縮刷版2017年8月下旬号


【8月31日】 1920年に25カ条綱領なるものが示された時が、ナチス党におけるアドルフ・ヒットラーのある種の台頭と見るなら、その時すでに「民族同胞のみが国民たりうる。宗派にかかわらずドイツの血を引く者のみが民族同胞たりうる。ゆえにユダヤ人は民族同胞たりえない」といった文言を入れて、ユダヤ人の排斥を明確に主張していた訳で、そこに一切の正しさはない。あるいは1923年にヒットラーらが起こしたミュンヘン一揆をドイツ政界においてその名前を印象づけたとするならば、政府の転覆を狙ったテロであって、やっぱり動機の正しさなど語る余地はない。偏狭な考えに執着してそれをこそ自分の正義と信じて突き進んだ人物の、どこにも動機の正しさはない。

 徹頭徹尾、非難されてしかるべき人物のどこにいったい正当を見て、麻生太郎副総理は後でダメになったとしても初期において動機は正しかったと語ったのだろう。忖度するなら誰もが腐敗はしても初期において純粋な思いがあってしかるべきだと思い込んでいたのかもしれないけれど、それをヒットラーに当てはめてしまったのがやはり問題だった。それとも動機のどこかに共感するところがあって、本当は褒め称えたいんだけれどホロコーストという絶対的に認められない悪事の主だから、褒められない思いが時々噴出してしまうのか。分からないけれども言っちゃいけない事を言っちゃいけない人間が平気で言ってしまって咎められないこの国の、言論の軽さがどうにも厄介で仕方が無い。総理からして軽口叩いて撤回して終わりだものなあ。綸言汗の如しとかどこの格言。ニッポン無責任暴言大国。やれやれ。

 そして今日も今日とて午前5時半に目を覚まして午前6時前には家を出て、電車を乗り継ぎパシフィコ横浜まで行ってCEDEC2017を見物。といっても1時間目しか出られないんで前に日本科学未来館で体験した8K:VR ライドを手掛けたNHKエンタープライズの人による、どうしてVRヘッドマウントディスプレイを付かないシアター型VRを作ろうと思ったのか、って話を聞く。登壇した田邊浩介さんがまず、経歴を紹介したんだけれどその中に「ロックの学園」が入っていたのが懐かしかった。今は亡き忌野清志郎さんを校長に迎え、廃校となっていた三崎高校を舞台にミュージシャンたちが集まってライブを開いたり講義を行ったりしつつ他にもいろいろとエンターテインメントな出し物が繰り広げられたという伝説のイベント。とはいえ清志郎さんは直前に病気が重くなってこられず看板だけが立っていた。

 その後に完全復活ライブをしつつもまた病床に就いて亡くなられてしまった晩年の清志郎さんの、街にロックを仕掛けたいといった思いが浮き出たイベントで、箭内道彦さんの仕掛けも聞いて楽しい1日を過ごすことができた記憶がある。その後も何年か続けられたんだろうけれど、1年目がやっぱり楽しかったなあ。そんなイベントでミュージシャンへの伝手も出来たらしい田邊さんが、まずはサカナクションと組んでミュージックビデオをシアターで体感できるようなものとして作った作品が先にあり、アメリカのSXSWでそれありに受けて手応えを得て作ったのがサザンオールスターズの「東京VICTORY」を使ってモーションライドに座ってドーム型スクリーンを眺めながら没入感を味わう8K:VR ライドだった。

 先にSXSW2017で公開されて乗った人から「マジでヤバい体験だった」とか「ヘッドマウントディスプレイがなしでこれはヤバい」とか「ドームの映像コンテンツは以前にも見たが、こんなに没入感を感じたのは初めてだ」といった驚きと絶賛のコメントが繰り出されていて結構な評判。「この音楽が好きになった」「帰ったら音楽を検索するよ」といった声もあって、サザンオールスターズの人気が世界に広がるきっかけになった? かもしれない。そんな言葉の中に繰り返し出てきた「イマーシブ」って言葉、すなわち没入感といった意味合いの言葉が出てくるくらいに、浸れる人が多かったってことになる。説明だと視野角の一部しか使わない平面に対してドーム型は視野角いっぱいに映像が広がるから没入感も高いとか。なおかつ8Kの高精細映像が“そこにいる感”を何倍にも増す。映像革命とも言えるけれどお値段はまだ高く体験できる場所も少ない。普及のためにもその凄さを知る人が増えることを願いたいもの。とりあえず10月末のデジタルコンテンツEXPOに出るみたいなんで行って体験しようAll。

 デビュー作が「ヴァンダル画廊街の奇跡」だから、やっぱり美術に造詣もあるよーなんだけれどもその後は「特急便ガール!」とか「ドラフィル」といったお仕事系のお話を書いて来た美奈川護さん。原点に戻ってか美大生を描いた作品を書いてきたけど、これがめっぽう面白いというか、やっぱり美大生って独特というか。父親がスーパーリアリズムの画家で売れなくて、そして離婚した母親はモダンへと向かって人気となって死去した今もそっちに着いていった兄が絵をさばいて稼いでいる。主人公の朱里はといえば貧乏画家の父親が苦手で高校を出てすぐ家を出て仕事をしながら食いつないでいたけれども定まらないでいたある時、母方の祖父が連絡をしてきて持っているアパートをあげると言ってきた。

 といっても築50年は経っていそうなボロアパートで、そこには近隣にある美大の学生だか元学生が住み着いては家賃をなかなか払ってくれない。もしもそうした住人たちを退去させられたらリノベーションをしてピカピカにしてあげると言われて朱里は乗り込み住人たちと話し合っていくが、そんな過程で自身がかつて絵がすきでコンクールでそれなりな評価も受けていた過去が浮かび、貧乏だったけれども父親の絵を認める人がいたらしいことも分かっていろいろと逡巡する。「美の奇人たち 〜森之宮芸大前アパートの攻防〜」(メディアワークス文庫)はそんな話。通った筋としては住人の1人で演劇青年らしい男と共闘しつつ住人たちを追い出そうとする展開があって、その中に演劇青年と朱里の父親との関わりめいたものも浮かんで、父親と自分の過去と向き合うことになる。

 一方で各話としては保健所で殺処分されそうになっていた犬を撮って評判になった写真家の女性が「ハゲワシと少女」の例もあって自分が悲劇をシャッターチャンスととらえているかもと思い撮れなくなって引きこもっていたのを引っ張り出し、父も兄弟姉妹も音大に行ってそれなりな成果を上げながらも自身は芸大の中の音楽家で一段ランク下がりのようで、なおかつ折角得られた役を降りてしまうといったこともあってやっぱり引きこもっているのをどうにか立ち直らせようとする。借金まみれの陶芸家は自身が破滅的というよりは伴侶との死別が尾を引いている感じで、そこを解きほぐして解決に。いずれも芸術家と呼ばれる人たちの作品への、技能への真摯な態度が見えて、だからこそ迷い悩む姿に触れられて感心させられる。とりあえず片付いたようだけれどもすぐまた増える住人に奮闘していく続きがあるのかな。出ていない芸術家というと映画監督とか彫刻科とかヴァイオリニストとかまだまだ多そう。楽しみにして続きを待とう。

 最初に日劇で見た映画が何だったかは覚えてないけれど、今のところ最後に見たのは新海誠監督の「君の名は。」だということは記憶にある。あと見たのは高畑勲監督の「かぐや姫の物語」だったり蜷川実花監督による沢尻エリカさん主演の「ヘルタースケルター」の舞台挨拶月上映だったりするけれど、そのとてつもなく広い客席から見上げるように大きなスクリーンに上映される映画を観る体験は、娯楽の王様だった時代の名残を感じさせてなかなか得がたいものだった。そんなTOHOシネマズ日劇が閉館。新宿ミラノ座が無き今、都内でもっとも大きな劇場になってしまったけれどそうした規模の劇場を持つよりは、半分くらいの規模のをぐるぐると回す方がシネコン時代には相応しいんだろうなあ。入らなかったら他に切り換えることができるし。これも時代か。最後にもう1回くらい観に行きたい。何が良いかなあ。最初の「ゴジラ」かなあ。


【8月30日】 未来永劫において北朝鮮が核武装を蜂起する意思はなく、そして着々と武装を強化していく考えでいるという前提に立つならその態度に対抗できる圧力として、日本も核武装をするといった考え方もあるかもしれないけれども、世界は北朝鮮と日本だけで出来ている訳ではなく、韓国もあり中国もあってロシアもある中で日本が核武装すればソ連の核ミサイルは日本を向き中国だって不信感を向けて何発か日本を向かせるだろうし、韓国だって自分たちが取り残されるのはかなわないとなって武装を始めた暁に、東アジアこれ全部核保有国となって東西ならぬ極東冷戦なんて事態に陥りかねない。

 そんな一触即発がアメリカやらヨーロッパやらに波及しないという法はないため、世界は緊張感から東アジアへの介入を深めていってそして泥沼の暗闘が始まるといった未来を来させないためにも、今あるそれらだけで東アジアもアメリカもヨーロッパも南極でさえも破壊できそうな大量の核兵器を持ったアメリカとロシアと中国、そしてインドにフランスといったあたりで留めつつ、北朝鮮には核武装を放棄させ、その危険な政体を早急に緩和へと向かわせる道を考えるのがまあ真っ当と言えそうな思考だろー。にも関わらず、昨今、総理大臣に気に入られたらしい政治学者は旧態依然としたすべての国が核武装すれば身動きがとれなくなるぜ的意見を開陳して世界に向けて発信している感じ。

 武力的な身動きもとれなくなるけど経済的にも身動きがとれなくなる方策、そして何の改善にもならない方策を満天下に向けて公言できてしまえる感性はどこから来るんだろう。天下の総理大臣が後ろ盾になったといった安心感からか。それとも元よりそうしたカルティーにライティーな考えを持っていたのがここに来てたがが外れて吹き出したのか。問題はそうした過激な意見が正論として受け入れられ、称揚されてしまう言葉の環境で、狭い範囲での支持なんだけれどフレームアップされて大局であるかのように思われ、広まってやがて世間を染めてしまう恐ろしさは、すでにこの10年のライティーで差別的な言説の跋扈が現している。核武装からの孤立、そして滅亡へといたる道が失笑ではなく喝采で迎え入れられ、滑り落ちた前の防衛大臣に代わる論客として政治の道に向かい、この国を厄介な方向へと引っ張っていかなければ良いけれど。やれやれ。

 原作では高校生なはずの主人公が実写映画では大学生だか大人にされてて原作のイメージと違うよなあ、なんて思ったりする状況も昨今、発生していたりするけれどもそれはまあ、演出の範囲だと割り切れるとして別の漫画の実写映画化で、ローマ人やドイツ人の役を明らかに日本人がやっていたりするのをどうみるか、って考えた時に日本で撮ってるんだから仕方が無いだろうといった割り切り方をして良いのか否か。なかなかに迷うところではあるけれども本物のローマ人がローマ語で喋りながら風呂に入られても戸惑うだけだし、変態的な指揮者をドイツ人にやらせる訳にもいかないんでそこはそれ、仕方の無いことと割切るのが良いんだろう。

