縮刷版2018年8月上旬号


【8月10日】 入江泰浩さんといったら僕には「ソウルイーター」の凄まじいばかりに連続したオープニングを手がけられた人で、その後に「鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」の監督もされた方でアクションの見せ方に優れた人って印象があるけど富野由悠季監督とそれから三石琴乃さんという2人が登場してはそれぞれにアニメーション業界に厳しい言葉を連ねてアニメーション雑誌にしては衝撃だった「月刊ニュータイプ」に連載の「平成とアニメ」の第3回に登場。いち原画マンの立場というよりJAniCAこと日本アニメーター・演出協会の代表理事としてもっぱらアニメーション制作現場の大変さについて訴えている。

 前の代表理事のヤマサキオサムさんの時とかはテレビなのでアニメーターの極貧ぶりがセンセーショナルに取り上げられると厳しいことは確かでもあってもすべてではないという指摘をしていて、どこか広告代理店性悪(しょうわる)説を補強する意味合いで中間搾取ぶりを揶揄するその保管としてアニメーション制作現場の極貧を言いたい人たちを牽制していたJAniCAだったような記憶がある。そうした経緯が踏襲されているのか今回の連載でも、質問者は2013年のアニメーターの平均年収として新人に限定された111万円という数字を表に出さずに332万8000円を出しているから闇雲にアニメーターの極貧ぶりを前に出そうという雰囲気にはなっていない。

 ただやっぱり厳しいことは厳しいようで「自分の仕事の単価が相場と比べて安いのか高いのか、そういう自分の"状況”を客観的に知るということは大事です」と話して「クローズアップ現代+」での特集で制作費のアップを訴えた意味を説明して、「『高い報酬の仕事を請けよう』と考えて動くことができます。そういう認識の土台をつくるという点でも意味のある調査だったと思います」とアニメ制作者の実態調査を行った意義を訴えている。

 問題はだからそうした調査の結果、明かとなった厳しい環境にどうやって対応していくかだけれどここはやっぱり難しそう。「最近気になっているのはひとつひとつの作品の寿命が短いことです。ヒットしなかった作品はそこでビジネス的に終わりになってしまう」と入江さん。そういう作品にも少なからずいるだろうファンに対して「在庫コストのかからない電子書籍で絵コンテや設定資料といった制作資料を撃ったり、受注生産のグッズを作ったりと、いまならいろいろできると思います」。そうやって収益化をしていくことでビジネスの基盤を整え制作費に回せるお金を増やすといったところか。プロダクションI.Gなんかはこのあたりやっている感じだなあ。

 ただやっぱり制作工程の変化なんかは将来にわたっていろいろと問題をはらんでいる感じ。すなわち「動画については『日本国内で仕事が途切れがち』という状態が頻出しています」「ある程度動画の経験を積んで、原画試験を受けて原画になる」という順番を踏むと「動画をするカットのタイムシートや原画を見て、タイムシートの描き方や、動きをどうやってコントロールするかを覚えることができました。ところが動画の仕事が減った結果、こうした経験を積まないまま原画になってしまう人も多く、そうするとシートのつけ方も正しくなく、原画もおかしな物になる」。経験から語られる言葉だけに重たい。

 「ホントは本人に戻して修正させるべきなんですが、今はスケジュールが悪化して、本人に理テイクさせる時間すらなくなっている」。制作費が潤沢なら、そしてスケジュールがあれば国内に動画を要請し原画のリテイクも本人にやらせて経験を底上げしてクオリティを高めていく。やっぱりお金って話になる訳で、そうしたお金がだったらどうやったら出てくるか、見てもらう買ってもらうといったお金の出して側の問題でもあってそこを意識しないといけないんだけれど最近、あんまりDVDとかBDを買ってないので申し訳ない気もしている。Netflixで月々いくら、Amazon Primeで年会費いくらと払っていることがアニメーション制作会社の収入向上に回っていれば良いんだけれど。結論としてDVDやBDに回すお金が出ない貧乏が悪いのだ。そんな経済状態を作り出した政治が悪いのだと話をデカくして今回は終わりということで。次はどなたが登場するんだろう。楽しみ。

 「月刊ニュータイプ」2018年9月号では細田守監督の映画「未来のミライ」に出演していた声優さんたちのインタビューが掲載されていて、若い女性を演じつつ方言指導もした真田アサミさんがアフレコの現場で「気付いたら『あ、今のとこ、ちょっとイントネーションが違ったので、こうしてもらえますか』と福山(雅治)さんにお伝えしたりして。ほかの方が録られているときにもブースの外に出て、福山さんから『ここはどうやって言うの?』と質問されたり、ずっとついて何回も練習されたりして……」とあってそうか真田アサミさん、福山雅治さんとつきっきりだったんだと思うと山中さわ子的にすばらしい瞬間だったなあと思ったのでありました。家に帰ってデスボイスで叫び出すくらいに。世に女性声優は多くいても福山さんとそこまでって人はなかなかいないから。デビュー20周年。良かったよかった。

 沖縄県の翁長雄志知事が亡くなられたことに対して沖縄出身の安室奈美恵さんが追討のコメントを出したらそれに反日なんだと異論をとなえる人たちが出てきてげんなり。いわく中国に沖縄を売り渡そうとしてた知事をとかいった感じだけれどもだったらアメリカに土地を売り渡している状況はどうなのといった異論はないようで、それを政権が容認していてそんな政権を信奉している立場から政権に異論を唱える勢力はすなわち反日だというロジックで、沖縄という場所にとってはまさしく国士的で保守的ですらある安室さんの言葉を外側から非難する。もうどうしようもない。もちろん沖縄に基地があることで東アジアの安定が図られているといった味方もあって、だから保守として基地の維持に賛成せざるを得ないといった立場も理解できる。そうした葛藤の中に生まれ育った沖縄の人たちが感じて入る意識に対し、内地から何かを言うのはやっぱり気をつけなくちゃいけないと改めて思うのだった。安室さんや沖縄の人たちが望むこと。そのためにできること。考えないと。

 東武野田線で船橋駅から30分の柏駅前にあるキネマ旬報シアターで「リズと青い鳥」。何回目だろう、10回は超えていると思うけれどもやっぱり見入る。関東ではしばらくこれで上映が途絶えそうであとはもしかしたらパッケージ発売まで見られないかもしれないとあって、100人近くが午後9時からという上映に訪れた。もう誰もが固唾を呑んでセリフから音楽から響く音響のひとつひとつを聞き逃すまい、そして映像を見逃すまいとして見守る感じがずっと続いて緊張感もありつつ、それでいてしっかりと話に引っ張り込まれるところが凄い映画。家ではやっぱりどこか誰てしまうし確認作業に入ってしまうから、こうした緊張感を持って見られなくなてしまう。それが嫌で映画は映画館で上映されている時にしっかり見ようと思うのだった。パッケージ発売前にまた上映の機会はあるかなあ。最大規模のスクリーンなり最高音響のシアターなりが準備を始めて欲しいかなあ。発売記念イベント上映でもいいや。期待しつつ待とう。そして今夜の感動を噛みしめて眠ろう。暑くて眠れなくても。


【8月9日】 関東については台風は房総半島沖から本州に上陸はせず太平洋岸を北上していった感じで風も吹かず雨も降らず、朝には太陽が照る夏日となってまるで襲来を感じさせなかったけれども東北地方での影響を思うとまだまだ安心はできない。ともあれコミケへの直撃はなく、前もFate/Grand Orderのイベントやワンダーフェスティバル2018[夏]への直撃は避けられて、関東にとっては逆の意味での神風ってものが吹いている感じ。これが続くなら2年後の東京オリンピック/パラリンピックも会期に突入したとたんに気温が30度前後へと下がる一方で台風の直撃はなく、まさにスポーツ日和といった状態の中で競技できるかもしれないといった妄想も浮かぶ。

 けれども好事魔多し。先取りされた神風が今度は本気で吹き荒れ会期中に3つの台風が直撃し、その合間はフェーン現象で気温が40度を超える暑さとなって人は吹き飛び建物は壊れその上に焼かれて干物になってしまうんだろう。選手にも観客にも犠牲者の多発した過去最悪の五輪としてTOKYOの名とともに永久に刻まれる、なんてことを避けたいのならば台風シーズンであり酷暑でもある季節からの早期撤退をすべきなんだけれど、それができる頭でもなければ体力でもない。だからといって世界のどこもやっていない2時間繰り上げのサマータイム導入なんてポン酢もいい加減な施策を導入しようとしている我らが総理大臣。いっそその身で台風の風を受け酷暑に焼かれてみれば良いんだ。でもそうなる総理以上に風雨を浴び酷暑にさらされる選手や観客がいるからなあ。ダメだこりゃ。

 電車も動いているようなんで予定通りにイベントは開かれると信じて家を出る途中で白鳥士郎さん「りゅうおうのおしごと!9」(GA文庫、630円)を購入。主に夜叉陣天衣の女流タイトル初挑戦を描いた内容だけれど対局する2人が共に竜王こと九頭竜八一とは身近な女流棋士だったりしてどっちを応援してもどっちが立たなくなりそうなひりひりした人間関係がある上に、将棋の棋士という勝負の世界に生きている者たちならではの切り結んではぶつかり合って削り合い、殴り合うような凄まじい関係も描かれていて読んでいてだんだんと胸が苦しくなってくる。勝利者がいれば敗北者がいる厳しい世界。だからといって勝利者が常に幸福とは限らない矛盾も浮かんで、いったいどうしたら良いんだという思いに心を傷つけられる。

