縮刷版2019年1月下旬号


【1月31日】 九州の風景が出て四国の風景も出たらしく、きょうしゅうちほーからごこくちほーへと行こうとして行けなくなったかばんちゃんとサーバルの無念を、ちょっぴり晴らしたかにも思えた「ケムリクサ」。線路の上を根っこで押しながら進む路面電車の歩みはそれなりに速いのかもしれないけれど、元いた場所ですら安閑とはできない雰囲気にあったものが過去にいろいろなことがあって姉たちを失った地へと入ってなおいっそうの緊張感。にも関わらず好奇心だけを発散するわかばの脳天気な振る舞いが、りんたちを窮地に陥れないかといった不安も浮かんでちょっと静かにしていろお前と言いたくなってしまった。

 でもそこは「のけものはいない」たつき監督の物語。ケムリクサへの興味がりなたちから関心を抱かれ親しまれ、そして現れたヌシとの戦闘の中でアイデアが活かされそしてりなの1人に向かったビームを跳ね返すという大活躍も見せ、パーティにおけるお荷物ではあり得ないことを見せてくれた。そもそもその正体が謎とうか明らかにわかばだけが人間だとしたら、りんやりつは何者だといった話にもなって視覚味覚触覚聴覚といった感覚がバラバラに受け継がれていたりする謎、ヌシの放ったビームで腕を吹き飛ばされても回復する体などいわゆる人間とは違ったところもある彼女たちの正体と、そして置かれた場所おへの興味がなおいっそう誘われる。

 「カンリ イロ ケンシュツ」をいう言葉を表示してヌシから生まれたルンバめいた何かが走って行った先に何がある? そもそもヌシやアカムシはどうしてりんたちを消しに来る? そうした謎が毎エピソードごとにふくらんでいく展開と、依然として安心の出来ない状況が毎週リアルタイムで見なくちゃといった気にさせる。というよりリアルタイムでないと怖くて止めてしまうか早送りしてしまう。アマゾンのプライムビデオで15分だけ先行するのを眺めつつ、テレビ放送を確認してそしてアマゾンをまた流して詳細を噛みしめていくような日々がまだしばらく続きそう。その果てに来る世界が平和なことを願いたい。りょうちゃんりょくちゃんりくちゃんも含め、みんな復活すると良いなあ。

 時代が時代なら国賊の誹りを一身に受けて身辺警護に人員を割かざるを得ない状況にあった気もする安倍晋三総理大臣による北方領土関係の言動。というかもはや政府レベルで北方領土という言葉すら“禁句”になっているような雰囲気で、北方四島と言い換えそしてそれを「我が国固有の領土」とこれまで長く使ってきた言葉から変えて「我が国が主権を有する島々」といった言葉を国会の場で堂々と使うようになった。これってやっぱり気分的には結構な後退で、頑ななまでに領土であると主張し続けることが誰かの不興を買うのなら、ちょっと立場を下げて主権はある、あるはずだけれど領有は出来てないといった状況を認めそこらかの進歩なり状況の追認なりへと進もうとしている節が見え隠れする。

 そうした安倍総理と政府のスタンスを感じてか、北方領土の奪還を長く主著鬱し続けて来た北海道の人たちが、「島を返せ」といったストレートな言動を引っ込め、そうした言葉が書かれた襷をもう使わないと言い、平和条約の締結を望むといったスタンスを見せ始めた。その平和条約がかつて決められた北方四島のうちの歯舞色丹2島の返還をのみ約束するのなら、主張は「我が国固有の領土」である四島の返還を諦めたことになる。それは果たして現地の人たち、かつて住んでいた記憶もあるだろう人たちにとってどれだけの屈辱なのか。けれども支える政府がそうなら従わざるを得ないのかもしれない寂寥感は、やがて国への信頼を損ない人々の意識を削り取ってこの国を停滞へと導くだろう。まさしく売国なんだけれど、当人は何かを成し遂げ英雄になった気でいられる。何を言われても馬耳東風とばかりに。困ったなあ。本当に困ったなあ。

 見ていないけれども評判だけはやたらと耳にする「スパイダーマン:スパイダーバース」のアトラクションめいたものが渋谷に出来るってんでソニースクエア渋谷プロジェクトへ。幅が4メートルほどあるスクリーンに映し出される映像の展開に合わせてイスの下から震動が伝わってくるってもので、跳んだり跳ねたりすればその衝撃がお尻の下からずんずんと来るし、人を引きずるような場面ではジリジリジリジリといった引きずる感じがちゃんと伝わってくる。まあハプティクスベストを身にまとって全身に衝撃を喰らうようなアトラクションと比べると、震動しかなく幅も限られるけれどその範囲内でしっかりと展開を掴んではいたから、見ていてそれなりに没入感は得られた。立体音響ってこともあったし。

 んで「スパイダーマン:スパイダーバース」は大人のスパイダーマンがいて、子供のスパイダーマンが現れて女のスパイダーマンもいたりするような感じといえば良いんだろうか。そうした中で新しいスパイダーマンの成長と冒険が描かれるとして、どうしてアカデミー賞の長編アニメ部門にノミネートされる作品になっているかは見て見ないとちょっと分からない。絵柄はアメコミに寄せてあって漫画が動き出しているような感じ。見た目に新しいし懐かしい。完全な3DCGのキャラクターが動くよりは目にも親しみはあるけれど、それはカートゥーンになれた目であって日本人にはどう映るかってあたりもひとつの課題か。評判いいのはアメコミ好きなクラスターだし。その意味でも作品に注目。

 コンテンツではあとXperiaの3Dスキャン機能で顔を撮影するとそれが立体的なモデルになった上に「スパイダーマン:スパイダーバース」の予告映像に入り込めるといったものがあってこれもなかなか楽しかった。スパイダーマンの大か小かグウェンかどれになるかはやってみないと分からない。でもって僕の場合はグウェンになってちょっと奇妙なくすぐったい気分になった。あんなに細身になれたらなあ。3月中旬まで提供中なので行った人はお試しあれ。その場でURLをQRコードで出してくれるから、アクセスすれば自分が登場する予告映像のサイトにアクセスできるぞ。

 牛込神楽坂にあった出版会館が神保町に移ってそこで新潮ミステリー大賞の贈賞式があるってんで建物を見物がてらのぞく。近代的な会議室があってそこでしっかり贈賞式をパーティーができるようになっていて、その点は神楽坂時代と変わらないけれどもどこか古びた感じがまったりしていた神楽坂よりもキチンとしていて悲喜こもごも。これから使うところも増えると思うから居心地とか使い勝手とか検証してみたいかな。でも呼ばれる機械も4月からはなくなるかな。毎日が日曜日化によって。受賞をした結城真一郎さんは高学歴でイケメンだけれど顔写真とか外には出さない方針とか。2物の上に受賞歴という3物まで与えられてなんで引っ込むとか思うけれど、そうしないと世間の嫉妬を1身に浴びるから仕方が無い。それに顔も学歴も小説の面白さとは関係ない訳で、そこはこれから読んで判断しよー。「スターダスト・ナイト」変じて「名も無き星の哀歌」は記憶のやりとりができる設定でのミステリー。貴志祐介さんは低い評価だったけれど伊坂幸太郎さんが激賞していたのでまじめさよりも面白さが立つ作品なのかも。期待。


【1月30日】 いやもう「本陣殺人事件」で言うところの季が違っているとしか思えない厚生労働省の統計不正に関連しての第三者委員会に対する諸々の対応。第三者委員会による職員の聞き取りに対して官房長が同席したことについて行っている言い訳が「第三者委員会の事務局を務める厚生労働省として聞き取りの場に同席するのは自然なこと」というから呆れるというかまるで分かっていないというか。だって官房長じゃん。権力者じゃん。半ば責任者でもあるそんな人が同席をして、職員がフリーな立場で答えられる訳なんてない。自分が何か告発したくても、そこに事務次官とか大臣とかがいて言えるかと考えれば、それは無理って分かる話だろー。

 それなのに自分が同席することは、そうしたプレッシャーに当たらないとでも思っているのなら、もう思考回路事態がショートしているとしか思えない。それとも思考回路が存在しないとか。それが「厚生労働省としての責任を果たすためだった。対象の職員にきちんと調査に答えてもらわなくてはと考えた」って言うんだからまったくもって奇々怪々。そこまで思考が壊れているのかそれとも壊れたふりをしているのか。考えるなら同席することをどこかから求められ、そうした結果として何か言い訳を考えなくてはならず、事務局として当然といった答えをするしかなかったのかもしれないなあ。

 けど、そんな第三者委員会の報告書を厚生労働省の事務局が下書きしたっていった話も出ていてますます奇々怪々。自分たちを告発するような内容を事務局が書くとは思えない。というかそうした事務局に下書きを書かせる第三者委員会の態度がまったくもって意味不明。警察が犯人に調書を書かせるかと考えればすぐに分かる話だけれど、それすらも事務局だからといった理由で正当化しようとしている。厚生労働省のみならず第三者委員会も含めて何か、露見させたくない事情があるんだろうか。これも考えるなら、露見させることによって影響が及ぶ人のことを考え、極力露見させない方策をとっていった結果なんだろう。何者かへの忖度。おもねり。そんな官僚でいっぱいの日本が繰り出す政策が誰のためのものだったのか。結果はどうだったのか。その惨状が今なんだろー。参ったなあ。

 大手町から歩いて行けるシネコンのTOHOシネマズ日本橋がしばらく前から休業状態だとか。1つ2つのスクリーンで機材が故障することはあっても、すべてのスクリーンが止まるなんていったい何事って気がしないでもない。センターから配信されたコンテンツを各スクリーンへと流すサーバーがふっとんで、映画を流せないのだとしてもそれだって1日2日もあれば復旧できそうなもの。でもそうでないのは他になにか理由があるからなのか。大家の三井不動産が東宝と喧嘩した? それは流石にないよなあ。これで昔だったらフィルムをかついで回って上映でもできたんだけれど、今はそうした映写機なんてどこにも置いてないから。デジタルならではの利便性は裏返って不便きわまりない状況を巻き起こす。そんな教訓。さても復旧はいつになるのか。

