縮刷版2017年6月上旬号


【6月10日】 無尽蔵のエネルギー源を与えて次に無期限の労働時間を与えて人間をどこまでも働かせることによって得られる何かを搾取しようとしているのか、なんて想像もしていた「正解するカド」の異方存在、ヤハクィザシュニナだったけれどもその場合、地球という限られた資源を暗い尽くして終わりといった展開も見えていた。そこに新たに重力だとか抵抗だとかいったものを無効にして、自在に操れるようにする装置を与えることによってフィールドを地球のみならず宇宙全般へと広げ移動も開拓も何でもありとしたことによって人類はどこにだって行けるようになった。時間さえ許せばそれこそ宇宙全部を埋め尽くすことだってできる。これは凄まじいことだ。

 そしてそうした宇宙に満ちた人類からいったい何を異方は得ようとしていたのか、ってところが明らかにされた第9話の「ナノミスハイン」。見せられて示されて真道幸路朗はいったい何を思ったかというとさすがにこれはスケールがデカ過ぎると感じたみたい。地球レベルでの貧困や格差の解決といった問題が解消され、社会や政治の再編がこれから行われようとしている時にレベルが何段階どころか乗数的に広がってしまった。思考すればある程度は想像できてもそこに到る道筋をすぐさま想定して、問題を洗うなんて無理だからか逡巡していた幸路朗に誘いをかけて迷われた途端、不正解だとばかりに繰り出してきた手がまた凄まじかった。

 結局の所、ヤハクィザシュニナにとって個対個のコミュニケーションなどといった感情はないようで、異方にとっって利があることが最優先されてそれがたまたま人類の幸福ともベクトルを同じにしていただけのこと。そこに異論を挟むようならといった態度になぜか立ちあがった徭沙羅花のあの姿。どうにも意外な正体があるらしかったけれど、それを自覚していなかったのは何度も抜かれたショットで指にはまっていた指輪が作用していたらしい。誰がそうしたのか。自らそうしたのか。それがどうやって打破されたのか、ってあたりは来週の冒頭辺りで説明されるんだろう。何か急に純朴な地球人を守るために功利と叙情とがぶつかり合っている構図になってしまったけれど、野崎まどさんの脚本がそんな分かりやすい図式で幕を引くとも思えないだけに、さらなる存在が割り込んで大騒動が起こると信じて続きを観よう。品輪彼方とか怪しいなあ。いや怪しくないからこその吃驚なら夏目律あたりが。来週が楽しみ。

 起き出してイオンシネマ幕張新都心へと出向いていって「この世界の片隅に」の9.1ch音響×ULTIRA巨大スクリーン上映を片渕須直監督の舞台挨拶付きで観る。ここん家で観るのは2度目で前と同じ3列目中央付近で観たらもうスクリーンの大きなこと。1番最後に流れるクラウドファンディングに応じた人の名前が流れる映像の、下に映し出されるリンさん物語がそれ単体でミニシアターのスクリーンで上映されている映画くらいのサイズで迫ってくる。立派に1本の短編映画って感じ。本編はその何倍も大きいから隅々までくっきりと観ることができた。一時里帰りしたすずさんの実家の箪笥の上に置いてあった装置はラジオだろうかカメラだろうか。よく分からなかったなあ。

 音響に関しては前にも感じたけれどくぐもりがなくって冒頭の、すずさんが中島本町まで海苔を届けに行く時に、乗った船の船頭さんが話しかける言葉が細部まで聞き取れた。あと海辺で海苔を干すシーンと、それから海が臨める松林ですずさんが水原の代わりに波の兎の絵を描く場面でごうごうと鳴って吹く風の音が感じられた。すごいなあ。右手について蕩々と語るすずさんのシーンも声が左右上下から鳴り響いてそして中央のひと言で終わるあたりの散らばって彷徨うすずさんの心情が感じられた。音が豊かにする映像の世界。そんな空間が生まれるきっかけとなった、「BLAME!」とか「ガールズ&パンツァー劇場版」なんかで音響監督をしている岩浪美和さんが片渕須直監督の舞台挨拶に現れいろいろ話していった。

 「ガールズ&パンツァー劇場版」で音を作った際の施設がこうもいろいろと使われることになるとはと感慨深げ。9.1chだなんて他では考えられない音響で「この世界の片隅に」が観られるようになったのも、そうやって劇場の音響をいじり劇場で映画を観ることを特別な体験へと高めていった岩浪さんの尽力の成果って言えるだろう。アニメーションの音響革命は、もしかしたら日本の映画興行に、そしてライブエンターテインメントに音響に限らない革命を起こすかもしれないんだけれど、そういった視点からとらえ讃える記事ってメジャーな媒体ではまだまだ少ないよなあ。映画の宣伝会社から見せてもらった映画についてしか語らない映画記者たちの、それが限界ってことなんだろう。

 でも観客は、そしてネットはしっかりと革命をフォローアップしている。そうやって盛り上がっていけばいずれ日本から世界に通じる音響を持った作品が生まれてくるかも。期待して待とう。というかすでに「BLAME!」があるなけれど。片渕須直監督の舞台挨拶のあとはサイン会も行われて、せっかくだからとクラウドファンディングの人向けに配られたPRカードから1枚を抜いてサインを頂く。幾つ目だろう。すぐに順番が終わったんで長蛇の列を横目にゲームセンターに入ったら、「夜明け告げるルーのうた」のルーぬいぐるみがキャッチャーに入っていたんで100円入れたらとれてしまった。なんという僥倖。ついでだからとワンギョのぬいぐるみにも挑んだらこれも100円で、小さいルーまでいっしょにとれてしまった。今年の運が使い果たされた感じ。むしろ借金したかも。反動が怖いんで暴れず静粛にすごそう残りの半年ちょっとを。

 その媒体に限っていうなら何も今に始まったことではないけれど、少なくとも社会の木鐸として正義を尊び公正を重んじるべき公器でありながら、国会議員とはいえひとりの個人を幾つものコラムでもって集中攻撃しまくっている状況を、果たして正常かどうかと聞かれて大丈夫と答えることにやっぱり不安があるし、そうした集中攻撃を繰り出して平気な書き手の心情といったものへの不思議な思いも浮かんでならない。過去に書いた記事が目下攻撃中の相手の名誉を傷つけると指摘され、裁判を起こされ完敗したこともある媒体なだけに、書き手は口ぶりに慎重にならざるを得ないにもかかわらず、本来は自由であるべきその思想信条を論って、1面下のコラムという媒体の看板とも言える場所と、そして社を代表するウエブサイトのトップで激しく批判する。

 いずれのコラムにおいても個人の思想信条は自由だといった言葉は添えているけれど、だったらどうして放っておかないか。なるほど国会議員という立場にそぐわないといった判断もそこにはあるみたいだけれど、国会議員が立場として国のために働くことが必須とされようとも、その方法は個々にあって愛し方も様々で、法律さえ逸脱していなければ決して国の制度なり慣習なりに縛られるものではない。個人がそれぞれの思いを抱いて国のために働くことを広く訴え、そうした思想信条に共鳴した人が票を入れたからこそ国会議員という立場を得た。ならばそれは国民に広くオーソライズされた思想であって、いかがなものかと公器が看板の下に攻撃を仕掛けることは、その議員に投票した人たち、すなわち一部であっても国民を愚弄し侮蔑していることになる。

 だいたい、そういった野党議員への個人攻撃が、国民の生活なり社会の平穏なりにいったいどれだけの意味をもたらすのか。すぐさま政権をとってその思想信条で世界を染めようとしている訳ではない。むしろ目下の政権を担っている為政者の方が、本人の意思なのかどこかからの借り物なのか分からない思想信条を前面に出して、それで大勢を縛ろうとしていたりする。攻撃すべきはそうした自由へのれっきとした挑戦であるにも関わらず、逆に積極的に関与してその意思をこそ尊ぶべきものだといった態度を崩そうとしない。そして敵対するものにはこうして激しく攻撃をしかけ、貶めようとする。何ら法律に反する事由ではないにも関わらず。

 自由を約束されている思想信条を論って、選良として世に立場を得た者に対するまるで無根拠の攻撃を繰り広げるそのスタンスは、言論におけるテロリズムに等しい所業。時の為政者が口を開けば唱える「印象操作」そのものだけれど、為政者がそう言えばそうだと味方し、敵対するものが言えば違う正しい指摘だと言わんばかり。そのどこにも中立公正あとか社会の木鐸だとか公器だといったものへの矜持はない。書いていて恥じる気持ちはないんだろうか。ないんだろう。自分たちこそが中立公正であり釈迦の木鐸であり公器であると信じているからこそ、気に入らない者への攻撃が平気でできる。そうした世間から激しくズレた認識がいったいどうやって育まれたのか、そしてどこへ向かうのか。考えると恐ろしくなる。そろそろ本格的に立ち位置を見定め、どうにかしないと酷いことになりそうな予感。困ったなあ。本当に困ったなあ。

 「この世界の片隅に」の上映が終わりサインをもらってからイオンシネマ幕張新都心の中で5時間くらいを過ごして観た「BLAME!」の上映とその後のコメンタリー付き上映&設定資料お蔵だしで語られたことで最も重要だったと思ったのは、シボさんにはパンチラという概念があってそれは最初に霧亥が寝ているのをヅルが見守っているシーンに入ってきたシボさんが座るところでチラりと見えるのだそうで瀬下監督が一生懸命ここだこの辺だとスクリーンを指してアピールしていたからそれは立派にパンチラなんだろうと思ったという。見えるか見えないかというと黒くてよく分からないのだけれどとりあえずパンツの色は黒だそうだから見えているってことになる。

 予備電子界へと入ってネットスフィアに行こうとするシボさんが泳ぐシーンではもろ見えるけれど問題はそれが例えばザクのスカートの中と同じだと言われたらどうしようかってことだった。でもパンチラという概念が示された異常それはパンツであってつまりシボさんは履いているのであって履いている以上はその下があるってことでいったいどうなっているのか。知りたいけれども知らずともパンツが見えるという、そのシチュエーション自体に意味があるのであってその下が何かといったことはここでは大きな問題ではない。たとえ何もなくても履いているのはパンツである。それがチラリと見えたりくっきり見えたりすることの大切さを噛みしめながら次、「BLAME!」を観る時は目を皿のようにして網膜に焼き付けよう。

 もうひとつ、寝ている霧亥を見守りながら何か言おうとするヅルの場面でもじもじとしながらぎゅっと寄せた両腕の間で胸がギュッと寄ってクッと上がる演技を監督も副監督も誰も指示をしていなかったけれども現場のアニメーターたちがきっちり動きを付けたという。そこで監督が伝えたかったのはヅルの手の動きであって葛藤と逡巡が垣間見える震えだったのだけれどギュッと寄る胸の深まる谷間に目を奪われ、誰も気付かないのだった。そういうことって割とあるよね。

