縮刷版2018年4月下旬号


【4月30日】 録画してあったのを観た「キラッとプリ☆チャン」は桃山みらいの実家のカップケーキをもっと宣伝したいと萌黄えもにマネージャーとして加わった青葉りんかの3人による「Miracle Kirats」がケーキの屋台が集まったイベントに出て大宣伝。でもただアピールするだけでは巨大資本にかなわない中、工夫をこらし商品にもアクセントをつけたことで目にとまり、そこからバズって売れていくといった展開に、ユーチューバーとか生主たちがすべきことが詰まっていて勉強になった。全開もキャッチィなチャンネル名を決めようマスコットキャラクターを作ろうといった話をしていて、そうやって段階を踏んで安全も担保しルールも教えつつ動画配信の世界に子供が迎えるよう教育していくアニメとも言えそう。これ、総務省とか文科省が子供のネットとの付き合い方を諭す教材にすべきなんじゃないかなあ。いや大人も含めてか。観て学んで僕もプリチャンデビューしようかな。

 そして「レイトンミステリー探偵社〜カトリーのナゾトキファイル〜」も観てあの手がかりだけでピタゴラスイッチに気づくとはやっぱりカトリーエイル、半端ない想像力の持ち主とうか単にヘンな人というか、いずれにしても凄まじい。消えた宝石と残されたコケとかカビとか水たまりの痕跡から氷を使い転がしそれでカケスを飛ばして宝石を奪わせる。誰が考えたってあり得ないけどそれを計算の果てにやってのける天才がいることに気づいて正体を突き止めるんだからカトリーエイル、あなたがやっぱり1番の天才ってことなのか。ふだんはお菓子を食べているだけの元気なお嬢さんなのに。親が親だけになあ。その親は幻の中以外はまだ出てきてないけど。いったいいつごろ登場だろう。山ちゃんの「英国紳士としてはね」はいつ聞けるんだろう。それが今は待ち遠しい。

 「KUBO /クボ 二本の弦の秘密」のライカによる日本未公開だったストップモーションアニメーション『ボックストロール』が東京都写真美術館で公開中なんで朝から見に行く。28日から始まっていたけどニコニコ超会議2018の取材があって行けなかったのだ。初日はともかく3日目となり情報も広まる中、大型連休ってこともあって「KUBO」のファンが殺到かと思ったけどそうでもない。11時からの回に10時半に行っても余裕でチケットがとれたし、上映中も20人くらいしかいなかった。いろいろと口コミがまわってのんさんの肩入れもあって「KUBO」がバズって話題になって観客を動員しても、それは「KUBO」が観たいんであってライカの作品だとか、ストップモーションアニメーションだとかが見たいわけではないんだなあ。

 まあそれは分かっていたことで、スタジオジブリのとりわけ宮崎駿監督の作品が人気だからって、ほかの劇場長編アニメーション映画を誰もが好きで見に行くわけではないというか。そこの垣根を突破させるのが言葉の力メディアの力で、細田守監督もそういった応援を受けて「時をかける少女」がまずは口コミでの評判がジワジワと広がり、「サマーウォーズ」でちょっと飛び、そして「おおかみこどもの雨と雪」でようやく40億円レベルまで来た訳なんだけど、それがすべての作品に働くとも限らないのがちょっと寂しい。インフルエンサーでもなく媒体を持っている立場でもない人間にはだから、こうやってマイナーな場所からぼそぼそと喋るしか道がないのだった。

 それでも何も言わないよりは良いんでとりあえず「ボックストロール」について。面白い。エル・ファニング(の演じるキャラクター)のパンツが見られるからってわけじゃなく、ストーリーとして差別の問題があり階級の問題があり大人による子供への無関心があり政治というものの滑稽さがあって観ていてどんどんと毒に犯されていく感じ。世の中ってこんなにひどいのか。でも最後には差別は撤廃され階級も平準化されてどうにか落ち着いて優しい世界が来る。そのためには誰かによって変えてもらうんじゃなく、自分で代わろうとしなきゃいけないってメッセージもあった。箱にはいって地下に暮らし廃棄物を集めて発明をする不思議な生き物、ボックストロールのそんな穏やかで引っ込み思案で、だからこそ誤解され弾圧されていた日々も変わって積極的に人と交わるようになった。それがボックストロールにとって良かったのかどうなのか。分からないけどでもずっと弾圧され続けているよりは良かっただろう。やっぱり変わらなきゃ。

 「コララインとボタンの魔女」「パラノーマン ブライス・ホローの謎」に続くスタジオライカの作品だけれど「パラノーマン」の興行が今ひとつだたからか飛ばされてしまった作品は、スタジオとしての経験も重なってストップモーションアニメーションとしての技術は上がり表情を多数のパーツをハメ変えることによって表現する技法も進んで、それこそCGアニメーションと同じようなスムースな動きと表情の変化ってやつを見せてくれる。それでいてガチャガチャとメカが動く感じとかは残っていて、そこに人間味というかマテリアルならではの息づかいを感じるところは「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」と同様。郷愁に過ぎないかもしれないし3DCGの人間味を否定するような見解でもあるけれど、やっぱり感じられる“波動”は人間に安心感を与えるのだった。いずれ3DCGにもそうした“息づかい”を載せるツールが出てくるのかもしれないなあ。すでにあるかも。

 声でいうなら悪役を演じたベン・キングズレーがやっぱり上手いというか、権威が欲しくて悪巧みをする男を演じつつ一方で驚きの役回りも演じてみせる。巧みなアニメーションによって生き生きと感じさせるキャラクターにピッタリの声を載せるというか、あるいはプレスコによって発せられた声に載せたかもしれないその映像は、動きと声が重なって本当にそこにその人物がいるように感じさせてくれる。悪役の一味には「レディ・プレイヤー1」でオグデン・モローを演じたサイモン・ペグもいてあっちの執事然とした雰囲気とはまた違った役どころを見せてくれる。コメディアンにして俳優は声もやっぱり一流なんだなあ。、エル・ファニングもアイドルで子役だなんて位置づけじゃなく女優として世にしっかり認められている感じ。声優としても上手いし。そこがショウビズの世界で鍛え上げられて出てくる人たちの力量って奴か。対して日本は……それは言わないお約束って奴で。

 誰が何を言おうとそれは自由だけれど、公器を標榜し社会の木鐸と呼ばれ国民の知る権利の代弁者として普遍性と公共性を求められている新聞の題字を掲げたサイトが、ひたすらに一方に肩入れをした、そしてて内容において誤謬があり差別的だったりする言説をまったくの校閲を経ずして掲載することは、やっぱりどこか筋が違っているような気がしないでもない。少なくとも「日本の主要分野にあまりにも増えすぎた『反日思想を持つ在日帰化人』のことです」だなんて断定を含んだ言葉を、それが寄稿だからといって載せるなら根拠を示させるうべきなのにまるでやられてない。これはちょっと拙いだろう。

 そもそも「反日」というタームが曖昧すぎる。あたなの言う「日本」はどの「日本」か。それは安倍政権か。天皇制か。江戸しぐさか。家族親戚友人からなるコミュニティか。人それぞれに日本はあるし人それぞれが日本だとも言えるのに、勝手に日本とは、日本人とはと決めてかかって押しつける。その日本がいつまでも日本であり続ける保証なんてないことは歴史が証明しているのに、江戸時代から明治維新を経て戦後にそして今、どの日本が本当の日本だ、どれも日本だろうに。

 「政界、官界、法曹界、マスコミ、実業界、スポーツ界、芸能界には驚くほど多数の在日帰化人がいます。ただ、芸能人やスポーツ選手に反日思想を持った人はほとんどいませんので何の問題もありません。むしろ人を楽しませる芸能性は純粋な日本人より優れていますので適材適所と言えましょう」。国籍出自人種からカテゴリーを切って適材適所というその思想が差別的区別的だという認識はないらしい。今時のメディアが黒人は運動が得意だからスポーツをすることこそが適材適所だと言ったら大変なことになるのに。だからこれはそうとうにヤバい言説なのにチェックも入れず載せている。そっちの方が実はヤバい。

 もうひとつ、「実業界で大企業の創業者の大半は在日帰化人です」「この類の実業家は、反日ではありませんが、やはり民族的な性格からか、その貪欲さは半端ではありません。昔からの人情味あふれた小売店が全国から消えていったのは、率直に言ってこの人たちのせいだと思っています」って言説も、いっさいの根拠が示されていなくって、企業の経営者も商店主たちも何か反論して良いんじゃなかろうか。だいたいが街から小売店が消えたのはむしろアングロサクソン的白人的な合理主義がはびこったからで、怒る相手が違う。けどこうも言っている。「多少は南方や朝鮮半島から来た移民もいたようですが、その数は取るに足らないほどで、圧倒的多数がシベリアから南下してきたようです。アジアの中でも唯一日本人だけがヨーロッパ人に近い民族だったというのです」。さっぱり訳が分からない。

 これの元ネタは日本人バイカル湖畔起源説なんだろうけれど、それも結局は北方系のモンゴロイドな訳でヨーロッパ人に近いだなんて言われてないんじゃないのか。「我々は全くの異人種である韓国人と仲良くすることはあっても、そして多少は移民として受け入れることはあっても、決して大量にこの国に入れてはいけないのです」。異人種って言っちゃったよ。元をたどれば起源はひとつだし、そうでなくても現代の皇室における血筋に対して不敬とも言えそうな言説を流しつつ「反日」を批判するこの凄さ。だからそれは個人として自由な言説だけれど、全国紙の看板背負ったサイトが流して良いかどうかは遠からず世間が判断するだろう。すでに判断されてしまっている説も。明日はどっちだ。


【4月29日】 4月から始まったアニメーションの新番組がほとんど見られてない中でなぜか引き続いて見ている「刀使ノ巫女」は折神紫にとりついた大荒魂のタギツヒメを引きはがしてカクリヨへと送ったはずが実はまだ現世にいるのです状態らしく、おまけに3つに分割してはタギツヒメは逃げてチマチマとノロを集めて取り込んでいて、タキリヒメは市ヶ谷の防衛省の奥で偉そうにしていてそしてイチキシマヒメなる謎の存在はどこかに隔離されている様子。それで力が分散されて落ち着いているなら良いような気もするけれど、偉そうなタキリヒメがいつ暴れ出すか分からないし、タギツヒメはあれで普通の刀使たちよりはるかに強い。イチキシマヒメは姿形が不明ながらもきっと簡単には御せてないならいずれ3つが1つになって暴れ出す、なんてこともあるのかな。