 千桜家と舞原家が登場はしているけれど、「ノーブルチルドレン」のシリーズとは独立した物語になってる綾崎隼さんの「世界で一番かわいそうな私たち<第一幕>」(講談社タイガ、690円)は、10年前に誰も殺害されないバスジャック事件が起こって、結果として乗員も運転手もすべて無事に解放されたけれど犯人は忽然と消えてしまった。いったいどこへ? そんな謎の一方で、事件の過程で犯人の言葉を伝える役割を務めた幼い少女の詠葉は、何か余計なことを言えば大勢が死ぬというプレッシャーを受け続けたこともあって声を出せなくなってしまう。

 役割から犯人と結託していたとも疑われた詠葉だったけれど、同じバスジャック事件のバスに乗り合わせていた高校生作家の舞原詩季が、しばらくしてどうして犯人は消えてしまったのかという謎に迫る小説を書いて少女への疑いを晴らす。それでいじめのようなことはなくなったものの依然として声は出ないまま。学校に通うのもしんどくなった読葉に、詩季と妻の杏が運営しているフリースクールが誘いをかけて詠葉は家を出てそこに住んで勉強を続けることにする。

 そんなイントロを経て続く展開では、教師になりつつも教師だった両親と意見が合わず、喧嘩して家を飛び出したものの貯金が底を突いて行き倒れていた佐伯道成という青年を、通りがかった杏と声の出ない詠葉が見つけてフリースクールに連れ帰り、かつて粋だ折れていた大学生の女性をそうしたようにフリースクールの教師を任せる。なかなか熱意がある教師だったようで、中学校から進学したエリート校でサッカーや勉強を期待されながらも、いろいろあって学校に通えなくなり、移ってきた少年の問題に取り組むことになる。その解決の展開に一種の推理もあってミステリとして楽しめる。

 真相を暴いて糾弾することが果たして正しいのか、もっと別のやり方はないのかといった判断は勉強になる。そんなエピソードを経てひとつ、山は越えた感じがするけれどもやっぱり残るバスジャック事件の真相。そこにぐっと近づく展開がクライマックスに来て、そして続く第二幕でいったい何が浮かび上がって来るのだろうか。どうしてあんな事件は起こったのか。それは誰に何をもたらしたのか。犯人はどこに消えたのか。等々の謎が明らかになることをまずは期待。一方で仲むつまじい夫婦に見える杏と詩季の関係にも不穏さが見え隠れする。千桜家と舞浜家はそう簡単には相容れないのか、それとも。詠葉の声が出るようになるのかも気になるところ。そうした諸々が明らかにされることを信じて続きを待とう。

 1番シンプルなのは大河原邦男さんによるデザインで、それを安彦良和さんがテレビの中で作画監督としてキャラクターのように動かしたからこそロボットなのに躍動感を持って生きている感じを醸し出した。そんなRX−78−2ガンダムがだんだんとメカとして描かれるようになっていって直線の多いデザインの中、さまざまな機構が実現可能なように切れ目が入れられパーツが増やされて言葉を悪く言うならゴテゴテしていてった。さrにガンプラという3Dへの展開が可動の可否をデザインに求めるようになって、より工業製品といった雰囲気になっていた。そうしたガンダムの流れをここで押し戻そうというのがあるいは、奥山清行さんの事務所によるファーストガンダムのリデザインなのかもしれない。

 ピニンファリーナでフェラーリのエンツォフェラーリをデザインした際に、実はガンダムの影響をそこに盛り込んだらしい奥山さんだけにファーストガンダムへの思いは相当なのも。初代のあのスタイル、パンツをはいたような腰回りとかをそのまま活かしながらも脚がちゃんと胸に付くとか、体が曲がる手が肩に届くといった変形を可能にするような工夫をいろいろと凝らしているらしい。見た目とそして機能が一致してこその工業デザイナー。その職責をどこまでも突き詰めていった先にどんなガンダムが出来上がるかが今は楽しみ。大学での大先輩にあたるシド・ミードがターンAガンダムをああいった形にデザインしたなら、奥山さんはファーストガンダムをどうデザインし直すか。対決だ。


【1月29日】 ミステリと言う勿れ勿れ。としか言えないようなものすごいミステリ漫画を「BASARA」とか「7SEEDS」といった大ヒット作を幾つも送り出している田村由美さんが描いていたとは、何という漫画家のジャンルの幅広さ。カレーを作るのが好きそうな大学生の久能整(ととのう)にのところに警察がやって来て、近所で大学の同窓らしい人物が殺害されていてその犯人かもしれないといったことで事情聴取を受ける羽目になる。

 高校時代も同窓だったりして顔見知りでもあった上に整はその寒河江という大学生にあまり良い感情を持っていない。おまけにアリバイもないとくれば警察だって当然に疑ってかかるけれど、整だけは自分がやっていないことを知っている。では誰が、といったところで取調室にあって次々にやって来る刑事と対話をして自分からもいろいろと発信。また周辺での会話を耳にしてはそこから個々の刑事のお悩み相談のようなことも結果としてやってしまって、独特な立場を手に入れていく。とはいえアリバイがないことだけでなく、寒河江を刺したナイフから整の指紋も発見されてはもはや言い逃れはできない。

 それでも冤罪を自白はしないで対話をし続けていった果て、ある刑事の言動からひとつの答えを導き出してそのまま自分の冤罪を晴らしてしまう。指紋がついたナイフがあってもそんなものを冷静な殺人犯が残すはずがないという理屈、だったら誰かが侵入した可能性があるという類推からどうして入れたのか、そういれば家の鍵を落としたことがあった、それは誰に拾われたのかといった流れを作り、そんな自分の部屋の間取りをなぜか言えてしまった人間の存在から誰かが自分を陥れようとしていると看破する。

 観察と類推。対話と分析。そうした推理によってひとつの事件を解決し、また飛び乗ったバスがバスジャックにあってどこかへと連れて行かれた事件では、裏で巡らされていたとある殺人の犯人捜しを部外者ながらも解決してその実力のほどを改めて見せつける。その成果を買われて今度は広島で起こった遺産相続をめぐる親族間の血みどろの抗争めいた一件の、誰かの疑心暗鬼ではんかう本当に起こっていただろう恐怖からの陰惨な振る舞いを暴いてしまう。でもそうした事件に積極的に絡むことはなく、どこか巻き込まれた傍観者として関わってしまうところが体質なのか運命なのか。難儀なキャラクターだ。

 実は半ば誘導されるようでもあった広島へと向かう新幹線の中でも、乗り合わせた女性が生き別れの父親から受け取っていた手紙の文面と添えられたイラストの“矛盾”を発見し、さらに何が起こっていたかまで類推してしまう。ある種の天才が巻き込まれながらも事件を解き明かしていく楽しさを味わいつつ、そのふわっとしたキャラクターがもしかしたら秘めているかもしれない謎なり真相が浮かび上がって来る今後を読みたい。まずは広島の件がどこに帰結するか。整をどこか操っていいるような節もある我路という人物の関わりも含めて、今後刊行される第4巻が今は待ち遠しい。

 九岡望さんの「言鯨16号」(ハヤカワ文庫JA)をようやく読了。文明が滅んで砂だらけになった地球を舞台に変貌した生態系の中で少年たちが過去を探り冒険する話と思わせながら、舞台をすり替えて実はといった驚きを与えてくれる作品で、そんな舞台で人に見いだされそして打ち捨てられながらも、人の“意志”を次いで生きる者たちが己のルーツに迫り、衝撃を受けつつも突破していこうとする強さに溢れていた。そうした過程で示唆される言葉というものが持つ力についても、いろいろと教えられるところがあった。

 街が吹き飛ぶような派手さがあり、人が砂となって消える儚さもあってと提示されるビジョンがなかなかに起伏に富んでいて、映像にしたらとても面白そう。九岡さんと言えば2011年に本格的なSF作品だった「エスケヱプ・スピヰド」で電撃小説大賞を受賞してデビューしたけれど、その後に同じ電撃組では瘤久保慎司さんの「錆喰いビスコ」や安里アサトさん「86−エイティシックス−」なんかが人類の危機を描いた本格的なSFとして大人気となっているだけに、今一度「エスケヱプ・スピヰド」にもスポットが当たって欲しいもの。アニメ化になればなおいっそう嬉しいのだけれどなあ。3DCGアニメ全盛の今なら確実にマッチするビジュアルを持ったSFアクションだけに、もっと注目が集まって欲しいなあ。

 カリフォルニアアシカが眼鏡で谷間でひゃっはーだった「けものフレンズ2」。芸を見せればエサがもらえるという、飼育されているアシカやイルカに特有の一種の刷り込みを、動物の習性のように描いてしまうのは動物ファーストがモットーの世界観と相容れないような気もするけれど、イルカのジャンプ力とかアシカの人なつっこさなんかが見て楽しかったからここは良しとすべきなのかどうなのか。迷うところではあるなあ。そんなアシカとイルカに連れられて行った海の底でキュルルが見たステージの謎。そして海に漂うザワつきの正体など、不穏な空気も出てきて続く展開への興味は誘ってくれている。オオセンザンコウにオオアルマジロが調査を請け負っている相手は誰なのか? そこも含めて気になる謎が明かされるまでは見ていこう。アシカの谷間がもう見られないとしても。見られないのかな。

 蓋然性としてSMAPがファンに顔見せをすることなく解散へと至ってしまったルートがある程度、嵐の一気の解散ではなく2年の時間をおいての活動休止へと至らせたのではと見ることは可能で、そうした類推を中森明夫さんなんかは新聞に答えて堂々と開陳していたりするんだけれど、同じ事をネットで発信した矢野顕子さんにはSMAPに失礼だとか嵐といっしょにするなといった意見がぶつけられ、撤回から謝罪へと追い込まれたというところにネット上のパワーバランスめいたものが感じられて気になった。中森さんが謝罪するとか撤回するとか思えないのはそれで困ることはないから。矢野さんだって重鎮だから別に困りはしないだろうけれど、言われて傷ついたファンがいるならご免なさいをしたかったってことなのかも。そのあたりは優しいのか、やっぱり火消しに走っただけなのか。2年が経ってさらに時間も過ぎて「あの時、嵐は」なんて言われるようになって、真実めいたものも見えて来るんだろうなあ。

