縮刷版2017年9月中旬号


【9月20日】 アニメーターが貧乏だからご馳走を描けないとかいった話しが回ってきていて思い出したのが、天才CMディレクターと呼ばれながらも37歳で自殺した杉山登志さんの遺書にあった「リッチでないのにリッチな世界など分かりません。ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません。夢がないのに夢を売ることなどは……とても……嘘をついてもばれるものです」という言葉。視聴者を憧れさせるリッチな生活、ハッピーな気分といったものを描こうにもそれを繰り出す自分たちの側にそうした感性がなければ視聴者は喜んでくれないといった言葉として捉えられている。

 トレンドの最先端を突っ走る格好いいCMディレクターをしてそんな言葉を残して去るとはいった何があったんだ。世間はいろいろと思ったことだろう。単純に虚構を演出するCMディレクター個人的な経験に不足が画面に出てしまうという限界を嘆いたものか、世間の雰囲気がリッチとかハッピーとかから遠ざかって将来に不安も漂っているのに、CMで夢なんか見せようとしたって騙されてくれないっていう社会全体への継承だったのか。うかがい知ることはできないけれども上っ面だけをすくうならばやっぱり経験なり知識なりが作り出すものには反映されるということで、貧乏暮らしが長くコンビニ弁当とカップ麺とおにぎりだけを食べているような人間に、セレブのディナーなんて描けるかといった疑問はやっぱりつきまとう。

 でも世間にはそうしたセレブによる食事のシーンをとらえた映像はドキュメンタリーもあるし晩餐会の報道もあるし映画だってあるから勉強は可能で、制作がそうした資料を集めて提示し演出なり絵コンテなりが設定を入れ美術が描くかアニメーターが描くかすれば済むだけの話。そこに細かい作法がついてくるか、描かれたものにパッションが宿るかというのはまた別な話で、それもまた学習で何とかなると思うので、リッチでなくてもリッチなディナーを分かろうとしていく研鑽を重ねていって欲しいと思うのだった。自分のためにも作品のためにも。そして制作スタッフもそうした努力を後押しすることが必要だと思うのだった。でないと本当に映像が痩せていってしまうから。

 そうした資料集めに努力に人一倍熱心な片渕須直監督でも、さすがにディナーを調べて描く余地はなさそうな街と人が登場している「BLACK LAGOON」は暴力協会でつまみすらなくラム酒をがぶがぶと飲んでいたレヴィとエダのところに駆け込んで来た眼鏡っ娘。エダが開いたドアに弾かれてゴロゴロと転がるところで珍しくパンツが見えたりしたけれど、ジェーンという名のその女をおいかけやって来たギャングと撃ち合いになって撃退し、残ったジェーンから何をやっているかを聞いて追い返してさあ取り込んでどったんばったんの捕物が始まるというところでとりあえずエンド。シェンホアが再び登場し、目つきは悪いけれどもそれなりに可愛いけれども本業はチェーンソーで人間をバラすソーヤーも登場してと増えるキャラクターが大暴れする来週がまずは楽しみ。ロットン・ザ・ウィザードも。

 そんなエピソードではまだどこか垢抜けないギークに見えるジェーンが世界を騙して中国人民軍の女性将校をひっかけるエピソードが今なお「月刊サンデーGX」で続いていて、追い詰められたところからようやくロックによる反撃が始まりそう。そこで巻き込んだのがエダだけけれど、風俗で働く少女の勘があばずれに見えて何か演じているっぽいと感じたエダのことを、ロックが他には言わない方が良いと窘めたところからするならロックもその正体を感づいているんだろう。それが明らかにされるのはTOKYO MXで放送中のテレビアニメーションの次回。驚きはしないけれども今のところどどこまで有効に機能しているか、見えないんで連載の中で真価が発揮されることを期待。感づいてしまっただろうロックがどうなるかも含めて。レヴィはそこまで近寄らないかな。近寄ったそぶりうら見せないか、野生の勘って奴で。

 ブラジルの歴史をひとりの少年の探求というストーリーを通して描き貧困だとか公害だとかいった問題を優しげな絵のなかにきっちりと描いて話題となったブラジルのアニメーション「父を探して」を作ったアレ・アブレウ監督のトークが、文化庁メディア芸術祭絡みでブラジル大使館であったんで見物に行く。次回作について話があって、狼と熊の少年たちがそれぞれ豊かな王国と流離う民の王国の諜報員で出会い友情を育むような「秘密の森の旅人」だか「魔法の森の旅人」だかいった作品になるらしい。動物がモチーフとなったキャラクターが二本足で歩いているところがちょっと「けものフレンズ」。

 そんなアレ・アブレウ監督は、創作の過程として「山の上で眺めていると雲のような小さなものが見え、ふと気がつくと頭上で嵐になっている。そんな混沌の中にクリエイターは長く留まることが務め。真っ先に出てくる答えはありふれている。嵐の中を回っている物体からロジックを探す」と話してた。つまり徹底的に考えろってことなんだろうなあ。「父を探して」だとアレ・アブレウ監督、断片が浮かんでそれをストーリーボードの中に当てはめながらロジックを見つけようとしていたとか。頭から尻尾までかっちりきめるよりピースを幾つも浮かべ練り上げ並べ入れ替えながら作るってことなのかなあ。

 あとこんな例えも。机の下にカバンを置いてアイデアの欠片を入れていってそこで紙片が混ざって新しい物語が生まれるといったことも話していた。カバンはインキュベーターと呼ぶらしい。キュゥべえか。カバンからビニール袋が出てきて物語が入っているという話しも。待っていてはアイデアは集まらないけれど右から左へと転がしていってもうまくはならない。良いと思ってもそこからねばって塾講して、最善を見つけ出すことによって断片は物語となって膨らんでいく。その過程こそが先の見えない地獄のような気分なんだろう。創作って大変だ。そんなアレ・アブレウ監督に持っていった「父を探して」のDVDのサインを頂く。少年が描かれていた。原画というかPC上で描いたものを一度出力したものに色とか着けた“原画”も売られてた。1枚は安いと思うけれども手元不如意で諦める。買っても部屋のどこかに埋もれてしまう可能性も高いし。「ズドーラストビーチェ」の原画、どこに行ったっけ。

 安室奈美恵さんが引退だとかで、そのまえに是非に鈴木蘭々さんとペアを組んでいた「シスターラビッツ」を復活させて欲しいものだけれどもそういう年齢でもないのか。でも40歳になんなんとしてしっかりと細さを保っているのは凄いところ。歌えばやっぱり凄いんだけれどそれでも引退してしまうのは、この先に今と同じだけの規模で今のようなアクトができるといった見通しが立たないからなのか。マドンナだってマライア・キャリーだってジャネット・ジャクソンだって今の安室さんより年上ながらもスタジアムを一杯にして歌とダンスで魅了するライブを繰り広げられる。でも日本だとそれに匹敵するアーティストの活躍があまりない。強いて挙げれば松任谷由実さんだけれどシンガーソングライターとして歌い少し魅せるといったところは全編を作り込んで魅せなくてはならない安室さんとはやっぱり違う。それだけのライブをやって来る客もだんだんと減っていくとなるとここらで区切りをつけるのが良いと考えたのかなあ。でもこれから何をやる? キット戻ってきてくれると信じよう。「シスターラビッツ」見たいなあ。スーパーモンキーズでも良いぞ。


【9月19日】 「映画 聲の形」の上映から戻って録画してあったミュージックステーションのフェスティバルに登場したどうぶつビスケッツ+かばん×PPPの登場シーンを見る。しっかりと全員が揃ってひな壇に座って高橋洋子さんと並んで受け答えをしつつ、本番となればマーゲイ役の山下まみさんにコツメカワウソ役の近藤玲奈さんも含めた全員が躍り歌って走り回って元気なところを見せてくれた。テーマになっている元気が出る楽曲として京大の学生さんが推薦していたのもうなずけるパフォーマンス。昔だったらイロモノ扱いもされかねないコスプレ声優ユニットが今は休日のお昼からテレビに出て歌う。良い時代になったなあ。それもこれも「けものフレンズ」だからか。後にAQUOSが続いてくれると良いんだけれど。

 好きか嫌いかと言われれば、レントン・ビームスなる少年の自分勝手すぎる振る舞いになかなか感情を添えづらいけれどもそれは少年という存在の悪徳と裏腹の特権でもあって、失敗して諭され導かれて成長していくプロセスだと思えば共感は出来ずとも納得はできる。だから作品としての「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」は全然ありだし毎回の如くに改編されていく設定が最終的にどこへと落ち着き何を見せてくれるのかを楽しみに、2、3と続く続編を楽しんで行くことは出来る。そうしたストーリー展開上での好悪ではなく、見た目を検証もしないで判断する振る舞いについてはまったくもって同意できない。いや知らなかったらそう思ったかもしれないけれど、パンフレットにはちゃんと意図してのものと書いてあるから、いろいろと工夫はされていると思って受け止めるのが筋だろう。

 でもバズれば勝ちなネットの世界ではそうした真っ当な反論などまったくもってどこ吹く風といったところ。「テレビ映像の使いまわしばかりで、新規で書かれた映像は数分のみ。しかも世界観設定が変更されているため、テレビシリーズの一部の重要キャラクターがいなかったことになっている」って謂われのない批判を浴びせて作品にファンが激怒しているとかいった記事を載せて煽り建てる。でも、同じ見えても実は違うことは、京田知己総監督がアニメ3誌合同試写会で説明したとおり。「絵が残っていなかった。アフターエフェクトのデータしか残っていなくて画面をキャプチャしながら作画監督の倉島さんに修正して頂いた」。

