縮刷版2018年9月中旬号


【9月20日】 夜になって送られてきたメールを開いてテレビアニメーション「けものフレンズ2」の新規ビジュアルが発表されたとあって見てそっと綴じ……はしなかったけれども予想をしていたものとはまるで違ったそのスタイルに、これはどこを目指しているんだろうかと思ったというか、もしかしたら「ポピーザぱフォーマー」の路線を狙っているんだろうか、ギャグありシュールありで残酷さもあってゲラゲラ笑いながら冷や汗をかくという。優しさにあふれた「けものフレンズ」の世界でそれはさすがにないだろうけれど、フォルムに緊張感の漂うサーバルちゃんのデザインを眺めていると、そういう展開になるとしか予想できないのだった。

 もちろんアニメーションは絵が素晴らしければ内容も良いとは限らないのは過去の数多の作品を見れば明らかだし、逆に絵が悪くても内容として素晴らしいアニメーションがあることはアニメーションを学んでいる学生なんかの卒業制作とかを見て感じていたりする。沼田友さんなんてキャラクターのモデリングはシンプルすぎる感じがあるけれど、脚本の凄さとキャラクターのとりわけ視線の調整なんかで心情をあらわし状況を感じさせるアニメーションを作り上げている。そもそもがたつき監督による「けものフレンズ」だってモデリングではゲームのそれと比べて劣ると言われていた。でもあれだけの大ヒットになった訳でその流れで「けものフレンズ2」も……とうなるかとうとやっぱり「けものフレンズ」にも増して厳しさが伺えるその造形で、何を語られてもなあという思いも一方に漂う。いったいどうなってしまうのか。ほんとうにそのままいくのか。続報が待たれる。

 さあ東京ゲームショウ2018だ、ってことで朝に起き出して幕張メッセまで行ったけれども何を書いてという話もなかったんで、興味のあったVRのコーナーをのぞこうと9ホール前の行列に並んで待つこと1時間半くらい。開いた会場へと入っていってハシラスが1カ所で幾つものVRをずっとVRヘッドセットを着けたまま楽しめるようにした「オルタランド」を体験しようとしたらまだ準備中だんったんで、ライトノベルをVR化してたりするMyDearestのブースに行って「東京クロノス」というVRアドベンチャーの触りを体験する。VRヘッドセットを装着するとそこは渋谷のスクランブル交差点で誰もいない状況の中を現れる少女たちと会話しながら何が起こっているかを探っていく。

 といってもデモはそこで終わりで続きにはこれの何十倍もの物量でもって物語が描かれている模様。それをVR空間に表示されるテキストを読み、音声を聞き3DCGで表現されたキャラクターを身近に感じて体験していくことで、2Dのアドベンチャーゲームとは比べものにならない没入感を得られそう。すぐ目の前に美少女がいてすり寄ってきたいるするともう頭がくらくら。それってライトノベルのイラストを顔に近づけたって2Dのアドベンチャーゲームの画面を拡大したって絶対に得られない感覚だから。やっぱりVRって恐ろしい。それは講談社VRが提供しているVRアイドル3人組の「Hop Step Sing!」が歌って踊る新曲のVRコンテンツ「hop Step Sing! 覗かないでNAKEDハート」にも言えることだったりする。

 以前からずっと手がけられていたアイドルのVRだけれど、虹川仁衣菜、箕輪みかさ、椎柴識理という3人のアイドルが、VR空間に作られたマジカルな世界を動き回って歌を聞かせてくれるコンテンツでは、もう目の前に可愛らしいアイドルが来て顔が近い状態になるし、スカート姿でふわりと舞い上がって思わず視線を上へと向けたくなってしまう。見えるか見えないかっていえば見えるけれどもそれはフリフリのものだからなあ。まあでも見えてしまう快楽っていうのは現実では絶対に味わえないもの。特等席からアイドルを楽しめるところがVRの特徴と言えるだろう。キャラクターの造形もこれまでから一新されていて、よりクリアな映像とダンサブルな楽曲でアイドルたちの踊り歌う姿に触れられる。ずっと浸っていたい気にもなるコンテンツ。明日また試してみよう。

 その「Hop Step Sing!」にも関わっているらしいGugenkaといいう会社のブースには、テレビアニメにもなったライトノベル「この素晴らしい世界に祝福を!」のめぐみんが登場するVRがあってこれがやっぱりVRならではの素晴らしさって奴を感じさせてくれた。その名も「このすば快眠VR」は、爆裂魔法を駆使して活躍するアークウィザードの少女、めぐみんがヨガを教えてくれるという触れ込みのVRなんだけれども、めぐみんが見せてくるヨガポーズをまねるとともに、ヨガのポーズを決めているめぐみんに近づいて、様々な角度から眺めるという楽しみ方もできそうだった。

 横たわったり、仰向けに寝そべって両足を上げていたりするめぐみんのどこを見たいか。そこを見に体を動かせるか。決断力と行動力が問われていた。とてもじゃないけれど、見ている視点をモニターには出せないよなあ。あとGugenkaには東映アニメーションなどとともに開発中の「ゲゲゲの鬼太郎」のVRコンテンツ「ゲゲゲの鬼太郎 魂とアート VR 魂の送り火」も出展されていて、基本はVR空間に現れる人魂を、手にしたコントローラを操作して集めると花火となって輝き散るというものだけれど、ふと右を見ると、新シリーズから等身が上がり、可愛らしさを増した猫娘が座っていて間近に横顔をながめられて嬉しかった。それでゲームがおろそかになるけれども仕方がない、魂よりも猫娘。当然だ。

 そんな合間に入場がかなったハシラスの「オルタランド」を体験。ロッカーが並ぶ控え室に入り、荷物を預けて自分の順番がくるのを待ち、呼び出されてからパソコンで自分のアバターを制作。髪型や服装などを設定してプレイエリアへと入るかというと、その前にVR用バックパックPCを背負い、VRヘッドセットを装着して手にコントラーを持ち、何も映らない中をしばらく待つ。「進んでください」という声を聞いて足を進めると、VRヘッドセットの視界に青い空があり、平原があり、山がそびえ湖も見える広々とした空間が現れる。そこはVR遊園地。プレイヤーはVRヘッドセットをずっと着けたまま、いろいろなVRアトラクションを次から次へと試していける。

 8月に横浜市で開かれたCEDEC2018で、ハシラスの安藤晃弘代表はアミューズメント施設などでのVRアトラクション提供について、「着脱やチュートリアルに人出がかかる。同時プレイ人数と同じくらいスタッフが常時必要」といった課題を挙げていた。ユーザーにも優しくないし運営にも大変なら、それを解消する仕組みを考えたら良い。ということで生まれた1つの場所をまるまるVR空間にして、その中でヘッドセットを着けたプレイヤーが居続けながら幾つものVRアトラクションを遊べるようにした「オルタランド」。その構想どおりに東京ゲームショウ2018では、「キックウェイ」というセグウェイのようなものに乗って空中を行くアトラクションとか、トロッコに乗って空中を移動していく「トロッコラン」なんかを続けざまに楽しめた。

 さらにがロビーの空間から移動した場所で、土管から次々に飛び出して来るモグラをつかんでカゴに入れていく「mogura in VR」とか、回転する寿司から指定されたネタを選んで掴み口元へと運んでいく「SUSHI COASTER」とかもそのまま連続してプレイ。2人以上で楽しむVRアトラクションでは、中に入ったメンバーが声を掛け合って参加メンバーを集めるようになっていて、最初に作ったアバターを見ながらのコミュニケーションは、ドワンゴが始めているバーチャルキャストのようなもののゲーム版といったものを感じさせてくれた。あるいはゲーム空間もバーチャルキャストの空間に接続していくような未来もあるのかもしれない。「内装は一切作らない」のが方針で、筐体も配線もむき出しのままとなっていそうだったけど、そうした場面は一切見せず。裏側を隠す浦安の王国とはまた違い、すべてをVRで覆い尽くして夢の世界へと誘う遊園地ってことなのかもしれない。傍目にはどこで何をしているか、なんてプレイヤーには関係ないからね。


【9月19日】 ルパン三世と次元大介と石川五ェ門と峰不二子が銭形警部に追いかけられながら逃げていく場面で、「ルパン音頭」が流れないことを喜ばしいと思いつつも寂しいかもとも思ったりするのが2ndシリーズ「新ルパン三世」全盛だった時期にティーンだった人間ならではの感情か。そりゃあ1stシリーズだって見ていてそっちから2ndへと入っていったことは確かだけれど、長く続いたギャグありお色気ありアクションもあってそして照樹努もあったりする「新ルパン三世」の、ある種のフォーマットが、ここで見られたら集大成的な「ルパン三世PART5」も締まったんじゃないかなあ。ふさわしい締まり方かどうかは別にして。

 つきあったから一緒になって、つきあったから別れたという峰不二子のルパンへの思いというのは、たぶん銭形も含めて誰もが抱いている思いで、広く活躍して欲しいものの自分だけのものでもあって欲しいけれど、独り占めするのはやっぱりいけないんだけれど独り占めしておきたい複雑な心理。劇中ではそれをヒーローへの思いだってことが紹介されてて、泥棒なのにヒーローなのかと含み笑いを覚えつつそれでもやっぱりルパン三世は20世紀から21世紀をつらぬくアニメーション界、そして原作の漫画界も含めてヒーロー中のヒーローなんだなあと感じさせてくれた。このまま走り去っていった先、復活はあるのかどうなのか。とりあえず今のスタッフと今のテイストで劇場版というのが見たいなあ。カリオストロの城つきで。一瞬だけ隠れ家にしていたあの場所が、そしてあの王女様がどうなっているか、見たいし知りたい、怖いけど。

 あちらで欅坂46きっての憑依型女優、平手友梨奈が堂々の主役を張っているならこちらで若手女優のトップを広瀬すずと競い合っている土屋太鳳が圧巻の演技を見せているらしい「累−かさね−」も見ておかなくてはと劇場へ。「もやしもん」が好きだった名残でずっとイブニングを読んでいるから、松浦だるまさんによる原作の漫画が始まった時も知っているし連載が続いていて最近終わったことも知っているけれど、その衝撃的な展開と濃すぎるキャラクターにちょち、身がすくんでしまってイブニングをキンドルでずっと買っていながらも、読み込んでいるということがないまま最終回まで来てしまっていた。

