縮刷版2017年9月上旬号


【9月10日】 「サクラダリセット」で未来視の魔女、相麻菫は来たる咲良田の危機を予見して、それを防ぐ手立てとして自らを消し去りそして、浅井ケイの手によって写真に残された姿を実体化させる能力を使ってもらい、復活して管理局長の浦地が企んだ咲良田の能力を消そうとする企みを阻止した。そうなった世界になるほど相麻菫は存在しているけれど、それは以前に存在して事故で死んだ相麻菫ではない。記憶は繋がっていても意識は断絶している。そして蘇った相麻菫はそんな立場であることを自覚していて、それが自分の役割だからと任じてはいても、自分はいったい何者なのかといった疑問に時折苛まれて涙する。

 シミュラクラ。ニセモノ。それでも存在せざるを得ない、存在させられてしまった自分への懐疑は、そうと知ればきっと誰もが抱くだろう。けれども今のところ「Re:CREATORS」で蘇ったシマザキセツナは、自分が創造主によって形作られ顕現した被造物であると自覚はしていても、だからといってそのことを悔いたり疑ったり悩んだりしている風はない。それはひたすらに目の前のアルタイルを慰撫し取り込み引き寄せるために生み出されたからで、それさえ成し遂げられれば自分が水篠颯太に慰めてもらいたいのに救ってもらえず、ひとり孤独の中に死んでいったことへの怨みも何もないからなんだろうか。そういった怨みをセッティングされないまま等の水篠颯太によって顕現させられたんだろうか。

 だとしたらちょっと可哀相だ、アルタイルもシマザキセツナも。だからこそ次、最終回である種の“元凶”とも言える水篠颯太がどんな落とし前をつけるかに興味が向かう。自分を見捨てたあんたを許さないとシマザキセツナに罵倒され、蹴り殺されるとかすれば良いのに。それくらいあって当然だろう、でないと臆病者の卑怯者が世界を救ったヒーローになってしまうから。後は消えてしまったアリステリアやセレジアや煌樹まみかなんかも改めて、顕現してみんな仲良くなんてことにはなれば良いけれどそれは難しいか。クリエイターたちが自分たちの創作がもたらしたさまざまな事件を見て、それでも創作を続けられるかどうか、ってあたりも興味津々。あとはやっぱり築城院真?の動静がきになる。対アルタイル戦では勝利の鍵になったけれど、それだけの実力者が被造物として徘徊してたら世界も休まらないだろうから。実はまだ颯太きゅんの家にいるのです、的な? そんな終わりもあったら楽しいかも。

 安倍晋三総理のお気に入りとして今まで散々っぱら讃え褒めちぎるようなことを書いて来て、それで気を良くした総理がじわじわと道を踏み誤ってのっぴきならないところまで来てしまったところで、手の平を返すようにして批判めいたことを書いたとある公共放送の記者がちょっと話題になっている。それだったら新聞の戦争責任を感じて記者を止め、故郷に帰って「たいまつ」を発行していたむのたけじさんに倣って自省し筆を折って田舎に引っ込むのがジャーナリスト魂って奴なのに、とある公共放送の記者は奢りが出ていると言うだけで、そうやって奢り高ぶらせた自分たちの責任についてはまるでナッシングといった感じ。結局のところは潮目を見てもう乗れないと分かったから鞍替えしているだけ過ぎないのに、それすらも英雄的だと持ち上げるメディアとかあってなんか居心地が悪い。敵さえ倒せれば戦犯でも寝返れば不問に付すのか。でもそんな裏切り者は次もまた権力に阿り讃えた挙げ句に増長させ道を誤らせるだけなんじゃ。やれやれだ。

 サンライズフェスティバル2017翔雲の「アイドルマスター−XENOGLOSSIA−」を観る。最初に舞台挨拶をした長井龍雪監督が上映開始前に戻ってきて着席する姿が見えたんで、最後まで観劇しているだろうと思い観終わった時に拍手を入れて讃えて送り出す。いなくても拍手はしただろうけれど。それだけ面白い作品なんだよ「アイドルマスター −XENOGLOSSIA−」は。アイドルに合格したって言われた少女が上京したら、あてがわれたのはアイドルというロボットに乗って地球に堕ちてくる月の欠片をワンパンチして砕くことだった。

 それのどこがアイドルだ? ってきっとゲーム「THE IDOL@STER」を楽しんでいた人は想っただろう。それが今に尾を引いて作品そのものへの妙な視線を送らせている。長井龍雪監督も相当に身に刺さる視線を覚えたよう。舞台挨拶で錦織敦史が原作ゲーム準拠のアニメを監督した時に絵コンテを描いてと頼まれて、さすがに身を引いたというから結構厳しい気分を覚えていたのかも。でも改めて見るとほんとうにこれは面白い作品だった。地球を守るロボットと少女から勢力を争う組織の駆け引きがあり個々人の愛憎もあって入り乱れる中盤から地球を救いに行く驚きの展開。それをキャラクターもメカ(=アイドル)も高い作画によって描き動かしてのける。10年前でも今見てまったく古びていないように思える設定でありビジョンだと思った「アイドルマスター−XENOGLOSSIA−」。そこから1話を覗けば19話23話26話と終盤のシリアス回を見せる選択が良かった。

 全部で26話もある前半なんかは、 陽気にアイドルやったり女子寮めいた場所でドタバタやったり痛快に地球を救ったりもしていた回もあったけど、上映はアイドルを巡る争いがあり如月千早が執着でおかしくなりヒロインの天海春香が自分とインベルとの関係を確信すしと愛憎劇を見せてる。 そしてクライマックス。一種の種族やら存在を超えた信頼があり情愛もあってとSF的なコンタクトの物語を見せ地球規模で起こる激変といったこれもSF的なビジョンを見せてラストに感動の決別と旅立ちを描いた。改めて素晴らしいSFアニメであったと思ったよ。

 未だ世間的には「THE IDOLM@STER」人気の煽りを受けて奇妙がられているようけれど、こうして上映されて見てもしかしたら凄いロボットアニメじゃ無いかと分かった人もいたんじゃなかろうか。ゲームへの関心が薄かった僕は毎回本当に楽しんだ。鬱な展開にはちょっと気もそれたかな。でも改めて傑作と断じたい。10年経った今は一種の2次創作として受け入れられる気もしないでもないんで、Blu−rayボックス化とか取り組んでくれたら善哉。その時はブックレットにバンダイビジュアルの通販サイトでしか買えなかったDVDのパッケージイラスト、キャラクターの水着バージョンも収録して欲しいなあ。

 どこかの伝統あるメディアがウェブサイトへのアクセスを稼ぐことが至上命題と、人手が不足することも承知で現場から記者を吸い上げ、取材なんか行かせずネットで見かけた情報なんかを現場で取材して裏を取るとかいったことをせず、引っ張って書いて並べて読者をヒャッハーさせるチームを立ち上げていたりして、早速に伝統あるメディアがまとめサイトをやっているぞといった評判を呼んでいたりするけれど、そんな風評をどこふく風と今日もせっせとネット発のネットオンリーな記事、というよりまとめブログを発信続けている。たとえば東京新聞の記者が官房長官を相手に質問を続けていることに、「中国民主化運動に身を投じた」といった惹句でもって中国出身で今は日本に帰化した評論家が発信した、弾圧されない日本のメディアが憶測で質問するなんて吐き気をもよおすといったツイートを紹介している。

 そしてさっそく新潟県知事の米山隆一さんが吐き気をもよおすなんて言っている評論家なんてずっと日本にいて安全地帯から中国を批判しているだけで、今住んでいる日本の政権と対峙なんてしてないじゃん、そっちの方が吐き気をもよおすよと突っ込んでいるけど、取り巻きからは反論が山のように浴びせられている。でもちゃんと味方する人もいて、そも評論家の人は天安門事件のより1年は前に日本に来ていてずっと留まっているだけじゃんといった声が書き込まれていたりする。もちろん海外で反政府活動をやってトロツキーみたく暗殺される場合もあるから安全地帯とは言いがたい。そうした身の危険を覚えながらも生き抜いてきたのなら天晴れと讃えられるだろう。

 それなら日本でだって表はともかく裏でなにがあるか分からない状況で、権力批判を続けることを同類だねと讃えてこそすれ自分(というか自分の知っている人たち)とは違うと罵倒するのはどうなのか。日本にいながらにして外交政府を批判するスタンスと、日本にいて日本政府の批判をするスタンスに何か違いがあるのか。どうにも分からないそんな言説の非対称性を鑑みるなら、一方の言い分をそのまま流すのって果たして公平かどうか、考えれば分かりそうなものだけれど、味方したい人を味方し罵倒したい人は罵倒し続ける“偏向”も辞さない組織なのか、相手の言い分に忖度するような態度はまるで見せない。取材を申し込んだけれど断られたって、普段からどうにもヤバい記事ばかり書いてりゃ警戒されるよなあ。

 というか、根拠が曖昧かどうかなんて関係為しに疑惑が浮上すれば訪ねるのが記者って人種で、そこで明快に否定できればそれでオッケー、あなたの主観ですと逃げるのは最悪で、それをいったら個人がする質問なんてその個人の主観でしかない訳で、それを理由に拒絶していたらどんな質問にも答えなくて良くなってしまう。言論にとってジャーナリズムにとってとてつもない危機をけれども、そのチームは官邸に逆らうなんてケシカランといったスタンスから知らぬ顔をして擁護する。大丈夫なのか。TBSがなぜか記念日でもないのに日の丸を掲げた人たちによって囲まれた一件についても、理由はTBSの報道が一方的だからと責める言い分をそのまま掲載したりするれど、これって自らの報道にも矛先が向かう可能性があったりする。それを考えたら配慮もすべきなのに相手が偏向しているという活動を、そのまま乗せる偏向ぶりを平気でやってしまうところだからなあ。分かってないんだろうなあ。明日はどっちだ?


