縮刷版2017年7月中旬号


【7月20日】 国連でピコ太郎さんが何かやらかしたって話が流れてきて、本場のニューヨーク・タイムズあたりだとどういう取り上げ方がされているんだろうとのぞいたサイトで見つけたのが「アグレッシブ烈子」に関する記事。言わずと知れたサンリオが送り出した新しいキャラクターで、会社のOLなんかをしていて一生懸命働いているんだけれど、周囲の無理解もあってか難題を押しつけられたりしてストレスが溜まる一方。そして爆発しそうになった時にカラオケに入って激しいデスボイスでもってデスメタルを歌ってハッサンするという、キレっぷりが話題となって「王様のブランチ」なんかで放送されて人気となった。

 もっともこれが世界となると、女性の一般職なんて概念がなさそうなアメリカだとか欧州だとか英国なんかでどれだけ理解されるんだろうと思っていたら案外に浸透しているようで一寸前にはBBCが取り上げ、そして今回がニューヨーク・タイムズと欧米のメインストリームを行くメディアがこぞって取り上げていたりする。ニューヨーク・タイムズは紙の新聞の方にも記事が掲載されたみたいで、読んでそういうものがあるのかと思ったニューヨークっ子もいっぱいいただろうなあ。アニメーションは「やわらか戦車」のラレコさんが作っていて、これで世界に名前が広がりひっぱりだこになってアカデミー賞のアニメーション部門で短編賞とか受賞したら面白すぎるんだけれど。

 もちろん降って湧いたような存在として受け止められてはいないところが、ハローキティという世界中に知らない人がいないくらい名前の知られたキャラクターを作っているサンリオが送り出したキャラクター。そういったアドバンテージの上に真面目に頑張って働いても起こる理不尽に溜まるストレスというのは、OLだとか一般職だといった職種がなくてもワーカーの全てに共通なものなんだろう。だから欧米でも受けている、ってことなのかな。あとは可愛いOLさんが怖い顔になってデスヴォイスでもって叫ぶところが怖さ半分の魅力半分といったところで。

 それにしてもどうやって海外の人は知ったんだろう。放送されているのかな。ネット配信にサブスクリプションが乗っていたのかな。そしてこれからどうなっていくんだろう。ケーブルテレビで放送とかされてそしてハリウッドで映画化なんて話になったりして。広がりって意味では目下、カリフォルニア州のサンディエゴで開催中のコミコンなんかでもブースが出ていて痛車も走っていて西海岸でも人気っぽい。アリアナ・グランデさんでもジャスティン・ビーバーさんでも取り上げツイートしたらさらに世界が目を向けるかも。そうなって初めて日本がこんなに凄いキャラがいたのかと驚き慌てて取り上げ始めるという。本当、日本の新聞って7周半遅れてる。

 超特急、って聞いてちょっとだけ韓国の男性アイドルユニットを思い浮かべたけれどもそれは超新星であって、超特急は日本生まれの7人組のダンサー&バックボーカルグループ。2011年から活動をしているようでイベントに出たり歌を歌ったりしてだんだんとファンを広げてきたみたい。最近だと日曜9時からフジテレビ系で放送のドラマ「警視庁いきもの係」のエンディング曲「My Buddy」を歌っていて橋本環奈さんらが東武動物公園でもってぬいぐるみたちと躍る映像が、話題になってポスト恋ダンスといった空気も生まれている。そうなると紅白歌合戦の出場もあるかなんて思ったりもしたけれど、それは今後の活躍次第か。そんな超特急が東京ジョイポリスでコラボレーションを始めたってんでのぞいてきた。いや取材でだけど。

 そして登場した7人はスマートでクールで格好良くっておかしくて。個性もあってビジュアルも整っていてダンスも巧いとなれば受けないはずはないけれど、そこは日本の男性グループが入り込みづらい芸能界。スターダストプロモーションって業界に冠たる事務所であっても崩せない一角ってのがあるんだろう。でもだんだんとユルんで来ているのならそこに実力でもって割って入ってとったエンディング曲のその先を、狙っていってくれるかな。コラボレーションの方はといえば「撃音 ダイブ コースター」っていうあの都響ジョイポリスの中を時々人の叫び声を轟かせながら走って行くコースターとの組み合わせがあって、最初は超特急の音楽に合わせてボタンを押すリズムゲームがあり、走り出したらモニターでもって映像が見られて、そして回転しながら走るといった遊びがある。

 盛りだくさん過ぎてどれかに気をとられたらほかがおろそかになりそう。だから最初はリズムゲームを楽しんで、そして次は映像をしっかりと見て、最後にライドとしての衝撃を味わうといった具合に3度それぞれ目的を違えて乗るのが良いかもしれない。でも全身に相当来るんでコラボフードをたっぷり食べたりしてから乗るのは避けた方が良いかも。ほかにもシールプリント機があったりアナウンスがあったりと盛りだくさん。同じ場内では「進撃の巨人」とのコラボもやっていてハーフパイプトーキョーでは「進撃の巨人」の楽曲が流れセンターステージでは超特急のデジタルライブと「進撃の巨人」のショーが交互に。1つの場所でいろいろ楽しめるって意味でも今が行くべき時なのかもしれない。新しいVRも入ったし。

 そう「ZERO LATENCY VR」っていう1年前からスタートした日本では珍しいフリーローム型のVRアトラクションで、背中にPCを背負う形でVRヘッドマウントディスプレイを着けて歩き回りながら銃で撃って戦っていく。前は「ZOMBIE SURVIVAL」っていう押し寄せてくるバケモノを相手に6人が自在に歩き回って撃退するといった内容になっていたけれど、今度の「SINGULARITY」は反乱を起こしたロボットを相手に人間が戦うといった内容で、ワープポイントに集まってまとめて移動してから、隊列を組むような感じで進んでいって、ミッションめいたものをこなしていく感じになっていた。てんでばらばらに行動していた時よりも、ストーリー性があってクリアすべきミッション、こなすべき役割めいたものもはっきりしてプレーしやすい気がした。

 スピーディーな感じもしてVR酔いとかなく、手にした銃を使ってビームだレーザーだレールガンだショットガンだといった弾を発射してロボットを破壊しドローンを撃ち落とす快感を味わえる。移動の時に垂直の壁を上るよう支持されて、どうするんだと思ったけれどそこは実際には平面を歩いている身でありながら、視覚的には壁を歩いて上っている感じがあってそこのところの感覚のズレが不思議な気分にさせてくれた。これは試してみないと分からない感覚かも。ドローンを落としロボットを倒し仲間が襲われているのを助けたりして、そしてラスボス相手に奮戦をしてゲームクリア。得点ではとりあえずチームで1番をとれたけれど、2万点には及ばず順位もその時点で73位くらいではちょっと物足りないので、今後はガードもちゃんと使ってやられずしっかりと倒すようなプレーを心がけたい。

 SF作家の山野浩一さんが亡くなられたとのこと。といか世間的には競馬評論家として知られているみたいだけれど、僕らの世代にはやっぱり「鳥は今どことを飛ぶか」とか「X電車で行こう」といった作品を書いてニューウェーブの旗手としてスタイリッシュでクールで思弁的なSFの世界を見せてくれた人ってことになる。それがオールドファッションのSFにとって異分子と見做され論争なんかも起こされ話題にもなっていたけれど、いつしか世間は第三世代から以降のSF作家へと関心が移っていって山野さんの世代は山田正紀さんくらいを除けばあんまりSF界として存在を認知されなくなっていた。でもだからといって衰滅した訳ではないその知識なり感性は、日本のSFを語る上でやっぱり忘れてはいけないもの。訃報を受けてというのは悲しいけれど、改めてその業績を振り返って行きたい。「X電車で行こう」。アニメーション版を見てみたいなあ。


【7月19日】 据え置き型のゲーム機では大きすぎるし携帯型ゲームもそれしか出来ないってことで、もてはやされては大きな産業になったスマートフォン向けアプリゲームにも岐路が訪れているのか。ちょっと前にバンダイナムコエンターテインメントがHTML5を使ったゲームを提供するプラットフォームを立ちあげるって発表を行って,そう言う時代かと思っていたら今度はヤフーがやっぱりHTML5とそしてクラウドを使ったウエブブラウザで遊べるゲームを集めたプラットフォームを立ちあげた。その名も「Yahoo!ゲーム ゲームプラス」にはスクウェア・エニックスもいれば角川ゲームスもいてコーエーテクモゲームスなんかも入っていたりと大きなところがそろい踏みして新作のタイトルなんかを投入してきている。

 そんなのアプリで提供すれば稼げていいじゃんって思わなくもないけれど、予約をどれだけとってもダウンロードがどれだけあったとしても実際の売上には結び付かないネイティブアプリの世界。同じようなタイトルがずっとランキングの上位に締めて新入りが入る余地がない。だったらフラットな状態であれもこれも遊べる場としてウエブがあっても良いんじゃないかというのがひとつと、そいsてHTML5ならネイティブアプリに遜色のないボリュームとクオリティを持ったゲームをウエブからでも提供できるというのがひとつ。そうした利点を見て各社ともブラウザゲームにシフトしているといったところか。

 全部が全部そうなる訳ではなく、ネイティブアプリのゲームはまだまだ作られ続けるんだろうけれど、ダウンロードを競い合えばいつか容量に限界が来て削られるってのがひとつの未来。ユーザーがそうした容量を気にせずに遊べる場所に置いておく方が、長い目で見れば良いって判断も働いているんだろうなあ。いろいろとゲームが登場してくるみたいだけれど、とりあえずスクウェア・エニックスの「アンティーク カルネヴァーレ」が面白そう。チェスみたいに駒を動かしリバーシみたいに挟んでポイントを稼ぐといった具合にボードゲームの要素がファンタスティックなキャラクターと相まって一風変わった味を出している。あのひふみん加藤一二三九段もデモプレイをして負けて悔しいからまたやりたいと言っていた。お墨付きのそのゲームを僕が遊んで遊べるかな? ちょっと試してみるかなあ。

 共同通信が報じて、そして一般紙が後に続いたということは、防衛監察本部の調査で何からの調査結果が出ていてそれがメディアに抜けたと考えるのが普通で、だからやっぱりPKOの日報を非公開とすることを決めた会議に、稲田朋美防衛相も出席していて隠蔽を了承したといった話は、本当なんだと信じておくのがここは良さそうな気がする。もちろん防衛省としての立場どころか、国会議員としての進退に関わる話なんで稲田防衛相自身は、そんな会議のことは知らないし、隠蔽を了承もしていないと言っているけど、こうやって世に情報が抜けた状態でいつまで突っ張っていられるのか。そこが一両日中の大きな問題になって来るんだろう。

