縮刷版2019年12月上旬号


【12月10日】 SNSでの人種差別的で弱者侮蔑的な発現を繰り返していたことが露見して、炎上してとある小説の新人賞を辞退した作家さんがいたのに続いてこちらはすでに大御所の作家さんが、環境問題に取り組んでいる16歳のグレタ・トゥーンベリさんをからかうような発現をSNSで発信して、未成年の特定個人を蔑ろにするような内容だったこともあって炎上。即座に謝罪をしてSNSでの発信を取りやめたものの、そもそもがそういう発現を公衆の面前でしてしまったことにいろいろと突っ込みが起こりそう。

 仲間内の冗句としてでも決して健全ではないけれど、それでも世界的な著名人への好悪感情の表明として受け入れられたかもしれない。これがSNSになってしまうと場所はもはや公共で、そこでの発現にはやっぱり節度ってものが求められる。そこを超えてしまう人が生まれてしまうのは、発進している時は自分ひとりで目の前にある端末を見ているのも自分ひとりで、そして反応も普段から交流がある人だけだと思い込んでしまうからなのかもしれない。そこはガラスに囲まれた大通りなのだを、改め理解する必要を感じた次第。気をつけよう、って失うものは得にないけど。
 グレタ・トゥーンベリさんについて言うなら、いろいろと不安があるのはよく分かる話で、それを言葉にして行動にも訴えた勇気はとてもとても称えたい。ただ環境問題は一筋縄ではいかない話で、文明の発展を享受した人間が、今後の発展を阻止する態度に出ることで貧困から脱することができない人たちが生まれてしまう。そうした格差を是正する方策をかたわらに感じながら、考えていかないといけないってことを自覚して欲しいけれど、これを考え出すと何も出来なくなってしまうのも事実。それに飛行機に乗らず船を称揚したとしても、海運が増大すればやっぱり排出ガスは増えていく。流通を減退させて文明を衰退させてそれで環境を守れと訴え、従う人は果たしているのか。そうしたところも含め文明論、人間論に踏み込んで考え方って欲しいなあ。聡明な彼女なら、きっと出来ると思うから。

 いざという時のためにとってあるバックアップデータを正式な行政文書ではないと言い出した時にもひっくり返ったけれど、今度は反社会的勢力といったものは定義できないと閣議で決定してしまったのにはひっくり返った上に反っくり返ってでんぐり返った。自分たちを守るためには常識となっていることですら否定するのがこれまでのやり口だったけれど、反社会的な勢力については政府から警察組織から企業からすべてが一丸となって定義して拡大解釈までして排除に動いていたもの。その定義ができないと政府が言い出して、警察や企業はこれからいったい何を指針に反社会的勢力を認めて排除していけば良いんだろう。

 もちろん定義がないんだから決められないってこととは正反対に、あらゆる存在が反社会性力に含められる可能性もある。その境目が時の政府、時の政治家によって揺れ動くのだとしたら社会は政府や政治家しか見なくなり、その独裁の下ですべてが決まってしまうことになる。そんな公平性を欠いた社会でいったい誰が何かを始めようと思うだろう。上ばかり見て身動きがとれない状況のなか、ただ生きていくだけの日々が繰り返されていった果て、社会は活力を失い国は荒れ果てていくだろう。そんな道筋への扉を開いてしまった閣議決定は日本という国の歴史においてとてつもなく重大な判断を下した。そういう意識もきっとないんだろうなあ、ただ自分たちが逃げ切れさえすれば良いとしか考えていないという。やれやれだ。

 アニメーション制作会社がまたひとつ飛んだという話がクリエイターから広まって、だんだんとどの会社か判明してそして公開中の映画「フラグタイム」を作った会社だということが分かってその映画のサイトに現在連絡がとれないという情報が掲載されて、なかなか大変なことになっている感じ。なるほどすでに映画は完成しているから公開に支障はないんだろうけれど、今度たとえば売るはずだったのに遅れたパッケージを作ろうにも、版権を使った展開をしようにもアニメーション制作会社にあるだろう素材が使えずクリエイターが動いてくれなければ展開のしようがなくなる。権利だけ製作委員会が持っていたところで、動くのは現場だから。

 そこが飛んでしまったという非常事態。どうしてなのか理由が知りたい。やっぱり自転車操業だったのかなあ、もらったお金は借金の返済に回して次の作品のお金を今作っている作品に当てるんだけれど、次の作品が作れなくなってお金が得られずショートしてしまうというか。過去に手がけた「王室教師ハイネ」も「なんでここに先生が!?」も決して手抜きではなく作品として面白かったしクオリティもしっかりしていたから、手堅いアニメ制作会社だと感じたけれどもその分、いろいろと無理があったんだろうか。経営そのものが至らなかったんだろうか。ケーススタディにしたいけれど、学んでどうなる業界でもないってのがやはり問題か。頑張っておくれよプロダクション・アイジー。僕の明日のご飯のために。


【12月9日】 出演者のアテンドに四苦八苦して家から出られなくなってのたうちまわった果てにようやく完成し、12月1日にNHKのBS8Kで放送された「BS8K開局1周年 躍進する世界の8K」は、12月28日の午前6時10分から地上波の総合テレビでも放送されるそうで、落合陽一さんや小島秀夫さんが8Kについて何を語っているかと知りたい人は必見かも。落合さんはその知見を分かりやすく噛み砕いて語ってくれていて、BS8Kのように高精細になるとメイクなんかで取り繕ってもすぐばれる、だったら皺とかしみとかをむしろ生きてきた証としてアピールした方が良いんじゃないか、的な話をしていてなるほどと思った。

 そんなBS8Kの“躍進”にもしかしたらストップがかかるかもと思って心配していたのが、NHKがネットでの番組配信に乗り出す代わりにBSのチャンネルをひとつ減らさなくちゃいけないと言われていたこと。BS1があってBSプレミアがあって4Kがあって8Kがある中で、今いちばん観られていないだろう8Kがやっぱり返上の憂き目に遭うと考えるのが普通だけれど、そこは新しいテクノロジーの実験場として死守したかったみたいで、映画とか音楽とかをメインで放送しているBSプレミアの方をスポーツや報道を薙がしているBS1と統合するってことになるみたい。

 映画も音楽も観たいしバラエティだってBSプレミアで結構作ってくれていたからやっぱり観たい気もしないでもない。「全るーみっくアニメ大投票」とか作って流せるのって、やっぱりBSプレミアのような余裕があるチャネルってことになりそうで、スポーツや報道でぎちぎちのBS1では作ってくれなさそうな感じだけれど、そこは人気ということで生き残り、スポーツの方にしわ寄せが向かうのかもしれない。映画もスポーツも今やネット配信でいっぱい観られる時代。むしろNHKでもネットでそっちを中心に配信することになったりして。BS8Kの方は躍進するなんて番組を作っておいて引く訳にはいかんわな。関わった身として一安心。でも現実はやっぱりしばらくは普及しないよなあ。むしろネットで8Kになっていくんじゃないかなあ。