【9月9日】 これは素直に凄いと言おう。陸上の男子100メートルで桐生祥秀選手が何と9秒98を出して公式記録で初めて日本人選手として10秒の壁を突破した。アジアの選手だったら中国の蘇炳添選手が9秒99を出していて、ナイジェリアからカタールに移ったことからアジア選手となっている前の2人とは違う、いわゆる黄色人種として初の9秒台を記録してはいるけれど、それに次ぐものでありタイム的には0.01秒速くてその意味では黄色人種最速と言えば言えるのかもしれない。そういう区切りに意味があるかと問われると差別や偏見を生むため難しいものの、遺伝子的な何かがどうしても肉体に影響を与えてしまうならばそうした要素を区切った中で“最高”を与えても間違ってはいないのかどうなのか。ケンブリッジ飛鳥選手やサニブラウン・アブデル・ハキーム選手といった人たちが出しても素直に凄いと言える気持ちをしっかり持って暖めていこう。

 ひとり、またひとりとセーラー戦士たちが倒れていく悲劇的なシチュエーションの中をひとり、残ったセーラームーンが北極圏を進んでクイン・ベリルに指揮されたダーク・キングダムを打ち破ろうとして戦うテレビシリーズ第1期「美少女戦士セーラームーン」のクライマックスをこそ、アニメーションを中心にして火が着いたセーラームーンのムーブメントにおける個人的な感情のピークだと今になって振り返ればそんな気もする人間にとって、仲間たちを犠牲にしなくてはならない苦渋、それでも戦わなければならない苦悩、そして戦った先に本当に幸せは訪れるのかといった懐疑を抱きつつ、それでもやっぱり戦わざるを得ない運命の残酷さを受け入れ進む少女の勇気はやっぱり尊く、そして眩しい。

 渋谷にあるAiiA 2.5 Theater Tokyoで9月8日から開幕したミュージカル「美少女戦士セーラームーン」−Le Mouvement Final−の2日目、週末でもあり出演するちびちびを新津ちせさんが演じる回でもあって選んで観に行った舞台はそんなアニメーション版「美少女戦士セーラームン」の第45話から第46話にかけての凄絶さと清冽さを思い出させてくれるストーリーだった。もちろん武内直子さんの原作に準拠した舞台だということで、漫画には「セーラースターズ編」として描かれそうした展開も予定のままだったと言えば言えるけれど、テレビシリーズの第1期を至上と踏んでしまった頭からはアニメーションのSSも原作漫画の後半もちょっと飛んでしまっていて、どういったものか思い出せなかった。

 そして改めて見た「セーラースターズ編」の舞台、ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」 −Le Mouvement Final−はアニメーション『美少女戦士セーラームン』のクライマックスを想起させる絶望と感嘆の物語がさらにスケールを大きくし、突きつけられる命題もさらに苦悩の度合いを増すものとなってセーラームーン/月野うさぎを惑わせる。ひとりまたひとりとセーラーギャラクシアンなる存在によってクリスタルを奪われ肉体を消滅させられていくセーラー戦士たち。留めようとして立ちふさがる相手もまたセーラーギャラクシアンによって作り出されたセーラー戦士たちであり、さらには消滅したはずのセーラー戦士までもが現れる。戦いたくない。それは当然。ニセモノであっても同じ見た目を持って挑んでくる相手を優しいセーラームーン/月のうさぎは倒すことなんてできない。

 そうする間にも守ろうとして立ちふさがった仲間たちが消えていく。どうすれば良い? そんな苦悩と懊悩は戦いこそが至上と言いたげな世評と、戦わないことこそが至高とでも言いたげな風潮のぶつかり合う中で、自分自身として何をすべきかを考えさせる。怖かったから逃げる。それもありだろう。相手に屈服したふりをして再起を待つ。それもあり。でもそうやって削られてしまった心をふと見直して果たしてもう1度立ち上がる勇気といったものを抱けるのか。立ち上がるためのエネルギーを燃やし続けられるのか。そう考えた時、立ち止まり逃げて迷い裏切ることの難しさといったものが突きつけられる。自分ならどうする。貴方ならどうする。考えよう。ひとつの幸せな結末を目にした後に。

 そんな物語のミュージカル「美少女戦士セーラームーン」 −Le Mouvement Final−、やっぱり肉体を持ったセーラー戦士たちが舞台を縦横無尽に動き回るのは目にも楽しく心に美味しい。スカートからすらりと伸びた脚とかもう目の毒というか、前目で見たらきっと心が破裂してしまうんじゃなかろうか。とりわけセーラージュピターの楓さんとセーラーヴィーナスの長谷川理桃さんの脚が細くて長くて綺麗で、漫画やアニメーションのビジュアルイメージを体現したような雰囲気を醸し出していた。もちろんセーラームーン/月野うさぎを演じた野本ほたるさんも長身で舞台映えする女優さん。舞台『けものフレンズ』でも準主役的な立ち位置となるオカピを演じていたけれど、それもうなずける堂々たるセーラームーンぶりだった。

 敵ではやっぱりセーラーギャラクシアの五十嵐ココさんが元宝塚ならではの張りのある声で歌って聞かせてくれるのに聞き惚れた。立派ともいえるボディラインが短めのスカート風装備の下にのぞいて目を奪われる。歌でいうならこちらも元劇団四季だけあって火球皇女の岡村麻未さんの歌声が素晴らしかった。役の雰囲気に合わせて歌う2.5次元ミュージカルの「美少女戦士セーラームーン」にあってひとりオペラか本格的ブロードウェイ的ミュージカルを演じているよう。基礎が違いすぎるといえば言えるけれどもアイドルのステージが持つ華やかさとオペラ歌手の舞台とでどちらが上か下かと言うようなものであってその個性が存分に発揮できる役で、絶好のタイミングに現れたと言うのが良いのかも知れない。さすがというしかない歌唱力。必聴だ。

 そんなキャスト陣にあってひときわ輝いていたのがちびちび役の新津ちせさん。最近では映画「三月のライオン」にモモちゃん役で出演もしていて広く演技の方は知られているけれど、映画とは違って舞台はリアルタイムに進行してそしてやり直しがきかないという厳しい場所。そこに弱冠7歳くらいの女の子が立ってセリフをタイミングに合わせしっかり感情も込めて話し、動いて躍りもするというから驚くよりほかにない。舞台度胸があるというのかいつかの「ミス・サイゴン」でタムというとても小さい男の子の役を演じたときはあまり話さず舞台に出ていさえすれば務まるところもないでもなかった。もちろんその年齢で動ぜず泣きもしないで何千人も見守るステージの上に立ち続けることの方が難しい。普通だったら出来ないところをやり遂げていたのを目の当たりにした。

 そこはだから大丈夫とは思いつつもやっぱりファンの目も違った意味でグッと厳しくなる「美少女戦士セーラームーン」のミュージカル、すなわりセラミューに参加して間違えずにやり遂げる、それもセリフあり演技あり踊りあり歌だってあったりする舞台をしっかり勤め上げた。驚くよりほかにない。聞いていると近所からちびちび可愛い巧いといった声も上がるほどに認められていた様子。これなら10月1日まで東京から愛知大阪へと回って続く舞台の中で、山口陽愛さんとのWキャストを共にしっかり勤め上げていってくれるだろう。山口さんの方はどんな感じか、というのも気になっただけに機会があったらまた観に行くか、主にセーラーギャラクシアのお尻を。

 せっかくだからと「超人ロック」生誕50周年をお祝いする会なるものを見物に行く。たいして書いてもいないのに呼んで頂けるだけで光栄なので居ならぶ有名な方々の周辺をふらふらと徘徊しつつ寄せ書きなんかを眺めてそうかやっぱり超人ロックは髪から描くのがスタンダードなんだと理解する。顔の輪郭を描くと頭が大きくなりすぎるからかもしれないなあ。もう40年近く呼んでいたりする聖悠紀さんを遠巻きに見て未だ若いなあと思ったけれども御年67歳とか。それで超人ロックを50年も描いているなんて早熟だったんだなあと感嘆。ロックの声を演じた人というとで神谷明さん、難波圭一さんとそして松野大紀さんが超人ロックのボイスコンテストについて話されていて応募して来た中に良いのがなくて松野さんが呼ばれたってことだったけれど、当時なんか問い合わせの手紙を出して中止になったって返事をもらった記憶がうっすら。捏造かもしれないけれど結局は一般公募を止めたって気がしている。まあよくある話。受かっていたら今ごろ僕がロックとして壇上に立っていた? 受かるはずはないか。

 朝日新聞とかがツイッターの日本のオフィス前でヘイトだと見做されているツイートをプリントアウトして歩道に並べたものを抗議する人たちが土足で踏みにじっている画像とか映像をサイトに掲載している。そんな画像や映像に写り映って言葉を踏みにじっている者たちの姿に僕はただ哀しさを覚える。たとえ非道無法の言葉であってもそれを踏みにじって何になる? 己の言葉を踏みにじり返されるだけだろう。言葉には言葉を重ね覆って埋めていくしかないのだ。その不断の努力もなしに言葉を、それも恣意性の高い選び方がなされた言葉を論旨も読まず並べられているからと踏みにじる者たちが煽動により見もしないで言われるがままに言葉を踏みにじり続けた果てに何が起こる? それはとても恐ろしい世界の訪れに違いない。映り写っている者たちよ恥よ。戦け。そして報じたメディアは己の言葉が踏みにじられることへの想像を高めよ。それは言論の敗北であり、あなたたちそうなる道を自ら開いたのだと知れ。


【9月8日】 太陽ケアとリック・フレアーがタッグを組んで地球に襲いかかってくる夢を見た。それは夢ではなくて全身を貫く電磁波が脳細胞を刺激して見せた幻なのかもしれないけれど、そうした異常が起こったという話もなく10年に1度くらいの巨大な太陽フレアは、予告された午後なんて時間よりはるか先の午前中に地球へと到達してちょっとばかりの通信障害を起こしたみたい。あとはど派手なオーロラを発生させたとか。人によってはメキシコで発生したマグニチュード8.0の巨大地震は太陽フレアが影響したものだとか言い出しそうだけれど、それはさすがに違うだろうからあとは今後の報道の中で、因果関係がありそうなものを拾って次の糧にすることくらいか。鷹見一幸さんの小説「宇宙軍士官学校」の第1部のクライマックスのように、地球の表面が焼かれるような太陽フレアが発生する日は果たして来るか。

 ノイタミナでアニメーション「DIVE!!」を見た。麻木夏陽子コーチのハイレグが見られず残念だったけれど、私服で開いた胸元の谷間を見られたからまあ良しとするか。そんなそんな麻木コーチがアメリカに引き抜かれてしまうかもしれないって勝手な翻訳で思わされた坂井知季が焦って落下して怪我をしたりしてMDCは結構大変。それでも富士谷要一が東京オリンピックへの代表内定を拒絶してフラットな立場で試合がしたいと日本水泳連盟の会長に直談判して、それが意外にも受け入れられて最後に1人になるかもしれないし、自分が出られないかもしれないがそれでもいいかといった極めてフェアな条件を提示されて自分自身のためにオリンピックに出るんだといったアスリートたちの思いが浮かび上がってくる。もちろん競技者団体にだって思いはあるけど、最後は選手だからなあ、やっぱり。次回は是非に麻木コーチのハイレグを。もしくは尻を。

