ行ってしまった。ユーハングへと帰ったかというと、穴が開いていたらそうした交流ももっと盛んに行われていだろうからちょっとなさそう。かといって10年以上も経って健康に不安のあったサブじいが存命で再び零戦を駆り蛇のマークをつけてキリエを何度も墜としては教育するようになるとも考えられない。いやもしかして。ってあたりも含めてキリエとサブじいの関係性、そしてキジツとユーハングの関係性が気になってくる。

 キジツは異世界なのか異星なのか。穴とは転移・転生を起こす断層なのか遠くを結ぶワームホールなのか。少なくともキジツは地球のポストアポカリプスではないと感じられたからには、そうした世界がなぜ生まれ、なぜ人類が暮らし今は何を求めているか、ってところを気にしてこれからを見ていくことになりそう。サブじいって零戦乗ってて操縦の腕とか凄いし坂井三郎かってちょっと思ったけど、そうしたリアルな現実と重なることはないよなあ、「ガールズ&パンツァー」も西住に島田と戦車乗りの系譜が違う形で出てきたから、こっちは戦闘機乗りの系譜が違う形で散りばめられていそう。ユーハングって言葉にも意味が? それも含めて考察待ち。

 割と普遍の誰もがその時々に考えている不安というかある種の問いかけのようなものをふわっと救って物語の中に入れ込んで見せる才能、ってことになるんだろうか、上遠野浩平サンの<ブギーポップ>シリーズがここまで長く飽きられずに愛され続けている背景にあるのが。アニメーションに描かれている「ブギーポップは笑わない」とか「ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター」とかから遠く離れた最近のから「ブギーポップ・アンチテーゼ オルタナティヴ・エゴの乱逆」を読んでみたけど1998年に最初の「ブギーポップは笑わない」を読んだ時とグッと印象が変わるかというとだいたい同じこをと描いている感じ。あるいは第1作がメインストーリーだったとしたらあとはサイドスートーリーを延々と積み上げつつ空間を奇妙な泡で埋め尽くしているというか。

 「VSイマジネーター」での出会いと共闘を経て、割と重要人物になったっぽい谷口正樹と織機綺。そのうちに合成人間でありながら力を見せない織機綺に対して統和機構から2つのグループが誘いをかけて来たりして、どっちにつくつかないといっている以前にsさらわれそこで正樹だけが隔離されては殺害されそうになって、逃げ出すというか助け出されながらもプレッシャーをかけられていたら相手チームが襲ってきたりと内輪もめを繰り広げる。そうこうしているうちに統和機構でも大物のマキシマムが現れ大騒動。結果としてグループはつぶし合って綺は何となくポジションを得る。力は不明なままで。

 「オルタナティブ・エゴ」とは自分とは関係ないはずなのに、自分のことのように思ってしまって憤り反対したりするといった別人格的なもののことみたい。どこかのメディア企業が経営がどんがらがっちゃんになって希望退職という名の肩たたきを行う中、対象者が自分は辞めれば済む話なんだけれど残されて苦労するだろう若い人たちのことを思うとそうやすやすとは返事できないよと言うのもあるいは、辞めるのならもう関係ないはずの若い人たちを心配するオルタナティブ・エゴでもって、その場でマウントをとりたいだけなのかもしれない。傍目に見ればそれはお前には関係ないって丸わかりなんだけれど。そこが人間心理の奇妙なところって奴で。

 シリーズでは真ん中くらいの「ブギーポップ・アンバランス ホーリィ&ゴースト」には誰もが自分を中心にして考えたがるとかどうとかいったセリフが出てきたよな違ったような記憶がって、割とシリーズの全体に言えることかなあとも思ったというか。いろいろと読んでみて<ブギーポップ>シリーズは、というか他のスピンオフ作品も含めてそれぞれに主人公的なキャラクターが出てくるんだけれどそこだけである種、完結した活躍を見せて去って行く。その時には彼なり彼女は世界の中心なんだけれど、だからとって<ブギーポップ>シリーズの中心であるとは言えない。見た目の中心にその時にはなっていても話が変われば中心はズレて別の一群になっていく。そうして本当の中心はずっと見えないし分からない。

 誰もが瞬間は主人公になれる。けれども次の瞬間には主人公ではなくなる。それを主体として受け入れつつ客観として主人公たちが変化していく様をおって常に自分が主人公であり続けている気持になる。そんな浮遊があるからあるいは、<ブギーポップ>シリーズは1人がどこまでもインフレ的に強くなっていかざるを得ない多くのメインキャラクターによる物語りとは違って、ぐわっと大受けすることはないけれど、飽きられずこともなしい古びないでいつまでも時代に併走していられるのかもしれない。なろう系と呼ばれる俺TUEEEの小説が最先端だとしたら、そこからは決定的にズレている。同じ土俵に乗らず変わらないスタイルを保ち続けている。それで読まれるんだからやっぱり不思議。自分に注目を集めたいSNS的なベクトルとは違い、自分が多方面へと関心の矢を放ち誰かもそれをやって時にクロスする昔懐かしいWEB的ベクトルであることもまた、古びつつ廃れない理由になっているのかもしれない。などと考えているけどやっぱりまとまらないなあ。

 ノーベル平和賞にアメリカのトランプ大統領が日本の安倍晋三総理から推薦を受けていたといった話が伝わって、問われて安倍総理が50年間は秘密だからと名言を避けたけれどだったらどうして安倍総理が密かに行ったはずのトランプ大統領の推薦を、トランプ大統領が知っていたのかって話になって秘密なはずの推薦を当人に教えていたんだって話になって、そこまでして手を揉み揉みしたいのかって苦笑が漏れる。というか、世界がそのポン酢ぶりを苦笑しているトランプ大統領を、日本の総理大臣として推薦して世界が唖然呆然しないのか。そんな思考の為政者を仰いでいる日本という国と付き合って大丈夫なのか。なんてことを考え離れていきそう。あいつヤバいぞって感じに。そいういった周囲の目を気にせず相手にモテればそれでOKって思考がすべてにおいて蔓延っているからこその今の惨状。その自覚がまるでないところに進む未来のヤバさが浮かぶ。どうしたものか。


【2月17日】 やっぱり読んでおかなくちゃと割と最近の<ブギーポップ>シリーズから「ブギーポップ・ダウトフル 不可抗力のラビット・ラン」(電撃文庫)とそれから「ブギーポップ・ビューティフル パニックキュート帝王学」(電撃文庫)を続き読み。とりあえず末真和子はシリーズにおいて存在しない中心に1番近いキャラクターかもしれない。博士とまで呼ばれる存在感を持ちブギーポップになる宮下藤花と知り合いでいつもだいたいいっしょにいたりする。「パニックキュート帝王学」では主人公として注目を集めて帝王候補呼ばわりされ、後に「酸素は鏡に映らない」とか「ヴァルプルギスの後悔」あたりで統話機構の中枢へと近づきつつあるあたり、ブギーポップよりも霧間凪よりもシリーズにおける重要人物なのかもしれない。

 もっとも、当の末真和子はそうした事情をしばらく自覚しておらず、いろいろなところに首を突っ込んでいくものの核心には近づけず、そして親友の宮下藤花とあれだけいっしょにいながらブギーポップには出会えていないあたりに、単純なヒロインではないといった雰囲気が漂う。上遠野浩平自身が何かオピニオンリーダー的にメッセージ性を含んだ物語を生み出しては教祖となり神となって讃えられる奮起に行かず、ただ次々と世情をたくみにすくい取ったエピソードをつむいでは世界に泡のように漂わせている作家だということ、もしかしたら1番シンクロしている人物かもしれない。あるいは<ブギーポップ>のシリーズが中央集権的な主人公を置かず周辺に跋扈するさまざまな泡の寄せ集めによって現在を描こうとしている状況に、相応しい“ヒロイン”像と言えるかも。どこまで読んでもつかみどころがないシリーズ。それを掴む上で末真和子というキャラクターは霧間凪よりも重たいアンカーになるのかも。要検討。

