縮刷版2018年9月下旬号


【9月30日】 舞台挨拶を開いた以上はチェーンでも旗艦のはずのTOHOシネマズ新宿が、なぜか公開から10日目で「若おかみは小学生!」の上映を終えてしまうってんで朝1番のを鑑賞。8時50分だなんて早朝にも関わらず8割くらいの人が来ていて、親子連れもいれば若い男性の集団もいて女性だけの単身もいたりとアニメーション映画にしてはバラバラな観客たちが時に笑いつつだんだんと進んでいく展開の先、ラスト近くにくるグッと心をわしづかみにされるシーンあたりで息を呑んで展開を眺めているような感じがした。終わってからも声に批判はなく良かった良かったといった声ばかり。同じ新宿バルト9なんて満席になて明日10月1日も満席なのに、1日1回とかでTOHOシネマズ新宿では上映がなくなる事態をいったい、映画ファンはどう受け止めれば良いのか迷う。

 最初の3日くらいの入りはもちろん芳しくはなかったものの、そこからドライブがかかって口コミで親子連れ以外の若い世代に関心が広がりつつあって、そうした人たちに向けて上映すれば結構な入りが期待できるにもかかわらず、劇場では午前とか昼頃の上映しか遺していなくてそれもあと1週間とか2週間で終わってしまいそう。見たいけれども見られないまま終わってしまう人がいっぱい出そうだけれど、それを聞いて次の週末の興行を見直す劇場が出るとも思えないのは、過去に「マイマイ新子と千年の魔法」が口コミでラストにかけて観客を増やしながらも延長も拡大もなかったことからも分かる。「カメラを止めるな!」は元が2館のうちに大爆発して観客が期待出来そうな状況での拡大。そういった時間を与えることすらできないで「若おかみと小学生!」はこのまま埋もれていってしまうと思うと実に寂しい。意欲ある興行主がレイトで上映を決めてくれれば嬉しいんだけれど、いるかな、そんな興行主。いればヒーローになれるぞ。

 永遠に生きる人間はいない。いつか絶対に死ぬ時が来てこの世界から消えてしまう。幽霊だとか妖怪だとかあの世だとかいったものは存在しない。だから残るのはその人間が生きていたという記録であり誰かの頭に刻まれた思い出であって、そうした記録が消え、記憶が薄れてしまったところで誰かひとりの人間が生きていたという“証”も消えてしまう。それを寂しいと思うかどうかは多分その人次第。死んで誰かに覚えておいてもらうことすら望みもしないで、今ここに自分が生きていることだけを確かなものを感じて日々を刻々と生きている人もいるだろう。逆に誰かに覚えておいてもらいたいと願い、英雄になり偉人になり悪逆非道の存在になってその名前を記録や記憶や歴史に刻ませようとする人もいるかもしれない。それだって世界が消滅してしまえば意味を失う。人はだから永遠には生きられない。絶対に。

 人間に比べたらそれこそ永遠に近い時を生きるあやかしにとって、果たして生きた「証」は重要なのだろうか。やっぱり自分が生きて存在していたという記憶を、記録を誰かの心になりどこかの場所なりに刻んでおきたいものなのだろうか。あやかしに心があるかどうかといった疑問も含めて考えてみたくなるけれど、そういうあやかしもなかにはいるかもしれないということを、「劇場版 夏目友人帳〜うつせみに結ぶ〜」を観て考えた。雰囲気はテレビシリーズとまるで同じでたぶん熊本の山間部にある藤原家に暮らす夏目貴志という高校生が、仲間たちと語らいながら日々を過ごしている中で、彼に特有の能力であやかしたちを観て交わり、その母夏目レイコが妖怪から名前を奪って刻んでいった友人帳から名前を返すというつとめを果たしているという展開。映画でも壁伝いに近所の町からやって来た妖怪に名前を返してあげつつ、その町に祖母のレイコがいたこと、そしてどんな日々を送っていたかをあやかしの記憶から垣間見る。

 そんな町にお使いで出かけることがあった夏目貴志は祖母が生きていた時代、遠巻きにしていたらしい少女と再会する。もちろん年配になっていたその女性、津村容莉枝はレイコのことを話すために夏目貴志を家へと招き入れる。そこには椋雄という息子がいてちょっぴりドジな感じながらも母親とともに暮らしていた。そんな津村家を辞去した夏目貴志は火の見櫓に奇妙なあやかしがいるのを見て、そして戻ってからまたその町まで出向くことになって、今度はニャンコ先生も連れて行ったら団子につられて逃げ出したニャンコ先制が、地場のあやかしたちと一悶着を起こした果てにとある木にぶつかりトゲトゲの種を体につけて持ち帰る。ただの種かと思った夏目貴志は帰った家の前に捨てる。それが翌朝、巨大になって実をつけた。藤原家の2人には見えないその木の実を食いしん坊のニャンコ先生は食べてしまった。そうしたら3つに分裂。そこから奇妙な現象が起こり始める。

 小さくなったニャンコ先生を追いかけた多軌透がいなくなって夏目貴志の周辺から彼女の記憶が薄れて行ってしまう。そして津村家のある町へと行って見つかった多軌はすっかりその家の親戚の少女になって夏目のことを覚えていない。変容する記憶。それは実はほかにもたくさんあったというところから浮かび上がってくるのが、自分という存在を認めて欲しいという思いと、それを永遠に刻んでおいて欲しいという願い。あるあやかしにかけられた呪いめいたものがもたらす記憶の変容といずれくる忘却が、改めて存在していた「証」としての記憶であり記録の意味といったものを感じさせる。もちろんその瞬間に自分がいさえすれば良いという考えもあるかもしれない。人と交わることを嫌った夏目レイコがまさしくそういう性格だったのかもしれないけれど、それは本当にレイコの思いだったのか。同じような境遇にあって夏目貴志はやっぱり自分がいる「証」があり続けることを願う。覚えておいて欲しいと思う。そしてあやかしも……。

 いつか夏目貴志も藤原家を出てひとりて生活を始めることになるのかもしれない。そんな時でも藤原家の人たちは夏目貴志がいたことを覚えていてくれると思うことが、夏目貴志のその後の生にどれだけの意味を与えるのだろう。あの町でいっしょになって騒いでいるあやかしたちも、それこそ永遠に近い生の中で夏目貴志のことを覚えていてくれるだろう。そう思うと夏目貴志ほど幸せな存在はいないのかもしれないけれど、当人にはやっぱり同じ人間にも覚えておいて欲しいという気持があるのかもしれない。気味悪がられて疎遠になった小学校時代の同級生に、再開して2人で会って誤解を解いて仲直りをしたのは、夏目レイコが永遠の孤独に向かったのとは反対。そこに夏目貴志なりの気概というものがあるのだろう。スケールが大きい訳ではない、2つの町内で片付くような話の中に人が人として生きていくために大事なことが綴られる、そんな映画だ。久々に3体そろった名取周一の式たち、柊に笹子に瓜姫の活躍も楽しめる。あと笹田もいっぱい登場。それだけでも見る価値、あるかな。

 結城弘さんの「二十世紀電氣目録」(KAエスマ文庫)をようやく読了。20世紀になったばかりの京都にあって、電気のことが気になって仕方が無い喜八という少年が、電気を使ったらこんなこともできるといいったアイデアを目録にしてまとめながらもそれを清六という兄が持ったまま行方不明に。そしてしばらくたった明治40年になって喜八は酒造りを行っている家の娘と知り合いになって、彼女が無理矢理結婚させられそうになった富豪の跡取りを辞任する青年から、「電氣目録」を持ってくれば解消してやっても良いと持ちかけられて探すようになる。書いたのは喜八自身なんだから目録を探すよりアイデアを聞けばいいじゃんと思ったけれどもどうやら完成版には何か秘密があるらしい。それはいったいといった展開と、富豪の跡取りが「電氣目録」にこだわる理由が重なって無能が権力に執着する面倒くささを感じさせる。目録の項目事態はメールだとかプロジェクションマッピングだとかを想起させるもの。もしも当時の技術を知りつつそうした予言ができたなら喜八はすごいけど、小説は現代に書かれたものだがら半ば逆算からの記述。とはいえだったら現代から何を想起できるのか、っていった問いかけをしてくれるという意味でSF的発想力を試される小説かもしれない。


【9月29日】 アメリカの方で映画「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE〜2人の英雄〜」の興行成績がなかなかだって話が流れてきて、BOXOFFICEの数字を見たらデイリーで3位に入っている状況が9月25日から27日まで続いてた。もちろん平日でそれで250万ドルを売り上げてしまうんだから驚いた。日本円だと3億円弱というかそんなあたり。アメリカの映画の興行規模からすればたいした数字じゃないし、日本でだって月並みといえば言えるんだけれど、日本のアニメーションでそれも漫画原作の外伝的な物語、ある程度背景を知ってなければ楽しめない「僕のヒーローアカデミア」を劇場に見に来る人がこんなにいることに驚いた。どこかでテビレシリーズを見ていたんだろうか。ROTTENTOMATOにはプロのレビューがまったく付いてない映画ってのも珍しいけどそれでこの成績。分析することで今後も同様に爆発を埋めるかもしれない。週末の興行成績にまずは注目。

 こちらはどれくらい行くんだろう。テレビシリーズの「ガールズ&パンツァー」とそれからOVA「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です」をまとめた「ガールズ&パンツァー 第63回戦車道全国高校生大会 総集編」の劇場上映がスタートして、一部にはMX4Dと4DXのバージョンも上映がされているみたいだけれど、ここん家の「ガルパン」への取り組みを応援したいという意味も含めてイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンで9.1チャンネルのセンシャラウンド仕様なバージョンを見る。岩浪美和音響監督プロデュース。それだから、って訳でもないけれどもオープニングに重なった様々な効果音がグインと前には出てくるは、各種戦闘での音も「ガールズ&パンツァー劇場版」とか「ガールズ&パンツァー最終章」に並ぶくらいに上がっていて、戦場の中にいるような気にさせられた。