 オリンピックといえば1964年に日本で始めて開かれた東京オリンピックに縁の品々が収蔵された秩父宮記念スポーツ博物館・図書館ってのがあって国立競技場が建て直しのために取り壊されるまではそこにあったんだけれど、今は流浪の身となってそして新しい国立競技場が出来上がってもそこに戻れないまま流浪の旅を続けることになっているらしい。改めて博物館と図書館を作る気構えが文部科学省にも賛歌のスポーツ振興センターにもないっていうのが信じられないというか、レガシーがどうこう言っている割に日本のスポーツ文化の発展において絶対的に保存されるべき品々を、元の持ち主に返して雲散霧消させることだって平気なマインドがまず分からない。

 国で買い上げ国宝として永久保存したって不思議は無いのに。それもとやっぱり美術品ではなくスポーツの用具に過ぎないから保管しておく意味はないと考えているんだろうか。そうだとしたらいわゆるアーカイブといった概念に無頓着過ぎるにも程がある。1カ所に集めて永久に保存して新しいものも重ねていくからこそ意味があるのに、フローで考えその時ばかりは賑わったからあとはなくても平気といった考えなんだろー。そんな意識を持った国が例えば漫画だとかアニメーション、あるいは特撮といったメディア芸術のアーカイブ事業を始めたところで、安定した運営は期待できそうもない。

 一定期間が過ぎて収蔵品が増えすぎて整理しなきゃとなった時に有名無名の中で優劣を決めてこぼれた例えば漫画家だったら寄贈された原稿なんかを返すなり破棄するなりしそーだし、アニメーションだったら宮さん高畑勲さんあたりの原画は取り置いてもそれ以外は廃棄処分としてしまいそー。分け隔て無く集めて保存するからこそ同時代的に文化を記録して保存して後生に伝えていけるのに。そうは考えないこの国がアーカイブ事業なんてやるだけ無駄な気がしてきた。有意な民間とかそれこそアラブの石油王で日本のサブカル大好きな富豪に任せた方が良いんじゃないか。そんな気もしてならないけれど、とりあえず秩父宮記念スポーツ博物館・図書館を恒久施設として再現することを願いたい。クールジャパンファンドに回して溶かされるよりこっちに金を出す方がよっぽど有意義だと思うけど。

 これはちょっと期待かも。竜王戦の挑戦者決定戦が行われて羽生善治二冠が松尾歩八段を破って見事に渡辺明竜王への挑戦権を獲得してみせた。名人に王位に王座に棋王に棋聖に王将といったタイトルではすでに規定の獲得数を得て永世の称号を得ているにも関わらず、竜王だけが1期満たずに未だ永世の資格を得られていない。過去にも挑戦はして奪取はしたことがあっても、最近は挑戦権を得るところまで至っておらず心配だっただけに、今回の挑戦権確保を本当のタイトル奪取へと進んでいくための幸先の良い道だと思いたいもの。とはいえ竜王位にかけるところもありそーな渡辺竜王が勝つ可能性もあって情勢は予想もつかない。なので対極が始まったら大盤解説もやって分かりやすさで語れる棋士を解説に配置して欲しいと願おう。

 月刊アニメージュと月刊ニュータイプとアニメディアのアニメ誌3誌連合による「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」の試写会があって上映後に京田知己総監督とアニメ評論家の藤津亮太さんによるトークがあるってんで見物に行く。分かったのは青野武さんの死去があってアクセル・サーストンを演じられる人がほかにはあり得ないと言った判断がスタッフにあって、だったらどうするかとなってアドロックの物語にすることになり、その活躍が結果としてレントンを孤児にしてしまって、ただでさえ捻くれているキャラクターが面倒を見てくれる親もいないとさらにひねてしまうといった判断もあって、チャールズとレイのビームス夫妻をレントンの養父母にする展開へとまとまった、とか。

 真否のほどは分からないけれども現実にアクセルは登場しておらずレントンの父親が古谷徹さんだなんて主人公級の声優さんを得ていたりするあたりに、今後においてもアドロックはいろいろと展開に影響を与えるって想像ができそう。1回きりのゲスト声優として古谷さんを使って終わりだなんてことはないだろうからなあ。そんな古谷さんを選んだ理由については、アドロックはひげ面のおっさんだけれど自己犠牲を発揮して特攻するようなタマではなく、ナイーブで気を回しすぎるところがあるみたいで、そんなニュアンスを持った役を演じられるのは大塚明夫さん的なおじさんではなく古谷徹さんのような懊悩が声に現れている声優さんがよかったってことらしい。初見は違和感があったけれど、今度見たらもうこれしかないって声に思えて来るかな。その意味でも劇場にはいかないと。

 CEDEC2017での任天堂による講演の記事からスライドを写した画像が消されているといった話。だいたいにおいてネット系メディアの記事は長すぎるというか、講演の書き起こし全掲載みたいなことはやめてくれって言われているのに、1から10までずっと書いてそれにいちいち画像を添えている。そうしないとおそらくは話し言葉だけでは意味が通じないからななろーけれど、結果として繰り出される長い記事を本当に読者は読みたいんだろうか。要点だけさらりとまとめてあって読めばだいたい分かって、詳細は公式で確認しろちう方が読者も筆者も楽だろうに。流れのままに講演を書いて言ったって話し言葉や思考の複雑さから意味が通じないこともあったりする。そこで前後を入れ替え捕捉も入れて構成し直すのがライターの腕の見せ所なんだけれど。それよりやっぱり全文掲載が受けるのかなあ。ややこしいなあ。


【9月7日】 火のない所に煙は立たないという言葉は、それでも無理に炎上させようとする動きもあるから全面的に与する訳にはいかず、したがって不倫報道が持ち上がってとりあえず、当事者たちの釈明も行われたといっても、起こる猜疑心からの糾弾をかわすには完全なまでの火消しを行う必要がりそうで、それが果たしてできるのかが今後の焦点になりそう。一方で李下に冠を正さずという言葉もあって、シチュエーションによってはちょっとした仕草が疑われる元になるからそうした紛らわしい行動はとるなといった戒めになっている。

 その言葉に照らした時に不倫報道が持ちあがった国会議員と弁護士は、とてつもなく大事なシチュエーションで決定的に疑われてしまう行動を取った、その1点でも存分に非難されるに値する。幹事長になるかどうかと取り沙汰されていたまさにその時期、一般的な倫理観からはすこし外れてしまう行動をとってしまった国会議員の軽率は誹られて当然だし、そうした行動を国会議員にとらせることになった弁護士の行動もまた自重が足りず慎重に届いていないと非難されて然るべき。今そうした行動をとって誤解でも本当だから露見でもされたら自分たちが携わっている組織にどういった影響が出るのかを、考えればとてもじゃないけれど冠なんか正せない。

 結果として国会議員が所属する政党は新たな船出の出鼻をくじかれ沈没への道を辿りつつあり、国会議員を信じて応援していた人々の思いも完璧なまでに踏みにじられた。そうした思いを抱いて集まっていた人たちは、一方で自分たちの師範となって導いてくれるはずの人に大きく裏切られた格好で、これで神経が細かったらもう誰も信じられないと組織を解体し、山に引きこもっても不思議は無い。そうした結末がどうして見えなかったのか。文字通りに恋は盲目だったのか。そんなに恐ろしいのか恋という奴は。味わったことがないので分からないけれど、明晰で洞察力もある人たちですら狂わせるそれの存在があったからこそ、歴史というやつも作られてきたんだろう。今回はどんな歴史の発端になるか。独裁を赦し滅亡へと到る歴史か。見極める途中で国ごと雲散霧消してしまいそうだなあ。やれやれ。

 なんていうか、純文学様をスマートフォンに持っていってリーディング文化のシンギュラリティ突破だあと言われてもなあと思わないでもなかった、新潮社とヤフー・ジャパンが上田岳弘さんの新作小説「キュー」を文芸誌の「新潮」とヤフー・ジャパンのサイトで同時に掲載していくといった発表会。ネットで小説を読ませるなんて過去にケータイ小説の魔法のiらんどがあり、その道のビッグネームとなった小説家になろうがあり、ジャンル的にはより幅広いエブリスタがあって、後発ながらもバックがデカいカクヨムがありと既に一杯でてきている。プラットフォームでなければキンドルパブリッシングがあって藤井太洋さんのような世界的に活躍する作家も出てきている。

 ほか諸々があってネットで小説を発表して多くにとどける試みはすでに飽和状態にすらなりつあるし、ネットならではのインタラクションを利用した実験はそれこそ筒井康隆さんが「朝のガスパール」で試してとてつもないものを生みだしている。その後も筒井さんはASAHIネット上で文芸的な活動をして今もネットで日記を好評。そんな時代に文字数レイアウト固定でスマートフォン上に少しずつ文章を掲載して、それを指でスクロール送りする読み方にしたからヒャッハーとか言われても困ってしまうのだった。純文学様が降臨したから偉いって訳でもあるまいに。

 だから文芸誌の中に留まり村の言葉だった純文学をスマートフォンというプラットフォーム、Yahoo!というポータルを使って広く世間に流布して関心を持ってくれる人をひっかけたいんだと言えばそれで良いような気がするけれど、それ言ってしまうと崩れる何かもあるんだろうなあ。おそらくは「新潮」編集長の矢野優さんは分かっているし参加する上田岳弘さんだって分かっているな気がする。そのクールで未来を見据えたような作風から。宮内悠介さんのようにジャンルオーバーで活躍できそうな人だと思うし。だからこそYahoo!が何か権威づけて見せようとする雰囲気、それをとりまき持ち上げようとする文芸記者の雰囲気が面倒でならないのだった。

 作品の方で言うなら「キュー」と名付けて前に9段階あってこれから9段階あって人が変わる様を描くとか、憲法九条に引っかけてあるとかいったタクラミが文学の人っぽいし文学っぽい。そういう仕掛けがだったらスマートフォン上の連載からしか生まれ得ないものなのか、っていうのもまた悩むところで、伝えたいことがあるなら形式は気にしない方が良いし、形式があってそれに会わせて中身とフォーマットを変えて描くならもはや文芸を超えたアートだよそれってな気がしないでもない。まあ仕掛けなくては売れないのなら仕方がないのかも。SF的な設定でもありそうだし、どんなストーリーが繰り広げられるか追っていこう。