 あとアニメ制作の現場ではフサタの意外な人気もあってヅルは実はフサタが気に入っているんじゃないか説は監督副監督の預かり知らないところで微笑みだとかさまざまな動きを差し込むことによって誘導されたらしい。個人的にはタエタエタエタエ言ってるだけで動かず大事なお姉さんを犠牲にまでして鬱陶しい軟弱者としか思わないんだけれど、そう言う草食系が現場には受けが良いのかと思うと何か切ない。これで捨蔵ではなくフサタがヅルと結ばれ語り部の孫世代まで行ったとしたら激怒だよ僕たちは。

 あとしっかりと描かれながらも今のところ無意味なのがリフトに村人たちが乗って新天地をめざす場面で扉が閉まる寸前に手だけになったシボさんの手首から何かがポロリとこぼれおちる描写がある。もうしっかりとあって音もついているんだけれどそれが何かは説明されないまま、未来へと場面は映ってそこにしっかり手シボもいたりする。まるで長老のような雰囲気で、って姿は変わってないけれど。

 その知見があってこそ村人は新天地で生き延びられたんだなあと思ったけれど、ポロリに意味があってそれが続編へと繋がった時、果たして未来の村にいる手シボは手シボなのか別の何かなのか、あるいはデジタルな世界だけあってどっちも手シボなのかといった問題が起こりそう。まあどっちにしたって続きが作られればの話。ただこうして2週間限定の予定が4週目に入ったりするとそういう可能性も浮かんでくるよなあ。Netflixあたりが成績を見て決断してくれれば有り難いんだけれど。


【6月9日】 「ヒドゥン・フィギュアズ」と言うのが原題らしくて意味的には「隠された人々」ということで、アメリカで1960年前後に繰り広げられた有人宇宙飛行計画のマーキュリー計画に携わりながら、歴史の表舞台には出てこず現場でもなかなか実力や功績を認められなかった黒人女性たちを取り上げ、差別され侮蔑され虐げられながらも頑張り抜いていく姿ってのが描かれた映画の内容を、端的に表したものだと言えるけれどもこれが日本で公開されるにあたって、隠されたとか差別されたといったニュアンスはまるで含まず、ただ女性たちがロケット計画に携わったとだけ分かる「ドリーム 私たちのアポロ計画」というタイトルをつけられてしまった。

 違うアポロ計画じゃなくマーキュリー計画だ、っていった反論が出たのも納得で、例えばボトムズでありダンバインでありイデオンでありダグラムといった作品が好きなのにも科か会わず「ガンダム好き」と言われてしまうことを考えるなら、そのニュアンスの違いといったものも分かってもらえるだろう。分からないかな。だからネットでいろいろと異論が寄せられついには配給元が邦題を「ドリーム」に変えことが公表された。それはひとつの変化かもしれないけれど、前進かというとむしろ後退で映画が持つ表舞台から隠された人々がいて、現場で虐げられていて、けれどもひるまず突き進んで実力で居場所を得たといった主題がまるで伝わらなくなってしまった。

 そもそも何の映画なのかすら分からない。アポロ計画とでも入っていればロケットが絡む話かもと思われ、それに「私たち」と付けられていれば女性がアポロ計画なりに関わっていて、それで夢がかなったんだなあといった映画の一面は伝わってくる。でも「ドリーム」では、「夢」だけでは何の夢なのかが分からなくなる。黒澤明の「夢」と混同してしまう、ってことはないけれども「夢」とはああいった映画のことを言うのであって「ヒドゥン・フィギュアズ」のことではない。じゃあいったいどういう邦題なら良いのかと言われて浮かぶほど語彙は豊富じゃないから「ロケッてる私たち」とか珍妙なタイトルしか出てこないけれど、そこをどうにかするのがプロの宣伝担当者。あと一ひねり欲しかったなあ。でもこれで作品の認知は広まった。公開されたら見て自分も折角居場所があるんだから、まだまだがんばらなくちゃと思おう。

 ひとつ、嘘をついてそれをずっと嘘だと思われたくなかったら、ずっと嘘を突き通さなくてはいけなくなる。たとえどこかで、それは嘘だと言われるようになってしまっても、嘘だと認めたくないなら嘘だということが嘘だといって突っぱねるか、新たな嘘を上乗せして取り繕っていかなければ続かない。けれども所詮は嘘だからどこかで絶対に嘘だと露見する。そうなる時をどんどんと先延ばししていく間に、世間には嘘でも通ればそれは正しいことなんだという空気が生まれ、誰もが嘘をついて嘘を重ねていくようになってしまう。今の日本がまさにそんな感じ。

 愛媛県今治市に大学の獣医学部を新設するという問題で、どうしてその大学なのかといった話が出て、時の政権との結びつきが左右したんじゃないかと言われている。そんなことはないと為政者は言うけれど、大学と為政者との結びつき具合を考えるとどうにも何か事情があったんじゃないかってことくらいは誰にだって浮かんで来る。そしてハードルをどんどんと上げられ条件をどんどんとつけられて、そこしかないといった状況が作られていくのを見るにつけ、やっぱりそうだったんだといった流れが感じられえくる。それでもまったくの無関係であって選ばれたのは偶然であったといった、傍目には“嘘”にしか聞こえないことを最初に言ってしまったことから、あらゆる事実が隠されあるいはそういう意見こそが嘘だと貶められ、一方で嘘を補強するための新たな嘘が積み重ねられていっている。

 でもそんな嘘を重ねたところで土台が歪んでいてはやっぱり崩れる。その大学の獣医学部をそこに作る。その大前提のために例えば獣医師が不足しているといた嘘を言って、違うむしろ街でペットの診療をするような獣医師は余り気味になっていて、足りていないのは公務として家畜などの診療を担当するような獣医師だけれどその仕事のキツさ、あるいは報酬の低さからなり手がいないだけだといった反論が返ってくると、それを聴かなかった振りをしてすり抜けようとする。あるいは長く獣医師を要請する大学が作られなかったから、質が低下しているといったことを地方創生を担う大臣が発現して、早速全国の獣医学科を持った大学の連合からクレームをつけられている。

 言えばそうしたリアクションが来そうなことくらい分かるのに、時の政権が決めた大前提を崩さないためには、嘘でも言って取り繕わなくてはならない。忠誠心とはなかなかに大変。もしかしたら本人はそんなことを言いたくはなかったのかもしれないけれど、政権を守るためには言わざるを得ない立場に追い込まれたのだろうか。恭順を示すために自発的に取り繕ったのだろうか。いずれにしてもすぐにバレる嘘をつくことの方が拙いことくらい分かりそうなものなのに、後のことより今をどう凌ぐかで頭がいっぱいになってしまったんだろう。いったい誰が悪いのか。もちろん最初にそこにこそ獣医学部が必要だなんてことを決めてしまった人なんだけれど、そこに責任の手が伸びるまでにはまだまだ壁が立ちふさがる。

 文部科学省でそうした奇妙な決定までのプロセスが書かれたメモみたいなものが見つかったといった一件で、そうした経緯なんてあるはずがないといった大前提を崩さないために最初は怪文書であると一蹴し、探しても見つからなかったと言い抜けようとする。けれども元事務次官が実在を表明し、現役の官僚たちまでもが存在を口々に訴えるようになってこれは逃げ切れないと思ったのか、とりあえず探すとは言ってみたもののそこに名前が出ているらしい官僚に直接聞けば5分で分かることを、システムを構築して調べていくとかいったヌルい対応で逃げようとしている。確定してしまえば嘘がバレるなら、確定しない状態を続けるしかない。

 箱を開ければ猫は死ぬか生きるかどちらかが決まるなら、開けずに死んではいないかもしれない状態を保つしかない。それもまた嘘を重ねるような行為だと、世間は分かっているのに政府は、そして官吏された役所は続けるしかない。そんな間抜けな状況が、けれども長く続くことによってそういうものだといった諦めの空気が世間に漂い始める。せめてジャーナリズムだけは諦めるべきではないんだけれど、何を聴いても官房長官は木で鼻をくくったような返事をしない人間なんだと分かってしまうと、もう質問しても無駄だと思って言葉を閉ざしてしまう。それは拙いけれどでもそうなってしまう。そういうものなのだ、悲しいけれど人間は。

 怒りより先に諦めが浮かぶ世間の中で嘘を突き通して逃げ延びる政権が、この国をいったいどこに連れて行くのか。というよりいったいどこに連れて言って何をさせたいのか。そんな遠大な謀略すら見えないし、拒絶したいけど羨ましくも思うような野望すら見えないところが、今の政権であり為政者の薄気味悪さを表している。もしかしたら野望なんてないのかもしれない。権力欲すら存在していないのかもしれない。今というその瞬間に自分をすごいと見せたい見栄。その連続体が今の政権を形作っているのかも知れない。ただの見栄っ張りに引きずられて連れて行かれたビジョンなき未来とはいったいどんな様子なのだろう。過去にない歴史的実験が今まさに行われようとしている。そんな気がする。

 「けものフレンズ」のライブが豊洲のPITで行われると分かったらそれが東京ゲームショウと重なっていて行けそうもないと肩を落とし、そして「けものフレンズ」のオーケストラ演奏が行われると分かったら、それがワンダーフェスティバルと重なっていてやっぱり行けそうもないとガッカリする。たつき監督ら制作スタッフが登壇して喋るイベントも、再演されながら別のイベントがすでに決まっていていけなかったりしてよほど運がないか縁が遠いかと思ったりする日々。せめて来週から開幕するミュージカルには絶対に行きたいしチケットも抑えてあるんだけれど、何が起こるか分からないからなあ。準備万端整えてその日を待とう。たとえ仕事がはいってもすぐに片付け駆けつけよう。


【6月8日】 1日で3連勝って何それどこの将棋まつりの多面指しかと思ったけれど、早指しの棋戦で持ち時間1人20分っていうのがってそれで1日に何局も指すことになっているそうで、そこで朝から3つ続けて買ったということらしい藤井聡太四段。これでデビュー以来の公式戦での連勝は23になって神谷広志八段がかつて成し遂げた28連勝という記録にもグッと迫った感じ。すでに羽生善治三冠の記録は抜いて塚田スペシャル康明九段の記録も同様に抜き去っていて、次勝てば丸山忠久九段と同じ24連勝で2位タイになる。次はたぶん10日の叡王戦でドワンゴが主催をしていて今年からタイトル戦になったもの。つまりは初タイトルにつながる対局なだけにまず初戦を突破し、同日に行われる第2戦も勝って25勝まで行って欲しいなあ。藤井聡太四段が敗れて良いのは公式戦で当たる羽生善治三冠だけだから。やっぱり。気分的に。