 エピソード事態もほどよくつままれていて、2時間なのにテレビシリーズをOVAをだいたい見たような気にさせられた。これはまあ何度も見ているから要点を知っていて、飛ばし飛ばし見ていくのを劇場で再現されたからとも言えるかも。サンダース大学付属との戦いでアリサがこもっていたところにアヒルさんチームが現れしばし静寂があったあの間は活かしてたり、最後の黒森峰高校との戦いで西住みほのあんこうチームと西住まほとの一騎打ちへと至る展開は切らず、戦況をしっかり見えたところはテレビのクライマックスをそのまま見ている気になった。渡河の場面でうさぎさんチームが立ち往生したのをみほが助ける場面も。それがあっての結束であり勝利、っていうことなんだろうなあ。何度でも見たくなる総集編。また行こう。フィルムもらえたけどたぶん五十鈴華が4号の操縦席で立っているところ? そんなシーンあったっけ。それも含めて見返さなくては。劇場で。

 これはまた可哀想というかちょと優しく見てあげないといけないというか、「新潮45」にとてつもない憶測と飛躍をもって独創的な意見を書いて、世間の大半からそっぽを向かれた人が、反論めいたものを元から親派的な会社が出してるネット媒体に寄せているんだけれど、そこには長い歴史を持った雑誌をひとつ潰したことへの自責といった心境は読めず、自分への反論なり雑誌が休刊へと至ったことなりを陰謀だ圧力だ何だといって、自身には一切の責任があったようには捉えていないことがあからさまになっている。何しろいきなり「新潮社の月刊誌『新潮45』の休刊は、尋常ではない圧力を想定しない限り説明がつかない。早すぎ、一方的すぎ、臆面なさすぎる」だからもう、自分の原稿が批判され、雑誌が休刊というか実質的な廃刊へと至ったことは陰謀以外の何物でもないといった主観に固まってしまっている。そんな印象。

 「発行1週間で事実上の廃刊となる。全く異常な話ではないか」って言うけれど、かつて文藝春秋社が出していた月刊誌の「マルコポーロ」がナチスドイツによる絶滅収容所にガス室なんてなかったという与太話を書いて、世界中から非難を浴びて社長が辞任するに至った事件だって刊行から廃刊までたったの13日しかかかっていなかった。ただでさえ注目を集めた国会議員の論文とやらが先にあって、それを擁護するんだからを誰もが中止していた中で出てきた文章が底抜けだったという実体が、世間に知れるまでにかかる時間が、まだほとんどなかった時代と比べて短くたって不思議はないし、光りの速度で情報が行き渡るこの時代にあって、むしろ1週間なんて遅い方なんじゃなかろーか。それを「早すぎ」ととらえる心理にどこかズレがある。あるいは当事者的な時間感覚が。

 ネットを見渡せば自分を支持している声がいっぱいある、ってことも書いているけど、それを上回った批判があったからこその盛り上がりであって社長の人の反応であって廃刊という判断だったという、そんな状況すら見定められなまま決して自分の文章に問題があったとは思わず、休刊に至った事態への責任が自分にあるとは言わない人をもう、新潮社は絶対に使うことはないだろうなあ。その周辺で味方している人も含めて。でもきっと他ではというか、これまでずっと書いていたところでは変わらず使い続けては、世間的な認識からズレた意見とやらを世に伝播しつつ一部の喝采を浴びて喜びに浸り続けるんだろう。そんな人を支え続けるところもろとも、孤立して沈んでいくことになっても。次に沈むのはどこだろう。意外と違いところにあったりして。やれやれ。

 ずっと前からチケットを買ってあった「プリパラ&キラッとプリ☆チャン AUTAMN LIVE TOUR み〜んなでアイドル」を身に中野サンプラザへ。奇跡的に前目の関でステージに立つ出演者をそれなりな距離で見られたことがあずは嬉しかったし生きてて良かった。詳細については省くものの最大に気になっていた「キラッとプリ☆チャン」で青葉りんかを演じている厚木那奈美さんが果たしてソロで「キラリ覚醒☆リインカーネーション」を歌ってアニメーションの時のように高く足をサイドに上げられるかって部分が、しっかりと目の前で再現されていて映像ともどもそこに青葉りんかでありMiracle Kirattsがいるような気にさせられた。

 3人が揃っての歌も桃山みらい、萌黄えものソロ曲も、そしてMeltic Starによる最初は赤木あんなと緑川さらの2人、そして紫藤めるを入れた3人での曲もテレビでアニメーションによって見るよりも、実際にライブ会場で中の人たちのを見るのがこれは良いのかも知れない。「プリパラ」とか「アイドルタイムプリパラ」がキャラクター色を打ち出しいわゆるアニメーションでのライブシーンに特徴があって楽曲もキャッチーな感じで映像受けするのとは対照的。まだ見慣れていないからそう感じたかもしれないけれど、萌黄えものあのテンションを生身の久保田未夢さんが演じるのってやっぱり大変で、それをやってる凄さってのが伝わってくるんだろう。そふぃとはまるで違うし。

 芹澤ゆうさんによる赤木あんなはさらに迫力。存在感の強さを持ったアイドルが、アニメではちびっ子なのとは違って比較的大きな姿でステージに立つ。逆にボーイッシュな緑川さらを演じる若井友希さんは「プリパラ」とかi☆Risでも小さい方で映像と実物との逆転が不思議な印象を醸し出す。これが確かめられるのがライブツアーの良いところか。改めて確認する意味でも冬の幕張メッセは頑張ってチケットをとらないといけないなあ。取材で行っても見ているだけでは応援も出来ないし。っていうか取材の案内が来るとは限らないし、それまで所属している媒体を出している会社が存在しているかどうか。いろいろと気になる秋なのでありました。映像収録をしていたからきっとリリースされるだろう。いつかまた見たいと思いつつ夜は11毎ものブロマイドがついた去年の冬の幕張メッセでのライブを見て台風をやり過ごそう。来るんだろうか、台風。


【9月28日】 近所にある有楽町のマルイで原画展を開催しているにもかかわらず、TOHOシネマズでは1週間を待たずに27日の木曜日で上映を打ち切った「若おかみは小学生!」だけれど、他のTOHOシネマズも同様な感じで、チェーン全体の旗艦店とも言え舞台挨拶まで行ったTOHOシネマズ新宿が、1週間と2日の30日で上映を終了してしまう感じ。最後の週末になる29日と30日も別に回数は増やさず、朝からの1日1回という状況でどうしてそこまで封切り直後、口コミがこれから効いてくるかもしれない作品を追い込むのかがちょっと分からなくなっている。沸き立つ評判を見れば今は大変でも将来期待が出来そうなのに。

 なるほどイオンシネマが製作委員会に入っている感じで、各地にPOPも立てて宣伝はしているから自分たちは手を引くだけなのかもしれないけれど、さすがに1週間2週間で手を引くのはちょっと考えづらい。あるいは最初からそういう契約だったのか、単純にこれからの口コミを信じてないのか。看板監督にしようとしている新海誠監督が絶賛のツイートをしたこともあって、それなりに関心は増えているしツイートの勢いでも上位に食い込んできた。一方で劇場の方は年末に向けて端境期に入ってこれぞという作品はない状況で、もっともっと盛り上げるべきなのに反対を行くのは数字でしか、それも目前の数字でしかエンターテインメントを計れない人間がいたりするからなのかもしれないなあ。だから出てくる企画も……。でも施設とロケーションで興行のトップを行くチェーンだけに、すがる配給も多そう。隠してお気に入りの作品が並んで映画はどんどん画一化して均質化していく。大丈夫かなあ。

   犬村小六さんの「いつか恋するヴィヴィ・レイン」も分断された世界どうしが戦っているようなイメージがあったけれど、ミズノアユムさん「名も無き竜に戦場を、穢れなき姫に楽園を」(ファンタジア文庫)はもっと明確。名前のない荒野を舞台にして100年にわたり戦い続けている魔導王国と機械帝国があって、その一方、魔導王国ジグローゼスでは怪物の性質を身に取り入れて強大な力を振るい戦う獣騎兵が前線に立っており、中でもクロトという少年は≪屍喰竜(ニーズヘッグ)≫として最強を誇って戦場を蹂躙している。身に入れた獣が暴走することもあって、その時は≪屍喰竜≫の名を持つクロトが喰らって救い力を加えていた。

 そんなクロトを相手にして、機械帝国メフィエラでかなうのは銀嶺と呼ばれる機械兵くらい。逆にクロトでしか銀嶺は相手にできない。ともに最終兵器ともいえる両者を前線へと押しやり、そしてともに相手を殲滅することで、悲惨な戦争を終わらせようと考えいたある時、戦場に吹いた虹嵐に巻き込まれたクロトは、その中でロアと名乗ったメフィエラの少女と出会う。彼女こそが銀嶺だったが互いにそのことには気付かず、虹嵐の中にあった建物でさまざまな情報に触れ、次いで自ら探索に赴くようになった虹嵐の中で過去に繰り広げられていた饗宴に触れる。

 そして気がつく。どうしてジグローゼスとメフィエラが戦っているのかに。異質の文明を持った国々、あるいは世界がある出来事をきかっけに邂逅して起こった交流と、そしてすれ違いから生まれただろう悲劇的な戦争。そのきっかけを考えた時に相容れるより相手を見くだす心理の方が常に上回るものかと絶望したくなる。けれども悲惨な戦いを経験して生まれた心理が、憎しみを一方に抱えつつ相互理解から厭戦へと向かう可能性も示されて、未来への希望を抱かされる。魔法の最強と機械の最強の双方がぶつかり合ってどちらが勝つかという興味も満たしてくれる作品。ひとつの帰結は迎えたが、あるいは再び巡り会う時は来るのかが気になる。

