縮刷版2018年3月中旬号


【3月20日】 そういえば2007年に妻夫木聡さんを主演にして百鬼丸を演じさせ、柴咲コウさんも共演でどろろを演じた実写映画が作られ公開されていたことをすっかり失念していた「どろろ」だけれど、そんな忘れ去られた感すら漂う作品を今さらテレビか何かのアニメーションにしていったい誰が見るんだろう、なんて思わないでもなかったりする今日この頃。昔見たって懐かしさを覚える世代も50歳を超えてアニメーションを積極的になんか見てないし、かといって「DEVILMAN crybaby」として新しいデザインを取り入れアニメーション化された「デビルマン」ほどサブカル方面にスタイリッシュなイメージを植え付けてもいない。何となく存在は知っている程度の作品が、今アニメーション化されて誰が見る? ってまず思う。

 そう考えた時にその力を何か別の新しいものに注いで欲しい気もするけれど、今の時代は真っ新の作品が世に出づらい時代。それなら衝撃の展開をうたい文句に偉大な手塚治虫さんの作品だとアピールすることで見たいと感じる人もいれば、お金を出したいと思うスポンサーもいる。そんなところだろうか。海外に売れる? いやあさすがにそれはなあ、だったら普通に「ロボテック」をやろうよと。アトムはフル3DCG映画になったけれどどれだけ世界に届いたか。続編も作られなかったし。そんなもんなんだよ手塚治虫さんの届く範囲は。「レディプレイヤー1」にだってアトム、出てないじゃん。出てたっけ?

 振り返れば「マジンガーZ」が映画になったし「シティーハンター」も映画になろうとしていたりと、かつて栄えたタイトルを今更持ち出してもり立てようとする動きが目立ちすぎる。もちろんそれは一部であって「さよならの朝に約束の花を飾ろう」であるとか「きみの声をとどけたい」といったオリジナルのアニメーションは作られているし、テレビだって「宇宙よりも遠い場所」のようなオリジナルが評判となってヒットしている。ライトノベル発だって決して古いものではない。あっと「ブギーポップは笑わない」は古いかなあ、そのあたりもちょっと同じ宿痾に囚われているのかもしれないけれど、「りゅうおうのおしごと」のように新しい作品も盛り上がって新陳代謝は進んでいる。

 でもそんな中でこうして古いタイトルが復古しては世に問われことごとく討ち死に、とまだ決まった訳ではないけれど、気がつくと終わっている状況を繰り返すなら未来に向けて今、種をまいて欲しいと思うのだった。大河原邦男さんだっていつまでもガンダムでは寂しいと言ってたし。まあでも海外に目を転じればスパイダーマンにバットマンにスーパーマンにワンダーウーマンがスクリーンを跋扈している訳で事情はあまり変わりないかも。いやいやディズニー=ピクサーだけは新しい作品を生み出し新しいキャラクターを送り出している。イルミネーションだってミニオンズを生み出し来夏はクボを出してきた。ならば日本も……と思うのだけれどそこがやっぱり。何が足りないんだろう。応援する姿勢? 新しいものへの賞賛? それをやろうと「けものフレンズ」を応援してたらはしごを外された訳で……。やっぱりどこもかしももユルんでるってことで。やれやれ。

 昔、金融・保険を担当していた頃にゴドフリー・ホジスン「ロイズ−巨大保険機構の内幕」を読んだことを思い出した柴田勝家さん「ワールドインシュランス01」(星海社、1300円)。再保険といういわふる損害保険にもう1段、しステップが上乗せされたマーケットが舞台になっているけれど、普通に自動車保険なんかを想像しながら掛けておけば何かあった時にお金が払ってもらえる仕組みなんだをいうことくらい、分かっていれば理解は可能。そんな舞台で保険を掛けられた人間を、保険金を支払いたくない保険会社の人間が守るといった構造に収めて描いた。

 ただし、東京海上だの三井海上だの安田火災だの(ってどれも前世紀の名前だけれど)といった保険会社とはちょっと構造が違っているからそこは注意。世に聞くロイズ保険組合というのがイギリスはロンドンの金融街、シティにあってそこである種の市場の名前として存在しつつ組織としても活動。とはいえ会社がある訳ではなく、さまざまな損害保険を世界から集めてそれをまた保証する再保険を請け負うため、案件を集めるブローカーがいて、それらを吟味して保険を引き受けるかどうかを考えるアンダーライターがいて、そして保険金を支払う段になって無限責任を負うネームがいつといった構造。その中のアンダーライターと呼ばれる職種にいるカインが物語の主人公となっている。

 1億ドルの保険がその瞳にかけられた少女がいて、父親が死んだ後、その瞳を狙われているといった状況で、もしも傷つけられれば1億ドルを支払わなくてはいけないとあって、カインは少女を敵から守り抜こうとする。そもそもどうして少女の瞳に1億ドルの保険金がかけられているかは呼んでのお楽しみというところで、そうした保険が履行され、すなわち少女の瞳が失われて1億ドルが支払われることでいったい誰が得をするのかが少し見えないのが難点か。それだけの価値があるということは、損なえば大損をするということ。それでも1億ドルを保険会社に支払わせたいのは誰で、それはどういった動機なのか。お金をもらって守るガードマン物とは違った構図を理解する筆ようがありそう。そもそも保険料はいくらくらいになるのか、リスクをどれくらいで計算しているのかも気になるけれど、そうした損害保険や再保険にまつわる諸々は脇に置き、少女を守って戦う訳あり保険戦士の活躍譚としてここは読みつつ、ロイズという謎めく組織への理解を進めよう。謎でもなんでもないんだけれどね。

 隣の放送センターで声優さんに囲まれるうらやましいことこの上ないお仕事をしている人を横目にNHKホールへと入って「This is NIPPON プレミアムシアター Perfume x Technology presents Reframe」 とやらを見物する。去年は鼓童と初音ミクとが共演する素晴らしいステージを見せてくれたシリーズは、今年はPerfumeをフィーチャーしてライゾマティクスをパートナーにテクノロジーを使ってライブを彩る試みを展開。おそらくはNHK紅白歌合戦なんかでずっと手がけてきたものとか、SXSWなんかも含めたライブで実践してきたものなんかをより進めてみたものを見せるライブになるんじゃないかと予想はしていたけれど、そうした予想をはるかに超える感じでソリッドにしてデジタルなライブというぱパフォーマンスというか、ほとんどメディアアートの作品といった雰囲気のアクトを見せてくれた。

 大きなブラウン管を模したようなスクリーンにプロジェクションで映像が映し出されパターンが映し出されたその先で、ステージを埋める台みたいなのが現れそれがあーちゃんかしゆかノッチの3人が登場して踊りそれが3分割されてばらばらに動いてそこにプロジェクションで模様やら映像やらが映し出される展開は、まあ予想はついたけれども大道具を映像にシンクロさせて動かすという大技が使われているようで途中で止まるんじゃないかとひやひやさせたというか、ひとつ止まってたよねあれ。まあそういうこともあるだろう。

 あとは天井から下がった白い巨大なパネルを自在に動かし背景にしたりパーテーションみたいにしてそこにやっぱり光やら文字やらPerfumeの3人のシルエットを巨大にしたものを映し出す。シンプルだけれど威圧感も感じさせる展開はこれもマテリアルをシンクロさせて動かす大変さってのを実験した感じでまずまず上手くいっていた。あとはドローンが飛んで歌の後ろでいろいろとパターンを作ったりもしていたけれど、それは前にも見たことがあるようなのであとは統制がどれだけとれているか、何台くらいを制御できるかって実験でもあったんだろう。これもまあ成功。実際に見て面白かった。

 ドローンは途中でも1台だけ出てきてステージ上を飛び回っては踊る3人を写していたみたいだけれど、それがどういった映像となって現れるかは観客席からはまるで不明。同様にほとんどテレビ局のスタジオかと思わせるような白バックでもって舞台装置のないなかを3人が歌い踊るパフォーマンスは、それ単体ではむき出しのダンスが楽しめて良かったんだけれど、ちょっり半生な感じがしたのはそこにおそらくは映像が合成されるからで、クロマキーバックで演技してそこにいろいろ合成される特撮映画のようなことを、Perfumeのライブでもやっていてなおかつそこにリアルタイムで何かを合成していると思ったんだけれどやっぱり当然観客席からは何も見えないのだった。

 明日のライブは生配信があるみたいで、それで見れば秘密も分かるとか。今日いった人はそっちで見比べられるからちょっと得かも。大がかりなことをいっぱいやってはいたものの、現場ではこれは驚きといった装置も光のパフォーマンスもなかった感じ。ライゾマティクス衰えた? いやいやだから別のところでいろいろと画策しているんだろうし、気づかないところで進化した技術が使われているんだろう。データを分析して可視化するとかライゾマティクスのお家芸なんかも盛り込まれているみたい。そういったところも含めて改めて,何がすごかったのかを放送で見たいけれどもBS、見られないんだよなあ、残念。


【3月19日】 冴羽りょうがポプ子で海坊主がピピ美での映画化じゃああるまいなあ、とこのタイミングでは思った人も多いだろう「劇場版シティーハンター」の登場。声も神谷明さん伊倉一恵さんがそのまま登壇ということだからきっと中身は昔ながらの「シティーハンター」が再現されて、そしてエンディングには絶対に絶対に「Get Wild」が流れるのだとは思いたいけれどもあれは余韻を残して次につなげる歌でもあるから、ここは別に新たにTMネットワークに作ってもらってそこに小室哲哉さんが本格的に関わって、引退だなんて状況を吹き飛ばしてくれると思いたいけれども果たして。

 もとより軽さはあっても甘さは残していない声だから、あるいは今の神谷明さんの感じに1番近いかもしれない冴羽りょう。これが「北斗の拳」のケンシロウだとちょっと野太さは足りずだからこそ別の人が声をあてるシリーズが作られたんだろうし、「キン肉マン」のキン肉スグルみたいな声は出して出せないこともないけれど、今どき「キン肉マン」が再アニメーション化されるかというとキャラクターとしては人気でも、映像として人を集められるだけのインパクトには乏しい。広い世代にアピールできる「シティーハンター」なら映画にしたって大丈夫だし、そこに神谷明さんがいなければやっぱり感じは違ってしまう。宮野真守さんでも杉田智和さんでも福山潤さんでも。いやそんな冴羽りょうも見たい気はするけれど、ひとつの終焉を飾るような意味合いで役を勤め上げて欲しいもの。期待して待とう公開を。