 最初に現れた大荒魂をちゃんとカクリヨに送らず折神紫が自分の身に入れ御す形院したのが問題なら、続いてそれを対峙しようとして果たせなかったのも問題で、何かすればするほど状況が悪くなっていくという不始末であるにも関わらず、刀使たちしか事態を解決できないとあって未だ尊重されている。強烈な悪に対して対抗できる存在もまた貴重であってそうしたにらみ合いの中で双方が存在意義を得続ける膠着状態を打開するのってやっぱり難しいという話。完全に調伏したら不要になってしまうからなあ、抑止力って。日本が北朝鮮に核を持ち続けてもらいたがっているのもきっと、そんな感じに自分たちの軍事力、それに関連した権力を維持し続けるために必要だったりするからなのかも。やれやれ。

 そういえば安倍総理がトランプ大統領から電話をもらって韓国と北朝鮮との首脳会談についていろいろ教えてもらったって話があって、だから蚊帳の外じゃないだろうって主張をライティな方々がしているんだけれど、連休も初日の夜中に電話がかかってきてそれをとらなきゃいけないブラック企業の従業員感がどうにもこうにも痛ましいし、会談時間も首相動静では30分とされながらもその時間の途中でトランプ大統領がツイッターに何を安倍総理と話したかってのを書き込んでいて、外務省と国務省あたりで内容をすりあわせてこの辺りまで公表するといったオフィシャルな外交らしさがなく、ただの井戸端会議の噂話に終わっているような感じで日本の総理大臣も軽くみられた感じがしてならない。

 だいたいが南北北朝鮮っていうすぐに隣にある国のトップ会談に関する情報をどうしてトランプ大統領から地球を半周行って戻ってまる1日おいてもらわなくちゃいけないんだ。韓国の大統領府あたりに詰めてる外交官がそっちのルートで情報を集めて外務省経由で報告しているのが普通だろうし、それがインテリジェンスってものだろう。当然、それくらい出来ていると思いたいけれどもそうじゃなく、本当にアメリカの大統領経由でしか情報がもらえないとしたら仲が良いとか悪いとか行ったことよりももっと問題が大きそう。けどライティーで安倍総理大好きな人たちには、トランプ大統領から電話がもらえる安倍ちゃんサイコーと喧伝する。アメリカ追従でどうして保守とか言えるかも謎肉だけれど、元から安倍総理だけが世界の中心と思っている人たちだからイデオロギーのモザイク状態なんて気にしないんだろう。やれやれ。

 今日も今日とてニコニコ超会議2018へと出向いたものの、記事はもう雑感として送ってあるので普通に見たいものを見物する日々。時間も余っているのでプレスルームにいたらセーラージュピターとセーラーヴィーナスがいて目にも嬉しくなったという。とりあえず引きこもっていてはいけないと外に出て、超ゲームエリアでコナミのウイニングイレブンを使った3対3の対戦を見物。サッカーゲームはサッカーの観戦をよくしていた人間だと本当に上手なサッカーチームがリアルに対戦しているように、それもおいしいところを抽出して戦っているように見えてマジで手に汗握るのだ。3チームが総当たり戦を繰り広げて1勝1敗で並んだ中で得失点差で優勝が決定。そしてプロライセンスも与えられたという。国内においてはウイイレの大会で賞金が得られるってことか。とはいえ世界でもすでに大会は行われているからなあ。そっちっていくらいくらい賞金でるんだろう。気になった。

 戻って昨日は「超歌舞伎」と重なっていて見られなかったテクノ法要を鑑賞、お坊さんたちがずらりと並んで浄土真宗の読経を行う中心で照恩寺の朝倉行宣住職がマックを前に置きヘッドセットをして変声させつつ読経する後ろに映像が流れ周囲を光が包み、前に垂れ下がった半透明のスクリーンにはお経が字幕のように投射される。空間だけ見ていればクラブな感じだけれど短く激しいビートであおるというよりは、ゆったりとして響かせるようなテクノのスタイルで次第に引きずり込んでいく、といった感じ。これがテクノ法要の姿なのかなあ、でも念仏踊りっていう昔ならではのフェス的説教はもっと激しかったから、そういった方面のテクノ法要もあるんだろう。見てみたいけど、ほとんどええじゃないかと代わらない気も。どうなんだろう。

 そして千秋楽の「超歌舞伎」はやっぱり最初の初音ミクと中村獅童との掛け合いでタイミングがうまくそろわずミクのセリフに獅童のセリフが被ってしまう場面があって、改善の要を感じたものの次はなし。その後のかけあいは間合いもつかめて良い感じになっていたので、昼夜をおいての改善が行われたのだろう。あとクライマックスに登場する鏡の精が鏡音リンだけでなく鏡音レンもそろった形になっていたのは、今日の第1部もそうだったのか千秋楽だけだったのかは不明ながら、やっぱりリンレン揃っての鏡音なんだという思いもあってのことあったのかも。パワーだって倍以上になりそうだし。それとラストに鳴り響く「天樂」もボリュームが上がってフィナーレへの高揚を誘った印象。初日の初演はどこかショボくて中村獅童さんが無理矢理にあおっていた感じがあったからなあ。

 あそこは無念にも倒れた良岑安貞=中村獅童が“数多の人の言の葉”を集めることで復活するという流れからの爆発で、病魔に倒れながらもニコニコユーザーの応援を得て復活してきた中村獅童さんの帰ってこられたという歓喜も重なっていっしょに盛り上がるべきパート。そこで観客の側が少しでも臆してしまうと中村獅童さんからの強要になってしまって萎えが漂うから、もうちょっと安貞=獅童といった認識を展開の中で場内に持たせ、ああ良かったどちらも良かったといった気にさせる筋があっても良かったかもしれない。それこそ前口上で礼を述べさせるとか。でもそれをやってしまうと無粋になるから祭りの中に復帰を祝わせたのかもしれないなあ。難しい。

 そしていったん幕が下りてクレジットが流れてからの「千本桜」は去年の千秋楽とも同様に、やっぱりこれがやりたいんだろうという思いに答えるように中村獅童さんの叫びから始まって、俳優たちが舞台の下に降りてきて通路をかけまわって煽り盛り上げながら歓声に応え、そして観客も手にペンライトを持って桜色にしながら振り回す。この一体感を味わいたいがために、1年を待ち続けたといった人もいたんじゃなかろーか。それが千秋楽だけなのはもったいないけれど、去年は「吉原ラメント」で今年は「天樂」がメイン曲になっている以上、演目に取り入れてしまうのはちょっと違うという判断。それは正しいけれど、盛り上がり方の半端なさがもはやこれすらも展開の中に入れてしまっているならいっそ次回は再演として「今昔饗宴千本桜」をやってしまえば嬉しがる人も少なくないと思うのだった。Kirari!も技術を改め他の技術も盛り込んだバージョンアップ版。観たいなあ。


【4月28日】 ウェス・アンダーソンの作品はストップモーションアニメーションの「ファンタスティック MrFOX」はもちろん「ザ・ロイヤル・デンネンバウム」も「グランド・ブダペスト・ホテル」も実は観ていないので、ストップモーションアニメーションとして作り上げてベルリン映画祭で銀熊賞を獲得した「犬ヶ島」のあの空気感、画面の構成から展開からセリフ回しからどこまでがウェス・アンダーソン節なのかはよく分からないのだけれども、単品としていきなり見せられても「犬ヶ島」はなかなかに凄いものであった。

 日本が舞台という設定への関心から、ペットとして愛されていた犬が嫌悪の対象となって隔離され絶滅させられようとしている差別的でナチスドイツ的な施策を重ね合わせたくなる見方まで、いろいろと掘れば掘れそうなんだけれども表層的でかつ核心的なことでは、居並ぶとてつもない俳優陣のセリフが素晴らしくってこれが役者って奴なんだなあと思ったというか、あくまでも海外水準での役者って意味だけれどトム・ハンクスがピクサーに出たって違和感がない世界と、人気俳優がアフレコに挑戦ってだけで話題の日本との格差を見せつけられた。あと出てくるキャラクターの日本を舞台に慕ってことで日本人たちが昭和30年代とか30年代の日本映画に出てきた人たちのような顔をしていた。おじいちゃんになる前の笠智衆的というか。そうしたところが好きな監督なんだなあ。感想は公開が近づいたらまた書こう。

 日本記者クラブでのハリルホジッチ監督の会見を受けてスポーツ記者たちがいろいろな記事を出しているけれど、天下の朝日新聞にあってここまで保守的で国内的な思考の持ち主がサッカー記者にいるとは驚きというか、案外に構造面では保守的な朝日新聞らしいというか。まずハリルホジッチ監督を「直言してくれる理解者を失い、気づけば、“裸の王様”になっていた」といった具合に、自分の身勝手で周囲から乖離していった阿呆をたとえる“裸の王様”という言葉で誹り、そして「自らの高圧的な言動や周囲のアドバイスに耳を傾けないかたくなな姿勢」と揶揄してのける。

 驚きなのは「口に出さなくとも雰囲気で察しろ、という日本的な考え方は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身の前監督には通じなかった」と書いている部分。どうして日本的な考え方が通じると思ったのか。通じないなら通じないでちゃんと言って聞かせれば良いじゃないか。世界が標準めいたことを日ごろは書くくせに、こういうところは国内的で保守的というか、単なる権威主義的というか。いずれにしてもこういうポン酢な記事を書いてハリルホジッチ監督を貶める清水寿之という記者は永遠に僕の敵と認定する。「彼の性格を理解した上で、協会側が彼を支えることは出来なかったのか」とも書いているけど、これって性格云々の問題じゃない。性格を指摘するのはハリルに非があるという立場からの物言い。そうではなく、協会が世界標準に追いつけずサッカーすら蔑ろにしたことが問題なんだけど、それを言う気はないんだろうなあ、協会相手に。そういう人だし、そういう会社なんだろうなあ。やれやれ。

 そして早起きをしてさてニコニコ超会2018へ。午前9時前に到着してプレスの受付に並んだけれども東京ゲームショウだと開始前に長蛇の列が出来るのが、ここん家ではようやく10数人といった感じでそしてプレスルームが開場して30分以上が経っても半分くらいしか埋まっていない状況がひとつ、ニコニコ超会議というイベントに関するメディア的なプレゼンスを表しているような気がするのだった。あるいは世間的なプレゼンスも。なにせ売りがバーチャルユーチューバーだからなあ。ユーチューブって他社のサービスから出てきたヒロインヒーローをメインに据えるこの捻れ。かつての生主が今はユーチューバーに代わってそしてボカロやMMD文化もバーチャルユーチューバーへとスライドしていった中で、ドワンゴとニコニコは果たしてブランドを維持できているのかがちょっと気になった。