 立川シネマシティでの上映は、舞台挨拶がある回は瞬殺されてしまってとれず、それ以外の日も気がついたら完売になっていて行けなかった「機動警察パトレイバー the Movie」。実は劇場で観たことがなくって機会があればと思っていただけに悔やんでいたら、12月28日にお台場のユナイテッドシネマで上映があって、そこの押井守監督だけじゃなく脚本の伊藤和典さんが来て、バンダイビジュアルでプロデュースを手がけた鵜ノ澤伸さんが来てジェンコの真木太郎さんも来るといった豪華布陣でのトークもあると聴いてこれは行かなくちゃと手ぐすねをひいていたら、今日が発売に決まっていた。

 仕事に行っていることもあって果たして争奪戦に参加できるか心配したけど、午後の8時からだったのでひとまず仕事を終えて会社を出て、駅まで歩いて電車に飛び乗りパソコンを立ち上げ準備は万端。幸いにして販売サイトのチケットペイは以前に使ったことがあって登録もしていたから、そのまま時間に入ってさあ最前列の真ん中を確保したと喜んだら、認証の段階になって誰かが確保していたみたいで戻ってやりなおし。それでもどうにか最前列のちょっと端を確保できたので当日は見上げるようにして大きなスクリーンで暴風の中で戦うイングラムと零式なんかを観ることができそう。

 気になるのはヘッドギアの面々でも、ひとり走って実写版を作ってはいろいろと言われていた押井守監督と、言っていた側の脚本の伊藤和典さんがいっしょに登壇するってところで、その後にどういった話し合いが持たれたのかが知りたいけれども、ともに熱海に確か暮らす2人はあるいは普通に普段から話をしていたのかもしれない。ゆうきまさみさん高田明美さんではなく伊藤和典さんが押井監督と登壇というあたりに何か顰みがあるのかもしれない。そんな辺りが語られるかどうか。あとは鵜ノ澤さんかなあ、バンダイビジュアル当時の思い出とか、最近は何をやっているのとか聴きたいところ。真木さんは「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が公開された後だから出歩いても大丈夫なのかな。いろいろと期待。観て帰省したいけど新幹線とれるかな。

 やれやれというか、小説投稿サイト系の新人賞で大賞を獲得した作者がなぜか辞退をしていて、どういうことかと調べたら過去にSNSで特定人種を誹謗したり精神疾患がある人を中傷していたことが判明。そうした過去を掘り起こされて炎上をした果て、取り消しとなる以前に自分から降りたかしたみたいだけれど、本当は降ろしたのかどうかはちょっと不明。ただネットなかに出回っている過去のSNSでの発言は、小説を書く人にふさわしいかどうか以前にやっぱり人間として繰り出しちゃ拙いだろうといった類のもので、それをずっと誰も止められなかったところとか、そもそも本人が何の疑問もなくそうした言説を繰り出していたことの方に驚きを感じる。全世界に向けて言葉が届く場で言っちゃいけないことの判断が出来ないのか。そういう発言がそれでも渦巻いているからこそ自分もと思ってしまうのか。引っ張られず靡かないで自分を確立できる道筋を整えないと、同じように暗黒面に引かれてヘイトを繰り返す人が出てくるんじゃなかろーか。


【12月8日】 見に行こうかとも思っていたけどチケットを取りあぐねているうちに完売となってしまった新橋演舞場での歌舞伎版「風の谷のナウシカ」で、ナウシカを演じている尾上菊之助さんが負傷したとかで8日の夜の部が休演に。王蟲にでも踏まれたのかと思いきや、乗ってたトリウマのいないはずの中の人が躓いて、菊之助さんが転落したのが原因とかでナウシカといえどもメーヴェは操れてもトリウマを乗りこなせても中の人までは操れなかったってことになる。とはいえ9日からはちゃんと上演もあるそうで、貸し切り公演が続く11日までに行く予定だった人はご安心。僕は年明けに行われるという劇場での上映を見に行くことにしよう。

 ソン・シンイン監督による長編アニメーション映画で、東京アニメーアワードフェスティバル2018の長編コペンティション部門でグランプリを獲得した「幸福路のチー」をやっと観た。吹き替え版。沖浦啓之さんのウェン兄さんがあまりにかっこよくてよくぞキャスティングしてくれたと心で喝采を贈った。あとおばあちゃんのLiLiCoさんが巧すぎた。声優さんでもおばあちゃんを演じさせて巧みな人がいっぱいいるけど映画コメンテーターとしてもっぱら見知っている人があそこまで優しくて強くて頼りがいがあるキャラクターを演じてすがりつきたいと思わせてくれるとは驚いた。

 あとはやっぱりチーを演じた安野希世乃さん。最近だと「スタートゥインクルプリキュア」のキュアソレイユを演じて子供にも白手居ているし、ちょっと前なら「マクロスΔ」でカナメ・バッカニアを演じてワルキューレの中心にいたりもしたけれど、そんな安野さんが子ども時代から学生時代から大人まで、あらゆる世代のチーを演じてしっかりとその年頃を見せてくれる演技の幅に関心した。文化庁若手アニメーター育成事業の最初の作品「キズナ一撃」で観てからもうすぐ10年。育ったなあ。素晴らしかった。

 そうした声で支えられた映画は、予想していたとおりに今の自分の身にはいろいろと響いて痛くもあり、苦しくもあって突き刺さった。一方で、今の身だからこそ思うところも数あった。実家に戻ろうかなあ、とか。貯金を崩しつつ少しだけ働きながら過ごせば10年はどうにかなる状況なら、まだ存命の両親がいる実家にこもり、いろいろと考えた方が良いんじゃないか。なんて思ったりもしたけれど、チーだってそこまで踏み切るまで時間をかけた。それなら自分ももうちょっとだけ時間をかけて今の暮らしを考え、将来の暮らしを考えて結論を出そうと思った。

 台湾出身で、今はアメリカで暮らしているチーという女性。それって成功者? でもちょっと違うみたい。祖母が亡くなったという知らせを受けて台湾に帰ったチーが行ったのは、かつて暮らしていた台北にある幸福路。そこでチーが小学校に通い中学高校を経て成長していく姿が描かれる合間に、台湾語を使わず北京語を使うように言われたり、いとこのウェンがあれは白色テロか何かだろうか、捕まって弾圧された経験を聞いたり、戒厳令が解かれてデモが横行するようになったりする展開が挟まれる。大きな地震も起こってバイク屋を経営していた小学校時代の友人がマンションの倒壊に巻き込まれたりもする。

 つまりは台湾の歴史。そうした時代を過ごした少女が両親に期待されていたような医者にはならず大学には入ったものの文系で卒業して就職先があまりにあく、悩んでいた時に新聞社の仕事を見つけて働くもののそこも永遠には続かなかったところで、従兄弟に誘われアメリカに行って働いていたところでアンソニーという男性と知り合い付き合い結婚までしたけれど、今はちょっと気まずい関係にあった。そして祖母の死。戻った台湾でチーは過去を思い出しながらいろいろと考える。

