縮刷版2018年7月中旬号


【7月20日】 走り続けるサッカーとかエンドラインを走り回り時にネット際まで脱すするテニスとか、前進後退が激しいバドミントンとかターンオーバーが続いて行ったり来たりを繰り返すバスケットボールに比べて、瞬間的な動きと判断力が重要なバレーボールは運動量としてはそれほど大きなものはないと聞いたことがある。野球もそうで、投げ続けるピッチャーと受けては返すキャッチャー以外の守備の選手は、位置を変えて動きはするものの試合中はだいたい止まっていて、そして攻撃の側も打つときの筋力瞬発力は求められても走力は瞬間であってそれもベースを1周するのが最大。その意味では運動量そのものはやっぱり多くはないようだけれど、こと体力となると守備の時にずっと守り続けるのは結構大変。相手が強ければその時間もどんどんと長くなる。

 熱中症は運動していようとしていまいと暑い中に居続ければなるものだから、いくら瞬発力や走力のために鍛えられた野球選手であっても、炎天下に立ち続ければやっぱり熱中症の危険はある。だから真夏の高校野球なんて止めてしまうのが最善なんだけれど、主催している朝日新聞社も日本高校野球連盟もそれは伝統もあるし商売でもあるからできないというなら、せめて日中の午後1時から午後4時くらいまでは開催を中断する勇気をふるって欲しかったなあ、というのがこの2者がこの夏のあまりの暑さを受けて、高校野球の地方大会に向けて発進した呼びかけについて感じたこと。それも叶わないとして、試合中に水分を補給する時間を設けるとか、理学療法士を置いて様子を見させるとかいった対応は、運動量を鑑みるならベターなチョイスと言えるかもしれない。

 ただ、そうした対応がとれるのも試合中の選手たちに対してであって応援に来て灼熱のスタンドで声を出し続ける学生だとか、試合に向けて炎天下を練習している選手たちに対してどこまで配慮が行き届くのかが少し心配。学校という枠組みの中で教師たちの判断に委ねられる応援に果たして朝日新聞や高野連の配慮は通じるのか。従来どおりの国家総動員的撃ちてしやまんな応援が続けられて倒れる人続出になる可能性はないのか。はるか甲子園で炎天下に試合が行われているなら、こちら学校のグラウンドでも同じように練習をして悪い訳がないと突っ走る指導者はいないか。そうならないためにも範を示す形で炎天下に試合は行わないという判断のモデルが欲しかった。そうなるためにはもう少し事態の進行が必要だけれど、それには犠牲が伴う訳で……。難しい。

 eスポーツに関心を寄せている毎日新聞社が、ゲーミングPCの「GALLERIA」シリーズを出したり、eスポーツ要施設を運営したりしているサードウェーブと組んで全国高校eスポーツ選手権を開催することにしたとか。e選抜と名付けなかったのはセンバツに関わっている日本高校野球連盟への配慮もあったんだろうけれど、そうした毎日の動きに対抗するべく朝日新聞社が高野連と組んで全国高校e野球選手権大会、通称「e甲子園」を立ち上げたとして起こることは公平性の観点とそして甲子園という伝統への配慮からe甲子園も開催場所は真夏のグラウンドに設定し、炎天下の中でプレイさせてスタンドからブランスバンドとチアリーダーが応援するといった光景か。でもゲーマーなんで体力ないし暑さにも弱いんでそんな大会いやだと全員逃げたというオチ。そんな展開ある訳ないけどありそうでちょっとドキドキ。

 高野連とは違ってNPB日本野球機構の方は開明的というか、時代としてそうならざるを得ないと感じて入るのか、コナミデジタルエンタテインメントと組んで「eBASEBALL」のシリーズを立ち上げることを決定。すごいのは12球団がちゃんと参加してそれぞれにドラフトでもって3人の選手をピックアップし、それぞれに球団の“選手”としてeBASEBALLの大会に送り出すこと。巨人だ中日だ阪神だロッテだ日本ハムだ楽天だといったチームの看板を背負い「パワプロ」を戦う選手たちをスポーツメディアがちゃんと追い、紹介していくことで日本にもeスポーツというのは見て楽しくやればきっとすごいものだといった認識が広まるんじゃなかろうか。本当にすごい選手の試合は本物の試合を見ているように興奮するんだ。サッカーの場合だけど。野球はどうなんだろう。あのデフォルメされた可愛いパワプロくんが戦ってもやっぱり野球味(きゃきゅう・み)を感じるのか。興味津々。見ていこう。賞金はでもやっぱりプロモーション協力費なんだなあ。そこは突破できないか。

 映画館でさあ始まるかと思ったところで流れた聞き慣れたテーマ曲とそしてエヴァンゲリオンのフォルム。真希波・マリ・イラストリアスが登場してはピンク色のプラグスーツをまといピンク色したエヴァのあれは8号機だか弐号機との合体だかをぶん回している楽しげな映像が告げたのは2020年の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」公開で、これまでまるで情報が出ていなかったところに予告もなくぶつけてきたカラーの凄さを改めて噛みしめる。予告編について言うならマリ好きとしてはマリがいっぱい出てくれて嬉しい限りだけれど、予告編が本編とは無縁なのもまた新劇場版に言えること。2020年までワクワクしながら見て驚くか喜ぶか。それは監督次第ってことで。2020年まで生きる勇気だけは湧いてきたぞ。頑張ろう。

 結婚はしておらず子供もいないから子育ての苦労というのはまるで分からず、子供がどういった仕草を見せ言動を見せわがままを言い甘えもしては、親を喜ばせ悩ませ怒らせ焦らせるかもよくは知らない。一方で兄弟はいても双子で歳に差はないため、弟なり妹が生まれてそちらに親の関心が向かい、兄なり姉として見捨てられたような気分になるかどうかも経験がない。もちろん双子でも扱いに差はあることはあるけれど、本当の幼少期にそうした差異は感じるほどには大きくなく、長じて浮かび上がる際も愛情の多寡ととるかというと単純に人間の違いによる区別だと割り切って受け止めることができるくらい、自分という存在を理解はしていた。

 だから親という立場に自分を重ねて4歳の男の子が愛情の揺れを感じて暴れ泣き叫ぶ姿に慌てる感情は浮かばないし、子供という立場からくんちゃんという4歳の男の子の立場に自分を重ねて愛情を奪っていった誰かに嫉妬し暴れるような感情も浮かばない。その意味では細田守監督による長編アニメーション映画「未来のミライ」は自分とは縁遠い、あるは無縁とも言えるキャラクターたちによって繰り広げられている物語だとも言える。けれどもだからといって無縁ではない。むしろ人間としてこの世界に生まれ育ち長じて老い死んでいく日々を経験している者のすべてがどこかに自分との重なりを感じ、共感めいたものを覚えることができる映画だ。全方位に全解放され全世代から関心を持たれ得る映画と言っても良い。親でも子でも、青春まっただなかの男女でも友達の少ないオタクでも見ればそこにつながりを感じる。そんな映画だ。

 大人の身で見るならば、美人で頭の良さそうな女性が妻になったからといって家庭は毎日が明るくて楽しく幸せに満ちたものではないし、優しげで才能のある夫だからといって家庭内で役にたち自分のことだけを思っているものでもないということを突きつけられる。有り体の幸せな家庭像といったものとは違う現実を現出させては人間はそれぞれに個人であって、個性があってほかと相容れないこともあるけれど、それでも重なり合う部分を見つけて寄り添っていけるのだという真理を感じさせる。全部が理解できる訳ではなく、全部を受け入れられる訳ではないけれど、それでもお互いを認め合うことはできる。そんな真理も。

 子供の立場で考えるなら、自分を中心にして世界は回っている訳ではないけれど、それでも自分を強く思って欲しいのだったら誰かをちゃんと思うこともしておいた方が良いと諭される。受け入れること。認めること。そうやって子供は自分を貫き通しつつ、誰かに譲ることも覚えてこの大勢の人が生きている世界を歩んでいけるのだと知るのだ。

 誰だって自分ひとりでは生まれてこれないし生きてだっていけはしない。遠い昔に誰かがいて生まれ成長して誰かと出会ったから今の自分が存在する。そういった成長や出会いの過程で感じた何かがくんちゃんという男の子の周辺で繰り広げられるファンタスティックな出来事によって描かれる。自分は自分だという当たり前のことを知らされ、そして誰かもそんな風に自分は自分だと思っている誰かだと教えられることによって自分がいて誰かがいるこの世界に足をつけられるのだ。

 特定の誰かに自分を重ねるというよりは、起こるさまざまな出来事の中で親になり子になり犬になり妹になり自分自身にもなって自分を感じ周囲を感じ取っていく大切さを知る映画。全方位で全世代向けというのはそういう意味。それでいて決して平板に馴らされていてどこから食べても同じ味の甘い菓子にはなっておらず、それぞれに苦みを感じさせてそれによって自分との関わりを感じさせるというテクニカルなのか強引なのか分からない手法に満ちた映画。計算なら凄いし本能なら素晴らしい。細田守監督にとってこれはたぶん進歩だろう。どこかへと向かう。その行き先はちょっと想像が付かないけれど。

 4歳の男の子には最初聞こえなかった上白石萌歌さんの声がどんどんとわがままで愛情に飢えた4歳児に聞こえてくるから不思議だし、母親の麻生久美子さんはきりりとして美しくて愛らしい母親といった感じを存分に味わわせてくれる。星野源さんの父親は優しげで抜けていながらも時々薄情で自分勝手な感じもある、案外にクズかもしれないけれどそれでも頑張ろうとしている父親の感じをよく出していた。そしてひいじいじの福山雅治さん。ビジュアルともども格好良すぎだ。そうした声の演技の一方で絵の方も顔の芸があちらこちらで炸裂していて楽しく、動きの方もコミカルな仕草がいっぱいにちりばめられていてこちらも見ていて実に楽しい。アニメーションを見ている意味というものがあるとしたらそこだろう。

 実写の俳優では出せない表情や仕草。そこへの関心を抱かせることによって映画館でまた見ようといった気にさせてくれる。ストーリーだけでは引きつけられない観客を動きや表情によって何度でも見たいと思わせる。だからまた行って見ようと思っている「未来のミライ」。そうやって自分との関わりをさまざまな方面にだんだんと感じることによって、家族を持とうと思うとか子供が欲しいと感じたところでもはや手遅れ感もあるからそこは抑えつつ、誰かへの関心と配慮を覚えつつ自分への関心や配慮もお願いと思う、そんな連鎖が世界に満ちればもっと楽しくて生きやすい世界になるかもしれない。