 とはいえ八一の直弟子となる天衣は純粋に師弟関係の中で教えたり教えられたりしながら強くなっていけばいいわけで、10歳のタイトル挑戦が最初からかなうはずもないといった理解もあったりする中で、そこから上っていくという前向きな明るさが2人の関係にはあったりする。大して八一にとっては姉弟子の空銀子の場合はもとより究極に将棋が強くて女流のタイトルを2つも持っている上に、プロ棋士として1歩手前の奨励会3段にまで上りつめ、そこでリーグ戦で上位に入れば晴れてプロ棋士4段となって八一のところへとたどり着ける。でもそこでぶちあたるのは女流でいくら強くてもプロ棋士に比べれば、あるいは奨励会員も含めれば決してトップではなくむしろ並以下であるという実体。女流でいくら買ったところでプロ棋士の壁は分厚くて、そこに挑む苦しさは女流のタイトルを防衛しても解消されない。

 なおかつ空銀子が気持を寄せているけれども相手はまるで気付いてくれない八一は、自分の弟子の方をやっぱり大切にするのが師弟関係といったもの。同門であっても姉弟子であってもそこはやっぱりけじめをつけられてしまってすがれず頼れない中で、ひとり追い詰められていく。そしてそこでの妥協もしない。媚びず阿らないで目の前の将棋に勝つことだけにこだわってしまうクールさが、後になって心を苛むだろう状況でいったい空銀子はこれからどういった棋士としての道を歩んでいくのか。その3段リーグ戦挑戦はどういった結末を迎えるのか。それを見守る八一ってのが次の話になるのかな、でも八一自身も自分の戦いがある訳だし。竜王位を持っているのに他のタイトル戦には手が届かない凡庸な棋士って訳でもないだろうし。そんな八一の戦い、そして銀子の戦い、なおかつ雛鶴あいの戦いなんかが進んでいくだろう今後に期待。誰をお嫁さんにするのかも。茨姫の娘? それはさすがに。いやでもあるいは。

 1980年代の天野喜孝さんといえば「タイムボカンシリーズ」のキャラクターデザインを手がける一方でSFマガジンなんかに時々クールなイラストレーションを寄せていて、アニメのキャラクターとは違った雰囲気の絵を描ける人なんだといった印象を持たせてくれていた。僕が初めて買ったSFマガジンの1981年10月号に収録されていたノーマン・スピンラッドの短編「美しきもの」のイラストが確か天野さんで、白と黒との陰影がくっきりとついたアメリカンコミックみたいなタッチでキャラクターデザインじゃないイラストレーションの仕事でもやっていける人なんだといった印象を持たせてくれた。その後に神林長平さんの「敵は海賊」シリーズでコミカルな印象のアプロとかを描き、栗本薫さんの「グインサーガ」シリーズで加藤直之さんとは違ったスタイリッシュなグインやアルド・ナリスやイシュトヴァーンやレムスなんかを見せてくれた。

 その「グインサーガ」でのファンタジー世界を流麗なタッチで描く仕事がきっと後に大きく生きていたんだろう。1987年からリリースが始まったスクウェアのRPG「ファイナルファンタジー」でのキャラクターデザインとかはそうした「グインサーガ」的ファンタジータッチの天野喜孝さんの延長として見えていたから、特に新しいとかそれが特別に凄いといった印象は持たなかったんだけれど、ゲームの「ファイナルファンタジー」から天野喜孝さんを知ったという人にとってはやっぱりそのシリーズにおいての神といった認識なんだろうなあ。でも天野喜孝さんにとっては数ある仕事のひとつ。10日からスタートする「FINAL FANTASYと天野喜孝の世界展」の内覧会に登場して、「ファイナルファンタジー」の仕事の位置づけを聞かれた天野喜孝さんはそう答えて質問者をちょっとはぐらかしていたのが面白かった。

 もちろん自分を世界に連れて行ってくれた作品という認識はあるし、描いていて世界観を自在に生み出せるというクリエイターとしての喜びもあっただろう。とはいえ基本はシナリオがあり世界観もある中での仕事な訳で、いくらそれがメインビジュアルとして大きく輝いていたとしても代表的な以後として位置づけて良いかは迷うところ。「ファイナルファンタジー」の洗礼を受けていない、それ以前からの仕事を知る身としてはそんな印象も漂う展覧会だった。オリジナル作品がいっぱいあって「Candy Girl」というシリーズは前に有楽町マリオンの上で開かれていた展覧会でも見かけたもので、正方形の中に大きく女性の顔が描かれていてポップな感じがちょっと良かった。枚数が重なるとウォーホルとかリキテンシュタインのようなアート感も出てくるし。ぐにょぐにょっとした世界が大きな画面に描かれるシリーズもポップアートっぽい。そうした世界にだんだんと知れ渡っていけばまた違った立ち位置に行けるような気がするけれど。イラストからアートの世界って簡単なようでやっぱり厳しいからなあ、文脈を乗せ間違うとラッセン化ヤマガタ化するからなあ。どうなるか。見守りたい。


【8月8日】 1984年に漫画家のかがみあきらさんが亡くなってちょうど34年が経ち、覚えている人も少なくなりながらも今なお見られ続けている「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」のエンディングに流れるクレジットにその名前を見つける機会がまだあって、こうやって何かを成し遂げ名を刻んだことがある人を羨ましく思いつつ、存命だったらいったいどれだけの仕事を現在までやり遂げただろうという思いも浮かんで迷い惑う。

 それはちょうど20年前になくなった将棋の村山聖九段も同様で、A級に在位したままの訃報はすなわちそれだけの棋力を持った棋士が失われたことでもあって、存命だったらどれだけのタイトルを奪取し、今なおその名をタイトル戦の上に刻み続けていたのではないかといった思いも浮かぶ。かがみあきらさんと同様にやはり世間の記憶は薄れつつあるけれど、今もなお熱く思ってくれている人もいるようで、2人の存在をまだしばらくは語り継いでいって存命のうちにこそやり遂げるべき何かのための糧にしたい。合掌。

 月末が来ればこちらは8年目となる今敏監督の命日だけれど、その死因となった膵臓がんの厳しさをスティーブ・ジョブズも含めて表してくれそうな列に沖縄県知事の翁長雄志さんも加わった。一度入院をして手術をし、退院をしてからしばらく集会などにも顔を出しておられたようだけれど、その痩せ方からやっぱり厳しい状態にあるんだろうなと想像できていただけに、再入院をして知事の職を副知事が代行するようになったと聞いた段階で、この日の訃報はある程度予想がついた。いやもうその痩せた姿を見た段階で、胆管がんではあったけれども同じように激しく痩せていた任天堂の岩田聡さんのことが頭をよぎり、遠からずその日が来るだろうとは考えていた。

 そんな翁長さんにカツラをとっただのといった嘲笑を浴びせた保守系メディアがあったことに、将来を想像もできないポン酢なのかと呆れもしたけれどそれができないからこそのそのスタンス。仕方が無い。これからも似たような言動が出てきてその死を悼まずとも無言で通り過ぎず、嘲笑を浴びせる人たちも出てくるかもしれないけれど、そうした言説はたとえ翁長さんとは意見が違う層でも歓迎はされないから今は沈黙を守ろう。逆にその死を利用しようとする層にも世間は厳しい。淡々と傷みつつ、今は静かに翁長さんがやろうとしたことを考えつつ、沖縄が何を求めているのか、そしてどこに行こうとしているのかを遠くからだけれど考えて、最善の道が選べるように応援しくのが良いのだろう。合掌。

 130万人の動員だから雑に計算して15億円か16億円かなあと推計した細田守監督の「未来のミライ」の興行収入が8月6日までで16億7000万円だったそうでほぼほぼ合っていたことに自分の感度はまだ鈍っちゃいないと思いつつ、この数字ははっきりいって東宝的にも細田守監督的にもヤバいんじゃないかといった不安が募る。最初の10日で11億円くらいで次の10日で6億円くらいで半減していて、今からの10日で半減かというとスクリーンの数が減って座席数も大きく減らされているんで下手をしたら2億円くらいしか上積みできないかもしれない。それが8月中続いたとしても25億円に届くかどうか。58億円の「バケモノの子」に遠く及ばず米林宏昌監督の「メアリと魔女の花」の32億円にすら及ばないとなると、ポスト宮崎駿監督でありポストスタジオジブリ」を名乗る戦列から共に外れてしまう可能性がある。

 そもそもが独立したクリエイターであり、スタジオポノックとかスタジオ地図といったそれぞれの拠点を構えて独自性を出したアニメーション映画を作っている人たちをポスト○○と言って枠をはめてしまうのは失礼なこととは承知している。ただアニメーション映画が、それもテレビシリーズの映画化とかいったプログラムピクチャー的なものではない、映画オリジナルの作品であってもそれなりの観客を動員できるものだといった認識が、崩れてしまって次に大きなオリジナル作品を作れなくなってしまうのは残念だし勿体ない。新海誠監督の「君の名は。」の実績が今もまだ残っている状況があるだけに、その新作に期待は向かうもののひとりで背負える世界ではなし、「ペンギン・ハイウェイ」が当り「劇場版フリクリ オルタナ/プログレ」が当たって一息ついて欲しいけれど果たして結果は? それもふたを開けてみないと分からないなあ。