 役柄的に女子高生のジャージ姿の下半身がいっぱい見られる映画として「ちはやふる−上の句−」と、そしてそれにクイーンこと若宮詩暢を演じる松岡茉優のジャージ姿も加わった「ちはやふる−下の句ー」が青春映画として最高であることに一切の間違いはないと断言した上で、その続きであり実写劇場版のフィナーレを飾る「ちはやふる−結び−」について語るなら、清原果耶の白いジャージ姿の下半身に見るべきものがあったとまずは言おう。そして、その清原果耶が演じる福井代表の藤岡東高校かるた部に所属する我妻伊織という少女が、部長にして「ちはやふる」というシリーズにおいて主役級の綿谷新を演じる新田真剣佑を相手に幾度となくタイミングすらとらずに「つきあって」と言っては、その場で新たに「好きな子おるんや」と言われて跳ね返され続ける描写の間合いの面白さも、この映画において良いアクセントになっていたと言えるだろう。

 口調に媚びはなく感情すら感じさせない伊織のまっすぐさ。それを残酷にも優しく跳ね返す新たのいけずぶりは、笑顔ですごみを着替えるクイーン若宮詩暢すら上回っているとすら思わせる。末次由紀による原作の漫画でも綿谷新はあまり空気が読めないかるた莫迦のような雰囲気で描かれているけれど、祖父の死に自分が責任を持っているかのように感じていた時には結構、感情も見せて周囲に発散していた。劇場版でもそうした部分はあったものの、「ちはやふる−結び−」に来てかるたに前向きに、そして楽しく向き合おうとする意識が芽生えたのかあまり感情をいらだたせることなく、仲間を募り伊織の告白も鉄壁の囲い手で跳ね返してはチームを県予選の勝利へと導き、そして3年生として最初でありながら最後という近江神宮での高校選手権へと引っ張っていく。

 そんな新がふと放った告白は、むしろ綾瀬千早が所属する瑞沢高校の方に多大な影響を与える。その展開は原作の漫画とも重なりながらも登場人物に変化を持たせ入れ替えも行って、2時間ほどの映画の中にしっかり収まりなおかつ納得がいくようにしてあるところがこの映画の作品としての感じどころでもあるだろう。本来だったら千早たちが2年次に入ってくるはずの筑波秋博や花野菫は3年次に1年生として入ってくる。演じる筑波役の佐野勇斗はあるいは真島太一役の野村周平よりイケメンだし、真島太一が好きな花野を演じる優希美青はメイクを落としても眉毛も二重もちゃんと残っていそうな美少女で、綾瀬千早を演じる広瀬すずよりが漂わせる濃さとは反対の華やかさを感じさせるる。

 もっとも、そんなイケメンの美少女を得ながらも瑞沢高校かるた部の面々はすっかり打ち解け悩みも吹き飛ばして高校生活最後の選手権に挑もうとしている、そんな中に綿谷新の綾瀬千早への言葉がとげのように刺さっては、とりあえず振り切っている綾瀬千早を飛び越して真島太一をいらだたせ、かるた部から身を遠ざけさせるのもほぼ原作の雰囲気のまま。それでも完全には捨てきれず、賀来賢人が演じる名人とこ周防久志に付き従い引っ張られ学んでいくのも原作にはあるけれど、完全に自分を取り戻すタイミングにおいて映画を個人戦でありながらも団体戦、集団としての物語へと治めてひとつのクライマックスへと至らせる。あの次の日、あったはずの個人戦が描かれなかったのもたぶん、そういうことなのだろう。

 それもまた映画であり、だからこその感慨も得られた「ちはやふる−結び−」。従って“その後”の展開もずいぶんと変わったようだけれど、そこを実写によりエピローグにはせずシシヤマザキによるアニメーションにしたところに、何かを正解とせずあるいは虚構、あるいは夢かもしれない可能性を残しつつ見た人にどうなったかを想像させる余地を与えた。ロトスコープ使いのシシヤマザキがアニメーションに描いたシーンは、もちろん監督によってしっかりと撮られていることだろう。それをだったら公開することで確定の”その後”が分かるかもしれない。けれどもそうでない様々な可能性を想起させようとして監督はアニメーションという手法を選び、依頼して提供してもらったのかもしれない。その意図は不明。パンフレットを読めば書いてあるのかな。

 作品としての確定された未来は綾瀬千早らしき人物がひとつの希望をかなえ、瑞沢を再び常勝のかるた部へと誘おうとしていることくらい。それはきっと漫画版でも綾瀬千早が選んだ進路のひとつとして描かれることになるだろう、そこへと至る過程が未だ続く漫画版への興味を損なわず、けれどもそうなって欲しいかもという願望も満たしてくれた「ちはやふる−結び−」の展開を噛みしめながら、自分なりの結論を考えていこう。とりあえず綿谷新は我妻伊織を選ぶべき。可愛い過ぎるだろう。真島太一も花野菫でいいじゃないか。美少女だし。綾瀬千早はうん、無駄美人過ぎるからやっぱり誰も無理ってことで。そうやって人は過ぎ去っていくチャンスをつかみ損ねるのだ。

 宮廷で顔を合わせてそして空賊でも顔を合わせてお互いが王子様で婚約者だと気づかないものかといった謎は一方にありつつ、まさかそこにいるとは思わないといった固定観念と、それから化粧をしたり身だしなみを整えていたりすればやっぱり同じ人間でも違って見えるということはある。だからここは大丈夫という認識でいたいスズキヒサシさんの「空賊王アシハラ王国再興記」(ノベルゼロ)は、平和主義的な国だけれども周辺からちょっかいをかけられているのを表向きは娼館通いの第3王子が自ら組織した空賊でもって撃退しているという設定。そこにメンバーとして加わってる少女がいるけど実は貴族の令嬢でそして第3王子の婚約者に選ばれ宮廷に行って顔を合わせたものの分厚いベールと化粧とでお互いが気づかない。

 それがいつ気づくかといった展開を待ち望んでいたけれどもこの巻ではまだなく、そして王子のアッシュが拾ったヨルという少女がその生まれにいろいろと謎があって誰かから狙われているのを守ろうとして奪われ奪還するといった展開でまずは1巻の終わり。少女の正体に神様の差配があるとわかり、双子の姉だか妹がいて2人して何かの力を持っていることも分かりながらその一方が失われた時に何が起こるのか、それをいったい誰が画策しているのか、といったところまでは届かない。どこかプロローグ的な展開だけにこの続きがなければ何も始まらない。なので頑張って2巻は出して欲しいと願おう。殺害されたというアッシュの母親のその死の謎、腕輪の行方なんかもまだまだ不明な状況だし。どうなるんだろうなあ。

 政権の味方のはずがポン酢過ぎてかえって政権の敵になるというか。例の財務省と近畿財務局による公文書の書き換えについていろいろと質疑があったようだけれども、その中で自民党の国会議員が答弁に立った官僚に向かっておまえは民主党政権下で総理大臣の秘書官をやっていたんだからきっとスパイで自民党政権を陥れようとしたんだろうとか言って非難したとかどうとか。その時々の政府に対して、というより誰であっても精一杯に職務を遂行するのが官僚な訳で、それが政権によって揺らぐとか言うのは侮辱も甚だしい。もしそう思っているならそんな疑いの目で見る上の下で働くことなんてできない。そういうことを分かって言っているとも思えない暴言に、起こった官僚が反乱をおこすかというとそれをやらないのが官僚な訳で。こりゃあ官僚のなり手もいなくなるなあ。そこから日本が沈んでいく。やれやれ。


【3月18日】 「けんぷファー」のカンデンヤマネコとチッソクノライヌのコンビとはまた凝ったところを、ってそれはさすがに抉り過ぎなんてもうちょっと普通に当代でもトップクラスの女性声優がそろったとみるべきなのかもしれにあ「ポプテピピック」の第11話。紅白歌合戦にも出た水樹奈々さんに能登かわいいよ能登の能登麻美子さんが並んで登場しているだけでもすごいはずなのに、後半の再放送でキリコ&ロッチナという「装甲騎兵ボトムズ」の宿敵コンビニ全部持って行かれた感。ポプ子もピピ美もそれらしさは感じさせずに頑張って女子になりきろうとしていたけれど、やっぱり時折のぞく銀河万丈さんのすごみにはやっぱり圧倒される。郷田ほづみさんはその辺、やっぱり声が優しいから。

 あと後半戦は山荘でも惨殺に絡んで稲川淳二さん風解説が。BBゴローさんっていうのか、それが稲川さんパロディをやっていたけど事前に何かしらせずただいきなり見せて実況風にやらせた感じ。分かっているようで分かってないけど分かってる感じにしゃべるところが、すでに前半で全部分かっている視聴者に二重のおかしみを感じさせていた。そういうところの案配はやっぱりうまいなあ。インディーズのアニメーション作家もまた登場して「きつね憑き」の佐藤美代さんとあと「USAWALTZ」の池亜佐美さんが登場。池さんは前にも何か協力してたんじゃなかったっけ。関口和希さんも含めて東京藝大院アニメーション専攻のそろい踏みは次なるアーティストの商業アニメーション域を促すか。語られるだろうトークイベントに行きたいけれどアニメジャパンと重なっているから無理かなあ。

 せっかくだからそそんな郷田ほづみさんが声をあてたキリコ・キュービィーのイラストがいっぱい飾られている「塩山紀生 サンライズ原画展」を見に市ヶ谷にある東京アニメセンター in DNPプラザへ。初日を前にした2月28日の内覧会にたぶん唯一くらいのメディアとして行って記事にもしたけれど、その時はグッズをまだ変えなかったんでいつか行こうかと思っていたら最終日になていた。でもまあタイミングとしてはベストか、ここに飾られているキリコがぜんぶポプ子になったらどんな雰囲気だろうなあ、そんな絵を塩山紀生さんに描いて欲しかったかもしれないなあ。そしてロッチナみたいに尊大なピピ美も添えられているという、そんなイラスト。見たかったなあ。

 お客さんはそれほど多くなく最終日だかろいってごった返している感じはなし。やっぱり宣伝が行き渡っていなかったのか。アニメの原画じゃないけどカラーのイラスト原画は塩山さんがどんな色をどう置いて重ねてあの感じを出しているかが分かるから、絵描きさんには良いてんらんかいだと思ったのだけれど。上野の森美術館で開かれた生ョ範義さんの展覧会は大勢が訪れそのタッチを間近にみていろいろ衝撃を受けたって書いていたけど、塩山さんの展覧会ではそういった声はあんまり見なかった。それとも僕が見てないだけか。まあ仕方がない、それでもちゃんとファンはいって壁にいっぱいのイラストとメッセージを描いていた。

