縮刷版2016年1月下旬号


【12月20日】 どこまでも内向きで支持してくれている人にいい顔が出来ればそれで良いという政権だから、ヤンヤの喝采を浴びさえすればその振る舞いがあとでどういった問題を引き起こすかなんて考えていない。松岡洋右外相が国際連盟を脱退して颯爽として帰朝しヤンヤの喝采を浴びた一件も、後に日本を世界の中で孤立させ、支那事変から太平洋戦争へと向かわせてそして多大な犠牲を払った上での何も得られない無条件降伏へと至らせた。後先考えないで一時の快楽を追求して良い結果なんてもたらされない。そんなことは歴史の上で誰だって学んでいるはずなんだけれど、歴史書とは名ばかりの剽窃にまみれたエッセイがベストセラーになっている状況で、過去の失敗は成功へと置き換えられ招いた結果は包み隠される。だから喝采を浴びた部分しか語り継がれず、その後を追おうとする。

 国際捕鯨委員会から日本が脱退するといった話が跋扈するのも、そうした一時の快楽に身を委ねて喝采を浴びて悦に入り、支持率とやらを高めたい政権の何か思惑でも働いているんだろうか。なるほどそれでIWCが定めた枠組みに従う必要は無くなるし、調査捕鯨から商業捕鯨にだって切り替えられる。けれども問題はそうやって得た“自由”が震える場所などこの地球上にはほとんど存在していないということ。国連海洋法条約の定めではいかなる捕鯨行為は適当な、つまりはIWCを通じて活動をしなければ違法だし、鯨類が多く生息する南氷洋あたりについても南極の海洋生物資源の保存に関する条約で縛られている。つまりは外洋で捕鯨なんてできはしない。かといって太地が浜で鯨を待っていてくるものでもない。それで果たして捕鯨を守ったと言えるのか。

 ノルウェーやスウェーデンは北氷洋の近海で鯨を捕らえられし、商業捕鯨といっても規模は漁民のこれまでの生活や文化を保持するといった人類学的民俗学的な枠組みの中といったところ。日本のように何か産業めいたものにはならない。というか日本だってもはや産業というほどの規模はないけれど、外国から何か言われるのはしゃくに障るといったマインドから、捕鯨推進を叫んでいるように見えてしまう。もちろん漁民の生活を守り捕鯨という文化を守る必要はある。ならばIWCの枠組みの中で頑張るしかない。たとえ海のない国が加盟して捕鯨に反対して、それが理不尽にうつっても世界が話し合いで決めるという行為を逸脱しては、世界から危険な国だと思われる。

 何より反捕鯨を唱えているアメリカが日本に対してどういった手段に出てくるか。リーダー同士の関係なんて国民が相手となったら軽くすっとばされる。トランプ大統領の支持基盤が反捕鯨を唱えればアメリカは日本を敵対し、そして経済水域内での漁を認めなくなるかもしれない。日本が世界の海から閉め出されたらそれこそ大問題。そこまでの視野が皆無とは思いたくないけれど、今の政権なら目先の喝采をとって将来の困難を後に回すかも知れない。自分たちは次で止めるというならここでやりたい放題やって支持を集めて改憲へと向かって歴史に名を残す。そんなことしか考えてないのか。それだって今は美名で将来は悪名となる可能性だってあるのに。というより悪目になる蓋然性の方が高いのに。そこまでストラテジックに未来を考えられる人、人たちではないんだろうなあ。だからこうなり、そしてそうなる。やれやれだ。

 サブカル漫画と言えば真っ先に名前が挙がってしまう浅野いにおさんだけれど、描くものはシリアスだったりシュールだったりSFだったりキッチュだったりして、いわゆるサブカルの主線からは外れているような気がしないでもない。でもおしゃれといったフェイズでもって括られそんな範疇にある漫画としてサブカルと呼ばれてしまうところもあって、オタクな漫画好きからは毀誉褒貶もあったりするところに、マンガ大賞とかに引っかかってこない理由があるのかもしれないなあ。池袋のサンシャインシティで21日から「浅野いにおの世界展 〜Ctlr+T2〜」という展覧会が始まるにあたって内覧会とライブドローイングが開かれたんで見物にいく。ほとんど初めてやったというライブドローイングだったけれど浅野いにおさん、大きい紙にちゃんと崩れず浅野いにお顔の女子とか描いて街並みもしっかり整えて、やっぱりちゃんと巧い漫画家さんだってところを見せてくれた。

 女子が身につけているマフラーなんかをちゃんと編み物にしてみたり、着ているジャケットをスーツっぽい素材にしてみたりと、輪郭からペン入れをしていって質感を出していく作業が目の当たりに見られて面白かった。最初からそうした質感にすることを考えて描いているのか、それとも描いている途中で素材を選んでいるのか。完成図がきっと頭にあってそれに向かって描いているんだろうなあ、きっと。質疑応答めいたものもあって女子とか描く時にはハイテンションになるかと聞かれ、ずっと女子を描いているからことさらテンションは上がらないって話してた。そりゃそうだ、女子を描いている時にいちいちリビドー全開にしてたら体が保たない。でもエロ漫画系の人は自分のリビドーを乗せて描いているところもあるから、きっと肉体も神経もすり減るんだろう。早くに亡くなる方もだからちょくちょくいたりするのかな。気になった。

 展示では「ソラニン」とか「おやすみプンプン」とかいわゆる代表作と呼ばれる作品の原画が飾ってあって、それが実際に印刷されたものだとどうなっているかも添えてあって違いが分かって面白かった。最新作で連載中の「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」は結構なスペースがとってあって、メガネな少女とかも含めてキッチュにポップなキャラクターが並んでサブカルよりオタク受けしそうな印象を持ったけれど、「ソラニン」あたりからの青春サブカル漫画として認識されていて、そっちにファンが偏ってしまうのかもしれない。あと浅野いにおさん自身は20年かけていろいろと描いてきて、ようやくたどり着いた思い描いた絵柄の索引として「零落」を挙げていて、それがどういう意味かを見てなるほど、整ってまとまってそれでいて沈んでいない絵だって感じた。「おやすみプンプン」の頃の乱暴さも鳴りを潜めていて、それでいて切々とした情感が漂うというか。読んでなかったけれど読んでみるかなあ。「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」はマンガ大賞の候補に入れても良いのか。こっちも読み通してみるかなあ。

 日産自動車の会長で、よく分からないけどいろいろ讒言されて捕まってしまっているカルロス・ゴーンの勾留延長が裁判所によって却下されたとか。21日以降にも保釈される可能性があるようで、検察の抗告の結果次第ではあるけれどここで釈放されるという意味はやっぱり被疑者の側にとって相当大きいような気がする。あの東京地検特捜部が捕まえて拘留し続けられないというのはなかなかに異例。裁判所だってそこまで言うならと認めるのが過去の通例だった中で、保釈を認めざるを得なかったとうのはそれだけ証拠なり、事件性なりの部分で迷うところがあったってことなんだろー。つまりは無実の可能性だって出てきたってことなのかどうなのか。そこまでは未だ判然とはしないけれどもこれでシロとなった時、いろいろとかき立ててきたメディアはどう責任を取るんだろう。そこが見物。営業的には今の親分に尻尾を振っておきたかったけど、それが逆転してしまってまとめて切られる可能性もあるかなあ。ちょっと注目。


【12月19日】 谷川流さんの「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズが角川文庫から可能されるそうで、表紙絵もいとうのいぢさんが描いたハルヒのキャラクターは描かれていなくって写真によるイメージのものになるみたい。いとうのいぢさんのキャラクターがあってのハルヒってイメージあるだけに、こうした展開はちょっぴり残念って気分も浮かぶけれども河野裕さんの「サクラダリセット」が劇場映画化された際にスニーカー文庫版をちゃんと残しつつ角川文庫で改稿されたものが刊行された例もあるから、「涼宮ハルヒ」の場合もスニーカー文庫と角川文庫で並行して出され続けていくのかもしれない。

 というか「涼宮ハルヒ」のシリーズって今も確かつばさ文庫でも出ていたりするし、細田守監督の「未来のミライ」もスニーカー文庫版と角川文庫版が出てたりする。レーベルをまたいで同じ本をそれぞれのカテゴリーに合わせて装丁し、刊行することでラノベやアニメのイラストが使われた表紙絵では手にとりづらい人でも読めるようにしてきた。桜庭一樹さんの「GOSICK」シリーズなんて富士見ミステリー文庫で出て角川ビーンズ文庫で出て単行本も出て角川文庫版も出ていたりして、単行本と角川文庫版には武田日向さんの可愛いイラストは疲れていない。

 富士見ミステリー文庫がもうなくなったのなら角川文庫版だけしたって良かったものを桜庭一樹さんは「GOSICK」のシリーズの“もう1人の著者”が武田日向さんだと認めてそのイラストが掲載されるレーベルへも移籍してくれた。一方でイラストではない表紙のものも作った。売れる本ならチャネルを選ばずレーベルを選ばないというKADOKAWAの戦略ってことなんだろー。そうだとしたらネットメディアが“移籍”と書いたのはちょっと違う気がするけれど、その当りどうなんだろう。願うなら新刊がちゃんと登場すること。もちろんいとうのいじさんのイラスト付きでスニーカー文庫から。武田日向さんのイラストが入った「GOSICK」シリーズは出したくってももう出せないのだから。