 熱心に読みふけった記憶は無いけれども存在はひっかかっていた橋本治さんが死去。70歳はいかにも若いけれども「桃尻娘」とか「桃尻語訳 枕草子」といった言語感覚に新しくて敏感な作品を次々に送り出した人って印象は持っている。美形とはほど遠いそのビジュアルも逆にポップでキッチュなイメージを醸し出す要因になっていた。かといって岡本太郎さんとか今の加藤一二三さんおように文化系のご意見番的な立場で消費されることもなく、文学の人といった印象をしっかり保ち続けたような気もする。その文学者としての業績についてはきっと文芸評論家が何か書いてくれるだろうから、それを待って判断をしつつ改めて何か読んでみよう。さべあのまさんが絵を付けた作品があったなあ。


【1月28日】 可能性として極めて高い4月からの“毎日が日曜日”に備えて、どこにも行かない日曜日気分を体感するべく、闘会議2019から戻って夕方には布団に入って何もしないで過ごす体験をしていたら眠ってしまって、そして気がついたらジャニーズ事務所の今や看板アイドルグループとお言える「嵐」が2020年をもって活動休止すると発表していた。まだ2年近くあるとはいっても、永遠に続くと思っていたグループがいなくなってしまう寂しさはやっぱりファンには強くある。一方で、ジャニーズ事務所としてもファンクラブに250万人だかが加入していてドームツアーを行えばどこも満杯になる稼ぎ頭が活動を止めてしまうのは相当に厳しい。そうしたツアーに付随して各地で発生していたホテル需要がまるっと消えてしまうのは地域にとっても痛手だろー。

 そうして文化的経済的気持ち的な喪失を差し置いてでも活動を止めざるを得なかった理由がやっぱり気になるところで、側聞するにメンバーにしてリーダーの大野智さんがしばらく前から自由になりたいといった考えを持っていて、それをメンバーにも言いつつ考えつつしていたものがようやく叶ったといった感じ。他にいったい何がやりたいのかは分からないけれど、個人としてアーティスト活動もしていた大野さんだけにそっち方面への関心もあったのか、それとも長く突っ走り続けて来ていささか疲れてしまったのか。それは他のメンバーも同様だけれど、リーダーとしての気負いもあっただろう中で将来を考えた時、アイドルグループとしての活動も箇々の活動も行き詰まると考えたなら、自分でその先を考え試す時間が欲しかったのかもしれない。

 そうした目的があっても逆になかったとしても、休みたいという心情はとても貴重で大切なもの。もちろんファンに対するアイドルとしての“責任”だってあるだろうから、そこを勘案しての2年という時間を設けたのかもしれない。先輩のSMAPがあれだけジャニーズ事務所に貢献し、そして日本のエンターテインメントを盛り上げてきたにもかかわらず、ファンと交流を持つ時間を与えられないまま不透明な会見を経てその後の登場を見せないまま解散となってしまった。今でこそ草なぎ剛さん稲垣吾郎さん香取慎吾さんの3人は「新しい地図」での活動も見られるし、木村拓哉さんも映画「マスカレード・ホテル」がヒットしてその演技力を見せてくれている。中居正広さんの司会業は堅調。でもそれはやっぱりSMAPじゃない訳で、最後の姿を見送りたかったというファンもいただろう。

 そうしたファンへの責任と、そしてそれぞれの決断がぶつかりあって折り合った結果としての2020年をもっての活動休止なら、もう尊重するしかないし理解するしかない。というか強いファンでもない身には今もそれぞれが活躍しているユニットなら、グループとしての活動をセーブしつつ箇々でやりたいことをやるような期間にすれば良いとも思うんだけれど、やっぱり5人が揃ってこその仕事もつきまとう状況で、大野さんだけがセーブし続けるって訳にもいかないからなあ。仕方が無い。問題はだから「嵐」が活動を止めて以降のジャニーズの屋台骨を誰が支えるか、ってことか。タッキー滝沢秀明さんも舞台を降りてマネジメントに専念。TOKIOもV6もツアーで稼ぐタイプじゃないなら次なるユニットを今ある中から育て盛り上げていくってことになるのかな。やっぱり「King & Prince」か。「関ジャニ∞」かもなあ。ってやっぱり「嵐」ほどの強さが。「KAT−TUN」がそうなれれば良かったんだけれど……。難しい時代にあるのかもしれないなあ。

 録画分をようやく見られた「荒野のコトブキ飛行隊」はうん、レシプロ戦闘機のリアルな空戦をとりあえず満喫するアニメーションとして位置づけつつ、その間に戦闘機を駆る少女たちとかおっさんたちのやりとりを眺めるのが今のところはベターなポジションといったところか。大きなストーリーらしきものが動いている感じはないし、コトブキ飛行隊にも大きな目的がある感じでもない。ただマダム・ルゥルゥに雇われて契約の範囲内で空を飛ん闘っているといったところで、その果てに得られる栄光だとかお宝といったものが提示されていないから、絶対に勝てといった応援の気持があまり湧いてこない。だから漫然と空戦を見つつ主人公チームだし撃ち抜かれて血みどろになって死亡といった展開にはならないだろーといった安心感が漂ってしまう。

 1人でも欠ければそこに違いも出るのかもしれないけれど、今のところはそうした傾向は見えず。ただ街があって攻めてきたエリート工業なる空賊のちょっと高級な連中がいて、商売のネタを持っていったので奪い返しに行くといった続きのストーリーが提示された。あとはだからその筋に沿って乗り込んでいったコトブキ飛行隊が、新たな発見から続くストーリーへと向かうかどうかってあたりが重要になりそう。そうなる保証もないけれど。それもしてもヒラヒラと飛ぶなあ日本のレシプロ戦闘機たち。どうしてそれが現存をして使われつつお宝扱いされているのか、といった世界観に対する謎もいずれ明らかにされると機体。ただ面白いから持ってきただけのパラレルワールドじゃあ納得できないし。どうなんだろう。

 「騎士団長 島耕作」があるなら「ゴブリン 島耕作」なんてものもあってゴブリンスレイヤーにすりつぶされてしまえとか思ったりもした新展開。課長部長社長会長等々の役職を経てヤングに戻って時代は行き来していたものの、世界までまたいでしまうとはさすが世界の島耕作だけのことはある。だったらもういっそ島耕作が島耕作として生まれ落ち育つ中で島耕作とは何かを探求し、島耕作の本質を探ろうと世界中を旅し、そして島耕作たり得ようと日々勤しんでその果てに島耕作であるべきかを問い直し、島耕作なき世界を想像しつつ自らが島耕作であることの意義へとたどり着くといった哲学的思索をはらんだ大河コミック「島耕作 島耕作」なんてものを描いたら……誰も読まないか、埴谷雄高さんに小説にしてもらった方がいいかなあ。

 やっぱり取材で行けるとはとうてい思えない6月のAqoursのメットライフドームでのライブに潜り込むべく「僕らの走ってきた道は…」のCDを買って先行で応募する。まあ当たる気もしないけれども当選すれば行ってそして脱出できない所沢の地獄を体感するのだった。でも毎日が日曜日なので明け方まで粘ってそこから帰宅も可能か。もっとも翌日がさいたまスーパーアリーナでの岡崎体育さんのライブなんだよなあ。夕方からではあってもやっぱり相当に体力精神力を削られそうなんで、頑張ってその日に帰宅をしてそして翌日に備えよう。なあに毎日が日曜日だから1週間前からひたすらに寝て英気を養えば十分。そして事後も1カ月くらい眠って回復に努めると。それが可能な身分になるって素晴らしい! 訳ないよなあ、やっぱり。誰のせいだよまったくもう。


【1月27日】 第1セットを取りつつも第2セットを奪われ、崩れるかと心配されながらも第3セットでひとつブレイクをしたことがきっかけになったか、全豪オープンテニスで女子プロテニスプレイヤーの大坂なおみ選手が第3セットをそのまま奪って見事に勝利してグランドスラムでは2018年の全米オープンに続く優勝を成し遂げた。これでランキングも世界一に。日本国籍も持っていて登録も日本ということで、アジアの選手ではランキング1位は初かというととっくに車いすテニスの国枝慎吾選手がとってはいるんだけれど、伝統的なテニス競技として考えるならば男子と女子の選手ではアジアで初の1位とこれは言えるだろう。

 たとえばシュティヒ・グラフであるとかモニカ・セレシュであるとかマルチナ・ナブラチロワであるとかマリア・シャラポアであるとかビーナス・ウィリアムスにセリーナ・ウィリアムスの姉妹といったレジェンド級の女子テニスプレイヤーに並んだかというと、圧倒的な強さしか感じなかったおうした女子テニスプレイヤーたちの域に大坂選手がたどりついているかは判断に迷うところ。それはまだ2つめだということおあるし、絶対に負けそうもないといった雰囲気を漂わせていないように見えるだけってこともある。ヴィーナス&セリーナって今でもコートに経てば負けそうな雰囲気、ないものなあ。実際には負けているんだけれど。

 だからそれは、まだあまり強くなかった頃の印象が日本の選手ということで残っているだけで、強豪として活躍ばかりが目に付く海外の選手とは受ける印象が違ってしまう。ここであと1つでもグランドスラムをとれば、試合の運びも冷静で強靭といった印象をさほど前と変わってないのに抱けるようになるのかも。全仏オープンはクレイコートでウインブルドンはグラスコートと条件も違ってくるけれど、今の強さなら上位には行けるんじゃなかろーか。あとはだから冷静さか。雑事があっても惑わされないで練習を積んで地位を確保する。残念だけれど男子の錦織圭選手はもう若くはないし怪我も目立つんでグランドスラムの優勝は厳しいかもしれない。大坂選手は若い上に怪我も聞こえて来ないから、まだまだ行けるしいって欲しい。たとえ国籍がどうなったところで、そういう凄い選手がいたという記憶は永遠に僕たちを楽しませてくれるのだから。