 そこはそれ、バーチャルユーチューバーみたいな活動をニコニコ生放送にも取り込みたいと「バーチャルキャスト」というツールを出してはきたけれど、結局の所はバーチャルユーチューバーという言葉に括られてしまっている感じ。かつての生主にようにアバターを使っての配信の代名詞にならないサービスに未来はあるのか。名は売りつつも実を取ろうとしているのか。これからの関心事になりそう。そんなニコニコ超会議2018、オープンしてやっぱりバーチャルユーチューバーのブースには他にはない人垣が出来ていた。これが人気であり話題性って奴なんだろうなあ。それを超会議に取り込んだだけでも今回は良しとするか。

 とりあえずNTTのブースに行っていろいろとチャレンジ。4けたのスロットが回る感じの中からひらがな3文字とアルファベット3文字の組み合わせを確認してそれを指摘するゲームがあって2文字まで確認して適当に押しても当たらなかったりして大変だった。動体視力が落ちているのかなあ。60個のスピーカーとプロジェクターから投影し送出した映像と音像を真下の円形の台の上に投影してそこから音も出ているように感じさせる技術は空間に立体映像と立体音像を作り出す技術へのステップに見えて興味深かった。とはいえ映像は空間に止め置くことができないから難しい。微粒子を撒くわけには行かないし。それがホログラフィックへの永遠の課題ってことなのかも。ぶるなびはコンパクトに進化していたのでいずれゲームコントローラーへの搭載に期待だ。

 超テクノ法要×向源にも興味があったけれども本番が超歌舞伎と重なっていたのでそれ以外のプログラムとしてテクノ般若心経を見物。直立した人が背後に流れるテクノに合わせて般若心経をとなえるものだけれどもそれだけでラップっぽいしトランスっぽい感じがして聞き入ってしまいそうになった。前の半透明スクリーンには般若心経のお経が映し出されるんでどこを唱えているかだいたい分かる。昔覚えるまではいかないけれども流れは理解していたクライマックスから戻ってまた唱えていたのでこれは何周かするんだと理解。2週目が終わったところで離脱し、超歌舞伎の1本目が終わって2本目へと向かう中村獅童さんの囲み取材へと出向く。

 すでに見た1本目はちょっぴり初音ミクとの呼吸があわず中村獅童さんがしゃべりだしてそこに初音ミクが喋っていたり、すこし間が空いたりとぎくしゃくしていた。きっとそれも続く公演の中で修正していくんだろう。そういうことが生身の役者じゃなくてもできるからこその超歌舞伎ってことで。おととしの1本目で驚いた分身の術は背景がピンクのボードでも切り抜けるようになっていたのは進歩だけれど、ここぞという場面での意外な使われ方といった感じがやや下がり、ああ使っているなあといった感じに落ちていたのがちょっと残念。クライマックスからの盛り上げがなくフィナーレを盛り上がりたくても盛り上がれないのが厳しかった。そこは千秋楽で「千本桜」をぶつけて一気にはじけると期待。囲み取材ではがんの治療に入院した時に寄せられた数多の言の葉が支えになったことを本当に感謝していたし、その思いをぶつけた今回の舞台はそれだけでも見る価値がある。幸いにして千秋楽のチケットは押さえたんでじっくりと見よう。


【4月27日】 走るメルセデスベンツの周りを取り囲むようにして一緒に走って行く、体格の良い男性たちの髪型がそろって刈り上げだったところに、北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国のヘアスタイルの流行が見えるといったらちょっと違うのかな、でもそれはそれでクールな感じもするんで、日本でも流行れば面白いかもと思った、そんな北朝鮮と大韓民国のトップが会談するという一大事。板門店に現れた金正恩労働党委員長がまずは南北を隔てる線をまたいで韓国に入り写真を撮られ、ついで韓国の文在寅大統領を誘って元の北朝鮮へと戻りそこでも記念撮影というハプニングを、それでもするりとこなしてしまうところに両国の長く戦乱いはあっても話し合う大切さは感じている現れかとも思った。平昌の冬季五輪でも北からの特使を出迎えていたし。

 その後に何が話し合われたかまでは把握していないけれど、共同宣言を出して朝鮮半島の完全な非核化を進めていくといった点で合意し、また朝鮮戦争の後に休戦状態にあった両国が平和協定へと移行することも確認されたようで、これで見かけ上の朝鮮半島における危機といったものは大きく減殺されたと言えそう。2国間が勝手に言ってるだけと北朝鮮にワルモノであって欲しい日本の特定な思想下にある人たちは言いそうだけれど、CIAの長官が事前に北朝鮮を訪問してたり、韓国が米国と話していたりしてある程度の絵は描けていたと思われる。だから3国とそしてこの前に金正恩委員長が訪れた中国も含めた4カ国の了解下で、今回の一件は進んだと見るのが妥当だろう。

 問題はそこに日本の影響がまるで感じられないこと。北朝鮮と韓国の協定なんだから日本は関係ないというなら、中国だって関係はないにも関わらず隣国としてしっかり絡んでいる。アメリカは軍事的な緊張を避けたいといった思いから韓国なんかを通しつつ北朝鮮とも直接話して状況をコントロール下に置こうとしている。日本はそこにいっさい絡んでいなさそう。北朝鮮に関する情報は教えた? 圧力をかけた? でもそんなの世界のCIAだったらとっくに知っていることだろう。圧力だってアメリカに歩調を合わせただけ。そこで日本だけが独自に行動しようとしたら、拉致問題の解決なくして対話なしといった主張を掲げ憎悪をあおって支持を集めた現在の政権が壊れてしまうから、最初から選択しにはなかった。。

 もちろん外務省も無策ではないから、きっとひっそりと外交ルートを使って折衝はしていただろう。でもそれを明かすと阿ったのかと批判が出そうで難しい。かつて小泉総理大臣下でミスターXと呼ばれた人が誹られたように。だからやっぱり何もせず、出来ないままで実質蚊帳の外に置かれていながら何かをしたような口ぶりをする日本に対してアメリカから、分かっただったらお前らは経済支援なとなっ何千億円かを負担させらるんじゃなかろーか。それでも金を出すから影響力を持てるんだと現政権は居直りそうだけど。ライティな方々が最も嫌いそうな行為なのに、それでも許してしまいそうなのはライティな人たちにとって題字なのは国益でも平和でもなく現政権の安泰だからかな。何がそんなに楽しんだろう、好意を寄せたところで返されるものなんてなにもないのに。それともあるのかな。

 日本記者クラブで行われたサッカー日本代表の監督を解任されてしまったハリルホジッチの会見を聞いてなお、ハリルホジッチ監督は日本サッカー協会や選手とコミュニケーションをとろうとせず、また選手起用にも問題があり試合も内容に乏しくFIFAワールドカップ2018ロシア大会への準備も出来ていなかったから解任されて当然なんだと書けるメディアがあったとしたら、それも含めてのJFAファミリーという奴なんだろう、サポーターを向かずサッカーをプレイする選手たちも向かないまま、利益につながる側だけを見てそこに阿ろうとする。

 とにかく終始、いったい何が起こったのかを探求していたようにも見えたハリルホジッチ監督。3月あたりの国際親善試合であまり良い成績を出せず、W杯に向けたチーム作りが上手くいってないんじゃないのいったた声があるのも承知していたようだけれど、それは「調整だと思ってたんだ」と指摘。「W杯でパフォーマンスが出せるものを求めてたんだ。選手が幅広い力出せるようにしたんだ。だから結果なんて頭になかった。そもそもブラジル相手ならすごい結果なんて出せないよ。だから経験を積ませたかったんだ。結果はそりゃあ満足いくものじゃないけど教訓は引き出せた。ブラジル相手に2点も奪うなんてところがある?」と話してた。

 日本代表監督の役割はW杯で成果を出すことで、その準備をしているのだと言えわれれ当然、そういうものかと考えるだろう。結果がおもわしくないのが気に入らなければ解任するのもありだけれど、そういった条件なんて出されていない中でハリルホジッチ監督は準備のための吟味を続けていた。試合はしっかり支配できていて満足だったし、ベルギー戦は良くなかったけどデータは引き出せた。それもレギュラーがいない状況でデータをとれたし、新しい選手も試せた。そうすることがW杯への調整であって、そこから準備を進めようとしていたら突然、コミュニケーションが足りないから解任だと言われ、どうして言ってくれなかったのかとハリルホジッチ監督が怒り訝って当然だ。

 「問題があるぞなんて田嶋幸三会長も西野朗技術委員長も1度として言わなかった。いや、西野は言おうとしていたか。マリ戦の後パリに行ってベルギーに戻ったら話がきた。ひとりの選手がいい状態じゃないと。それは分かっている、あとでなんとかできると言ったのに」とハリルホジッチ監督は答えていた。それなのに突然の解任。「びっくりしたよ。コーチたちもびっくりだ。4月7日にパリに行ったらこんにちわと挨拶して、ハリルホジッチさんこれでお別れといわれた、ジョークだろ? と思って1分経ってなぜかと聞いたら、コミュニケーション不足だと。怒りが沸き立ってきた。どの人とコミュニケーションが不足しているんだと聞いたら全般的だと言われた。これには動転した」。

 そりゃそうだ。問題があるとは言わず、どうにかしてくれとも言わないでおいて、いきなり解任でそれもコミュニケーション不足と言われれば誰も納得なんてできない。リザルトの結果によって力量不足だと言われ解任されることには慣れている。そういう仕事なんだという理解もあるのに、まったく取ろうはして来なかったコミュニケーションがなかったからクビだと言われて納得できる人間なんていないだろう。だからハリルホジッチ監督は頭にきた。日本に来て会見までして怒りをぶちまけた。そうした経緯が分かってしまって、どうしてハリルホジッチ監督はコミュニケーションをとろうとはしなかったって書けるのか。書けないのが普通だけれど、きっと書いてくるところもあるんだろうなあ。

 そんなハリルホジッチ監督の会見から浮かび上がってきたのは、コミュニケーション不足を理由にしながらもそれが極めて狭い範囲での選手や、そうした選手に寄り添っている日本サッカー協会のトップに限られているってことか。「何人かの選手が不安を漏らしているというのは聞いているよ。会長と話しているしテクニカルスタッフともコンタクトとっていたようだ。西野がどんな役割を果たしたか分からないけれど、不満を漏らしているから注意した方が良い選手がいるぞと聞かされていた。本当だったら会長に言って欲しかった」。知っていて言わないのは、言って聞く監督でもないと分かっていたからだろう。そういう実力なんだときっと理解しながら、別の理由で起用を求めて応じないならクビにした。そんな構図が透けて見える。

 「選手が2人いるのかな、不満をもらしている選手は2人? 感謝しているという選手が15人くらい連絡してくれた。会長から前もって問題があると教えて欲しかったよ。解雇権あるからそれいついて問題はないけれど……」とハリルホジッチ監督。「2月に吉田や長友、長谷部らとコミュニケーションしたが問題というのは起こってなかった。選手たちとの関係は良かったのに1カ月後にコミュニケーションは薄らいだという。誰とのコミュニケーションだ? 準備は出来ていた。どこまで行けるか分かっていたのにサヨウナラ。何で? 私が知りたい」。そう思うのも当然だろう。