 そうなった時に安倍晋三首相はどこまでかばうのか。今日のところはその反応が伝わってこないけれど、一応の代弁者ともいえる菅官房長官は、あくまでも稲田防衛相自身がそうした会議はなかったと言っていると話すに留めて、内閣として否定したといったニュアンスは見せていないし、防衛監察本部が元検事も交えて調査しているからその結果を待ちたいと言うに留めている。今の段階で話が漏れてそういうことになっているのだとしても、そしてきっとその内容も関知しているんだとしても、ここではまだ知らないという体を装って、防衛監察本部に判断を任せる形で知らん顔を決め込んでいる。逃げの姿勢をとっているのかなあ。ただ官房長官は逃げられても安倍首相は任命責任があるし、ここまでかばい続けた責任もかかってくるからやっぱり一両日中に、何らかの言動を見せるかも。さてもどうなる。

 ミートソーススパゲッティを食べてパフェを食べたくなったアニメーション版「異世界食堂」。相変わらず食堂に来て何かを食べる人たちに、過去があって今があってこれからがあるといった紹介が行われていくだけで、冒険だとか悲劇だとかいった話は添えられず歓喜ですらも縁遠い。でも人間、そうした大きな人生の物語の間であっても絶対に何かを食べているし、それがハードな人生の中で瞬間の息抜きになっているってケースもある。そうした瞬間を取り上げ描いていくのが「異世界食堂」ってことになるんだろうなあ。あとはそうした瞬間から前後へと視野を広げて、後を継ぐことになる青年はこれからどんなパスタを生み出していくのか、少女は気力を取り戻して国を率いる立場になっていくのか、なんて想像をするのも面白い。そんな人生の瞬間に、ちょっとした転機を食べ物が与えたって捉え直すのがシリーズのひとつの見方かも。

 今日の出来事であっても即座に調べて文字にして、見られる形にして出すのが新聞記者の仕事の醍醐味って奴で、そのために日頃から情報を集め知識を蓄え時には準備稿なんかも用意してその瞬間に備えている。だからだろうか。聖路加病院の日野原重明さんが亡くなった翌日、すなわち今朝の新聞各紙では1面下のコラムが日野原さんのエピソードで埋められていた。「医師の日野原重明さんはおととしのある朝……」(朝日「天声人語」)、「当時58歳の日野原さんは心に誓ったという」(読売「編集手帳」)、「日野原重明さんは過去に歴史的事件の現場に……」(毎日・余録)、「地下鉄サリン事件のとき、日野原さんは蛮勇をふるった」(日経・春秋)。

 凄いのはそれぞれが違ったエピソードだってことで、申し合わせた訳ではないけれど、それぞれにこれぞといった話を持ってくるだけの調査能力があったってことなんだろう。それを交えて1文をまとめ上げる才能も。全国紙ではないけれど全国紙以上の有力紙、東京新聞の「筆洗」も(おそらくは中日新聞の「駐日春秋」も)「博士をお手本に生きる。亡くなった日野原重明さんである」とやっぱり日野原重明さんを1面コラムで取り上げている。論説委員の周りに良いリサーチャーもいるし、資料も豊富にあるんだろう。日々是戦場の記者が事件ではなくても筆を競う。会社でも1、2を争う名文家たちのここぞとばかりの競演は、読んでいて楽しいし、書いている方もきっと楽しいだろう。そして読み比べて俺が1番だと思うんだ。えっ? 1紙足りない? どこだろう。どこなんだろう。

 バイオチップを埋め込んで無線通信で筋肉の動きもバイタルサインも全部転送できるようになるのがSF的な未来だとしても、そんなインプラントが認められる世界が来るとはちょっと思えないだけに、Xenomaって会社が送り出すスマートアパレルの「e−skin」は人間の動きを信号にして転送して何かを動かす上で最も適切なデバイスになるかもしれない。何しろ薄くて軽くて着心地が良い。シャツの上からはおっても人間の動きをしっかりと上半身に貼り付けられている薄くて細いセンサーが読み取ってデータとして転送してくれる。それを使えば動きが果たして適切かどうかの判断をしてもらえるし、自分の動きでキャラクターを動かすようなこともできる。モーションキャプチャに使えないこともないんだろうけれど、そうした受け身のデバイスってよりは、正確な位置をトラッキングするよりは動きそのものをデータ化して繰り込む能動的なデバイスって言えるかも。かめはめ波だって波動拳だって動きが合えば放てるとかいったゲーム、出来るかな。


  【7月18日】 せっかく映画を見たのでテレビシリーズも振り返っておこうと「ノーゲーム・ノーライフ」の録画してあった分を1話から6話まで。ライトノベルの方は読んでいたけれどもアニメーションがここまで高品質でなおかつスリリングに作られているとはちょっと予想がついていなかった。演出が巧いし脚本も巧みだし演技も素晴らしい。ネトゲ廃人に近いけれども知識と度胸は本物の空と白とが手を携えて移った異世界で、ブラフもイカサマも実力のうちとばかりに発揮しては対戦相手を打ち破って人類種の王となり、そして図書館を占領していた天翼種のジブリールを倒すまでが描かれる。

 そしてそんな天翼種のジブリールを相手に見せたしりとりのやりとりの凄まじいこと。相手が死ねば終わりな流れにうまく乗せて最後まで持っていったその腕前を、繰り出した空も凄いけれど描いた榎宮祐さんもやっぱり凄い。どうやったらこんな原作書けるんだ。国の宝にしてもいいくらいだけれど、ライトノベルとあとアニメーションのファンくらいにしか知られていないんだろうなあ。そこがやっぱり世間の壁。もったいない。映画「ノーゲーム・ノーライフ ゼロ」がヒットして存在がもっと注目されれば良いのに。映画はもうどこまでもシリアスで涙も出るくらいに感動的だったけれど、テレビシリーズはギャグも多ければエロも多少。それが絶好のタイミングとテンポで入って来るから見ていて心地良い。これもまた作った人たちの天才か。いしづかあつこ監督。次は何と作ってくれるんだろう。

 VRといってもヘッドマウントディスプレイを装着して360度の視界をふさぐものだけではなくって、半球の中に入って周囲を見渡せばそこが別の空間にいるように思えるのもまたVRってことで、NHKエンタープライズなかがレコチョクとかとも協力して作った「8K:VR Ride」って奴の内覧会があったんで見物に。300インチはありそうな横長のドーム型ワイドスクリーンに向かって動くシートに座って映し出される映像を見ると、自分が東京の街を乗り物で走ったり飛んだりしているような気分になれる。流れる曲はサザンオールスターズの「東京VICTORY」。東京の街の賑やかさや人との出会いの素晴らしさなんかを歌った歌でもって東京にはいろんな場所があり、それが2020年の東京オリンピック/パラリンピックに向けて変化している様子なんかを映像でもって示してる。

 8Kの高精細映像だからなのか自分でその風景を実際に見ているような気になって深い没入感が得られる「8K:VR Ride」。あとはやっぱり稼働するシートが前に進んだり左右に揺れたり上に上がったりする動きを再現して、自分が空間の中を移動しているような気にさせる。面白かったのはもしも椅子が動かないで映像だけを見ていたら確実に酔うってことで、体がついていかない中で目だけが激しく動くと脳が除法を処理しきれなくなってしまうらしい。ぶん回される映像に酔うのと同じような原理か。そこを「8K:VR Ride」は動く映像に動く椅子が重なって没入感の中に違和感を払拭しているといった感じ。あとドームにしても映像にしても難しい加工は必要ないんで持っていって3時間から4時間で組み立て披露できるとか。とりあえず10月のデジタルコンテンツEXPOで展示するみたいだけれど、その後も全国をキャラバンしてこういうVRもあるんだってことを見せてあげて欲しいかも。なかなか良かった。

 読んだかと言われると実は読んでいなかったりして、なぜかと問われればやっぱり心が痛くなるのが嫌なんだろうなと思っていたりする三原順さんの「はみだしっ子」。存在はもうリアルタイムとはいかないまでも1980年代には知っていて、既に伝説となっていた評判にいつかはと思いながらもずっと置いていたら、三原さんが1995年に亡くなられてしまってそこで読むかというとやっぱり読まずにおいていた。でもこれはもう読むしかないといった機会が到来。あの劇団スタジオライフが何と「はみだしっ子」を舞台にして演じてみせるという。萩尾望都さんの「トーマの心臓」や「訪問者」、そして最近だと「エッグ・スタンド」を素晴らしい舞台に仕上げた劇団だけに、ヒリつくような子どもたちの世界をきっとシリアスに真摯に描いてくれると思っている。

 そんな舞台「はみだしっ子」の発表会があって三原さんとはデビューが同期で今は漫画家を辞めているけど三原さんの作品の復刻とかを一生懸命に手掛けている笹生那実さんが登壇して劇団スタジオライフの倉田淳さんと対談。そこでも「子どもが主人公ということが特異で、高校生くらいの少女の恋愛物が主流だった中で、少年たちが主人公は珍しかった」といった同時代的評価がなされ、そして「子どもとは私が思うに恵まれた環境で明るい子でも、辛いことはツラい。視野が狭くて経験が少ないから小さな事でも落ち込んだりする。『はみだしっ子』で描かれているのは、親からの虐待とか辛いこどもたちのこと。だから今のそうした環境ではない、普通の明るい環境の子どもでも共感できる。それが作品の魅力です」と話していた。

 子供たちに不変の世界に対する怯えや憤りといったものを感じさせてくれる作品を、大人になった僕が読んでどう思うかは、やっぱり読んでみないと分からないんだろうなあ。「読んでみると、人間社会の闇の部分まで容赦なく教えてくれる」と笹生さんも話してる。「社会の荒波に揉まれる効果があります。子供が実際にはそんなに酷い目に遭わなくても、世の中にはこんなことがあると知る効果がある。単純に大人の世界はこんなに汚いというのではなく、大人も子供もこうなんだという社会の真実を読ませてくれる。この物語を読んで救われる子もいるでしょう」。大人として過去を思い返すこともあるだろうけれど、それでも読んでその世界を理解した上で、どんな舞台になるかを確かめたい。

 書いた記者もポン酢なら、載せた媒体も超ポン酢としか言いようがない記事がとある全国紙を自称する新聞のサイトに載っていた。曰く「官房長官の記者会見が荒れている! 東京新聞社会部の記者が繰り出す野党議員のような質問で」。ようするに東京新聞の望月記者が繰り出す質問が鬱陶しいって話なんだけれど、これって記者会見という場を、追究の場にしたいというかそれがジャーナリストとして当然の振る舞いをしている人に対して、後から矢を射かけてジャーナリズムを否定しているに等しい話で、それを同じジャーナリズムを標榜する新聞社の記者が書いているってところがどうにもこうにも鬱陶しい。