 音響監督の長崎行男さんが乗り込んで調整したっていうことで、イオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンでもって「ラブライブ!サンシャイン!! The School Idol Movie Over the Rainbow」を鑑賞、たぶん5回目。低音のブーストが効いていて冒頭の楽曲から響く響く。そのためかやや歌声が埋もれてしまっているかなあとも思わないでもなかったけれど、ライブだと割とある話なんでそこは迫力のサウンドを味わうことにしよう。Saint Snowの2人が歌った「Believe Again」は割と聴き取り安かったので2人で歌う歌だけを音圧を上げやすいけれど、6人なり9人のAqoursでは複数人が歌うから総合で音圧を整える関係で部分部分が弱ってしまとか? ちょっと気になった。

 サイズたっぷりのULTIRAスクリーンはライブシーンとかやっぱり迫力で、Saint Snowのあの過激な衣装を見上げるように浴びるように見られるのがとても嬉しい。実際のライブに登場したってあれだけのサイズ、あれだけの距離で見られることなん絶対にないから自在に距離もサイズも調整できるアニメーションは有り難い。所沢でのAqoursの5thライブでもしもSaint Snowが登場するならカメラワークで函館での誰も見ていないライブを再現して欲しいけど。どうだろう。仕事で観に行くことは多分きっと絶対にないから頑張ってチケットを取ろう。というか映画を受けてなおAqoursってどういう活動を続けていくんだろう。アニメとはリンクしないなら6人になる訳だけれど実際のライブもそれではやっぱり足りないからなあ。新メンバー、なんて話もあるか。それはないか。いずれにしても様子見。

 どうせだからとイオンシネマ幕張新都心から歩いて幕張メッセまで行き闘会議2019。JeSUによるeSPORTS国際チャレンジカップ〜日本選抜vsアジア選抜〜の「ウイニングイレブン2019」による大会を見物する。「Overwatch」だと慣れていない目には誰がなにをやっていてどういう状況で勝っているのか負けているのかそれは凄い技なのかといったことがすぐには分かりづらかったけれど、こっちはサッカーなんでプレイの状況も得点経過も一目で分かって応援しやすい。日本でだからeスポーツがもっと浸透していくなら、こうした分かりやすさでもってアピールするか難しいゲームならそれを分からせるようなPRをするかが重要になっていくんじゃなかろうか。

 さて試合の方はどやら1対1で迎えた第3試合をアジアカップで優勝したN高校の学生さんがプレイしたようでアーセナルを持ってリバプールを持ったアジア選抜を相手のまず1点、そしてもう1点を奪って2対0で勝利をして見事に種目を勝ち取った。日本のゲームだから日本が強いかというとそうでないことは世界で行われている「ウイニングイレブン」の大会が証明している訳で、それでも期待に応えて大一番で勝ちきる強さが選手個人にあったってことなんだろう。そうした個人の偉業を讃えられるとともに、全体として望んだナショナルチームとしての栄冠も讃えられるというのが今回の大会の特徴。表彰式で国家が流れて国旗がクローズアップされる光景は、“たかが”ゲームの大会だという認識にひとつ楔を打ち込んで、世間の印象も変えていくんじゃなかろーか。

 アジアカップという一種の世界大会で、金メダルをとって国旗を掲揚され国家を斉唱されてもなお遠いジャカルタの地だっただけに、日本に今ひとつつたわって来なかったその栄誉も、こうして国内でナショナルチームによる活躍としてとらえられ、アジア選抜を破って日本が勝つ、逆に日本が望んだもののアジア選抜の力に屈するといった状況が、ゲームも国際的な大会なだといった印象を世間に植え付け広めていく一石になるんじゃなかろーか。それはちょっと期待しすぎか? まあ段階を追って一つ一つ積み重ねていくことが肝要。次のナショナルチームによる大会があるかは不明だけれど、秋には今度は茨城国体でもってeスポーツが文化プログラムの一環として行われることになっている。俄然注目も集まりそうな中、どれだけの試合を見せて共感を得られるか。そこに向けたPRが始まりそう。種目によっては勝敗が分かりづらいなら要点を解説するような番組を、提供していく必要もあるかなあ、茨城県として。あるいはゲーム業界として。eスポーツをがっつり取り込みたいテレビ局ももちろんに。

 コミンテルンの陰謀が日本を太平洋戦争へと導いてそして戦後の腑抜けた日本作りにも影響力を及ぼしたんだと主張している人と、沖縄県で長くデモが行われている場所から40キロも離れたトンネルの手前で、向こう側は怖いと言って煽ったネット番組が民放によって放送されて物議を醸した人と、日本に来て日本を持ち上げる発言をして喜ばれている外国人の歴史研究家を壇上に、日本国旗のみならず旭日旗まで掲げては日本は世界から好かれていると、実はすべてがそうでもない話をすべてそうだといった具合に喧伝し、日本が行ったことを反省しようとする態度を自虐史観だといって否定するようなトークイベントが、ライティな団体によって開かれているならまだしも公器たるメディアの関連部署による主催で行われているという状況をもって明日の見えなさが濃さを増す。本当に立て直そうとしているのか共倒れを狙っているのか。単純にそれが共倒れと気づいてないんだろうなあ、狭い範囲での盛り上がりを狭い視野から見ているだけだから。参ったなあ。


【1月26日】 JAEPOには行けなかったけど闘会議2019は見ておきたいと朝から幕張メッセへ。そうか次世代ワールドホビーフェアも同じ日時で開催か。あっちは子供がゲームに限らず玩具も含めて親しむ場であり、闘会議は主にゲームを中心として盛り上がる場。棲み分けは出来ているけれども両者は決して分断はされていない訳で、子供がゲームの腕前を競い合うような場を設けて行き来できれば共に盛り上がったんじゃないかなあ。スプラトゥーン甲子園とか次世代ワールドホビーフェアに来る子供たちも関心ありそうな大会だし。JAEPOを取り込んだみたいなことはあり得るかな。あり得ないかな。

 それにしてもeスポーツばかりという印象だった闘会議。もともとがそういったゲームの対戦をメインに見せるイベントだし、かつてあったアーケードゲームの対戦が繰り広げられる闘劇というイベントをスピリッツとして汲んでるところもあるから当然といえば当然なんだけれど、そうしたイベントが2日間、幕張メッセの多くを使って繰り広げられるくらいに大きなものになったというのは凄いこと。どこもかしこも観客でいっぱいだったし、プレイヤーも相当な人数が訪れていた。そうやってプレイヤーと観戦者が双方で盛り上がってこそのeスポーツな訳で、そこへと至る道筋がだんだんと出来上がっているといった感じ。

 そんな中でもJeSUこと日本eスポーツ連盟が主催しているアジア選抜と日本選抜との対戦イベントは、将来のナショナルチームが国を背負ってパブリックな場で戦うような展開へと至る道筋として重要な意味合いを持っていたかも。プロフェッショナルがチームとして、あるいは個人として戦い勝利して賞金を得るような展開ももちろん大切だけれど、そうした実利の一方で国の名誉という無形のものにタイして果たしてプレイヤーが心を傾けられるのか、そして国の代表として闘っている人たちに観客が心を寄せられるのか、といった試行的実験が、ああいった大会を経て行われていった果てにオリンピックのような場で、eスポーツが公然の競技として認められ行われて誰も違和感を覚えない状況が来るんだろう。そういう風潮を作り上げられるか。広告代理店の腕の見せ所かなあ。プレイヤーの意識ももちろん含めて。

 会場ではフードコートもうろうろと。スマホゲームのガチャにちなんでうどんがガチャで出てくるメニューがあってSSRだと牛肉たっぷりのうどんなのがNだと月見うどんだったりして当たり外れが激しそう。800円で月見うどんはかえってレアかもしれないけれど、出てうれしがれるものでもないからなあ。あとはデラ盛りでお馴染みのキッチンDIVEが出展していて茶色い揚げ物と粉物が白飯なんかもふくめてぎっしり詰まった弁当を並べて売っていた。安いものだと500円だけれどそこにコロッケとハンバーグが2枚ついてご飯もたっぷりだから財布に優しくお腹に嬉しい。普段から買えれば買っているなあ。でも近所にはないし。いっそ暮らすかその近所で。どうせ毎日が日曜日になることだし。

 AnimeJapan2019のステージプログラムをつらつらと眺めていて、ひとつ気になったのがアニサマ2019の出演アーティスト発表イベントの司会が、ここしばらく担当していた鷲崎健さんではなくって、フジテレビアナウンサーの井上清華さんになっていたこと。なるほど、BSフジが絡んでいろいろと盛り上げていることは感じていたけれど、アニメとアニソンに詳しくて出演するアーティストをしっかりと持ち上げられる鷲崎健さんは、司会としてなかなか貴重な人選だっただけに、どうしてなんだという気がしないでもない。

 これで新人アナウンサーの井上清華さんがちゃんと仕切れれば問題ないし、MCにMOTSUさんがいるから盛り上がりは期待できそうだけれど、ステージもひとつの番組プログラムとして運営しかねない雰囲気の中、ひとりひとりのアーティストがアニサマという晴れ舞台に望む気持ちをちゃんとアピールできる場になるのか、単純にわちゃわちゃとして賑やかな番組としてステージを作ってしまうのか、そのあたりがやっぱり気になってしまう。今のテレビ局ってオタク心を無視してやりかねないからなあ、番組化。まあ、こうして変わっていくんだろう、巨大になりすぎたアニサマってイベントは。ごくごく初期から取材をして来たけれど、去年は取材を申し込んだら断られたくらいに変わって来ているから。同じ目ん玉なグループであるにも関わらず。お手並み拝見。