 それが認められるのがドメスティックな日本という国の映画界だけれど、全世界が相手となったアメリカではどうやら雰囲気が変わってきている様子で、ちょっと前にも映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」で草薙素子ならぬミラ・キリアンという女性の登場人物を白人女性が演じたら、どうしてそうなるんだといった批判が起こって映画の興行にまで影響を与えた。ストーリーを見ればそういった変更にも解釈があってそうだったのかと感心させられたけれど、現場はやっぱりアジア系の役者から役を奪った不届き者的な反応が出たみたい。そしてまた、「ヘルボーイ」って映画で日系人らしい役を白人が演じることになったけれど、批判され降板したってニュースが伝わってきた。

 祖母が日本人でも孫の代になればまったくの白人めいて見えることだってあるし、そうでなくても筋の上で日系人という設定が消されていなかったらそれはそれで嬉しいことではあるんだけれど、機会均等を金科玉条に掲げる意見においてはその役は相応しい役者がやるべきだといった考えに陥るみたい。そのふさわしさとは知名度でも演技力でもなく人種であるといった考え方はエンターテインメントという誰でも才能があればのし上がっていけるという意味での機会均等とはぶつかり合う。どっちが正解か、って言いづらいけれども最高のショウを見たいのならそれはやっぱり才能をのみ、基準にして欲しいもの。そうなると白人だったヒロインが東洋人や黒人になる、ってこともあり得る訳でそれをもカラードウォッシュといって非難するのか否か。芸の前には人種など無関係と言い続けるのか。問われている。

 「ばすてき」も「あにさまちほー」も放送されない朝を午前5時に起きては午前6時に家を出て、パシフィコ横浜まで行ってCEDEC2017を見物。とりあえず基調講演に登場した作家で「ソードアート・オンライン」とか「アクセルワールド」を書いている川原礫さんが、バンダイナムコエンターテインメントで「サマーレッスン」とかを手掛けた原田勝弘さんらとともに登壇してVRだとかAIだとかについて語ったのを聞いたけれども面白かったのは原田さんがVRなんかの一例として「マトリックス」を上げても、今時の学生はぽかーんとして何かイメージが湧かないんだということ。僕らにとっては電脳社会をハリウッド映画の中でくっきり見せてくれた映画として印象に残っているけれど、1999年の映画なんで今がたとえば20歳くらいだと2歳くらいでまず観られず、25歳でも8歳だからきっと覚えてないだろう。

 そして何ならイメージしやすいかと尋ねて、帰って来たのが「ソードアート・オンライン」とのこと。すでにアメリカなんかでも人気になっていて映画もヒットしていてテレビドラマにもなるといった話が出ている。アニメーションはもちろん観られゲームだってワールドワイドで300万本だからきっとプレイされているだろう。2010年代半ばまでにティーンだったこどもたちが、その洗礼にどっぷりと浸っているとしたら今の大学生あたりはちょうどそうした世代にあたる。VRヘッドマウントディスプレイといえばナーヴギアでVRゲームといったら「ソードアート・オンライン」。そんな世代が10年経って開発の第一線に躍り出た時にいよいよもって脳に直接情報をぶち込み、脳からアウトプットも可能なデバイスがでてくるんじゃなかろーか。でも名前がナーヴギアだったらちょっとつけるの嫌かも。

 川原さんについては「ソードアート・オンライン」で影響を受けている作品としてジェイムズ・P・ホーガンの「仮想空間計画」だそうで、それとは知らず電脳空間にはいっていた主人公がおかしいと感じてグラスを叩き割ると、処理落ちが出てしまってそうだと気付く描写があるらしい。「ソードアート・オンライン」事態にそうしたそこが電脳空間だと意識させるような描写があるかというとあまり覚えて無くって、割と異世界で普通に人間が暮らしているような雰囲気を漂わせているけれど、細かく読めばやっぱり描写のそこかしこに電脳を思わせる部分もあるんだろう。ちょっと注意して読んでみるか。あとARになって体力を使うゲームになるからCEDECに来ている人はキツいんじゃないかと原田さんが言っていたのが面白かった。

 確かに、映画の「ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」でもキリトが体が重いと言って周りからただの運動不足と突っ込まれていたものなあ。格闘経験がある人が勝つんじゃないのといった問いも原田さんからあったけど、キリトの敵役には仕掛けがあって運動能力以外のサイバネティクス的な技術も絡んでくるから一概には言えなさそう。あとやっぱりゲームなんで剣術だとか槍術なんかのテクニックをそのまま取り入れなくても、ちょこちょこっと動かすだけで点数が稼げるようなプレイの方法もあるはずで、それをプレイヤーが見つけて戦術化していくんじゃないかと川原さんは話してた。歩くのが何よりの「ポケモンGO」だってそうじゃない抜け道を見つけようとするのがプレイヤーって奴だから。ARならARでそうした道も探られあたらしい概念が生まれて来る。技術の進歩は人間の怠惰さを増すためにあるってのも一理かも。


【8月29日】 空港内にで行われる映画祭がどんな感じが興味があって、1度くらいはのぞいてみたい第4回国際新千歳空港アニメーション映画際のノミネート作品が発表になっていて、インターナショナルコンペティションに山村浩二さんの「怪獣学抄」が入っていた。他の作家も見れば相当に過ごそうだけれど名前を聞いてすぐに分かる感じでもないんで誰が最有力候補かはちょっと分からない。日本コンペティションってのもあってそこには東京藝大院の修了制作か何かで見た矢野ほなみさん「染色体の恋人」があってテーマ的に有力そう。でも「ズドラーストヴィーチェ」の幸洋子さんによる不思議な作品「電気100%」もあるからそんなあたりが対決か。いやいや他にも宮嶋龍太郎さんとか東京藝大院系がいてそうでない作家もいて、やっぱり想像がつかないのだった。知るには見るしかないんだよなあ。その前にICAF2017で見られる作品もあるのかな。

 そして気がついたら北朝鮮から日本列島のはるか上空を飛んで太平洋へと落ちるミサイルが発射されたそうで、東北から北海道にかけてJアラートがなって寝ていた人はスマートフォンからのアラームで起こされ防災無線なんかも鳴っていつか響いた空襲警報の思い出を蘇らせた高齢者の人もいたんじゃなかろーか。これが本当に日本めがけて打たれたものならさあ起きろそして逃げろと煽るのは意味のあることあけれど、打ち上がった瞬間に軌道がはるか日本の上空の、それこそ宇宙を飛んでいくことが分かればもはやそれは日本の領空ではなく、もちろん日本からの撃墜なんて物理的にも無理な話で何をする必要もなく飛んでいくのを見えないままで見送るしかない。

 避難する意味もないし起きる必要だってないただのミサイル発射実験を、日本への攻撃のように取り上げ騒いで朝のワイドショーを潰し子供が楽しみにしている「おはスタ」を潰すなんてテレビも間抜けなんじゃないかと思うけれど、北朝鮮からのミサイルはすべてが日本を狙ったもので日本に落ちるかもしれないもので焦って慌てて逃げて怯えるのが正しい態度なんだということを、すり込もうとしているかのように煽ってくるからたまらない。そしてそういった空気に乗って騒がないといけないような雰囲気すら出始めている。ホリエモンがそんなもん日本を狙ったミサイルじゃないからJアラートなんて余計とかどうとか言ったそうで、さすがはロケットを自前で飛ばしている人だけのことはあるけど、元よりのパーソナリティもあるから権力批判にしかとられないのがもったいない。

 だからここはもっと冷静にして冷徹に、今の北朝鮮が出来るることは日本とかグアムに直接ミサイルを撃ち込むことではなく、そして中国の領空だとかロシアの領空なんかを侵犯するような角度でミサイルの発射実験は出来ない中で、近距離なら日本海に落とすか、遠距離なら日本を飛び越し太平洋に落とすかどっちかなんだから、そうした威嚇にもならない実験にいちいち反応するのは無意味と声を大にして言って欲しいなあ、軍事評論家や科学ジャーナリストの人たちには。騒げば騒ぐほど相手の利になり、それを利用したい人たちの利になる訳で。でも、そうした“世界”を知っている人たちは、テレビ局とかが求める意見とは違っているから呼ばれない。かくして焦らせ怯えさせる声だけが喧伝されて人は疑心暗鬼になって差別的な意識を醸成させ、来たる大震災での悲劇を生むんだ。やれやれ。

 おかげでというか楽しみにしていた「けものフレンズ」の第12話「ゆうえんち」はL字にミサイル情報が流れ続ける緊急時の画面になってしまって、録画をしていた人には悲劇だったかもしれないけれど、それでも直前の「おはスタ」が放送中止になっていたことを思うならば放送されただけでも奇跡に近いこと。いやテレビ東京ならそれが通常運転かもしれないけれど、期待が高かっただけに放送されてその英断を讃える人も多かったみたい。ありがとうテレビ東京。そんな「ゆうえんち」は出たばかりのガイドブックに付属しているブルーレイディスクに収録されたバージョンが、たぶん放送されたんだろーけれどどこに修正が入っていたかは気づけなかった。

 第11話だとボスが運転してサーバルとかばんちゃんを乗せたままバックで走っていたジャパリバスが吹っ飛ばされて木にあたり、タイヤが1個外れてしまうところがパッケージでは書き足されていた。あとセルリアのの歩みなんかも放送ではどこか不自由だったのがパッケージ版でスムースに、そうなるべき動きをしていたよーな気がした。プレーリードッグあたりが堀った穴に足を突っ込みガタつくところとか、その後を歩くところとかもバランスがとれていたような気がしたけれど気のせいかもしれない。前のも録画してあるんで交互に再生して見比べてみようかな。L字で録画されたのは残念だけれどこれも後にそういった事件の中で放送されたことを伝える資料だから消さずにBD−RWに焼いておこう。第2期の発表はなかったけれど、いずれ放送されて今回ファンになった子供たちを喜ばせてくれると信じて待とう、その時を。

 せっかくだからと上野動物園をさらりと見物。京成本線の上野駅から歩いて弁天様の横を通って動物園い入れるゲートの改装が済んでいて、閉鎖期間みたいに上へと回ってパンダ舎のある正門から入らなくても良くなった。ここからだと歩いて蓮の咲く不忍池を抜けてバオバブの木が立つあたりへと向かって動かないハシビロコウへとすぐにアクセスできるのだった。あとカバとかキリンとか。動物園でも人気の動物がこっちに回っていたりする配置は割と不思議。ライオンとかトラとかゾウなんかは上にいるからバランスをとってどっちも見て回ってもらえるようにしたのかも。ハシビロコウはしかし本当に動かなかったなあ。魚が泳ぐ水槽をじっと見つめてもやっぱり動こうとしない。何を考えているんだろう。そこがやっぱり不思議な動物。千葉市動物公園のハシビロコウのマラソン中継があるみたいなで見続けるか。

 コンビニ向けの分厚いコミック本で「BLEACH」の千年血戦篇が出始めたんで買い始める。連載中も読んではいたしジャンプコミック版も買ってはいたんだけれど途中であまりの進みのゆっくりさと、そして倒しては倒され倒し返す連続にどこが終わりか見えてこず、誰が1番強いのかも分からないまま飽きてしまって連載は読み飛ばし、単行本は買うのを手控えてしまっていた。そして終わった連載の最終回は黒崎一護が井上織姫と結婚して生まれた子供がユーヴァッハの残滓を蹴散らし終わりといったアットホームな雰囲気で、長い連載を締めくくるに相応しいエピローグ的なエンディングだと思ったけれど、そこにどうたどり着いたのが分からないんで改めて、リーズナブルなコンビニ本で読み返そうと思った次第。3冊でようやく一護が帰還し更木剣八を助けるところまで来たけれど、この先もきっと長いんだろうなあ。あと何冊か。2週間とかに1冊くらいでるんで忘れずに買って確かめよう。

