縮刷版2018年8月下旬号


【8月31日】 お国の馴らす笛や太鼓に煽られ導入されながら、もはや忙しい月末と重なった週末としか誰も見ていない“プレミアムフライデー”の例に倣えば、省エネに役立つとか夕方の時間を余暇に使えて消費が伸びるとか言って、サマータイムを国が導入したところで言ってたことのほとんどは冗談みたいなもので、何の役にも経たないまま体内時計は乱れ残業時間は増えそれでいて給料は上がらず日本人はさらに疲弊していくだけろう。欧州ではサマータイムを止めたいという人が大変な割合に上るとか。そうした声に逆らってまでどうしてサマータイムを導入したいかと言えば、2020年の東京オリンピックで日が昇ってからの競技を日がまだ昇りきる前に始めて追えなくちゃという、ただ1点からの要望だったりする。

 それがおそらくは海外のメディアとの契約めいたものもあって、日本がサマータイムだからと称してスタート時間を日本時間で早めようとsたところで、中継時間までもが2時間繰り上がってはゴールデンタイムからズレてしまうと海外のメディアが文句を言うだけって話がある。というかそうなっていて当然なのにサマータイムを推進しようとしている人たちは、放送時間の契約がどうなっているかを知ろうとしないのか、知るだけの頭がもはや存在していないのか。そこがさっぱり分からない。

 これに限らず夕方から夜にかけて行われるはずだった競技が、まだ中天に日のあるうちに始めなくてはならなくなったりする当然の展開を、予想してなお朝早くから競技を始めるべきと言ってたりするところに、真っ当な思考をもはやオリンピックを進める偉い人たちの頭は行えなくなっているんじゃと想像してしまう。あるいは噂されていたように本当にサメの頭だったのかも。これで総理が三選でもしてサメ頭の意見を諾々と受け入れサマータイムでも導入しようものならいったいどんなクライシスが起こるのか。世界から頭大丈夫と思われたりするのか。すでに思われているからもう良いのか。いずれにしてもヤバい展開へと向かいつつあるこの国から、どうやって逃げ出すかあるいはこの国をどうやったら立て直したりできるのか。そんなことを考えるプレミアムフライデー。

 嘘を見破れるからといって真実を暴けるとは限らない。それでもアドバンテージになるのなら、それをどうやって有効な力へと変えるのか、ってあたりを考えさせてくれた三田千恵あんの「彼女のL 〜嘘つきたちの攻防戦〜」(ファミ通文庫)遠藤正樹は嘘がわかる。それは一種の特異体質で彼を運ですぐに死んだ母親から受け継いだものらしく、そうした力があることを知り、そして息子にもそんな力があると分かった日から警察官の父親は息子との会話を避けるようになった。あるいは息子が父親と接触しなくなったというか。

 そんな体質を抱えて生きて来た遠藤正樹が高校に通うようになって知り合った川端小百合という少女は、決して嘘をつかない性格だったため嘘が気になってしまう遠藤は彼女とは喋るようになっていた、そんなある日。川端の従姉妹だった小林美沙という少女がしばらく前に車にはねられて死に、それがどうやら自殺だったと分かった一件について川端が、小林は自殺ではないと言いだしやはりクラスメートで、誰からも好かれている学校のアイドル、佐倉成美が関わっているのかもしれないと言い出す。その言葉に嘘はないと遠藤正樹は知っている。そして佐倉に会いにいくまでもなく遠藤正樹は佐倉が嘘つきだとうことを知ってい。

 端で聞いていて嘘ばかり言って周囲に愛想をふりまいて、自分を良く見せているような感じがしてずっと敬遠していた佐倉。その彼女が小林の事件にどう関わっているかを調べるため、佐倉に会いに行った遠藤正樹は彼女が何か知っているらしいことに気付く。そして普段は自分を押し殺すように生きている佐倉が、本当は大食いで饒舌で明るい性格だということも知って何度も会いに行くようになる。けれども佐倉は川端に小林の自殺には自分に責任があるとも言い出す。学校にも噂が立ち始める中で遠藤正樹はいったい何が起こっていたのかを、その嘘を見抜く力も借りて確かめようとする。

 佐倉と小林が知人だったこと。小林は川端のことを持っていたこと。幼少期の記憶がある事件で川端から失われていること。そして信じている記憶が本当かどうか怪しいこと。本人が信じているから嘘とはとれないけれど、どうも違っているような情報から、川端に過去に起こったこと、最近に起ころうとしていたことが見え、そこに小林が、佐倉がどう関わっていったかが分かってくる。本当の情報、嘘だと分かっている情報から事件の真相へと迫るストーリー。すべてを知って川端はいったいどんな気持になっただろう。ずしっとのしかかってくる重圧。失われたことへの行き場のない感情。それらをどう噛みしめどういぶしていったのか。その傍らに遠藤正樹が立てるはずもないだけに、1人の少女のどん底へと落ちてしまった後が気になる。立ち直っていると信じたいけれど……。そんな本。

 サンリオキャラクターが好きな男子がキャラクターになった「サンリオ男子」では誰がどんなサンリオキャラクターが好きなのかがカップリング的興味を誘うけれど、スマホアプリの「ぷちぐるラブライブ!」がサンリオキャラクターズとコラボレーションした際に、μ’sとAqoursの合わせて18人がサンリオの18のキャラクターと組み合わさった場合は、そんなキャラクターをお前さんは好きなのかといったマイナー狙いの妙めいたものが浮かび上がってくる。だって普通だったらハローキティが3人にマイメロディが2人でポムポムプリンとシナモロールも2人づつくらいいて1人がアグレッシブ烈子とかはんぎょどんとかマイナーとは言わないけれどベスト10級から外れたところを狙う人はいないもの。それが人気って奴だから。

 でも「ぷちぐるラブライブ!!」とキャラクターズとのコラボでは、例えばAqoursだと高海千歌はハローキティで桜内梨子はシナモロールで黒澤ダイヤはポムポムプリンとメインどころを取るものの、、松浦果南はタキシードサムで渡辺曜はみんなのたあ坊、津島善子はパタパタペッピーとちょっとズレたところを狙っている。国木田花丸はバッドばつ丸でまあ有名だけれど小原鞠莉はザ ラナバウツってそれ誰? といった感じ。黒澤ルビィはリトルツインスターズだからまあ大物。そうした濃淡がどういう事情から設定されたのかを聞きたいけれど、「ラブライブ!サンシャイン!!」を見入っている人には必然の組み合わせに思えるのかも知れない。渡辺曜ちゃんはみんなのたあ坊以外あり得ない! とか。どうなんだろう? 反応が知りたい。

 第5回新千歳空港国際アニメーション映画祭短編各部門、インターナショナルコンペティションに若井麻奈美さんの「タンポポとリボン」がノミネート。ANIME SAKKA ZAKKA anthologyで見た作品で、タンポポと仲良しになったリボンが植物故に変化して朽ちていくタンポポとの交流の中、だんだんと寂しい思いをしてそして……といった展開が描かれる。コマ撮りされた造形がとにかく豊富。ANIME SAKKA ZAKKA anthologyの会場に並べられたそれらを見て、良く作ったと感心したものだった。なおかつテーマ性も抜群。戦えるんじゃなかろうか。

 そのANIME SAKKA ZAKKA anthologyで見た幸洋子さん「夜になった雪のはなし」も 日本コンペティション入り。あの「この世界の片隅に」で憲兵さんとか船頭さんとかお坊さんとか昭和天皇とかヤミ米屋とか演じている栩野幸知さんが声を入れているのだ。だから見てない人は新千歳まで見に行くのだ。日本コンペティションには水江未来さんの新作「DREAMLAND」とか里見朝希さん「マイリトルゴート」とか「ポプテピピック」にも作品を出していた関口和希さん『性格変更スクール』とかが入っていて、見ている身としてどれが取っても不思議ではない感じ。「あしたから」の星夢乃さんは「YUMTOPIA」の人か。学生の卒制展とか通っているといろいろな人が出てきてそして有名になっていく。嬉しいけれどそれに追随できてない我が身の寂しさも。それもまた人生か。やれやれ。今年は新千歳、言ってみようかな。


【8月30日】 86歳の人にこれほどまでに楽しくて探究心を刺激され、なおかつ時代へのメッセージも喰らわされるミステリを書かれてしまうんだから世に多くいるミステリ作家の人たちは、もっともっと面白くって為になる小説を書いて辻真先さんを驚かせ楽しませてやって欲しいなあ。そんな辻真先さんの「深夜の博覧会 昭和12年の探偵小説」(東京創元社)は銀座のある新聞社に出入りしている絵描きの一平が、名古屋で昭和12年に開かれていたという名古屋汎太平洋平和博覧会のスケッチを頼まれ婦人記者ともども特急燕で東海道を下って名古屋へと入るとホームにチャップリンがいた。

 もちろん本人ではなくとある伯爵様が変装をして出迎えた満州から来た実業家を歓待していたというもの。その伯爵の家に一平や女性記者もお世話になって博覧会の会場を見て回っていた、そうした最中。一平がほのかに恋心を抱いていた燐寸売りの少女が銀座で監禁されては昏睡状態にさせられ、そこで満州の実業家の妾におさまっていた姉の姿を見かけ、そして気がついたら銀座の路上でアドバルーンとともに降ってきた姉の足を見て仰天する。つまりはバラバラ殺人事件だけれど、体の方は見つからず犯人の目星もつかない。そうこうするうちに銀座にある料亭で良からぬものが食べさせられているといった噂も立って猟奇の香りが漂い出す。

 遠く名古屋にいてそうした事件にはまるで絡めなかった一平だけれど、匿われるようにして燐寸売りの少女が名古屋へと連れてこられたこともあり、良いところを見せようと推理をめぐらせた果てにひとつの結論へと達する。それは……というのがひとつのストーリー。こんな大がかりなトリックを使ってアリバイなんかを成立させてしまうところに今なお想像力のカタマリのような辻真先さんの凄みを見る。なおかつストーリーの中に染みる反戦の気骨。満州を王道楽土と称え五族協和の守られた土地と尊ばれているところに登場人物の思いを借りて異を唱え、戦争を賛美するような風潮に釘を刺す。満州に開拓に行きたがっている青年の処理なんかにも、戦争なんかで人が無駄死にすることを厭いプロパガンダと同調圧力に乗って苦しんだ過去への警告が感じ取れる。

 魅力的な伯爵様は物語から退場してしまって探偵役だけれどどこか頼りない一平が残り、そして開明的で酒飲みの女性記者も残ったけれど2人が組んで事件の解決を続けるようなシリーズにはなるのかが気になるというか、すでになっていたりするのかな。伯爵が運転手として使っていた操という人物の“正体”なんかにもライトノベル的な設定があってキャラクター的に引きつけられる。これもただ収まってしまって続編があっても出しづらそう。魅力的なのになあ。女性の恨みがあってそして世界への憤りがあってそうした思いを遂げるには命すら惜しまない女性たちの凄みに感嘆しつつ、僕が生まれる前の名古屋の様子を物語から噛みしめよう。辻真先さんのお父さんで後に衆議院議員になった辻寛一さんがやってたおでん屋「辻かん」が出ていたのはご愛敬。辻真先さんって辻寛一のこと、どう思っているんだろうなあ。評伝書かないかなあ。

 松屋の「ごろごろ煮込みチキンカレー」が妙に評判になっていたけれど、個人的には煮込みというからにはもっとチキンを煮込んで食べればサクッとほぐれるくらいにしておいて欲しかった気がして、ちょっとだけあぶってカレーに放り込んだだけの「ごろごろ煮込みチキンカレー」を好きではあっても推しづらかった。それが「ごろごろチキンのトマトカレー」になると煮込みと銘打ってはいない分、食べて大きなチキンが混ぜ込んであるだけのトマトカレーのルウについても違和感はなくむしろトマト味に染められたチキンといった感じで食べてまるで違和感がなかった。皿からすくってご飯にかけて食べても抜群というかそれが本来のカレーの食べ方。スパイシーな普通のカレーとは違ってトマトならではの酸っぱさでチキンとライスを食べる充実感は、チキン煮込みカレーに期待して得られず外された感じを埋めてくれそう。これで値段も安価。毎日だって食べたいかも。また行こう。

