縮刷版2018年5月上旬号


【5月10日】 「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」の技術説明会とかバンダイナムコホールディングスの決算説明会とかに出ていたんでどっちにしたって聞けなかったけれども、まるで誘いがなかったオタクコインの発表会について報じられている範囲で思ったことはこれ、仮想通貨である必要がどこにあるんだろうってことで今だって特定のプロジェクトに対するクラウドファンディングの仕組みがあって応援はできるし、昔あったときめもファンドのように成果に対するリターンも得られる仕組みを作ろうと思えば作れる。対してオタクコインはそれを購入した人が得られるメリットは、何かを直接応援しているという満足とはちょっと離れそうだし、大ヒットしても大きなリターンが得られる訳でもない。

 投票という行為を通してプロジェクトを応援できるみたいだけれど、主催者が引っ張ってくる企画のどれも気に入らなかった時はどうするのか。あるいはオタクという種族はそうやって誰かに押しつけられるようなプロジェクトに対して簡単に乗っかるマインドの持ち主でもなく、ボトムアップ的にどうにかしたいという思いがだんだんと広がっていったところで、じゃあ応援しようとなって爆発するような傾向があったりする。お仕着せが嫌いというか苦手というか。だからトーキョーオタクモードが仕切るだろうそうしたプロジェクトのセンスが問われるんだけれど、キズナアイのフィギュアを作るとかご当地の伝統工芸とキャラクターを結びつけるとかいった活動しか見えてないからなあ、今のところ。

 クラウドファンディングにするとかファンドにするとかいった形式だと直接に現金が動いて税制面とかが面倒とか、あとは法律的にいろいろと制約もあるとかったデメリットをこの形式なら乗り越えられるかもしれない。違うかもしれない。そのあたりはもうちょっと調べるとして今のところ、自分がどれだけ出したなら何を得られるのか、それは金銭的対価ではないのだろうから精神的満足にちゃんとなっているのか、ってところが問題になりそう。知らない訳ではない人も応援団に加わっているようなんで、誰かを騙したり引っかけたりするようなものではなく、仕組みとしては真っ当で健全なものになっているとは思うけど、そうした志とは別にコンテンツそのものの種類、プロジェクトそのものの感覚が僕とそぐうかどうかが、好きか嫌いかの分水嶺になるのかな。

 「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」MX4Dの技術説明を聞いていて面白かったのは、日本映画向けにMX4Dのモーションをプログラムする人はたった2人しかいなくて、その人たちがとりあえず自分達の感性をもとにしてすべての動きをすべてのシーンに対して手でもってひとつひとつ打ち込んでつけているということ。つまりは極めてアナログな作業を行っているということで、てっきりある程度はAI化が進められててこのシーンにはこんな動きが学習によって自動でつけられるのかとも思っていただけに、その作業の膨大さを思って敬意を払いたくなって来る。

 同時に自分の感性とそしてプログラミングによって1本の映画に映像と音響以外のモーションがついて、作品の世界を広げられるといった役得感もあって、そうした立場になるためにはいったいどういう勉強をしたら良いのかといった興味も浮かぶ。MX4Dに関しては日本のダイナモアミューズメントが一手に引き受けているからまずはそこに入ることが肝要か。自分だったら「ガールズ&パンツァー」にこんな動きをつけるのだ、なんてリポートを書いたら入れてもらえるのかな。いや「劇場版」は4DXだったから動きをつけたのは韓国か。次の「最終章」はMX4Dになるのか4DXになるのか、分からないけれどその映像を見ていたらいずれつけられるだろうことは確実。ポルシェティーガーの振動とマーク4の振動はどう違う? それをどうプログラミングする? 結果が楽しみ。結果を体験できるのがいつになるかは知らないけどね。ヨーホー。

 東京ビッグサイトで開催中のJAPAN IT WEEKとやらを見にいってザッと見物。デバイスとかが中心でそれもB to Bの製品だからあまり面白くはないんだけれど、IoTとかがどういった分野で使われているかを確認するのはそれこそ「劇場版名探偵コナン ゼロの執行人」でも描かれていたIoTテロの可能性を探る上で重要だから見て損はない。そしてエンターテインメントの世界でこうした最先端のテクノロジーを描く上で必要な知識として、クリエイターも行っておいた方が良いかもと思ったけれど、そういった時間はないんだろうなあ、忙しい人たちだから。でもまあ頑張れば知識は取り入れられるってことで「ゼロの執行人」は可能性がちゃんと形になっていたし。取材したのかもしれないけれど。

 見た中で面白かったのはソニーがずっと出してた電子ペーパーの超薄型軽量タブレットで、モノクロしか出せないけれども解像度は高く反応も早くて結構使われ始めていたのが、いよいよサイズも小さくなって新登場。問診票を入れたり仕事に必要なドキュメントを放り込んで持ち歩いたりすればカバンの中のノートも書類もぐっと減らせる。PDFとかは読めるそうなんでそっちにドキュメントを固めておけば自炊した本とかも読めるようになるかもしれない。キンドルとかは無理か。あとウェブブラウザーとしても使えなさそう。そのあたりは割り切って仕事か教育の分野で使われていくことになるんだろう。この電子ペーパーを扱っている会社とMX4Dの日本向け展開を行っている会社がともにソニービジネスソリューションだったところに案外にソニーの底力が見え隠れしているのかもしれない。

 あとは発行するLEDが並べられたプロペラを回すと映像が浮き上がる装置も登場。前々からあったりするシステムだけれど英国製の4枚羽根から2枚羽根ちうか1直線の棒にLEDを埋め込んで光らせ回すだけで済むシステムも登場していて、3DCGなんかで作られたオブジェクトだとか人物だとかがさもそこに存在するかのように浮かび上がって見えていた。結構小さいプロペラでそれでいてリアリティは抜群。なおかつ7つのプロペラを並べて回すことによって大きい人物なんかの映像もそこに出現させられるとあってディスプレイの新しい形としてこれからあちこちで普及していきそう。回転しているんで手が触れられる場所に置けないのが難点か。アクリル板でふさぐか高いところに置けば大丈夫だけれど。卓上扇風機サイズにもしていけるそうなんでそこに好みのキャラクターが3Dっぽく出現するノベルティなんか作って欲しいかも。

 誰が来るかは聞いていないし誰が来たかは覚えておらず、そして何を話したかはメモをとっていなくてなおかつそうした面会の状況について上司たる内閣総理大臣に報告もしていないといった仕事ぶりで、いったい首相秘書官という役職は勤まるのかといった謎が浮かぶというか、これってまるで何も仕事をしないでただその地位に居るだけだと思った人も多そうな柳瀬唯夫元首相秘書官の国会での答弁。そこまで自分を無能の穀潰しでございと世間に喧伝してまで、いったい何を護ろうとしているのかが興味の向かうところで、まあ自明の理なんだけれども自分の口からは言わないところに忠誠心かあるいは恐怖心があったりするのあどうなのか。いずれにしても無茶を通して道理が引っ込んだこれからの世界で、モラルも矜持も無関係とばかりに傍若無人がまかり取っていくんだろうなあ。結果を想像して怖くなる。総理は怖くなららないのか。その支持者たちも。ならないんだろうなあ。やれやれ。


【5月9日】 僕がしっかりと作られた革靴が好きだからなのかもしれないけれど、イスラエルでネタニヤフ首相と安倍総理との会食で靴の形をした容器にチョコレートが盛られて出された件について、そのメダリオン付きストレートチップをエイジングも含め再現した容器の格好良さとも重なって、なかなかにオシャレだと感じたのに対し、世間では靴をテーブルの上に載せ、食べ物を盛るとはナニゴトだといった声が起こってなんでだろうと首をかしげることしきり。靴型の容器どころかハイヒールにオードブルとかデザートを持って出しているパーティーなんかが欧米にはあるみたいだし、紙製の女性靴をつくってそこにオードブルを盛って出すパーティーなんかもあった模様。そうしたオシャレとは反対に、スニーカーにフライドチキンとかナゲットとかを盛って並べるホームパーティーの様子もネットとかを見るとあったりする。

 海外では靴を脱いで家に上がる日本で靴を食卓に出すとは失礼なんじゃないかといった声があるみたいだけれど、そうした礼儀に関する話はまるで聞いたことがない。みんな大好きコメダ珈琲店にはクリームソーダやコーラフロートがブーツ型のグラスで出されるメニューがあるし、矢場とんにはその名もずばり「わらじとんかつ」という草鞋を模したように大きくて平べったいとんかつを出すメニューがある。ああどっちも名古屋が起源だから名古屋人は履き物が飲食物と関係しててもあまり気にしないんだってことかもしれないけれど、全国的にも別に気にはしないよねえ、しょせんは容器な分けだし。

 もともとはトム・ディクソンというクリエイターの工房が販売している靴型キャストのひとつで、黒と銅があって本当はドアストッパーとして使うものみたいだけれどペーパーウェイトとしても活用可能。その形状を見てイスラエルで食事を出したシェフは容器に使うことを思い立ち、靴下がわりにクロスを添えてそこにチョコレートを盛って出したという次第。そこに何か侮辱だとか逆に称揚と言った意味はなく、ひとつのセンスとして使えるものでなおかつ普段は使われていないものを使ったといっただけだろー。スナネコじゃないけど「でも騒ぐほどのことでもないか」。安倍総理が嫌いな人までもがそれを侮辱ととったりするところがどうにも謎めいて仕方がない。中東のイスラムでは靴は侮辱の象徴というけど、イスラエルだもんなあ、サッカー協会はUEFAに張っていたりする。欧米のセンスをひねっただけのことに騒いだって仕方がないから次は、日本に来たネタニヤフ首相にコメダのクリームソーダを味わってもらおう。とんかつはダメだったっけ。

 去年は原恵一監督だった東京国際映画祭でのアニメーション監督特集に今年は湯浅政明監督がピックアップされたとのこと。アヌシー国際アニメーション映画祭では最高賞となるクリスタル賞を獲得し、日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞なんかも受賞して文化庁メディア芸術祭では3度の大賞に輝いた湯浅政明さんはまさしく日本を代表するアニメーション監督な訳で、こうして取り上げられることにまったく違和感はないし、「カイバ」とか「マインド・ゲーム」といった特徴的なビジュアルを持った作品が改めて紹介されることで世界にその名もますますとどろくことだろう。「DEVILMAN crybaby」が実際の所、欧米でどういった評価を受けているか分からないんだけれど、「アドベンチャータイム」なんかは人気みたいだし米国受けしない監督ではない。いずれ出て行く踏み台に、東京国際映画祭がなれば嬉しいんだけれど。また通い詰めよう。