 だから決して使い回しではない。「目線を変えたりニュアンスを変えたりしています。今の自分達から見た過去の自分たちなんです」とも話していた。そして「セリフも変わったりしているし、背景も描き逃しているからもう1度作り直しています」。同じようだけど同じじゃない。比べると絵の密度も上がってるけど気付かれないんだなあ。プレスとかパンフレとでの藤津さんの分析もまるで届いてない。やれやれとしか言いようがない。アクセル・サーストンがいない理由も語ってた。「メインスタッフのわがままかもしれないですが、青野さんの声ではないアクセル・サーストンは見たくなかった。だからアドロックの話をやろうということになりました」。

 ファン激怒どころかむしろファンなら感涙のエピソード。でもそうした情報に触れようとしないでネットの煽りを真に受けて、騒ぎ立てる人の何と多いことか。仮に言い訳などしらないとしても、とりあえず見て感じれば分かるはず。京田知己総監督が何をしたかったかが。そうした自分の足で情報を取りに行くことを厭いネットの評判だけで騒ぐなんてオタクの風上にも置けないんだけれど、今は冒険をすることが自分にとって損だと思ってしまう風潮なんだろうなあ。見て笑えればそれが将来のタネになるって思いは働かないんだろうなあ。もったいない話し。「ガンドレス」だって劇場で見たからこそ今になっていろいろと言えるんだ。いやもちろん「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」は完成された作品だからあとは趣味の合否だけ。それを確かめに行けよ劇場に。

 そんな「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」で流れる「Glory Days」を歌っている尾崎裕哉さんが尾崎豊さんの長男だとやっと気付いた。それとは知らず聞いてもすっげえ格好いい音楽だし歌声なんで親父さん関係なくやって行けるだろうなあ。選んだ京田知己総監督もどんな音楽が良いかを探していてiTunesをのぞいた時に見かけたバナーをクリックして、流れて来た音楽を聴いてこれだと思ったというから経歴なんてまるで関係なし。その声が最後に流れて来て欲しいと思った京田知己総監督の意図にもピッタリにあの曲が流れてきてモヤモヤとした展開がパッと開けて次に待つ冒険への期待が浮かんで来る。青春の紆余曲折を歌ってカリスマとなったお父さんと違って今を突き抜ける歌であり声。そこがやっぱり1人のアーティストってことなんだろう。追っていきたい。

 箱崎ひかりという登場人物とか警察庁図書館という秘密組織なんかが重なっているから古野まほろさんの「R.E.D 警察庁特殊防犯対策官室」(新潮文庫nex)は他のシリーズとか端緒なんかとフィールドを同じにしているのかもしれないけれど、ただ舞台は東京なんかが2020年の東京オリンピック後にいろいろあって首都機能を果たせなくなって東海地方へと移転して、そこに愛知県警とか静岡県警から一部を引き抜いて警視庁なんてものができたりしているところから見ると、キャラクターシステム的なものを使いつつ設定はまるで違っているのかもしれない。どうなんだろう。ともあれリニアが開通した世界で女性の総理大臣が半ば独裁を決め込んでいるのを倒そうとテロが動いてサリンを撒き、爆弾を破裂させようとしているのを止めた少女たちがいた。

 格闘が凄かったり狙撃の腕前が半端じゃなかったり医薬に長けていたりと優れた能力を持った少女たちはゴスロリを好む箱崎ひかりがいる組織で警部の肩書きをもってテロ対策なんかに当たっている。そこに起こった警視総監を狙った暗殺の予告。要求は過去にあった耐震偽装問題の暴露。それが政治家生命に関わる副総理なんかもいて動かず、警察の一部を抱き込んでもみ消しに動こうとする中で少女たちは警察庁の下、箱崎ひかりも祖y属する特殊防犯対策室のメンバーとして不思議な能力が関わっているとしか思えない事件に挑む。それまで普通だった人間が中身だけ豹変したかのように犯人となってターゲットに迫る。カラクリは? そんな事件の果てに明らかになる少女たちの苦悩にも似た立場が面白い。警察を舞台にした謀略小説が伝奇アクションに変わる瞬間。そして得た才能を次にどう活かしてどんな犯罪に挑む? 続きが出れば読むだろう。

 JRAとのコラボに続いて「けものフレンズ」が日清食品の「どん兵衛」とコラボレーション。前にカップヌードルが重要なモチーフとして登場したアニメーション「FREEDOM」に携わっていたたつき監督が、10年ぶり2度目ってツイートしていたのが面白かった。映像の方はメインのサーバルちゃんとかじゃなく、ギンギツネとキタキツネを引っ張ってきては実写版のテレビCMと絡めギンギツネとキタキツネが暮らす温泉のコイン式テレビなんかも絡めつつ描いているところが凄いというか、「どん兵衛」をリスペクトしつつしっかり「けものフレンズ」の世界観も見せているからそれぞれを知っているファンの相互乗り入れなんかも出てきそう。ギンギツネは勤勉でキタキツネはマイペースなところも良く出ていたし。

 しかしたつき監督がサンライズ荻窪スタジオで3DCG作品に携わっていたことがあんまり知られていないことの方がちょっと意外だった。「けものフレンズ」が盛り上がり始めたころにサンライズに関わっていたことを明かしていたけど当時はまだ今ほどの注目を集めていなかったから、その後のムーブメントの中で「けものフレンズ」とたつき監督を知ってどういう人だと思っていたところに「どん兵衛」のコラボレーション映像が来てそれが日清とは2回目と明かしていたのを前から知っていた人が「FREEDOM」だと紹介したら知らなかった意外だったといった反応がわんさか出たってことか。ちなみに片山一良監督の「いばらの王 −King of Thorn−」にもたつき監督は関わっていたのだった。人類滅亡後の世界を生き抜こうとするあたりが「けものフレンズ」的な作品なのでみんな見て欲しいなあ。


【9月18日】 「安室奈美恵など、大物アーティストによるアニメ主題歌がふているのはなぜ」というテキトー極まりない記事が流れていて、これを署名入りで書けてしまえる人の心の強さには惹かるところがあるなあ。「さらば宇宙戦艦ヤマト」の沢田研二さんや「銀河鉄道999」のゴダイゴを例に挙げつつ、「とはいえ、こうした一部の映画などの“タイアップ”を除いて、大物アーティストがテレビアニメの主題歌を担当することはマレだった」なんて書いて、そして「だが、時代が経つとともにアニソンおよびアニソン歌手の社会的地位も向上」って書いてあるから1980年代に割と増えて来たポップス系シンガーによるアニソンの話しかと思ったらさにあらず。

 時代は一気に20年くらい飛んで「00年代に入ると、倉木麻衣の3rdシングル『Secret of my heart』が同局系アニメ『名探偵コナン』のエンディングテーマソングにも起用されてミリオンヒットを記録するなど、大物アーティストとアニメのコラボも目立つようになっていく」となって今の隆昌を語っている。でもその間だって一流アーティストが幾ら会ってアニメの主題歌やってたっていうか、「CITY HUNTER」とか「るろうに剣心」なんてソニー系アーティストがガンガンと登場してミリオンなんかも確か出た。そういった歴史を見ないのは、知らなかったかそれとも見てしまうと安室さんがアニソンを歌うぞという記事の前提が崩れてしまうから見ないふりをしているのか。いずれにしても雑なんだけれど知らない人にはそれがネットで拡散されて既定の事実にされてしまう。校閲も経ずに誤情報が世に出て拡散されるネット時代のポストトゥルースな一例。厄介だねえ。

 アニメーションを学ぶ学生さんたちの作品展ICAF2017は各校選抜プログラムしか見られなかったけれどとりあえず東北芸術工科大学の有馬みゆきさん「窓辺の紅葉」にジンと来た。元気な子供を襲った交通事故。両足を失って義足を出されて躊躇う少年が窓から外を見て顔に筒がはまったネコを見る。線によってしっかりとディテールを描写したアニメーション。義足を履こうとしてはけない少年の葛藤めいた真理が動きによく現れていた。そしてネコを助けようと外に出る決意も良かった。人もネコも助け助けられて生きている。そんな思いが浮かんだ。機会があったら是非見て欲しいアニメーション。

 そんなICAF2017各校選抜プログラムで最高に行くと思ったのが、多摩美術大学の影山紗和子さんによる「地獄めたもる」。線に色もつけられたイラストっぽい絵から少女が浮かび重なりながら右へとスクロールされていく展開に変容があって残酷も見えて血のように赤いケチャップも散って目を奪われる。凄い。ただただ凄い。選ばれたモチーフのグロテスクだけれどキッチュでもあってその重なりならが動く変容の描写も巧みで次にどう変わるかを期待させて目を離さない。今回、変容と捕食のような作品が結構あったけどその中でも群を抜く面白さ。最高だ。影山紗和子さんは東京藝大院に進んだようで新作が楽しみ。年明けの修了制作発表会に1年次作品を何か出してくれるかな。

 各校選抜プログラムで驚愕だったのが日大芸術学部の内沼なつみさんによる「最終ロケット・イェイ&イェイ」(ダイジェスト版)。なんだダイジェストって。実は15分ほどの本編があるらしく、見ると女子と男子が平たい宇宙船で宇宙を行く話みたいだけれど、上映のダイジェスト版ではほとんどさわりしか見られない。途中でクレイアニメも見えてどんなんだと思わせる。見たら実写パートもあるみたい。そうやってショートエピソードで綴られる珍道中。さまざまな技法がごった煮となったSFストーリーであり、あの「この世界の片隅に」の片渕須直監督も指導に当たったららしい「最終ロケット・イェイ&イェイ」に要注目だ。どこが片渕監督風味なのかはさっぱり分からないけれど。