 そうか魔王はあのおっさん声の巨体は見てくれだけで中身はずっと同じまおちゃんだったのか。でもって恐怖で支配をしながらも勇者たちがやって来て過去に飛ばされた際に若返った訳ではなく、そのままの変わらない格好で放り出されては職なんてなく宿屋も世話をしてもらえずあめ玉だけをもらってかろうじて生きのびていたところに今の同僚が現れ、魔王時代にたたき込まれた知識を買われて学校の先生に就職できた、と。とはいえやっぱり気になるのは、今学校で学んでいる勇者たちが遠からず倒しに行くだろう魔王はどこにいるかってことで、これから魔王が誕生するんだったら相当に若い魔王ってことになるけど学校の先生になれるくらいの知識を得ているならそれなりの歳ってことにもなる。後者だったらすでに存在していたって不思議はないけどそれだとまおちゃんと重なるし。いろいろ気になる。あまり考えない方がいいのかもしれない。そういうアニメってことで。

 テレビアニメのガンダムシリーズでよく画面が分割されて、ザクを操るシャアとガンダムを操るアムロがそれぞれコックピットに座っているところが描かれ、そして映像ではお互いがセリフをしゃべって言い争っているような演出が行われていたような記憶がある。後のシリーズでも、あるいはダンバインとかエルガイムといったロボットアニメでも使われるようになった見せ方は、その場面で面倒なロボットを描かずキャラクターを見せて関係を描ける手法だと言える。15日から日本青年館ホールで公演が始まった舞台「機動戦士ガンダム00 −破壊による再生−Re:Build」はガンダムシリーズ初の舞台化で、ガンダムエクシアを肇としたモビルスーツ戦をいったい舞台でどう描くかって関心が集まっていたけれど、その答えがアニメでのコックピットを並べ座っているキャラに会話させる演出だった。

 とはいえ、役者が舞台上で殺陣よろしくと斬り結びつつそれをモビルスーツ戦と言い切ることはしておらず、ある特別な方法でもってモビルスーツ的な装置を作り出し、それらを走り回らせることで宇宙とかでの戦闘シーンを描いている。なおかつ近づいた装置に乗っている役者が顔をつきあわせて会話をし、武器を使って戦う演技を入れることで、コックピットにいるキャラクター同士の会話シーンを舞台上に現出させ、なおかつモビルスーツを身にまとって戦っている様な錯覚も見せる。いつか押井守監督が「鉄人28号」を舞台化した時、いったいどう鉄人を舞台に出すんだ、装置か映像かと関心を抱かれたことがあったけれど、ガンダムは立派にひとつの形としてのモビルスーツを作りあげた。画期的な演出が以後、ロボットアニメの舞台化を加速させるかもしれない。その成功にはモビルスーツを動かすアンサンブルの活躍が必要。見れば感嘆するしかない働きぶり。それで大阪での千秋楽まで耐えられるのか。目下それが心配。頑張れアンサンブル。その肉体を駆使したパフォーマンスだけがモビルスーツを舞台の上に現出させ得るのだから。

 第1弾が宜野座伸元の活躍を讃えてGINOZOUNDだったらしい立川シネマシティでの「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System」の上映第2弾、「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System Case.2 First Guardian」は【極上音響上映】=美声音仕立て= case.2 TOTTUAUND(とっつぁウンド)ってことで我らとっつぁんこと公安局刑事課一係の征陸智己執行官を演じる有本欽隆さんや、刑事課二係の青柳監視官を演じる浅野真澄さん、そして須郷徹平を演じる東地宏樹さんに大友逸樹を演じるてらそままさきさんといった、イケボイスの持ち主たちが繰り出すセリフが関内に浪々と響いて本当に目の前でいろいろと繰り広げているんじゃないかって気にさせられた。

 爆音も凄くて冒頭の沖縄県にある国防軍の部隊が訓練で爆撃だとか射撃をやっているシーンからもうそこは戦場といった感じ。そしてフットスタンプ作戦に参加した部隊に対して繰り出される戦場の爆撃やら銃撃やら爆発といったサウンドもシートが振るえるくらいに凄まじく、ポップコーンを山盛りにしていたら爆圧で四方八方に散らばったんじゃないかとすら思わされた。それはさすがにないだろうけど、最前列で浴びる爆風にも似た振動はすさまじく、ドローンによる国防省とか長崎にある外務省の出島への襲撃シーンでは、自分も撃たれているような気になった。爆音+極音により見せられる国歌の謀略と刑事の魂。亡くなられた有本欽驍ウんにも見て欲しかったなあ。最後に追悼のテロップが写し出されて拍手。見ていてくれたんじゃないかなあ。

 「不死人の検屍人」と「人」が連なるタイトルが特徴的な手代木正太郎さんの「『不死人(アンデッド)の検死人 ロザリア・バーネットの検屍録 骸骨城連続殺人事件」(星海社FICTIONS)を読む。200年くらい前に不死身を目指した伯爵が資産を湯水のように使うのを厭うた親族が伯爵を殺害しようと追い立てたら伯爵は城の地下にある部屋にこもってしまった。身重だった妻は子を産んですぐに死亡。その子から子孫は連なっていったけれど直系以外が死に絶えていく不思議があって、そして3人の息子たちが今はいて、その長兄が嫁を取るといった話が持ち上がる。

 一方でその城にしばらく前からゾンビというかコープスなる怪物があらわれ跋扈するようになったため、アンデッドハンターのクライヴという男が、旅程で知り合いコープスを検死してその元となった死因から殺人だと暴いて見せた少女にしてアンデッド検死人のロザリアと供に赴く。そこでクライヴ゛やロザリアはコープスを対峙しつつゴーストにも出会いつつ、長兄の嫁として城に集められた4人の候補たちが殺されていく事件に挑む。伯爵が残したという4つの拷問というか処刑のための施設なんかもある城は不気味。地下からは奇妙な声が聞こえる。ホラーともファンタジーとも言えそうな設定だ。

 もっとも、起こる事件に呪いのような理不尽な設定はない。城の周辺に普段はいなかったはずのコープスが急に増えたのも、4人の嫁候補たちが殺されたり自殺したり死ぬ前にコープスになっていたり原因が分からずコープス化した男に襲われたのも、すべてがある思惑がきっかけになっていた。そうした謎を個々に解き明かすそして浮かび上がる真相は、ひとつの倦怠とも絶望ともいえる状況が招いた悲劇だった。ファンタスティックでホラーに見えてだいたい合理的な解釈が付くミステリ。生きているようで死んでいるようなロザリアが“生きがい”を見つけた今後にどんな変化を見せるのか。その才知はどんな事件を解き明かすのか。読んでいきたい。


【2月16日】 ようやくやっとアニメーション版「ブギーポップは笑わない」を見て、普通にスマートフォンが使われていることに驚いた。いやまあ2019年に高校生とか中学生の日常を描いてスマートフォンが出てこない方が不自然なんだけれど、原作の方は出し直された新版を読んでもやっぱりスマートフォンのようなデジタルツールは出てこず、冒頭の竹田啓司が宮下藤花に待ちぼうけを食らわされる場面なんかも待てど暮らせど彼女は来ず、帰ってしばらくして電話したら家に居たといった話になっていて、すでに浮かび上がっていたブギーポップから事情は聞いていたから藤花が帳尻合わせのため約束を忘れていることは分かっていたけど、そうやって数日が経ってコミュニケーションが成立しても不思議じゃない状況があった。