 せっかくだからと「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」MX4Dの体験会と技術説明会を見物。河森正治監督がピッタリと張り付いてモーションプログラミングを監修したそうで、ダイナモアミューズメントという日本で唯一、日本映画向けにMX4Dのモーションをつける仕事をしている会社で2人しかいないプログラマーの1人もこれまでの経験とは違った知見があったと喜んでいた。例えば空戦のシーンでバルキリーが背後から撃たれキュッと止まるあたりで普通だったらその止まって前のめりになるところに1番大きな動きを付ける。でも河森さんはそうじゃないと。撃たれた瞬間を最大の動きにしてそれから止まるときは慣性ですっと止まる感じにしようとアドバイスを送ったらしい。その方がパイロットらしい感覚が得られると。

 あとワルキューレのライブシーンについては音に決めるようにして動きも決めるといった感じ。それによってきっとメリハリのあるライブを体感できるようになるんだろう。担当者の方でもライブには力を入れたそうで、ワルキューレの間を縫って動くようなカメラワークにあわせて動かすことで日常では絶対に体験できない動きを感じてもらえるようにしたとか。激しい動きと柔らかい動きの両極端なら出しやすいMX4Dに中間のプログラムも作ってつけたとも話していて、そうした複合的な動きがメンバーのカラーに合わせて点滅するストロボとも相まって、観客をアリーナのワルキューレライブにいるような感覚にさせるという。これはもう見に行くしかないよなあ。

 ドッグファイトシーンも迫力たっぷりで、左右に動き上下に動き前後にも動いたりするバルキリーとそして敵の騎士団の動きに合わせてモーションを止めず視点も切り替えつつ動きをつけていったとう。弾丸が走るシーンとかではプシュッとエアが耳元を吹き抜け、ガウォークからバトロイドへと変形していくシーンでもちゃんと動きを入れて自分がバルキリーのコックピットにいるような気にさせる。

 ライブ会場にいてバルキリーに乗ってとめまぐるしく動くその立ち位置。なおかつそれが重なって複合的に得られるシーンもあったりするのがこの「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」という映画の特徴だけに、MX4Dのシートに乗っている方もそんな変幻自在な空間に自分がいるように思えてくるだろう。終えたら相当に体力もそがれそうだけれど、1度見ただけでは分からない演出もあるそうなんで通って体感したいところ。でも高いんだよなあ、TOHOシネマズで3000円。まあでもライブに行くよりは安いか。

 興味深いのはつきっきりでこうやってMX4Dのモーションを監修した河森監督が、音響だけではないモーションによる映画の”拡張”にも興味を持って次からそうしたMX4Dなり4DXなりを意識した映像作りをやってくれるようになるんじゃないか、ってこと。実際に「亜人」の本広克行監督はMX4D化が決まった段階でそれに沿うよう編集を変えたそうだし、現在進行形の「ガールズ&パンツァー 最終章」はその前の「ガールズ&パンツァー劇場版」で試して得られた4DXとのマッチングを考慮したシーンがあるように思える。学園艦の底でそど子が連れ去られながら角を曲がったり降りたりするシーンとか。新しい演出が加わればそれにマッチして表現も代わる。モーションや五感を刺激するギミックが常時可能になっていけば映画もまた、違ったものになっていくのかもしれないし、それこそが映画館へと足を運ばせるひとつの武器になるのかもしれない。

 河森監督もメッセージを寄せていて、その中でマクロスシリーズはずっと臨場感や体感を意識して作っていて、風を感じることができるMX4Dへの対応によって目指しているところにまた一歩近づけたって言っていた。ってことはもしかしたら現時点で最も本物へと迫った、究極のマクロスシリーズって言えるのかもしれない。香りなんかにも河森監督の好みが入っていた入りするそうで、そういう意味でクリエイターの完成にまみれられる映画でもある「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」。これはもう行くしかないなあ、ってことで5月11日朝イチのTOHOシネマズ新宿を確保。無事に生きて帰れるかなあ、相当に疲れるんだよなあ、MX4Dとか4DXって。

 ポンペイオ国務長官の再度の北朝鮮訪問によってどうやら拘束された米国籍の3人が解放されたとのこと。帰国すればきっと北朝鮮で置かれていた状況も明らかになって、かの国を話し合うにふさわしい相手かどうかといった議論も起こりそうだけれど一方で、解放したことをひとつの足がかりにして関係改善を双方が合意していたのだとしたら、米朝首脳会談へと向かう道筋がまたちょっとだけ太くなったのだとも言えそう。どうなることか。いずれにしても行動を起こして短期間のうちに解決へと導いた手腕はやっぱり並大抵ではなく、時々に見せるドラスティックな判断も目的のためにちゃんと機能していたと言えそう。ひるがえって拉致問題をずっと抱えている日本の安倍首相に、同様の行動力を求めることができるかというと相手方が死亡と断じた面々について、今なお生存を信じ解放を呼びかけているところで歩み寄れない壁がありそう。どっちに見方をしても反発を受けることは必至。なおかつ妥協をすれば敵国認定して攻撃することで溜飲の下がる面々からの支持を得てきた政権の基盤も揺らぎかねない。どういう動きを見せるのか。見ていくしかないなあ。


【5月8日】 言い分はきっとセイコー側にもあって地震の発生からとりあえず1年は様子を見たけれど、売り上げが回復しないのでこれ以上は関わっていられませんと店を切ったという可能性もあるし、ブランド力の向上を目的として取り扱う店舗を絞ってそれぞれにナンバーワン的扱いをしてもらおう、そのためには専用コーナーを作ってもらい、いっぱい仕入れてしっぱい売ってもらおう、それができなければ取り扱いは止めてもらおうとする戦略に照らし合わせて、ちょっと足りてないからもう取り扱わせないといった判断をした可能性もある。それは企業が打ち出す戦略としては間違っていないし、ついて行けなければ振り落とされるという、ただそれだけのことなのかもしれない。

 ただやはり熊本という規模的に結構大きな災害で全壊した店舗をまずはどうするかといった算段をつけつつ、仮設の店舗を開いて営業は続けてみたものの宝飾品を扱いつつ、修理にも応じるような中で震災の後遺症も残る熊本の人たちに、クレドールのような高級時計を老舗の時計宝飾店ならではの“ノルマ”に合致するほどの数が売れるとも考えづらい。それでも新しい店舗を建てる計画をとりまとめ、年末にはどうにか営業再開となってこれから頑張ると言っているにもかかわらず、今が未達だからと120年にも及ぶ歴史を持ち、セイコーともそれこそ創業者の代から付き合いがある熊本きっての老舗の店を切り捨てることで被るセイコー側のイメージダウンは、ブランドイメージを保ってもらえる店に売るという戦略のためであってもマイナスに出そう。というか実際出始めている。

 老舗なんだから先代が電話で付き合いのあるだろう創業者一族から出たホールディングスの会長に「現場が無茶言ってる」と告げ口でもすれば急転直下、それこそ天の声として現場に引き続き取り扱いを認めるべきだといった司令が下りそうなものだけれど、代が代わって10年くらいは経っているから先代の存在なり影響力なりが薄れていて、そしてセイコー側にもガバナンスの変化で創業家が何か口出し出来る状況にはないのかもしれない。かくして熊本きっての老舗時計宝飾店、ソフィ・タカヤナギからクレドールが消え、グランドセイコーも消えようとしている。

 近隣の店舗で売っているからソフィ・タカヤナギはサボっていただけだといった声もあるけれど、地震による被害状況がソフィ・タカヤナギと違っていて、営業規模の面からノルマもソフィ・タカヤナギとは違っている可能性もあるから、ソフィ・タカヤナギだけが突出して成績が悪く切られたと見るのは短絡かもしれない。店舗再建という力をお金を使う仕事をいっぽうにやりつつ、後宮腕時計を被災地に売る難しい仕事をこなす難しさを勘案して、しばらくは様子見すれば良かったのになあ、セイコーも。それができないくらいに余裕がなくなっているのかもしれない。セイコーに限らず日本の企業全体から。ともあれ幕を開けたバトルの行方やいかに。謝った方がブランドも傷つかないと思うんだけどなあ、セイコー。

 もちろん「セクハラ罪」だなんて罪名は刑法の上に記載はされていないから存在しないと言えば言えるけれど、セクハラというのは好意全般であってそれはパワハラであるとかいじめといった行為として罪悪であると認識されているされているものと同様。そうした総体としての罪悪を現状の法律に照らし合わせてたとえばセクハラだったら強制わいせつであり強姦でありといった部分になれば親告すら不要に捜査ができて摘発だってできるようになっている案件を、こともあろうに一国の副総理であり財務相でもある麻生太カ議員が公然と「セクハラ罪という罪はない」と放言。なるほど名誉毀損や侮辱の段階に止まっているなら非親告罪ではあっても、広く見渡せば親告罪も含むセクハラを非親告罪だろうといった感じにどこか軽く見くだしたような言説で括って逃げようとしているところに、もはや世界も我慢がならないといったところだろうか。

 野党がこうした発言に対して非難をぶつけるのは当然として、与党内からもまさしく女性活躍相を担当している野田聖子議員が発言を強めていて、それに党勢も乗れば麻生財務相だっていつまでもタテマエの上に立った発言はしていられないだろう。というか明快にもはや財務事務次官の劣勢は確実で、その言説にもヤバい部分があったことが見えているにもかかわらず、体面を維持しようとしているのは何だろう、そこまで自分の地位を守りそれによって安倍総理の盾になりたいのか、逆にそうやって暴言をまき散らすことによって内閣のイメージを下げて安倍総理と差し違えようとでもしているのか。後者についてはまあ、あり得なさそうなんでひたすらに自分の体面を守りたいんだろうなあ、不祥事の責任をとらされて止めたらもう、総理には返り咲けないだろうし。それで日本のイメージも財務省のイメージもガタガタになるなら、誰がいったい反日か。閣下と崇めるライティな人たちもそろそろ考えた方が良いんじゃなかろーか。