 技巧に優れているなあと思ったのは京都精華大の仲田達也さんによる「観戦」で、左右に3つとあと上端と下端も薄く分割された画面を野球に関していそうなさまざまなシチュエーションが単独で、あるいはクローズアップで、そして時々繋がったりもして繰り広げられる。それぞれの絵が巧く切り取り方もハイセンス。右でトイレに立つ人がいて左にカップにあればビールかなにかを注ぐ絵があって、繋げるとそれは……。ああ飲んでるよ、なんて誤解も生じさせる切り取り方がなかなか巧みな作品。きっとこれからいろいろな場面で上映されるだろう。ご本人はどの道に進まれたんだろうか。絵の巧みさからするならそのままプロのアニメーターに? 調べてみたい。

 図抜けているといえば見里朝希さん「Candy.zip」もICAF2017各校センバツプログラムに入ってすでに評判なところを見せてくれた。キャンディのような素材の女性がキャディを作りキャンディにされ舐められ溶かされ復活して復讐を遂げる展開.ストーリーと素材のマッチした感じが良い。フル3DCGの作品が少ないICAF2017の各校選抜プログラムの中弐あった神戸芸術工科大学の野村純平さん「REPAIR」が良かった。破壊され宇宙を漂う上半身だけのロボットが周辺からパーツを集め修復しているところに見つかった全身揃ったロボット。救難を求めていたそれをどうしたか?  友情めいた感動か実利を目指したが故の残酷か。それは見てのお楽しみでありなおかつ最後に来る展開にも瞠目。因果応報って奴か? そんな「REPAIR」。当人はゲーム会社に入られたそうでそのうち何にスタッフで名を連ねることでありましょう。

 見かけてサッとチケットを確保した「映画 聲の形」の文化庁メディア芸術祭受賞作品展上映を観終わる。やっぱり良いなあ。毎回感じていることだけど、小学生の石田将也が西宮硝子にちょっかいを出し始めるあたりに、隣席の植野が何か面倒がっているのを察知して硝子を敵認定していく感じが見えて、些細なきっかけで虐めって始まると思った。そのあたり、上映後に登壇された「映画 聲の形」の山田尚子監督が高橋良輔監督とのトークで、虐めを描く上で自身では虐めを否定も肯定もせず、石田は何と思ってこういう行動をした、キャラクターの心がこう動いたからこういう行動になったということを考え描いていったと話してた。なるほどとやっぱり。だから見ていて理不尽さに憤らず、冷静に成り行きを見られるのかもしれない。一報でそこで違うリアクションをとれば悲劇には到らなかったとも。運命は様々だ。

 それにしても「映画 聲の形」でいつ西宮硝子が「さあ賭けぐるいましょう!」とか「滾ってしまいます!」とか言い出すんじゃないかと想像できてしまうかというと、そんな可能性を微塵も感じさせないのは早見沙織さんの硝子へのなり切りっぷりがやっぱり凄いからだろ。その役でしかあり得ない声をしっかり演じる。それは「賭ケグルイ」でも同様で、そこでは硝子の声も「東のエデン」の森美咲の声もうかばない。蛇喰夢子の声しか浮かばないのはそれになりきっているからなんだろう。沢城みゆきさんとか悠木碧さんのような百面相的演技の幅とはまた違った、なりきって他を感じさせないその実力。改めて堪能させてもらいました。次はいつ、劇場で見られるかなあ、家で見ても絶対にあの音に包み込まれるような感覚にはなれないからなあ。


【9月17日】 築城院真ガラはどうなった? っていうのが最初に浮かんだ感想で、メテオラ・エスターライヒだけが残って他の被造物たちを元いた世界に返したあと、修復される時空の中で次第に力を失っていった以上は残った真?ちゃんだって嘘をひっくり返す異能の力を失って、ただの女の子になってしまう可能性が高いんだけれどそこはそれ、根が凶悪な割に狡猾なんで闇の世界でしっかりと居場所を得て活動を続けていくのかも知れない。あるいは水篠爽颯太に売った恩を取り戻すべくしっかりとその家の押し入れに居候をしていたりするのかも。人間になったらあのギザギザのサメ歯は真っ直ぐになるのかなあ。あれだと自分の指だってかみ切っちゃいそう。

 そんな「Re:CREATORS」最終話。メテオラは創造する人々に感化されて自ら創作を始めたようで、元より豊富な知識もあるし異世界については経験も豊富なんでリアリティたっぷりの異世界ファンタジーなり魔法バトルなんかを駆けちゃいそう。それが面白いかどうかは別だけど。菊地原亜希はクリエーティブな仕事に感化をされて創造する人を助ける側に回ったみたい。でもあの性格だから作家先生には厳しい人になりそう。スケジュール管理はばっちりでサポートも万全だけれどその分、しっかりと働いてもらわないと困るといった感じで。そして水篠颯太。自分が追い込み自滅させたシマザキセツナを蘇らせて成仏させて、ひとつ吹っ切れたところを見せていくのかな。でも押し入れにはガラちゃんだから養うために必死になって創作に挑むのかな。「精霊機想曲フォーゲルシュバリエ」みたく第2期があれば嬉しいかな。

 イオンシネマ幕張新都心でULTIRAによる上映があるってんで「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」を観に行く。うーん。ここん家に導入されたJBL製の6台のサブウーファーが悪いというよりは、劇場で冒頭のバトルシーンをそれに相応しい迫力ある爆音で鳴らした場合にキャラクターたちが喋っている音声がかき消されてしまうことを考慮に入れていない感じがあって、ネットなんかでの評判を見ると案の定、レイとチャールズの会話が聞こえなかったとか、アドロック・サーストンの声がよく分からなかったといった反応がああって、ちょっとどうにかして欲しいけれどももしかしたら9.1chを誇るここん家は、迫力ある大画面を見たくて前に座るとサブウーファーが効き過ぎるだけで、まん中あたりなら声もしっかり聞こえてくるのかもしれないんで機会を探してまた行くか、どうするか。

 そんな「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」は試写に続けて2回目で、その時に見た予告編が同じだったかどうかが目下の思案どころ。そしてアドロックの声については京田知己総監督による解説なんかも聞いたから、髭のおっさんであってもランバ・ラルみたいな豪傑の軍人ではなくいろいろと日和ったりもする科学者で、おっかなびっくりしながらも科学者としての筋を通そうとする弱さと強さが同居した人物だとするなら古谷徹さんは相応しと思えてきた。あと試写では目がおいついていなかったけれど、サマー・オブ・ラブの戦いの中でアドロックは別次元にある地球を見ていたんだなあ。そこにある月には「レントンエウレカ」の文字は刻まれていたんだろうか。アドロックはそもそも死んでしまったんだろうか。いろいろと気になる展開。続きが楽しみ。

 クリエイターEXPOだとかMaker Faireだとかに出展していたのを見かけて2年ほど前から見知っていた造形作家の池内啓人さんによる展覧会が、中野にあるSF galleryってところで開催中なんで、台風がまだ来ない中を見物に行く。ヘッドフォンとかデジカメとか使える機器にプラモデルとか電子部品とかのパーツを取り付け、SF的なガジェットへと変えるアーティスト。あと独自にSF的なジオラマなんかも作っている。フレドリック・ブラウンの「天の光はすべて星」とかジュール・ヴェルヌの「月世界へ行く」とかいった作品にテーマを取った作品なんかあるけれど、今回のメインは3Mの防毒マスクなんかと、あとヘッドフォンとかVRゴーグルなんかを土台にいろいろと持った作品群が並んでいた。

 そのどれもがスタイリッシュというかクールというか、ごてごてとパーツを取り付けるんじゃ無くって全体のバランスなんかも考えながらシンメトリーを基準に一部は亜新免とリーナ部分も作って機能性なんかを感じさせるデザインでもって、未来的なフォルムのマスクでありヘッドセットなんかを作りだしている。面白いのはヘッドフォンなんかはちゃんと音楽が聴けること。そういった機能を残しつつデザインをアレンジするのが池内啓人さんの特質でもあって、使えるアートだとも言えるかもしれない。そんなヘッドセットには、はグッドスマイルカンパニーが出している4万円とかする変形するヘッドフォンのtoon WORKSHOPをベースにしたものもあって、元よりパーツを外せて改造できるヘッドフォンの特長を取り入れ大盛りにしたものとも言えそう。そのまま製品化したら売れるんじゃないかああ。池内さん在廊の時は装着もできるみたいなんで、サイバーにスタイリッシュな格好になりたい人はお試しあれ。

 もうほとんどツイッターまとめサイトと化している某新聞系ニュースサイト。それも自分たちと対立する見解をあげつらって晒して非難を呼び込むような紹介の仕方をするから厄介というか。沖縄にあるチビチリガマが何者かによって破壊された件で、当初は左右を問わず政治的な意図をもった勢力による仕業といった憶測が飛び交った。結局は地元の若者による暴走的な行為だったことが判明したけれど、そうした事前に揣摩憶測から左側だけを取り上げて、並べて批判めいたことを書いている。右側だって外国人がやったとか日教組の反日教育が招いたものとかいった意見を散々っぱらネットで放っていたのにそうした意見には知らん顔して左側から出た憶測ばかりを取り上げる。もちろんそうした憶測はよろしくないけど、「事件が解明されないうちから『ヘイト』に結びつけようとした向きにはとんだ『赤っ恥』となったが」と結んで右側についてはまるで触れていないところにバランスのなさって奴が見て取れる。いつものこととはいえ、こうした作為が特定のチームよって頻繁に起こることが露見し始めているんで、度が過ぎれば一気に責めた立てられるんでご用心。と言って聞くチームでも無いか。やれやれ。

 サントリーのCMに出たところをあれやこれや差別的なコメントを浴びせられている水原希子さんについて、タレントのフィフィさんがアドバイスとエールを送ったという記事が日刊スポーツあって読んだけれどもどこがエールなんだと思ったというか。発言は「例えば生まれ持った名前で活動する方が素敵だと思う。それを躊躇することこそ偏見って思われちゃうからね」とあって、どこか優しいことを言っているように見えるけれど、でもこれって差別される側に何かの配慮を求める感じがあってちょっと賛同しづらい。いろいろあって晒しづらいルーツを晒せと言っているに等しいから。