 みっともなくて卑怯千万でジャーナリストの名折れも甚だしい記事が、記者によって書かれてしまうし編集者によって載せられてしまう新聞のこれはいったい何なんだといった疑問は、今さらではあってもさすがにここまでポン酢ではなかっただけに、読んで膝が崩れ落ちそうになっている。記事によれは官房長官の会見というものや、それを仕切る官邸記者クラブには作法といったものがあるらしい。「長官番の主な仕事は、その日の朝までに起きたニュースに目を通し、政府見解を聞くための質問を考えることだ。会見の質疑は記録に残るため、質問内容に事実誤認がないか入念にチェックし会見に臨む。会見後は、締め切りに間に合うよう原稿を執筆するため、質問は簡潔にまとめて最小限に抑えることが、各社の長官番の間では、大前提となっている」。

 おいおいそんなこと誰が決めたんだ? なるほどホンネのところではそういったルーティンの中で処理するようなポジションになっているんだけれど、記者クラブってところがタテマエでは記者たちが主催をする形で権力と対等に向き合って丁々発止を繰り広げる場、だから常に真剣勝負で切り結びあっているべきってことになっている。けれども記事ではホンネの部分が正当であるかのように書かれてしまっている。読めば官邸記者クラブに所属する記者たちは、日常なれ合っていて締め切りだなんてもののためにしたい質問もしないで頑張っているってことなる。それが読者のためになるか? って基本なんてそっちのけ、読者なんて関係ないよまずは締め切りを守るのが新聞記者の勤めだよといったニュアンスのことが綴られてしまっている。

 こうなると記者クラブって何のためにあるの? 権力と切り結ばないような人たちにどうして政府はスペースを与えて国民の代表として取材を許しているのって話になりかねない。他の加盟社たちもそうなんですね、って言われてはいそうですと言えるのか。言えないし言えるはずがない。自分たちはそんな慣れないなんてやっていないし締め切りを守るために質問をしなかったりもしないんだって言うだろう。官邸記者クラブがそんな馴れ合いの場所だってことを満天下に公言したこの記者に対して、そんなことはないだろうって抗議するのが筋なんだろうけれど、ホンネでつながった身内に果たしてそういうことが言えるか否か。ちょっと成り行きを見守りたい。


【7月17日】 これはとっても凄いとしか。長編アニメーション映画「ノーゲーム・ノーライフ ゼロ」は榎宮祐さんのライトノベルが原作で、すでにテレビアニメーションにもなっているけどそれはまだ原作の第3巻まで。人間のみならずエルフだとかドワーフだとか機械人だとかが混在する世界では、争い事はすべてゲームによって解決するようになっていて、それは神様が定めた絶対的なルールとなっていて、そんな世界で神様自身に挑むプレイヤーがいなくなったということで、日本でネットゲーマーとして名をあげていた空という兄と白という妹を召喚して異世界でもってゲームまみれにさせる、といったところがだいたいの設定。

 そこでは単純なゲームもあれば自分自身の存在を消してしまうといった思弁的SF的大技も炸裂するゲームもあって思考をグリグリさせられるけれど、問題はそうした世界がどうやって成り立ったかってところで、テトって神様の単純な思いつきではないってことが原作第6巻で明かされる。映画はその映像化ってことになる。そこを理解して見ればまずはだいたい見られるから気にせず行って欲しい映画「ノーゲーム・ノーライフ ゼロ:。でもって見れば感動と感嘆と感涙にまみれてしばらく劇場の椅子から立てなくなること請負だ。

 まず舞台は空や白が召還されるよりも6000年も前のこと、世界はドワーフにエルフに龍のようなドラゴニアに天使のようなフリューゲル、そして人間のような形をした機凱種ことエクスマキナといった種族が激しく争い地上は交配して死の灰が降りしきる中、人類は数を減らして戦火の中をくぐり抜けて生きていた。そんな強大な種族の下で翻弄されるように消され焼かれ吹き飛ばされ、もはや絶滅寸前の人類をかつて戦火で家族を失った少年リクが率いてどうにかこうにか生き延びる道を探している、そんなある日、出向いた先で1体だけで残っていたエクスマキナの少女を拾う。いわゆる群れからパージされて連結から切られたスタンドアロンの存在は、機械にはない心といったものが何かを求めて彷徨い、出会った人間のリクに接触して人間に必要なものだからと生殖だとか繁殖といった知識から迫る。

 もっともその身は幼女体型でなおかつ機械で生殖も繁殖も不能。そもそも自分達を追い詰めたエクスマキナが心に興味がると言って迫ってきたところで、リクがはいそうですかと受け入れるはずもなく葛藤と怒りが浮かぶけれど、一方で熱心なチェス好きでもあって見えない誰かとずっとチェスをしていた記憶もあるリクは、なぜかチェスをやりたいと言ってきた少女体のエクスマキナを受け入れ連れ帰り、そして2人で世界をひっくり返すための壮大な計画を練り上げ実行に移す。それが本編のおおまかなストーリー。その過程で機械に過ぎない少女がどうして心の発端を得て、そしてそれを育もうとしていくかが綴られSF的によくある主題といったものへのひとつの答えを感じさせられる。

 もうひとつ、最弱とよばれ取るに足らないとされた人類がそれでも諦めず、大逆転を狙ってゲームに出る根底にある心といったものの存在を感じさせ、空も飛べず海も泳げず走るのも遅い人類が、それでも生き延びた理由といったものを仄めかす。後の「ノーゲーム・ノーライフ」の世界でも人類は序列最下位ながらもしっかりしぶとく生きている。そのしたたかさは6000年前から同じだったってことで、知恵と勇気とちょっとした行動力があれば、神様だて騙して世界は変えられるんだって気になって、明日からを頑張って生きていこうと思って劇場を後にできる。そんな映画だとも言える。

 さて映画では、世界に挑み神様に挑もうとする戦いの中でだんだんと理解し合い認め合い結婚までするまで仲になっていくリクと、そしてシュヴィと名付けられたエクスマキナの少女。ただ力を誇示し合い人間なんてお呼びでないとばかりに大地を荒廃させる強力な種族たちの間を情報戦で攪乱し、そして世界の序列第1位としてすべてを見下し抑え込もうとするオールドデウスを引っ張り出しては、そこに新たなルールを作ってもう誰も争わず殺さず死なない世界を作り上げようと画策して向かった戦いの先、心というものをおそらくは得ただろう機械の少女の慟哭があり、誰かをパートナーに歩む気持ちを持った人間の少年の必死の叫びがあってそして世界は次ぎの段階へと踏み出していく。

 後の空と白の物語にも登場する天使のジブリールがパワーだけなら最強クラスで繰り広げる爆裂魔法、じゃないけどそんな破壊に立ち向かい必死で自分をつなげようとするシュヴィの戦いぶりがまた健気で泣けてくる。その帰結とその先に広がった世界の可能性を思うとよく頑張ったと褒めたくなるし、けれどもやっぱり2人で新しい世界を歩んで欲しかったとも思えて来る。機械を憎んでいた少年と心を持たない機械の少女とかしっかと感じ合い弾かれ合い結ばれていくストーリーを描き挙げた映像と脚本と声優たちの演技に喝采。この感慨を味わいに何度だって映画館に通いたい。

 いよいよ石破茂前地方創生担当相を潰しに出たようだけれども某新聞、これって本当に載せても大丈夫な記事なんだろうか。日本獣医師政治連盟の北村直人委員長と日本獣医師会の蔵内勇人委員長が石破さんと会った時の話ってのが書かれているんだけれど、それが本当だったかどうかってことを北村さんなり蔵内さんに確認はしておらず同席なり周辺なりにいた人たちの傍証すらとっていない。当然に石破さんかはら否定されているけれど,否定されたと載せるだけで疑惑は漂わせたまなまになっている。これでまるで根も葉もない話だったら訴訟を起こされ完敗することは必至で、それだけのリスクをはらんだ話を載せるのに、証言の1つも証拠の1つも示していないのは正直とてつもなくヤバかったりする。

 記事には何か画像が添えられ、日本獣医師会の内部資料とか書かれてあってそこに日本獣医師会の石破さんに対する政界工作が大成功したって感じの報告が綴られていて、もう完璧なまでの証拠品で、おそらくは平成27年度第4回理事会の議事録なんだけれど、ネットでも公開されているそれを大々的に掲載して追究することはなく、それが書かれた部分だけがクローズアップして何となく読めるようになっているイメージ写真風の掲載になっている。でもってそれがどこから出たものか、どういった種類のものなのかといった説明は無し。石破さんを追い詰めたい、そして安倍総理を助けたい人には、そうした説明なんて関係なく、ノーファクトノーエビデンスの印象操作であっても印象さえ漂わせられれば勝ちといった態度に固まっている。さっそく攻撃も始まっているけれど、これでもし文書の内容の真否を問われて答えられなかったら、どこかの偽メールにも勝る醜聞になってしまいそう。どうなるんだろう。やれやれ。

 50年も経っていればおばあさんになってしまったかと思いきや、タカラトミーのリカちゃんは今もしっかりと若々しいまま50年前のファンも今のこどもたちのファンもしっかりと楽しませてくれているようす。25年前にリカちゃんの50周年を記念したパーティに招待するよって企画があってそして25年が経った今、改めて開かれたパーティに800人くらいが東京では集まり舞浜アンフィシアターで懐かしいリカちゃんとか最新のリカちゃんを見たりリカちゃん電話の声を担当していた杉山佳寿子さんのコメントをもらったりとリカちゃんずくしの1日を過ごしたもよう。杉山さんなんて今はもう70歳になっているけど若々しい声でリカちゃんっぽい演技を聞かせてくれた。でも始めた当時は22歳とかそんなものだったんだよなあ。変わらない声。ハイジだって今演じられるかも。テンちゃんもか。

 山田邦子さんも登場して自分がリカちゃんが大好きなことをアピール。そしてリカちゃんのお友達に自分だけが入ったことを自慢しつつも顔立ちについて異論をはさみ、それでも今にして思えば素晴らしいことといったスピーチをよどみなく笑いも交えて聞かせてくれた。あんまりテレビには出てこないけれどもやっぱりさすがのエンタテイナーにしてコメディアン。MCだってまだまだ行けるような気がするんだけれど、テレビってところは1度外すとなかなか上げない場所だからなあ、ヒロミさんだって出演はしてもメインとなるとなかなか届いてないみたいだし。でも人柄もあれば才能もあるんでまだまだこれから、活躍はしていってくれると思いたい。それにしても変わらないなあ、デビュー当時から雰囲気も芸風も。