 大丈夫なのかなあ、と思う一方で大丈夫だろう、とも思えるのはのんほいパークだなんて愛知県でも東三河の豊橋市にある動物園に、決してメインではないヒグマの声優さんが来場するってことで1300人ものファンが集まったって話を聞いたからで、あそこでそれなら幕張メッセなら13000人が訪れたって不思議はないかもしれないし、そこまではいかなくても1000人はやって来て幕張メッセの第10ホールと第11ホールという外にある1棟のうちの3分の2を埋めるだけのファンが来るんじゃないかといった気がしている。「けものフレンズ」の話。今もすでに池袋で繰り広げられている「お祭りだよ! けものフレンズがーでん」が幕張メッセに出張して、10月7日と8日に大々的にイベントを開くとか。

 お酒も飲めるしノンアルコールのドリンクだって楽しめる上に池袋では会場の都合もあってそれほど大々的には繰り広げられていないイベントが、幕張メッセならではの規模で繰り広げられることになるみたい。声優さんとか来るのかなあ、クリエイターとかも見に来てくれるのかなあって想像も浮かぶし、「やくしゃのおねえさん」ってあるから舞台「けものフレンズ」に出ていたキャストの来場なんかもありそう。チーターさんかなあ、クロヒョウさんかなあ、シロナガスクジラとマンモスだと嬉しいなあ、とか。「原作・サーバル来場決定」ってことはつまり吉崎観音さんが描いたパネルの特大のが来るってことなのかな。グッズの販売もあるしコンサート「もりのおんがくさい」のCDやBDの先行予約なんかも出来るみたいなんでこれはやっぱり行くしかないかなあ。1人で行って呑んでいるのもつまらないけれど、ジョッキとかもらえるしここはやっぱり飲み放題で予約かなあ。

 異能の能力が優れているからって、それを使う人間の倫理観がぶっとんでいては危なっかしくて使って良いとは言えないらしい。でも犯罪者でもなければぶっ飛び方にも限度があるんじゃないかと思われるところを、蜜川うるみは悪いことをしている相手を絶対に見逃せない性格で、やったぶんだけお返しをする、目には目を歯には歯をのハンムラビ法典が生きて歩いているような性格なだけに、倫理点が下がってしまうのも仕方が無い。だったら轟木沢悠宇佳はというとご令嬢なだけあってプライドが高すぎて相手の境遇などに配慮しようとする気が無くやっぱり倫理点が下がってしまう。花畑恋祢子はといえば中二病気なだけで酷くはないんだけれど一般からはやっぱりズレてしまってる、そんな留年組を立て直すために若い教師が送り込まれるという、神秋昌史さん「アウトサイド・アカデミア ≪留年組≫は最強なので、チートな教師と卒業します」(スニーカー文庫、620円)。ある意味では理想の倫理観もこの現実社会では生きるに困難ということか。幸あれ。


【9月6日】 目覚めつつ眠りながら耳で聴いていた日本とサウジアラビアによるサッカーのワールドカップ2018ロシア大会に向けたアジア最終予選最終節は何か拮抗しながらも後半に日本代表がサウジアラビアに1点を奪われ敗戦となったもよう。オーストラリアもタイに勝ったけれども2対1では得失点差を詰められず3位となって大陸間プレーオフへと進む前に別グループで3位となったシリアと対戦することになったみたい。勝てるような気がするけれども国は大変でもサッカーだけはしっかり勝ってくる国だけに万全とは言えなさそう。なおかつ大陸間プレーオフ、ってどことやるんだっけ。いずれにしてもオーストラリアは果たしてアジアに入って良かったのか。また考え直すかもしれないなあ。

 お隣の韓国もどうにかこうにかイランに続いてグループ2位に入ってワールドカップの出場を決めたみたい。日本は6大会連続だけれど韓国は9大会連続でこれはなかなかの記録。アジアがまだ2枠しかなかった時代もたぶん含んでいるからその強さってのはやっぱり世界レベルなんだろう。でも最近は本大会ではあまり活躍できていないし(それは日本も同様だけれど)世界で大活躍する選手もパクチソン選手とかイチョンス選手移行、あんまり耳にしないような気がする。まあ日本だって香川真司選手と長友佑都選手くらいであとはそこそこ。そういう意味ではやっぱりアジアにとって世界のサッカーはまだまだ遠い舞台なのかもしれない。縮める意味でも本大会の共に活躍を期待したいけれど、今の選手層ではやっぱりキツいかなあ。新陳代謝が必要だろうなあ。本田圭佑選手はこれでお役御免? そこもまた興味の向かうところだろー。

 フランスでの公開も始まったようで片渕須直監督の「この世界の片隅に」に関する評が各紙にいろいろと出始めているようす。「リベラシオン」は割と速くて作品についてしっかりと吟味して紹介し、そして名門の「ル・モンド」なんかは国民の生活が戦争による緊急事態にのみ込まれていくことへの言及なんかがあってしっかりと作品を見据えているようだった。さらにはこちらも名門中の名門といえる「フィガロ」が片渕監督のインタビューと、そしてフランス語吹き替え版による長めの予告編お同じページに入れて紹介。日本でだってここまでゴージャスな紹介のされかたはあまりされていなかっただけに、フランスでもトップクラスの日刊紙がこぞって大きく扱っている状況から、それだけの作品なんだといった理解があらためて浮かぶ。これ、本当に凄いことだよなあ。

 アメリカでの公開もロサンゼルス・タイムズやらニューヨーク・タイムズやらシカゴ・トリビューンやらがしっかり紹介していたし、それ以前にイギリスでの公開もザ・タイムズにガーディアンにインディペンデントにフィナンシャルタイムズといったところがこぞって大きく扱っていた。もちろん日本でも公開時には主要日刊紙がすべてトップ級で扱っていたけれど、その割にテレビメディアでの紹介がまるでなかったところにこの国のまだ真っ当な新聞ジャーナリズムと、何かによってゆがめられているテレビジャーナリズムの状況て奴が見えてくる。ようやく動きつつはあるんだろうけれど、でもいわゆる民放の連ドラにのんさんが出た訳じゃない。そこが解消されない限りは未だ旧態依然とした体質にテレビはあるって言えるだろう。突破するなら今が底辺のお台場テレビ局が真っ先にオファーし持ち上げれば良いのに。そんなことが出来たら民放下位には落ちないか。そうだよなあ。

 限定された空間において天才的な洞察力を持った少年が異能であれ知識であれ自分の能力を使って最大限の効力を発揮するといった、パズルと推理とが合わさったようなストーリーを「サクラダリセット」や「階段島」シリーズで描いてきた河野裕さんが、河端ジュン一さんをパートナーに迎える形で描いた新シリーズが「ウォーター&ビスケットのテーマ1 コンビニを巡る戦争」」(スニーカー文庫、660円)。何かレターが届いて架見崎なる場所の住人になる権利を得たらしい香屋歩という少年と幼馴染みの秋穂栞という少女。指定された日時より早めに情報を得ようと訪ねた事務所で喋るマペットなどという非現実を見せられそこからたたき落とされるようにして移った場所が架見崎という場所だった。

 そこにはすでに人がいて、チームを作って暮らしつつ戦っていた。狙いはもちろん食料品で、各地に点在しているコンビニなんかが領土にあれば食べるに困らなくなる。でも無尽蔵ではないじゃんって声に答えるならば架見崎での日々は1カ月が経ったら食糧も破損もそして人体の損傷すらもしっかり直ってしまうという。ただ死んでしまったら退場で、運営者によれば元の世界に変えるだけってことらしいけれど真否は不明。とりあえず香屋と秋穂は落ちた場所を領土にして、映画館を根城にしていたキネマ倶楽部の一員となって、一定のルールのもとに行われる他のチームとの領土をめぐる戦争に臨むことになる。それぞれか架見崎に来るにあたって与えられた能力を使っての戦争に。

 もちろん香屋も秋穂も能力を与えられていたけれど、そこでいろいろ考えたようで戦闘に役立つ銃撃だとか防御だとかいったものとは違った能力を香屋は得ていた。そして自信が持つ鋭い洞察力でもってキネマ倶楽部が存亡の危機にあるのをどうにかしようと計画を立て、そのとおりに状況を持っていって信頼を得る。途中でとてつもなく強い相手も倒してみせる。自身の異能は記憶することだけれど、時間をリセットできる能力やら他の能力を組み合わせ、管理局の暴走を止めて咲良田に前と同じ平穏な状況を取り戻した浅井ケイにも似た天才ぶり。それをほこらず淡々と進めるところもちょっと似ている。

 そんな香屋が目標にするのが、どうやら先に架見崎に来ていたらしい幼馴染みのトーマとの対決で、そんな状況を作り出そうと計画を立て引っ張り出して出会った映画館で明感いなるトーマの正体。そして繰り出される驚くべき展開。続きはあるのかどうなのか。リセットまでまだ日数があるから手足を損傷しながら最後の数日を生き延び元通りになったキネマ倶楽部のリーダーとは訳が違うしなあ。そんな興味と異能の組み合わせに香屋の綿密な推察推理洞察計算をもとにした仕掛けが乗って起こる奇跡のような逆転劇への関心を持って、続きが描かれる時を待とう。口絵の藤永さんのパンツスーツによるお尻が良いなあ。ラインが透けてないけど下着履いてないのかなあ。

 ううん、とあるメッセンジャーアプリから大発展した会社の役員とかいう人が、ネットであれこれ荒ぶっておられるようだけれど、どこか無敵の人っぽくてかまうだけ厄介なところがあって、言うだけ無駄って雰囲気にあったものがそこはちゃんと突っ込んでいくまつもとあつしさん、メディアという存在の守られるべき矜持を信じているところがあるんだろう。なるほど勤務時間外に誰が何をいおうと自由は自由であっても、メディア企業の人間が勤務時間外であってもメディアの存立を揺るがす言説を放ったのなら、それはそのまま所属するメディアの信頼にも関わるってだけの話。切り分けなんてできないし、するならメディア企業側が己の媒体の信頼を担保する意味で対処すべきなんだけれど、なぜか出来ないという。何でだろう。何でかな。そこがちょっと知りたい。


【9月5日】 前はたぶん2009年5月31日くらいに今は無き新宿高島屋の上にあった映画館、テアトルタイムズスクエアで開かれた藤原啓治さんと京田知己さんとの対談を観に行った時だから、9月16日に公開予定の「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」に行ったとして、劇場で「交響詩篇エウレカセブン」絡みのものを見聞きするのは8年ぶりくらいになるのかもしれない。それだけ経ちながらもイベントが開かれれば満席になるくらいの人気の根っこがいったいどこにあるのか。実はよく分かっていなかったりするけれどもスレた大人の僕らとは違ってまだ若い層にはテクノのビートが鳴り響くサウンドと、サーフボードでロボットが空を飛ぶビジュアルは新鮮に映ってそれでファンになって今に到っているのかもしれない。