 だいたいが水原希子さんはアメリカ生まれで今はオードリー・希子・ダニエルで、それで仕事できそうだけれどダニエル希子でもオードリー希子でもゴージャスすぎるから今は水原希子と名乗っているんだろう。そんな状況を知ってか知らずか、巷に流れるルーツ話を間に受けそれに絡んだ通名とか思って晒せと言っているんだとしたらなお厄介。センシティブな出自を巡る問題を、特に偽る必要もない外国にルーツがあるからというタレントの言葉でさらりと書いてしまえる新聞も意識が足りていない。誰だってどう名乗ったってどこから来ていたって関係ない。そうした意識を醸成させることがまずは先決なのにすべてを晒せというのはむしろ逆なんじゃないかなあ。そういう世界になって欲しいけれど。だからフィフィさんも自分のすべてを晒せとはいわない。その言動にだけ関心を持って見ていこう。


【9月16日】 「けものフレンズ」のHappyくじが発売されたんで近所の本屋の上にあるGEOに出向いて3つばかり引いたけどサーバルちゃんのフィギュアもラッキービーストのとことこ人形もでなかった。でもフェネックのスマホスタンドとかコウテイペンギンのストラップとかアライグマの大型パスケースとかも十分に欲しい範疇に入っていたんでこれはこれで。何をもらっても嬉しいところが「けものフレンズ」という作品の持つ柔らかさなのかもしれない。どうせだからと向かった豊洲のららぽーとにあるHMVでも2枚ばかり引いて、フェネックのスタンドがダブったけれどもそれもまた人生。あとはトキのストラップ。さっそくコウテイと繋ぎ合わせてリュックにぶら下げ向かうは豊洲PITの「けものフレンズLIVE」だ。

 そして始まったイベントは、「そんなに曲数、ありました?」というマーゲイ役の山下まみさんによる不安からの突っ込みも何のその。「けものフレンズLIVE」は充実した楽曲とそして出演者たちによるトークを存分い楽しめる、「けものフレンズ」ファンにとっては充実のライブイベントになっていた。誰もが知っているどうぶつビスケッツ×PPPの「ようこそジャパリパークへ」と、そしてPPPの「大空ドリーマー」を歌って終わりじゃないの? と誰もが思って当然で、みゆはんが出て「ぼくのフレンズ」を歌ったところで3曲だけでは場がもたないといった心配をマーゲイならずとも抱きそう。

 そこで「けものフレンズLIVE」が持って来たのが、ひとつは6月に行われた舞台「けものフレンズ」で、国歌斉唱とばかりに歌われた「ようこそジャパリパークへ」に続けて歌われたPPPによる「ドレミのうた」があり、そしてアライグマとフェネックによる「ジャパリまんラップ」があって、そこに舞台版のキャストも加わるという驚きの展開で音楽を膨らませ出演陣を分厚くして観客たちを圧倒する。舞台版を見た人にはもう懐かしくって来年1月の再演が待ち遠しくなっただろー。

 舞台版を見ていない人でも情報としては知っているだろうから、マンモスの仁藤萌乃さんにヒツジの西川美咲さん、タヌキの加藤里保菜さんとクロヒョウの稲村梓さんが出てきてラップをいっしょに歌った姿に改めて、そうか舞台ってこんな感じだったんだと分かったんじゃかなろーか。さらにはオオフラミンゴの幸野ゆりあさんまで登場して、例のPPPを鍛えるシーンなんかも再現してくれた。毎回アドリブ的に難問をぶつけてPPPメンバーに答えさせるというアレ。今回は来年1月の舞台でイワトビペンギンの代役を4回だけ務める山下さんを引っ張り込み、タヌキの加藤さんとクロヒョウの稲村さんも巻き込んで、自分の秘密を暴露させていた。

 そんな山下さん曰く「部屋では全裸」。どんなんだ。見てみたいけど見たらまぶしさに鼻血が吹き出しそうなんで我慢する。そうやって舞台への関心を誘いつつ楽曲も織り交ぜつつテーマソングだった「けものみち」なんかを歌って退場した後に、アニメの先行イベントを除けばこれまでのステージイベントには登場してこなかった内田彩さんが初めてかばんちゃんのコスチューム姿で登場してキャラクターソングアルバムの「きみのままで」を歌ってくれた。背負ったかばんにはしっかりラッキーさんが入っているという懲りよう。引っ張り出そうとするアライさんたちに背を向けてラッキーさんの声を出すところも聞かせてくれて、ああやっぱり内田さんが演じていたんだって分からせてくれた。

 内田さんはあとミライさんも演じてたりしてどうぶつビスケッツ+かばん×PPPによる「けものパレード」ではラストにミライさんの声で「おつかれさまでした」って言ってくれたけどあれはナマ声だったのか録音をかぶせたものだったのか。フロアがスタンディングになってしまって後からだとマイク位置とかよくみえなかったんで、来年1月に発売されるというライブのDVDを見て確かめよう。忙しい中でよく出演してくれたなあ内田さん。この勢いでミュージックステーションのフェスも席巻だ。ライブですら恥ずかしい半ズボン姿、披露するんだけれど大丈夫かな?

 そうそう楽曲数稼ぎのもうひとつが「けものパレード」なんかも入っているドラマ&キャラクターソングアルバム「Japari Cafe」で、「きみのままで」や「けもの@パレード」の他にどうぶつビスケッツによる「ホップステップフレンズ」なんかが披露された。さすがにかばんちゃんによる「かばんのうた 〜はしらとじゃぱりまん〜」とか出演していないトキによる「トキのうた」とかは出なかったけれど、もしあったら果たして豊洲PITはその音圧に耐えられたか。そこがちょっと気になった。次があるなら是非。あるいは年末の紅白歌合戦でトキの参加を。

 そうやって様々な媒体からキャストも楽曲も引っ張ってきてライブを作って馴染むところが「けものフレンズ」というプロジェクトの面白いところで、アニメはアニメでゲームはゲームで舞台は舞台といった分け隔てがなく、誰もがどれでも大好きといった気持ちで受け止めているからこうやって融合したライブを行っても切れ目がないし置いてきぼり感も浮かばない。あるいは感じたとしても今からなら十分に追いつける。ゲームアプリだけはもうどうしようもないけれど、そこからの楽曲というのはないからなあ。

 逆にこれから出てくるゲーム「けものフレンズパビリオン」でテーマソングになるという「フレ!フレ ベストフレンズ」なんかが初披露され、どうぶつビスケッツ×PPPの2ndシングルとしていろいろな場で歌い継がれていきそう。国家たる「ようこそジャパリパークへ」ほどのインパクとはまだ感じられていないけれど、大石昌良さんによる作詞作曲だから耳に馴染んでいるようでいろいろと仕掛けもあって聞き込めそう。これを引っさげ衣装も新しくなったというサーバルちゃん以下のどうぶつビスケッツ×PPPをいろいろな場で見られることを願いたい。とりあえずは18日のミュージックステーションのウルトラFESか。

 沖縄にあって住民たちが集団自決したチビチリガマが何者かによって荒らされた事件は地元の10代の少年たちによるものだと判明。沖縄を気に入らない誰かの差し金じゃ内のって話しも回っていたけど、ふたを明けてみれば良識といったものを持たないか、持ち得なかった若い世代がそこを肝試しの場所だと感じて言って騒いだだけのことで、思想性はないと言えば言えるのかも知れない。ただ捕まった3人のうち就職しているのは1人だけであとは無職という状況は、進学もせず働きにも出ないで浮遊していられる層が沖縄のその地域には割といることを現してて、それがやっぱり経済の問題による働き口の無さによるものだったりして、背後にはやっぱり沖縄に対する本土あたりの辛い視線があったりするとしたらやっぱり日本における南北問題的なものとして、捉えて根本を考え直す必要があるだろう。沖縄をどこか下において差別的な視線を向ける層の増加が、世間の沖縄に対する認識を薄れさせて格差を生んで結果、働き口のない少年達を増やしているといった図式。それが正しいかは分からないけれど、どこにでもいるドキュンの暴走と捉えるにはあの地はやっぱり難しすぎるのだった。真相やいかに。

 大学教授といっても別に公人ではなく世間的に知名度があったとしてもそれで新聞社が大々的に一挙手一投足を取り上げるだけのバリューはない。けれどもその個人が自分たちの気に入らないツイートをしたとたん、公器たるべき看板を背負いながらも批判的なニュアンスで記事としてさらし上げ、広く告知しては同種の非難を誘って罵倒を誘因させる。もはや報道の皮を被った凶器に等しい存在で、それは東京新聞の望月記者に対してネガティブな記事を書いて世間の批判を誘うケースとも同様だったりする。多勢による脅迫ともとられかねない言葉を喚起させるそうした記事を、社会正義を旨として木鐸たるべく邁進しているはずの新聞社が堂々とやってしまっているところに、もはや真っ当さとはほど遠い思考が感じられる。いい加減誰か止めないと題字の信頼も地に落ちて埋もれると思うんだけれど、もうすでに地の底に潜っているから関係ないのかもしれない。困ったねえ。


【9月15日】 もちろん他人の著作物を勝手に使ってしまうのは著作権法の上でいろいろと問題があって、それがパロディの一種だとしても法的に争えば侵害の可能性はあったりするから気をつけた方が良いことに間違いはない。そして公的な機関であり著作物を取り扱う美術館がそうした著作権の侵害に当たりかねない事態を引き起こすことは非難されても仕方が無いんだけれど、ここで気になるのはそうした糾弾にあたって新聞社がまるで状況を説明しないで、いきなり美術館が突出して率先して著作権侵害に走ったかのような記事を書いていることだったりする。