 ボトムズがいてダイターンがいてダグラムがいてガリアンがあってガオガイガーもまじってそしてサムライトルーパー。そんな作品への愛をキャラの絵とメッセージで残していたのを見て愛された人、愛された作品だったことを改めて知る。それだけにやっぱり逝去が惜しまれる。嫌だけど来た、という富野さんも自分が追悼に訪れるのが嫌だったのだろう、まだ早いと思ったのだろう、そんな仲を今に至るまでいただき続けられるくらいの作品だったのかもしれないと、改めて「ダイターン3」を見てみたいけどしまったパッケージ買ってなかった。DVDボックスの安いのって出てたっけ。コロスって結局何者だたんだっけ。いろいろ知りたい。再放送しないかなあ。しないよなあ。

 薬剤師が実はヤクザでそして邪神ちゃんの少女と出会って喰われてよみがえって眷属みたいなのになって、そして因縁のある邪神様の美女のところにカチコミに行くのを作家で魔術師が手伝う、その背後に80過ぎのじいさんが美少女になっていたりもするという設定てんこ盛りの海野しぃらさん「邪神任侠 家出JCを一晩泊めたら俺の正気度がガリガリ削れた」(ノベルゼロ)が何というか面白かったというか。大学まで出て薬剤師をしていて、調剤薬局に勤めている主人公のの香色禮次郎。病院で医者が書いた処方箋が違っていると疑義をとなえると、上司が病院からにらまれるからやめてと行ってくる世知辛さ、そして医薬分離という状況の頓狂さを感じあせてあるいはお仕事小説かと思わせる。

 もっとも、帰宅途中にパブで魔術師の作家と知り合い女難の相が出ていると言われ、そして家に帰り着いたら部屋の前に少女が倒れていて部屋に入れて解放したら食べられた。性的な意味ではなく物理的に。どうやら邪神だったみたいだけれど目覚めると体は普通にあって少女はそんな夜のことは覚えていない。何かがあったか。何もなかったか。曖昧とした仲でとりあえずクチナシという名の少女をかくまうことにして、買い物に出かけていった先で職務質問にあったところをヤクザの親分に助けられる。それが祖父の知り合いだった男で、禮次郎を子のように見ていて組織に誘う。

 決して忌避している訳でもない禮次郎。カタギとして育ちながらもどうやら邪神どうしの戦いめいたものに巻き込まれたことを知り、銃火器なんかを求めて接近をしていき、果てはヤクザの組で麻薬作りの手伝いまでするくらいだからもはやカタギとは言えなさそうそうやって得た手立てを講じて戦う相手は、幼少期に知り合いだった阿僧祇マリアという女。どうやらクチナシと同じ邪神らしく女を生け贄に<千の仔孕みし森の黒山羊>の本体を呼び出そうとしているとか。そんなタクラミをこなた<光を超ゆるもの>であるクチナシに宿った神とともに阻止しようとする禮次郎の戦いの行方は。それは呼んでのお楽しみ。北海道を舞台に幕を開けたウトゥルー的な邪神vsヤクザのバトルの行方が楽しみなので続きを是非に。北海道のおいしい食べ物も紹介されているし。

 そして表参道ヒルズへと出向いて東京造形大学のアニメーション専攻が15周年を迎えたことを記念して開かれたイベントで、まだアニメーション専攻がない時代に造形大を出てそして「アニメ」に関わる仕事をしている人たちを呼んでの座談会を聞く。何しろ1期生がメカニック・デザイナーの大河原邦男さんでそして7才くらい下に前のサンライズ社長の内田健二さんがいる。業界の大重鎮を起きつつVFXの世界で先駆的に活動を続けてきた4Dブレインの秋山貴彦さんもいての時代をちょっとずつおいた座談会では、1期生として入った頃のおおらかな学校の様子が語られ内田さんの頃もやっぱり学生運動で授業が受けられず、そして秋山さんは3年生まで怪獣絵師とか雑誌「ログイン」への寄稿なんかをしていたけれど、4年生で一念発起して72単位を一気に取得し卒業をして任天堂とリンクスを受けて日本で2番目のCG会社のリンクスに行ったって話が語られる。

 面白かったのはそんな学生生活でも卒業のために下宿をした4年生の時に秋山さんが、一般教養をとりまくってそこで本を読み文字を書くという訓練をしたことが視野を広げるのに役だった、といったこと。これは最後に内田健二さんも触れていたことで、アニメーションという専攻の中で同じ事を繰り返しているよりもやっぱりいろいろと見聞を広げ、他のタイプの人たちともふれあいアルバイトをするなら経験できないようなことをやった方が良いとアドバイスをしていた。アニメ作りを希望するのにアニメだけ見て育った人がやっぱり多い昨今、そうした体内濃縮みたいな感性では広くアピールできるものは作れないってよく言われる。だからこそとの言葉なんだろう。とはいえ狭い範囲に内輪ネタを回して受けて一瞬の話題ととることも可能な時代だけに、そこはケースバイケースってことなのかも。

 あとは大河原邦男さんの言葉で、自分たちがこうやって切り開いて新しい物を提案してきたことで盛り上がったアニメの世界が、だんだんと退化しているんじゃないかといったのがズキンと来た。横に内田健二さんを置きつつ「未だに『ガンダム』をやっているのは寂しい」と大河原さん。つまりは「時代を新しくリードするものが生まれにくくなっている」ということで、メカでいうならヤマトからマクロスを経てガンダムボトムズからエヴァンゲリオン以降、何か生まれたかと言われた時にこれですといった答えをかえしづらい状況がある。だからこそのガンダムでありボトムズなんだろうけれど、それで良いのかという大河原さんの問いに答える必要はありそう。

 とはいえ資本力が充実してきた中国が、いろいろと作品作りに乗り出しているとはいっても「格好いいメカを求めてもストーリーがない」と大河原さん。何を作りたいかがあって、それに併せてメカを作るという仕事をないがしろにしかねないアプローチでは、やっぱりムーブメントは生まれない。これもそこが変われば急速に進むこともありそうなだけに、画期的な企画が中国あたりから来て、それに大河原さんが全面協力をした作品が生まれ、世界を席巻することもあるかもしれない。負けじと日本も日本ならではの企画力で勝負する必要がありそう。あとはそうやって生まれたものをしっかりと受け止め、盛り上げる視聴者の側の態度ってことになるのかなあ、新しい物に貪欲で、それをすごいと主張し続けることに熱心な若い人って、減って勝ち馬に乗るだけな感じになっているからなあ。好きは好きだと言い続け、それがいっぱいの好きになる可能性を信じて好きだと言い続けよう。


【3月17日】 第21回文化庁メディア芸術祭ではマンガ部門で池辺葵さんお「ねぇ、ママ」が受賞をしていて「繕い、裁つひと」の頃からずっと気になっていた漫画家さんが遂に大きな舞台で賞を受賞したと嬉しくなったけれど、そういえば最近あまり新刊をおいかけていなかったこともちょっと反省。ひとりでいることについてずっと描いてきた池辺さんのテーマが深化したものだといった審査委員の人のコメントを聞くと、やっぱり読んでみたくなる。どんな話なんだろう。そんなマンガ部門の新人賞に、「Airy Me」というアニメーションで前に新人賞を受賞した久野遥子さんが「甘木唯子のツノと愛」でまたしても新人賞を受賞していたのに驚き。マンガを描いていたのは知っていたけどそれでも賞を取るとは。どれだけの才能なんだ。改めて追いかけていこうと思った。アニメーションも見てみたいなあ。

 完璧だった。というかディズニー=ピクサーのアニメーションはどれをとっても完璧なんだけれども「リメンバー・ミー」の完璧さは、メキシコという特異な地域で、それも死者の国という異色の設定をビジュアルも含めて描きながらも親たちに反抗する子供を描き、家族というものの絆を描き、誰からも覚えてもらえなくなった時に人の“生”は終わるのだといった諦観をも描いてのけは誰もが普遍に誰かへの思いを募らせ、自分への思いを抱いて涙し、そして喜んで映画館を後にする。完璧というよりほかにない。

 まあそれは中国が舞台の「ムーラン」であっても、ジャングルが舞台の「ターザン」であっても同じように完璧な物語を描くディズニーであり、「トイストーリー」の頃から 「インサイド・ヘッド」なんかも経つつ今に至るまで完璧を外したことがないピクサーだから当然と言えば当然なんだけれど、その当然をいつもいつも達成するためにいったいどれだけのストーリーを練り上げどれだけのカメラワークを検討し、モデリングをいじり色彩を考え美術を整え役者を揃えて音楽を取り付けるのかを考えると本当に頭がいたくなる。そしてそんな世界と勝負しなくちゃいけないその他のアニメーション映画の大変さにも思いが浮かぶ。

 そんな中にあって最初から終わりまで外すコマが見当たらない「この世界の片隅に」はよくやっているなあと思うし、計算よりも完成の塊のような宮崎駿監督の作品も本当によくやっている(時々ズレることはあるけれど)なあと改めて思いつつ、そんな片渕須直監督の次回作、そして宮崎駿監督の長編復帰作が今から気になって仕方がない、というのは「リメンバー・ミー」のすごさとは直接関係がないからまたの話に。そう、「リメンバー・ミー」だ。完璧だ。そんな言葉しか今は出ない。ストーリーラインに特殊なことはあまりない。音楽が好きだけれど音楽にかまけて家を出たご先祖様がいたため家では代々音楽が禁じられていてもやもやした日々を送っている少年が、ふとしたはずみで死者の国へと出向いていってはそこで一族が抱える悩みというか、一族に刺さったとげのようなものと対峙し、戦い敗れそうにになっても負けず突っ走っては成し遂げる。

 そんな柱の周囲にちょっとした気持ちのすれ違いがあり、けれども心の中では許したい愛したいといった葛藤もあっていろいろと感情が右に左に揺れ動く。そして分かった真実と、たどり着いたクライマックスが呼ぶ感動は、直接劇場で見て味わって欲しいとここでは言おう。その上で思ったことを綴るならば人は誰かによって記憶されることによって永遠にも生きれば瞬間にも忘れ去れるということ。それは死者の国という科学的には存在しないと断じて良いだろう世界で起こる出来事を脇に置き、この世界の中で誰かに覚えてもらえてさえいれば、その人はいつまでも存在し続けられるというこ。人は死んだら消えてしまう。自分だって死んだら消えてしまう。それは厳然とした事実であって変えられない。そして自分が死んだらその後、自分が誰かに覚えられていることすら分からなくなる。当たり前だ、死んでいるのだから。