【7月19日】 劇団四季を立ち上げた演出家の浅利慶太さんが死去との報。晩年はいろいろと問題もあって劇団から手を引かされていた感じだけれど、日本にミュージカルを観る観衆を植え付け専用の小屋でミュージカルを公演し続けることができる状況を作り出したのはやっぱり大きな才覚。今流行りの2.5次元ミュージカルだって劇団四季の「CATS」だとかいろいろなミュージカルが社会にとけ込んでいたからこそ、見に行っても恥ずかしくない文化だという認識が醸成されてその上に、アニメや漫画やゲームが原作のミュージカルだってあって良いといった空気が流れて2.5次元ものが生まれて来たんだろう。その意味では源流を作った人。偲んで忍び足りないことはない。

 当人を観たのはたぶん1度、1998年に開かれた冬季五輪の長野大会に向けた開会式を浅利慶太さんと新井満さんが担当するってことになった発表会見に出席していたんじゃなかったっけ。電通を担当してたこともあって誘われてのぞいた記憶があるけれど、その開会式は真冬の屋外に長野ならではの御柱を立てそれを相撲の柱に見立てて裸の相撲取りが出てきて土俵入りを見せるといったようなものだった。いくらなんでもドメスティック過ぎるだろうといった声も上がったけれど僕は案外にこの開会式が好きで、華やかできらびやかで派手な部分も多い五輪の開会式にあって、日本らしさを感じさせる静謐で清浄な雰囲気というのを醸し出していた。

 伊藤みどりさんが巫女になって聖火を転倒したのは以下略。でも冬季五輪における日本の当時のトップスターだったから起用自体は悪くないと思った。最近じゃあ艦娘もやっているみたいだし、観る側の感受性も吹っ切れているといったところか。そんな開会式を次の東京五輪で手がける前に浅利慶太さんはこの世を去った。もとより担当するとは限らなかったけれど先達としていろいろ語って欲しいところもあった。何か言葉を残していないかなあ。というか抑制が効いて威厳もあった開会式が次の東京五輪ではいろいろととんでもないことになりそう。

 東大法学部を出て通産省に入りコロンビア大学でMBAを取得して退官し、ボストンコンサルティングからエルメス・ジャポンといった外資系を渡り歩いた国際通に見える才媛が、なぜか国会議員として盆踊りとラジオ体操を東京五輪の開会式でやろうとか言い出している。まったく訳が分からない。自分がそう思っているならアレだしそう言わされているならそう言わせてしまう国会議員という社会がどうにも恐ろしい。このまま行くとねぷたが踊り阿波踊りが乱舞して神輿がぶつかり合う中をAKBグループが3000人集結して踊り歌う凄まじい開会式がやって来そう。せめてライゾマティクスとチームラボとネイキッドが手を組みテクノロジーで彩る開会式にしてくれれば良いんだけれど。今の国政を担う人たちの歓声がどうにもこうにもポン酢だからなあ。そして東京都知事も。打ち水と浴衣で暑さを凌げって。どんな五輪になるかなあ。それで日本への憧れはどこまで減退するかなあ。いろいろと楽しみ。

 ライトノベル系のヘリコプター物では小川一水さんの「回転翼の天使−ジュエルボックス・ナビゲイター」(ハルキ文庫)が真っ先に思い出されるけれども、現代が舞台のお仕事小説でもあったそれとは違って第12回小学館ライトノベル大賞で審査員特別賞を受賞した喜多川信さんの「空飛ぶ卵の右舷砲」(ガガガ文庫、611円)は人類が植物たちに追われ海上で存命している未来が舞台となったSF設定。そこに現代のヘリコプターが甦って飛び交う。何でも豊穣神ユグドラシルなるおそらくは植物を操作する人工技術があって、それによって人類は繁栄を極めていたけれど、そのユグドラシルが反乱でも起こしたかして人類を半数以上を殺戮。そしてユグドラシルの配下で樹獣や樹竜といったモンスターが地中からわき出て人類を陸地から海上へと追いやってしまう。

 それから幾年月が経ったか。人類は東京湾岸だ伊勢湾岸だのといった海上に都市を築いてしっかと生存し、文明も維持していたけれどそこでは資源がなく、陸地に残してきた過去の遺物は重要なアイテムとなっている。なおかつ樹竜と呼ばれるモンスターも倒して解体すればさまざまな部位が利用可能とあって、陸地からヘリコプターを回収して修理し改造もして維持し、飛ばして陸地へ向かう人々がいて、ヘリコプターを戦力として樹獣と戦う組織もあった。そんな設定の「空飛ぶ卵の右舷砲」でセキレイという名の組織のお堅いお嬢様指揮官と、モズという名のやさぐれた女のヘリコプター船長が対峙する。

 操縦士でも機長でもなく船長と呼ばせているあたりにモズの妙さが漂うけれど、ヘリコプターと武器の扱いにかけてはエキスパートで、ヤブサメと言う名の青年を副操縦士にして鍛えていっしょに空の女王号なるヘリコプターを操り資源を回収し、樹竜を倒していたところにセキレイが任務の途中、八王子あたりでヘリコプターの故障に見舞われ不時着し、そこで樹獣や樹竜に襲われる事態が起こってモズがヤブサメとかけつけ助け出す。モズとセキレイには過去に因縁があったようだけれど、新宿のビルからコンピューターを発掘する任務を成功させるため、セキレイはモズたちを雇い入れて作戦を立案する。

 そして挑んだ戦いでは、ヘリコプターを駆使した空戦があり、樹竜との熾烈な戦いがあってとなかなかのアクションを楽しめる。なおかつセキレイを陥れようとする謀略も感じさせ、今後の展開を期待させる。なによりユグドラシルがどうして暴走し、地上から人間を追い出しながら会場へとは追っていかないのかも謎。それらが明かされるだろう続刊が今は待ち遠し。しかしやっぱり最大の驚きはセキレイとモズの関係か。まさかモズが前に乗せてた副操縦士って……。いろいろ楽しみ。

 あえて言おう。ポン酢であると。とある自称するところの全国紙で論説委員と編集委員の肩書きを背負っている記者が、コラムでもって自民党による若手議員たちによる宴席こと「赤坂自民亭」の正当性を蕩々と訴えているんだけれど、200人以上が亡くなられ、行方が分からなくなっている災害への備えは万全だったかが問われている案件で、今後予想される事態を深く考慮せず酒席を催し、そこに総理も防衛相もいいたことが問題視されていることにコラムでは何ら説明をせず、立憲民主党の蓮舫議員が宴会の日付を間違えたとか、自衛隊にも自治体にも何ら命令を下す権限を持たないい野党議員がパーティをしていたと書いて話をそらし、政権与党の政府関係者で責任者が、有効な手立てを打てなかったという本質から目を背けさせようとしている。

 結果として災害は起こり、大勢の人が亡くなった事態にいったい政府はどんな対応したのかが強く問われてて、土曜と日曜の2日間にほとんど私邸にこもっていたように動静ではなっている総理が具体的にどういった指示を行ったか、それとも何もしなかったかも問われているにも関わらず、そうした空白をいっさい指摘しないで「赤坂自民亭」は問題ではなかったと書いていったい誰が信じるか。あまつさえ「もちろん被災者・関係者にとっては、赤坂自民亭は不愉快だったろうが」とまで書いて、被災者の気分の問題に落とし込む。違うだろう。不愉快どころの話じゃないだろ。亡くなってるんだよ大勢が。悲しんでいるんだよ関係者は。不愉快とすら思えないんだよ亡くなられた人たちは。そうした人たちへの一切の弔意も示さないまま政権の、というより安倍総理の擁護にひたすら走った筆にどうして社会は怒らない? まあ怒っているからこその世間一般から乖離し経営もいろいろだったりするんだけれど、それでもなお止めないところに将来を捨てて今の果実をむさぼり尽くそうとする経営のスタンスも見えてくる。これは東京五輪は迎えられそうもないなあ。


【7月18日】 こんなニュースを見た。「陰陽寮は、真夏に開催される2020年東京オリンピック/パラリンピックの期間中、風水への介入など呪術的な『暑さ対策』を行う。やませを南下させ太平洋沿岸を摂氏20度前後に抑える。龍神を呼び雲をたなびかせ日射を遮る呪術も行う。国家的要請であるから気温低下による冷害による不作およびこれに伴う大量の餓死者発生はこれを考慮しないものとする」。ちょっと前に東京都が暑さ対策として打ち水実施だとか浴衣推奨、オープンカフェの開業要件の緩和なんかを打ち出したことがあったけれど、暑さそのものへのまるで対策になっていないこれらがさらに気温の上がった現在、愚考ぶりを増して襲いかかってくる中で、本気で呪術的対策を繰り出さないと大変なことになると思ったのであった。でも冷害はいやだよなあ。勅令で開催を秋にズラすしかないよなあ。無理だろうけど。

 別に片渕須直監督によるアニメーション版こそが唯一絶対であるといった原理主義者ではなく、こうの史代さんの原作漫画を土台にして、どういった解釈を行いどういった演出で描くかはそれぞれの媒体の演出家が考えれば良いことで、その結果をあとはだから受け手として支持できるかどうかといったところ。だから北川景子さんがすずさんを演じた日本テレビによるドラマ版「この世界の片隅に」も、美人の北川さんが見られる楽しさと、そして遊郭の入口でリンさんと出会うあたりのやりとり、桜の木に2人して上る場面の美しさといったところに見るべき何かを感じて、それはそれであって良いものだと思っている。

 もしも片渕須直監督がアニメ映画「この世界の片隅に」ですずさんをおっとりとしてのんびりとして純朴すぎる姿に描き、そういった性格をのんさんに演じさせていなかったら北川さんのすずさんもひとつのスタンダードとして今に伝わっていたかもしれないし、それに納得していたかもしれない。ただ、アニメ映画「この世界の片隅に」が出てしまって、そこでのんさんの演技によるすずさんのあまりにもハマった感じが出されてしまった今だと、振り返って北川さんによる「この世界の片隅に」を見てこれがスタンダードと思えるかというと難しいところ。それでも、そういったものがあって良いとは思うし、それが北川さんらしさでもあると思っている。

 だからTBSがドラマとして送り出してきた「この世界の片隅に」があまりにも片渕須直監督が演出し、のんさんが声を当ててスクリーンの中に描き出されたすずさんのイメージを踏襲していることに、どうしてそこまでかぶせるんだろうという疑問も起こらないではない。原作の漫画版を映像化すれば必ずそうなる、とは限らないのは北川さん版のドラマが過去にあることからも明かで、演じる役者によって変わって当然なのに松本穂香さんがすずさんを演じたTBSドラマ版「この世界の片隅に」は喋りもしぐさも雰囲気も、漫画を元にアニメーション化され声もつけらえたキャラクターとしてのすずさんが重なっているように感じられる。評判の良かったアニメーション版を踏襲するなら、そうするのが当然といった演出家の理解があったのかどうなのか。そこがちょっと気になっている。