 「アインザッツ」って小説を出すくらいに吹奏楽への思い入れがあって知識もあるヤマカンこと山本寛監督が荒ぶっていて、読むと出向いた吹奏楽のコンサートで取り置きのチケットを受け取ろうとする人たちでもって長蛇の列が出来ているのに、受付が足りていないのか要領を得ないのか裁ききれないまま開演時間が始まってそして過ぎていき、さらにはまだ大勢が並んでいるにもかかわらず演奏が始まってしまってヤマカン激怒。自分は招待だから良いとして、普通にお金を払ってチケットを受け取ろうとしている人たちに対するそれは裏切りでもあるんだってことらしく、関係者を窘め叱ったものの要領を得なかったという。

 もう大激怒でもってきびすを返して近所のもんじゃ焼き屋で飲んでからまた戻り窘めたら相手は笑っていたというからもうこれは噴飯物の運営だったってことになる。そりゃあ時間もあるだろう楽団があんまり待てずに始めざるを得ない事情も分かるけれど、でもやっぱり外に聞きに暮れたお客さんが運営の不手際で待たされているなら、それはやっぱり入ってもらうまで始めないというのがひとつの礼儀でもあり、普通にユーザーサービスでもある。そして同時にどうしてそういう事態になってしまったかを把握し迅速に対応すべきでもあったのに、職分は演奏とばかりに始めてしまったのもやっぱりよろしくなかったみたい。だったらどうすれば良いのって問題もあったけど、こうして騒動になってしまった以上は後の対応をきっちりやりつつ不手際の再演はないよう努めて欲しいもの。ヤマカンさんにいつか吹奏楽物のアニメを作って欲しいから、まだまだ背を向けてもらっては困るのだ。

 今年もまた出向いた秋葉原は、ソフマップ前だったはずがビックカメラ前に変わって9年前の風景が薄らいでいく感じ。通りがかる人たちの記憶もやっぱり薄くなっているのか、交差点に置かれた献花台に向かい手を合わせる人もまばらで、近寄って何の献花台なのかを確かめる人もそれほど見られなかった。あるいは囲むようにして待ち受けている新聞とかテレビに撮られたり近寄られたりするのを嫌がっていたのかもしれないけれど、それを鬱陶しいと思うよりもあの凄惨な事件によって未来を断たれた人たちの無念を感じ取り、悼んであげたいという気持ちの方が強くあって、僕は一瞬ながらも足を止めて帽子を脱いで手を合わせた。そうすればハゲ頭のおっさんなんて絵にならないからと写真も撮られないだろうし。

 秋葉原の件は当日の現象そのものへの記憶は風化し、事件の印象はあってもそれが何時でどこで起こってそれがそこなんだという結節を行うことも難しくなっているのかもしれない。秋葉原という一種独特な場所に置かれた献花台も何かの行事かと思い通り過ぎていく人も増えそう。外国人なんかは何が何だか分からないかもしれないけれど、それがトラックで群衆に突っ込み降りたってナイフを振りかざした事件だったと聞けば、今という時代に頻出するテロとの類似性を感じて何が起こったのかに興味を持ってくれるかもしれない。宗教的なテロではないけれど抑圧され排除された寂しさが憎しみに変わって暴走するといったプロセスには似通ったところがある。

 日本では社会からの脱落で、欧州では地域からの乖離。それらをどうやって和らげ慰撫して暴発しないようにするかを考えることを、秋葉原での事件も含めて考えるべきなんじゃなかろうか。来年は10年という節目の年でもあるし、1年をかけてどうすれば日本で、世界で若い人たちの暴走をなくせるかを考えていきたい。しかし10年目ともなると群がるマスコミの数も増えるだろうなあ。あるいは10年という節目を持って献花台の設置を止めてしまうとか? それはないと思うけれど引きずりイメージが損なわれるよりは風化を望むなんて声が出てくる可能性なんかも考慮しつつ、世界で起こるソフトターゲット相手の暴走を防ぐ手立てを考える日本においける出発点として、いつまでも誰もが詣れる場所にしておいて欲しい。

 今日も今日とてインターロップ他のIT関連展示会がいっぱい開催中の幕張メッセへと出向いてとりあえずマストドンに関連したトークセッションを聞く。アスキー編集長という肩書きがやっぱり1番しっくりくる遠藤諭さんをモデレーターにIT関連メディアの編集者か記者かライターか何かが並んでマストドンの意義なんかを語っていて、それを聴いてうっすらとしていた印象がぐっと濃くなった。つまりはTwitterのように無限並列な宇宙ではなくハッシュタグが無効化されることもなく、関心やら話題やら興味の対象を絞り言葉や情報を重ね続けられる銀河系、太陽系といった感じか。でもってそれらの間に橋渡しもできて個々の関心で追えるといった感か。そのことに興味がある、そのことだけが知りたい、言葉を交換し合いたいという人が昔だったらすがってた掲示板を高機能で利用できるといった感じか。言葉足らず出し理解不足だけれど完全クローズではなくスキマをのぞかせつつ壁はしっかりと整え上澄みなり煮こごりなりを味わえそうな場所といった印象も。自分なら何をどう使うかはこれから考えていこう。

 そんな展示会でソニー・デジタルエンタテインメント・サービスって会社の福田淳さんの講演を聴く、ってそもそも何の会社かよく分かっていなかったけれど、調べるとITとかソーシャルネットワークを使ったマーケティングを得意としている会社で、同時に昨日の展示会でVRヘッドマウントディスプレイを装着してバーチャルお絵かきをしていたせきぐちあいみさんが作品を寄せているVRギャラリーを運営している会社あった。どうも新しい物好きらしく自分で挑んでみなくちゃ始まらないと、VRについてもお絵かきができるツールが登場したのを受けてそれが活用できる場所を作ってしまったみたい。

 メディアが大きく変化するとき、そこでプレーするのって市場があるか、技術がついてくるかといった不安がどうしても先に立って二の足を踏む。でもたとえ今はプアでも将来は充実してくるのはネットの回線速度であり、メモリの容量拡大なんかが証明している。VRで何ができるか、って考えこれが出来るかもって思い挑んでみることで、次の時代の主導権を握れるかも知れない。そんな思いがあるんだろう。「これは面白いのではというイノベーターがいたときに面白いコンテンツができる」というのが福田さんの弁。「VRに限らず、新しいガジェットがサンフランシスコとか東大とかから出てきた時、エンターテインメント業界にいる人が、そんな新しいものが流行るはずがないというのではなく、取り組んでみてどう面白いのか試していくことで自分にも社会にも貢献できる」とも。挑まずして未来は開けず勝利は掴めないと知ろう、とはいえやっぱり先立つものが。この小心が未だ性向できない逆の意味での秘訣なのかもしれないなあ。


【6月7日】 やっぱり片渕須直監督も高樹のぶ子さんの半自伝的小説「マイマイ新子」という作品に感じていた「死」の匂い。それは昭和30年代だからこそのものでもあって戦争の残り香が命の欠けた人たちを多く街に溢れさせ、また今ほど医療も発達していない中で幼子も老人も若さを感じさせながら死んでいき、生活の中にも危険があって事件もあってやっぱり人の命が今のようにしつこくない。そんな時代をけれども時代だからと諦めるのではなく、切なさとともに感じ取ってみたことが、映画「マイマイ新子と千年の魔法」の「死」が隣り合わせにありながらもそれを怖れず怯えもしないで今を精一杯に行き、明日を目一杯に楽しもうと約束する子供たちの姿へと結実した。

 新子が主役の昭和30年パートでも貴伊子のお母さんが結核か何かで早くに亡くなり、タツヨシの父親は自殺し最後にはおじいちゃんも他界する。でもそれらに関する慟哭めいたものを長く引きずることはなく、貴伊子は振り返りながらも防府での暮らしにとけ込んでいき、タツヨシは自分を取り戻して子供のために優しい父親になろうと決意し、新子は家族といっしょに山口市へと移り住んで新しい暮らしに目を向ける。小説にはない千年前の周防の国のパートでは、凪子の友だちとしてあつらえてあった女の子は少し前に死んでしまい、凪子が友だちにしたかった身分の低い女の子は家族が食あたりで寝込んで命の危険にさらされる。でもそれが当時では大層なことではなく、遺された者たちが思いながらも今を懸命に生きていく。原作のイメージをしっかり受け取り練り込んで描いたってことが、ちくま文庫から再刊された「マイマイ新子」の片渕須直監督の解説から改めて分かった。これを読むだけでも前の文庫を持っていても新たに買う価値ありそう。表紙も映画に寄せてるし。

 そんな片渕須直監督だからこそ「死」が色濃く漂う世界の果てにありそうな悪徳の街を舞台に、そこで足掻きながら生きていこうとしている者たちのしたたかさをリアルに描けたんだろうなあ、「BLACK LAGOON」のアニメーションで。原作にもそうしたドンパチはあるけれどもどちらかといえば西部劇的な銃撃戦のカタルシスに近くって、ぶっとんではいるけれども剽軽さもあって狂気もはらんだキャラクターたちによる達観したようなコミカルな部分が感じられた。それがアニメ版になるとシリアスがグッと前に出てくる。一歩間違えば確実に死ぬ、リアルに死ぬ、シリアスに死ぬような雰囲気が浮かんできて見ていて背筋が寒くなる。

 シチュエーションに妥協をしない監督としての姿勢が、「マイマイ新子と千年の魔法」よりも早かったこの「BLACK LAGOON」というシリーズですでに見えたんだなあってことを、TOKYO MXで始まった再放送の第1話を見ながら感じ取る。バオのイエローフラッグでの銃撃戦で、客たちのほとんどが死に絶えているのにレヴィやダッチやロックがしっかり生き延びているのは主役ならではのご都合かもしれないけれど、カウンターに腰掛けそれが強固な壁になっていることを知っていての瞬時の行動が生き延びさせたとも言える。そう感じさせるだけの設定を織り込み展開を作っていった果て、双子の殺し屋との抗争なり日本でのヤクザとロシアンマフィアとの争いといった展開で、そうならざるを得なかった者たちのいかんともしがたい心情が迫るエピソードが幾つも出てくるから第2期も含めた再放送を絶対見逃さないように。