 日頃から一方に与した記事ばかり載せていてバランスなんてまるで考えていないにも関わらず、相手がそうしたスタンスを見せた途端に公平性に書くとか言い出して大騒ぎして、そうした指摘をしてきた人の意見を大々的に取り上げ報じて別に意見広告まで載せてしまうところがハタから見ているとどうしようもなくみっともない。放送法によってある程度は公平性を望まれているテレビではなく論説を旨として世界を斬っていく新聞が、両論併記を言い出すなんて自分たちの依って立つ基盤を足蹴にして崩しているに等しいんだけれど、そうした自殺行為にも近い言説であっても敵と認めた相手を貶めるためには平気で繰り出してみせる。それで何か買った気になっているんだろうけど、いざ自分たちが追い詰められた時には両論併記なんでどこ吹く風と、一方の意見ばかりを喧伝して立て直そうとするんだ。そして敗れて「下野なう」か。どうしたものかなあ。


【8月28日】 そして衝撃の第11話「せるりあん」が放送された「けものフレンズ」の午前7時間半からの再放送。すでに最初の放送を見てすべてを完璧に知っていて、そして続きがどうなるかも分かっているうけれどもかばんちゃんとサーバルが山を上ってサンドスターロウを何とかし始めたあたりから涙がにじんできて、そしてヒグマやキンシコウやリカオンといったハンターチームを交え追いついたフェネックとアライさんも入れてセルリアン退治の作戦を練っている時も、本番で起こるあの事態が頭に浮かんできて早起きしたからでもないのに涙が滲んできた。

 一過性の悲劇として終わる訳でもないのに泣けてしまうのは、第1話から積み上げてきたサーバルちゃんとかばんちゃんの関係が、まずはサーバルちゃんによるかばんちゃんとボスの投げ飛ばしによって発揮されて友達を守りたいちう気持ちの健気さが見えて涙し、そんなサーバルちゃんを自分が犠牲になってでも助けようと頑張るかばんちゃんの心根に涙したからだろー。展開ではなくシチュエーションにこそ感動するといった証明。そして放送される第12話の「ゆうえんち」で描かれる最高の瞬間にも、そこまで積み上げられてきた様々な関係が凝縮して破裂する素晴らしさにやっぱり涙してしまうのだ。

 初見の人にはやっぱりとてつもなく大変な事態と映ったようだし、子供たちは目の前で起こってしまった惨劇をどう受け止めていたか分からず唖然呆然だったみたいだけれど、それは大人達も同様で、深夜の放送時に見て唖然呆然としたまま大人達は1週間をあれやこれや想像しながら「ゆうえんち」の放送を待った。今回はたった24時間ですべてが明かされる。子供には長いかもしれないけれどでも、1週間よりははるかに短い時間をグッとこらえて幸せの訪れることを想像しながら、「ゆうえんち」の放送をぐっすりと寝て早起きをして観て欲しい。きっと思うだろうから。仲間って良いなあ、友達って最高だなあ、って。

 せっかくだからと池袋のパルコで開催されている「けものフレンズ 吉崎観音コンセプトデザイン展」を観に行く。長蛇の列も覚悟したけどそういう人たちは初日2日目に集まったみたいで到着した時には行列はなく会場にはすんなりと入れてフレンズたちのいっぱい描かれたパネルとかCDのジャケットに描かれた絵の大きいものとかを堪能できた。作品のコンセプトに迫るイラストなんかはなかなか貴重で、サーバルちゃんがセルリアン化するような設定なんかも盛り込まれていたし、女王セルリアンなんてのもいて無機物の恐怖ではなくもうちょっと生命的な存在でもあったみたい。今となっては大ヒットしたアニメーション版が基準となりそうだけれど、そこはアプリ版もあれば漫画版もあった「けものフレンズ」の世界を、吉崎観音さん的に描いたものがあっても良いんじゃないかなあ。何かにまとまらないかなあ。

 必要だったのは場にそぐわないからと嫌悪して拒絶することではなく、何であってもまずは認め受け入れることを大前提として問題の所在を吟味し、解きほぐしていきながら参加へと向かって歩んでいくことであって、それでこそ表現したい人なら誰でも何であっても構わないといった理念の中の理念が、保持されたような気がしてならないんだけれど現実は、誰の了解を得たものでもない経験則なり思い入れからのルールめいたものが提示され、それに外れているからと拒絶が起こって門前払いといった感じに、理念の中の理念の正反対へと向かってしまった。これはちょっと悲しいし寂しい。

 芸能人であっても、自分が商業でできないことをやりたいと言うんだったら受け入れて欲しかった。歓待する方向から話を進めていって、けれどもといった言葉を添えて改善を図って最善を目指して欲しかった。そうした話が通じる相手でないのかどうかは分からない。当日に何が起こってしまうかも想像できない。ならばリスクを避けるために最初から拒絶するのが場を守るために不可欠なんだという意見も分からないでもないけれど、それでもやっぱりリスクを極力減らす方向へと動き、そして参加を得て賑わいをもたらした上で、有名人による参加表明の際のノウハウとして蓄積していって欲しかった。

 けれどもそうはならず、有名人は初っぱなから拒絶といった雰囲気が漂って世間に認知されてしまった。これはとても残念でなおかつ胸苦しい。後になってダメージとして響いてきそうだけれど、今は正義が頑張って居場所を守ったといった歓喜が多勢となってしまっている感じ。あらゆる表現を受け入れ発信と出会いの場にしてもらおうとする理念の中の理念めいたものが損なわれてしまった事実が、次にどんな表現に対するイカガナモノカ的発想からの拒絶を生まないとも限らない。ミクロでの勝利がマクロでの敗北につながらないかどうか。そのことについて再考しつつ次にはうまく受け入れる優しさを、頭の良さを見せて欲しいなあ。

 SFファンとけものフレンズファンと戦略ゲームファンと新しい物好きはこれを見よ。英国生まれのバランスゲーム「BEASTS OF BALANCE」は動物型のブロックを土台に仕込まれたセンサに認識させ、そして重さも関知する土台に積み上げると、無線通信によってタブレットやスマートフォンの画面にブロックと同じ動物の動画が表示される。それに陸海空の動物事に相応しいエレメントのブロックをタッチして積み上げることで餌にして、命脈を保ちつつ進化と融合のブロックを乗せて変化させていきつつ、どこまでブロックを積み上げられるかを競う。

 ただ積み上げるだけならよくあるブロック。それに動物の進化といった要素を乗せたところがユニークで、なおかつ進化が種族を超えて行われていくから、現れるものがキメラ的で面白い。海に陸に空に動物を置き、進化させ掛け合わせて誰も見たこともない動物に進化させるあたりはマッドサイエンティスト的で錬金術師的な背徳と興奮を得られる。そして物理的なバランスとりつつブロックを積み上げて行うところに、デジタルではないマテリアルな触感を得られる。何をどう積み上げれば得点を稼げるかを考える戦略性もあってプレイ中も気が抜けない。

 変わっている上に面白いブロックが、目下KIBIDANGOっていうクラウドファンディングのサイトで支援を募っているけれど、160万円を目標にしながら集まっているのは60万円あたりと全体の40%。そして日程は残り2日とあってちょっと達成は厳しそう。ただブロックとしての面白さと奥深さは存分にあるんで、たとえ達成がなくても購入できる窓口は残して欲しいなあ。次に現れるのはどんなフレンズ? なんて想像をしつつ計算もしながらゲームを進めていく創造性と戦略性を併せ持ったゲームはそうはない。放っておいたら着目した玩具メーカーがパチもんを作って売り出しかねないんで、正規品として本物が日本でも帰る道を是非、与えて欲しいとお願い。クラウドファンディングに1枚、載っておくべきか否か。そこは進捗状況を見ての間際の判断になるかな。申し訳ないけれど。


【8月27日】 今日も今日とてC3 AFA TOKYO 2017へ。ガンダム関係のガレージキットが販売されるのってなぜかここん家だけで、想像するならJAF−CONっていうかつてワンダーフェスティバルと対峙していた模型の即売会の流れを取り入れつつ、メディアワークスが立ちあげたキャラホビなんかの流れも合わせて今に続くC3 AFAだからこその許可であって、これを逃すとあと1年、ガンダム関係のキットやソフビが買えないとあって訪れるファンが結構いる。開場と同時に制止を振り切って奪取していった人が向かったのもそんなガンダム関係のキットの人気ディーラーで、すぐさま行列が出来て相変わらずの支持の高さを見せていた。そっちがモビルスーツ系なら別のサークルはエロティシズムが入った人物系。なかなかだたけれども作らないといけないのが素人には厳しいんだよなあ。かといって製品では出そうもないだけに作るしかない。それがガレキ魂って奴なのだと。うん。

 ぐるぐると回って昨日は見過ごしていたデギン公の椅子ってのを発見。あのディズニーなんかの家具を作っている愛知県のカリモク家具が製作を手がけているだけあって、背もたれの縁を飾る彫刻めいた飾りなんかもなかなかにゴージャス。羅紗が貼られた座面とか金色に近い色の紐飾りをか、アンティークとしても通用しそうなゴージャスさだったけれどもそれだけにやっぱり値段も結構高そう。100万円は下らないんじゃなかろーか。でもこれに座って寄ってくる部下に向かって「貴公はヒットラーの尻尾だな」と言いまくりたい人もいそうなんで、発売されたらパワハラ上等の会社の偉い人とか買って社長室の椅子にしそう。でもあんまりやり過ぎると出張先にソーラーレイを放たれるから要注意、と。作った以上は売り物にしないならどこかに持っていくとして、次はどこに展示するんだろう。バンダイナムコグループで社長たちによる椅子取りゲームが行われたりして。

 アニサマで厄介の体当たりでドミノ倒し的に連れ合いが倒れて怪我をして厄介ともども警察に行ったという話。親を呼び出し説教もしたんで後日の検分を避けるために被害届は出さなかったけれどもこれで生き死にに関わるような事態だったら来年のアニサマは開催が危ぶまれても不思議は無い。そういう自覚が厄介にあるかというとアニサマがなくても別の誰かのところで厄介をすれば良いという意識もありそうで、そこが騒動が起これば唯一無二に近い絶対存在となっているコミックマーケットが吹っ飛んで行き場がなくなる同人誌の界隈とはちょっと違うというか、それでもやっぱり若い若い世代の無礼講的な意識が発散される場として意識されかかっていたりするんでいつか何か起こるかも知れない。そこを大人が抑えボランティアが抑えられるのがコミケの良いところでもあって対してアニサマみたいなアニソンイベントだと運営は手が届かず周囲はタコ殴りにして叩き出せないために厄介は増長して蔓延って騒動を起こしてといった感じか。それができない雰囲気って作れないものかなあ。