 「この一件で協会は大きなリスクを背負っただろう。フランスでは、日本でそんなことが起こるのかと聞かれた。日本はお互いを尊重し合う国だと聞いていた。代表監督に対するこういう事態はどうなんだろう?」。自ら取ろうとしなかったコミュニケーションを理由に解任する協会と仕事をしたいと思う外国人監督がこれから絶対に現れなくなったら、それこそ日本のサッカー界が終わってしまうのに、それよりも目先の収益を優先したのだとしたらもはや日本のサッカーファミリーに対する裏切りに他ならない。それをサッカーファミリーのトップがやっている。協会を味方するメディアも。でもきっと自重なんかしないだろう。できていれば解任なんてしていない。そこに将来にわたっての沈滞の可能性が見えて胸苦しくなる。

 気になるのは、こんなサッカー日本代表のスポンサーなんてやっているとブランド価値が下がると言って、アディダスがスポンサーを降りたりするような事態が起こらないかってこと。そうなったら日本サッカー協会どうするんだた。アディダスにとっては日本だけが商売の地でもない訳だし、2002年の時ほどレプリカユニフォームが売れている訳でもないし。じゃあナイキがとって代わるかというと協会の体制が同じならネガティブなイメージも一緒な訳で安く買いたたかれそう。ミズノかアシックスには大金は出せないしちょっと大変かも。ほかにあるとしたらル・コックか。それもなさそうだしなあ。いっそKAPPA? それは勘弁、だってKAPPAにしてからのジェフ千葉ってほとんどJ2なんだもんだもん。代表にその呪いを伝染させちゃ拙いだろう。いやいや代表をKAPPAにして呪いを伝染させてジェフ千葉はアディダスになって晴れてミJ1復帰なんてあったら小躍りするかも。どうなることやら。


【4月26日】 聖地巡礼プロデューサーの柿崎俊道さんがずっと出してきている「聖地会議」の最新号に「この世界の片隅に」の片渕須直監督が登場しているってんでコミックJINへと出向いて「聖地会議21 片渕須直監督と聖地巡礼」を購入。冒頭から柿崎さんが「私の曽祖父は産業奨励会館の職員でした。今の原爆ドームですね。当日の朝も出勤し、原爆によって命を失いました」とかって話していて、身内があの原爆とつながっている人がこんなに近くにいたんだとちょっと驚いた。つまりは「この世界の片隅に」の最後のほう、すずさんが径子さんから髪を直してもらっている時に縁側から射したあの閃光の下で、亡くなられた方がひとり分かったということでもあって、映画がさらにぐっと身に迫ってきた。

 広島出身の知り合いは何人もいるけどやっぱり親類縁者にそうした被爆なり影響なりを受けた人がいるんだろうなあと思うと、「この世界の片隅に」という映画はやっぱりひとつのタイムカプセルであり、また過去を刻んで今へとつなげ想像させる装置にもなっているということなのだ。片渕監督は対談で「広島の大正屋呉服店を劇中に出したのも、今は建物が残っているからなんです。呉服店のまわりに映画で描いたような街があった、とみんなが思い浮かべてくれればいいな、と思って映画に登場させました」と話している。聖地巡礼というと作品に出ている場所やら物やらを“確認”しにいくのが主になっているけれど、原爆であり戦争であり戦後の開発に呑まれた現代において「この世界の片隅に」の世界をすべて見いだすことは難しい。

 けれども、それは本来の目的ではない。作品に出て来た物や場所を追認し体験すると同時に物や場所と周辺のその後、出て来なかった人たちのそれからを想像することこそがきっと、片渕監督が映画に込めた多いだろう。対談ではこうも言っている。「映画は最初の入口であってね、そこから先は皆さんの足で広島、呉にいっていただき、ご自身の経験にするのがいい」。リアルに作り上げた世界だからこそそこに自分達のリアルを重ねて思いを浮かべる人たちがいて、そうしたリアルを受け取って世界全体からリアルを感じ取る人たちがいる。そのリアルを今へと引っ張り世界がどう変わったか、どうして変わったのかを想像することによって過ちは繰り返さず、喜びを得るための心構えが得られるのだ。

 片渕監督はこんな話もしていて、「草津でも爆風によって屋内でも人が転がったという話はありました。映画『この世界の片隅に』では草津の家の屋根が傷んでいるように描いてあります」とあって、そんなところにもちゃんと考証と観察の成果をぶち込んでいたのかと改めて驚いた。気づかなかったものなあ。見返さないと劇場で、あるいはBlu−rayで。そんな話が満載の「聖地会議21 片渕須直監督と聖地巡礼」はコミックJIN以外だと赤坂にある小さいけれども充実した書店の双子のライオン堂などで販売中。そして5月6日に東京流通センターで開催の第26回文学フリマでも販売されるとのことなのでリアルが欲しい人はそちらで。AmazonでKindle版も4月27日から販売されるんで急ぐ方はそちらを。

 2019年度前期のNHK連続テレビ小説「なつぞら」で広瀬すずさんが黎明期のアニメーション業界に入って活躍するって話を聞いてからしばらく。ようやくキャストの発表があっていったい広瀬すずさんは奥山玲子さんなのか穴見和子さんなのかといった疑問から、業界に入って出会うだろう宮崎駿高畑勲大塚康生小田部洋一森やすじ手塚治虫等々は誰が演じるんだといった興味なんかが渦巻いたけれど、発表された面子はどうやら奥原なつという広瀬すずさん演じる少女の故郷となった北海道の人ばかり。アニメーターになってからの関係者はまだ分からないのだった。誰が演じるんだろうなあ、手塚治虫は手塚眞さんが演じるとピッタリなんだけどなあ。まあいずれのお楽しみってことで。

 それより興味深いのは、ポスタービジュアルとともに題意を描いたという刈谷仁美さんという人で、どうやらアニメーターらしいけどあまり耳にしたことないのも道理というか、調べたら去年の9月に開催されたICAF2017ってアニメーションを学んでいる学校の学生さんの優れた作品を集めて上映するイベントに、東京デザイナー学院代表作品として連盟で「漫画から出てきちゃった話」を出していた人だった。つまりはバリバリの新人ってこと。アニメーター寮という若手アニメーターを確保し育成するプロジェクトにも参加している人だから、まさに駆け出しといったところでこれだけの大役を任せるとはNHKも人の見る目があるというか、冒険が凄いというか。ちなみにICAF2017各校選抜プログラムはイベントで観たから「漫画から出てきちゃった話」も観ているはずなんだけれど内沼菜摘さんの「最終ロケット・イェイ&イェイ」の超破壊力に打ちのめされていたのでよく覚えていないのだった。改めて見ると動きとか、上手い人だった。これからいろいろ仕事してくれそうな予感。見守りたい。

 瑞山いつきさんが「浅草あやかし絵解き 怪異とグルメは飯のタネ」(宝島社文庫)で東京は浅草のグルメと怪異を描いたと思ったら、名古屋は大須を舞台にして妖怪変化が暮らしつつ名古屋めしを満喫するという「大須路地裏おかまい帖 あやかし長屋は食べざかり」(宝島社文庫)を神凪唐州さんという人が描いて登場。実在のラーメン屋とか洋食屋が出てくる「浅草あやかし絵解き」とは違って「大須路地裏おかまい帖」は架空の居酒屋を舞台にしつつ周辺で売られているだろう名古屋グルメをとくに店舗名まで特定はせずに紹介しているといった感じで、呼んですぐこの店をと訪ねる感じちうよりは、そういった食べ物があるなら大須をぶらついてみるかといった気にさせてくれる。

 大須観音の側にあるらしい小さい神社の神主をしつつも食べるために雇われて居酒屋の店長をしている北野諒という青年が主人公。暮らしている長屋も含めたオーナーや美貌の朱音さんという女性だけれども人にあらず鬼らしく、大須に開くあやかしの世界とをつなぐ門の門番めいたことをしている。そして長屋には人間のような見かけをして暮らしているあやかしが何人か暮らしている様子で、諒は朝はそうしたろくろ首とか二口女といったあやかしのために料理をし、夜は夜で普通に居酒屋としてどて煮とかを出しつついろいろなメニューを出し、人間もあやかしも仏も大黒様も含めたさまざまなお客をもてなしている。

 どうして諒がそうした世界に関わったのか、それはたぶん代々神主の家系がなせる技なんだろうし、あやかしを見分ける力も関係しているらしい。拾った黒猫がどうやらあやかしと感じて引き取り世話をしたら少年になってしばらく面倒を見ることになったりとか、座敷童みたいな悪戯童子がちょっとした悪戯をしかけまくっているのを止めてみたりして、大須界隈で起こるあやかし絡みのちょっとした事件を解決していく。付喪神のくせにアイドルに入れ込んでしまう男を見守ったりとか。そしてクライマックスは拾った化け猫のトータがいったい何者で、そして狙われているちった展開から仲間たちといっしょに戦う展開。あやかしたちも平穏が一番なんだろうなあ。おいしい物も食べられるし。名古屋めしも特段に突飛なものは出ず、普通の食材を使ってのどて煮オムレツとかいった程度。それでもちょっとおいしそうなものが並んで食べてみたくなる。今度帰ったら歩いてみるかなあ、大須界隈。


【4月25日】 愛知県の長久手にある愛知青少年公園というか今は愛・地球博記念公園に「ジブリパーク」を作るという構想が本格的に動き始めたみたいで、今もある「となりのトトロ」のサツキとメイの家がその一角になるくらいに様々な施設が一体に作られることになるらしい。いやでもあの一体は近隣の海上の森も含めてオオタカの営巣地があって万博の際の開発が問題視されて、結果として万博が終わったあとは元の静かな森へと戻され今もそれほど開発はされていない感じになっている。サツキとメイの家も極めて一角であって背後は林になっていて、映画的な雰囲気を残しているんだけれど、「ジブリパーク」ではその背景も含めて一体がスタジオジブリ的な、というより宮崎駿監督的な色彩の建物で埋め尽くされることになりそう。

 個人的にはあの一体に集客力のある施設が出来てくれることは歓迎したいし、それが宮崎駿監督の世界でありスタジオジブリの世界ならなお嬉しいんだけれど、一方でずっと開発を遠慮してきた場所に対してスタジオジブリだからといった紋所を掲げて開発をぶっ込むのはどこか卑怯な気がするし、そのメインコンテンツとなっているのが環境保全の活動にいろいろと関わってきた宮崎駿監督の作品世界だというところに大変な矛盾を感じないではいられない。だって宮崎監督、ずっと都会な平針の運転免許試験場そばにわずかに残っていた里山が開発され、学校にされそうになった時に起こった反対運動にメッセージを寄せて支援してたじゃん。あの場所で反対するならなお広大な森を残した愛・地球博記念公園の開発に関わっちゃいかんだろう。