 またぞろ「カウボーイビバップ」の北米での実写化話が流れて来ていて、そういえばキアヌ・リーヴス主演による実写映画化の話はどーなったんだと誰もが思ったはず。結構期待もされたけれども知らず話は立ち消えになってキアヌ・リーヴス自体がどこか絶大な人気スターといった立ち位置からちょっと下がってしまった。そう思うとあのトム・クルーズを主演にしてワーナーでもって完成にまでこぎ着けた「オールユーニードイズキル」の実写映画化がいかに奇跡だったかも分かりそう。「カウボーイビバップ」はドラマ化に規模が下がった分、実現の可能性も少しは強まるけれどそれでもやっぱり完成となると話は遠いかもしれないなあ。誰が演じても日本語吹き替えは山寺宏一さん石塚運昇さん林原めぐみさんが演じて欲しいなあ。エドの多田葵さんは今は声優、やっているのかな、シンガー・ソング・ライターとしての活動がメインなのかな。

 アイドルでモデルもやっている人なら可愛いはずだとデジタルサイネージジャパンって展示会に出展していたE3のブースで見かけたせきぐちあいみさんを見ながら思う。VRアーティストっていう触れ込みでHTC Viveを装着して手にコントローラーを持ってそれを筆代わりにしてVR空間の中に立体的でエフェクトも効かせた絵を描くデモンストレーションをやっていて、見ていたらなるほど線をとりつつ面を広げてパーツを添え、竜をそこに現出させてしまった。流れる水のようなエフェクトもあって彫刻でも平面絵画でも不可能な、3D空間だからこそ可能なアートでありVRを使ってリアルタイムにアナログチックな動作で描き出す新しいパフォーマンスとしても面白かった。空間を把握する力があるのかディテールのしっかりした絵を描いたところは才能か。VRアーティストが世界に何人いてどれくらいが食べてけているのか知らないけれど、日本では唯一に近い存在として活躍して欲しいし生き残っても欲しい。美人だし、って結局そこかい。

 それは羽原信義さんも言った言葉。「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」第二章「発進篇」の最速上映会があってそこに内田彩さん、中村繪里子さんとそしてテレサの声を担当する神田沙也加さんが登壇して女子会トークめいたものを繰り広げていた中で、推しキャラを聞かれた内田彩さんが伊東真也を挙げて悪役なのにと思ったけれど彼は彼としての正義に殉じたっていった説明もあって、深いなあと思ったら「結局は顔」といった発現が飛び出しや、柱エさんから「そこかよ」といった突っ込みが入っていた。まあそうだろうなあ。中村繪里子さんもまたマニアックなところで篠原を挙げてクールで優しい過去ようさを挙げていた。でもどちらかといえば脇な2人でメインキャラの古代進も島大介も上がってこない。

 だったらと期待が掛かった神田沙也加さんが挙げたのが自分の演じるテレサで、まあお約束めいてはいるけれどもああいった一世一代のキャラを演じられる喜びは、仕込みなてすっ飛ばして嬉しさって奴を感じているに違いない。アニメ好きは伊達じゃないってことで。そして最速上映会では神田沙也加さんにサプライズのプレゼントがあって、結城信輝さんが描いた森雪ならぬ神田沙也加さんと古代進ならぬ村木充さんの似顔絵色紙がプレゼントされた。これには本当に嬉しそうで、もらった色紙をギュッと抱きしめたりもしていてやっぱり根がオタクなんだなあと改めて思った次第。主題歌はテレサとして歌っている訳で、そうした演技力と歌唱力を確かめに行こう映画は初日の初回へ。

 日本で日本語で出している分にはバレずに済んだジグジグとした思想が、英語で全世界に発信されてしまうことになったみたい。そして昔ならこれは日本向け営業トークだといった衒いもあったものが、今はこれこそがリアル真実といった観念に凝り固まって世界を啓蒙すべしだなんて意識に取り憑かれている感じ。とあるメディアが自前の思想がたっぷりと散りばめられた記事やコラムを英語にして発信していくサイトが登場。でも国連を“反日”呼ばわりしたり誰も知らない愛国少女を持ち上げたりして、外国の人が読んだらこれはいったい誰のために何をしているものかか、気になって仕方が無いはず。そして日本がトランプに負けずポストトゥルーな言動をまき散らしているかも知るだろう。日本では通じる迂闊が許されない世界で無茶をして、お取りつぶしにならなきゃいいんだけれど。


【6月6日】 雨ざあざあ振ってない。一時いろいろ軋轢なんかも噂されていたももいろクローバーZ(の事務所)とヒャダインさんこと前山田健一さんとの関係だけれど、夜中にやってたテレビ番組であーりんこと佐々木彩夏さんがヒャダインさんのプロデュースで「キューティーハニー」の主題歌をレコーディングしている風景が出てきて、そうかまた仕事をするようになったんだなあと気付く。調べるとしばらく前に手打ちめいたこともあってももクロのアルバムにも楽曲を提供し始めていたみたい。良かった良かった。「行くぜっ! 怪盗少女」とかやっぱりももクロのイメージを決めた曲だけに、それを作った人が外れるとどうにも全体像がぼやけてくるんだ。

 そのせいかどうか分からないけれど、ヒャダインさんが離れてそしてヒャダインさんの余熱でぶわっと人気が出てから数年が経って今、どうにも一時ほどの露出がなくて熱量も漂ってなくていライブなんかどういう感じになっているのか気になってる。露出が足りないって意味でははきゃりーぱみゅぱみゅも同じだけれど、ライブはちゃんとお客さん入っていたからももクロもファンは掴んでいるんだろー。でも規模が違うからなあ、ドームとかスタジアムとかやってたし。行ってみるかどこかのライブ。まあヒャダインさんがまた戻ってガンガンつくればすぐに盛り返すかな、あーりんも何かその頃のあーりんと違ってたし。あの頃までは行ってないけど今で十分。

 エブリスタなんかで書かれていた作品をピックアップして出しているスカイハイ文庫から登場した、「ユリア・カエサルの決断」の遠藤遼さんによる「週末陰陽師〜とある保険営業のお祓い日報〜」が生命保険営業の大変さと保険設計の大切さをしっかりと語りつつ、現代も続く陰陽寮で学び才能もありながら在野の陰陽師となった青年が、生命保険を売りつつ調伏もしているハイブリッドな内容になっていてなかなかに楽しい。お仕事ものって言えば言えるけれど、それはあくまで外回りをさせるつーるであって調伏の部分では陰陽師としての能力を振るう。そこに保険営業の知識は関係ない。2つの職業をしっかりこなすダブルワークものって言えば言えるのかも。

 陰陽寮でそれなりなポジションにいて政治が絡むような日本の裏事情に通じた案件を担当するくらいに優れた陰陽師だった主人公が、どうして在野の陰陽師となったかってところにいろいろと伝統の世界ならではの妬みなり、高い能力を持った人間への嫉みが見えて辛いなあと思わされる。当人がそれを酷く憤ってはおらず、まあしゃあないかといった感じに受け流しているところに救い。在野の調伏を嫌がらずにこなしているところを見ると、そういうのが向いていたのかもしれない。そして物語は、週末だけを陰陽師として働きながら、普段は生命保険の営業として仕事に追われノルマに悩み所長のパワハラに苦しみつつ、陰陽寮でも生命保険会社でも先輩の女性の助けを両方で受けながら裏と表の仕事に取り組んでいく。

 陰陽師なんで卦を見られるらしく、どこに行けば良いかを占って行った先で何件目かにようやく出会えた少女がいて、彼女に招き入れられ興味も持たれ契約してもらって嬉しかった受けに、彼女から生命保険に入りそうな人を紹介してもらえる。そして出向いていっては保険とは別に調伏の仕事もこなすはめになるというからいったい少女は何者だ? そこにあった仕掛けと、その原因になっていた大仕掛けに驚き。よくもまあそんな状態になっていたものだ。読み返せばどこかで気付いた可能性もあるけれど、最初はほぼほかったよ。とりあえず出会いどうにか関係も出来て、そして始まる不思議なバディとしての保険&調伏ストーリー? そこは分からないけれど、主人公の強いキャラには弾かれたし、その姉弟子の格好良さにも掘れたんで是非に続きを。シリーズ化を。

 ライトノベルで活躍している作家の人がツイートで、出版契約書を結ぶにあたって他のレーベルでは同じ世界が舞台になった作品は書かないでって書いてあって唖然呆然、それを守ったら自分がそこで書いている世界観を使って他のキャラクターたちを登場させる話を他の出版社で立ちあげられなくなってしまうし、もしも当該の出版社で絶版にされたととしても、他に同じ世界が舞台の作品を持っていけなくなってしまう。レーベルにまたがって書いている作家の人だとファンタジーでもSFでも世界は同一で時代とか場所が異なっていたりする作品を、それぞれの場所で出しているケースって割とある。片方がヒットすれば同一世界なんだからと別の方にも人気が波及するケースもあったりする。

 だから縛って固めるよりも広げて分散させた方が全然良いにもかかわらず、囲い込もうとするのって何だろう、事情を知らずただ囲い込むことだけが目的の契約書を作ってしまったんだろうか。映像化なんかを考えた時にキャラクターとかならまだ縛れるけれども舞台をよそに持って行かれたら何か損が出るとでも考えているんだろうか。まるで理解が出来ないけれどもそういうことを考える人がいて、それがジワジワと広がっているみたいで何か不穏。景気が悪いと保護主義になるっていう表れかなあ。やれやれだ、ってその語源の村上春樹さんだって、ひつじ男が出てくるようなシリーズはだいたい同一世界な訳で、それをいろいろな出版社で書けなくなったら怒るだろう。そういうもの。だからこそ分からない、誰が考えたのか、そんな契約。

 角川文庫キャラクター小説大賞で第1回の奨励賞を「コハルノートへおかえり」で受賞した石井颯良さんが新しく出した「知らない記憶(こえ)を聴かせてあげる。」(角川文庫)をテープ起こしに関係ありそうな仕事をしているライターさんや記者は是非読もう。そのまま起こすにしてもノイズを減らすにしても、どう起こすか、誰のために起こすか、何のために起こすかを問い直されるから。勤務先での先輩の失敗を押しつけられて居づらくなって止めて叔父が住んでた家に籠もっている陽向という青年。誰も信じられない彼のところに絵本作家だった叔父が遺したテープが届く。書かずに吹き込んだものらしい。でも陽向は聴けないでいた。

 それは傷。いなくても一緒だと言われたような社会での出来事と、絵本の主人公がいなくても良いと言われていることが重なって聴くのが怖くなった。そこにチラシ。音谷反訳事務所があってテープ起こしを引き受けているという。ならばと向かうとそこにいたのは久呼という名の着物姿の美人。どうやら外にチラシが撒かれていることを知らなかった様子で、とりあえず話は聞いてもらえたもののそしてテープ起こしは受けられないという。そこを彼女に仕事を流している編集者の調臣が取りなし、陽向自身の挑発めいた言動もあって陽向は久呼の下で自らそのテープを起こす羽目になる。