 今は違う。その場でやりとりができなくたって、LINEのようなメッセンジャーツールで数時間後にはやりとりが行える。そこで返事とかなければ不審さが極まって不穏さが心に漂い始める。ブギーポップになっていた間の藤花が返事をできなくても、戻って見たスマートフォンに山ほどのメッセージが届いていたらそりゃあすぐに返事をするんじゃなかろーか。覚えてないならなおさらで、どうしてこの人は約束もしていない待ち合わせのことを憤っているのか悩みそう。でもそういった展開にはならないスマートフォンのない時代の原作のやりとりが、2019年版のアニメーションでも繰り広げられるところに時代をマッチさせて描く大変さといったものも伺える。

 そこは気にしなければ別に気にならないことでもあって、ブギーポップがそうした意識をまるっと削っていたら翌日になってようやく気がついた、なんて解釈も可能なのかもしれない。ストーリーの方は3話までが「ブギーポップは笑わない」でだいたい原作のとおりの展開。時系列的にもブギーポップが最初にエコーズと接触して泣いているのを泣き止ませ、そしてブギーポップが何かを見張っているようになってそして知らず事件は解決していたというエピソードから、紙木白直子が大変な事態に巻き込まれて霧間凪が新刻敬と絡んでマンティコアこと百合原美奈子と早乙女正美が出会っていろいろとしでかして、そしてブギーポップが現れ始末をつけてエコーズが天へと召される展開の中、本性を現したマンティコアによるアクションがあり表情の変化があってアニメーションとして楽しめ、1人の少女の優しさが地球を救うというささやかでとてつもないつながりといったものの大切さが見えて来る。

 1997年に読んで、学生たちのどうということはない日常にするりと忍び込んでくる、そろりと背中に近づいてくる非日常への恐怖と興奮が入り交じった展開は、ちょっとした非日常を求めたくなる年頃に人気が出ても当然だといった印象を持ったけれど、20年が経った今に有効なのかは当時もすでに30歳を超えていて、今はもう50歳を過ぎてしまった人間にはちょっと分からない。ただ、異世界に転生なり転移してまったくの非日常であり非常識な世界で圧倒的なパワーを発揮していく一人称の活躍があちらこちらで繰り広げられている時代に、誰を主人公とした訳でもなく、さまざまな人間なり合成人間なりがそれぞれの思惑で活動してはふれ合ったり敵対しあったりするような展開を、誰が好んで読んでいるのか、読んで感情を添えられるのかといった辺りが気になって仕方が無い。核をもたない漂う泡のようなシリーズ。それが今もずっと売れ続けている謎について真面目に考えてみなくちゃいけないかもなあ。

 当時五段だった藤井聡太七段が優勝して六段に昇段した朝日将棋オープン戦で、今年も藤井聡太七段が見事に優勝。連覇は羽生善治九段以来ということだけど、決勝トーナメントに進出してから勝ってきた相手が稲葉陽八段であり糸谷哲郎八段であり行方尚志八段であり渡辺明棋王と目下の将棋界ではトップクラスに並ぶ棋士ばかり。そこでしっかり勝ち上がって優勝を果たす棋力胆力の凄まじさは、やはり並ではない強さの持ち主だってことを証明しているんじゃなかろうか。もちろん持ち時間40分の早指しという、一般の棋戦とか対局とは違った条件もあるけれど、それは相手の棋士も同じこと。ここで勝たなくて良いなんて考える棋士はいないはずで、それでも勝利してしまうところに強さを見る。とはいえ順位戦ではC級1組の対局で1敗てしまうくらいには万能ではない感じ。次の対局に勝って昇級できれば本物感は強まるし、足踏みすれば伝説にちょっとだけれど影が差す。どっちに転ぶか。そういうところで勝ってしまうのが藤井聡太七段なんだろうけれど。

 将棋といえばいよいよ発売された白鳥士郎さん「りゅうおうのおしごと10」(GA文庫)。女流棋士となった雛鶴あいがヒロインという設定もあって、将棋の棋士でも女流という位置づけの厄介さを示唆する内容がいつも底流に漂っているけれど、今回も女性でありながら奨励会に参加して2級まで行きながらも退会を余儀なくされた、丘滅鬼翼というひとりの棋士について書かれている。同じ様な状況は女流として活躍している月夜見坂燎女流玉将も経験してはいるけれど、そんな月夜見坂ですら憧れるくらい丘滅鬼は強かった。女性でありながら小学生名人に輝いて前途洋々だった。それが奨励会で揉まれるうちに勝つ将棋から負けない将棋へと変化し、ひたすらに粘り粘って粘りきる気風が定着して、それでも勝てずに退会となってしまった。そんな“悲劇”が女流棋士たちの嘆息とともに示される。

 奨励会の退会は、プロ棋士という将棋指しならだれもが目指す場所へはもう行けなくなったという“死”を現す。それでも規定で女流棋士として指し続けることは可能になったけれど、もう前のように月夜見坂や供御飯万智山城桜花といったタイトルホルダーが憧れた丘滅鬼翼ではなくなっている。座してあとは死ぬのをひたすらに待ち続けるだけのゾンビ棋士を相手に、女流名跡のタイトルを目指してトーナメント入りを狙う雛鶴あいが対局することになって、もうどうしようもないところまで追い詰められるけれど、そこで絶対に勝ちたい、勝つんだという凄まじいばかりの執念を見せるところに、雛鶴あいのこちらも並ではない凄みって奴が浮かんでくる。そしてそんな状況へと雛鶴あいを持っていった師匠の九頭竜八一竜王の鬼師匠ぶりも。

 ひたすらに詰め将棋を解かせたり、駒落ちを持たせて弱い相手と戦わせたりして雛鶴あいを苛立たせたりして、それで友だちとの関係がぎくしゃくしたけれどもそういった経験が終盤での駒の使い方に現れ、入玉のような特殊な形での将棋への慣れにもつながった。狙っていたとしたら凄いけど、もちろん狙っていたんだろうからやっぱり九頭竜八一竜王はただのロリコンではなかった。もちろんロリコンではあるけれどそれ以上の何かだった。傍目に見て雛鶴あいの担任も戦慄しただろうなあ。そんな世界に生きる雛鶴あいにも驚いたかも。そうした将棋指しの修羅をちゃんと盛り込んでみせるところが、「りゅうおうのいそごと!」のロリータラブコメではない証だろー。<BR>
>  師匠に憧れ弟子入りしたくでもさせてもらえない神鍋歩夢の妹について、弟子にするのをためらう釈迦堂里奈女流名跡の将棋道に対する認識もやっぱりその道の大変さを示す。その上で、月夜見坂や丘滅鬼らが突破できずに退けられた壁をあっさりと乗りこえていって、女性でありながら奨励会の三段に上り詰めてリーグ戦を戦う姉弟子、空銀子の才能の凄まじさと、ぶちあたっている壁の恐ろしさが立ち上がってきて、これからの展開をやっぱり相当に厳しいものにさせそうだと想像させる。連勝から始まりながらも途中で躓き3連敗。4敗すれば昇段は厳しい世界ではあるけれど、1回で突破なんて無理だと分かっていたら上位進出を目指せば良いのに銀子が死を意識するくらいに悩むのは、将棋が腐っていくのを感じているからなんだろうか。そのあたりが描かれなかった第10巻。だから第11巻は修羅による修羅場が描かれそう。いつ出るんだろう。待ちきれないなあ。