 全日本模型ホビーショーへ。東京マルイでピーちゃんこと「ソードアート・オンライン オルタナティブ ガンゲイル・オンライン」に登場したピンク色の「P−90」を見たら、案外にしっかりと塗られていた。ペカペカの素材にペンキのようなピンク色がべたっと張りついているんじゃなく、ちゃんとした元の「P−90」の材質を感じさせつつ決してテカテカにはならない感じの落ち着きを感じさせる色、って言えば良いのかな。まあ遠目に見ればただのピンク色した頭のおかしい銃だけど、オンラインゲームの中で使われる武器としてそれくらい主張があるのは悪くないし、それをフォルム自体がちょっぴりおかしい「P−90」でやったってところに時雨沢恵一さんの慧眼がる。なおかつそれを作った東京マルイ。やってくれるねえ。この勢いで東京マルイ版ソードかトラスとか、出してくれたら面白いんだけれど。

 あと気になったのは1970年代後半から1980年代にかけてのアニメーションに関する模型が割と多かったこと、かなあ。それを言うなら「機動戦士ガンダム」だって1970年代だし「超時空要塞マクロス」だって1983年ではあるんだけれど、ともに新作が作られ続けてアップデートはされているから並んでいたって不思議はない。そうじゃなく1983年の映画「クラッシャージョウ」からファイター1のプラモデルが出ていたりして、あの安彦良和さんの実に安彦さんしている映画を観て楽しんだ人とかがいてそれがいい年になっているのに当て込んだってことなんだろー。同様に「未来少年コナン」のロボノイドもあってこれなんかは宮崎駿ファンでもちょっと手が伸びそうもないアイテム。50代くらいが対象なんだろうあな。あとは青島文化教材社からチラシが出ていた30周年を迎えた作品のプラモデル。シルエットだけで腕組みでもしてそうな、頭がトゲトゲしているロボットめいたものが描かれていたんだけれど、難だろう? ちょっと分からないや(大嘘)。

 初日だからと「フリクリ プログレ」。1度試写で観てそれからthe pillowsにインタビューして記事を書く際に使われていた音楽を確認する意味でまた試写で2度見てたんでこれが3度目。ようやくだいたいのところを理解してつまりはアトムスクを逃がしてしまったOVA版「フリクリ」からの続きめいて宇宙をさまよい途中で分裂しながらまたしても地球に戻ってきたハルハ・ラハルとジュリア・ジンユがメディカルメカニカ相手に頑張る特殊入国管理局の頑張りをよそに謎めいた力を手に入れていた弄雲雀ヒドミを使おうとしたり守ろうとしつつもいろいろあってメディカルメカニカが再起動。でもそこをどうにか抑えて地球は守られハルハ・ラハルとジュリア・ジンユも別れたままで帰って行ったって話と思えば良いのかな。

 ってことである意味で「フリクリ」の正統なる続編であって展開もテイストもだから「フリクリ」に似せてあるといった印象で、見ていて前のが好きな人は落ち着くかもしれないけれども物語の中で弄雲雀ヒドミという少女がどうして生まれどうしてああなりどうしたいのかといったあたりが前のナンダバ・ナオ太ほどには外向きじゃないところに、主人公としてのやや脇に寄った感じを覚えてしまった。基本はラハル=ハル子の物語になってしまってそこに感情を寄せるとちょっとズレてしまって身の置き所がないというか。でもアクションは凄いしthe pillowsの鳴りも良いんで好きな人は吸い込まれてしまうかなあ。新しいことをやろうとして、そして女子高生たちの切なさを感じさせたという意味では僕はまとまりもあって「フリクリ オルタナ」の方が好きかなあ。とうか全部好き。だって「フリクリ」だし、アニメーションだし。そゆこと。


【9月27日】 遠くガダルカナル島にあって、長く野ざらしにされていた零戦の残骸というにはまだしっかりとパーツが残っていた機体が、オーストラリアへと運ばれて売りに出されていたのを日本で買った人がいて、それが松戸市にある自衛官が個人で営んでいる資料館へと運ばれて、最近展示も始まったらしい。ある種の工業遺産とも言える零戦の残骸だし、乗っていた人にとっては遺品でもある機体をどうして日本政府なり、日本のそうした戦争への関心を抱いているライティな団体が買おうとしなかったかが分からないけれど、すでに零戦なら幾つもあるし残骸では見世物にはならないといった思惑でもあったのか。バラ売りされてしまってそれまでになってしまうところを個人でなおかつありのままの展示を胸とする人が買ってくれた。

 普通だったら修復されるか、それとも修復のためにパーツ取りされるかして当時の雰囲気をまるで残さないものにされてしまうところを、この資料館の人は多少の手直しはしたり汚れを落としたりはしても、経年で劣化した部分もそのままに残して元の素材であり形であり色を今に伝えようとしている。そういう態度だからこそ、戦史の研究家であり過去の再現にこだわる「この世界の片隅に」の片渕須直監督とも付き合いがあったんだろうなあ。なんとその零戦の機体を購入したのは片渕須直監督だとか。ある種オーナーシップとなって残骸を日本へと持ってきては、最善の形で展示してくれる人へと預けて見せているというか、最善の形を望んだ人の思いに添おうとしたというか。見ればきっと過去をそのまま残すことの意味も分かるんだろう。船橋から遠くないことだし、いつか見てこようかな。

 松山剛さんの「君死にたもう流星群2」(MF文庫J)が出ていたので読んだら、未だ解決していない問題が山積みで第3巻への期待が膨らむばかり。宇宙飛行士となって宇宙にいた少女が、突然に発生しいた衛星の落下事故に巻き込まれて死に、知り合いだった少年はすべてに投げやりになってアルバイトにもいけない日々を過ごしていた。そんな彼が少女のアパートを訪ね残されたものをいじっていた時、何かが発動して過去へと戻ってまだ知り合う前の少女と出会い、だんだんと関係を深めていく。そんな導入部から少女を狙う謀略が動き始めた第1巻を経て、少女の父親が残した技術が使われている衛星が1つ2つと消え、父親の手柄を独り占めに使用とする男も現れる。未来に起こるかもしれない衛星落下の事故を防ぎ、狙う相手を退けるために少年は2周目の青春を足掻く。ネットでの書き込みからテキストマイニングをして相手を調べ謀略の欠片をつかもうとする展開がスリリング。衛星落下の狙いと真相へと迫るストーリーの途中を今はじっくり噛みしめよう。

 やっぱりとっても面白かった佐藤友哉さんの「転生!太宰治 転生して、すみません」(星海社FICTIONS)は、遠く1948年に心中してしまった太宰治が目覚めるとそこは現代の三鷹で、意識を失ってかつぎこまれた家の娘とひとつ心中でもしようかと井の頭公園で飛び込んでみたもののスワンボートにひっかかって果たせず。もらった50万円を元手にカプセルホテルに泊まりつつ、現代を学びメイド喫茶に行きドルガバを着たりもして現代を謳歌する。そんな展開を太宰っぽい文体で模していく感じだけど太宰治をあまり読んでないのでどれくらい似ているかは不明。ただ太宰治という作家が今いたら、言ったりやったりしそうなことだなあとは思わせる。

 それは自分の虐げられた過去への復讐であり、愚痴でもありつつ革新で進取の気風が目の前の才気をしっかり拾って世に届けようとするもの。読んでその親切ぶりに女性も惚れる訳だと思った。社会の変化を昭和の視点でえぐり、変化する文学を稚気も混じった革新性で評価しつつ、文壇の政治性は徹底的に非難するところもなかなか太宰っぽい。お茶目だけれど熱い所も持った太宰が、ふらりと芥川賞のパーティに潜り込んだエピソードでの、受付の突破の仕方が実に文壇的ならそこで太宰によって繰り出される演説も反という意味での文壇的。太宰治という“亡霊”の口を借りつつ今のムラ的でどこか爛れた状況をさくっとえぐるところが痛快というか、書いている佐藤友哉さんのもしかしたら気持も混じっているというか。

 そんな太宰治がだんだんと現代のことを知っていって、そこで助けてもらった女性の妹で地下アイドルをしている少女がブログで割と文才を発揮しているのを見て、彼女を鍛えて芥川賞をとらせようとする展開が小説指南にもなっていていろいろと役立ちそう。乗り込んでいった講談社で、文芸誌の編集長をしている女性を相手にあの太宰が言い負けそうになるところに、女性編集長のそのポストならではの剛胆さと知性を感じるけれど、これってモデルがいるのかなあ。目の前に芥川賞で暴れていた男がいれば普通、怪しいと思ってつまみだすのに。そこはだからフィクションということで。この後どうなっていくのか、太宰治の芥川賞への復讐も兼ねた地下アイドルの作家としてのサクセスストーリーを見て見たいのであれば続編を。なければドラマ化を。誰なら太宰治を演じられるかなあ。ロマンティストで狂気もはらみつつ、根はお茶目で剛胆。そんな役者いるかなあ。

 イベントで何度か仮面女子は見ているから、そこに立っていた猪狩ともかさんも見たことがあったかもしれないけれども、もっと下の研究生が出ていただけだったのかもしれないのではっきりした記憶はない。ただ、今年4月に落ちてきた看板の下敷きとなって脊椎を損傷し、下半身が動かなくなってしまったという事故を経て、ある意味で注目された猪狩ともかさんが車いす生活での外出を初めて始球式をやったりしている姿に、変わってしまった日常とそして自分の体、何よりアイドルという歌って踊ることがメインの仕事に戻れないんじゃないかということへの不安をよくぞ乗りこえ、ここまで来たと喝采を贈りたくなった。尋常な神経じゃあたったの5カ月でここまでは来られない。励ましとかもあったんだろう。そして今の自分を肯定できる強さが。