 もう何年も前から全国人民代表大会での李克強首相による会見に産経は取材拒否されて出られていなくって、中国政府なり国務院なりがメディアとして締め出しをしている状態が続いていた訳で、その流れで今さら取材拒否されて何で騒ぐのといった感じを抱いている所もありそうだけれど、今回は外務省の事務次官が中国で外相と会った際の冒頭の会見で、自称するところの全国紙が閉め出されたというケースは日本側が外務省のお抱えとして記者団を連れて行こうとして、それを記者たちが何かくじ引きでもして選んだ数人の中にとりあえずは全国紙が入っていたもので、だから他にどこの記者がいてとしても、それは外務省が招待でもした取材団として認識し、どこの媒体の記者だとは考えないで入れるのが代表取材というものの意味からも適切だっただろう。そもそもが中国に断られる云われもない。

 であるにも関わらず、取材団としての参加を産経1紙のみが拒絶されたことに対して他の新聞社なんかも含め、会見取材をボイコットしたというのは前向きな判断。取材団というものの公共性を認めない相手に怒りを示したって言えるだろう。ただ、ここでボイコットできたのは身分を1度引っぺがした上に張られた取材団という形式があるからで、これをもって全人代での首相会見を準全国紙が拒絶されたからといって、他の日本から来ているメディアがそろってボイコットはしないし、過去にもしてこなかった。その意味ではメディアに対する取材拒否への、半ば自業自得な認識が各社にはあるってこと。ボイコットを素直に称えられないのにもそんな理由があったりする。もちろんそういった状況を余儀なくされているもはや関西ブロック紙みたいな全国紙が、どうしてそうなのかへの自省もしておかないと世界の経済でも政治でも外交でも科学でも、中心になって行きそうな大国へのアクセス権を本当に失ってしまうぞ。分かっているかなあ。分かってないよなあ。

 格好いいじゃないかフカシギミック。格好こそシンガンクリムゾンズとかトライクロニカとかアルカレアファクトなんかに比べてゴージャスさにもダークさにも欠けるとうよりまるでコミックバンド的、そして会話なんかもダジャレがいっぱいギャグいっぱいでとてもロックな感じがしないのに、演奏を始めるとフロントマンとして立つギターのマロとベースのゲ・フロッチのツインボーカルが迫力あってパワフルで、ファンキーでヒップな乗りにあふれた感じがあって見ていてぐいぐいと引き込まれた。ある意味ギャップ萌えを煽られそうなバンド。銀河劇場で今日から始まったLive Musical「SHOW BY ROCK!!」−狂騒のBloodyLabyrinth−を見た人ならそう感じてファンになったんじゃなかろーか。

 一方でダークに中二病全開のシンガンクリムゾンズが訳あってポップでキュートなバンドに変身する必要があって、そして登場した真っ白い衣装のシンガンホワイティーズもまた可愛らしさがあって見ていて楽しいバンドだった。ブライトなV系バンドの頂点というか、そんな感じ。ただやっぱり自分たちの思いを乗せるには明るすぎたようで、ドラムのロムなんかは反発してクロウと対立してしまう。そんな中からひとつ新たな目標が生まれてたどり着いた先で繰り広げられる、シンガンクリムゾンズとトライクロニカとアルカレアファクトとそしてフカシギミックによる対バンはもう一種のフェス状態。野外とかもなくなって夏休みも終わりそうな中、銀河劇場に新たに生まれたロックフェスをご堪能あれと今は云いたい。ストーリーも警句に満ちて心に響く。これは良い舞台。自腹でもう1回くらい見に行こうかなあ、ライブシーンでの応援がどうなっているか見たいから。


【8月29日】 普段から車いすを使っている訳ではない人が、たとえ全盲だからといって歩けない訳ではないのだから、案内してあげれば目的の場所へは歩いてたどり着けるしそこで座り続けることだってできる。にも関わらず名古屋でのクラシックのコンサートでどうして全盲のお客さんを無理矢理車いすに乗せ、まるで無関係の端の席へと案内したんだろう。そこは別に車いすのためのスペースではない訳だから、チケットを買っていたという同じフロアの中央付近の席にだって案内はできた。にも関わらず音が変わってくる端へと押し込めたのは権利の侵害で、それこそ払い戻して謝罪も上乗せして当然なのに、全国紙なんかでそのことが報道されても動こうとしていないところに何か世界に対する傲慢さ、頑なさを感じる。名古屋城へのエレベーターの配置は“復元”というお題目のために一定の説得力はあっても、この件で名古屋市が釈明できることは何もない。でもきっとだんまりを決め込むんだろう。今は逃げ続ける方が勝ちみたいな風潮があるから。誰かさんのせいで。役所の障碍者雇用の問題もそうやって釈明のない中を有耶無耶で過ぎていくんだろう。酷い国になったなあ。

 ルパン三世といえどもネットワークが発達した世界の網の目のような衆人からの監視とそして蓄積されるビッグデータを元にした行動分析からは逃げられないといった感じか。テレビシリーズ「ルパン三世 PART5」で大河内一楼さんが脚本を手がけるシリーズがスタートした感じ、IT企業のトップが新しく提案した「顔ナビ」なるものは、ネット上に記録されているあらゆる写真から1人の人間の姿を割り出しその居場所も含めて分析してどこにいて、どこに行くかといった予測をあっという間に立ててしまう。背後には性格や行動分析といったデータもあって、ほかにも契約してある家々のデータからこれが隠れ家ではないかと割り出してしまう。

 ずっと変装をして暮らしてきた場所も、近隣へと逃げて来た先から足取りを予測され居場所を推定されて暴かれる。もはや安寧の場所すらないのか、ってそれでルパンが諦めるとも思えないだけに今後の展開の中、きっとクリティカルな反撃の方法が繰り出されることだろう。現実の世界でもネットに残された顔写真や発言を分析されて過去を暴かれ今を縛られる事件がどんどんと出てきている。でもそうしたデータをプライバシーだからと使えないようにする動きはないし、それをやってしまったら進化も止まってしまう恐れがある。かといって100%ではない確率でもそれがルパンかもとしてんらい情報が出回って無実の人が迷惑を被る可能性があるなら、対応も必要だろう。100%にすれば良いと企業は言いそうだし、廃止して0%にしてしまえば問題もないという意見もありそう。ルパンはどうする? しかし勘と経験から「顔ナビ」と使わずルパンにたどり着く銭形のとっつあんはさすがだなあ。峰不二子捕まるとどうして全裸で籐いすに座るんだろう。

 ジルクニフの策謀でナザリック地下墳墓へと派遣されたワーカーたちの末路が残酷で救いはないのかと思った「オーバーロード3」。パーティーを組んでいた中にいた、親が貴族だけれど没落中であるにも関わらず、無駄遣いばかりして家計が大ピンチなため妹たちを救い出そうとひとり健気に働いている姉のウィザードがアインズに見つかり闘技場で追い詰められた中、犠牲を買って出た仲間に感謝しつつ飛んで逃げようとしたもののそこはナザリック地下墳墓、相手のフトコロもフトコロでそして登場したのがシャルティアとあっては逃げられずあっさり殺されてしまう。ウエブ版だとどうやら生き延びたらしいけれど、そうした慈悲はあたえず実験の恐怖に苛まれることのない永遠の死という別の慈悲を与えられる展開は、残酷だけれど今のアインズの立場を考えれば妥当なのかもしれない。1人に情けをかければナザリックがまとまらず世界に存在を認めさせることができない。そこが王としての器量なんだろう。大変だなあ、王って。今の日本の指導者にそんな胆力はないよなあ。

 ストーリーの好みで言うなら女子高生たちの普通の日常が世界の変化とそれぞれの成長によって少しずつ変わっていく様を描いた劇場版「フリクリ オルタナ」であり、ハルハラ・ハル子あるいはハルハ・ラハルの声の好みも「フリクリ」時代からの新谷真弓が演じる劇場版「フリクリ オルタナ」のハルハラ・ハル子に気持は傾いているけれど、どちらがより傍若無人で身勝手でわがままで情熱的なハルハラ・ハル子かと言えば、劇場版『フリクリ プログレ』のハルハ・ラハルだと応えざるを得ないところに、2本の映画のどちらをより上かといった議論における選択の難しさがあったりする。

 アトムスクを追いかけ自分の手に入れるためには手段を選ばず、青少年を車ではね飛ばしギターでぶん殴り蹴りを入れ悩ませ力を使わせそれを自分のために使おうとする。2000年のOVA「フリクリ」で見せてくれたそんなハルハラ・ハル子の姿といったものが2018年9月28日公開の劇場版「フリクリ プログレ」に登場するハルハ・ラハルの上に現れる。見ればそのストーリー展開や大がかりなSF的設定、メカが暴れ回るアクションと不条理過ぎるシチュエーションをひっくるめて、OVA「フリクリ」の再来といったものを感じるかもしれない。

 のっけからthe pillowsの「Thank you, my twilight」が奏でる印象的なイントロで始まる映画「フリクリ プログレ」は、廃墟のような荒野のような場所に佇む奇妙な耳付きヘッドフォンをかけた女子中学生らしい少女が、全身をボロボロに崩壊させながらも何か得体の知れないものと立ち向かい、やがて全身を装甲に包んで戦いに望むといった近未来的ビジョンが描かれそして、「Thank You, my twilight」のピコピコとしたイントロをスマホからのアラーム音として少女が目覚め、家を出て学校へと向かう序盤へと進んでいく。

 名を雲雀弄(ヒバジリ)ヒドミという少女はカフェを運営している母親の下で育っている様子。父親はおらずどうやら母親はそこで夫が帰ってくるのを待っている。ヒドミは静かで寡黙で学校に行っても誰か女友達がいる様子ではない。4人の女子高生達がつるんでいた劇場版「フリクリオルタナ」とは大きな違い。かといって虐められている訳でも、ハブられている訳でもなくそうしたスクールカースト的な描写は劇場版「フリクリ プログレ」にはまるでない。何しろ井出交というヒドミとはクラスメートで本編では重要な役を果たす男子といつもつるんでいる2人のうち、少し太めの森五郎はなぜか短いスカートをはいてそれをユニセックスだと強調する。

 LGBTとか女装趣味といったものではなく、普通に着たいから着ているだけでそれを誰も着たいから着ているだけなんだと感じて咎めはしない。いや、井出は少し突っ込むもののそこまで。そんな森五郎も女子に興味があるらしく、教師と何かあったらしい井出に関心を示す。その教師が最初はツンとしてスーツ姿で眼鏡をかけて目を見せないキャリア風の姿で登場し、等々と難しいことを喋り中学生たちにエロい動画を見せて反応を探るようなことをする。いったい何者? そして目的は? それがつまりはハルハ・ラハルでありNOの発動でありやがて来るアトムスクの召喚となるのだけれど、そこへと至る過程は都合6本、OVAと同じ話数で構成されたようなエピソードの連続の中に描かれていく。

 メディカル・メカニカなるものの始動、それと戦おうとする人類の反攻、そうした構図とはお構いなしに暴れ回るハルハ・ラハルであり止めようとする謎の美女ジンユの活躍等々。いったい誰が何でどうしようとしているのか、最初は掴みづらいし1度見てもやっぱりよく分からなかったりするけれど、ハルハ・ラハルという女性の無茶苦茶すぎる割に一途なところがある行動の、その目的をひとつ軸に置くことで、全体が見通せるような気がする。気がするだけかもしれないけれど。そうした展開の中に配置されるキャラクターの中心が雲雀弄ヒドミという女子中学生。ジンユの駆る車にはね飛ばされたり、同級生の井出交のことが気になったりする度に頭痛を発生させては額から何かを出そうとするものの、そこは頭にはめられたヘッドフォンが何か効力を発揮している。

 つまりは力の制約で、それが解放された時に起こることにひとつ映画の目的が込められている。脇に立つ井出交もそれなりに活躍はするものの、思春期特有の悶々とした高ぶりが他よりやや強いといったあたりでの貢献。それでも立派なものだけれど。謎なのはだから雲雀弄ヒジリのその体質に誰がいつ気づき、制限をかけようとしたのかといったあたりでそもそも人間なのか違うのかといった当りも含め、謎が残る。もう1人、森五郎の彼女らしいアイコという少女にもその言動に秘密があり、なおかつ存在に謎がある。どういった状況から設定されたキャラクターなのか。周囲に蠢く者たちとの関わりの中から考えてみたくなる。