 かっこかわいいというべきか。それともかわかっこいいというべきか。唄えば高い音域から繰り出されるキューティーな声で耳目を引き、そこにハイヒールでスカートをひるがえしながら躍り唄う美女がいる。けれども途中で着替えて戻って来ると、スタイリッシュなパンツスタイルから関西弁も交えて客をあしらい盛りあげ楽しませる。これで燕尾服でも着て立てばさらに格好良さも引き立つけれど、そこまで行ってしまうと前と同じ。だから見せずに今だからこその可愛らしさへと戻って高い声を響かせ聴衆に新たな1面を見せる。

 格好良くて可愛くて、可愛くて格好良くてやっぱり可愛いその雰囲気。ほかの誰かに例えようのない持ち味が、あるいはこのアーティストの最大の武器なのかもいsれない。龍真咲。歴史と伝統に彩られた乙女の園にして日本のえんたーていんめんとを牽引してきた宝塚の月組で、少し前まで男役のトップスターとして君臨してきた人物が、楽園を出でてスペースクラフトに居場所を定めてそこから新たな挑戦へと乗り出した。それがRyu Masaki Concert「L.O.T.C 2017」。同名のアルバムを引っさげてのライブは8月26日と27日の2日間をBunkamuraオーチャードホールというクラシカルでアーティスティックな場所で、宝塚時代からのファンをもっぱら引き込むような観客層の中で繰り広げられた。

 おそらくは颯爽とした美丈夫として認識されていただろう宝塚時代の「まさお」の面影も未だ残している人もいたかもしれないけれど、そんな関心を断ち切るように冒頭から、和服とも沖縄の着物ともとれそうな衣装で現れスキャットのような歌声を郎朗と響き褪せた。周囲には拳を交えナイフをクロスさせ剣で立ち会い銃に長刀といった武具をそろえて退治する男性らを従えてのパフォーマンスは、そこに屹立するひとりの女性シンガーの存在を強く印象づけた。

 そして着物を脱ぎ去ってドレスとなってからは裾をひるがえしたターンを交えてラテンの名曲「コパカバーナ」や日本語歌詞での「夢見るシャンソン人形」など世界の多彩な楽曲をこなし、その上で冨田勲さんの作曲による「ジャングル大帝」のあの壮大なオープニングを吟じ独特過ぎるイントロから始まった「宇宙戦艦ヤマト」を唄ってさあここから、ドレスも短くタイトなスカート姿となって「キューティーハニー」を唄い「CHA−LA HEAD−CHA−LA」を唄って「ジャングル大帝」のテーマに戻るという、アニソンメドレーを見せてくれた。

 遠くさいたまスーパーアリーナのステージでは、演歌の氷川きよしさんが登場してアニソンを歌って話題になったそうだけれど、こちらもBunkamuraオーチャードという舞台で、宝塚の男役トップスターだった人がアニソンを格好良く可愛らしく唄って聞かせてくれる。そのいずれもが半ば国民的な楽曲として知られていることもあって、どこか遠い存在に思えていた宝塚トップスターといった経歴の持ち主を、グッと近くに持ってきてくれた。アニソンが好だったのかそれともそういった効果を狙ったのか。分からないけれども歌謡曲以上に共通体験を持った楽曲としてアニソンが位置づけられていることが確認された気がした。

 そして衣装を変えて戻って映画「ロシュフォールの恋人たち」からテーマソングや「双子姉妹の歌」へと来て、おそらくは「美女と野獣」で男性側が唄う「ひそかな夢」を郎朗と歌い上げたあたりに男役トップスターとして鳴らした歌の確かさといったものが漂った。そちらを中心に歌い続けることもあるいは可能かも知れない。面影を覚えて慕う人もいるかもしれないけれど、それでは新しい道を踏み出した意味がないと、オリジナルのアルバム「L.O.T.O 2017」に収録されたクールでスタイリッシュな楽曲を連ねて今の自分、今からの自分を見せようとする。そこがどうにも格好いい。可愛いけれども格好いい。

 終わって思ったのはさて、いったい本人は格好いいのか可愛いのかといったところで、どちらでも出来るけれどもどちらであることはカラーをもしかしたら曖昧にしてしまってかねてからのファンを離れさせこれからのファンを迷わせるかもしれない。逆にかねてからのファンに新しい面を見せてなおいっそうのファンにさせ、これからのファンに可愛らしくてアニソンもできて関西弁でのいじりもOKな姉御な兄貴でもあったりする多様さを見せて驚かせ面白がらせるかもしれない。

 だから今はどちらもありで何でもありでアニソンだって前々平気なシンガーとして、アーティストとして、アクトレスでありアクターでありダンサーとしての存在を見せていって欲しい。いずれ自分がなりたい自分が見つかり、誰もが見たい存在へとなっていくだろう。それがどんな姿かは分からない。今以上の多彩で多面的なひとり宝塚&劇団四季&アニサマ&渋谷ジアン・ジアンのような存在になっているかもしれない。けれどもどうなろうとも芯には確かな歌唱があり踊りがあってファンを喜ばせようとする意思がある。だからきっと大丈夫。かつてない存在となって衆目を集めているだろう。

 天声人語に編集手帳に余録に日経春秋中日春秋と大手と呼ばれる新聞の1面下にはコラムがあってそこでは文才があって教養がある記者たちが健筆をふるって競い合っている。読めば蘊蓄があって修辞も学べて短文の中にメッセージをこめるテクニックも身につくから、ワープロを始めた当時は600字ほどのコラムを1時間くらいかけて入力してキーボードの配置などを覚えつつ文章の書き方を勉強したっけ。そんな新聞1面コラムに果たして比肩して大丈夫なのかといった文章があって腰が砕ける。どことは言わないけれどもとある自称全国紙が、誰かから聞いたという誰かからさらに又聞きしたことを検証もなしに書き飛ばして政権批判を全社的にやっているのはケシカランといった同業者の批判を繰り広げている。

 でもそんな準全国紙がずっと「とにかく菅直人と蓮舫と民進党を叩け」といった記事書いて来た。我が身は省みずに批判ばかりするのもみっともないなら1面下のコラムで私怨に近いような言説をまき散らすもの恥ずかしい。そんなコラムは別の署名と論旨がまったく同じという2枚下ろし。教養も含蓄も何も無い初出でもない文章を看板として掲げて繰り出して大丈夫なのかと思うけれど、そうした意識を抱く回路がもはや止まってしまっているんだろう。読む人が読めば誰が書いたものかは分かりそう。だからこそ自省も含めた健筆を期待したいんだけれど、それができないからこその繰り返しの怨嗟になってしまうなろう。それがトップとして君臨している状況に未来は? 考えると寄る寝られなくなっちゃう。あるいはずっと寝ていたくなっちゃう。やれやれ。


【8月26日】 あの「機動戦士ガンダム」の富野由悠季監督が会長を務めているアニメツーリズム協会が、投票なんかも交えて選定した日本のアニメ聖地88がいよいよ発表されるってんで幕張メッセで始まったC3 AFA TOKYO 2017へ。ってなんか名前が長くなっていたけれど、海外のイベントとも連携したとかでちょっと前にはインドネシアのジャカルタでも開かれていたっけ。だったらパワーアップしたかっていうと例年にも増してのふんわか感にあふれていた。

 ガンダム関連のIPを使ったガレージキットが出せるイベントとしてもっと盛り上がっても良い気がするんだけれど、日曜だけの出展だと土曜日にガレキ目当ては来ず、かといってイベントに人気声優さんが勢ぞろいする感じでもないと、朝からの長い行列ってのも大浦無いのかもしれな。限定のガンプラが発売されるけれど、これもガンプラEXPOとかで出るものへの興味が向かっているような気もする。あるいはそろそろ限界か。東京キャラクターショーがいつか来た道を辿るのか。

 さて訪れてみたい日本のアニメ聖地88。地元ってことでさっそく見てみたリストに載っていたのが何と世界コスプレサミットだけで、それも元々は愛知県の行事的に愛・地球博で始まったものであるにも関わらず、愛知県名古屋市が聖地として認定されていた。なんだかなあ。ほかにあるだろう名古屋が舞台のアニメーション……あったっけ、「やっとかめ探偵団」くらい? それも途中で終わってしまったからなあ。織田信長が出てくるアニメだったと思ったけれど、「信長の忍び」はなぜか清洲城がある清須市とか名古屋城のある名古屋市ではなく岐阜城がある岐阜県岐阜市に。そして岐阜県は「映画 聲の形」で舞台となった大垣市が選から漏れている。さっぱり訳が分からない。

 滋賀県から選ばれるだろう「けいおん!」だったり「中二病でも恋がしたい!」だったりが入らず、それどころか滋賀県からは1作品も入っていない不思議な事態。それでいて「艦隊これくしょん−艦これ−」は青森県のむつ市大湊町から神奈川県横須賀市から京都府舞鶴市から広島県呉市から長崎県佐世保市までと5カ所が入っていたりして、だったら呉市は「この世界の片隅に」、横須賀市は「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」を入れて作品数を増やせば良いのにそうはしないところに何らかの思惑めいたものを感じてしまう。それは売りたい作品を売りたいという意欲、逆にどこかの息がかかっていそうな聖地の選定に関わりたくないといった意思だったりするのかもしれないけれど、そうしたものが何と無く感じられてしまうくらいには、不思議さが漂っているリストになった。

 それを思ってかそれとも天然か、富野由悠季さんが今回の選定に対していろいろと言いたいことをぶちまけていたのが印象的だった。自分の作品が入っていないから気に入らないというのはキャッチーな言動だけれど一種のブラフで、真意めいたものは別のところにあるんじゃないかと思ったのは、「みんなで行きましょう。みんなが行かないところへ」といった言葉を繰り出したから。リストに載ることが正解ではなくましてや到達点でもなく、それら以外にもたくさんある作品のそれぞれの聖地を訪れることで、一極集中は防げるし作品を見る目探す意欲も高まるし、恩恵を被る地域も増える。それこそがアニメツーリズム協会の役割であって、いかにもな場所を並べてお墨付きを与えるような活動では、アニメに将来はないと思っているのかもしれない。そこに自分作品云々の我欲はない。

 行ってアニメの舞台だと喜び、アニメに出てきた建物だと嬉しがる態度に釘を刺したのも、聖地の聖地化なんていうスパイラル的な濃縮を嫌い、アニメへの利益誘導にも荷担せずに逆にアニメを入り口にして歴史を学び芸術を学び文化を学んで社会や政治や経済も学ぶ、そんな発展を期待してのことだろう。アニメしか見てない人たちがアニメの世界に入って二番煎じのコピーをやりまくって歪なものになっていく状況を目の当たりにしているだろう富野監督だからこそ、広い視野ですべてを見定めた先にこそ、万人に理解されるアニメは作れないと感じているのかもしれない。そうした業界への、あるいは日本への渓谷と啓発の言葉より、やっぱり自分本位のオレ様系と思われてしまいそうな言葉がクローズアップされてしまう残念さ。それはセンセーショナリズムにしか興味を示さないこの国の民度であるんだろうなあ、受け手も送り手も含めての。やれやれ。