 口紅を塗ってキスをするとキスした相手の顔を奪えるという謎めいた力を使って、唇の端が目の横まで切れた跡が残ってしまっている少女、淵累が美少女の顔を借りて舞台に立って大女優だったらしい母親ゆずりの演技力を発揮して、スター女優へとのしあがっていくといった設定程度は頭に入っていたけれど、その後にどういった展開をたどって最終回へと至り、そして累という少女がどういった運命をたどったかをまだ知らず、ほとんど初見といった感じに映画を観られた。

 その展開は、顔に大きな傷があってコンプレックスを感じおどおどとして生きていた淵累が、丹沢ニナという美人だけれど演技に難がある女優の美しい顔を得て舞台に立つうちに、最初は丹沢ニナへの申し訳なさを漂わせていたものが、だんだんと舞台の上に立って喝采を浴びる喜びを感じ、演出家との恋情も芽生えていつか来るかもしれない美しい顔を持った丹沢ニナだけが脚光を浴びるような日々に怯えも抱くようになっていく。逆に顔の持ち主の丹沢ニナは、自分が顔を奪われ続け舞台上での脚光も持って行かれてしまうようになるのではないかといった恐れを抱き始めている。

 そもそもが演技がダメダメな女優が累の演技力によって持ち上げられても、中身が元に戻ってダメダメな演技を見せればそこで女優生命は終わる。始めたら一生続けなくてはいけない変わり身に、乗ってしまった時点でもうおしまいだった。憧れていた演出家が手がけるチェーホフ「かもめ」の主役を累の演技で射止めたものの、演出家と累が仲良くなるのに嫉妬して中身を戻したらやっぱり酷い演技で演出家から罵倒される。だったらと夜だけは演出家といっしょにいたいと思ったのに、そこは人を見る目を持った人間だけに暗闇を抱えていない丹沢ニナ本人では人が違うと見抜かれてしまう。

 そうこうしているうちに病気の発作で長い眠りにについた丹沢ニナが目覚めると、5カ月が経っていて累は丹沢ニナとして大成功を収め、いよいよ「サロメ」という大役を演じることになる。自分が奪われてしまうと恐れた丹沢ニナは返してと迫るものの自分が舞台に立ち続けることに執着を見せ始めた累はある手段をとり、そこから2人の女の丁々発止のやりとりが始まるといった展開で、凄いのは演技の下手な丹沢ニナと、中に累が入ってとてつもない演技を見せる見かけは丹沢ニナを両方とも土屋太鳳さんが演じているということで、どうやっても上手くなってしまうところを棒に演じる演技にいったい、どういった苦心をしたのかが聴いてみたいところ。あと「サロメ」でのダンスのシーンは、自身が創作ダンスを長く続けて来ただけあって圧巻。その場面を見るだけでも意味がある映画になっている。

 一方で、顔に大きな傷を持った累を演じる芳根京子さんもまた、おどおどとした累とそして丹沢ニナが顔を奪われ中に入って街中をピンとした姿で闊歩する累をしっかりと演じている。顔の傷を入れ替えるんじゃなく、役者がそれぞれを演じ分けるという難題を、しっかりとクリアしたという意味でも面白い映画って言えそう。共演では浅野忠信さんが累の母親で大女優だった淵透世に憧れ続け、その秘密も知っていた羽生田欽互という男を演じてうさんくささと執念が滲む役どころをへらへらとした表情の中にしっかりと見せている。とはいえ基本はいつもの浅野忠信で、映画の中に出てくる「かもめ」であり「サロメ」といった演劇で舞台に立つ役者とは演技の仕方はまったく違っている感じ。そこはやっぱり映画俳優であって、舞台俳優ではないんだ。

 丹沢ニナとの入れ替わりによるひとつの頂点は極めたものの、原作ではこのあとに淵透世が行っていたことが報いとなるようにして累たちの前に現れては、さまざまな困難をつきつけてくる。最後は当然に大きな傷を持った顔のまま舞台の上に立つことも余儀なくされるんだけれど、そうした展開へといたる続編がありえるかどうか、ってなると土屋太鳳さんが丹沢ニナとして映画に出ていた以上、丹沢ニナが引いてしまう原作のようには展開は不能。それとも無理矢理別の役を当てはめる? それはないか。だからきっとこれはこれで終わり。原作のように過去の報いを受けたような悲劇にもなってないから、執念と情念でつかんだ自分のその位置を、永久に生き続ける覚悟を決めての終幕だと思うことにしよう。それにしてもダンスシーンでの土屋太鳳さん、胸揺れないけど突き出ているその感じがなかなかだったなあ。って結局はそこか。そういうものだ。

 案の定、「新潮45」に掲載された杉田水脈議員のIGBT非難論文を擁護する論文とやらがどれもひどいらしいけれど、とりわけ文芸評論家を標榜する小川榮太郎氏のそれは論文ですらない罵詈雑言レベルらしく、そんなものを伝統ある新潮社が載せたことに対し、こうした問題に一家言ある言論人なら原稿を引き上げ出版権を引き上げるくらいのことをするかもしれないって話が出始めている。個人的には、月刊WILLとか月刊hanadaとか月刊正論あたりでの小川榮太カ氏が過去に書いて来たことを見れば、今回のような原稿が出てくる可能性は想像できたけれど、その上を行くくらいに誤謬と差別にあふれたものだったからこれは仰天。新潮社大丈夫かと思ってしまっても仕方がない。

 右だ左だ俗だ何だという程度ならそれは斎藤十一氏在りしころの新潮ジャーナリズムの範疇で、FOCUSを創刊して写真週刊誌というジャンルを確立させたのも斎藤十一氏であり新潮社なんだから、俗流であること自体は否定しない。それも一種の出版社のカラーだろう。でも、明確な間違いを調べもしないで書き綴ってヘイトクライムを行うような筆者は過去にもいなかったんじゃなかろーか。ホモサピエンスにはオスとメスしかおらず、染色体もXXとXYしかないといった記述なんて、クラインフェルター症候群をはじめ染色体が違う人たちが結構いたりする状況を鑑みるまでもなく、校閲が即座に指摘して直させるべき誤謬。でもそれが平気で通って掲載あでされてしまう状況に、いったいどういったやりとりがあったのかが謎めく。総理大臣との仲の良さとかあったら大変だけれど、さてはて。

 痴漢擁護があるいは文脈上のレトリックだったとしても、こうした人間の性別を限定して他を排除するような誤謬には、そうしたマージナルな人たちを排除しようとする意図がありありで、LGBTの“生産性”を問うた杉田水脈よりもなお差別的。糾弾されて当然だろう。さっそく各社が指摘をはじめ荻上チキさんもラジオで「よくこれで原稿料を払いますね」「ちゃんと校閲した方が良いんじゃないですか」と突っ込んでいたし、高橋源一郎さんも読んで批判し校閲何してたんだと憤っている。こうした作家や評論家の声が広がって「新潮45」何やっているんだといった展開になれば、あるいは出てきての釈明ならい対応もあるのかもしれないけれど、そうなったところで他の媒体に戻って同様のことを書き散らすだけ。何も変わらない状況が続くことが、今のこの国への信望も展望も失わせている。困ったなあ。


【9月18日】 テスラのイーロン・マスクが立ち上げた「スペースX」という有人での宇宙飛行を目指す会社が画策する、月をぐるりと回って地球へと戻ってくる宇宙旅行の搭乗者に日本でゾゾタウンを運営している会社の前沢友作さんが名乗りを上げたとか。まだまだ技術的にも開発途上で、実現するのが5年後なのか10年後なのかもっと後なのか分からないけれど、それでも有名事に絡んで顔を出し名前を売るのとは決定的に違うのは、今は薄い可能性に乗っかったトピックではあってもいずれ実現すれば自ら宇宙ロケットに乗って月旅行へと行かなくてはならない。そのリスクたるや地上で潜水艦に乗って深海へと向かうのとは訳が違って、リンドバーグが飛行機で大西洋単独飛行を成し遂げた行為にも増して命がけなものとして認めて良い。

 そこに自分の名前を載せて、実際に行く覚悟を示した時点で売名だとか何だといった批判はあたらない。お金を出しさえすれば称えられる行為とは違い、命を引き替えに差し出すことを求められる行為にはやはり英雄的と称える方が正しい振る舞いなんじゃなかろーか。それにこうしてお大尽が命もいっしょにお金も差し出してくれるからこそ、国ではもう出来そうもない宇宙飛行のプロジェクトが動き出して、人類の進歩にとてつもない成果が得られる。そのきっかけを与えてくれる行為をどうして成金趣味の売名行為だなんて批判できるだろう。今回ばかりは誰もが勇気を称え、出資を喜んで良いんじゃないのかなあ。でもいざというときに自分が行くかどうかとなると、やっぱりいろいろと考えるのかもしれないなあ。それがいつになるにしても、必ず来てくれることを願いたい。僕たちは地球という重力の井戸の底であえぎ続ける訳にはいかないのだから。

 報道だからある程度は切り取られているとしても、その発言趣旨をねじ曲げて正反対のことを書いているとは思えないという前提で考えるなら、自民党総裁選の立候補者による討論会なり番組でのインタビューで安倍総裁がいろいろと言ったことにはやっぱりヤバい内容がオンパレードで、その資質をいろいろと考えるべき状況にあるんじゃないかと世間は思ったんじゃなかろーか。たとえば加計学園のトップとの会食なりゴルフなりを割と頻繁にやっていることについて、それは利益供与なりにとられかねないから自重すべきといった至極当然の意見に対してどうしてゴルフはダメなんだ、将棋だったら良いのかなど返してきたという。