 たらればで言うなら2002年に佐藤寿人選手がジェフユナイテッド市原・千葉からセレッソ大阪へと移籍せず、そして2003年にベガルタ仙台へと移籍しなかったならイビチャ・オシムが監督に就任した2003年からのジェフ千葉で、いったいどれだけの活躍を見せてジーコ監督が率いる日本代表にメンバーとして選ばれ、そのまま代表のフォワードとして定着をして日本のインザーギとして好機を演出して決定機を幾つも作ったかと思わないでもないけれど、一方でイビチャ・オシム監督の走り抜くプレイスタイルをトップで支えた巻誠一郎選手とポジションが同じフォワードとして重なって、ポストでありストライカーでもある巻選手の替わりにはならないといった判断からサイドプレーヤーに回されるか、セカンドトップの控えとされて出場機会を失い、ベガルタからサンフレッチェ広島へと続く活躍へと至らなかったかもしれない。

 ただ、日本代表監督となったイビチャ・オシムの日本代表にもしっかり呼ばれていたところを見ると、巻選手や高原直泰選手らとでも併用はできるポリバレントとアジリティに優れた選手といった認識はあって、快進撃を続けていたジェフ千葉でも主力となってナビスコカップのみならずリーグでも悲願の優勝を果たしていたかもしれない。いずれにしても過ぎ去った歴史を検証するすべはない。ただ今一度、佐藤寿人選手がジェフ千葉に復帰することで双子の兄の佐藤勇人選手も含めたチームの中で決定機を演出し、待望のJ1復帰の原動力となってくれればそれはそれで素晴らしい。過去に活躍した選手を引き戻すのは“お家芸”でも、1年で決して活躍したとは言い難かったこれまでの轍は踏まないでJリーグ得点王の実績をみせて欲しいも。これで羽生直剛選手が引退せずに残っていて、巻誠一郎選手が戻ってきたら……それは夢だけれど勝利への道ではないので封印。今を今として明日を掴め。

 1月から始まる映画「PSYCHO−PASS サイコパスSinners of the System」の予習もかねてNetflixでテレビシリーズの第2期にあたる「PSYCHO−PASS サイコパス2」をざっと振り返る。映画のCase2 First Guardianに登場して、まだ国防軍にいた頃の須郷徹平と征陸智己が出会うエピソードに監視官として付き添っているのが青柳璃彩で、そこでの出会いが後に須郷を国防軍から厚生労働省公安局刑事課の執行官へと移籍させるきっかけになったのだとしたら、ある意味での“恩人”であり上司を、第4話の「ヨブの救済」において須郷は誰と知らないまま青柳を手にかけてしまったってことになる。そこから逆算をして見ると映画でのまだ知り合ったばかりの2人の雰囲気が気になってくる。どうしてあんなことに。こんなの絶対おかしいよ。だからこそ見て意味のある映画ってことになるのかも。

 一方、「PSYCHO−PASS サイコパス2」で全編を通じて登場しては、常守朱監視官の同僚として働きつつも自分が1番感を漂わせて文句ばかり言いつのり、貶めようとするレポートも必死になって書きながら肝心の現場では自分に責任が及ぶのを嫌って事なかれ主義に徹し、挙げ句に東金朔夜にまとわりつかれる形となって常守朱の祖母の居場所を教えて東金によって殺害されるきっかけを作ってしまった霜月美佳監視官があれでよく、色相を濁らせて潜在犯落ちしないものだと常守朱とは別の意味での強靱さに感嘆。すべてを誰かのせいにすることで自責を回避し鬱のスパイラルに陥ることを避けているのかも。すべてをポジティブに感じて正義は正義として意識し続ける常守朱の強靱さとは対極。それもまた免罪体質のひとつのスタイルなのかもしれない。

 SEAUnでの一件から1年後の2017年が舞台となったCase.1 罪と罰で霜月監視官は、執行官となって義手でもってサイボーグ化を果たしつつ格闘も極めてすっかり以前の繊細さが薄れ、剛胆になった宜野座元伸と組んで現場で指揮を執る。もう少しで放射線まみれの中でのたうちまわるような危地に陥りながらも、動ぜず日和らず流されないで犯罪者を仕留めてのける。強くなったなあ。大人になったなあ。そんな“成長”を味わえるという意味でも第2期のファンは映画を観よう。ってか霜月美佳のファンっていったいどれくらいいるんだろう、六合塚弥生と添わせてあげてと願うような。これなら常守朱とだって張り合えるかというと、第2期ですら大人の雰囲気で冷静に事態を分析し、タバコをくゆらせながらメンターとしての咬噛慎也によって平静を保ち、流されず溺れないでシビュラシステムの成長を促すんだから凄い。いったいどういう精神構造なんだろう。そこもまた永遠の謎。それだけに今回の3部作より先、3度目のテレビシリーズが見たいなあ。

 練馬区立の図書館で練馬図書館と石神井図書館が指定管理者制度を導入して民間に委託されそうになっているということで、これに反対している非常勤の図書館司書として働いている人たちがストライキを打とうとしていた一件でとりあえず、労使間の話し合いがついてストライキは中止されたとか。でもって非常勤の図書館司書は他の区立図書館で雇用をするから安心しろって話らしいけれど、練馬区立の図書館ってすでに9館が指定管理者制度の下で民間委託されていて、そこに非常勤の図書館司書を異動させるなんてことが可能かどうかが分からないし、練馬図書館と石神井図書館が民間委託されるという方針も撤回された訳でなく、そこで行われている運営なり運用が、継続されるといった話にもなていない。雇用は確保されたとしても、図書館としてのキモとなる仕事の部分が維持されるかどうか、ってあたりがもやもやとした中で、とりあずストライキだけは回避したといった状況だから今後の展開によってまた、似たような動きが持ち上がるんだろうなあ。練馬図書館と石神井図書館が民間に委託されながらも非常勤の司書たちが継続して雇用され運営が継続されつつ効率化が図られれば万々歳なんだけれど、それができたら民間委託の積極化なんて行われていないよなあ。難しい。今後に注目。


【12月18日】 ムビチケをもらったので「機動戦士ガンダムNT」を劇場で見る。3回目。「機動戦士ガンダム」的に、あるいは富野由悠季監督的にニュータイプという存在の解釈と運用で割れるところがあるのは承知で、僕はここに描かれたある種の運命を先取りして視せ、そして宇宙の安寧のために奉仕させるようなドラマを決して嫌いではない。道は分かたれたように見えたリタとミシェルとヨナの3人だけれど、結局はひとつの場所に集いそれぞれが役目を果たしつつ、わだかまりも何もない地平へと向かって歩んでいく。そんなストーリーを見終えて、自分にもそうした世界の、宇宙のために奉仕できる運命があったらどれだけ救われるだろうかと改めて思ったのだった。

 そこで持ち出されたニュータイプなる概念によって導かれるのは、たったひとつの選択肢に向けてほかのすべてを突破していくリニアな人生であって、その場において最善を選び、自分の意思で多々ある未来から自分がなりたい自分になっていくようなパラレルな人生を歩ませるといった意味でのニュータイプの概念とは真逆だったりする。だから反発もあるんだろうけれど、過去に刻まれた概念だとか設定とかはぶっ飛ばして再構築されていった中で、ひとつの解釈として納得できるもののような気がする。リタもミシェルもヨナもきっと気付いてそして受け入れた……のかはヨナについては分からないけれど、それでも成し遂げたといった気分にはなれたんじゃなかろーか。もしかしたらゾルタンも含めてそうした運命の輪に組み込まれていたのかな、その行為がフェネクスの襲来を呼び浄火を招いたとも言えるのだから。生かされているのだ、僕たちは、宇宙に。

 はははははは。東京オリンピックの実行委員会だか何かが聖火リレーにあたって東京都にある諸島を巡る際にいちいち船で運んでいたりすると荒天でスケジュールが滞ったりするのを気にしてか、ある島をめぐったらそこでいったん消化してそして別の島で種火から点火して回るような策を考案しているとか。「瞬間移動」とかってキーワードがニュースに乗って広まって、バカじゃねえのといった批判を浴びてさすがに手渡しにしようといった声も出始めている。当然だろー。もちろん火が消えてしまった場合に種火から点火して再び聖火を走らせるといったシチュエーションは考えられるし、過去にもトーチの不具合で消えてしまったところに点火したって例はあるみたい。レーザーで大陸間を飛ばしたなんて話もあったけれど、それでも自ら消化して点火するなんてことが過去、どれだけ行われたかっていうとちょっと想像がつかない。

 点火されたら極力つなぐってのがリレーの精神なら、途中でそれを消して別の場所で点火するというのはどこかリレーの精神に反している気もするし、海だって東京都ならその上をめぐって欲しいと思うのが海の神様の心理だろー。そうした当たり前をまるで無視して「瞬間移動」を口にしてしまう組織委員会の効率ばかりを気にした施策が、オリンピック全体のショボさの根っこにあるようでどうにもこうにも嫌になる。エンターテインメントの国なんだからここは超能力で飛ばすとか、ロボットで移送するとかドローンを使うとかやって欲しかった。10本のドローンに着火して飛ばしてどれか着いたらOKとか。そんなテクノロジーをみせてこその日本だろー。あるいは立川にいるというブッダとキリストに頼んで海を割ってもらうとか? いやいやそれはモーセで旧約なんで新約の自分が出しゃばる訳にはいかないって言うかなあ。今度会ったら聞いてみよう。