 自分は何がやりたかったんだろう。夢はあったけれどもどこか惰性で流され、親の期待に応えたいと思いつつ親の言うなりにはならないと反発もして、憧れだったはずのアメリカにまで行ったりしたのにそこは思っていたほど満たされた場所ではなかった。あっちに彷徨いこっちにうろついた果て、夫と気まずくなって戻ってきた台湾でひとり悩むチーの姿をふがいないと思うかというと、何がやりたいのかまるで見えないなま会社を生活にして30年近くを過ごしてきたのが、会社を離れたとたん、何もやりたいことが見つからずそれでも何かやらなきゃと焦る自分の身が重なって、いたたまれない気持ちになる。

 両親の期待に応えたいけれど、言うなりにはなりたくないという気持ちも。そうした迷いをチーの場合はずっと自分を気に掛けてくれていた祖母の教えや言葉や姿を思い返すことでどうにか抑えて乗り切ろうとする。自分にはそうした存在はいないけれど、だからこそチーの祖母の存在に寄り添いたくなる。その暖かい言葉に、態度に支えられ、自分は誰かの何かではなく、自分自身なのだと思い返して生きていこうと思うのだ。もちろんきっとこれからも迷うだろうし悩むだろうし泣くだろうけれども、そんな時には心にチーの祖母を浮かべてすがろう。

 アニメーションとしては、時系列がゆがんでいるというか行ったり来たりしているというか、慣れていないと一見で理解するのはちょっと大変かもしれない作品だった。これはいったいいつのチーが考えていることなんだろう。子ども時代? それとも小学生時代? 大人になってから? 大学生のころ? そうした時間が回想なのか空想なのか、入り交じってつながって挟まれ繰り広げられるから、それが本当にあったことなのか幻想の中なのかを確認しながら観ていく必要があった。

 絵柄や主題から思い出す「ちびまる子ちゃん」なら小学生時代の幻想が広がっていく程度で、そこに時間的な行き来はないから観ていて楽しめる。絵柄とそして妄想が炸裂するシーンなんかは「ちびまる子ちゃん」的で湯浅政明監督的。だからそういうのが好きな監督なのかと思ったら、朝日新聞記者の小原篤さんが聞いたところによると今敏監督好きらしく、時間が行き来して現実と幻想とが入り交じってつながる展開は今敏監督から影響を受けたものらしい。そうした影響を「ちびまる子ちゃん」的で湯浅正明監督的な表現の中で見せてくれたあたりに、今の日本でもとんがったところを吸収した世代が作品作りの最前線に台湾では来ていることが分かった。これは将来が楽しみだ。

  パシフィコ横浜で明らかになったi☆Risの来年のツアーをファンクラブ経由で予約したら、初日の初演となる三郷の昼間と横浜の関内ホールでの夜とそして千穐楽となる中野サンプラザでの昼と夜とに当選。結構な出費になるけれども生きるための糧にもなるからこれは仕方が無い。去年も同じ公演に出向きつつ中野までには身の処し方を決めたいなあと思っていたもののさだまらず、鬱気を高めてしまったけれどもちょうど1年が経った来年のツアー時に果たして身は固まっているのか。固まらずとも覚悟はついているのか。それを決めるのは自分とはいえ、やっぱりいろいろ気になるのだった。やっぱりしばらく実家に帰って考え込むか。PS4を買って「デスストランディング」でも遊びながら。


【12月7日】 そうか「映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」は興行収入8億円か。10億円だって行っちゃうかも。今日でも新宿ピカデリーがだいたい満席だったから。この数字って「プロメア」に迫るものだし湯浅政明監督の「きみと、波にのれたら」とか5年がかけられた大作「海獣の子供」なんかを上回る。それこそ「プロメア」級でこれからの動向次第では抜いてしまうこともあるかもしれない。

 とにかく安心して観ていられるアニメーション。「たれぱんだ」とか「リラックマ」で知られるサンエックスが生み出してもう7年くらい出しているキャラクターで、見た目は丸くてかわいいけれども寒がりのしろくまとか自分に自信がないぺんぎん? とか気弱なねことか本当はきょうりゅうだけれど言えば捕まっちゃうから偽っているとかげとか、やっぱりほんとうはなめくじだけれど貝殻をせおったにせつむりとか、脂身9割のとんかつとかしっぽだけのえびふらいとか、熱血とも青春とも違ってどこか欠けていたり足りなかったりするキャラクターたちがひっそり隅っこをとりあうというか譲り合いながら生きている。

 それぞれ単体のキャラクターでは、いずれもあこがれの対象というよりはむしろやっぱりどこか欠けている自分たちの成り代わり。というか完璧な人間なんて今やあんまりいない時代に自分もそうそうと投影できる何かを誰かが持っている。だから誰かに自分を仮託して、あるいはトータルの世界観に自分を沿えて観ることができる。だから人気となっている。子どもだけじゃなく大人にも。そんなキャラクターたちでも集まれば、欠けていたって補い合い、支え合って前向きに動いていける。

 そうやって絵本の世界で知り合ったあたらしいともだちを、助けよう励まそうと動き回るストーリーが絵本の世界という舞台で、物語に強制的に突き動かされるように進んでいく中で浮かぶギャップをギャグ的なものとして楽しめる。そうやって楽しみとんかつとえびふらいが赤ずきんの中でやっぱりな状態になったことにほくそ笑み、楽しんだ果てに来るひとつのクライマックス。そこに奇跡はないけれど、でも頑張った甲斐はあった。そして作られた新しい世界を果たして新しい友達は喜んでくれるのか。くれるんじゃないかな。そう信じて映画館を出ながら自分も誰かに優しくしよう、そうすれば誰かから優ししくしてもらえるかもと思うのだ。

 平面のキャラクターにすぎない「すみっコぐらし」のすみっコたちを動かすにあたって平面のままでは紙芝居にしかならないところを絵本調を維持しつつ、ちゃんとキャラクターとして動かしてみせるところがすごいというか、過去にそうしたキャラクターものを多く手がけたファンワークスだけのことはある。スタジオがしっかりしている上にヨーロッパ企画の角田貴志さんが脚本を書いてまんきゅうさんが監督を務めた作品は、キャラクター好きの子どもたちだけでなく大人だって観てこの生きづらい世界を頑張って生きていこうと思う映画に仕上がった。

 だからこれだけのヒットをしているんだろうなあ。そうした噂が広まることで、なおいっそうの観客に足を運ばせ評判を高めて広めてそしてまた足を運ばせる連鎖が続いているうちは、まだまだ収入は伸びるだろう。クリスマスシーズンに向けて大きな映画が相次ぐけれど、そんな合間にも今の調子ならちゃんと上映され続けそう。配給のブッキングがどうなっているかは分からないけれど。

 せっかく外に出たのだからTOHOシネマズ新宿で「ルパン三世 THE FIRST」を観て帰ろうと新宿ピカデリーから移動。「シティーハンター」実写版のイベントをやっていたらしくメディアの受付ができていた。そんな劇場の最前列で観た「ルパン三世 THE FIRST」は、初のフル3DCGによるルパン三世という触れ込みだったけど、2Dのアニメーションで観るよりルパン三世っぽさを感じた。