【7月16日】 そうだアンチボルト展へ行こうと起き出して上野まで行ったら長蛇の列でこれは無理だと諦めて、東京国立博物館の方で開催していた「タイ 〜仏の国の輝き〜」の方を見物。こちらはすんなりと入れて6世紀とか7世紀あたりの仏像から最近の上座部仏教が入った仏像と関連する品々なんかをまとめて見ることが出来た。タイっていうと山田長政が日本から渡ったシャムの頃とか、最近のバンコクを中心とした歓楽と微笑みと時々クーデーターの国って感じくらいしか浮かばないけれど、その歴史は日本に大和朝廷が出来る以前からずっと長くあって王朝を変えながら面々と続いてきて、そして仏教なんかもインドから伝わり形を変えつつヒンドゥー教の要素なんかも混ぜながら脈々と続いているらしい。

 となりのインドネシアがイスラム化したりマレーシアやシンガポールが華僑化したりミャンマーは軍政化したりベトナムは共産化したりと政治的社会的に混沌としていった東南アジアにあってタイはタイとしてあり続けて今に到る、そんな国だからこそ残っている文化もたくさんあるんだけれど、日本で見る機会もなければ知る機会もない。そういう意味では興味をさそってくれる良い機会になったかもしれないけれど、行っていわゆる仏教遺跡の何を見るかっていうと現役感が強いだけに迷うんだよなあ、カンボジアのアンコールワットやインドネシアのボロブドゥールみたいな“遺跡”がないんだよなあ。それをいうなら日本だって仏教はちゃんと現役なのに仏像とか寺院とかも見る物がいっぱいある。これって世界的にも凄いことなのかもしれない。

 タイでは6世紀から11世紀にかけてドヴァーラヴァティー王国ってのが存在したらしいけれど実在だとか詳細だとかが伝わっていないのが謎というか、その時代だと日本はだんだんと王朝の形が整ってそして口伝もあれば文献なんかも国内外に残されるようになってそうしたものから日本書紀だとか古事記だとかいったものが8世紀になって作られた。そのすべてが正しいわけではないだろうけれど、継体天皇からこっちとか、あるいは大化の改新以降の大王を中心とした大和王権の存在を疑う人はいない。でもドヴァーラヴァティー王国は銀貨に書かれた文字が存在を証明する大きな証拠らしくって、広大な土地を治め交易なかもしていても、残される史料がなければ語られ得ないものなのかといった感慨が浮かぶ。

 史料があって歴史が生まれる訳じゃなく、人がいて社会が営まれていさえすれば歴史は存在するんだけれど、それを文献なりですくうことが出来なければ語り継がれない。となると考古か民俗学の領域に行かないと証明出来なくなるといったことを思うなら、歴史がただ史料を読んであれやこれや語る文化的で文学的な学問ではなくて、現地に行ってフィールドワークで調査して、考古の資料をあさり口伝も広い建築だとか気候だとかいった様々な要素をを総合して、語る科学と社会学とを織り交ぜた学問である必要があるし、学ぶならそうした素養も学ぶ必要があるんだけれど、そうした感じに今の歴史学科となってなっているんだろうか。卒業をしてもう30年近くが経ってしまってそのあたり、よく分からないんだよなあ。卒論も史料だけで書いたけれど、出来れば生きたかったなあ、マイソール王国、ってどこだそれ? そんな場所について書いたんだよ自分。

 外に出たら暑くって、歩いているだけで倒れそうになったけれどもどうにかこうにか上野駅まで戻って御徒町へと向かうガード下にあるトンカツやのかつ仙でメンチカツとから揚げの定食を食べる。しばらく食べていなかったんで大丈夫かなあと思ったけれども食べ切れたんでまだまだ夏ばてではないらしい。これが食べられなくなるとちょっと胃腸的に弱っていることが感じられるんで月に1度くらいは食べに行くか、でもダイエットもしたいしなあ、寝てれば自然に痩せるか今は、暑さで汗だくになって。それにしても上野もアメ横もすごい人。この暑さにも関わらず国内外からわんさか来ているのはそれだけ日本って国のこの辺りに、求める何かがあるってことなんだろうか。風情とか。観光とか。情報とか。僕らにとってはただの賑わいも他国の人にとっては珍しくって面白いもの。そういう発想を鑑みないで観光のためになるからと、無駄金使って繊細を焼け残った石垣のことを考えないで木造で城を建て替えるとか言っちゃう市長とかいるからなあ。何だっていいんだよ、きっと。

 そして夜になったので阿佐ヶ谷ロフトへと回って「この世界の片隅に」のイベントへ。発売日に激しい争奪戦があったけれどもそこをどうにかくぐりぬけ、完売状態からもう変えない表示が出ている画面へと戻らず購入ボタンを押し続けられるモードで待っていたらクレジットの認証か何かでキャンセルが出たかうまくひかかって確保できたといった感じ。それで入ると何とメニューに楠公飯があって、最初はためらったもののこれはやっぱり試しておかねばと食べたら結構美味しかった。お新香が。あれがなければちょい芯がのこった雑穀といったところかなあ。映画に出てきたみたいにぷるぷるとはしておらず水気もなかった。ちょっと違っているのかな。次も食べるかというとそこは……まあキャラクターグッズだと思えば食べるかな。

 さてお話しの方はといえば江波ですずさんがのりを受け取り中島本町へと向かうシーンでの江波の気象台が建設中かどうか分からず画面から切ったり、途中でのりは6段で干すんじゃなく7段で干すんだときいて漫画とはかえて7段にしたりとかいった交渉の綿密さを改めて訴える話を延々。円太郎さんがどういった経歴で今の仕事に就いて2000馬力を整備するようになったかといった話から、どこで働いていたかを示して今は米軍の火薬庫か何かになっている場所に防音棟が立っていた土台めいたものが残っていることが示された。行ってみたいけれども絶対に入れそうもない場所。誰か米軍さん、撮ってきてくれないかなあ、円太郎さんのいた場所を。

 第3部に入ってからはもっぱら本編では落とされたシーンについての交渉話があってつまりはそれは“復活”に向けて着々と準備を進めている現れだって理解をした。昭和20年の4月に桜はまだ咲いていたのか。立っていた銅像は誰のだったのか。それは昭和20年にどうなっていたのか、等々。そうした交渉から事実の中に架空の誰かを蘇らせようとしているんだけれど、そこにまた新たな難問が持ち上がってズレてしまっている時間をいったいどういった理解のもとに描くかが気になった。1つが事実ならもう1つは虚構でしかあり得ないならどっちを事実でどっちを虚構にするか、それはどういった理屈から出来てきた虚構なのか、ってあたりから1人の女性の強い思いが願いとなって絵に描かれたものだって推測をする。それがどういった形で登場してくるのか、分からないけれども別立ての短編でも本編に挟み込むでもどちらでも良いから、いつか実現して欲しいもの。待ってます、5年でも10年でも。

 峰守ひろかずさんの新刊「六道先生の原稿は順調に遅れています」(富士見L文庫)を読み終えて思ったのはつまり容姿がいつまでも変わらない荒木飛呂彦さんはそういう人だったのかってこと。セクハラ老作家をぶん殴り担当がなくなった女性編集者の滝川詠美。とりあえず編集長から命じられたのは、長く担当していた編集が倒れた代わりをしろってことで、行かされた先が40年も作家を続けている六道j馬という作家。外には出ず顔は前の担当しから知らないというその作家を訪ねた詠美は、玄関先で若い男子に出迎えられ取り次ぐと言われ帰るも気になり、後日張り込んで出てきた男子の後を着ける。

 そして見たのは男子が大口を開けて何かを吸い込んでいた場面。つまり男子はそれで、なおかつ六道先生だったといった事実に驚きつつも慌てず、原稿を依頼する滝川さんは編集者の鏡かもしれない。そして六道先生が頼まれた作品をひとつ執筆するたび、に妖怪めいた事件が1つ解決されるといったエピソードが重ねられていく。もっとも、それは探偵的な行為じゃなくって、六道という人物が食べるために原稿を書いていて、そのために誰かの妄念が妖怪と結び付いて顕在化したものを食わなくちゃいけないってだけのことで、それは果たして正義か否かといった問題が浮かび、自身への嫌悪感からか筆が止まってしまった六道せんせいをどうにかさせたい詠美の迷う日々が始まる。迷う作家と悩む編集の関係に絡む人とそうでない者の関係に正解はあるのか。そんなことも考えさせられる峰守ひろかずさん「六道先生の原稿は順調に遅れています」だったりする。

 編集とは何を求め作家とは何を描くのか、ってあたりも知れるかもしれない。人間ならざる存在として、吸血鬼が作家をやっている話に澤村御影さん『憧れの作家は人間じゃありあませんでした」があるけれど、それは吸血鬼としての異能を買われて探偵行を請け負っているからで、「六道先生の原稿は順調に遅れています」はもうちょっと別の、現代の人間が抱く不満や悩みや迷いや思いが、それぞれの地域に根ざした怪異や妖怪と結び付いて顕在化し、増幅してく様を見せてほら今そこに怪異が、って教えてくれるところが面白い。さすがは「絶対城先輩の妖怪学講座」で営々と伝わる妖怪やら怪異に現代流の理由を付けて描いた峰守さんだけのことはある。復活した六道先生に次はどんな話を書かせるか、そこにはどんな迷いや思いがあって妖怪と化そうとしているのか。期待して待とう。


【7月15日】 映画館に行って流れる予告編の実写版「心が叫びたがっているんだ」に登場するキャラクターたちのビジュアルもしゃべり方も、そしてメインビジュアルとなっている4人が並んで叫んでいるような構図も元を辿れば超平和バスターズを構成する面々がアニメーション版で作り上げたものであって、それが実写版になった時にベースに超平和バスターズの名前はクレジットされていても、決して大きくはならず監督がいて脚本家がいて俳優たちがいてといった具合に、そちらがメーンで紹介されている。あるいはしばらく前に上映された実写版「あしたのジョー」における演出も、ちばてつやさんの漫画版ではなく出崎統監督がアニメーションで見せたものが使われていて、そしてこれこそが「あしたのジョー」だと感じてしまうくらいにアニメーション版の印象が強くすり込まれているけれど、映画のどこにもアニメーション版への言及といったものはない。

 ハリウッド版の「ゴースト・イン・ザ・シェル」が公開された時に誰もが思ったことが、これは押井守監督によるアニメーション映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」なり神山健治監督のテレビシリーズ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」からのビジュアル的ストーリー的引用だったけれど、ハリウッド版が原作としているのはあくまでも士郎正宗さんによる漫画版「攻殻機動隊」であって、押井守監督や神山健治監督が原案に名を連ねることはない。ただしそこは権利に厳しいハリウッドだけあって、エグゼクティブプロデューサーを務めた藤村哲哉さんは完成までにこうしたアニメーション版の製作委員会から許諾をとるよう求められ、そのとおりにしたという。あとで何か言われることを当然に予想する。ハリウッドらしい対応だと言える。

