縮刷版2019年11月上旬号


【11月10日】 10月からスタートしていたテレビアニメーションの「歌舞伎町シャーロック」が面白い。土曜日で昼に打ち合わせもあって出かけたもののどこかに立ち寄る気力もなく、また荷物が届く可能性もあったのでそのまま引きこもって玄関先で届くかもしれない荷物を待つ時間にまだ見てないからと見始めたらこれがなかなかのものだった。

 分断された歌舞伎町の底辺側にあるバーに炯・ミハイル・イグナトフでも正崎善でもないジョン・H・ワトソンなる人物が探偵のホームズを探して訪ねるとそこでは探偵たちが切り裂きジャックの事件が発生したからと呼び集められ解決したら1000万という賞金を提示され3人が参加して街中へとゴー。ワトソンはホームズらしき男にすがりついていっしょに出かけてそこで事件を見聞し、財布をすられて行き場もない中でホームズの事務所に転がり込んでお手伝いのようなこともしながら一緒に事件に挑んでいく。

 遺体の状況から犯人像を推察したホームズがそれを語るところで「さてみなさん」とはいかず見せた語りがなんとまあ。以後もそうした謎解きがことごとくに差し挟まれるんだけれど突拍子もない割に妙に馴染んでいるのが面白い。普段のホームズのむすっとした口調からその謎解きの語り口の立て板に水といった口調へと変じてどちらも違和感がなく聞こえるのは小西克幸さんの巧さなんだろうか。それとも流れの作り方なんだろうか。

 以後、事件が起こってホームズが出向いて解決をして他の探偵達も絡んでといった展開。メアリ・モーンスタンといっしょにいるルーシー・モーンスタンの意外な正体とかそれ展開に絡んでくることあるんだろうかと思ったりしたけれど、もっと深いのはホームズの部屋に出入りしているジェームズ・モリアーティって少年の正体だろうなあ。ホームズでモリアーティなら普通に親友なんてことはないだろうから。ってかホームズがホームズでワトソンがワトソンでわる必然性もあまりないのだけれど、そこは名を借りて名探偵と助手という属性も借りているならモリアーティについても属性がいずれ現れてくるんだろう。少しその片鱗も見られたし。

 「PSYCHO−PASS サイコパス」の廃棄地区のように雑多な街を舞台に「赤毛連盟」とか借りつつ謎解きを見せつつ進む展開の先、ワトソンがホームズを頼った女性が殺害されて謎の装置が発見されて報告した途端に狙われた一件も絡んで浮かび上がって歌舞伎町あたりを巻き込んでの、あるいは日本という国をあげての事件となっていくのかどうなのか。2クールらしい長丁場を支える体力が制作しているProduction I.Gにあるのかどうなのか。見守りたいけど見守っているだけで評判にならないと来年食いっぱぐれるかもしれないので応援しよう「PSYCHO−PASS3 サイコパス」と同様に。

 たまのライター仕事でイベント取材に品川へ。ちゃんと記事が書けるのか、そして写真は上手く撮れるのかといった不安が浮かぶのはいつものことだけれど、ちゃんと載ったようでちょっとだけ安心する。そんなイベントは繋がるゲーム「DEATH STRANDING」を出した小島秀夫監督を迎えてのトークイベント。そこで小島監督が言うには「ゲームが出来たのは僕ひとりの力ではない。繋がることが大切だとゲームでは訴えているが、制作過程でもそう思った」といったもの。いろいろあって会社を出て始めた新しい会社だけど、やっぱり当初は本当にゲームなんか作れるのか、誰もが思っていたからなあ。

 だからこそ完成して浮かぶ感慨。「メタルギアソリッド」の頃から小島監督と付き合いのある大塚明夫さんは、感極まったか「コジプロが生まれて、小島監督の背中に“孤”の時が書いてあった時期があった。小島監督を信じてついてきたスタッフの人生が肩に掛かって、ギリギリの中で発売となって、チームが繋がってひとつになり、世界中のユーザーの人たちもひとつに繋がって、この日を迎えられたことが俺はうれしい」という言葉を涙ぐみながら喋っていた。こういう時に繋がりって良いなあってとても思えた。

 小島監督も「誰もが人生で荷物を背負って大変な思いをしているが、決してひとりではない。自分みたいな人が世界中にいて、繋がって生きていると感じていただければ良い。世界でいろいろなことがあるが、人は繋がって生きていくことが大切だと感じていただければ、3年4年頑張ったのが満たされる。みんなで繋がりましょう」と呼びかけていた。実際に今、満たされているんじゃないかなあ。果たしてどれだけ売れるのか。ちょっと気になる。自分が今こうしてどうにかこうにか生きていられるのも、きっと繋がっていたからかもしれない。あとはそれをから裁ち切りに行かない事を気にとめて、どうにかこうにか生きていこう。


【11月9日】 もしかしたら事故死した監視官とは青柳璃彩のことなのかもしれない。元監視官で後に執行官となった狡噛慎也も宜野座伸元も外務省の行動課に移って無事に活動しているし、常守朱は壬生局長殺害の容疑かなにかをかけられ拘束されている模様。霜月美佳は公安局刑事課の課長となって取り締まる立場にあって存命だとするなら、過去に出て来た監視官で死亡したのはやはり監視官だった酒々井水絵に誘い出されるようにして騒乱に巻き込まれ、色相を悪化させて壁越しに須郷徹平によってリーサルされた青柳璃彩くらいしかいないから。

 そこで名前が出ないのは何かミスリードさせる意図があって、常守朱の所在を不安定にしたかったか、あるいは宜野座が狡噛のどちらかに何かが起こったと思わせたかったか。結果として六合塚弥生まで出て来てそれも執行官から抜け出しフリージャーナリストとして活躍中。そんな「PSYCHO−PASS3 サイコパス」では単純にシビュラシステムを中心とした世間を良くしようとする施策の積み重ねが招く謀略といったフェイズを越えて、何らかの権力が組んで世間を操っている構図が描かれて、世界の構造が一気に広がってしまった。

 絶対的なシビュラシステムがあってこそ、それへの追従か反攻かといった構造で描けていたものがシビュラシステムすら絶対ではなく操れる存在がいるといった状況になって、誰がどこに所属して何を目的としているのかを改めて見直す必要が出て来た。新人監視官の2人はその点であまりにも末端過ぎる気が。ただ常守と霜月がそれぞれ推挙し招いた上に幼なじみでなおかつ親族同士が殺人の加害者と被害者となって共に死んでいるという謎めいた一件を抱えているなら、やはりもうちょっと奥があるんだろう。起こっている事態を平面で追いつつ深淵へと迫る物語を、のこる7話で描ききれるのか。1時間の放送枠があってもやっぱり足りないかなあ。