 湘南の海岸線を走るワゴン車の中、ストレッチャーに横たわって眠ったままの母親から視線をそらして海をながめた矢沢紫音の目に、何か泡のような光の球のようなものが外を横切っていくのが見えたあと、お寺の境内に立った行合なぎさが語り始めた時からもう、眼にじんわりと涙がにじみ、嗚咽を漏らさないようにと引き締めた喉に痛みすら浮かび始めた。エンディングまでずっとそんな状態だった。 ラストシーンのほんの瞬間に最大風速のような感動を得て一気に溢れ出るものとは違った涙であり、悲劇を目の当たりにして喉奥からせり上がる慟哭とも違った声にならない叫びが、クライマックスに向けてなだらかに盛り上がっていった果て。限界を越えてしまって弾け散った感情がもたらすとてつもない感動が、全身を包み込んでそのまま何分もの時間を過ごさせる。

 なおかつそれに留まらず、なぎさや瀧ノ口かえでや土橋雫や中原あやめや琵琶小路乙女が唄い継いで重ねていって、そこに浜須賀夕の声も乗って響いた歌からいっぱいのコトダマが生まれ、立ちのぼって街中を包み込んでいったクライマックスに、全身から溢れ出た感慨が映画館の館内をいっぱいに満たした気がした。 そんな映画だ。伊藤尚往監督による長編アニメーション映画「きみの声をとどけたい」は。

 割と猪突猛進で、自分本位で空気を読まなさそうに見える行合なぎさというキャラクターが映画の始まった当初、前のめり過ぎてちょっと好きになれないかもしれないと思った。けれども、彼女がコトダマというものを信じて、他人を明確に否定することができずにいて、それでいて誰かが本当のことを言い過ぎたり、逆に本当のことを隠していることを苦手として、どう接したら良いのか迷い惑っているような少女だと分かってくると、自分をまっすぐに保とうと懸命に生きている感じに心を向けられるようになった。雨宿りした軒先の扉を勝手に開いて進んだ、もう店を閉めて長い歳月が過ぎた珈琲店の奥へと入り、棚に並んでいたクラシックのレコードを引っ張り出し、ターンテーブルに乗せて慎重に針を落としてから、電源スイッチをいれてアンプを立ちあげマイクに向かってひとり喋り始めるという無謀な暴走っぷりも、誰か人間を直接相手にしていないことで、言葉を気にする必用がないと感じてのものだったかもしれない。

 この後、本当のことが直接言えない時に、マイクを通してラジオの電波に乗せて告げられるようになったなぎさは、コトダマに怯えて自分を引っ込めていた性格を少しだけ直せたのかもしれない。ひと夏のミニFM局での経験が、行合なぎさという少女の生き方を変えて、そして将来までも変えた。初めて出会った少女の生き方も。それが矢沢紫音。珈琲店を経営していた祖父といっしょに交通事故に遭ってから、命は助かったものの意識不明のまま寝たきりとなっている母親の朱音が、かつて運営していたミニFM局を聴かせるることによって母親の意識を取り戻せるかも知れないという期待を少しは抱きつつ、けれどもコトダマといった曖昧な観念をぶつけてくるなぎさを紫音は信じ切れてもいなかった。というより、長い年月をずっと諦め続けて来た紫音が、奇跡など受け入れられるはずもなかった。

 少しの可能性を信じて、なぎさやかえで、雫にあやめに乙女といった集ってきた少女たちといっしょにミニFM局を運営していても、母親の転院が決まり、祖父が大切にしていた珈琲店も取り壊しが決まって、すべてが限界となってしまった時に、紫音は自分を信じ切ることができなかった。それは仕方がないい。そうした彼女の諦めを非難することは誰にもできない。なぎさもかえでも他の皆も、紫音の母親のためという理由はあっても、本心は果たしてどうだったか。いつもとは違う日常の楽しさに酔っていただけではなかったのではないか。自分たちの楽しさのために紫音とミニFM局を利用しただけではないか。そう思われても仕方がない。あるいは内奥にそうした心理が本当にあったのかもいしれない。

 そこで普通は終わる。離ればなれになって誰もが前と同じ日常へと戻っていく。けれどもなぎさは諦めなかった。なぎさだけは信じていた。信じ抜いていたからこそ街を出て行こうとしていた紫音に向けて言葉を届けようと頑張った。その熱に引っ張られて皆がいっしょになってミニFM局の最後の日を盛りあげた。そして……奇跡が起こった。それを安易と言う人もいるだろう。ドラマ的だと眉をひそめる人もいるかもしれない。世界は都合良くなんて動かない。奇跡なんて起こるはずがない。それが馴らされてしまった人の心理なのだから。それでもやっぱり信じていたい。いつか奇跡が起こることを。だったら信じればいい。信じる心もまたコトダマのように想いを真実へと変える。そう思わされた作品だった。

 声につていの不満や不穏は一切無い。オーディションで選ばれた新人声優ユニット? そういった情報が時にはサクセスストーリーの材料として喧伝されることもあるし、逆にアイドル化した声優という仕事への不信を招いて忌避感を誘うこともある。だから言っておこう。そんなの関係ねえ。誰がどう演じたているかも知らずに見て、誰もが普通に立派にそれぞれの役を演じていた。それだけのこと。それが1番大切なこと。だからこそ普通に見られて、描かれたストーリーに感動できた。歌声も素晴らしかった。それぞれのキャラクターが生きてそこに存在し、歌っているように思えた。
< BR>  もしかしたら今後は、そんな素晴らしい世界を創り上げた声優たちを、表に引っ張り出してアーティストとして、あるいはアイドルとして売りだそうとする動きが出てくるかもしれない。それに不満はない。やりとげた才能のある人たちが、その才能を発揮しているだけだと思えば良いだけだから。それでもやっぱりその声は、その歌声は作品の中、物語の上でキャラクターたちの中から出てくるものとして受け止めていたい。もうしばらくは。だから通おう。少女たちに会えるスクリーンを観に。そして泣こう。少女たちが境内に立って歌い始めてから終わりまでの時間をずっと。


【8月25日】 秋葉原のUDXにあった東京アニメセンターが閉まってしまって残念がっていたら、市ヶ谷にある大日本印刷が持っているDNPプラザに移転して10月28日にオープンとかでまずは善哉。本社が建つ市ヶ谷の山の上だとちょっとキツいけれどもDNPプラザは外堀通りに面してJRの市ヶ谷駅からも地下鉄の市ヶ谷駅からも近くてとりあえず行きやすさでは合格点。あとはどんな企画が開催されるかで、秋葉原でも末期となるとパネルを飾っただけとかで見て楽しめはしても学べはしなかった。そのあたりキュレーションがしっかりして作品のPRだけじゃなく、どうやって作られているかの解説も含めて見せてはアニメーションへの興味を誘って欲しい。グッズ売り場は作られるのかな。市ヶ谷っていうとアニプレックスのお膝元だけれど何か絡んでくるのかな。

 麻木夏陽子コーチの尻はなかったけれども胸があって目が向かってしまった「DIVE!!」は描写なく終わった北京合宿から帰って来た坂井知季と富士谷要一が田舎に引っ込んでしまった沖津飛沫を尋ねていってお泊まりするエピソード。東京オリンピックには出られなくても腰を治せばその先は狙えるというならやっぱり休むのが筋だと思うけれど、一方で出られさえすればオリンピックという檜舞台で世界にその演技を見せつけ強いい印象を植え付けられるとするなら故障を押しても出て散る道もありかなあと思わないでもなかったりする。選ぶのは選手。でもその間にコーチが介在するからやっぱり諫めて未来を見させるみたい。どうする沖津飛沫。綺麗な彼女と漁師になるか。それも良いよなあ。

 アニメソングの祭典、アニメロサマーライブ2017が8月25日から27日までさいたまスーパーアリーナで開催されるってんでその初日を見物に行く。昔は日本武道館あありで1日だけだったものが今や平日も含めて3日間をさいたまスーパーアリーナなんて2万人以上は入る箱で開催して、それでもチケットがとれない人たちが続出するという人気イベントになってしまった。そうなる期待はあっても実際にそうなるとやっぱり驚き。何がきっかけでここまでのマーケットになったのかを検討することは、音楽が売れないとか言っている音楽業界にとっても重要に思えるんだけれどそういう動きはあるのかな。あるアイベックスなんかはだからしっかり稼いでいると思うけれど。ソニーなんかはどうなんだろう。王者だったキングレコードは。やっぱりランティスが強いのかなあ。

 さて初日はアニメーションの再放送が話題になっていて、そしてニコニコ動画の第1話の再生数が前代未聞の1000万超えを果たしてしまった「けものフレンズ」関連が登場。サーバル役の尾崎由香さんをはじめとした出演声優がグループで「けものフレンズ」としてステージに立って主題歌「ようこそジャパリパークへ」を歌った。それだけじゃない。オープニングにはさいたまアリーナでフレンズたちがライブを行うための準備をする新作のアニメーション映像が流されてファンを喜ばせた。

 アニサマ2017への「けものフレンズ」からの出演が決まった際に、アニメーションを監督したたつきさんが、ジャパリパークにあるような雰囲気のさいたまアリーナに、フレンズたちが向かうイラストを描いて出演を喜んでいた。このイラストが、アニサマの開催にあたって来場者に先着でプレゼントする袋に採用されて、「けものフレンズ」チームの出演を後押しする形となっていた。冒頭に流されたアニメーションは、このイラストをモチーフにしたようなストーリー。人がいなくなって使われなくなっていたアリーナで、ライブを開きたいという要望があって、アメリカコノハズクの博士とワシミミズクの助手がフレンズたちを動員して修理し、ライブを開けるようにするって展開で、100人も来ると大騒ぎしていたけれど、実際の会場は数万人規模とケタ違い。会場を博士たちが訪れたらきっとびっくりしただろう。

 そんなアニメーションが上映されたら、続くのは当然に「けものフレンズ」かと思いきや、まったく違って3人の女性達が登場して歌い始めたその曲が「ハレ晴レユカイ」。そう、あの「涼宮ハルヒの憂鬱」のエンディングに使われた曲で、歌っていたのは」SOS団。すなわち涼宮ハルヒ役の平野綾さん、長門有希役の茅原実里さん、朝比奈みくる役の後藤邑子さんで、話したところによれば実に11年ぶりとなるアニサマのステージでの登場となったらしい。あまりに強力過ぎるオープニングアクト。これに続いたのが「けものフレンズ」のチームで、やっぱり霞むかと思ったらそうでもなくて、満員のホールが一体となって「うーがおー」と叫んだり、コールに対してレスポンスを返していた。やっぱり今が旬ってことなんだろうなあ。

 登場したのはどうぶつビスケッツ+PPPのいつものメンバーに、コツメカワウソを演じた近藤玲奈さんとハシビロコウを演じた小森美彩さん。そして途中には作詞作曲を手がけたオーイシマサヨシさんも登場して、楽曲でも自分の声が使われている部分を歌ってステージを分厚いものにした。やっぱり良い曲だよなあ、そして盛り上がるよなあ、「ようこそジャパリパークへ」は。そんな「けものフレンズ」が9月16日に豊洲PITでライブをすることは決まっているけど、そんなライブが12月には大阪にあるメルパルクホール大阪でも開催されることが決まったとかで、かんさいちほーで待ち望んでいる人には朗報かも。年明けには舞台「けものフレンズ」の再演もあるし、フレンズたちによるパレードはまだまだ続きそう。そして第2期となったらもう国民的なものへと大進歩。いやいや、その前に年末の紅白歌合戦、出てどったんばったん大騒ぎとか、やってくれたら最高なんだけど。やらなかったらテレビ東京でやって視聴率を奪っちゃえ。