 すでにネット上に幾つも上がってる著作権を侵害してでも自分の持つ面白さを発揮したいちったコラージュの大喜利があって、そうした流れに乗って自分のところもちょっぴり宣伝をしてみましたといった案件に対して、そういった説明をしておけばああ、ちょっと勇み足だったんだなといった世間の納得も浮かぶし、だから著作権を管理する側は訴えもしないし問題化もしなかったんだと理解できる。パロディなんだと分かってもらえたというか、そうした二次創作的な活動に対して厳密に著作権をあてはめていった時に起こる萎縮を考えるなら、報じる側には慎重かつ正確な判断が欲しかった。

 でもそうではなく、いきなり現れた著作権に触れるような画像に対してこれはいかがなものかといった声が上がっていると、直接ではなく間接的に批判をしてそして相手が画像を引っ込めたにもか関わらず、そうした著作権に触れた画像はこれだとばかりに紹介している。これって元の著作物への権利侵害であると同時に、二次創作者による著作物への権利侵害でもある。報道だからそれは良い、って理屈も成り立つんだろうけれど、こと著作権に関する訴えを行った記事で自分たちは埒外にあるんだという態度はあんまり感心されない。でもやって平気な当たりに未だ日の丸親方的な尊大さが頭に乗っているんだろうなあ。そこがやっぱり朝日新聞というところか。やれやれ。

 夕べにサイン本を見つけて買った月村了衛さんの「機龍警察 狼眼殺手」(早川書房)が読み始めたら止まらなくって最後まで一気読み。中華料理店で起こった殺人事件は入って来るなりいきなり相手の額を撃ち抜きご丁寧にもう1発打ち込んでとどめを刺すというプロの仕事ぶりを見せ、警察の関心を引きつける。もとより贈収賄事件の線で追われていた被害者たちだったこともあって動き始めた警視庁の捜査二課とそして殺人事件にはやっぱりの捜査一課が角突き合わせつつ、これはしっかりとした操作が必要として特捜部こと機龍警察が引っ張り出されてしがらみのないなかで捜査が始まり明らかになったこと。どうやら中華料理店での一件は単独ではなく連続した殺人事件の1つであって、そして狼眼殺手と呼ばれる凄腕の暗殺者が動いているらしいと分かってきた。

 そしてさらに蠢いている贈収賄事件のさらに向こうに、日本どころか世界の通信事情を揺るがしかねない技術的なブレイクスルーがあって、それに群がる企業や政治家や官僚などがいることも判明。その線で追っていく我らが特捜部の沖津旬一郎の前に見えてきたのがいわゆる「敵」の姿だたっという、そんなストーリー。警察を含めた官界政界の中に身を蔓延らせては何かを画策している一派。それは沖津が目指す正義とは少し違った動きを見せているようで、特捜部の行動に先回りをして妨害し、挙げ句に本性を露わにして襲いかかってくる。その目的が、ひとつにはブラックボックスの技術が使われている龍機兵をどうにかしたいという思惑があるみたい。それを使って何を目指す? そこが未だ見えずこの先の戦いで沖津を迷わせそう。そもそも「敵」は何をしたいのか。それは日本にとって良いことなのか、逆に世界にとって悪すぎることなのか。早く知りたい。それがしっかりと退治されるだろうビジョンとともに。

 そんな大がかりな事件に帳簿をめくり出納を見つめてそこにある不穏な声を聞き取り、問題の所在を浮かび上がらせていく財務捜査官であったり国税局のリョーチョーといった面々の拳銃は抜かず格闘もしない戦いぶりも格好いい。でもやっぱりドラグーン使いの3人が持つリアルな戦闘能力の高さもやっぱり凄まじいというか、今回は元IRFの暗殺者だったライザ・ラードナーが自分の過去と向かい合うような形で戦っては追い詰められ、けれどもくぐり抜けてひとつの“友情”めいたものを手にい入れる。もしかしたら少し変わっていくのかも、でもそれが弱さになって退場とならないことを祈りたい。不要とあらば警察の幹部であっても不倫の上の心中に見せかけられて殺される恐ろしさにも直面しつつ、それでも正義を貫こうとする警察官たちに喝采を。そして正義とは正反対の我欲を貫く小野寺なる警察官僚の行く手に艱難辛苦を。上目遣いのごますり野郎に見えて案外に手強い奴なのかも。

 最初に文化庁メディア芸術祭の受賞作品展に行ったのが1999年に開かれた第2回文化庁メディア芸術祭で、場所は初台にある東京オペラシティでそこで「serial experiments lain」がアニメーション部門の優秀賞に入って小中千昭さんが歩いているのを見たんだっけか、中村隆太郎監督はいたんだっけか、そんな思い出があったりする。そして会場を草月会館から東京都写真美術館へと変えて国立新美術館へと移って幾年月、10年を経てこれが転機となったかそれとも商売っ気を出したい国立新美術館から追い出されたか分からないけれど、めぐりめぐって初台へと戻ってNTT インターコミュニケーション・センター(ICC)とそして東京オペラシティアートギャラリーを会場に第20回文化庁メディア芸術祭が開催となってその内覧会が開かれたんで行ってきた。平記者として。

 20年近く経ってれば平でも編集長くらいにはなって社長にだってなっていたりするかもしれないにも関わらず、そうはなれないのはひとえに甲斐性のなさだけれども現場で歩いて直接ものを見て人に会うのが楽しいからこれでいいのだ、いいのだ、いいのだ。とか自分を納得させつつ今回はワンフロアに収まらないどころか1つのギャラリーにも留まらない展示で、メディアアートを中心に手にするICCで石黒浩教授のオルタとか見て、そして東京オペラシティアートギャラリーでマンガやアニメーションなんかの展示を見物。石塚真一さんによる「BLUE GIANT」の展示では主にセリフがなく演奏をしているシーンを選んで飾ってあって、本当にそこから音楽が聞こえてきそうになった。振り向くとピアノにサックスにドラムのセット。ふらっと立ち寄ったジャズメンが楽器をとって演奏し始めたら格好いいけど、それはさすがにないか。

 「シン・ゴジラ」の展示は前田真宏さんによるイメージ画とそれから竹谷隆之さん造形によるゴジラの4形態の模型。あとはVFXをどうやって行ってきたかを映した映像で、見ていると実写に見える部分だってCGで作られていることがわかった。最先端が駆使されていたんだなあ。それでいてハリウッド映画の製作費のいったい何分の一なのか。そういうところが日本の凄みとするなら続くCGIもこれくらいの水準で行って欲しいんだけれど、特撮へのこだわりがCGIに乗り移ってリアルさの探求に当たらせた「シン・ゴジラ」ほどの情熱を、他のクリエイターが持ち合わせているとは限らないからなあ。やっぱり一過性のあだ花で終わるのか、それとも日本のVFX映画を変えた1作になるのか。次に作られる実写版「ゴジラ」が分水嶺になりそう。ってそんな企画は動いているのか?


【9月14日】 たとえ下らなくても気に入らなくても、来る質問には下らなければ下らないと諫めつつ答えるのが報道担当者たる官房長官のお仕事であって、それをおいてする公務なんてないはずなのに時間がないとかいって官房長官の会見を途中で打ち切ろうとする、その政府側の態度も問題だけれど信じられないのはそうした時間の制限、質問の制約を記者クラブの側が率先して行っているということ。たとえ依頼されたって突っぱねるのが後々、非情となった権力がそれを非難するような記者の質問を遮り回答を拒絶して逃げるのを防ぐために必須なのに、これはこれとばかりに従って質問を制約し、時間も区切ることを受け入れてしまった。ある意味で報道の死に近い出来事なのに、そういう自覚もまるでないんだろう。今日も諾々と従っている官邸詰めの記者諸氏。四半世紀の後に大事が起こって悲惨な中、あれがこの国を誤らせたきっかけになったと言われて恥じても遅いよ。

 2時間と少しに収めなくてはならなくなった段階で、当初に切られたコンテがそのまま使われることはなくなり、一部をカットしそして繋ぎ合わせてても当初に意図した演出をそのまま当てはめることはなく、2時間ちょっとという枠の中で何を見せるかを考えどうやって繋げるかを熟慮して展開を選び、セリフも選んで描いていったと類推できる。そうやって完成した流れに対してつけられるセリフも、添えられる音楽もまた2時間ちょっとという枠の中で繰り出されるテンポであり、リズムに合わせて調整されたものであって、描かれなかった部分への含みとかいったものを感じさせないか、感じられても気にせず聞いていられるようなものになっていたと言えるだろう。

 そうやって作り上げられた劇場アニメーション映画「この世界の片隅に」は、それで1本の完結して完成されたフィルムであって、ここにちょっとだけ付け加えたいとエピソードを入れてしまうとどこかにひずみが生まれ、全体に崩れが現れてしまうような気がしてならない。よく言われているリンさんとの交流も、あの夏のあの瞬間に出会って交わしたちょっとした言葉だったからこそ、希少で意味のあるものだといった印象が醸し出される。こんなところに再々来るものではないというのは、また迷子になるからではなく、自身が置かれた境遇への自嘲も込めてのものであって純粋で純朴なすずさんを、引っ張り込んで染めてしまうのも忍びないと思って出たものだろう。