 そこで実写版「銀魂」を観たときに、キャラクター達たちの口調やしぐさにはやっぱりテレビアニメーション版「銀魂」のニュアンスが息づいているように感じられる。もちろん原作の漫画があってのアニメーション版ではあるけれど、テンポや口調にはどこかアニメーションで見慣れたものがあったりしながら、そこへの言及はあまりない。いや、吉田松陽先生の声がアニメーション版と同じ山寺宏一さんだったことを考えるなら意識はしているし、そうしたアニメーション版のファンを呼び込みたいといった意識が伺える。とはいえやっぱりメインとなるのは原作で、その実写版として登場した「銀魂」にとって世間にファンを大きく広げたアニメーション版がどういう位置づけになるのかは、ちょっと知りたいところである。

 だってアニメのまんまの面白さだったんだから。とりあえず武市半平太役の佐藤二郎さんが最高で、あの木で鼻をくくったとも見下したともとれそうな口調が佐藤二郎さんに独特の口調と重なって漫画から飛び出して来たように見えた。拳銃使いの来島また子もアニメーション版で早水リサさんが声をあてているキャラクターそのままの口調でビジュアルも含めて再現されていて、違和感なく観ることができた。志村新八も神楽ちゃんも菅田将暉さんと橋本環奈さんで違和感がなく、何より新撰組の近藤勲がもうそのまんま。裸になるはストーカーになるはといったアニメの世界から飛び出して来たような言動を肉体を持った役者が演じて見せた。それも梨園のプリンス、中村勘九郎さんが演じてみせたところが凄いというか。素晴らしいというか。ひとつ大きく突き抜けたんじゃなかろーか。

 空と飛ぶ船を使ってのドンパチも映画版とかテレビシリーズうで観たような空気感。そうした作品が出来上がる過程で福田雄一監督がどれだけアインメーション版を参考にしたかってあたりは聞いてみたいところ。アニメがなくても同じビジュアルになたかいなか、って考えた時に、漫画がいったんアニメになっていることの意味ってのが割と大きいのかも知れない。ただ中には「ちはやふる」のようにアニメになっても実写版ではまるで違った演出を見せ展開を見せるものもある。強烈なビジュアルというよりストーリー性がメインの作品であり、原作を忠実に表現してそこにアニメならではの強烈さが乗っていなかった「ちはやふる」と、アニメだからこその無茶苦茶が大受けしてそれを大いに取り入れた「銀魂」との方法論の違いとも言えるかも。果たして近く公開の「ジョジョの奇妙な冒険」がアニメ的か原作的か気になるところ。年末公開の「鋼の錬金術師」もアニメが実写になったものか、漫画が実写になているのかやっぱり気になる。見方がいろいろ浮かんできた。

 戻って実写版「銀魂」では志村妙役の長澤まさみさんがお妙さんそのまんまでとても良かったかなあ、おっとりのなかに毒が潜むけれど、時として豹変して銀さんを怖がらせる。紅桜に斬られた銀さんが目覚めてどこかへ遺稿とする瞬間に着物のすそから足を見せつつ長刀をつきつけるそのアクションは、生身の役者ならではのエロスがあって難度も見てみたいシーンかも。床下から近藤が現れた時の毒づき方はもうリアルな長澤まさみさんを見ているよう。そこで近藤が斬って見せた見栄がまた歌舞伎俳優ならではの決まりっぷり。脇にもずらりと最高の役者を揃えたことが実写版「銀魂」を演技面では安心して見ていられる作品にしている。そしてストーリー面では漫画とそしてアニメで繰り広げられたもの。既視感の上に重なる役者のカラーが過去に観つつ新しく見せられる作品にしてくれた。これは良い物だ。また行こう。

夜に輝くフレンズたち  イオンシネマ越谷レイクタウンで実写版「銀魂」を見たのはそこから東武動物公園へと転戦するためで、武蔵野線から東武線へと乗り換え東武動物公園へと到着したのが午後3時半あたり。さっそく入ると前にライブ・エンターテインメントEXPOのために幕張メッセへと出向いていた人がいて挨拶をして、そして今日から始まったサマーナイトZOOという企画での「けものフレンズ」とのコラボレーション会場へと行くとずらりとフレンズたちが並んだパネルがあった。とはいっても夜がメーンのイベントなんで昼間みてもただフレンズたちのパネルが飾られた壁があるくらい。いつまでも見ていても仕方が無いので今日から販売が始まった夜の動物とフレンズとのコラボ缶バッジを購入し、それから名物の串焼きハムを囓りペンギンを眺めつつ2時間ほど休憩する。

 そして午後6時になって広場に戻ってしばらくしたらパネルに灯りが入ったけれども、まだ日が沈んでいない時間帯では輝きも目立たず普通のパネルでしかなくて、これは見たと言えないんでそこからさらに1時間半くらいねばって、薄暗くなってフレンズたちを後から光らせている灯りが見えるようになってから見物。暗い中に浮かぶフレンズたちは美しくって幻想的で、動物たちのケージの前に立っていた時とはまた違った味を感じさせてくれた。どんどんと光量が変化していく中で動物たちを撮ろうとすると周囲が暗くなりすぎて、そして周囲を明るくするとフレンズたちが明るくなりすぎるといった難しさの中を、それでも何枚か撮影をしてどうにかこうにか雰囲気のある写真をものにする。巧い人がとれば薄暗い中に光るフレンズをちゃんと撮れるんだろうなあ、そういった画像も見てみたいかも。もう1度くらい行けたら行きたい。今度はちゃんと動物たちのケージがライトアップされているのも見てこよう。

 何を言いたいのかさっぱり分からない。というかこの文章も書いている人間もまともじゃないだろう的な。とある新聞の1面コラム。「一般的な原理から、事実関係を推理・説明することを『演繹』という」「これまでの一連のマスコミ報道を追うと、演繹法が誤用されている印象が濃い。安倍首相は悪である。加計学園理事長は安倍首相の友人である。ゆえに不正がなされたに違いない。そんな根拠のない前提のもとで、飛躍した論理が流布されてはいないか」。いやいや「安倍首相は悪である」というのは仮定の間違った前提ではなくて過去、森友学園にしてもジャーナリストの山口敬之氏にしても稲田朋美防衛大臣にしてもお仲間に対して繰り出してきた諸々の事柄から「演繹」されて導き出されたものだたりする。

 そこからさらに1つの状況を乗せて「ゆえに不正になされたに違いない」といった推論が導き出されているのであって、決して「飛躍した論理」なんかじゃない。否定するならそうした諸々のお友達優遇をすべて否定する必要があるのに、「安倍首相は善である」とう正しいかどうか分からない前提のもとで、加計学園で不正はなかったとう「飛躍した論理」を流布させようとしている。他を批判する同じ手法で自分を擁護するような文章を、書いていてアレレと思わなかったんだろう。思いもしなかったんだろうなあ。安倍首相擁護という大前提のもとに結論を導き出しさえすればそれで良いという狭い狭い視野だから。

 やばいのはこうした自分を省みない言動だけではない。「加計学園誘致を進めた当事者の加戸守行・前愛媛県知事が行った証言について、翌11日付の朝日新聞と毎日新聞の朝刊は、一般記事中で一行も取り上げなかった」。一般記事中とか敢えて書いちゃっているということは、そうじゃない一問一答的な詳報記事(というか一般記事とそうでない記事の何が違うのか)に発言は出て来ていて、別の媒体が似たようなことを書いたら訂正を求められてそのとおりに直しが入れられていた。そして加戸前知事の発言を載せたところで「安倍首相は悪」であり「加計学園理事長は安倍首相の友人」であるから「不正がなされたに違いない」という推論を補強はしても、ガラリと崩す材料にはならない訳で、そうした説明を抜きにして「朝日新聞や毎日新聞は悪」であり「加戸守行前知事の発言を載せなかった」から「安倍首相は善」だといったニュアンスを漂わせようとしている。ここでも自分が否定する妙な論法でもって自分を擁護する珍妙さに、気づけないところがもはや末期も通り越しているってことなんだろう。参ったなあ。


【7月14日】 ちょっと前にネットで読める長編漫画として評判になっていた人間プラモさんによる「映画大好きポンポさん」が書籍になるとかで、どうやったらありがとうのお金を払えるんだと叫んでいた人たちにとってはいよいよ本を買うといった選択でもってお金を払って良い作品を描いてくれた作者に貢献が出来そう。これでキンドル版も登場して公開中の作品が消えてしまうってことになるのかどうか、ちょっと分からないけれどもそうなったらなったで電子書籍版を買うだけだ。それだけの価値がある作品なんだよ「映画大好きポンポさん」は。

 この勢いで映像化だなんて企画が浮かんだらまずは漫画原作ってことでアニメーション化が検討されそうだけれど、どこか唐沢なをきさんっぽいところもある絵は動かすのも大変そう。なのでやっぱり実写映画化ってことで舞台はハリウッドっぽいけどそこは日本に置き換えて、若い敏腕映画プロデューサーのポンポさんが広瀬すずさんで新人女優のナタリーが土屋太鳳さんで、ポンポさんのところで働きながら映画監督を目指すジーン君が山崎賢人さんでポンポさんの事務所に所属する美人女優のミスティアが吉高由里子さんってあたりがバリュー的にも雰囲気的にも良いかなあ、なんて考える。豪華過ぎて揃いそうもないけれど。

 それを言うならポンポさんのおじいさんで数々の栄冠に輝いてきた映画プロデューサーのでペーターゼンさんは仲代達矢さんあたりを起用して、そんなペーターゼンさんが使って育ててきた役者で今は伝説と呼ばれるマーティン・ブラドッグは仲代さんの無名塾出身の渡辺謙さんか役所広司さん。そしてポンポさんと仲が良くっていつもB級だけれど面白い映画を撮り続けているコルベット監督が樋口真嗣監督ってあたりが、実現すれば面白いんだけれど実現する訳ないか。仲代さんに渡辺謙さんでいったいどれだけギャラ、飛んでいくんだ。でもこの作品が映画というものへの情熱を訴えるものだを言えばあるいは耳を傾けてくれるかも。実現に向かって動き出すポンポさんみたいな映画プロデューサー、現れないかなあ。

 ふと気がついたらプレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドでベテランになっていたウェイン・ルーニー選手が退団をして古巣のエヴァートンに移籍していた。モウリーニョ監督になってグッと出番は減っていても出ればそれなりな活躍を見せるプロ選手。そして他の選手たちにあって鏡ともいえる態度を見せ続けていたことにモウリーニョ監督も一目置いていたみたいで、そんな偉大な選手を腐らせるのはもったいないとエヴァートンへの無償の移籍を認めたというからこれは何という太っ腹。他だったらきっと何十億円もの移籍金が発生したんだろう。そうした恩を試合での得点で返すのもまたプロサッカー選手の味ってことで、次のシーズンはエヴァートン対マンチェスター・ユナイテッド戦から目が離せない。見られないけどね。