 たぶん前作を興行収入で超えるだろう劇場版「名探偵コナン ゼロの執行人」をようやくやっと見て、これを例えばテレビシリーズで「名探偵コナン」を見ている子供が普通にすんなり理解できるんだろうかを謎に思ったけれど、もはや「名探偵コナン」はテレビシリーズも含めて若い層が見て毎回の謎解きとカタルシスを味わう「シティハンター」的な作品になっている感じ。子供といっても江戸川コナンと同じくらいの年齢ではなく中高生から大学生あたりが中心となっているなら警察内部の権力争いを描いたような作品であってもどうにか理解できるだろうし、そうした理解が及ぶような案内と説明もちゃんと行ってあるから見てより興味を惹き付けられるだろう。そういう意味では巧い作品だったし、警察小説とかが好きな大人でも存分に楽しめるような作品になっていた。

 東京でのサミット会場として予定されていた、海上につくられた埋め立て地の中にある施設が爆発。事故との線もあったけれども誰かが進入して爆破を誘導した可能性が浮上して、その犯人としてこともあろうに毛利小五郎が浮上する。そして証拠も押収されたパソコンから会場の見取り図が見つかり外部から操作可能な装置にアクセスした形跡もあり、何より指紋まで残されていたからアウト確実。起訴されてそのまま公判へと向かいそうなところでコナンと蘭とそして蘭には母親で毛利小五郎にとっては別居中の妻、妃英理が集まって弁護士を雇い公判に備えることになる。

 とはいえもとより毛利小五郎が犯人ではないことは明確。だったら誰がといったところで警視庁にある公安部と検察庁にある公安部との差のようなものが浮かび上がり、そして警視庁の公安が日ごろどういった捜査をしているかが描かれていった先、誰もが正義を謳ってぶっこみ合いをするストーリーが繰り広げられていく。刑事だって公安だって検事だって弁護士だって正義のためにと突っ走って、その正義のために法律の枠外に飛び出したりもして命が危険にさらされ奪われたりもしているのに、正義の美名のもとであってならばと憎しみを向ける相手を与えられないこの顛末を見て、観客はいったい何を思うのか。なんだ公安良い奴じゃん? それって怖い話なんだけれど気づかずすり込まれているのかもしれない。

 個人的には灰原哀がいっぱい出てきて動きはしないけれども活躍をしてくれたのが楽しかったし、上戸彩さんが声を演じる毛利小五郎の弁護を買って出た弁護士も眼鏡っ娘で可愛かったので良しとしよう。監督は立川譲さんであにめたまごだかアニメミライだかの「デス・ビリヤード」を監督してテレビシリーズ「デス・パレード」も監督してたらいつの間にかビッグな劇場版コナンの監督に抜擢。7年ぶりの交代でプレッシャーもあっただろうところを警察ものできっちりまとめて1つ終わっても先がある展開でドキドキさせ、そして何より安室透という謎めくイケメンを恐ろしくも格好いい人物に描いて女性ファンをワクワクさせた。このヒットを受けて次も監督をしてくれるならどんな話になるんだろう。予告めいた映像には怪盗キッドが出ていたけれど。やっぱりそっちの話かな。いずれにしても灰原哀をいっぱい。


【5月7日】 しばらくぶりに「ダーリン・イン・ザ・フランキス」を見たらグランクレバスでの死闘を凌いだらしい第13都市部隊がほとんど廃棄された都市に残され食料の供給でけは受けながらも水の循環は止まり燃料などもあまりなさそうな中で自足の生活を余儀なくされていた。普通だったらすぐにでも回収して次なる戦いに備えるべきところをどうやら普通のコドモではないらしい第13都市部隊を都市生活から切り離すことによってなにかの発動を促しているようにも見える。恋情とか浮かばないはずのコドモに芽生えた思春期がもたらすそれは……やっぱりエロか違うのか。そんな興味も誘いつつ咆吼する叫竜らしい存在との決戦が、これから繰り広げられるだろう中で誰もが生き残れるのか、それとも違うのかを見ていく感じになりそう。オトナたちはとりあえず存命みたいだし、その狙いも気になるところ。痛そうで見るのをとばしていた回を見返してストーリーに追いつこう。

 「レイトンミステリー探偵社〜カトリーのナゾトキファイル〜」は冒頭からあおられるようにしたカトリーのシリアスな表情とか見られて絵でも遊んでいる感じ。なぜか幸運が続くという男の話からふっと「赤毛連盟」が浮かんだけれども仕掛けとしてはだいたい同じでそしてその仕掛けの理由という部分で“犯人”がただ儲けを狙っただけではなく、それによって自分が過去に受けた恩をどうにかして返したいといった思いがあって、そして偶然とはいえそれがかなってしまった展開にシナリオのちょっとした巧みさを感じた。これまではピタゴラスイッチが仕掛けにあってそれも無茶レベルなのをどうして実在し得るとカトリーが信じたかってあたりに首をかしげたけれど、今回は推理もその手がかりも納得できる範囲でそして偶然も許容の範囲。こういう回が続けばミステリーファンもプリキュア見てないで(見てるのか)こっちを見るようになる気がするんだけれど。

 「キラッとプロ☆チャン」の方はまだ段階を踏んでMiracle Kiratsが段階を踏んでプリチャンアイドルになっていこうとしているプロローグ編といった感じで、より名を売るためのチャレンジに取り組もうとしたら萌黄えもが張り切りすぎて足首をねんざし最初からリタイアしたところを、桃山みらいがひとり頑張りSASUKE……じゃなかった赤城アンナが仕掛けた障害を乗り越えていくといった分かりやすくて取っつきやすい展開になっていた。キャラクターどうしのライバル関係とかがクローズアップされ、ライブなんかによるバトルが始まるのはもうちょっと先かな。とりあえずイイネを稼ぐために必要なことをやっていく展開で、世のキッズYouTuberたちの歓心を買って視聴率を確保していいった先、ギャグだけじゃなくシリアスなドラマって奴も混ぜて挫折からの克服、そして成功といった感動を味わわせて欲しいなあ。そうなってこそ「プリティーリズム」や「プリパラ」に続くビッグタイトルになれるから。ビックなのか?

 ビッグだろう、だって上映が始まった「映画プリパラ&キラッとプリチャン 〜きらきらメモリアルライブ〜」には連日ちゃんと観客が押し寄せてサイリウムを振って応援をしていたりするから、アイドルおうえん上映会について言うなら。昼間に子供たちが見られる時間帯については不明。そもそもそんな時間には行けません。だったらと行ける夜のアイドルおうえん上映会を見に新宿バルト9へ。やっぱり最高。土日の満席でプリパラ勢多数で男声が響く上映とはうって変わって空席もある中で、女子がポイントでコメントし呼びかけコールする感じ。楽曲を味わいつつ歓声から賑わいのポイントを客観的に確認することができた。

 そんな環境で観てはっきりと感じた「プリティーリズム・オーロラドリーム」の楽曲のミックスの巧さ。しっかりつないで気持ちを高めていける。重ねられる映像も出会いとか離別とか友情とかってシーンがあって、ずっと見ていた人には涙も浮かびそう。見てなくても想像で心がジンとする。「天地無用!魎皇鬼」の長岡貢成さんが手がけていたんだなあ、ビートがきいてピコピコとなりつつメロディアスという楽曲は本当に初聴で心を貫く。CDが欲しくなってきた。それを見たいがために通いたいところだけれど次もあるんでオーロラドリームルートはこのくらいに。次は「ディアマイフューチャー」になるのかな。見に行こう。

 そんな「映画 プリパラ&キラッとプリチャン 〜きらきらメモリアルライブ〜」を見ようとすると、上映前に細田守監督の新作「未来のミライ」の予告編が流れてそこで「サマーウォーズ」以来となる細田映画における山下達郎さんの新曲がかかる。これがもう最高で、アイドルておうえん上映の準備で手にしたサイリウムをついつい振りたくなるのだった。達郎さんのライブでサイリウムなんてあり得ないだけに。楽曲の印象としてはそうだなあ、「POCKET MUSIC」のサウンドと重なるなあ、音の響きとか粒立ちとか重なりとか声質とか。だから好きなのかもしれない。CDはいつでんるだろう。出たらもちろん買おう。これをひっさげたライブもあればやっぱり行こう。チケット取れる自信はないけど。頑張って。懸命に。

 六本木にある青山ブックセンター六本木店が6月で閉店だそうで衝撃を受けている人とか多そう。六本木にまだWAVEがあってシネマート六本木とかシネ・ヴィヴァン六本木とかもあって音楽と映像とそして書籍といった文化の香りを日本でも有数の若者による陥落の街に与えていたらしいけれど、個人的には六本木ヒルズや赤坂ミッドタウン、そして国立新美術館ができる以前の六本木にいったいどれだけの頻度で来ていたか、って考えた時にWAVEも青山ブックセンター六本木店も大きく自分の何かの形成に影響を与えてはいないなあと思うのだった。GAGAが六本木にあった時代は取材とか試写で通ったけれど、あれは狸穴の方へと歩いて行った方にあるから青山ブックセンターとはあまり関係ないのだった。それでも時折のぞいては内外の写真集とか文芸書とかをあさっていた記憶。それがなくなるのはやっぱり残念。文化廃れて何が残る? こうやって街は変わり或いは軋んでいくのだろう。10年後の六本木、想像してみよう。

 サンライズとかバンダイナムコアニメーションの作品を映画館で上映するサンライズフェスティバルの今年の開催とラインアップが発表になって「無敵鋼人ダイターン3」とか「鎧伝サムライトルーパー」とか塩山紀生さんのキャラクターに出会える作品が並んでいてちょっと前に東京アニメセンター in DNPプラザで展覧会を見た身としてこれは頑張って見てみたい。それ以上に気になるのが「境界線上のホライゾン」の2年ぶりの上映で、おととしは英国&三征西班牙が登城する第2シリーズを中心に上映したけれど、今回はオールナイトってなっているから3年前に上映された第1シリーズをまとめて上映してくれるのかもしれない。12話で6時間でオリオトライが武蔵の上を突っ走る。その正体を知った今となっては見て思うところも多そう。トーリがその胸を揉む場面も含め。歳なんでオールナイトは遠慮しているけれど、これは行こう、頑張って、懸命に。


【5月6日】 「折神紫、17歳です」「おいおい」。という会話が交わされたかは定かでないけど、「刀使ノ巫女」で体から大荒魂が抜けた折神紫は前に体に取り憑かせた時から年を取ってなかったようで、その割には刀剣管理局の局長をしていた時と変わりがないように見えるのはその役職にあった時から17歳の姿で止まっていたのか、大人に鳴ったように見せかけていたけど大荒魂が抜けたんでその幻惑の力が途絶えて17歳に戻ってしまったのか、いろいろと考えても分からないからとりあえず、今の紫が17歳なんだと思うことにする。そんな紫がずっと頑張ってきた朱音に向かって「老けたな」とか言ったら温厚な妹でもぶち切れるだろうか。そこが興味。