 そもそも宮崎監督がこの一件を知っているかに興味も及ぶけど、耳に入れるとなんだそりゃと怒ってひっくり返しかねないから、きっと万博があって開けて近代的な建物が並んでいる場所を宮さん的なナチュラルでビューティフルなワールドに変えるんですよとか言っていたりするのかも。それが露見してどういった反応が起こるかがちょっと気になる。平針の里山の件ではすぐ側に母親たちの兄弟姉妹が祖父から相続した土地があったけど開発反対の煽りで塩漬けになっていろいろ大変だっただけに、まるで無関係とも思えないのだった。そして結果としてきれいさっぱり消えてしまった里山。それも残念ではあるけれど、それ以上の開発が進みそうな「ジブリパーク」の計画には、やっぱり目を向けていかなくちゃと思うのだった。高畑勲監督の世界はちゃんと入るのかも含めて。それもあってのスタジオジブリな訳だから。

 たとえば内閣総理大臣が、応援団として頼りにしている勢力が頻繁に口にしている「太平洋戦争は戦争したいルーズベルト大統領に日本がはめられて無理矢理に起こさせられたものだ」といった意見を紹介して「太平洋戦争はルーズベルト大統領にはめられたという意見もある」なんて記者の前で口にしたらそれこそ外交問題に発展して内閣どころか国が飛ぶ。いくら「そういう意見があることを紹介したまで」といったところで世界が俗説として認めない、そして自らの責任を回避しようとしているを非難を浴びせて表舞台からその地位にふさわしくないと排除するだろう。それが世界の良識というものだし、それくらいのことは分かっているからさすがに総理大臣も今の時点では「ルーズベルトにはめられた」とは言い出さない。いつか言い出す可能性もなきにしもあらずだけれど。

 そう考えれば財務省がその中にセクハラの被害にあった女性記者の同僚がいるかもしれない囲み取材の中で、その記者によって財務事務次官がはめられたという意見があるだなんて普通は言えるものではないし、たとて内心ではそういう気持ちがあったとしても言うはずがないだろう。ルーズベルトの陰謀よりももっと直接敵にありもしない冤罪をなすりつけている可能性が高い言説。テレビ朝日が抗議までしている事態であるにも関わらず、週刊誌が書いただけとかはめられたというネットだとかそれに感化された議員だとかの意見もあるとか言ってしまえる神経は、もはや政治家や大臣どころか人として真っ当とは思えないんだけれど、それでもその地位にあることを若い人たちは認めているというから未来はもう暗澹としたもの。嘘と無責任にあふれる中で誰かをいじめて自分が悦に入る状況が続くんだろう。そして世界から虐められてやがて暴発。それをまた誰かの陰謀となすりつける繰り返し。懲りない国は永遠に懲りないのかもしれないなあ。

 ユタラプトルって毛が生えててカラフルで大きな鳥のようだったんだなあ、って言われて本当にそうかどうかは分からないし、誰も実物を見たことはないんだけれどいろいろな研究の成果から、そういう可能性もあるとは言われていることもあって、ON−ARTという恐竜ロボットを作っている会社が去年に続いてゴールデンウィークに渋谷ヒカリエで開かれるショーに送り出してきた2頭のユタラプトルは、近くに来るとふわふわとした毛が手触り良さそうでつい触れたくなってしまった。でもそれをやったらパクリといかれるのは「ジュラシック・パーク」だとかのシリーズでおなじみ。あれで肉食でスピーディで知恵も回るラプトル相手に人間が戦うのはなかなかに難しい。見たら逃げる。それしかないのかもしれない、武井壮さんでなければ。

 いやでもいくら百獣の王変じて百竜の王となった武井壮さんでも、ラプトルが集団で来たら手強いってことを言ってたっけ。1対1ならティラノサウルスの独壇場だし持久力ならトリケラトプス。そんな風に恐竜の特徴を挙げてどれも最強だと言えるところが強いものを見極める目を持った百竜の王らしい。とはいえそうやってしっかり観察しているならば、きっと勝つ術とうのも考えているんだろう。ティラノだったら頭によじのぼって脳天を串刺しにするとかトリケラトプスなら転ばせるとかラプトルだったら焼き鳥にするとか、ってそれは勝つ方法ではないか、でもラプトルに勝つ方法を編み出せれば「ジュラシック・ワールド」だとかで生き残るチャンスも増す。ここは是非に武井壮さんに生き延びるための恐竜戦講座ってのを開いて欲しいなあ、恐竜があふれ出す未来に備えて。

 旧態依然としながらも新進気鋭を莫迦にしがちなテレビの殿様体質がやっぱり祟ったってことのように傍目には見えるバーチャルユーチューバーのキズナアイをメインに吸えたBS日テレ放送番組「キズナアイのBEATスクランブル」からのスポンサー撤退の件。バーチャルユーチューバーがキャスターとして登場していろいろと紹介してく番組なんだろうとは思うけれど、初回から何で今なのという「進め!電波少年」のプロデューサーとの対談をまるまる使って放送し、2回目は「みなしごハッチ」の実況というそれをキズナアイがやらなきゃいけないのかといった内容で、いったい誰に向けて作っているのかまるで分からない状態になっている。

 いろいろとはやっているキズナアイがちょっとはずしたことやれば受けるんじゃね? って作り手の意識すら透けて見えるその展開が、さらに次回以降はしばらく再放送という状況になって手抜きなのかそれが受けると思っているか分からないけれど、はっきりいって受けるはずもないことを繰り出して来ればそりゃあお金を出しているスポンサーだって怒るだろう。それで視聴率が稼げるとは思えないもん。なおかつそうした状況を低予算だからとメインキャラクターに言わせてしまう抜けっぷり。スポンサーとしてお金を出している番組から予算がないと言われた時にそれは文句なのか抗議なのか莫迦にしているのかといった思いが浮かんで当然だ。

 せめて根回しでもして一緒に楽しみましょうと言っておけばまだ大騒ぎにはならなかったかもしれないけれど、そうしたこともなしに手前らが渋いから番組が出来ないんだと言われているに等しい言葉を浴びせられ、撤退しないスポンサーなんていない。むしろよく言ったと思う。問題はそういった状況が起きてなお日本テレビが釈明とかした気配がないことで、ネット企業を舐めネット発のキャラクターを舐めた態度をさらしてのけたその反動は、遠からず来るような気がして鳴らない。ユーチューバーしか見ないしソシャゲしか遊ばない子供たちによるテレビ離れって形に。自業自得だねえ。


【4月24日】 QAKなんて言葉はないけど急に案内が来たので円谷プロダクションによるウルトラマンシリーズの著作権に関する訴訟についての発表会見をのぞきに行く。ちょうど同じ日の午後から近くでレノボ・ジャパンによる新しいVRヘッドセットの発表もあったんでちょうどよかったというのもあったけれど、行ってこれは大正解、あのいろいろともめていたウルトラマンの海外での利用について、米国のカリフォルニア連邦地裁が契約書はニセモノだったといった判断を下したみたいで、これが確定すれば世界でウルトラマンシリーズを展開していく上でのリスクが大きく減殺された。

 元をたどれば1976年に円谷プロダクションの当時の社長だった人が、タイの実業家を相手にして海外でのウルトラマンの権利を永久的に認めたといった契約書をかわしたらしいという話が1996年ごろに浮上して、そこから海外で円谷プロダクションがウルトラマンシリーズを展開するのが面倒なことになった。もちろんそんな契約書には覚えがないから無効だと言いたいところだけれど、本物である可能性が残る以上は海外でライセンスを受けて展開するような企業もちょっと二の足を踏んでしまう。後で請求されたらたまらないから。

 やがてその範囲が「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンA」「ウルトラマンタロウ」「ウルトラマンレオ」の6作品に限定されたみたいだけれど、初代ウルトラマンをひとつのアイコンとして展開するのはだったら難しいかという話になって膠着状態。そして権利を主張するところが別の会社に許諾なかを行うことも起こってとんでもないタイトルが出回るようにもなってこれはどうしたものかという話になていた。円谷プロではだから契約書はニセモノだという主張を確定させるべく、署名が円谷プロの社長の分しかないし契約金額も描かれてないし、会社名も作品のタイトルも間違っている書類を円谷プロの社長が作るわけないだろうといった指摘を行い、各国の裁判で争ってきた。

 タイでは偽造じゃねって話になって、タイ人の実業家には有罪判決まで出たけれども中国では筆跡鑑定が行われないまま契約書は有効ってことになり、そして本国の日本でもなぜか筆跡鑑定を行ってもらえず契約書の有効性だけが認められてしまった。まあ日本でそれが認められても関係ないといえば関係ないんだけれど、こと中国のようなビッグな史上でウルトラマン関係のマーチャンダイジングを展開する上で、昭和の6作品が使えないとヒーローもカイジュウも弾が不足する。そんな懸念を引きずりながらアメリカでも行われていた裁判は、綿密な調査と証人を呼んでの尋問なんかを経て、契約書はニセモノだって判決が下された。これある種の行幸で、それだけの調査の果てにニセモノとされたなら、他国でもそりゃあニセモノだって話になっていく可能性が高まった。

 もちろん中国で出された本物だという判決は覆せないけれど、今また提起されている裁判なんかで相手方が円谷プロダクションを相手にどうして自分達の権利を侵害したんだと起こした裁判なんかに、影響が出れば勝訴へと持って行ける可能性もこれで出て来た。結果、中国というビッグな市場も視野にいれた映画にウルトラマンの登場も可能となって、いつか作られるだろうスピルバーグ監督の「レディ・プレイヤー 1」の続編に、原作の「ゲームウォーズ」に出ていながら映画ではこの一件もあってか登場が見送られたウルトラマンの登場もあるかもしれない。ちなみに発表会見では必ずしも係争の影響だけではなく、ライセンスの中で許諾できなかった旨を話していたけど、後々のリスクも考えるとやっぱり積極的には推せなかったのかもしれない。それが可能になる。果たして登場はあるか。そもそも続編は作られるのか。いろいろ期待だ。

 そして円山町から宇田川町までちょっとだけ歩いてレノボ・ジャパンの新しいVRヘッドセットとなったミラージュ・ソロの発表を見る。グーグルのデイドリームをベースとしたスタンドアロン式のヘッドセットで、PCとケーブルでつなぐ必要がなく周囲にセンサーを置いて動作をセンシングする必要もない。コンテンツをダウンロードするなりストレージ経由で映しておけば、それ1台でVR空間に入り込んで自在に動き回れる。もっともどこまで続くVR空間とは違って現実には壁があって障害物もあるから、下手に歩き回ればそれらにぶつかりひどければ命だって失いかねない。そうした移動の自由と危険の回避をどう織り込むか、ってあたりでコンテンツの中身なり利用の仕方も変わっていきそう。