 ゴルフをやるのが悪いんじゃなくゴルフもやってはいけないし、会食だって将棋だって総理大臣という立場で関係者と行うのは自重すべき、それが李下に冠を正さずということなんだという、至極当たり前の認識にどうして至らないのか。話をそらして自分は正しいと言うことに精いっぱいで他に頭が回らないのだとしたら、それはやっぱり資質が問われるべき境地だろー。本気でゴルフをやるのが悪いと言われているのだと思っているのだとしたらなおのこと問題。でもそうした不思議な言動を問わず資質を疑うことをしないのが、今のメディアだったりするからなおのこと将来に不安が残る。見れば分かるといったって、それをこの2年3年やりまくってなお高い支持率を得ている訳だしなあ。そこは新聞からテレビから雑誌から風を吹かさないとやっぱり世間は動かないんだよなあ。

 LGBTに関する間違いを言って批判を浴びた杉田水脈議員についても、まだ若いんだからといった擁護を行ったとか。51歳という年齢を若いというのならそれはまったくの勘違いだし、国会議員としてまだ2期目だからというのも1期目であろうと10期目であろうと間違った言動はいつの時点でも間違いであって、若いからとかベテランだからといった理由で罪の軽重が変わることはない。それで自分の口から釈明し、謝罪などするならまだしも表だった場所には立たず意見も表明しないまま、ただお仲間たちがすらりと並んで雑誌で擁護の論陣を張っているという。当の本人が自分の口でも筆でも釈明できないのに、国会議員という役職に据えておいて良いのか。そこがやっぱり問われるべきなんじゃなかろーか。でもそうはならない。それが許されてしまう今の空気がやっぱり恐ろしい。どうなってしまうのかなあ。

 ようやくやっと見た「キラッとプリ☆チャン」でアメリカから帰ってきた紫藤めるが赤城あんなに緑川さらのメルティックスターに復帰して、3人組となってすでに青葉りんかの参加で3人になっていたミラクルキラッツ相手に人数でも対抗していけそう。突然いなくなってしまっった紫藤めるに対して赤城あんなはいろいろわだかまりを覚えていたようだけれど、そんな赤城あんなをずっと見守ってきた緑川さらならある程度、失踪の事情は知っていたかと思ったら、前の週で突然にミラクルキラッツのプリチャンに顔を出した紫藤めるを見てえっと驚いていたようだから、誰にも言わずに突然の行方不明だったみたい。

 いやいやそこは赤城財閥の力を借りれば大学に飛び級で入ってNASAでも働いている紫藤めるの行方くらい突き止められたんじゃないのと思わないでもないけれど、違う理由でいなくなってしまったかもしれない理由を知るのが怖かったのかもしれない。テレビ番組的な都合かもしれない。どっちにしてもこれで3対3。i☆Risから久保田未夢に芹澤優に若井友希と6人いるうちの半分が出て、Run Girls, Run!から林鼓子に厚木那奈美とそして森島優花の3人が全員出そろって中の人的にも充実。ほかのi☆Risメンバーが並ぶと「プリパラ」シリーズと差異が出なくてややこしくなるから、ここは解散が決まっているWake Up, Girls!から何人かが出てきてチーム結成となって、第3戦力として挑んできたら将来につながる役として、期待も持てるんだけれども果たして。

 映画も観たことだし、マンガ大賞2017を受賞してから少し読むのが止まっていた漫画版の「響〜小説家になる方法〜」をキンドルでまとめ買いして一気読み。直木賞と芥川賞にノミネートされ、その受賞で大騒ぎを起こした辺りまでは読んでいたんだけれど、その後にまずはライトノベルで同級生が送ってしまった響の原稿が大賞になってしまって、それは拙いということでちゃんと収めたもののそこで興味を持ったアニメ化を進めるテレビ局のプロデューサーがいろいろとちょっかいを出しては粉砕されるエピソードとか、ライトノベルの表紙を描くことになったイラストレーターが忙しい身で天狗になっててやっぱり響に痛打を食らわされるエピソードとかがあって、真剣に取り組まない者への徹底した嫌悪があり、また自分のいやがることを平気でする者への徹底した憎悪があって、この後にいったいどんな敵を相手に突破していくエピソードが続いていくんだろうという興味を抱かされる。政治家ですら粉砕したしなあ。だったらノーベル文学賞? それはさすがにないだろうからやっぱり漫画業界か。「響〜小説家になる方法〜」が表現されている媒体なり業界の問題を自ら描けるか否か。そこが目下の興味か。


【9月17日】 SUPER MONKEY’S時代から名前は知っていたし、テレビで歌う姿も見ていたし、安室奈美恵 with SUPER MONKY’Sになって以降の活躍なんかは更に目にも入っていたけれど、特段に追いかけるということはしてなかった。「ポンキッキーズ」にシスターラビッツとして出演していた時も、相方の鈴木蘭々さんの方に目は向いていた。その後、withから離れたSUPER MONKEY’SがMAXという名前になった辺りからは、色気も出てきたMAXの4人によるダンスビートも激しい楽曲に関心が向かい、ライブのDVDなんかも買って見ていたけれど、別れてソロになった安室奈美恵さんのライブDVDは見ようとは思わなかった。CDも買わなかった。そんな感じ。

 歌姫と呼ばれるようになった時代も、楽曲的には浜崎あゆみさんの方が好きでライブDVDを幾つか買ったけれど安室奈美恵さんのは買わなかった。沖縄アクターズスクールつながりだったらSPEEDはCDも買ったしライブにも行ったけど、結局安室奈美恵さんを生で見たことは1度もない。だから、キャリアを追えて引退と言われて浮かぶ哀しみといった感情はほとんどないんだけれど、それでも20年以上に及ぶキャリアをこの段階で追えてしまうのは寂しい限り。マドンナだってマライア・キャリーだってまだまだ現役で歌い、ライブにも出ていたりする中で、どうして安室奈美恵さんが40歳で引いてしまわなくちゃいけないのかが分からない。それはもしかしたら、世界をマーケットにやればやるだけ稼げるアーティストとは違い、日本はなかなかキャリアの中盤から終盤をビッグなまま運ばせる道が開かれていないってことなのか。

 松田聖子さんのようにディナーショーを開いて喜ばせるのもアーティストの道かも知れないけれど、ドームやアリーナのような会場で演出も含めてひとりのアーティストが作品を見せるとなると、やっぱり厳しさも出てくるのだろう。いやいや安室ちゃんならそうした壁を突破して、50歳になっても5大ドームを満員にできるだけの実力はあると思っていないこともないけれど、今なおスタジアムを満席にし綴るサザンオールスターズのようにバンドで走り続けるのとは違って、1人のシンガーが独力で走る続けるのはやっぱりいろいろ大変なのかもしれない。今はだから引退を見守りつつ、次にどんな道を歩みつつそこからシンガーとして再起するか、クリエイターとして何かを始めるかを見守りたい。鈴木蘭々さんと組んでウサギのぬいぐるみ姿でバラエティとか出てくれたら嬉しいんだけれど、左右にずっと変わらないガチャピンとムックを従えて。

 2017年のマンガ大賞を「響〜小説家になる方法〜」が受賞した時に、作者の柳本光晴さんは、鮎喰響というキャラクターの行動を実写で描けるんだろうかといったことを指摘していて、あの感情にまかせて突っ走るキャラクターを、実写で女優なりアイドルが演じるからちって抑えられてしまうと面白くないと話してた。だから、映像化されるならアニメーションだろうかと思っていたら、1年を待たずに実写での映画化が決まって大丈夫なのかと驚いで、その主演に欅坂46の平手友梨奈さんが起用されたと聞いて、これなら大丈夫だろうといった安心した。

 それは、伝え聞く平手さんのエピソードがとにかく役やら歌に入り込み、そこにふさわしい人物になり切ってしまうといったものだったからで、ちょっと前にライブでランウェイから転げ落ちた欅坂46のメンバーが出たといったニュースが流れた時、落ちたのが平手さんだと聴いてきっとライブに入り込んでいたんだなあと思ったほど。もちろん、そんな感じに事故を起こしてばかりだったら周囲も不安だろうけれど、鮎喰響のように事件ばかり起こすよりは全然ましだったのかもしないと、平手友梨奈さんが主演の鮎喰響を演じた映画「響−HIBIKI−」を見て、欅坂46の関係者も思ったんじゃなかろーか。

 すでに知られている原作の漫画の内容は、まだ高校生で本が好きで小説も書いている鮎喰響という少女が、新人賞に送った1本の原稿がデジタルデータでの応募という規定を外れて原稿用紙の応募で、もらった編集がゴミ箱に捨ててしまったのを3年目の女性編集者が拾い上げ、読んで圧倒的な内容だと知ってしまい、結果として応募作としてエントリーされ選考をくぐりぬけて受賞まで果たしてしまう、といったサクセスストーリー。その一方で、とにかく創作に純粋で前のめりな鮎喰響が、威圧的に暴力を繰り出して来るヤンキーの指を折り、いちゃもんをつけてきた芥川賞受賞作家を蹴り飛ばし、読みもしないのにからかって来た人間を殴り蹴り飛ばすといった問題なかりを起こして編集者を慌てさせる。果ては芥川賞と直木賞の両方にノミネートされるという快挙を起こし、なおかつ両方を受賞してしまうといった奇跡を起こしながらも、受賞会見で週刊誌の記者にマイクを投げつけ大暴れする。

 もはや猛獣。でも、見ていくとそこには確固たる創作への信念があって、書いたものに対するまっすぐな評価であったらそれが批判でも聴くし、そうでなければ怒りを向けるといったもの。相手が創作にまっすぐなら、なおかつ才能も感じるなら純粋に応援をする。いっしょに芥川賞を受賞した女性作家にも、先輩として優れた小説を多く残してきた選考委員の作家たちにも、ちゃんと名前を呼んで挨拶をして、あなたの小説は好きだと握手を求める。小説がすべてでありそこに向かう姿勢が何よりだといった信念がそこにあるから、暴力であっても誉められはしないけれども仕方がないとも思わされる。