【2月15日】 SF作家のフィリップ・K・ディックにちなんだフィリップ・K・ディック映画祭ってのが開かれているそうで、それに花澤香菜さんが声で出演している坂本サク監督の「アラーニエの虫籠」ってひとりで作り上げた長編アニメーション映画が参加したとか。日本からはこの作品だけみたいだけれど、サイトを見るとファンタジーとかSFとかホラーといった感じの作品がズラリと並んで猟奇と不思議の味を感じさせてくれそう。見て見たいけど遠くアメリカなので参加は不可能。でもそうした中に日本初のあの不思議な「アラーニエの虫籠」が飛び込んでいってどんな評判を巻き起こすかが今は楽しみ。分からなさに首をかしげつつもその奇妙な展開に引っ張られ、そいsて説得されてしまう映画だから。

 ちゃんと企画は動いていたらしくて、新海誠監督の「きみの名は。」のハリウッドでのたぶん実写映画化は、監督が「アメイジング・スパイダーマン」のマーク・ウェブに決まったそうでさらに本格的に動いていくことになるのかな。企画が売れただけではそのまま立ち消えになってしまう日本作品のハリウッド進出例は枚挙に暇がなく、脚本が出来てようやく前が向けて監督とキャストが決まり撮影にはいって一安心、そして出来上がって吃驚仰天ということもあるけれど、最近は「銃夢」が「アリータ:バトル・エンジェル」のようにビジュアルもストーリーも原作をリスペクトしつつ圧倒的な資金力で見たかった映像を見せてくれる作品も増えている。「きみの名は。」はそうしたハリウッド的VFXが必要な作品ではないからどこまでハリウッドらしさに傾くか未知数だけど、舞台とかがにゅーよーくとサウスダコタかミネソタかミシガンかどこかになったらやっぱり違う雰囲気が立ち現れることになるんだろうなあ。それもまた興味津々。続報を待ちたい。

 七士七海さんの「異世界からの企業進出!? 転職からの成り上がり録3−夏期考課篇」(ハヤカワ文庫JA)が届いていたのでざっと読む。今度はバカンス。その前にちょっぴり小ばかにしてきた別のパーティーを見返してやろうとダンジョンを一気に深く進んだりして大変だったけれど、やる時にはやる田中次郎の底知れなさも伺えた。そしてパーティーの仲間とあと、ラブラブになったエルフの担当係員も連れだってリゾートダンジョンへと向かってそこで、新たに吸血鬼の娘からも好かれて二股を誹られそうになったかというと、多夫多妻も認められている魔界だけあってそれは良いとして、やっぱり順番は必要といった感じに収まり晴れて吸血鬼も側室の座へ。ってか28歳までモテたことがなかった田中次郎がダンジョン攻略のテスターになって活躍するととたんにちょっとしたハーレム状態。俺TUEEE系のなろう系の典型とはいえやっぱり羨ましいし、憧れる。だから読みたくなるってことでもあるんだけれど。

 そうやって楽しんでいるところに、ちょっと前にイタズラをしかけたパーティで勇者役の男が二股からの修羅場になったりする場面見たりしつつ、一方で急な異変が起こって一行はダンジョンに足止め状態。調べると魔王の妹だか姉だかが反乱を起こしたそうで、人間なんて奴隷のように使えば良いといった意見もあってそれが通れば困ると言うことで、監視官を助けて反攻に出ようとする。パーティーを分けつつそれぞれが持つスキルを活かしつつ人間も魔物も関係なく、連携をとりながらだんだんと監視官の居場所に近づいていく田中次郎たち。途中で言葉どおりの鬼の教官というか実は将軍も現れ、その娘が田中次郎に興味を持って真剣勝負を挑んできたりして、それを退けまたハーレムフラグが立ったみたいだで羨ましいけれども強いからこそのハーレム入り。現実世界でそんなことは起こらないからこれも夢を見させてくれるエピソードとして味わうのが良いんだろう。そして判明した事態の真相。結果、一行と田中次郎はどうなるか、ってあたりが次巻の楽しみか。案外に本当に反乱が起こったりして。

 取材の案内は来なかったけど普通にプレイガイドの抽選で当たったのでTOHOシネマズ六本木で開かれた「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System Case.2 First Guardian」の初日舞台挨拶付き上映に行く。席が2列目で、取材に来ていたメディアの座る2列目を除けば最前列のほぼセンターという好位置。司会にやっぱりの黒スーツで登壇したニッポン放送のの吉田尚記アナウンサーの顔もよく見えた。向こうからこっちが見えたかは知らない。そんな舞台挨拶には須郷徹平役の東地秀樹さんと狡噛慎也役の関智一さん、そしてCase.3がようやく3が完パケしたという塩谷直義さんが来られて、まずは亡くなられた征陸智己のとっつあんを演じていた有本欽隆さんの思い出話が繰り広げられた。

 関智一さんが話したところによれば有本さん、「PSYCHO−PASS サイコパス」が最初はどういう話か分からなかったそうだけど、でもだんだんとわかっていって面白がってくれたとか。登壇イベントにも出てファンとふれあって喜んだみたい。なかなかそういう機会もないベテラン役者だけに、嬉しかったんだろう。だからこそ今回、”主役”とも言える活躍を見せるCase.2の舞台挨拶に登壇して欲しかったなあ。収録は2年半くらい前で、以来東地さんはずっと会われていなかったとのこと。体調を崩した話は聞いていたけど復活すると思っていた。でも……。思い出すとやっぱり残念感が募るなあ。

 収録には何も荷物を持たずにトレンチコート姿で入ってきては、どこかから丸めた台本を取り出し役のところを喋ってさっと帰っていったという有本さん。外画とかで一緒になる機会も多かった東地さんには難しく考える必要なんてないんだよと言っていたというから、やっぱり征陸さんそのもののような人だったってことなんだろう。でもだからといって甘えていてはダメみたい。時には厳しさも見せる、ダンディーな役者そのものの人だったい。塩谷監督は、征陸が大活躍するこnCase.2を有本さん、きっと劇場に見にきてくれていると話してて、だから終わったら拍手してねと言い残していった。そして上映後には自然と追悼と賞賛の拍手は起こった。舞台挨拶のあるなしにかかわらず、上映後にはずっと拍手をしたいししたくなる映画かもしれない。もう何度か観に行って青柳キックを堪能しよう。きっと開かれるだろう黒スーツ上映会にも行こうかな。今回ばかりはトレンチコートを羽織って。持ってないけど。

 いよいよ真剣に4月以降を考えなくてはならない状況。持っているスキルに対してそれが残留した場合に活かされるといった保証はなく言質も得られず、むしろ電子媒体の拡張などという人出を割くのも戯けらしいセクションに人を送るかもしれないなどという、それを考えた人がいたとしたら何か1本外れているとしか思えない施策に巻き込まれて、戯けらし日々を送る羽目になるかもしれない。もちろん人を減らしてコンテンツの量も質も落としたら立ち直ることすら困難になるという意識の下、スキルを買われる可能性もないでもないだろうけれど、確信も確約も得られない状況でそれに人生を賭けるというのも厄介な話。ならばと外に出てスキルが活かせる仕事に就ける保証もまるでないのだけれど、苛立ちと疑心の中で日々を過ごす不健康と、もらったそこそこの資金を少しずつ削りながらもしばらく寝て暮らす怠惰のどちらを選ぶべきかとなった時、気持としては後者に傾く。どうしたものか。週末に考えよう。夢の中で。