 だから誰かに覚えてもらっている必要なんてないのか。誰かを覚え続けている必要なんてないのか。そうかもしれない。けれどそうではないからこそ人は、人という種族は長い時間を栄え続けてきた。発展し続けてきた。滅びることなく今もこの地球の上で全盛を保っている。誰かがいた記憶。誰かが成し遂げた快挙。誰かが残した英知。それらを引き継いで受け継いでそして後につなげようとしていったからこそ今があり、そして未来がある。そんなことを思った、「リメンバー・ミー」という物語から。そして映画はそのことを、長く続く大家族の中に凝縮して描いて見せた。

 ずっと昔に生きていた誰かのことを忘れてしまったら、もうその記憶や経験は後には受け継がれない。逆に言うならそうしたものを受け継ぐことによってその誰かはずっと存在し続けるし、次へとつなげていける。時に忘れたいこともあるかもしれない。切り離したい気持ちも芽生えるかもしれないけれど、そこをグッと飲み込み、折り合いもつけて生きていく。その必要を感じさせてくれる物語だった。なおかつそんな普遍のメッセージがメキシコに伝わる風習から紡がれ、おまけに全員の顔がしゃれこうべというある種ホラーにしか成りようがないはずのビジュアルによって描き出されている。

 怖くないし恐ろしくもない、陽気で楽しく明るい死者たちのそのビジュアルそのアクションその言葉が本来なら、身を引くようなストーリーを楽しくて前向きなものいしている。そう感じさせるためにどれだけの努力をはらったのか。ストーリーボードやキャラクターデザインの変遷が気になる。見終わって死後の世界があるなら死んでも大丈夫とは思わない。そこまで子供ではないけれど、せめて誰かに覚えていて欲しいとは思いたくなった。そのために自分に出来ることなどたいしてないなら、せめて自分が多くを覚えておくこと、それを語ることで次に何かをつなげる役割を果たせたらと多い、これからも何かを書いていこうと決意する。リメンバー・世界。

 たとえば。阪神・淡路大震災の折に自衛隊を中傷するビラを配ったという噂を堂々、公器であり社会の木鐸であるべき媒体のコラムに書いて満天下に公表し、国家議員を誹謗中傷したあげく裁判を起こされ完膚なきまでにたたきのめされ敗訴した記者がいたとして、それは漂う噂をネガティブに解釈して非難し攻撃する“魔女裁判”と呼ばれる行為すら上回るポン酢きわまりない振る舞いだと言えるだろう。何しろ事実が存在しない。そして流れてきた噂に対して確認をとろうとすらしていない。まさしく非難のための非難、誹謗のための誹謗。それはひととおりは尋ねて釈明を耳には入れる“魔女裁判”に遠く及ばない。次元すら違う。

 あるいは。民進党の党首となった国会議員の国籍に関する話で、実際のところ国会議員にも選出されその課程で選挙管理委員会の調査も経ていて、資格として一切の法的な問題がないことが証明されていて、そしてタイミングとして多少の行き違いがあったものの手続き上の問題に過ぎない事例を挙げて誹謗と中傷を浴びせかけた記者がいたとして、それはやっぱり否定された噂を決して認めず、ひたすらに魔女として認定して火あぶりにしたいと願う“魔女裁判”の最たるものだとしか言い様がない。ほかにも、法的な間違いを一切犯していない文部科学省の元事務次官に対して誹謗の言葉を繰り出したり、はたまた現段階では本当に1人の権限ですべてを取り仕切ったかに疑問の声も浮かんでいる現役官僚に対して非難の矛先を向けたり。

 それこそが“魔女狩り”だと言える振る舞いを、あるいは言説を公器と世間に呼ばれ社会の木鐸を任じる媒体で平気で繰り出し誹謗し非難し罵倒しあげくに訴えられ、まさしく法によって裁かれ否定されながらも、今なおその場所にいて新たにコラムで繰り出す言葉が“魔女裁判”への批判というのはいったいどういう了見だろう。それとも全身を使ってのギャグなのか。「学校法人『森友学園』への国有地売却をめぐる一部野党やマスコミの追及手法は、集団リンチの様相であり、人権侵害ではないか」。それはおそらく総理大臣夫人の安倍昭恵氏に対する指摘のことを行っているのだろう。あるいは佐川国税庁長官のことか。どちらにしても疑惑が持ち上がっているからこその指摘であって、それを決めつけていきなり火あぶりにする“魔女裁判”はまだ開かれていない。

 コラムには「安倍晋三首相と昭恵夫人に対し、ツイッターでこんな決めつけを投稿した野党議員らがいた」とも書いてある。けれども、別に有罪と決めつけてるんじゃなくて問題ないならないと言ってとお願いしているだけ。疑うことすら許されない状況が続いたからこそのこの混迷だとするなら、早く疑惑を晴らしてくれとお願いするのが自然なな流れだ。もちろん推定無罪原則は尊重されるべきではあるけれど、取りざたされる疑念に対して一切の無謬性を主張し、完全無罪を声高に叫べるのだとしたらそれこそ確たる証拠を示す必要がある。そうでなければ過去にしでかした幾つもの“魔女狩り”との整合性がとれないんだけれど、そんなものをとる気などさらさらないんだろう。あるのは好みだけ。そんな異端審問官が存在できる中世の暗黒にも似た場所は、果たしていつまで存在できるのか。異端審問官が火あぶりになる可能性はないのか。それも遠からず答えは出るだろう。出なければこの国は終わりだ。マジで。マジマンジで。


【3月16日】 たぶん「妖虫」あたりから見知ってはいて楳図かずおさんとはまた違ったホラーの描き手といった認識で楽しんでいたような記憶がある古賀新一さん。だけれどやっぱり強く印象づけられたのは「エコエコアザラク」で黒魔術というものを使い美少女が悪さをする人を懲らしめるというか、あるいは悪さをしでかすといった展開は藤子不二雄Aさんによる「魔太郎がくる!」とか「ブラック商会変奇郎」とも重なりつつ絵柄的にモダンさも感じさせる雰囲気で楽しませてくれた。最初はブラックな感じだったのが途中でギャグめいた展開も入ってきたのは何だろう、マンネリの打破だろうか。

 そんな「エコエコアザラク」はテレビドラマになって深夜に放送されては僕をぎゅっと引きつけてくれたっけ。事件に絡んで放送がとんでしまって見られなくなってからもパッケージは買い揃え、そして徳間書店が当時は入っていたビルにあったホールで開かれた「エコエコ闇の大祭」へと招待されて行って作品を見て佐伯日菜子さんも見たんだっけかどうだっけか。その時に古賀新一さんは来られていたかなあ、ご本人があのテレビシリーズをどういった認識で見ていたかは知らないし、その前の佐藤嗣麻子監督による映画版についての認識も聞いてないけど、確実に世の中に美少女による魔術師の活躍が印象づけられた時代だった。あれからもう20年近く。これを機会にというという訳ではないけれど、ブルーレイでのテレビシリーズの復活があれば嬉しいなあ。エコエコアザラクエコエコザメラク。

 「東京造形大学アニメーション専攻創設15周年記念 造形アニメーションのすべて」というイベントが表参道ヒルズルで始まったので見てきた。オープニングで森まさあき教授がブブゼラを吹いていた。そして見た卒業制作中心の「卒ZO+2017セレクション」から江連秋さん「おしゃか団子」は、田舎のばあちゃん家に行った感じがよく出てた。ハッハと見送る犬が可愛かった。清水秋帆さん広末悠奈さん「愛なるは」はミドリカワ書房の同名曲のPVで、MtFの人が結婚を願う男性に抱く好きだけど一緒になるのは無理かもと身を引く寂しさが線を中心としたマンガのような絵で綴られしっかりPVになっていた。3年次でこの巧さ。歌詞がそうだから身を引くというのは現実はそうでもちょっと寂しい。歌詞ではなく意思でこの主題をどう描くんだろうと気になった。

 谷脇啓仁さん「狐の面」は頭が狐の男性がさまよい歩いてた。異彩だからを目をそらされる自分は物理的にそうなのか自意識過剰なだけなのか。そんな寂しい中に得た同類とどこへ行く。野上貴生さん「しあわせごはん」はひとり暮らしのOLの荒んだ家に来たお化けがおいしそうなご飯を作ってくれるという話。あれはカツ丼か玉子丼か。そしてウインナと目玉焼きにハンバーグ。おいしそうなご飯を食べて誰かが家にいて仕事にも活気が出たと思ったらお化けは消えて目覚めたらそこは。でも変わろうと思う話がひとり暮らしのOL的な雰囲気の絵で描かれる。共感する女性もそして男性も多そうな。自分も家片付けよう。

 伊藤ありささん内田愛華さん「T∞ls」は閉店となった文具屋に残されたペンとかノリとか消しゴムが思う活躍する日々。それは来ず不安に怯える面々。そこに。求められ使われる喜びがある話をこれは3DCGかな。それで描いたファンタシー。山択人さん『青春の礎』は戦時中に徴用され働かされた祖父の話。単色で描かれた若者たちの日々、デフォルメされた軍事教練、そして働く毎日がかつてあった時代の抑圧された心理を表している、というのかどうか。山下諒さんって「ポプテピピック」の人かの「CLICK CLACK MEMORIESは時計の針にデフォルメされた家族が顔だけ写真で回り動く。CGでの動きも見せ方も抜群だった。

 ただ歌が後に出てきた清水翔太さん「がんばれ!よんぺーくん」と比べるとインパクトがやや下がり展開もまじめすぎて整いすぎてはっちゃけた感じはしなかった。上手いというのもそれは罪なのか。藤井周平さん「てるてる戦争」はティッシュのてるてる坊主でも台風に勝てる、思いさえあれば。おめでとう。渡部夏美さん「ごめんね」は対不起という中国語に訳したい内容。たぶん上海にいる父親に会いに行った娘が色筆を見て買ってやろうと店に入った父親が中国流に声を上げ値切り交渉をする姿にショックを受ける。日本じゃ見なかった姿。そしてはれは蘇州か、スケッチしてたら物乞いの女の子に袖引かれる。