 キャラクターでは中年枠で征陸智己とは正反対などこか擦れた雰囲気を漂わせる廿六木天馬が意外にも良いところの出身で、それでも親が違うこともあってか反攻的な態度を見せて潜在犯となって一族から絶縁をされ、それがどういう経緯からか執行官になっていたことが判明。親族が目の前で怒っている都知事選の一方の候補に関わっているという状況もあっていろいろと揺れ動いている様子。何か動いてくれるかな。もうひとりの入江一途は茗荷谷の廃棄区出身と判明してなかなかの顔役らしく知り合いも多そう。そこを守りたいという意識はあっても、執行官にはすぐなれるものではないだろうからどういう経緯があったか。そこは正伝かあるいは外伝の小説か何かで書かれるかな。未だ過去があまり語られない如月真緒のエピソードともども楽しみにして待とう。

 すっかり関心の埒外にいってしまったサッカーとかで女子サッカーの日本代表ことなでしこジャパンの試合が10日に行われることを遅ればせながら知る。相手は南アフリカでラグビーのワールドカップで日本代表がベスト4を目指して戦いながらも敗れた相手を、サッカーで仇討ちするんだなんてPRもあったけれど別にそういう気持ちでなでしこジャパンも戦っている訳ではないだろうし、ラグビーは試合が終わればノーサイド、勝敗なんて気にしないという文化だからリベンジを使っては拙いような気がしないでもない。まあそこは煽ることで関心が向かえばそれはそれで。ワールドカップでも振るわず次の東京オリンピックが隆盛を取り戻す鍵になるだけに、ここで頑張って再びのメダルを目指して欲しい。選手は誰が残るかなあ。最近見てないから本当に知らなくなっているんだ。

 宇崎ちゃんの献血ポスターについては毀誉褒貶、いろいろと議論もあってどちらかといえばやっぱり関係がなさ過ぎたかなといった方向に落ち着きそうで、敢えてあのデザインのものを使い誘う必要もなかったのではといった感じになっているけれど、秋葉原の目抜き通りに掲げられたマイクロビキニの美少女たちがいっぱい描かれた看板は、公衆に向けて飾られたものであるだけにちょっと問題があったかもしれない。秋葉原なら許されるかというと店頭のポスターあたりならまだしも往来を見下ろす看板では、目にする人たちも不特定多数で年齢的に対象ではない人たちも含まれる。ゾーニングがされるべきものがされないところに、ここなら良いだろうといった安易さがあったのかもしれない。

 というか秋葉原って今もまだポップカルチャー系の店はいっぱいあるけれど、ゲームショップも減り本を売ってる店もだんだんとなくなって普通に家電や電子機器を買いに来る場所になってしまった。あとはフィギュア類か。昔ながらのパーツ屋なんてどんどんと店を閉めているし、ジャンク屋もなくなり綺麗なお店も増えて行きやすくはあっても行って何も楽しめない場所になりつつある、ってことなのか。いやまだパッケージ類を買うなら秋葉原に行くのが確実だけれど、Amazonで通販が主流になりつつある今、店舗特典のためだけに通うっていうのもちょっとなくなりつつある。僕自身も懐が厳しくなって定価で特典をもらうだけの気力がない。貧乏化する社会と高齢化する社会の複合が秋葉原から足を遠ざけているって体もあるかもしれない。じゃあどこへいく? どこへも行かないんだよなあ。お金ないし時間も無いし。ネットでアニメ見てゲームして。そんな時代に秋葉原はどこへ行く? しばらくぶりにのぞいて来ようかな。


【11月8日】 いやもう無茶苦茶というか一国の宰相が国会で質問中の議員に向かってヤジを飛ばすだけでも厄介なのに、文部科学省で見つかった文書について触れている時にその議員が自分で作ったんじゃないのといった、あり得ない上に侮辱も甚だしい誹謗を飛ばしてしまうんだからこれは度しがたいというか、何かがぶっ飛んでいるというか。これには質問中だった議員も怒って釈明を求めたら、自分が入れた可能性もあるし誰にだって入れる可能性はあるとかどうとか言い逃れをしつつしどろもどろ。最後はたぶん謝ったんだと思うけれどもそもそもヤジがが出てしまうところに何か問題があったりしそう。そういう性格なのか、言っても咎められないから言ってしまうのか。残る会期に何が飛び出すか。煽れば何か良いそうだけれどそれで辞職とかないから煽り害もないか。やれやれ。

 Japan Unlimitedなるオーストリアのウィーンで開かれている展覧会に日墺友好150周年を記念する公式のイベントとして外務省と在オーストリア日本大使館が公認をしていたところ、展示の内容に何かよからぬものがあるといった訴えがあって、それを聞き入れた外務省とか大使館が公認を取り消すという事態が発生。いったい何が引っかかったのかと問うても、外務省とかは個別の作品については何も言わないという方針らしく、ただ友好には相応しいものではなかったといった理由を説明してお茶を濁しているらしい。

 そこで個々の作品についてこれは日墺の友好に則していないといった判断を下して却下をしたら、まさしく検閲であってそれはさすがに出来ないけれど、だったら全部を反友好的と括ってしまうと、そうしたニュアンスを含んでいない作品までもがそういう範疇にあったと見なされかねない。そこに出ていたアーティストにそんな意図がなかったとしても、そこに出ていたというだけで貼られたレッテルを剥がしたくても認定した側が説明しないんだからどうしようもない。これもまたとてつもない検閲であって、アーティストたちにはとても迷惑な話だろう。

 というか、そもそもいろいろと取り沙汰されている固有の作品にいったいどこが反友好的なのかという問題があって、一国の首相らしき人物が戦争責任を認めることが、世界標準において国の名誉を毀損するなんてことはなく、今だってドイツでもオーストリアでもどこでもかつての戦争に何か荷担した責任を問われて反省をする声は、政治家からも文化人からも幾らだって出ている。架空の総理がアート作品の中でそれを認めて悪いはずもなく、そもそもがその作品はそうした責任を回避するためには鎖国すべきだっていうブラックジョークを放って終わる作品らしく、世界に開かれた国家を目指すなら世界標準の中で認めるべきは認めようといった具合に、日本という国の立場を前向きにする意図めいたものが込められているとも言える。

 反日どころか促日。それと東京電力の人らしき像が飛んで行く作品は福島県あたりを大変な状況へと追い込んで、この国土を毀損したまさしく文字通りの“反日”的な所業をした人たちを糾弾するものであって、国士なら諸手を挙げて賛同して押し上げるべきなのに、それがどこか日本を貶めるものとして取りあげられてしまっている。何かがズレているけれど、日本という国土が汚れていると認めることがもはや“反日”なのかもしれないし、政府がすでにアンダーコントロールといって終息を宣言したものを認めないような言動は、やはり日本を貶めるものだといった意識が軸にあるのかもしれない。