 そんなキャラクターたちによる日々を経て、いよいよ決戦へと向かっていくストーリーは実は一体だったハルハ・ラハルとジンユとの激しい決戦があってアクションシーンが繰り出され、迫力たっぷりのビジュアルを楽しめる。それ以前、別のエピソードでは冒頭にペインティングのようなアニメーションがあり、中盤からはややラフな絵によるアニメーションもあって作画的な関心を高めてくれる。上村泰監督が1人で立った劇場版「フリクリ オルタナ」と違って劇場場「フリクリ プログレ」には6話分を6人の監督が担当した。テイストの違いを作画や演出などから感じ取る楽しみ方も出来そうだ。

 まるで「フリクリ」の再来のような展開を経てたどりついた世界は日常が戻ったようで果たして本当にすべて解決したのか。どうやら「フリクリ」から時間が過ぎていった先のような雰囲気を持った状況設定にキャラクター設定から考えて、いつかまた地球を狙う存在があり現れる英雄的な存在があって、そしてハルハ・ラハルの来襲といった可能性も考えてみたくなる。それは17年後か、34年後か。分からないけれどもまるで変わらず蘇り、そして同じような混乱と感嘆をもたらしてくれた劇場版「フリクリ プログレ」だけに、再々来はあって当然だと今は思いたい。その時にもthe pillowsの「LAST DINOSOUR」が戦闘シーンを盛り上げてくれると信じている。


【8月28日】 水瀬いのりさんがいったい何て読むのか未だに分からない雲雀弄ヒドミを演じている劇場版「フリクリ プログレ」ではハルハ・ラハルを林原めぐみさんが演じていて、これが新谷真弓さんっぽさを感じさせつつクールなところもあったりする役なんだけれど、その演技をアフレコの現場で水瀬さんも、クラスメートの井出交を演じている福山潤さも台本をめくって確かめる動作を止めて聞き入ってしまったとか。水瀬さんは「仕事をしたくない、みたいな。ネガティブじゃなくて良い意味で、視聴者に1回回らせて頂いて良いですかという気持になりました」。何かをやっているのがもったいない、体感しなくちゃいけないちう気持にさせるくらい、その演技には迫力があったってことなんだろう。

 福山潤さんもすでに20年のベテランであるにもかかわらず、「全く同じ事を考えていた」とか。「何でそれができるのか分からないことがありました。メカニズムは分かっても出来ないことがあって、それをこの人はなぜこんなことができるのかと」思ったとか。「こともなげにやっているそれを自分はやろうとしても出来ない。自分は林原さんに追いつけるようになったのかなと思ったけれど、全然でした」。男性声優陣でも演技の幅の広さとそして演技力においてはなかなか上を行く福山さんですら驚いたその演技、9月29日公開の映画で存分に体験してみたい。

 いよいよもって戦前戦中回帰も進んできたようで、2020年の東京オリンピック/パラリンピックで配られる金銀パールじゃなくって銅メダルの材料を、いわゆる“都市鉱山”と呼ばれるレアメタルを部品に少しずつ含んでいたりする携帯電話だとかパソコンといった電子機器の部品から集めようとする運動があって、それ事態はまあ今時らしいと言えば言えたんだけれどあくまでもリサイクルのシンボルとして一部をそれで集めつつ、大半はちゃんと費用から支払って貴金属店で購入して作ってもらうのかと思っていたら、組織委員会は本気ですべてをまかなおうとしている感じ。金と銅はそれでもどうにか集まったけれど、銀が足りないんで広く学校なんかにお触れを出して回収を急がせようとしている。

 あれだけの予算を計上しておきながらもメダルの材料を買うお金もないのかといった疑問がまず浮かぶし、とにかく節約したいんだ、庶民からかっぱげるところは徹底的にかっぱぐんだという意志すらあるみたいで銀をどこかから購入するなんて計画はまるで話に出なさそう。ただひたすらに一般から募ることに決めている感じだけれど、そうやって学校にお触れを回して集めようとした時に、今の学校現場で何が起こるかを考えただけでどうにも気分がダレてくる。すなわち競争。クラスなり部活動なり学区なりでどれだけ多く集められたかが競われるようになって、その中で携帯電話やPCの買い換えなんかを促されたりしそう。

 中古のレアメタルが拠出されて新品のレアメタルが手元に来る流れは節約にはならならずむしろ資源を無駄に掘り出していることに他ならないんだけれど、リサイクルとエコの真逆を行きそうな施策でも、自分たちの目標が達成されさえすれば関係ないってことなんだろう。本当に面倒な国になって来た。果たして一切の購入をせずにリサイクルで押し切ろうとした時にどんな状況が訪れるかは注視していく必要があるだろー。あるいは“と詩鉱山”から逸脱して銀なら何でもってことになって家の中から勝手に銀のアクセサリーとかカトラリーが持ち出されるって展開も。そういうことが起こりえるのが今の日本って国だから。やれやれだ。

 さくらももこさんの訃報を受けてワイドショートかニュースとかが報じているけれども、その多くに「ちびまる子ちゃん」は「ちびまる子ちゃん」でもアニメーションの方が多く使われていることに漫画家のいしかわじゅんさんは不満そう。「ちびまる子ちゃん」は漫画家としてのさくらももこが創造したものだっていうのが理由だけれども実はアニメーションの「ちびまる子ちゃん」にはさくらももこさんがたくさん脚本を書いていて、それこそ1995年からの第2期なんて200話以上を自分ひとりで書いていたくらい。その後も脚本監修に入っていたからアニメーションといえども同じさくらももこさんの作品であって、紹介されることに問題はない気がしないでもない。もちろん漫画家としての功績を、そのスタイルから指摘していく大切さはあるんで漫画の得意な批評家の方にお願いしたなあ。僕はほとんど読んでないから分からないんだ、漫画家としてのさくらももこさんの凄さが。エッセイストとしてなら少し分かるかな。

 ははははは。ずっとポン酢だとは思っていたけれども改めてポン酢ぶりを露呈してみせた安倍ちゃん総理。薩長同盟だーとか言って鹿児島で自民党総裁選への気勢を上げたのは良いけれど、それってつまりは奥羽や北越をこれからも虐げるぞっていう宣言であって反感を買っただろうその上に、平野国臣という人物が請われ薩摩に行ったものの主流派から邪険にされ譲位の思い叶わず薩摩を去るときに、そのていたらくを非難する気持を込めて詠んだ「我が胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」という短歌を引き合いに出して、いわれを知る人が聞けば鹿児島に喧嘩を売っているのかととれる態度を見せてしまう。

 本人なり草稿を作っている人が、そういういわれがあることを知らず、鹿児島の歌だからと引っ張り出しただけなんだろうけれど、結果が最悪なだけにやっぱりこれはダメだろう。教養がなくてもそこに気をつければ良いのに、それすらしないところに何か自分は正義だというスタンスがあるように写る。問題化しないかなあ。そのうちに閣議で「我が胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」という短歌に鹿児島への非難は含まないと決定したりするかもなあ。自分の教養に、自分の嘘に世界が合わせるこの状況こそが恐怖政治のなにもでもないのに。やれやれ。

 コンペティション・ラインが入ったフェンダーのムスタングが登場したのは1968年で、ベースのムスタングにコンペティション・ラインが入ったのも1969年からだったりするそうだから、ハルハラ・ハル子がカナブンこと河本カナのN.Oを通して額から引っこ抜いたコンペティション・ライン入りの赤いムスタングがハル子の叫んだように67年型であるはずはないのだけれど、そこは時空がぶっ飛び世界がぶっ飛びキャラクターがすべてぶっ飛んだ「フリクリ」の世界。そもそもが後ろにオルタネーターがついたギターなんて存在してない訳だから、現実と違って何が起こっても不思議はないと思って観れば、劇場版「フリクリ オルタナ」に67年型のコンペティション・ライン入りのムスタング(オルタネーター付き)が登場しても良いのだ。そう思おう。

 とはいえ、イントロダクションは極めて普通の女子高生たちによる日常の物語といった面持ちで、いつも元気で前向きなカナブンこと河本カナに、カナブンとは小学生時代からの知り合いらししペッツこと辺田友美、とてつもない美少女でモデルの仕事もしているらしい大人びたヒジリーこと矢島聖、体格はやや肥満体でもそのことをネガティブには考えておらず、ドクターペッパーを麩菓子をいっしょに口にするモッさんこと本山満の4人が仲良しのクラスメートとして、学校帰りにどこかの部屋に集まっては歓談したりゲームをして楽しんでいる。

 そんな平凡で変わらない日常でも少しの刺激が欲しいのか、モッさんがペットボトルロケットを作ろうと言いだし、カナブンがやろうやろうと乗ってみんなで作り上げ、地味という声からいろいろ買い込んで飾り立ててさあ完成といったところに空から巨大なピンが落ちてきて、ペットボトルロケットもその建物もぶち壊れる。なおかつ動き出す妙な生体機械。これはピンチというところに現れたのがピンク色の髪をしたハルハラ・ハル子で、敵を蹴散らし味方も蹴り飛ばすような展開の中でカナブンに奇妙な変化が起こる。

 頭痛。そして発生。引っこ抜かれて現れるムスタング67年型(コンペティション・ライン入り)によって事態は収拾に向かったけれど、実はそれがすべての始まり、変化への兆しでもあったという、そんなプロローグにも似たエピソードから2000年登場の鶴巻和哉監督による「フリクリ」と同様、全6話のOVAのような構成でエピソードが積み重ねられていく中で、仲良しに見えた4人の間にもいろいろと葛藤があることが見えてくる。青春に誰もが直面する悩み。道を選択することへの不安。そうした懊悩に対してひとりカナブンだけが自分のことは棚上げにして、誰かのためになると言い張っては突っ込んでいく。でもそれは、何もない自分を補おう、役に立っていることで自分を満足あせようという“エゴ”を知らず内側に秘めていることだと指摘され、4人の関係が揺れ動く。

 彼氏から降られたヒジリーへの同情。ファッションデザイナーをめざしアルバイトに励むモッさんへのお節介。そしてペッツへの向こうから見ての友達面。どれもカナブンにとっては本気だったかもしれないけれど、それが自己満足からの本気ではないと果たして言えるか? 受ける側にとってそれは本当に嬉しいことだったのか? そう問い直されると身動きできなくなる気がしてしまう。でも。でもだ。相手が疎んじていようとその中に絶対の拒絶しかないわけではない。嬉しい気持だってあるだろう。そうした気持と自分の満足との折り合いを、どうつけて誰のためにもなっている状況を作り出すかが、ひとりではなく大勢で生きているこの世界に暮らす僕たちにとって必要なのかもしれない。そう諭される作品だ。つまりは傑作。青春ストーリーとして大傑作だと断言する。

 女子高生やら男子高校生にありがちな青春の葛藤を描きつつも街には巨大なアイロンが現れ世界が平坦に馴らされようとしているのは「フリクリ」と同様。そうした状況を避けようと人類は一部の特権階級がロケットを仕立ててどんどんと火星に移住していく。そうしたエクソダスを知ってか知らずか市民は暴れもせず淡々と、変わらない日常を送ろうとしている。否応なしに人は減りアイロンが動き始めて街が、学校が破壊されてもその先に破滅がくるからと恐怖に怯える感じはないところに、日常と非日常の同居した「フリクリ」ならではの世界観というものが感じられる。背中合わせの近未来。そこに生きる者たちの達観。そこに現実からズレた世界へのSF的感性を見る。