 それは、2Dの絵だと毎回のように描く人によっていろいろな違いが出たりしていたし、アクションにも違いがあってそれぞれの特徴に自分を合わせて好みかどうかを心で判断する必要があるのに対して、3DCGの今作だとキャラクターについても動きについても、テレビシリーズ第2作目の「ルパン三世」に感じていた想いとか、抱いていた印象を固めてまるめて総体にしてエッセンスを抜き出し平均化して最大公約数を取り出し描いたようだったから、かもしれない。

 つまりは、そうそうそうだよそうなんだよ、といった感じを存分に味わわせてくれる上に、2Dのアニメだと感じるキャラクターたちの描かれ方に対する種類が多すぎることからくる違和感を、初の3DCGのキャラクターはこれが初見ということもあってあまり感じさせなかった。どこかで観てきたものが立体になって動いているとでも言おうか。ルパンはどこまでもおちゃらけていて次元はどこまでも渋く五エ門はクールだけれど照れがあってそして不二子はナイスバディ。あととっつあん。四角いなあ。そのアクションもテレビシリーズのとりわけ第2作目のエッセンスを抽出して固めてテンプレート化したかのよう。コレ含めてすべてがそうそうそうだよそうなんだよの固まりだった。

 それはストーリーにも言えること。古代の遺跡をナチスが狙って騙された少女が取りだしルパンが横取りしようとしたけど発動し、けれども少女が頑張りルパンも頑張り情が発生して悪は滅びる、的な。「レイダース」であり「天空の城ラピュタ」でもあるけれどルパンの中でも何度か描かれたようなストーリーでもある。それを繰り返すかのようにやってしまってつまらないかというと、時代劇と一緒で定番化しているストーリーだから分かりやすくて楽しめる。ルパン三世がある種の時代劇化している現れを、キャラクターの動きだけでなくストーリーでも使ったとでも言えばいいのか。安心して観ていられる映画。あと3DCGだとレティシアの腰つきとかお尻の丸みだとか不二子の胸のたわわさだとかが 御持って感じられたのが良かった。2Dだとこうはいかないものなあ。


【12月6日】 思い出したのが「ARMS」の主人公、高槻亮の母親で主婦の高槻美沙でいつも笑顔を絶やさない女性だけれど実は戦場でも恐れられた伝説の傭兵で、危機に陥ったところを息子が心配していたらあっさりと返り討ちにして唖然呆然とさせていた。その点、「PSYCHO−PASS3 サイコパス」に登場する厚生省公安局刑事課一係の監視官、炯・ミハイル・イグナトフは妻の舞子とずっと外国で暮らして育っていた訳だから、彼女がそこで何をしていたかを良く知っている。教祖ごときにつかまれ引きずり回され拳銃を突きつけられたところで、軽く反撃できることだって知っていただろう。

 心配すべきはそんな反撃をして教祖を射殺なんかして舞子の色相が濁ってしまうことで、炯はだから舞子には絶対に銃を持たせず反撃させず射殺なんかさせないように振る舞わなければならなかったのに、自分を撃てといって自分の方に教祖の銃口を向けさせてしまったことで舞子に反撃の機会が出来て下からすくい上げるようにして銃を跳ね上げ額にぶつけさせ、そして驚いて自分に銃を向けたところで左手で捻り右手で奪ってすかさず手に持ち引き金を引いて教祖を射殺。脇をしっかりと締め銃口をぶらさず1発ではなく3発を足とかではなく胸にぶち込んで確実に射殺する打ち方は、戦場でプロとして活動してきただろう可能性をうかがわせる。

 つまりはそうした出自の2人。だから炯に本気で暴れさせるなと誰かが言っていた割にはあまり派手に動かず電子銃で撃たれたりもする場面があってちょっと弱いなあと思ったし、妻に配慮したい割には舞子が銃を持つ機会を与えてしまったりした場面には何を考えているんだとも思った。そういう部分で脚本なり絵コンテなり演出に抜けがあるような気がしてならない「PSYCHO−PASS3 サイコパス」。なにしろあれだけ世界を隅々まで監視して管理しているはずのシビュラシステムが、配下の監視官を結果として殺害され排除されながらもビフロストなる組織の壊滅に向かうどころか、存在を感知できないんだから不思議というか。その理由があまり説明されていないところにも疑問が生まれる。

 絶対的な監視が行われ管理されているからこそ、その間隙を縫うようにした犯罪が起こって驚かされるというのがこれまでのシリーズの筋書き。個人の体質なり特徴なりがシビュラの目をかいくぐらせていた訳だけれど、ビフロストは組織として活動していて人員も大勢いてシビュラが本気を出せば分からないはずはない。にも関わらず闇にうごめきシビュラを出し抜き監視官を欺く。真緒みたく接触を受けていたりして取り込まれている者がいるのかもしれないけれど、それだってシビュラの目を逃れられるとは思えないんだよなあ。でもやっているからこそ常守朱は現場を退き、裏側から何か画策をしているのかも。いったい何を知っていて、何を追っているのか。それにシビュラはどこまで協力しているのか。次の回でいろいろ明かされると信じよう。

 ひとつのことを取り繕おうとして、どんどんとドツボにはまっていくのは自分が関与していたら総理を辞めるといったことから関与してないと言いつくろうために記録を破棄し、そして人死にまで出した森友学園問題の例がすでにあったりするけれど、菅官房長官がバックアップは行政書類ではないと言い切ったのも何が何でも桜を見る会の名簿を出したくないということから始まって、出してと言われて出した日は他の日は担当職員がおらずシュレッダーが使えずその日にようやく使えただけだと言い訳し、でも電子データなら残っているじゃんと問われてそれはとっくに破棄したと言いつくろい。でも電子データはバックアップを残しているんじゃないのと問われてそれは行政文書じゃないから出せないと言い抜けるため、だったりするからどうにも筋が立たなくなる。

 だってバックアップだよ、それは大元が毀損された時に大元に変わって活用されるデータだよ、すなわち本物のスペアであって電子である以上は本物そのものでもあるにも関わらず、行政文書じゃないから出せないなんて言ったら大元が毀損されてもそんな行政文書でもないデータで埋める訳にはいかなくなってしまうんじゃないか。でもそれだとバックアップの意味を成さないんじゃないか。だからやっぱり出すべきなんだけれど行政文書じゃないから出せないという堂々巡り。そう言いつくろわないと出さざるを得ないのをどうにか逃げようと取り繕った果ての矛盾を、口にして平気な頭でいられるところに今の政治家たちの不思議がある。ドミネーターを向けたらいったいどんな犯罪係数が出るんだろう。もしかしたら本気でそう思っているから色相もクリアなのかも。免罪体質というか無感体質。そうでもなければ政治家も官僚もやってられないだろうなあ。