 そんな鮎喰響という役は、ある意味で歌手という仕事に純粋でめいっぱいにのめり込んでしまう平手友梨奈と仕事こそ違えど同一。映画ではだからそこに平手友梨奈でありながらも鮎喰響というキャラクターが存在して、曖昧だったり理不尽だったりするものに突っ込みぶちこわして突破していく姿を見せてくれた。原作ではどちらかといえば細身で細面の鮎喰響と平手友梨奈とは雰囲気が違うかというと、そこはまさしく響といった少女だった。漫画ほどには恥ずかしがったりする表情を見せなかったのは、映画のトーンがシリアスによって漫画のようにコミカル描写で息抜きをさせる余裕を持たせる必要がなかったから。それだけに徹頭徹尾、凛として緊張感を感じさせる役を平手友梨奈さんはテンションを切らさず演じきった。そこが凄かった。

 なるほど、小説という創作物が前代未聞に素晴らしいといった描写を描く上で、その小説がまったく語られないのはどうかといった問いかけが原作にあり、映画にもあることは承知している。ただ、過去をひっくり返せば圧倒的な音楽を奏でるバンドが登場する映像作品で、その音楽がまったく奏でられなかったこともある。そういうものが存在するとして、果たして世界はどのように動いていくのかを語ることは可能だし、それができるのがフィクションというものの良さでもある。創作というものに対して世界に歪みが生まれてしまっていることを、ひとりの圧倒的な才能が正して純粋な創作とは、最高の傑作とは何かを改めて良に問い直すきっかけになれば、これはこれで良いんじゃなかろーか。

 そもそも「響〜小説家になる方法〜」は漫画として、創作物として良い問われたもの。それを生みだした柳本光晴といいうクリエイターが、創作という行為に無頓着なはずはなく、そして才能が欠片もない訳でもない。自身の全霊を傾けて生みだした作品を通し、自身の才能の是非を自問しつつ、世に圧倒的な才能と、純粋無垢な思いが存在した時に何が起こるか、何を起こせるかを問おうとした。「響〜小説家になる方法〜」はそんな漫画であり、「響−HIBIKI−」はそんな映画だ。漫画を読めば分かるし、映画を観ればもっと分かる。才能を弄ぶことの愚かさを。自らを卑下する情けなさを。創作することの苦しさと、そして素晴らしさを。

 せっかくだからと映画を観たイオンシネマ幕張新都心からJR京葉線で千葉みなとまで行き、モノレールで千葉市動物公園へ。鮎喰響が芥川賞と直木賞の受賞を待つ間を編集者と文芸部の同級生たちと訪れた場所としてロケに使われていて、入口にはだから「響−HIBIKI−」のポスターが飾ってあって、時間によってはロケ地案内なんかも行われていた。映画ではメインのひとつになってたアミメキリンの前まで行ったけれど、柵の側までキリンは来てくれず、映画の中みたいに後ろにキリンが迫ってて、鮎喰響が平手友梨奈にちょっとだけ戻ったようば場面は見られなかった。

 そしてアルパカ。漫画だと鮎喰響がぎゅっと抱きしめていたけれど、映画ではそうでもなくって近くに寄って見ていた感じ。まあ、アルパカはあれで顔は意外と凶暴そうで、無理に抱いて噛まれでもしたら首とか追っちゃうかもしれないし。いやそれをやるのは鮎喰響か。いやいや鮎喰響は動物には優しいか。ウサギはいっぱいいて、平手友梨奈が抱いたウサギがどれだったかは不明。まあそこにいた、という事実があれば成立するのが聖地巡礼。映画が流行れば行く人も増えるだろう。入るかなあ、お客さん。入ってくれれば続編もあるんだろうけれどなあ。


【9月16日】 そうだ八王子に行こう。ということでJRの中央線を東京駅から使って八王子まで行き、とことこと歩いて八王子夢美術館で開催中の「王立宇宙軍 オネアミスの翼展」へ。その前に八王子ラーメンでも食べようと思ったけれども調べても有名店は遠かったりするし、昼時だったんで混んでそうでもあったんで、通りがかって繁盛していた竹の家というラーメン店に入って普通にチャーシュー麺を食べたけど、これもまた八王子ラーメンと言えるんだろうか。タマネギがいっぱい載っているのが八王子ラーメンらしいから違うみたいだけれど、調べたら八王子ラーメンが流行る以前からの営業だそうで、その意味では元祖八王子ラーメン店と言えるかも。醤油ベースのスープに細目の麺で中華そばって感じ。日曜日なのに人がいっぱいだったから、これもまた八王子市民に愛される八王子のラーメン屋ってことにしておこう。

 でもって「王立宇宙軍 オネアミスの翼展」は凄いというか素晴らしいというか、アニメーションというと最近はキャラクターの原画がメインに飾られキャラクターのファンにキャッキャと言われるのが常になっているけれど、この展覧会で大半を占めるのは映画に登場した建築であり、食事でありメカであり銃器であり風景であり街並みといった設定。それらのことごとくが現在現代現実に存在する国々とはやや似通ってはいても同じではなくどこか違っていて、映画という架空の世界を作る上ですべてを設定に起こしていったことが伺えた。パンの1つをとっても普通の丸いパンでも眺めのコッペパンでもなく曲がっていたりするこだわりよう。きっと尋ねればどういう経緯からそういった曲がったパンになったかも説明可能なんだろう。

 街並みにしても東欧風というか中欧風にスラブ的でもたって見えて中央アジア的でもあって、それが1950年代60年代といったまだ機械文明なり電気文明が今ほど発達していない社会の雰囲気というのを感じさせるようなものになっていた。繁華街も歌舞伎町とは違うしブロードウェイとも違うしタイの繁華街とも違うけれどモスクワとかプラハとかブダペストといった共産圏社会主義圏から感じられるものともまた違う。とにかく独自。もちろん元ネタとしてそうした中欧東欧あたりを引っ張ってきているようには思うけれど、そのままパクらず咀嚼しては時代にふさわしく物語にふさわしい形に変えている。乗り物はまあ、「AKIRA」的なクールさからややズレつつもやっぱりスタイリッシュなバイクがあれば、後ろにプロペラがついた先尾翼の戦闘機もあってと時代や雰囲気がさまざま。アニメでメカとかロボットとか好きなクリエイターが自分の思いを様々な形で引っ張ってきては、作り合わせたからなのかもしれない。

 そうした中でロケットはやっぱりロシア的というか、帝国という専制君主的で貴族的で階級的な世界で作られる王立宇宙軍のものだけあって、アメリカのような機械文明の権化から生まれたジェミニでありアポロといったロケットとは一線を画するべきといった思考が働いたのかもしれない。もしくはテクノロジーが発達しておらず機械式を極めた結果として、安価で確実に推進力を得られるよう複数のロケットを束ねたソユーズ型と同じような形に落ち着いたとか。そうした世界へのさまざまな思索があらゆる設定に染みているところに、「王立宇宙軍 オネアミスの翼」という映画をどこかで観た世界の置き換えではなく、いつまで経っても永遠にして無二の存在にしているのかもしれない。逆に言うならこれを受け継ぐものも出てこなかったと。だってこれほどまでの設定を毎回やっていたら、確実にクリエイターが死ぬから。

 山賀博之さんの手による作品の構想段階なんかを記したメモもあって、読み込めばどういった思索の果てに生まれて来たかも分かるけれど、それも範囲があらゆる分野に飛んでいそうで、それらを頭の中で統合してシナリオを書いただろう思索のプロセスを追いかけていくのは、これも相当に大変そう。自分がもしも新しい世界が舞台のフィクションを作るとして、ここまで徹底的に世界を想像し、そして創造できるのか。そう突きつけられるような展覧会。クリエイターが見ればきっと圧倒されるだろう。そして手とか足も止まるかも。ここまでやらなくては異世界は築けないのかと思って。そこはだから現代を置き換えキャラだけ変えてしのげばって考えが、あるいはアニメをその場限りの消費物とし、物語とキャラクターだけを感じる薄っぺらいものにしてしまっているのかも。今一度、フィクションに向かう姿勢を問い直すべし。そんな説教もくれる展覧会ってことで。

 上映もやっていて、それもダイジェストじゃなくまるまる上映を1日に何回か回す感じて映画館としても利用できそう。始まって40分過ぎの、老技術者たちが水素エンジンだなんてものを作ろうとして若いエンジニアに却下されより安全なものを求めるべきといった意見が出てくるあたりで、そこからシロツグが英雄として持ち上げられつつ虚無感も覚え、リイクニという少女の家にも行って襲って抵抗されて、かといって嫌われもしない宙ぶらりんの状態に置かれたままで迎えたロケットの打ち上げに、共和国が戦闘をしかけてきて大混乱の中、飛ばすか逃げるかといった判断を迫られたシロツグが飛ぼうと言って仲間が動き、そして戦闘と打ち上げというクライマックスへと進んでいく。

 その展開に無駄はなく違和感もない完璧さ。それを25歳の監督を今は知られていても当時は若手のアニメーターたちが作ったというひとつの頂点を見てしまうと、個人のアニメーション作家が頑張りましただけではやっぱり物足りなさも覚えてしまいそう。バンダイというパトロンがいて王立宇宙軍さながら無謀に挑んだGAINAXのような集団が、また出るにはバンダイのようなパトロンが必要なんだけれど、そんな会社が今あるかっていうと……。そこがやっぱりアニメーションの世界にかつてのような夢と驚きを感じさせない理由になっているのかも。出でよお大尽。

 ついでだからと八王子から中央線で戻る途中に中野で降りて、中野ブロードウェイの中にあるアニメワールドスターのショップでセル画をあさる。9月17日で閉店だそうで80%引きというとんでもない値段で出しているんだけれど、有名どころはやっぱり万円単位でちょっと高いし結構な作品群がまとめて買い占められて海外へと持って行かれる感じ。もったいないとはいえ今まで日本が振り向かなかったんだから仕方がない。そうやってロンダリングされたものがいつかの船橋東武で見かけたように、10万円20万円といった値段の額装セル画となって日本に貫流してくるんだろう。浮世絵の二の舞を演じているなあ。