 ふと気がついたら女子サッカーのジェフユナイテッド市原・千葉レディースでゴールキーパーとして活躍していた山根恵里奈選手が退団していた。今月に入ってからもなでしこリーグカップの試合はあったからそれは別の選手が出場していたんだろう。日本にいれば正ゴールキーパーの座も日本代表の座もある意味で安泰なんだけれど、それでは満足できないのかやっぱり足りないところがあると自覚しているからなのか、日本サッカー協会が進める海外留学の制度に乗ってスペインに修行に出るみたい。ベティスとか。身長はあって最近は守備にも冴えは見せているけどやっぱり高さだけで足下の弱さ、俊敏さ、判断力を鍛える機会がなかったのが成長を妨げていたとするなら、海外での経験を経てスピードと判断力を付けフィジカルで成長てくれれば、あと5年は日本が世界に誇る壁となってくれるだろー。期待して送りだそう。

 そして気がついたらA.C.ミランを退団した本田圭佑選手がメキシコのパチューカに移籍していた。どこかで聞いたことがあるのは前に同じ名古屋グランパス出身の福田健二選手が所属していたチームだからで、そこで福田選手は21試合に出て12得点をしたというからなかなかの活躍ぶり。そうした印象を持って迎える本田選手が活躍しないとなんだってことになるから当人だってそれなりに意識をもって臨んでくれるだろう。というか意識だけは強くて高いけれどもどこかチームが汲んでいないところがあった。パチューカはどうだろう。クラブワールドカップに出場できるみたいだし、年末の大会でチームの中心として活躍してはトーナメントを上に上がって南米代表、あるいは欧州代表を破り決勝へ、ってことになって欲しいもの。頑張って。

 表紙にでっかく描かれた美少女は別にヒロインではなく一種の人工知能がアバターを立体映像で投影したものでデータ収集以上の活躍を見せるわけではないし、口絵に登場している別の美少女も冒頭にちょっとだけ顔を見せるだけでストーリーの展開にはまるで絡まない。だったら誰がヒロインかというとそんなものは存在しておらず展開はもっぱら表紙の脇に構えるおっさんが引っ張っていくという、そんな三条ツバメさんのライトノベルが「たったひとつの冴えたやり方」(HJ文庫、619円)だ。

 企業が発明したテクノロジーによって人が異能を持てるようになって、そして多くに異能が渡って困った国家が企業を潰そうとしたら反撃されて今や国家は弱体化して7つの大きな企業が世界を牛耳っているといったシチュエーション。そして企業は今も異能を販売しては金を稼いでいるけれど、時々買った異能の代金を返せなくなる人も出てそうした人から金というより異能そのものを回収する仕事が存在するようになっている。それが債権回収機構。表紙絵に登場するノーマンというオヤジもそんな機構に所属しては、街に出て未払いの異能を回収して回る仕事をしている。

 かつては凄腕の異能使いだっらしいけれど今は訳ありで一種のサラリーマン稼業。それを亜ポーとするのがAIのアイビスだったりするという関係から恥じまった物語は、怨みをたくさん買っているノーマンが狙われたら反撃をして射殺してしまうくらいは平気でやってしまっていて、それを民警に正当防衛を説明するのも面倒だからと別の町へ仕事に出かけてそこでマフィアのドンの爺さんと会ってこれから街で仕事をすることを挨拶する。おやじに爺さんとライトノベルにあるまじきキャラクターだけれど、その先に美少女が出てくるかというと出てこないからご安心、いや安心してはいけないのか。

 マフィアのドンの息子たちが仲が悪くて権力を争っていたりするその間で、ノーマンは行ったり来たりして裏切ったり寝返ったりしながら街をのっとろうとする勢力とも対峙して襲ってきた相手の腕を吹き飛ばして頭を砕き、その仲間はひとにらみで追い返すだけでなく、睨まれた仲間はどこにも逃げる場所はないと絶望にひたって高いところから飛び降りて自殺してしまうくらいに追い込んでいく。何というバイオレンス。何というスリリング。ライトノベルとはとても思えないけれどもこれだって立派にライトノベル、レーベル的には。そういうものだ。

 異能をふるって戦えば相手の肉がひしゃげこちらの腕も吹き飛ぶといった具合に血が流れ肉が散るくらいの描写でいっぱい。胴体だって3つに寸断されてしまうからライトノベルにラブなコメディを求めている人にはちょっと苛烈かも。でもこういう話って前はちゃんとあったよなあ、古橋秀之さんとか好きでいっぱい書いてたんじゃなかろーか。いつからライトノベルはラブコメディと少年少女の異能バトルと異世界転生の俺TUEEEEばかりになったのか。そう思った時に目を開いてくれるおっさんたちの血で血を洗う異能バトル。目新しく写るかも。ラストもカチコミかけてきた勢力の本拠に同僚と乗り込み地上から消す勢いというからもうどこまでもサスペンス&バイオレンス。読んで大いに溜飲を下げよう。

 とある全国紙を自称する媒体で、恣意的な切り取り方がメディア不信の元凶と書いている記事があって、震災から3ヶ月経った菅直人元総理の食事がゴージャスなのに、東京都議会議員選挙で惨敗した夜に安倍総裁らがフランス料理屋で会っているのを豪華だと批判するのは間違いだと言っている。もうポン酢かと。何か事あればずっと総理大臣はカップ麺を食っていろって話ではなく、東京都議会議員選挙で立候補者が当選か落選かの瀬戸際にあって一喜一憂している最中に、党を率いる人たちがフランス料理屋で密談も何もないもんだって話。知って自民党の候補者たちは何を思ったか、って考えればやっぱり配慮は欲しかっただろー。それだけの話なのに頭の中にはそれしかないのか、菅元総理もそうだったって、まるで条件の違う話を持ちだして一緒にしてチャラにしようとする。時と場合を判断して是々非々を論じる頭がもうどこにもないんだろうなあ。可哀相に。でもそんな頭が1番らしい媒体に果たして未来は。やれやれだ。


【7月13日】 2.5次元ミュージカルだったらなあ、と思わないでもなった実写映画「鋼の錬金術師」の出演者たちビジュアル一覧。舞台っていうのはある種のお約束で成り立っている場所としてそこに日本人バリバリの顔立ちの人がメイクしてカツラも着けて外国人っぽさを出そうとしていたらそれを外国人だと見做す。限定された空間の中で人も含めて変換して観るような習慣づけがされている。だから外国人のようなキャラクターの漫画やアニメーションが舞台になっても違和感なく観ていける。宝塚なんで女性が男性キャラクターを演じたってそういうものだと思えるようになっているから。

 でも映画はそこを限定された空間だと観る人は認識しない。むしろ現実には近づけない異国を、異世界を再現してみせる場所として認識するから当然、そこに現れる場所も人物も現実からほど遠いものでなければ納得できない。にも関わらず「鋼の錬金術師」は明らかに外国人とされているキャラクターたちを、たとえ日本人の描く漫画の中で和風な雰囲気を持って描かれていたとしても、やっぱり日本人そのまんまで表現してしまってはちょっとどこかに違和感が漂う。

 既にしてエドワード・エルリックがカズレーザーだのと言われている中に登場したロイ・マスタング少佐のディーン・フジオカさんはディーンだからといって西洋風ではない顔立ちの人が、無理にロイ・マスタングに近づこうとしてカツラなんかを被って髪型を整えたりしているから、どこかに微妙な浮きっぷりが感じられてしまう。リザ・ホークアイ中尉の場合も蓮佛美沙子さんが演じたところでべっぴんさんにしかなっていない。マース・ヒューズ中佐はニュアンスだけなら佐藤隆太さんは抜群だけれどやっぱり日本人顔。舞台だったらそれと見做されも映画で出てこられるとこれはいったいどこの国の話なんだって思われそう。

 「進撃の巨人」なんかはそういった違和感を解消しようと日本人っぽい名前を持ったキャラだけを出して日本っぽい場所に置き換えつつ描いて日本人の出演者をどうにかこうにか押し通した。そうした配慮の欠片もみせずに外国っぽい場所が舞台のファンタジーを、無理矢理に日本人キャストで作ってしまうところに今の映画の作り手たちに漂う魂の貧困が感じられる。幸いにしてホムンクルスたちは松雪泰子さんのラストにしても本郷奏多さんのエンヴィーにしてもそれっぽさを出している。内山くんのグラトニーなんてもうそのもの。人気じゃなく知名度でもなくそれっぽさを探求したキャスティングを、どうして正義の側にも貫けなかったかなあ。残るキング・ブラッドレイが誰になるかが気に掛かる。柴田秀勝さんがそのまま演じてくれれば最高なんだけれど。

 「進撃の巨人」といえばお台場にある東京ジョイポリスで今日から2015年に続くコラボがスタートしたってんで見物に。前の時にはリヴァイ兵長の等身大フィギュアが作られてその三白眼から睨む目の恐ろしさで評判になった。主役でもないのに真っ先にフィギュア化されることに対していったいエレン・イェーガー役の梶裕貴さんは何を考えているのかなと思っていたら、表向きはリヴァイ兵長なら仕方が無いとはいいつつ2番手に甘んじることに忸怩たる思いは抱いていた模様。第2弾のコラボで新たにエレンの等身大フィギュアが作られ除幕式が行われ、現れたエレンを観て即座にガッツポーズをしていたものなあ、梶裕貴さん。嬉しかったんだろうなあ。

 でもそれがど、今度は裏の主役とも言えるミカサ・アッカーマンが納得しないってことで、嬉しがる梶裕貴さんにミカサ役の石川由衣さんが「体力着けなきゃ」と突っ込んでいたのが面白かった。エレンはもちろん体力があるけど梶裕貴さんはそうでもないようで、コラボが始まり「心臓を捧げよ」とか「紅蓮の弓矢」なんかが流れる中を振られ回される立体起動装置みたいなアトラクション「ハーフパイプトーキョー」に乗って石川由衣さんの方が梶裕貴さんより良いスコアを出したとか。本編でもミカサの方が体力あるからそれに倣っただけとか言い訳をしても、実際に遊んだのは石川由衣さんであり梶裕貴さんな訳で、それで負けてちゃやっぱり、ね。あるいはこっそりと来訪して、石川由衣さんの点数を超えようとする梶裕貴さんが観られたりするのかも。

 既にしてグローバルでそれなりのサービスなり製品を提供している上に、改めて信頼といった価値を載せるために世界最高峰のスポーツチームをスポンサードするっていう動きはあって良いかも知れない。マンチェスター・ユナイテッドに対するシャープであったりユヴェントスへのソニーであったりフィオレンティーナやバレンシアへのトヨタといったスポンサードは、それぞれの地域でセカンドサードなブランドをナンバーワンへと押し上げるための旗印となった。だからそれだけのチームを支援する金を惜しまなかった