 リンクしている2つの世界の片方が長く紛争が続いている上に圧政でもって大勢の人間が弾圧され虐げられていたりする一方で、もう片方の世界が長く平和を謳歌しては繁栄して人口も増えて人にあふれかえっているってことがあるのかと、ちょっと考えたかえれどもそういった難しいことを考えないほうが良いのとあるいは、片方に生まれて片方には生まれていないような人間も中にはいるかもしれない可能性を勘案してここは触れずにおくとして、とりあえず2つの世界が行き来できるようになった時に皇国の傀儡皇女とその黒幕たちはいったい何がしたかったのか。ちょっと深く考える必要はありそう。転移して虐殺なんてしたら自分たちにも及ぶかもしれないのに。それとも支配して美味しいものをいっぱい食べたかった? 相互に人質になるのは明白なのに? やっぱり考えようもうちょっと。

 そうした設定面での謎をおけば片方が失われた時にもう片方も失われてしまう理不尽さに直面して浮かぶ悔しさと悲しさとやるせなさ、そういう運命だと知ってしまった当人にも浮かぶ悲しさと恐ろしさという奴は存分に味わえた。ごくごく普通だった日常に少しずつしのびよるもうひとつの世界の事情。それが一気に膨らんで爆発をした先、やる気を失っていたもののそれではだめだと立ち上がり、世界を救おうと走り出す少年たちとそして少女の活躍を見る分にはとてもとても素晴らしい映画だった「あした世界が終わるとしても」。アクションはスピーディーでスタイリッシュで格好良く、そしてプロダクションデザインはメカももうひとつの世界の様子もどれもしっかりしていた。

 そして3DCGによるキャラクターの表現。あいみょんの歌に合わせてただ歩くだけの予告編めいた映像では、CGに特有の首の据わってなさが感じられもしたけれど、それは本場でもやっぱりあったものの長く続く展開の中では人間らしさといったものにすり替わって見ていて違和感を覚えなかった。谷口悟朗監督の「revisions リヴィジョンズ」はもうちょっとキャラクターデザインに寄せているところがあるけれど、こちらはもう少し実写の人間に近いデザインで動きちったところか。

 表情も視線が時々泳ぐところとか人間らしさを出そうとしていた印象。ずっと見つめていたって人間の視線ややっぱり揺れる。それが生命らしさを醸し出しているなら合わせようとした感じか。とはいえ顰みとか歯がみといった表情までは付けられていないかなあ、そこはだから声優さんの声が頑張るといったところ。そもそもそこまで寄せるなら実写でやれば良い話。アニメーションとしてのなじみと新しさを合わせた次の地平を目指そうとした作品として、技術的には花丸を差し上げよう。物語的なことについては言わないでおこう。


【1月25日】 全豪オープンで決勝に進出して2大会連続のグランドスラム優勝も可能性が出てきたテニスの大坂なおみ選手が、年明け早々に巻き込まれたとも言えそうな日清食品によるアニメーションCM。ともにスポンサー契約を結んでいる錦織圭選手と登場しているんだけれど実在の大坂選手に比べてアニメーションのキャラクターは膚の色が白くて髪も金髪に近かったりして外国人のテニスプレイヤーといった雰囲気に“変えられ”ている。それは大坂なおみ選手として見なければ日本のアニメーションによくある美麗なヒロインとヒーローなんだけれど、モデルが存在する上でそうした変更は一般にホワイトウォッシュと呼ばれて、非白人に対する差別とも侮辱ともとれる振る舞いだと非難される。

 アメリカにあるIMGがマネジメントを担当していて、世界で活躍している大坂なおみ選手がそうした状況に疎かったとは思えないし、まだ年若い大坂選手自身は、大人気漫画でアニメーションもミュージカルもヒット中の「テニスの王子さま」の許斐剛さんが描いてくれたキャラクターが元になっているから喜んでいたかもしれないけれど、少なくともIMGにように多国籍の選手を多く抱えているマネジメント会社が、批判を浴びてクライアントの評判を大きく落とすような事態を見過ごすとはちょっと思えない。だからもしかしたらアメリカのIMG本部はそうした展開を知らず、日本のブランチがアニメーションに溢れた日本の環境でヒーロー&ヒロインの像として普通だと思ってゴーサインを出してしまったのかもしれない。

 とはいえ今度はだったら作らせた側であり、仲介をしただろう広告代理店の人間なりが気がついて、途中で変更を示唆するくらいのことがあっても良かった気がするけれどもそこでどういう判断があったのかが見えないところが気に掛かる。アニメーションそのものには関わっていないだろうけれど、原作者の許斐さんはどうやら原案となった2人のイラストレーションを描いている様子。その膚の色は……となった時に制作現場は原案を尊重してアニメーション化にあたってキャラクターデザインを起こし、色指定をして動かしたのかもしれない。

 そこで異論は言える雰囲気だたか。制作を依頼したクライアント側は問題を認識して変更するよりも何かを尊重してそのままを貫いたか。少なくともどこかの段階、どこかのセクションで問題意識が浮上していたかも含め、それを勘案して決断する中心が存在せず、思惑と思いやりで転がっていく組織のこの場合は拙さが表れた一件のような気がする。結果として日清食品は謝罪したけれど、大坂選手側の見落としなり問題意識の欠如なりがあったとしてもそれは埋もれ、もともとの原案の方に違いがあったとしても、アニメーションそのものには関わってないという言によって責任は及んでいない。それが八方丸く収まる落としどころだとしても、それでなあなあにしないで何が問題となって、それがどうしてスルーされたかを突き詰めておく必要があるような気がする。そういう業界だから。

 シャツの1万円が高いかというとDCブランド全盛の折に定番で1万円くらいのシャツを普通に買っていたしY’s for Menとかになると2万円を超えていたからそれほど異常に高いとは思わないんだけれど、デフレな今時だと3000円ですら高いと思われがちな中で1万円でカスタムなオーダーが可能なシャツを出して果たして受け入れられるかというと、そこは世界のポケットモンスターがデザインされたシャツならきっと大丈夫なんじゃなかろーか。オリジナルスティッチというアメリカのシリコンバレーを拠点にしてオンラインでカスタムオーダーが可能なシャツの販売を手がけているブランドがあって、そこがあのポケモンと組んでポケモン柄のシャツをオンライン注文できるようにするとか。

 いわゆるキャラクターとのコラボって奴だけれど、よくあるパターンではキャラクターのイラストがそのままデザインされたようなものが大半で、そうしたキャラクターを愛でる人にとっては嬉しいものの普段使いが出来るかとうと難しかった。オリジナルスティッチによる「ポケモンシャツ」の凄いところは「ポケットモンスター 赤・緑」に登場した初期の151種類のポケモンが、すべてオリジナルのデザインでもって描かれていることで、ピカチュウはまだ分かりやすいもののプリンとかになると遠目にはピンクの格子柄のシャツにしか見えないんだけれど、近寄ると格子の重なって濃くなった部分がしっかりプリンになっているという工夫ぶり。これなんて普通に着ていたら絶対に気づかれないんじゃなかろーか。

 オニドリルなんてそれこそアステカ文字みたいに図案化されてて普通は気づかない上に、それが茶色いパターンでもって並べられているから遠目にはちょっとしたバティック柄のシャツにしか見えない。開襟シャツにして茶系のスーツの下に襟を出すようにして着たらもうコロニアルファッションのダンディーでしかないんだけれど、そこにしっかりとポケモンが潜んでいるというオシャレぶりは今までのキャラクターファッションの常識を覆しそう。逆にコイキングみたいに巨大なパターンでもってプリントされていて、他に間違えようのないものもあるんだけれど、金魚とかがパターンになった和柄のシャツだってあるからそれの変奏を見て取れないこともない。夏にオープンシャツとして着ると涼しそうだなあ。

 何でロックなんだと聞かれれば、6回目だからということらしいAnimeJapan2019の概要発表会を見物。ロックテイストのビジュアルが作られそこでギターを抱えた「ソードアート・オンライン」のキリトとコラボレーションして抱えたギターのモデルになってたギブソンのレスポールを1台、チャリティーで販売することになったそうで今までの漫然と各社のブースを並べていた時よりもグッと踏み込でイベント全体を面白くプロデュースしたいような意欲が感じられる。グッズもロックテイストのイラストが描かれたチケットホルダーにパーカーと使い勝手も良さそう。あり合わのキャラクターを貼り付けただけのグッズでは満足されないのは「ポケモンシャツ」と同様で、あとはだからそうしたオリジナルのキャラクターをどううまく確保し権利者に認めさせ転がせるかってところがビジネスの要諦になるんだろう。AnimeJapanはその権利者が主催しているって意味で転がしやすさもあるんだろー。

 48ものステージイベントが公表されて、20周年の「おジャ魔女どれみ」のステージとかあるみたいで懐かしいやら嬉しいやら。今でこそプリキュア全盛だけれどそれ以前はいろいろな試みが行われていて、そんな中に「おジャ魔女どれみ」のようなアニメーションもあったんだよ、ってことを思い出して欲しい。あと何十年もプリキュアをやる訳でもあるまいし。やったりして。やりかねないなあ。個人的に興味はアニメーションの制作現場を紹介するコーナーで、去年は「名探偵コナン ゼロの執行人」の宣伝企画の概要だとか、パッケージソフトの制作過程だとかを並べてた。今年はロックだから音ってことで「アニメノオト」をテーマに「機動戦士ガンダムNT」を取り上げ声優さんの声だとか音響だとか音楽といったものがどう作られ付けられていくかを見せるらしい。アフレコは知られていても効果音とかBGMとかどう選ばれているか、どう作られているかはあまり気にされないからなあ。いやでも今は岩浪美和さんのように音響で映像ビジネスを変えようとしている音響監督も出ているから、そうしたビジネスへの足がかりを得られる展示になるかも。開幕したら観に行こう。


【1月24日】 高所に張られた細いピアノ線の上を、命綱も付けずに目隠しをして裸足で歩くパフォーマーを見ている気分とでも言うんだろうか。たつき監督によるテレビアニメーション「ケムリクサ」は見ているだけで次にどんな悲劇が待ち受けているんだろうといった戦慄が背中に走って、目を背けたくなるんだけれども何が起こるのかを確かめなくてはいけないといった気持も重なって、不安の中で目を凝らし続けるという今までにない視聴体験を余儀なくされている。録画だと耐えられなさに早送りしたり飛ばしたりしたくなるから、AmazonプライムでもTOKYO MXの放送でも、リアルタイムでの視聴がこのアニメーションの場合は良いのかもしれない。リモコンは遠くにやってチャンネル替えも電源のオフもできないようにしつつ。

 誰かの命が失われることも覚悟しつつ、それでもジリ貧になると感じて一島を出ることを決めたりんやりつやりなたちは、わかばを載せて路面電車をみどりちゃんの根っこで推しつつ前へ前へと進んでいく。線路が切れていれば補修をし、邪魔なものがあれば外に放り出して進んで壁に達して超える超えないといったところで起こった異変。地震めいて地割れめいた状況の中、帽子に入ったあれは何かのカタマリが落ちそうになったところをわかばが身を投げ出して抱え込み、そのわかばを後から飛び出したりんがつかんでりつの触手めいたもので引っ張り上げられ、失わずに済んだことでわかばに対するりんの態度がさらに変わっていく感じ。それは恋? というか恋を理解する種族なのか?