 新登場で紫から分離したタギツヒメが本体をカクリヨへと送り込んだ後を3つに分けたうちのひとり、のイチキシマヒメは性格にネガティブ入っていた感じで、ああこれで殺される短い運命だった等々と諦観して首すら指しだそうとしていた。聞き分けが良いのか実力を分かっているのかそれすらも生き延びるための戦略か。とはいえやっぱり本気出せば怖い大荒魂の一部な訳で、タギツヒメやタキリヒメと合体を望むかそれとも1人で生きていく気なのか。逆にそもそもひとりで生きていけるものなのか。3女神の行方も含めて展開を見守りたいけど、タギツヒメ配下の高津雪那が悪巧みをして衛藤可奈美が親しくなった娘を改造せざるを得ない立場に追い込んでいたからなあ、そっちの相克が大変そう。というか雪那おまえ紫様一番じゃなかったのか。どうしてタギツヒメについているんだ。紫が存命なことくらいタギツヒメから聞いていそうなものなのに。結局誰かにすがってないとアイデンティティを保てない性格なのかも。その行く末も気になる気になる。

 いよいよ配役も決まってきたドラマ版「この世界の片隅に」。すずさん役には松本穂香さんという人がオーディションで3000人から起用されたそうで、朝の連続テレビ小説とかにも出ていた経験があって女優としては確かそう。身長が160センチを超してて「こまい」感じはないけれど、相手役となる周作さんは183センチの松坂桃李さんが演じるから身長差はしっかりつくので問題はない、のかな。ほかに黒村径子には尾野真千子さん、北條ハツには伊藤蘭さん、そして円太郎さんには田口トモロヲさんとなかなかの有名どころが揃ってる。あと気になるのは連続ドラマだけにカットされないだろうリンさんとのエピソードで、誰がリンさんを演じるかってあたり。長編アニメーション版で声を担当した岩井七世さんなら最高なんだけれどそういう配役をしてはくれなさそうなんでここは誰が演じるかをワクワクしながら待とう。子供の頃のすずさんとかも。中島本町に海苔を届けて途方に暮れる表情とか、出せる子役はいるかなあ。

 気になったのはドラマで使われる呉にある北條家を実際に呉市から移築したといった話。当時から建っていた民家らしく雰囲気は出せそうだけれどそれは呉にあって当時の呉を伝えてくれるひとつの景色でもあった訳で、引っこ抜いて移築してしまってはもったいない気がしてならない。それとも古くなったかずっと空き家になっていて、もう取り壊すしかところをTBSの側で引き取ったのか。それなら仕方がないとは思うけれど、映画のリアリズムを探求するために無理に壊して引っ張ってきたならちょっと本末が転倒する。そのあたり、どういう経緯だったのか知りたいところ。まさかこうの史代さんの親族が暮らしていた、北條家のモデルになった家が取り壊された時に押さえて持ってきた、ってことはないよねえ。その跡地が公園になるって話があって、けれども家は内から置き石かタイルで間取りを再現するってあったから。家があるなら立て直すだろう。いっそドラマで使った家を戻して公園に“再現”するってのはどうだろう。ロケ用の張りぼてで移築は無理というなら仕方がないけれど。さても興味。

 第1回の角川キャラクター小説大賞で大賞を獲得した柳瀬みちるさんによる5月25日発売予定の新刊「明日、君が花と散っても」はSFなのでみんな読もう。BC兵器によってどうやら人類が滅びかかった世界にあって、かろうじて生き残っていた集落によって拾われ育てられた少年がいたけれど、周囲で人が花となり散る病がはやるようになって、尊敬していた上の人たちがいなくなり、そして少女にもその兆候が見え始める。少年は嘆き病の進行や蔓延を防ぐ手立てを考えようとする一方で、戦争前の本が積まれた場所へと出向いて病の原因や対策を探ろうとする、

 そんな展開の中でだんだんと見えてくる、自分達が暮らしている場所がおかれた状況とそして周囲の様子。いったい何が起こっていたのか。そして今どうなているのか。そうしたシチュエーションにひとつのSFの構造を感じる。なおかつ物語は、最愛の人間や愛しい人たちがどんどんと失われていく悲しみであり、自分だけが取り残されてしまうような絶望といったものをつきつけられながら、それでも生きていかなくてはいけなかった時にどんな気持ちを抱くものなのか、といった想像をさせてくれる。本当に運命を知っていた者たちがその運命を受け入れることをどう感じていたかも。とても強くて尊いそうした気持ちの奥底に、人としての心なのか違う何かがあったのかも興味があるところ。変化していく世界の狭間に生まれた生命の可能性についても考えたくなるストーリーだ。

 土浦ライトノベルというジャンルがあるなら浦土之混乱さんの「スタンピード!!」(講談社ラノベ文庫、600円)がまさしくそれで、もしかしたら唯一か。牛久大仏が巨大化して戦ったり、霞ヶ浦で戦艦道乙女が艦隊戦したりするようなライトノベルは聞いたことないし。そんな「スタンピード!!」は左翼系過激派によるテロが相次いだこともあって治安が不安定な土浦で今なお起こる過激派らによる犯罪を、人間離れした体力で粉砕していく警察庁直轄の特攻一課に所属する警察官にして警視という階級を持つまるでワイルド7のような無壊護という男と、犯罪組織や悪徳企業相手に悪さを働くギャングスターのエイタ・サキモリ、なぜか事件事故に巻き込まれる体質故に武術体術を鍛えバタフライナイフも起用に扱う痩身の民守夏希の3人が、出会いそして起こった事件に絡む。

 3人が3人ともヒーローという存在を意識し憧れたりなろうとしたり護って欲しかったと願ったりしている状況で、今度は自分たちがヒーローになろうとして動き回るというストーリー。警察官なのに正義を護るためとエイタが画策した銀行強盗を先取りして自分が強盗に入ろうとする護も含め、どこか歪んでしまった正義への思いとそれを為す上での振る舞い方。大勢の救済のために少数を犠牲にしないか気になるけれど、1人でも悲しまないようにする正義を旨としているから大丈夫だろう。完全裏社会側で殺人も辞さない奴らが絡む木崎ちあき「博多豚骨ラーメンズ」とは逆に正義の側だけれどくせ者揃いが関わりあって干渉しつつまとまり進む痛快さ楽しもう。

 きょうも今日とて新宿バルト9へと出向いて映画を1本。もちろん「劇場版 プリパラ&キラッとプリチャン きらきらメモリアルライブ」のアイドル応援上映会をだ。日曜日の夜という時間帯にもかかわらずアニメ映画が満席になるというこの快挙。そして観終わって浮かぶやっぱり最高という気持ち。予告編とか入れれば1時間にも満たない短い映画なのに内容はぎっしりで紹介されている歌もたくさん。それらを見ながらコールをし、ペンライトを振ってそして観終わった時、心はとっても充実している。ゴールデンウィークが終わって明日から平日だけど、いろいろと悩ましいこともある仕事を終えた帰りに見れば男子も女子も明るい顔して家に帰ってスッキリした気持ちでベッドに入り、グッスリ眠って朝を迎えられる。居酒屋よりも「劇場版 プリパラ&キラッとプリチャン」。これ絶対。明日もまた行こうかなあ。


【5月5日】 終盤に入った大型連休の空いた時間を使って「ウマ娘」を最新のエピソードまで一挙に視聴、なるほどこれは面白い。基本はスポーツ根性ものでそれを競走馬のような身体性を持った、そして実在の競走馬たちをモチーフにして描かれた少女たちが実在のレースを実在のターフで走るといった設定になっていて、普通に頑張る少女たちのストーリーとして見ても面白いし、暗喩として乗せられた競走馬たちの名前なり特徴なり戦績を重ねて見るとなおいっそう興味を持って行かれるといったところ。このあたりはやっぱり実在の動物の特質をそこに重ねて描かれていた「けものフレンズ」とも重なるところがあるし、見た人を競馬場へと引っ張るといった“聖地巡礼”的な動きを引き起こすところも「けものフレンズ」と似ている。

 ただし登場するサイレントスズカもシンボリルドルフもメジロマックイーンもトウカイテイオーもステイゴールドも今はもう実在していないから、競馬場に行ってもいないしどこかの牧場に行っても会えない。主人公のスペシャルウィークはアニメが始まった時には存命だったけど先だって死去してこれで、メインどころで残っているのはハルウララくらいになってしまった。アニメではクラスが違うといった描写からいわゆる中央競馬を走るるクラスではなく地方競馬が専門といった実在のハルウララの特質を感じさせ、なおかつ弱くても頑張って走る姿が応援されていると言わせてこれもハルウララへの感動を思い出させてくれる。

 そうした競走馬への思い出を持って見る人たち、知識として知りつつも普通に美少女たちの青春スポ根ストーリーとして見る人たちを引っ張りつつ、知識の交流も計りながら広がっていきそう。ずっと前からサイゲームスがゲームアプリとして仕掛けつつJRAとか馬主さんたちとも話し合って作り上げてきたコンテンツだろうから、途中で誰かが権限を主張してもめてコンテンツが消えてしまうようなことはないだろー。その意味でも安心してノれる作品かも。怪我が引退したウマ娘たちの行く末が殺処分とかじゃないことだけは祈りたいけれど。それにしてもあの時間に集中してレジェンド級の競走馬が集まってよく、レースが成り立つなあ。全員が1着でもおかしくないのに。オグリキャップまでいるんだぜ、ずっと食べてるだけだけど。

 ノーベル文学賞が関わっているスウェーデン・アカデミーの関係者が絡んだセクハラ問題によって揺れに揺れて遂に今年は受賞者の発表をしないことを決定。でも一応は決めて来年に2人まとめて発表はするから毎年1人は守られるみたいだけれど、世界中が関心を持ってみつめているビッグイベントであってもセクハラという問題を前に感嘆には事態を収拾できず、あるいは収拾しないで厳格に対処しようとしている雰囲気があることには感心する。それが世界水準、犯罪ではなくても人間として許してはいけない行為であるといった認識を誰もが持っているから起こる事態だろう。だいたいが元になったハーベイ・ワインスタインだって何かの罪でとらえられた訳ではないけれど、ハリウッドから追放されて映画人としての生命をひとまず絶たれた。