 「おすすめ文庫王国2020」でようやく「境界線上のホライゾン」を1位に推せて大満足。過去にも番外としてその分厚さから文庫王国の国王に相応しいと言い続けたものの、「本の雑誌」がそれほどまでに凄い文庫があるなら特集だとか言ってくれたことはなく、ライトノベルだからか触れられもしていなかったし今回の「おすすめ文庫王国2020」でも他に関心を持たれた感じはなかった。というか刊行点数でも全文庫の中で結構な分量を占めているはずのライトノベルを、他のジャンル別ベスト10で取りあげた人がいたかというとパッと見でひとりもいなかった。

 メディアワークス文庫や富士見L文庫や集英社オレンジ文庫も見なかったなあ。ライトノベルなり派生のキャラクター小説があれだけ読まれているのに文庫王国では見えないことになっている。文庫リーグでもメディアワークス文庫と富士見L文庫の名が見えるくらい。選ぶ人のお歳が? それを言うなら自分だって。結局は関心があるか、どうかなんだろう。まあでもここでこうして「境界線上のホライゾン」を推したことを、作者の川上稔さんも喜んでくれて良かった。読んで来た甲斐があったし推した意味があった。これを機会にもうちょっと広がってくれれば、アニメも第3期なり最終章なりが作られるかもしれないなあ。作って欲しいなあ。劇場版とかで。


【12月5日】 東京アニメアワードフェスティバル2020で行われるアワードの部門で、商業作品が選ばれるアニメ・オブ・ザ・イヤー2020の候補作となる100作品が決まった模様。うち20作品が劇場アニメーション映画で映画部門の候補作ってことになるんだけれど、そこに「きみと、波にのれたら」もなければ「海獣の子供」も入っていなくて「バースデー・ワンダーランド」もいなかったりするといった具合に、何かちょっと足りないような状況となっている。

 これは投票によってベスト20が決められてしまうことによるんだけれど、問題はそうやって残された候補から審査担当者が選び決めることになっていながら、そうした審査担当者が自分の信念で本当に良かった作品をこれで選べるのか、ってことになる。なるほど小説のコンテストみたいに途中で下読みだとかがガンガンと落とした残りを選考委員が読んで選ぶような形式だってあるにはあるけれど、落とされたのは公開されていない応募作。映画の場合はすでに上映されて審査担当者だって見ているものなのに、そこで良かったと感じた作品が、候補にいないと推せないという苦渋を味わうことになる。

 直木賞だって芥川賞だって候補作に挙がらない作品を選考委員が推したいことだてあるんじゃないと言えば言えるけれど、最終選考へと挙がる作品は読者の人気投票で決めている訳では無い。だったらどうして決めているのかは問い詰めればボロも出るかもしれないけれど、ある程度の納得の元で候補作は決められている。対してアニメ・オブ・ザ・イヤーの場合はどうなのか、ってところでやっぱりシステムとして、これで良いのかって悩みは今回も起こりそうだなあ。選考担当者でも何でもないから気にはしないけれど、少なくとも「海獣の子供」が評価される場はいつかどこかで欲しいなあ。

 朝からガイナックスがどうかしたとかでニュースが飛び交って何事かと読んでも登場している人物にまるで心当たりがない。つまりは過去の創業者とか関係者がほとんど外に出てしまって別の会社を作ったりしていて、持っていた権利もあれやこれや売り払ったり売らざるを得なかったりして名前だけが残っているといった感じ。その会社を受け継ぎ経営していた人が起こした問題を、過去にいろいろと凄い作品を送り出したガイナックスと同列で考えて良いかというと、そこはなかなか難しい。

 今は権利も持っていなくて関係者も過去とは断裂しているとは言え、ガイナックスという商号を持った企業において「新世紀エヴァンゲリオン」が作られたという歴史は動かしようがなく、その商号を受け継いでいる会社の経営者が起こした事態に「エヴァ」を作った会社の経営者といった表現を使って間違いということはない。ただ「エヴァ」というブランドがこれによって毀損されるとしたら、今まあに「エヴァ」の権利を持って映画を作っているカラーが異論を唱えることも間違ってはいない。

 とはいえ、「エヴァ」を作ったガイナックスの経営者、という表現そのものを違うと断じてはややこしくなるので、ここは確かに過去にガイナックスで「エヴァ」は作られたけれども今の権利は別にあり、作ったクリエイターは外にいて残ったガイナックスに権利もなければ作った人もいないから、関係はないのだといった説明を報道する側に求めるのが穏当だったかもしれない。抗議に「上記のとおり、当該被疑者は『新世紀エヴァンゲリオン』及び『エヴァンゲリオン』シリーズ作品と全く無関係であるにも関わらず」といった具合に、会社ではなく容疑者を主語に使っているのは、その辺りを捉えてのことだろう。

 にも関わらず、「今般一部報道において、『新世紀エヴァンゲリオン』及び『エヴァンゲリオン』シリーズ作品に関する言及のあったことは誠に遺憾であり、強く抗議いたします」と続けていたりするところに、苦渋を感じつつもちょっとした飛躍も感じないでもない。ここはだからやっぱり報じる側に理解を求め親しみを持ってもらうようなアプローチが重畳なんじゃないのかなあ。それにしてもガイナックス、あれだけのことをやってのけた会社が今、その名前の下で惨憺たる事態になっているのは寂しいなあ。似たようなことに他の会社もならなきゃ良いけれど。

 どこまでもミノタウロスが強くなっていくのをいつか誰か止める話になるのかと思っていたけど支援BISさんによる「迷宮の王」の第3巻、ミノタウロスがある種で超越した存在になってしまったところでひとりのヒーローとの間で半ば心を通わせるような状況になりつつ、最後にはやっぱり対決する事にもなって双方に感じ入るところを得て終わるといった、オープンな感じのエンディングになっていた。ミノタウロスが本当に退治されたのかも謎なら、そもそもただのモンスターだったのか、あるいはモンスターから別の存在になったのかといったところも不明なまま。そうした可能性を覗かせつつ人は別に人としての世を歩んでいく。

 途中で王国をめぐる勃興なり衰亡なりの年代記的な記述もあって、後半はそうした展開がミノタウロス退治と乖離している感じもあって構成としてちょっと不思議。前半までは修行をして強くなった上に嫁まで得て2人で挑む展開なんてものも想像できたのに、その嫁が半分くらい死にかけてそれで恩寵で復活したもののヒーローは召還されてはよりを戻すような展開はなく、強い男女の関係へと向かうことはなかった。そうしたキャラクターに対する有り体な展開を捨ててミノタウロスの成長、そして世界の推移に描写を割くあたりが新しさなのかもしれない。これで完結かな。次の作品、他の作品も読んでみようかな。


【12月4日】 「天気の子」や「プロメア」「若おかみは小学生!」なんかがノミネートされたアニー賞でウィンザー・マッケイ賞と名付けられた功労賞を今敏監督が受賞したらしい。過去には人形アニメーションの川本喜八郎さんや手塚治虫さん、そして宮崎駿監督に大友克洋さんに高畑勲さん押井守監督といった面々が日本からは受賞していたけれど、手塚さんのようにおそらくは存命ではない上に没後9年が経っている監督に賞が与えられるのはちょっと異例のような気がする。