 そんなファンで満席になった新宿バルト9で開かれた「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」の完成披露試写会で、レントン・サーストンならぬレントン・ビームス役であると話した三瓶由布子さんが「初心者に優しくない映画」と言っていたようにクールでスタイリッシュではあるけれどもオーソドックスではないため何が起こっているかが分からず戸惑う作品であるんだけれどそうしたとっつきにくさも含めて愛しているのがエウレカファンってことなんだろー。だからきっとレントンがレントン・ビームスとして繰り広げる2週間ほどのドラマにも驚きつつ納得して見ていくんだろう。その自分勝手ぶり、その離別をどう評価するか。ずっとそこにいれば良いのにと思いそうだけれどそれでは話が進まない。エウレカとも再会できないのなら歩み出す他はなかった、ってことになるのかな。レイ・ビームスの胸より、チャールズ・ビームスの胸板より良い場所なんてあるのかなあ。あるんだろうなあ少年には。

 すでに試写で観ているんで完成披露試写会で京田知己さんがアピールしていた冒頭から30分は続く手描きのロボットアニメーションによる戦闘シーンの凄まじさは了解。そこで登場するアドロック・サーストンの声が古谷徹さんであることに、三瓶由布子さんも名塚佳織さんも納得していたようすだったけれども1度観ただけではどうして古谷さんなのかがちょっと掴めず褒め称える理由が宙ぶらりんだったりする。あの四角い顔で髭をはやしたおじさんが古谷徹さんってなんか違うような気もするけれど、そこにアドロックがいると三nさんが感動したほどだからちゃんと観ればそう思えて来るのかもしれない。ホランドは森川智之さんになっているけれどこちらも納得。今回の劇場版のホランドってなんかニヤけてないっていうかクールなんだよなあ、だから藤原さんより森川さんが合っているかもしれない。公開まであと少し。始まったらまた観に行こう。

 ヘンリー・セリックさんが監督をした「コララインとボタンの魔女」を観たのはもう何年くらい前になるんだっけ。公開に合わせて来日したヘンリー・セリック監督にもインタビューしてストップモーションで人形の顔を変えながらアニメーションを作る凄さに感嘆した記憶があるけれど、その後に同じライカというスタジオで作られた「パラノーマン ブライス・ホローの謎」でも驚いた、もはやCGによる描画としか思えないくらいの自在な表情の変化だとかつなぎ目の見えない動きだとかが、最新作の「KUBO/クボ 日本の弦の秘密」ではさらに進んでもうCGで作っているんじゃないかとしか思えないくらい、シームレスに表情が変わってキャラクターも動き回っていた。

 だったら何でCGで作らないのか、何百もの顔の表情を3Dプリンターで出力しておいておき、シーンに合わせて差し替えながら動きもつけて撮っていったものをあとでコンピューター上で手直ししてつなぎ目を取り、なめらかにして動きも整えていくんだったらすべてをCGでモデリングしておけば、あとは自在に表情だって変えられるし動きだってつけられる、なんて思われて当然だろう。けれどもそういうことをライカはやらないし、やる意味を感じていない。それはストップモーションという技法への信頼であり自信であり、何よりそうやって作られたものへの深い愛情とそしてCGではあり得ない何かを感じているからなんだろう。

 ではいったい何なのか。ちょっと前に「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」の押井守監督が、実写によるハリウッド映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」の冒頭でスカーレット・ヨハンソンが演じるミラ・キリアンの義体が水槽の中でだんだんと完成へと近づいていく中で、パッと散る破片とかラスト近くで多脚戦車の上に乗り、全身を膨らませながら体が壊れるのも厭わずハッチを開けようとするシーンなんかで自分の作画のアニメーションの方が、CGにはないエモーションがあるといったことを話していた。人形によるストップアニメーションもしかりで、なめらかな表情だとか動きはCGライクであってもそれがそこに存在しているという実在感は、やっぱりCGとしてモデリングされ平面にならされた映像の上には乗ってこない、のかもしれない。

 巨大な髑髏を相手にした戦いのシーンとか、KUBOと連れだって三種の武器を探しにでたクワガタみたいなサムライが、戦いを繰り広げるシーンなんかはやっぱり人形ならではの質量が動く感じがある。そうした細かいCGとは違った感じといったものが積み重なって、全体をひとつの命ある存在としてエモーションなりパッションを醸し出している、ってことなのかもしれない。今後さらにCGの技術も進んでエモーションすら漂わせる映像が出てくるかもしれないけれど、それでもやっぱりモノを集めて動かし並べて楽しむアニメーションの原点は変わらず存在してストップモーションの作品が作られ、フィルムの上に定着されたものを感じ取ろうとする人たちを注目させ続けるんだろう。分からなくても感じられる。そんな作品として。

 それにしてもプロダクションデザインもストーリーもド日本だとはちょっと意外。もうちょっとなんちゃって日本であって中国だとか韓国のニュアンスも混じり込んで来るんじゃないかと思っていたけどサムライであり兜に刀といった道具はどこまでも日本的で、そしてクボという赤ん坊の頃に母親とともにどこから逃げ出して、たどり着いた島で暮らして成長した少年が稼ぎに出向いた村の建物の雰囲気だとか、鳥居が位置する神社のようなもののデザインだとかもそれ日本なのって思わされないでもないけれど、フィクションの中で戦国めいた日本的なものとしては十二分に通じるセンス。曲げず流されないで徹底して再現にこだわったんだろうなあ。こんなアニメーションを外国に作られるって言うのは寂しいところ。それでも作ってもらえる嬉しさはあり、日本からだっていずれ出てくるだろうという期待も込めてまずは日本でのヒットに期待したい。これで興行がヘロヘロだとなかなか「クボ/KUBO 二本の弦の秘密」が二本で公開されなかった状況をさらに悪化させかねない。だから行かねばならぬ公開初週末に。近場で上映されることを願おう。

 前原誠司新代表の誕生と共に幹事長就任が噂されながらも民進党の山尾志桜里議員は幹事長になれず代表代行にすら起用されずに終わった。まだ若いからまとめきれないといった反対なら分からないでもないけれど、どうも事情は違って週刊誌が交際問題を追っかけていてそれを気にして外したんじゃないのかといった憶測が流れている。もちろん山尾議員は否定しているし、前原代表も週刊誌は読んでないと言ってはいるけど一方で党運営に与える影響が気になったとかで外したとも言っている。これってつまり根も葉もない噂をたてられ困った人間を、民進党という集団はトップからして守ろうとはしないって現れで、そんな党が政権を握ったところで抑圧されて困ったといった国民を、国の運営に支障があるからとあっさり切り捨てかねない。優しさもなければ救いもない党に支持なんて与えられないと、これで思った人も結構多そう。そうなることを予想しなかったのかなあ。できないからこその凋落なんだろう。やれやれだ。


【9月4日】 ヒロインかと思ったらセレジア・ユピティリア、同じ作品の主人公然とした兄ちゃんの分からず屋っぷりをどういんかしようと自ら四散して退場となっていったいどうなる「Re:CREATORS」。ほかにもアリステリア・フェブラリィが願って人類側に着いたものの出した技を返される忍者みたいなアルタイルの技によって腹を貫かれてそのまま退場。鹿屋瑠偉も怪我の具合が酷くて動けずブリッツ・トーカーが前線にいて後衛でメテオラ・エスターライヒが魔法を繰り出しているだけになったところに炸裂したのは誰の技? 築城院真がねの技もそこに乗って承認力の足りていない中を決定的な人物を顕現させられた。

 見て動揺のアルタイル。そりゃあその存在が失われたことへの絶望から始めたこの暴威の根底がくりりと崩される訳だから。そこで実在していないと蹴っ飛ばせるものなら良いけれど、自身だって不在な中に顕現をした存在ならばそこにいる相手もまた同じ実在という訳で認めないなんてことはできない。じゃあ受け入れてすがりついて心を入れ直す? そこはそれ、共に世界に対する怨みを晴らそうと大暴れしたりして。水篠颯太を真っ先に血祭りに上げて。だって自分と突き合っておきながらも苦しいときに突き放した嫌な奴な訳だし。さてもどうなる。ちょっとドキドキ。

 意欲的な企画を推進するものの途中でクオリティが追いつかなくなって放送を延期すること幾たびか。それでも「ガールズ&パンツァー」を作ったアニメーション制作会社であり、また今も「ガールズ&パンツァー 最終章」を作ってくれているというファンの期待を背負ってあまり糾弾されないことに、あぐらを書いて制作が遅れてしまっては元も子もないと考えたのかそれとも。バンダイビジュアルがそんな「ガルパン」を作ったアクタスを子会社化したってニュースが流れてきて、進行の管理とクオリティの維持のためには自転車操業をさせていてはいけない、資金面でしっかりストックをとれる環境において目の前の作品に取り組んでもらいたいって考えたんだろうかと想像する。

 これはこれで素晴らしいことで、全6章だかで進んでいく「ガールズ&パンツァー 最終章」の完結に安心感も出てきたけれど、一方で「ろんぐらいだあす」とかいろいろな企画を手掛けていたアクタスが「ガルパン」だけを専門に作るようになっていって、やがていろいろなシリーズを親会社の要請で作るようになったりしないかなんて思ったりもする。それはサンライズが「機動戦士ガンダム」のシリーズを作り続けるかの如くに「機動武闘伝Gガルパン」とか作って世界各国に別れた戦車が戦い合う……ってそれは「ガルパン」と一緒か。東方不敗は出てないけれど。

 あるいは「新機動戦記ガルパンW」とかが作られ劇場版の「エンドレスワルツ」なんてものが出来て4号戦車ゼロカスタムが羽根を散らしながら大洗を駆け回ったりするんだけれど、だんだんと戦車のデザインにもマンネリ化の波が押し寄せたのをどうにかしようと、シド・ミードさんにデザインを頼んでスタイリッシュで髭とかついた4号戦車が出てくる「ターンエーガルパン」なんてものが出来るという。そして「ガールズ&パンツァー 鉄血のオオアライ」となって不良学生たちが集まり鉄十字団なんてものを作って世界の戦車道部を相手に戦いを挑むんだけれど……ってそんなのありか? あるかもなあ。最後はみんなで戦車のプラモデルを作ってジオラマで戦わせ合うという「ガルパンビルドファイターズ」。ちょっとワクワクして来たぞ。