 それは単に関東大震災という大きな天災の中で発生した死ではない。天災という前代未聞の事態を受けて動揺した人心の中に芽生えた猜疑心が、差別的な意識と重なって社会的なマイノリティであった朝鮮人らに向けられ起こった能動的な殺人行為であって、それによって亡くなられた方々を追悼することは、過去の行為を省みて二度と同じ事が起こらないよう強く心に戒めるために必要な行為だ。これを例えば関東大震災で亡くなられた方々、全員を追悼する行為の中に混ぜ込んでしまったら、差別から生まれた猜疑心によって攻撃的な意識が芽生え、そして牙となって襲いかかる状況への自省をまったく育めない。そうした事態が起こったことへの想像力も養われない。

 だから絶対に分けておかなくてはならないにも関わらず、小池百合子東京都知事は大震災によって亡くなられた方全般を悼むから良しといった考えを打ち出し、虐殺への追悼文をしたためることを拒絶した。どうしてか。一緒に追悼する手間も、別に追悼分を出す手間もそんなに代わるものではない。慣例としてやっているなら慣例として続ければ良いだけのこと。それによって虐殺という行為を省みて次代に再来を防ぐ意思を伝えられるなら好都合だと思えば言い。ダイバーシティとなって増えて行くだろう日本国籍を持った人以外の東京都民であり観光客であり、またLGBT的な枠組みから認識される感性や心理の面でのマイノリティも含めて東京都は強く意識し、何か事態があっても守るために努力をするといった姿勢を打ち出せる。

 にも関わらずやろうとしないのは、つまりは虐殺といった行為があったこと、それ事態を認めたくないといった心理が働いているからだと推察できてしまう。あるいはそれに追悼分を寄せることで、虐殺を認めたくない勢力からの支持を失うと考えているとも。決してメジャーではないだろうそうした勢力、そうした意識を金科玉条の如くに抱え縋るような都知事が今、第1党の権力を持って東京都政を壟断しかかっている。行く先にあるのは何か。それはこの国が向かう先でもある。注意せよ。人権が抑圧される日のいずれ訪れるだろう可能性に。警戒せよ。批判する口を封じて絶対の王政を進めて滅びへと向かう動きに。


【8月24日】 サンライズフェスティバルで観た「ガンヘッド」についてもうちょっと語るなら、役者たちのひとつ同じ板に乗って同じ方向を向いての芝居とは違った、個性がぶつかり合うような演技は映画を完成した作品として固定化させず、どこかライブ感の漂ったものとして感じさせた背景にあるかもしれない。日本語と英語がシームレスに出てきて会話が成立しているという無茶苦茶ぶりも、ビートたけしだけが日本語を喋っていたハリウッド版「ゴースト・イン・ザ・シェル」を観るとその先駆的なものとして映るし、だいたいが当人たちがコミュニケーション取れているならそれで良いじゃんと思えなくもない。

 熱血パイロットがピンチにあって情熱を燃やしてロボットを動かし敵を叩いて味方を救うような、古来より続く巨大ロボット的な文脈からすれば、ヒーローたるべき高嶋政宏演じるブルックリンはまるで正反対といったキャラクター造形。過去にトラウマがあって操縦席に座れないにも関わらず、鬱屈せず卑屈になって引っ込むようなこにもならず、飄々として自分をメカニックと位置づけ役割を果たそうとする。けれども内心には忸怩たる思いもあるといった複雑な心理を、軽口もぼやきも出るような口調の中に込めつつだんだんとガンヘッドに乗って動かし進んでいく中で浮かび上がらせる。そうやって積み重なっていった先にようやく自分の居場所を得て、そして戦いへと向かい仲間を救う。とはいえガンヘッドの自己犠牲に動じることなく、少しだけ思いを残しつつもクールにその場を去って行く割り切りが、お涙頂戴からの号泣を誘うような定式化された文脈を裏切ってどこかクールな印象を醸し出す。

 セブンにイレブンと登場しても何をしているのかといった言動が分からず、何をしたいのかといった動機も見えない2人の子供がいたりするけれど、そんな2人を引き入れ能力も借りつつ進んでいく展開は、熱血の不合理さではなく冷静の合理性が感じられて観ていて苛立たない。そんな果てにようやく登場したガンヘッドは、ロボットアニメ的に大喝する訳ではなくていったん立ち上がっても戦車になったりして進みつつ、敵と遭遇しても重機どうしのどつきあいにしか見えないビジュアルでロボットバトルを期待した人の気をそらす。でもそれがクール。というより実際的。クラタスが外国の何かと戦っているようなビジュアルは、むしろ現実の世界を予想したとも言える。

 ブルックリンと潜入に成功したベベが唐突にいなくなってはバイオドロイドの中で目覚めてその行動を阻止しようと働くあたりは、SF的にはパーツとして利用されながらも意思が残っていたといった解釈をすれば十分に納得の範囲。それを感動とか感慨に落とし込まずに流れの中で感謝をし、別れを告げるドライさもまたあの時代を生き延びてきた者たちにつきものの、自分が生きるのが精一杯という状況から来る前向きさだと言えるかもしれない。あの島にいた奴らがいったいどうやって人類を滅ぼそうとしたのか分からないし、爆発はしても人類は滅びなかった理由もよく見えないけれど、とりあえず4人が生き残って脱出して救われた果てに何かがある、そう思えば未来も開けてくる。あるいは続編となって別の戦いにブルックリンたちが挑むような企画もあったのか。分からないけれどもいずれまた、機会があれば復活して欲しい企画。その時にもいたずらに熱血ロボットバトルにせず、ヌーベルにニューシネマチックな雰囲気で作って欲しいなあ。そして昔以上に教条的になっている今のアニメファンやら特撮ファンを唖然とさせて欲しい。

 メキシコのパチューカに移籍した本田圭佑選手が初出場した試合で途中からの投入であるにも関わらず、トップ下から抜けだして1ゴールを決めた一方で、こちらも代打での起用が続くフロリダ・マーリンズのイチロー選手が代打としてホームランを放って勝利に貢献。どちらも日本人選手のそれぞれの世界の代表格でありながら、決して順風満帆とはいえない待遇の中を腐らずしっかりと自分を鍛えて試合に臨み、結果を出すところが格好いい。プロアスリートとは結果が全てならその結果を見せた2人はやっぱり真のプロアスリートってことなんだろう。その勢いを本田圭佑選手には日本代表の中でも発揮して、ロシアのワールドカップへと連れて言って欲しいんだけれど出てもやっぱり予選リーグどまりかなあと思うと寂しい気も。凄い選手による素晴らしい結果が見えない今ってやっぱりどん底なのかなあ、ジーコ監督の時よりは酷くないとは思いたいけれど。

 これは素晴らしい。梅田阿比さんの漫画を原作にして2016年春に公演が行われた舞台「クジラの子らは砂上に歌う」が少しのキャスト変更を経て2018年1月に再演されることが決定。会場はまだ分からないけれどもその頃は舞台「けものフレンズ」もあるからAiiAでの連続観覧とかってことになったりするのかもしれない。主役のチャクロは赤澤燈さんでリコスは前島亜美さんと前と代わらず。アクションを見せてくれるオウニは山口大地さんから代わって財木啄磨さんが演じるそうでどんなオウニになるかが今から気になる。あと団長。五十嵐麻朝さんから有澤樟太郎さんに。結構背の高い人みたいだから歌い映えする団長になるだろうなあ。キレるリョダリに重厚なオルカも代わって果たしてどうなる。でもギンシュ姉さんだけは小市真琴さんでお願いしたいなあ。可愛くて強いギンシュ姉さんそのまんまのキャスティングだったから。

 沖縄の辺野古で発生した、基地に反対する活動に訪れた老人2人が走ってきた軽自動車に轢かれて足を骨折するなどの重傷を負った上、車はそのまま逃走したといった事件は恐らくは意識的に轢きに行ったとしか思えないシチュエーションで、殺人未遂にだって問われて不思議はないくらいの悪辣さであるにも関わらず、そうした事件を報じるニュースに対して醜悪な言葉がつけられていて頭が痛くなる。基地反対はは日頃から居座っているから轢かれて当然とか轢いた方も内輪で狂言だとかいったもの。そう想う人がいること自体は仕方が無いとして、こういった悪意に満ちた言葉が公衆の見守る場へとすぐさま放たれてしまうくらい、沖縄の反基地運動に対するネガティブな意識は、ライトへと傾く言論空間の中で一般化してしまっている印象がある。遠くアメリカでの主義の対立を懸念している場合ではない。今まさに日本で分断と罵倒の連鎖が増殖している。これは遠くない将来、日本をどん底へとたたき落とそう。強いリーダーによる即座の会見が必要なのに安倍ちゃんは……。やれやれだ。

 TCXの大スクリーンでの上映も2週目には続かないような気がしてきたんでシネマイレージを使って「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を観る。3回目。やっぱり巨大なスクリーンに現れる及川なずなのスクール水着(旧型)は素晴らしいけれど、エンディングあたりをどう理解するかといったあたりはまだ判断に迷うところ。大玉から散らばった可能性の欠片を手にしたことで、なずなと島田典道はあるいは同じ思いを共有できる未来に進んだのかもしれないなあ、だからラストシーンに2人はいなかったかもしれないなあと思いつつ、そうでないからこそ顔も胸も見せてくれなかった先生から典道だけが名前を呼ばれてあの学校にまだ居ることが示唆され一方で、及川なずなはぽっかりあいた机が現すように転校していったのかもしれないと普通に考えるべきなのかとも思ったりしたけど正解はどこにあるんだろう。これもやっぱり気にせず雰囲気の中で淡い出会いと酸っぱい別れを噛みしめるのが良いのかも。


【8月23日】 13話以降の第2期もそのまま放送していくのかと思ったのは12話の「Guerrillas in the Jungle」が終わってから13話「The Vampire Twins Comen」の予告が流れたからで、ルーマニアから来た双子による騒動を描いたエピソードは「BLACK LAGOON」のシリーズでも屈指のシリアスさと残酷さと切なさを持っていて、見れば革命を夢想して未だその中を彷徨っている中年男の戦いを描いた11話と12話とはまた違った、胸を抉られるような感慨を得られるはずだと言っておく。

 不思議なのは「The Second Barrage」として分けられた第2期の最初のエピソードの予告が存在していたことで、これって最初の放送の時にあったっけどうだったけと思ったけれど、確かめたくてもDVDが埋もれて出てこないのであったという。そういう部屋に私は住んでいる。自慢にならん。片渕須直監督によれば第1期と第2期は放送的にはインターバルがあっても制作側は休まず24話を作り続けていたそうで、放送もそのまんまという想定もあってかちゃんと13話の予告を作っていたらしい。もしかしたらその後に販売されたブルーレイディスクや、OVAの第3期も含めたボックスを見ればちゃんと入っているのかも。買いはするけど見ない癖があって確かめていなかった。掘り返すか。

 ボッチャだボッチャだ、リオデジャネイロでのパラリンピックで日本代表がメダルを獲得したボッチャというスポーツが体験できるってことで天王洲にあるワン・トゥー・テン・ホールディングスという会社まで出かけていく。8月の頭にあったメイカー・フェアに出展していてタブレットを銃型のコントローラーに装着してARのガンシューティングを楽しめる遊びを出していた会社だけれど、代表の人の来歴もあってパラスポーツをデジタル技術によって進化させるようなことにも取り組んでいる様子。以前にもVRでパラスポーツの車イス競技を体験できるサイバー・ホイールという装置を出したことがあったけれど、今度はリアルなボッチャをセンサー技術で進化させたものを出して来た。