 つまりはそれだけの大事であると世界が認識しているにもかかわらず、この日本で財務相であり副総理といった地位にある麻生太郎はこともあろうに外国での記者会見でセクハラは罪ではないと放言し、財務事務次官の処分は財務省の信頼に傷を付けたからだといった認識をしめしたとかで真っ当にこれが世界で報じられたら、日本は世界からセクハラを悪いこととは認識しておらず、それを国のトップが世界に向けて発信して恥じない心性の持ち主であると思われかねないというか、すでに思われている可能性も高そう。これはもう国賊ものの振る舞いだけれどこの国の特定の人たちは、そんな麻生太郎を英雄視して国士と持ち上げる。なおかつそんな自分達を愛国者だと訴え真っ当に非難する人たちを反日をあげつらう。どっちが国の価値を損なっている? 名誉を貶めている? もう本当に何かが壊れている感じ。ただでさえ少子化が深刻になっているだけに、この国はもう長くないかもしれない。参ったなあ。

 限定豪華版のBDをネット通販で買うと7月発送になっていたのでこれはやっぱり現地で買おうとチケットも取って新宿ピカデリーで「機動戦士ガンダム THE ORIGIN6 誕生、赤い彗星」を見る。試写でも見ているからこれで2度目だけれども相変わらず安彦良和さんの漫画が表現もそのままに動いているといった感じで、目の形がまりもっきりのように漫画表現されている箇所が多いのと、あと額から汗がたらりの描写もあってギャグ的な雰囲気にどこまでもシリアスだった富野良幸監督によるテビアニメーション「機動戦士ガンダム」好きとしてはやっぱり違和感を覚えるのだった。それが悪い訳じゃないけどそれは普遍ではないということ。なので「THE ORIGIN」が全巻アニメ化されてファーストをリブートされることがなくなり、個人的にはホッとしていたりする。

 そんな身から見ると「誕生、赤い彗星」は前半にルウム会戦がぎっしりで艦隊戦がありモビルスーツの投入があって戦闘機とのドッグファイトも楽しめるのでギャグ的描写とかあまり入らず見入ることはできた。ただちょっと長すぎるかなあとも。赤い彗星が出てくるまでに時間がかかるし出てきてもその凄さって奴がちょっと伝わりにくいというか、戦艦をあっさりと撃沈していくその行為がどれだけ並外れたものかが分からないと、モビルスーツという兵器の凄さも伝わらないんじゃないかと思ったのだった。言葉では言っても描写がないと。戦艦の砲撃があたっても壊れない装甲が至近からのバズーカならあっさり抜けて、そして狙っても当たらない艦橋にトマホークを確実にヒットさせられる、といった感じに。まあでも噂には聞いていたシャアの実質的デビュー戦がじっくり見られて良かった。あれなら昇進するわなあ。

 あと気になったのはキャラクターの首が全体に太いことでシャアとかまるでプロレスラーのように顎の線からそのまま下がって首へとつながり胴体へと続いている。鍛え上げられた軍人のよう、って実際に鍛え上げられた軍人で地球ではドカチンやってたくらいだから首が太くて当然なのかもしれないけれど、そうした鍛錬を感じさせずに強さを見せるからこそのシャア人気だった訳で、そこにリアリズムはいらないかなあ。そしてセイラさんまで首が太くなっているのはもっと気になるところ。ファーストの頃の凜として輝くような美しさもTHE ORIGINだと苦労して来た女性の美へと変わっている。あの太さならGファイターに乗ってもGで首を持って行かれて失神することもないかなあ。その意味では続き、見たかったかも。漫画版でセイラさんがGファイターに乗っているかは知らないけど。

 そのまま流れて「映画プリパラ&キラッとプリチャン〜きらきらメモリアルライブ〜」を鑑賞、もちろんアイドルおうえん上映だ。最前列で持ちこんだペンライトを振りつつ時おり声あげて見て良いおうえん上映。個人としてはぴたりと合わせてコールをし、キャラクターに合わせてペンライトの色を選べるほどにはキャラクターにも楽曲にも詳しいわけじゃなく、周囲に合わせてしかできなかったけれどそれでも繰り出される「キラッとプリ☆チャン」から「アイドルタイム プリパラ」や「プリパラ」、そして『プリティーリズム オーロラドリーム』あたりへと遡って繰り広げられるライブシーンの饗宴が、映画館にいながらそこをプリパラの世界へと引きずり込んで見ている僕たちを包んで染めてくれた。

 もう最高の時間。1時間ほどと決して長くはないけれど、そこにいる時間は実に充実をしてひとつのライブにいっているようだった。もうずっとだって浸っていたかったけれど祭りの時間はいつかは終わる。プリチャンたちのソロ曲2連でフィナーレを飾って現実=プリチャンの世界へと引き戻された。けれども、そこで得られた歌うこと、装うことへの感動はしっかりと残っている。そんな感慨を胸に明日を生きるのだ、そしてまたアイドルおうえん上映へと足を運ぶのだ。そう思わせてくれる映画だった。分岐は今回は「プリティーリズム・オーロラドリーム」になったけれど、次は「ディアマイフューチャー」が見たいかな。また行こう。通い詰めよう。


【5月4日】 これもひとつの歴史の終焉か。シアトルマリナーズへと移籍して今シーズンをスタートさせたMLBのイチロー選手が登録を抹消された上、今シーズンはもうし合いに出ないまま1軍の試合に帯同する形でさまざまな補佐を行うという。普通だったら打てない投げれない選手はマイナーへと落としてそこでの活躍ぶりを見てまたメジャーへと戻すんだけれど、イチロー選手は契約がどうなっているのか判然とはせずもしかしたらマイナーに落とせないようになっているのかもしれないけれど、そうではなくても44歳という年齢でマイナー落ちしてそこで厳しい試合環境でプレーするのは難しく、かといって即引退させればマリナーズとしても忍びないとなればしばらくは、帯同という形で止め起き来季の契約もあると匂わせながら実質的な引退へと立場を移し、“余生”を満喫してもらうってことになったのかもしれない。

 誰よりも練習をしてそして試合でプレーすることを重んじてきたイチロー選手が、練習しても試合には出られずかといって練習しなければ衰えるだけの肉体を引きずって、補佐のような宙ぶらりんの立場に甘んじるのが納得いかないし奇妙にも思えるけれど、一方で将来を見据えてメジャーリーグという場でコーチや監督といった人たちの仕事を見て、そしてフロントに近いところからマネジメントも見て自分のキャリアを形成しようとしているのかもしれない。そのためには宙ぶらりんにも甘んじ、らしくないと言われても動じないで勉強できるからとアピールする。そして来年、4月にあるというシアトル・マリナーズの日本での開幕戦で引退、と。それもまたひとつの引き際か。行きたいなあ、その試合。2002年春にあるはずだったマリナーズの日本での開幕戦、そしてイチロー選手の凱旋は2001年9月11日のあの一件で中止になってしまったんだよ。チケットを買ったのに。そのリベンジも含めて見たい試合。頑張ってチケット取ろうっと。

 むっくりと起きてSFセミナー2018へ。確か去年も行っているから最近は割と顔を出しているのかもしれないけれど、それもこれもサッカーのJリーグで応援しているジェフユナイテッド市原・千葉がJ2に落ちて長く上に上がれない状況で、その試合を見に行くからSFセミナーを諦めるといった状況に陥らないこともあったりする。世の中なかなかままならない。あと今回はライトノベル出身から宮沢伊織さんと長谷敏司さんが登壇とあって、一郎はライトノベルを読んでレビューを書いている身として行かない訳にはいかなかったのだった。そんなSFセミナーでまず登壇したのが「半分世界」の石川宗生さんと「最初にして最後のアイドル」の草野原々さん。そういえば創元SF短編賞の授賞式で石川さんを見たことを思い出しつつハヤカワSFコンテストで見た草野さんのピーキーさが、今回はどうなるかと思ったらピーキーさに磨きがかかっていた。

 喋ればユニークな言動を振りまきつつ「ライブライブ!」のようなキャッチーなタームも織り交ぜアイドルでありソシャゲであり「けものフレンズ」であり声優を織り交ぜ、なおかつスペースオペラだワイドするクーンバロックだといったSF好きするタームも繰り出してその融合点にある作品をアピールしつつ、どこか賑やかに語り続けるそのパーソナリティを見せつける。これはなかなか場受けがするキャラクター。過去にイベントに出て賑わせたこともあったのだろう、すっかり人気者になっていた。前だと見た目がそのものだった柴田勝家さんも人気者だったんだけれど最近はミステリーと伝奇がメインでSFから遠ざかっているからメイド喫茶通いが忙しいからか姿を見せず。ちょっと残念。2人で組んで世界を革命して欲しいのに。

 対照的にクールな石川さんはそうだった増田まもるさんの私塾に通って勉強をしていた人だった。ボネガットとかイタロ・カルヴィーノとか読んでいたらしく世界文学な感じがやっぱり作品にも出ている感じ。単行本はちょろりと読んだけれども街を区切って黒と白の陣営がサッカーをし続けるという1編が凄まじかった。サッカーがテーマでもそうやって大法螺へともて行けて、なおかつクールにきめる才能は日本でもなかなかいないから。筒井康隆さんだとスラップスティックになるし円城塔さんだと重層的で多層的で暗喩的になり過ぎて一般に届くまでに時間がかかるから。その意味で言うと宮内悠介さんをより文学に近づけたポジションといったところか。つまりは狙えそうな芥川賞。どうなる今後。注目だ。

 山野浩一さんに関する追悼座談会は見送ってお茶の水駅から中央線快速に乗って中野まで行き中野サンプラザで開催中の資料性博覧会をざっと見物。復刊ドットコムに移った大野修一さんが石ノ森章太郎さんの「仮面ライダー」の原稿を写植もそのままに青鉛筆での支持も残ったものをスキャンして印刷して束ねた本をPRしていて見てこれは漫画というものがどういう試行錯誤から生まれ描かれているかを実感する言い資料になるなあと思った。今はもうデジタルでレイヤーを重ねていくだけの作業になっている漫画の原稿描きが、原稿用紙に枠線を引いてペンを走らせベタを塗りつつ吹き出しに写植を張り、枠線の外にどういう風に見せるかといった指示も入れて出すものだったプロセスを見れば実感できるだろう。若い人に資料として見て欲しいけれど、やっぱり大人の仮面ライダーファンが買っていくんだろうなあ。もったいない。