 選手の好悪を真に受けて代表監督を解任してのけた日本サッカー協会も大概だったけれど、それでもシステムには乗っかっていてとりあえず結果も出したし何より反社会的な勢力との付き合いは面だっては絶無。その意味では丸の内グループの大企業が仕切っていた時代から変わらず企業的ではあったけれども一方で、会長が過去であっても反社会性力との付き合いがあったことを公言し、それのどこが悪いと開き直って平然としていた日本ボクシング連盟は平成も終わろうという時代にあって昭和も30年代的な体質を今なお維持していた感じ。さすがに現代では通用しないと感じたか、会長を辞任するとは言ったものの会見のようで席に座らず一方的に喋っては立ち去るという簡略ぶり。公然と聞かれたことにどこまでも答えるのが「男」じゃないのってその場で誰か突っ込めば良かったのに。でもその場合は「男は黙って」とか言うんだろうなあ。都合の良い「男」ぶり。

 呆れるのはJOCから団体としてに認定を取り消されて2020年の東京オリンピックに選手を送り込めない可能性が浮上していることについて、申し訳ないとはいいつつも「東京五輪には出られなくても、次があります」と嘯いたというから選手もその関係者もこれはさすがに激怒だろう。ずっと頑張ってきたものが目の前で奪われ、その最大の責任者が「次がある」とか言うんだから言葉もない。誰か別の人にとっての「次」であってもそれは自分たちにとっての「次」である保証なんてどこにもない。あるのや目の前の「今」。それを奪って平気な顔をする「男」がいるのかと、これも突っ込んで欲しかった。でも「責任は私が辞任してとった」とか言うんだろうなあ。選手のことなんて何も考えちゃいないんだなあ。

 専務理事とかは今もなお弁護に終始しているみたいだけれど、反旗を翻した一党からいよいよ判定に対する圧力めいたものを公言している音声が出てきたみたいで、聞いてこれは会長の指示があったと言わざるを得ないにも関わらず、今なお聞いて周囲が忖度したといったような逃げ方をしているところに政権を握った人たちが、その立ち居振る舞いから影響力を行使したことが自明であるにも関わらず、直接的ではないから周囲が忖度しただけと逃げているのと同様の薄ら寒さを感じる。日本という国をとりあえず代表している政治家であり官庁が見せた無責任がジワジワと日本社会を蝕んでいる様子。これがさらに広まっていった先に勤勉で正直だからこそ成長してきた日本は消え、怠惰と無責任が横行する中で急激に衰退していく日本が現れるんだろう。参ったなあ。逃げたいなあ。

 壁の中にあって管理されつつも平穏に楽しげな日々を送る子供たちを描いたパートと、崩壊した日本の上を少年と少女が「天国」とやらを探して歩くパートが繰り返される石黒正数さんの「天国大魔境」(講談社)。壁の中の方は「約束のネバーランド」的ユートピア風ディストピア感が漂うものの喰われるといった切羽詰まったシチュエーションにはないもよう。それでもひとりが病気になりかかっていたりして、単に隔離され育成されているだけとは思えない空気感が漂う。一方の外では完全な無法地帯にはなっていないものの異形のバケモノが跋扈し人間は楽ではなさそう。コミューン的に集い暮らしている人たちもカルト的ではないけれど、そこに寄りかからず少年と少女は「天国」目指して旅を続ける。そこに挟まれる奇妙な光線銃であり、少女の頭の中が実は男という謎。何が起こった。そして何が起こる。読んでいくしかなさそう。


【8月7日】 甲子園での高校野球で熱中症からきたであろう痙攣によってプレー後に足がつって倒れる選手が出たのを見て、対戦相手のコーチがコールドスプレーを持って駆けつけ応急処置をしたって話が何か敵味方の垣根を越えた美談めいてスポーツ新聞なんかで報じられているけれど、そもそもが熱中症を起こすような苛烈な環境が問題であって、そんな状況で試合をさせることを非難する声は一切ないところに、甲子園をめぐるすべてを肯定してしまう報道のヤバさってやつがにじみ出る。いずれスポーツ新聞は試合中なり試合後なりに熱中症で倒れてそのまま命を失った選手が出ても、その葬儀に相手チームが参列して涙を流す姿をとらえて美談に仕立ててで報じるんだろう。「シンデモボールヲ(バットヲ)テカラハナシマセンデシタ」って碑文が立てられたて話とともに。やれやれ。

 TBSで放送されているドラマ版「このせかいの片隅に」について原作者のこうの史代さんが脚本に毎回チェックはいれているものの、直させてもらえるとは限らないし脚本の岡田恵和さんがどう展開させたいかを分かっていないこともあってあまり強くは言ってないって話が伝わってきた。それで不安を抱くだろう漫画版でありまたそれが割としっかり再現されたアニメーション映画「この世界の片隅に」のファンに向けただろう言葉として発した、「でも大丈夫…『六神合体ゴットマーズ』よりは原作に近いんじゃないかな!?」いうフレーズがいろいろな憶測を呼んでいる。つまりはいったいどれだけ原作から遠いんだというべきかって話なのか、それとも原作とは違っていても面白いと思いますよって話なのか。

 1981年に放送されたテレビアニメーション「六神合体ゴッドマーズ」は「鉄人28号」や「三国志」の横山光輝さんが描いた漫画「マーズ」が原作にはなっているけれど、地球人類の命運がかかったシリアスな設定があって衝撃的なラストを迎える「マーズ」とはまるで違って、当時はやりのロボットバトルアニメになったのが「六神合体ゴットマーズ」。主人公の名前とロボットに秘められた武装あたりに共通点はあっても、まるで縁遠い設定でありストーリーであって、その違いを距離に例えるならほとんど無限とすら言えそう。だから「『六神合体ゴットマーズ』より原作に近い」という言葉を考えるなら、あまりにかけ離れていた「マーズ」と「六神合体ゴッドマーズ」より近くても、それは無限が少し縮まっただけでやっぱりかけ離れているんだととれないこともない。

 つまりは皮肉なんだけれど、そこまでの含意がないと見るなら原作とアニメーションが違っていると話題になった「マーズ」と「六神合体ゴッドマーズ」のようなことにはなっていないよと言っているともとれる、かな? やっぱり引き合いがそれってところに含意を見ざるをえないか。一方でアニメーションとして「六神合体ゴッドマーズ」は当時でもトップクラスの人気を得て放送期間が延び、映画化やOVA化もされた。登場するマーズとマーグという兄弟を巡るストーリーが今でいう腐女子的な関心も得て、水島裕さんと三ツ矢雄二さんという2人の声優の人気も大きく押し上げた。原作と違っても面白いという事例を引き合いにしたという意味で、ドラマ版「この世界の片隅に」も見て欲しいといった言葉だととる向きもあるけれど、やっぱり引き合いが無限の距離を持った「マーズ」と「六神合体ゴッドマーズ」というところが引っかかるよなあ。果たして意図は? 呉であるという片渕須直監督とのトークショーで明かされるかに期待だ。いや無理か。

 なし崩しに堅持すべきラインが切り下がっていくのは、国会で総理が最初は自分なり妻が森友学園問題に何らかの形で関わっていたら辞めると公言したのが、だんだんとそうした関係が明るみに出て、違う収賄のようなものに関わっていたら辞めると言ったんだと言い訳をしてそうじゃないから良いんだという話になり、ああそうかだったら良いんだといった空気に押し流されてしまって今に至るまで辞めずにいることでも明かで、だから同様に日本ボクシング連盟の会長が暴力団関係者と交流を持っていた過去が明るみに出て、そうした交流を固く禁じているスポーツ界の倫理にもとっていたことが明確になっても、いやいや交流があったといっても昔の話であり、また相手が暴力団員であったとしても便宜供与をかは受けていない友人関係だから潔白だと言いつくろって、それで通るんじゃないかといった気分を会長自身が抱いている節がある。

 国民の代表として広く範を示すべき人間がぐだぐだな倫理観を世に示し、それを通してしまったことが気分として最低限を護ってさえいれば大丈夫だし、その最低限すら時と場合と権力度合いによっては許容されるんだといった状況を作り出してしまったかのよう。今後もろもろの自体が起こっても責任はないんだ罪ではないんだ大丈夫なんだといった言い訳が横行し、やがて最低ラインすら踏み越えて底が抜けた社会となって誰もが奈落の底へと連れて行かれるんだろう。そうした戦陣を切りそうな人たちがなぜか総理大臣を支持していたりするこの不思議。大変なことが起こってようやく分かるんだけれど、その時は大変なことに巻き込まれて大変だと認識することすら不可能になっているんだろうなあ。やれやれだ。

 上白石萌歌さんと黒木華さんが登壇する舞台挨拶があるってんで、どういったお客さんが見に来ているんだろうといった興味も含めて見に行った「未来のミライ」。3回目にあるけど僕はやっぱり大好きな映画だと革新する。「おおかみこどもの雨と雪」より「バケモノの子」よりも好きで「サマーウォーズ」よりももしかしたら味わい深い作品かもしれないとすら思うようになっている。見れば見るほどいろいろと気になる部分が出てくるんだよ。今日は途中で出てくる女子高生だかが後ろからキャアキャアとついていくイケメン男子の存在意義にふと気がついた。