 そんな猪狩ともかさんが「ACTIONS」というヤフーが始めたパラスポーツを応援するメディアの発表会見に登場。しっかりとアイドルならではの衣装とそして顔立ちながらも車いすで登場しては、車いすフェンシングで国内トップの選手とデモンストレーションをしてくれた。普通の人だと持てば重たいと感じるエペの剣を軽いと感じるくらいだったとか。それで車いすフェンシングの加納慎太郎選手から驚かれていたし将来有望とも思われたみたいだけれど、デモンストレーションでもかわして避けてさばく加納選手を相手に意外な速さで剣を繰り出し防御を突破し、1分以内という目標をはるかに上回っての24秒でポイントを獲得した。もしかしたら才能があるのかも。いやいややっぱり緩めたんだろう。アイドルだし。

 聞けば他にも車いすバスケとか車いすソフトボールとかボッチャなんかをプレイしたとかで、いろいろとパラスポーツを試していきながらそれをレポートするみたい。過去にいろいろとスポーツに手を出したり、出そうと考えながら諦めたりしてきた人間が、大人になって事故という悲劇はあったものの新しい場所に進んだことで多彩な選択肢を持てるようになった。これを素晴らしいと思えることで、人は障がいを絶望ではなくある種の個性と認識できるようになるのかもしれない。なおかつ、健常者もトップアスリートにはなれなくても、ハンディを持った人たちならではのパラスポーツという土俵で、障がい者の人たちと同じ視線同じ立ち位置からプレーを楽しめる。そういった交流が進めばもっと、理解も進むんじゃないかなあ。だからこその体験会は重要。観戦という部分でもファンが増えればeスポーツじゃないけれど、パラスポーツを見て楽しむようなスポーツビジネスも生まれてくるかもしれない。そんな可能性を猪狩ともかさんの登場が見せてくれた。よく頑張ったし、これからも頑張って欲しい。まずはやっぱりライブへの復帰だ。それでこそのアイドルなんだから。


【9月26日】 喜んで良いのか、まだまだ警戒しておくべきなのか。青山にあって長く演劇やらミュージカルの殿堂として大勢の観客を集めつつ、子供たちにとっての教育の場としても機能してきた「こどもの城」が2015年の3月に閉館となって3年。跡地を病院にするって話が最初は持ち上がったものの、当の病院の方から移転しては医療行為がdけいなくなるといった声もあがって頓挫。かといって更地にして売り払って新しい施設を建てるには場所もあってそう勘単にまとまるものでもなかったようで、建物はそのまま残され入口だけがバリアで閉鎖された形のまま塩漬けになっていた。だったらずっと営業していてば良かったのにという声も出てきそうだけれど、そうはままならないのがお国の都合って奴なんだろう。

 そういった状況を見かねたか、それとも自分にとってのプラスになる材料が欲しかったのか小池百合子東京都知事が「こどもの城」を買い取ってそのまま教育に役立つ施設にするという。青山劇場も劇場として使うというからこれは演劇関係者にとっては朗報。いっそだったら特殊な形状をして大勢の演劇関係者たちを挑ませた円形劇場も復活といって欲しいところだけれど、そこは現時点では未定ながらも建物は壊さずにそのままの形で“再会”となる可能性が現時点では見えてきた。施設の保存を望んで活動して来た人たちにとっては、これはある意味で満額回答に近いくらいの展開だろう。

 もちろん、児童館のような使われ方をするとは限らないし、演劇だって前のような頻度で行われるかは分からないし、老人とかを目当てにした施設になる可能性だってない訳じゃない。それでもひとつ、1000人規模のホールが復活してそこで公演が打たれるようになれば、都心部にあって人を喜ばせる場所になるんじゃなかろーか。東京オリンピック/パラリンピックで集まる外国人観光客だって、近くて夜に寄れる青山劇場だったらきっと行く。見渡しても有楽町にあった劇場が今は演劇スペースになっていたりはするし、汐留にだって劇団四季関係の劇場はあるもののやっぱりもっと多くの場所が必要。そういった用途も考えての買い取りだったら小池都知事、まずまずの施策ってことになるかなあ。さてもどうなる。

 犬村小六さんの「やがて恋するヴィヴィ・レイン」が最終巻の7巻が出て完結したんで6巻とまとめ読み。エデンという国が天空も支配する進んだ国家を仰ぎ見て、日々を抑圧された中で暮らしていた国家にあって、主人公で死んでしまった義妹の遺言にも似た「ヴィヴィ・レインを探して」という言葉をかなえつつ、自分自身が栄達しようとして軍隊に入り、実績を重ねてついには軍師から執政のレベルまで出世するものの裏切りに合い、ずっと寄り添ってくれていた、妹によくにた顔をした少女も消滅し、追い詰められて3000メートルの崖下へと身を投げたルカ・バルカだったけれどもその下にある国家から来て翼竜を扱う知り合いに助けられ、そこがかつて作り上げたミカエルとルシフェルという強大な兵器の機動を成し遂げつつ、世界がどうして三層になっているかといった理由を聞かされる。

 かつて平坦だった国土は人種間なりの争いが絶えず、やがて特殊なテクノロジーを駆使して大地を3000メートルも隆起させては人の行き来が出来ないようにした。そしてさらに3000メートルを持ち上がった地域もあってそこがエデンと名乗り、進んだテクノロジーを駆使して世界を支配していたという見せかけの構図。けれども実体は遺跡から発掘されたテクノロジーを利用しているだけで、6000メートルの地にある寒冷の地を混血たちの働きによって維持しながら、苦境を隠して世界を支配するふりをしていた。そんな階層化された世界を再び平坦に戻す。そうすることでにくきエデンを滅ぼせるとルカ・バルカは考えたもののルカが最初に使えた姫で、やがて敵対したファニアはもっとゆっくりと、話し合いながら世界は融合していくべきだと訴える。

 急進すべきた遅滞すべきか。世界の命運を握った者たちの葛藤があり、そこで英雄として、あるいは悪魔としての決断を下す青年がいて革命家にまつわる毀誉褒貶ぶりを改めて感じる。そしてとてつもないスケールで世界が分断されそこに国家が構築されていたという驚きも味わえる物語。すべてが解決した後で世界はほんとうに平和になったのだろうか。そうなったのならなぜ分断されている状態でもわかり合えなかったのか。そこに過去からのしがらみと、人間ならではの猜疑心めいたものの愚かさが浮かぶ。せっかく生きて再会できたのに、そして共に手を携えて進めたはずなのにルカ・バルカはヴィヴィ・レインとともに地を去り、ファニアは独身を貫く。惹かれ合っても施策では対立する2人の、男女でありつつ政治家であり軍人である立場によって引き裂かれる寂しさも味わいたい。

 そもそもが「親方」という資格だってなにやら「親方株」というものが土台にあってそれを持っていなければ親方にはなれない上に、ずっと数が決まっていて勝手に増やしたりはできず親方になり得る資質を持った力士がいたとしても、親方株が手に入らなければ親方として相撲協会に残って後身の指導をすることができない。何か講習を受ければライセンスが取得できて、そこからの積み重ねによってライセンスのランクを上げていくような制度ではまるでなく、不透明な上に不健全さも未だ漂っていたりする。それが内輪の徒弟制度のようなものなら構わないのかもしれないけれど、日本相撲協会は公益財団法人であって税制的に優遇されるような特権をもらっている。

 そんな組織の内部が制度面で旧態依然としている上に、運営でも知らず理事会で「一門」なる不定形のつながりにぶら下がっていなければ、親方としての資格を失うだなんてことを急に取り決め実行させるとか、意味が分からないんだけれどそれが伝統だからと容認する人たちもいる。だったら公益財団法人を辞めて任意団体になれば良いのにそうはならないこの矛盾。神事だから女人禁制ですら容認しがたく成っている世界で、せめて仕組みくらいは近代的にならないものか。貴乃花親方が謝らなければ辞めざるを得ない状況に追い込まれ、そして改めるとも思えない条件をつきつけ結果として引退に追い込まれる。非の一部は頑なすぎる貴乃花親方にあるかもしれないけれど、でもやっぱり旧態依然とした仲間意識の中でつまはじきにされた格好だよなあ。どこに落ち着くか。今さらプロレス転向でもないしなあ。

 あれから1年。たつき監督とirodoriは挫けず立ち止まらないでずっと走り続けていたんだなあ。2019年1月からのテレビアニメーション「ケムリクサ」に出演するキャストが決定。主役のりんには何とみかこし小松未可子さんが起用。少年から少女から自在な声を聞かせてくれるみかこしが、どんな演技を見せてくれるかが今から楽しみ。ほかにも清都ありささんとか鷲見友美ジェナさんとか。決して知ってる名前じゃないけどそれだけにどんな声を聞かせてくれるかに興味が向かう。何より制作陣が原作・監督がたつきさんで作画監督が伊佐佳久さん、美術監督が白水優子と黄金メンバー。これにアニメプロデューサーとして福原慶匡さんが付き制作はヤオヨロズだからもう面白い以外の言葉が出てこない。可能ならこのメンバーであれをとも思ってしまったけど、そっちはそっちで不思議な画像を繰り出して世間を騒がせてくれている。切磋琢磨した先に交流が生まれて融合へ、って行ってくれることを夢みつつ、完成を楽しみにして待とう。