 日本ではあまり経験のないことに出た言葉が「対不起」。そしてかけつけてきた多分父親も女の子に「対不起」。深い意味があるのかないのか。ソーリーとかすいませんとかそんな軽い言葉なのか。でも目の前にある現実は貧富という現実で。そんな彼我の違いを感じさせる。絵では物乞いの女の子が可愛かったなあ。そして坂本奈央さん佐藤愛梨さん「」タシカの不思議な冒険」は漫画の連載修了からずいぶん経っての再評価を見て漫画の主人公が納得するという話かもと見えてきた。今のリバイバルブームを取り入れている感じ。読者視聴者も未来に安心しよう。まさかヤマトとマクロスとガンダムの最新作が常に検討あれているなんて1970年代80年代には僕らも思っていなかった訳で。まあ全部復活するとは限らないけど。

 平松桃さん「AFTER THE END」はストップモーションアニメーション。枝から垂れ下がってたロールが巻き取られ蝶になった。ひっくり返されたターンテーブルの上に作られてた世界は実際はどんな感じに造形されていたんだろう。まさか逆さまに全部作られていたとか。そして清水翔太さん「がんばれ!よんぺーくん」はそうか「おひさま」の人か。ひめたまなぶさんが切り開いた感じもある楽しくてシュールな歌声にそってポップでキッチュな絵が動く。そんなアニメーション。やっぱり上手い。そして何より元気。これから活躍するだろう。といった感じの学生と院生の作品が並んだ「東京造形大アニメーション専攻創設15周年記念 造形アニメーションのすべて」。卒絵の水準は高いしお話も良い。でもやっぱりノンナラティブは少ないか。これが今の傾向かなあ。造形アニメーション傑作選のようなDVDとTシャツもらった。みんな行こう。

 明治神宮前へと出てそこから千代田線で乃木坂まで行ってから国立新美術館で第21回文化庁メディア芸術祭の受賞作品発表会見を見物。気になるアニメーション部門は湯浅政明監督の「夜明け告げるルーのうた」が日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞とかアヌシー国際アニメーション映画祭のクリスタル賞なんかに並んで受賞しそしてもう1本、片渕須直監督の「この世界の片隅に」も大賞となって2作が並ぶという久々の快挙が見られた。前に2作同時だったのは今敏監督の「千年女優」と宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」が並んだとき以来。興行的にはずいぶんと差がある作品だったけれど、今なお世界の人の記憶に残っている「千年女優」をプロデュースしたのがだれあろう「この世界の片隅に」でもプロデュースを買って出た真木太郎さんだった。何という奇縁か。

 そんな関係で登壇した真木さんが「千年女優」の実写化なんてことを話していたけどやっぱり海外になるのかな、それはダーレン・アロノフスキー監督かそれともクリストファー・ノーラン監督か。2人ともやりたがるだろうなあ、あるいは他にもいっぱいいそう。そんな世界に敬愛される作品を残した今敏監督に改めて黙祷。今がちょうど「PERFECT BLUE」の公開から20年目なんで。しかしそれもそれだけど湯浅政明監督もこれが3度目の大賞でちょっと他にない快挙。「マインドゲーム」が受賞し「四畳半神話体系」がテレビシリーズとして初めて受賞しただけでも快挙だけれど、これで来年に「DEVILMAN cybaby」が受賞したらネット発のアニメーションでの受賞になる。そんな快挙があり得るか。あり得そうだからやっぱりすごい。メディアの変遷をたどってもしっかり作品を作り世に問い評価を受ける。それでいて神様扱いされない湯浅政明監督という才能に改めて、喝采。

 アニメーション部門ではほかに優秀賞として神風動画の「COCOLORS」が入っていたのが個人的には良かった。作品としてのすごさももちろんあるけれど、前段として上映に合わせて声優さんたちが生で声をあてバンドが生で演奏するというイベントが開かれこれがなかかなの緊張感の中に作品が持つ切迫した空気ってやつを感じさせてくれた。もちろんトリウッドでの上映も普通に良かったけれど、そうやっていろいろと展開できる強度を持った作品を作り上げ、公開してしっかりと賞を獲得する。作り手冥利につきる話だし、ファンとしてもこうやって評価されることは嬉しいもの。これをきっかけに上映される機会がまた増えると良いなあ、トリウッドはやっぱり小さいんだ、あの世界を表現するには。


【3月15日】 美しい表紙とイラストレーションに彩られながらも村山早紀+げみ「春の旅人」(立東舎)にはちょっとの苦みがあって読んで噛みしめどうしようと思う。「花ゲリラの夜」は道ばたや公園に花の種を捲き球根を植えるお姉さんと一緒に少女が夜の街を歩く。でも少女は少しの後悔がった。同級生のことだった。仲が良かったはずのその同級生がいじめに遭いそうになっても少女は止められず逆に無視をした。それは正しい? 正しくない。でも逆らえる? 逆らうべきだと思うけどそれを少女に押しつけてはいけない。勇気はまだ芽生えない。でも勇気の必要は諭してどうしたら良いかを考えさせる。

 表題作「春の旅人」は閉園になった公園を訪ねた少年が長く働いていたおじいちゃんと出会い昔空から亀が降りてきた話を聞く。その亀はいっぱいいたけど降る爆弾に打たれ多くが燃え落ちた。かろうじてたどり着いた亀は卵を産み生まれた赤ちゃんが空へと帰ろうとしてまた爆弾に降られてしまった。亀は無事に空へと帰って行けたのだろうか。そして51年が経ったというその世界にまたやって来てくれるのだろうか。人類はひとりぼっちじゃないんだと感じさせつつ自分たちの愚行のせいでひとりぼっちになってしまった可能性。その苦みを噛みしめつつ今をどう生きるかを感じたい。

 そして「ドロップドロップ」は、さまざまな色があるドロップから浮かぶ思いを詩のようにして綴った作品で、赤はいちごで歯磨き粉のように甘いというところが子供の感性だと感じさせる。緑から浮かぶ父親と散歩したこと、白から浮かぶ飛行機から見えた雲、そしておじいちゃん家へと行った記憶、ドロップ1つでいろいろなことが浮かんでくる。でもふっと空を見上げて自分はひとりだと思い、寂しくなって、泣きたくなって、けれどもきっとどこかに大勢いるんだと信じることで、今を生きようと思うような、そんな展開が感じられる「ドロップドロップ」。自分ならどの色に何を思い何を感じる? 食べてみようか。サクマ式缶入りドロップ。

 南極に到達してもすぐには小渕沢貴子の遭難した場所には行けないのはやっぱり遭難するほど危ない場所だったことが分かってきた「宇宙よりも遠い場所」。そして女子高生4人組の中で明るさの裏側にある抱えていたものが明かされていなかった三宅日向について、高校時代、陸上部で上級生を押しのけて代表に選ばれた時に自分はずっと先輩を差し置いてなんて嫌と感じていたのに周囲は良いじゃんと押し、ならばと出たにも関わらず空気読めないと告げ口をされて人間不信になって陸上部を辞め学校も辞めていた過去が明らかにされてそりゃあ辞めるわと思ったというか。それで今も明るさ満点でいらえるんだからすごいなあ。

 そんな日向のところにいけしゃあしゃあと友達面して連絡をしてくる同級生がいたりするところが不思議というか、たぶんそうした罪悪感を感じていないんだろうなあ、感じられないというか。でも繊細な日向は感じて入られなくなった。かといって面と向かって罵倒はできずに逃げてひとり南極の雪を蹴飛ばしていた。辛い空気。だから報瀬は怒った。そしてはっきりと同級生たちにもうつきまとうなと告げた。聞いて相手は何を思ったか。ショックだったか違うリアクションを見せるのか。でもそれでも日向にとっては何か吹っ切れた瞬間だったかも。ここからまた走って行くのかどうなのか。長く続くアニメーションじゃないから想像するしかないけれど、南極以後の4人が幸せであることを今は願う。

 自分が最高に可愛くて、それを守るためなら何を言ったって何をやったって平気な性格があたっとして、高校生ならこうやって誰かが諫めて退けられるけれどもそれが時の最高権力者だった場合、周りがその言説を守るためにあれやこれや忖度をして事実を改変しようと躍起になる。今、世間を騒がしている森友学園とおそらくは加計学園に冠する政府なり内閣なり最高権力者の関与をめぐる問題も、だから最初に言葉ありきで自分の身体を賭けるとまで入ってしまった国会での答弁をこそ至上とし、最高にして最終の防衛ラインとしてそこからすべてを構築しようとした結果、過去が変えられ事実が歪められていったという、そんな感じがしてならない。

 でも、だからといって最高権力者がなかったことにしたいと考え、それを周囲が忖度したところであった事実は変えられず、こうして噴出してきてはあの時の言葉は何だったんだと追求する。ここで普通の神経の持ち主ならばもう逃げられないと観念し、そして周辺で関わった人が自ら詩を選ぶという悲惨な出来事も起こってその責任の所在が自分のあの言葉にあるのかもしれないと感じたなら、やはり恋々として地位にしがみつくのを潔しとせず、すっぱりを身を引くのが人間として真っ当な姿というののだ。

 それであるにも関わらず、事ここにおよびながらも自分も妻も一切の関わりがないことが分かったとうそぶき、自分の関与を否定し周りが勝手にやったことだと堂々と語れてしまう神経とはいったいどんな素材で出来ているのだろう。その心はいったいどんな色をしているのだろう。分からないけれどももはやこの最高権力者についていったところで、どこかで切られおとしめられると分かってなおついていく人はいるのか。そこが気になるし、そこが分かれ目となるんだろう。明日はどっちだ。そして追従するメディアの行方は。新年度までに決着、つくかなあ。

 発売3日で2刷となっていた「頂へ 藤井聡太を生んだもの」(岡村淳司、中西新聞社)は東京新聞夕刊の連載でも読んでいたけど板谷一門を柱に置いて東海の将棋界の紆余曲折を紹介しつつその中から藤井聡太という希代の天才棋士が生まれてきたことが語られていて面白い。板谷一門とは藤井聡太六段の師匠の杉本昌隆七段が弟子との対局後に挙げた師匠にあたる板谷進九段とその父の板谷四郎九段による東海を拠点とした棋士たちの勢力。とりわけ進九段は豪放磊落で東海で人脈を広げ連盟にも顔を利かせて東海で多くの棋士や指導員や理解者を作ったものの1988年、急死する。

 そして存命だった父の四郎九段の薫陶を受けた世代と進九段の知り合いとがおりわず存亡も危ぶまれながらやはり遺志は継ごうと道場を続け教え子たちも将棋教室を各地で運営し独立採算ながら研修会も設けた。その中に藤井聡太が生まれ街の教室から道場へと行き進九段の弟子だった杉本昌隆七段と出会い弟子入りする。そして鍛えられ奨励会へと進み突破しプロデビューしてからは他の著作でも語られている、そんな藤井聡太六段が祖父から、祖母から、教室で、道場でどんなことを学んでいたかが「頂へ 藤井聡太を生んだもの」に綴られる。

 読めば板谷進九段がどれだけ愛されていたか、その努力が実を結んだかが分かる。名古屋に住んでても板谷進九段にあったことはないけれど、NHK杯に登場しては確かたばこを吹かしながら将棋をさしていたおじさんだったとう記憶がある。そして名古屋の人と聞いて親しみを抱いていたら訃報が。その後のことは気にしてなかったけれど、東海でいろいろな人が将棋の火を消すまいと動いた。だからこそ生まれ育ち伸びて花開いた藤井聡太という天才。当人の才能に努力もあっただろうけれど、そこに板谷進九段という棋士の思いがあり、それを受け継いだ人たちの尽力があったからこそという気もしている。棋士は1人では生まれないのだ。そして生んだ土壌が今ある東海から次に来るのは誰だ?