 ここでボッチャについて説明すると、コートがあってそこに目標となるジャックボールというのをまず投げて、そこめがけて赤なり青と別れたボールを6つずつなげて、ジャックボールからの距離が短いかどうかを競うものらしい。手が動けばボールが投げられるから体が不自由な人でもプレーできるし、手が動かなくても介助者がボールを傾斜した台から転がすように支持することで競技に参加できる。そんなボッチャだけれどボールからの距離は審判がはかり、そして集計して勝ち負けを判定しなくちゃいけないから結構大変だし、コートの準備も必要となる。競技で使うのはボールうだけなのに、諸々の壁があって一般にも普及せず関心を持たれない。

 これではいけない、このままではロンドンのパラリンピックで会場が満席になったにも関わらず、リオデジャネイロではグッと減って学校に頼んでこどもたちに来てもらった時よりも、さらに酷いことになりかねないとワン・トゥー・テン・ホールディングスの代表が思い立ってボッチャを誰でも手軽に楽しく遊べる、それもクールでスタイリッシュに遊べるよう、サイバー・ボッチャというものを作りだした。今日はそのお披露目会で、たどり着くと上にキネクトみたいなセンサーを2つ備えて下にはプロジェクションで光が躍るコートが用意されていて、そこで発表会後にボッチャのデモプレイが繰り広げられた。

 投げられた白いボールに近ければ勝ち。すぐ目の前にあるその場所に、ボールを投げるのに難しいなんてことはないと思ったらこれが大変なようで、デモに参加していたレースクイーンの女の子たちは的から行き過ぎたりして距離を縮められない。対して車イスで参加しているパラリンピックの代表選手はジャックボールの本当にすぐそばまでボールを寄せてピタリと止める。投げ方に差があるのか観察力が優れているのか。もちろん練習の賜で、持ったボールをどれくらいの力でどう投げればどこで止まるかがパッと分かる頭になっているんだろう。そしてそれを実戦する運動能力もついている。やっぱり代表ともなると凄いものだと感心した次第。

 そして素晴らしいのはそんなボッチャで審判が果たしていた役割を、センサーが代わりにやってくれることで、ジャックボールからカラーボールまで距離がメジャーで測らずともすぐに算出されてはコート上にプロジェクションされる。そして次に誰が投げればいいか、最後はどちらがどれくらのスコアで買ったかまでが自動で行われる。まるでボウリングのあの面倒な点数計算をコンピュータが肩代わりしてくれたコンピュータボウルの感動を再び味わっているよう。三河の幸田に出来たコンピュータボウルをそういえば、大学生の人が買った初代ソアラに乗せてもらって体験しにいったっけ。今だと普通になっているボウリングの自動計算だけれど、これが導入されて格段にボウリングというスポーツが遊びやすくなった。サイバー・ボッチャもそうした面からの普及が期待出来そう。

 あとはボールが置かれた場所によってコートに模様が光によってプロジェクションされていくこと。離れた場合、近くによった場合で模様はもちろん違うから、プレーするたびに前とは違ったビジュアルを体験できる。そして音楽。1投すぐごとにトラックが重なっていくようになっていて、ゲームが終盤に近づくにつれて音楽として完成していく。光と音楽によって彩られたサイバー・ボッチャはパラスポーツという枠組みを超え、ダーツだのビリヤードだのといったバーで嗜むスポーツの域に入ってきた。アミューズメント施設とかにも置いてもらいたいとのこと。そうやってボッチャに親しむ人が増えれば増えるほど、パラリンピックでの競技にも関心が向き、パラスポーツといった存在全般への認知度向上も図れる。そんな狙いが成功することを願いたい。最初にどこに導入されるかなあ。

 新宿は大ガード東交差点を見下ろすヤマダ電機の大型ビジョンでハリウッド版「ゴースト・イン・ザ・シェル」のパッケージ発売に合わせた宣伝映像が流れるってんで見物に。最初はなんでこうなるの的な芸能人を使った発売記念イベントの様子が流れてこれでパッケージを買う人なんていないでしょと思いつつ、まずは広く告知することが目的なんだからそういうのも考えてしまうのかもしれないと同情しつつメーンとなった田中敦子さんこと少佐がナレーションを務める映像を拝見。少佐にバトーにトグサが押井守監督のアニメーション版「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」と同じだって話から北野武さんによる荒牧の演技の紹介があって、そしてハリウッド版とは直接の関係がないんだけれども見れば了然のインスパイアされた側となる押井守監督が登場して、ハリウッド版をPRするといった流れにこれでハリウッド版も売れれば良いと周囲を見渡したら関係者っぽい人しかいなかったでござる。関心薄いのかなあ。僕は映画も見たしパッケージも買うけど世間では「攻殻機動隊」も押井守監督もフックにならない世代が台頭してきているのかなあ。いろいろと考えた瞬間。ハリウッド版の続編はもう期待薄かなあ。

 せっかく新宿まで出たんだからと開催中のサンライズフェスティバルで上映されるアニメーションじゃない特撮映画「ガンヘッド」を見にテアトル新宿へ。金のはにわがあって銀を5個集めたからもらえたんだろうかと考えるまでもなく普通に「この世界の片隅に」が受賞したものだった。他にもいっぱいのトロフィーに遠からず米アカデミー賞のオスカー像が加わると信じたい。さて會川昇さんの登壇まであった「ガンヘッド」、この歳になってわかるクールでヌーベルでシニカルだけどクリティカルな本編の展開に、最前列で見ていて呆然となった。こんなすごいものだったとは。そして素晴らしいものだったとは。当時20歳くらいで見てたら特撮的でもなければアニメーション的もでない文脈外れの意味不明さにキレたかも。でも今見るとああいった突拍子のなさも分かるし演者のウキウキだったり気だるげだったりする演技も分かる。最高にピーキーでそして絶妙の構成。特撮も素晴らしい。今見て良かった。また見たいかも。


【8月22日】 会社は自分たちが発表したものではないと言うけれど、新聞に出たってことは役員なりメインバンクのレベルでそういう話が出ているってことで、富士通の携帯電話事業からの撤退はこれからの経営のロードマップに乗って、いろいろと話し合われることになるんだろう。部門ごと売却されるか店じまいとなるか。iPhoneと別にすればソニーやシャープ、そしてサムソンのようにどこか特長を持って訴え掛けてくるところが乏しかった富士通の携帯。電車の広告によれば声がちゃんと聞こえるとか落としても壊れにくくなっているといった特長があるらしいんだけれど、それで買われるかというとパンチに欠けているというのが実態で、テレビでの宣伝も活発でなければ買う選択に入りようがない。ここでの転換もやむを得ないといったところか。

 それにしても今、何が富士通という会社を支えているのかがまるで見えない。通信機とかメインフレームとかでまだそれなりの基盤を得ているんだろうか。いやあコンピュータはもはやPCベースでいろいろできる訳で、メインフレームが幅を利かせる余地はない。だとしたら通信機事業か。それは表には見えにくいものなあ。ソフトウエアの分野で何か目立つものでもあれば良いけれど、かつて持ってたニフティは買い戻しを経て今はノジマの子会社になっている。ヤフーがユーザーIDを集めてそれで商売しているのを見るにつけ、先駆者だったニフティが会員数を利用できなかったのは残念な気がする。ソフトな会社になる礎だったのに。

 それを言うなら1995年くらいにソフト系で社内起業制度ってのがあって、幾つか立ち上がってそのひとつが現パピレスのフジオンラインシステムで、地道に地道にやって来ていつの間にか電子書籍の分野で一大勢力になっていた。今や上々まで果たしてテレビではCMも流して面白がられていたりする。現AOSテクノロジーズのアルファオメガソフトは、創業者の佐々木髏mさんのお姉さんが漫画家で、その絵を使った「英雄降臨」というゲームを出して世界に出ようとしていたけれど、やがて路線を転換してユニークなソフトを開発するなりローカライズして出すベンダーとなっていった。そしてデータ復旧ソフトのナンバーワン製品となる「ファイナルデータ」で当てて現在に到る。

 もう1社あって、画像を管理するようなサービスを行っていたトリワークスは、ルクレと名を変え同じような事業に別の事業をつけて大きくなって今も健在。20年を超えて経営を続けるベンチャー企業を幾つも送り出せたその才能が、内にあればと思わないでもないけれど、残しておいたらニフティのように上層部からいろいろと手を突っ込まれて潰れていたかもしれない。外だからこそ生き延びたってことで、本体が沈むのもやっぱり仕方が無いことなのかもしれない。どうなる富士通。そして富士電機。ジェフユナイテッド市原・千葉の胸スポンサーもそろそろか?

 毎号買っているイブニングで次の号から「クラッシャージョウ」の連載が始まるとかで、大昔に読んだ細野不二彦さんによる漫画の時は先に読んでいた「さすがの猿飛」へと続いていく細野さんならではのタッチが出ていたけれど、今度はグッと原作のイラストを担当している安彦良和さんに近い絵で登場するみたいで、あの独特なギャグの表現なんかがどう取り混ぜられ、そしてアルフィンがどう可愛く描かれるかに注目して観て行きたい。しかしどうして今さら「クラッシャージョウ」の漫画なんだろう。原作は出続けてはいるけれど、映像化の動きがある訳でもないし。それとも実は動いているとか。実写で。山崎賢人さんの主演とかで。アルフィンは土屋太鳳さんで。うーん。まあ良いか今さら誰がどうだって。

 そんなイブニングで始まった汐里さんの「いちいちせいち」が面白くなりそう。国内有数の文具メーカーの経営が傾きかけて、立て直しに来たのは外国の企業をたちどころに立て直したハーバード出の外国人社長。かつて日本に留学していたこともあるそうで、挨拶では日本語で「事件は会議室で起きているのではなく現場で起きている」と言って日本通と思われる。ところが実は……。それは表紙の格好を見れば分かること。背広にモッズコート。つまりは聖地巡礼漫画ってことで、表向きのクールなビジネスマンが裏では筋金入りだというギャップを楽しめそう。それが文具メーカーの立て直しとリンクするか単に趣味の暴走で終わるかはこれからの展開次第か。次はどこに行く? 手近に鷲宮神社あたりか?