【2月14日】 たとえ信者が混じっていたとしても、それなりの人数も見ていただろう「ケムリクサ」のニコニコ生放送での1話から5話までの一挙配信で、「とても良かった」が95%を超えて「良くなかった」が0.8%しかいなかったりする状況が、作品の持つ魅力って奴を存分に現しているとまず思う。途中でAmazon Primeでの第6話の先行配信が始まり、そしてTOKYO MXでのテレビ放送も行われたけれど、それでも結構な人数がニコニコ生放送を見に来ていたってことは、見られない地域の人たちも結構いてそこに集まっていたのがひとつと、そしてあの不思議で奥深い世界観や物語について語りたいという人が大勢いたってことの証明だ。これでまだ放送はやっと半分で、深まる謎と驚きの展開に盛り上がっていけば、さらに大勢が集まり社会現象化する可能性だってありそーだ。

 なにしろ第6話が凄かった。もういなくなったと思われていたりくが現れかばん……じゃなかったわかばとちょっとだけ戦闘し、わかばがケムリクサを使えてりつやりんたちの連れだったと分かって和解。そこからケムリクサに使い方というものがあって、押してボタンを選んで操作することで、より強力な効果を発揮できることをりくから教わった。りょくだかが持ってた四角くて平べったいケムリクサから、文字を取り出して読めることも判明。それがまた衝撃的な内容で、りつやりんやりなりくりょくりょうといった姉妹が何かから分裂して生まれて来たこと、そして記憶を司っている分身がどこかにいることが示されて、それらが出会った時に何が起こるのかって興味を誘われた。

 いないことになっているりくたちが現実にいながら、いなくなったことを自覚していてりんたちに会わない判断をした理由が分からないし、ここしばらく出てきていない赤虫の正体とか目的、そしてようやくたどりついた湖のむこうにそびえる大きなミドリちゃんの木の意味なんかも気になる、めっさ気になる。つまりはもう続きを見るしかないってことで、図書館にたどりついてかばんちゃんがヒトだと判明しながらもその後の物語をさらにパワーアップして描き、感動のフィナーレへと持っていった「けものフレンズ」にも増して見えない先行きを気にして、毎週をテレビの前、あるいはAmazon Primeのタブレットの前にリアルタイムで座らせそう。こんなアニメ、2年ぶりかもなあ。2年前が何かは言うまでもない。そんな作品を立て続けに出してきたたつき監督伊佐佳久作画監督白水優子美術監督のirodoriの凄まじさを、どうしてあそこは引き出せなかったのか。だから……。それを言っても詮ないんで今は目の前の「ケムリクサ」の物語に巻かれよう。

 「STAND BY ME ドラゴンクエスト」って布陣だなあ。あの国民的ゲーム「ドラゴンクエスト」のシリーズ5作目あたりをフル3DCGによるアニメーション映画にする「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」ってのがもうそれほど時間もない8月に公開されると発表。総監督が「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎貴さんで監督が白組の八木竜一さんと、あと花房真さんといった布陣は、日本で83億円を稼ぎ出し世界で1億8000万ドルまで言った「STAND BY ME ドラえもん」とだいたい同じ。つまりはストーリーテリングでもCGによる表現でも世界に通用するものを作れる人たちってことで、なおかつ「ドラえもん」という日本からアジアにかけて知名度が高い作品とは違って、世界がそれなりに知る「ドラゴンボール」の鳥山明さんがキャラクター原案を手がけた作品、ってことでより注目も集まるだろう。

 「ドラゴンクエスト」というゲーム自体が「ファイナルファンタジー」シリーズに比べて国内度が高いってことがあるから、「ドラえもん」に比べてことらさ優位といった印象はここでは持たない方が良いかもしれない。とはいえアプリなんかで広まりつつあるようだし、作品自体が良ければそれなりに広がっていくんじゃなかろーか。しかし今年は春から原恵一監督が来て湯浅政明監督が来て新海誠監督が来る上に「二ノ国」だとか「トイ・ストーリー4」だといったアニメーション作品も目白押し。スタジオジブリやスタジオポノックは見えないけれども毎週のように新し驚きを映画館で得られそう。毎日が日曜日となっているならそれこそ毎日だって通いたいけど昔と違って1日中、中にいられる訳ではないからなあ。無職割りって作ってくれないかなあ。

 「コードギアス 復活のルルーシュ」も公開されてそちらの方が話題の谷口悟朗監督が、1月からずっと手がけてきているテレビアニメーションの「revisions リヴィジョンズ」も実は第6話まで来て残酷な世界で振り回される少年たちの過酷な日々って奴がどんどんと濃さを増している。怪物だと認識していた敵リヴィジョンズの正体は何と人間で、パンデミックによって大きく変化してしまった体を収める外骨格として巨大なメカのような姿になっていた、といった感じ。一部にそうした体から意識を転送し、ダミーのボディを動かしていたのがチハルやムキューやニコラスといった面々だけれど、その肉体を維持発展させるためには人間の肉が必要で、だから掻き集めようとしたのが渋谷転送の理由という。

 上遠野浩平さんについて調べることになって電撃大賞の最新の受賞作紹介冊子を開いて歴代受賞者一覧をながめて、上遠野さんが「ブギーポップは笑わない」で大賞を受賞した第4回では橋本紡さんが「猫目狩り」で金賞を受賞していたことに気がついた。この頃はまだ授賞式には潜り込んでいなかったんでお二人のお顔を眺めることになったのはもう少し先。そして20年以上が経って道もずいぶんと隔たってしまったなあという印象が浮かぶ。後に「半分の月がのぼる空」を出して人気となり、そして「毛布お化けと金曜日の階段」が当時のライトノベルにありがちだった異能だとかバトルといった要素のまるでない、どちらかといえば心に傷を負った家族がいたわり合いながら暮らすシリアス要素の入った日常のドラマを描いた作品は異色。今みたいにメディアワークス文庫があって日常が舞台のドラマが普通にキャラクターノベルとして出されている状況の先駆けだった。

 あるいは今のこうしたキャラクターノベルの元祖とも言える作家だったかもしれないけれど、橋本紡さんはその後に「猫泥棒と木曜日のキッチン」をメディアワークスから単行本として出してそして、一般文芸の方へと向かって新潮社とか文藝春秋から幾つもの小説を出すようになった。「半分の月がのぼる空」も文春文庫として出し直されたりしてこれも今の一般文芸とライトノベルとキャラクターノベルが入り交じった状況の象徴めいて捕らえられそうだけれど、そうした活躍をしながらも最近は小説の世界から遠ざかってしまって、一時のような存在感を失っている。書いていないから、っていうのが最大だけれど辻村深月さんとか桜庭一樹さんとか米澤穂信さんとか一般文芸も文学もエンターテインメントもライトノベルもない中で活躍している作家たちの先駆がどうして、といった気がやっぱりしてしまう。そちらではやはりライトノベルほど売れない、という商業的な現実があったのだとしたら、ライトノベルはやっぱり素晴らしい表現だけれどそれを評価する軸が世間にはまだ乏しい、といったギャップに悩んだのかもしれない。どうなんだろう。上遠野浩平さんが変わらずに、というより変わらないからこそ続いていられることの対照として考えてみよう。


【2月13日】 根拠のない数字を持ち出して世間を煽って、その数字が間違いだったと指摘されてもそうした発言を裏付ける根拠はあるからと知らん顔を決め込もうとすればできたかもしれない。天下の内閣総理大臣が自衛隊に協力してくれる自治体は6割だとどこかで言って、それは違う9割が協力をしていると指摘された件について、いやいやだから紙なり電子媒体で名簿を提供しているのは6割だろうといった言い訳を、してくるんじゃないかと思ったらそれは取り巻きに止まって、一応は9割が閲覧可能な分も含めて協力していることは認めた模様。