 そうしたスタンスを見せれば、政府も喜んでくれるといった思考がどこかにあって行動した結果、政治家が煽られ外務省や大使館が従って公認が取り消されてしまった。その結果、世界からは政権への批判なり状況への風刺が認められない検閲国家なのかと目を剥かれ、そんな恐ろしい国に作品を送り込んだら何を言われるか分からないと、出品も貸出も行われなくなったりしたらいったい誰が責任を取るんだろう。そんな作品はいらない、日本には浮世絵も日本画もあるからそれで十分だ、なんて言い出したりして。いやマジで言い出しかねないから怖いんだ。始まる文化的鎖国。そして貿易的鎖国へ。チョコレートが食べられなくなるなあ。

 アニメーションに関するジャーナリストの数土直志さんが運営している「アニメーションビジネスジャーナル」の収入がアドセンスからの月々数千円というのはちょっと驚きで、中身的にはプレスリリースをただ転載するだけではなく、しっかりと分析もされて提言もされている上に、速度も決して商業ベースのアニメ関連サイトに負けてなかったりするから、同じだけの広告効果もあるはずなのにそうした広告が出ないのか、積極的にはとっていないのか、ちょっと聞いてみたくなった。ご本人は学校で教えたり後援会をしたりコラムを書いたりして糊口を凌ぐことは出来ているみたいだけれど、あれだけのメディアがマネタイズできていないということの方がやはり深刻。情報にお金が支払われる時代ではない現れなのかもしれないなあ。とはいいつつこのサイトだって書評のサイトだって収入はゼロだから同じか。まあ質が段違いではあるんだけれど。書評サイトもリストラからこっち、更新速度が落ちているし。そろそろ気合いを入れて更新するか。


【11月7日】 確か日曜日くらいにテレビ舗装されて話題になった京都アニメーションによる三好一郎監督こと木上益治さんによる「バジャのスタジオ」の再放送が11月29日に決まったそうで、突然の放送に撮り逃していた人とか見忘れていた人が大喜びしている感じ。僕は「白蛇伝」を見た後だかに遠く町田まで遠征してショップで展開されていた京都アニメーションの原画展を見たついでに、売られていたブルーレイを買ったからいつでも見られるけれど、放送に関連して京アニショップが用意した再販売分が即座に売り切れ、今は予約を受付中だけれどソールドアウトで再販予定は未定。なのですぐにでも見るなら11月29日の再放送が最速ってことになるのかな。それも見て、ブルーレイを予約しておいて受け取って、何度も繰り返し見て未来の“バジャのスタジオ”のために何かしよう。何が出来るかな。

 プレイステーション4を持っていないためまるでプレイする予定がなかったりする小島秀夫監督による最新作「DEATH STRANDING」だけれど、聞けば聞くほどにステルスゲームだた「メタルギアソリッドV」とはまた違った壮大な世界観と壮絶な秘密を持っていそうなゲームで、分断されてしまった世界を旅して手紙を運び荷物を届けるポーターとなって歩き回るうちに、他のプレイヤーとつながりを感じ世界を再生している喜びを感じることになるんだろう。

 家に居て引きこもりがちでゲームをやっても普通はパーソナルな経験として終わってしまうところを、誰かと繋がり何かを成し遂げる喜びに変えてしまうところが小島秀夫監督。太陽の下に子供たちを引っ張り出そうと「ボクらの太陽」を作っただけのことはある。そんなゲームは、背中にへその緒を持った対峙を背負いBTと呼ばれる時間を早めて腐食させ老化を促す雨を避けBBだっけ何だっけ、幽霊みたいな存在と戦いながら進むそのフィールドはどこまでもリアル。なおかつ荷物を運ぶ時にはバランスをとることが必要で、持ちすぎれば歩くのが遅くなるし偏れば傾いてうまく動けない。

 それで山を登り道を歩き谷を渡って海は越えるかどうなのか。そんな冒険をしていった果てにいったい何があるんだろう? 体験したいけれど家にプレイステーション5は持ち込む余裕がないからなあ。そこはフリーの身なんで冬に早く帰省して実家のテレビにつないで10日間くらい、家から出ないで試すってのもありかなあ。ポケットWi−fiで対応は可能なんだろうか。それにしても深い世界を描いた小島秀夫監督。これが日本SF大賞を受賞すれば最高なんだけれど。日本SF作家クラブに入ってくれないかなあ、小島監督。

 そうかDLEは高坂希太郎監督のためにスタジオを立ち上げるのか。「若おかみは小学生!」の劇場版が大ヒットして大人気となって「茄子 アンダルシアの夏」からしばらくなかったフィルモグラフィーに金字塔が加わって、これからが大いに期待されるようになった。加えてDLEも経営難から朝日放送の傘下に入って経営を立て直し中。そこに強い作品を作れる監督がいるならスタジオを持たせて自由に作ってもらおうってことになったのかも。日本テレビが出資はしている訳ではないけれど、スタジオ地図の細田守監督と親交を持っているのと同じようにしたいのかな。

 こういうところでフジテレビってちょっと弱いなあ。「ブレイブストーリー」とかでGONZOと近くなったと思ったけどそうじゃなかったし。片渕須直監督なんかはこれからヒットが期待できる監督だけにスタジオを設立するなら出資なりして強く絆を結んでおけたら、なんて考えたけれど新作のための新拠点をMAPPAから分離する形で立ち上げたのかな、亡くなった愛犬のイラストが「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」のオープニングで映し出されて確かスタジオ名も書かれていたんだっけ、そこが作るものに出資するのは前みたいにAT−XとTBSラジオくらいでテレビは入らないのかな、NHKで最初に放送できなのはそこが空いていたからだし。争奪戦、凄いかもなあ。とはいえやっぱり企画が見たいか。平安時代のブラックラグーンだったら……即出資で。

 テレビ番組のお手伝いという、過去にあまりやったことのない仕事で神経をすり減らし、連休中の終日家から出られなくなっていたけれど、その原因となっていた出演者の取材日程調整がとりあえずフィックスして、これで一応は役目は果たしたといったところ。バラエティ的なものに土地勘はあっても、文化的なものとなるとあまり手がけたことのないプロダクションにそうした人を紹介する、だけで終わっていたら良かったけれど、スケジュールを押さえるまでが大変だった。皆さん忙しいから。

 紙面だったら代原でも別記事でもハメれば埋まるけどテレビはそうはいかない。出てもらえないと世界的な放送局の画期的なプログラムにおける記念的な番組が吹っ飛びかねないというプレッシャーは、そうした業界の慣習に慣れていないとなかなかキツい。ブッキングが出来ても撮影があって編集があって放送まで気が抜けないけど、そこが越えればあとは何とかしてくれるだろう。これはきっとアニメーションの制作進行も同じで、原画が取れなかったら作品が作れず代わりにを探しても使えず落ちて総集編になったりする中で疲弊して、気を病んで業界を去っていくんだろう。あとはプロに任せた。