 そして叔父が絶筆を吹き込んだというテープを聴いて感じた最初と途中からの違和感が、テープの声に込められていた情報以上の感情めいたものに気付かせる。テープ起こしはただの情報の文字かではないと感じて陽向は、自分もそんな驚きと感慨の側にいたいと久呼に弟子入り志願する。最初は見習いで、そして本格的にアルバイトとして働くようになって陽向は久呼が抱く恐れのようなものに気付く。それは自分の過去と関わる話。陽向のテープを起こそうとしなかった理由に才能はありそうでも苦衷を抱えている女性の痛みを感じさせ、そこからどう抜けだせばいいのかといった模索をさせる。

 同時にテープ起こしという“作業”が持つ意義も問われる。そこがライターなり記者なり編集者に重要なところ。まるっとノイズも含め訳すか、すぐに記事執筆に取りかかりやすいよう整えるか、等々依頼者の属性や目的を類推する所作がテープ起こしには求められると。あれで結構難しいのだ。そしてどこまで踏み込むかも。久呼さんは録音してあること以外は起こさずとも良いと考え、陽向は同席した場でオフレコだった部分も含め起こして渡したいと考える。職分からなら久呼に軍配。でも読者のためなら? そう思わされる。色々響くところがある小説だ。

 僕はと言えば自分で起こして自分で書く記者なんで、フィニッシュとしての記事に使われる必要な部分が抜ければそれで良いとテープ起こしの作業もついつい雑になる。ニュアンスまで再現する必要もないのでさらに甘さも出てくるけれど、プロの反訳者は声を起こすときの濃い薄いを探りつつ、相手にとってどこがベストなのかを探ってそして、相手が求めるものを渡さなくてはならない。さらにはそうした濃淡の判断も人によって違ってくる。ただテープ起こしといっても奥が深そう。陽向もだから最初は戸惑い、そしてずっと迷っている。そんな彼が自分の思いだけをぶちまけ久呼を戸惑わせるような部分、一本気でそれでいて劣等感もあり巧くいかないと叫び怒鳴る態度は苦手だけれど、どん底に喘いでいたからで少しずつ利口になりつつある。でもお利口ではなく最善のためにベストを尽くす理知。その逡巡を見て学ぼう、仕事に向かう姿勢を。


【6月5日】 面白かったなあ、という印象でしっかりとまあ若い人たちが病気で死んでいく家計に生まれた人間が、病気で苦しみ始めて自分は呪いを受けていたんだと嘆いているのを乗り込んでいった櫻子さんがキッチリ解決していく展開に、会社の金の使い込みなんて事件も絡めて1時間ドラマの枠内に収めてみせた「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」。小説版だと絵の送り主とかシチュエーションが違ってその目的ににもドロドロとしたものがあったし、自殺に見せかけた殺人なんてことも確かなかったような気がするけれど、全部を同一線上に乗せるとついて行けない人が出てくるからここは単独でも楽しめる謎解きにしたってことなのかも。視聴率も4.2%から4.8%まで上がったし。次はまた花房が絡むみたいでどう帰結するか、残る話数での畳かけが今から楽しみ。

 「今日はどうされました?」「スポーツをしている息子が最近負け続きで見ていられなくて」 「何か変化があったんですか?」 「TVの世界卓球で張本智和選手がやっているのを観て、試合中に上げるチョレイという叫びを真似るようになったくらいですか」「なるほど、それでどう真似るんです?」「打ってポイントをあげたら両手を掲げて叫ぶんです。するとそこで相手がいっぱいポイントを獲得してしまうんです」「いったいどういうスポーツを息子さんはされているですか?」「ボクシングです」「今すぐチョレイを止めさせなさい」。流行していても真似して良いスポーツとそうでないスポーツがあるってことで。「娘がサーを真似して打つ時に声をかけるんですが、勝率は上がっものの嫌われるようになって」「何のスポーツと」「スポーツではなく囲碁ですが」「止めさせなさい」。とかどうとか。

 事務総長が国連の総意ではないと言ったとかで、どこぞの安倍ちゃん大好き新聞が、自前の記者やら寄稿のコラムニストやらを総動員して「国連の方から来ました詐欺」だと揶揄していた「共謀罪」に対する国連特別報告者による批判だけれど、何のことはない、日本側が「総意ではないと言った」とブリーフィングしただけで、国連の方ではそんなこと言ってないよ的な話になっているとか。G7の流れで事務総長と安倍総理が会談した直後に「総意ではなかった」話を安倍ちゃん大好き新聞ズがすぱっと書いたけれど、あれは外務省あたりのブリーフィンをそのまま流しただけで、本当に事務総長がそう言ったかどうかの確認はとれていなかった。だったら「外務省が」とか「日本政府が」と主語を着けるべきなのに、いかにもその後に事務総長が直接そう言ったみたいな書き方になっているところが、そう信じさせたい政府の意思の表れってことなんだろう。

 普通は真に受けずに裏も取って乗せるのがジャーナリズムって奴だけれど、それをやってしまったら共謀罪に国連がいい顔をしていないってことはないという話を広められないから言わなかったし、受けて新聞とかも書かなかった。共謀罪は大丈夫って触れ回るための共謀を、どうして共謀罪で摘発しないんだろう。まだ制定されていないからか。自分にも跳ね返ってくる可能性を考えたら、怖くて通せない法律なんだがなあ。いる。もそんなことは報じようとしないのだった。前提がすっ飛ぶから。やれやれというか。しかしまるで無関係の文言を入れさせられたり、違約させられたりして外務省の人たちは顔から火が出る思いをしていないんだろうか。曲がりなりにも外交のプロで語学だって堪能なはずなのに。可愛そうだなあ。

 白狼さんの蒼囲空というキャラクターと、沖縄方面って舞台が先にあったみたいだけれど、そこは「黒豚姫の神隠し」(ハヤカワ文庫JA)で沖縄の島に根ざした不思議を描いたカミツキレイニーさんだけあって、最新刊「かりゆしブルー・ブルー 空と神さまの八月」(スニーカー文庫)はしっかりと沖縄にある島が舞台の青春&伝奇ストーリーになっている。どうやら東京でいろいろあっていなり寿司しか食べられなくなり、他の物を食べると吐くようになってしまった政治家の息子の三鷹春秋という高校生が、呪いを祓ってもらおうと石垣島からさらに離れた白結木島に来てユタのオバアを尋ねる。

 島には叔母さんがいて政治家の家系を嫌って飛び出し島の人を結婚して民宿を開いていて、そこでいなり寿司を用意してもらいながらオバアの所に行こうとしたら病気か何かで入院中。そして祓いなんかの仕事は弟子という少女の空が担当していた。それならと尋ねたものの忙しいのかあまり乗り気じゃない。断られてだったらと病院にいたオバアを尋ね、ジャッキー・チェンのDVDで釣って仕事を受けてもらおうとしたりするものの、すぐには無理らしくとりあえず春秋は、空と助手の流威奈が出向いた先に行って彼女たちが行うお祓いの様子を間近に見るものの、どこか手順に不安も漂う。

 これはオバアの復帰を待った方が良いかも、なんて思っていたらいろいろ起こって本当に空にに頼るしかなくなった春秋は、空に何があって自分がいなり寿司しか食べられなくなったかを話す。空もどうして自分がユタの家系でもないのにユタをめざそうとしたのかを打ち明ける。ともに抱える過去への後悔。そして今への不安。けれども未来のために協力して呪いに挑む。ライトノベルというには形式に乗っておらず、そのままハヤカワ文庫JAで「黒豚姫の神隠し」と同じ系統で出しても良さげ。方言は出まくり精霊なり妖怪も泥を食わせる仮面野郎とか股間に突っ込んでくる豚とかプリミティブな雰囲気に満ちている。

 でも、そうしたシチュエーションが今時のラノベはこうだってなパターンでは計れない意外をもたらしてくれる。悲しいけれど前向きな離別もあり、沖縄ならではの開けっぴろげな関係性も楽しげで読んでいて心が明るくなる。春秋がぶち当たった失恋話も割と深刻で青春小説の純文に近い当たりを読んでいるよう。それはとりあえず片付いたものの、新たに持ち上がった困ったことに、挑むために再訪するだろう白結木島で春秋は空と再会するんだろうか。そしてどんな関係を育むんだろうか。続きがあるならちょっと楽しみ。ライトノベルで沖縄の暮らしと食と開けっぴろげな関係性を描いたものだと、岩井恭平さん「サイハテの救世主」なんかがあったし神野オキナさん「あそびにいくヨ!」もご当地在住だけあって詳しかったけど、民族学的興味では「かりゆしブルー・ブルー 空と神さまの八月」が濃いかもしれない。ラノベよりの池上永一とも言えるかも。そういうファンはご一読を。

 AERAが例の前川喜平前文部科学省事務次官による「出会い系バー」通いに関する読売新聞の記事を批判的に取り上げているんだけれど、その中で読売の記者が自分は記者だと名乗らず、前川前事務次官の部下だと偽って写真を見せて来ていたかどうかを聞いていたって話が載っていて、もしもこれが本当なら相当にヤバいんじゃなかろーか。なるほど潜入取材と称して身分を偽り就職するなり就業をしてブラックな部分を暴く取材方法はルポルタージュではよくあるけれど、それだってずっと偽ったままでなく、後でそれらを証拠として持ち取材をして相手に正体を明かすものだろう。でも読売の場合はずっと偽ったまま。それで喋ってもらったところで騙して口を割らせたものをジャーナリズムの成果と言うのは難しい。なおかつそこまでやっても不穏な行為は出なかった。なのに記事をしたのもやぱりヤバいこと。そうまでして書かざるをえなかった事情、内外の反発を承知で乗せざるを得なかった心理が今は知りたい。どこか見たいに上から下まで染まってしまっている訳じゃないはずだから。


【6月4日】 どこまでも計算高く振る舞うことによって交渉を遊離に導くのがネゴシエイターって人種だとするなら、徭沙羅花が「くり」だなんてとてつもなくとんでもないデザインのTシャツを上着で隠すこともなくさらけ出し、真道幸路朗を誘って東京は下町方面を案内し、彫金職人の父親に会わせてその手仕事を見せたのにもきっと裏があるはずで、キレ者に見せかけてファッションセンスはまるでない迂闊者だといった印象を誘って同情心を煽り、結婚なんて話もまるで出ない不束者だという印象を抱かせて憐憫を惹起させては沙羅花が指摘するヤハクィザシュニナのやろうとしていることへの疑念を、幸路朗にも共感させようとしたに違いない。