 あれはひな祭りが終わった3月4日の出来事で、朝に未来ちゃんを抱っこしながらくんちゃんを保育園だか幼稚園だかに送っていく場面なんだけれども、そこで未来ちゃんはイケメン君がなんか気になる感じを見せ、それからずっと泣いているのはその前日、ひな人形が仕舞われるのが1日延びれば1年今期が遅れるという会話を聞いているから。でも出張に出かけるお母さんがひな人形をとっとと片付けろと言っておいたにも関わらず、お父さんはなななか手を着けようとしない。見かけたイケメンにキュンしたものの、お父さんがひな人形を仕舞ってくれないから自分はお嫁に行けないと感じ、泣いてアピールしているのに気づかれないからさらに泣くのだった。

 それでとりあえず寝てしまったけれど、やっぱり心に残ったのかくんちゃんを介して未来のミライちゃんとして出現し、ひな人形を仕舞わせに来たといった感じだと勝手に解釈したのだった。生まれたばかりで何とおませさんな未来ちゃん。ずっとぐずっているくんちゃんとは違った達観ぶり。そうした感じを出そうとしてか、映画でもところどころで未来ちゃんの何か知ってる感を漂わせる絵や表情を差し挟んでいく。そういったショットを重ねることで未来のミライちゃんが現れておかしくないかもといった印象を浸透させているのかもしれない。違うかも知れないけれどもまあ良いのだ、未来ちゃんが可愛いから。舞台挨拶ではハナの日ということで上白石萌歌さんと黒木華さんから観客に花束が。端っこにいたので萌歌さんから直接手渡してもらえてラッキー。ずっと取っておきたいけれど花瓶なんてないからなあ。押し花にするか。新聞紙で挟めばよかったんだっけ。


【8月6日】 やっと見た「キラッとプリ☆チャン」はなぜかSeacret Aliceというデザイナーズ7に入るトップブランドの船上パーティーに招待されたミラクルキラッツが、そこに現れたデザイナーに見守られながらパフォーマンスを披露するといった展開。ずっとSeacret Aliceにとって看板だったプリチャンアイドルのパフォーマンスに居眠りするとかスマホを見て無関心を装うとか、デザイナーの無情だけれど長くやっている中で安全の中に逃げていたのを見透かして、常に挑戦し続けるミラクルキラッツとか思いっきり自分を出そうとしているメルティックスターに何かを感じたんだろう。まあもとより青葉りんかに興味を覚えていたようだから、通りすがりのマジシャンとして。そういった謎めいた人物の正体明かしもあって楽しい最近の「キラッとプリ☆チャン」。3人になったミラクルキラッツに対して今も2人のメルティックスターがどうなるか、そして新たなプリチャンの登場は、ったたりが気になる今後ということでずっと見ていこう。3人になったミラクルキラッツも良いなあ、中の人たちによるライブが楽しみだなあ。

 財務省の事務次官人事は大外ししたものの自称するところでは政権に近い自称するところの全国紙が2019年と2020年の夏、サマータイムを導入して来たる2020年の東京オリンピック/パラリンピックで朝から灼熱の太陽に選手が焼かれる事態を防ごうと、議員立法がこの秋の臨時国会で行われるとかいった話を書いてきた。政権与党にそれなりに近い部分もないわけではないからあるいは動き自体は正しいのかも知れないし、たとえフェイクであっても政権与党のためにアドバルーンを上げさせていただきましたといったニュアンスで頭を撫でてもらえればそれでメディアとしては良いのかもしれないけれど、実際に導入された時に起こる混乱とかを考えると無条件で礼賛気味に出して良い話ではなかったりする。

 欧米のようにサマータイムが習慣として根付き恒久的に行われているならまだしも、2020年の東京オリンピック/パラリンピックという臨時も臨時の行事で、ある意味では東京ローカルのイベントのためにすべての国民がどうして午前5時を午前7時として認識するようなサマータイムに自分たちを合わせなくてはならないのか。時刻表だってすべて変えなくちゃいけない訳で鉄道やバスの運行はまだしも飛行機とかいったいどうするんだ、他の国々から飛んでくる飛行機はいつもの時間で日本だけ2時間早くするなんてことは無理だから、下手したら時間だけ2時間繰り上げられても空港が開く時間は変わらない、なんてことだってあるかもしれない。たかだかマラソン競技を現時点での午前5時にスタートさせるためだけに、世界の航空ダイヤを混乱させるなんてこと、できるはずがないだろうから。

 それにマラソン競技が今の時間での午前8時くらいに終わったとして、そのほかの日常はいったいどうなるのか。午後5時に仕事が終わる職場ではサマータイムだと今の時間で午後3時に外に放り出される。日中の明るいうちに遊ぼうってことは悪くはないけど今の午後3時にどこでどうやって遊べというのか。ビアガーデンには直射日光が刺さり、街頭のカフェにもヒートアイランドで熱せられた空気が押し寄せる。プールでも行こうかと思ったらサマータイムの午後7時まででも今の時間の午後5時には仕舞ってしまってたいして遊べない。そういった部分まで考えて何かものを言っているとは思えないところに政権なり与党なり国会議員の無策ぶりが伺える。

 2年だけの限定っていうのもコンピュータをいじる人たちを死への瀬戸際へと追いやりそう。ただでさえ元号の変更が予定されていた事前ではなく当日になりそうな状況で、5月をその改訂にあてたと思ったら6月にはサマータイムへの対応が迫り、そして10月には消費税率の引き上げがあってそこに物品によって変化がつけられる軽減税率だなんてものまで設けられる。いったい誰がプログラミングをするのか。そこで政府が文部科学省を通して大学とか専門学校の情報関連の学生を動員し、インターンと称して無償で現場で作業に当たらせるなんてことも起こりそう。東京オリンピック/パラリンピックのボランティア確保のために夏休みを前に倒せ、ただし授業時間は減らすなとか無茶を言う文部科学省だから。もう本当にこの国はおかくしくなっている。石破茂さんが総理になればまともになるかなあ。それ自体が不可能なんだろうなあ。やれやれ。

 拡大公開されたといってもようやく16館とかそんな感じでしかなかったけれども上田慎一郎監督の「カメラを止めるな!」が何と興行通信社の週末動員ランキングで10位に。全集まではインディーズのランキングで1位を張っていたけれど、その数字ではとうていベスト10になんか入れない。ところがTOHOシネマズの新宿と日比谷と日本橋が、館内でも最大に近いスクリーンを開けて1日に6回とか7回も上映したことで一気に10にまで入ってきてしまった。6月の終わりに公開された映画が拡大上映で一気にベスト10入りするのはきっと異例。なおかつこれから上映館数も増えていくからだんだんと順位を上げていく、なんてことも起こりそう。

 思い出すのは片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」で、確か封切りで10位に入ってそれが限界かと思われたら、口コミが効いて動員を伸ばし順位をだんだんと上げていった。長く10位以内に止まり興行収入は20億円超えへ。今はまだきっと1億円を超えたくらいな感じがする「カメラを止めるな!」もこのままベスト10県内を推移していけば20億円はともかく10億円くらいの大台を目指すなんてこともあったりするかもしれない。配給元に半分渡しても残る5億円が上田慎一郎監督の次の規格に回ればいったいどれだけの映画が作れるか。規格がハリウッドに10億円くらいで売れればなおのこと収益も上がりそう。それで満足して上がりの人生を歩むかというと、作ってなくては息ができない人生を歩んでいるんだろう上田慎一郎監督とふくだみゆき監督のご夫婦だから、きっと絶対にカメラは止めることなく作り続け、凄いものを送り出して来てくれるだろう。時間はかかっても良いから最高のものを。

 いやはや。例の世界一かもしれないクリスマスツリーで一悶着起こしたプラントハンターさまが、こともあろうにサン=デグジュペリの名作「星の王子さま」の誰もが知ってる表紙絵の中に自分を入れたパッケージのバオバブの木とやらを世に出すとか。いくら著作権が切れているからといって著作人格権は永久に消えないものらしく、「星の王子さま」のイラストもそれを改変して良いといったものにはならなさそう。それで完結して世界も愛している「星の王子さま」の表紙絵に自分を模したようなキャラクターを配置すれば、世界中に億万といるだろう「星尾王子さま」のファンから,非難囂々となることは確実なのに、平気な顔をしてコラボレーションと称して売り出そうとしているから唖然呆然。

 おまけにそうやって売り出そうとしているものが、「星の王子さま」の世界観的に星を覆い尽くしてしまうからすぐに引っこ抜かなくちゃいけないバオバブの木ってんだからファンにとっては頭が痛い。物語世界を深く知っていたらとてもじゃないけど出せないものを送り出して平気といった神経を、理解できる人は「星の王子さま」ファンにはきっといないだろうなあ。だったらいったい誰が買うんだろう。バオバブといえば有名なマダガスカルではなく、セネガル共和国で採れたらしいバオバブの木を持ってきて、アフリカへの貢献だとか何とか言いつくろう姿にかっこよさを覚える人が買うのかな。世界一のクリスマスツリーだって夢を与えるから良いんだといった手で切り抜けたし。とはいえ今度は世界が愛する「星の王子さま」。それを汚すようなマネをして果たして世界は黙っているか。黙っていては欲しくないなあ。ちょっと注目。