 「YAT安心!宇宙旅行」の天上院桂さんとかアニメワールドスターのワゴンで過去にいっぱい買ったりしたけれど、束で幾らのが多かったのが今回は数千円のものが8割引でとてつもなく易くなっているんであれば欲しいかもと思い、掘って見つかりはしたもののスカート姿だった1期の全身が見えているものがなく断念。それでも笑顔だけでもと掘っていたところに1枚だけ、「重戦機エルガイム」のネイ・モー・ハンのセル画があってこれはやっぱり買っておくかと購入する。富野アニメだし。欲しい欲しくないでいえばやっぱりガウ・ハ・レッシーが欲しかったけれど見つからないし、1枚だけでも富野アニメでエルガイムでメインキャラクターなら買って置いて損はない。横顔でも大きく顔が描かれていたし。眺めていたらアニメを見返したくなって来た。DVDの安いボックスをどこかで拾ってくるかなあ。

 樹木希林さん死去。存在を多分強く印象づけられたのはドラマそのものではなく、郷ひろみさんといっしょに歌って踊っていた「林檎殺人事件」あたりからで、その後は岸本加世子さんといっしょに出ていたCMがやっぱり強烈に印象に残っていて、そうしたものでのイメージが樹木希林さんへの僕の印象を形作っていたりする。どんなドラマに出ようと映画に出ようと樹木希林という女優の色はくっきりとあって、だから役名までもが樹木希林であっても問題がないとすあ思えるくらいに強烈な存在感を放っていた。逆にいうならその存在感を許容してそれが欲しい映画にこそハマる女優で、カメレオンのようにいろいろな役を演じ分けるといったところはあまり感じなかった。そこは吉永小百合さんにも似ているかなあ。75歳で死去。ずっと患ってはいたけれど、それでも出続けていたからもしかしたら不死身なんじゃないかと覆い始めていた。最後は「日々是好日」になるのかな。見に行こうかな。


【9月15日】 やっぱり見ておくのが出没家だと思って遠くもないけど茨城県はつくば市で開かれた、来年の筑波国体で行われるというeスポーツの大会のプレ大会を見物に行く。以前に日本SF大会が開かれたつくば国際会議場にある大ホールを舞台に、「ウイニングイレブン2019」の対戦が行われるというこれまたなかなかなない光景を拝めるとうのもひとつの動機だけれど、やっぱり茨城県という自治体が旗振り役となってeスポーツとは呼ばれつつも中身はサッカーゲームの大会を開くという、スポーツにとってもゲームにとってもひとつの転換点になるかもしれない場を、見ておくというのは人生において役に立つ立たないは別にして大いに意義があることだと思うのだった。居合わせるってことは重要で、居合わせられるなら居合わしたい。そういうことだ。

 でもって船橋から東武野田線で柏を経ておおたかの森でつくばエクスプレスに乗り換えつくば駅へ。そこからどれだけ歩いたか、日本SF大会はオープンな講演しかのぞかなかったのでいても半日という状況だったので距離感を覚えていなかったけれど、どうやら500メートルくらいは離れていた国際会議場へとたどり着いてさっそく予選を見物。会議室みたいなところに置かれたテーブルで向かい合うように対戦をしている学生さんたちがいて、背後で先生らしき人が応援をしている光景に学校公認でゲームができるという時代が来たんだなあといった感慨を抱く。なおかつその学校には女子が1人入ってて、コントローラーを手にしっかりとウイイレをプレイしていた。結果として準決勝で敗退したけれど、その時のコメントも男子が今ひとつ煮え切らない中で女子は大きな差はなかったと強気の発言。その意気でもって頑張って、なかなかいない女性eスポーツプレイヤーとなって世の中を騒がせて欲しい。

 さて試合の方はといえばやっぱりバルセロナを使うチームが多いようで、メッシにスアレスという破壊力抜群の前線を要してパスワークでもってつないで崩してゴールを奪う戦いぶりを、どこも魅せてくれた。ただメッシとスアレスが選手として凄まじいだけに、他の選手がフィニッシュしようとするとやっぱりズレが出るらしいのはなかなかのゲームバランス。あと解説に参加していたプロゲーマーの人が「ウイニングイレブン2019」はスタミナが重要で中盤から終盤にかけて選手がスタミナ切れを起こして動けなくなるよう調整されているらしい。そうした癖をしっかり掴んで中盤の選手を3枚一気に替えたチームを誉めていた。実際のサッカーではなかなかあり得ない選手交代もeスポーツではあり得る。そういう部分を知ってプレイするなり観戦するのが面白そうだし、そこに解説の要もある。勉強したら面白いかもしれないなあ。

 そんな中でリバプールを操って決勝まで進んだチームがオープンの部にはあって、鹿島アントラーズのユニフォームを着ながらもバルセロナを扱っているチームと戦って2度リードされながらも2度追いつくという粘りを見せてくれた。実況席に座っていた(?)茨城県公認のバーチャルユーチューバー、茨ひよりの「粘り頑張れ」といった納豆にかけたようなコメントも飛び出す素晴らしい試合を見せてくれたけれど、逆転はできずPK戦になって7人目まで意気ながらもそこで敗れて鹿島ユニ側が勝利。結果として先制点を奪ったチームがすべて勝つといったある種の法則を見せてくれた。そこはやっぱりテクニックのゲームでもありメンタルのスポーツでもある「ウイニングイレブン」。先制されれば焦りも生まれていつものように指先が動かなくなるんだろう。そういうところも含めてやっぱりeスポーツはスポーツって言えるのかも。

 11時に入って途中で抜けようとも思ったけれども試合が面白くって結局最後の表彰式まで何も食べずに見物。茨城県知事の大井川和彦さんがワールドカップの試合を見ているようだとコメントしていたように、大型のスクリーンに映し出される試合の様子はうまいサッカーのチームが最高のプレーでもって試合をしているようにしか見えない。そうした試合を観戦するという意味でのスポーツがそこにあるし、プレイする側もメンタルを整えテクニックを鍛え相手を分析して試合に臨むというアスリートとしての心得がそこにある。なおかつ体力とか性別といった差を大きくは必要としないで誰でもイーブンな状態でプレイできるといった特徴もあるeスポーツが、まずはこれだけ盛り上がったということを見せて来年だけじゃなくその次の国体でも、eスポーツの継続が決まっていけば面白いし、国体でなくても自治体主催の大会があちらこちらで開かれるようになれば、ゲームといったものへの見方も変わってくるように思うのだった。プロ野球のチームによるeスポーツの日本シリーズも確か控えている。そうした情報が喧伝されることによって変わる何かが生まれた年、それが2018年なのかもしれない。平成は末期にそんな大変革が起こった元号として記憶されるのかな。されると面白いな。

 囲み取材もそこそこに会場を出てトコトコとつくばエクスプレスの駅まで歩いて秋葉原まで出てJRで新宿へと行き新宿武蔵野館へ。発売と同時に購入して置いた北村龍平監督の舞台挨拶がついた「ダウンレンジ」とう映画の上映を見るためだけれどその舞台挨拶に美女が現れ筋肉たっぷりの男たちも現れいったい何事かと思ったら、プロレスのDDTに所属する選手たちがプロレス好きらしい北村龍平監督の求めもあって晴れの「ダウンレンジ」日本公開にはせ参じたらしい。映画とはまったくの無関係だけれど観れば分かるシンプルにして残酷で容赦がない、緊張感だけがたっぷりとある映画の直前にDDTのメンバーのとりわけ男色ディーノの北村龍平監督に対する吶喊とか見せられて、ほのぼのとした雰囲気にしてくれたのは有りがたかった。あれで心が和んで容赦ない映画にドキドキの気分でいきなり突っ込まずに済んだ。

 そんな映画はワゴン車に乗り合わせてアメリカの山間部を進む男3人に女3人を乗せたトラックが突然パンク。やれやれこれは困ったなあと思いつつも和気藹々としながらセルフィーなんかも撮りつつ電波状態が悪いのか届く場所届かない場所なんかが示され、そしてひとりが用足しにちょっと離れた状況でひとりがせっせとスペアタイヤへの交換を行っている最中にとんでもない事態が発生する。それは……というのもまあ、言わない方がいいのかもしれないけれどもとりあえず、「ダウンレンジ」という言葉について言うならそれは「射程内」ということで、そこに囚われてしまった者たちの命がけの脱出行が幕を開ける。

 といっても「射程内」だから身動きはとれず連絡もできず反撃も不可能な状態でいったいどんな対策がとれるのか。あきらめの感情も浮かぶ中、ある者は心を折りある者は恐怖に怯えて縮こまる。そこに現れた救いの手段はあえなく粉砕され、さらに到着した絶対の権威ですら何の役にも立たないという絶望が漂う中、最後の手段がとられてそれは成功したかに見えてやっぱり……といったあたりでとにかく容赦のなさに戦慄する。どこかで何か頑張っていればあるいは道が開けたかもと思わないけれど、その手段を考えつくことがあの現場でできるのかとも考えるし、なにより本当に道は開けたのか、装備があっても圧倒される状況ではただ滅びるしかなかったのではないか、などとも考える。いやいや最後を見ればあるいはとも。そんな思考をさせられつつも結果としてどうしようもない絶望へとたたき込まれるサスペンス。自分ならどこで何をしたか。そんな問いかけをしながら次があるなら見てみたい。


【9月14日】 「カメラを止めるな!」が公開館数を増やして興行収入20億円に行ったかどうかで上田慎一郎監督に注目が集まり、その奥さんで毎日映画コンクールのアニメーション映画賞を「こんぷれっくす×コンプレックス」で受賞していたふくだみゆき監督にも注目が集まって、「こんぷれっくす×コンプレックス」が新宿のK’s cinemaで上映される事態にもなってと、いろいろなところにメガヒットの影響が及んでいる感じだけれど、出演した俳優さんたちにもやっぱり波が届いているようで、作中に登場して監督の娘役を務めた真魚さんが、あのワタナベエンターテインメントに所属することが決まったという。