 でも、公然と間違ったことを調べもしないで方言して、それで世論を作ってしまおうとする振る舞いはやっぱり内閣総理大臣として宜しくない。綸言汗の如しといった故事などどこ吹く風。即座に間違いを言い改める軽さがやっぱり気になる。本来ならば諫めるべき立場にある内閣総理大臣が、扇動と扇情の先頭に立って間違いを言いふらして平気な国がいったいどこにある? そんな国だからなんだろうなあ、五輪担当相が白血病の治療に入った競泳の池江瑠花子選手に向かって金メダルが期待できただけにがっかりだ、引っ張る選手がいなくなって盛り上がりがなくなってしまうといった具合に、五輪の成否にばかり関心を向け池江選手自身の病気にお見舞いをせず、回復を祈りもしなかったことが問題にされながら、それを撤回したから良しといった空気へと流れてしまいそうになっている。

 違うだろう、もはやそうした競技をする選手に配慮できず五輪の成功だけしか頭にない意識を持っていること自体が、五輪担当相として、というより小海議員として相応しくないって話。だからこそ決断を求めても謝罪して撤回すればなかったことになる。そうしなくてもスルーされて来た状況が謝罪すら素晴らしい行為だと思わせる。もうどうしようもない状況だけれど、李下に冠を正さず綸言汗の如し等々の為政者なり権力者なり上級者に求められる倫理的な振る舞いなど欠片も意識されなくなっている。それを観て誰もが罵詈雑言をまくしててて指摘されれば誤解だと言い抜け傷ついた人がいるなら謝ると、最初から傷つけないような配慮をすっ飛ばすようになっている。人心は荒れ振る舞いは粗雑になって破壊された共感と共生。そんな国が向かう先は? まさに悪夢なんだけれどそれを悪夢と認めない人が頭にいるからなあ。やれやれだ。

 これはまた大きな展開というか、出版グループの角川書店というのがあって、ネット企業のドワンゴがあってそれぞれがお互いに協力し合えるからということで、合併をしつつ上にホールディングスを置いて共に人を出し、半ば対等な間柄で運営されてきた現在のカドカワという会社をトップにしたグループの中で、niconicoとかを手がけているドワンゴや旧エンターブレインで今は闘会議を主催したりゲーム関係の調査を行っているGzブレインなんかがカドカワ傘下で出版グループとしての旧角川書店、現在のKADOKAWAと並び立っていた構造が変わって、KADOKAWAの下にドワンゴでありGzブレインがぶら下がる形になってしまった。

 これを最初の対等な関係を保っての合併に戻って考えるなら、あの時に出版社の角川書店がドワンゴを買収して子会社にしつつ、すでに傘下にあったんじゃなかったっけなエンターブレインの一部も別会社にしてぶら下げただけの状態に、戻るというかなってしまったって言えるかも。つまりはドワンゴの価値低下で、それは決算でも示されているように結構な赤字が出て企業価値が下がり、固定資産の減損損失を計上しなくなってしまった。もはやこのままでは全体の損失が膨らむだけだと偉い人が判断したんだろうなあ、ドワンゴをコントロール下に置いて大きな損失が出ないようにしたんだと思うけれど、現状のniconicoというプラットフォームの映像・音楽配信サービスにおける地位低下を鑑みるなら、使い勝手をてこ入れするだけではちょっと回復は難しい。

 だからこそのカドカワ傘下の上にKADOKAWA傘下にして、カクヨムだとかキャラアニだとかいったネットを使った配信であったりECといったプラットフォームサービスを統合・連携させて紙の出版物の流通だけではもはや至らない部分を、補っていこうって考えがあるのかも。とはいえKADOKAWA発のコンテンツだけをniconicoに流したところで、そうしたコンテンツを買い受けて配信しているNetflixだとかAmazon Primeにかなうはずもない。ユーザージェネレイテッドコンテンツがリーダビリティを発揮して出版や映像に影響を与えた「カゲロウデイズ」的現象も起こりづらくなっているなら、あるいはスパッとbilibiliにniconicoを売り渡しつつコンテンツ生成に力を傾ける、なんてことになるのかなあ。そこはちょっと見えない。すべてはドワンゴとniconicoの今後次第か。舵を取る夏野剛さん、遊んでられなくなってきた。

 シャーリー・フェネットが生存している劇場版3部作の続きの世界というのが個人的には嬉しかった「コードギアス 復活のルルーシュ」は既に試写で観ながらも公開まで何も言うなといったお達しの中、ルルーシュがどう復活するかに関心が集まっていたみたいだけれども映画ではそれこそほとんど冒頭から、ルルーシュが出てきてC.C.にご飯を作ってもらって嬉しい身分。でもどこか虚ろになっていたのは心がCの世界に置き去りにされていたかららしく、それを取り戻そうと門を探して旅をしていた最中にナナリーとそして中身が枢木スザクのゼロが誘拐されたのを探してやって来た咲世子さんと紅月カレンとそしてロイ・アスプルンドと合流し、まずは監獄の地下にある門をくぐってルルーシュの心を取り戻そうとする。

 そこには枢木スザクも捕らえられていて一石二鳥の展開から、さあナナリー救出作戦だといった展開の中で繰り広げられるギアス対決。ナナリーをさらった国のシャムナが繰り出す技はけれどもルルーシュには感づかれないはずなのに、そこはギアスが効かないC.C.が理解していたってことなのか、くぐり抜けてたどり着いてそしてといった展開はパズルを解き明かすようでなかななにスリリングだったりする。とはいえそうなる直前、大成功が大失敗にひっくり返された中で、どうにかして状況を突破してけたところにルルーシュが持つギアスだけではない力量ってものがあるんだろうなあ。でもそうなれたものC.C.の励ましがありコーネリアたちの頑張りがあり玉置真一郎の無茶もあった。決してひとりでは勝てないことに改めて気づいたんじゃなかろーか。

 その後の世界を見せつつ主要なキャラクターの堂々たる帰還を演じつつそのままストレートには続きへとはいかない帰結を見せてさて、果たして復活後のルルーシュといったストーリーは描かれるのか。のんべんだらりと平和が続く中で活躍の場なんて局地の扮装くらいしかないからあまり大きな話になりそうもないだけに、今回だけの特別サービスとして収まっていったりするのかもしれないなあ。あるいは100年くらい経って以後の世界を舞台にL.L.となってC.C.とともに世界を操る存在となり、そして起こるとてつもない戦乱の中で誰かを助けて跳梁するとか。それだと「ルルーシュ」がタイトルに使えないからやっぱり近い話になるか。眺めていこうプロジェクトの行方を。


  【2月12日】 サーバル「あなたはごこくちほーにつれていってくれなかったヒトのフレンズだね?」かばん「サーバル……」サーバル「ちゃんをつけろよまえがみわかめおじょう!」かばん「えぇぇぇ〜〜〜!!!」。といった会話がなされた形跡はないものの、そんな展開があっても不思議ではないくらいに唐突な登場で、そして違和感を覚えるようなセリフ回しだった「けものフレンズ2」第5話「ひとのちから」。突然に現れたあれはライオンかトラなにかが血迷った姿で暴れていたところに飛んできた火の着いた紙飛行機。見てライオンはどこかに行ってその隙に対応しようとなった時、現れたのが「けものフレンズ」ではサーバルといっしょに旅をしたかばんちゃんだったから驚いた。