 そして見たサンライズフェスティバルでの「星方天使エンジェルリンクス」の上映イベント。サンライズでもごくごく初期の1クールものでそして美少女が主人公という点でも珍しいけど手掛けているのが古里尚丈プロデューサーということで後の「舞−HiME」シリーズにもつながる作品でありサンライズ的にも西田亜沙子さんがキャラクターデザインを手掛けたと言うことで「ラブライブ!」へと連なる稼ぎ頭の原点にも位置する作品なのだということを、アフタートークで古里プロデューサーが登壇して話してくれた。そして余談的に何でまた最終話近くの牧歌的風景の中にペーターめいたものが見えるかというとそれは古里プロデューサーが日本アニメーションからスタジオジブリでラピュタをやってそしてサンライズに来たという経歴からスタッフがからかい半分でいれたということらしい。リスペクトではないわなあ。

 あと13話の1クール作品ということで当時はまだあまりサンライズでは手掛けたことがなく、どういった感じに話を組み立てていって良いかに迷ったとか。2クールやら1年ものなら組み立て方も分かっているけど1クール。起承転結めいたものが探りにくかったらしい。これはあと同席したサンライズの人が打ち入りから打ち上げまでが1カ月くらいだったと行っていて何でも制作が大変で打ち入りにはいれたのが放送が4月から始まった5月くらいでそしてアフレコが終わったらダビングを待たず声優さんたちも交え打ち上げをやったので速かったみたい。今は1クールだと打ち入りとかあんまりやらないらしい。そうなんだ。どっちにしたってアニメスタッフには縁がないからそのあたり不明。

 さて物語についていうならテレビ放送されていた「星方武侠アウトロースター」と関連のある作品ってことで関心はあったもののWOWOW放送では見られず本放送は見ていない。でもって当時でたムックを買ってキャラクターデザインの惚れてそして各話あらすじと読んでいって、最初のなにか社長のご令嬢が金に飽かせて戦艦つくって海賊退治でヒャッハーな話かと思っていたのが李美鳳というヒロインの出自にとんでもない秘密があってそれがラストにグッと聞いてくると分かってちょっと涙した。噂で作画がいろいろ大変だとかまだ新人だった柚木涼香さんの声が若いといった話が聞こえて着たけど、胸の巨大なヒロインのビジュアルに加えて人間存在に関わるような深いストーリー、そして自分の運命と否応なく向き合わなくてはいけないヒロインの痛切な思いを感じ取ってこれは傑作だと見ずして認定し、後にでたDVDボックスを買ってざっとみて思いに間違いはないと確信した。

 だからこそのサンライズフェスティバルでの上映への参加。第1話とそしてヴァレリアにドゥーズが加わってくる第6話を放送してレオン・ロウの存在も見せつつキャラクターの配置をざっと分からせさあイケイケかと思わせておいてい第11話を放送して美鳳の運命をどん底へとたたき落としてもう良いよと言ってあげさせる。でもそれで良いのかもとも思わせる中をやっぱり自分は自分にしかできないことがあると立ち上がり、なおかつ誘いもあって向かった敵地での最後の戦いを描いた第13話を上映して終わるという、実に要点を引っ張り出しての上映でファンとしてもこれで良かったんじゃなかろーか。途中には美鳳の活躍するアクション話もあるんだろうけれど、その身が普通じゃないと知って落ち込み迷い、けれども立ち上がって立ち向かい戦って受け入れられて受け止める、そんな心理の変化を目の当たりに出来て自分たちにもいつかくる”その時”を受け入れる決意を固められた、そんなアニメーションだと改めて思った。

 だからやっぱり傑作だし、今なお見られて欲しいけれども上映はそんなに人、入ってなかったなあ。ラブライバーが西田さんのお仕事の原点と見て駆けつけるかと思ったけれど。その西田さん、第1話で作画監督を務めながらも倒れて途中を参加できず、けれども立ち上がって第13話を頑張ったというから思い入れもあったんだろう。それだけに渾身の作画。そして美しいラストシーン。あの後は? 考えると希望も抱きたくなるし、伊吹秀明さんの小説版だとそうなっているらしいけれどもアニメーションは達観して覚悟もした李美鳳のその思いを、こちらも全力で受け止めるべきだと思ったのだった。ブルーレイボックスは期待できないけれど、パッケージが残っているってことで改めて見直してその運命を強く受け入れた李美鳳に喝采しよう。

 運動のための運動と化した教条的で先鋭的な左翼的言動に反発を抱いて右翼的マインドを育み対抗しようとする、それ自体を咎める気持ちはないけれどもそうしたマインドを物語に盛り込み、平和を願うものは教条的で先鋭的で運動のための運動と化していて話が通じない悪だといった観点でのみ書き、揶揄し罵倒するのはなんか厄介だなあととあるラノベのシリーズ最新刊を読んで思ったというか。元軍人への中傷はいけないことだけど平和主義者の全員がそう思っているわけではない。でも物語でそれしかないとそうだと思われ真っ当な平和と人権のための活動に揶揄が向かい反発が向かって面倒なことになるという想像力を、ちゃんと働かせて欲しいのだけれど。実際に沖縄の反基地活動なんてそんな風に観られ始めているしなあ。参ったなあ。


【9月3日】 だいたい決勝は生中継されるんだけれど観たのっていったいいつ依頼になるんだろう、NHKのテレビ将棋トーナメント。確実に覚えているのは村山聖九段が決勝に出てきた時だろうけれど、そこで敗れて後、休養に入ってからやがて訃報となる訳で動き話す村山九段を抑えた映像として大いに意味のあるものだった。今回はどうだろう。まだ新人の藤井聡太四段が第18世名人の資格をもった森内俊之九段と対極。決勝でもないのに生中継となったのは、連勝が続く中でこっそり対極をして放送まで間が空いたときに計算が難しくなると思ったからか、それともやっぱり生中継で数字が録れると踏んだか、分からないけれども既に連勝は途切れた中での生中継。それでも相手が相手だけあってそうするに相応しい対極になった。

 なぜかB級1組に落ちたことをひとつの区切りと判断してか、名人位に挑戦することのないフリークラスへと転出してしまった森内九段だけれどもやっぱりA級在位の経験があり名人でもあった現役の九段ということで、これまでの対極相手とは格が違う。公式戦ではおそらく最強の相手とも言えそうだけれどそこはタイトル戦でも順位戦でもない早指しだけに双方、実力がどこまで発揮されたかは判断に迷うところかも。とにかく矢倉でじくり責めようという感じの森内九段に対して急戦を挑む藤井四段といった感じで、手を抜かず一気に責めて森内九段の玉が囲いに入る余裕を与えない。ところどころに歩を垂らし守りも割切ったその手が最後に効いて、浮いた相手玉を責め立て投了へと追い込んだ。

 森内九段が急戦への展開を見誤ったのか、それともやっぱり実力が下がっているか。これも判断が難しいものの藤井四段が手を抜けば責めて剥がして追い詰めるだけのチャンスはあったように思う。だからやっぱり早指しという場で相手の出方を踏んで自分の持てる実力を一気に爆発させたのが勝因といったこところだろー。この次、同じだけの実力者も出てくる可能性があるけれど、そこはしっかり指していってくれそう。やっぱり生中継にこだわるのかな。慣れている大人の棋士と違って初のテレビ生中継に緊張せず自分の指し手を貫く藤井四段はやっぱり凄い逸材だなあ。NHK杯取ってしまうかなあ。

 ULTIRAの巨大なスクリーンと片渕須直監督が自ら調整した9.1chの音響で「この世界の片隅」が観られるもしかしたら最後の機会になるかもしれないんで今週末8日まで上映が続くイオンシネマ幕張新都心へと向かう途中、せっかくだからと千葉県立美術館で開かれている「立体造形の現在・過去・未来 THE フィギュア in チバ」を観に行く。千葉市美術館なら何度か行ったことがあったけれども県立美術館は初めてで、どこにあるか調べたら京葉線の駅から徒歩で10分くらいと戻ってイオンモール幕張新都心に行くには好都合。船橋からはJRで千葉駅まで行ってそこからモノレールが良いかなと思い総武線に乗ってたどり着いた千葉駅が千葉駅じゃなかったというか、いつの間にホームの上にコンコースが出来ていたんだ。

 横浜駅ほどじゃないけれど、ずっと工事が続いていてホームからホームへの移動が面倒になっていたりしてどうなるか全貌がつかめなかった工事はどうやら駅の上にコンコースを被せてエキナカを作るものだったらしい。いろいろと店も入っていて乗り換えの時に買い物とか飲食とか出来そう。せっかくだからとメンチカツを1枚買ってお昼ご飯代わりに食べて、そしてモノレールで千葉みなと駅まで行って歩いて10分、たどりついた千葉県立美術館は平屋な感じに緑の前庭があって岐阜県立美術館に近い雰囲気だった。御ディロン・ルドンがいて好きな美術館で自動車新聞で岐阜県のディーラー周りをしていた時に空いた時間に寄って潰していたっけ。遠い日の思い出。そんな雰囲気の良い美術館だけれどやっぱり地の利は東京には劣るから足を運ぶ機械もなかった。きっっかけも出来たんで企画次第でまた行こう。

 そして「THE フィギュア in チバ」は入り口に前のラジオ会館時代、海洋堂ホビーロビーに鎮座していたウルトとスクルトとベルダンディーの3女神の像がお出迎えしていて懐かしいなつかしい。そして中にはいると宮脇センムの像があり、竹谷隆之さんのデザインした像だとか谷明さん原型によるモーターヘッド(ゴティックメードなんかじゃねえ)とかが並んでいてやっぱり尖っていたんだなあと改めて。展示はそんな感じに原型師さん別といった感じで奥にはBOMEさんデザインによる成瀬川なるの大きなりつぞうだとか最近作られたっぽい「エヴァンゲリオン新劇場版」のアスカとかの立像なんかがショーケースの中に立っていて、美術だなあと思わされたというか、ちょっと不思議な感じがした。

 香川雅彦さんのコーナーには水玉蛍之丞さんが小説につけたイラストの神麻嗣子さんを立体化したものが並んでいて懐かしさに涙。ダンボーとかいたりカプセルトイが種類別意ぎっちり並んでいたりして、海洋堂の社業をぐわっと振り返られる。宮脇社長がまだ若い頃に模型店のカウンターに立っているようなコーナーもあってプラモデル屋だなあって雰囲気を醸し出していた。そんな海洋堂がガレージキットの「轟天号」を出して模型メーカーとなってから幾年月。今や世界に冠たる模型メーカーとしてこうして千葉県立美術館が展覧会を開くほどにまでなっている。世の中って本当に分からない。もちろん海洋堂が造詣の技術を徹底的に突きつめるストイックな会社だったから、ってこともあるだろうけれど。超合金ではやっぱり美術館には向かないかな、そこはちょっと分からない。