 それなら、徹底した考証も含めて踏襲するのがアニメ版「この世界の片隅に」への表敬なんだけれども片渕須直監督が当時の再現に徹底してこだわり、膨大な資料を当り現地を訪ね歩いて人にも聞いて描き上げたあの世界を、そのまま再現する努力をしているかというとそこはドラマ的な戦時中のビジョン、たとえば縁側のガラス窓にバッテンの紙テープを補強のためにと貼ってしまうようなことを、あっけらかんとやってしまうところがあって、アニメ版に抱いたリアルだからこそ、徹底して再現されているからこそそこに現実に人がいたんだと感じられ、故に見舞われた理不尽ともいえる暴力の痛ましさに胸を打たれた感情を、蔑ろにされているような気がしてならない。

 TBSドラマ版が原作漫画の持つニュアンスを独自に解釈してドラマに仕立て上げようとしたのなら、そういったアプローチもテレビを見る広い層に対して、戦争という災厄を記号化して短時間ですり込む上で効果的な方法なんだと言われれば納得する。でも、どこか評判の良かったアニメ版を引きずりながらもドラマとしての分かりやすさに堕ちてしまう態度は、徹底した検証と再現にこだわった片渕須直監督によるアニメ版の真摯な態度、表現者としてのこだわりを袖にされているような気になって、どうしたものかといった気になる。

 当時を徹底して再現するということは、当時を生きていた人たちで、今もまだ生きている人たちにぎりぎりになっても当時を感じて欲しい、思い出して欲しい、映画の中に自分たちの居場所を見つけて欲しいという意思の表れでもあった。フィクションにまみれた架空の戦前戦中戦後では無く、自分たちが本当にいた時代を感じて思い出を蘇らせて欲しいという配慮でもあった。なおかつ当時を知らない人たちも、徹底せいた検証の上に成り立った当時が、日常と地続きの中で少しずつズレていってそして戦争という非日常に知らず引っ張り込まれていく怖さを感じ取ることができた。戦争とはこうである、戦時中の暮らしとはこうなのであるという押しつけのない描写にこだわったからこそ、今という日常がするりと非日常にズレていってしまう恐怖を感じ取る手助けになった。

 そうした思いなり意識をもって子供たちが歌う童歌であっても、仕事場に向かって行進する女学生たちであっても当時あっただろう歌を歌わせた。それなのにTBSドラマ版「この世界の片隅に」では脚本家が歌詞を書き、宮崎駿監督作品で知られる久石譲さんが音楽をつけた童歌をすずさんに歌わせる。そんな歌が戦前戦中の日本にあったはずはない。だから歌われたはずもないのに作って歌わせる意味って何だ? それは歌詞であり音楽でもって表現したい意図があるから。それをキャラクターの上にかぶせて誘導したいという演出いとがあるから。

 再現することで当時を描いて何かを知らず感じさせる演出とは対局にある手法。そして徹底した調査と再現にこだわったからこそ味わえた感慨を支持する自分には少し受け入れがたい手段だとも言える。それをやってしまう意味って何だろう。やっぱり商売かなあ。話題作りかなあ。作品そのものでメッセージを語るだけでは足りないと思い架空をぶち込んで持ち上げるテレビ屋さんの手癖が出てしまったのかなあ。いずれにしてもリアルさの探求とは相容れない話。それがどういった受け入れられ方をするか、まあテレビという超マスを相手にした場で繰り出される感動の押しつけは、実際に感動を誘うだろう。それがスタンダードになる可能性もあるけれど、僕はやっぱり静かに過去を掘り続けたアニメ版の作法を支持する。そして長尺版が出て完璧なまでに再現されたその世界で繰り広げられる、架空だけれどもあり得たかもしれないエピソードに同情して感嘆して涙するのだ。

 暑い中をお台場へ出向いて東京ジョイポリスでA.B.C−Zとのコラボレーションを見物。ジャニーズのアイドルグループってことでとてつもない人出を予想したけどさすがに到着が受け付け開始の40分前だったから6番目くらいで並ぶことができた。トップはたぶん週刊女性のジャニーズだったらかならず登場される老カメラマン。きっといろいろな現場を目の当たりにして来たんだろうなあ。長い経験と蓄積が許されるのがメディアの良いところだねえ。とはいえ、最近は刹那的に来ては撮って次は違う人といった感じで物さえあれば良いといった感じなっている。人脈も経験もたたれていった先に残るのは断片としての情報だけ。それが途切れていった先にきっと日本も薄っぺらい情報だけが行き来する乾いたメディア状況になるんだろう。それは人々の好奇心も執着心も薄れさせて国力の低下をもたらす。日本はだんだんと死んでいっているのかしれない。

 それにしてもA.B.C−Zはまだまだフレッシュな感じがあるんだけけれども、メンバーは橋本良亮さんをのぞけば4人が30代で年齢的には中堅の域。どうりで受け答えもしっかりしていて見せるところも見せてくれた。ファンへの態度もさわやかでこれは好かれるグループだと思ったけれど、メジャー感となるとやっぱり今ひとつ。だからこそ広告展開だとかがこれまでなかったんだろう。東京ジョイポリスで初広告。ここから羽ばたいていって欲しいなあ。デジタルライブというステージで繰り広げられる映像のショーは2曲が歌われダンスもあればプロジェクションマッピングもあってと見ていて楽しくそして盛り上がる。良い歌だしアクロバットも見せてくれるし、ジャニーズらしさを持ったグループ。ちょっとだけファンになった。年末に向けて紅白歌合戦とかあれば良いけれど。他にいろいろあっただけに出番も回ってくるかな。注目。


【7月17日】 そして見た「キラッとプリ☆チャン」で3人目の「ミラクルキラッツ」メンバーが誕生。ってすでにマネージャーとして撮影に宣伝に大活躍していた青葉りんかがついにプリチャンデビューを果たして桃山みらいよりも萌木えもよりももしかしたら人気が出そうなビジュアルとダンスを見せてくれた。なんだあの足上げは。もしも9月のプリチャンライブに声を演じて歌も歌っている厚木那奈美さんが出演したら果たしてあんなダンスをコピーし切れるのか。そこが目下の注目ポイント。それだけにライブはやっぱり外せなさそう。

 こうして3人になった「ミラクルキラッツ」に対して赤城あんなと緑川さらの2人で作っている「メルティックスター」は2人のままで行くのか。桃黄青に赤緑となれば残るは紫か。紫紺のキャラクターが新登場して加わるか。そうした興味も生まれてきたけどまずは来週、りんかちゃんがプリチャンをやろうとしなかった理由、自分が大好きなお兄さんからプリチャンを奪ってしまったのは本当なのかを検証する話が描かれそう。今だって赤いめがねぇの下でプリチャン運営に一生懸命走り回っている兄がプリチャンから逃げているとは思えないから、りんかとは逆の方向で裏方に回る喜びを得たってことになるのかな。そして復帰して男3人のチームが登場とか。いろいろと気になるこの先の展開。盛り上がれ。

 バレないと思っていたのだとしたら粗忽だし、バレてもかまわないと思っていたのなら納税者も舐められたものだというか、そうした税金の使い道が反反日的だから無罪だと許される風潮が漂っていて、それに全体が乗っかって浮かれているというか。特定の出版社が作ってる教科書を採択させようと活動をしている団体があって、そこに地方自治体の首長が名前を連ねている集団が1200万円もの事務局委託費を出しているという構図が浮かび上がった。お金が例えば首長のポケットマネーから出たものだったとしたら、特定の思想なり信条に傾く教科書の採択を促す商業的であり思想的な団体に、教科書の採択を担う地方自治体の首長が肩入れしている気まずさはあっても、一個人としての信条若しくは公約の発露であるといった言い逃れもできたかもしれない。

 ところが、どうやら首長たちの集まりに寄せられたお金は公金ですなわち税金であって、それが首長たちの集まりを経て特定の教科書の普及・採択を促す団体に回っているというのはヤバさを通り越してある種の癒着であり、優遇だと言える。普通だったらあり得ない構図で、だからなかなか露見しないようになっていたのが沖縄タイムズによって情報公開請求もあったからか明るみに出て、地方自治体の公金が首長たちの集まりを経由して特定の教科書を持ち上げる団体に回っていたことが裏付けられてしまった。バレたらもう大変になること請負なのに、それを平気でやってしまうのはバレなきゃ良いと思っていたのか、バレても問題ないといった気分が漂っていたのか。とはいえもうやらないと言っているからには後ろめたさはあったんだろう。

 かといって認めてしまうと優遇も認めることになるから特定の教科書を押していた訳じゃないと言い訳をして来た。もっとも団体はその教科書しか推してない。そのために作られた団体だから当然と言えば当然か。だからどこにも言い訳できる余地なんてないのに、言い訳をすれば逃げられると思っているいるのもまた、昨今の国会を中心とした風潮の現れなんだろうなあ。誰もが嘘をつき、それを突き通して知らん顔をして逃げ通す。モラルも何もない社会が本当に始まってしまった。それが行き着く先は果たして。一方でもうお金が回ってこなくなったら団体はどうするんだろう。反日左翼メディアに邪魔されたからとカンパでも募るか。そこに国士然としたお金持ちがお金をぶっ込むか。それでやんやの喝采を浴びるか。想像できるだけにやっぱり厄介。参ったねえ。

 ゲネプロでいくら間近に見たところで、観客がいない舞台はやっぱり舞台という文化の魅力を半分くらいしか体験できないといった思いもあることと、それからやっぱりもう1度くらい女の子たちがステージの上で歌い踊り演じる姿を見ておきたいと思って仕事を抜いて自腹でもって当日引換券を購入し、品川プリンスホテル クラブeXで開催中のあにてれ×=LOVE ステージプロジェクト「ガールフレンド(仮)」を見てくる。5列目だったけれどそれでもやっぱり近いことには変わりがなく、そしてステージに対して正面に近い位置、そしてゲネで見た時とは反対側からだから違った角度で演じる人たちを見ることができた。

 あとはゲネだとやっぱり中心となるメンバーを抑えようとするから見方が偏ってしまうけど、普通に観覧すれば万遍なく隅々まで目をやることができす。そして思ったのはちょっぴりセクシーな言動を見せる望月エレナ役の大場花菜さんがなかなかの芸達者ぶりだったこと。セリフ回しもくねくねとした動きもすっかりセクシーでエロティックな望月エレナって雰囲気を出していた。そしてパフォーマンスグループに入っていた軽音学部にたぶん所属の風町陽歌を演じていた野口衣織さんの歌の上手さ。ソロとか集団の中で歌うところとかがあってそこでしっかりとしてのびのびとした歌声を聞かせてくれていた。