 アトムスクの発動による地球の危機回避と、それを追いかけてのハルハラ・ハル子の策謀が主旋律となっていた「フリクリ」と、それをなぞったような展開を見せる劇場版「フリクリ プログレ」とは異なって日常からすこしズレた非日常へと入りながらも変わらない毎日への羨望を感じさせつつ淡々と過ぎていく、そんな展開だからこそ揺れる女子高生たちの情動がアクションの奥に隠れず前面に出て響いてくる。通して見ていけば絶対に自分の身勝手、誰かのお節介への自省と嫌悪が浮かび、翻ってなんてみっともないんだと焦りつつ、そうした機微も含めて人間なんだと思わされる。アクションも最後にあるにはあるけれどそれはメインじゃない。それは劇場版「フリクリ プログレ」に譲って劇場版「フリクリ オルタナ」では過ぎ去っていく“少年”の日々に起こる出会いと離別と成長を噛みしめよう。

 the pillowsによる音楽は「フリクリ」と同様に全編に響いて、場面に情感を与える。「LAST DINOSAUR」のようにアクションシーンに定番の楽曲も使われてはいるけれど、劇場版「フリクリ オルタナ」もそして劇場版「フリクリ プログレ」も「Thank you,my twilight」がタイミング良く流れて静けさの中からぐわっと立ち上がってくる情感といったものを醸し出す。メロウな雰囲気から立ち上がってオルタナティブに響く「白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター」も、しんみりとした場面で響いて心を揺らしてぬらす。「フリクリ」では使われていなかった楽曲を改めて採用して場面に当てはめた制作陣の感性に喝采し、そんな楽曲を新たに録音しなおして提供し、場面にエネルギーを与えたthe pillowsにも拍手を。

 ハルハラ・ハル子を演じた新谷真弓は「フリクリ」時代から変わらないハルハラ・ハル子で安心感この上なし。対抗する劇場版「フリクリ プログレ」には林原めぐみはハルハ・ラハルとして登場して新谷真弓のような鼻にかかった他人を小ばかにするような声を出してはいても、中に知性めいたものを漂わせるところが少し新谷真弓と違っている。どちらがどうということではなく、懐かしくも楽しい「フリクリ」の新谷真弓にまた会えることを喜びたい。相変わらず悪辣で、それによってカナブンを揺さぶってはいるけれど。それでも自分のためというより世界のためというところは前とは違うか。成長したなあ、ハルハラ・ハル子。


【8月27日】 最大与党の自由民主党で総裁になるということは、すなわち総理大臣になるということで総裁選はイコールでもって首相選出に結びつく。それと自民党の国会議員と自民党員だけで決めてしまえるこの国の政治体制のあるいは民主的ではあるし、一方では独裁的でもあってなかなかに取り回しが難しくなって来た。普通に考えるなら官僚を腐敗させ経済を停滞させ外交で成果が出せず威勢の良いことだけ言っている総理大臣なんて即刻引きずり下ろされるべきなのに、ひとつ隣国に対して上から目線で物を言っているだけで、隣国を見くだしたい人を集めて盛り上がってしまえるから厄介というか。

 それすらも普通ではないけれど、見える範囲で支持されていれば全部支持されていると思うのがあの頭。だから会津だとか奥羽だとか北越なんかがコノヤロウと反発しそうな薩長でもって引っ張っていくだなんて戯れ言を、堂々と言えてしまうんだろう。東北の人たちの神経を逆なでして平気な総理をいつまで仰ぎ見れば良いんだろう。きっとあと3年はこの体制が続いて経済は衰え皇室は跡継ぎの問題に本格的に悩み始め移民という名の奴隷が増えて格差社会が広がり人心は荒れ、差別と抑圧の中に誰かの上に立っている気持になって粋がる人たちの国になっていくんだろうなあ。困ったなあ。

 プリキュアでもなければ鬼太郎でもない日曜日に観るアニメーションのひとつが「レイトンミステリー探偵社〜カトリーのナゾトキファイル〜」。前に放送があったらしいけどすっかり忘れていたカトリー出生の秘密について明らかにされ、そしてエルシャール・レイトンがルークとともに秘宝の探索へと向かい、どうにかこうにかたどり着いたらしいところまで描かれながらもそこでレイトン教授の消息はぷっつり。いったい何があったのか、ってところでカトリーの推理が冴えて6つの重要な石に加えてもう1つ、重要な石があることが判明して、これからはきっとこれを探して冒険へと向かうクライマックスが描かれていくんだろー。その合間にロンドンあたりを舞台に起こる楽しいエピソードを挟んでいく。トリックもエピソードも安定してきてなかなかの面白さを出してきた。もっと観られて欲しいんだけれど、話題にしている人少ないもんなあ、というか聞かないし。ミステリマガジンで特集はしないのか?

 もうひとつの「キラッとプリ☆チャン」はわーすたが登場してフェスに行こうとしていたんだけれど、杏奈ちゃんが無茶やったおかげで道路が渋滞して車が来られずステージに穴が空きそうなところを、新米のマネジャーがなぜか先にステージについていて困っているところに桃山みらいが参加して、わーすたくいずをやって場を盛り上げつつ時間をつないでいいねをもらってライブもやってますます人気者へと向かっていった。その間萌黄えもは宿題もきっとやらずに弟のベッドで高いびき。青葉りんかはリゾートで夏休みを満喫中。なかなかに格差があるけれどそんな3人だからきっといろいろ多彩なアイデアが出てくるんだろう。みらいのそろは久々に聞いたなあ。ターンツタタンタルトタタン。ちゃんと合いの手入れられた。そろそろメルティックスターの3人目も出てくるのかな。そしてどうなるんだろう。展開が楽しみ。そして9月末のライブが。

 発売は明日だけれども前日に入るのがパッケージソフトってことで、秋葉原へと出向いて「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」のブルーレイディスクを買ってくる。店舗別に特典があってゲーマーズなんかだと美雲・ギンヌメールをのぞいたワルキューレの4人がお風呂につかっているタペストリーだったりするんだけれど、それをもらってももはや家に置き場所なんかないんでかさばるのは今回は止めて、ソフマップで特装版がすっぽりと入るボックスをもらう。これなら一緒に置いておけるから。本編はすでに応援上映とまMX4Dとかを含めて7回8回は観ているんで、すぐに見直さなくちゃいけないってことはないけれど、特典映像で美雲さんがすぽぽんんいなっているようなお話があったり、楽曲のカラオケ映像なんかがあったりするんで確認したいところ。プレイステーション3のアップデートは対応してたかなあ。帰って再生して確かめよう。

 もしかしたら「この世界の片隅に」の漫画原作と割といっしょに見えるレイアウトの中で、アニメーションとしての時間の流れがあって会話があってテンポがあって、似ているようで非なるけれどもやっぱり同じという高度な技を片渕須直監督が発揮していたのは、さくらももこさんの漫画を原作にしてさくらももこさんが脚本も描いた「ちびまる子ちゃん」のアニメーションの絵コンテをしばらく手がけていたから、なのかもしれない。Webアニメスタイルで片渕監督が長く連載していた「1300日の記録[片渕須直]」というコラムの中で、「ちびまる子ちゃん」の絵コンテを切っていた時、さくらももこさんが書いた脚本は「話術」そのものでって、生半可な改変は無理という状況の中、「原作を尊重して『アングルも極力変えない』というコンテの切り方を、もうひとつの手段として手に入れることができたように思う」と振り返っている。

 「『ちびまる子ちゃん』はもっとも多く絵コンテを切った自分の仕事になった」とも。「アリーテ姫」や「マイマイ新子と千年の魔法」は原作がありながらも映像については漫画とかがないため自分で考え組み立てていった。それが「BLACK LAGOON」から「この世界の片隅に」では完成された漫画のレイアウトをしっかりと活かしつつ自分なりの見せ方を行っていたりする。そうした知恵が「ちびまる子ちゃん」の絵コンテ作業から培われたのだとしたら、「ちびまる子ちゃん」とさくらももこさんは「この世界の片隅に」が大ヒット作になったひとつの源流に立っているのかも知れない。「この世界の片隅に」が世界でヒットし今も愛されている理由が「ちびまる子ちゃん」にある。ちょっと面白い。

 そんな「ちびまる子ちゃん」の作者で漫画かでありエッセイストでもあるさくらももこさんの突然の訃報が伝わってきて愕然としている。年齢は僕と同じで昭和40年生まれで、だから「ちびまる子ちゃん」に登場するあの世界観は僕が子供の時に見ているものとまったく同じだったという意味もあり、年齢的にのめり込みはしなかったけれど高い関心を持って活動を見守ってきた。それが乳癌で突然の訃報。前兆があったとは聞いておらず普通に仕事とをしていたと思っていただけに、いつからそういう状況になったのかが気に掛かる。「ちびまる子ちゃん」ではお姉さんを演じていた声優の水谷優子さんが同じ乳癌で2年前に亡くなられている。それを見知って検診に行かれてなお今回の訃報に至ったのか、それ以前から検診をしていたのか、それともまったくしていなかったのか。いずれにしてもこれだけ医学が発達しながら、根絶できず働き盛りの人の命を奪ってしまう乳癌という病気に、改めて強く憤るとともに根絶できなければ早期の発見とそして治療に誰もが至れるような環境を、作って欲しいと心から思う。皆無ではないとはいえ男性にはやや縁遠い病気が女性の才能を多く奪ってきた現実が、少しでも改善する方向に向かえばと願って今は静かに追悼する。黙祷。

 情報は流れてきていたけれども正式に、「けものフレンズ」の舞台が作られることになって今度はゆきやまちほーでギンギツネとキタキツネがどったんばったん大騒ぎをしてくれそう。乃木坂46からメンバーが出て演じるみたいで、そこにオカピやマンモスやタヌキやクロヒョウやホワイトタイガーといった前の舞台に出ていた面々が加わり、そして声優チームからもサーバルの日、アライさんとフェネックの日、PPPとマーゲイの日という3パターンでもって舞台が繰り広げられていることになるという。アライさんとフェネックのあの仲むつまじげな姿が枚回観られないおは残念だけれど、俳優と違ってレギュラー仕事とかあると声優さんは長い時間を舞台に取れなくなるからなあ。イワビーが出ないのもそれが理由? ほかの仕事? そこはマーゲイがカバーするから良いのか。マーゲイ凄いすごい。


【8月26日】 それほど騒がなくたって集められる金額を大枚払った上で集めてなおかつ、チャリティというものへの啓蒙にすらもはやなっていない民放の夏恒例のビッグイベントの裏側で、障碍を持つ人とはどういった感じでそこに対して世間はどういった視線を向けてそれがどういった反響を起こすのかを物語の中に描いた「映画 聲の形」を放送してのけたNHKのぶっ込みぶりを、リアルタイムで目の当たりにできなかったのは残念だけれどしっかり録画はしたし、AmazonプライムだかNetflixだかで見ようと思えばいつでも見られるので時折思い返しながら夏の土日だけじゃなく、日々を自分以外の誰かに視線を向けられるよう気をつけていこう。そんな8月最後の週末。

 まだどこも取り上げようとせず、どちらかといえば好奇の視線で眺めていたメディアが多かった中でこれはしっかり存在を世の中に刻むべきだと立ち上がって2回目くらいだったアニサマを記事にして、そして出演アーティストの発表を含めた開催発表会が開かれるようになってかはら毎回出席して紹介に努めてきたにもかかわらず、お前んところはポータルサイトにも転載されないマイナーメディアだからと言わんばかりのスタンスで、今年から取材はさせないと言ってきたことに、イベントの成長にこちらが追いつけず申し訳ないことをしたなあと思い反省をしつつ、そんなアニサマが開かれているさいたま新都心を通り過ぎて大宮を越えて高崎へ。

 吉祥寺でひっそりと始まった「萩尾望都 SF原画展」が全国各地を巡って高崎へと戻ってきて、展示されている点数も倍以上にふくらんでいるとあってアニサマに入れてもらえない身だったことも好機に働いたと理解して、JRの普通に乗って東京から2時間かけて高崎駅へとたどりつき、そこから徒歩数分のところにある高崎市美術館に入って展示してある萩尾望都さんのSF作人の原画やSF文庫などに寄せられたイラストなんかを満喫する。最新作となる「AWAY」なんかの原画もあっていろいろ増えてはいたけれど、やっぱり目が向くのは「百億の昼と千億の夜」であり「スター・レッド」の原稿やイラスト。連載されていた雑誌の表紙絵に使われた星・ペンタ・トゥパールの強いまなざしに見入り、阿修羅王のはだけられた胸元からのぞく膨らみに視線を奪われる。