【11月6日】 プロダクションI.Gの作品リストを整理する必要があってずらずらと並べていく中に「チャンネルはそのまま!」というのがあって、確か佐々木倫子さんの漫画でそんなのがあったけどアニメ化なんてされていたっけと見返したら、実写のドラマだったのでちょっと驚いた。もちろん製作元は漫画に全面協力をしてモデルとなったっぽい北海道テレビ放送だけれど、映像化を手がけたのはプロダクションI.G。これはどういうことかと言えば、アニメを作っているIGがドラマも手がけたってことになる。

 まあでもアニメと違ってドラマは監督さえいればあとはフリーも含めて制作スタッフを集めれば作れるものだから、そういう手法がとられたのかもしれない。じゃあどうしてIGかといえば、IGに所属している本広克行さんが総監督を務めているからってことなんだろう。そんな「チャンネルはそのまま!」が日本民間放送連盟賞でドラマ部門のグランプリを受賞。さぞやIGも騒いでいるかと思いきや、そうした気配はあまりなくってツイッターのアカウントも受賞を速報はしていない感じ。アニメと違って制作プロダクションではあっても現場感がなかったからなのかもしれないなあ。でも栄誉。これに気をよくして次とか作ったりするのかな。続編とか。

 そんなプロダクションI.Gが手がけた「PSYCHO−PASS3 サイコパス」をようやくAmazonプライムで見たら宜野座伸元と狡噛慎也が揃って出ていて須郷徹平に花城フレデリカも登場と前の厚生省公安局刑事課一係メンバーがこぞって外務省課に移っていた。つまりは劇場で上映された3部作の流れがそのまま受け継がれ、狡噛は日本へと戻り宜野座と須郷は引き抜かれたといったところ。頑なに公安にこだわっていた須郷までもがとは思うけれど、常守朱の処遇なんかを見るに付け公安にもいろいろとあって、それに対して動く時だと宜野座も須郷も判断したのかもしれない。

 だったら霜月美佳はどうなんだ、ってところで元より公安ベッタリなところもあって公安の正義こそが世界の正義と考えているなら移籍なんてあり得ないんだろうけれど、それでも宜野座とは連絡を取り合っていたし国内は任せろと言っていたし行動課の動きもしっかりつかんでいたから、裏では繋がっているんだろう。というか裏なんて隠しようがないシビュラシステムの行き渡った世界で半ば公然とそうした態度を取ってなお、公安の要職にいられるってことはシビュラシステムも含めて何か大きな動きがあるのかもしれない。その上で慎導灼と炯・ミハイル・イグナトフは躍らされているのか、別の踊りを踊っているのか。そんあ辺りも気にして見ていこう。

 炯といえば「バビロン」の方では正崎善という検事役で登場しては多くの人たちを自殺に追いやった原因にあるだろう曲世愛を懸命に追って京都の山城へ。そこで伝えられた曲世愛の描写がなかなかかに凄まじくって前週のどこか抜けたような作画の力をすべて注ぎ込んで描いたかのうよう。セーラー服姿で凜として登場しては胸を張りスカートの裾を翻らせて歩き微笑む姿にきっとテレビの前、モニターの前の誰もが魅了されてしまったんじゃなかろーか。圧倒的な官能美を持ったキャラクターであることを、絵で見せられるかどうかが課題だったけれど、これなら誘われて唆されれば自殺だってしてしまうかもしれない。

 なおかつその声も耽美的。ゆきのさつきさんだだけれど「フルメタルパニック」の千鳥かなめとは大違いのその声を耳元でささやかれ、あの媚態を見せられれば百戦錬磨の刑事だって自分から往来に飛び出していくかもしれない。そしてひとりが去り、やがてもっと多くの惨劇が……っていうのは来週か再来週あたりの放送になるのかな。きっと凄まじいスペクタクルが演じられるだろう、もしかしたらテレビアニメーションが始まって以来、最高に近い。でもって続く展開で第3巻「バビロン3−終−」となって描かれる世界規模の災厄。これもまたどんな表現がされるのか。それでまだ余る尺で第4巻が語られるのか。こちらも目を離せない。

 うーん、なるほど山本寛監督というパーソナリティは独特で、その言も時に過激に聞こえがちだけれども言わんとしていることは理解が決して不可能ではなく、半ば馴れ合いの構造の中で近くなっていった距離感が、憤りの感情までをも間を埋めて届くようになってしまった結果、惨劇へと至らせてしまった可能性なんかを指摘することで、もうちょっと突き放して毅然とした関係でいれば良かったんじゃないかといったことを言いつつ、そうした馴れ合いの構造の中で自分を制御できなくなる側の問題なんかも指摘し、誰もがそうなる可能性を訴え自省を呼びかけていた、って言えなくもない。

 実はとても冷静な分析だったかもしれないものを、自分たちは違うんだ、そして自分たちを含めたんだといった憤りから批判する人たちもいて、その気持ちも分かるだけに難しいけれども今回はそうした憤りの声が勝って、山本寛監督の悲しみをとらえた記事をネットから削除させてしまった。そんな流れのような気がする。山本監督にだって言う資格はもちろんあるけれど、山本監督だけが言っていたらやっぱり突出してしまうバランスが悪い。そうしたことの感づいていればひとりをピックアップして大きく扱うことはなかったかもしれない。担当した記者は大阪の人なのかな。分かってやったらのならひとつの判断で、リアクションも想定していたと思えるんだけれど、引いてしまったのはやっぱり知らず、有名な関係者だからと飛びついたのかな。難しいなあ。


【11月5日】 捉え方の違いであって、その言い回しなりニュアンスからどちらかと言えば排除されていると感じたのならそう感じたのだろうけれど、やっぱり客観的に見ると最初から排除はされてはいなくて、「週刊少年ジャンプ」の編集者に女性がなった前例がない訳ではなく、それには“少年の心”が必要だってことをどこでもしっかり訴え続けていたんじゃなかろーか。集英社の人事の人。だから周囲から諫めも入ってそれは認識がちょっとズレていると言われてしまっている。まあ当然だろう。

 ひとつ疑問が浮かぶとしたら、本当に“少年の心”は必要かってことで、それは“少女の心”と何が違うのかってこと。今時“少年の心”といったところで、それがいわゆるマッチョだったりガキ大将だったりするものだとしても、少女にだって女性にだってそういった性向はあったりするし、少年にだって慈しんだり愛でたりするような心理があったりする。少年だ少女だといった切り分けが難しい時代。何より「週刊少年ジャンプ」に女性の読者が増えている時代に、敢えて“少年の心”を持ち出す必要があるのか、だとしたらそれはどういったものかを説明する必要があるんじゃなかろーか。