 。楽天はどうだろう。世界で知られた存在ではなく、セカンドチョイスサードチョイスにあるかも微妙。そんな会社が世界のF.C.バルセロナをスポンサードしたからといって、すぐにサービスを使うだろうか。インフラがそもそも整っていないところにネームバリューだけ上げても売上が伴うとはちょっと思えない。200億とも300億とも言われるお金を支払って4年間、バルセロナの胸に自分のブランドを出す権利を得たという。それを観てすごい会社なんだと思ったところで自分の国にサービスが来ていなければ使いようがない。日本向けのアドバルーンだとしてもバルセロナのスポンサーになったから信頼が上がる訳でも利便性が向上する訳でもないから、やっぱり人はアマゾンを使いヨドバシカメラを使うんじゃなかろーか。

 そもそもF.C.バルセロナは胸にスポンサーを入れないことで中立性を貫いてきた。それでは屋台骨が折れるということでユニセフが入り、カタール財団からカタール航空へと移っていった経緯がある。それでもギラギラとした会社ではなく公共性があるものばかり。それで良きバルセロナの伝統を守っていたと思っていたソシオたちが、日本から来たこれで名前を売ってやるぞ感丸出しの企業のロゴを胸に入れて、果たして納得して応援してくれるだろうか。離反を招いたら本末転倒なんだけれど。というよりやっぱり280億円で、日本のサッカーを強くして他のマイナースポーツを世に出してあげて欲しかったなあ。そんな殊勝な心があればそもそも世界の恋人F.C.バルセロナの胸板を金ではたいてもらうような真似はしなかったか。やれやれだ。

 さすがにこれは人権侵害案件だと気付いたか、民進党内で蓮舫代表に戸籍謄本を見せろと迫っていた勢力がニュアンスを変えて勉強不足だったとか、そもそも戸籍謄本を見せろとは言ってないといった転向を始めていて、理由はどうあれ実のところは当人がライティか、ライティな層から支持を集めたいから叩いていた状況に、安住していられないといった認識が広まってきている模様。まずは良かった。与党だってきっと理不尽きわまりない要求でもって不必要な戸籍謄本の開示を行わせたら、末代までの恥となるし自分達にだって降りかかって来かねないと気付いたんだろー。ちょっとだけ下がって御用新聞には手続き論的な瑕疵を指摘させていて、いずれそれでも問題ないといった方向を認めずとも意識して、この件から撤退しようとするんじゃなかろーか。

 問題があるとしたら御用以上にべったりな新聞あたりがしつこく情動的なニュアンスを背後にチラつかせながら非難を続けていることで、自分達にとってそれがトレンドだと思っているのかもしれないけれど、民進党内部での方向転換もあって与党もさすがに拙いと言った判断から、追認といった形に向かうことになりそう。そして取り残される御用新聞以上に御用な新聞。しつこく糾弾を続けているよーだけれど、世間も国会も潮目が変わって蓮舫代表叩きではもう誰も納得しないと言った認識に達している中で、孤高を行くのはやっぱりちょと拙そう。突出して切り込み隊長ともてはやされたのも昔の話で、今は炭鉱のカナリヤよろしく先端で世間の批判を浴びて立ち往生しそう。それとも聞こえないふりをして少数派でかたまり傷をなめ合うか。それでも良いけれどそれだけだと経営が大変そう。どうなるかなあ。どうするかなあ。


【7月12日】 たいていのことは水に流せる性格だけれど、やっぱり声だけは耳に引っかかってどうしても相容れないものは相容れず、どうしてこんな状況になっているのかと憤りも抱きつつ観る時は声を消して早送りにして飛ばして見て、そして主要なポイントだけ声を戻して聞く羽目となってしまっている某アニメーション。過去にだってそうしたあんまりプロフェッショナルな声優さんではない人を起用して、ちょっと困ったことになった作品はあったけれども主要なキャストとしてのべつまくなし出ている感じではなく、あるいは味として聞き流せばそれも風流かもと思えなくもなかった。

 今回ばかりは主要キャストでメインヒロインでセリフも多く掛け合いなんかも多分にあったりする。それがどうしても耳にひかっかって聞いていられない。どこで息継ぎしているんだ。どうして強く出せないんだ。やっぱりあれかなあ、マイクの前で普段通りに喋っちゃっているのかもしれないなあ。アフレコの現場って思ったより皆さん声を張り上げていて遠くまで届かせているのを、ダビングの時に調整してテレビから流れる適度な音量にしていたりする。それを聞いてこれくらいで喋っているんだと思い自分も喋るとはっきりって届かない。どうしてもくぐもってしまう。

 そこで音響監督が現場でちゃんと出せと言えば出すんだろうけれど、お大尽だから言えないのか言う気もないのか、言わなくて良いと思っているのか。分からないけれども結果として異論百出の作品になってしまった責任を、誰かとらないとこれはもうアニメ世界が収まらないような気がしてならない。直前に「リトルウィッチアカデミア」なんかをやっていた音響監督さんだから、仕事が出来ない訳じゃないならやっぱり別の何かがあったのか。「リトルウィッチアカデミア」は新鋭もベテランも含めて巧い人たちばかりだったから、何もしなくても出来てしまったのか。どっちにしてもこれはブラックな歴史に残りそう。せめて声質だけでも良かったらなあ。やれやれ。

 ひとつ、壁に穴を開けらればそこからだんだんと穴は広がっていってやがて壁は崩れ落ちる。それは絶対的な真理であって、いくら条件をつけて壁は一瞬の空気穴であってすぐに塞がれるとか、極めて小さいもので壁に影響はないといったところで、1度でも開かれた穴はまた開けられてそこからだんだんと広げられ、壁全体を崩壊させてしまう。そういうものだ。だから絶対に穴は開けさせてならないんだけれど、今という閉塞状況を突破するために必要な空気穴だと言われて、それでも絶対を貫き通せるかどうかといった時、人道で揺れる心が浮かんでしまう。だから乗ってしまって穴を開けてそして……。人道であっても決然として拒否することができるか否か。それがすべての崩壊を招くといった想像力を喚起させることが、今は何より必要だ。

 例えとしてはあんまり巧くないか。まあ仕方が無い、そういう発想にはとことん疎い人間だけれど、それでもやっぱり絶対に譲ってはいけない一線があることくらいは感じていて、だから民進党の蓮舫党首は絶対に戸籍謄本を自ら開示してはいけないと思っている。すでにして国会議員として活動している以上、日本国籍の保有者であることは選挙管理員会によって認定されているし、その後に持ち上がったに重国籍騒動の中で、いろいろ問いただされても選挙管理員会が動かず官憲が法律違反等を指摘しなかった以上、何の問題もないだろうことは想像できる。そうした人間に開示を求めていったい何がしたいのか。疑われたから証明しろ、って感じに既に証明されていることを求める権利などどこの誰かにあるのか。まったくもって訳が分からない。

 主張する人は最近まで二重国籍だった可能性があるとか言うけれど、それで手続き上の手間からしばらく二重国籍だったことの一体何が問題なのか。当人は日本国籍を持って日本の国会議員となって働いている。いやいや別に日本国籍なんて持っていなくても、日本という国に暮らしてそこに住む家族のために頑張っていたりする人は大勢いる。自分達が住まう場所を愛して護りたいという気持ちは国籍によらず誰にだって育まれ得るもので、それを国籍がどこそこだからそっちの国の見方をするはずだと決めつけるのはどうにもこうにも鬱陶しい。二重国籍だと両国が戦争になった時にどっちにつくか分からないじゃないかって、そんな間抜けを良い大人が言ったりする。もう阿呆かと。

 どっちもそっちもない、今暮らして家族がいる場所、その地域、その国に気持ちを寄せているんだと思えばいいだけのこと。なのにこだわって二重国籍者は裏切る、そっちに傾くといった論調を繰り返し放って受け入れない。それってとっても怖いことで、日本国籍を持っている人だけが日本のために働ける愛国者であるといった認識が、今回の騒動の中で醸成されてしまって、それを証明する手法として戸籍謄本の開示がスタンダードなものとなってしまう可能性が浮かんでしまう。結果、ありとあらゆる場所で信頼の明かしとして戸籍謄本を開示せよといった言説がまかりとおる。国政政党の党首であるから求められたんだといった限定など、世間の吹く暴風の中で何の壁にもならない。

 権勢をちらつかせる側の要求を呑まざるを得ない弱者にとって、戸籍謄本の開示が信頼の証だといった認識は普通に圧力として働く。暴力と言い換えても良い。就職における出自なり性別なりの差別を禁じた法律を越えて、習慣として広まっていく戸籍謄本の確認がもたらす出自への差別。かつて大勢の人が戦い勝ち得た、出自に寄らない自由で平等な権利があっさり壊されかねない恐怖を感じるなら、とてもじゃないけど言えない要求を国会議員様が堂々、開陳しているのはやっぱり拙い。ある条件下でのことだからといった言い訳が無意味なことを自覚し、今を信じてこれからを認める判断を、この一件では敵も味方も含めて示すべきだ。蟻の一穴が次に穿たれるのは自分たちの壁でないとは限らないのだから。

 「VR ZONE SHINJUKU」の内覧会があったんで暑い中を新宿は歌舞伎町に。ミラノ座があった場所が更地にされた後に立てられた2階建ての建物は、仮設感がありありだけれどいずれ立つだろう何かを前にここでひとつ、VRといったものを世界に向けて発信するには絶好とも言えるロケーション。開店前なのに入って来る若者もいれば老人もいたらして、オープンしたらもっと大勢の人たちが老若男女を問わず内外含めて押し寄せそうな予感。そしてそういた人たちを満足させるVRアクティビティが揃っている。例えば「マリオカート アーケードグランプリVR」。世界中の誰もが大好きなマリオカートをVR空間で自分で運転してかっ飛ばせるというアクティビティは、モニター越しだったゲームの世界に自分を入り込ませてくれる。手にこうらを取りハンマーをとって投げつける楽しさもあって没入感は抜群。これをやらずして「VR ZONE SHINJUKU」に行ったとは言えないんじゃなかろーか。

 いやいや他にも多数のVRアクティビティが。内覧会ではその中でもまだ体験してないものを狙って試してみる。その1つが「エヴァンゲリオンVR The  魂の座」で、前はエントリープラグに入ってLCLに満たされる中で神経接続を果たしシンクロ率20%くらいを得てリフトオフといったところまで。そしていよいよ登場した完全版では、迫る第10の使徒を相手に戦うことになるんだけれど、弾は尽きるし動きは左右がやっとだし、活動限界には陥るしといったエヴァならではの難しい戦い方をトレースしていてこんなものに乗ってシンジもアスカも良く戦ったものだと褒めたくなった。動けなくなったら何が起こるか。それはやってのお楽しみ。