 「レディ・プレイヤー1」をクラッシャージョウとスケバン刑事で描いたパロディ漫画のコピー本を買ってそしてかがみあきらさんという1984年8月に亡くなられた漫画家の単行本とか掲載誌とかをまとめた総集編的な同人誌を購入。雑誌はともかく単行本は福制原画集も全部持っていただけに懐かしく思うと同時に、遅れてファンになった人でも頑張ればこれだけのものを集められる時代になっているのかとやや感嘆。昔はそれこそ古本屋さんを回るしかなかったけれど、今はネットオークションで出品されるのを待って落札すれば良いのだから。「鏡の国のリトル」の購入者が直筆イラストのプレゼントに応募したもおの外れてしまったところに送られてきた暑中見舞いも掲載されてた。僕も1枚持っている奴。これを探すのもきっと大変だっただろうなあ。直筆イラストはどういうものだったんだろう。今はそれがちょっと知りたい。

 戻って宮澤伊織さんの百合講座。本当だったら「異世界ピクニック」のシリーズにおけるネットロアの収集とそれを使った世界観の構築、そしてホラー的描写の特徴なんかを話すべき場のような気がしないでもないけれど、そうした杓子定規なSFファンばかりではなくなっているSFセミナーだけに宮澤さんが過去における百合への偏見に満ちた認識をことごとく潰しつつ、「異世界ピクニック」がどれだけ百合で、そして風景や音楽にも百合が存在し得ることを力説したら結構大受けしていた。良いのかそれ。良いのだろうそれ。百合だったらそれこそ「ウタカイ」の森田季節さんも交えて対談して欲しかったかもしれないなあ。でも俺の百合と私の百合とで対立して殴り合いとか始まったらちょっと大変だから今回は宮澤さんのターンで。

 最後は長谷敏司さんと雑破業さんが登壇して堺三保さんを司会に迎えての関西大学出身トリオが「BEATLES」について歓談。作家でありながらアニメーション化にあたって脚本を作り上げる段階からがっつりと辛み、設定面なんかも示唆して来た長谷さんが言うには書けばどれだけでも自分で時間をコントロールできて、読み手もそれを自分で作り出せるものがアニメではすべてが声優さんのトークの中に置かれることになってどれだけの分量で書けば良いのか勉強になったとのこと。それから現場で水島精二監督をはじめ雑破さんほか脚本家たちの指摘なんかも受けつつSF村のタームではない、一般の人でも分かる展開と描写と会話を考えていったことが、文庫版へと書き直す上で大いに参考になったとのこと。元が「ニュータイプ」で連載された作品はそうした一般性を考慮せずとも“分かって”もらえたけれど、もっと広めるためには何をどう書けば良いか、その勉強になったという。今後長谷さんが書くものはそんな、普遍性を持ちつつもテーマ的にとがったものになっていくのかな。楽しみ。

 いやもう戯け過ぎポン酢過ぎて。「元自民党衆院議員で、九州国際大(北九州市)学長の西川京子氏(72)が3日、福岡市内であった改憲派の集会で、テレビ局の放送内容が護憲に偏っているなどと批判し、『同じビルに中国、韓国のテレビ局が入っている。完全に乗っ取られているんですね。(改憲は)この人たちとの戦い』などと発言した」ってニュースが流れてきて、そして「発言後、西川氏は報道陣に対し、『テレビ局の住所の一覧表を見たら全部(中韓の局と)一緒だった。番組編成上、影響がないとは言えない』と説明」したって書かれてあっておへそで茶が湧き沸騰する。

 なんで店子が大家の言論に影響を与えるんだ。放送だとか取材だとかいった業務を同じくする人たちが、そうした設備やネットワークを融通し合っているだけのことなのに、それが何か陰謀めいたことが背後にあるかのように印象づける。だいたいが日本のメディアのソウル支局は軒並み韓国メデイアの中に入っているわけで、それで韓国の論調は日本よりになったのか? ならないだろう。なんてことを言うと韓国では日本が取り込まれているんだと返しそう。どうしてそこに違いが。まったく訳が分からない。問題はこうした主張に賛同する人がわんさかいることで、ネットde真実な陰謀論を信じて拡散するネットワークの広まりが、知性による成長を阻害しこの国をどんどんと衰退させている。それだけ既成メディアが信頼を失っているとも言えるけど、それにしてもやっぱり戯け過ぎるしポン酢過ぎる。どうにかならないかなあ。ならないんだろうなあ。やれやれ。


【5月3日】 フクアリにジェフユナイテッド市原・千葉とファジアーノ岡山の試合を見に行くか、それとも第一カッターフィールドという名前になっていた秋津サッカー場にジェフユナイテッド市原・千葉レディースと日体大FIELDS横浜の試合を見に行くか迷ったけれども北の丸公園の科学技術館でTシャツラブサミットがあるのを思い出してそっちに進軍。どうせまた負けるだろうと思ったジェフ千葉は1対0で勝利して内弁慶ぶりをあらためて見せつけ、そしてジェフレディースも勝ってこちらはトップリーグでの順位を4位まで上げて好調ぶりを見せて、ああどっちも見たかったなあと思ったけれど身はひとつだけ、仕方がないのだった。

 そして出向いたTシャツラブサミットではまずいつものバラ色のクマタローさんが突くテイル「リボン色の世界遺産」とゆー、女子高生と世界遺産が組み合わさった頓狂で酔狂なイラストがプリントされたTシャツを購入。前になすかの地上絵とかギリシャのアクロポリスとか買っているけど今回は新作らしいギリシャのメテオラ修道院のを購入、岩の上に作られた修道院という奇景が楽しめる場所らしい。1度自分の目で見てみたいなあ、それはピラミッドだってアクロポリスだって一緒だけれど。宝くじがあたったら世界一周に行くんだ(死亡フラグ)。ほかにはギアナ高地から落下するエンジェルフォールとかクジラが見られる環礁とかもあったけど、女子高生のデザインがメテオラはちょっと気に行った。どこに着ていこうか。

 もう1枚はこれもデザインフェスタなんかで良く買ってるサイケなTシャツで名高いOTACCIMAN des PLIMから相撲取りデザインのを購入。土俵入りで蹲踞して両手を広げた相撲取りがデザインされているんだけれど黒字に白とかメインの浮き彫りプリントはなかなかにシックでジャパネスクで外国人とか見たら結構受けそうな。でも今の外国人はやっぱりアニメキャラクターとかがいいのかな。ほかにはポプテピピックのポプ子とピピ美を使ってプロレスラーのザ・ファンスクとかロードウォリアーズを描いていたところがあってこれも格好良かった。パロディなんだろうなあ、やっぱり。ライセンス品として出れば面白いんだけれど。それともちゃんとライセンスとっていたとか。気になった。次に見かけたら買おう。ブロディとハンセンのもあれば良いけどその場合はどっちがポプ子でピピ美か。馬場と猪木なら猪木がポプ子で馬場がピピ美と分かるけど。

 サッカーを見に行かなかった代わりをどこで埋めるか考えて、まだ見ていなかった「パシフィック・リム:アップライジング」の吹き替え版をイオンシネマ越谷レイクタウンで見ることに。ニュートン・カイズラーの古谷徹さんとハーマン・ゴットリーブの三ツ矢雄二さんは相変わらずの好演でともにカイジュウに惹かれたぶっちぎれた科学者といった役どころを演じつつ10年が経ってそれぞれに変わった立場も含めて声音に込めて表現していた。シャオ産業の研究チームでぶいぶい言わせているように見えて、上にリーウェン・シャオが君臨している中間管理職。その鬱屈を利用されて操られたかもとより上昇志向が強かったか。結果として人類を裏切った訳だけれど残された命でやっぱ次があれば悪巧みをするのかなあ。

 ジョン・ボイエガが演じたジェイク・ペントコストの声は中村悠一さんで正直ちょっと格好良すぎ。前作での主人公は杉田智和さんでやっぱり格好いい系の声ではあったけれどもどこか飄々としたところも漂わせる杉田さんの声音と、どこまでも格好良い中村さんではタイプがまるで違う上に、今回はそれがジョン・ボイエガというところにマッチングのちょっとしたズレみたいなものも感じないではいられなかった。「スター・ウォーズ」の新シリーズでは杉村憲司さんが担当しているんだよなあ、だから同じって訳にはいかなくても、もうちょっと軽さも欲しかった。神谷浩史さん的な? まあでも途中から気を入れ直して真面目になって演説もぶつジョン・ボイエガは中村悠一さんでピッタリで、そこに絞って起用したのかもしれない。アマーラ・ナマーニの早見沙織さんは必死な感じがよく出てた。森マコはやっぱり林原めぐみさんかあ、菊地凛子さんの地声をちょっと忘れかけている。

 マックス・チャン演じるチュアン司令は子安武人さんになって心強さとしたたかさが感じられるようになったけれども、のっとられた無人イェーガーの攻撃によって司令部ごと爆死してしまうのがもったいない。そして問題のジン・ティエンはアニメ声優よりもドラマでの女優仕事の方が多い魏涼子さん。やっぱり北京語が話せるってことで英語中国語で会話するリーウェン・シャオ役にはうってつけだったのかもしれない。声も合ってたし。そんな魏涼子さんのご主人ってそうか壇幸臣さんだったのか、「攻殻機動隊ARISE」でイシカワを演じてた。リーウェン・シャオはその活躍ぶりから次作があればまた登場してきそうだけれど、興行成績的に前作を下回っているんでこれが打ち止めになるのかもしれない。果たして。ギレルモ・デル・トロが復帰してまた凄いのを作ってくれればあるいは。期しつつ待とう。

 もしかしたら「明日の狩りの詩の」前日譚かもと思ったところもあったけれど、意図的に異星人が東京湾へと隕石を落として地球を狩り場にしようとした展開とは違って石川博品さんの新作ライトノベル「海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと」(エンターブレイン)はもっと緊迫した状況での避難行動だった模様。でもってその煽りを食らって地球がとんでもないことになっていく、その発端がこの作品では描かれる。山近くに住んでトレイルランニングを趣味としている上原蒼という男子が、帰り際に枝にかかったシートを見かけてそして帰宅すると熱が出て体の一部が変化する。それは自分だけでなく周囲にも起こって父母の場合は死んでしまう。