 これが例えば「週刊少年チャンピオン」だったらヤンキーの心が必要で、それはレディースとかスケバンの心ではないと言われて分かりましたと言えるような気がしないでもない。「週刊少年サンデー」だったらラブコメ心があればオッケー、「週刊少年マガジン」だったら……最近読んでないからちょっと分からないや。ともあれいまのジェンダーレス化が進む世界で敢えて持ち出す“少年の心”とはいったい何か。そこがちょっと知りたい気がする。しかし過去、何人くらい女性の編集者が「週刊少年ジャンプ」にいたんだろう。そしてどんな漫画を担当したんだろう。それも知りたい気がする。

 「進撃の巨人」「serial experiments lain」と来て「STEINS;GATE」を持ち出して来たブロックチェーンでネット上のアニメ関連アートの所有権を販売するアニーク。世界でも人気の「進撃」や「lain」と比べると、ちょっとファン層が限られているような気もするけれども熱烈なファンの多さで言うなら前の2つに負けてはいないから、きっとそれなりに人気となるんだろうなあ。キャラクターでも岡部倫太郎好きの女性から牧瀬紅莉栖を求める男性まで広くとれそうだし。ダルのファンは……声が声だけにいるかもしれない。あとはやっぱりまゆしぃこと椎名まゆり。可愛かったから。

 個人的にはやっぱるルカ子こと漆原るかメインでいれば最高だけれどそれはさすがにないみたい。倫太郎にダルにまゆしぃにクリスティーナ、そして閃光の指圧師こと桐生萌郁にフェイリス・ニャンニャンこと秋葉留未穂にバイト戦士こと阿万音鈴羽が天王寺裕吾も含めて描かれ並んだイラストもあってこれなんか勢ぞろい感があってちょっと良いかも。とはいえポストカードやポスターで十分な気もするこれらに数万円の価値を見いだすとしたらやはり相当にゲームなり、アニメーションに入れ込んでいないと無理かもしれないなあ。志倉千代丸さんの圧倒的ファンか。それとも志倉千代丸さん自身か。誰も買わなければきっと買い占めるだろうからそこは安心。さてもどんな結果になるか。かこ2作は申し込んでかすりもしなかったから、今回はちょっと挑戦してみるか。

 ものすごく美少女でアニメーションが大好きで「映画スタートゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて」を大絶賛して大プッシュしていて他のアニメ映画もだいたい見ていてパンフレットを自前で買い込んで山と持ちこんでいたりするのにライターでもなければタレントでもなく歴とした日本将棋連盟所属の女流棋士でなおかつ三段という相当な腕前で女流王将というタイトルも保持していた強豪だなんて見て分かるかというと分からなかった。指せばそれこそ飛車角金銀を落とされても負けてしまうんだろう。

 奨励会にだっていて5級から入ったというからこれもなかなか。男子の棋士に混じって指して4級まで上がったんだからやっぱり強いけれど、大学進学もあってか女流で生きると決めたから、女流に復帰してから大活躍。それが「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」でアニメーションにハマっていろいろ見始めて、アニメハックに連載まで持つようになってしまったというから世の中は面白い。そういう人もいるんだなあ。ここでもしもアニメにハマってなかったらタイトルだってもうちょっと持てたかとうと、里見香奈女流えっと今は5冠という無茶苦茶強い棋士がいるから容易じゃないから、やっぱり強豪のひとり。そんな人がアニメについて熱く語り「ドラゴンクエストV」のどちらを選ぶかで激しい拘りをみせてくれたのはなかなか良かった。そんなイベント。前Qさんのお腹に親しみを覚えた。詳細は省く。


【11月4日】 チケットの争奪戦に敗れる以前に気付くのが遅くて行けなかった代わりに、プレスパスでもってP&I上映を観た「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」。そのプレミアが行われたのでとりあえず、感想を少しは書いても良いだろうということで書くなら例えば「この世界の片隅に」では行間に偲ばせ気付けば気付くけれども気付かなくても問題なかったエピソードがかき込まれて、登場人物の動勢に納得感が得られるおうになっている。例えば北條周作の姉の径子さんが晴美さんを連れて北條の家からいったん戻る理由とか。

 あとこれはこうの史代さんの原作を読んだ人なら分かっていたことだろうけれど、すずの幼なじみで海軍に入り水平になった水原哲が、入湯上陸の際にすずを頼って北條の家に泊まりに来た時、すずが納屋の上で歓談中に迫って来た哲を拒絶しつつ、母屋から追い出すようにして鍵まで掛けた周作の仕打ちに対して泣き嘆いた理由が、映画の「この世界の片隅に」では周作が自分を哲に差し出したからのようにも見えたのが、より原作に近く白木リンへの嫉妬めいた心情が感じられるようになっていた。

 つまりは原作通り。そこに至るまでに周作とすずの“夫婦”としての関係が行ったり来たりする様も挟まれ、ちゃんと納得がいくようになっている。北條周作の嫁と気付いたのか気付いていないのか、そこは判然としない白木リンによる、子供がなかなかできないすずへの出産に対する恐怖心を煽るような言葉もまた嫉妬なのか。その身に自分を置いてなお負けないという自負心なのか。そうした2人のただ仲が良いだけでなく違ってしまった立場から出るそれぞれの心情がぶつかり合う映画になっている。

 じゃあ原作どおりかというと、原作既読の人でもアニメーションとして描く際に漫画とは違うことをやっていて引きつけられたり考えさせられたりするから面白い。原作に書かれていない言葉を書いたり描かれているコマを省いたり。そうやってすずさんの心情に強くフォーカスさせようとしたところがある。僕は原作未読で映画を観て原作を読み今回の「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観た順番。それでも考えるポイントがある。「人は何を普段主観とか客観で大事に思い価値観として生きているのか。それを映画にした時、どういう風に生命を再構築していくか」って東京国際映画祭のシンポジウムでの氷川竜介さんによるアニメ映画を語った言葉どおり。本当に映画は深い。全部人が描くアニメ映画はなお深い。

 「タック健在なりや」と書いたのは当時のSF界でヒット作を次々と出す眉村卓さんを見上げるようにしていた筒井康隆さんだった感じだけれど、星新一さんが亡くなり光瀬龍さん小松左京さん平井和正さんと第1世代が次々と鬼籍に入られていく中で残っていた重鎮の眉村卓さんが死去。これでもう筒井さんも「タック健在なりや」と言えなくなってしまった。世間的には「ねらわれた学園」とか「なぞの転校生」をはじめとしたジュブナイルSFの人だけれど、本格的なSFとしては司政官シリーズがあって「消滅の光輪」とか長くSFマガジンに連載されていて読んでないけど読んだ気にさせられていた。