【3月14日】 金曜日からミュージカル『陰陽師』のゲネプロを書いて東京アニメアワード2018のオープニングを書いて土曜日に文化放送で小松未可子と三上枝織がやってるラジオ番組の公開収録を書いて日曜日に片渕須直監督によるティーチインを書いてプロダクションI,Gのの取締役3人によるトップ座談会を書いて月曜日にYOUNG POWER 2018に登場した若いアニメーション作家をプロの監督がぼこぼこにした様を書いてAMDアワードを書いて火曜日にポケモンセンタートウキョーDXのオープンを書いてニコニコ超会議2018の超歌舞伎演目決定を書いてちょっと疲れたので今日は何も書かないでようやくやっと「劇場版Infini−T Force/ガッチャマン さらば友よ」を見る。

 これはそうか、つまりはテレビシリーズで界堂笑が自分のいられる世界を見いだしケースの力も少し残した中で始めた世直しを、関係したヒーローの世界ごとに描いていくその第1弾のガッチャマン編かなあとも思ったけれど続きがあるとも思いづらいのでこれで終わりかなあとも思ったという、そんな初春。トラックにはねられようとしていた誰かを助けようとしたらそのトラックが横転して突っ込んできて万事休すの笑だったけれどもケースが発動したかガッチャマンの助けが入ったかしてパラレルワールドへ。そこでは科学忍者隊を組織したナブ博士がギャラクターと戦っていたけどなかなかかなわなかったところで、特異点に集まるエネルギーを取り出す技術を開発してそれでもってギャラクターを殲滅し、なおかつバードスーツにエネルギーを供給する仕組みも作り出してその世界でのパワーバランス的な頂点に立つ。

 でも別に奥の院でふんぞりかえっている感じはなくて、ネクサスと名付けられた特異点からエネルギーを抽出する装置に誰も近づけないため予防線がはられた人気のない渋谷あたりでせっせとお仕事。一方で特異点の存在を消して回っている笑とその愉快な仲間たちがネクサスをおさめたドームにたどり着いたけれど、そこに現れた南部博士がおまえらは俺の敵だといって笑を連れ去りガッチャマンもポリマーもキャシャーンもテッカマンも退ける。何しろ力は無尽蔵。そして人間の意思を廃して自動で動く仕組みも取り入れられた新開発のバードスーツを相手にガッチャマンたちでは歯が立たない。もしかしたらやられるかも、というところに現れたのが物語に登場してくる大鷲の健と同じ世界から来たガッチャマン仲間のコンドルのジョーで、聞くとその世界の南部博士はギャラクターを倒す力を得るためネクサスの力を利用し、それが世界のどこかにひずみを生むため止めようとした健を射殺してしまっていた。

 自分の信じる正義、すなわち力こそがすべてを抑止し人々を反映させるのだという信念のもとにネクサスを利用し邪魔をした健を退け政府すら寄せ付けないで開発にいそしむ南部博士のそのスタンスは、傲慢だけれど一方で絶対君主にも独裁者にもなろうとはしていないところに救いはある気がしないでもなかった。もっとも力におぼれるあまりに日本政府の裏側でうごめいていた異国に協力までしようとするあたり、正義のために視野が狭まってしまっていた可能性も。もっと崇高でもっとおおらかな正義だったら良かったのに。そこはやっぱり人間の限界か、それとおエージェントとして現れた佐々岡という女性のパンツスーツに目を奪われたか。良いよねパンツスーツ。おしりのラインがくっきりとでて。

 もうこうなると何が正義だって言いたくなるけどそれもひとつの信念だから曲がらない。一方でジョーは別に自分の世界の健とかガッチャマンが南部博士に殺されたわけではないけれど、そういうことをしでかす正義を許せないみたいで突っ走って南部博士を殺そうとする。それも正義なんだけれどちょっと違う。南部博士もジョーも少しずつ違った正義を振りかざしてはすれ違い、健もまた博愛に近い正義をひっさげては間に入ってすれ違いを受け止められないという、三つどもえなのか相容れないのか分からないさまざまな正義の混濁が見られる、そんな作品だった。

 最終的にはどうなったかは映画を見てのお楽しみとして、ギャラクーおいない世界で長大な抑止力としてのネクサスを維持し続ける必要性があるかないか、それは世界を何百回となく滅亡させられる核兵器を世界が今なお保持し続ける必要はあるかないかって命題とも重なって、万民が同様に平和を愛して他人を愛し他国を慈しんで自分を尊ぶ世界の訪れの難しさってやつを感じさせる。ネクサスなきあとのあの世界は果たしてどんなパワーバランスを見せたのか。日本はどんな展開をたどるのか。すべてを南部博士におしつけるにしても、監督下にあった人間が世界のどこかに穴を開けながら正義を口にして力を使い続けたことを世界は許せるのか。いろいろと気になった。

 あとはなによりあのネクサスが渋谷にあってそしてギャラクターも渋谷を責めてきたことか。世界を征服したければ武器のある渋谷を後回しにするってことは考えなかったのか。考えなかったのかもなあ、知的生命体には見えずただエネルギーをねらい集まっていたっぽいし。だから特異点に群がった、って解釈で良いのかな。知らないけれど。そんな映画でガッチャマンの課題は解決し、次はポリマーの世界で起こる何か、テッカマンの世界で起こる何か、キャシャーンの世界で起こる何かを順繰りに解決していくような展開だったら4部作も可能だったかもしれないけれど、そこまで観客がつきあってくれるかは現時点ではちょっと不明。見待機はするし活躍もして欲しいのだけれど。見たいよやっぱり車探偵長の帽子飛ばし。

 フル3DCGキャラクターが動いての映像はモーションキャプチャーによって人の動きを嘗めつつそれでもどこかマネキンっぽい造形を残して動かす感じにテレビシリーズとか、ほかのそうしたフル3DCGアニメーションでなれているから気にはならなかった。趨勢って訳でも最先端って訳でもないけどそれを面白いと思え自然とみられたのならそれで良いのだ。

 スティーブン・ホーキング博士逝く。車いすに乗りしゃべれないため打ち込んだ言語を引っ張り出して語らせる姿がサイバーっぽさを感じさせてくれたけれど、その業績についてもブラックホールに関しての理論とかを含めて世界をリードしていた、っていうか誰も追いつけない地平にあって実証できないからノーベル賞も出せないといった状況にあったとか。それでも生き続けてそして死去。数年でなくなることがおおい病魔と闘っていたのか、どうやって戦っていたのか謎もあったりしつつ、不可逆だったところを見ればそこにはやっぱり病があたったと見るしかない。ならばなぜというあたりに神様によって選ばれた生ということがあったのかもしれない。ロジャー・ペンローズがノーベル賞をとることもこれでなくなったのかなあ。謹んでご冥福をお祈りします。

 財務省なり理財局の官僚にすべての責任を押しつけようとする筆がはびこるその傍らで、民主党にも同じようなことがあったと降って口を出せなくする筆もやっぱり健在なようだけれど、公文書の偽造が民主党政権かで発覚したにもかかわらず、当時の大臣は誰も責任をとってないじゃないかという意見がとあるオレンジ色にタブロイドに出てすぐさまその偽造が行われたのは民主党政権になるまえの、おそらくは安倍晋三総理大臣の政権下だったじゃないかといったツッコミが入って、なおかつ公文書そのものを偽造した訳ではなく提出用の書類を書き換えたといったものであって今回の一件とはまるで様相が違うことが指摘され、ハイオシマイとはったはずだった。

 ところがオレンジ色のタブロイドを発行する会社の総本山ともいえる一般紙で、同じようなロジックを持ち出して民主党が責任をとってないのにどうして自民党には責任をとらせようとするんだといった声を誘っていて、とっくに解消された話でもこうやって何度も持ち出すことによって民主党に対するネガティブなイメージを作りたいのかどうなのか、分からないけれどもそういった意図があったといわれても否定できない言説が吐かれていたから驚いたというか、ネット界隈に集う安倍ちゃんマンセーな集団が、材料を集めてそれを掲げ事情をしめさないまま印象を醸し出そうとするタクラミを一般紙の記者がやって平気な状況が、その一般紙が置かれた諸々の状況を示しエイルような、そんな気がした陽気の春。


【3月13日】 そして気がつくとA級順位戦でともに6勝4敗で並んだ6人の棋士による名人位挑戦へのプレーオフが順調に進んでいて、1番下の順位だった豊島将之八段が久保利明王将を倒し、佐藤康光九段というか日本将棋連盟会長で永世棋聖を倒して広瀬章人八段も抜きいよいよ羽生善治竜王と対戦することになった。ここはやっぱり壁として相当に高そうだけれど、将棋に勢いがあるのならば勝って稲葉陽八段すら抜いて佐藤天彦名人に挑戦、なんてこともあるかもしれない。それもまた順位戦の6人プレーオフにもまして将棋界の2017年度の椿事に入ることになるんだろう。最近あまり対局がないように見える羽生竜王の調子やいかに。中原誠十六世名人はこの季節、花粉症で苦しみながらも名人戦を戦っていたからなあ、そういう“国民病”持ちだろうか羽生竜王。それでも気にせず淡々と指していきそうな人だけど。

 永遠なんて存在しないのなら終わりはいつか来るもので、それが今でないという保証はどこにもない。だからKalafinaが活動を休止する可能性が浮上しても、どうしてそんなことがと驚くつもりはないけれど、でもやっぱりどうしてこうなってしまったんだろうという悔いは浮かぶ。梶浦由記さんが事務所を離れて梶浦さんと同じ事務所に所属して梶浦さんのプロデュースを受け楽曲の提供も受けてきたKalafinaが、その活動の前途にいろいろなことを考えることは至極当たり前。ただ、だったらどうして梶浦さんが事務所を離れてしまったのかというところにやっぱり思いは向かう訳で、そこにやり直すことはできなかったんだろうかというある種の慚愧が浮かぶ。