 同時受賞は「ナイトメア・ビフォー・クリスマス」や「コララインとボタンの魔女」のヘンリー・セリック監督に「アラジン」「モアナと伝説の海」を共同監督しているロン・クレメンツさんとジョン・マスカーさん。どちらの方々も存命な上に世界的な監督と並ぶくらい、それは死後でもそう思われるくらいに今敏監督が世界的に知名度があって人気も高くそしてアニメーションに多大な功績があったと認められている現れだろう。日本では文化庁メディア芸術祭がかつて贈賞して讃えたけれど、没後から10年目になる2020年に何かしてくれるのか。しなくたって誰かがしようと言い出すと期待しつつあの作品群がまた劇場で見られる機会が来ることを願おう。最高の音響で聞きたいよ、「ロタティオン(LOTUS−2)」を。

 SFマガジンを読み始めた中学生のころから、その名をお見かけし続けていたSF研究家の星敬さんが亡くなられたとの情報。とり・みきさんや出渕裕さん、鹿野司といったパラレルクリエーション回りに名があって豊田有恒さんの周辺から出て来た人だという認識はあったけれど、活動としてはどちらかといえば書誌関係が多かったような記憶がある。その豊田さんが受け持っていたSFマガジンでショートショートSFを募集する「リーダーズ・ストーリィ」の選者になってからは、SFマガジン誌上でも批評が読めるようになっていた。

 その「リーダーズ・ストーリィ」には1990年代だかに2度ばかり、ショートショートを送って掲載はされなかったけれども候補作となって短評を頂いたことがある。もう星敬さんになっていたころだと記憶しているけれど、何年の何月号だったかはちょっと覚えていない。あの頃の創作意欲を毎月のように続けていれば、創作へと道も開けて今こうして路頭に迷うこともなかったかもしれない。一方で少しでもSFに関わっていられるのは呼んで批評を書く仕事が続いているからで、そっちに行った結果を今は喜ぶべなのかもしれない。

 SFマガジンでは2001年からライトノベルのSFやファンタジーを紹介するコーナーを担当していて、そうして挙げた作品をリスト化して星敬さんがSF関連書籍として記録していってくれた。SFマガジンとかSFが読みたいなんかに掲載されているから、今も記録としてライトノベルのSFが残っている。決してすべてはなくてもそうやて残されなければ気にされず記憶されないままだたったかもしれないと考えると、星さんの仕事が持つ意味の大きさも分かる。アーカイブとはただ保存するだけでなく、記録することも重要なのだ。

 「そも仏道とは護法のために編まれ、やがて体系立ててひとつの道として確立された総合戦闘術である」という1行で、その面白さが分かる小説が可能される。鵜狩三善さんの「ボーズ・ミーツ・ガール 1 住職は異世界で破戒する」(レジェンドノベルズ)。発売前なので詳細には触れないけれども宇宙で昆虫型の敵と戦っていた地球からの陣営には侍がいるけれどもその侍が不足だったため、前線に出て戦ったひとりの僧兵。侍ほどの攻撃力はないとされながらも宇宙を駆け抜け敵陣に特攻しようとしたものの果たせず、かろうじて味方の攻撃が間に合い敵は倒されても僧兵はそのまま宇宙で消えようとしていた。

 そこに召喚の誘い。目覚めた世界で僧兵は世界を脅かす魔王を相手に自らの命を引き替えにして挑もうとしている少女を助け、戦いに身を投じる。そんな展開はところどころに楽しさはあっても基本は真面目な文体で、オショウという名を名乗るようになった僧兵が仏教になぞらえられた言葉を繰り広げては技を繰り出し思考をめぐらせ敵を倒していく。僧兵でこれだけ強いなら侍はどれだけ強いんだと思わないでもないけれど、そんな強さに魔王軍の面々も堂々と挑んでは散っていく姿がなかなかに格好いい。呼んでスカッとするストーリー。続編もあるみたいだけれどいったい誰と今度は戦うのか。宇宙から何かが攻めてくるのか。大いに期待。

 シュレッダーの運用を障がい者として雇用されている担当者が受け持っていて、その担当者が出勤時間に制限があるため依頼した書類のシュレッダーへの投入が、その時間にならざるを得なかったという理由自体は理解できないでもない。フルタイムで働けるとは限らない状況で、頑張っている職員がいてその人にちゃんと仕事があるなら幸せなことだから。問題は本当にそういう理由なのかってところで、その時間にシュレッダーにかけなくてはいけなかったとしなければならないなら、その時間にしか働けない人員を用意するしかなく、それが働く時間に制約をある障がい者の方だったというロジックだったらやはり拙い。本当にそうなのか違うのかは突き詰めて欲しいところ。外務省は海外では障がい者雇用は難しいからと枠を減らしてと泣き尽くしなあ。これじゃあ進まないはずだよ雇用。


【12月3日】 アメリカでアニメーションを表彰するアニー賞のノミネート作品が発表になって、インディペンデントの部門で日本から「天気の子」と「プロメア」と「若おかみは小学生!」がノミネートされたとの報。メディアだと「天気の子」くらいしか紹介されておらず、前の「君の名は。」に続いてのノミネートで今回こそはといった話や、去年同じ部門で細田守監督の「未来のミライ」が受賞しているから2年続けて日本作品が受賞かもといった話になっている。

 ただ、作品性なら「プロメア」だって負けてはいないし「若おかみは小学生!」のように日本でだって知る人ぞ知る作品がアメリカで評価されてノミネートされたことへの驚きもある。そうした作品を取りあげて「天気の子」と並べることでそうかそういう長編アニメーション映画もあったんだと、世に知られて欲しい気もするけれども、載せられる情報だって限られる中で最もヒットした作品を紹介するのがメディアの常。あるいは最も知られた作品を紹介することでメディア自体のバリューを引っ張ってもらおうとしているから、それも仕方がない話なのかもしれない。

 そういう時に、すでにバリューを持った報道機関が多少の傾斜はつけてもおおむねフラットな状態で報じて、「天気の子」が持つバリューを他の作品にも流し込むような紹介の仕方ができれば良いんだけれど、ある意味でサブスクリプション型にあらゆる情報を詰め込んで、新聞というパッケージにして配達して来たメディアがだんだんと地位を下げ、ネットという場でバリュー先行によるアクセス稼ぎに汲々とするメディアと競争しなくちゃいけなくなっている。そうなると新聞もバリュー先行にならざるを得ずネットでは「天気の子」ばかりが紹介されてしまう状態に。この傾向は強まりこそすれ緩まることはないと考えると、作品作りもいろいろと厳しいことになっていくんだろう。どうにかならないものかなあ。