 どちらかといえばお笑いが強い事務所だけれど、中川翔子さんだっていたりする中に交じって名前を出しているのはやっぱり快挙。話題の映画の出演者だからといって、テレビ局のよう番組に出してハイサヨウナラとはいかないのが事務所との所属契約であって、抱えた以上はマネジメントとして出演先を決めなくては会社としても損になる。つまりはだから会社が得になると判断しなければ所属はさせない訳で、真魚さんの存在感に何かを感じたんだろう。たしかに図々しくて真っ直ぐな雰囲気は映画の中でも光ってた。その存在感をどういった場面に押し込んでいくか。見極めたい。

 あと、映画でテレビプロデューサー役を務めていた竹原芳子さんが「どんぐり」という名になり映画24区という事務所に所属したとか。すでに吉本興業なんかとも関係があったみたいで、その顔にそっくりな間寛平さんのところで出演もしていたみたいだけれど、「カメラを止めるな!」での演技を見て、明るくて豪快なおばちゃん役を演じさせてこれはいけると感じていた人も多そう。そんな存在感を使いたいと考えての声がけなんだろう。無量大数的に所属タレントがいる吉本興業では面倒を見切れなかっただろう人材だから、これで活躍の場も広がると面白いかも。こうやって所属先どんどんと固まっていくと、前ほど舞台挨拶には出てくれなくなるかもしれないれど、もう最前線で頑張らなくても十分にその映画の面白さは広まったし、出演者の実力も世に知られた。あとはそれぞれが自分の夢を叶えに突っ走って欲しい。応援していこう。

 「piece of youth」が流れる中でふわふわと漂うシャボンから漂ってくる多幸感を味わいたくて、4DX版の「ガールズ&パンツァー劇場版」をシアタス調布へと見に行く。あの岩浪美和さんが音響を調整した「センシャラウンドMAX/4DXシアタス調布Mix」というバージョン。韓国でプログラミングがされているらしい4DXの調整に岩浪さんが関わっている感じはないけれど、もとより激しく動く「ガールズ&パンツァー劇場版」の4DXにマッチした音響をガンガンと鳴らして、戦車が走ったり砲弾が当たったり爆発が起こったりするシーンをより臨場感あるものにしてくれている感じ。4DXについては何回か観たけれど、あらためてオープニングに登場する戦車ごとに音も違えば振動も違うことが分かって面白かった。香りはより強調されていたかなあ、施設が新しいからそう感じただけかもしれない。最前列中央で観ると戦車に乗っている感覚を強く覚える。もう1回くらい観ておきたいなあ。

 自分が間違っているということを、絶対に認めたくない性格なんだろうなあ、だから過去にそういったニュアンスのことを言ったりやったりしていても、一字一句の正確性を求めて違えば言ってないと言い抜けようとし、それでも突っ込まれば自分ではない周囲の責任に押しつけて、自分自身は何も間違ったことは言ってないしやってないといった姿勢を貫こうとする。認めればそれで突っ込まれて足元をすくわれ終わりと思っているんだろう。これがちゃんと何事もやり通してきた人なら言い間違いに過ぎないとスルーされるところを、何もやっていないから間違いだと認めればやっぱり何もやっていないと非難され引きずり下ろされる。そうならないために自分を別次元において、一切の誤謬のない身としたがる。

 でもやっぱり傍目にはそうした保身のみっともなさが露見しているといったところか。自民党総裁選に立候補した安倍晋三総裁が、たぶん質問か何かで拉致問題のことを聴かれ、「拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだと言ったことはない」と答えたらしい。それを言ったのは拉致の被害者の家族の方々だとも言ったらしい。一方で、安倍総理は以前、拉致被害者の家族を前に「再び総理を拝命し、必ず安倍内閣で完全解決の決意で進んでいきたい。この内閣で必ず解決する決意で拉致問題に取り組む」と言っている。これは「解決できるのは安倍政権だけ」という言葉と全くのイコールではないけれど、安倍政権でやるといった決意は示していると言える。

 にも関わら、ずこの5年間ほどまったく進展が見られないことを問われたような質問で、家族会が期待したに過ぎないと答えて家族会はいったい何を思うんだろう。それでもやっぱり安倍政権だけだと期待し続けるのか。そこがさっぱり分からない。解決するということは、挙げ句に北朝鮮の言うことをすべて呑めということかとまで言い出した。逆説的には北朝鮮に言うことは聞かないから拉致問題は永遠に解決しないともとれる言葉を、平気で出せるのもその瞬間に自分を取り繕いたい意識だけが先走って、後先を考えていないからなんだろう。そんな人が総理でいつづけられるこの国も、結構ヤバイところにいるのかもしれない。

 「UFO学園の秘密」を見たこともその内容もほとんど頭からとんでいて、まったくの続きだったからちょっと最初はつながらなかった長編アニメーション映画「宇宙の法 黎明編」だけれど、“光の戦士”ならぬ「チーム・フューチャー」として異能に目覚めた5人が高校生から大学に進んでそれぞれに勉強をしたり研究に励んだり音楽を極めようとしていたりしていたところに起こったアメリカでのアブダクション騒動。レプタリアンという地球に害を為す宇宙人がUFOで現れ牛を吸引していたりするところに日本からかけつけたレイ、タイラ、アンナ、ハル、エイスケの5人だったけれど、敵をとりあえず撃退したところでタイラがなぜかイキって全滅させると走り出し、そこに現れたダハールなる少年によって洗脳され、黒い騎士に帰られては遠くにあるレプタリアンの星の壊滅に力を使わされる。

 普段は美女の姿をしながら巨大なドラゴンに変身もして圧倒的な火力を放つザムザの抵抗も空しく星は壊滅。その際に見せられるビジョンが地表の海面が空を埋め尽くすサンドイッチ状態で実に壮大で幻想的。キャラクターの造形は普通ながらも崩れはしないし声は逢坂良太さん瀬戸麻沙美さん柿原徹也さん金本寿子さん羽多野渉さん村瀬歩さんと超絶豪華な上にそうしたビジョンにも見せるところがあって、アニメーション映画としてはまあまずまずといったところには達している。そして千眼美子さん。本名を清水富美加さんがザムザの声を演じていて、「龍の歯医者」の時の少女とはちょっと違った強引さを持った大人っぽい女性の声をしっかり出して演じている。やっぱり声優として才能があった人なんだ。今もだったらいろいろと演じて欲しいけれど、そこが千眼美子さんではってなってしまうところが何か釈然としない。どうしたものかなあ。どんどん使えば良いのかなあ。

 ストーリーはタイラが変じた黒騎士に星を滅ぼされたザムザたちがエロスに導かれ地球に移住するも元が弱肉強食、強い者が弱い者を支配するのが当然といった価値観で生きてきた種族だからなかなか馴染まない。タイラを追って実は3億3000万年前だったその地球にやって来たレイもザムザと戦って最初は敗れて奴隷としてこき使われそうになるけれど、アルファなる地球神に呼ばれガイアという女神とも会って2人のとてつもなさに触れる中、ザムザから弱肉強食といった概念は消えレイの諭した強い者が弱い者を助けるんだという価値観にも染まってだんだんと馴染んでいく。

 そこに現れつけ込もうとするダハール。やっぱり力は正義なのか、それともいたわり認め合うことが重要なのか、っていった普遍のテーマが描かれるところに関しては、見ていて悪くはないと思わされる。ただやっぱり幸福の科学が作ったアニメで大川隆法さんの本が原作になっている以上、そこに宗教色はにじみ導こうといったニュアンスも漂う。それが悪いこととは言わないし、教宣を目的とした映画は過去にも幾らだってある。受け取る側として感動してもっと知りたいと思えばそこから進んでいけば良いし、メッセージはメッセージとして受けつつそれを実現するのは自分自身のいたわりと慈しみの心なんだと割り切るならそれもそれで良いんじゃないのかなあ。ちなみにアルファの声は梅原裕一郎だんでとてつもないイケボイス。ガイアは大原さやかさん。そんな2人に教宣をされたら誰だってヨロめいてしまうかも。続編があるみたいだけれどやっぱり3年後かなあ。


【9月13日】 東京から音楽という文化を駆逐しかねない悪政2題。ひとつは代々木公園にスタジアムを作ろうという渋谷区の計画で、すでにあるサッカー場とか野球場なんかを潰し、そこにある音楽ステージもひっくるめた含めた場所にちょっとした球技場を作ろうというもので、ここに構想だとFC東京なんかを呼んできたいような声がある。すでに小平市を本拠にしつつ調布の味の素スタジアムをホームに大勢のサポーターを集めているチームが、どうして23区内になんか行きたいのかが分からないけれど、ロンドンにだってマドリッドにだって存在する都心部のビッグクラブが日本にはないことを、恥と思っている誰かさんがいて23区内にチームを持ってこようとしているのかもしれない。

 過去に今とはまるで違って国民的な人気を誇っていた東京ヴェルディが川崎から東京都内に移りたい、ひいては国立競技場をホームにしたいと入ってJリーグから拒絶されたような事態があったらしいけれど、今にして思えば5000人すら集めるのがやっとのヴェルディが5万人の国立競技場をホームになんかしていたら大変なことになっていた。あるいは国立がホームだったら今の凋落がなかったかとうと、崩壊したバブルの中で選手を維持できずやっぱり弱くなって観客を減らしていただろうから無理だった。だったら今、味の素スタジアムに3万人くらいを集めるFC東京なら、そして3万人くらいの球技場だったら維持もできるという考えがあるかもしれないけれど、調布なり西東京でサポートしていた人たちは離反するだろう。それで都民のチームに脱皮したところで、今ほどの熱量は維持できないんじゃなかろうか。

 そんな未来が見える計画のために、代々木公園にあるステージを壊してしまうのは、あそこで野外ライブなんかを繰り広げてきた今はまだ知られていないバンドとか、アイドルとかにとって演じる場所をひとつ、失うことにつながる訳でそれはそのまま、未来をつかんで大きくなるバンドなりアイドルなりの可能性を奪うことになる。同じ事は中野区で行われようとしている中野サンプラザの取り壊しにも言えることで、老朽化は仕方がないとして2000人規模のホールを潰し、1万人とかが入るアリーナを作りたいという考えがあるみたいだけれどそれだけのキャパでライブができるバンドなりアーティストがどれだけいるのか。