 それがなかったら、Kalafinaだってずっと同じ活動を続けていられただろうけれど、そうでなくなってしまった時にKalafinaがKalafinaとして活動を続けていけるかどうか、というのもまたひとつの判断で、そこでプロデューサーの作り上げたプロジェクトとしてのKalafinaが、そのままでの存続を無理と判断したならそれもひとつの道だし、違うプロデューサーを得て違うスタイルへと向かっていったとしてもそれもひとつの道だった。そこでいろいろな思いがぶつかり合った結果が、分裂なりといった報道に至ったのだとしても、それぞれのメンバーが今という時期にその判断にたどりついたというだけのこと。だからここは静かに受け止め、それぞれがそれぞれにどういった道を歩むのかを見守るしかないんだろう。やっぱり残念ではあるけれど。

 「この光景を目に焼き付ける」と言って2017年の超歌舞伎から去ってすぐ、肺腺がんを発表して闘病に入った中村獅童さん超歌舞伎の舞台に帰ってきた。3月13日に開かれたニコニコ超会議2018の発表会に登場した中村獅童さんは、「超歌舞伎のユーザーやお客さんが作ってくれたメッセージを病室に飾り、勇気をいただいて病に打ち勝つことができました」と言って感謝をしつつ、「すべての思いをぶつける」と超歌舞伎に邁進する心意気を見せてくれた。すでに病気が分かっていた舞台での言葉は、もしかしたら来年はもうないかもしれないという不安からのものだったのかもしれない。でも折れずくじけないで再び舞台に立ってくれたことが何より嬉しい。そして2018年の超歌舞伎も、そんな喜びを祝福するような演目になっていた。

 その演目は「積思花顔競(つもるおもいはなのかおみせ)−祝春超歌舞伎賑−(またくるはるちょうかぶきのにぎわい)」というもので、後段に添えられた「祝春超歌舞伎賑」は超所作事(舞踊劇)という位置づけでお祝いの踊りになっている模様。そして「積思花顔競争」は歌舞伎舞踊の「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」、通称「関の扉(せきのと)」に着想を得たもので、中村獅童は初の悪人となる惟喬親王と、敵対する良岑安貞の1人2役を演じるという。共演の初音ミクも貞安の許嫁の小野初音姫、白鷺の精霊の2役を演じ分ける。難しいだろうなあ、衣装チェンジとか大変だろうなあ、ってそこはバーチャルだからあっという間? でもCGの準備は大変そう。

 気になる使用楽曲は鏡音リンが歌う「天樂」で、だから超歌舞伎には鏡音リンも出演するみたい。もちろん、NTTが開発した最先端の技術が使われた驚きの演出も見ることができるそう。今回もイマーシブテレプレゼンス技術「Kirari!!」を使い、舞台上の俳優をカメラでとらえて抽出し、別の場所に分身として出現させるような演出を行う模様。それから「両面透過型多層空中像表示装置」を使うことで、初音ミクをスクリーンから外に出し、山車に乗せて場内を練り歩かせるような演出も行うという。パワーアップした中村獅童と初音ミク、そして演出が歌舞伎をさらに新しいものへと変えていってくれそう。ほかに歌舞伎シャウトという仕掛けを置いて、NTTの集音マイクを使い大向こうを叫ぶとそれをひろって文字に変え、スクリーンに向かって走って行くような見せ方を行う。届くとスクリーンの中の役者に変化が。目に見える大向こう、って面白いかも。千秋楽のチケットは完売だけれど購入済みなんでじっくり見よう。

 そういやあ最初のポケモンセンターって日本橋にあったんだってことを思い出した日本橋高島屋へのポケモンセンタートウキョーDX出店。当時はなんでこんなところにと思ったけれどおテレビアニメーションが話題になりはじめた時期で、ようやくゲームの売り上げも端緒につき始めたなかで、それでも一般に知られたとはまだいえない「ポケットモンスター」のショップを出すのに渋谷とか新宿とか池袋といった繁華街はまだ遠かったんだろう。その後も浜松町でしばらく店を構えてから池袋へと行ってディズニーストアと張り合う大きな店構えになった。

 全国各地にもショップが出来た中で、20年前とはうってかわって商業地域の中心になりつつある京橋日本橋銀座秋葉原上野ラインの一角に、店を構えるっていうのは単なる帰還とは違った大きな意味があるんだろう。東京オリンピックも晴海に選手村が出来て銀座を経ていっぱい外国の人とか来られそうな日本橋に、外国の人も大好きなポケモンのショップがあればそれはきっと大勢が足を運ぶだろう。銀座から京橋を経て日本橋。そして秋葉原。そんなルートを家電とブランドとポケモンで固めることで生まれる商圏は、ブランドのコラボで喧嘩まで起こる渋谷とか、映画を中心に文化色を固めつつある池袋とは違った発展を遂げていきそう。新宿はちょっと先が分からないなあ、「VR ZONE SINJUKU」が恒久的に置かれるハイテクエンターテインメントの街になれば面白いんだけれど。

 凄いというか凄まじいというか、安倍総理への忠誠を示し続けている某紙の政治部長が財務省における公文書の改竄問題について書いているんだけれど、このタイミングで政治家なり鑑定の関与を一切否定し、財務省あるいは理財局の役人にすべての責任を押し付けていたりする。まだ佐川前理財局長が誰かの指示でそれをやらせたのかどうかの証言もとれてない段階で、そこまで断言しちゃっていいのという推定無罪からの想像とは別に、実際問題として権力を持った政治と人事権を握られた霞ヶ関との関係性においてそんなことがあり得るの、って考えるとなかなか言い切ることが難しい。そんな案件を、まるで信じているかのごとくに財務省が悪い、政治は関係ないと断言できるのはやっぱりポン酢としか言い様がない。

 誰かをおもんぱかって言っているのだとしたらジャーナリストとしてあるまじき態度だし、心底から信じているのだとするならそれもまた可能性を吟味して確たる情報を得ないまま一方的な信仰に従っているという意味合いでジャーナリストの魂に反する。どっちにしてもジャーナリスト的に難しい立場にあるにも関わらず、それをジャーナリストの総本山とも言える社会の木鐸的なメディアの偉い人がやってしまっているところに、いろいろと浮かぶ将来への危惧ってものがあったりする。これで隠し球が出て政治の関与が証明されたらいったいどうすんだろう、逃げなんて打ってない言説とともに退場するかとうと、そうはならずに手のひらを返して別の政治におもねるだけだったしるるのかなあ。そんな可能性が割と高いだけに悩ましい。やれやれ。


【3月12日】 昨日は片渕須直監督に会ったわ。今日は片渕須直監督。明日は……明日は会いそうにないけれども昨日に続いて片渕須直監督が登場する東京アニメアワードフェスティバル2018のプログラムとなる「YOUNG POWER 2018」を見物に行く。大学とか大学院でアニメーションを勉強している学生の卒業制作とか修了制作の作品を上映しては、プロの監督があれやこれや突っ込むというイベントで、一昨年のTAFF2016で見たときには学生相手に容赦ないクリエイターやプロデューサーの言葉が飛んでいた。逆に言えばプロは当然と思いやっていることが身についてない現れで、これをクリアできれば世界で活躍できる……かは別にして進歩は絶対に得られるだろう。

 それが証拠に東京藝術大学大学院から今回参加した見里朝希さんは、TAAF2016に当時は武蔵野美術大学の学生として「あたしだけをみて」を出展して、ストップモーションアニメーションの人形に使った羊毛フェルトが、ストーリーにとって必然の素材だったかどうかを強く問われていた。他の何で作っても良いストーリーをあえて羊毛フェルトで作る理由。それすらもプロの監督は考えるのかと聞いてて神饌だったし、見里さんも聞き入れたのか東京藝術大学大学院に進んで作った「Candy.zip」ではキャンディ作りをしている女性たちの話を、キャンディっぽい素材で作って甘くて苦い展開を見せてくれた。

 素材を言われた「あたしだけをみて」も数々の賞を獲得したけど、「Candy.zip」も結構評価されてなるほどアドバイスが効いたみたい。そんな経験をひっさげ2年ぶりのリベンジに挑んだ今回は、「マイリトルゴート」という作品で因縁の羊毛フェルトを使ったストップモーションアニメーションを展開してきた。すでに東京藝大院アニメーション専攻の修了制作展で見ているから驚きはしなかったけれど、今回見たセバスチャン・ローデンバック監督は、メッセージ性とストーリー性がはっきり出ていて好きなジャンルの作品で、羊毛フェルトの材料にも意味を感じられると話し、ふわふわした素材で描かれる深刻なストーリーというギャップに見るものがショックを受けると指摘していた。つまりは見事にリベンジを果たした格好。経験はしっかり生かされた。

 こちらも講評に参加した片渕監督は、カメラワークを評価しつつ自分に内在する親の過干渉への思いがあったかを見里さんに聞いた。見里さんは「完全にフィクション」と返答していたけれど、「あたしだけをみて」で、「マンネリになったカップルの彼女の恐ろしさを描いた。一方的な愛情は迷惑だったりすることもある」という意識を抱いたみたいで、それを今回は親子の行き過ぎた関係に発展させたってことみたい。そういう意味ではしっかりと作品はつながって、そして進んでいく。片渕監督は展開の中で出てくる男親の息子に対する性的虐待が必要だったかを気にしていいて、これではただの迷惑な人間に過ぎないため、本当によかれと思ったことが迷惑になるような見せ方ではどうだったかとアドバイスしていた。聞いて次にどんな作品を作るのか。進路は決まってないみたいだけれど、きっと何か作って見せてくれるだろう。その前に「マイリトルゴート」で世界征服とか、したりして。

 ある意味で問題作かもと思ったのが、東京造形大学から参加した坂本奈央さんと佐藤愛梨さんによる「タシカの不思議な冒険」という作品。最初はマンガの画面が映し出されて、それが少しずつ動いてヒーローが活躍するストーリーが語られていく。どうやら最終回が近づいているエピソードで、それが終わるかどうかという時に、同じようなシーンが繰り返されて主人公にループしているのではといった疑問を与える。そえから場面は4:3というスタンダードサイズのテレビアニメ風の映像になって、マンガがアニメ化されたことをうかがわせる。それもチープな。