 移動とかせずその場で気軽にVRヘッドセットで臨場感あふれるコンテンツを楽しめる、って使い方ならありかもしれない。たとえば目の前に迫る巨大なスクリーンで映像コンテンツを楽しむとか。プレイステーションVRなんかがそうした2Dコンテンツの鑑賞に向いているって話もあったけれど、あれはやっぱりプレイステーション4と接続しないと使えない。ミラージュ・ソロはコンテンツさえ導入しておけばそれを被ってベッドでもソファでもトイレでもどこでも映画館として利用できる。これはちょっと面白いかも。会見ではショートショートフィルムフェスティバルで代表を務める俳優の別所哲也さんがやってきて、起承転結から奇想天外なコンテンツへと変わっていくのをこうしたコラボレーションが後押しするとか話してた。リニアな映像に限らずVRならではの文脈を持った“映画”が生まれて配信され、それを鑑賞する時代がすぐそこまで来ているのかも。ちょっと欲しくなったけど、5万円ちょっとはやっぱり高いかなあ、360度ではなく180度を撮れるVRカメラも気になるけれど3万円ちょっとするし。お金持ちになりたい。

 こっちの発表にVR関係の取材者がわんさか押し寄せたからか、渋谷から遠く離れたお台場はテレコムセンター近くで行われたH2Lっていうベンチャー系の企業が、新しく送り出すFirstVRってヘッドセットの体験会に来たのはたった2人だったというのがちょっと寂しかったけれど、こっちはこっちで光学式の筋変位センサーが搭載されたバンドを腕に巻いておき、手を握ったり開いたり腕を振り上げたり下ろしたりするとその動きがVR空間のコンテンツに反映さっれるようになっていて、新しいコントロールの手法としていろいろ使えそうだだった。

 たとえば「母ご乱心」というコンテンツ。VR空間に見えるのは、食器やワインボトルなどがずらりと並んだ家庭のキッチンで、視線を向けることでそばへと移動し、そこでワインボトルに目をやると掴んでという表示が現れる。そこで自分の腕を前に伸ばして物をつかむような動作をすると、VR空間に見える手も前に出てワインボトルをつかむ。腕を引き振り上げ、思い切り放り投げるとワインボトルは飛んでいき、壁にぶつかって割れる。窓ガラスだってぶち破れる。

 なんという爽快感。そんなコンテンツがこのFirstVRなら出来るという。あと剣を掴んで振り回したり、手のひらから空気を発射したり指先からビームを出したりといったプレイ。魔法使いにでもなったような気分を味わえる。H2Lは前に筋肉に電気刺激を与えて、VR空間で起こっていること、たとえば手のひらに鳥が止まった重みを筋肉への電気刺激で再現するとか、銃を撃った反動を電気刺激によって与えることが可能なUnlimitedHandというデバイスを出していた。それはそれでユニークだったけれど、手に電気刺激が帰ってくることに慣れない人には難しかったみたい。ならばといったんチャラにして、筋変位センサーを活用する方向から作ったFirstVR。スマートフォン対応だからヘッドセットは何でも良いみたいだけれど、とりあえず装着しやすい独自開発のヘッドセットと込みで9980円は安いかも。研究用に買って試してどんなコンテンツが良いかを競って欲しいなあ。

 これはひどいというか、それすら通り越して無様としか思えない麻生太郎財務相の財務事務次官による女性記者へのセクハラ騒動に関する言動。なるほど週刊誌が騒ぎ立てていた当初だったら虚報かもしれないといった言い訳もまだ可能だったけれど、テレビ朝日が会見まで開いて自分のところの記者にそうしたセクハラ行為があったと訴え、そして財務省に抗議までしている状況であるにも関わらず、この期に及んで「セクハラ疑惑は少なくとも週刊誌報道だけで『あった』と認定するのはいかがなものか」と言ったとか。

 いやいやとっくにその段階は過ぎている。おまけにあろうことか、はめられて訴えられているとの意見もあると指摘したらしく、テレビ朝日の女性記者を非道な人かなにかのように扱っている。双方の話を聞くのは良いけど、双方に配慮するんじゃなく一方を貶める発言はもはや人として道を踏み外している。即刻その立場を改めなくてはならないにも関わらず、任命権者の総理大臣は何もしないところを見るともはや上から下まで一蓮托生で良識に喧嘩を売っているとしか思えない。そんな政権がどうして倒れないのか。3割もの支持率を保っていられるのか。この国の良識がガタガタにされている現れなんだろうなあ。そういう風にされてしまったこの5年間。禍根は来世紀まで残りそう。やれやれだ。


【4月23日】 そして見た「レイトンミステリー探偵社〜カトリーのナゾトキファイル〜」は途中で登場したバナナケーキがどう見てもタコの足の丸焼きか何かに見えて本当にそんな食べ物があるのかとクックパッド辺りを調べたらちゃんと存在していたからびっくりというか、ちゃんとアニメも参考にしているみたい。でもってそんな描写を受けてバナナケーキを作っていた奥さんが旦那さんを元気にしようと作ったのがタコ料理で、やっぱりタコだと思ってたんだと改めて諒解。そういった小ネタを挟んで笑いを取りつつカトリーのハイテンションな言動を繰り入れ無茶へと引っ張りところが面白い。なんだロケットが作りたいからって自分を死んだことにするって。それで悲しませたら奥さんを月へ連れて行くって夢が果たせないだろう。生活費とかはどうするつもりだったんだ。そもそも今の収入は。謎はさっぱり解けません。まあ良いか愉快だから。

 酒井田寛太郎さんの「ジャナ研の憂鬱な事件簿3」(ガガガ文庫)が出ていたんで買ってぺらぺらと読む。先輩が卒業して継いだ高校のジャーナリズム研究会に所属する啓介と真冬が出会う事件を調査と推理で解決しているシリーズの第3弾。真冬には祖父にあたる人物で消防士として多くの人から讃えられる仕事をして来た男が亡くなり、遺言で「メロスを捨ててくれ」と書き残していた。メロスとは何か。太宰治「走れメロス」に関わりのあるものといった推察から男が描いた絵にたどり着いてそれを見て、「走れメロス」とのシチュエーションの違いから男が埋めようとしていた過去を探り当てる。夏祭りに行って少女が消えてしまった事件に挑んだ啓介は家で虐待を受けていたといった少女への言及の裏を読んで起こっていた非道な事態を阻止する。学校の文化祭で本職の手品部が出演を辞退した合間に放送部が手品を披露しようとして入った邪魔に啓介がとった行動とは。瞬間の洞察と証拠からの推察によって真実に迫るミステリーだ。

 こちらは「下鴨アンティーク」が人気の白川紺子さんによる新シリーズってことになるのか単巻で終わるか、今は不明の「後宮の烏」(集英社オレンジ文庫)も登場。Cobalt短編小説新人賞やロマン大賞から出て来た人だらライトノベルの範疇に入るよね。よね? それはそれとして作品としては中華風の王朝にある後宮が舞台、といっても夜とぎはせず宮中に合われる幽鬼の類を払う役目を負った烏妃という立場の少女をメインヒロインにして、その元に通うようになった今上帝との関わりを描きつつ宮中で起こる奇妙な事件の真相に迫り巡らされていた陰謀を暴く。

 拾った耳飾りにとりついていたのは殺害された妃。その死因を探る展開から皇太后が皇帝を毒殺しようとしていた謀略を暴き毒のありかもつきとめる。妾腹ゆえに虐げられていた公主が池でおぼれて死んで可愛がっていた雲雀も死んだもののその雲雀の幽鬼が飛び回る。どうにかしたいと動き回った烏妃が公主の死んだ状況、その周辺で起こっていた女官とのちょっとした諍いを聞いて公主がしたかったことを理解しつつ女官には黙っている。優しさが悲しみを呼んでしまった展開が切ない。

 柳の下にたたずむ公主の幽鬼が心残りにしていたことを調べ、それがどこにあるかを指摘して公主の思いを果たさせるエピソードなども含みつつ、烏妃という立場がどうして宮中に生まれたかにも言及し、本来は2頭体制だったはずの夏の王と冬の王の一方が権力を欲して冬の王を殺してしまったことが烏漣娘娘の怒りを買ったかして1000年にも及ぶ戦乱となった果て、悔い改めた夏の王が冬の王を烏姫として抜擢し、王様としての権力は与えないまま宮中に留め置くことで戦乱を収めたといった故事を明かす。歴史に翻弄された少女の運命と宮中で勢力を固めていく若き皇帝の振る舞いを描いた伝奇でありミステリてでもある作品だ。

 ファミコンは買ってもらえなかったしスーパーファミコンも買わなかった僕が最初に手にしたゲーム機はセガサターンで、それで「サクラ大戦」を遊び「天地無用!」のぱずるだまか何かを遊んであとは取材でもらえるゲームなんかをちょこちょこと遊んでいたけれど、でもやっぱり「サクラ大戦」を2周くらいしたのが1番触れた機会だったかもしれない。プレイステーションも買ってこちらでは何を遊んだろう。「みんなのゴルフ」? 「パネキット」? 多くの人が遊んだだろう「ドラゴンクエスト7 エデンの戦士たち」も「ファイナルファンタジー7」も遊ばなかったし今にいたるまでFFシリーズは1本も遊んだことがない。「ドラクエ」はiPadで最初のを最後までやり通したか。そんな距離感。つまりはとても縁遠い。

 ドリームキャストはだから「サクラ大戦2〜君死にたもうことなかれ〜」の専用機でほかに「セガラリー」だとか「バーチャファイター3」だとか「シーマン」なんかを遊んだか。ニンテンドー64は「マリオゴルフ64」の専用機でほかに「F−ZERO X」のスコアをネット上でやりとりして楽しんでいた程度。ゲームキューブはゼルダに挫折しWiiはEAのフィットネスゲーム専用機として使われて、XboxもXbox360も稼働時間はとても短くプレイステーション3はBlu−ray再生機専用。以後の据え置き来は僕の部屋には置いてないし置く場所もない。

 ゲームボーイ? ニンテンドーDSや3DS? 持ってはいるけど「ポケモン」をやらない僕にはせいぜいが「ラブプラス」が1番遊んだソフトといったところ。そしてスマートフォン向けアプリ。1番時間をかけたのは「サマーウォーズ」の映画が公開された時に出た花札と、それからアニメ「銀の匙」に関連誌が牧場経営シミュレーションくらいか。「けものフレンズ」関係のタイトルを今は毎日ちょっとづず眺めるくらいで、そこに購入費はあっても課金は未だに1銭も発生していない。そんな距離感。やっぱりゲームとは縁遠い。