 貧乏なので夜遊びするお金もないので電気毛布にくるまりながら七士七海さんの「異世界からの企業進出!? 転職からの成り上がり録2 リクルート篇」(ハヤカワ文庫JA)をペラペラと。ブラック企業を辞めて魔力を持った人だけが読めるチラシに誘われ入った会社が、魔王のダンジョンに挑戦してくる勇者でも大変なダンジョンを作り出すためのテスターという仕事。つまりは勇者側ではなく魔王の側については日々、ダンジョンにもぐってモンスターと戦いその大変さとか攻略のしづらさなんかを確かめていくという仕事なんだけれど、主人公の田中次郎はひとり30絡みだったこともあって若い人たちとパーティが組めず、ソロで頑張っていたら魔王の配下にあってめちゃくちゃ強い将軍たちに気に入られてしまった。

 身分を隠して教官となって田中次郎を鍛える将軍たち。そして魔力適性の高さもあってそれなりに強さを出しつつ頑張りもあって1人で第1層を攻略したりする活躍を見せ、ますます気に入られた田中次郎は、ダークエルフの人事課テスター部主任を務めるスエラさんから惚れられる。そんな羨ましい展開もあったりしたけれど、それで万事丸く収まらないのはやっぱり1人ではなかなか攻略に大変で、なおかついっしょに入社したパーティも減ってしまったから人手が足りずデバッグが滞っていたから。人事部長で悪魔で美人のエヴィア監督官の要望もあってリクルートするよう言われたものの、テスターが仕事だからと言って若いパーティーは関心を示さず、田中次郎だけがソロということもあって地上に赴き新入社員を探して回る、というのが第2巻の主なストーリー。

 ブラック企業時代の後輩をまずは引き入れ、それほど魔力適性は高くなくてもブラック企業で働いていた根性をみせて将軍が名を伏せた教官たちを相手にそれなりに生き延びるようにさせ、そして新たに大学生の女子ながらもコミュニケーションに難があってか引きこもり気味でゲームばかりしている知床南と、彼女とは幼なじみでだらしがない南をずっと世話してきた年下で高校生の所沢勝をどうにか引っ張り込んで、それぞれに強くなっていってもらう。ファンタジーでRPGの世界に来られて大興奮だった南は体力を向上させる訓練とかが大変だったけど、それは乗りこえダンジョン攻略でパーティーを指示する役目を果たして一気に第4層まで攻略する原動力になりながらも、待機中に起こったゴーレムの暴走では身がすくんでしまう。

 それでもようやく得たパーティー仲間を救おうと田中次郎は奮闘し、南もそれなりに働いて危機を乗りこえ生還を果たした田中次郎にスエラさんがもうぞっこん。そして育まれた愛がダークエルフと人間という、年齢差もあれば寿命の差もあるカップルにどんな影響を与えるか。とりあえず田中次郎は“成長”する必要があってこれまで以上にダンジョン攻略に身を入れそう。とはいえデバックがメインだから攻略すればするほど難しくなっていくダンジョンで生き延びられるのか。パーティのメンバーはまだまだ増えるのか。地上でちょっとだけ立ったフラグの回収とかも気になるし、邪険に扱った他のパーティとの軋轢も気になるところ。後輩が見せた優しさが将軍クラスの心を動かし何かをもたらす可能性もあって、それらが描かれるこれからの展開が楽しみだ。命はかかっても楽しそうな仕事。どこかにないかなあ。

 池袋のマルイで開催中の「機動警察パトレイバー」の30周年記念展をさっとのぞく。OVAからテレビシリーズ、劇場版といったアニメーションの原画やレイアウトやキャラクター設定なんかをみせつつカラーイラストも展示して初期のパトレイバーの雰囲気って奴を思い出させてくれるんだけれど、名古屋にいてパトレイバーのテレビアニメはまったく見られなかったので実はそれほど思い入れはないのだった。原作は読んでいたけれど。というか劇場版だって1も2も見たのはレーザーディスクになってからなんで、映像としてのパトレイバーの展示にリアルタイムの感動はあまり覚えなかった。ただ凄いとは思ったけど。懐かしさで言うなら劇場版の2でのレイアウト作画かなあ、今敏さんも関わっていたというそれを見て、今畝という言葉が浮かんだのだった。なんだそりゃって、「METHOD」という本を読めば分かる。再刊分で誤植は直ったのかなあ。


【12月17日】 文庫本を6、7冊ほどまとめ買いしたけれど、この中にライトノベルは何冊ありますか? と問われて僕なんかはもう全部ライトノベルとしてライトノベルの評で扱っちゃうものの、レーベル的に見ると実は旧来から存在しているライトノベルレーベルに入るものはなかたったりする。新潮文庫nexだったり集英社オレンジ文庫だったり新創刊の一二三文庫だったりポプラ社文庫ピュアフルだったりマイクロマガジン社文庫だったり。そこには電撃文庫スニーカー文庫ファンタジア文庫ガガガ文庫ファミ通文庫ダッシュエックス文庫等々のライトノベルと呼ばれるレーベルは1冊もない。

 だったらライトノベルじゃないかと言うと、出自からライトノベルの賞を獲得してデビューした人もいたりするし、集英社オレンジ文庫なんかはノベル大賞とかの受賞者が出していたりしてコバルトの派生としてライトノベルと言えたりもする。そうした部分を勘案しながら僕なんかはこうしたレーベルもライトノベルとして書評のコーナーで扱ったりする。というか、ライトノベルで扱わないと一般文庫ではまるで見てくれないところがあったりするのが昨今の悩みの種だったりする。

 本の雑誌社から出ている「おすすめ文庫王国2019」なんかを見てもこうしたライト文芸、キャラクター文芸と呼ばれるレーベルから取り上げている人は皆無に近い。ミステリマガジンの「このミステリが読みたい」でも神月お茶の会くらい。さすが分かっているぜ。それでライトノベルが扱わないとほんとうに空白地帯になってしまうのだった。プラスして星海社FICTIONSとかのような四六のノベルズ、なろう系ノベルズもわんさかあってそれらも含めてライトノベルとした場合、膨大な点数が毎月あって追い切れないけれど一般文芸はやっぱり見てくれない。そうとなると読者としての売れ行きはあっても社会の中での認知となるとなかなか進まない。そんなのなくても良いという意見もあるものの、売れているなら見られて欲しい気もするのだった。

 想像するなら“発見”される回路の問題で、知られた文学賞新人賞から出て書籍を出し認知され文庫化されるとか知られたレーベルから出るとか。ラノベの人がハヤカワで出したとたんに世に知られる感じ。見知らぬ文庫オリジナルの見覚えのない作家に目を向ける回路が細いのかもしれない。こうなると自分でレビューなりランキングなり文庫リーグにおけるライト文芸キャラクター文芸レーベルの扱いも含めてどうにかしたいけれど、発進力も乏しいので影響力は皆無。それでも伝えたいといなら自分で読んで、ここで紹介するしかないのだった。

 とう訳で、そんな1冊の丸木文華さん「誰にも言えない」(集英社オレンジ文庫)を読む。美人怖い。モデルと作家とアスリート、そして財閥令嬢の大学生女子4人が友人となってお泊まり会。そこで語られるそれぞれのしでかして来たことがとてもえぐい。まず令嬢。その見かけは作られたものだった。そしてモデル。幼いころから自分が1番と思って生きてきたから自分を抜かす誰かがいたら許せないから悪評を流して追い込んでいく。そして…。作家。若くしてデビューして美少女作家と呼ばれたけれど、引きこもり気味の自分に学校に行けと鬱陶しく言う父親が憎かった。

 そこにネットで知り合った母親が鬱陶しい少年と語らいある計画を実行に移す。それを元に書いた小説が迫真と評判になって受賞。そりゃあ迫真だよね、リアルだから。アスリート。離婚した母に連れられ田舎の実家に戻ってそこで竹林にいる少女と知り合い友だちになる。自分を責めるような同級生、自分に色目を見せるようになった母親の新しい恋人。ああ鬱陶しいと竹林で少女に話すと…。それは伝奇的だけど猟奇的。令嬢以外の3人がそれぞれに見かけとは違う過去があった。そう話した3人に令嬢が迫る。正体をさらして。その正体とは? あっさりと終わりそうでやっぱりな逆転があって恐怖の中に収斂していく。モデルと作家とアスリートの、それぞれの“事件”に真相を探る楽しみがあり、令嬢が置かれた立場への伝奇的考察もあって総体として浮かぶこの世界に溢れた恐怖と醜悪。美人は見かけによらないのだ。

 そして富永浩史さんの「鋼鉄の犬」(マイクロマガジン社文庫)。こいつは出たら買いの1冊だ。例えるなら芝村裕吏さん「マージナル・オペレーション」に描かれる戦場の景色の中、月村了衛さんの「機龍警察」めいたテクノロジーが台頭しつつある状況で、稲見一良さんの人間と猟犬とのバディ的ストーリーが紡がれる、といった具合。軍隊で地雷探知犬を訓練して使用していたアルフレッド・大上というハンドラーの日系三世の男がいたけれど、戦場で遠隔操作による地雷の爆破によってルークと名付けた犬が負傷してしまう。命は助かったものの、後足を1本失い義足にしたルークを連れて大上は退役するもの、世話になった軍の獣医の誘いもあって民間軍事会社に入る。