【8月5日】 Maker Faire Tokyo 2018も真夏のデザインフェスタ2018も2日連続はさすがにキツいんで、ここは休もうとしても家は暑くていられない。ならばと早起きもできたのをついでに「カメラを止めるな!」を上位開始となったどこかのTOHOシネマズで見ようとしたら、TOHOシネマズ新宿もTOHOシネマズ日本橋もTOHOシネマズ日比谷も日中は完売かほぼ完売とった状況。400人以上が入るシアターを5回6回使ってなおこれだけの混雑ぶりを見せる邦画を近年知らない。すでに封切りから1カ月が経っていながら数館では見られなかった人たちが、評判を聞きここ最近のメディアでの爆発的な紹介も見て駆けつけたんだろー。でも朝イチの劇場が埋まってしまうのはやっぱり凄い、凄い、凄すぎる。

 その中で日比谷の1回目にまだ少しだけ空きがあったんで最前列をとって鑑賞。やっぱり面白い。そして初見の人が多かったからなのか、冒頭のワンカットでのゾンビ映画撮影シーンであまり笑う人がいなかったのも良かった。そこで笑われるとこの緊張感溢れる展開が実は……って気づかれてしまう可能性もあるし、何で笑っているんだと言った興ざめも呼ぶ。そうはさせまいとリピーターの人も黙っていたのか、単純に初見の人が多かったのか、いずれにしても応援上映でもない限り、「カメラを止めるな」の前半は先の展開を含んでの笑いはしないでねとお願い。カメラマンの助手の松浦早紀を演じる浅森咲希奈さんのジーンズが下がって背中からお尻が見えかけている場面は良かったなあ。そこだけを見に通いたくなる。

 改めて見て、エンドロールで流れるワンカットのゾンビ映画を撮ってるシーンを外から撮ってる人たちを、さらに外側で記録している映像を見ていていったいこれは映画のどの部分を撮ってるんだろうといった混乱も起こってくるくらい、入れ子になった映像のそことあそこがつながってその外側もあってといった複雑な構造をもった作品を、よくぞエンターテインメントの中にまとめあげたなあという感嘆が改めて浮かぶ。役名の松本逢花が山之内洋に追いかけられて草むらの中を突っ走っていくシーンは、映画だとカメラを代わった松浦早紀が追いかけていることになっているけど、エンドロールで追いかけているのは普通の男性カメラマンだったりする。

 それは、最初のワンカットでのゾンビ映画を撮影したスタッフなんだけれど、映画全体の中では腰を痛めたカメラマンのカメラを拾った助手の松浦早紀が撮っているっていうシチュエーション。そしてエンドロールで松本逢花らを追いかけているカメラマンが転んだ場所で、松浦早紀も転ぶんだけれどそれは本当のカメラマンが撮影したワンカットのゾンビ映画で撮影中に転んでカメラがぶれている状況に、映画の中で撮影を担当している松浦早紀が合わせたってことになる感じ。そういった整合性をとっていく苦労の上に積み重なった入れ子構造の一体感。スクリプターが場面を把握し監督も状況を理解して撮影を進めていったんだろうか。そういった辻褄合わせがどれだけあるかを聞きながら見るオーディオコメンタリー上映があったら楽しいなあ。応援上映だけじゃなく。希望。

 昼前になったので銀座インズ1の地下1階にある築地蒸し鶏の店で唐揚げと蒸し鶏が合い盛りになってサフランライスとショウガのスープが添えられたプレートを食べる。唐揚げだけだと重たいし蒸し鶏だけだと足りないところを良い塩梅で押さえたプレートは値段も690円と弁当並み。夏場のただれ気味なお腹をちゃんと支えてくれるところが今のところは通う理由になっているあも、ってまだ2回目だけれど。近くにある生パスタのタベルナトーキョーも悪くないんでスパンアートギャラリーで漫画家系の展覧会を見た後とかに立ち寄るのが吉かも。

 でもって4日から公開になっていて、新海誠監督を擁するコミックスウェーブが日中合作で主に中国を舞台にした青春ストーリーをアニメーションにした「詩季織々」をテアトル新宿で。その「上海恋」を見て、新海誠監督ならリモをラジカセ前でむせび泣かせてそれで終わりとか思った。そして奏でられる山崎まさよしの「Ome more time, One more chance」。でもそうじゃなくて、ちゃんとそれぞれに来るべき今があって心持ち救われた気がした。都合よすぎるだろうって言われても、それで黙って受験して1人だけ合格して抜け駆けのすれ違いを演じたリモが、自責の念に耐えられず空虚な気持となってグレて高校を辞め、上海の闇社会に身を投じてなり上がった先、アメリカ留学で不動産事業を学び大手ホテルチェーンのエグゼクティブとして上海の開発事業に乗り込んで来たシャオユと昔懐かしい石庫門の再会発に絡んで再会して、ヤクザとビジネスパーソンという関係でありながら幼なじみという関係もあって悲恋を演じる展開になっていたらそれは短編アニメーションで収まらなかっただろうから。

 幸いにしてリモはどうやら自分を取り戻し多分大手の建築事務所を辞めて同級生と再開発された場所で簡単なモーテルを立ち上げ忙しそうにしていて、そこに現れてやがて前のような3人組が戻ってくるというハッピーなエンディング。ホッとした。モノローグを多用し情景を綴っていく説明の多いPV的展開もまた新海誠監督流ではあるし、絵面も都市の風景空の光景もやっぱり新海誠街と新海誠空。そうした影響を承知で監督たち中国のクリエイターが身に感じた切実、すなわち変わる上海と変わらない恋路、進学に伴う離別の不安を描いてみせたアニメーションは、新海誠監督の正統を得つつきっと次のビジョンへと進んでいってくれるだろう。

 ただ「陽だまりの朝食」「小さなファッションショー」と並べた時にキャラクターの表情とか風景や光景の拾い方で「上海恋」が1番、新海誠監督らしかった気がした。モノローグを重ねて日々の情景を淡々と綴っていくという見せ方では「陽だまりの朝食」も新海誠監督っぽさが出ていたけれども選んだ主題が懐かしい朝食、日々の味というところが過去、振り返ってみて新海誠監督作品にはなかったような気がした。「言の葉の庭」もご飯は作るけどそれが中心になる訳ではないし「君の名は。」も同様。食事のシーンはあってもそれが記憶や経験と結びつくことはあまりない。

 「陽だまりの朝食」は朝に食べる米粉、それも日本人がイメージする米製の細い麺を炒めて焼きそばみたいにして食べるものではなく、太いものをゆでて上に具材を載せスープをかけて食べる米粉麺。それを特に説明もなく彼らの日常の食事として提示してみせるところにこのアニメーションが誰によってどこに向けて作られたものかが伺える。とはいえ日本人が米と味噌汁を朝に食べてるシーンだって説明されずいn海外で見られているなら中国の、湖南省の朝食がそのままの形で描かれても不思議はない。それが米粉というならどいういうものかを調べれば良い。それだけのことだ。

 ともあれ少年が朝に米粉を食べていた見せが消え、中学校に通うようになって立ち寄っていた米粉屋もいろいろあって商売の中身が変わったもののまたしてもいろいろあって戻ってきた、その回帰に継続されない伝統でありつつも、それを乗りこえて再び出会える嬉しさといった物語を感じ取ることができる。今は北京で働きながらも故郷を思うその糸口が祖母であり米粉。この先に主人公の青年がまた湖南省に戻るとは思えず美味しい米粉麺を食べ続けられるとは限らない。でも改めて刻まれた思い出は永遠に生き続けるのだという、そんな気にさせられた。

 「小さなファッションショー」は監督も脚本も演出も日本人で舞台だけが上海という形態。日本のアニメーション好きにとってはだから見やすさも1番だったかもしれない。ある程度定型にはまっているというか。少し年齢の上がってきたファッションモデルのイリンが若手のプレッシャーをはねのけようと頑張って潰れて、けれどもルルというファッションデザイナーを目指している妹の存在によって再起を歩む展開自体は上海でなくても東京でだってニューヨークでだってできそうだけれど、それが上海という場所でも成立し得るくらいに彼の地はもはや超近代的メトロポリスなのだということを、分からせる効果はあったかもしれない。

 周辺地域を入れた人口は日本の総人口すら上回る、そんな場所でトップモデルを張るのがどれだけ凄いことか。その凄みが出きっていたかというと、やっぱりローカルモデル的ニュアンスが抜けてはいなかった気がするけれど、背景がマンハッタンでセントラルパークならセレブリティが増すのは、個人の記憶がそれは凄いと思っているからに過ぎない。今は東京よりも凄い場所なのかもしれないという認識を、このあたりで改めて得ておく必要があるのかもしれないなあ。

 モデルのイリンの時にストイックだけれど自己管理が行き届かないところがあて、いくら頑張っても失敗すれば終わりの場面で突っ走りすぎるのはあまりプロとして正しくない気も。そこへと至らせる前にマネジャー何とかしろと思ったけれど、それでも突っ走るのがモデルという人種なら仕方が無い。そこで姉を思いつつ自分をしっかりと貫こうとしていた妹がいたことで姉は救われた。エンディングはハッピーエンドで取り返しのつかなさというのは感じさせられずに済むから安心して何度も見たい。