【9月25日】 1年前の夜にとつぜんに放たれた言葉が、少なくない人たちを驚かせ怯えさせ怒らせもして何があったのかと訝らせ、けれども最大の立役者が排除されることなんてないと信じて収拾を願っていたものの、聞こえてくる噂がどうしようもなく頑なで絶対に回復なんてあり得ないといった状況へと進んでいって、そして当事者の片方からの釈明が聞かれることもないまま自体は最悪な状態へと陥って、結果最大の立役者は舞台から引きずり下ろされることになった一方で、当事者の片方が繰り出す絵だけは存分に溢れかえってだんだんとその色に全体を染めていった1年。

 今はもう最大の立役者の残滓は公式には初期に提供されたゲームアプリくらいにしか残って織らず、引き継がれるべき作品はまるで見たこともないデザインのものへと置き換わって、それが主力となりつつある。もはや過去は引き戻せないのかといえば、きっと公式には今しばらくは難しいと思うし、頑なさを堅持してこの1年を貝のように身を縮こまらせ口を閉じてきた当事者の片方が、軟化の傾向を見せることも当面はなさそう。そうこうしているうちに始まるだろう続編と、そして舞台が新しい色に作品を染めてはそこに権利者たちの自己満足を乗せて走っていくことになるんだろう。けれども果たしてそこに乗客はいるのか。望んで乗る乗客は存在するのかが目下の関心事だったりする。

 舞台にはもしかしたら過去の気分が漂っている可能性もあるけれど、アニメーションはまるで違った、片方の当事者がそれを認めるとは普通だったら思えない雰囲気で立ち上がっては走りだそうとしているから、戻って来ることはなさそう。ただ、多くのファンアートなり二次創作が根底に持っているのが、最初のテレビシリーズであることは確か。パロディ漫画も続編漫画のあのやさしい世界がベースにあって構築されている。それを今は食べて味わいながらいつかまた、あの優しい世界が見たいと片方の当事者が思い直して世界を修復に向かわせることを願って、これからの1年をまずは生きていこう。そしてまた1年、さらに1年がかかっても、いつか戻って来ると信じて待ち続けよう。

 そして気がついたら「新潮45」が休刊に追い込まれていた。おいおいそれだとノンフィクションだとかルポルタージュを掲載しては世に問題を提起しつつ、新聞ではなくテレビでもない場所から報道的なマインドを持った人を発掘して育て世に送り出すプラットフォームとしての雑誌がひとつ消えてしまうじゃないか。ただでさえ週刊誌には向かない長文で取材も御津に必要なノンフィクションなりルポルタージュを掲載する場所が消えていて、新しい書き手が生まれづらくなっている状況をさらに加速させたら出版においても、人の興味を誘い好奇心を誘って本へと手を伸ばさせるジャーナリストなりライターを集めづらくなるんだけれど、目の前に横たわった批判とそして赤字が続いている雑誌の苦境をまとめてかわすには、手っ取り早く休刊というか事実上の廃刊にしてしまうのが良いんだろう。

 なるほどその出版社にとってはトカゲのしっぽ切りよろしく患部は摘出されて真っ当なところが残ったってことになるかもしれないけれど、そこに蠢いていた有象無象のヘイトな書き手は場所を変えて今あるそうした媒体で暴れ回るだけというか、今も暴れ回っているのがよけいに濃密で激しくなるだけって気がしないでもない。元よりどれだけヘイトで不勉強な原稿が載ろうとも、特殊な嗜好の人たちが読むライティなオピニオン誌は存在続けて来た。「新潮45」があれで休刊ならこっちは編集長が地獄で永劫に責め苦を受け続けたって当然のヘイトっぷりで間違いっぷりなのに、「新潮45」には求められた矜持がそっちではスルーされ、かくしてつかみかけた居場所を失った面々が今まで以上にそうした媒体で暴れ回ることになりそー。どれだけ何を書いていようとそれが当然と思われている媒体。いつまで保つかねえ。

 第31回東京国際映画祭のラインナップ発表会があるってんで虎ノ門ヒルズへ。まずはプレスパスを受け取るところから始めなくてはならず、早くから来ているだろう灯って受付の1時間前に言った誰もおらずそしえ30分くらい誰も来なかった。なるほどゲストが松岡茉優さんくらいでは芸能の記者がこぞって押し寄せる感じではないけれど、「夜明け告げるルーのうた」の湯浅政明監督の特集上映が行われることになっていて、湯浅監督も登壇するとあってはアニメ系の記者がいっぱい来ると信じてたらこれがほとんどいなかった。

 そうした層をプログラムとしては大事にしつつも報道としては相手にしていないのか。映画業界の宣伝体勢がアニメ向けゲーム向けとは違っているのか。時折感じられることがもしかしたらこういう場でのすれ違いにも現れていたのかもしれない。でもってプレスパスを受け取ったらそこから入場の受け付けまで1時間待ち、中に入ってからさらに1時間待つという贅沢な時間の使い方をして始まったラインナップ発表会では、「カメラを止めるな!」のJapan Nowでの上映が決まって2館から始まった映画が大ブレイクした延長として、世界的な映画祭の場でも上映さえるに至ったというさらなるサクセスを目の当たりにした。上映の当日もきっと賑やかになるだろうなあ。これは見ておきたいかも。

 あとはコンペティションに入っていた、セックス大好き女性が3人の男性を夫のようにしてヤりまくっている映画がちょっと気になった。P−18になるんだろうかP−15だろうかPGだろうか。コンペでは阪本順治監督による稲垣吾郎さんを主役にした「半世界」と、それから「鬼灯さん家のアネキ」というなかかなに心に響いた映画を撮った今泉力哉監督が角田光代さんの小説を原作に撮った「愛がなんだ」も入ってて、世界から来る強豪と戦うことになる。しばらく日本映画でグランプリが出ていない感じだから、ここは頑張って欲しいもの。「半世界」は稲垣吾郎さんの炭焼き職人姿が登場するそうなんで、それがどういった演技になっているかを確認する意味でも、見ておきたいかもしれないなあ。

 湯浅政明監督は去年が原恵一監督だったんで「クレヨンしんちゃん」つながりもあってか次は湯浅監督だなんて話も飛び交っていたけれど、いざこうして当人に決まっても当然というくらい実績があって違和感がないのが半ば嬉しい。世界を相手に戦える日本のアニメーション映画監督っていっぱいいるようで、賞レースとなるとそれほどでもないのが実際の中でアヌシー国際アニメーション映画祭でグランプリを獲得したんだからこれはホンモノ。そのパワーを東京の地でも発揮してくれることを願おう。そんな湯浅監督に映画祭のアンバサダーに就任した松岡茉優さんが、湯浅監督は俳優やミュージシャンを声優ともども起用するけどどういう理由で俳優を声につかうのかってぶっ込んでいた。

 松岡さん自身も「映画 聲の形」で石田将也の子供の頃を演じてたりしてピッタリした上手さを見せていたけれど、湯浅作品ではどうなのかが気になったのかも。答えて湯浅監督は「ネームバリュー」と身もふたもないことを言ったけれどもそれはあくまで前振りで、やっぱりその役にふさわしいかどうかが基準になっているみたい。個々人が持っているものがあってそれがスクリーンにどう現れるかが重要。キャラクターにとってその声が+になるなら選ぶし、その声からキャラクターを描くとも話してた。ならばあるいは新作に松岡茉優さんの起用はあったりするのか。映画祭の場での売り込みが奏功したらそれはそれでひとつの伝説になるかもしれない。そんな伝説が生まれた会見だったけど、でもやっぱり本番で何を喋るか聞きたいから、去年の原恵一監督と同じくらいには通ってトークを聞こう。聞けるかな。


【9月24日】 「yomyom」と書かれた看板に「ヘイト本を」と落書きされた新潮社は佐藤隆信社長が「新潮45」の特集についてコメントを出してある程度、方針を固めたのかと持ったら当の「新潮45」編集部ではトモ・コスガさんが続けている連載の中で、差別的な言説に対する反論めいたものを書こうかと提案したのに対して拒絶して、トモ・コスガさんはそれならと連載を降りる表明をツイッターで出す自体に。深瀬昌久さんという1960年代から80年代にかけて活躍した写真家で、90年代に入って事故で脳に大きな障害を負い、2012年に亡くなられた人のアーカイブを手がけているトモ・コスガさんは、「新潮45」の写真家を紹介する連載でその写真家が何を語りたかったかを綴っていたらしい。

 だとしたらマイノリティに対する視線を持った写真家、海外だったらナン・ゴールディンとかダイアン・アーバスになるんだろうか、あるいは自身が性的マイノリティだったとも言えそうなロバート・メイプルソープなりがいるし、日本にもこれは毀誉褒貶あるけれど、性をとらえ続けた荒木経惟さんがいたりする状況で、きっ差別に対する言葉を写真で語ってきた写真家はいるはずで、そうした人の作品を借りつつ「新潮45」が特集で示した差別的な言説に対し、カウンターを行うことは出来ない訳ではなかた。連載の趣旨からも外れていない。でも拒絶されたというのは何だろう、編集権として反論はさせないということなんだろうか、その上に立つ社長が反省めいたコメントを出しているにもかかわらず。そこがどうにも奇妙に見える。

 まあいくらトップが何かを言ったところで、下が編集権を理由に独自性を保つのがジャーナリズムの世界と言えば世界。その意味で自分の署名原稿に社長がケチをつけてきたことに、全体主義だ何だと書き手の文藝評論家が反論するのも分からないでもない。一方で出版人として出すものに責任を負うならその中身が公序良俗に反しているものだと認識したなら謝り撤回するのもひとつの道。その切り分けはなかなかに難しかったりする。それに自分の原稿に社長がケチをつけるとは何事だという人に限って、新聞い掲載されたひとつの見識をもってそれを新聞社全体の言説だと認定し、訴え社長の責任を問うような構えさえ見ていたりしてなかなかに二枚腰というか言動不一致なところがあったりする。自己都合的とも。いずれにしてもしばらくは混乱が続きそうな案件。出版社とは、出版人とはどこまで刊行物に責任を負うべきか。そんなことが問われていくんだろうなあ。