 そこまでしてあの朝日町、門の向こう側とすずさんが暮らしていた毎日が精一杯だけれど家族もいて楽しいこちら側との世界を分け隔て、それらが一瞬だけクロスしたことに強い意味を感じさせた映画「この世界の片隅に」に、リンさんとのほかの交流が添えられたらそれはもうまったく別の映画になってしまうに違いない。なるほど周作の机の引き出しに入っていたノートの裏表紙が四角く切られていることの説明、そして呉への大空襲があった翌日、周作に心でリンさんを探してと叫んだ意味が、さらなる交流があったことを描けば見えてくるし分かってくるかもしれないけれど、それらを仄めかしの中に留めて類推させつつ、あくまですずさんはすずさんの世界を生きていった物語として留めおく方が、200万人以上が愛して数多くの賞を獲得した「この世界の片隅に」という作品の価値を守り高めることに繋がると思うのだった。

 片渕須直監督がだから当初の絵コンテなりに描いて構想した「この世界を片隅に」を完全版とは言わず長尺版と呼んで、まったく別なもうひとつの映画として完成するというのも納得で、中盤のゆったりした世界がだんだんと逼迫していって叩き駆けられるように悲運が重なり、それを乗り切りたどり着いた平穏の中で出会いがあって感慨が浮かぶあのリズム、あの流れを長尺化によって崩してしまったそれは、劇場で見てまったく印象の違うものに映って当然。好きなキャラクターのエピソードが加わったから嬉しいという声にも同意はするけれど、それが盛り込まれた映画を讃え盛り込まれていない今の「この世界の片隅に」を、未完のものと脇におくのはちょっと違うような気がしている。

 もちろん映画であり漫画でもある「この世界の片隅に」を愛している人たちは、エピソードのあるなしで優劣をつけて騒ぐようなことはしないと思っているけれど、資金難から削った部分があるといった話が浮かび、ヒットしたから作るといった話も出てきたあたりで完成品はそっちだといった雰囲気が漂っていたのも実際のところ。そうじゃないってことを改めて、片渕須直監督が語ってくれて今ある作品への愛を訴えこれから作られるだろう長尺版の位置づけも話してくれたことで、そのあたりの区切りをつけて見てくれる人が増えたと思いたい。それこそ長尺版は芝居でも見に行くような気分で、4時間の映画を2時間づつに区切って幕間を入れてロビーで幕の内弁当を買って食べるくらいになってくれれば。弁当箱の蓋をあけたら水気が出てしまった楠公飯が入っているところまでも含めて。ね。

 何が起こったかは分からないけれど、少なくともとある女優の座長によって土下座を強要させられ、降板させられた2人の女優のうちの1人が「超電子バイオマン」のピンクファイブだという、その1点において特撮ファンとしての僕は降板した女優の側に理がると思ってしまいたくなってしまう。高校生から大学生に上がった年の放送だけれど、そのタイミングだったからか前の「科学戦隊ダイナマン」も後の「電撃戦隊チェンジマン」もほとんど見ていないにも関わらず、「超電子バイオマン」だけは毎週ほとんど欠かさずみていてイエローフォーが途中で死んでしまった衝撃を味わいつつ、後を継いだ2代目イエローフォーが最初はパンツを見せていたのにすぐ見せなくなったことへの落胆を覚えたものだった。そうだったっけ。その辺の記憶は曖昧だけれど、それは別にしてやっぱり好きだった女優さんが苦境を訴えているなら信じてあげたいもの。真相はどうあれ今後の活躍に支障が出ないことを今は祈ろう。

 オキシタケヒコさんによる「筺底のエルピス5 −迷い子たちの一歩−」(ガガガ文庫)を読み終える。人類を滅ぼし尽くした段階で次はもうないと消える殺戮因果連続憑依対こと鬼を相手にした集団の戦いが、路線の違いから組織どうしの殺し合いにまで到った世界で日本に拠点を置く門部はほとんど全滅に。そうした中を1人生き残って歴史を遡った形になったイヌイ・カナエだったけれども戻った世界で親しかった百刈圭と再開しつつこれは違う圭なんだと思いつつ、自分はそこにいても良いのかと迷いつついると1本角なる鬼に襲われるとも知って生き方を迷う。

 前のようには殺し合いには到らない組織間で手打ちもされたけれど世界が滅びに向かっていることには変わりが無い。鬼退治を始めた宇宙的な生命体の思惑も見えない中で滅びるのをそうした時空を切り離し、滅びるに任せつつ自分たちの時空だけが生き残っていくサバイバルをいつまで続けるべきか。そんな迷いを浮かばせながらスタートした新世界での戦いの行方。それは戦いそのものを終わらせるようなエンディングへと向かうんだろうか。そうなって欲しいなあ。でないと救いがなさ過ぎる。

 カルロ・ゼンさんによる「ヤキトリ1」(ハヤカワ文庫JA)も読み終える。地球が異星人によって支配されつつ興味もないんで権利だけ主張しつつ兵士を調達するようになった世界で、管理社会になってしまった日本からちょっぴりポジティブすぎる考えが周囲との話を乱すと見做され、施設送りにされかかっていた少年がピックアップされ、リクルートされて惑星機動歩兵、通称ヤキトリの1員となる。戦場に出れば死亡率が70%という苛酷な任務を全うするべく始まった訓練だけれど英国人の女性はプライドが高く米国人の男性は泰然としつつ決定打に駆ける。北欧人に中国人もいる中でわめき立てるだけの日本人のガキといった組み合わせは最悪に見えたけれど、そんな反骨心こそが実は「ヤキトリ」の確変に求められていたものだった。

 つまりは自主性。言われて流され命じられるままに動く兵士ことが優れた「ヤキトリ」だと見做されている節もあるけれど、それではいたずらに損耗率ばかりが増えて戦場での成果に結び付かない。あるいは地球人類がそういう存在だと見做され続けて進化がない。でも本当にそうなのか。そうでない人類もいるのではといった計画が動いて集められたK−321の5人がいがみあいにらみ合い感情をぶつけ合う中で状況を不満と思い訴え違和感を覚え最後には覚悟を決めて突っ走る。型にはまらず言うなりにならないそんな部隊の自主性が、膠着した状況を変えるかもしれないといった思惑から見守られ、育てられて卒業をしてった先でいったいどんな戦いをさせられるのか。そこを5人で乗り切っていけるのか。イギリス人女性はデレるのか。いろいろ浮かぶ想像を確かられる続きを早く。

 そろそろ夏も本当に終わりそうなんで、TeNQで展覧会を見て刺激されたこともあってもう一度見ておこうとと「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を劇場で鑑賞。うん、僕はやっぱりこの映画が大好きなんだ、夏のひと時の高まりと触れ合いとそして散会。出会いというほど熱くなく離別というほど冷えていないふわっとした関係が見ていて不思議な酩酊感を与えてくれる。たゆたう波に浮かび漂うとも。そんな空気感を味わいたくて映画館に僕はいくのだろう。もう見る機会も減りそうだけど記憶にとどめてこの夏を終えよう、この映画とともに。


【9月13日】 しかし昨日見た2度目の「機動戦士ガンダム THE ORIGIN V 激突 ルウム会戦」も、やっぱり登場人物たちの心情も背景となってる世界の基盤も掴みづらいというか、どうしあらそういった思考になるのか、そしてそういった急ピッチの展開になるのかが分かりづらかった。心情で言うならたとえばドズル・ザビが自分たちの軍によるサイド2襲撃によってとてつもない人間が死んでしまったことを振り返り、可愛いミネバを見てそこにもいったいどれだけのミネバがいたんだと公開する場面は、それはそれで理解できなくもないんだけれども次の瞬間、目の前の可愛いミネバさえ守られればほかの誰かなどどうなったっていい、殺されたのは弱いからだなんて結論にいたって命の平等さて奴をすっかり忘れてしまっている。

 あるいは因果応報的にいつか来るだろう自分たちの滅びの日を想定して、そうならないためにも目の前の敵は蹴散らさなくてはいけないといった思考にたどり着いたのかもしれないけれど、それがカードをひっくり返すように瞬時に行われていているところがちょっと無理過ぎ。心が分裂でもしていて多重人格的に切り替えでもしているのかと思ってしまった。あとはギレン・ザビとかコロニーなんて地球に落としたところで資源を伴わないコロニーが小規模でまとまってもやがて来る地球に反撃されれば終わり、そんな時を向こうはただ待っているだけで良いと見通せば出来たはずなのに、責め立てれば和平が結ばれるといった楽観に支配されて結果として国を滅ぼした。ほんの10数年で権力も国力も定まらない国を戦争だけの組織に仕立てたって勝ち目なんかないのに。そういう大局を見られない権力莫迦にどうしてなってしまったのか。そこがちょっと知りたくなった。

 そうした設定はつまりは漫画版「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」を描いた安彦良和さんの創作であって、テレビアニメーションの方の富野由悠季さん監督による「機動戦士ガンダム」はもうちょっと、状況にシリアスで心情に納得のところがあった。そのエピソード、その1ページの1コマを面白くするために驚きを入れ転換を混ぜ表示をギャグにしてつないでいった果てに、読んでほどんとコメディかと思わせるようなものが出来上がってしまったんだろうか。それは漫画として面白くてもアニメーションの映画として見るとやっぱりちょっと浮ついた感じが出てしまう。劇場版の「クラッシャージョウ」もそんな感じだったしなあ。だからやっぱり絵コンテと演出はプロフェッショナルに譲って欲しかったけれど、そもそもが漫画「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」のアニメーション化であって「機動戦士ガンダム」のリブートではないからこれで良いのかも。ずっと見たいかというとやっぱりちょっと、かなあ。セイラさんが脱ぐなら話は別だけど。どうだろう。