 あとゲネだと声が出せなかった鴫野睦役の瀧脇笙古さんがちゃんと調子を戻してきていて代役じゃなく自分の声で演じていて、なかなかに特徴的な声だと気がついた。=LOVEがアイドルユニットであると同時に声優志望者でもあるとするなら瀧脇さんの声はとても勝負ポイントになりそう。演技力の大場さんともどもちょっと今後の活動に注意していこうかな。瀧脇さんと同じ生徒会チームでは副会長の篠宮りさを演じていた山本杏奈さんもハキハキとした声質だからこちらも声優としての活動を気にしたいところ。そしてやっぱりクロエ・ルメールを絵似ていた齊藤なぎささん。前の「けものフレンズ」ではツチノコというちょっぴり卑屈な役を好演したと思ったら、こちらでは留学生で妙な日本語をちゃんと最後まで貫き通した。美少女っぷりが注目されているけれど、才能の方でも注目しておきたい。

 ヒューリック杯棋聖戦とかいう、いつの間にか冠スポンサーがついていた将棋のタイトル戦で挑戦者だった豊島将之八段が羽生善治棋聖・竜王を破って初タイトルを獲得した模様。羽生さんは竜王のタイトルが残ったけれどもこれで1冠となり、そして他のタイトルもすべてが別の人というちょっとした群雄割拠過ぎる状態が訪れた。1人で何タイトルも持っているのは別に以上ではなく、強いときには強いといった波によるものなんだけれどそうした波を抑えても、データでもって勝ちを得られる時代が今は来ているのかもしれない。挑戦者になるのも容易ではない時代、果たして複数タイトルを保持する棋士は出てくるのか。それより羽生竜王はタイトルを守って100期という大台を達成できるのか。ちょっと注目。あるいは他のタイトル戦に出てくることもあるのかなあ。藤井聡太七段はちょっと出てきそうもないか。しかし大看板の羽生さんを失って棋聖戦、ヒューリック杯だなんて外からお金をもらわないと維持できない状況からそろそろタイトル戦を投げちゃったりしないかなあ。八大タイトルはやっぱり多いし。さてはて。


【7月16日】 噂には聞こえていたTBSによるドラマ版「この世界の片隅に」の放送が始まったみたいだけど、暑さのあまりに気を失っていて気づかず結果として見逃してしまう。聞こえて来た評判はといえば朝ドラの女優俳優を使って雰囲気は出しているけれど、それが片渕須直監督によるアニメーション映画「この世界の片隅に」の演技演出作法に割と沿ったものになっているとか。こうの史代さんの漫画に絵はありストーリーはあってもそれをどう拾ってテンポを作り、演技をさせて全体を整えるかは演出家の腕次第。だから以前に作られた日本テレビによるドラマ版「この世界の片隅に」は北川景子さんによるちょいツンとしたすずさんが見られた。

 でもTBSのドラマ版は前に予告編を見た時、すずさんの雰囲気がどこかアニメーション版でのんさんが声を当てて茫洋としたすずさんの感じになっていた。たとえうっかりさんでもハキハキとさせるかのんびりとさせるかは判断の分かれるところ。そしてドラマ版はそれがのんさでも違和感がない演技になっていたならやっぱり、アニメーション版の演出を参考にして近づけたってことになるんだろう。いつか映画「あしたのジョー」で演出が出崎統監督によるアニメーション版「あしたのジョー」があってこそのものだという意見もあった。そんな感じ。善し悪しというよりは、そういうのが見たい人が圧倒的に多いと判断してそうしたとここは受け取っておこう。

 ただ、片渕須直監督が徹底した調査によって1940年代の日本、そして広島や呉といった街と人々を生活とともに再現させたのに比べると、ドラマ版はやっぱりどこか分かりやすさに走った感じ。すずさんが暮らすようになった北條家。呉にあった古い民家を移築したらしいけれどもその縁側に面した窓ガラスに爆風よけのテープがバッテンに貼ってある。これについては片渕須直監督がいろいろと調査し、そうしたテープを貼るにもお米が必要だからあまりやらなかったし、貼ってもバッテンじゃなかったことをとりあえず調べ上げている。映画を見て片渕須直監督の言葉を追いかけている人ならたいてい知っていることなのに、ドラマを作った人はそこをくみ取らなかった。

 知らなかったのか、知っててあえて分かりやすさを選んだのか。どちらにしても戦争中の日本をありのままに描くことによって、今と地続きだった日常が戦争という非日常に浸食され、染められてしまう怖さめいたものをジワリと感じさせようとした映画版の精神からは、ちょっとかけ離れてしまったものになっていると言わざるを得ないのかもしれない。声高に主張せず、反戦めいた言動を込めずとも浮かぶ戦争への忌避感は、押しつけられたものではなく、自分で気づいたものとしてより強く心に刻まれる。だから生きる。それをドラマは上から押しつけようとするのなら、映画版を愛した人たちが望んだものとは違うものになっていると思うしかない。まだ第1話だけだから今後どうなるか分からないけど、そこは気にして見るなら見ていこう。見るかなあ。

 そして目覚めるとFIFAワールドカップ2018ロシア大会の決勝となるフランス代表対クロアチア代表の試合がスタート。フランス代表のフリーキックを結果としてクロアチアのマンジュキッチが触れてオウンゴールしてしまい1点をリードされ、そこから1点をクロアチアが返したものの今度はクロアチア代表の選手が意図せずハンドをとられてしまってフランスが2点目を奪って1点のリードで前半を折り返す。どこか試合が決定づけられた感じがしながらも、不運が重なった感じもあって戦術体力ではまるで負けていないクロアチアが頑張るもののそこからフランス代表の本気が出たのかポグバにムバッペといったフィジカルにもスピードにも長けた選手たちの大活躍から4対1へ。そこでオウンゴールを不運にも献上してしまったマンジュキッチが1点を返すものの残る2点の差は埋められず、フランス代表が1998年のフランス大会以来の優勝を成し遂げる。

 20年ぶりの優勝だけれど、フランス代表は2000年のEURO2000でもジダン選手の活躍で優勝したし、不運が重なった2002年の日韓大会はグループリーグ敗退の憂き目に遭いつつ2006年のドイツ大会では決勝まで残ってイタリアに頭突きを決めてくれた。いや結果としては負けた訳なんだけれどもそうやって強さを維持し続けていたかと思ったら、2010年の南アフリカ大会ではチームが瓦解してもはやここまでとなったところをディディエ・デシャン監督が引き継ぎ2012年のEURO2012では決勝トーナメントにチームを残らせ、2014年のブラジル大会ではベスト8まで復活し2016年のEURO2016では決勝進出、そして今回の優勝としっかり強さを伸ばしてきている。どうしてそんなことができたのか。そして日本代表にはできないかはうん、やっぱり協会の度量や判断力の差なんだろうけれど、それに気づかず今度もまた内輪の論理で監督を選ぼうとしていたりする日本代表に未来はあるか。それが当面の注目ポイントになりそう。

 そんなフランス代表対クロアチア代表の試合に乱入者があったようで、制服めいた姿で登場した3人は例の教会で演奏をして逮捕され拘留されたパンクバンド「プッシーライオット」のメンバーだったみたい。つまりはプーチン政権への抗議みたいなもので目の前で面子をつぶされたプーチン大統領が今度はどれだけの処置をするかが関心事だし、乱入によって試合のリズムを崩されたのだったらそれはサッカーというものにたいする挑戦でもあって、断じて許すわけにはいかない。一方でプーチン政権といういろいろとヤバいものを抱えた政体に対して異論を喚起するきっかけにもなるなら、そこにスポーツを超えた何かを見いだしたい人がロシアにはいたりするのかも。個人的にはパンツスタイルで白いシャツを着てネクタイをしめた女性というフォルムにいろいろと感じるところがあるので、そういうのが見られて気持ちはちょっぴりそそられたというか。眼鏡でも掛けていてくれたらなお最高だったかなあ。

 劇場版ってよりはテレビシリーズを分割して上映し続けるって感じだった「K SEVEN STORIES Episode1『R:B 〜BLAZE〜』」は最初のテレビシリーズに描かれた時代よりもちょっと遡って赤の王こと周防尊がまだ存命で、そして青の王こと宗像礼司はようやく力に目覚めてセプター4を組織してその上に君臨し、ライバルとなる赤の王との対面を果たしたといったところ。ここから因縁の構想が始まっていくんだけれどそれが最初のテレビシリーズまで何年くらいのスパンがあるのかまるで分からない。けどまあそこは気にせず格好いい男たちが格好いい声を響かせながら戦うのを見ればファンも満足ってことになるんだろー。ストーリーがどこまで言ったかもうすっかり忘れてしまっているし。

 テレビシリーズの2話分とあとイケメンイケボイスの男子6人がアイドル活動を始めるおまけ映像がついて1時間ちょっとで1800円は高いかもしれないけれど、淡島世理ちゃんの谷間であり膨らみを拝める映像ってことで1200円分の価値はあったし、剽軽な役が最近は増えている津田健次郎さんが凄みをきかせた声で演じてくれるのを目の当たりにできるって点でも300円分くらいの価値はあった。残り300円は新しい物語に見えることができるってところか。次は津田健次郎さんがちょい違った声で善条剛毅を演じてそして楠原郷という新入隊員も交えて青のクランを中心とした物語が繰り広げられそう。ってことは淡島世理ちゃんもいっぱい見られるってことで1400円くらいの価値はあるから映画館へと足を運ぼう。出てくれるよなあ、世理ちゃん。

 「魔法先生ネギま!〜お子ちゃま先生は修行中!〜」の大千穐楽をAiiA  2.5 Theater TOKYOで見て、改めてネギ・スプリングフィールドを演じた生駒里奈ちゃんの可愛らしさと演技の確かさにうちのめされた。それはもう強く。そしてとてつもなく激しく。終演後のカーテンコールに出てきた時の喋りはなるほどアイドルユニットの乃木坂46で活躍をした女の子といったところも漂わせるんだけれど、演技中はそうしたニュアンスをカケラもみせずに10歳の男の子で怖いことがあれば怖がって辛いことがあれば辛いと感じつつ、頑張って先生をやろうとしている雰囲気を出し続けた。すごい意志。この演技力があれば今後、他にどんな役が来ても務まるんじゃなかろうか。それとも10歳の男の子という役がハマり過ぎていたのか。それは今後の役柄次第か。

 舞台は1度、ゲネプロを仕事で見てはいたけどそれだと写真も撮らなくちゃいけないんで追いかけるのがメインどころばかりになって他の演技に目をこらすことができなかった。自腹でチケットを買って普通に客席で見ていると、HKT48の神志那結衣さんが演じる委員長の雪広あやかがとても良かったと気づいた。いかにもお嬢様然として会長風を吹かしてポーズをつくり媚びも見せるといった女の子。その演技を確かな発生でもって貫き通していた。今後舞台で期待できるかも。それから早乙女ハルナ役の竹内夢さん。決して目立つ役ではないんだけれど、カーテンコールの時にキャストを紹介するナレーションを努めていてそのノリの良さが気に行った。前に同じAiiAで見たセラミュこと「美少女戦士セーラームーン−Le Mouvement Final−」でセーラーマーキュリーを演じていた人だと気づいたなるほどこれは可愛いはずだ。