 いよいよこれから大きくなるだろうアイドルなりバンドなりアーティストがひとつの到達点であり、次へのステップとしてライブをするのにちょうど良いキャパだったからこそ、中野サンプラザはつねに大勢のアーティストで賑わい、愛され使われ続けて来た。山下達郎さんなんてそれころ武道館でだってできるシンガーがそういう場所ではやりたくないと、東京23区内ではNHKホールと並んで今も中野サンプラザを使い続けてくれている。これで中野がなくなってしまったら、23区内ではNHKホールしか演らなくなって観たい人は市川松戸大宮府中多摩横浜といった近隣へと出向かなくてはならない。

 確実に3時間を超える達郎さんのライブが終わるのはだいたい夜お10時ごろ。そこからライブ会場を出て家に帰るとなると、近隣から来ている人以外はなかなか帰りづらい状況に陥る。そんな心配を達郎さんが観客に抱かせたいとも思えないだけに、近くて終わればそのままあちらこちらに帰って行ける中野サンプラザという“聖地”の消滅は、やっぱり避けたいところだろう。でも行われてしまいそうな改築が、何を生む代わりに何を失うか。その答えは10年後、20年後にやせ細った音楽文化という形で感じられるのかもしれない。そうなってからでは取り返しがつかないのだけれど……。どうなるかなあ。

 まさかFoggy−D登場で「ACCA13区監察課」のオープニング、ONE III NOTESによる「Shadow and Truth」を聴かせてくれるとは、ORESAMAによるライブ「ワンダーランドへようこそ〜in AKASAKA BLITZ〜」、最高だった。振り返ればテレビアニメーション「魔方陣グルグル」の主題歌が気に入った、というか「魔方陣グルグル」の放送の合間に流れる主題歌「Trip Trip Trip」のCMで使われている「うとまる」のどこか懐かしい可愛らしさを持ったイラストレーションにグッと来て目を奪われ、曲に心を惹かれてそのまま聞き込むようになったORESAMAが、赤坂BRITZでワンマンライブを開くというのでずいぶん前からチケットを押さえてやっと来たその当日。

 625番だなんて後ろも後ろの番号ではあったもののそこは1000人くらいは入るライブ会場だけあって、ぎゅうぎゅう詰めにはならずそこそこの場所からしっかりと壇上に現れたORESAMAの2人、ぽんさんと小島英也さんとそして六本木にある怪獣ラウンジ「KAIJU MUSUME6」の内覧会の時に登場してDJをしていたモニ子さんとベースの今日は誰だったんだろう、三浦光義さんか誰かの4人から繰り出されるサウンドはダンサブルでポップで楽しくって嬉しくなるものばかり。「Trip Trip Trip」に限らず「オオカミハート」や「ワンダードライブ」といったネットでPVを観てCDを買って聴いた楽曲が次々に繰り出されて、赤坂BRITZがまるで六本木のディスコのような空間に変わる。

 ストラトキャスターをカッティングしたり奏でたりする小島英也さんとチョッパーも含めてしっかり響かせるベースに挟まれ粒の立った声で歌うぽんさん。その上方に創られたDJブースではモニ子がMac Bookを並べおそらくはターンテーブルなんかも置いてビートを響かせサウンドを馴らしてドラムだとかキーボードだとかいったベースのリズムとメロディーの彩りを1人で担う。たった4人でしかないのに響くサウンドはとてもパワフル。それでいてしっかりとボーカルの声は聞こえてくるところにぽんというボーカリストのハイトーンを基調にして言葉を聞かせる巧みさが感じられた。

 ただでさえノリの良い楽曲が次々に繰り出される上に、DJブースでモニ子が右手を真っ直ぐに上に上げて振って観客を煽りタイミング良くクラップも交えて熱量を高めていく。休む間なんてほとんどないけれども疲れなんて感じられないそのテンション。2時間に届かない時間だけれどギッシリとつまった時間を過ごさせてくれた。本当に素晴らしいライブだった。そんなライブのアンコールに登場したのがFoggy−D。その直前よりDJブースから出力されるサウンドが、聞き覚えのあるサックス的なあのメロディだったからもしかと思っていた。そしてFoggy−Dが入ってイントロが始まってそしてオノナツメさんの漫画「ACCA13区監察課」のアニメーションでオープニングに歌われた、とても格好良くてスタイリッシュな「shadow and Truth」へとつながっていって、ORESAMAのポップにキュートな声とは違ったぽんさんの大人びたボーカルが会場に響いた。

 そういった歌い方も出来るのに、ORESAMAはメロディアスでリズミカルでポップなボーカルを守るのは、ORESAMAというユニットが「うとまる」というビジュアルも含めて醸し出す都会的でコミック的でもあるイメージを守っているから、なのかそれとも自分のアイデンティティをそちらに置いているからなのか。ともあれ生で始めて見たORESAMAは、もうしっかりとメジャーな感じを醸し出しつつあって、このままより大きな場所へと出て行っても不思議はないと感じたけれど、そこへと至るまでにもやっぱりあるだろう壁をどう越えていくか。そこを見守りたいし応援もしたい。次は以前からずっと続けて来た対バン的なライブイベントのファイナルをO−EASTで行うそう。ファイナルということはつまりそうした段階からの卒業で、次はソロなりフェスへの積極的な参加でORESAMAというユニットの音楽シーンにおける確立を目指すのかもしれない。タイアップがつくかどうかは関係ない。すでにして確固たる存在感をぽん、小島英也、そして「うとまる」のアートワークによって得ているORESAMAが、どれをとってもしっかりと響く楽曲によって世に届く日は遠くない。


【9月12日】 記事も書いたしとりあえず状況を確認しておこうとK’s cinemaに行って「カメラを止めるな!」の大ヒットに半ば便乗する形で再上映されているふくだみゆき監督の「こんぷれっくす×コンプレックス」を観る。便乗というのはふくだみゆき監督が「カメラを止めるな!」の上田慎一郎監督の奥さんだからで、上田監督は「こんぷれっくす×コンプレックス」でプロデュースと編集を担当していてそうした関連を喧伝することによって今まで「こんぷれっくす×コンプレックス」に興味を示さなかった人が見に行けば、より作品の良さも広まるだろうといった思惑もあった感じ。

 個人的には宮崎駿監督とか高畑勲監督とか原恵一監督とか今敏監督とか新海誠監督とか細田守監督なんかが受賞している毎日映画コンクールのアニメーション映画賞を受賞した段階で、これは未来に輝くスーパークリエイターの誕生だと世間が騒いでメディアがフィーチャーして不思議ではないと思ったんだけれど、何でも世間的なバリューでしか図らないというか図れなくなっている今時のメディアが、まったくの無名でおまけに個人が手作りしたようなアニメーション映画が、たとえ歴史ある毎日映画コンクールのアニメーション映画賞を受賞したからといって取り上げるなんてことはしなかったみたい。

 受賞から何ヶ月が経ってもふくだみゆき監督が騒がれることもない状況で、上田慎一郎監督の「カメラを止めるな!」が公開されて爆発的な感染力を発揮して今も着実に観客動員数を伸ばすようになると、そっちにばかり話が向かって大騒ぎになってしまった。あるいは感染力というか伝播力を持った有名人が観た面白かったと言うか言わないかと違いなのかもしれないけれど、毎日映画コンクールで名だたる審査委員が推薦をした結果であっても「こんぷれっくす×コンプレックス」はすぐには世に出なかったところに、世間のアニメーション映画なるものに対する冷えた視線といったものを感じてしまう。

 そこでめげずに旦那さんのブレイクを利用して自作を世に改めて問い直したところがふくだみゆき監督の凄さでもあって、観てもらえさえすれば絶対に大勢を楽しませることができる映画という自信もあったのだろう、こうして便乗して公開されたものであっても初日から休日は満席を記録し、平日に入ってもしっかりとそれなりの観客を確保しては、観たという人たちの口コミを増やしつつある感じ。僕程度の人間が記事にしたって感想文をネットに上げたって、まったく世間は動かせないけれども多くの感動があり、一部の著名人の反響もあって今一度の振動が起こり始めている感じ。賞レースにこそ参加は出来ないけれど、そっちで大活躍が期待できる「カメラは止めるな!」との切り離せない関係で、いっしょに盛り上がっては新たな劇場での上映が決まれば嬉しいな。そしてパッケージの販売と。どうなるかなあ。楽しみ。

 そんな「こんぷれっくす×コンプレックス」を観るついでだからと、直前にやっている岩崎友彦監督の「クライングフリーセックス」も観たけれどもこれは凄いというか、タイトルからするなら池上遼一さんの「クライングフリーマン」があるようで、登場するガタイの良いスパイだか工作員だかの男も背中に入れ墨が入っていたけれどもそこから暗殺者として活躍するのではなく、ギドラという名のボスの愛人らしいスパイの女に迫られ、かつて拷問で割かれたペニスを使って合体してはお楽しみのところ、ボスが事を知って戦闘員を向かわせてこれは拙いと合体を解こうとしたら、コブラという名のように先っぽが蛇の舌よろしく割かれていて、それが女性の体内で絡まってなかなか抜けなかった。

 かといって敵は迫ってくる。だったらと男性が女性を抱えて交接したまま蹴りを入れたり拳銃を奪って撃ったりと大活躍。どれだけ激しくアクションしても抜けないところにコブラの凄みも感じつつ、駅弁スタイルから時にバックへと切り替えたりもする中で、自分でも蹴り抱えた女性の足も使って蹴りを入れて戦っていく楽しさといったものを味わえる。っていうか抜けないのか? そこが凄いんだろうなあ、女性にとっても。とはいえ敵はしつこくギドラ本人が現れたらそれがコブラならぬギドラだったという驚きとともに、これは入れられるとどうなるんだろうという妄想も浮かぶ。映画では女性には入らず別のところに入ったけれど、それはお互いに良かったのだろうか。知りたくもあり、知りたくもなし。そんな惨状に2人を映画の中でした、妙な英語をしゃべる元築地という拷問人が映画ではサイコだったのに登壇したら普通の若者だったというギャップが愉快。映画って人を変えるし役者って人が変わるんだ。