 同様にちょっといろいろ騒がれそうな件が。藤原書店というアナール派の歴史書とかを日本に紹介し、レギュラシオン学派という経済の本も出していたりして硬派で左派とも見なされていた出版社が今度、「昭和十二年とは何か」という本を出して昭和12年に日本が、というより日本軍がしでかした盧溝橋事件とか南京事件とか通州事件なんかを捉え直し語り直すという。つまりは南京で虐殺なんてなかったし、日中戦争は日本による侵略なんかじゃないといった歴史修正主義的な言説を、改めて世に広めようという感じで書き手もだから倉山満氏とか藤岡勝信氏といった界隈となっている。それだけみれば何ていう出版社なんだろうと思われそうだし、このご時世、やっぱり右よりお売れそうな本を出すのが良いという判断なのかとも思われそう。

 もっとも藤原書店、そういう歴修正で日本スゴイの本を出す一方で、金時鐘という詩人で朝鮮語を教えつつ批評も書き続けて来た、バリバリの文学的闘士のコレクションを出していたりするから左右の両翼ぶりが凄まじい。プラットフォームとして何ら思想にとらわれず本を出す機能としての出版社ならそれもありだけれど、一方で誰かの思想信条や主義主張を世に送り出すための場として出版社があるのなら、そうした主義やら思想の対局にある本まで出して稼ごうとするのはどういう了見だといった意見も飛びそう。あの戦争を正当化するような言説を出す版元で、その戦争があった結果として民族的に大きく傷つけられた過去を持つ人が本なんて出せるかと言い出すのも当然。今のところそうした動きはないけれど、気付いていないだけでもしそんな本が出るのかと知ったらやっぱり自分は出て行くってなるのかな。そこが気になる。しかしどうして藤原書店が歴史修正主義的な論集を出す? やっぱりさっぱり分からない。

 これはとてつもない援護射撃にして濃すぎる弾幕。新海誠監督が「若おかみは小学生!」を観たようで素晴らしかったと言って「幾度も笑わされ、何度か泣かされました。それもとても巧みで自然な演出で。アニメーションとしても技術的に見所だらけですが、物語としてとても素敵でした」と絶賛してた。そんな新海誠力(しんかいまこと・ちから)が働いたのか昨日ですらガラガラだった都心部のTOHOシネマズでの上映が軒並み満席近くになって完売も出ていて、ツイッターに流れる絶賛のコメントもどんどんと量を増してきた。

 明日からTOHOシネマズだと大半が1日で1回上映になって夜の上映もほとんどなくなるから、駆け込みででも観に行ったのかもしれない。郊外のイオンシネマとか池袋のHUMAXシネマズ池袋だともうちょっと回数も幅広いけれど、それもいつまで保つことか心配だっただけに、ここに来ての口コミブーストは続映への励みになったかもしれないなあ。その為には都心部だけではない劇場へも足を運んで上映回数の維持を働きかけたいところ。イオンシネマ市川妙典あたりはスクリーンも大きそうだし1度くらい行っておくかなあ。

 そんな熱気も波及し始めたか、有楽町マルイで開催中の劇場版「若おかみは小学生!」を訪れるお客さんが増え始めて来た様子。原画といってもいわゆるアニメの原画はなく、エンディングにも出てきてポストカードにもなっているストーリーボードとか美術の原画の完成した美術とか絵コンテとかキャラクター設定とか。それだけでも情報に飢えている人たちには嬉しいくらいにたっぷりの素材。見て思い出す映画の場面。そのうち泣き出すかもしれない。グッズもあってメインビジュアルをアクリルスタンドにしたものとか温泉饅頭とか。2000円買えば10月6日開催の高坂希太郎監督のサイン会に出られる。でも何にサインしてくれるんだろう。あとTVシリーズの缶バッジやアクリルキーホルダーもありTVシリーズのDVDもあり原作本もあり。劇場でまるで売ってないので今のところここが世界で1番劇場版「若おかみは小学生!」のグッズが揃っているかな。観たら行くべし。

 原画展を観ていると心もウズウズとしてきたので近隣ではたぶん最大規模くらいのスクリーンで上映しているイオンシネマ市川妙典へと出向いて劇場版「若おかみは小学生!」を鑑賞。大き過ぎのを前過ぎ出で観て見上げる感じになったけれどもグローリー・水領さまのお尻がとてつもない大きさで見られたからそれで良いのだ。思ったのは時間の進め方の不思議さで、おっこと家族が神楽を見ていた最初の季節が梅の咲く頃だとしてそこから事故が起こって数カ月後、春になって春の屋旅館におっこが移って学校に通い始めてようやく最初のお客さんを迎え入れる。それがだいい4月末から5月初頭? 鯉のぼりが舞っていたからそんな感じか。

 そこで美陽ちゃんを迎え入れ鈴鬼も現れ使役するようになってすぐ、水領さんのところにおっこが様子をうかがいに行ってるようだけれどその頃に季節は夏になっている。そうした時間の経過を流れの中では感じさせずするりと移行しているから間延びした感じを受けずにシームレスに物語を追っていける。水領さんが帰ってお神楽の練習が始まり、ウリ坊と美陽ちゃんが見えたり見えなかったりするようになってからも数カ月が経ったんだろうなあ、吐息に白いのが交じっているからもう晩秋に木瀬さん一家がやって来て、そこでひとつの騒動があって雪もちらつくなかでおっこが毅然として若おかみになる。

 春の屋での若おかみ修行のように掃除洗濯料理に接待蕩々を失敗も含めて積み重ねる日々をあまり描かず、数日間のように感じさせつつするりと時間を移して季節を持っていく。なるほどそうした修行の日々を描けばおっこの成長に身も寄せやすいけれど、エピソードそのものを語る上では決して有用ではない。だからこそ個々のエピソードの中に少しずつ織り交ぜつつ間をつなぐ描写としては採用せずに次の季節へとつなげてしまったのだろう。そして最後は1年後。お神楽を舞う中でウリ坊と美陽ちゃんが旅立っていく。くるりと回った年の中に長さを感じさせず、けれども経験は積ませる圧縮が、知らず濃密な気持にさせてくれるのかもしれない。すぐに年度が明ければ中学生になってしまうから「若おかみは小学生!」とは使えない。そこにも劇場版としての一期一会で追えるという、割り切りであり覚悟めいたものが感じられる。見れば激動の1年、激情の1年を味わえる希有な作品。その効果を分析することで、何かを語る上で冗長になりがちな言葉を見直すきっかけに出来るかな。
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【9月23日】 報告があって日本SF作家クラブの新会長に林譲治さんが就任。一般社団法人への移行という大役を成し、海外へも出向いていっては日本SFの存在感を示してくれた藤井太洋さんには作家クラブという枠組みを超え日本のSF界、さらには日本の文化界がこぞって頭を垂れて御礼を言っても言い過ぎではないだろう。曖昧だった部分を精査して事業めいた部分は契約も行い持ち出しとかもなくし、一般社団法人として明朗な体勢を整えたことで次に引き継ぎ新会長と新事務局も、新しい布石を打ちやすくなったんじゃなかろーか。文芸美術国民健康保険組合への加盟も成るかどうかといった課題は残ったけれど、これだって踏み出すことすら前の任意団体では不可能だった。固めてくれた地歩の上に何を気付くかは受け継いだ面々が考え実行していくことになる。頑張らねば。しかし会員になった時にはあれほど世間が湧いた池澤春菜さんが今度は理事になったのに、世間はあんまり騒がないなあ。連休中だからか。

 まるで人が入っていないという報告が聞こえて来ている劇場版「若おかみは小学生!」の上映回数とかを調べたら、今日はまだあちらこちらの劇場で何度も上映されるみたいだけれども明日にはぐっと回数が減って、そして平日となる火曜日からは1日に1回のそれも昼間に上映といった感じになって、まともに仕事をしている人たちでは見られない状況が訪れそう。まともに仕事をしていない僕にはあまり関係ないとはいえ心おきなく見られる日は今日くらいしかないと夕方からのTOHOシネマズ日比谷での上映を予約し、そして支度をして東京ゲームショウ2018へと出向いて片渕須直監督が登場したバンダイナムコエンターテインメントの「エースコンバット7 スカイズ・アンノウン」のステージを見る。そんなに取材が来てなかったなあ、あの片渕須直監督なのに。

 でも観客はいっぱいいて「エースコンバット」シリーズのファンと声優として出演したゆきのさつきさんや潘めぐみさんのファンも加わって賑やかに。そんな中に登壇した片渕須直監督はいつもと違って無精髭が伸びて、現在進行中の映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」へのかかり切り具合を想像させた。それでも髭を剃る間も惜しんで駆けつけてくるのはそれだけ「エースコンバット」シリーズへの思いが深いということなんだろー。「アリーテ姫」をやったかどうかといった時期に仕事で回ってきたゲームのシナリオ。もちろん戦闘機に関しても知識は豊富だろうけれど、アニメーションとは違った分野で仕事を請けて次の映画まで、あるいはテレビシリーズまでつなげていったということで大きな意味を持っている。そんな気がする。

 「エースコンバット04 シャッタード・スカイ」でサイドシナリオを担当し、そして「エースコンバット5 ジ・アンサング・ウォー」で設定とシナリオを見たことでどっぴりとつかった「エースコンバット」だけれど「エースコンバット6 解放への戦火」では別の仕事があってか関わらず。それでも12年ぶりとなるナンバリングタイトルを作るにあたって、相談したのが片渕須直監督だったというところに作り手側の高い評価が伺える。その頃はまだ「この世界の片隅に」がこれだけ話題になるとは思えなかった頃。そして忙しいから他の誰かできる人でも良いから紹介して欲しいという依頼に応え並行するように進めていったというから、相思相愛の関係だったと言えそう。お互いを敬愛する中で生まれた幸福なコンテンツ。それだけに期待も高まるけれどもプレイしたくてもプレイステーション4、持ってないんだよなあ。どうしよう。