 とりわけ阿修羅王にはもう目が釘付け。週刊少年チャンピオンで連載されていた頃からの読者ではあるけれど、王と名が付き興福寺の立像でもどちらかといえば少年タイプの阿修羅王が少女で胸があったりしたそのビジュアルに、ローティーンが心を奪われない訳はない。ある意味で憧れであり象徴であり欲望の対象でもあった存在が、原画で目の前に存在することに40年が過ぎてもなお興奮せずにはいられない。ずっとだって見ていられそうだったけれど、残る日数も短くなったからか午前中から結構な人数が観覧していて、いつまでも佇んでいると胡乱に思われかねなかったので1時間ほどで退散。遠く西武池袋で開かれた原画展の頃から、見られるのなら見たいと思い続けている阿修羅王の、セイの生の絵に次に触れられるのはいつになるかなあ。本気で国立新美術館で展覧会を開くべきだよ、今が流行りの漫画家とかに限らず。

 ジャック・ヴァンスの「魔王子シリーズ」の表紙絵の格好良さに改めて惹かれつつ、どうして再刊されないんだろうと思ったり、阿修羅王とメーテルが同居していたりする不思議なポストカードを買ったりしてから退散し、駅まで戻って本屋で秋田書店のチャンピオンコミックス版「百億の昼と千億の夜」をふと購入。もちろん持っているし文庫版も追っている気がするし単行本での1巻物も小学館から出た萩尾望都漫画全集の第2期か何かに張っているものも持っているけど、すぐに出てこないところにあって手元に置いて改めて読んでみたかった。阿修羅王の胸元とかを老眼の顔に近づけ舐めるように見ると、ゴミカスメディア扱いされた憂さも吹き飛ぶか。いやそれは別だからいつかキッチリ文句を言おう。どうやって? 丑三つ時の神社に通うとかして。

 そんな本屋で高崎ならではの昼ご飯ができそうな店がないかとガイドブックをペラリとめくって、駅前にデルムンドという有名なパスタ屋さんがあると分かって立ち寄ってカルボナーラを頂く。なかなかの味わい。マツコ・デラックスのテレビ番組だとミートソーススパゲティにハンバーグがトッピングしてあるハンブルジョアってメニューが話題らしいけど、この暑さで胃腸がダウン気味の中ではさっぱりしたものしか入らなそうだったんで諦める。煮たようなものならパンチョのミートスパにハンバーグを載せれば食べられないこともないからなあ。そうやって食べているうちにどんどんとお客さん。駅前といっても東京都は違う地方都市で人通りなんてないのにすぐ満席になったのはやっぱりマツコ効果か。高崎なんて滅多に行かないけどいつか行く機会があったらハンブルジョア、試してみるか。

 高崎が舞台になった「高崎グラフィティ」って映画が先行で上映されていたみたいだけれど、時間が夕方なんで諦めて離脱。そんな道中で「高崎グラフィティ」のノベライズと同時にリリースされていた樹のえるさんによる「『探偵はフェイクを見抜く」(メディアワークス文庫)をようやく読む。これは凄い。そして素晴らしい。内気だけどネットに聡い男子高校生のコジローが運営する人気街ダネサイトから、アメフット部の指導でも知られる高校教師と女子高生がホテル前にいる画像が拡散し、それが誰か特定されたことで教師は内外から集中砲火。けれども高校教師は事情を説明しようとしなかった。

 そんなそして拡散された画像を見て街でたったひとりという探偵の乃間亜門は、実は事務所に通って体質から電子機器に触れない亜門のサポートをしていたいたコジローを叱りつける。前にコジローから見せられた画像を亜門はすぐフェイクと見破り関心を寄せなかった。そのことに気付かずコジローが興味本位で拡散し、問題が起こったから激怒した。なるほど教師と女子高生は実際に会っていた。けれどもその場所はホテル前ではなかった。背景の落書きと女子高生の持ち物から時間的な矛盾に気付き、それが合成と亜門は気付いた。

 つまりはフェイク。そう聞いてとんでもないことをしたと気づき、コジローは拡散を止めるもののホテルではない場所での逢い引き疑惑は残るが教師は釈明しなかった。それはなぜ……。その理由を探ろうと、コジローがネットを潜って情報を探り亜門が推理で真相へと迫る展開がスリリング。そして浮かび上がったストーリーからは、拡散されたフェイクを打ち消す大変さが浮かんでくる。なおかつそうしたフェイクを利用し、意図的に煽って何かを企む存在も現れる展開もあって、何を真実として見抜くか、その真実に勇気を持ってどこまで寄り添えるかも問われる。さらにその上に壮絶なフェイクも登場。それは何となく想像ができたことだけど、まさかそこまでといった思いも一方にある。人は窮地で味方応援され鼓舞されれば舞い上がってしまうもの。そういった真理操作もまたフェイクのなせる技なのかもしれない。真実を見抜けるか。それは本当に真実なのか。「探偵はフェイクを見抜く」を読んで考えたい。

 高崎からの帰りに上野で降りてTOHOシネマズ上野でポノック短編劇場「ちいさな英雄−カニと卵と透明人間−」をさっと見る。意外じゃないけど子供を連れた親の観客が多かったのはどこかでそういう層に訴求するようなプロモーションが行われていたんだろうか。映画館で予告編を見たってそれで見に行こうと思うには、宮崎駿監督ではないし「メアリと魔女の花」が伸び悩んでいた米林宏昌監督でそこまで広くファミリー層を呼べるとも思えなかったけれど、スタジオジブリの作品っぽさが漂う「カニーニとカニーノ」の絵面か、あるいは百瀬義行監督の「サムライエッグ」が持つ卵アレルギーの少年と母親とうテーマが何かの回路で伝わっていたのか、親子で見ようという観客がやって来ていてそして3本目の山下明彦監督の『透明人間』で怯えて訳が分からなくってぽかーんするんだ。

 その意味であと1本、エンディングに徹底して明るくて弾けるような作品があればオムニバスとして完璧だった気がするけれど、西村義明プロデューサーが参加を希望していたのが高畑勲監督の「平家物語」の冒頭部分とかだっていうからもしかしたら逆算してそれを世間に見せたいがために短編オムニバス企画なんてものをでっち上げた? なんて邪推も浮かんでしまった。個々の作品はとてもとても良いんだけれどまとめた時に訴求先がとっちらかるんだよなあ、この3本だと、というか「透明人間」だけが。大人の視線からの好きさで言えば「透明人間」で、そこに映し出されているものから考えるなら透明で体重もないため鉄アレイで脚を押さえ外出委は消火器を持って重しにする透明人間のサラリーマンが、大変な日々を送る中でもやれることをやろうと頑張る話になっている。

 そうした透明人間の透明さと軽さを絵に描いてのけた技術力やら描写力を称え、あっとかうっとか喋るだけの透明人間を演じたオダギリジョーさんを誉めることも可能。リアルの世界から想像するなら自分という存在が誰からも相手にされず透明になってしまった気持を暗喩として表現しているものであって、だから相手にされていないように見えてもしっかりサラリーマンとして日々を生きてきた。でなきゃコンビニで食べ物も買えない人間がその日まで生き延びているはずないじゃんじゃん。じゃんなんて言ったら「サムライエッグ」の母親に怒られる? その「サムライエッグ」は卵アレルギーに生まれてしまった子供の日々の苦衷を描きつつ、視点はむしろそうした子供を持ってしまった母親の葛藤やら懊悩やらを感じさせつつ、それでも頑張って生きている姿に親なら感動しそうだし、子供もアレルギーを持った子供の大変さに共感を抱きそう。

 「カニーニとカニーノ」のようにアニメ色で塗られておらずどこか絵本のような塗りでもって描かれながらも動きはしっかりでディテールも確か。上手いアニメーションと言えそうで、単体で抜き出していろいろと教育なり保健なりといった分野でかついで回って上映しても受け入れられそうな気がする。完成度は抜群でテーマ性もばっちり。素晴らしい。ただそれだけに、「カニーニとカニーノ」と『透明人間』に挟み込まれて窮屈そう。「カニーニとカニーノ」はこれが「みなしごハッチ」だったら苦闘はしても喰われて死んだりすることはなさそうなのが、この世界観だともしかしてありえるかもと思わせるくらいに弱肉強食的な思想が満ちていた。もしかしたら戻ってきたお母さんカニがぱくっとニジマスか何かに呑まれてしまうんじゃとすら思えたけれど、そこまで残酷なことはせず、お父さんカニとかも含めて危地を脱出できたところで子供たちは安心したんじゃなかろうか。

 でも本当の自然はそんなに甘くない訳で、そこを抉らず感動にそれたのは映画としては正しく教養としては危うかった気もする。表現としては水の透明感とその質量がちゃんと感じられて良かった。泳ぐ感じやながされる感じをよく描いたなあ。上手かった。そんな3本はどれも濃密で45分とかそれくらいしかないにも関わらず、1時間半くらいを映画館にいたような気にさせられた。ここにあと1本があって60分のオムニバスになったらもっと深い館外を得られたかもしれないけれど、それだと逆に作品的にも興行的にも重くなりするから、予告編も含めて1時間くらいでさくっと回して大勢に見てもらうようにしたのが正解かも。1400円とう値段も個人的には妥当かな。テレビシリーズ2話分プラスアルファで1800円とってた映画もあったくらいだし。いやそれはそれで淡島世理ちゃんの爆乳と谷間が楽しめたからおつりが来るくらいだったんだけど。


【8月25日】 メジャーじゃない媒体になんか取材はさせないって埼玉で開催中のアニソンフェスから言われたからじゃなく、今日は最初から幕張メッセで開催のC3AFA TOKYO 2018ってホビー&キャラクターのイベントへ。まだアニソンフェスが2日間開催だった頃はまだキャホビだったイベントを午前中に見てから埼玉へとかけつけたこともあったけれど、そもそも来るなって言われてるんじゃあ転戦の余地はないんで朝から晩まで取材にかけずり回る。まずは展示物をざっと見物。「機動戦士ガンダム」に関連した展示が多いのが特徴で、バンダイとかそのグループの模型が並んでいるのは他のイベントでもあるけれど、ガレージキット系のディーラーのガンダム版権フィギュアが並んでいるのは滅多にない光景。そこを目当てに突っ込んでくる来場者がオープン当初は多かった。

 目新しいものが特にあるわけじゃないけれど、「機動戦士ガンダムNT」でいろいろと評判になっているどこかの彫刻を模した三位一体な奇妙なポーズのポスターを眺めているとやっぱりどこか不思議。でもそれに見慣れるとキャラクターが普通に立っているPOPが逆におかしく見える。これ誰? ってな具合。強烈なポーズで世に売り出すとそれが特徴になるっていうのは芸人と変わらないのかもしれない。アニメでは「ガンダムビルドダイバーズ」関連もそれなりに。ステージイベントがあってただのプラモデルを作ってバトルするだけの話かと思っていたら、人工知性めいた話があって悲劇的でシリアスな展開になっているらしく、ちょっとこれは見なくてはいけないと思えてきた。あとアヤメさんという忍者めいた女子の表情とか胸とかが気になった。残る話数だけでも録画するか。再放送はないかなあ。

 サンスター文具が毎年出しているシャア・アズナブルの手帳の最新版などが並んでガンダム好きの関心を惹いていた。「機動戦士ガンダムUC」だと「AE社製 ユニコーンガンダム ロードバイク」ってのもあったけれどこれは前に出たZEONIC社製シャア専用ロードバイクのシリーズってことになるのかな。白地にカーボンフレームのものは緑、アルミフレームのものあ赤でユニコーン関連のペイントとかロゴが入れてあってそれっぽく見せる。でも変形してデストロイモードになることはない。そこは安心。百式をモチーフにしたものも並んでいたけどやっぱりもうちょっと金色じゃないと。コルナゴのオロみたくメッキを施すべきだよなあ。そんな自転車を知っている人が今時いるか知らないけれど。