 とは思うけれども何のてらいもなくあの「くり」ってTシャツを着ているところはただの天然で、そして父親に幸路朗を併せたら結婚相手だと勘違いされて顔を真っ赤にしていたところもやっぱり普通の純情乙女。むしろ自分の迂闊で粗忽で不束なところを意識しないでさらけ出すことによって計算などない純粋な想いであることを感じさせ、それによって端っから却下とはさせず、もしかしたら見当に値する意見なのかもしれないと思わせているのかもしれない。それで幸路朗の態度にちょっとした変化も生まれた感じ。「くり」Tシャツ大成功。これを参考にして政府も難しい交渉には「くり」Tシャツを着た交渉人を派遣するようになったりして。北の将軍様とか「キタコレ!」って大喜びしそうだし。きっと観てるぞ送ってもらって「正解するカド」を毎週欠かさず。

 やっぱり良い人そうに見えて小心者で嫉妬心が強いガキだったと分かった水篠颯太はネットで評判になったイラストにたぶんケチをつけ、あるいは攻撃されているのを守りもしないで追い詰めては、線路へと身を投げさせそしてそれが一連の被造物たちの現出につながっているといった構図がひとつ見えて来た「Re:CREATORS」。それをしっかりと嘘が得意で嘘の中に生きて嘘を現実に変えてしまう異能を持った築城院真?に見透かされ、呼び出されて脅されていたけれど、そんな第9話の中で水篠颯太を柵に座って両足で囲っていた築城院真?が、迫る弥勒寺優夜に気付いて立ちあがった時にホールドしていた足を広げたそのスカートの奥が、何か黒くモヤモヤしたものでいっぱいだった。これがダークマターという奴か? 僕たちの希望を吸い取る謎の物質か? パッケージでどうなるかが気になって寝られないのでパッケージを買おう。買うしかない。

 ドアからドアまで30分を見れば十分という新鎌ケ谷のライブハウスMT Myllysで開かれたコトリンゴさんによる「アニメーション映画『この世界の片隅に』オリジナルサウンドトラック発売記念ライブ すずさんとハナウタライブ」を聞きに行く。整理番号で33番だから割と前目の2列目左隅っこで、コトリンゴさんが斜め前方に座りスタインウェイ&サンズのピアノに向かって演奏する姿を斜め後ろから眺める感じでなかなかに良い感じ。持ち込んだ木琴だとか鉄琴だとかピアニカだとかを取り出したり叩いたり置いたり下げたりする仕草も間近に観られて、たった1人でいろいろな曲をいろりおな音色も加えて演奏する大変さってのを傍目に感じ取る。

 でもそれだけやって弾くピアノの鍵盤を叩き間違えないってところがやっぱりすごい。そこはプロのピアニスト。そしてシンガー。それくらいできて普通な上にあれだけの素晴らし楽曲を作れてしまうんだから才能って奴にはただただ恐れ入る。前に渋谷のマウントレーニアホールで開催された同じ「この世界の片隅に」のサウンドトラック発売記念ライブは、ストリングスとかバンドとかの編成もしっかりしていて、おまけに映画の画面も上映されて1本の映画を生演奏付きで観ているような感じになったけれど、今回はステージの上にコトリンゴさんが1人だけで、講堂と言うほどではないけれども平場に座った観客に向けて演奏する形で静かな中にスタインウェイ&サンズの音色とコトリンゴさんの澄んだ声が響き渡って歌っていうもの、旋律というものを深く感じ取ることができた。

 演目的にはマウントレーニアホールの時と同様に「この世界の片隅に」のサウンドトラックの楽曲もあればオリジナルの歌もあってそれぞれに、作曲家でありコンポーザーとしてのコトリンゴさんの巧さとそしてシンガー・ソング・ライターとしてのコトリンゴさんの素晴らしさを感じ取ることが出来るようになっていた。前回は確か演らなかったドラマ『100万円の女たち』の主題歌もやってくれて、どこか不思議な旋律に乗る声がichikoさんこと橋本一子さんを思い浮かばせた。自由な演奏に声が乗る楽曲だと矢野顕子さんも浮かぶ。共に天才シンガー・ソング・ライターであり演奏家ってことでその列に並んで遜色のないアーティストなんだってことを今さらながらに感じ取った次第。

 アンコールにはほかにやっぱり「タンポポ」があってあの冒頭のピアノを生で間近で聴けて取っても幸せだったし、「マイマイ新子と千年の魔法」のエンディングになっている「こどものせかい」も聴けてクライマックスのサウンドとサントラではストリングスとか重なるところをピアノだけで強弱をつけて音を重ねて厚みを出して、サントラに負けない前向きな感じってやつを漂わせてくれた。ソロならソロのアレンジって奴を考えて演じ、アンサンブルならそれ向けにスコアも書いて奏でる。どっちも好きだけれど前者がCDに近い音なら後者はライブならではのもの。その素晴らしさをライブハウスだけに留めておくのは勿体ないので、どこかコトリンゴさんだけのアコースティックなサントラアルバムって奴を作ってくれたら嬉しいかも。

 終わってサイン会があったので「この世界の片隅に」に「悲しくてやりきれない」が使われるきっかけになったカバーアルバム「picnic album1」とそしてポップスが中心の「picnic album2」を買って1の方にサインを頂く。ライブの中で新鎌ケ谷遠いですねえと話していたけど船橋からだと15分なんですよ。また来て下さいとお願いする。近いし行くのに便利だし、音も良いのでまた聞きたい。そんなライブでコトリンゴさんが話していたのが、広島地方でだけ放送されたというスタジオライブとかも含めたコトリンゴさんの特集番組。通常版と完全版の2本があるみたいだけれど、本人もまだ観られてないのは東京での放送がないからで、是非にお願いしたいと話しつつ全国はちょっとと困りつつ、それでも全国放送を希望していたのでNHKの人は読んでいたら是非のご検討を。読んじゃいないかこんな過疎泡沫末端なウェブ日記(死語)なんて。

 ロンドンにあるロンドン橋でワゴン車が人混みに突っ込みなぎ倒してそしてナイフを持った人物たちが降りてきて無差別に刺したといった話を聞いて2008年6月8日に起こった秋葉原での無差別殺傷事件を思い出す。やり口はいっしょ。そして日本の方は個人の鬱屈が不満となって社会に向かったのに対して、ロンドンの方は思想に感化されてのテロってことにはなっているけれど、幸福に暮らしていたら思想になんて染まることもなかった可能性を考えると背景にあるものは似通っていて、そしてそうした不満が爆発する時のやり口として海外で繰り返され、そして日本でもいつまたといった不安も浮かんでしまう。

 それは思想によるテロとは限らずやっぱり社会への不信や不満が吹き出るもの。そうなる可能性は9年前より高まってこそ減ってはいない気がしてならない。監視も必要だけれどギスギスを緩和し心にゆとりを生む施策を打ち出さないといけないんだけれど、分断と侮蔑によってプライドを保ち身を守ろうとする手法ばかりが広まっていく。それは差別を生み抑圧を招いてどちらからともなく爆発へと向かうかもしれない。どうなるんだろう。そう考えつつ近づく6月8日に僕はソフマップ前交差点へと向かって今年も手を合わせてこよう。でももうソフマップ前交差点ではないんだよなあ。店が替わってしまうから。風景は変化し記憶も風化していきそうな中、それは僕だったかもしれない、手を下される方、そして下す方のどちらにもなり得たかもしれない可能性を持ち続けたいし、持ち続けて欲しい。


【6月3日】 思い立ったが吉日って奴で、午前6時くらいに目を覚まして着替えて家を出て、電車を乗り継ぎ新幹線も使って静岡県の三島に到着したのがだいたい午前8時半くらい。そして駆けつけたZ会のビルに入っている大岡信ことば館にはすでに4人くらいの行列が出来ていたけれど、想定だとすでに100人は並んでごった返していたはずだがらそれに比べると随分とおとなしい。そして午前10時の予定から10分繰り上げして午前9時50分に開場した時点で、待っていたのはだいたい50人といったところで、思っていたよりは穏やかな滑り出しだったのは場所が三島と東京から遠かったからなのか、それともこれが現状の濃いい新海誠さんのファンの層なのか。「新海誠展 −『ほしのこえ』から『君の名は。』まで−」の初日の様子ね。

 振り返れば松屋銀座で開催された「新海誠『君の名は。』展」も、オープン初日に行列はちょっとだけ出来ていたものの松屋銀座を上から下まで階段に人が並ぶといった大行列では無く、翌日に物販をのぞいたら行列なんかはもう出来ていなかったから、アルフォンス・ミュシャのように老若男女が詰めかけ1時間2時間の行列なんて事態はそもそも起こらないのかもしれない。三島での「新海誠展」の方も中に入らずすぐに物販に行く人がいたけれど、こっちが中をぐるりと回って30分後くらいに出て物販に行ったら行列なんてまるでなく、スムースにいろいろと購入できた。マッキーとか、ってまた買ったのか。

 そして展示は2014年の6月28日から10月9日まで開催された「新海誠展 −きみはこの世界の、はんぶん。−」と同じように作品から切り抜かれた言葉がところどころに飾られる中を、「ほしのこえ」から始まって「雲の向こう、約束の場所」「秒速5センチメートル」「星を追う子ども」と来てこれは前回もあってメインだった「言の葉の庭」の展示があって、そして「君の名は。」へと続いていく展開。前回はこれも注目だったZ会のCMに使われた「クロス・ロード」関係はなくって商業作品メーンといった感じに整えられていた。「クロス・ロード」の眼鏡っ娘好きにはちょっと残念。でもグッズは揃えてあるんで行ったら買おう。巡回展には着いて来ないかもしれないし。

 さて展示の方はといえば「ほしのこえ」を4:3の昔ながらのブラウン管テレビを幾つも積み上げそこで黒枠が出ないように再生しているオブジェみたいなのを横目に見て、「秒速5センチメートル」の種子島編で主人公たちが乗っていたスーパーカブが置かれた横を原画なんかが並んで懐かしさに目が潤む。あの時あの島で選んでおけばあんな思いをすることはなかったのに、ってのがやっぱり変わらない信念。振り返っても遅いのだと知ろう。そして「星を追う子ども」のジブリっぽいイメージボードなんかを見たあとは、「言の葉の庭」のコーナーで原画用紙をつなげて貼り合わせて描かれていたユキノちゃんの全身像が飾られていて、肉体を持った大人の女性感が漂ってきてグッと来た。あれにすぐに惹かれないなんてタカオちょっとおかしいぞ。でも昼間からチョコ食べてビール飲んでる女性がいたらやっぱり引くよなあ。