 そして買ってきて「BLACK LAGOON」の双子編最終話、「Swan Song at Dawn」を見ていつグレーテルが「わたしは〜ぐれ〜て〜る〜〜〜〜、ヘンゼルを探してるぅ〜〜〜〜のぉ〜〜〜〜」と歌い出さないかとハラハラすることはなかったけれど、今となっては強烈なハイトーンボイスと突拍子もない振る舞いが評判になってしまう金田朋子さんが、幼いけれども不穏さを漂わせた少女の声を演じきっているところにはただただ関心。そこはやっぱりプロだなあと感じさせる。ランドセルを背負ってトラのぬいぐるみをかかえながら出演していた「ロボやん」だってナレーションは普通に淡々としてシリアスな訳で、そうしたプロ意識が発露してのテレビ番組での奇行であり、また周囲を破壊する金朋ボイスなんだろうと理解しておく。

 これもやっぱり作劇の上であれだけ慎重にすべてを見通していたヘンゼルでありグレーテルが、たったひとりで噴水の縁に座っているバラライカを見てやっぱり1人なんだと思って近づくはずもないと思うんだけれど、そこで頭が他のことを感じられないくらいに勝利に酔っていたって理由はヘンゼル自身が誰もホテルモスクワのメンバーを倒せなかったことを自覚している以上成り立たない。きっと狙撃犯がどこかに潜んでいるだろうと想像できたし、バラライカ自身だって元はプロの軍人だから手斧で迫るグレーテルくらい拳銃で倒せただろう。そうした可能性を見知ってもなおバラライカの前に飛び出してしまったのは、きっともうここで終わりにしたいという気持ちがあったからなんじゃないのかなあ。そう思う。

 いくら自分の中に2人いるからって、それを信じてヘンゼルをバラライカに差し出し自分1人がどこかに逃げるだなんてことをグレーテルがするのもやっぱり不思議。ロアナプラで待っているか2人でバラライカの前に飛び出すか諦めて退散するか。そんな妥当な道を選ばず自滅へと進んでいくあたりにやっぱり戦いの中で心が疲れてしまっていたのかもしれないと思えて来る。そうした部分をけれどもやっぱり片渕須直監督といえどもリアルには寄せられずほぼ原作どおりで通した感じ。続く日本編でのレヴィと銀次&雪緒とのラストバトルが原作とは随分展開を変えているのとはちょっと違う部分か。境内で一騎打ちじゃあそれまでの時間をレヴィがどこかで隠れていなくちゃならないからなあ。それは続く展開の中で改めて。エンディングに歌われた「Swan Song at Dawn」はやっぱり聞かせるなあ。さすがは金朋……ではんくここはMinako ”mooki” Obataさん。まさか後に「マイマイ新子と千年の魔法」最高のスキャットを聞かせてくれるとは。そういう縁を大切にする人なんだなあ、片渕須直監督は。

 スパルタカスみたいなものかなあ、アップルが新しく明日ことになったiPhoneの10周年記念モデルのiPhone Xって。スパルタカスの方はマッキントッシュの20周年を記念したモデルで液晶モニターによる薄型ディスプレイにタッチパッド付きのキーボードがセットになった不思議なモデルで、別に三角錐の先端が切られた台形の形をした何がついていた。それが本体と思ったら違ってスピーカーだったみたい。いったい何を聞かせたかったんだろう。そんなモデルは120台限定で出たけれども後のマックに何かが活かされることもなく、どこか異形の記念モデルとして歴史の脇に追いやられた。ジョブズのいなかった時代のこうした異形のモデルって結構不思議なのが多いからなあ。

 そして戻ったジョブズはiMacを送り出してPCにデザイン革命を引き起こしiPhoneを送り出してスマートフォンの様相を一変させる。それは現在に到って多くの影響を及ぼすくらいの革命的な出来事だったんだけれど10年が経って送り出された記念モデルは、これもまたジョブズの下で開発されたものではない関係からかどうにも異形感が否めない。全面スクリーンとかいいつつ丈夫に切れ込みがあってカメラだか何かがのぞいている。それがどうにもカッコ悪いし、そもそもがこうしたスクリーンはサムソンのGalaxyなんかがすでにやっていたりする。デザインにおいてiPhoneは洗練はされていても進歩は止まっていて次なる一手を新しく示せていない。Xではない8とか8PLUSは無線充電とか出来てもそれがどうしたといった感じ。スマートフォンを再定義してブラックベリーやザウルスやパームの世界から踏み出させたジョブズの才覚は、やっぱりジョブズとともに途絶えてしまったって見るのが正しいのかもしれない。その革新性が未だ有効なうちにアップルは次の一手を打てるか。1、2年が正念場かもしれないなあ。


【9月12日】 そういえば東京ドームシティにある「宇宙ミュージアムTeNQ」で新房昭之総監督による映画「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」の展覧会をやっているんってんでとりあえず見物に。1800円だかを支払ってまずはプロジェクションマッピングによる宇宙観測へと挑み宇宙探査へと挑んだ人たちの足跡を振り返る映像を見て、そして円形のスクリーンに宇宙と自然の変化を映した映像が投影されるのを観た後で、展示室に入って奥に設けられた「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」のコーナーへと進んで及川なずなの水着姿の絵コンテだとか三浦先生の胸がまだ大きいキャラクター設定画とかを見る。まあそんな感じ。

 舞台となった茂下駅なんかの設定画もあってこれが現実の飯岡駅とどう違うのか、1度くらいは聖地巡礼に行きたいけれども遠いし行ったらそこから自転車でもないと身動きがとれないんでちょっとためらっている。少年たちみたいに歩いて灯台まで行くのもキツそうだしなあ。あと展示ではタブレットに触れると投影された映像に花火がはぜる仕掛けなんてのもあって、背景をアニメーションの絵にしてなずなにタッチしつついっぱい花火を飛ばす。総じて密度はないけれど、こうして展示をしてくれるだけれでも嬉しいかなあ、今のままだと夏の打ち上げ花火の如くにドンと上がってバンとはじけて、あとは忘れ去られていくだけになりそうだし。もう1回くらい映画、見ておくかなあ。

 毎号読んでいるイブニングで「隼ちゃんもとんでます」が作者の鬼頭莫宏さんの入院手術でしばらく休載になるみたいで残念。日本橋ヨヲコさんの「少女ファイト」もほとんど2カ月に1回くらいのペースになってて話が全然進まないのが残念な中、きくち正太さんの「瑠璃と料理の王様」はほとんど休まず続いているから素晴らしいというか、これが大ベテランの味なのか。そんなイブニングで始まったのが針井佑さんによる作画の「クラッシャージョウ REBIRTH」で、高千穂遥さんの原作を元に文庫本でイラストを寄稿していた安彦良和さんが描いたキャラクターの絵をほとんど再現して綴っていくからまるで安彦さんの監督によるアニメーション映画を見ているよう。「クラッシャージョウ THE ORIGIN」とでも名付けたくなった。

 気になるのはこの安彦さんテイストがクラッシャージョウの本質なのか、ってあたりで影響はあってもストーリーは普通にスペースオペラだから、他にクールな誰かの絵がついてもたぶん違和感はなかっただろう。というか「THE ORIGIN」で定着してしまったギャグ混じりのキャラクターによる演技や演出がそんな安彦さんに影響され過ぎている感じの「クラッシャージョウ REBIRTH」に受け継がれてしまっていてアレレといった気分も一方に浮かんだりする。アルフィンが可愛いから気にしないといえばしないんだけれど、もうちょっと高千穂さんならではの熱くてそれでいて時にクールなジョウの活躍を見せて欲しい気も。どうなっていくのか。読んでいこう買ってるし。

 知性であるとか科学であるとかいったものとはとことん対立し、想像力なんてものとは無縁の一派だからそういう理解しか出来ないことは承知だとしても、あの軍部に逆らい権力にたてついてまで知性を重んじ、科学を尊び、世界融和に向けて筆を執り続けた反骨のジャーナリスト、桐生悠々を取り上げて好戦的で国粋的な人間であるかのように装うのはもう言語道断、世界に対する罪であって即刻筆を引っ込めろと言いたくなるけれど、そんな声など届くはずもない他山の石ころである我が身がどうにももどかしい。届いたところでどうこうなる一派でもないんだけれど。

 東京新聞が桐生悠々の代表作とも言えるコラムで、これを書いて軍部に睨まれ信濃毎日新聞を追われた「関東防空大演習を嗤う」を取り上げ、北朝鮮によるミサイル実験による備えにあたふたしている政府を非難しているのを見て、都内でどんどんとシェアを奪われている気がしているからなのか東京新聞を躍起になって叩いている別の新聞が、いやいや「関東防空大演習を嗤う」は上空に入り込まれる前に叩けと言っているからむしろ先制大歓迎の愛国的な文章だろうと突っ込んでいる。なるほど表面を見ればそう取れるけれど、桐生悠々が一貫して主張しているのは現実を見て将来を科学的に推測し妥当な策を執ることであって、あの時代、関東防空大演習なんてやるのがはたして妥当だったかは問うていても、だからといってバリバリに防空体制を固めろなんて思ってなかっただろう。

 現実を見て無茶で無駄なことはやめようよって話であって、それを昨今の北朝鮮情勢に当てはめるなら、核武装でもして迎撃態勢を整えろとかって話にはならない。だいたいがはるか宇宙から真っ逆さまに落ちてくる核ミサイルなんて迎撃できるものでもなく、1発でも撃たれたら世界もろとも終わってしまう。それは先制だとか防空力の強化で防げるものではないのなら、もっと現実を見て外交努力によって封じ込めるのが妥当だって話だと受け止めるのが真っ当な思考という奴なのに、目下の敵たる東京新聞を叩きたいがためにそうした想像を働かせず、揚げ足を取って揶揄してみせる。