 ガンダム関連以外だと、今年が放送から40周年となる「無敵鋼人ダイターン3」を2メートルの大きさで再現したライフサイズスタチューが造形工房密林のブースにあって、「この日輪の輝きを恐れるのなら、かかって来い!!」のポーズを決めていてもうひれ伏したくなった。足が長くて本当に格好いい。家に置いておきたいけれど置く場所もなければ79万8000円を出して買うお金もないのだった。「ダイターン3」ならマッハパトロールがテレビと同じようにマッハアタッカーへと変形するダイキャストシリーズも出してくれるみたい。モックが置いてあったけれどちゃんと変形してみせてくれた。値段は3万円くらいになるかなあ。でもちょっと気になった。レイカとビューティーも付いてこないかなあ。

 「ガンダムビルドダイバーズ」のイベントを見てから次のイベントまで間があったんで、バンダイナムコアーツのブースで「境界線上のホライゾン」の第1期第1話を見て過ごす。今にして思えばオリオトライ・真喜子と葵・トーリとの関係に意味深なところもあるけれど、当時の真喜子だけはそれを知っていていったい何を思ったかが気になった。文字通りのエロ親父と思ったか。別の感慨を得ていたのか。そんな第1話は基本的に真喜子の尻であり股間であり下半身であり脚であって胸から笑顔のエピソードってところ。特に主人公でもない教師にあそこまで活躍させるアニメもないけれど、それを通して3年梅組という主要キャラクターたちの雰囲気とか属性とかをさらりと紹介してのけたんだから上手いというか意味があったというか。

 もちろん初見では誰が誰で何をしているか、その世界観ともども理解は不能だけれど、キャラクターの可愛らしさとちょっとのエロさ、そして意味深な背景説明が気になって文庫本の第1巻を読み始めたらあとはもう泥沼で、そのまま次へ次へと読んでいってしまうことになるんじゃなかろーか。僕も最初は読んでいたけど途中で積ん読になっていたものが、アニメの放送開始を多分キャラホビのステージで聞き、そして始まったテレビアニメーションを見てこれはと気になり文庫へと戻ってその頃から発売が始まった第4巻の上あたりあまでを一気に読んだものなあ。第3巻の壮絶な戦いの場面とかもう手に汗握って完全にハメられた。そこから今に至るまでファンで居続けているからアニメ化って結構重要だと分かっている。今またBlu−rayボックス化があってオールナイトの上映があって、文庫本を読み始める人がいると良いと思うけど、僕の頃で既刊6冊から7冊だったのが今はページ数も含めれば無量大数。そこいんどうやって引きずり込むか。やっぱりアニメの第3期が必要だよなあ。それか最新エピソードの映画化とか。期待したいけど、さてはて。

 途中で会場を抜けてプレナ幕張のバーガーキングで電気と栄養を補給。戻ってDeNAと創通と文化放送と毎日放送が新しいアニメの原作を募るために始めたProject ANIMAってプロジェクトの第1回目の受賞作発表会を見物する。「SF・ロボットアニメ部門」で受賞作は「マクロスΔ」でおなじみのサテライトでアニメ化されるってことで「マクロス」シリーズの河森正治さんも審査に加わったみたいで、それで大賞はジャンルにハマってしまうものが多かったから無しとしつつ、準大賞として戌井猫太郎さんという前にエブリスタ発でSKYHIGH文庫から1冊「青い桜と千年きつね」を刊行していた人が応募した「削岩ラビリンスマーカー」という作品が選ばれた。

 どんなストーリーかはいずれアニメになった時の楽しみとしつつあらすじだけなら地下のコロニーで過ごすようになった人類の中から親子が旅をしながらいろいろと経験していくストーリーが綴られているみたい。地下都市っていうと「天元突破グレンラガン」を思い出すけど、あれは封じ込められた人類が地上へと出て反攻していく話だった。「削岩ラビリンスマーカー」は地下は自明としてその間を行き来しながらいろいろな世界を見物していくって展開になるのかな。それだと地下版「キノの旅」か。緑川光さんは「戦闘メカザブングル」を思い出したというからジロン・アモスよろしく荒野を旅するストーリーなんかを楽しめるのかもしれない。アニメ化されて100万円もらえて声優さんと出会えるのならちょっと応募してみたかったけれど、現在募集中なのは「キッズ・ゲームアニメ部門」でちょっと難しそう。強烈なキャラクターでありながら長いストーリーを持たせる必要があるキッズアニメ。それをどうやって生み出すか。普通に難しいキッズアニメを素人で考え出せるのか。そこはだから挑戦か。桃山みらいは言っている。「やってみなくちゃわからない、わからないならやってみよう」。そういうことで。


【8月24日】 ちょっと頼まれて今年の日本SF大賞に投票を誘う文章を書いた時に、せっかくだから、僕にとっての日本SF大賞との出会いを振り返ってみようといろいろ描いたけど、今年獲って欲しい作品を並べていたら文字数が増えすぎたんで添えるのは諦め、こっちに改めて描いておく。僕は最初の受賞作が決まった時に知ったのだろうか。それとも創設されたことを新聞で読んで知ったのだろうか。日本SF大賞という賞が日本SF作家クラブによって立ち上げられて、名を知りその作品を愛読してきたSF作家の方たちが選考委員となって、一年で一番のSF作品を決定する。中学生だった僕はそんなニュースを地元の中日新聞で読んだのかもしれないし、当時はまだ本屋で立ち読みしていたSFマガジンか何かで知ったのかもしれない。

 どちらにしても、日本SF大賞が創設される、あるいは受賞作が発表されたというニュースは、中学から高校になるあたりの僕のところにもしっかりと届いた。そしてワクワクした。自分が大好きで読んでいても、まわりでは誰も気にしていないSFというものに関するニュースが新聞に出ていることが嬉しかったし、憧れのSF作家の人たちがどんなSFを選びだして、僕たちに教えてくれるのかと思うと興奮した。

 もしかしたら第一回の堀晃さんによる「太陽風交点」は、受賞が決まって日本SF大賞という名前とともに初めて知ったかもしれない。その後、SFマガジンを読み始めたこともあって第2回以降は毎年毎年、どんな作品が受賞するかを興味を持ってながめていた。そこにぶっ込まれたのが井上ひさしさんの「吉里吉里人」。仰天した。日本国内にいきなり独立国が立ち上がる空想めいた展開をSF好きとしてSFだと確信していても、SFの人といった印象がなかった井上ひさしさんだっただけに、作品がSFだと思えればそれはSFと言って良いんだという確信を得た。

 そして第4回に大友克洋の「童夢」が来た時は、読めばSFとしか言いようがない作品でも、漫画は選ばれないだろうといった諦めをぶちこわされた。SFは自由だ。ジャンルは何であっても表現がどうであっても、SFを感じられればそれはSFだと思って良いんだ。そうした思いをプロの側でも持っていて、純文学でも漫画でも映画でもアニメーションでも評論でも、SFとして認めて賞を与えて世の中に存在を喧伝する。最初の4回で日本SF大賞が示したジャンルオーバーにしてマルチメディアな視野は、僕の“何でもあり”のSFに対する考えに少なからず影響を与えているように思う。もとより持っていた、アニメーションや漫画からSFを感じていた気持にお墨付きを与え、解放してくれたのだとも言える。

  そこから30余年。今はSFを何かのジャンルに固定しない意識が空気のようになって世の中を満たしている。あれもSFこれもSFと言うことは自分のSFとは何かという芯を持っていない現れでもあって、あまり広言して良いものではないかもしれないけれど、現実にあれもこれもそれれもどれもSFと言いたくなるくらいに、SF的なシチュエーションやアイデアが溢れかえっているし、現実世界そのものが進化したテクノロジーのおかげでSFじみている。新型のaiboなんてどう見たってSFだろうに。甘噛みしてくるあの態度に1度触れたらもう離れられない。家に余裕があったら買ってたなあ。

 あと、ARPというユークスがやっている人工現実のパフォーマーも昔夢見たバーチャルアイドルが現実化したもので、なおかつ目の前に現れるという夢も実現してしまっている。そうしたものをSFと言って良い時代でもあるけれど、小説だってSFが結構な頻度で出ているからそちらを優先するか否か、迷うところでおある。だから言えることは、臆さず何でも日本SF大賞にエントリーしてってこと。それを見て何を選んで最終候補に持っていくかは日本SF坂クラブ員の責任なのだから。ってそれもう他人事じゃなかった。ゲームとかやってないしなあ。何かゲームが候補に挙がってくるかなあ。

 音楽フェスにデカい媒体を呼べば、広い範囲に情報が伝播してそのフェスの宣伝になることは確かだけれど、デカい媒体は広い範囲を対象にしていることもあって、微に入り細を穿って裏側を読み今はまだ主流とはいえない情報を敢えて拾って報じるようなことはあまりしない。上澄みの部分をすくって報じるだけで手一杯。それでも広く伝わったことをきっと取材させた側は喜ぶんだろう。ただ、フェスのようなイベントはメジャーどころが出る一方で、まだまだこれからといった人たちも出てきて、そうした人たちを見てこれは凄いと気付くことおある。そうした気づきをその取材ではまだ出さなくても、後の取材において参考にして大きく取り上げ有名になっていくための道を作ることもある。

 そうしたフェスにだからあまりデカくはないけど絡めてからいろいろと拾っていこうとする媒体がいることに、主催者というよりはフェスにアーティストを送り込んでいるプロダクションとかレコード会社には意味があることのような気がする。でも、デカい媒体しか呼ばなくなってしまったフェスでは、いくらこれから来るかも知れないアーティストを送りこんだところで、相手にされず気付かれないままで終わってしまう。もちろん会場に来ているファンは気付いて口コミで広げてくれるだろう。それでブレイクするケースだってあるけれど、デカくはなくても媒体には個人に真下伝播力がある訳で、それを無視することで次にくるアーティストと読者との断絶を呼ぶことを、事務所やレコード会社は本意としているのか。ちょっと聞いてみたくなった。いや別に何の話ではないけれど。一般論一般論。

 というわけで埼玉のフェスに行かずに済んだのでシネ・リーブル池袋で坂本サク監督の「アラーニェの虫籠」を黒坂圭太監督のトークイベント付きで見る。長編アニメーションの「緑子/MIDORI−KO」をたったひとりで全部描いて作り上げたアニメーション監督で、同様にひとりで「アラーニェの虫籠」を作り上げた坂本サク監督が影響を受けてスタートアップのイベントに招いて話してもらったとか。その縁で今回も登壇したんだけれど世界的に知られたアニメーション監督が来て喋るイベントにしてはあまり人数がいなかったのは、やっぱり世間に作品の存在が知られていないからなのか。「カメラを止めるな!」があれだけ話題になっても、だったら邦画のインディーズに面白いのがあるからと見渡して見に行き話題にする人がいないのと同じ。流行っているから行くし行くから流行るスパイラルから誰も出てこないんだよなあ、最近のエンターテインメントって。

 それは「この世界の片隅に」でも重々承知で、あれだけ話題にされてもだったら他のアニメーション映画をってならないこの現象をどうにかしたいもの。だから2度目を見に行ってそして今回は構成が全部分かっているからいきなりのどっきりめいた展開でビビることはなかったけれど、それだけじっくりと展開を眺めることができて設定がだんだんと入ってきて、それゆえにいったいどうしてそうなってしまうんだろうといった謎も強くわいてくる。登場する3人の男性、民俗学研究者の時世、昆虫を扱う呪術師の斎恩、暗躍する謎の美青年・未可耶の誰もがクールで格好いいのに活躍を見せないまま何処かへ。というか死んでしまうんだけれど格好良さでは飛び抜けていた未可耶なんて出てきたと思ったらはい退場。その状況でいったいどんな力が働いたのか、余計に気になって来た。

 ラストにかけての展開で、もしかしたらこれはすべてせん妄の中に起こったビジョンだったんじゃないかと思わせるところがあったけれど、そこはまったく別のフェイズでそれ以前の段階までで、ヒロインとして屹立しているりんというふわふわとした髪をした女子大生のストーリーが幻想の上ではなく物語世界上のリアルとして成立しているらしい。だとしたら起こる現象もやっぱりリアルか。あの迷宮のような形をして、地下にとてつもなく秘密を持った巨大なマンションはいったい何のために作られたのか、そこにりんは理由があって誘い込まれたのか偶然に入居して引きずり込まれたのか。そういった部分は未だ判然としないだけにあと何度か通って真相に迫りたいところ。坂本サク監督の登壇するイベントもまだあるし、通ってみようかなあ、もう1度2度。