 長谷川千雨役の大胡愛恵さんはミュージカルに限らず舞台でずいぶんとキャリアのある人らしく突っ張っているけど実はネットアイドルという役をそのスリムなスタイルでもって演じきっていた。ツンとした眼鏡ってそれだけで目が向くけどちゃんと期待に応えてた。そしてカモくんことアルベール・カモミール役の斎藤亜美さん。助平な役を全身でもって演じて楽しませてくれた。板に這いつくばってスカートの中をのぞこうとしたりして大変そうだったけれど、見えたのかなあ。他にも多士済々だった舞台はこれでひとまず終わりだけれど、生駒ちゃんもほかの面々も何か含みのあることを言っていたからきっと同じカンパニーでもって「ぼく」と呼称する生駒チャンのネギ・スプリングフィールドに会える時が来てくれそう。その時はちゃんと最初からチケット買って観に行こう。これは良いものだから。本当に良いものだから。


【7月15日】 暑さに茫洋となりながらもテレビを流して見ていたFIFAワールドカップ2018ロシア大会の3位決定戦、ベルギー対イングランドは何かコナミデジタルエンタテインメントのサッカーゲーム「ウイニングイレブン」の上手い人どうしが対戦していりょうな感じで、パスがスピーディーにつながって相手ゴール前に迫るものの堅い守備に跳ね返され、それでも抜けだしシュートを打ったりしながらお互いに攻めて攻められるスペクタクルな感じが出ていた。見ていて楽しいサッカーで、もしかしたらそれぞれのプレイヤーが「ウイイレ」なりエレクトロニックアーツの「FIFA」なりをプレイして最良のサッカーって奴を身に染みさせ、それを体現するためにピッチに立っているんじゃないかとすら思わせた。

 まあ現実問題、「ウイイレ」なり「FIFA」のスピードとテクニックを再現するにはどれだけの才能と体力が必要なのかって話になるけれど、それでも理想としての鋭い攻めと堅い守りとアクロバティックなプレイが念頭にあって、それに近づけようとすることで見て楽しくやっててきっと快感を得られるサッカーになるんだろう。それなのに日本代表ときたらいつかの早い攻めよりもポゼッションからパスで崩してシュートとか温いことを理想に掲げていたりして、そんなサッカーをやていたらギリギリ買っても呆れられてしまうだろー。昔は日本代表も「ウイイレ」で遊んでいたっていうけれど、今の代表はあまり遊ばなくなっってそうしたバーチャルな理想へと迫る意識が薄れているのかもしれない。

 でもそれでいつまで支持を得られ続けるのか。「ウイイレ」にしても「FIFA」にしてもeスポーツと呼ばれるゲームの高いでトッププレイヤーたちによって繰り広げられる試合は本当に見ていて楽し。それは理想としていたサッカーのスペクタクルでスピーディーな試合をそこに現出させているようで、もしかしたら自分たちが見たかったのはこちらであって、もはや見ていたいのはこちらなんだといった意識すら醸し出させる。だからこそeスポーツと呼ばれるカテゴリーの大会には、それこそ万単位で観客が訪れ目の前のゲーマーたちによるプレイに喝采を贈り、そして中継でもって見ても感嘆と喝采を贈り続けることができる。

 eスポーツというのはなるほどプレイそのものの反射神経や瞬発力や判断力もスポーツ的ではあるけれど、こうやって大勢がプレイを見守り喝采を贈るという形態そのものがスポーツ的、スポーツ中継的なのだ。だから放送ネットワークやネットサービスが契約をして中継をしたがる。ゲーム実況なんてパーソナルな範囲を超えて一大産業になりつつあるという時に、本物のスポーツがしょぼい戦いをしてそれを鍛錬だ汗だ面子だといった部分で売り出したところで誰がついてきてくれる? 理想に迫り理想を体現することで観客はついてくるならそちらを目指すべきなのに、「自分たちのサッカー」だなんて言い出していったい誰がついていく? などと思ったベルギー対イングランド。結果はベルギーが2発で勝利し最高位に。日本が買っていたらそこに行けたか? 行っても楽しくはあせられなかったかもしれないなあ。さて決勝、勝つのはフランスかクロアチアか、そしてその試合は楽しいか。キックオフは16日午前0時。

 消費税増税に関連しての軽減税率の適用は、新聞業界にとって自称するところの死活問題で、ここで値上げを強いられれば売れなくなって経営に影響が出て、自由で公正な言論が保てなくなるといった主張をしているけれど、他のあらゆる世界で消費税率の引き上げが行われる中で、どうして言論だけが逃れ得るのかといった説明になっているかというとなっていないのは、それだで日ごろからの言論の公正性が疑われていることでもあったりする。こうなるとせめて自分のところはと言いだし、あそこは反日だけれど自分のところは親日なので軽減税率の適用をと言い出す新聞が出てこないとは限らない。

 政府が親日反日なりを判断して分けることが無理なら、業界にそれをやらせるのが彼らの手。そうなった時に果たして新聞業界は一枚岩を守れるか。そこが課題になってくるだろう。いやいやとんでもない、新聞がそんなことを言うはずがないというなら同じ言論の世界に属する出版に向けて新聞が記事として「書籍・雑誌はポルノ雑誌などを対象から排除する仕組みが課題となっており」などと平気で注釈無しに地の文で書いていることを重視しなくてはいけない。そこには書籍・雑誌はポルノ雑誌などを“有害”であり軽減税率から除外するのが正当といったニュアンスがこめられている。だから除外するかどうかが課題になるのだと書ける。

 違うだろう。そうした問題が存在することを認めてはいけないのが言論の自由だろう。自分たちが新聞でそう主張しておきながら、雑誌には内容で区別をつけ適用の範囲内と除外を決めることを許容する。その断絶はいずれ新聞へと矛先が向けられ、政府に好意的か否か、親日か反日かで分類される可能性を呼び込むものと知れ。内容で分け隔てを行うことは絶対に認められないと言え、って下っ端がいくら訴えたところで上に通じる話ではないからなあ。こうして分断され削られ続けた挙げ句に残る礼賛のメディア。その果てに来る世界は? やれやれだ。

 僕はまるでアニメーション業界に通じてないし、アニメーションシリーズの「Wake Up, Girls!」についても最初の映画「Wake Up, Girls! 七人のアイドル」を幾つか劇場へと見にいって、そして限定版Blu−rayを島田真夢と菊間夏夜のサイン付きでそれぞれ購入した程度で、以後は第1期のテレビシリーズを見たくらいで、その後の活動を追いかけていた感じではなく、アイドルユニットとしてのWake Up, Girls!のライブにも行ったことはないけれど、その後に何かいろいろとあって、監督であり原案の山本寛さんが新章と呼ばれるシリーズから降板し、その経緯もあっていろいろと荒ぶっていることは知っている。

 その原因がいったいどこにあって、誰にあってどうしてそうなったかは分からない。ただひとつ言えることは、ドリパスが「Wake Up, Girls!」の映画を3作品、「七人のアイドル」と前後編の前編にあたる映画「Wake Up, Girls! 青春の影」、後編にあたる「Wake Up, Girls! Beyond The Bottom」を上映して、それに参加して観終わった今、ただただ原案・監督を務めた山本寛さんと支えたスタッフ、出演したキャストたちに感謝しかない。そして、ここまでの世界を作り出し、これだけのアイドルたちを送り出しておきながらも、どうしてプロジェクトが足踏みをしてしまったのか、足踏みさせてしまったのかといった思いが浮かんで仕方がない。

 挫折して、何もかも嫌になっていたところに、差し伸べられた手を取ってもう1度光の中へと舞い戻り、立ち上がっていこうとする少女がいて、彼女と一緒にアイドルという場所を目指す少女たちがいて、それをめいっぱいに応援しようとする大人たちがいる。それを右に左に振り回そうとする大人たちもいるにはいるけれど、最終的にはアイドルという存在を何よりも至上において、その存在をアプローチこそ違え高みに押し上げ輝かせようとする物語を描たいのが「Wake Up, Girls!」というシリーズだった。プロジェクトでもあった。それなのに、どうしてプロジェクトに軋みが生まれ、メインともいえる人間がその場にいられなくなり、外側から異論を唱え続けなくてはいけなくなったのかが分からない。そして哀しくて仕方が無い。

 たとえ批判を浴びようとも残されたスタッフが、そしてキャストが批判の声を乗り越えてだったら再浮上したかというとそうはならず、最初に掲げた「紅白出場」という夢を叶えないまま現実のユニットが終わり、結果としてアニメーションの中のアイドルユニットとしてのWake Up, Girls!も終わらざるを得ない。アニメーションに描かれた物語、どん底にあってもすべてを失ってもそこで落ち込まず、目標に向かって努力を続けるというストーリー、それらを鼓舞するような「タチアガレ」という言葉をもらいながらも立ちすくみ、立ち止まり、そして膝を突いてしまうことが残念でならない。

 そう仕向けたのは誰なのか。あれだけの物語に関わり、アニメーションの中で誰もが前を向いて進もうとする意気込みに触れてなお、立ち止まらせて膝を付かせられる大人が存在することが信じられない。それが大人の世界? それが現実の社会? そうしたものを吹き飛ばし、超えていく力を与えてくれるのがエンターテイメントじゃないのか。フィクションであっても夢を描き希望を描いて世に問うアニメーションじゃないのか。そこに携わる人間の中に足を引っ張り、頭を押さえ込もうとし、功名を得ようとして結果としてすべてを粉々にしてしまう人間がいたのだろう。

 それが誰かは知らない。知りたくもなきえれどもひとつ、言えることはここにこうして「七人のアイドル」「青春の影」「Beyond The Bottom」というストーリーが紡がれ、間をつなぐアニメーションも含めてWake Up, Girls!の存在はアニメーションとして世に示された。永遠に語られ得てそして受け継がれ得る作品として存在を許された。ならば、あとはそこに描かれた言葉を、物語を、アイドルたちの頑張りを語り継ぎ、頑張ることの大切さを伝え続けるだけだ。