 面倒なのはそうした主張にすんなり乗のっかり桐生悠々を国防強化にして先制も辞さない国家主義的言説の鏡と讃える言説が滲み溢れていること。まったくもって脳が溶けそうなになる。でも桐生悠々は例えば「煎じ詰めれば」という文章で、「彼等は国家主義者、民族対立主義者であって、コスモポリタンなる我を解する能わず」とそうした国家主義的な人たちを批判し、「『恭倹己を持し、博愛衆に及ぼす』超国家的、超民族的にして、彼等のいうところ『八紘一宇』の一大理想その物を、かえってみずから破壊せんとしている」と指摘している。これを読んでも「関東防空大演習を嗤う」を国防強化の勧めと讃え、東京新聞を叩いている人たちは自分たちが莫迦にされていると気付かないのか。そこがやっぱり気になる。

 桐生悠々を見知って読んでいれば、「関東防空大演習を嗤う」の件で踏み間違いを冒さず自分たちの親派を煽動して東京新聞攻撃の尖兵になんかしないものを、そうした部分を黙って扇情的な部分だけ抜き出し、煽って敵を叩く態度こそが桐生悠々の最も嫌うものではなかったか。「だから言ったではないか」と繰り返される言葉に未来を予測しながらも手を打たず、二二六事件を招いた軍部であり世間を痛烈に批判した桐生悠々の本質とはまるで正反対の部分だけがもてはやされ、持ち上げられていくとどうにも厄介ないので、今こそ中央央論新社は「畜生道の地球」を復刊して、その反骨ぶりを世に知らしめ、畜生道に落ちかけているこの国を、言葉をどうにか真っ直ぐに戻して欲しい。でも読みたいところだけしか読まない人たちは、復刊されても本質は届かないか。やれやれだ。

 そして音楽関係の人がトークに登壇した「機動戦士ガンダム THE ORIGIN V 激突 ルウム会戦」を新宿ピカデリーで。このやさぐれて格好いいランバ・ラルが10カ月の後には太ったおっさんになってホワイトベースに特攻かけるなんてちょっと信じられないけれどもそれが時間という奴か。それともパラレルワールドなのか。違うならこの何話かでもうちょっと老けさせておくべきだったかもしれない。そして音楽について服部隆之さんは前に「ゴジラvsスペースゴジラ」の音楽を担当した時に毀誉褒貶あって、伝統ある作品の音楽を担当することにいろいろ思いもあったみたいだけれどもまずは好評なようで善哉といったところ。「半沢直樹」だろうと「真田丸」だろうと「ガンダム」は「ガンダム」だと言うファンも多いから。

 でも登壇した1人でファーストの「機動戦士ガンダム」で音楽プロデューサーを務めた藤田純二さんが、最初はファーストの曲をもっと使うつもりでいたけど、思ったより服部さんの曲がマッチしているんでそっちを使っているという。受け入れられたよ。そんな服部さんによる「ガンダム」も残り1話。試写ではなかった予告編もついてまた表情が微妙になっていたけどいよいよガンダムも大地に立つのかな、ってアムロがガンダムを探ってたってどういうことだ? やっぱりパラレルワールドの作品なのかなあ。この後に1年戦争の後半も「THE ORIGIN」でやるってなったらどうしよう。ランバ・ラルが格好いい中年オヤジで特攻する様は楽しめるけどドズルが汗をかきかき言い訳しながらビグザムで吶喊する姿は視たくないし。複雑です。


【9月11日】 匂いが出るVRを実現するVAQSOって会社が東京ゲームショウ2017に出展するに当たっていろいろな会社とコラボレーションすることになて、その発表があったんで朝からホテルニューオータニへ。昔はソフトウェア系の会社がいろいろと発表会をやったんで月に何度も通っていたけど、最近はこうした場所を使う発表も少なくなって、住友不動産が経営するオフィスと貸しスペースのベルサールなんかが多様される感じ。ホテル経営ももしかしたら厳しくなっているのかもしれないけれど、それ以上に企業経営も大変なんだろう。それで景気が回復基調とか何を言っているんだろうどこかの総理は。お先真っ暗。

 VAQSOの方はスクウェア・エニックスの「解離性ミリオンアーサー」とかシンガポールの会社の「サイレント」とかのVR版と連動して匂いが出るコンテンツを出展する様子。「サイレント」とかだと硝煙やら血の臭いやらが漂ってくることにナルのかな。「ドリームペッツ」っていうペット育成のVRなんかもあるけれど、これとかけものの匂いが漂ってくるとかだったらそれはどんな匂いなのかがちょっと気になる。でも1番気になるのはシータって会社が出している「透明少女」で、部屋の中に実写の美少女が現れ膝を突き合わせて会話してくれるって内容だけでも興奮なのに、グッと迫ってきた顔とか体から漂う香りがまた素晴らしい。これが美少女の香り? 嗅いだことないから分からないや。

 とにかく顔が近いというか、そんな距離で美少女と会話することなんて一生が二生したってあり得ないから貴重な体験かも。チョコレートモナカを出して来て割ってくれる場面でも漂うチョコモナカの香り。さすがは匂いプロデューサーだけあってなんでも調合できるんだなあ、VAQSOさん。あと東京ゲームショウ2017には前にコンテンツ東京2017で見たAoi Inc.ってところのバーチャルトリップも登場するみたい。あっちでも匂いはつけていたけど今度は歩く場所の高さを下げて、地上から5センチくらい音ところを歩けるようにするとか。前の50センチくらいでは高齢者が乗ってコケたら怪我しそうだったものなあ。角川歴彦さんがチャレンジした時はきっとドキドキだっただろう。次のはそうはならないみたい。ある着心地はどうかなあ、試してみたいなあ。

 顔と膝を突き合わせて美少女と喋るのもVRならではの夢の実現だけれど、巨大な怪獣とヒーローとが戦っている真下から見上げるようにして眺めるのもまた特撮ファンのVRによる夢の実現。それを成し遂げてしまうVRコンテンツが円谷プロダクションとポニーキャニオン、ajaという会社の共同によって開発されて、その発表があったんで見物に行く。「大怪獣映画G」がDVD化された時にインタビューに行った田口清隆監督が手掛けていて、テレビシリーズのウルトラマンから外れているんでこれならと飛びついたもののVRで特撮を撮るのに最初はいろいろと手探りだった模様。会議室から窓の外を見るとエレキングとウルトラマンゼロとが戦っていて、それに会議中の会社員たちが反応するシーンとか、会議室の窓に戦っている映像を写すわけにはいかないから、どのタイミングでリアクションを取ればいいか分からない。そこで繰り出された必殺技が素晴らしい。

 答えは田口監督自身がテーブルの下に潜り込み、そこでVR装置を通して戦闘シーン画集録されている映像を見てそのタイミングでテーブルの下から叫んでいたという。単純だけれど苦労も多い方法。あとは特撮史に残ると自認している「ウルトラファイトVR」の爆発シーンもやっぱり塹壕に入って操作をしているから爆発の瞬間は肉眼では見ていないってことになる。もったいないけどそれがVRコンテンツを作る難しさ。光は合成できてもビームのような真っ直ぐ飛んでいく映像は合成できないみたいで選択肢に迷ったみたい。でもそこは武器で切りつけることで終幕へと持っていけた用。これもまらVRらしさに溢れたエピソードと言えそう。次はどんな鍵だと開くのかな。そんな場所はあるのかな。

 場所を移動して六本木ヒルズで「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」のライアン・ジョンソン監督が登場してファンの質問に答えるファンミーティングを見物する。前の「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」でハン・ソロの身に起きたことを見て40度の熱が出た自分は「最後のジェダイ」を見て大丈夫かと問われて「死んじゃうかも」と答えたあたりに笑ったけれど、それだけいろいろな驚きが待ち受けていると言われているだけあって関心もそこに向かった様子。問われて「それを言ったらサプライズじゃないよ」とかわしていたけれど、どんな展開が来たってエピソード9ではすべて丸く収まることになるだろうから安心して見て行って良いのかな、それともここに来て全破滅のカタストロフを描いてシリーズを打ち止めにする気なのかな。まずは公開を待とう。

 「最後のジェダイ」と言えば今まで観たことがないケリー・マリー・トランさんという女優がローズという結構重要な役で出ているらしく、どんな人かと見てアジア系の女優さんで美人という訳でもない不思議な存在感。アクション俳優として知られている「ローグ・ワン」のドニー・イェンと違ってまったくの無名という点も目新しく、いったいどういう理由で起用されてどういった演技を見せてくれるのか、不安も渦巻く中でライアン・ジョンソン監督は見て欲しい役者として彼女を挙げて「明るい日射しのような人」と評していた。コメディリリーフて訳でもないだろうからきっとその天真爛漫さでもって暗くなりがちな「最後のジェダイ」を明るく引っ張っていってくれるんだろう。ジャジャー・ビンクスみたいな突出したキャラになって叩かれないことを祈りたいけれども果たして。

 気がついたらもう14冊目になっていた鎌池和馬さんのシリーズ最新刊「ヘヴィーオブジェクト 最も賢明な思考」(電撃文庫)ではラストに大技が炸裂してそれどこの彗星帝国的な驚きを味わわせてくれるけれど、それを見ると冒頭から繰り広げられたさまざまな謀略とそれを阻止するためのクウェンサーやヘイヴィアたちの活動が、正しかったどうかって疑問も湧いてくる。彼等はそれぞれの極地でミクロの視点から目の前の敵を排除し、やや視野を広げてそれが正しいことだと思おうとしているけれど、結果としてそうした行為がとてつもないモンスターを実現させてしまった訳で、それを阻止しようと動いていた天才少女たちはたとえ誰かの思惑であったとしても、その思惑の主の正義を遂行していたとも言えそう。そして邪魔したクウェンサーとヘイヴィアは悪と。そんな単純な二元論でもないだろうけれど、どこを踏み間違えてそんな事態に到ったか、次の巻あたりで考えられるだろう。でないと艦上で死体の山となったセーラー服美少女軍団が可哀相。彼女たちが正義だった感じもあるし。どうなるか。


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