【8月23日】 これは相当に面白い。角川キャラクター小説大賞を「コハルノートにようこそ」で受賞しデビューした石井颯良さんによる新作「川越仲人処のおむすびさん」(角川文庫、640円)は埼玉県にある小江戸のような川越にある結婚相談所、川越仲人処で働き始めて3年目の桐野絲生という女性が主人公。何でも成婚率100%を誇っているそうで、その理由がどうやら仲人処を護っている神様がいるそうで、その見習いとしてもふもふとした白い兎が派遣されてきた。絲生といっしょに回ることが多くなったけれど、そんな絲生になぜか<変調子>と隠語で語られる難しいクライアントが次々と現れる。

 春日井葵という男はイケメンで建築の仕事をしていて話し方も悪くはないけどどこか仮面を被っているような感じ。明かしたところでは結婚する気はあまりなく、ただ親への体面で見合いをしていりょうな体を装っていたいらしい。そういうおクライアントは基本的に断っているはずなのに、春日井はどうやら処長の知り合いからの紹介らしく絲生のクライアントで居続ける。そして野中朱莉という女性。着飾っていてインスタグラムにインスタ映えする食事の写真を多く貼り付けているものの、所作は妙になめらかだったりするところに<変調子>の雰囲気を感じ取る。年収1000万円以上を臨んだため春日井を相手にしたら自分を見ているようだと感じて拒絶した。

 それは2人ともどこか自分を偽っているところがあるから。同族嫌悪だったらしい朱莉の本当の心情を探るため、彼女がインスタグラムにあげていた店をユイと名付け人間の姿に変身した神様見習いを連れて歩き回り、誰かとではなく1人で尋ねた店での気合いバリバリではない写真を見て、絲生は朱莉の本当の姿を感じ取り、彼女が本当に望んでいるだろう実直な左官の男性を紹介してうまくいく。そうした展開の中にユイの思ったことをストレートに言ってしまう神様ならではの遠慮のなさがあり、他人の観察に長けた春日井の示唆もあって絲生は難しい案件を以後も次々とクリアしていく。

 そうした中に漂う春日井という男の思い。一方で再婚を願っていた母親に遠慮をさせたかもしれないという思いから自分を大切に思えない絲生の心情。他人には幸せになって欲しくても自分の幸せを考えない絲生に春日井がドSっぽさを見せつつ優しさも注いだ果てにいったい何が起こる。もしかしたらユイは絲生と春日井との縁をも結んでしまう神様だったのか。そんな関心も誘いつつ、結婚を望む人の心理とそこに立ちふさがるさまざまな葛藤をとらえて描き、どうやったら解きほぐせるかも描いていった連作集。読めばもしかしたら結婚というものに臆している人ならちょっと考えてみようかと思うかも。でも成婚率100%の仲人処なんてあるのかな。あるんだろうな川越に。だったら行くしかないか川越に。

 少年ジャンプと少年サンデーと少年マガジンと少年チャンピオンと少年キングと月刊少年ジャンプと少年サンデー増刊と月刊少年マガジンとヤングジャンプとビックコミックスピリッツとコミックリュウとあと幾つかの漫画雑誌を読んでそして「ぱふ」の紹介を読んでいればだいたいの漫画に目が届いた1980年代の前半とは状況が変わってまるで知らない漫画が毎日のように大量に連載され刊行されている上に、ネットのあちらこちらで連載されていたりする状況では自分が知らない漫画の方が大半であることは仕方が無い。それでも「次にくるマンガ大賞2018」のノミネート作品と受賞作品のほとんどと読んでなかったりする状況は、やっぱり自分の感度が鈍っていると見るべきか、もはや1人の人間では理解ができないくらいに漫画の世界が広がっている現れか。

 単行本なら5冊まで、Web連載も2年くらいだったか、そんな範囲でまだ新しい漫画を選んで投票して“次に来る”漫画を選び出す「次にくるマンガ大賞2018」の発表会があって見物に。ノミネートされている時点で知っている漫画が「ランウェイで笑って」とか「君を死なせないための物語」くらいしかなく、Webコミックにいたってはほぼ知らない漫画だったりしてここから次に何が来るか、自分ではまったく分からなかった。でもというかだからこし、こういう賞が開かれて大勢に漫画の存在を知らしめる意味はあってこれで知ったことで読んでみようという気になったし、実際にコミック部門で1位を獲得した小西明日翔の「来世は他人がいい」を2巻までネットで買ってしまった。読みたい漫画を手元ですぐに読める良い時代。ヤクザの家に生まれた少女がヤクザと婚約者になって起こる騒動を描いたものらしい。

 設定から何となく想像はつくけれど、笑いがあって怖くもあってそれでも笑えるところがあるというのは、徹頭徹尾ギャグではなくって極道ならではのシリアスな部分もあるってことか。それも含めて読んで考えよう。「マンガ大賞2019」の方にも影響を与えるかなあ。Webコミックの方はTwitterで連載されているというしろまんたさんの「先輩がうざい後輩の話」で読めば誰もが「尊い」と思えるくらいに癒やしに満ちた話らしいけど、自分のタイムラインにはまるでひかっかって来なかった。趣味が違うと読んでいる層も違うってことなのかなあ。「ヲタクに恋は難しい」は伝わってきていたからやっぱり趣味のズレだろう。そのちょっとしたズレでまるですれ違ってしまうところに、今の漫画の数がいっぱい出てそれなりに人気となりながら国民的となるヒットが出ない理由があるのかも。

 両部門の3位までで興味がわいたのはWeb部門で3位の「極道主夫」か。元極道が主夫として暮らしているんだけれど仕草に極道時代の名残が出るし、警察なんかも見張っていたりしてその行動を勘違いしてしまう。そうしたギャップが愉快な上に画力が圧倒的で見ていてこれは凄そう。買って見るか単行本も出ているみたいだし。コミック部門で3位の「錦田警部はどろぼうがお好き」は怪盗を追いかけ続ける警部のどこか恋愛めいた香りが漂う1作らしい。そうした興味とは別に「名探偵コナン」の青山剛昌さんがコメントを寄せていたのが驚きだったけれど、作者がコナンのスピンオフ作品を描いている縁ってことみたい。つまりはそれだけの実力派なんだけれど気付かなかったなあ。漫画の森はうっそうと茂って入ったらもう出られない。

 桜桃サワーは何となく分かるけれど斜陽ジャンバラヤってのが出所不明だった阿佐ヶ谷ロフトAでの佐藤友哉さんによる新刊「転生!太宰治 転生して、すみません」の刊行直前イベントは、イベントが始まる前にどちらも売り切れてしまうといった不手際でこれを食べに来たファンには残念だったかもしれないけれど、ただのピーチサワーでありジャンバラヤだったんで別に無理して食べる必要はなかったかもしれない。「この世界の片隅に」のイベントで出た楠公飯みたいに普段はなかなか食べられないものではないから。そんなイベントは、佐藤友哉さんによる新刊が、2017年に転生した太宰治が心中をして原宿に行ってドルガバを買ってメイド喫茶に行ってライトノベルを読んで講談社にも行くといった内容 であることが明かされ、ゲストとして登壇した滝本竜彦さんが絶賛をしてこれは読まなくてはと思わされた。

 絶筆となった「グッド・バイ」あたりでラノベっぽさを持っていた太宰治はもしかしたら70年早すぎた作家かもしれず、現在Twitterとかアカウントを持っていたら140字の中に格好いい言葉を盛り込み大勢からきゃーきゃー言われていたかもしれない。そんな可能性を描いた作品であり、新本格の密室のごとくに転生というギミックを大勢が使い回して使い倒しながらオリジナリティを出しているだけであって、またかと思うことも厳禁。どこか明るくて前向きな太宰治の描写が、人生に倦み疲れて心中を選んだことで日本文学界に影であり憑きものなっているのを払拭し、日本の文学界を新しいフェーズに移行させることになるかもしれない。そんな重要な位置づけを持った本。どんな読まれ方をするのか。ポップでキュートな本として女性にも受け入れられるのか。発売を待ちたい。


【8月22日】 人は一生のうちに何度、生の萩本欽一さんを見られるかというと一生見ないで過ごす人が億人はいたりする状況で、すぐ目の前に萩本欽一さんがいてPlayStation VRを装着して1964年の渋谷の街が再現されたVR空間を散策する姿が見られたのはやっぱり貴重と言えるんじゃなかろーか。ライゾマティクスの齋藤精一代表とか、日本テレビの敏腕プロデューサーだった土屋敏男さんとかが立ち上げた、VRの東京を作ろうとするプロジェクトの最初の取り組みとして渋谷の再現が行われていて、その中間報告会みたいなものが21日に開かれて行ったら欽ちゃんがいた。

 何でもプロジェクトの賛助会員をしているそうで、土屋さんつながりだとは思うけれども結構な歳になってなおVRみたいなものへの興味を失わないところはさすがなもの。1964年の渋谷には自身が住んでいたらしく、見てきっといろいろと思い出したものもあっただろう。建物は低いけれど開発は行われていて東急東横線の渋谷駅のあのかまぼこ状になった屋根はもうあったし、東急文化会館も建っていてパンテオンなんかが入っていた。五島プラネタリウムはまだ稼働していただろうなあ。僕が行った頃はドーム型シアターめいた使われ方がされていて、1度ガンダムか何かの発表会が行われたっけ。ちょっと思い出した。

 今はもうないそんな建物なんかが体感できるVR。面白いのはただ想像でモデリングするんじゃなく、一般の人とか東急や渋谷区といった組織から、当時の渋谷の街並みなんかが写った写真を募ってスキャンしVR内にはっていくという点で、よりリアルで鮮明な当時の渋谷の街を目の当たりにできる。まだ全部埋まっている訳ではなく白い部分も結構あったんで、欽ちゃんのような人が試すことによって情報が広まり渋谷が写った写真を持ち寄ってくれる人が増え、充実していってくれると楽しいかも。欽ちゃんはそれじゃあ甘い、時代なんて関係なく集め場所も函館だって集めて日本中をVRにしちゃえってなことを言っていた。そういうスケールの大きなことをさらりと言ってしまえるのもやっぱり魂のアップデートが常に行われている現れか。ああいう老い方、したいなあ。そこまでもたないか、仕事も寿命も。

 坂本サクさんが1人で監督して制作したアニメーション映画「アラーニェの虫籠」を観た。とてもピーキーでスリリングなアニメーション。それでいてスクリーンに目を釘付けにする演出力展開力絵画力音響力持っていて、最初から最後まで関心を持って行かれ続けた。怖くて厳しくて寂しくもあって悲しいけどやっぱり怖い。すごい映画だ。誰もが1度は観ておくべきだ。ジャンルとしては多分ホラーに入るだろう。入居したマンションが不動産屋では新しくて人気で満員なんで内見無しに入居しないとと言われたものが、実際は巨大なだけでほとんど廃墟で住人たちもどこか怪しげだったりする。

 そんなマンションで暮らすりんという多分大学生の女性がいたけれど、過去に少し痛い記憶があっていろいろとプレッシャーを受けている上に、周囲に虫が現れるようになってそれに迫られているような感じすら味わうようになる。おまけに近隣では首が真横に折れた女性の死体が次々に現れ誰かが襲っているような描写も。猟奇的な連続殺人なのかサスペンス的な虫による襲撃なのかホラー的なゾンビものなのか。いろいろと浮かぶ要素が渾然となって進んでいく中、花澤香菜さんが演じるりんは虫について調べ事情に詳しい人や呪術を使ってそうな少年や連続殺人を犯してそうなフードの人物に出会い助けられたり襲われたりしていった先。

 40年前の奇病が浮かびさらに以前の太平洋戦争にまつわる実験も浮かんで状況はSFめいた雰囲気も漂ってくる。当初は神経を病んだ少女が見る幻想の範疇かと思ったら、世界がリアルにパニックになる中でりんも襲われ逃げだし戦って生き延びそしてそこで自分自身の過去と対峙し、新しい目覚めを得る。なんだ夢落ちか? いやいやそうではなかったといった展開がハッピーエンドではない恐怖のビジョンを突きつけてくる。