 蒼は生き延びそして奇病の封印を狙って閉鎖された地域に止まり、なおかつ体の一部を変化させられる異能を得る。いったい何が起こったのか。家族も近所の人たちも死んだ病気の原因は、どうやらシートに病原菌を乗せてばらまいた人間ならざる者の仕業らしい。そう信じて戦いを挑み駆逐しようとする者たちもいて、蒼自身も敵討ちめいた感情から止まりいっしょに戦うようになる。いずれも病魔を生き延び異能を得た少年少女。とはいえ敵はなかなかに強くクラスメートだった少年少女は敗れて死に、新たに得たどこかから来た少年少女も戦いの中で息絶える。

 それでもこれが地球侵略への道なら、人類を守るために戦うのだ? そんなファーストコンタクトからの異能&異種族バトルが幕を変えるかと思ったらそうではなかった。ちょっとした行き違いがあって大勢が死に、そして少年少女は戦いに挑んで散っていった。けれども途中で誤解は解消され、またじり貧だった少年少女たちはそこで戦いを終えて今は免疫ができて発病しなければ生きていられる病気を傍らに人類は新しい時代に入っていく。不幸なファーストコンタクトの物語とも言えるけれおd、父母や知人や同級生たちが死んだことには変わりはなく、蒼はひとり走り続けようとする。それは正しいのか。理性としては間違っていても感情としては正しい、その矛盾を人は問われ思考する歴史を重ねているのかもしれない。悲劇を乗り越えた先、心に傷を負って走り続ける蒼のこれから歩む先が知りたい。


【5月2日】 試写も含めて3度「リズと青い鳥」を観たんでその続きを知りたくなって武田綾乃さん「響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のホントの話」(宝島社文庫)をペラペラ。最も長い「アンサンブルコンテスト」は「リズと青い鳥」で頑張った成果が得られなかったこともあって挑戦が決まったアンコンことアンサンブルコンテストに誰がどういう形で出るかを描いたエピソード。3年生が抜けても70人以上がいる北宇治高校吹奏楽部の中から最大で8人のユニットを作って演奏するアンサンブルを行うことになったものの、出場できるのはたったの1組ということで吹奏楽部内でバトルを行うことになった。

 それで始まったパートの争奪戦。ホルンというのは結構人気らしくて引っ張りだこになって残ったり残らなかったりする一方、コントラバスはあまり必要とされず残った2人が大会への出場規約には沿ってないけど2人で演奏を行うことに。野太いサウンドがいったいどんな音色を奏でてくれたんだろう。ベーシストのロン・カーターがウッドベースだけでバッハを演奏したアルバムが確かあったけれど、そうした短音の連なりなのかそれとも弓で弾いて奏でられた音なのか。ちょっと聞いてみたい気がした。

 でもって我らが黄前久美子と高坂麗奈はマリンバの子とかもいれてなかななの演奏。そうやって今まで目立ってなかったキャラクターもしっかり存在感を与えられ、大切な久美子たちの3年生編で活躍してくれることになるんだろう。彼女たちにとっては最後の善意本校当学校吹奏楽コンクールになる訳だから。アンコンは3位で出られなかったみたいだけれど。アニメーションの方は石原立也監督による新作も確か控えていて、それがどういう話になるかは分からないけれどもきっとその後の展開も小説として書かれ、そしてアニメーション化もされてシーズン3から劇場版の第3作目となりきっと白鳥での勇姿って八つを見せてくれるだろう。競技かるただと「ちはやふる」の瑞沢高校はとりあえず近江神宮までは行った訳で、北宇治高校吹奏楽部もせめて1年飛ばしてそこはしっかり、押さえておいて欲しいなあ、でないと滝先生の出番もなくなってしまうから。期待して待とう待ち続けよう。

 そりゃあ怒るだろう万葉倶楽部の社長さん。築地から豊洲へと市場が移転するんでそこに集客施設を作ってくれと言われ「千客万来」という食とか伝統とか足湯とかを楽しめる施設をオープンしようとしていたのに、築地の方でも似たような食のテーマパークが作られるとなって話が違うと大もめ中。市場自体が豊洲に移ったところでそれを見に来る人がいったいどれだけいるのか、場所は豊洲とはいいつつもゆりかもめで2駅だかを乗っていった先で歩いて行くのはちょっと無理。それでも人が来て欲しいからと施設を作ろうとしたら、銀座から歩いて行ける築地に似たような施設ができることになった。それで豊洲になんか行こうといったい誰が思うのか。思わないよねえ普通は。

 だからもう出ないと言って当然で、それでも出て欲しければ築地の件を撤回するしかないんだけれど、それもできない小池都知事は自分を都知事選んだのだから悪いのは有権者だなんてことを言ったとかどうとかいった噂話が流れてきている。いかにも言いかねないけれど、それはつまりは築地案は諦めていないってこと。平行線どころか悪化している状況で「千客万来」なんて作って、会社が倒れたらたまらないと万葉倶楽部はこのまま手を引きそう。それでいったいどうするか。いっそ秋葉原とか池袋とかに良く出来るアニメだとかゲームだとかのコラボカフェをいろいろ作って入れ替えていけば客もほどよく回るんじゃないのかなあ。あとはメイド喫茶とかJKリフレとか。そこまでのことをやったら小池都知事、ちょっと褒めてあげる。

 アメリカの倒産はそのまま会社やブランドが消えてなくなることとは違うからギブソンというギターとそしてブランドはこのまま引き継がれていくんだろうけれど、それでもエレキギターの名門をフェンダーと2分してきたギブソンの経営が行き詰まるっていうのはやっぱり何か世界で起こっている変化みたいなものを現しているのかもしれない。マック1台あれば打ち込みでどんな音色だってサウンドだって作れてしまう世の中に、ギターを弾いてアイドルになってミリオネアーになって世界でもてたいと思うギターキッズがどれくらいいるのか。弾くよりラップでも歌っていた方がもてて金も儲けられる時代だからこその現象なのかもしれないなあ、調べた訳じゃないけど。とりあえず「けいおん!」の唯にはギー太は死なないと言ってあげよう。

 まず映画だった。自主とかいった言葉で納得させるような揺らぎはなく、アートのような場で活躍するクリエイターの余技だからといた暖かい視線で見守る感じの苦笑も必要としない、映画監督が映画を撮ろうとして撮った映画だった。そして、出演している俳優の演技も、そのたたずまいも小道具も、背景となっている現代と中世と異世界を行き交う舞台も、どれもしっかりとして映画作品であるといった完全さを備えたものとなっていた。見始めればどこにも目をそらす場所はなくそのまま展開に、演技者に、舞台に気持ちを惹き付けられた。伊藤峻太監督による「ユートピア」はそんな映画だった。

 ハーメルンの笛吹き男。1284年6月26日にドイツはハーメルンという町から130人もの子供が忽然と姿を消したという史実をひとつのとっかかりとして「ユートピア」という映画の全体像が見え始める。笛吹きによって誘導されて消えたと言われている子供たちはいったいどこへ行ったのか。そんな答えの1人として、ベアという女子がとある場所に暮らしていて、そしてなぜか現代のそれも団地で暮らしているまみという女子の部屋に現れる。妙な服装で仮面も持って手斧すら備えた物騒な格好のベアにまみは驚き、ベアも驚くが、通じない言葉を行き来させながらどうにかベアがこことは違う場所から来たことをまみは感じとり、そしてハーメルンの伝承とベアが関連していることにも気づいていく。

 いったいベアはどこから来たのは。そこは争いのない穏やかな場所で誰もが平穏に暮らしていた。けれども本当に平穏なのかといった懐疑を抱くものもいた、そんな中でベアたちその世界の住人たちは笛吹きたちの導きによって現代へと転移することになった。その際に影響が出たのか電気や水道といったライフラインがすべて止まって東京は大変な状況に。それでも暮らしている人もいる中で、子供たちが姿を消す事件が相次ぐようになる。

 誰が起こしているかはだいたい分かった。だったらそれはなぜ、といったところでまみがユートピアと呼んだベアたちが暮らす場所の裏側が明らかにされ、決して誰もが平穏ではなく誰かの犠牲の上に成り立っていることを知ってベアもいっしょに来た何人かも惑う。けれども笛吹き音力は強大で、そして元いた場所に帰りたいという思いもあって現代に来た目的を果たすことを仕方がないと考える者もいる。それは果たして正当なのか、それとも。ひとつの選択をつきつけられる。

 もとより出自が独特だったベアは、どちらかとえば反対の側にあって、そしてそこへと誘ったのがひとりの笛吹きだったかもしれない。そんな展開から、完璧に見せかけようとした体制が、それゆえに生みだしてしまい隠そうとして躍起になっている矛盾であり綻びが見えてくる。それは現実世界でもよくあることで、先進国の発展のために更新国が搾取される南北問題に始まって、階級が行き過ぎてただ下は搾取されるだけの状況なりも重ねつつ、人間社会におけるひとつの必然といったものを見せつけられる。

 ただし必然ならば受け入れるべきかは別の話。そうでない道を探り選ぼうとするベアが、そして仲間たちがたどり着いた地平が今は気になって仕方がない。ヒントがあるとすれば伝承に刻まれたダブルカセットか。そこより流されたさまざまな音楽、いわゆる童謡の類が人心のみならず感覚まで操る笛吹きたちの笛の音色をかき消した。デ・カルチャー。歌といったものが持つ力の強さを感じさせられる展開で、なおかつそこで大きくクローズアップされるのが「うらしまたろう」であるところに、笛吹きによって連れ去られた世界が舞台となった映画との表裏が見て取れる。助けたカメに連れられていった竜宮城はまさしくユートピアであり、けれども人間にとっては劇薬でもあった訳だから。

 そんな映画でベアを演じるミキ・クラークは少し日本人ズレした異世界から来た女子といった雰囲気を漂わせる。伊藤峻太監督の高校時代の作品「虹色☆ロケット」にも出演していたという松永祐佳も精一杯にベアのためになろうと走り回るまみという女子を演じきっていた。エンディングで歌まで唄ってシンガーソングライターかと思わせたら実は今は看護師というから一般人。それでもしっかりプロに混じって演じてのけているから凄いというか、そこが映画としての濃度にもつながっている。異世界なりハーメルンなりライフラインが止まって大変な東京なりといった舞台もそれぞれにVFXが重ねられてただカメラで撮影しただけではとれない不思議な雰囲気を感じさせてくれる。それでいてハコニワ感もなくしっかりとそこにある感じを保っている。これもまた伊藤峻太という監督の技量のたまものだろう。