 ここから誰かによってBLの同人誌が描かれ、ハイクオリティの劇場アニメ風の映像も出て、スマートフォン向けゲームアプリも登場し、マンガへと戻っていく展開は日本のコンテンツによくあるメディアミックスと、それに付随して生まれる二次創作などを表現したものと言えそう。これを表現技法の面から「たくさんのものが入っていてユニーク」とローデンバック監督は評したけれど、システムとしてこういうのがあることをパロっているとは分からなかったかもしれない。僕にとって、あるいは日本人にとってのおかしみがローデンバックには通じない。これはちょっとキツかったかも。それでも多彩な技法が使われたユニークな作品であることは伝わったみたいで、こんなノリを生かしてまた、ユニークな作品を作って欲しいけれど、進路はどうなっているかよく知らない。

 最初は書き換えられた文書なんて存在してないとうそぶき、そしてあってもそれは勘違いで朝日新聞はやっぱりダメなんだといった政治家とかのツイートを引いてそんなニュアンスを醸しだし、けれども毎日新聞の追撃とか援軍もあって文書の書き換えがあったと分かってきたら、それは改竄ではなく訂正だと予防線を張ったもの1通ではなく森友学園の土地取引に関する複数の文書で書き換えが行われていて、それに本省の指示もあったと分かって予防線を突破されてもなお、政治家の関与はなかったと予防線を張って持ちこたえようとするメディアが一丁。

 でも続々と出てきた文書には政治家の名前もあってなおかつ首相夫人の名前までがあったものの削られたことが判明し、予防線を浸透突破されてしまった上に、首相自身の名前も前はあったのが削られていたといったことが分かってて、予防線はメガトン級の爆弾で木っ端みじんに吹き飛ばされて後に残るは焼け野原のはずが、未だ敗戦には至らず撤退でも全滅でもなく転進であって玉砕には至らないとその身を自認しつつ、悪いのはひたすらに財務省であって傲岸不遜のその態度がくおした問題を引き起こしたのだケシカランと言いつのって政治への波及を無視しようとする。

 これこそが忖度であり気遣いであり配慮であって、すなわち財務省において文書なりによる誰の命令が発せられなくても、せっせと文書を改竄してヤバい人名を削っていったことと同義の振る舞いなんだけれど、そうやって賢明に尽くした財務省が矢面に立たされ非難を浴びて、自殺者まで出したりする状況に追い込まれたような展開が、今はまだ財務省を攻撃する側に回っているメディアに及ばないと誰が言えよう。今の政権が続いたとして忠犬過ぎる態度がかえってうっとうしいとなって切られるにしよ、政権そのものがつぶれるにせよその立場をいつまでも守っていられるとはとうてい思えない。だからこそこれを機会に身をすすげば良い物と、政権を忖度するしか今を生きる道はなく、他に生きる道を考えつけなくなっている。そして予防線を下げつつ政権という最終ラインに身を寄せつつあるんだけれど、それもいつまで保つかなあ。やれやれ。


【3月11日】 力尽きたか、とは思わないけれども毎回驚きの連続だった「ポプテピピック」も声優のチェンジが普通に行われると分かって再放送も常識となってしまった中で、登場するクリエイターもレギュラー化してしまった感じで何でこの人がといった驚きがちょっとなくなっている感じ。東京藝大院の修了制作展でやっぱりすごい作品を出していた関口和希さんのお料理教室はパターンの中に収まってしまって新作ほどの衝撃がない。かといって違うアニメーション作家が出てくる訳でもないのが停滞感の理由になっているのかもしれない。

 そりゃあ次々と引っ張ってきて商業作品にはめ込めないよなあ。でもまあ、これでひとつの道筋が出来たと思い次に誰かがどこかで起用されるかを見ていきたい。そういえば「ちはやふる−結び−」にはあのシシヤマザキさんがアニメーションディレクターとして参加しているとか。どんな感じのアニメーションなんだろう、もとよりロトスコープを得意と思われている人だけに、千葉すずさんの動きを取り込みうにょうにょと動く絵に仕立て上げたとか、それともセルフのロトスコープを無理にあてはめルミネでもおなじみのシシヤマザキキャラが動き回るアニメーションとか、そんなことはないだろうけどでも商業もド商業の中でどう使われているかが気になるところ。見に行こう。

 今日も今日とて東京アニメアワードフェスティバル2018へ。とりあえずアニメ オブ ザ イヤーの劇場映画部門グランプリに輝いた「この世界の片隅に」の特別上映をすっ飛ばしてのトークイベントを見物。気になる長尺版についての言及が片渕須直監督からあって、長尺版でもしも最初からリンさんとのシーンを入れたとき、今のように親子で見たり学校で上映される映画になったかというと、そうはならなかった可能性があったとのこと。もちろん、教育的な観点からカットした訳ではないと明言したけど、今後作られるだろう長尺版は「違う映画になる」とも話していて、あのシーンが持つ意味合いというのを改めて感じさせてくれた。

 これは進行役を務めた氷川竜介さんも同意見で、もしも入ったら「お話の匂いが変わるくらい」といった指摘。なるほどこうの史代さんの漫画原作を好きだった人にはなくてはならないシーンだけれど、今の映画をひとつの完成形として見るならばそれはやっぱり長尺版というのを覚悟して受け止める必要があるのかも。あと氷川さんからは長尺版に続く片渕監督の新作に関して質問もあって、答えた片渕監督は「少なくと、ももう1回は同じようなアプローチでのぞみたい」と話してくれた。「行くことはできないけれど、そこにいる人たちと共有できて、登場人物たちの世界に加わりたい。そのための資料を集めています」。いつの時代かは言及がなく、公開時期も明らかにはされなかったけれど、「2021年がMAPPAの10年だと言われます」という言葉から、10周年記念の作品として何か作られることになるのかな。4年も先だけれどその間に長尺版もあるだろうし、「マイマイ新子と先年の魔法」から7年かかったと思えば全然短い。だから待ち続けるその時を。どんな映画になるのかなあ。

 続いてプロダクションI.Gの創立30周年を記念してのトークイベントへ。石川光久社長とアニメーターで取締役の後藤隆幸さん、同じく取締役アニメーターの黄瀬和哉さんがそろって舞台に登場するのはこれが初めてとのことで、30年に1度くらいの貴重な機会と思いじっくりと聞く。詳細はいずれ書くとして、面白かったのはお互いについての印象で、黄瀬さんは高橋さんのことを「遅刻をしないことを尊敬する」と話していて、逆のに後藤さんは黄瀬さんについて「黄瀬君は何日か仕事をしなくても、来たら3倍から4倍のスピードであげる天才」と讃えていた。石川社長がフォローするように後藤さんについて「『ドテラマン』でサイコユウ鬼というキャラクターを生み出した」ことでキャラクターデザイナーとして評価された経緯を紹介。あと「エスパー魔美」での作画監督も「良かった」と評価しつつも当人から、「この絵柄でずっと描いていると、これ以外が描けなくなるから」と言われて違う仕事を振るようにしたという。

 自分のキャリアを考え物を言い、そうした意見をちゃんと聞く。そこがIGの良いところなのかも。とはいえ常にアニメーターがやりたい仕事を振っていたらスタジオとしてはつぶれてしまう。そこは商業ラインに沿った仕事を入れつつやって欲しいとお願いしていく日々の積み重ね。それを嫌だと思いつつもやっていくことによって後藤さんは「好きなのをやって良いよと言いつ、はいこれねと言われてこれをやるんだと」思ったことが何度もあったとのこと。それでも「プロデュースしてくれているんでしょう。これを俺が描くのかと思うが、こういうのも描けるんだ、これやって良かったと思うことがある」と話してくれた。そんな2人のアニメーターについて石川さん。「50歳を超えて2人とも絵が上手くなっているんです。今の若い人に言いたいことは、描き続ければ50歳になっても上手くなる、伸びるということ」と石川社長。いろいろな仕事をこなすことによって自分の幅を広げ、上手くなっていける例があることを、2人のトップアニメーターの今も止まらない進化が教えてくれているって言えるのかも。

 7年目のこの日までに変わったことは個人的には特になく、日曜日だった翌々日を続く余震の中で遠出できないまま、屋上でベンチに腰掛け缶コーヒーをすすりながら、置かれた羊の人形を眺めていた西武百貨店の船橋本店が先月末で閉店となってもう同じ場所に座れないことくらいだけれど、広く見渡せば大混乱の中で生まれた沈んだ心に忍び寄るようにして誰かを区別してさげすむことによって自分を保とうとする心が、より濃くなって強く大きな勢力となっていったことがあり、また大手メディアの核心を得ない言説に飽き足らず、ネットに真実を求めようとした動きが、逆に大手メディアに備わっていた信頼性をはがしてしまってネットにこそ真実があるといった空気を生み出し、それが流言飛語であっても信じて従う状況を呼んでしまった。

 そうした流れの中で生まれた政権が、自分たちをこそ上だとみたい人たちの支持を集め、まっとうな批判を流言飛語の類と見下げてネットにこそ真実という名の安寧を求めてすがりよりかかっていった果て、強権で成る政権ができあがって今に至り諸々の問題が噴出してきている、といった具合。とはいえ未だ練り上げられた国粋というよりただの身勝手な自尊にすがろうとする空気と、それを持ち上げる政権への信頼が続いていて流れをせき止めるまでには至っていない。財務省における問題が噴出しても、それを政権とは結びつけずに役所の単なる勇み足だと括って処分し放り出して終わり、あるいはそれすら些末なことであって今必要なのは戦力強化だといった声へとそらして見て見ぬふりをする。

 そうなった先、起こるのは大同団結による国家総動員。連れて行かれる先がどこになるかは過去の歴史が証明しているけれど、それすらも自虐史観と切り歴史線と称して過去を塗りつぶす動きの中、気づいたら降り注ぐ弾薬の雨嵐の中で立ちすくむ自分に気づくのだ。とはいえ、8年前のこの日のような出来事があったからこうなったというより、それ以前よりくすぶっていた空気が加速化されただけともいえなくもなく、あの多大な犠牲とそして今なお続く復興への苦闘をそうした内向きの意識につなげてしまった寂しさを、思いつつ今日という日を考える。2年先、10年目にこの国は、世界はどうなっているのだろう。数ヶ月後に迫った東京オリンピックとパラリンピックに向けて沸き立つ中に混じる妙な自尊が、オリンピックという目標を過ぎた後で噴出しないことを願うしかない。ないのだけれど……。


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