 おそらくは中央アジアあたりにあるっぽいビルギスタンという国で起こっている紛争に参加している民間軍事会社のキャンプへと行った大上は、そこでは作られていた地雷探査用の四足歩行ロボットと出会う。犬よりははるかに大きなサイズではあったものの、荒れ地も塔はする性能を持ったそのロボットを大上は相棒のルークを教育していく。最初はぎこちなかったロボットことBuddyだったけれど、出かけたりピンチに遭遇する中でだんだんと変わっていく。それはデータを蓄積して学んだのか、それとも心のようなものが芽生えたのか。後者はあり得ないとしてもロボット犬の変化に何か犬と人とが通じ合えるような可能性も感じさせらえる。

 敵に囲まれ地雷原を踏破せざるを得ない状況においこまれ、ルークとBuddyはゲリラにいる女性狙撃兵による攻撃と、彼女が連れた軍用犬の監視の中をジリジリと進んでいく。とてつもなくスリリングな展開。なおかつそこで見せるBuddyの健気な振る舞いに、ロボットにも心めいたものが生まれるに違いないといった気分が浮かぶ。たとえそうでなくても。戦場に変化は見られず戦局も大きく動いてないだけにまだまだ続きもありそう。成長したBuddyの活躍なんてものが見られるかもしれない。期待大。登場キャラクターでは民間軍事会社に所属して射撃しつつバイクも駆るナオミが最高。すらりとして赤いメガネぇで戦闘力も機動力も高い上に石ノ森系特撮話が通じるらしい。ヒロインじゃなくヒーローになりたいんだとか。それだけの活躍はしてる。実写化したら誰が演じたら良いかなあ。

 夕刊もない全国紙の朝刊が22ページというこの現実をいったいどう受け止めたら良いのかを考えた時、将来といったものへのもやもやとした気分が漂って目の前に霞のようなものを招じさせる。見通せば見通せる先ではあっても決して平坦ではなく平穏でもない。むしろ荒地であり荒海であって足を踏み入れ場たちどころに茨に足をとられ、大波に足をさらわれて蹲るなり沈むなりして生存への希望を大きく減じる。かといってページ数を増やそうにもそこを埋めるだけの広告が来ず、記事を入れるだけの手もなく、そして何より2ページであっても増やせばかかる紙代インク代を考えた時にこれで行くしかない。ないのであるけれどもそれで他紙より幾ばくか料金が安いといっても、分量で3分の2で価格は4分の3弱ではやはり買う側にとっては割に合わない。畢竟、敬遠されるだけだろう。減じる体力が競争力を減じさせてそれが体力をなおいっそう減じさせる負の螺旋から逃れる術などあるのか否か。問われても答えられないところに目の前の霞ななおいっそう濃さを増す。嗚呼無情。


【12月16日】  やっぱりアレクシス・ケリヴの方が神なのか、それとも新条アカネの心に宿った世界にいろいろと働きかけているだけで悪魔に近い役回りなのか。アカネが作った怪獣でなければ暴れさせられないといった制約は守っているようで、そこを思うと万能の神ではなさそうだけれど一方のアカネもグリッドマン同盟を完全に把握し排除することはできていない。実はグリッドマンが宿っていると判明したっぽい響裕太や外側から来たんだろう新世紀中学生の面々は別にして、宝多六花や内海将は自分が作った世界の住人だからどうにだって出来るのに、できないあたりにやっぱり引っかかりを覚え続ける「SSSS.GRIDMAN」。とうは言っても残る話数も迫るなか、クライマックスに向けて話が動くかというと街から出る気配はない。

 そこでアレクシス・ケリヴが勝手にアカネのコレクションを実体化させると、アンチがグリッドナイトとなって対峙し街の破壊を食い止める。そこに目覚めた裕太が自分こそがグリッドマンだと気付き、新世紀中学生によってグラフィックボードも新しくされたパソコンにまとめて4人が入って巨大なサイズで合体までしてグリッドナイトが多勢に無勢で苦戦していた怪獣たちを食い止める。次を求めるアレクシス・ケリヴにもう嫌だと言ったアカネをアレクシス・ケリヴが怪獣にしてしまったらしい次週、いったいどんな怪獣が現れるのか。期待はやっぱり単純に巨大化しただけのアカネかなあ、下から見上げるといろいろ見えるし、胸とか揺れるとソニックウェーブが起こるとか、そんな感じ。グリッドマンだって手出しできない最強の怪獣娘・アカネが見られたら歴史に残る傑作となりそうだけれど、果たして。

 怪獣娘といえば六本木にあるKAIJUMUSUME6ってスペースにブラック司令が出現しているようでちょっと見て見たい気が。上映厨の映画「怪獣娘(黒)」にも登場しては巨大な胸を由良しつつ「レッツ、侵略だ!」とやっては作戦に赴き失敗をして引き返し、食べて寝て予言をしてまた出向くという律儀でポンコツだけれど部下思いのところを見せてくれている。でも実体は「ウルトラマンレオ」に登場しては舞台を全滅させるくらいの悪さを見せた悪の頭領。多くの子供にトラウマを残したそのブラック司令がアニメでは擬人化され、KAIJUMUSUME6ではORESAMAのライブでDJなんかをやってくれていたモニ子さんが扮している。アニメは見たから次ぎはそっちがどんな出で立ちなのか、やっぱり胸も大きく「レッツ侵略だ」と言ってくれるのか、確かめに行きたいけれど六本木は年末に立ち寄れるところではないからなあ。年明けもまだ続いているようなら勇気を出してランチタイムに行ってみるか、ランチタイムにもいてくれるのかな。

 「ゴブリンスレイヤー」の放送もあってゴブリンスレイヤーに過去におこった諸々がフラッシュバックのように挿入されつつ、これまでの戦いも回想されたりといった感じて巧く作られた総集編といったところか。とりあえずゴブリンスレイヤーには新しい依頼が舞い込んで、そこに女神官が絡んで会話にならない会話をしているあたりに付き合いはそれないになっても、まだまだゴブリンスレイヤーの口調と意図を理解してない感じが漂う。相談して欲しいといって今しているつもりだがって、それは相談なのかは脇においても一応は気遣いを見せるようになっただけでも進歩だよなあ。とはいえやっぱりゴブリンにしか興味を示さないところはやっぱり心が壊れているのかも。それで助かる人も結構居るから良い壊れかたなんだろうけれど、冒険者としての功名心をまるで捨てているのは傍目には不気味に見えて当然か。何のために戦っているのか。過去をしれば分かるその問いだけど、知ってもない執着しすぎに見えるし。ひとつことを貫く大切さと大変さを体現するキャラクター、ってことなのかも。

 逆の意味で壊れているのかもしれないベル・クラネル。大森藤ノさんによる「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」の最新第14巻が出てダンジョンの深いところまで引きずり込まれたベル・クラネルとリュー・リオンが周囲に仲間もおらず体も疲弊している中、とてつもないモンスターに襲撃されながらも決して誰かが誰かを見捨てることなく生き延びる。途中、リューは過去に自分が所属していたファミリアが悪辣なギルド謀略に捕らえられ、ダンジョンの異常を糺す存在として発生するジャガーノートに蹂躙されてリュー以外が全滅したという過去を思い出す。そこでは仲間たちが犠牲になった上で自分を生き延びさせてくれたという負い目もあって、ベルだけ助けて自分は犠牲になろうとする。

 それをベルが許さない。周囲がモンスターに囲まれた中でベルだけをどうにか逃がして覚悟を決めたリューのところに戻って来るベル。はっきり言って阿呆だけれど、困難でもあきらめず誰かを犠牲にすることなく自らが犠牲になることもなしに全員を救ってしまう。もはや英雄としか言い様がないその態度は、最善を超えたところを目指していてやっぱり生きることが大事な冒険者としての枠を超えてしまっている。それでよくもまあ生き延びられるものだと誰もが思うけれど、そこにきっと何か裏があってベルの異常な成長の早さを支えているのかも。そうした裏が明らかにされた時にいったいどんなことが起こる恩か。もはや主神ヘスティアの庇護すら超えてベル自身が世界を変える存在になるのか。ならなくてもヘスティアにリリにリューも加わって他にもアイシャが狙い誰よりも怖いフレイヤが狙っている。むしろその貞節がどこまで守られるのか、最初をアイズ・ヴァレンシュタインに捧げられるのかって方に注目も集まる。守れ童貞。それこそが力の厳選なのだから。

 内覧会もオープニングも別の取材が重なっていていけなかった横浜ワールドポーターズにオープンした「ハムリーズ横浜ワールドポーターズ店」を見物に横浜へ。英国で長い歴史を持った玩具屋さんで、玩具を遊べるようになっていて出迎えてくれるパフォーマーやデモンストレーターもいるってことは聞いていたけれど、着いてみて広い店内にぎっしりと並べられた玩具を子供たちが楽しそうに見て回っていて、棚に張りついて触っていたり試せるところで試していたりする姿に玩具屋って本来はこういうものだったなあって昔を思い出す。街に1軒はあった玩具屋では手品のグッズを試してみたし、プラモデルのふたをあけて中をのぞいてみたりもした。デパートの玩具売り場も玩具に触って楽しんでから買っていたのが量さえ売れればな感じになって、売れ筋の商品しか置かなくなった。