 いやいやそれでも買わざるを得ないのは初回限定版のブックレットに片渕須直監督の手によるキャラクターの外伝めいた小説が掲載されているからで、4本あってそれぞれ「エースコンバット5」のケイ・ナガセにニコラス・A・アンダーセン艦長のその後が描かれ、「エースコンバット04」の黄色の13の前日譚が描かれそして「エースコンバット7」のコゼット王女がどういう経緯を辿ってキラキラなお姫さまからやややさぐれた感じになるかが綴られているという。それぞれのキャラクターに強い興味がある訳ではないけれど、片渕監督が書く小説がどんな文体になっているかは知りたいところ。さらに「エースコンバット7」を作る際に最初に書いたエイブリルの話が小説仕立てになっているそうなんでそれも公開されるとか。普通に読めるか勝った人だけの限定か。分からないだけにここはやっぱり予約しておくしかないかなあ。いっしょに買うかプレイステーション4も。置く場所ないけど。

 声優さんのトークで面白かったのはゆきのさつきさんがエイブリルに選ばれた理由で、どちらかといえば格好いい女性の役なんだけれどそこで起用しようと考えたのは「BLACK LAGOON」でもOVAのロベルタ編でファビオラ役でゆきのさんを見つけた時。どちらかといいう以前にちびっ子メイドのファビオラと、凄腕メカニックのイケてる姉さんのエイブリルではまるで違うんだけれど、ファビオラの役を最初は捉えきれないまま演技した中にピンとくるものがあって、それがエイブリルでの起用につながったとか。ちゃんと覚えているんだなあ。そして潘めぐみさん。どうしてコゼット王女に起用されたかは話されなかったけれど、そこでのお姫さま演技が「この世界の片隅に」でひとりお姫さまなすみちゃんにピッタリとオーディション抜きで声をかけたらしい。仕事はつながる。そして今も。「BLACK LAGOON」見直してみようかなあ。どこかに片鱗はあるかなあ。

 ステージが終わって会場をさっと見てから離脱。VRのコーナーにもそれなりに人だかりができていたし、eスポーツを見る人も多かった。確実に変わり始めているってことなのかも。新ハードが出たわけでもないのに東京ゲームショウ2018の観客動員数は過去最高の29万8960人に達したとか。会場のキャパシティ的に15万人前後がギリギリだって言われていた時期があったけれど、ホールを広げて幕張メッセのすべてを使うようになってキャパも広がりいよいよ30万人の大台も見えてきた。産業規模としては決して膨らんではおらずむしろ家庭用ゲーム機、携帯ゲーム機のシュリンクもあって下がり気味ではあるんだけれど、ネット向けに出すアプリとかは好調だしゲームそのもへの関心はまだ薄れていないってことなのかも。eスポーツのように自分ではプレイしなくてもゲームに関わる人が増えれば、ハードソフトの売り上げとは別の市場がそこに生まれて来場者も増える。そんな現れなのかもしれない。来年はさてもどこまで伸びるか。気にしよう。

 そして上映回数がシュリンクする前に見ておくべきだと予約したTOHOシネマズ日比谷で「若おかみは小学生!」。あの場面までおっこが一切、涙を流していなかったことが確認できて、だからこそある意味で幻を見ていた、そして妄想気味の期待もしていたんだけれども改めて現実をつきつけられ、事実だと認めてしまって一気にあふれ出てしまったんだろう。そういった感情を描く部分も上手い映画だった。あとはキャラクターの設定も。温泉で水領さんがおっこを見ながらお祖母さんは厳格と当てつつ両親を当てようとして口ごもったのは何かが視えたからなのかな。そしてあの場所に駆けつけたことも。幽霊は見えないけれど、これで相当に優秀な占い師なんだろうと分かる。でも翔太くんに「おばちゃん」呼ばわりされていた時はキレかかっていたような。あれは演技なのかホラン千秋さんの魂の言葉なのか。私気になります。


【9月22日】 遊んでいたのは初代の「人生ゲーム」で、貧乏農場行きはもちろんあったしエベレストに登ったから10万ドルをもらえるマスもあった。そんなルートをたどって最終的に幾ら集められるのか、ってことを競い合ったら結構大きな大会も出来そうな気がしていたけれど、日本での発売から50年が経ってようやく初めての「人生ゲーム」によるタカラトミーの公式大会が開催。その様子を見に秋葉原にあるベルサール秋葉原へと出向いていって、どんな人が遊んでいるんだろう,やっぱり僕みたいに初代から遊んでいた名うてのボードゲーマーたちだろうかと眺めたら、圧倒的に子供の参加者が多かった。それも男の子ではなく女の子が。

 自分でルーレット型の大きな名札をつけている子もいれば、「人生ゲーム」のTシャツを着ている子もいたりして自分と「人生ゲーム」との関わりというものをアピールしていたし、そうでなくても小学生くらいの可愛らしい女の子たちが、テーブルに座ってルーレットを回し、お札やらなにやらをやりとりしている。いったい普段はどこで誰と「人生ゲーム」をしているんだろうか、コンピューターゲームだったら友だちと3DSなんかで遊んでいる子がいて不思議はないけど、家で女の子たちが集まって「人生ゲーム」をしている絵面が僕の世代だとちょっと想像できない。それだけ世の中が変わってきてるということなのかもしれない。

 「人生ゲーム」自体も変わってきていて、僕たちがやってた初代のころは、それこそどこに止まってどれだけもらい、あとは誰からどれだけむしりとるかってことが最大の目標になっていた。株券とかもあったような気がするけれど、それでも複雑ではなかったのが今は不動産とかさまざまなカードが行き交いお札も飛び交い子供も売り買いされ……とはいないけれども財産扱いされていて、株券とか不動産とか換金のタイミングも考えないといけなかったりして相当に頭を使いそう。もちろんルーレットの出目には運が必要だけれど、その運を増やすも潰すも自分の思考次第。そこにマインドスポーツとして「人生ゲーム」が注目される可能性がありそう。

 昨今流行りのeスポーツではないけれど、チェスだってアジア競技大会の種目になるなら「人生ゲーム」だって国体の種目になって不思議はない。まあそれはさすがにないとは思うものの、120人近くが集まって同じ「人生ゲーム」を統一されたルールの下、いっせいに遊んで順位を決めて勝ち上がっていった人が頂点を目指して争うという、そんな光景が実際に繰り広げられている様を観ると、ゲームだって玩具だって真剣に遊べば競技になるんだと思わされる。これで観戦している人も楽しめるような中継と実況があれば、「人生ゲーム」はひとつのマインドスポーツとして成立するんじゃないかなあ。しかしほんとう、可愛い子とかいたなあ、小学生くらいの。そんな姿を見られただけでもまずまずの大会。最後までいられなかったけれどテレビ局とかいっぱい来てたし、ニュースで紹介されるだろう。それを受けてまた来年、そして国体オリンピック。期待しよう。

 秋葉原にいたんで近所でやっている「nuranura展2018」という展覧会をのぞいてみる。基本、葛飾北斎の春画をリスペクトしつつ関連するようなアート作品を見せるというものだけれど、そこに現代アートの俊英たちが参加してそれぞれに独特なエロスを含んだ世界というものを見せていた。たとえば牧田恵美さん。前々からバオバブの木が亀頭になったりしている絵なんかを描いていた人だけれど、今回は会田誠の少女が手足を切り落とされて犬のようにされた人犬のシリーズにオマージュをささげたような、少年が手足を切られてしゃがんだところで股間のものを屹立させているといった作品を出展。美麗な少年と猛々しい股間とのギャップが、静謐なトーンの中に猛々しさを醸し出していた。

 エロスというと木村了子さんという画家がイケメンの男子の上に刺身の盛り合わせを載せる男体盛りを屏風の絵にして出して、その両脇を浅野健一さんという彫刻家というか工芸家の彫師のような人が作った、仁王像みたいな雰囲気を持ちつつ股間のそれが真っ直ぐ上へと屹立した半身像が固めてお寺の伽藍か祭壇のような雰囲気を出していた。ぱっと見では和風のインテリアだけれどよくよく見るとリビドーに溢れた絵と彫刻の組み合わせは浮世絵という技法で人を普通に描きつつもそこにエロスを乗せた葛飾北斎の春画との関連めいたものを感じさせるか否か、それは見た人の感性次第ってことで。木村了子さは青年が素っ裸で川に向かい放尿している絵もあってこれも妙に格好良かった。気になった画家なので追っていこう。

 以前に恵比寿で見かけた中尾変さんというアーティストも出しいていて、久々の“再会”にどこまでもキッチュでエロいんだけれど社会派なところもある画風を思い出した。今回はコンビニエンスストアのシリーズでローソン、セブンイレブン、ファミリーマートという御三家のコンビニのそれぞれにエロかったり猥雑だったりするモチーフが重なるシューな空間を浮かび上がらせていた。素っ裸の女子高生たちがコンビニ前の駐車場あたりにたむろしているバージョンがどうしてファミリーマートなのかは不明。作者がファミリーマートに若い客がよく集まるという印象を抱いてたのかもしれない。ローソンは、セブンイレブンはと聴かれて浮かぶことはないけれど、でも作家には何か意図があるのかしれないし、単なる思いつきかも知れない。2年前に恵比寿でみかけた中尾変さんがこちらにも来ていたら話できたんだけれど、それは無理難なでしばらく様子を追いかけ、展覧会が開かれるかを調べていこう。