 嫌韓嫌中ばかりでは品が下がって広告料金も最低以下になってしまうからといって、そうした傾向の記事を減らそうとしているって話が出ていたにも関わらず、何かを書けばどうしてもそっちの方向へと流れてしまうのがもう10年とかそれ以上、近隣諸国の悪口で食べてきた媒体の習い性って奴かもしれず、先の台風21号で水没しかかった関西国際空港に取り残された中国人旅行客を、日本の中国領事館が迎えのバスを出して空港を脱出させたといった話が中国のSNSとかネットニュースに出たことを取り上げ、偽情報をながしてまで中国万歳を見せたいのかっていった具合に中国メディアなり中国政府なりの対応をけなしていたりする。でも、これが完膚なきまでの偽ニュースかというとそうでもなかったりするみたい。

 何でも「一般客は対岸の南海電鉄泉佐野駅まで運ばれたが、中国人客は混乱を避けるため泉佐野市内のショッピングモールの駐車場で降ろされ、中国側が用意したバスに乗り換えて大阪市内に向かった」とか。そして記事では「こうした中国側の対応が、誇張されて拡散した格好だ」と書いているとおりに、記者はある程度の真実があって、それがやや大げさに書かれて拡散されたということはちゃんと知っている。それでいて見出しでは偽ニュースで自分たちを良く見せて世論を工作しようとしている酷い奴らだといったニュアンスを醸し出そうとしている。そう書かないと読者が引っかからないし喜んでもくれないと思っているんだとしたら、やっぱり嫌韓嫌中からは抜けられそうもない感じ。そうして売り先を狭めていった果てに何が残るかと考えると、マジ夜寝られなくなりそうだ。来年度まで保つかなあ。保たないかもなあ。

 ダメだよやっぱり先輩を立てないというのは間違っているよと叫びたくなったのは、体育系のサークルの話でもなく仕事の上でのことでもなく、「きのこの山」と「たけのこの里」のどちらが上かを決める選挙で「たけのこの里」が勝利したことで、後から出てきたお菓子のくせによくもそんな態度でいられるなといった思いは当然あるとして、まだ子供だった頃に出始めだった「きのこの山」を食べてこんなにキュートで美味しいお菓子があるんだと感動したことが源流にあるだけに、たとえ味がどうであっても支持がどうであっても、「きのこの山」がそうしたお菓子のナンバーワンであり続けて欲しいのだった。まあ選挙に敗れたからといって「カール」みたいに販売が限られる訳でもないから、いずれまた行われるあろう再戦に向けて「きのこの山」を食べて応援していこう。最後に食べたのいつだっけ。そんな程度の愛でした。


【9月11日】 Lenovoとなる前のX30からだから、かれこれ15年は使っていることになるノートPCのThinkPadだけれど、X40からX60にあげたところでウインドウズXPを使い続けたいからとしばし停滞。中古とかで買い増しつつ使い倒したもののいよいよもってiTunesとかがマッチしなくなったこともあってウィンドウズ7へとあげたと同時に中古でX201を使うようになってもう何年になるんだろう。新品で買ったのは1台もなくて基本は中古を買い続けているけれど、1年くらいて液晶画面がつかなく症状が相次いで、その度に買い換えているから家にはもう5台とかそえ以上のX201が転がっていたりする。

 そこから部品が取り放題っていってもキーボードとかワイヤレスボードくらいしか取り外せる部品もないからほとんど死蔵中。そして今のが使えなくなった時、そろそろ中古のX201も手に入れづらくなっていることもあって次に使うThinkPadを考えないといけなくなっている。とはいえThinkPadを使う理由にキーボードの叩きやすさがある関係で、今のX280が搭載しているようなタイプのキーボードがどうかとなるとちょっと考え物。とはいえその昔はシャープのMURAMASAなんて超薄型でストロークも浅いキーボードを平気で叩いていた訳だから、慣れれば十分なのかもしれない。ウィンドウズについては7から10にあげるかどうかで選択の範囲が新品か中古かになるけれど、とりあえずX250くらいまであげて様子を見るのが良いのかなあ。

 それこそ15時間はバッテリーが保つらしい最新型のThinkPad X1 Extremeへと言ってしまうと値段が30万円近いから、今の財政状態だとちょっと手が出ないのでパス。発表会で見たそれは超薄い上にNVIDIAのGeForce GTX 1050 Tiだなんてグラフィックボードを搭載していてCGだって作れちゃうしMRだのVRだのも動かせそう。X1 carbonの5倍という排熱をWタイフーンならぬツインファンで冷やすところとか、マシンとしても興味をそそられるけれど基本はテキストをかちかちとうつだけの用途では、そこまでのスペックはいらないのだった。ってことでここはX270くらいまであげて様子を見るのがいいのかな。ウィンドウズ10の環境で今のデスクトップ環境をどこまで再現できるかってのが要件かな。考えよう、いつか筆1本で身を立てる時のために。

 「一言で換言しよう。ゴスロリ少女たちが、ラケットを片手に卓球台の前に現れたのだ。『意味が分かりません』『うむ。芸術を芸術たらしめる必要条件だな』煙に巻くようなことをのたまう老人を無視して俺は疑問を重ねる。『なんで卓球で、なんでゴスロリなんですか。なんで混ぜたんですか。それを』『美しいから。ほかに理由はいらぬ』」という出オ落ちのようなやりとりが、だいたいのことを言い表していると思っても良い蒼山サグさんの「ゴスロリ卓球」(電撃文庫、590円)。とはいえ事はそれほど単純ではなかったことが読んでいく内に明らかになるから面白い。まずは出落ちとして幼なじみで卓球部仲間の斎木羽麗という少女が失踪。どうしたかと心配していた坂井修という高校生の少年が、家から連れ出される羽麗を見かけて車のトランクにスマホを投げ入れGPSで後を追い、たどりついたホテルでどうして羽麗が拉致されたかを知る。

 親の借金、その返済のために羽麗には日本のセレブリティたちが退屈凌ぎに行っている行事にプレイヤーとして送り込まれることになった。それが「ゴスロリ卓球」。すなわちゴシックロリータな格好で卓球をするというもので、動きづらくてふわふわとしたゴスロリ衣装で卓球なんて無茶も程があるけれど、美しいからという言葉の前にはそうした反論もまずは引っ込む。確かに美しい。あれで結構激しい動きを要求される卓球を、ゴスロリ衣装でプレイすれば当然に生まれるそのギャップ。どうにも興奮させられるけれど、そうした試合を見せて楽しむセレブがいて、賭けて稼ぐ層もいたりする状況からさらに違ったフェイズがあって、それがゴスロリという衣装に別の理由を与える。「美しいから」だけじゃなかったということ。

 そこで繰り広げられる卓球の凄まじさは、あるいは今後のスポーツ全般において利用され活用され可視化すらされることかもしれない。というかすでにIoT技術を使ったスポーツ選手のあらゆるバイタルデータの可視化というのはなされているんだけれど、「ゴスロリ卓球」ではそうしたデータに心理をも組み込みひとりひとりの選手のあらゆるデータを活用し、試合に挑んで勝利をつかんで突破していくという展開がある。そこには選手ひとりでは乗り切れず、データを分析して最前を見つけるアナリストも必要になってくる。これもバレーボールの世界なんかでデータバレーという戦況を分析してアナリストが最前を見つけることが行われているから珍しくもないけれど、それとバイタルデータを組み合わせ、相手の様子も想像しながら勝ち上がっていく大変さはやっぱり過去に例がない。なおかつ敗れた者たちが落ちる奈落とやらではどれだけの凄まじい卓球が繰り広げられているのか。想像するほどに続きが読みたくなってくる。ゴスロリで卓球で美しいと言っていた時代が既に懐かしくなるくらいの変化があり、未来がありそうな物語。期して続きを待とう。

 疲れたから足を伸ばしてストレッチしただけなのに、その場面を抜き出し悪意を持って加工しやがってといった内容の声明文まで出しておきながら、まったくの加工がない動画のそれも3方向から撮られたものが出てきて、何度もストレッチなんてしておらず、ひょいと足を上げて前蹴りを入れるような感じで像へと向けて伸ばしている仕草がバッチリ映っていたから、これはもう逃げられないと思ったのか声明文を引っ込めSNSの記述も削除し、ツイッターのアカウントも閉じて逃亡へと移った様子。今は加工だ何だと擁護していた人たちだけが置いてけぼりにされた感じになっていて、ものの哀れといったものを醸し出している。

 そこで改めるかといいうと、信じるものしか信じないように凝り固まってしまった界隈だけに、総本山が逃亡を決め込んだ今も加工だねつ造だと言い続けているのがどうにも痛ましい。戦争でも大本営は逃げて前線の兵隊とか指揮官が大変な目に遭った、そんな伝統を今も続けているのかなあ、ライトな人たちは。いやもうライトというより宗派だよなあ、あの界隈。やれやれ。ただ本当にヤバいのは、そうやって問題を引き起こした人間がするりと逃げていった後で、ハレーションを起こしたように始まった反撃だけがメディアに取り上げられていたりすることだったりする。

 大使館に相当する本台湾交流協会台北事務所にペンキが投げかけられたという事件について、朝日新聞なんかが「日本の民間団体が銅像撤去を求めて現地を訪問。街頭カメラの映像に、日本の団体幹部が銅像に向かって足を振り上げるような動作をする様子が記録されていた」ことに反発したものと報じてはいるけれど、そうした反発の原因について記事を書いていないこともあって、どれだけのヤバいことが行われ、それをどう取り繕ったかが分からない。というか「日本の民間団体は10日に出した声明で、『慰安婦像を蹴ってはいない』と主張している」って受け売りを書いているだけ。自分の目で映像を見ればどうだったかぐらい分かりそうなのに、それをやらないのはなぜなのか。遠慮しているのか事態を軽んじているのか。これで収まるとも思えないだけに騒動が広がれば誰が何をしたかくらい朝日だったら書くと思いたいけれど。どうだろう。


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