 でもWake Up, Girls!は終わってしまった? だから無駄? そんなことはない。続くアイドルたちはいくらでもいて、そこ受け継がれる魂は必ずある。いつか10年後、あるいは30年後にアイドルたちがステージに立ち、『Wake Up, Girls!』というアニメーションのシリーズを見て、Wake Up, Girlsの音楽を聞いて、描かれた物語を直接でも伝えでも聞いて立ち上がって自分たちは今、ここにいると言ってくれれば僕たちは嬉しい。そうなればきっと山本寛監督も、何かを思ってくれるだろう。今、呼びかけているような封印は行わず、取り上げもしないで残したからこそ10年語に、30年語に伝えられたと思って欲しい。そのために今はただ、2019年3月までの活動を見守り、静かに送り出してあげたい。「Beyond The Bottom」のラストで掴んだ栄冠は、そこで終わらなかったのだと思わせて。続いていたのだと感じさせて。ねえ。頼むよ。お願いだ。


【7月14日】 東京ビッグサイトで開かれていたオフィス防災EXPOに行ったついでに下でやってる福利厚生EXPOものぞいたら、社内運動会をアウトソーシングしてプログラムやらを提供している会社があった。その名も「運動会屋」は10年くらいの実績があって企業にさまざまな社内運動会の提案を行うんだとか。もちろんちゃんと当日は保険も用意し看護士さんとかも置いて体調は万全とか。この社畜だパワハラだだと言われている時代、企業が社員を呼びつけ忘年会だ社員旅行だとやるのがヤバい風潮もあるなかで、運動会やるぜって言って果たして下はついてくるのか、盛り上がるのかという心配が漂う。

 けれど、そういった意識をくぐりぬけ乗り越え実施して得られる何かがあるから10年も続けてこられたし、これからも続けていけるんだろう。やってみれば楽しそうなのは感じられる。そこへと至るさまざまな葛藤だとかをどうクリアさせるか、いわゆる健康増進プログラムの中に位置づけ、結果を得るひとつの場として提供するとかってのもあるのかもなあ。自分だったらエアガンによる射的とガンプラづくりと格闘ゲームの競技とエアホッケーとほか取り入れた社内頭脳運動会めいたものならのってみたいけど。それはさすがにないか。

 リアル書店がネット書店は固定資産税を払ってないしポイント制を使ってお客をかき集めているんで、別に課税をして公平にしろと国会議員に訴え出たらしい。いったいどこのポン酢かと。なるほどリアルに店舗を構えていれば固定資産税だってかかるだろうけれど、その分お客さんが向こうから来てくれるから交通費なんて支払う必要は無いし、置いてあるものが在庫の大半だから別に大きな倉庫を持つ必要もない。いらなくなったら返品する。それが許されているのがリアル店舗で経営する書店の強みみたいなものだろう。対してネット書店は向こうから来てくれない客に本を送り届ける必要がある。配送料はお客持ち。それでも利用されているというkとおはリアル書店にはない利便性がそこにあるということだ。

 あるいは配送コストを吸収するために経営をギリギリまで削っているのかも知れない。いや大量に扱うから出版社に対して仕入れ値を下げさせているのかもしれないけれど、そうやってかき集めた本をいつ誰から要求があるか分からないから倉庫にずっと置いておく必要がある。それだけ巨大な倉庫が必要で在庫管理のシステムも必要になっていて、そのコストを考えると固定資産税だって設備投資だってリアル書店に負けてないどころか上待っているかもしれない。そういった可能性を考えることもしないで自分たちは弱者だからと声をあげてしまうところにリアル書店の経営者の、もしかしたら国会議員と結託しているような勢力のポン酢ぶりがあるのかもしれない。

 だからリアル書店の経営が傾きかけているのかも。いやいやこうした態度はあくまでも一部のリアル書店のものであって、お客さんに来てもらえる店作りを青山ブックセンターとかは経営者として恥ずかしいと堂々書いている。そういうものだろうなあ。もちろんリアル書店が細る理由は分かるし自分が欲しい本がリアル書店にないケースも多々あったりする。新刊が出すぎる状況でそれを回していくのは大変だし、旧刊が知られず売れない状況が続いているのも理解できる。そういうところで旧刊でも良い本があるからとリコメンドして売れ続けるようにするのがメディアであり書評の役割なのだと思うけれど、新刊中心の紹介になっているからなあ、どちらも。それでリアル書店が死にかけているならやっぱりどこかで改めていかないといけない構図。自分にできることがあればやりたいけれど、こちらはこちらで新刊を読むので手一杯だからなあ。迷うところだ。

 「バカとテストと召喚獣」が大人気となった割には続く作品の名前をあまり聞いてない井上堅二さんは今はむしろ漫画原作者として大成功していた様子。200万部を突破する「ぐらんぶる」というシリーズで吉成公威さんが漫画を担当しているシリーズが、アニメ化されるってんで見たというか最初はタイトルだけ見て「グランブルーファンタジー」のスピンオフちびキャラギャグアニメでも始まるのかとおもったら、違ってリュック・ベッソンの「グランブルー」の方が元。つまりはダイビングの漫画らしいんだけれど第1話で海に潜って宝石のような海の景色を見るんじゃなく、ダイビングショップで男たちが裸で呑んでる場面がとことん流された。そのたとも大学の新歓で呑んでいるとか。

 大学に入ったばかりの少年はたいていは18歳で浪人してたって19歳なのにいきなり新歓コンパで説明もなく酒を飲ませて良いのかと思ったけれど、そのへんでアニメーションは厳しく酒は強要するな、そして登場しているのは成人ばかりだと無茶な注意書きを掲げて批判をそらしている。まあそうすればとりあえず見えている場面はかわせるけれど、同じく同級生らしい従兄弟の少女までもが浪人してすでに20歳になっていたらそれはそれで妙だと思わないでもないし、そう書いておけば新入生が酒を浴びせられるように呑まされる場面をクリアできるかというと、それでもまねをする人はする訳で責任逃れにしかなってない気もしないでもない。すべては当事者責任とする意識ができないことには、阿吽の呼吸で不法を描いてするりと抜けるなんて無理だろうなあ。泥棒のアニメはまだ良いみたいだけれどそれだっていつまで保つことか。世知辛い。

 幕を開けていよいよ週末を迎えた舞台「魔法先生ネギま!〜お子ちゃま先生は修行中!〜」は生駒里奈さんのネギ・スプリングフィールドがそっくりだ可愛いと評判が良いようで安心。開幕してなおチケットが余っていた状況だったけれど、評判を伝え聞いたファンが駆けつけきっと千穐楽は大盛り上がりになるだろう。何しろ22歳の女性が10歳の男の子を演じていて、それでいて完璧に10歳の男の子に見えるんだからこれはすごい。25歳の松岡里英さん演じる神楽坂明日菜とのおねショタな関係をそのまま舞台で見せてくれて、そういうのが好きな人は確実に悶絶するだろー。ネギくんはもしかしたらツいてるんじゃなないか、それも10歳相当のがツいてるんじゃないかと思わせるくらいで、けれども演じているのは生駒ちゃんでつまりは生駒ちゃんにもツいてるんじゃないかと思えてくるこの倒錯を、味わいたくば行けよ舞台に、見よ舞台を。

 女子生徒を長く走らせて急性心不全で死なせた学校の話がしばらく前にあり、同僚のお尻からポンプで圧搾空気を注入して死亡させた話が半年ほど前にあって、そうした無茶をすれば人の命に関わるし、やった側の一生にだって関わってくると世間も分かっていたと思ったら、学校で部員に校舎を80周して来いと命じた部活の顧問がいて、生徒は倒れT絵病院へと運ばれた話がまた出てきてそれこそ殺人未遂で捕まっても良いはずなのに、謹慎程度で済まされようとしている理不尽があり、職場で同僚の尻から空気を入れて死なせた話がまた出てきて、いずれも過去のニュースを読んでないのかと不思議に思ったけれど、部活もホースもそれがより以前に熱血でありギャグとして通じていた時代の残影を強く刻まれているから、気づいても止められないしそれ以前にメディアが多様化してニュースなんて見ず新聞も読まない人が大半で、事件のことを知らずに過ごしてしまう情報過疎の人が増えているのかもしれない。世界は危険を強制的に人にすり込む技術を培わないのか。あるいは厳罰化で広く世間に知らしめないのか。もやっとする週末。暑い。


【7月13日】 平成最後の13日の金曜日だからといって何が起こるはずもない。さても始まった「少女歌劇レビュースタァライト」に「少女革命ウテナ」を重ねる人がやっぱり結構いるようで、日常の風景を切り取った学園ものでちょっぴり「ラブライブ!」入っているかなあと思わせて、地下闘技場で得体の知れない戦いが繰り広げられているという唐突感と、そこへと至る過程で示される機織機だの工業用ミシンだのといった機械がただ働く描写の無機質感が、絶対運命黙示録な音楽をバックに唐突で頓狂な描写が相次いだ「少女革命ウテナ」を想起させても不思議はない。というかもう21年も前の「少女革命ウテナ」を覚えている人が多いことの方がちょっと不思議か。

 とはいえ1997年に「少女革命ウテナ」がやっぱりのアングラ感と唐突感を持って世に問われた時は、誰もが寺山修司の天井桟敷であり音楽のJ.A.シーザーから演劇実験室・万有引力を感じ取り少女たちが戦うという展開から高取英さんが率いる月蝕歌劇団をふっと浮かべた人もいたんじゃなかろーか。月蝕歌劇団は後に親和性もあってか「少女革命ウテナ」を演目として加えたりもしたけれど、それ以前から「ミカエラ学園漂流記」のような不思議な作品を板に載せて暗黒の宝塚といった雰囲気を醸し出していた。そうした“向こう側”をテレビの中へと引きずり込んで美麗なキャラクターの中に描いた「少女革命ウテナ」を観てアングラの香りを嗅いだことのある人は「ひゃっはう」と内心で快さいを叫んだだろう。ここまでアニメがやって良いのかという驚きとともに。

 そうした異文化からの流入なり異質なビジョンの導入をやってこそ、20年後も残る作品が出来上がったとも言える「少女革命ウテナ」をそのままストレートに、20年前の作品であるにも関わらず浮かべてしまう現在の方が何か文化に対して見方が狭いというか、あるいは文化そのものが豊穣さを失って目立っているものの固まっているような感じすら受ける。今なお月蝕歌劇団は活動をしているし演劇実験室・万有引力もちゃんと続いているけれど、そうしたアングラ文化とのキャッチボールではなく、それらを取り込んだアニメからの影響めいたもので作られ世に問われる作品が、次につながる何かを果たして生みだし得るか、ってのはちょっと気になるところ。

 単体として「少女過激レビュースタァライト」は面白そうだし「ラブライブ!」「バンドリ!」で節ロードが仕掛けたメソッドをそのまま引き継ぎリアルな演劇なりライブなりとバーチャルなアニメの並行、さらにはゲームというコンテンツも加わってメディアミックス的に盛り上がっていくだろう。そしてキネマシトラスが作り「少女革命ウテナ」でサブに入っていたyoshidaさんが監督なら同様に不思議な物語を繰り広げて言ってくれると思う。そこから次が生まれる可能性も感じないでも無いけれど、そこにやっぱりアングラ演劇でも暗黒舞踏でも良いから異なる文化を引っ張り込み、逆にはき出すようにして影響を与え合ってこそ、文化は豊穣さをまし広がりを生むと思うのだった。どうなるかなあ、今後。