 自分たちをヒトだというけど、明らかに生物学的なヒトではないリンたちは、誰かから生み出されたそうで最初はもっといたけど過去に飛び出していった先で失われてしまった。そいういう話が過去を振り返るようなトークの中で行われて、次に誰かが失われる可能性というものを常に感じさせてそれが薄氷を踏みピアノ線を渡る怖さを醸し出す。残り少ない水は電話ボックスを改造した水槽に溜められ電車の上にくくりつけられてはいてもいつ転がったりこぼれたりするか分からない、そんな不安定さも心を不安にさせる。次から次へとフレンズたちが現れ友だちになっていった「けものフレンズ」とは逆位の喪失が前提となった物語は、見ていてとても辛いものがある。

 そんな展開があって繰り出されたエンディングがまた辛い。6人のシルエットが映りながらも1人が消えてまた消えて、りなたちも描かれながらも数人がいなくなってさらに消えていく展開は、ここに至るまでに失われた存在を想起させつそれが今後も起こるだろう可能性を示唆。失ってしまった悲しみと失うかもしれない悲しみの合わせ技に涙が出てくる。そうした状況にあって底抜けに明るく好奇心が旺盛で正直ウザいわかばという存在が、勝手をやってりんたちを危険な目に遭わせかねないところが正直言って嫌いだけれど、その明るさとあとは謎めいた存在故の力があって救われるところもあったりするだけに、全体を持ち上げる役割としてこことは認めるしかないのかも。

 ちなみにエンディングでは監督の名前が尾本達紀になっていてそりゃ誰だって思うかというと、今や知れ渡っているうのでどうして名前を変えているのかが気になって仕方が無い。組んでいる河野宏樹さんは東京藝大院アニメーション専攻の第2期修了生で「creator」って作品が割と知られてるストップモーション・アニメーションの人。同じインディペンデント出身で組み名前を並べるのなら漢字4文字で合わせた方が見栄えが良いと判断したのか。ともあれ自主制作版にも描かれなかった世界に入っていきそうな展開で、まずは目の前のボス戦らしい展開を乗りこえ、今いるメンバーが揃って二島三島へと行き、失った者たちの復活なんてものもあってハッピーなエンディングを迎えられたら嬉しいんだけれど、果たして。

 いろいろと社会的な発言が世間を騒がせている落合陽一さんがメディアアーティストとして、というか写真家として展覧会を開くってんで天王洲にあるギャラリスペースに見物に行く。そういえば大昔に東芝EMIがマルチメディア部隊を置いていたのがこのあたりだったっけ。ザ・ローリング・ストーンズのCD−ROMとか作ってたんだ。今はもうウエブとアプリの勢いに埋もれてまるで関心を持たれていないマルチメディアだけれど、パッケージか否かはともかくメディアをミックスして表現する、それもリニアではなくパラレルも含めて感じさせるという意味で、現代にも通じるものだと思うんだけれど、過去のCD−ROM時代のそうしたノウハウって活かされているんだろうか。気になった。

 落合さんの写真はアメリカで流行ったコンテンポラリーフォトグラファーズの傾向と、それが日本に持ちこまれて流行ったコンポラ写真の雰囲気が出ているというか、とくに作為もしないで街だの何だのを切り取っていくといったところ。それらを分類して空だとか森だとか看板だとかをまとめ並べるとひとつの傾向が出て作品になる感じ。1990年代に入ってホンマタカシさんとかが風景をただ切り取り並べる傾向の写真で一時代を気づいた感じがあるけど、それ以前の荒木経惟さんとかが女性ではなく街とか空とかを撮る感じに近いかな。ぐるりと回って戻ってきたとも言えるかも。

 メディアアートな作品もあって古いNTSCのモニターから最新の8Kのディスプレイも並べて同じ画像を写し出す、といった状況から果たしてメディアアートというのは機種に依存してノスタルジーの産物になってしまうのだろうか、適度に施されたエイジングとして過去の作品に価値を見るのだろうか、なんて考えを喚起させていた。ナム・ジュン・パイクさんのモニターを使ったメディアアートはブラウン管で何が映されているかというよりは、それ事態も光りの文様として止まらず変化する中で全体が醸し出されるようなものだったから、解像度がたとえ8Kになっても意味を失わない、かというと走査線なんて出ない時代のディスプレイでは作れないんだよなあ、だからやっぱり過去のデバイスに依るところがあって、時代とともにノスタルジーに埋もれてしまうと言えるかもしれない。どうだろう。新元号下のメディアアートをちょっと本気で見ていきたい、どうせ毎日が日曜日になるのだから。

 松本人志のアイドルに対する非道な発言がやり玉に挙げられ、放送に対するチェックの甘さだの矜持の足りてなさがいろいろと言われていたりするお台場のテレビ局が今度はニュースでもって韓国人の交渉術という、特定の国家の人間一般に対する誹謗めいた内容を放送してまたやり玉に。傾向としてはあってもすべてはなく、また誹謗に類する内容を遍く国民に特徴的なことだと言って批判めいた言動をするのはまさしくヘイトに他ならない。エスニックジョークだって憚られるご時世に、マジに韓国人一般としてそうした誹謗を流してしまえば当然に反発は出るし世間だって黙ってはいない。果たしてどういう反論なり釈明をするか。だんまりってことはないだろうけど、のど元過ぎれば何とやらって態度を決めこむのかなあ。しかし考えれば当然にヘイト呼ばわりされるだろう内容を、ニュースの場でフリップまで準備して報じるんだから意味不明というか、途中でこれはヤバいと誰も止めなかったのかというか。そういう方面に頭が回らないほど染まってしまっているのかなあ。新聞ならまだしもポップなテレビまでそうなってしまったのか。ヤバイなあ。


【1月23日】 真夜中から朝方にかけて「劇場版PSYCHO−PASS」。劇場で5回くらいは見ているけれどもやっぱりいろいろと面白い。入り込んだテロリストがどれだけ慎重に行動したって把握されては公安局の刑事たちにドミネーターで抹殺され、そして捕まっても人権なんてないとばかりに脳みそから記憶を引きずり出されて悶絶死。それを指揮したのがまだ若い監視官の霜月美佳ちゃんというのもまた殺伐とした管理社会のやるせなさってのを味わわせてくれる。でもそっち側に行ければこんなに楽な世界もないかもしれない。従って導かれ守って生きれば万事OK。それがたとえ作為に満ちたものであっても踏み外さなければ生きられるならそれで良いってことなのかも。いやいやどうか。

 同じ監視官の常守朱はそうしたシビュラシステムに諾々と従うことを潔しとはせず、人間が人間の正義と良心に従って行動することを尊んでいる節がある。生きづらいはずなのにそれでも色相が濁らないのは何か心に分厚い壁でもあるんだろうか、精神の構造が人とは違っているんだろうか、免罪体質でもないその精神と肉体はシビュラシステムにだって興味津々だろうなあ、潰してバラして調べようにも不可能なら生かして泳がせ観察する。だからずっと一線で活躍できているのかもしれないなあ。残念ながら今度の劇場版3部作では出番はほとんどないみたい(Case.3はまだ見てないから不明)だけれどその続きがあるとしたら、そこでは咬噛と朱と宜野座伸元の決着が見られると思いたい。続きだって? あるでしょそりゃ。あるはずだって。

 第91回アカデミー賞へのノミネートが発表されて長編アニメ映画賞に細田守監督の「未来のミライ」が登場。昨今のアメリカの映画祭でもノミネートされたりしていたから、まずは悪評が先行してしまって観る人を引かせてしまった日本とは違い、批評家なり映画人を中心に観て価値のある作品だといった認識がしっかりと広まった証だろー。子供の外界との接触とそれに伴う成長めいた話が描かれた物語ではあるけれど、周囲の人たちが自分に抱く気遣いであるとか、逆に自分が誰かに対して抱く感情であるとかをくんちゃんという子供を通して感じさせてくれた映画だった。あと綿々と繋がって今の自分があるという、生き物として当たり前の立ち位置。それらをエンターテインメントの中、ファンタスティックな展開もコミカルな描写も織り交ぜながら感じさせてくる1級のドラマを評価しない訳にはいかなかった、ってところか。

 居並ぶのは「インクレディブル・ファミリー」であり「シュガー・ラッシュ:オンライン」でありウェス・アンダーソン監督の怪作「犬ヶ島」であり全米で話題沸騰の「スパイダーマン:スパイダーバース」だったりと、興行規模的世界的認知度的に強敵揃いではあるけれど、こと作品性においては僕は「未来のミライ」は決して遜色はないと思っているし、割とありがちなストーリーに押し込められがちなアメリカの大作アニメーションにはない奥行きとそして隠れた部分があって、観れば観るほど味わえるとも考えているので、受賞しても不思議はないしそうでなくてもこれをきかけに観てくれる人が増えればファンとして嬉しい限り。ちょうどBlu−rayとDVDも発売になったけれど、ノミネートを機会に今一度、劇場で上映されたら観に行って真田アサミさんが福山雅治さんを相手に「にょ」とは言わないあの演技、むしろ「けいおん!」のさわちゃんのような演技を聞かせてくるのを味わいに行くつもり。どうかなあ。あるかなあ再上映。