 警察に逮捕か拘束かされた少年が、警察から逃げ出したのを拾って逃亡を幇助し、そしてパトカーに追われているのに停車せず、信号を無視するかのうように交差点を突っ切り警察を振り切ろうとして速度超過も行ったまま、突っ走っては最後に水たまりに突っ込んでしまうようなスーパーカブの使われ方を、果たしてバイクメーカーが是として良いのかは迷うところではあるけれど、130億円の興行収入を稼いだ「天気の子」の前には、Yahoo!の知恵袋が使えなくったって別にYahoo!からチェックされないのと同様に、メーカーとしても気にせず人気に乗っかるのが良いって判断だったのかも。

 「天気の子」で夏美が帆高を乗って公道を突っ走るピンクのスーパーカブがプリントされたTシャツがホンダから発売。これが売れるってことなんだろうなあ。3パターンあって映画のような横長のプリントがされているだけといった、あまり美しくないデザインだけれどそういう意味では貴重な品なんでちょっと気になる。とはいえ1枚で6000円近い値段は貧乏人には手が届かない。背中に3コマ分がプリントされたのがデザイン的には楽しいけれど、バックプリントってTシャツをむき出して着た時じゃないとアピールできないからなあ。上にジャケットを羽織って前身でちょい見せくらいが大人には有り難いんだけれど。さてどうするか。そのまえにどうなるか。模様眺め。

 ぜんぶで1054カットある長編アニメーション映画のカット袋を箱から取り出し、背景を抜いて透明な袋に入れて上にトレーシングペーパーをかけ、付属している手描きのレイアウトははずしてカット袋に入っているレイアウトとか修正原画だとかタイムシートなんかを合わせてこれも別の袋に入れ、そしてセル画と動画をカット袋に戻して分類・整理する作業をこの10日ばかり続けてようやく半分くらいまで到達。原画はすでに抜かれてあってそちらの整理は終わっているから、20年前の映画の素材を利活用する道も拓けてくるかもしれないけれど、果たしてそうした場はあるか、っていうと覚えている人がいるかどうかにかかってきそう。

 最近は「機動警察パトレイバー」が盛り上がっていて原画展が大阪で開かれて上映会も開催、そして東京でも原画展が開かれる予定で整理され分類された原画なんかが選ばれ展示されて利活用されている。図録にも入って昔描かれた精緻な筆致をたどることができる。同じ様な状況に長編アニメーション映画もなって欲しいけれど、続編が作られたりして盛り上がりが続く「パトレイバー」と違って記憶の中に留まって、思い出として存続している映画だと果たしてどこまでビジネスに結びつくかがちょっと見えない。だからやっぱり事前に映像も出版も連動があってさあその大元だよ、って行きたいけれどそういう機会はあるのかどうか。新しい作品をどうにか売るのに懸命な業界だけに、難しいのかもしれないなあ。アーカイブという視点から過去作品を保存しつつ見せ、技術の継承に繋げるといったお題目が必要なのかもしれない。


【12月2日】 たぶんそうとは意識しないで声だけ聞いて印象に残った最初は「巨人の星」の花形満になるんだろうか。星飛雄馬を演じた古谷徹さんの初々しくも熱血さを持った声とは対照的にクールで気取って格好いい奴って印象だったなあ。左門豊作の兼本新吾さんは後に「科学忍者隊ガッチャマン」のみみずくの竜でも聞くことになるけれど、タイプは似ていてお名前はともかく同じ声だと感じたっけ。古谷徹さんはアムロ・レイから聖夜なんかを経ていろいろと演じていく中で、井上真樹夫さんは「ルパン三世」の石川五エ門とそして「宇宙海賊キャプテンハーロック」のハーロックが花形よりも強く印象に残った。

 ファーストシリーズの大塚周夫さんとは違った甘さも持ちつつ若さも漂わせながらもストイックな侍といった風情を漂わせた「ルパン三世」の五エ門は、番組内でやがて決めぜりふとなっていく「またつまらぬものを斬ってしまった」とともに長く耳に残る声となっていく。「風魔一族の陰謀」はさておいて浪川大輔さんへと変わった今もやっぱり雰囲気は井上真樹夫さんを踏襲しているといった感じ。それは山田康雄さんのルパンを栗田貫一さんが踏襲し、納谷悟朗さんの銭形警部を山寺宏一さんが踏襲し、増山江威子さんの峰不二子を沢城みゆきさんが踏襲しているのと同様。井上真樹夫さんが石川五エ門のスタンダードを作ったと言える。

 そしてハーロック。どこまでもクールで格好良いいけど花形のようには気取っておらず低い重心からしぼりだす言葉には隅々まで心がこもっている。そんな声を聞かせてくれる役だった。他にもいろいろと二枚目を演じただろうけれどもハーロックの声をそのまま使ったような感じは印象にない。それほどまでに役柄にその美声をチューニングしたともいえる。だからこそ声と顔が一致するキャラクターになった。今ほかの誰がどう演じてもハーロックにはならないような、そんな気すらする。それほどまでにマッチした役だった。

 そんな井上真樹夫さんが死去。81歳はご高齢だけれどまだまだ元気でいられる歳でもあった。残念。これでルパン一家で存命は今のメンバーを除けばファーストの峰不二子を演じた二階堂有希子さんと新ルパンの増山江威子さんってことになるのか。もちろんパイロットフィルムからずっと次元大介を演じている小林清志さんも存命だけれど、山田康雄さんが無くなり納谷悟朗さんが泣くなってそして井上真樹夫さんとなると新ルパンという人気を蹴ってづけたシリーズでの5人中で3人が鬼籍に入った。これが時代なんだなあ。 昭和は本当に遠くなった。小林清志さんにはもう思う存分に次元を演じ続けて欲しいなあ。何を言われたって他にいないんだから。

 今の時給で働く業務委託の身となってようやくその厳しさも感じられるようになった非正規雇用の不安定さに対する不安といったものを、解消しようと自治体なんかがとみに増えている非正規雇用の職員にも正規雇用の職員と同様に賞与なんかを出すようにしようという動きがあるそうで、それは素晴らしいことじゃないかとよくよくニュースを読んだら何と賞与を出す代わりに月々の払いを減らすといった措置を行っているらしい。意味ないじゃん。

 月々もらえてなおかつ正規の職員と同じ仕事をしているのだから同じだけの賞与をもらえて当然なはずなのに、トータルの支給額が変わらないならそれは何の助けにもなっていない。むしろ月々を減らされ困窮すする人の方が増えそう。借金漬けになってそれを賞与で返したところで、利子はとられる訳だから前より支払いは多くなる。だったら月々を増やして欲しいというのが実情だろう。っていうか普通の賞与をプラスしてくれって言いたくなる。海外ではそうしたパートタイムの方がむしろ手厚いっていうのにこの国は。

 医療費も支払いを抑制する方向にあって国が国としてのサービスを提供できなくなっている。それなのに税金は上がる。それが総理大臣の私的な宴会に用いられている可能性がある。そうした苦境に誰もが喘いでいるのに下がらない支持率っていうのはつまりもはや政治なんてものに関心を向けているほど心に余裕がないんだよ。ニュースなんて観ている暇がないんだよ。積極的に支持ってより今より悪くなるかもしれないなら今のままが良いってだけの消極的な支持だよ。その上にあぐらをかいてどんどんと簒奪していった果てが今。底が抜けてようやくヤバいと気付いた時にはもう遅い。というか既に遅いのかも。どうなるんだろうなあ日本。そして僕の明日は.