 テアトル新宿の観客はまずまずで見ていた人には泣いている女性も。だからきっといろいろ感じるところがあたんだろう。故郷、家族、そして青春。それらが食であり職であり懐かしい日々を鍵にして描かれる。当たり前のことしか起こらないけれどその当たり前が当たり前に生きている人たちのさまざまな共感を呼ぶという意味で、これは多くに見て欲しい作品だし多くが見るだろう映画と言えるかも。日本にもこれだけ中国人が遊びに来ているんだから、中国語字幕をつけて公開したらまだ中国で見てない人も来たかも知れない。逆に中国語の演技で日本語字幕で見たい気も。上映しないかなあ、日本でも。


【8月4日】 第23回[春]スニーカー大賞で特別賞の本山葵さんによる「スピリット・アームズ オブリビオン キミと剣聖少女の未完成な現実」(スニーカー文庫)がとってもクール。感覚だけでなく痛覚も再現できるVRゲームが登場。その中でひとり敵を蹴散らす獅子奮迅の戦いぶりで注目され、付いてくる人たちが増えていつの間にか最大ギルドのマスターになってしまった「末次文音」というキャラクターに見た目がそっくりで、名前も同じ末次文音という少女が、同じゲームを遊んでいてそのギルドにも所属しているけれども今はまだ下っ端の宏介という少年と同じクラスにいるけれど同じ人間にはとても思えなかった。

 体型をスキャンしキャラに反映させるVRゲームでは実在のプレイヤーと容姿が似てくるのが普通。なおかつ名前も一緒なら同一人物としか言いようがないにも関わらず、リアルの末次文音は寡黙で他人と交流せず弁当をもそもそと食べは蹴躓いて弁当箱を落としあたふたする姿を宏介たちに見せる。ゲームでの猛勇ぶりはみじんもない。そんな末次文音は本当に同一人物なのか。宏介は気になって何度も末次文音に話しかけるけれど反応は薄い。関心すら向けてくれない。クラスメートとして認識してくれているかも怪しく思えてきたある日、剣を振るう行為にイップスが出てしまう宏介が、自分を鍛え直したいとゲーム内で不思議なクエストを受けたら、それがなぜか末次文音からの依頼だった。

 驚きながらもパーティを組んで竜退治へと向かった先、宏介は現実の末次文音が抱えていたある事情を知る。それは一種の障害で、現実世界の末次文音を苦しめていたけれど、その障害がなぜかゲームの世界だけでは解消される。だったらゲームの世界を中心に過ごすようにすれば良いのに、彼女の母親はんぜか喜ばない。それどころか文音からゲームを取り上げようとました。それで起こるのはある意味で文音が築き上げてきたすべてのものの崩壊。交流も。立場も。それはイヤだとゲーム世界で抱いた思いを外に持ち出せない文音の苦境を宏介はどうやって救うのか? 「スピリット・アームズ オブリビオン 君と剣聖少女の未完成な現実」はそんな展開の物語になっている。

 感覚をゲーム内に写す技術が文音の脳が抱える障害をゲーム内で“治療”しているかもしれない可能性。一方で現実の障害を持った文音こそが本物でゲーム内は技術がもたらした病かもしれないと考える母親。本当の文音分はどっち? 記憶の外部化でもサイバネティックでも技術が人間を拡張するなら人間が生きる場所だって拡張されても良いのだろうか。ゲーム内での体験が外の自分を変える可能性はあるのだろうか。そんな思考をめぐらしたくなる。SF的でありまた少年が自分を自覚し鍛え直して強くなていく物語とも言えそう。いきなりの俺TUEEEよりも段取りが分であるからいっしょになって成長を楽しめそう。続くとしたら4人がパーティを組んで冒険の旅に出るのかな。それが現実世界にどんな影響をもたらすのかな。気にしていこう。

 パツンパツンのジーンズスタイルでお尻がしっかり丸かったりして胸もやっぱり丸丸とした眼鏡つ娘から眼鏡を取ってひらひらとしたドレス姿にしてしまうとは何事か! といった嘆きが体の奥底から響かない訳ではなかったけれど、それはさておき映画「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE〜2人の英雄〜」は、一種の番外編でありながらも本編の隙間をしっかりと埋めて前後をつなげる巧みさでもって描かれている上に、登場する面々が場当たりではなくちゃんとそこにいる必然があって存在していて、なおかつそれぞれの持つ個性をしっかりと生かし切ってストーリーに関わらせている点でも巧みであった。脚本の黒田洋介の力量か監督の長崎健司の差配か原作の堀越耕平の差配か。

 いずれにしても前後の脈絡を気にせずオールスターキャスト映画として楽しめた「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE〜2人の英雄〜」はI・アイランドという科学者たちが暮らす人工島で開かれる、日ごろの研究成果を公表して見てもらうI・エキスポなる祭典に招かれた我らがオールマイトと緑谷出久が到着したところで出迎えに現れたメリッサという少女がパツンパツンのジーンズで眼鏡っ娘で衝撃的ではあったけれど、オールマイトの年の離れた彼女という訳でも年齢不詳の友達という訳でもなくその父親がアメリカにいた時代にオールマイトのスーツなどを手がけた有名な科学者だったという話。

 ただしI・エキスポにオールマイトを呼んだのは父親のデヴィットではなくメリッサの一存で、それがある意味では事態を混乱させつつ結果として大事を終息させる。もしもI・アイランドにオールマイトがいなかったら出久もいなかった訳で結果として事態は最悪の方向へと向かっていっただろう。オールマイトの友人であるデヴィットは……。そして娘のメリッサも……。貴重な眼鏡っ娘が哀しみ最悪の事態では命にすら関わりかねなかった状況を、もしかしたらメリッサは自分の機転で回避したのかもしれない。
 驚きの展開のその向こうに大きなアクシデントを仕込んでそれに挑ませ壁に跳ね返させながら突破させていこうとする大逆転に次ぐ大逆転のストーリー。そこにいるメンバーたちの個性がしっかり組み合わさったからこその勝利は脚本家の計算の上に成り立っているとは言えピタリとハマるパズルのようで見ていて気持が良い。ライトノベルだと取るに足らない能力者たちがそれでも寄り集まり、工夫を重ねることでエリート能力者たちに勝利していく展開もなかなか痛快で面白いけれど、言ってしまえばエリートのヒーロー候補生たちが寄り集まっても勝てないのが真の悪って奴で、そこにもはや工夫ではなくそれぞれの全力が重なり合ってぶつかっていってようやく扉をこじ開けるというのもやっぱりパワフルでスカッとするのだった。

 結局はデイヴィットの発明はヴィランに利用されれば大変なことになると分かったからたとえオールマイトの“延命”に役だったとしても封印あれて仕方が無かったと言えそう。それとやっぱり力はちゃんと受け継がれていると分かったことも、デイヴィットの画期的で革命的な存在が本編に絡んでこなかった理由になっているとも言えるかも。大変な身の上になったメリッサがこの後でどうなったかを考えると辛いけれど、家族の問題でI・アイランドに縛り付けておくことで本編には大きく絡まないようにしているとも言えそう。あの才能が本気で出久の面倒を見始めたらサポート科で諸々の発明をして出久たちを助けている発目明の出番もなくなってしまうから。彼女もまあ眼鏡っ娘と言えない事も無いわけだし。ゴーグルだけど。かけてないけど。やっぱりメリッサ来てくれないかなあ。

 学生向けの「学展」として始まった夏のデザインフェスタがすっかり「真夏のデザインフェスタ」として定着したみたいで今年も東京ビッグサイトで開催されたんで見物に。リボン色の世界遺産のTシャツをとりあえず見つつ歩いていたら「間取りのカルタVR」というのが出ていたので何かと見に行ったらタブレットで3DCGとして描画される間取りを見ながら言葉を発するのを聞いて、その部屋に該当する間取り図のカードをあてるというものだった。正面に扉があって右側の壁に窓があって振り向くと部屋が続いていて……といった具合に説明するんだけれどその能力が結構必要そう。人によって違う間取りに関する感性を吟味しつつ想像力を巡らせるのが勝利の鍵か。今後カードは増えていくのかな。ちょっと楽しみ。


【8月3日】 割とガルパン推しだった阿佐ヶ谷七夕まつりでのみなとやさん前のハリボテが、去年は「けものフレンズ」のサーバルちゃんとセルリアンに変わってジャパリパークのゲートも作られかばんちゃんも覗いているといったフルラインアップに、本気で「けものフレンズ」を押しているんだといった気持が伝わってきた。折しも第2期の製作がBlu−ray付きのガイドブックの販売で明感いなって世間の熱も沸騰し、8月後半のテレビ東京での再放送へとなだれ込んでいったけれどもそれから1カ月経って世界は一変、とてつもなく冷え込む自体が起こって世間の気持は推したいんだけれども推し続けて良いのかと言った迷いを抱くようになった。それは今も続いている。だんだんのあきらめの気持と共に。

 どうしてなんだ。そんな嘆きと憤りをもしかしたらみなとやさん前のハリボテが代弁してくれたのかもしれない。2018年の阿佐ヶ谷七夕まつりに登場したのは何とたつき監督によるショートアニメーション「へんたつ」に登場する鬼娘。会話劇の中に近況報告を織り交ぜ状況への感情なんかも含めながら綴られていったアニメーションはちょっと前に一応の完結を見て、猫の態度を引き合いにころころと気変わりするその態度を指摘していたけれど、それが意味するものを少なくない数の人がアレだと推察した。それが果たして権利者側なりコアメンバーに届いたかは分からないけれど、それでも言わずにはいられない気持が決してメジャーではない、出しても目立てない「へんたつ」の鬼娘のハリボテを作らせたんだろうなあ。嬉しい。そして有りがたい。だから僕たちはそれを撮って世間に示してぶつけあっれた理不尽を思い、今の活躍を支えつついつかくるかもしれない再臨を願って夏を過ごそう。いつかまたサーバルちゃんがかばんちゃんととおにハリボテとなってぶら下がる日を夢見て。