 ハムリーズはぬいぐるみもブロックのようなものも豊富にあって、いろいろと見比べて自分が欲しいものを選ぶことができる。キャラクターの玩具ばかりといった雰囲気がなく、遊んで楽しいものが置いてあるって感じも玩具らしい玩具を売る玩具屋さんらしい玩具屋。それがハムリーズってことになるのかも。パレードとかも回ってきて子供たちがハーメルンよろしくついて歩いていて楽しそう。フロアではジャグリングとかをするパフォーマーもいたりして、見ているだけで時間が経ってしまった。そうした時間を過ごしつつ、買い物もできて子供が喜び親も楽しい空間。リアルな場でのリアルな出会いによって消費も促されるんじゃないのかなあ。演劇とかライブとかが人気になっているのもやっぱりリアルな出会いがあるからで、そうした消費の形態をこれからは探っていくことが大事なのかも。でも情報を売るメディア会社は媒体としての介在が本筋だけに、リアルに情報を売るなん商売はちょっと考えられない。講演か、それとも該当での読み売りか。考えたい。


【12月15日】 公開日に舞台挨拶のライブビューイング付きで見て以来、見に行けてなかった「続・終物語」をもう1回くらいは見ておきたいと池袋のHUMAXに出向いて鑑賞。地下にスクリーンがあったんだ。最前列の真ん中あたりに陣取って、お風呂から出てきた阿良々木火憐ちゃんのちょっぴり小さくなってしまったけれどもしかっり少女の裸体を観察し、一方ですっかり大人のボリュームを持った臥煙遠江を浴びるようにして観察して十分な元を取る。プラスして阿良々木月日ちゃんおこれもそれなりに少女となっている姿態と、あとは忍野扇を横から見たシルエットでの膨らみとかも確認。次に見るのはこれがバラされてテレビシリーズになった時で、当然にスクリーンサイズにはならないから大きい画面で浴びる感じを味わえるのは劇場しかない。ならばあと1度くらいは見ておくかどうするか。大きなテレビが欲しいけれど家では無理だからなあ。考えよう、残りの上映日数を気にしつつ。

 秋葉原へと回ってヘッドフォンとかイヤフォンの祭典こと「ポタフェス」を見物。アルティメットイヤーズのイヤホンのプラグとコードの境目がすれて剥き出しになってノイズが混じるようになっていたので、買い換えたいと思ってネットで評判になっていたfinalというブランドのE−3000というイヤホンを4000円で買う。普段は5000円はするそうだけれどそれでも1万円はしたアルティメットイヤーズに比べれば格安で、それでいてハイレゾ対応というマークが出ているところにきっと音の良さってのが現れているんだと想像はしたけれど、実際にiPadとかPCに指して音楽を聞いたらこれがなかなかに凄かった。

 これも別に使っていてプラグが歪んで音がうまくとれなくなっていたイヤフォンが低音を重視しているところもあって凄く迫力を感じていたんだけれど、それと比べて最初はちょっとフラットかなあと思ったら、聴いているうちにボーカルの粒立ちの良さに気付いて言葉がしっかりと聞き取れる凄さを感じてそして、周囲で鳴り響く音がそれでいてしっかりと聞こえてくるところに音の解像度の高さって奴を感じる。イヤフォンだけれど目をつぶれば音が鳴っている空間が見えるようなところもある。低音は低音として響き高音は高音として全体を引っ張る。これはなるほど高い評価を受ける訳だ。エイジングを重ねればなおいっしょういい音が鳴るそうなんでしばらくこれで聞き込もう。アニソンを。やっぱり? やっぱり。

 見どころはチライの丸い尻であり丸い乳。以上。と言って「ドラゴンボール超ブロリー」の感想を締めくくっても良いのだけれど、それだとあまりに譚的すぎるからもうちょっと足すなら仮にモンティ・オウムが全編でもアクションだけでも監督をしていたなら、もうちょっと見ていて驚きのアクションが見られたのではないかと思わないでもなかった。

 孫悟空とベジータとブロリーに途中フリーザも混じって繰り広げられる凍った大陸での戦闘では、ぶつかりあって差が出たらサイヤ人化するなり秘められた力が発動するなりして相手を交互に上回っていくといった繰り返し。相手の手を読み隙をついて攻撃をしてそれをかわして反撃をしてもやっぱり交わされるといった心理戦など皆無だし、技そのものにも一切の工夫はなくただ力と力で押し合え宇だけのアクションを、演出する方も描く方も演技する方もただただ大変だっただろうとねぎらいたい。

 プロレスだったてもうちょっと強弱があってメリハリがあってドラマがあってカタルシスがある。けれども「ドラゴンボール超ブロリー」のアクションシーンには力が力を上回ってそれがまた力に上回れるといった展開しかない。なるほどぶつかりあった挙げ句に砕ける山脈も割れる大陸も迫力だけれど、天変地異のレベルにまで達したそうした場所でいったブルマはどうして無事でいられたのかとか、思わないでもない一方で、指先から出したエネルギーひとつでベジータの星を砕いたフリーザが参戦をしてなお星のひとつも砕けずブロリーですら倒せない状況に激しい矛盾を感じる。

 それを言うなら星だって砕けるフリーザがベジータや悟空をライバル視していることすらおかしいのだけれど、そうしたところも含めて連続性よりはその場でのバトルに重きをおいたのだと見ることで心から迷いを追い出すことにする。それでもなおただ力と力がぶつかり合うだけの映像を、作って良しとする気分にはなれない。それが「ドラゴンボール」なんだ、すさまじい力の前には小技なんて無意味だからあとはただどちらが力を持っているかで決まるんだと言われればそれまでだけれど、だったら僕にはそんな「ドラゴンボール』のバトルは性に合わない。モンティ・オウムが工夫をこらしたバトルを散りばめ、今もそのエッセンスが継承されている「RWBY」のバトルを楽しむと言っておく。

 そんな「ドラゴンボール超ブロリー」だけに殺伐とした中にしっかりとみどころとしてチライという女性のキャラクターが配置され、まずはその胸で衆目をひきつけ丸いお尻を惜しげも無くスクリーンいっぱいにさらして気持を誘ってくれたことは有り難かった。というか出る度にそのお尻が強調されたレイアウトやらポージングになっているところに作り手側の、このガチな殴り合いと叫び合いだけの映画ではお客さんも困ってしまうといった判断があったようにも類推できる。さらに言うならそんなチライがフリーザ軍に属している一種の悪でありながらも、ブロリーという辺境で育て垂れ親の良いなりにされているキャラクターに同情し、助けようと動いてくれたことも殺伐とした展開に救いとなった。

 ブロリーの父親があっさりフリーザに殺されてしまう理不尽を、どうして悟空もベジータも咎めないのか、というかそもそも悟空にとってもベジータにとっても父母の敵じゃないかフリーザは。その悪逆非道を拳を交えて強さを確かめ合ったら気にしないなんてシチュエーションを見て観客がどう思うかといったところに、どうにも釈然としない気分が漂う。強ければそれで良い,戦えればそれで満足だなんてポリシーを子供たちにもって欲しくなかったら、あまり好んで見せないような気もしないでもない。そんな映画の中で優しさを見せてブロリーを救うチライの存在は、胸と丸い尻も含めてとても輝いていた。とてつもなく輝いていた。

 予告編でむくつけき筋肉男どもに混じってブルマともどもチラッと登場した女性キャラクターで、ショートヘアでもって丸い胸を見せつけつつ、ちょっぴり困ったような表情も見せてくれていた緑色の肌のキャラクターはいった誰なんだと気になったチライを、スクリーンの上で確認したくて見たようなところもあった「ドラゴンボール超ブロリー」は、そんな勘がまさしく当たった映画だったという訳で、これからまた見る機会があるとしてもやっぱりチライの丸い尻とか胸とかを最前列でガン見しながら今度は展開こそ単調ながらも激しくそしてどこまでも迫力たっぷり描かれたバトルシーンの作画の凄さを改めて味わうことにしたい。

 地域エゴだなんて生やさしいものではなく、明確に差別意識のカタマリだってことが見えてきた南青山における児童相談施設の建設を巡った地元からの反発の声。何か説明会があったみたいでそこに出ていた住人とやらが言うには「入所した子供が一歩外に出ると、そこには幸せな家族、着飾った人、おしゃれなカフェ。その場面と自分を見たときのギャップ。そんな状況が心配。子供のことを考えてほしい」とのこと。それってつまりは児童相談施設に入っていたり通っていたりするような人間は、おしゃれで幸せそうな場所に行っちゃいけないってことか、行くと心がザワついて悔しさにまみれるから近寄るなってことか。何という傲慢。何という差別意識。でも言ってる側はそれが親切だと思っているからなおいっそうタチが悪い。報じられることで批判され改めてくれれば良いけれど、そうはならずに幸せを壊すなと言い続けるんだろうなあ。そんな国になってしまっているのだから。やれやれ。


【12月14日】 「忍者文化の海外発信を目指して、活動する知事や国会議員らが忍者姿で総理大臣官邸を訪れましたが、本格的な忍者姿だったため忍んでいて気づかれずそなまま帰ってきました。総理大臣は完璧な忍びぶりに諜報や暗殺などの国際謀略で忍者を活用していく考えを示しました」。ってんなら分かるけど、例えばネイティブアメリカンのようにアイデンティティを保ちつつその存在を永劫に語り継がなくてはならない存在ではなく、もちろんアイヌのような民俗学的な紹介の必要すらない、単なる観光の具でしかない現代の忍者を文化として海外に発信したいとか、政治家も地方自治体もそして政府も、取り上げる順番が違っているだろうと思ったりもするこの一件。