 そんな薄くて離れた人間でも、ゲームセンターで格闘ゲームにかけるゲーマーの冷めた熱をすくい上げた大塚ギチの「東京ヘッド」は感じがつかめた。大昔にゲームセンターでスペースインベーダーに何枚もの100円玉を注ぎ込んだ記憶が10数年を経て喚起されたからかもしれない。そんなゲームセンターに漂っていた残り香を漂わせつつ、オンラインゲームへと移行した世界を舞台にしたバトルが登場した桜坂洋の「スラムオンライン」も、取材を通してはやり始めていたMMORPGなりを一方に見つつ、タイムラグなしで通信ができるようになれば格闘ゲームも可能になるといった想像力からその楽しさを感じ取ることができた。

 距離は離れていても空気はまだ吸える場所にあったゲームの世界の描写がけれども、藤田祥平の「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」(早川書房)ではすっと離れた場所に置かれた書き割りのように感じられてならなかった。理解はできる。e−Sportsの大会を取材した経験が、そうしたゲームの大会をゲームセンターで筐体を挟んでバトルをしていたゲーマーたちの熱さを今に移したようなものだといった認識をもたらしてくれてはいる。ただし、オフラインでのそうしたゲームのバトルとは違って、「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」に描かれるのはオンラインでの対戦で、そこにはスタジアムに集まった観客が実況に一喜一憂しながら繰り広げられるゲーム画面に見入るような興奮はない。

 中では血みどろの戦闘なり壮大な宇宙での戦争なりが繰り広げられていても、それに携わっている人たちは家にいてイスに座ってPCに見入りマウスなりキーボードを操作している。乾いていて静謐なゲームとの関わりは、生活のかたわらにあって汗を飛び散らせながら繰り広げられていたゲームとの関わりとは違ったものといった印象で、そこに自分を映そうとしてもうまく映らないところがあった。淡々として描かれるゲームとの関わり。中学時代から熱中して高校を途中で退学してのめり込んで勝負に挑んで決して世界一にはなれない世界の、そのシチュエーションから浮かぶ心の動きは分からないでもないけれど、だからどうしたといった程度に収まってしまって半歩から1歩、身が遠ざかる。そうした場所からつづられていく日々、刻まれていくカレンダーへの×印を眺めているような文章の羅列。そう思えた。

 小説か、といえばこれも小説なのだろう。日記のように見せかけて幻想が混じり空想が入って虚構との区別がつかないような文体は、ある種のマジックリアリズム的な雰囲気を醸し出す。臨むならもっとより現実を混沌とさせてゲーム世界との境界線を溶かしてしまえばとも感じたけれど、それができるほどの統御力はまだなかったのかもしれない。文豪が文学するような企みをそこにはなかなか見いだしづらい。「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」は意図して文学したような計算とは無縁の、記憶をさらい表層を舐め時に深層をすくって吐露していく言霊に近い。それが結果として小説となり、印象として文学になっていたところに、書き手の才気を見ることは可能だろう。破綻し支離滅裂にはならず、きっちりとエピローグをまとめて来たところは思考された結果としての構成と言える。

 もっとも、そうした冒頭と結末の間につづられていった中学高校のゲーム三昧の日々と、大学に入ってからの文学への傾倒との統一感のなさは、きわめて私的な感情の吐露を優先させた結果と言えるのかもしれない。伏線のあまりないままに母親が弱り鬱となって自死を遂げ、それに揺さぶられて迷った果てに自殺未遂を引き起こしたような展開は、もっとたぐり寄せて感情のはけ口にすれば青春の叫びを放つ文学をそこに描けた。けれどもそうとはならず、日常として起こって日常として過ぎ去り、その中で少しずつ心を蝕む材料として羅列されている。

 帯にあるように母親の首つりという衝撃的な出来事と、その時にゲームをしていたという凡庸すぎる行動とのギャップを感じて、イマドキの若者の生態をそこに見いだすようにはなっていない。後悔して気持ちが揺れて幽霊を見て自殺未遂も引き起こす。どこか当たり前すぎる流れはたんなる私事だと思われても仕方がない。私小説ならそこからどれだけの心の葛藤を引っ張り出して言葉にして並べるか。そう考えた時に「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」にとって帯に取り上げられた部分は、キャッチだけれどメインではないと思えてくる。

 子供のころからネットに親しみゲームで遊びちょっとだけのめり込みすぎて不良めいた日々を送り、思い直して大検を受けて大学にはいりセンダ(浅田だろうか)から学びそしてゲームへと戻りつつ現実へと近づいていくという、そんなひとりの人間の半生を遠巻きに眺めるような印象だった、ゲームから縁遠い僕には。ただし、同時代を生きるなり今まさにオンラインゲームの中でバトルをしながらプロを目指しているゲーマーたちにとって、先達であり成功者でもある人間のつづった苦闘として共感を覚える作品であることは否定しない。

 なりたかった自分。なれなかった自分。なろうとしている自分。なってしまた自分をそこに見て、そしてこれからの生き方を考えるための指標になっているのかもしれない。そういった人たちから出てくる絶賛の言葉に、自分との縁遠さを覚えつつ、やはり冷熱から遠ざかり湿潤の中におぼれるような感じもなく、乾いて静かな雰囲気を醸し出しているように見えるゲームの世界にあるだろう強い意志を、そこでしか生きられないそこにしか居場所がない者たちの覚悟を探っていければと思うのだった。なんてな。


【4月22日】 ふと気がついたら極東の情勢が激動していて大韓民国と北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国とが長く戦争状態だったのを止めるといった話が伝わり、そして北朝鮮が核実験とかミサイル発射実験をもうしないと言ったとかいった話も伝わって、表向きは緊張状態にあった朝鮮半島情勢がこれで一段落つくかもしれない。まあすでに長距離弾道ミサイルの技術は確保し核弾頭だってどうにかなるかもしれないと感じ、実験はしないけど保有は続ける気構えなのかもしれず、それをもって非核化なんて嘘だと突っ込み緊張状態を維持させようとする動きも出るかもしれないけれど、パキスタンとかイランがとりあえず核兵器を保有しつつも表向きには認めず平穏を保っている状況をここに持ち込み、まあ穏やかに行こうといった話で世界は治めるのかもしれない、日本を除いて。

 ここで日本がいやいや核兵器持ってるじゃんとか拉致問題片付いていないじゃんと主張することはあっていけないことではないけれど、それで半島情勢がまたガタガタしたらどーすんだとアメリカに言われ中国から突っつかれてなお日本政府が頑なな態度を維持できるのか。無理っぽいけど一方に北朝鮮を最大の仮想敵国化して凶悪な存在と世間に思わせ、そこに対する頑なな態度を見せ続けることで結束を誘い政権を維持してきた感もある安倍政権が、そうした人心をまとめ差し向ける対象を失うことに耐えられるのか、ってことも浮かんできそう。核実験を止めさせる代わりに経済支援を約束したからおまえら金出せなってトランプ大統領に言われていたらなお対応に苦慮しそう。自分達の活躍を今回の件に絡ませたいけどその成果が維持されるのは政権維持に困るという矛盾の中でどう立ち回る? そこに興味。

 入ってないけどNetflixで「アグレッシブ烈子」あるいは「Aggretsuko」の配信が始まって世界でなかなかに評判になっている感じ。IndieWireもレビューを載せてサンリオにあってKIRIMIちゃん.とかぐでたまといった異色のキャラクターが続いている中に登場したカワイイの反乱といった見方を示していて、日本人のサンリオファンが抱いている思いが世界でもちゃんと伝わっていることを感じさせてくれた。そしてツイッターとかにも反応が上がってて、ハローキティは期待するものだったけれどアグレッシブ烈子は自分の現実だとかいった外国人女性の反応。日本のOLが受けている理不尽をテーマにしながらもそれは世界の女性にとって同じ悩みだったんだなあ。

 ガラスの天井とか言われて、そして言えないセクハラを告発する「MeeToo」運動があったりして、開明的で開放的で平等に生きていると思われていた西洋の女性もやっぱり世界にはまだまだ残っていた。レディファーストというのが逆説的な女性の隔離であってそこからの解放を目指してもやっぱり男性が権力を持った世界では完全なる平等なんてあり得なかった。そんなことが露わになりつつある今に現れた、理不尽を象徴するキャラクターとしておなAggretsukoが、ムーブメントの中であるいは象徴として持ち上げられたりしているのかもしれない。どうなんだろう。

 もちろん烈子は理不尽な境遇に表では甘んじつつ、裏でデスボイスによってデスメタルをうたって鬱憤を解消しているだけだから、弱いままだし闘士として前面に経たせるにはちょっと頼りない。かといってそこから飛び出させては理不尽さの象徴というキャラクターとして成立しないなら、周囲がある種の犠牲者として祭り上げ、その解放を叫ぶ運動を行いつつ自分たちの向上をを目指すような動きが起こったら、戦場を行く自由の女神が科掲げる旗に烈子が描かれたりする風刺画も登場したりするかもしれない。気になるなあ、この先の展開が。第2期という声も起こっているんでNetflixの対応にも興味。もしかしたら湯浅政明監督の「DEVILMAN Crybaby」より世界で受けてる2018年の日本のアニメーションになったりして。

 イオンシネマ幕張新都心のドルビーアトモスで「レディ・プレイヤー 1」を観る。試写室に続いて2度目。やっぱり凄い映画ではあるけれども、ことテクノロジーの描写においてはぶっ飛びすぎない中に押さえて分かり易さに傾けたのかなあといった多いも浮かんだ。そもそも歩かなきゃ行けないVRって何だろう。あるいは中で“強制労働”が行われるVR。もちろん今だってフリーロームと言われて歩けるVRゲームが人気になっている、移動という手段をゲームの中に持ちこむのなら歩くという行動をそのまま繁栄させるのが没入感がやっぱり1番高くなる。

 でもそれは歩くことよって起こる肉体への負荷を感覚としてフィードバックさせる方法が歩くことくらいしかないからで、これが別の方法、筋肉への刺激なり脳への直接的な刷り込みによって可能になったらああいった、四方八方へと歩ける台とかそれがない人は街中を走り回るとかいった具体的な行動は必要なくなる。っていうか映画の中でそれがまるで危険性も警告されずに用いられているほうが不思議でならない。

 あるいはMRなりARだったら現実のオブジェクトを重ね合わせて障害物を別のゲーム内オブジェクトに描いて避けられるようにする。「劇場版ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール」が取り入れていたのと同じ手法。街中にある建物が城に見えたり像がモンスターに見えたりするような。そして大元となった「ソードアート・オンライン」はVRゲームでありながらも意識そのものを没入させる形にして脳への刺激で負荷を感じさせる。あるいはそもそも負荷なんて感じていないのかもしれない。