 1本のきっちりとしたストーリーがあって伏線がばらまかれ回収されていくような分かりやすさはなく、さまざまな断片がつづられ間を置いて関わり最後に一体となるようなテクニカルな構成があって、ややもすればとっちらかった印象になるところを、それぞれの場面で恐怖に誘う演出があって、音響面でも神経を逆なでし恐怖を煽るようなところがあって見ていて目を離せない。そんな繰り返しの中でだんだんと中核となる筋めいたものもつかめて追っていけるといった寸法。でもやっぱり分かりづらいところもあるかなあ。今月くらいで終わってしまうんで見られる機会も少ないけれど、行けるなら行って置いた方が良いと思うよ。

 振り返れば青木タクトさんの「アジール・セッション」があって宇木敦哉さんの「センコロール」があって吉浦康裕さんの「イヴの時間」があって粟津順さんの「プランゼット」もあったりと、個人クリエイターが前面に出てその感性やスキルをぶち込んだアニメーション映画を作り劇場で上映していた時代があった。あの時代の商業作品ではないけれどもエンターテインメント性に富んだアニメーション映画をいっぱい観られた興奮が、「アラーニェの虫籠」を見て再び起こってきた。クラウドファンディングも出来る時代だけにこうしたインディペンデントでオリジナリティがあってピーキーでスタイリッシュなアニメーション映画が、もっとたくさん出てきてくれると嬉しいかもしれない。

 せっかくだからと早起きをしてCEDEC2018へ。宮本茂さんの講演は誰かが記事にするだろうから聴かずにインタラクティブセッションを見て回ってVR餅つきだとか脳波コントローラーといったものを見て回って未来のエンターテインメントに何か使えるんだろうかどうなんだろうかと考える。テクノロジーとしては可能性があっても実際のプレイに落とし込むとなると機材の問題とかあって大変だろうしなあ。ただ名城大学によるVR餅つきは杵の先についた磁石が磁性体の袋を持ち上げる感触が、本当の餅つきでねばついた持ちを引っ張る感じにそっくりで、よくもまあここまで似せたものだと感心する。ワイヤーで引っ張って抵抗感を出しているところがアイデアか。去年のIVRCに出ていたみたいだけれど、行列が出来ていたかで試さなかった。今回出来て良かった。また機会があったら試したいけど、どこか本格的にVRアトラクションとして採用しない?

 VRといえば施設型VRの雄ともいえるハシラスが講演していて、コンシューマーVRも出てきているけど斬新な体験はやっぱり施設型VRだねえ、他の分野への転換も聞くし可能性がいっぱいだねえってな話をしてくれた。個人的には同感。どこまでいってもVR映像を見るだけのコンシューマーVRよりは体感させてくれる施設型VRの方がいろいろとやってて楽しいから。ただオペレーションの問題があって人出がかかるし脱着も面倒という点を、ハシラスでは被ったまま同じ空間にある幾つものVRアトラクションを順ぐりに試せるようなハシラスパーク的なものを作るとか。東京ゲームショウ2018に登場してくるようなんで期待大。いったいどれだけの規模になるのかなあ。


【8月21日】 小川一水さんの「回転翼の天使―ジュエルボックス・ナビゲイター」からずいぶんと久々にライトノベル系のヘリコプター物として喜多川信さん「空飛ぶ卵の右舷砲」(ガガガ文庫)が出たと思ったら、今度は上杉託也さんの「ハーレム・スコードロン」(ファンタジア文庫)というヘリコプター物が出た。防衛が民間化された日本では、戦力が均等化され大量破壊兵器も使えなくなっている世界的な軍事情勢の中、防衛は航空部隊が担いヘテロなどに対応しつつ、リコプターを主に操る部隊の養成学校もあって、そこで次代を担うパイロットが学んでいた。

 その養成学校に京塚結人という、現在は運送屋を営む父親の会社でヘリコプターを使い海を越えて物を運ぶ仕事をしていた少年が、配達先で追われている少女を見つけて助けたついでにヘリコプターでドッグファイトを演じ、結構な技量を見せたことが評価され、スカウトされて入学することになる。するとそこに幼なじみの少女が先輩としていて、かつて告白されながらもそれを罰ゲームだと勘違いした結人が振ったことからツンツンしている彼女に半ばしごかれつつ、好かれもしながら日々の訓練に臨む。

 ほかにも結人のちょっとしたアドバイスが効いて養成学校に入学できた少女や、パイロットとしても整備士としても優秀ながら話し下手の少女もいて、彼女たちに好かれもみくちゃにされる結人の難というハーレムか。まあ才能があるんだから仕方が無いとはいえ、羨ましいといった憤りも浮かぶ。そんな状況が一変。優れた飛行機を次々と開発し、戦力の均衡を崩す可能性を持っている謎の人物を狙ったテロが発生し、その解決に結人たちが向かう。異世界とか異星物とかまったく出ず、範疇としてはミリタリー小説といった面持ちだけれど、外交や政治も含めてライトノベルとしてあまり厳密には描かれない。もっぱらヘリコプターどうしの空戦描写に筆は割かれていて、スリリングな展開を楽しめる。何より自分でもヘリコプターが操縦してみたくなる小説。シミュレーターなんてどこかにあるのかなあ。

 こちらは一種の戦記物。あるいは内政と外交と軍事を統合したポリティカルファンタジーとも言えそうなのが上総明大さんの「ヒトよ、最弱なる牙を以て世界を灯す剣となれ グラファリア叙事詩」(ファンタジア文庫)。人間世界でいうところの600年くらい前に、ヴァンパイアやダークエルフやゴブリンやほか人類とは違った種族が長く虐げられていた境遇を脱して反攻し、巨大な竜が暴れ回っている中を人類に勝利して世界の主導権を得る。大陸にそれぞれに国を築いて行く中、人類は奴隷の身分まで落とされ虐げられたり惨殺されたりして数を減らしていった。そうした中でエーテルを操る力を持ったエーテリオンと呼ばれる少し強い人類から、4人の若者が命脈を保ってきた隠れ里めいた場所から抜けだしてダークエルフを頼るとするものの出た瞬間に故郷は壊滅し、そして旅の途中で3人が命を落としてひとり、ジノだけがヴァンパイアの人間狩りに捕まりヴァンパイアの公国の辺境へと連れて行かれる。

 そこでも隔離され奴隷のように働かせていたジノだったけれど、全身から地を搾り取られそうになる危機を機転で脱し、そして皇族ながらも辺境に追いやられた格好の2番目の皇位継承権を持った少女ヘネシーに巧みに近づき自分の才覚を感じさせ、奴隷の身から救い出させて一種アドバイザーとしての地位を得て、持てる知識を駆使して辺境の経済を改革し、ヘネシーを気にせずに振る舞っていた軍務と総務のトップをヘネシーの下に付かせて体制の改革を始める。これが成功して領地は潤ったものの、そこに凶事が。暗愚な王太子がどういう訳か急死した父大公の後を継いで権勢を振るい始める。自分の身が危ういヘネシーはジノとともに対抗し、いずれ国を奪うための戦いをスタートさせる。

 道を切り開き、港湾を整備し、流通を促して国を富ませつつ、軍備はいたずらに強化せず大公や王太子に二心のないことを世に示して攻め滅ぼされないよう配慮するジノの才知を存分の楽しめる本。軍事の才すらあって大将軍を相手にストラテジックな腕前を競うゲームで圧勝。その才能を認めさせることでラストのある意味で悲劇的な決戦へと挑ませる。数百年を生きているヴァンパイアにとって死とはいったいどういう意味があるんだろう。やっぱり怖いのかそれとも。そんな興味をかきたてられつつ、その非道ともいえる計略の先、難局をしのいだヘネシーとジノがどうやってさらなる難題をクリアしていくかが今は気になるだけに早く続きが読みたい。でも5年10年のスパンだとジノがおっさんになってしまうからなあ。そうならないで一気に決着をつけさせるのか。暗愚な王太子の聡明な息子の出方も気になるなあ。

 週刊誌の煽り体質は困ったもので、針小棒大どころかフェイクに近い見出しでもって煽りアクセスを稼ごうとするのはもはや罪だろうとすら思えてくるし、そうした週刊誌による煽り上等の記事を表面ではそうではないと言いつつ、割と後押ししている告発者の言動も今の段階でちょっと不用意なような気がして成らない。ことが裁判に及ぶ話だけに何を言うかも一言一句、弁護士としっかり相談しておくべきなんだけれど、主張においてやや見当がズレているところがあってそこを突っ込まれた時、告発者としての立場に揺らぎが招じて後々哀しいことになるような気がする。

 何の話って「カメラを止めるな!」の話。ずっと前から上田慎一郎監督は元ネタに舞台があることは話してて、そこからインスパイアされたことも表明していて隠して完全オリジナルの凄い脚本を書き上げたとは言ってない。ところが、その元ネタになった劇団の演出家の人が、舞台ではあくまでも演出家であってクレジット上重要な脚本家ではなかったりするにも関わらず、自分が原作者であると言いそして「カメラを止めるな!」は自分の原作が元になっているんだからクレジットは原案ではなく原作と表記すべきと言い出した。

 これはどうだろう。クリエイターの発想には深い敬意を表するべきなのは当然としても、状況設定は変えセリフも変えられ構造にはインスパイアな部分がある映画の原作を舞台としてしまって良いかは誰もが迷うところだろう。原案としただけでも十分な気がするけれど、「銀魂」の映画は漫画「銀魂」とはずいぶんと違うのに原作を銘打ってると言ってちょっと原作というものの理解に混乱を来している感じ。映画「銀魂」は漫画「銀魂」のストーリーをなぞりつつ映画のアドリブを入れたもので、漫画が原作でなければ何なんだってところ。「カメラを止めるな!」とは事情が違う。そこに考慮を入れずに引き合いに出しているところに弁護士を入れていない不用意さが漂う。

 そして以前の舞台の脚本家や出演俳優が、企画開発協力にちゃんと名前を連ねていて、そこは事後承諾ではあっても承諾していることが明らかにされている。さらに言うなら拡大公開でアスミック・エースが配給を始めるにあたって、権利関係を整理し明確にしたのか原案として演出家の名前もクレジットされている。そこで相応の話し合いがあり、納得もられたんだろう。そうした契約をぶっ飛ばすように告発し、週刊誌が針小棒大を繰り出して来たから映画会社としてもいろいろ言いたいことがある模様。プロデュース上での不用意はあったかもしれないし、もっと誠意だって示せたかもしれないけれど、それでも契約後のちゃぶ台返しは裁判的には不利になるんじゃないかなあ。弁護士は行けるとかいったそうだけれど、契約書とかちゃんと見ているんだろうか。ちょっとやり過ぎたとなって拳を卸、双方が納得して収まれば年末の賞レースにも支障なくなるんだけれど。さてもさても。

 代々木体育館から日本武道館に開催が移ったあたりからリリースが出れば記事にし、文化放送などで出演アーティストの発表会があればそれにも出て記事にし、忘れもしない2011年3月11日の出演アーティスト発表会も文化放送で聞いて会社に戻ったところで東日本大震災に見舞われ、AnimeJapanで出演アーティストのラインアップ発表会が開かれるようになってからもずっと聞いて記事にしてきた。まだ世間がアニソンなんてと思っていた時代、どこも記事になんて取り上げてなかった頃から、アニソンのライブは日本が誇るコンテンツになるといった思いで紹介に努め、会場を移して規模を大きくし日程も長くなっていった現場にも足を運んで様子を見てきたけれど、今年はポータルサイトに転載されて大きく広まるサイトじゃなければメディアじゃないといった感じになったみたい。確かに媒体力は足りないんで仕方が無いとは思うものの、少しは寂しさも覚えるのだった。というわけで週末に僕は埼玉には行かないし、関わっているサイトで僕が記事を書くこともない。皆さんは厳選された立派なサイトで情報を得てくださいな。僕は僕でこれからの10年に広がる何かを探します。もとよりそっちの方が得意だし。


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