 それよりは沖縄という地域のアイデンティティを破壊し尽くして海を土砂で埋めたりするような愚策を改めて、沖縄が沖縄として生きていけるような施策を整え経済も回るようにするのが先だけれど、自分たちにとって扱いやすい政治がそこに絡まないと動こうとしないのが今の政府って奴だから、媚びてくれる忍者にはいい顔をして必死になった沖縄県知事は袖にする。そんな無様を世界が見ていったい何を思うのか。そういった他者の視点を入れて恥じを知るという日本人としての美徳すら、もはや蹴飛ばしてやりたい放題になっているところにたががの外れっぷりも伺える。偲ばない派手な衣装の忍者を世界に広めて笑われていろ、って言えれば良いけど笑われるのは僕たちでもあるんだよなあ。参ったなあ。

 日本SF大賞の候補作が決定したそうで、ってそこにこっそりとなっていた日本SF作家クラブの会員として投票に関わってはいるんだけれど、世間的にはまったく知られておらず本業的にもまるで知られていなかったりするのでいったいどれだけの影響があったかは不明。それでも「けものフレンズ」的に気にはなっていた草野原々あんの「最初にして最後のアイドル」が入り、あとこれってどこがSFなんだろうと考えさせられるけれどもスッと切れた裂け目から深淵がのぞいたりする感じもある高山羽根子さん「オブジェクタム」も入っていて、業界としては若手と呼ばれる人たちの台頭にぐっと期待がかかる。「半分世界」の石川宗生さんもそうか。

 そこに絡む倉数茂さんの「名もなき王国」は果たしてSFとしてどういった評価が下るのか、「半分世界」と同様に世界文学的雰囲気を持ったフィクションでもあるだけに受賞したあとの広がりが気になる。そこにのっかる円城塔さんの「文字渦」はもはや文学といった枠組みすら超えたところに屹立するある種の実験。選考する人たちの常識が通じない相手をどう御するかが気に掛かる。でも期待はやっぱり山尾悠子さん「飛ぶ孔雀」か。過去よりどれだけの評判をSFの中で得てきたかを考えた時、今というのは遅すぎる感じすらあるけれども候補となることを潔しとしていたかどうかもあって、今回のノミネートに至ったのかもしれない。誰が受賞しても話題になりそうな今回に、ちょっとでも絡めたことは行幸か。でもやっぱりライトノベルから候補を出すことが僕の使命。「錆喰いビスコ」でも「86−エイティシックス−」でも入ってこないかなあ。僕がもっと喧伝すべきかなあ。

 まったくもってやれやれというか、とある自称するところの全国紙がNTTの社長にインタビューをして昨今いろいろと世間を騒がせているファーウェイの問題について、たとえば個人データを抜いているというのだったら子会社のNTTドコモが販売しているファーウェイの端末の取扱を止めるかもしれないといった話を聞き出している。まずもって意味不明というか、NTTドコモが取り扱っているファーウェイの端末に問題があるかないかなんて、世界のNTTドコモの技術があれば子細にわたって調べることも可能だろう。

 それがハードウェア的なものなのか、ソフトウェアに何か秘密があるのかってことも、NTTドコモの技術で調べられないとは思えないし、できなければそれはファーウェイに限らずすべての端末について出来ないってことで、Googleだってサムソンだってその端末が何かに利用されていないかどうかを確認する術もなくなる。それでどうして中国だけを問題視するのか。蓋然性として何か思うところがあったとしても、事実として問題を指摘できなければそれは憶測からの風説の流布として、ファーウェイ側から損害を求められても仕方が無い。それくらいに不用意な発言ってことになる。

 それを敢えて聞いてなおかつ引っ張り出して記事にする自称するとこの全国紙もまたポン酢に近いスタンスで、根拠もないのに噂になっているからといって聞くそのスタンスそのものが意図的であるし為にするものであって公正なジャーナリズムからはちょっと乖離している。そしてきっとそう答えるだろう言葉を引っ張ったか、それとも自説にポジティブに解釈したかでNTTがファーウェイを排除に動くかのような流れを作り出してしまった。

 これもまた同様に風説の流布の上乗せとしてファーウェイから訴えられる可能性もある。そこでNTTがいやいやそんなことは言ってないぞと逃げたら、フェイクだと言われて突っ込まれる可能性だってある中でいったい、どれだけの根拠でもってファーウェイ叩きを行っているのか。そして会社として一切ファーウェイの端末を使ってないと言えるのか。そんなあたりも気にさせる動き。でもこうした無根拠に中国を叩いて良しとする空気が蔓延している節もあるからなあ。同じ会社の記者がやっぱり根拠に乏しい中で書いた「目を覚ませ僕らの日本が中国に侵略されているぞ!」的な本を、その版元の編集者が紹介するというPR以外の何物でも無い文章が記事として掲載されてしまう。これもまた理性のたがが外れ、ジャーナリズムの公正性が崩壊している表れ。未来は明るくないなあ。

 笹本祐一さんの「ミニスカ宇宙海賊」が朝日ノベルズから版元を変えてKADOKAWAのノベルゼロから再刊される予定。ネットなんかに上がっていた表紙絵を見ると、ヒロインの加藤茉莉香が同じ松本則之さんのイラストながらもノベルズではシュッとしていたものが、文庫では若干等身が下がってロリっぽくなっているというか、可愛らしくなっているというか。それは判型が縦長からやや縮んだから、というよりはやっぱり世間がライトノベル的なレーベルに求めるヒロイン像に合わせて見た目を変えたってことになるのかな。

 過去にも賀東招二さんがきぬたさとしという別別名義で書いた「ドラグネット・ミラージュ」というシリーズが、ゼータ文庫からガガガ文庫へと移って「コップクラフト」とタイトルが変わった時、絵師も篠房六郎さんから村田蓮爾さんへと変わったけれどもそれでヒロインの印象もグラマラスなお姉さま的な風貌から姿態も含めてロリっ娘的な風貌へと大きく変えられてしまったから。説明としてやっぱりそっちの方が受けが良いということもあったらしいけれど、異世界の騎士であるといった設定からするならやっぱり篠房バージョンの方が原著には近かったような気がするなあ。ガガガ文庫からの刊行でそうした設定面でもやや異動があったみたいだけれど、「ミニスカ宇宙海賊」の場合はビジュアルに合わせて茉莉香の印象も変わるのかな、口調が舌っ足らずになるとか。それは流石にないか。とりあえず刊行を楽しみにしよう。よりライトノベルになる訳だし。


【12月13日】 Febriの2019年1月号、VOL.52が「若おかみは小学生!」を特集していて、中で木瀬さん一家に供された医食同源メニューが再現されてていったい幾らかかるんだろうと気になったけれど、おもてなしはプライスレスだから聞かぬが花、普通に泊まって食べた料金と同じなんだとここは理解しておこ−。普通は露天風呂プリンを再現しそうなものだけれど、すでにコラボメニューも出回っている状況でそれをやっても二番煎じになってしまうから避けたのは正解。敢えていうなら池月よりこちゃん家のワンランク上のあんみつセットが見て見たかったなあ、桜茶寮で再現してくれないかなあ。

 特集では原作の令状ヒロ子さんがメールによるインタビューに答えていて、昔見ていたアニメーションとして「デビルマン」を挙げていた。つまりはあの「デッビーーール!」と叫んで返信する緑色のデビルマンってことだけれど、子供には楽しいアニメーションだったから原作と違っていても気にしなーい、って意識が今もきっとあるんだろー。それは僕もだいたい同じ。あと令状さんが挙げていたのが「ルパン三世」でこれはどのルパンになるんだろう、ファーストなのか新なのか「カリオストロの城」なのか「VS複製人間」なのか。いろいろ会って種類によって趣味のタイプも分かれるけれど、見ていて楽しい作品だったら気にしない人なのかもしれない。最近はそれでも「DEVILMAN crybaby」を見て原作へのリスペクトが感じられたと言っているから間口は広そう。「転生したらスライムだった件」も挙げているし。楽しい。それが大事。

 Febriには藤津亮太さんによる「声優語」という声優さんへのとても濃いインタビューが連載されているのだけれど、1巻が出て2巻目が出ないらしという状況になっても続いたってことは、雑誌として掲載する価値を認識はしていたってことなんだろー。でもそれが単行本にまとまった時にあまり需要がないから出さないっていうのが、正直言って状況として理解できない。そこに書かれていることはとても有意義で、声優を目指すひとのみならず声優を仕事で起用する人、そして何かをクリエイトする人にとって金言至言に溢れている。だから単行本化して声優学校で教科書として配り演劇学校でテキストとして参照させるくらいになって不思議はないのに、一迅社ではもう出さないというんだからこれはやっぱり何かが間違っている。出版不況って奴なのかなあ。勿体ない。

 そんな声優語で今回登場したは三ツ矢雄二さん。言わずと知れた大ベテランで「六神合体ゴッドマーズ」のマーグであり「タッチ」の上杉達也であり「さすがの猿飛」の肉丸くんなんだけれど、元々は蜷川幸雄さんの舞台にも立っていたという演劇人。それがだんだんと声優の仕事を増やしていって今は声優さんを使う音響監督の仕事もされている。そんなベテランでも最初は勝手が分からず、野沢雅子さんに動き方なんかを教えてもらったらしい。それを次ぎに田中真弓さんに伝えていったといった伝統が、あってやぱり声優さんは成長してくるんだろう。現場にベテランがいる幸運、それが今の現場でどれだけあるかってところもまたひとつ、問題になっているんだろうけれど。