 「引き潮のとき」とか「EXPO’87」とか社会性にも富んだ作品を多く出しながらも小松左京さんのようなスケールのデカさがSFの醍醐味と思われる中で、どこか目立たなかった印象もある眉村卓さん。でも子供たちには「ねらわれた学園」が何度もドラマになったりアニメーションにもなったりして良く知られた存在だった。2012年公開の中村亮介監督による「ねらわれた学園」は最初、とっかかりがなくて戸惑ったけれども小説の続きなんだと理解してとたんに納得が言って、そして大好きになって何度も劇場に見に行った。お目にかかった記憶はあまりないけれど、最後に日本SF作家クラブで名を連ねることが出来て良かったなあ。合掌。

 筒井康隆さんといえば手塚治虫さんの漫画「ばるぼら」に作家として登場しているらしいけれど、手塚眞さんが監督して稲垣吾郎さんと二階堂ふみさんが主演した映画「ばるぼら」にはそういう役は出てこなかったしご本人の登場もなかった。1880年代に映画化されていたら登場していたかもしれないけれど、今のご高齢ではちょっと役がハマらないから仕方が無い。そんな「ばるぼら」はフーテンの女子を拾った流行作家がだんだんとハマっていってしまうとう展開。ミューズと崇め結婚しようとして果たせず探してそして……。そんな原作と多分しっかりと映像化している。

 公開前だから詳細は避けるけれどもとりあえず二階堂ふみがおっぱいでいっぱい。とても良い。最前列で観て眼前に広がるその双房に目が釘付けになってしまった。あと稲垣吾郎さんはとても若い。肉体美。惚れるねえ。クリストファー・ドイルがカメラを務めている割には絢爛としておらず、蜷川実花さんのような猥雑さがあまりなく、かといって清水崇さん的なオカルティックでホラーティックな映像でもなく、ストレートに現代の東京だとか作家の暮らしぶりを撮ってる感じ。歌舞伎町とかでも割と普通でキラキラもギラギラもしていない。そういう支持だったのかな。あと音楽が橋本一子さんでジャズが響いてて脳に刺さった。これは良かった。フリー系。音楽とおっぱいと展開を観るに限る映画かも。公開はいつなんだろう。


【11月3日】 第32回東京国際映画祭での「「アニメ映画史、最重要変化点を語る」で印象に残ったのは“リアリティ”という言葉が単純に写実的で実写的だといったものではないと思わされたこと。例えば高畑勲監督の「アルプスの少女ハイジ」と出ア統監督の「宝島」だとか「劇場版 エースをねらえ!」といった作品を並べてどっちがリアリティを持った作品かと聞かれて、100人中の90人は高畑勲監督の府を挙げるんじゃなかろーか。アルプスの山々での暮らしを活写した写実的なアニメーション。それをリアルを感じて違和感はない。

 でも、データ原口こと原口正宏さんは「リアルという言葉が持っている解釈で、出崎統のリアルは主観的リアル」と説明していた。「ある瞬間が永遠に感じることもあれば、周りの状況が目に入らないこともある。それを映像の文法に落とし込んだと言える」とも。楽しい時間は早く過ぎるとか苦痛な時間は長く感じるというのは他人にとっては分からないけど個人にとってはリアルな意識。そうしたリアルさをアニメーションに描こうとしてハーモニーだとか3段止め絵だといったものが編み出された。

 「『アルプスの少女ハイジ』や『ルパン三世カリオストロの城』のリアルは、客観的に時間の進行を追いかけ、周りの状況も見えるよういしてカメラを置く。娯楽を楽しむ画面作りで、それはそれで物語を観客目線で参加して楽しむことができる」と原口さん。「東映動画的客観性、虫プロ的主観性、広い意味でのリアルをどうとらえるという歴史だ」とアニメ映画史について語る上での重要ポイントを示唆してくれた。受けて氷川竜介さんも「リアルをどうとらえるか、という看板を掲げたが、日本のアニメをたどると壮大な映画論になる」と話してくれた。

 「人間は何を普段、瞬間とか客観で大事に思い価値観として生きているのか。それを映画にした時、どういう風に生命を再構築していくか。日本のアニメの作り手が誰と言わず追っていることだろう」。リアルとは? それは「AKIRA」のように実写と見まがうばかりに細かく背景が描かれていたり、宮崎駿監督のように人物が生き生きとしていたいるすものだけとは限らない、ってこと。だからあまり安易に持ち出すべきタームではないってことなのかもしれない。

 加えて原口さん。「アニメーション自体が人の手で描かれるもの。キメの細かさを究極までやっても、現実のキメの細かさは出ない。リアリズムは写真のようにリアルにおかれてはいない。どこまで描くか、何を省略するか、さじ加減が映画的に要求される。フルアニメーションを百点としてリミテッドが減点ではなく、省くことで我々の感覚が抽出されるリアルが感じられることがある」。例えば「PSYCHO−PASS3 サイコパス」の超絶作画にリアリティを感じることは当然として、「バビロン」の描写にだって物語が展開される舞台としてのリアルさを感じない訳ではない。省かれた背景でも。

 まあ、それは単純に予算と人での問題なんだろうけれど、そうした省略なんかを意図的にやりつつリアリティを探究していったのが出ア統監督であり、今のシャフトの面々なのかもしれないなあ。「アニメーションの枚数かけ方ひとつ、監督やアニメーターが持っているこの瞬間を、1番本物っぽく描けるか。枚数と色と線。それらの幅が東映と虫プロという違う環境に置かれた中で生まれた。それがいろいろ発見された」と原口さん。いろいろな系譜が生まれ伸ばしつつ時に重なり合って競い合い、今また新しい表現へと向かおうとしている。そんな結節点を改めて示してくれたトークイベントだった、とここに締めくくっておこう。

 このリアリティは果たしてどっちに入るんだろうと言われれば、宮崎駿高畑勲のスタジオジブリで仕事をした経験もあるからやっぱり東映動画的なリアリティなんだろうなあと思った「この世界の片隅に」。その長尺版として登場する「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」のP&I上映が東京国際映画祭であったんで、出不精になりつつある気分を守り立ててどうにかこうにか出かけていく。その印象については、東京国際映画祭でのプレミア上映を控えているのでとりあえず、原作により近づいていると言いつつまだ追加あれていないシーンもあるのでさらに印象が変わる可能性もあると沿えるにとどめる。

 というか、僕の場合について言うなら、先に「この世界の片隅に」を原作を読まないままで観て感じた印象は、その後、原作を読んでなるほど原作から先に読んでいた人たちが感じるものとは違うと分かっていた。だから「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観てそうした原作ファンにとっての「この世界の片隅に」に、追いついたのかもしれないといった感想が先に浮かんでしまう。だから知りたいのは、原作を知らず「この世界の片隅に」を観て面白いと思い、そして原作を読まないまま「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観た人の感想だったりする。