 奥の方ではフィギュア全般を俯瞰するようにして最先端のバーチャルアイドルが上映されていた。IAっていうらしくボーカロイドでも初音ミクではないものを使われている歌声でもってロックな格好だとかアイドルな格好になって歌い取っていた。半透明のスクリーンに映し出されるそれらをこどもたちが実物でもないのに見つめて躍っていたりするところに、リアルな人物でも映像でもなくても動き歌う存在には惹かれるってことなのかな。やがて生身のアイドルをこそ愛でるべきって固定観念が染みてくると見向きもしなくなるのかな。同じ部屋には我らが英雄、千葉ットマンのマスクだとかプロテクターだとかが愛車とともに展示してあった。一種のコスプレはすなわち立体の造詣であって、そこに賭ける情熱は海洋堂の創作魂と変わらない。なおかつ千葉の英雄。展示に相応しいって判断は正しい。願うならご本人を観たかった。あとはふなっしーか。あれはコスプレじゃない? かもなあ。

 そして京葉線で戻ってイオンシネマの幕張新都心に来たらダヨーさんがいた。ご近所でマジカルミライって初音ミクの一大イベントが開かれている関係もあってPPPとかいうイベントが開かれている中に登場。中に入っての(中になどいない)登場を観るのはいつ以来? 割とあちらこちらで見かけているか。頭身が低い中での巨顔はそのままねんどろいど的でもあって可愛らしいんだけれど、生身だと態度がどこかぞんざいでそんなギャップが面白い。口は笑っているけど目は嗤っていないというか、夜中に真正面から出会ったらそのまま財布を渡してしまいそう。ステージでもカツアゲしてたし。Djな人も登壇してミクにルカとか混ぜていろいろ効かせてくれて、マジカルミライ帰りかこれからの人が参加し盛り上がっていた。初音ミクなりボーカロイドの共通の楽曲なり存在で結びつけるとこうまで盛り上がる。それは生身で生まれたアイドルでも誰かが物語に描いたキャラクターでもなくみなが作りだしたもの。こんな存在、過去になかった。そして未来にはいっぱい出てくるんだろう。そんな世界的歴史的キャラクターの10年は世界史の中、宇宙史の中にどう刻まれるんだろう。未来の人、教えておくれタイムマシンで。

 そしてイオンシネマ幕張新都心でULTIRA & 9.1ch片渕須直調整済みカタブチサラウンド+JBLサブウーファー6連装による『この世界の片隅に』を観たんだけれどもこのセットでもすでに観てはいるんだけれどやっぱり隅々まで音が聞こえて良い感じ。粒立っているというか例えば冒頭のすずさんが中島本町まで海苔を届けに行くときに載った砂利船の船頭さんの言葉がくっきり聞こえてくるとか波の兎を描く場面で松林に渡る風のごうごうという音が聞こえてくるとかいった感じに添えられた音がちゃんとしっかり響いてくる。スピーカーに割って載せているからなのかそのあたり調整の技法は分からないけれどもさすがは9.1chと恐れ入る。

 加えて「BLAME」のドルビーアトモス上映をパワーアップさせるために支配人が働きかけて導入したJBLの6連装サブウーファーがいい音ならしとって6月22日の悲劇の日、すずさんと晴美さんがお円太郎さんのお見舞いにいった際に逃げ込んだ防空壕で受ける空襲の爆弾の炸裂音とかがもう響く響く。ずっしり響いてそこが防空壕の中のような気がして恐ろしくなる。あとはすずさんがサギを追って出た先でグラマンの機銃掃射を受ける場面のバリバリという音もサブウーファーが鳴らしているのかな、これもリアルで重たくて迫力たっぷり。実際に聞いたら身動きだってとれなくなるだろうなあ。そんな音響を整えてくれたイオンシネマ幕張新都心には有り難いけどこれも8日までの上映なんで次があるという保証もないんでいける人は行っておいた方が良いと思うよ。


【9月2日】 ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主題歌として使われ,そのエンディングで放送されるダンスを真似ようとした人たちが現れネットに誰もがダンスを踊る動画が投稿され、アメリカ大使館の当時は大使だったケネディさんによるダンスまで投稿されて話題となって楽曲としてヒットして、そしてドラマ自体の高視聴率にも結び付いて盛り上がって年末のNHK紅白歌合戦にまで出て、もう八方が万々歳となった星野源さんによる「恋」という楽曲を使った一般の人によるダンス動画の投稿が、権利的によろしくないということでレコード会社の方から削除の要請が出たらしい。これは急にそうなったって話じゃなく、最初からそういった条件での使用が認められていただけのことで、それに従うべきだといった声もあってレコード会社横暴といった雰囲気にはなっていない。もちろん星野源さんにも怒りの矛先は向かっていない。

 ただ、今という時代、たとえ最初からそういった条件で楽曲が貸し与えられたもので、それを一般の人々は借りて躍らせて頂いただけってことであっても、一方にダンスという自らの表現をさまざまな演出と共に添えて乗せて撮影して、1本の映像を作ってアップしたんだよといった思いも作り手側にはあったりする。そして参加者ではなく共犯者、あるいは共演者として共に盛りあげたんだという思いもある中で、権利を盾にした力関係が改めて示されたことに落胆をしたファンも中にはいるんじゃなかろーか。UGCと呼ばれユーザーがさまざまなコンテンツを自ら作ってアップして、それが輪となって広がりヒットに結び付く時代に、そうしたコンテクストに載せてヒットを狙っておきながら、最後に権利を主張してすべての成果をかっさらい、作り手の思いには目もくれないというそのスタンスは、今という時代にあんまり相応しくないような気がしてならない。

 ここでずっとネット上にダンス動画を置き続けたところで、レコード会社側が今さら何か損をするということもないだろう。新しく配信で聞こうという人がいなくなる? でも短いダンス動画を見てそれで満足ってことにはならないし、満足するなら配信は買わない。そういうものだ。1年も経って商売として1周りしてしまったコンテンツを、囲い込んでも意味がないならずっとネットスフィアに放置しておけば、5年後なり10年後にこんな物があったと“再発見”され、再び人気が盛り上がるなんて可能性もあったりする。そうした未来にかけるより、今を厳密に守ることに傾いただけなんだろうけれど、そうやって未来を見ないレコード会社に未来はあるか、って考えると星野源さん、考えどころじゃないかなあ。さてもはても。

 週刊文春がどういう考えからか声優方面に関心を向け始めてスキャンダルめいた記事なんかを掲載し始めているけれど、それに対する反応が一般の芸能人より薄いといった分析コラムなんかも出始めていてなるほどメディアにおける記事はやっぱり読者の属性を考えないとスベっつぃまうといった感じ。週刊文春を読んでいる今や50代とか60代のおっさんに声優なんて存在自体が意味不明だし、文春砲とかいってもてはやすテレビメディアも声優なんてどれだけ取り上げたってバリューがないといった判断から扱いに困る。芸能人とか文化人みたいにはバズらせられないなら無視を決め込み、結果として記事も不発に終わるといった感じ。

 ネットに上がればそれでも食いつく若い世代がいるかというと、声優ファンはそうしたプライベートなことを取り上げられても自分たちの関心の埒外といって放り出す、なんて分析もある。ただ、プライベートを侵さない不文律とか自分の苦い思い出と重ね合わせて責めないといった分析については、だったらなんでえみつんは未だひきづられ続けるのか、かつてみやむーはあれほどまでの目に遭ったのか、なんて事例もあるだけに精査が必要。オタクの攻撃性などは話題に上ったタイミングと、そして最初のちょっとしたベクトルでどっちにも転ぶだろー。そうさせないための火消しが文春砲では働いたのかもしれない。

 だからもう手を引くかと思ったら、今度は「好きな声優、嫌いな声優」なんてアンケートを行うとかでもう思いっきりズレてる感じ。声優でもアニソンでも基本はDD(誰でも大好き)が根底にあって、フェスでも長時間を誰が出ようと全力で応援し続ける声優&アニソンファン。それが「好きな声優」はともかく「嫌いな声優」を聞かれて嬉しがるなんてないだろー。もしも実施されたら、今の声優ファンたちにくすぶる固定観念もややありの感情からプロではない声優つまりは俳優であったりアイドルであったりといった人たちがやり玉に挙げられることになりそう。僕自身は俳優だろうと芸人だろうと巧けりゃ良いし合ってりゃいいんだけれど声優さん好きほどそういうの嫌うから。1位が庵野秀明さんだとちょっと笑うかな。当人には何のダメージもないだけに企画を嗤う意味でもそんな回答、お待ちしてます。

 いつか隣の国で今となっては前の大統領が執務室で男性と密会していたんじゃないかという話を、証券街とかで拾ったとかで色艶めいたものを仄めかしつつ書いた記者がいて、当然の如くに怒った大統領府がそんな根も葉もない記事を書いた記者を逮捕して裁判にかけようとしたものの、さすがにそこは民事の名誉毀損を飛び越えて、大統領が権力でもって司法をねじ曲げ言論の自由を脅かすのは拙いんじゃないかって話が韓国の司法からも出たようで、裁判はとりあえず無罪となったけれども裁判では書いた記事は根も葉もないでたらめで、そのことを記者も認めていたりする。

 そんな事案をもって他紙は、たとえ書かれた記事がサイテーであっても、やっぱり言論の自由は守られるべきだといった主張を繰り出して裁判の行方を評価した。ここで守られたのは言論の自由であって、虚偽を書いても罰せられないといった状況ではないにも関わらず、書いた記者は我こそが言論の闘士であるとった雰囲気で闊歩していたりするから何というか。会社もそれを売りだそうとしているから実にユニークな判断だと言えるだろー。

 だとしたら、韓国ではないこの国で首相官邸において、官房長官を相手にさまざまな質問を繰り出している新聞社と記者に対して、どうしてそんな無茶を聞くのかといったことを書いた文書を官邸の広報室が渡したことに対しても、言論の自由に対する権力側の横暴であって直ちに官邸に詰める全社を挙げて抗議しろとなるかと思ったら、無茶を聞いた記者が悪いと言った主張を繰り広げて官邸側の言論に対する統制を認めようとする。まさに奇々怪々。是々非々なんてない。自分たちが勝利できた言論の自由は、例え中身がどうであっても守られるべきもので、だったら聞き手が頓珍漢でもそれを咎め立てるのは言論の自由への抑圧だと、真っ先に立って突っ込んでいくべきなのに。まったく訳が分からないよ。

 これからの出版はボクらが作るぜ的に担当した作家や漫画家なんかをクライアントにしてエージェントを立ち上げ話題になっている人が何やら称揚しているあたりに裏があるかどうかは分からないけれど、そんな対象となっている「伊藤博文くん」とかゆーTwitterのアカウントがポン酢っぷり炸裂で遠からず炎上しそう。とにかく頭が割るそうでウェーイでイェーイな感じで昨今の風潮を受け止め俺らの時代だったらハッピーだぜって感じに騒いでる。風俗に通った首長を取り上げそんなもん普通あって、お前が言って何になる。だから今もオッケーかなんてならないだろうに。