 面白かったのは、三ツ矢雄二さんが音響監督を引き受けるのは、現場に声優さんだけではない俳優さんから声に挑戦する人がいる時で、自身も俳優をやっていたことがあってそうした人が声優の現場で困らないようにしつつ、同じ声優さんを指導するのもおこがましいといった謙虚さで現場に臨んでいるらしい。そこはだから信念なんだろうなあ。あとこれは良い悪いではないといった言い方をしつつ、現場には今、「俳優」だと思える人とも「声優」だと思える人が現場に多いといったことを話していた。どっちがどっちとは言及してなくても、持ち出したってことはやっぱり含むところがあるんだろう。「俳優」としての意識があるかないかといった部分について。

 それは続けて語られている、現場で出演者の声が似ているといった話とも繋がっている。声優学校でそう教わったことをまんまやっているんだろうと理解は見せつつ、「平均値のところで割り切ってしまっている感じ」と言っている。そこを突破して得られる個性であり、長いキャリアを考えて欲しいしもので、三ツ矢雄二さんもプロデューサーなりディレクターが下手でもいいものを持っている人を起用して現場で育てていく必要性を話していた。育てる人によって好みが違うから、いろいろなタイプの声優さんが生まれてくるってことも。そうやって育てられた多様性がアニメを寛にすると思うんだけれど、1クールのアニメで育てている余裕なんてないとなるとそこは出来上がって平均点を求める連続になってしまうんだろう。どうしたものかなあ。どうしようもないのかなあ。

 いよいよか。「君の名は。」が日本の映画興行史で歴代2位となって現役ではトップのアニメーション監督になった新海誠さんの新作「天気の子」が2019年の7月19日に公開されると発表。やっぱりコミックス・ウェーブ・フィルムを拠点にしてスタジオジブリで作画をやっていた田村篤さんを作画監督に迎え、「言の葉の庭」であのリアルな都会と新宿御苑の雰囲気を描き出した滝口比呂志さんが美術監督を務めている映画は、これまでに負けず劣らず新海誠監督が思い描いた自然の空気感が出た映画になりそう。なにしろ天気を操作できるという女の子が登場するアニメーション映画。新海空を新海雲が流れ新海光が輝く中を少女と少年がいちゃいちゃするような映画が出来上がってくるだろー。それを見て僕たちはこうなりたいものだと嘆息しつつのめりこむのだ。

 そんな新海誠監督に先立って湯浅政明監督の「きみと、波に乗れたら」が6月21日に公開決定。こちらは東京国際映画祭でタイトルとか内容が発表になっていて、男性が海でサーファーの女性に出会うといった内容だった。自然が舞台のボーイ・ミーツ・ガール話って意味では「天気の子」とも重なりそうだけれど、コメディ要素も入るそうだし湯浅監督なんで絵柄もずいぶんと違うから、新海誠監督作品とは違ったそうに刺さって盛り上がることになるのかな。公開から1カ月で話題をさらわれる可能性もあるし、事前のアオリなんかもあるだろうから「天気の子」の話題がガンガンと出まくるだろう中でよくぞ1カ月前の公開選んだもの。それもまた自信って奴かなあ。賞レースがどっちに転ぶかが迷うところだけれど、そこに「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が加わったらいった何が起こるのか。2019年のアニメーション映画が今から楽しみで仕方が無い。

 アニメーションの出来がとても良いのでこれはやっぱり読んでおくかと実は手を出していなかった「転生したらスライムだった件」のアニメーションではこれから描かれることになる第3巻を読んでみる、っていうかアニメで第10話まで来ても2巻が終わってないとかどういう濃密さで作っているんだと驚いたというか。中身も確かに濃密で転生をしてスライムになっていろいろとあって魔物の王になったりして人間形にもなれるようになるといった展開が、ぎゅっとつまっているから解きほぐしてアニメにするのも大変だっただろう。あとはどこか淡々として積み上げられている感じで、なろうで日々の進捗を楽しんでいく読み方がマッチしている文体というか構成で、これをアニメにすると盛り上がりに欠けてしまう。そこを筆安一幸さんがメリハリをつけて構成したといったところか。シズさんとの離別にまるまる1回分を使うとか、良い判断だった気が。それだけにこれから描かれる驚天動地をアニメにするならどう咀嚼し取捨選択していくかに興味が向かう。さてはて。


【12月12日】 当たり前を当り前とは認めないで言い訳をして言い抜ける総理大臣を上に置いたこの国だからなのだろうか、当たり前のことを当たり前と認めないような振る舞いがそこかしこに溢れかえって、それが当たり前となってジグジグと日本に暮らす人たちの心を蝕んでいっているような気がしてならない。例えばどこかの大学で、入学試験に当たって女子は男子よりも早く成長するからコミュニケーション能力も高いといって、男子の将来の成長を見越してゲタを履かせることが平然と行われていたらしい。暴露されて指弾されているだけまだマシだけれど、そうした発想が出ること事態がとにかく異常過ぎる。

 12歳くらいだったら体格でも女子の方が上だったりする場合はあるけれど、18歳にもなればコミュニケーション能力に男女の差なんてあるはずもない。あるとしたらそれは女子はおしとやかないとかいった社会的な環境が招いた心理的な形成であってそれを生来のものとして採用してコミュニケーション能力の過多に応用するのが間違っている。女子の方がコミュニケーション能力が高いと思うのは、あるいは試験にあたるおっさん連中が女子にコミュニケーションを感じているだけなのかもしれないのに、そうした分析をした形跡もないあたりに真っ当な思考からかけ離れた発想がある。実際は男子をとりたい意図からの女子を排除する言い訳なんだろうけれど、そうした選別が現代において行われてしまうこと事態に、何か社会のたがが外れた状況が見て取れる。

 河野太郎外務大臣が記者会見でロシアとの関係がどうなるかを聞かれ、まったく答えず考えるそぶりすら見せずに「次の質問」と4度繰り返し振ったことも、そういう場面で何をどうすれば良いかという当たり前を実行できない知性の衰退ぶりが感じられてならない。外交にあたて外務大臣の発言が何か影響を与えるかもしれないから、言わずにおくという意見はなるほど間違ってはいないけれど、そうした条件をクリアしつつその場をしっかりと収めてのける言葉を探そうと思えば探せるだろう。たとえ木で鼻を括ったような菅官房長官の「それには当たらない」でも、まだ返事をしようといった意識はある。まあ誉められたものではないけれど、そうした態度にも及ばない外務大臣の返答を、東京新聞のk記者に対する菅官房長官の暴言はスルーする新聞社なりでも、認められなかったってことだろー。

 とはいえ、自分がそうと思えばそうなんだという思考の硬直が見える現代、界隈の賛辞に励まされて自分は正しいと思い込んで変えずにいく可能性も多々。そんな態度を任命権者の総理大臣が糺して排除するならまだ、将来に可能性は抱けるけれども少なくない人数の海外から技術を学びに来た労働者の人たちが日本でなくなっているという指摘を受けても、自分が知っているものではないからとお悔やみの一つも延べず、返答を拒絶しては薄笑いを浮かべていたという総理大臣では、大臣の不備を糺すなんてことはできないし、むしろ“お手本”となって暴言をリードしていくだけだろー。そんなことをすれば辞任は必至だったのも過去の話。当たり前が通用しなくなったこの国で、暴言はスルーされ暴政が繰り出されてそして国民は地に這うのだった。参ったなあ。本当に参ったなあ。

 ラレコさんの監督でサンリオのキャラクターを動かしたアニメーション「アグレッシブ烈子」のクリスマススペシャルがNetflixで12月20日から全世界同時配信されるというニュースを受けて、全世界で予告編が公開されたんだけれどその視聴回数を比べてみて、日本発のアニメーションであるにも関わらず海外での反応が圧倒的なことに気付く。アップから1晩明があけて確かめた予告編の視聴回数は、アメリカが4万視聴でブラジルが1万1000なのに対して日本はわずかに2300。これはドイツの2200と大して変わらない。というか遠くドイツですら2200もあるということが驚きだったりする。中身はまったく日本の会社で働くOLの、上司からの理不尽なパワハラや同僚からの圧力にストレスを覚え、カラオケで鬱憤を晴らすという実に日本的な会社あるある話なのに。

 それが日本よりも海外で大受けしているというのがずっと謎になっていて、それでも結果として海外で受けていることが今回の視聴回数で改めて示されてしまった。もはやNetflixだからといって日本とアメリカでユーザー数が10倍も違うなんてことはないだろう。ブラジルとだって5倍の差があるとは思えない。にも関わらず日本はアメリカの20分の1程度。どうしてなんだろう。やっぱり日本人にとって日本の会社あるあるは身に迫りすぎて耐えられないのだろうか。そもそもがNetflixXでアニメーションを見るという習慣がないんだろうか。そこがちょっと分からない。

 「転生したらスライムだった件」とか一気見したりして堪能したように、Netflix上でオタク層向けのアニメーションを見ている人は結構居そうだけれど、それはやっぱりオタク向けであって一般層が見て生じるボリュームとはケタが違う。なだからなかんかあムーブメントとして可視化されない。対してアメリカでは、あるいは海外ではオタクではない一般層が見て楽しいアニメってことで「アグレッシブ烈子」こと「Aggretsuko」を受容しているのかもしれない。