 映画館で大勢がVRヘッドセットを装着してVRの映画をそれで見ながら音響だけは映画館のスピーカーから流れるものを聞くという「映画館でVR」という試みが少し前、新宿バルト9で開かれてVR映画というものを見られる環境の拡大と、そしてVRを楽しむという習慣の定着なんかが期待された。いずれライブなんかでもVRコンテンツが増えてくればそれを映画館の良好な音響で楽しみむようなライブエンターテインメントの形が生まれてくるかもしれないけれど、一方で演劇の世界では舞台の上で演じられる生の演技をわざわざVRで見る意味があるかというと、遠隔地にいる人が同じ劇場にいるような感覚で演劇を楽しむためにVRを利用するような可能性なら考えられた。

 そうじゃない、演劇という空間の中でVRで見せるという行為を実現できないかといったことで、VR映像とかを作るツールを手がけているアルファコードが音楽座ミュージカルという劇団と組んで8月4日と5日に日本科学未来館で実施する、「LITTLE PRINCE ALPHA」というサン=デグジュペリの「星の王子さま」を題材にしたミュージカルは展開の途中でVRヘッドセットを被る場面が登場する。そこでは飛行士が宇宙から砂漠へと落ちてきた王子さまを正面に見つめて会話をするシーンが繰り広げられて、自分が飛行士となって舞台に没入しているような気にさせられる。そしてVRヘッドセットを外してくださいと言われて外したその場面では、舞台の上に俳優たちが上がってきては会話を繰り広げたりダンスを見せてくれる。生身のリアルがあってVRのバーチャルもあってそれらが相互に行き来する。なかなかに面白い。

 20席くらいのVR席が舞台を囲むように配置されていて、そこに座るとVRによる正面からの王子との対面と、そして舞台でキツネとだんだんと近寄ってく王子の葛藤と模索の姿を間近で楽しめる。だったらその20人しか楽しめないかというと、それではさすがに演劇として成立しないから普通に観客席も用意してあって、そこからは舞台で生身の俳優が出てこない、VRの中で話が進行する場面で舞台の上に降りてきたスクリーンに投影されるVRの中の様子を見られるようになっている。目の前に迫ってくることはないけれど、話から置いてきぼりにされることはないし、VR席の人たちがVRに没入している間、舞台に出てきたり通路を歩いたりする俳優たちを見られるからその分は得をしたといった感じかもしれない。

 問題があるとしたらやっぱり慣れない人にVRヘッドセットを着けさせたりするあたりで、そこを出演俳優が近寄っていってサポートする形になっていた。もしかしたらそういう行為すらも芝居の中に観客を巻き込むような演出かもしれないけれど、現状はやっぱりガイダンスに過ぎないところをもうちょっと、楽しくやれたら良いのかも知れない。あとは着けたり外したりする流れの中で俳優さんたちの気持が切れたりしないかってところで、王子なんかはVRの中に登場するシーンは別の日に演じて撮影をしている訳で、そのテンションを舞台の上で生身となっていきなり出すのは大変かもしれない。森彩香さんという王子役の役者は苦労もしたみたいだけれど同じテンションを維持してた。まだまだ工夫の余地はあるけれど、ともあれ「映画館でVR」に続く「演劇にVR」の試みがひとつ行われて先に進んだ感じ。VR時代のライブエンターテインメントの将来をここから探ってみるのも面白いかもしれない。

 日本科学未来館に行く途中で前の芝生が広がったスペースからアイドルの声。ちょうど東京アイドルフェスティバルが開かれていて野外ステージになっているそこでOnePixel3人組のユニットがパフォーマンスを見せいてた。歌は上手いしダンスはキレキレでそして何しろ楽曲が良い。東宝芸能所属というからバックアップもしっかりしている状況だけにブレイクしていく可能性もあるのか、それとも東京アイドルフェスティバルに出演する膨大なアイドルたちの波にもまれて見えなくなってしまうのか。2年目の出演となった今年がひとつの分かれ目になるのかな、でも大阪☆春夏秋冬なんて見たのはずいぶん前だけれど、ようやくメジャーデビューといった感じで東京アイドルフェスティバルでも活躍しているみたい。明日はデザインフェスタとMaker Faireがあるから無理だけれど日曜日、1日券を買って追いかけてみるか。出るかなしゅかんしゅん、そしてOnePixelは。


【8月2日】 the pillowsを聞き返すことになって最近の状況を調べたらサンフランシスコとかそっちの方で7月にライブを開いたみたいで、アメリカらしくライブの様子が撮影されてネットにアップされていたりして、眺めたらだいたいが「フリクリ」に使われていた音楽だった。2000年のリリース開始からもう18年とか経っている作品で、その後にthe pillowsとしてもレコード会社を移籍して音楽もいろいろと作ってきたんだけれどアニメーションが世界的な人気となったこともあって海外では「フリクリ」の楽曲に関する認知度が高いよう。加えて「劇場版フリクリ オルタナ/プログレ」の公開もあってthe pillowsの楽曲が使われることになり、新曲も作られたみたいでそのプロモーションめいたものもあって海外のアニメーション関連イベントで演奏したってことになるのかな、それも含めてツアーをやったけどやっぱり「フリクリ」関連の楽曲が人気だからとセットリストを組んだのかな。

 眺めていて凄いなと思ったのはアメリカでそして日本からわざわざ聞きに行く人なんていないだろうからほとんどが現地の人ばかりなのに歌われる歌はだいたいが日本語の歌詞。それなのにしっかりと観客はノって体を動かしているし、「LITTLE BUSTERS」のような楽曲だと一緒に口ずさんだりもしている。来年でデビューから30周年になる日本ではベテランの域に入ったバンドではあっても、決してメジャーなシーンでテレビに出まくっているって感じではないライブバンドが海外でその楽曲を愛するファンでいっぱいの中でライブをする。やっぱり「フリクリ」の影響なんだろうなあ、アニメーションが世界に出て行ってそれに付随して使われた音楽も強く認知される。

 ASIAN KUNG−FU GENERATIONが最初のテレビアニメーション「鋼の錬金術師」でオープニングの「リライト」を歌ったらそれがアニメと一緒に世界に出て行ってアジカン自体を引っ張った例も過去にあったりする。the pillowsもそな感じに「フリクリ」とともに音楽が世界に知れ渡り、ライブを開いても観客が集まりいっしょに歌ってくる。日本のアニメーションが世界に浸透している現れとも言えるだろう。もちろんそれだけで世界でライブができるはずもないから、「フリクリ」というクールでヒップなアニメーションをがっしりと支えた楽曲の良さがあってのこと。その一体感をきっとしっかり感じていたからこそthe pillowsも18年を経て「フリクリ」の楽曲をまた手がけてくれたのかも。

 というよりthe pillowsが音楽を手がけていない「フリクリ」自体がもはや考えられない訳で。まさしく一体感って奴だよなあ。最初にこれを決めた人が凄いのか。いったい誰なのか。そこが気になる。海外のライブだとアンコールから「劇場版フリクリ プログレ」で印象的に使われている「Thank you, my twilight」と来てドライブ感に溢れて僕も大好きな「LAST DINOSAUR」へ。あのイントロが流れると次回予告としてワクワクするし戦闘シーンを支える楽曲としてドキドキとする。「フリクリ」というアニメーションのスピード感を象徴する楽曲はthe pillowsにとっても大事な曲ってことなのかな。ちょっと効いてみたい。リマスタリングを施したCDも出るみたいだし今年は後半にかけてthe pillowsがぐわっと来るかも。来なくたって来させるぜ。

 8月7日に「未来のミライ」の“大ヒット”を記念した舞台挨拶が行われるそうで、そうした惹句が果たして適切かどうかはなかなか迷うところではあるけれど、午前0時から予約が始まって半日が経って半分も埋まってない状況を鑑みるにやっぱりいろいろと大変なんだろうといった想像が浮かぶ。来場するのはくんちゃんを演じた上白石萌歌さんと未来のミライちゃんを演じた黒木華さん。つまりは主役級のメジャーな女優さんが来場するにも関わらず、即完売とならないのはいったいどういうことだろう。「カメラを止めるな!」がTOHOシネマズ日比谷で舞台挨拶をするとなったら500席近いチケットが3分で完売になった。この差はいったい……。考えるしかないだろうなあ、東宝としても宣伝の仕方を。

 もちろん従前からメディアを通して評判を高めようとはしていたみたいだけれども、結構癖のある内容でストレートに見たらホームビデオだの上流階級の非日常の日常だといった反発も生みかねない要素をはらんだ作品を、そうじゃないんだと考えさせる余裕を与える間もくストレートに放り出しては、メジャーなメディアでの礼賛を得ようとしてネットメディアでの強烈な不評を呼び込み、それがメインストリームとして拡散されて知らず「不評」といった印象が広まってしまった。こうなると、ネットから情報を得ている今の人はなんだそうなのかと足を運ばないし、見てもネガティブな印象を背景に「つまらなかった」と書いてはそれが拡散されていくスパイラルに陥っている。