 日本SF作家クラブの会員になっていたんで総会へと行っていろいろと様子を見る。なるほど日本SF大賞の贈賞式とかに潜り込んで取材をしていた時とかに、知り合ったりした作家さん関連もいるにはいたけれど、それと存在を知りつつ遠巻きにしていた人たちといろいろ挨拶が出来たのが良かった。人見知りなのでこういうきっかけがないと離せないものなあ。いろいろと決まったけれど何が決まったかは後日、事務局より発表もあるからその時に。ひとつ気に入ったのは藤井太洋会長が多数決を取り入れつつもそれは最後の手段とし、対話から納得を得られるような方向で物事を進めてきたことで、それによって対立から反発を生みかねなかった案件が、とりあえず収まりを見せた。同じ手が今後も使えるかは分からないけれど、話して分からない人たちでもないのでそうした対話からの状況進行を、これからもやっていって欲しいなあ。

 アニメーションの方はいったいどうなるかまるで分からないけれど、舞台の方は出演している面々が前の舞台から引き続いていることもあっておおよその雰囲気は検討がつく舞台「けものフレンズ2」〜ほしふるよるのけものたち〜。メインを張るはずのサーバルや人気コンビのアライグマとフェネック、そしてPPPとマーゲイが交代で出演する感じなのはつまりアニメーションからの流入を減らしつつ、あるいは長い期間の中で忙しくなった声優さん達の仕事を詰めさせないよう配慮した結果だとも思うけれどもそうした偏向がアニメーション版「けものフレンズ」のトーンや世界観をどことなく漂わせていた舞台をも、「けものフレンズ2」の未だ見ぬ世界に塗り替えてしまうかが今は気になるところ。できるなら全部見たいと思ったものの抽選に外れてサーバルとPPP+マーゲイの先行は外れてしまった。それでもアライさんとフェネックというベストなコンビが登場する回はチケットが確保できたんで、フェネックの心が入っているかどうか分からない「あいよー」の声を聴きに行こう品川プリンスホテル クラブeXに。他の回もとれたらとって観に行くぞ。


【9月21日】 所得は増やせず物価は上げられず、外交ではロシアに北方領土の実効支配を強化することを許し北朝鮮による拉致問題については1ミリだって進められていない宰相が、どうして今度も平然と与党の党首として3選され、宰相としての命脈を保つののかといえば、つまりは何もやっていないからで、その間に官僚たちは自分たちがやりたいことをやって居場所を得て禄を食み、国会議員も周囲に侍り持ち上げるふりをして実は真ん中において触らないまま、その威を借りて自分たちの権勢を伸ばしていく。普通だったらご隠居のみとして喋ったところで影響力皆無の立場になる元総理も、軽くて中身がまるでない神輿をかつぐふりをして自分の居場所を得て、影響力も堅持し政治の中央に止まり続けている。

 つまるところは何もやらず何もやれない空っぽの真ん中を囲むようにして、誰もが勝手に振る舞っているだけ。そういう状況の居心地の良さが、空っぽの真ん中をいつまでも持ち上げるふりをさせ続けるんだろう。かくして何もしない、何も出来ない政権がまだしばらく続くことになる。そして、空っぽの真ん中に自分の欲望を訴え、不満のはけ口として溜飲を下げているだけの人たちは、そうした危機感も抱かないまま空っぽの真ん中を支持し続ける。その果てに来る空っぽが全部に広がってしまったこの国で、僕たちはどうなってしまうのだろう。それを考えたらとてもじゃないけど安閑となんてしてられないんだけれど、革命もクーデターも勃発する兆しはなく、政変ですら起こる気配がまるでない。やっぱり空っぽの真ん中にぶら下がっているのが楽なんだろうなあ、人間は。やれやれ。

 長くてストレートな黒い髪を持つ美女が憂いを払って快活に振る舞うようになり、温泉でスレンダーな裸身をちらりと覗かせつつ、真っ赤なポルシェを駆って湾岸の道を飛ばしてショッピングモールへと出かけるシーンだけでも10万人の観客を動員する価値があると断じるけれど、そこにまだ小学生ながらも祖母が経営する温泉旅館の若おかみとして一生懸命に働いて、落ち込んでいる人や迷っている人を励まし持ち上げ歩けるようにして送り出す少女がいて、自分自身の迷いを頑張って振り払おうとしている姿が重なれば、50万にだって観客が届いたって不思議はないと、劇場版『若おかみは小学生!』を見てきっと誰もが思うだろう。

 なおかつ自分自身の過去、心に残ったとてつもなく大きな傷と向かい合って一度は激しく落ち込み、逃げ出そうとしながらも頑張って思い直し、自分が背中を押した人から押し返されるような因果もあって顔を上げ、立ち上がって前を向いて苦しい過去を誰か別の人が抱えた苦しみと痛みも含めて包み込んでしまう展開に、滂沱し嗚咽を喉奥に抑えながらも心で叫び出したくなるだろう。そして確信するのだ。この劇場版『若おかみは小学生!』が作品としては100万人だって少ないくらいの動員を果たし、大勢の人に見てもらえて当然の作品であることを。

 もっとも、現実は寂しく上映されてもどれだけの人もその存在に気づいていない。知っていたとしてもその価値には気づいていない。だからここに喧伝をして100万人に観ろと訴える。冒頭、母親の故郷らしい温泉宿のある街に戻って神楽舞を見ている3人家族の場面から始まり、優しい父親と優しい母親に慈しまれて愛されている娘の姿に家族というものの暖かさ、素晴らしさを感じさせられる。ところが幸せは一変し、帰路にあった車が対向車線から飛び出してきたトラックと衝突して父親と母親はいなくなり、残された小学生の娘、おっこは母方の祖母が営んでいる温泉旅館に引き取られる。

 数カ月が経ったこともあったからか、もう泣いてはおらず落ち込んでもいないように見えるおっこは、これから暮らすことになる祖母の温泉旅館、花の屋でウリ坊と名乗る子供の幽霊と出会う。祖母が子供だった頃に隣に住んでいた少年で、一緒に遊んだ中だったけれど祖母が引っ越してまもなく事故で死んでしまい以来、幽霊として祖母を見守り続けてきたという。もっとも、ウリ坊の姿は祖母には見えず声も聞こえない。文字通りに見守るだけだったところに自分が見えるおっこが来て、喜び語りかけそして仲を深めて行く。そこにもうひとり、おっこが通う小学校のクラスメートで大手ホテルのひとり娘でいつもピンクのフリルがついたドレスを着ている秋野真月が、まだ生まれる前に死んでしまった彼女の姉が子供の姿で幽霊となって現れ、最初は真月と言い争ったおっこにいたずらするものの、やがてウリ坊と一緒におっこを助けたり励ましたりする。

 そんな不思議だけれど楽しくて賑やかな日々に終わりの気配。幽霊たちのことが見えなくなっていったおっこは、真月と踊る神楽舞のことも疎かになって喧嘩をしてしまう。それでも若おかみとして頑張って、お客さんのためならと喧嘩した真月にも教えを乞うくらいになっていたところに起こった衝撃。そこでおっこに浮かんだ苦しみと、そして誰かを失わせてしまった痛みに苛まれ続けながらもつかの間の平安を得ていた人物が抱いた苦しみを思い、人生のままならなさに悲しみを抱き嗚咽を喉でせき止める。

 そしてそのあとの展開、そして未来を感じさせるエンディングに、濡れた目もどうにか収まり笑顔でエンドロールを見ていられる。感嘆。感動。感涙。そして歓喜もあるこの映画を見ないでこの秋は過ごせない。それどころか人生は終えられない。だから見るのだ、映画『若おかみは小学生!』を。1人が10回見れば10万人でも動員は100万人だけど、それでは足りない傑作映画。だから100万人が10回見よう。それだけの価値がある映画だ、グローリー水領のボディと髪型と美貌には。さらに1000万人が3回は見て価値を感じるはずだ、ピンフリ小学生の少女を演じる水樹奈々の声には。

 ははははは。なんという肝っ玉の小ささであることが自称「文藝評論家」。自分が散々っぱら悪口を書いた朝日新聞から訴えられた時は、相手は大メディアであって虚報を重ねてきたから廃刊を要求するのは当然あと言っていたのに、「新潮45」で社長までもが「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました」と言った自称「論文」が掲載された雑誌は、いろいろな意見を載せてきた上に小さい一編集部の発行であってそれに文句を言うのは筋違いだなんてことを言っている。おいおい朝日新聞の毎日のように膨大なページ数で膨大な記事を出している媒体と、特定の思想に偏る傾向のある記事で固めた「新潮45」とではどっちが廃刊を要求されて当然だ。なおかつ天下の新潮社が出している媒体を「小さな一編集部」って斎藤十一が聴いたら怒りで首を飛ばされるぞ。

 自分は小さな媒体でマイナーな物書きだから免罪されて、朝日は天下の大メディアだから許されないとか言論で日々を勝負している人間の言うことじゃない。なのに誰かがたとえツイッターであっても短い言論で言葉を向け、そしてラジオパーソナリティが20分にも及ぶ時間を使って事細かに問題点を指摘してあげても、自分が一字一句を考え抜いて積み重ねたらしい事象「論文」こそが絶対であってそれを批判するにツイッターもラジオのコメントも役者が不足しているとか、何を根拠に言えるんだろう。それこそ言論を軽んじているとしか思えないんだけれど、自分こそが正しいという信念の前にはそんな意見もすっ飛ぶんだろうなあ。掲載した媒体を出している会社の社長がこれはダメだと断じていったい何を言うか。そこが興味。自分もお仲間もこれはダメだと縁を切り版権も引き上げる? そうなったらなったで面白いけど、代わりにどこかの自称全国紙が出している夕刊紙とかオピニオン紙に戻ってくるだけだから変わらないか。やれやれだぜ。


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