 とはいえ日本発の何かが海外で大受けしていることを“日本スゴイ”と持ち上げるメディアが、飛びついて不思議はないネタなのにそうした動きが欠片もないのは、やっぱり単純に存在を気付かれていないだけなのかもしれない。今時のメディアの情報収集能力の弱体ぶりったらないからなあ。受けているものしか受けないとでも考えているような。安心に乗っかるデフレスパイラルが蔓延して衰退する日本の旧来のメディアに対して新興メディアががっちりユーザーの心を掴んで伸びていく。そんな現象の一端なのかも。それでもやっぱり少なすぎる日本の「アグレッシブ烈子」ファン。どうしたら爆発するかなあ。月9での実写ドラマ化かなあ、ってそれはさすがに無理か。

 もう放送も配信もないんじゃないかと諦めていた「けものフレンズ」がニコニコ生放送にて全12話を一挙配信。近く出るブルーレイボックスの宣伝なんかも兼ねた配信って可能性もあるから、このシリーズにまとわりついたわだかまりが解けたってことは多分ないだろうし、解けていたらそもそもがあのビジュアルでの第2期なんてなかっただろうとも思わないでもないけれど、それでも1年以上、音沙汰がなかった放送なり配信が行われたって事実をここは前向きに受け止め、IPとしてしっかりと意識しているんだと思うことにする。日本テレビ版「ドラえもん」のように封印されるなんてことはないと信じたい。しかし見れば冒頭から涙涙。どこに落ち着くかが分かっていても、というか分かっているからこそ浮かぶ感動と感涙。それでも見てしまうってところに「けものフレンズ」が持つ作品としての力があるんだろう。美術も作画も完璧で音楽も素晴らしい。総合力として2010年代でもベストのアニメーションと、もはや言っても良いんじゃないかなあ。絶対に。絶対に。


【12月11日】 録画してある秋アニメを一気に見るシリーズとして「転生したらスライムだった件」をざっと見てそして最新話。なるほど現世からの転生にあたって様々なチート的能力が付与されつつもスライムという形となり、記憶も保持したままで生まれ変わった先がどこかの洞窟の中。そこで暴風竜ヴェルドラと出会い300年を寂しく過ごした暴風竜の友だちになりつつ魔素をため込みスキルを活かしてヴェルドラを結界ごと飲み込んでは外に出て、膨大な魔素とか治療薬とかをはき出しながら近隣をまずはゴブリンから平定し、ウルフも組み入れ集落を作ろうとして人出が足らずドワーフの街へと出向いて行って一悶着。でも無事に外に出てはだんだんと居場所を定めていくといった展開が、割としっかり段取りを踏んで描かれている感じ。

 名前を持ったゴブリンですらかなわないウルフをあっさり威圧し服従させ、そしてドワーフの街でも絡んできた人間をあっさりあしらうあたりに異世界転生・俺TUEEE物の片鱗も見えるけれどもそんな力に頼ることなく集落を気付き衣食住を整え近隣を着実に治めていくところにあまり他にはない堅実さが伺えて、見ていて唖然呆然とはならない。それでいて勝つところはしっかりと勝つカタルシスも得られるところに人気の理由があるのかな。シズの体を取り入れたことで人間形にも変身できるようになったけれども、そのまま真似ず忠誠にしておくのはシズへの配慮か童貞故の恥ずかしさか。まあその方が見ていて可愛いから良いんだけれど。

 魔王に虐げられた存在だったシズの心残りを解消するという目的を得つつ、現れたオーガー族を相手に最初は戦いつつやがて和解し、名前を与えたらこれが人間みたいに変化した、っていうのは人間至上な雰囲気もあってちょっと寂しいけれども一方で、シオンみたいに秘書っぽい姿になってくれるとこれはもう目に薬。そんなオーガー族を従えゴブタも入れつつオーク族との戦いをこなして以降、魔王の登場とかシズの教え子たちとの対峙とかもあるから先はまだまだ長そう。シーズン1としてとりあえずオークとの戦いまでを描くのか、2クールを一気に行くのか、知らないけれどもこれはなかなかに良くできたアニメーションかもしれない。マイクロマガジンのなろう系ノベルズでほとんど唯一のベストセラーがアニメになっても良質とは、運が良いのかプロデュースが冴えたのか。原作へのリスペクトもあるのかも。こういう幸せな座組がいつも続いてくれると良いんだけれど。ライトノベルのアニメ化って当りもあれば外れもあるから。それで原作が蔑ろにされてしまってはやっぱり勿体ないし。

 シーズン2までまだ3カ月以上はあってちょっぴり飢えも出ていたところに最高のプレゼント。Netflixで配信されている「アグレッシブ烈子」のクリスマススペシャルが作られては12月20日からNetflixで全世界に向けて配信されることになったみたい。すでに予告映像も流されていて烈子が可愛らしく登場するものの灰田はやけ酒めいているしトン部長は小宮係長をトナカイにしてサンタ姿で疾走と、めちゃくちゃな展開が予感されそう。ゴリ部長と鷲美は烈子とカラオケで仲良くやってはいても、そこはやっぱり1人になればいつものあれ、デスボイスによるデスメタルを叫んでくれるだろう。今回はアメリカのパンクロックバンドのボーカルがクリスマスソングを歌って参加。そこまでの作品になっていたんだなあとあらためて実感。本番が楽しみ。Netflixに入っていて良かったなあ。

 月刊ニュータイプの2019年1月号を読んで「破烈の人形」の様変わりぶりにじっと手を見たけれどもそれならバッシュのダッカス化の方がすでにとてつもなく様変わっていたので気を持ち直す。そんなニュータイプでは「平成とアニメ」という連載企画でフライングドッグの佐々木史朗さんが登場して、アニソンを配信しているサブスクリプションのアニュータについて話している。曰く「今は日本とアメリカ、中国に配信を始めているんですけど、日本でそういうことができるのはアニメしかありません。SpotifyやAppleと違って日本のプラットフォームが海外で配信事業をしようなんて思う人はいないわけです」。日本が誇るアニソンならプラットフォームを新たに立ててもちゃんと聞いてもらえるといった認識が感じられる。

 それは確かにそうではあるけれど、でもやっぱり浸透までには時間がかかる。そうなる間に例えばSpotifyでありApple MusicでありAmazon Prime Musicといったところでアニソンを配信すれば、それこそ世界規模でいるリスナーに届く可能性があったりするからもっとどんどんSpotifyなんかに出せばいいのにといった声を聞く。そうすべきなのにアニソンレーベルの内輪な事情でアニュータに寄せて外に出さないから、視聴者としては機会を損失しているし、それでクリエイターの方もむざむざ機会を失っているといった声もある。それももちろん一面としてあるだろう。一方で多々あるジャンルの中の片隅にアニソンを置いたところでどれだけ見てもらえるのか、それなら専用の配信プラットフォームの方がついでではなく積極的に利用してくれるだろうといった思いもあるのかおしれない。正解がどれとは言い切れないけど、個人的にはやっぱりSpotifyとかPrime Musicで聞けたら嬉しいなあ。まあ基本はCDなんだけれど。あれは一種のグッズだから。

 佐々木さんはアニソンの世界での受け方についても話をしていて、フライングドッグの親会社にあたるビクターでは20年から30年といったところをサザンオールスターズやSMAPに支えてもらっていた。でも欧米ではサザンよりSMAPより菅野よう子さんお方が知名度が高いし、坂本真綾さんやMay’nも海外で広く知られている。そうした人気がだったら国内でSMAPやサザンを追い抜くことはまずないだろうから、たとえSMAPやサザンが菅野よう子さんほど海外で売れなくても、下に見る必要なんてまったくなくむしろやっぱり支え続けてくれている存在を讃えつつ、一方で少子化もあって国内市場がこれからシュリンクしていくだろう中、海外でのビジネスを意識したときに菅野よう子さんでありアニソンといったものをもっと重視すべきといった味方は成り立つ。そのためのプラットフォームがアニュータなんだろうけれど、でもやっぱりもっと一気に広げる必要があるかなあ。番組配信も膨らんでいる今ならなおのことリアルタイムで発信しないと。やれているのかな。調べてみよう。

 もうそれは物書きとして守るべき矜持なんてものの不在を明確に表明しているようなもので、1刷りにあった多大なミスをたいしたミスとは思っておらず、それでいて増刷の差異に修正すれば良いだろうと嘯くのは自分が世に問うた作品に対する無責任を絵に描いたような態度であって、決して許されるものではないし自分が自分を許したとしても、そうした間違いをつかまされた読者は絶対に許してはならない。というか普通は許せるものじゃないだろう、あとで修正する程の間違いああるいわば欠陥品を掴まされた訳だから。そしてそれを交換もせずに報知するというのだから。消費者生活センターだったら回収から交換を命じそうな事態であり、普通の真っ当な出版社だったら即座に回収して交換なりを行うものを、間違いがあったことを恥もしないで修正してもらってありがとうと嘯く書き手も、そうした態度を追認する出版社もどこかやっぱり季が違っているということなのかもしれない。そんな人たちに群がる信者がいることも奇妙奇天烈。モラルが崩壊して目的のためにはフェイクでも追認する世の中が広がったってことかなあ。参ったなあ。


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