 P&Iで観ていたご高齢の評論家らしき人が「全然違う」とつぶやいていたのを聞くにつけ、そういう印象を抱く人が大勢出そうな気がしている。「良い作品を観ちゃうと困るな、次が続かない」とか「良すぎる」とか、そんな感想も出ていた感じで、きっとヒットするだろうことは分かったけれど、そうした人たちが長尺版、すなわちリンさんとすずさんの関係、周作さんの関係がより濃く乗ってくる「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」に何を感じたかを素直に知りたい。とはいえ、残りの10分がさらに加わって、どうなるかといったところの確認も必要なのでやっぱり、劇場には行かなくちゃいけないんだろうなあ。「スター・ウォーズ」の新作を差し置いてでも。あお感じたのはあと、彩度っていうのかな、鮮やかだったトーンがすこしリアル方向にくすんでいたような。気のせいかな。どうなのかな。

 ラグビーのワールドカップ2019日本大会がイングランドと南アフリカとの決勝で閉幕。2007年と同じカードでやっぱり同じく南アフリカがイングランドを下して3度目の優勝を成し遂げた。宗主国を相手にした植民地のチームが下克上的に勝利、ってイメージもあるけれども南アフリカの場合はオーストラリアとは違ってどこか別天地的な雰囲気を当初は南アフリカに与えていて、そしてアパルトヘイトによる差別を伴い白人層についてはあまり植民地だからというルサンチマンを抱えているようには感じていなかった。でもネルソン・マンデラ大統領からこっち、進んだ宥和政策によって黒人層も社会に入っていったんだろう。そうした中でやっぱり抱く宗主国への思い。あるいは差別してきた相手への思いは1度だけでは晴らせない。だから2度目の戦いも制しての優勝に意味がある、ってことになるのかな。そこはちょっと考えたい。次はフランスかあ。行かないけれど行って見たいかも。その頃は何をやっているかなあ、自分。


【11月2日】 キャラクターは動かないし背景は緻密じゃない。警視庁とか検察庁とかいったビルを描くとしたら、同じ時期に放送が始まっている「PSYCHO−PASS3 サイコパス」はもうバリバリに隅々まできっちり仕上げて写真を見ているような質感すら味わわせてくれるところを、野崎まどさんの原作をアニメーション化した「バビロン」は書き割りのような建物が描かれていて1990年代のアニメーションを見ているよう。いや90年代の方が「機動警察パトレイバー THE Movie」とか「新世紀エヴァンゲリオン」とかあって一気に街の描写も進んだ感じで、その意味でいるなら「バビロン」は1980年代も初頭の雰囲気すら漂っていると言っていいかもしれない。

 キャラクターも顔の半身で口パクだけで見せたり目の動きだけで感じさせたりする描写。立ったり動いたり走ったりはせずアクションなんて毛頭ない。エンディングにならぶ作画陣が海外勢だっていうのはこの際無関係。今時の海外だって時間があれば緻密に描く。そうじゃない中で一生懸命仕上げているのか、それとも最初からローコストで行くと決めているのか。そこは聞いて見ないと分からないけれど、そうした作画面を差し置いて「バビロン」は圧倒的に面白い。次にいったい何が起こるのかを小説版を読んで既に知っているのに面白いのは、原作の力があり脚本の力があり演出の力があってそして声優の力があるんだろう。

 これも「PSYCHO−PASS3 サイコパス」と同じ中村悠一さんとか櫻井孝宏さんとかが出演していて、比べれば圧倒的に「PSYCHO−PASS3 サイコパス」の方がキャラクターとしては格好いいのに、「バビロン」の正崎善に感じるキャラクター性、あるいは人間性は炯ミハイルイグナトフに負けてない。新登場の瀬黒陽麻も霜月美佳のように表情が豊かでもないし花城フレデリカのような美貌を持っている訳でもないのに、その詰めたい口調と詰めたいまなざしに引きずり込まれてしまう。そういう演出を第4話で手がけたのが「老人Z」で「BLOOD THE LAST VAMPIRE」の北久保弘之さん。テレビは久々? それは分からないけど緊張感のある展開を作り上げた。

 もちろん「PSYCHO−PASS3 サイコパス」は圧倒的に面白いしその絵の緻密さが未来の東京なり世界なりって奴をくっきりと感じさせてくれるけれど、現代の政治であり社会であり人物を描いた「バビロン」もそこに現在を感じさせてくれる。あるいは見知った時代だからこそ勝手に脳内で風景や人物を補正してみているのか、それとも絵が動かないとか背景が荒いといったことに気付かせないくらい物語に引きずり込む力があるのか。かつてフジテレビで「PSYCHO−PASS サイコパス」を含むノイタミナを手がけて来た山本幸二さんが率いるツインエンジンの企画でもある「バビロン」が、戦力面では厳しい中で五分に戦っていられる理由を、専門家の耳目から語って欲しいなあ。

 そんな専門家でも筆頭クラスの氷川竜介さんとデータ原口こと原口宏正さんが登壇してアニメ映画史の最重要変化点を3つ挙げて語ってくれたシンポジウムを六本木ヒルズで見物する。第32回東京国際映画祭のプログラムのひとつで、今年は例年のように1人の監督にスポットを当てて作品を紹介するのではなく、アニメーション史的な観点から過去作を選びそして2018年と2019年に公開されたアニメ映画を並べることで、それらを繋いでみようとういう試み。ユニークなのは過去作としてあげられた最後が1988年の「AKIRA」でまさしく昭和最後の作品で、そこから平成の時代のアニメを「若おかみは小学生!」だけ残してあとは令和へと30年、飛ばしてしまっている点だろう。

 その間に劇的な変化を成し遂げ、後世に影響を与えたものがない、って訳ではないんだろうけれど、その作品がなくなると後に続かないという部分を探っていくともと以前に源流が遡れてしまうってことなんだろう。そして挙げられたのが東映アニメーションこと東映動画の「白蛇伝」であり出ア統監督による「劇場版 エースをねらえ!」であり「AKIRA」。後の質疑応答ではどうして「銀河鉄道999」が入ってないんだとか「機動戦士ガンダム3 めぐりあい宇宙」を入れろとか「超時空要塞マクロス 愛、おぼえていますか」が入っていて欲しかったという意見も出たけれど、それらの源流もこうした3作品に帰結できるというからなかなか興味深い。

 東映動画は言わずと知れた日本のアニメーション映画の源流で、後に高畑勲監督や宮崎駿監督を生んでよく動くアニメーション映画の世界へと至らせた。そんな東映動画から抜けて手塚治虫さんの元に集結した虫プロダクションがあって、そこから出て来た出崎統さんがよく動くんじゃなくアトム的リミテッドとも違って、ハーモニーとか止め絵とか駆使してアニメーション語では語れない映画を作り上げたのが「劇場版 エースをねらえ!」。その後にキッズアニメで省略とか止め絵とかを使い心情心証アクションを表現する動きが続いたという意味で、重要だってことになる。