 映画として描かれるストーリーの展開にオヤと思う場所は少なく、あってもたとえばベアたちが話す言葉はドイツ語ではないのか、それならドイツ語を知っている人ならすぐに分かるはずではないのかといった疑問にも、ドイツ語を知っていそうなオカルト研究家ですら分からない言語なんだといった描写も差し挟むことで、もし指摘されてもそうでないことを分からせている。なおかつ背後にそうした異世界の言語ならではの文法があり、衣装や武器などに関する世界観の上での設定があってそうした綿密な設定と考証の上にすべてが描かれているから観ていて手抜きを覚えない。

 むしろ1度観ただけでは理解が及ばないとすら感じさせ、2度3度と観つつ設定も知ってすべてを理解した上で、また観たいとすら思わせる。そんな映画を構想してから10年以上かけて作ろうと考え続け、そして作り上げてしまった伊藤峻太という映画監督の意志の強さにもただただ脱帽。映画が作りたいのではなく、作りたい映画があるからこそ何年も構想を練り続け、撮影できるタイミングを計り続け、そして始まればすべてを注ぎ込んで完璧に、もちろん低予算ならではの部分はあっても整合性がとれないような抜けのない映画を作り上げることができるのだ。その意志の強さにも喝采を送りたい。


【5月1日】 東ローマ帝国が舞台という異色のライトノベル「緋色の玉座」を書いた高橋祐一さんが次の作品となる「復讐の聖女」(スニーカー文庫)で選んだ舞台は15世紀フランスでヒロインは火刑にされた少女。つまりはジャンヌ・ダルク。ただし“復讐”のために蘇って裏切り者どもの首をはねていく、聖女とあがめられた人物とは思えない非道な振る舞いを見せる。なぜそこまで? ってところがひとつの読みどころ。まず血祭りに上げられたのがジャンヌの異端裁判で書記官を務め司教の理不尽に憤りつつジャンヌを見殺しにしたギョームがジャンヌで、死んだと思っていたジャンヌに驚いていたところを“復讐”されつつ、その能力が必要だからと供として連れて行かれ、その先々で裏切り者たちを訪ね歩く。

 最大の目的はジャンヌがオルレアンを解放し、軍隊を率いてパリを開放しに向かった先で本当は水堀だったものを空堀と偽って伝えられ、敗退を招いた原因がいったい誰にあるのかを探すもの。シャルル七世か、その妃の母親でジャンヌを支援したヨランド・ダラゴンか、ジャンヌと共に戦ったジル・ド・レエか。ジャンヌが持った不思議な剣の力と、っそしてギョームが持つ力によって真相を尋ね歩いて分かったその真実。つまりは羨望と嫉妬はいつも人を狂わせるということか。わかりやすいけれどそれでひとりの戦闘の天才が歴史の表舞台から排除されていしまう。今となってはどうしようもないこととは言え、やはり残念としか言い様がない。生きていればどれだけの戦功を重ねたか。そして歴史を変えたか。考えたいなあ、織田信長しかり。大村益次郎しかり。

 もっとも高橋祐一さんの作品では「緋色の玉座」もそうだったけれど大きく歴史は変わらない。だからジャンヌも“復讐”のために与えられた力を使い切ったら、きっと表舞台から去って行くんだろう。可能なら不死身の聖女とガチで殴り合った怪力の老女や、悔い改めた王様、魔術師にそそのかされて悪性を現した元戦友を従え、歴史に挑むような戦いを繰り広げて欲しいけれど、そんな歴史の先にフランスがナポレオン以前、ルイ一四世以前に栄耀栄華を極めたところで、今に至る歴史はそう大きくは変わらないだろう。だから今はそもそもジャンヌはなぜ復活させられたのか、その理由を知るために続く物語を負っていこう。続きは出るよね?

 同じくスニーカー文庫から林トモアキさんの「ヒマワリ:unUtopial World 6」。川村ヒデオがゼンラーマンへの道をちょっとだけ歩み出したけど、現代的な倫理感からペンデュラムを揺らすまでには行かなかった。そこで頑張ったウィル子は偉いなあ、ってそんあウィル子の名前の元ネタとなったウィルコムが提供していたPHSがいよいよ終わってしまいそう。遠からずいったいどうしてそんな名前になったのかも分からない時代が来るんだろう。ともあれ最後にはすべてをさらけ出した川村ヒデオはさすがは聖魔王といったところ。残り2巻で話はどこに落ち着くか。何十億分だかの一の確立で世界が滅びる道に入った状況でヒデオとヒマワリがどうなるかが知りたい。それが「ミスマルカ興国物語」へとつながる道だから。ってかミスマルカの続きはいつ書かれるのか。そこが目下の興味。続くよね?

 日本人はヨーロッパ人だとか司法試験に合格すれば最高裁長官や法務事務次官に限定した話じゃなさそうに長官や時間になれるといった根拠もなく間違ってさえいる見解を個人のブログでちょこちょこ発信しているだけならまだしも一応は全国紙を標榜している新聞社のサイト内のオピニオン系コーナーに掲載してしまって、お前らそれで社会の木鐸かと世間一般から突っ込まれまくっていると思いきや、もはやそういった認識すら吹っ飛ぶくらいに電波系だと思われているらしく載って当然といった空気が流れて頭を抱えて緊急信号。まさしくメーデー、メーデーってところ。

 それはそれで苦しいけれどもそうした見解に待ってましたこれぞ正論と讃える人の割と多いことにもきっと嘘でも自分達は正しいんだと重たいくらいに日本人の心が弱り体が衰え精神が後退しているんだと思えてきた。そういえば元経済産業省のお役人さんがレフティーなイデオロギーは脇において紹介していた日本のGDPであり大学のランキングのもはやアジアでナンバーワンどころか中国香港マカオに韓国シンガポールといったところからすら置いて行かれているといった状況に、それでもなお日本がナンバーワンだと言い続けられるものだとそう言っている人たちの脳みそがいったい何の味噌なのか調べてみたくなっている。

 中国の大学に入るより簡単だからと日本の東大京大あたりに入ってきている人の多さはそのまま日本という国の学力経済力ひいては国力の停滞につながるにもかかわらず、政府と財務省と文部科学省は大学の手綱を締めて財布も絞って思想だけを強制しようとしている。これが亡国の策でなくて何だ。日本を貶めようとしてるのはどっちだ。でも安倍ちゃんスキーには通じない。ただ悪口だけを言って中国や韓国シンガポールに台湾あたりの経済力があがり学力も高まっていることから目をそらす。認めたら自分たちが負けだと思っている。これから子供を育てる人は英語数学をみっちりやって早くにシンガポールか上海北京に留学させた方がマジ、良いかもね。

 ポストカードの左半分をもらいに劇場へと出向いて「リズと青い鳥」を見る。今回のロードショーではたぶん唯一くらいに音響面で凝っているチネチッタ川崎のLIVE ZOUNDで鑑賞。爆音系ではない映画なので派手に響かせるのは得意な施設がどこまで微細きわまりない音を再現できているかが気になったけれど、すべての音を聞き逃さずすべての画面を見逃すまいとした観客の静まりかえった鑑賞態度の中で細かい音まできっちり聞こえて作品世界に浸ることができた。あらゆる音響に意味がありあらゆる映像に意味があってそれはレイアウトの1枚1枚にまで行き渡っている。表情を見せない希美の内心や顔の上半分が外にはみでて目が見えない希美の心境なんかを想像しつつ自分から離れていくみぞれへの嫉妬、あるいは自分とは対等でないみぞれの大きさに納得せざるを得ない悔しさめいたものがそこからふわっと漂い観る人を惹き付ける。

 すべてをコントロールできるアニメだから出来る一方、表情のすべてを描かなくてはいけない苦労もあってそれらを統御し切ったところに生まれた完璧さが、「リズと青い鳥」という作品を希有なものにしている。実写化なんて話も出そうだけれどもそうした細部までのコントロールを監督とカメラマンと編集とそして役者ができるのか、って考えた時に今、ファンタジーではない現代のアニメーションを作る、それも声優人気に頼らずキャラクター人気にもすがらないアニメーションを作る意味が浮かんでくる。これをよりどころにもっとジャンルと広げて欲しいけど、できる監督も限られてくるからなあ。今はだから細田守監督の新作「ミライの未来」とそれから「ペンギン・ハイウェイ」に期待。どちらも面白くなりそうだ。

 あるいは「吉原パティシエ」というタイトルだと雰囲気も伝わりやすかったけれど、そんな洋風な職業が吉原にあるはずもないからやっぱり押さえて「吉原百菓ひとくちの夢」で正解だった電撃小説大賞メディアワークス文庫賞受賞の江中みのりさんの小説は、花魁と商人の子として吉原の中に生まれたものの跡取りのような身にはなれず、かといって捨て置かれもせずに父親の紹介で上方へど出向いて料理人の修行をしてから戻って生まれ育った遊郭で料理人となって主に菓子作りを手がけるようになった太佑という青年が主人公。腕も良く工夫もこらしてカステイラとかぼた餅とかかりんとうといった貴重だったり本当は後に創作される菓子を作って客たちに出している。

 ただ幼いころから一緒に育った花魁の朝露だけは太佑の菓子を食べてくれない。禿だったころは飯じゃないならと菓子を食べていたものがなぜか今は……。その理由を聞き出すことは無粋と思ってしないまま、いつかちゃんと食べさせてやろうと思い腕によりをかけて菓子を作る日々の中、朝露のもとに通う若旦那から挑まれ彼を驚かせる菓子を作っては信頼を寄せられ、甘党の相撲取りがなぜか菓子を食べようとしない理由を聞きだしそれなら食べるべきだと説得をする、そんなエピソードの中に江戸の遊郭にしては珍しい菓子作りのエピソードが織り込まれ、苦界であるはずの吉原がちょっとばかり楽しくて明るくて嬉しいものに思えてくる。

 もっともそこは世俗から切り離され蔑まれさえする場所。太佑が暮らす遊郭の番頭が外の女性に惚れて告白する手土産に菓子を持たせたもののうまくいかなかった状況は、花魁に限らず吉原で働く者たちすべてに背負わされた原罪のようなものを感じさせる。快楽を求めるものがいるから売るだけであっても、建前はやはりカタギからは離れた世界。そうそう幸せにはなれないってこと。それは朝霧も感じていて、だからこそ夢を見てしまうような菓子を口にしなかったという展開から、それでも良いじゃないか夢をみるくらいはと説得している展開に人が生きるのはどこであっても素晴らしいことなんだと思わされる。差別とかせず卑下もしないで堂々と生きる。そんな気持ちを甘い菓子が支える。なんという優しくて甘やかな世界。これが現実にも広がればなあ。そう思わされる物語だ。


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