 「なるかみの 少し響みてさし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」という万葉集の歌が「なるかみの 少し響みて振らずとも 我は留まらむ 妹ち留めば」という返歌とともに立体化されて並んで立っているのは前回も同じだったかな。そんな歌を最初にユキノが口ずさんで四阿から立ち去る場面で、斜めになったレイアウトでタカオを見下ろす顔への監督による指示がちょっと面白かった。あの表情はやっぱり重要だったんだなあ。そして「君の名は。」のコーナーでは、松屋銀座で見たようなオープニングの原画とかがあってこれは見た記憶がなかった巫女の口噛み酒を勧める架空のポスターの原画があって、ちょろりと出た三葉の舌が可愛らしかった。あれのあるなしじゃあ、印象ガラリと変わるからなあ。

 奥寺ミキ先輩の全身像とかもあって頭身はそうかそんな感じだったのかと改めて。むしゃぶりつきたくなる美女を前にしながらだんだんと三葉の方に関心が靡いていく瀧くんがちょっと信じられない。そんな男ばっかり。でもちゃんと最後に会えたのは「秒速5センチメートル」からの進歩か。「言の葉の庭」のユキノとタカオもいずれまた再開出来たと思いたいし。原画とかに対して表情とか仕草とか割といろいろと新海誠監督が指示をしていたりして、そうやって積み上げられた映像だからこそしっくりと来て表情なんかにも納得がいくんだろうなあと思った展示。図録にはそのあたりが全部拾わわれている訳じゃないんで、やっぱり改めて見に行って半日くらい滞在して鉛筆でメモとっていきたい気がした。新幹線なら東京駅から1時間かからないし東海道線でも2時間くらいだからまた行ってみるか。平日かだったらお客さん、そんなに多くなさそうだし。

 ヤバいなあ。これを書いた読売新聞の原口隆則政治部長は果たして頭、ちゃんとしているんだろうかと読んだら誰だって思いそう。例の文部科学省の前川喜平前事務次官が“出会い系バー”とやらに通っていたという話を、特に法律的な問題があった訳でもないのに社会面で、それも全国規模で大々的に掲載して不思議がられたニュースに対して、理由を説明しているんだけれどそれがまるで釈明になっていない。「前川氏は文部科学審議官だった約2年前から次官在職中にかけて、買春を目的とするような客が集まる店に足しげく通っていたのである。我が国の教育行政のトップという公人中の公人の行為として見過ごすことができないのは当然だろう」。

 おいおいそれなら先に法律に背いている可能性が高い「買春を目的とするような客」をこそ暴いて糾弾して告発することの方が、公器中の公器としての新聞の役割だろう? でもそんなそぶりはまるで見せない。「売春の客となるのは売春禁止法で禁じられた違法行為である」。なるほどごもっともと。でも「違法行為が疑われるような店に頻繁に出入りしている」ことを指摘するなら、まずは「違法行為」とやらがあったことの方を明らかにして指弾すべきなのに、それすら確定できないまま「疑わしい」店に「出入り」していたことでもって人を貶められるのなら、違法薬物が取引されている公園を横切っただけで騒ぎ立てられるし、違法薬物の取引を諫めるよう声をかければなおのこと、関係が疑わしいと行って糾弾できてしまう。そんな恐ろしい世の中が正しいとでも言うのか、この社会部長さんとやらは。

 そんな間抜けな話がある訳がないと、原稿を書いていて思わなかったんだろうか、この社会部長さんとやらは。思っていたら書けないか。あるいは思うだなんて思考のプロセスがそもそも働かないようになってしまっているか。そんな人だけが残り偉くなっていく場所になってしまったってことで、かつて立松和博さんを擁して数々の汚職事件を暴き、そして本田靖春さんをエースに売血の問題に切り込んでいって輸血制度が立ちあがるきかけを作った、読売新聞東京社会部を誇りに思っていた人たちは今ごろどんな気持ちでいるんだろう。血を吐く思いか。はらわたが煮えくりかえっているのか。そもそも内部にはいないのか。まだいてくれそうな予感。辻元清美議員のネットに流れるデマを平気で垂れ流し、突っ込まれたらデマじゃないと開き直った政治部長がいるどこかの新聞社みたいに、思考回路がそっちに傾いて固まっている所とは違うはずだから。

 東京国際フォーラムのホールAでKalafinaのツアー「9+ONE」を観る。神奈川県民ホールに続いて2度目。お誘いもあったけれどもチケットを買ってあったのでそれで入る。2階席の中段あたりですぐ前が通路前の手すり席でそこに寄りかかる阿呆たちがいたりしてピコピコハンマーで頭ぶったたきなった。マエノメリーは本当に迷惑だれど当人たちは気づいていないのがまた厄介。

 そんなKalafinaの東京国際フォーラムは、総じて音がクリアで2階席までちゃんと歌声が歌詞も聴き取れるレベルで響いてきた。もしかしたらバンドのサウンドが届く1階席よりも聞きやすかったかもしれない。そんなクリアなサウンドに負けずクリアなハーモニーを聞かせてくれる3人の素晴らしさ。「oblibious」のWakanaの高い旋律とかそれに追随して刺させるKeikoの旋律とか鳥肌が出るくらいに美しい。この曲ではまだHikaruはレコーディング時にはいなかったんだけれど今はしっかり入って歌っている。3人のKalafinaはもう盤石。そんな3人がハモらずに歌いつないでいく曲とかもあって進歩している感じ。最新シングルが8月9日に出るそうで「刀剣乱舞」の新作アニメのエンディングでタイトルは「百花繚乱」。ニコ生の人とは関係ないと思う。

 割と見知った曲が多くて「光の旋律」とかも入っててポップチューンな感じ。逆に荘厳なのはアコースティックライブをやるようになてそっちに回しているから2つ観に行って1つのKalafinaを感じられるって寸法か。ポップな曲といえば「Sprinter」があるんだけれど「空の境界」からは「oblibious」があったから今回はパスっていう感じ? でもあの疾走する感じが大好きだからアコースティックバージョンじゃないロックバージョンをまたステージで聞かせて欲しいなあ。これから「音楽」とかへとつなぐともうびんびんなんだよ感情が。

 今回はでも「音楽」はアンコールへと回していて再会されたステージを皆が立ちあがって盛り上げる曲という使われ方。それも悪くない。ちょうど手に小さいライトをつけて振り回すパートに入ったところだから。東京国際フォーラムは明日もあるけどそっとは行けず、他の地域も行かないので今回のツアーのKalafinaは打ち止め。次は何をどこで聞かせてくれるんだろう。小さいホールか代々木体育館とか横浜アリーナとかいったビッグな会場での爆発か。アコースティックもまた聞きたいけれどどんどんとチケット取りづらくなっているからちょっと大変かも。ファンクラブ、入っちゃうかこの際。


【6月2日】 そして気がつくとアーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督が2年の契約延長を果たしていて、これで来年はヨーロッパリーグを戦いながらプレミアリーグの制覇とFAカップの連覇を狙うことになった模様。チャンピオンズリーグに比べてヨーロッパリーグがどれほど楽で苛酷か分からないけれど、過去にフェイエノールトで小野伸二選手が制覇していたこともあり、最新ではマンチェスター・ユナイテッドがこれに優勝してリーグでは6位に沈みながらもチャンピオンズリーグへの出場権を手にしていた。それなりに意味のあるタイトルなんでヴェンゲル監督もしっかり狙いに行くだろう。それとも捨ててプレミアリーグに集中するのかな。そろそろ欲しい欧州のタイトルかリーグ優勝。期待して見守ろう。

 犯罪性がまるでなく、倫理面でも調べればこれもやっぱり問題がなくてむしろ今時の人情が薄れた時代にあって、水戸黄門的に美談仕立てで語られそうな一件をなぜか淫靡な可能性を示唆しつつ、一個人を誹謗中傷する記事を天下の読売新聞が掲載したことが、今になってそれを書かせたらしい側の強権を想起させて、拙いことになっていたりして指示しただろうセクションと、そして受けて記事にした新聞側の無能な見方ぶりが際立ってきたといった感じ。これはちょっとないんじゃないのって同情を誘って一気に風向きを書かれた前の文部科学省事務次官は正しかったんだといった方向へ持っていってしまったから。

 本来そういったポン酢がバレる可能性を含んだ役回りは、そこが書くならそういうものだという認識が既に出来上がっている別の新聞が担っていたはずだけれど、朝のモーニングクロスで政治ジャーナリストの田勢康弘さんが、最初はその新聞に書かせようとしたものの、調べても醜聞が出ないので書こうとしなかったんで、読売に書かせたって経緯を話してた。本当だったらあの超御用な新聞ですら二の足を踏む話に、どうして天下の読売が突っ込んでいった不思議になる。それだけ避けられない弾がダイレクトで飛んできたってことなのかなあ。もしかしたらこの報道、リクルート事件での楢崎弥之助議員への贈賄持ちかけに匹敵するポカかもしれない。すでに終息しかけていた事件があれで燃え上がって大々的になっていった訳だから。どうなるかなあ。

 そうかああいったさりげない観察力と優しさにポッとなるのかどうなのか。「カブキブ!」で歌舞伎の舞台を終えた翌日、演劇部の舞台に立った浅葱芳先輩を見ながら村瀬とんぼが思ったのが、あんまり調子がよくないってことでそれを見知って後輩に取り囲まれた芳先輩をカバーして引き離してひとりにし、そして部室で背中がまっすぐじゃなかったと伝えて調子が悪かったでしょうと伝えてホッと息抜きをさせる。顔がほてっていたのは熱があるからか、それとも自分のことを知ってくれている嬉しさか。椅子から崩れ落ちる醜態も見せて平気な関係になっているとも言えるけれど、それに気づいて攻め込むようなことをしないのも村瀬とんぼというキャラクター。きっとそうやって縁の下の力持ちを続けながら日本を裏から動かす大物になっていくんだろう。展開も速いから最終回で2年生編まで行くのかな。そろそろ原作読んでも良い頃かな。

 今日も今日とて東京おもちゃショー2017へ。見逃していたDENDAMのブースに行って様子をうかがうとそれなりにお客さんも感心を持ってくれた様子。値段は1万2000円とか、「ソードアート・オンライン」とのコラボレーションだと1万5000円とかけん玉にあるまじき価格だけれど自分のプレイの軌跡を記録できて遠隔地の誰かとの大戦も可能とった要素を買って、伸びると思っている人もいるんじゃなかろうか。何しろ始まったばかりの新しい会社であり製品なんで、これからどんな普及を見せるかで続くトイ系のIoTも行方が決まっていきそう。ソニーのtoioとかも評判は良いけれど値段の問題と、あとはやっぱり創造力を引っ張り出す遊ばせ方が課題になりそう。難しいけれど乗り越えた先にある楽土を想像しながらこれも見守っていこう。「ソードアート・オンライン」仕様のDENDAMA、どうしようかなあ。