 「AKIRA」は緻密さの権化であて、どこまで描けるかを突き詰めつつSFアクションとしても凄かった。そんな「AKIRA」に向けて「幻魔大戦」あたりから若いけれども挑戦意欲に溢れて実力もあるクリエイターが参集して「AKIRA」で一気に爆発。けれども希代のクリエイターである大友克洋さんの表現に近づけない思いを抱えて1990年代に向かい挑んで成熟していった成果を、押井守監督が頂いたっていった解釈は面白かった。その意味では「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」でも「PERFECT BLUE」でもなく「AKIRA」という意味がやっと分かった。

 「エヴァ」は「マジンガーZ」であり「ウルトラマン」を源流に「ガンダム」から流れる系譜。主人公の描写は独特だし物語性が後世に与えた影響は大だけど、アニメとしてはってことなんだろう。それも納得。では今、これからの30年なり50年に影響を与えるアニメはあるのか、ってところで考えるべき時期に来ているのかもしれないなあ。京都アニメーションはという問いで東映動画的なリアリズムを入れつつ単焦点レンズで撮ったような主観的な映像もとってたりして出崎さん的で「AKIRA」な良いところ取りだという氷川さんの補足。割り切れるものではないのだろう。

 一方でシャフトという虫プロ的な極地が並び立っている現在地。とはいえシャフトは「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」で京都アニメ性なものも持ってきたりして割り切れないとも。得意技を持ちつつ挑戦してく流れを互いに繰り返して進化してきたんだけど、時代を変えてはいないってことでもある。「プロメア」は? 「海獣の子供」は? あるいはCGアニメにそうした表現が生まれてくるのかもしれない。見極めるために見ていこう。


【11月1日】 小池百合子東京都知事の抵抗も空しく2020年の東京オリンピックのマラソン競技は札幌へと持って行かれてしまった模様。都市が立候補して都市で開催することが原則だと決めているIOC国際オリンピック委員会が、他の都市での開催を推奨するどころか強引に移動させてしまうとはオリンピック的じゃないけれど、選手の健康という何よりも大事なものを考えた場合に灼熱が予想される東京での開催は無理だったと判断しても仕方がない。

 だったら開催時期を9月にズラせば良いじゃんという意見は聞き入れないのがIOC。だってスポンサーがあるから。そこはだから早朝過ぎる開催も無理だったってことで。以後、そうした可能性を孕んだ都市は立候補がなくなり開催が飛ぶ年だって出てくるかもしれないなあ。8が東京以上に暑い都市が温帯地域にどれだけあるかは知らないけれど。北京とか暑くなかったのかなあ。

 しかしこれで期待していたマラソン競技でキプチョゲ選手がすげえ勢いで東京の道をひた走るシーンは見られなくなってしまった。残念だけれどだったら例えば鈴鹿サーキットでアイルトン・セナの軌跡を再現したテクノロジーを使って、ライゾマティクスが札幌を走る選手の走った距離をそのまま東京のマラソンコースに敷き詰めたライトで映し出せば目の前に選手がいるような感覚を味わえるかもしれない。あるいはチームラボあたりがARの技術を使ってグラスに選手の姿を映し出せば良い。

 そこを走っている選手の息づかいなんかは、落合陽一さんが作ってた超指向性のスピーカーでもってそこにいるような感じを再現すれば臨場感も高まるだろー。そして新国立競技場ではNTTとかネイキッドが臨場感あふれる映像を統制するKirari!の技術を使って選手がすぐ目の前を走っているような雰囲気を、プロジェクションによって徒ueする。最先端のテクノロジーを使って東京オリンピックのマラソン競技を東京で再現できれば、その後のスポーツ中継に大いなる発展が見込めるんだけれど。それだけの技術開発と投資を国がやれば世界も驚くだろうなあ。やらないかなあ。

 無職みたいなものになると決まってたんでゴールデンウィークだったっけ夏だったっけ、発売されたラグビーのワールドカップのチケットをいろいろと明後日ひとつはイングランドとアルゼンチンの試合を取って、もうひとつは何が来るか分からない3位決定戦をとっておいてもしかしたら日本代表が準決勝まで残ってそっちに落ちてくるかもと期待したけど、南アフリカには勝てずにベスト8止まりで来ず。代わりにイングランドに敗れたニュージーランドが来て、そしてネーションズからウェールズも来てと決勝のイングランドvs南アフリカに負けないカードになって個人的には得した気分。

 過去にニュージーランド代表ことオールブラックスは何度も来日しているし、テストマッチだってやってくれてはいるけれど、ワールドカップというオフィシャル中のオフィシャルとも言える場で真剣勝負に望むオールブラックスを見られることはあるものじゃな。というかたぶん日本ではこれが僕の生きている間ではきっと最後になる訳で、見たことは一生の思い出になるんじゃなかろーか。たとえ無職に沈んでいた身とは言え。

 そしていつものハカで始まった試合は、イングランドみたいにV字で囲まずフラットに並んで見守っていたウェールズのキックオフを受けてアルゼンチンがパワーとスピードでぐいぐいと迫って連続トライ。ボールを受けてからT人が進む距離がウェールズに比べてちょっとずつ長い気がして、それが全体の圧となってオールブラックスを優勢に見せている。あとスクラムでも完全に押し勝ちしているオールブラックス。守勢に回ったウェールズはボールを受けてもそこからジリジリとしか押していけずトライが奪えない。

 それでも我慢して我慢して我慢して少しずつラインへと迫ってそして展開からトライを奪い1トライ差に追いつき、さらにペナルティキックで迫ったもののそこからオールブラックスに連続トライを喰らって大きく引き離されて前半終了。果たして後半に立て直しはあるのか、といったところで興味は引き継がれる。そしてハーフタイムに何と上皇陛下ご夫妻が登場。たぶん決勝は天皇陛下が行かれるだろうからその前にご自身たちでも最高の試合を見ておきたかったのかもしれない。あるはホスト国としてのおもてなしというか。イングランドが決勝だから王室からも誰か来ているとなると本当はそっちに行かれたかったのかもしれないけれど、立場をちゃんと熟知してのご行動。ウェールズだってあるいはなじみの場所でもあるし。

 さて後半もウェールズの粘りのトライもあったけれどもやっぱり強かったオールブラックスが怒濤の攻めで40点まで伸ばして3位を確定。3連覇は出来なかったけれども決勝の手前まで残るところはやっぱり南半球の王者はオーストラリアではなく我々だって自負があるのかも。残るは決勝で宗主国たるイングランドが2003年にあのジョニー/ウィルキンソンを擁して優勝して以来のカップを手にするか、その次の2007年に優勝した南アフリカがニュージーランドに並ぶ3度目の栄冠に輝くか。キックオフとか気になるけれども家のテレビが壊れてもうずっと見られないのだった。どこかでパブリックビューイングやるかなあ。やったら見に行こうかなあ、日本代表のジャージ着て、2003年版の。


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