 可能性として浮かんだのはあくまでも別個体であって、パラレルワールドの「けものフレンズ2」世界においてヒトのフレンズの前例としてかばんちゃんの存在があって、それが過去にパークを行ったり来たりした記録が残されていて誰もが感じていたところに登場しただけって思えば「けものフレンズ」でサーバルと連れだってきょうしゅうちほーからごごくちほーへと向かい、そこで始まる新たな冒険をたつき監督が描いてくれる可能性も限りなくゼロに近くてもまだ残る。でも何かの事情で「けものフレンズ」のあの展開が別に流れた果て、別れたサーバルとかばんちゃんがそこで再開をした、なんて完全なる続編展開になってしまったら、そこにあの旅立ちに感動を得た「けものフレンズ」の続きは見られなくなってしまう。

 そうした悩みが一方にはあり、そして続編だとするならセルリアンに食われて球体になっていた間に、サーバルがかばんちゃんから学んだ紙飛行機の作り方と、そして比の扱い方を頑張って実行してセルリアンの気をそらした感動的な出来事を、見ていなかったはずのかばんちゃんがやってしまったことへの不思議が浮かぶ。そして第1話で「サーバルちゃんて呼んでね」と言われて以降、「サーバルちゃん」と呼び続けていたかばんちゃんが瞬間でも「サーバル」と他人行儀な呼び方をしたことに、謎が浮かぶし不思議も漂う。何かやっぱり過去に離別のような出来事があったのか。それともだからこその別ルートを進むパラレルワールド的展開なのか。悩むところではあるけれど、そうした不穏を除くなら展開が見えず興味は浮かぶ。

 イリエワニの胸がなかなかで、クロヒョウとヒョウは舞台「けものフレンズ」の流れを汲んでか関西弁でなかなか愉快で、ゴリラはまるでライオンのように部下の前では偉そうでも誰もいないとダラけたりして、さまざまなメディアからのオマージュを見せられているよう。それでいいかどうかは別にして楽しめることには違いがない。加えて展開の謎。そういう意味ではちゃんと立派に第2作的なリーダビリティは果たしていると言えるだろう。オオセンザンコウとオオアルマジロが今回は出てこなかったけれど、2人を動かしている誰かもまだ分かってない感じだし、そのあたりも含めて続きはしっかり見ていこう。すべては最終回が終わってからだ。

 スポーツ2題。全米オープンと全豪オープンを連覇した女子テニスプレイヤーの大坂ナオミ選手がコーチとの決別を公表。ここしばらくのメンタルの安定にはきっと関わってくれていたんだろうけれど、2つのグランドスラムタイトルを得てなお強くあり続ける上で得体スキルが今のコーチからは得られないと判断したのか、単純に不仲になったのか。理由は分からないけれどもこれで次の全仏オープンまでに成績が下がればいろいろ言われることは覚悟の上で、大きな環境の変化に踏み込んだことはやはり前向きに評価するしかなさそう。全仏はクレイでウインブルドンはグラスと条件が違うから、負けても多少の言い訳は効くと考えた? でもアスリートならどんな環境でも勝ちたいはずで、そこはやっぱり勝利のためのステップその1と理解しておこう。頑張れ。

 そして水泳の女子競泳選手として東京オリンピック2020での活躍どころかメダルが機体された池江璃花子選手が白血病を公表して治療へ。そりゃあ命が何より大事なのでたとえ競泳競技に復帰できなくなったとしても、そして東京オリンピックに出られないとしても治療を急ぐのが何より大切で、その結果として寛解してトレーニングも積めて回復した暁に、東京はたぶん過ぎていても次のオリンピックを目指してくれれば幸いだし、そうでなくても生きてその経験を多くに示してくれれば嬉しい。だから周囲にとらわれずに最善で最高な治療を行って欲しいと心からお願い。まだ若いんだからチャンスは回数だって幅だっていくらでもあるのだから。頑張れ。

 カリモクがディズニーのキャラクターが座りそうな椅子を出していたこともあった東京インターナショナル・ギフト・ショー春2019の会場に併設されているディズニー・エキスポ・ジャパン2019の中にちょっとしたポスターサイズの作品があって、ディズニー/ピクサーのキャラクターとかが300以上描かれていてさて、これは幾らでしょうかと聞かれて適当に200万円と答えたらどんぴしゃだった。聞けばひとつひとつのキャラクターが立体的に浮き彫りになるように描かれていて、それらには1つずつスワロフスキーのクリスタルが埋め込まれているという。さらにキャラクターの名前の横にもイエローストーンのスワロフスキーが。つまりは600以上のクリスタルが散りばめられ、すべてが手作業で描かれたディズニー/ピクサーのキャラクターって訳で、それなら200万円という値段にも納得がいく。

 誰が買うか、というとそれはやっぱり価値との相殺で、20部しか作られない希少性とスワロフスキーというある程度は価値が担保される貴石の投入、そして作品性からそれなりの価値が見いだされ、買われるような気がする。近く入るかも知れないあぶく銭で買おうと思えば変えないこともないけれど、置く場所もないので今回は遠慮。いやあぶく銭じゃなくって10年を食いつなぐ貴重なお金になるんだけれど。ほかには貴石の台座部分に丸が3つのミッキーマウスアイコンが18Kイエローゴールドであしらわれたペンダントとかもあって、10万円前後はするしろのものだったけれどこれもやっぱり好きな人は買い求めるんだろうなあ、貴金属としての価値は担保されているし。ロイヤルセランゴールの27万円とかするアベンジャーズのジオラマは……まあ好きな人向けかな、これも価値は大きく下がることはないから記念としておひとつ。いやだから買わないって。

 時間や次元がズレていたりするのかな、なんて想像も浮かんだけれど割とまっすぐな構成の中、遠くにあって交流が行われ、近くに寄って関係が育まれてそれが過去の払拭につながって楽しかった第25回電撃小説大賞銀賞の冬月いろりさん「鏡のむこうの最果て図書館 光の勇者と偽りの魔王」(電撃文庫)。<最果て図書館>なるはるか彼方の地にある図書館で館長をしているのは記憶のないいウォレスという青年。魔物たちを動かして本を集めて分類する仕事をしている合間、館内の一室に入ると鏡があってそこに見知らぬ少女が現れた。はじまりの街にいるルチアで、どうやらそこと繋がったらしく2人は時間を決めて同じ場所に来て交流を始める。

 そうした中、次第に勢力を高めている魔王に挑もうと勇者と魔導士のペアがはじまりの街に現れ、そして魔王を退治するべく出立したと聞く。過去、現れた魔王を光の勇者が倒したという伝承があって、それが記憶を持たないウォレスの過去に重なっていそうな感じが漂う。あるいは繋がったはじまりの街は過去か未来かなんて思ったりもしたけれど、勇者はだんだんと近づいてきて<最果て図書館>に現れウォレスと交流するし、ルチアの飼ってる鳥も来る。だから地続きの世界なんだと分かった。

 だったらどうして繋がったりしたのか。そしてウォレスが記憶を持たずに図書館にいる理由は。勇者たちがやって来て魔王退治へと向かいそしてルチアも行動する中で、伝説の本当の姿が見えてくる。そして晴れてウォレスは図書館から解放されたかというと、そこはまだまだ続きはありそうな展開。以後、ウォレスには図書館での仕事がある一方でルチアにははじまりの街での修行があって、そんな双方に絡む魔女の存在が何かの鍵になるのかな。そこから新たな物語が始まるのかな。気にしたい。ぽわぽわとした勇者たちが魔王退治に挑もうとしているアニメ「えんどろー」といっしょに楽しもう。ってな感じで書き綴ってきた日記もこれで満23年。これから始まる1年は激動で身分も不安定を極め状況は災厄に陥って更新もままならなくなく可能性が大だけど、そこは頑張って何かを書き綴っていこう。ごひいきに。