 韓国で起こったセウォル号の沈没事故では学生を中心に300人近くが亡くなったけれど、その際に朴槿恵大統領が官邸にいながらも7時間ほど何をしていたか分からないといった声があがり、批判されて何かエロいことをしていたんじゃないかと日本の自称全国紙からソウルに来ていた支局長がゲスな憶測を書いては名誉毀損だと逮捕され、それはさすがにやりすぎだからと無罪になったものの嘘は書きましたと裁判で認めながら日本に帰ったら大統領の権力と戦った言論人扱いされて、デタラメを書いて称えられるジャーナリストってそれは天然記念物ものだと思ったりもした一方で朴槿恵大統領はそこでグッと支持を下げ、そして汚職を暴かれ辞職をして逮捕されて今は拘置所の中という下がり目の人生を歩んでいる。

 一方で日本の西日本で発生した豪雨では200人近くが亡くなり、そしてなお50人を超えるだろう人たちが行方不明になっていてそれこそセウォル号にも匹敵するくらいの悲劇が現在進行形であるにも関わらず、初期において同じ自民党の議員たちと酒盛りをし、翌日からは私邸にほぼほぼ居続け何をしていたかが明らかにされず、そして外遊の計画をそのまま遂行しようとしたもののさすがにそれはと取りやめざるを得なかった日本の総理大臣が、どれだけの空白期間を作ったか分からないにも関わらず、きっと私邸で陣頭指揮をとっていただの、総理が自ら旗を振ることではないだろうといった擁護を受けているのがどうにもこうにも謎肉過ぎる。それをいうなら韓国の大統領だって日本の総理の言葉を借りれば「まさに現場主義」で沈没に対する対処をしていたのかもしれない。でも激しい批判に晒され逮捕まで至った。この間にある差はいったい何なんだろう。さっぱり訳側からない。困ったなあ。

 ゲームの「ガールフレンド(仮)」は遊んだことがないし、アニメの「ガールフレンド(仮)」も見たことがないからどういったストーリーを持っていて、どういったキャラクターが出ていてどういった雰囲気なのかはまるで分かっていないけれど、少女たちがいっぱい出てきてわちゃわちゃとするストーリーがあるんだと取りあえず理解をしつつ、そんな少女たちが集う学園があってそこで起こるとある出来事を描くことによって、青春ならではの悩みがあって仲間たちと助け合う素晴らしさがあることが分かる作品なんだととりあえず理解をしておけば、7月16日から上演が始まるあにてれ×=LOVE ステージプロジェクト「ガールフレンド(仮)」は十分に楽しめると言っておこう。

 なおかつ同じあにてれ×=LOVE ステージプロジェクト「けものフレンズ」を見て=LOVEという指原莉乃さんがプロデュースするアイドルグループのことを知り、その雰囲気や歌声が気にいっていた人なら舞台版「ガールフレンド(仮)」はもう存分に楽しくて嬉しいものになっているから安心して見に行って良い。そして現場ではAiiA 2.5 Theater TOKYOで行われた「けものフレンズ」の舞台とはまるで違って、円形の品川プリンスホテル クラブeX内にしつらえられた、中央までせり出して観客席に囲まれるようになっている舞台の上でほとんど三方から見られる感じにメンバーが登場しては演じ、歌い踊る展開のステージとの距離の近さに感動して感嘆して感涙するだろう。本当に近い。その上にステーの下まで来て観客席の後ろからも現れるから、会場全体が舞台になって自分はその中にいるかのよう。過ごせばさらに激しい=LOVEのファンになっていることは確実だ。

 ゲームとかアニメのストーリーと重なっているかはまるで分からないけれど、舞台の「ガールフレンド(仮)」はとりえず主要なキャラクターを12人いるメンバーのうちの11人が演じつつ、ひとり佐々木舞花だけがオリジナルとなる一ノ瀬友恵というキャラクターを演じては松瞳が演じる椎名心実との間で葛藤とか懊悩とか理解とか絶望とか救済といったドラマを繰り広げる。転校してきてなおかつまた転校が決まっている友恵は、転校先の学園で開催される学園祭にあまりのめり込みたくない。だっていなくなってしまうんだから。それでも心実は友恵を引っ張り込もうとして誘い、断られても頑張って仲間たちと誘い続けて理解を得る。

 やった! と思ったもののそこに新たなハードルが。いったいどうやって突破していくかは舞台を見てのお楽しみ。怪我の功名とも言えるかもしれないし、もしかしたら生徒会長で音嶋莉沙が演じる天都かなたの深慮遠謀かもしれない。天然か策士か。ちょっと気になった。そうやってコミュニケーションをとりつつ最後にハッピーエンドへと向かう舞台の途中では、=LOVEのメンバーが=LOVEの持ち歌ではなくたぶん舞台オリジナルのいろいろな歌を歌って聞かせてくれる。そのどれもが素晴らしいのでゲームのことは知らなくても、見に行って聞きに入るくらいのことはして良いんじゃなかろうか。絶対に得るものがあるはずだから。

 すでにそうやってライブもあってダンスもいっぱい見られて女子高生なのでスカート姿だから回ればとうぜんに翻る眼福も味わえる舞台「ガールフレンド(仮)」。なおかつ終演後には=LOVEとしての楽曲を聴かせてくれるミニライブがあってそれも幾つかパターンがあるから通えばそれだけ多くの楽曲を楽しめる。3曲くらは披露するはずで「=LOVE」も聞けるからこれは嬉しい。パターンが幾つかあるようなので全部かよってコンプリートしたいものだけれど、せめてあと1回くらいは行ってゲネプロではなく観客の中にあって完成を耳にしながら感動のフィナーレ、感涙のミニライブを味わいたい。


【7月12日】 見ていたかというと途中でまどろんではしまったものの、途中まではイングランドが1点をリードしていてこのまま決勝へと進んでフランスとの間に100年戦争の因縁を晴らすかと思っていたら途中で同点になり、そして気がつくと逆転されてクロアチアが決勝へと進んでフランスと決勝を戦うことになっていたFIFAワールドカップ2018ロシア大会。イングランドの優勝というある種の夢もこれで潰えた訳で、寂しいけれども今大会のクロアチアの粘り強さは半端じゃないからこう言う結末もあって不思議はない。モドリッチ選手やマンジュキッチ選手と世界に名をはせる選手もいるだけに、フランスを相手に良い勝負だって可能だろう。

 だからあとはフランスイギリスドイツイタリア州ペンブラジルアルゼンチンウルグアイあたりしか名を連ねていなかったワールドカップの優勝国に、クロアチアが初めて名を連ねるかってところが目下の関心事。チトーがカリスマによって治めたユーゴスラビア社会主義共和国連邦がチトーの死後に崩壊して分裂して血で血を争う紛争へと突入していった果て、旧ユーゴスラビアもそれがさらに別れたセルビアやモンテネグロもそしてクロアチアもサッカー強国でありながら大きな大会で優勝するなんてことはなかった。1990年のワールドカップではストイコビッチがいてスシッチにカタネッツにサビチェビッチもいたチームがベスト8へと進んだもののマラドーナのいるアルゼンチンに惜敗した。

 1992年の旧ユーゴ代表はEURO1992で優勝を噂されながらも出場直前で排除された。代わりに出たデンマークが優勝したことからもしかしたら旧ユーゴ代表が出ていたらって声もあるけど真相は不明。一方でユーゴスラビアと早々と袂を分かったクロアチアもワールドカップとかで出場を重ねながらも世界は遠かった。これでタイトルとなれば国は活気づくだろうなあ。ただその体制においてユーゴスラビア分裂後の民族主義的な空気をセルビアなんかよりも濃くってその国においてある種の象徴となっているサッカーに関してもいろいろな噂があったりする。そうした体制を肯定しかねない優勝が果たしてクロアチアととしてバルカン半島によってどういう影響を持つかを考えると、ジャイアントキリングを期待するようなワクワク感はちょっと浮かばない。かといってフランスが優勝するのも味気ないし。困ったなあ。でも珍しくて期待も持てるカード。放送されればちゃんと見よう。でも寝そう。どっちやねん。

 謝れないのか謝りたくないのか。日本共産党は募金の一部をピンハネするとツイッターに書いた大阪府知事がそんなことはないと指摘されたら、それはすいませんでしたと謝るかと思ったら規約を変えたんですねえと来た。いやいや確かにそういう不心得をした議員がいたことはあっても、当の規約としてそういったことを決めて運営していたことはないと突っ込み返されても、元のツイートを消すどころか別にああそうだったんですかと返事を書く程度。誤解は垂れ流されてそれを真に受けた元キー局のアナウンサー氏が共産党を批判するツイートを連投して誤解を拡散している。言われても謝るどころか赤旗に書いてあると言うだけ。そういう突っ張りがファンを呼んだ時期もあったけれど今ではデマの拡声器だと誰もが分かってその言動を冷ややかに見ている。そしてそんな期待に応えるような炎上ぶり。何がしたいんだろうなあ。それで得られる存在感でも嬉しい人になってしまったのかなあ。やれやれだ。

 生駒ちゃんだ生駒ちゃんだ、生駒里奈ちゃんがあの「魔法先生ネギま!」のネギ・スプリングフィールドを演じるってんでAiiA 2.5 Theater TOKYOで12日から始まった舞台「魔法先生ネギま! 〜お子ちゃま先生は修行中!〜」のゲネプロを取材がてら見物したらこれがもう生駒ちゃんがぎゅん可愛くて激かわいくて脳天をぐわんぐわんとさせられた。もしもこの世界に漫画やアニメーションの中から飛び出して受肉したネギ・スプリングフィールドがいたとしたら、まさに当人といった感じで連載初期のかわいらしくてオドオドとして、それでいて立派に教師をやろうとする意思をもった10歳の男の子って奴を完璧なまでに演じてくれた。歩けばネギ先生で喋ればネギ先生で転げ回ってもネギ先生。まさにネギ先生として生まれて来たと行っても過言ではないくらい、その身にネギ・スプリングフィールドという役を帯びていた。

 ネギ先生の2.5次元化だったら以前にドラマの「MAGISTER NEGI MAGI 魔法先生ネギま!」で柏幸奈さんがネギ・スプリングフィールドを演じていたけれど、当時の柏さんはももいろクローバーだとか乃木坂46に入る前の13歳で子役的な存在。だから10歳のネギくんを演じても違和感という意味ではなかったしネギぼずらしさは存分に出していた。あるいは性差といったものをまるで感じさせなかったと言って良い。今回の生駒ちゃんは奇しくも同じ乃木坂46出身でありながらも年齢は22歳とネギ・スプリングフィールドの倍以上。女性としての雰囲気だって醸し出しつつあるお年頃であるにも関わらず、演じたネギ・スプリングフィールドは10歳のまだ性的に未分化な男の子といった感じを漂わせ、ほとんど違和感を覚えさせなかった。