 この軽さ、「石田三成」のTwitterアカウントが自分の負けっぷりとかを自虐的に語りつつ人気となっているのに倣ったのかもしれないけれど、遠く戦国の大名ではなく200年たってない明治の元勲をアカウントにしたら親族にも影響が出るし、伊藤博文という名前に対して複雑な思いを抱く国とか刺激しそう。さっそくハルビンという固有名詞を出して行ったら気をつけようねと誘ったら、「え!? なんすか? 何があるんすか? やべー、ドキドキっす!! 今は目の前の倒幕、頑張りまっすっ!!」って返してた。

 けれどもハルビンが伊藤博文にとって終焉の地で、韓国人の安重根によって射殺されたことぐらい普通の人なら知っている。日本にとっては遺恨だし、韓国にとっては英雄の振る舞といった具合に判断も分かれるナーヴァスな事象。それをシラネとぶん投げては、覚悟を持って朝鮮総督を務めた伊藤博文という人物の価値を貶めることになってしまうし、韓国人にとっての英雄的振る舞いを無視する言動となってしまう。どっちにしたって伊藤博文本人が嬉しがりそうもない扱いを、平然とやって裏でイケイケな業界人が差配しているとあってややっぱり拙いと思うんだけれど、そうした意識よりも受ければ勝ちの思いが今は強いんだろうなあ。それだけ厳しいってことでもあるか。やれやれ。


【9月1日】 なんだ走れるんじゃないかサッカー日本代表と思ったのが真っ先の感想で、前線から走り回ってプレスをかけるだけじゃなく、しっかりと速攻でボールをつないでゴール前まで運んでしっかりシュートで終わる。そうしたプレイが何度ものコーナーキックを読んで相手のディフェンス陣を自陣へと釘付けにして、ポゼッションから有利に立とうとするオーストラリアの作戦を許さない。いつもだったら中盤にボールを持てる選手が配置されては横につないで時間を稼いで相手がいっぱい集まって来た中を飛びこんだ選手に放り込んで跳ね返される。無意味のポゼッションにそれでも自分たちのやりたいことだからとかまけた挙げ句に負けたり逆転されたりするサッカーを見せられてきた目には、いったい何が起こったのかと映って激しく驚いた。そんなサッカーのワールドカップ2018年ロシア大会出場に向けたアジア予選の日本対オーストラリア戦。

 理由はもちろん本田圭佑選手と香川真司選手の2人がベンチにはとりあえず入ったものの先発出場せず、そして途中出場もしなかったことで若い井手口陽介選手とか浅野?磨選手が中盤から前線へとボールを送り続け、山口蛍選手に乾貴士選手も前線に加わりそして大迫勇也選手がプレッシャーをかけ続けたこと。そんな前線を後から吉田麻也選手が最後尾から支え続けた上にサイドで無尽蔵のスタミナを発揮し続けた長友佑都選手が決定的な仕事をして、日本代表はオーストラリアから2点を奪って完勝した。どうしてオーストラリアがいつものパワープレーをしかけてこなかったのか、なんて話もあるけれどもそれをやったら後に大穴があいて前線へと素早く送られ何点も奪われたことだろう。ワールドカップの本番で通用しないパワープレイに頼らずとも勝てると舐めてたのかもしれないけれど、次が日本のサウジアラビアよりも次がタイの自分たちの方が得失点差で上に行けると踏んだのかもしれない。

 そんなオーストラリアの出方を予想したのか、それとも最初から走りまくると決めていたのかハリルホジッチ監督はピッチに若い選手達を送り出し、後退でも原口元気選手に久保裕也選手といった若いところを起用し本田選手や香川選手には触れないでいた。岡崎慎司選手については今なおレスターで出場をして得点まで奪っている“現役感”があるから問題ない。相手にとって恐るべきプレッシャーとなる選手を切り札として投入するところにハリルホジッチ監督の采配の凄みがある。そんな試合をきっちり勝って世代交代を印象づけたことは良いけれど、これまでどうしてそれが出来なかったのか、といったあたりから漂うだろういろいろな要因が今後のハリルホジッチ監督の周囲に迫って身を縛り、頭を切れさせかねないところが目下の不安か。そんなの関係ねえとばかりに自分を貫けるなら良いけれど、そうすればするほど御用メディアを使いワルクチを書かせて追い込むのが日本のサッカー界って感じだからなあ。早速身内の重大事をバラして来たし。負けず留まってロシアの地で采配を振るって欲しいけれど、案外に別の国を率いてぬるま湯の日本を叩きつぶしたりするのかも。それもまた運命。

 そんなサッカー日本代表の活躍を確認するために買ったスポーツニッポンに実写映画の「覆面系ノイズ」に関する記事が。アニメーションでは早見沙織さんが演じたアリスを映画では中条あやみさんが演じるそうで、やっぱりアニメの早見さん同様にin NO hurry to shoutのアリスとして歌うみたいだけれどもそんな歌手デビューについての記事が妙だった。曰く「女優の中条あやみがCDデビューすることになった。主演映画『覆面系ノイズ』(11月25日公開)で俳優の志尊淳らと結成する覆面バンドで、そのままメジャーデビューを飾る。その容姿のように美しいファルセットが話題になりそうだ」。

 イノハリのアリスがファルセット? それも美しい? おいおいアリスこと有栖川仁乃は幼い頃に別れてしまったモモこと榊桃に歌声を聞かせたいっていった思いが心の中にふくらみすぎて爆発しそうで溢れてしまいそうになっているからいつもマスクをしているんであって、それが外れた時には体育館すら揺るがしプロですら震撼させる凄まじいばかりの歌声を発するシンガーだろ? それが女声ではあまり言わない上声のファルセットで美しく歌うってどこの国の「覆面系ノイズ」だ。それともアニメ版ではそうだっただけで原作の漫画ではしゃなりとした美しい少女だったりするのか。それはないよなあ。まあスポーツ紙の芸能担当なんてアニメも見なければマンガも読まない人間が、リリースされる言葉を連ねているだけ。イノハリのアリスがどんなシンガーかなんて気にもしないで黒髪の美少女だから美しいソプラノを出すと思い込んでるんだろう。でも作ったの、覆面系シャウトのMAN WITH THE MISSIONだろ? 普通に綺麗な歌なんて作らないよなあ。聞けばきっと納得と思っておこう。

 今日はさすがに早起きはキツいのでパシフィコ横浜には向かわないでサンリオが年に2回やる商談会の内覧会を見物に。行くといきなり新しく作られているゴジラのアニメーション版の像が立っていて、その筋肉質ぶりに抱きしめられたらこれは死ぬなあと思ったというか、実物はもっと大きいから抱きしめられる前に踏み潰されてしまうんだけれど、そんなゴジラがサンリオキャラクターズとコラボするとかで、ハローキティと並んでリボンをつけたゴジラのイラストがTシャツなんかに張り付いていた。隣ではあの「トランスフォーマー」のバンブルビーがぐでたま化して熱意なんてまるで失いやる気ナッシングな雰囲気に。本来のキャラクター性とはまた違ったギャップを、可愛いキャラクターと重ね合わせることでポジティブに変える技ってのが見えた気分。「幽☆遊☆白書」とバッドばつ丸なんて悪いキャラどうしだからまあ、マッチしているんだけれどそれでも違うベクトルだったバッドぶりをどう融合させるか。楽しみ。

 これはコラボじゃないけれどもサンリオならではのデザイン力でもってあの「鋼の錬金術師」が可愛いキャラクターになって登場してくるみたい。12月1日に公開となる実写版「鋼の錬金術師」で暴食のホムンクルス、グラトニーを演じる内山信二さんが登場しては自分のグラトニーまでが可愛くなった姿を見せてくれた。もともところっとして可愛いんだけれどより可愛く。そしてエンヴィーもラストもちゃんと可愛くなっていてこれならマスタングとかホークアイに負けず人気となれるかな。でも全部ブラックハヤテ号に持って行かれるんだ。可愛いからなあ。そんな映画に出るにあたって内山さん、白い目を見せるために白いカラーコンタクトを入れる必要があると言われて練習したんだけれど、本番ではCGでやるからいいよと言われて1度も入れなかったとか。すごいなCG。あと誰よりもそっくりに見せているグラトニーではあるけれど、他に誰がすごいか聞いたら松雪泰子さん演じるラストとか。とにかく美しくって2日間、見惚れてしまったというからその肢体、やっぱり劇場で確かめずにはいられない。山田涼介さんも良いといっていたからエドもそっくりなんだろう。公開が待ち遠しい。

 子供が誘拐されたとして、身代金の要求なりが届いた時に警察などに子供を助けるためには相手の要求についても検討する必要があるだろうけれど、そのあたりどうなっているのと聞くことにまるで違和感はない。理不尽なことをし続ける相手が何を求めているのかを探り、それをさせないために対話を行おうとしないで突っぱねていたらやがて相手の攻撃はエスカレートしていく。人命にだって変わる話だから。しかるに北朝鮮がポンポンとミサイルを放って日本の手前だとか向こう側に落としてウザがられているけれど、そうした行為が何を狙いとしているものかを考え、可能性を類推した上で対応をどうするかを記者会見で新聞記者が政府に聞いて何の不思議もないんだけれど、それをもって北朝鮮の走狗だとやり玉にあげる別の新聞社がいたからこれはどうしたものかというか。なにがやりたいんだというか。

 そんな記事を記者も載せる新聞も、報道機関が絶対に護るべき報道の自由という奴を、党の報道機関が破って背中から刺していると見るべきか、これすらも報道の自由なんだと見るべきかは迷うところではあるけれども、厄介なのはこうした背中から刺すような報道をこそ報道と讃え、持ち上げる声がそれなりにあったりすることで、つまりそれは過去において手前勝手な報道が走り過ぎたことへの批判があってのことではあるんだろうけれど、だからといっって報道に勤しむ行為を揶揄し、潰して権力に阿ることをも報道と認めるべきかとなると話は別。そんなことをやっていたらオープンであるべき記者会見が一方的な大本営発表の場となって、批判も許されず絡めてからの質問も排除されて本当に聞きたかったことに届かなく恐れがあるから。それにしてもこうした記事を書いた人は、てジャーナリストとして、新聞記者として嬉しいのかなあ。敵新聞を攻撃して味方政府を喜ばせたから嬉しいって思っているのかなあ。やれやれ。


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