 その「未来のミライ」も候補作になっていた第73回毎日映画コンクールでアニメーション映画賞は高坂希太郎監督の「若おかみは小学生!」が受賞。ベストセラーの児童文学を原作にしてテレビアニメーションも放送されながらも単独での作品が総集編か続編かといった立ち位置が見えずそれ以前に宣伝も多くなくって立ち上がりは苦戦したものの、圧倒的なストーリー力とそしてグローリー力が働いて盛り返し、観客動員も伸びて作品性も評判になってこうして映画祭に顔を出すまでの作品になった。そして受賞。「ペンギン・ハイウェイ」とか「さよならの朝に約束の花をかざろう」といったファンタジーやSFの傑作があり、何より細田守監督という大看板の作品もあった中からの受賞はやっぱり希有。良い作品を作れば認めれもらえるというのは去年のふくだみゆき監督「こんぷれっくす×コンプレックス」が証明はしていたけれど、改めて映画と向き合った審査をしている賞だと感じられた。

 そうやってアニメーション映画賞で商業作品を持ってくると、大藤信郎賞の方はインディペンデントな短編アニメーション作品を並べておきたくなるのがバランス感覚って奴なんだけれど、今回は山田尚子監督の「リズと青い鳥」というこちらも商業作品を持ってきた。まあ2016年度がアニメーション映画賞に「君の名は。」が来て大藤信郎賞が「この世界の片隅に」となって、どちらも興行的に凄まじかったのと作品的に素晴らしかったから外せず並べた感が漂ったものの「この世界の片隅に」は商業作品でありながらもアニメイト、人物の動きの部分で徹底した作画が行われ、また考証の部分でも緻密さの上に綿密さを重ねて過去を今に再現してのけた。そういった“実験性”を評価するなら大藤信郎賞は「この世界の片隅に」に相応しかったと言える。

 それで言うなら2018年度の大藤信郎賞を受賞した「リズと青い鳥」はエンターテインメント作品の「響け!ユーフォニアム」のスピンオフではあるものの、作画は独特で音響も凝ってて音楽ともどもスリリングな感じをもたらしてくれる。それが淡々とした演出とも相まって、冒頭からもう息を呑んで展開を見つめるしかなくなってしまう。引っ張り込まれるというか。試写の段階からそうだったし、大勢が集まる劇場であっても誰も喋らず一言一音を聞き逃すまいとして耳を澄ませて画面に顔を向け続けていた。そんな映画って実写だって今時あまり無いなら、画期的にして実験的なアニメーション映画として大藤信郎賞にこれほど相応しい作品もないって言えるだろー。

 もちろんインディペンデントな短編アニメーションが受賞して、クリエイターがこれをきっかけに大きく羽ばたいて欲しいという気もあるけれど、商業であそこまで凝られては仕方がない。スピンオフで日本アカデミー賞とかにはノミネートすらされない作品なだけにこうして評価を得られたことをまずは喜び、続く山田尚子監督の作品とそして「若おかみは小学生!」ともども脚本を担当した吉田玲子さんの作品がどんなものになるのかを見ていきたい、って吉田玲子さんは「ガールズ&パンツァー最終章第2話」が夏前に控えているのか。あとは湯浅政明監督の「きみと、波にのれたら」。今回のW受賞とそして「劇場版のんのんびより ばけーしょん」の素晴らしさも含めて吉田玲子さんへの注目が高まっている時だけに、やっぱり気になるなあ、次もその次もそのまた次も。

 またぞろ安倍ちゃん大好き文芸評論家が真正の保守とかどうとかいった立場でいろいろと書いた本を出すそうだけれど、本当に真正の保守を名乗るなら安倍ちゃん大好きなんかでいられないだろうってところが今の状況。自らを「真正なる右翼は日本に私ただひとりである」と標榜して演説をする「大日本サムライガール」の神楽日毬だったら「日本は強くあらねばならない。だが今の政治ではまったくダメだ」と現在の政治体制を真っ向否定し、トランプにべったりな外交姿勢についても「アメリカとは適度な距離を置くことだ」と指弾。そして北方領土を北方領土とすら言えずに北方四島とどこか客観的な立場から語りつつ二島返還を模索するような動きを見せていることに、「領土拡張も辞さず。権力者ならば、そのくらいの心意気で外交交渉に当たるべきだろう」と吠えて罵倒するだろう。

 それが右翼であり保守というものなのに、安倍ちゃん大好き文芸評論家は安倍ちゃんがやることならそれは正しく批判すればあまねくサヨクであると指弾する。そうした界隈が右翼だ保守だと言っていることにどうしてリアル神楽日毬は立ち上がらないのか。そこがだから権力者でもある安倍ちゃん界隈が持っている怖さでもあるんだろうなあ、一網打尽にされるくらいなら媚びても保守を標榜して生きのびる? でもそこまで落ちてないとは思いたいから今回の北方領土に関する先走った二島返還からの平和条約締結、そして実質的な国土放棄を叩いて貶して誹って否定するくらいのことをしてくれると信じたい。でなければ戦後70年、北方領土問題を担当して来た人たちも、その人たちの言説に従って返還を見守ってきた人たちも浮かばれないから。でもそういう人たちを反日というのが自称するところの保守だったりするからなあ。困ったものだ。


【1月22日】 ボスがかばんちゃん相手の時でしか喋らず、そしてパークをガイドするといって引っ張り回した挙げ句に道が途切れ、橋は流され川は濁流になっているという状況の激変を感じさせ、普通のテーマパークだったはずのジャパリパークにいったい何が起こったのかと想像させる一方で、森にはほかにもいろいろなフレンズがいて、そしてコツメカワウソはいつおたーのしーと言って遊び、ジャガーは泳げるという特徴を行かして川の渡し守をしていたろいう動物に即した習性を示して、フレンズたちが単に動物の着ぐるみをまおった女の子ではなく、動物が擬人化した存在なんだと感じさせた。

 そうやって、世界とキャラクターへの認識を広げ、だったら何が起こっているんだという興味を引っ張って次へと繋げる仕掛けが2年前の「けものフレンズ」第2話にはあったような気がする。すでにジャパリパークが廃墟化していて、そこに暮らすフレンズたちは動物の特徴を備えているといった認識の上に構築されているらしい「けものフレンズ2」が、いちいち説明をしたり不穏さを誘って関心を引っ張ったりしなくても良いというのは分かるから、淡々としたロードノベル的ストーリーになっていても仕方が無い。

 ただ、レッサーパンダが何か誰かの役に立ちたいとって知らない道案内を買って出るとか、どこに動物の要素があるのか分からなかったしジャイアントパンダも力強さを見せるという設定は活かされながらも、ジャイアントパンダでなければならない理由がどこか乏しかった。レッサーパンダとジャイアントパンダという、間違えられてガッカリ的な動物園あるあるを表現したかったのなら、それはけものはいてものけものはいないジャパリパークの哲学から外れている気もしないでもない。似ていて、でもちょっとずつ違う「けものフレンズ」と「けものフレンズ2」のストーリーはどこでグッと離れていくのか。そして何を見せてくれるのか。まあ見ていくしかないかなあ、のっぺりとしたCGによるキャラクターの絵にまだまだ慣れなくても。

 ティラミスが何か盛り上がっているんで、「宇宙戦艦ティラミス」が映画化でもするのかと眺めたら、どうやらシンガポールで有名なティラミス屋さんが日本に進出していろいろやっていたら、なぜか自分たちの商標だとかキャラクターなんかに似た言葉を日本の企業に登録されて、日本で同じブランドとかキャラクターで展開できなくなっていて、変更を余儀なくされたといった話。なるほどセリカXXのような日本の車名がアメリカでは使えずスープラになったような話はあるけれど、これはXXが成人指定か何かの記号としてとられかねないから避けたといった文化の違いであって、向こうがXXを勝手に登録したからではない。天下のトヨタ自動車が世界共通で商標をとらないなんてこともないだろうけれど。

 ティラミスではどうやらそういう事態があったようで、シンガポールから世界全部で商標を抑える間もなく日本で先にとられてしまったといった感じ。それは違法かというと違法ではなかったりするから難しいんだけれど、世界のブランドに似た名前とかキャラクターで商売するのってどうもあんまり美しい話ではない。っていうか日本が中国を小ばかにするような報道で、日本の商標だとか意匠をパクっては中国で先に登録して使い倒して日本の本家が進出できないようにしてしまうって話がある。それを卑怯だ何だと非難しているけれど、まったく同じ事を日本の企業がやっていたらやっぱり非難するかというと、テレビでは中国のトイレが日本のメーカーのに酷似しているといった話ばかり。日本のこの一件が取り上げられているのか、ちょっと気になってしまう。

 ヤバいのは、シンガポールのティラミスに被せてきた日本の会社が、前にも人気のパンケーキ店のブランドロゴだとかを先に登録してしまって使わせないようにして、評判に乗って店を拡大した一方で元のパンケーキ屋さんは潰れてしまったといった事態が起こっていたこと。ほかにも、人気のカフェの名前が登録されていたりして、次の標的なんじゃないかといった話も起こり始めている。こうまで燃え上がってくると流石に無視はできないのか、ティラミスについては使用権を譲るといった話を出しているそうだけれど、それは使用うる権を無償で貸し出すだけで商標だとかロゴだとかはずっと持ち続けるって意味にとられかねないし、使用権だけ譲られても根っこは押さえられているならシンガポールの会社はあまり使いたくないだろう。いつ何を言われるか分からないし。