【2月11日】 堺屋太一さんを見かけたのはたぶん2度かそれに加えて数回か。糸井重里さんとかが出席して開かれた「インパク」ことインターネット博覧会の発表会に登壇していたのが1度と、そして1年にわたって開かれた「インパク」の最終日となった大晦日に開かれた打ち上げイベントに来場していたのが1度。かつて大物経済官僚としてあの小松左京さんと組み、1970年の大阪万博を仕掛けた人だといった印象はあったものの、その後に何をやったかはあまり知らず小説家とか評論家だとか経済顧問だといった仕事についての成果も関心の埒外だった。ただインパクに担ぎ出されるからには、インターネットとい新しいテクノロジーへの興味や知識はあるのかなあと思っていたら、1年後の打ち上げでいろいろとトンデモな発言をしていたから、やっぱりただのデジタルデバイドなおじいさんでしかなかった。

 例えばネットカフェが普及したのはインパクのおかげだとか、ADSLが広がったのもインパクのおかげだとか、ネットの接続料金が下がったのもインパクの効果だといった発言。いや違うって、ネットカフェは韓国で流行ったのが輸入されたものだし、ADSLは孫正義さん家が無茶苦茶なADSLモデムの配布を行って普及せざるを得ない状況を作っただけ。接続料金だってそこで定額制を持ちこんでテレホーダイ的な制約をぶち壊した。でもそうした施策を国側は嫌がった。東京めたりっく通信が始めようとして潰されかけたくらいにNTT的な視線では邪魔者だった。それを強引に広げたのは民間であって政府肝いりのインパクじゃない。そうした成果をまとめてもっていってしまおうとする態度に不遜さを感じた。あるいはそういう意識でしか社会を見られないくらいに祭り上げられてしまったんだなあとも。

 その後、大阪の開発に担ぎ出されては道頓堀プールだのという失笑しか浮かばない計画をぶち上げては見事に頓挫。船の運行にも使われている道頓堀を綺麗にして大勢が水辺として使ってくれるというなら分かるけれど、閉鎖してプールになんかして泳げるようにしたところで、それはその場だけの綺麗であって全体の浄化にはつながらない。道頓堀だけが栄えて他はどうでも良いのか。もっと他にやることがあるだろう。大阪が次々に文化的な施設や記録を排除している動きに対して費用を入れることによって、他に代えがたい街になるといった発想はもはやなく、思いつきに固執するおじいちゃんになってしまっていた。それでも今の人たちよりは広い視野と独特な発想は持っていただけに、亡くなられて竹中平蔵的な人間が蔓延るようになるのも厄介。その意味ではひとつの象徴として他も道連れにしていって欲しいなあ。向こうで小松左京さんと天国万博でも開催を。同じ場所に行けるとはかぎらないけれど。

 九岡望さんの「エスケヱプ・スピヰド」から感じたスリリングさに、牧野圭祐さん「月とライカと吸血鬼」に描かれる異種族との友愛なんかも漂っていると言えばどこまであてはまるだろうか。電撃小説大賞で銀賞となったミサキナギさん「リベリオ・マキナ ―《白檀式》水無月の再起動―」(電撃文庫)は突然に覇権を奪おうと軍勢をあげた吸血鬼に種族に対して人類のひとりの女性科学者が作り出したオートマタが大活躍。とりあえず吸血鬼勢と和解を成し遂げるまで至ったけれど、そのオートマタが突然に暴れ出しては人類をも虐殺したことで、白檀式と呼ばれる優れていたはずのオートマタは封印されてしまう。

 それから10年。女性科学者の思惑もあって対吸血鬼戦から除外され、眠らされていたオートマタが甦る。名を水無月というそのオートマタを甦らせたのは、女性科学者の実の娘。ただし母親の仕事がもたらした惨禍から迫害される懸念もあって身分を隠して暮らしていた。その彼女が水無月を復活させて手元に置いて、始めたのが眠りっぱなしの上に戦闘しか興味がなさそうな水無月の教育だった。そのあたり、戦場しか経験にない相良宗介を学校に慣れさせる千鳥かなめに感じが似ているかもしれない。そんなドタバタとした日常に変化がもたらされる。白檀式の戦いぶりから融和に転じた吸血鬼勢力の令嬢が、誰も見ていないところで密かに白檀式オートマタとしての力を見せた水無月に目を止め、強い人間かもしれないと勘違いをして挑戦して来た。

 そこでもバレずにすんだもののつきまとわれ、さらに融和を快く思わない吸血鬼勢力の跳梁もあって一騒動。水無月を起こしたカノンが狙われてしまう。そして発動する水無月の力。過去、活躍しながら疎まれ忘れ去られた白檀式のこれからが、一人異質な水無月と少女との出会いから描かれそう。先の大戦で活躍しながら戦場で散り、忘れられたサイボーグたちが蘇り新たな戦いに臨む「エスケヱプ・スピヰド」にそこが少し重なるかな。今回はとりあえず退けたものの、融和を快く思わない吸血鬼たちとの戦いも始まりそう。そこに白檀式たちは絡んで来るのか。人類がしでかした愚かな行為によって冤罪を着せられた形の白檀式だけに復讐したい気もあるのでは。それはやっぱり無理なのか。いろいろと興味をそそられる。だから続きを読んでいきたい。初夏には出るかな。

 ひらりひらりと舞ってはタタタタタタと機銃を放って飛ぶ飛行機を撃墜していく空戦の楽しさがやっぱり1番の見どころな気がしてきた「荒野のコトブキ飛行隊」。イサオなるお調子者が登場しては平和を1番とホザいて評議員のユーリアから疎まれているけれど、そんな彼が流星を駆って空にあがればあっという間に敵機を退ける操縦の腕前を見せる。そうした空戦での活躍なり、コトブキ飛行隊の面々の鮮やかな操縦ぶりなりを描くために付随のドラマがあると言ったら言い過ぎだけれど遠からず、といったところか。とはいえすでに海が存在しない世界と明かされ、コトブキ飛行隊の隊長のレオナが過去にイサオを戦場で見たりと長い戦いが続いていたりと設定そのものへの謎も多い。っていうかやっぱりどうして日本の陸海軍で使われた戦闘機しか出てこない? 日本的な趣味が移設された星って訳でないなら日本的技術と文化が残った世界が存在し、受け継がれている理由がやっぱり知りたい。引きの絵で学校艦を見せたような種明かしはいつ? 見ていくしかないなあ。

 辞める辞めない辞めさせられる放り出されるクビになる辞めない辞めると、家でエア花占いをしていても気持が沈むんで、何が上映されるかわからないお台場の爆音映画祭でのシークレット上映へ。答えはウォルフガング・ペーターゼン監督の「ネバーエンディング・ストーリー」でありました。あのリマールによる主題歌のイントロが流れてきてすぐにそれと分かったし、その歌が爆音で場内に響いてとても聞き応えがあった。「ネバーエンディング・ストーリー」自体を映画館で見るのは実は初めて。大きな画面で見ると少年共々物語の世界に引きずり込まれる。読むことによって紡がれ生き延びる世界のために読む、という行為が読ませることへの強要かは迷うところではあるけれど、読まれたい物語と出会い広がる世界の喜びを知っているから、やはり言われずとも読み続ける、それが本読みというものなのだ。なんて思った。次は同じ1984年の作品で「すかんぴんウォーク」を。吉川晃司の歌う「モニカ」を爆音で聞きたいじゃないですか。


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