 アニメーション絡みだとやっぱり「ドラゴンボールVR 秘伝かめはめ波」も人気が出そうなアクティビティか。聞いていたけど気を溜める部分でゴゴゴゴと足下が震えるあたりがそれっぽい。でもってかめはめ波を真っ直ぐ打って相手に当てるのが難しい。上下は修正できても左右のズレが直らない。真っ直ぐ狙って真っ直ぐ押し出す。それが大事なんだけれどなかなか巧くいかない。1度では無理だからまた言って2度3度と体験して、うまくかめはめ波を打てるようになりたいなあ。もうご免、だけれどまたやってみたいのが「恐竜サバイバル 絶望ジャングル」。恐竜たちを見ながらジャングルクルーズなんてもんじゃない、正真正銘のホラー&バイオレンス。ある意味で絶叫が飛ぶ「脱出病棟Ω」より怖いかもしれない。

 そして実はVRならではの仮装体験を1番させてくれたのが、コヤ所長が釣りに通い詰めて完成をものにしたとも言われている「釣りVR GIJIESTA」か。よくある玩具の釣りゲームをVRにしたものでしょ? って思ったらこれが案外に本格的。手にしたロッドを振ってルアーを飛ばしてリールを巻いて魚をキャッチ。ルアーフィッシィングでは普通のことがVRでも普通にできてしまうから凄い。そしてデカい魚を釣り上げる大変さも味わえる。釣り糸を引いて遠くまで走るものだから、伸びた釣り糸をぐいぐいと巻いていかなくちゃならなくなって、結構な体力を削られる。VRはスポーツなんだって気付かされた次第。今日最高の83センチだかを釣り上げたのは個人的には僥倖。本物だったらこうは行かないあたりはやっぱりVR様々かなあ。是非にお試しあれ。


【7月11日】 メディアワークス文庫からだと何作品目の映像化になるんだろう。覚えているのは「ビブリア古書堂の事件手帳」くらいだからあるいは2作目かそれとも他になにかあったかどうか、分からないけれどもとにかくめでたい木崎ちあきさん作「博多豚骨ラーメンズ」のアニメーション化、っておいおいアニメーションになんか出来るのかって思ったのが実際で、博多というか福岡の人口の3%だかが殺し屋だという無茶苦茶な前提をまず置いて、そこに跋扈する殺し屋たちの最強を競い合うようなバトルがある一方で、復讐のドラマがあり超克の物語があって草野球まであるといった具合にくんずほぐれつの展開を、どうやったら分かりやすいアニメーションになんか出来るのか。そこに作り手の感性が求められそう。

 拷問もあれば殺人もあってとバイオレンスな場面も多々あって、倫理的にはあんまりよろしくなかったりする作品だけに大人向けの実写映画か実写ドラマならあり得ると思っていたら映画ですらなくテレビアニメーション。そこはそれ、「博多豚骨ラーメンズ」の池袋編を書いた「デュラララ!!」の成田良悟さんがデビュー作の「バッカーノ!」で書いたような大勢がくんずほぐれつする展開を、スッキリとアニメーションにまとめ上げた才能をうまく持って来てマイルドにソフトな中にスリリングさを保ったアニメーション版「博多豚骨ラーメンズ」が出来上がるんだと思いたい。にわか侍の声は博多出身のイケメンボイス、置鮎龍太郎さんあたりが良いかなあ、超絶美少女の実は女装っ子なリンちゃんは村瀬歩くんあたり? いろいろ浮かぶ想像がかなうともかなわずとも見ようテレビで。キャストとかスタッフとか発表されるのはいつかなあ。楽しみ。

 メンチカツにしようかエビフライに使用か今晩のご飯は。って思いたくなる「異世界食堂」の第2話は、先代メンチカツことトレジャーハンターの爺さんが残した手帳を元にたどりついた扉を抜けて娘さんがやって来てはメンチカツを平らげる。美味しかっただろうなあ。そして別の砦の主人がかつて国の危機を告げるために走った際に迷い込んだ食堂で食べたエビフライをまた食べたいと思っていたところにやって来た常連からその正体を聞かされるといった展開で、これからドヨウビはエビフライを食べに通うことになりそう。どっちも背後に大きなドラマとかなくってただそれぞれに探索だの経験だのといったものからすり込まれた異世界食堂への関心を描く程度。でも面白いのは美味しそうなものを美味しそうに食べる人たちの表情を見るのが人間、嬉しいからなんだろうなあ。だからすぐに食べたくなる。素晴らしい飯テロメーション。コンビニとかとコラボして売り出せば良いのにメンチカツにビーフシチューにエビフライ。

 笑って怒ってはしゃいで走り回って、ってな感じに人間らしい表情や仕草をみせてくれるロボットがタカラトミーから9月23日に登場。アメリカのAnki社がってところが開発して2016年10月に発売した「COZMO」ってロボットを日本向けに投入するものだけれど、これまでいろいろ手掛けてきたロボットとちょっと違っているのは、AIが搭載されていて周辺の状況を判断した上で目の形や動き、発する音声といったもので感情を表しながら動いたり喋ったりするところか。動物の形をしたロボットは雰囲気はそうでも細かいところはそれっぽく見せていただけだったから。

 どこか人間っぽいかっていうと拗ねたり怒ったりする部分で、例えばキューブを2つ積み上げる作業をこなしたロボットに、3つ積んだキューブを見せると自分では積み上げられない苛立ちから、体当たりをして壊してしまう点。その時に目に当たる部分がいろいろ変化して苛立ちだの快哉だのといった表情を見せてくれる。自分でやり遂げたことを自慢するし、自分ではできなことに苛立つのはほとんど人間といったところ。もちろんAIだったらそうしたプログラミングは可能だけれど、凄いのは生成された感情とやらを目の動きだとかアームの動きなんかによって外側に表現している部分。ソフトウェアのテクノロジーをハードウェアのテクノロジーできっちりフォローしているとも言える。

 どうしてそれができたかというと、設計の中にアニメーターを入れたからで、例えばピクサーなりディズニーのアニメーションで人間らしい雰囲気を持ったロボットとかキャラクターが登場した場合、それをアニメーターはとことんまで擬人化した仕草や表情、動きでもって表現しようと突きつめる。もっともそれは映像の中だから可能ではあるんだけれど「COZMO」では立体化されたロボットの表情だとか仕草もそうなるように改良を重ねた。アニメーターが見て映像の中と同じ動きが出るようにした結果が、見て人間っぽさを感じさせる雰囲気ってことになる。日本のメーカーでロボットのアクションにアニメーターを採用したところなんてあったっけ。さらには音響監督も起用して出す声にも演技をつけた。

 Anki社のCEOの人が言うには「AIにアニメーションにロボティクスにデザイン。いろいろな分野から1番良いものを集めて作ったロボット」とのこと。だからアメリカで売れて世界でも引っ張りだこになる。面白いなあ。日本の場合は省略された中からそれっぽさを無理矢理にでも感じさせる方へと流れた結果、目の形は開いているつむっているウインクしているといった少数のパターンだけを並べていった。アメリカは細かいドットを操作し多彩な表情を作り上げた。そのどちらが良いか悪いかではないけれど、可能な技術があるなら可能な限りのリソースをぶち込み可能性を最大限に引き出すやり方が、やっぱり世界を席巻するんだろう。どうする日本? ドメスティックな侘び寂びで世界に対抗する? 9月発売の「COZMO」がどんな売れ行きを見せるかでその辺り、考えて観たい。

 テラフォーミングした火星で惨事が起こって幾年月が流れ衰退から滅亡へと向かいつつある火星を舞台に、少女がかつて火星を買いたくした一種のサイボーグの死に場所を求めるたびに付き合い数万メートルの高さを誇るオリンポス山へと向かい旅するロードノベル的なSFストーリーが藻野多摩夫さんの「オリンポスの郵便ポスト」で繰り出された。それでひとつ完結はしていたけれど、衰退から滅亡へといたる火星の命運はまだはっきりとせず、大勢が朽ちてしまう寂しさを抱えていたところに登場したのが第2作目となる「オリンポスの郵便ポスト2  ハロー・メッセンジャー」だった。読んでいよいよ全てが解決するかと思ったら、これが何とも重くて痛くて厳しくて、心がじわっと泣けてきた。

 メテオクライシスって隕石群の落下で壊滅的な被害を受け、地球との連絡も途絶えてそこから衰退が始まって火星に、地球から待望の特使がやって来たけれど、降りてきた脱出船だか着陸船だかに乗っていたのはメッセという名の女の子が1人だけ。乗っていた本船ははいま何処? 分からないままメッセがオリンポス帰りの郵便配達人のエリスと出会い、地球からの救いがありそうなことを告げに火星で1番の都市エリシウムへと向かい旅を始める。最初はお互いにぎこちなく、メッセは権勢を鼻にかけエリスは境遇を拗ねていた。でも、それぞれが経てきた厳しい境遇を知って共闘し始める2人。そんな旅に立ちふさがるクロに似たレイバーで、その驚くべき正体をメッセは知っていた。

 火星に地球から特使が来て救われたと思いきや、とてつもない壁が立ちふさがって先が大いに不安になる。レイバーとは違う人型の兵器を生み出した老人と出会い、忘れ形見とも言えそうな少女シロを預かり「おっとう」と嘆くシロを連れて向かう先、立ちふさがる壁を突破してたどり着いくだろうエリシウムから先のことが、今は気になって仕方がない。地球は本気で火星を救う気があるのか。それとも見捨てられる中でどうにか自力更生の道を歩むのか。だからこそこれで終わることなく、エリスとメッセとシロの旅の帰結をしっかりと描いて欲しいもの。火星の歴史に浮き沈んだ様々な思惑、そして地球側に渦巻く陰謀が少女たちの犠牲を伴うものにならないことを切に願う。

 拙いなあ、2017年5月のABCによる新聞の販売部数って数字が流れて来ていて、見ると東京の産経が前月比7万3495部減ってなっていた。分母を考えるとちょっと減りすぎ。押し込んでいたのが一挙に整理されたのか。対前年同月比が3万2033部減でそれより多いんだからいろいろと数字のやりくりがあったんだろう、どこかでぶっ込んで積み増してから一気にまとめて切られたとか。大阪ではそんなに減ってないところを見ると、東京版は地域に根ざしていない記事が多すぎて生活に役立たないと言われてしまっている可能性なんかもありそう。1面トップから北朝鮮だの中国だの韓国だのの悪口を繰り出されては、わざわざ新聞として読む意味ないものなあ。オピニオンなら雑誌で十分、ローカルで役立つ情報を、そして日本国民として日々を生きていくための知恵が欲しい訳だから。そこんところ、どーすんだろう。どーもしないか。だから未来は。やれやれだ。


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