 とはいえやっぱり中身は22歳の女の子でもある生駒里奈さんだけに、フッと漂うボディラインからの女性らしさだとか、喋る声の女の子っぽさってのはやっぱりあってそれが服装だとか顔立ちから来る男の子っぽさとない交ぜになって得も言われぬ雰囲気といったものを浮かび上がらせる。中性的というより両性的であってそれ以外の何かすら感じさせる存在感。それは漫画でありアニメーションという絵で描かれる理想の男の子という存在が、男性女性の思いを受け止める器として中性的であり両性的であるのと同じものだとも言えるかもしれない。そういう意味で究極の2.5次元的なネギ・スプリングフィールドだったとも言える。どういう意味かは言葉ではなかなか説明しづらいんで、これは見ておけ絶対に見ておけと行っておこう。見ればそのぎゅん可愛さに身もだえしたくなるはずだから。

 ストーリーはマギステル・マギとやらになるために日本で修行することになって麻帆良学園に教育実習でやって来たネギ・スプリンフフィールドが神楽坂明日菜と出会いブラジャーを飛ばしたりパンツを飛ばしたりして失敗もしつつ近づいてく一方で、父親のサウザンドマスターと因縁ありありだった吸血鬼のエヴァンジェリンと出会い戦いもするといった展開で、もう忘れてしまったけれども単行本とかの比較的初期のエピソードを描いているような感じだった。すごかったのは神楽坂明日菜を演じた松岡英里さんで足を踏ん張ったりするポーズも見せれば怒り暴れる言動も見せてと乱暴者の明日菜を見事に体現していたところ。それでいながらネギと近づきパートナー契約も結んである種のヒロインの座を射止めていく役を全身で体現していた。ネギ・スプリングフィールドに負けない成りきりぶりだったとも言える。

 エヴァンジェリンも茶々丸もちゃんと雰囲気を出していたし、忍者の楓なんかもY字バランスで忍者的な凄さって奴を見せてくれた。他の面々もしっかりとなり切っていた感じて協調性がない言動を見せつつ実はネットアイドルとして活躍している長谷川千雨なんかも変身前から変身後に至るまで漫画のような二面性って奴をしっかりと見せいてた。誰も彼もが麻帆良学園2年A組の女子生徒たちだった舞台の完成度があったからこそ、明日菜の明日菜ぶりも宮崎のどかの清楚さも光りそしてネギ・スプリングフィールドのそれらしさも強化された。全員が作り上げた「ネギま!」の世界。見れば漫画とかアニメで触れた世界が蘇って来て感銘を受ける。そこにドカンとぶち当てられる「ハッピー☆マテリアル」の大合唱。涙なくしては迎えられないクライマックスだ。

 メンバーがメンバーだけに再演なんてあるとは思えないけれど、出会い篇が終わって今日とへ修学旅行へ行くぞって感じに盛り上がって終わったあたりに続きなんかも期待できそうだし期待しないではいられない。明日菜とネギとあおいとエヴァンジェリンあたりをフィックスにして他は出たり出なかったりしながらも同じ「ネギま!」という舞台を続けていってくれると嬉しいんだけれども、果たして。それはやっぱり今回の舞台の入り次第か。テレビカメラがわんさか来て生駒ちゃんの新たな挑戦を大々的に喧伝するかと思ったら、呼ばなかったのか来なかったのかテレビカメラは見えずちょっと拍子抜け。生駒ちゃんというバリューが今はまだその程度なのかもしれないけれど、それでも舞台の良さという最大にして最高のバリューがあるなら今後にも期待はもてる。見ればそこにネギ・スプリングフィールドがいると思え、それを演じる生駒ちゃんへの関心も芽生える舞台。仕事じゃなくても見に行きたいけど行けるかなあ。


【7月11日】 ひとりで原画を描けてしまえるくらいに動かないアニメーション「Back Street Girls −ゴクドルズ−」で1番動いているのがオープニングで、そしてそこで誰よりも動いているのが今千秋監督というこれは事件か? それとも事故か? 事故というのはアイドルユニットの9nineの多分メンバーを取り込んでシルエットにして流した「THE REFLECTION」のエンディングとは違って、どこかキレにかけシルエットも何というか年齢に沿ったラインだったりするあたりに、見て関心を惹かれるだろう層の限定されてしまいそうな感じがあったりすることだけれど、そこで言われなければ普通に出演している声優ユニットかとも思っていただろうからむしろ正直さを誉めるべきだろー。

 だったら事件かというと、出たがりなアニメーション監督は前から結構いたりして、アフロのキャラクターを必ず登場させるワタナベシンイチ監督がいれば「ベターマン」でえんでぃんぐを歌った米たにヨシモト監督もいたりして、そういう手当が評判になることで作品への関心が高まることもあるから珍しい話じゃないかもしれない。ただ本編の動いてなさと1人作画での突破、そしてなおかつ止まっている絵なのに漫画を読んでいるようで漫画では味わえない揺らぎであり声の演技でありエフェクトといったものを感じさせる。

 それで20数分という時間を、画面に釘付けにさせる演出力(えんしゅつ・ちから)というのはやはり21世紀のアニメーションにおける動かせば勝ち的な価値観を、ぶちこわすだけの事件性は持っている気もしないでもない。問題はこのテンションを最後まで貫き通せるか、ってあたりで読み終えていた第1巻から先、未踏の領域へと入りそうな今後がどう面白いかを感じてから、歴史に刻まれる作品だったかを考えたい。いくらなんでも2クールはやりそうもないから12話くらいで終わりとして、進んで5巻あたりで終わりそう。でも単行本は結構でているからシーズン2なんてものあるかもしれない。その時はいっそ顔出しで踊るか今千秋監督。いしづかあつこ監督、山本沙夜監督も交えて3人で。

 前にイオンシネマ幕張新都心にバンダイナムコアミューズメントが作った「TONDEMI」という次世代アスレチック施設が平和島にできるってんで見物に。平和島といった静雄ではなくボートレース場だけど、子供も遊びに来るアスレチック施設がギャンブルおじさんの総本山ともいえる平和島のどこにできるんだろうかと思ったらそんなギャンブルおじさんたちが開催ともなればわんさか押し寄せるボートレース平和島の真横だった。大昔は舟券も売っていたのかな、そしてホールかなにかになっていた建物を1階から3階まで使ってそこにいろいろなアスレチックアクティビティをぶち込んだ。

 たとえばトランポリンは幕張よりも規模を広げつつ国産のを置いて自由に飛んだりドッジボールを楽しんだりダンクシュートをぶち込んだりといった体験ができるようになっている。ダンクなんてトランポリンを使えば簡単と思われそうだけれど浮かぶためにはいったん沈むからそこから結構な高さまで飛ばなくてはならず、そのためには相当な反発を生む必要があって結構な体力を削られるし、飛べたら飛べたで降りる時にまた体力を使うから結構疲れる。そして足への反動も半端ない。そしてウォールクライミング。幕張新都心ではブルガリアにある会社のを持ってきてたけれど今回はニュージーランドの製品を導入。ゲーム的要素はあまり入れずストレートに上るタイプのものが多くて、それでいてグリップが回転したりロープになっていたりといった変わり種もあって初心者から大人までいろいろと試して楽しめそう。

 階段状にだんだんと高くなっていく杭を上っていくのは最高到達点が8メートルくらいあって、顔の位置なんか10メートル近くに達して上ったら結構怖そう。もちろんやらなかったけれど大人と違って子供はひょいひょいと上がっていた。人生を知らないと高い場所から落ちる怖さを知らない? いや単純に体力の差だろうなあ、それが気力にも跳ね返るということで。ロープをたどって進んでいく施設も幕張新都心はブルガリア製だったものがこちらはアメリカ製。というかウォールクライミングにしろロープ渡りにしろ、世界のいろいろなメーカーが作って競い合ってるのにはちょっと驚いた。市場があるんだなあ。ちなみにトランポリンは今回日本のセノー製。そこは日本の強みが出たってことかも。

 幕張新都心にないものではエアーランというのがあって、空気で膨らませるたいぷの大きな遊具でそこには壁だの柱だのちった障害物があって、それらをかき分け乗り越え進んでいってゴールを目指す。子供たちが遊んでいるのを見たら22秒とかそんな速さでくぐり抜けてはゴールに突っ込んでいたけれど、僕は試して32秒と遅さ炸裂。乗り越えてから転がって立て直し這いつくばっても進む体力であり柔軟性がないのだった。怪我をしても拙いし慎重にやってこのタイムなら頑張れば25秒くらいまで縮められたかなあ。でもやらない、やって怪我したら夏休みが吹っ飛ぶから、別にどこにも誰とも行かない夏休みだけれど。泣かない。

 オリオトライ・真喜子が表紙になるのも初めてなら、そんなオリオトライ・真喜子が中のイラストではいつものジャージではなくって極東服を着込んでいるのもおそらく初めてのような気がした川上稔さんの「境界線上のホライゾン11(上)」。安土が変じて大和となった巨大戦艦を駆る羽柴勢の攻撃を、新しく登場した武蔵を駆って戦い凌いで勝利した武蔵勢が今後をどうしていくかを話し合うのが主な内容になっていて、とりあえず合流はするということになりながらも歴史再現の部分で羽柴と松平すなわち武蔵勢が激突した天下分け目の関ヶ原をどうするかといった展開になって驚きの解決方法が提示される。小田原征伐にも勝るその解釈。なおかつラストに繰り出された手は“失わせない”ことを重視した武蔵勢にとっては最前の結果だったかもしれない。

 それを本田・正純や大久保・長安は見込んでいたのかただの結果論か。他人の計画はぶちこわすくせに対案を見せないというか持ってないと言って唖然とされる武蔵勢だけに何も考えていなかったのかもなあ。そんな展開の中に登場してきたオリオトライ・真喜子はすでに正体が未来におけるトーリとホライゾンとの間に作られた娘ってことが分かっていて、他の十本槍より早く現世へと送り込まれて成長してトーリたちの教師となって鍛え直した。それが三河騒乱の勝利に結びつきさらには羽柴十本槍も退けた。かつての仲間というか中には異母兄弟もいる十本槍に向かって「参ったか」と聞く小粋さ。やっぱり格好いい人だなあ。それで葵・喜美にはとても叶わないんだから喜美ってどれだけの剣豪なのか。いつかまた本気で戦う喜美が見て見たいなあ。


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