 肉体への負荷がゲーム内での没入感に不可欠だなんて誰が決めた。移動しているビジョンを観るだけでもしかしたら人は筋肉に疲労を覚えるのかもしれない。分からないけど。つまりは移動というアクションをゲーム内で起こす上で肉体がアクションする必要なんてないにも関わらず、「レディ・プレイヤー 1」はそれがデフォルトになっている所に、「ソードアート・オンライン」なり「アクセルワールド」なり「BOOMTOWN」なり「ヴィーナス・シティ」なり「攻殻機動隊」なりを経てきたニッポンのアニメコミックゲームライトノベルユーザーには不思議さを覚えるのだ。

 でもじっと動かないまま脳内でアクションし続けているビジョンでは現実世界はポッドの中に寝ているだけで何も動かない。それではやっぱり映画にはなりづらいんだろう。映画「楽園追放−−Expelled from Paradise−」のように肉体すら捨て去って電子データ化された存在になったビジョンはさらに進んでいるから、移動時の肉体の駆使だの、ましてやVR空間での肉体労働の強制だののビジョンに驚くんだけれど、そこはやっぱり過渡期でありまたリアルの延長としては正しいのかもしれないと思えば納得せざるを得ないのだった。でもやっぱり強制労働はなあ。全身動かさなくたって手元のジョイスティックとボタンで操作、できるじゃん、ねえ。

 日韓併合後に行われた創氏改名は強制ではなかったという講演が行われたというリポートが某全国紙のウエブに掲載されて、相変わらず自分達はまったくもって悪くないんだと過去を隠蔽しようとする態度が浮かんで呆然。法的強制についての議論はいろいろあるけれど、名前を日本風に改名をしなければあの植民地化された状況において不利益を被っただろうシチュエーションがあったことを広義の強制ととらえる流れもあったりする。それを法的な強制云々をよりどころにして自発的で喜んで改名したといった空気を作りだそうとしているのが鬱陶しい。朝鮮名では商売しづらかったから改名を認めてくれという嘆願があったとか話もあるけれど、それを正当化の根拠しちゃあいかんだろう。そうでなければ商売しづらかったというならそれは根っこに差別がある訳で、何が八紘一宇だ五族協和だって話。でも上っ面の制度面だけを見て自分達は悪くないと過去をネグるその態度をみっともないと思えない人たちが保守を名乗り愛国を叫ぶ。やれやれとしか言い様がないのだった。やれやれ。


【4月21日】 ひゃっはあ。サッカーの女子日本代表が挑んでいたアジア杯の決勝が行われてオーストラリアを相手に1対0で勝利して見事優勝、それも連覇を果たした。リオデジャネイロ五輪への出場を逃してアジアにおける日本の女子サッカーの地位も低下の傾向にあると思われていたし、この何年かの戦いぶりもどこかアグレッシブさにかけるところがあった感じで、それはこのアジア杯に入っても続いていて明快な勝利といったものがなく、引き分けなんかの中からどうにか来年のワールドカップへの出場権を確保し、決勝トーナメントへとコマを進めたもののそこでやっぱり苦戦するんじゃないと思われていた。

 実際に戦いはギリギリでもあったりしたけれど、それでもちゃんと勝利を飾れたのは良い傾向。というか振り返ってみれば日本はずっとギリギリの戦いを続けていて、かろうじてワールドカップでも五輪でも出られるくらいのレベルだった。それがちょっと勘違いしていたところもあったのだろう、1回の五輪出場を逃してしまったことが落胆から崩壊につながる心配もあったけれど、それは前にシドニー五輪を逃した後に経験していること、今回は地域でのなでしこリーグでしっかり印象を植え付けつつ、皇后杯で盛り上げながら女子サッカーの底上げに努めてきた。海外で活躍する選手も出て来た中で早くから注目されながら、今ひとつも伸び悩んでいた岩渕真奈選手や横山久美選手が得点源としてブレイク。荒川理恵子選手なり大野忍選手永里優希選手に並ぶ存在感をこれで持ってくれたら鬼に金棒。期待してこれからの試合を眺めていこう。ところでワールドカップってどこでやるんだっけ。

 わたしがあなたに抱く「好き」という思いと、あなたがわたしに抱いているかもしれない「好き」という思いがまったく同じなんてことはない。わたしとあなたという違う人間が抱く感情は「好き」に限らずどんなものでも強さが違うし熱さも違うし、向いている方向、気持ちが及ぶ範囲だってまったく違う。そんな違う感情の中から重なる部分を見つけ出し、感じ合うことであなたとわたしは同じような立場の上に自分たちを置いて、同じような日々を送ることができる。

 それは人間という思いを抱き巡らせることができる生き物にとって当たり前の話なのに、なぜか物語の中に出てくる登場人物たちの思いを、読者なり視聴者なり鑑賞者はまるで同じもののように感じ取っては、重なり合って強くなったその思いが何かを成し遂げようとする様に強く感情を添えてしまう。友情・努力・勝利といった方程式の上で繰り広げられる物語が人気なのも、それぞれが違っている人たちが気持ちを寄せ合いひとつにまとめて同じ方向へと進む強さに惹かれるから。あるいは現実にはそうではないからこそ、現実ではない物語にこそひとつの重なり合ってズレのない感情を求めたがるのかもしれない。

 けれどもやっぱりひとりひとりの思いは違う。「好き」という感情もあなとわたしでは違うのだという”現実”を改めて示して突きつけようとする。山田尚子監督が「響け!ユーフォニアム」という武田綾乃の小説シリーズをひとつの原作に、同名のテレビアニメーションや総集編的な映画とはまた違った視点から描き出した長編アニメーション映画「リズと青い鳥」はそんな作品なのだと言える。

 メインとなるのは鎧塚みぞれというオーボエを吹く少女と、傘木希美というこちらはフルートを吹く少女。「響け!ユーフォニアム」のシリーズで舞台となっている北宇治高校吹奏楽部に所属して、3年生になっていてそれぞれが全日本吹奏楽コンクールをひとつの頂点にしたコンクールに向けて練習を始めている。映画では説明がないけれど、みぞれと希美は同じ中学校の吹奏楽部を経て北宇治高校へと入り、同じ吹奏楽部に入ったものの1年生の時にやる気がない先輩たちに嫌気を覚えた1年生が大量にやめる事態が起こり、希美はその1人として吹奏楽部を離れた。

 ずっと希美といっしょだった、そして「リズと青い鳥」にも描かれるように希美に誘われるような形で吹奏楽を始めたみぞれにとってそれは青天の霹靂で、なおかつ一言も相談がなかったことを悲しみ怒りすら覚えたのか、長く引きずって希美のことに触れるのを極端にいやがっていた。そんなエピソードはテレビシリーズで、2年生になっていた希美が復帰を願いながらも副部長の田中あすかがみぞれの調子が崩れることを恐れ、拒絶し近づけようとしなかった展開に描かれている。

 それでもやはり腕は良かったからか、希美は復帰を果たしてふたたびみぞれと一緒にフルートを吹き、みぞれも希美といっしょにオーボエを吹くことが嬉しかった。そして迎えた3年のコンクールで自由曲として与えられたのが「リズと青い鳥」という楽曲。とある童話を元にした音楽で、一人暮らしをする人間の少女リズが、ある日家の前に倒れているのを拾った青い服を着た少女とともに暮らし始めるものの、その”正体”に気づいてある決断をするといったストーリーに準じている。  そのリズと青い服の少女の関係に、みぞれと希美は自分達を重ね合わせる。自由に羽ばたける翼を持ちながらもリズのところに居続けたいと願う少女。その少女が気になりながらも自由を奪っている自分を責めているリズ。ともに抱いているお互いがお互いを「好き」だという感情の、純粋な美しさを感じさせつつだからこそ奪ってはいけないものがあるのだとも思い起こさせる。

 もっとも、リズと少女の関係とみぞれと希美の関係はまったく同じではない。当たり前だ。人間の感情は同じ「好き」でもまったく違うことがある。リズは少女が「好き」だから追い出す。少女はリズが「好き」だから飛び立つ。その「好き」に果たして違いはあるのだろうか。同じだけれどでも、結果として正反対の方向を向いて放たれただけではないか。

 みぞれと希美の「好き」はそれほど単純ではない。吹奏楽部に誘ってくれて、いっしょに演奏してくれて、自分を気にしてくれる希美をみぞれは「好き」だった。その全部が「好き」だったけれど、希美はどれくらいみぞれが「好き」だったのだろう。そこの判断がとても迷う部分だ。映画の中で希美はみぞれの音楽が「好き」だったことを打ち明ける。それはみぞれが希美に抱く「好き」な気持ちと比べて少し冷めてて小さく薄いようにも感じられる。

 同じ「好き」という言葉の上で共に努力し友情を育みながら勝利を目指す物語にはない、人間の世界ならではの感情のズレが、とてもよく表された場面だ。方や親愛でありこなた恋情とも取れそうな感情、方や救済でありこなた依存とも言えそうな関係が浮かび上がって、そこら生まれるもどかしい思いに観客は心をさいなまれ、2人の間を飛び交う針のようなものに突き刺されている痛みを覚える。そうしたすれ違いを含みながら、それでも重なる部分を探り合って近づきまったく同じではなくても、同じような方向を向いて歩み出す。そんな展開に良かったのだろうか、良かったのだろうといった葛藤の果ての諒解を得て、ホッと安心して劇場を後にできるだろう。

 国内国外含めても、孔子学院が具体的にスパイ行為を行ったとか破壊工作を行っていたといった話はまるで出ておらず、ただ右派の議員から聞かれFBI長官が調べるといった話しとかを材料に孔子学院はヤバいかもといった雰囲気を作りつつ日本にもこんなに孔子学院があるんだよといった印象操作を行った記事を掲載して、それを読んだ読者がそうか孔子学院ってヤバいんだと思ったという当初を乗せて孔子学院から中国への反感をあおるやり口がまた炸裂していてどうしたものか。どうしようもないのであるか。

 そりゃあ孔子学院だって別に新設で世界に設置している訳じゃなくソフトから中国への親近感なり理解なりを醸し出そうとしている機関なんだろうけれどそれを行ったら日本がリオにつくってロンドンとロサンゼルスにも開いたジャパンハウスがいったい何をどれだけやろうとしているかというと、予算が付かず中身も伴わないまま宙ぶらりんになっているという話。自分達のやる気のなさを棚に上げつつ他国の戦略を非難するというみっともなさに気づかないのに保守を名乗っている媒体っていったい何って話なのでありました。やれやれだ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る