 Netflixでアニメ版「蒼き鋼のアルペジオ」を見続けたせいでアプリ版のゲームもやってみたくなってiPadにインストール。始めて艦を建造したらタカオが出てタカオが出てタカオが出てキリシマも出てキリシマもまた出たりしてコンゴウにコンゴウとそしてイオナとイオナが並ぶ状況になってしまった。いくらメンバーが少ないからってこれではなあ。とはいえすべてがちょっとずつ違うところが面白いというか。作り手もいろいろと考えているというか。これであと出たとしてマヤくらい? ヒエイとか生徒会役員たちはちゃんと出る? 気になるからやり進めていこう。


【12月1日】 7月くらいから試写の機会がありながらも日程が合わず観られなかった「HUMAN LOST 人間失格」をやっと観た。なんだ面白いじゃないか。太宰治の原作からの入れ替えだとか増幅だといった分析は脇において、社会がナノテクノロジーの発達によって誰も死なないようになって、その中で長く生き続けることを至上とする勢力がいる一方、死ねないことへの不満を抱えて爆発させようとしている勢力もある。そんな状況にあって死なないような体の仕組みをぶち壊し、暴走させることでモンスター化する事件が勃発する。ヒューマン・ロスト現象と呼ばれている。

 その事件の裏で動いているのが堀木正雄という人物。元医者で、死なないことへの倦んだ気持ちを利用してヒューマン・ロスト暴走させているようだけれどその目的はどうやら別にあるらしい。そんな堀木が竹一というバイク乗りの青年と、そして画家をしている葉蔵という青年を選んで暴走させた挙げ句、葉蔵に異変が起こる。それは世界を脅かす存在なのか、それとも救う存在なのか。

 同じ様なある種超越した存在はほかにもいて、柊美子という健康保障機関の広告塔をやりつつヒューマン・ロスト現象を感知する力を持った女子で、葉蔵が同じ様な身になったことを感知して機関へと誘うもののそこに堀木の手が伸びる。一方で機関を動かす合格者、歳をとってなお生き続けるものたちの策謀もうごめく。死を望まず生き続けたいと願いもの。生き続けることを拒絶して死を求めるもの。立場や考えの違うものたちのはざまで利用される美子、あがく葉蔵。その行き着く先は青空のある理想の世界か、ヒューマン・ロスト現象によって滅びた世界か。

 そんな感じに社会保障がある意味で行き届き、けれども管理された未来のビジョンを見せてくれるところがSF的。色相によって犯罪の可能性を未然に防ぐシビュラシステムが行き渡った「PSYCHO−PASS サイコパス」の世界とはまた違った、管理と統率が行き着いた世界のビジョンを見せてくれる。冲方丁さんが考えた世界観か。それがよくもまあ太宰治の「人間失格」と結びついたものだと驚き。企画を聞いてから何年もかかって練り上げたことはあるというか、それだけかけないとこの設定は生まれてこないよなあ。

 噂されていたように初見では分からないということはなく、ナノテクノロジーを使った人間お管理と進化が根底にありつつそれが倦んだ空気を招いているといった感じに、だいたいの設定は理解できたからついていけた。市街地が汚い場所と綺麗な場所に分かれているのはどういった格差があるんだろう。「PSYCHO−PASS サイコパス」でもそうした地域はあったけれど階層として分けられているといっった設定があるのかな。ちょっと分からなかったのが、バーでマダムが襲われたあたりか。どういう展開があったかが知りたい。

 おそらくは堀木がうごめいて葉蔵の覚醒を促そうとしたんだとは思うけれど、マダムがなかなか美麗だっただけにちょっと勿体なかった。いいもの拝ませてくれたし。それを観にまた行きたいかもしれない。今年観た中でも上位に入りそうな傑作SFアニメーション映画。でもやっぱり太宰治さんの原作とどういった関係があるのかはすぐにはつかみづらかった。浅香守生監督による「青い文学」シリーズのアニメーションで、原作をきわめてしっかりと再現した「人間失格」を見返したくなってきた。家にBlu−rayがあるはずなんだけれど、どこに仕舞ったかなあ。他の方法では観られないのかなあ。

 9月の終わり頃から関わっていたNHKのBS8K1周年記念番組がいよいよ放送されるというので観られる場所を探して渋谷のNHKへ。さいしょはスタジオパークに入ったけれど17時半から18時の放送時間の途中で放送を止めてしまうそうなので、そこを出て近くにあるふれあいホールへと移ってそこのロビーにある8Kテレビで番組を視聴。その前に放送されていた江戸切り子の職人さんたちをとらえたドキュメンタリーガラスでできた江戸切り子の美しさが隅々まで表現されていて、解像度の高さが質感をそのままとらえる8Kの凄さに感じいる。

 これが俳優さんなんかだとしわとかしみまでとらえてしまって、美しさかっこよさを損なってしまうんじゃないかって不安が芸能界にはあるみたいだけれど、番組「躍進する世界の8K」に出演をお願いした落合陽一さんは、そうしたしわとかしみも含めてその人が生きてきた証であって、逆に映し出すことによって人生なり考え方なりが見えて来るんじゃないかって話してた。本物の役者だからこそにじみでる本物感。逆にニセモノは耐えられなくなる。怖いけれどもそれはそれで素晴らしい状況が待っているのかもしれない。

 とはいえお金がかかるのも実際で、ハリウッドなんかが本気で作ったセットの上で本気で演技する俳優たちが本物の芸を見せてくるようになると、日本のちゃちなセットとかアイドルあがりの人気者では大きな差が出てしまう。それをこれまでは勢いとかで見せていたのが耐えられなくなった時、日本のテレビ番組制作はどこへと向かうのか。より資本の大きなところに飲み込まれてしまうのかもしれないなあ。世界の何十億を相手にするハリウッドなりNetflixのようなメディア、あるいは国内だけで10億人以上の市場を持つ中国。それらが作り出す本物に対抗する日本のコンテンツって何だろう。アニメーションも8Kでは作るのが大変だろうし。困った。とはいえそこに活路を見いだせば将来はある。頑張って。

 百合×SFはなにもハヤカワ文庫JAの専売特許ではないようで、講談社ラノベ文庫から登場したこまつれいさん「101メートル離れた恋」は目覚めるとなぜか女性型のオートマタ、つまりは機械人形の中に入っていた少年がその体で男性相手にご奉仕する日々にうみ果てた先、派遣された家で神尾イチコという少女と知り合い次第に仲良くなっていく。自分は人間の男子だと信じてもボディは女子というオートマタがどうして生まれてしまったのか。異世界からの転生ではなく生み出されたオートマタが自己防衛として行ったあることが招いた事態というアイデアとしてユニーク。最終的に男子の意識はどこへ行ったか。気になるところではあるけれど、オートマタが自意識を持ったらどうなるかを示唆してくれるSFと言えそう。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る