 武闘家として鍛え上げられながらも魔法への憧れを持っていた青年が転生した先には魔法があってこれなら自分も魔法使いになれると思ったら魔法の才能が発動しなくて親に憐れまれ、捨てられた先で拾われたのが武闘家の家。そこで鍛え上げられながらも当人はずと魔法を教わっていると思っていたのが家を出る日になって魔法の力は欠片もないと教わって、嘆いても始まらないので魔法学校に入学をしてそこで頑張ることにしたとうのが第1巻のわんこそばさん「努力しすぎた世界最強の武闘家は、魔法世界を余裕で生き抜く。」(ダッシュエックス文庫)。そして第2巻ではやっぱり魔法にしか見えない粋すぎた武闘家としての力を発動し、やって来る魔法たちを振った片手でぶちこわしたり、苛酷すぎる修行の記憶で破裂させたりして世界を救う。

 だったらもう魔法いらないじゃんと思うんだけれどやっぱり憧れる魔法の力。先生たちも彼のそんな頑張りに応えようと折れない魔法の杖を作ろうと一所懸命になっている。なんて優しい師弟愛。そして人間愛。そうしたふわふわとした展開が読んでいてとても楽しい。あと主人公のアッシュが3歳児まで退行することで魔法の力を発動させられるかもしれないと教わり、魔法で3歳児になってそこでより精神を鍛えるために女装して、その見た目の愛らしさに身もだえもしたくなる。でもワンパンチで魔王粉砕。なんて恐ろしい子。ラストは勝負のためにとはき下ろしたアニマル柄の女物のパンツをつけてそこで16歳の武闘家に戻ってしまって当人的には恥ずかしいけど、そのあまりの強さに世間にはアニマル柄のパンツをはけば強くなれる、勝負を乗り切れるといった誤解も広まった。あるいは永遠に残るジンクスの元を作ったのかもしれないなあ。なんて恐ろしい子。

 「恒常的な人手不足など現場の待遇改善が実現されない状況で、日本獣医師連盟が学部新設阻止に動いたことへの強い不満が背景にあるようだ」というロジックがよく分からないなあ、某紙による愛媛県獣医師会への会費納入拒否が増大しているという記事。だって公務員獣医師の現場の人手不足は獣医師の数が足りてないからじゃなく、待遇のよくない公務員獣医師になりたがらないからで、だから真っ先にすべきはそうしたセクターにおける待遇改善であって、学部を新設して増やしたところで公務員獣医師へのなり手が増えるかは判然としない。

 あるいは新卒者が増えればトリクルダウン的に公務員獣医師への志望者も増えるかもいけれど、人気が出れば出たで待遇はこのままでいいなと据え置かれるだけ。現場には何の得もないのに、こうやって現場の反獣医師会的スタンスを取り続けるのはつまりは獣医師会を悪役にして加計学園を善玉にするために必要なことなんだろうなあ。言いたいことを言うためにはロジックがズレていても知らん顔してさらりと書く。その上っ面にしか世間も反応しないけれど、読めば妙だと分かる記事。でも縮刷版がないから確かめようがない。そこまで見越してやっているとは思えないけれど、でもやっぱり遠からず屋上屋を重ねたような弥縫策は穴が見えて底が抜けて共に奈落へ落ちていくんじゃなかろーか。やれやれだ。

 やれやれと言えば、そこん家が営業的にライトを偽装していたのは数年前までの話で、今はもうどぷりとライト側に浸ってアナクロに戦争と敗戦と軍人と復興を捉え大和魂的なものを称揚する言葉を、思想的逡巡を経ずして紡げる人しか現場にはいないんじゃないんじゃなかろーか。士官学校にいたら青年将校が鼓舞して叱咤していったというコラムなんけれど、でも兵隊を死地に追いやり、国民を戦火に塗れさせたことへのその士官の自責も慚愧もまるでない。受けた側もそうしたことへの思いは働かず、コラムの書き手も戦争責任の在処についてはまるで触れようとしない。圧倒的に偏ったプロパガンダ的なコラムなんだけれど、これが東京版、つまりは地方面に堂々と乗ってしまう不思議。いわば街だねを載せる場で、東京五輪に絡めて書くコラムで愛国万歳になってしまうところに、そうでなければ生きていけない息苦しさがあるのかも。そして耐えられずに逃げていく。まったくもってやれやれだ。


【8月21日】 興行通信社の週末観客動員ランキングが出て「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」は3位にとりあえずランクイン。興行規模からするならあるいは1位だって狙えたかもしれないけれど、そこは強烈なファンを持つ「HIGH & LOW THE MOVIE2/END OF SKY」が入り2位は老若男女に人気の「怪盗グルーのミニオン大脱走」が1位から下がって立ちふさがった。それでも4位に公開2週目の「スパイダーマン:ホームカミング」を落とし、やっぱり若い世代に人気の「君の膵臓を食べたい」も5位に下げての3位は上々の滑り出し。このくらいをあと何周か堅持できれば、スポーツ新聞がかき立てる40億円だって可能かもしれない。

 とはいえ作品に愛なく宣伝周りの言葉を盛り立てていい顔をする報じ方が板に付いているスポーツ新聞が、おべんちゃらで並べる数字に根拠なんてあるはずがなく、実際にスタートダッシュで50億超えとかかき立てていた「メアリと魔女の花」は、果たして30億円行くかどうかといった印象。それでも未だにランキングの9位に踏みとどまっているのは偉いけれど、片渕須直監督の「この世界の片隅に」だって長い間ランキングの10位からちょっと上に入る続けてもなお25億超えがようやくだから、やっぱり「メアリと魔女の花」の30億円超えは厳しいのかもしれない。それとももう超えている? いずれにしても「思い出のマーニー」には届かないだろうなあ。

 もちろん、だからといってメディアにはあんまりネガティブな報道には転んで欲しくはなく、周囲の声に流されないで作品の良さを見つけ出すような感じで紹介を続けて欲しいんだけれど、持ち上げる時は時で宣伝の思惑に沿うことだけをこなして、出演している誰それの話題を添えつつ横並びで持ち上げるだけ。作品性から来る良さが集客に結び付いているとか、逆にちょっとしたズレがあって苦戦しているといった報道はまったく出てこない。スポーツに関する報道が選手たちの感想やドラマに過ぎず試合中のプレーの質についてはまるで書かれていないのと同様、映画や芸能も現象だけを報じ関係者のドラマだけを流して作品そのものの本質には迫らない。そんな報道ばかりが横行する一方、ネットでは辛辣さも交えた作品論が戦わされ、それを観て行くかどうかを迷う人が出始めている。そんな実情に気づかないまま上っ面の報じ方だけしているメディアに明日はあるか。いよいよ岐路に立たされているのかも。

 週が明けて放送が再開されたテレビ東京の朝7時30分からの「けものフレンズ」再放送はライオンとヘラジカが激突する回でやっぱり何度観ても面白い。良いところを挙げれば切りが無いけれども、たとえばライオンに睨まれたかばんちゃんがいつもの「食べないでください」を言うんじゃなくて「食べるなら僕を」といってサーバルちゃんをかばったり、ライオンがヘラジカとの合戦でそろそろけが人が出そうで嫌だなあと言ってみたり、影武者のヘラジカに紙の棒を投げたら首が傾いてしまって思わず「ごめんよ」と言ってしまったりするところに、ごっこは好きでも本当の争いは嫌いなフレンズたちの性格なり設定が現れている。子供たちが観てもこれなら争いに勝つにもルールの下、相手を思いやりながら勝つ大切さって奴を学べるだろー。

 足が遅くても体が丈夫なシロサイには走らせるんじゃなく守りに徹しろと教え、消えられるカメレオンには潜入という仕事を与えたりする展開からも適材適所の必要性が見えてくる。そしてかばんちゃんの叡智。考えることによって事態を前向きにして面白くもする描写から、突っ走るんじゃなく考える大切さを学ぶ、っていうのがたぶん作り手の狙いだったなろーけれど、果たしてそこまで3才5才といったこどもたちは理解してくれているのかな。そこは親がいっしょに観て上げて、説明してあげることで叡智は育まれコミュニケーションも取れるってことで。そうやて育った子供が大人になって自分も「けものフレンズ」のようなアニメーションを作りたいとなった時、世界は殺伐としていないけれどスリルもあるアニメーションで溢れかえる。そんな夢を見る。

 三谷幸喜さんの戯曲は過去において岸田戯曲賞を受賞したもの以外は出版されていないそうで、例え上演を観て暗記などして書き起こそとうも、それを別の劇団が上演することは許可されないってことは演劇の世界で割と知られている話らしい。たとえ無償で行う高校の演劇であっても上演は認められないから、学校内の内輪で披露するくらいは別にして、高校演劇の大会なんかに三谷作品が出てくるということもないという。無償だからと無理を通しても道理が引っ込む可能性があるなら、やっぱり上演は遠慮する。そこには権利を持つ三谷幸喜さんへの敬意もあり、また同じ演劇人として著作権であり上演権といった資産を守ろうとする意識の共有があるんだろう。

 だからこそとある劇団が、明らかにアーサー・ミラーの作品「るつぼ」をベースにした舞台を上演して、そして上演の中でパンフレットか何かにそれはやっぱり「るつぼ」なんだといった説明までしているようであるにも関わらず、上演権を得るために支払う金額が高いからと無償での上演ということにして、けれども料金は舞台の前説というか一種の前座に対して支払うという形をとって、しっかり徴収したことにどうして他の演劇人が、あるいは演劇に生きている俳優たちが、そして演劇を愛する観客たちがこれはちょっと拙いんじゃないかと騒がないのが不思議で仕方が無い。

 自分たちが飯の種にしている著作権なり上演権が、妙な抜け道によって蔑ろにされたらしい。それは翻って自分たちの作品にだって行われることかもしれない。そう考えたなら、たとえアーサー・ミラーの上演権が高くても、演るなら支払うべきだし支払えないなら演らないべきだし、どうしても演りたいならそれこそ本当に無償で前説とかなしで上演すべきだと諭すのが普通だろう。一方で観客も、それがアーサー・ミラーだとは聞かされず、観てから実はアーサー・ミラーから借りましたと言われて何だそれはと思い、いやいやこのチケット料金でアーサー・ミラーを観られたんなら幸運かと喜んだら、チケット代はアーサー・ミラーの側にはいかないことになっていて、本編とは関係の無い前説に支払われたと分かってそれは無いんじゃないのと訝って不思議は無い。

 貧乏な劇団が頑張ってアーサー・ミラーを演じるために抜け道を選んでも仕方が無い? アーサー・ミラーはすでに儲かっているんだからお金を回す必要はない? それを言ったらどんな劇団だって上から順に勝手に上演されていって、果ては戯曲の著作権だの上演権だのといったものは無に帰してしまう羽目となる。そうしないためにもキッチリと話をつけるべき案件なような気がするのに、騒動になっていないのはあんまり世間が演劇なんかに興味を持っていないからなのか。主催なり演出家なりがそうした抜け道を推奨しても、俳優たちだけは法の網を抜けるような板には立ちたくないと言って欲しいけれど、果たしてそういう情報が回っていたか否か。そこもちょっと分からないだけに話が広まって後、何を言うかに目を向けていこう。

 SF作家のブライアン・オールディス死去との方。というかまだ存命だったのというのが感想で、年齢を聞くと92歳だからもしやと思って調べたら1925年生まれで「この世界の片隅に」のすずさんと同じ年だった。8月生まれだから5月生まれらしいすずさんよりちょっとだけ後? ってことは水原哲と同じくらい? 水原さんがすずさんと同年かまでは調べてないので分からないけれど、ただ同時代を生きただろう人間としてオールディスが呉とは遠く離れたイギリスで、そして応召された戦場で見てきたことを思いつつ、そんな彼なりの世界の片隅が今とどう繋がっているかを著作なんかを振り返り、想像してみたくなった。「地球の長い午後」くらいだもなあ、読んだのって。今だと何が読めるだろう。ともあれ偉大なニューウェーブの作家に敬礼、そして黙祷。山野浩一さんの訃報と言い、ニューウェーブの相次ぐ訃報に時代の変化なんかも見たりして。


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