 だから宣伝としては、アニメーション専門誌とかアニメーションに詳しい批評家といった、細田守監督という人物とその作風に対し、ポジティブな解釈を加える層にアプローチしておけば良かったのに、それらマニアとかオタクといった人たちを嫌っているのか見せもしないで封切りまで埒外に置いた結果、「ホラー」だの何だとの扇情的な意見を繰り出すネットメディアにカウンターを当てる人も現れないまま、ネガティブな空気ばかりが膨らんでしまった。こうなるともはや後戻りはできないだろうなあ。東宝は去年の「メアリと魔女の花」「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を大昔に比べれば悪い興収ではないとはいえ「君の名は。」が作ったビッグウェーブに乗せられなかった。そしてそして“切り札”の細田守監督で躓いた今、新しいオリジナル作品が今後作られなくなるかもしれない雰囲気も浮かぶ中でどういった切り返しを見せるのか。気になるけれどもやっぱりメジャーな媒体のウェイな人たち相手に騒いでもらう宣伝を続けるんだろうなあ、それしか知らなさそうだし。どうしたものか。どうしようもないのか。

 ワンダーフェスティバル2018[夏]にtoon WORKSHOPのヘッドフォンとコラボレーションした作品を出していた池内啓人さんの作品が渋谷西武で展示されているんってんでthe pillowsのアルバムをタワーレコードに掘りに行くついでに見物。最先端のファッションが着せられたマネキンの顔をジャンクなパーツでもって彩られたマスクだとかVRゴーグルだとかが覆っている状態はファッションという華やかさを醸し出す世界にクールで硬質な雰囲気をもたらしているというか、ハイファッションが醸し出す美しさとも裏腹の近寄りがたさを感じさせるというか。イタリアの「VOGUE」がファッションモデルに衣装を着させた顔とかを池内さんのマスクで覆ったファッションフォトを掲載していたけれど、そこで放たれた強烈な印象が日本のファッション界にどう受けいられるのか。ちょっと興味。一方でイタリアでの反響がミラノコレクションとかパリコレクションに波及して、メジャーなプレタポルテのランウェイを池内さんの作品を身につけたモデルが歩いたらちょっと楽しいかも。遠からずそうなると確信を抱きつつ今後の活躍を眺めていこう。


【8月1日】 細田守監督のインタビューを遅ればせながらに読んだ「月刊ニュータイプ」2018年8月号に掲載のシリーズ企画「平成とアニメ」で声優の三石琴乃さんがインタビューに答えているんだけれどこれが重たいというか、激しいというか、笑顔の中に厳しい言葉が詰まっていて後輩の声優たち、そしてアニメーションに携わるあらゆる人たちに響いて刺さりそう。そこでは今時の声優アイドル人気&1クール(分割2クール)アニメ増大が未来にもたらす影響なんかが経験から語られていて、とても説得力もあるだけに何とかしなくちゃいけない感が浮かびつつ、どうにもならないんだろう感も漂ってもやもやとする。

 子供向けのテレビアニメーションで若くして大きな役をもらって、そこで1年くらい演じてみて新人はようやく役が掴めるようになり、周囲に配置された他のキャラクターとの関係性も出てきて掛け合いなんかがふかくなる。そんな演者の演技に絵描きが反応して相互のやりとりが生まれてくるものだったのが、今は声優が演技者として成長する前に作品が終わってしまうし、現場に先輩のいる比率も少なくてあまり勉強できないという。「今後デビューしてくる方たちが長く声優を続けたいと思っているのだったら、危機感をもって臨んだほうがいいと思います。現場以外で表現方法を吸収しないと……」と三石さん。それが今の時流であって勉強の時間がとれないんでしょうと質問者が現状の仕方なさを示しても「そんなことを言って使い捨てにされるのはイヤでしょう」と厳し。確かになあ。

 「驚いたのは、キャスティングで今はボイスの審査よりも先に写真選考があったりする。あとは『Twitterのフォロワー数が多い人からキャスティングします」なんてことも……。本当なんです、これ」。それは現場のスタッフから出るというより「製作委員会の方たちが『この方はTwitterをやっていないのでダメですと言われて入れられなかったという、そんな話も実際にありました」。そして「なぜか作品の宣伝を直接声優が担っている。本業の仕事中にスマホチェックするより『このお話と自分の役に集中しましょう!』と思ってしまうのは渡しが古いのかな? 心配なところ、わかっていただけます?」。分かります分かります。分かりますけどそれを分からない世界になりつつある。困ったなあ。

 個人としてはTwitterをやっていようがいまいがビジュアルがどうであろうが役に遭ってて上手けりゃ見るし好きになるんだけれど、今のファンがそうでないのか今のファンはそうではないと製作委員会の方が考えているのか、より安全性を求めすぎてしまった挙げ句の所作なのか。きっとアニメを見ている人だって箸棒な声優さんに来られても困ると思うんだ。そんなに見る側は間抜けじゃないから。だからやっぱりお金の出してが安全パイを引こうとするのか。どっちにしたって病んできているなあ。そういう中から出てきたアイドル声優の方々の実力は果たして。もちろんそうした中からも出てくる上手い人はいるから世界は回っているんだけれど。

 わははははは。強権が言われ審判の判定への介入も取りざたされている日本ボクシング連盟の会長がやってくる高校総体のボクシング大会が開かれる会場で、会長の椅子としてゴージャスな革張りの椅子が用意されていたらしい。アリーナだから他の人たちはもちろんパイプ椅子。そんな中に混じってひとりだけ背もたれの付いた革張りの椅子が並べられている光景が岐阜新聞なんかで報じられていて、どれだけ強権を振るっているかが目の当たりに見えて面白い。大会の開会式が開かれる前日、さすがに拙いだろうということでパイプ椅子に変えられたみたいだけれど、実際の開会式で果たして復活したかどうなのか、そもそも開会式の顔を見せたのか、ってあたりはきっとワイドショーなんかが取り上げてくれるだろうからそっちで確認。見るからにシュールとしか言い様がない光景を、当然と思ってしまうくらいにその強権は浸透していたんだろうなあ。他にもいろいろルールがありそう。掘り下げていくメディアはあるか。要注目。

 「天保院京花の葬送」シリーズに出てくるイケメンでいけすかない霊能者にしてアイドルの初ノ宮行幸をスピンオフ的に取り出し主役に据えた山口幸三郎さんの「初ノ宮行幸の事件簿」に新作「初ノ宮行幸の事件簿2」(メディアワークス文庫)が登場。霊が見えて引き寄せてしまうタイプの美雨という新米マネージャーを引っ張り助手にして霊能の仕事に引っ張り回した第1巻と同様、呪われた宝石の鑑定を引き受けボロアパートのドアがどんどんと叩かれる霊障の解消に乗り出しては、それぞれの現場で囚われた霊を開放しつつ事件を解決してのける。そんな活躍の影になにかある過去の因縁。美雨は敵かといった言葉があり、そして行幸や妹を狙って殺そうとする企みもあって今までにない危機が兄と妹に訪れる。美雨はまだくっついているだけだけれど、その存在を気にかけている感じから今後の展開に絡んできそう。いったい影で何が動いているのか。行幸の兄らしき存在が狙うものとは。続きが気になるシリーズになって来た。

 巨大な会場をとてもじゃないけど回りきれないワンダーフェスティバル2018[夏]で見落としていたかもしれないフィギュアを見にホビーメーカーの合同展示会を秋葉原で見物。「はたらく細胞」とか「邪神ちゃんドロップキック」とか「ゆらぎ荘の幽奈さん」とか「プラネット・ウィズ」といった目下テレビで放送中のアニメーションからいろいろとフィギュアが出ていることに気がついた。原作もある作品だからそっちの流れかもしれないけれど、これといった作品がなかなか出づらい状況でフィギュアメーカーもいろいろと次のトレンドを探るべく、これと思った作品のフィギュアに挑んでいるっていったところなのかもしれない。「プラネット・ウィズ」は原作がないアニメオリジナルでその絵コンテを描いた人が漫画を連載しているくらいだからメディコス・エンタテインメントは盛り上げに1枚噛んで盛り上げようとしているのかもしれない。先生フィギュア、売れるかなあ、作品ともども売れて欲しいなあ。

 そのまま秋葉原でセガ・インタラクティブから登場する「ボーダーブレイク」のプレイステーション4向けの完成披露会を見物。目玉は1分の1「輝星・空式」で、いわゆるロボットの実物大って奴だけれどもそういうジャンルは例えばガンダムがあってボトムズも作られていて他にもいっぱいあるから目新しいものではない。フィギュアだって等身大がいっぱい出ていたし。だったら何が売りかというとこれがプラモデルだってことで、ランナーに取り付けられる形でまずは掲出され、それを切り出して組み立てた上で色を塗って汚しもいれて作り上げた1分の1プラモデルってところが目新しい。完成してしまえば同じ1分の1模型でも、作る過程にそういった手間暇があって、なおかつすばらしいフォルムに組み上がるところにどれだけの計算があったか、考えると苦労を称えたくなってくる。ゲームの方はプレイステーション4を持っていないから遊べないけれど、10対10のバトルとか楽しそうだしいつか手に入れたら、そして良質なネット環境ができたら試してみたいかな。前島亜美さんは舞台「クジラの子らは砂上に歌う」のリコスとは違っていたなあ。そりゃそうだ。


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