 一方で、こうした評判がネット上で燃え上がって会社やブランドに対するネガティブな印象をどんどんと高めていたりする。ティラミスだけならまだしも他でも常習だったとなれば、もうそこん家で何か買いたい食べたいなんて誰も思わなくなるだろう。商売なんて不可能になりかねない状況でさて、どういった対応を繰り出して来るのか。こういった事態になることを、予見できなかったのはらネット時代をちょっと舐めてたとも言えそうだけれど、それすらも乗りこえて商売を維持できる核心なりを得ていたんだろうか。そこがちょっと気になる。世界的な財閥の一族に連なる人間とか。それはないか。とおあれ燃えつつあるこの一件がワイドショーのネタとなって中国批判韓国批判ではない日本への批判として盛り上がるか。それができればこの国もまだまだ救いようがあるけれど。さて。

 イブニングにて「ファンダ・メンタ・マウス」の大間九郎さんが原作を担当している「幕末イグニッション」がスタート。近江屋事件で乗り込んで来た見廻組の佐々木只三郎によって坂本龍馬が暗殺されるかと思いきや、中岡慎太郎を眠らせて龍馬と只三郎が何やら画策をし始めているというのが導入部。そして13年前に戻って只三郎が番屋に止めおかれては隣の牢にいた佐久間象山と知り合いになりそして家に戻って小太刀日本一と讃える兄の下、過保護気味に扱われたりする、そんな最中に見知らぬものたちに「沈んだ仏蘭西船を知っている」と言われて襲われる。いったいどうして狙われる。そして何を知っていると思われている。歴史の隙間に現れた奇妙な出来事が歴史の中でどう動いていくのかが気になる。そして近江屋事件で死んだはずの坂本龍馬と、鳥羽伏見の戦いで死ぬ佐々木只三郎が何を画策しているのかも。すでに存命ではないだろう佐久間象山の関わりも含め、幕末の日本を舞台にちょっとしたスペクタクルを見せてくれると期待しよう。

 幕末と言えば双昏式龍也さんの「双血の墓碑銘(エピタフ)」(ガガガ文庫)も舞台は幕末。ただし世界は吸血鬼によって支配されていてその影響が日本にも及ぼうとしている中、戦乱に巻き込まれた新撰組隊士の柾隼人は瀕死になっていたところ記憶を持たない柩という名の少女の吸血鬼によって救われる。自身も吸血鬼となった隼人は連れだって逃亡を始めるがそこに薩摩から放たれた刺客が現れ、ジョン万次郎に救われ、隼人を新撰組で指導した沖田総司も加わっての激しいバトルが繰り広げられる。世界が吸血鬼だらけでどうして人間が絶滅しないか、といったあたりはまあ支配階級ってことに抑えられているのかもしれないし、日本に影響力を伸ばす理由は分からないけれど、そこは日本支配に燃えている誰かが外患として呼び込んだってことなのかも。なりたてながらも吸血鬼として進化した隼人が何と戦い、柩はどうして追われそして沖田総司はどこまで可愛いのかといった問題を、解き明かしていく次巻が待ち遠しい。


【1月21日】 鍾馗と隼で向かった先に現れたのが飛燕というのは何だろう、日本帝国陸軍が採用していた戦闘機ばかりで海軍が採用していた戦闘機は除外されるのだろうか。第1回では零戦が出てきたみたいだから、今は単純に陸軍系のが多いだけなのかもしれないテレビアニメーションの「荒野のコトブキ飛行隊」。少し操縦を誤ったり油断をしたりすればすぐ撃墜される空にあって、味方どうしてどちらがエースかなんて言い争いをして自分勝手に飛んでいたりする描写は、戦場を幾つも渡り歩いてきただろうキリエやチカといったパイロットたちにしては不用意で、展開を面白くするためとはいってもちょっと舐めてないかと思ったりもした。

 そこは長くいっしょに飛んできただけあって、どちらかが撃墜をされてしまうようなヘマはしないで味方どうしてうまく連携して敵機を撃ち落としていたけれど、それでもやっぱり気になる自我の強さを戦車道的なエキシビションではなくスポーツでもない、リアルに死が待ち受けている展開の中でどう組み込んでいくのかが今はとても気になっている。キャラクターでは評議会議院のユーリアの性格が美人だけれどねじくれていって最高だし、ユーリアと幼稚園時代からしのぎを削り合ってきたマダム・ルゥルゥも強欲で我が強そう。そんな2人を仰ぎつつ多士済々なコトブキ飛行隊の活躍に男性諸氏はやっぱり陰に隠れてしまうのかな。敵に「スカイ・クロラ」のティーチャーみたいな凄腕がいたりするのかな。そろっと滑り出した話に描かれる世界がどう見えて来るかを気にしよう。それにしてもマダム・ルゥルゥ、矢島晶子さんが「クレヨンしんちゃん」を続けていたら聞けなかった声かもしれない。こっちが本物とはいえ大人の女性という矢島晶子の新鮮な声を聞いていこう。

 マンガ大賞2019にゆうきまさみさんの「新九郎、奔る!」だとか杉谷庄吾[人間プラモ]さん「映画大好きポンポさん2」を推したものの最終ノミネートには入らなかった模様。それでも入江亜季さん「北北西に雲と往け」が入ったのは僥倖で、1巻のちょっとしたサスペンスが2巻ではアイスランド観光になってちょっとフラワーになっていたから忌避感もでるか心配していたけれど、これで第3巻に入って一気にふくらんできたサスペンスとしての面白さを、多くの人に読んでもらえそうな状況になって来た。さすがに大賞となると4回目のノミネートとなった「ダンジョン飯」が強そうだけれど、そこは同じエンターブレイン勢として頑張って欲しいもの。「ハクメイとミコチ」も同様かあ、「テルマエロマエ」や「乙嫁語り」に続くか。

 そんなマンガ大賞2019にノミネートされた作品の印象でいうなら、女性の大人に向けて生き方を考えさせるような話が多いかなあ、たとえば渡辺ペコさん「1122」は30歳過ぎでセックスレスの夫婦がそれぞれに愛人を探すとかいった展開だし、去年に続いてのノミネートとなったコナリミサトさん「凪のお暇」も、会社を辞めた女性が自分を探してあれやこれやするといったストーリー。ヤマシタトモコさん「違国日記」は35歳の女性作家の家に両親が死んでしまった姪っこが転がり込んできて、年の差のある2人が繰り広げる日常が描かれるといった感じ。そういう話は嫌いじゃないけどだったらどうして西炯子さんが入らないかというと、やっぱり上手すぎるんだろうなあ、絵も展開も。もっとベタな展開が好まれるというか、そんな感じか。

 SFだったら篠原健太さん「彼方のアストラ」がいよいよ入って話題沸騰となるかというと、少年ジャンプ+の出身であって週刊少年ジャンプじゃないところに知名度としての広がりがまだ及ばなさそう。とはいえアニメ化でもされれば「ワンパンマン」みたいに広がる可能性もあるから今後の展開次第か。そしてやっぱり話題になりそうな赤瀬由里子さん「サザンと彗星の少女」。リイド社から上下巻のそれもフルカラーで出たコミックはオールアナログという手法もそうだしすとーりーも80年代SFコミックといった雰囲気。真鍋讓治さんとか大野安之さんとか読んでいた人なら楽しめるって感じなのかな、本が出ていたのは知っていたけど見過ごしていたらちょっと入手困難になっていた。ノミネートを聞いて最初に探したのがこれで、ジュンク堂池袋本店にあると分かってかけつけた。でも数冊か。これから読まなくちゃいけないんで買ったけれど、需要に間に合うのかな。今はネット版も普通に出ているから良いけれど、書店員さんが参加のマンガを盛り上げようって賞だけにやっぱり書店で買いたいんだよなあ。そこが悩み。毎年数十冊が積み上がるんだよ。

 テーマ性があって話題になりそうなのは鶴谷香央理さんの「メタモルフォーゼの縁側」か。BLを挟んで女子高生と老婦人とが仲良くなっていく、といった話らしくていろいろなところで話題になっていた。これもある意味で女性の生き方に関するストーリーか。そうした中にあって堀尾省太さん「ゴールデンゴールド」がどうして3年連続で入って来る分からないけど、読めば読むほどに粘る面白さがあるのかもしれない。今年は「ランウェイで笑って」とか入らなかったし、いろいろと話題になった「さよならミニスカート」も来なかったから、今年は新書サイズの漫画が全体的に不利だった感じ。でもちゃんと面白い漫画もあるはずだから探してしっかり読んでいこう。媒体で記事にするのは今年が最後になりそうだなあ。

 竹島を独島として李承晩ラインの時代からずっと持ち続けている韓国に対して文句を言わないレフティな輩が、北方領土で起ころうとしている歯舞諸島色丹諸島の2島を先にとりあえず返還してもらおうとする政府の態度に憤るのはおかしいじゃないかって、ライティな層が混ぜっ返し始めている安倍政権のロシアに対して2島返還からお願いしそうな外交姿勢。でも、勘違いがあるのはレフティ層は別にきっと帰って来ないだろうと感づいている国後島やら択捉島に対する主張をするのは現実的ではないと感じていたりすることで、だから2島返還がかなうならそれもありかもしれないと思っているんじゃなかろうか。

 一方で政権側でありライティな層は、現実の施策として竹島を占拠していると言って韓国を批判し誹謗すらしている訳で、そこまで領土に固執しているのならどうして、安倍政権が国後島と択捉島の奪還を諦めようとしているとしか見えない施策に、真っ向から反対しないのかってところを指摘している。事実として存在するダブルスタンダードへの指摘をだったらレフティはと混ぜっ返したところで意味は無い。はいそうですね、だったらあなたたちはどうなんですかと聞かれてどう応えるかだけが肝心。そこで安倍さんは頑張っていると言おうものならロシアを擁護し韓国を批判する土台も崩れる、とは思うんだけれどそっちはこっちでこっちはこっちでいずれにしても安倍さん万歳という心理だけは守りたいから矛盾が出る。でも当人たちは安倍さん万歳として矛盾はないと思っている。この奇妙さが割と流通してしまうから今の日本は怖いのだ。考えることをやめてしまって従うだけのロボット国民。そんな風にされてしまったんだなあ、WGIPじゃなくABEによって。やれやれ。


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