 そんなおもちゃショーでは「アイドルタイムプリパラ」の発表会があってわーすたってアイドルユニットも出てきて歌を聴かせてくれたあと、ヒロインの1人の夢川ゆいちゃんが何とJA全農からお米応援大使に任命されるという式典を見物する。すでに知られたことだけれども夢川ゆいちゃんは3度の飯よりご飯が好きとかいう、それはつまりご飯しか食べないくらいのキャラクターだという設定で、手にはおにぎりと茶碗に山盛りのご飯を持って相棒に電子ジャーを連れているから筋金入り。一方で世間ではお米の消費量が減って1人あたりの消費量では50年前の半分になっているとかで、そんな状況を打破するためには若い世代に知られた「プリパラ」の夢川ゆいちゃんからアピールしてもらうのが良いっておもったということらしい。

JA全農にしてはななかの目の付け所。まあ過去に国産肉の普及をめざして「おにくだいすき! ぜうしくん」って不思議なアニメーションを作ったところだから、エンターテインメントのコラボには慣れていない訳じゃなく、今回も難しいことは考えないでお米大好き夢川ゆいちゃんって状況からすんなり決まったんだろー。あとはあらゆる場所に夢川ゆいちゃんが出没してはご飯を美味しく食べる姿を見せてくれれば万全なんだけれど、アニメのキャラクターは出てこられないし着ぐるみでは食べられるか不安だし。いやいや着ぐるみなんかじゃなくリアルな夢川ゆいちゃんだよって言うならやっぱりぱくぱくと食べて欲しいもの。そういう仕様になっていたっけ、って仕様ってどういうことなんだ。そこは目くじらを立てずとりあえず、そのアピールに答えてしばらくはパンもパスタも辞めてご飯をメインで言ってみよう。1日1食くらいだけれど。貧乏なんで3食ご飯は無理なんだってば。

 「ZAITEN」って経済誌の2017年7月号を読んでとある新聞のいろいろが書かれてあっていろいろだなあと思ったけれど真相については縁遠いんでちょっと分からない。まさか女性の上司が女性の部下に向かって子供を2人産んだら記者として終わりとか、今時の少子化を問題視して育児休暇を取ってでも生んで増やして下さいといった風潮に逆行するセリフが発せられたなんてあるから、そんなことはいくらなんでもないだろうしあったら旧態依然とした体質なんじゃないかと想像したけれど、本当のところはやっぱり縁遠いんでまるで分からない。長くベテランが居場所を固めてよりベテランとなっていく一方で、次代を担う若い人たちの入る余地がないように思われがちな場所だけど、本当にそうなのか違うのか。聞いてみたいけれど聞いて分かる話でもないしなあ。真相や如何に。

 20連勝かあ、将棋のプロ棋士で4段になって挑み始めた対局で勝ち続けては20連勝まで来てしまった藤井聡太四段。竜王戦の本選に入ったのに続けるかとばかりに棋王戦の予選を勝った模様。相手が6段でも若くて上り調子なのか足踏みしている状態なのか違うのかによって、藤井聡太四段の現在の強さも計れそう。それなりに棋戦で勝ち続けている人だったらやっぱり藤井聡太四段はすごすぎるってことになる。必敗で相手に詰み無しの状態から大逆転劇を演じたっていうんだから、棋譜を残して広める仕事もしっかり果たしている。そんな才能がいつまで続いて欲しいと思うし、実際にしばらうは続くだろうけれど、誰もが将棋の天才ばかりだった中でいつまで勝ち続けられるかは難しいところ。その日がどこで来るか、誰が相手かがまずは注目ポイントってことで。叡王戦で負けたらちょっと興味深いかも。


  【6月1日】 愛知青少年公園ってのが見知った頃の名前で、プールに行ったりサイクリングをしたり課外授業でオリエンテーリングをしたりと遊び回った記憶がある。あと1970年の大阪万博に出展されていたフジパン・ロボット館が移設されて中にあった手塚治虫さんがデザインをしたというロボットなんかを間近に見て楽しんだ。そんな青少年公園は1979年に国際児童年のメイン会場としても使われて、時の総理大臣、大平正芳さんが来場してはゴダイゴが歌う「ビューティフルネーム」の中に登場する「ウーアーウーアーララララ」ってあたりを一緒に歌って、自身の考え込んで言葉が出てこない時の「ウーアー」」と重ねられて弄られたって記憶があるけれど、本当だったか定かではない。

 そんな場所が2005年に開かれた愛・地球博でメイン会場となって大々的に整備され、いろいろな施設が作られその中にスタジオジブリが作った宮崎駿監督による長編アニメーション映画「となりのトトロ」に登場する、サツキとメイの家なんかも再現されては人気の場所になっていたらしい。そして万博の終了後も残され集客に役立っていたのかどうなのか、分からないけれども愛知県知事にとってはやっぱり大きな看板だったスタジオジブリ。万博終了からもう12年が経ってしまった今になって、かつての愛知青少年公園で今は愛・地球博記念講演(モリコロパーク)をジブリパークに変えるという話でジブリのプロデューサーを務める鈴木敏夫さんと合意したとか。

 なるほどジブリのアニメが好きな身にとってはサツキとメイの家があってトトロが現れるような森があってまっくろくろすけが徘徊して、湯屋があって温泉に浸れて豚になるくらい美味しい料理が食べられてたたら場があってエボシ御前が美人で紅の豚が空を飛んでいて零戦もやっぱり飛んでいて、ハウルの城が動いていてポニョが半魚人の姿で歩き回っていてジブリじゃないけど腐海から瘴気が漂ってきて王蠹がうじゃうじゃと這いずり回っているような場所になってくれれば嬉しいけれど、ことキャラクターによるマネジメントということになるとこの10余年をがんばってくれたモリゾーとキッコロへ申し訳が立たないし、作ってくれたアランジアロンゾに対してジブリの方が上ですと言ってしまったみたいで心苦しい。決してそんなことはないのになあ。

 というかゼロから初めて万博を通して世に知らしめ、そして今に続くキャラクターへと育て上げたことを放り出してしまうのはやっぱり勿体ない。1つのキャラクターがここまで定着するって例はそうはなく、さらに何十年かを使い続けることによってさらに強固な存在にもなり得るんだけれど、外部からより強いキャラクターを導入してそこを喧伝したいという欲求には負けてしまうものらしい。でもジブリが契約終了となって版権を引き上げてしまったら、後にはいったい何が残るのか。捨ててしまったモリゾーとキッコロは戻ってきてくれない。他にキャラクターを探そうったってジブリに勝るキャラクターがほかにいるのか。そう考えると無理に全部をジブリパークにしてしまうより、トトロゾーンめいたものだけ作って後は従前のモリコロパークにしておくのが良いと思うんだけれど。木造の天守閣を作ろうとして石垣の保護をどうするか問われている名古屋市長よりは真っ当かと思ったけれど、愛知県知事もあれで目立ちたがり屋だしなあ。どうなるかなあ。

 始まったんで東京おもちゃショー2017へと行ったらいつもの東京ビッグサイトの西館(にし・やかた)ではなく東館(ひがし・やかた)の半分を使っての開催で、これって広くなったのか狭くなったのか分からないけれども上下に移動しないで1フロアで全部見通せるのは有り難い。でも歩く距離は増えているようでもあってちょっと大変かも。そんな中ではやぱpりソニーが玩具の分野に参入したってのが1番のニュースか。発表会もあったんでのぞいてみたら、キューブ型の小さいロボットを操作して楽しむトイ・プラットフォーム「toio」ってのを出していた。キューブをデコレーションして別のキューブと戦わせる遊びなんかが出来るロボットで、そのブロックをセットして充電したり、中心となってコントロールをしたりするtoioコンソール、リング状になっているtoioコントローラーでワンセットってことになっている。

 それで何ができるかっていうと特に出来ず、別にtoio対応タイトルが必要。カートリッジになってるソフトをセットしマットなんかを敷いてその上にキューブを置くと、しっかりと自分の位置を判断しては指令どおりに動き回るか、あるいはお互いに位置を判断してぶつからなかったり追っかけ合いをしたりして動き回る。鍵はどうやらキューブの下にあるセンサーでもってマットに見えない何かで描かれているコードを読み取り、自分がいる位置をしっかり把握できる機能で、向きなんかも含めて把握が可能だから、どっちに進むか、あるいは引くかを指令できる。

 そんなシステムでもって例えばキューブをぶつけ合ったり、キューブが交互に進むようにしてシャクトリ虫のような動きを見せたりといった遊びをできる。何が出来るかを考えた上でこれなら出来るといった遊びを創意工夫していける点が特長というか、それをやらないとただマットの上で動き回る四角いキューブってだけになってしまう。今のこどもたちにそういった工夫するゆとりがあるかどうか。プログラミング教育の一環として行いつつ工作の楽しさを乗せて自分の方へと引き寄せさせるソビーゴのようなロボット教材もあるだけに、どちらかといえば遊びよりのtoioへの関心をどうやって持ってもらうかが普及の鍵になりそう。ソニーってブランドで動くほどヤワじゃないから、子供たちは。

 「ウルトラマンジード」ってのが7月から始まるみたいで「破裏拳ポリマー」の坂本浩一監督が手掛けていてベリアルの息子が変身をしてウルトラマンになるんだけれど悪なのか正義なのか迷っていたりするあたりが、自分の居場所を見つけられずにいる現代の若い人たちを捉えそう。キャストも良いけれど声優さんもペガッサ星人の子供のペガの声を潘めぐみさんが演じ、人工知能レムの声を三森すずこさんが演じてとなかなかのそろい踏み。2人とも発表会に出てきて顔出しをしても女優陣と比べて遜色のない佇まいだったから、いずれは本編に登場なんてこともあったら面白いかもしれない。渡辺邦斗さん演じる伏井出ケイというキャラクターが、ベリアル融合獣にフュージョンライズできるという敵役なんだけれど、長身でイケメンでおまけに著名なSF作家だという設定に、そんなプロフィルに該当するSF作家がいただろうかと考えて見渡して遠くまで見通してまだ遠くへと目が向いている。ありえねえ。

 ハンドスピナーってのは流行っているみたいで、指に挟んで回すと高速で回って回り続ける玩具でいったいどこが面白いんだと思っていたら東京おもちゃショー2017にも何社か持ち込んでいて、尋ねたらただ回すだけじゃなくって指で挟みながら左右に動かすと、回転に横Gめいたものがかかって指がぐっと引っ張られる感じがして結構面白かった。そうした慣性を味わいつつどこまで回せるかってのを試すのもありだし、メガハウスがいうように指先で回す、離してまた持つといったトリックを競うのもありってことか。ハイパーヨーヨーみたいな競技化って方向に行くのかそれとも見せて楽しませるジャグリングめいた方向に行くのか。ずっと回転しているのを眺めているのが楽しいで終わるのか。これからの展開を見ていこう。


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