縮刷版2017年4月下旬号


【4月30日】 ジェリー・ヤンの姿を見たのはあれは1995年とかだったっけ、それとも他の誰かと取り違えているんだっけ、ちょっと覚えがないけれどもヤフーというポータルサイトが立ちあがって、というよりヤフーによって一種ポータルサイトという概念がビジネスのフィールドで可視化されてそこからネットがメディアとしての存在を帯び始め、やがてネットこそが今を代表するメディアとなって屹立していった、その基礎をこの日本で作った人ということになるんだろうか、井上雅博さん。ジェリー・ヤンが作り孫正義さんが日本へと持ってきたヤフーを大きくして世界のヤフーが撤退気味な中で未だに日本で最も影響力のあるポータルサイトとしての地位を確立した。

 その波及力を無視しては、新聞も雑誌もテレビですらも存在感を保ちづらいというという意味でそれこそ正力松太郎さんであり、前田久吉さんであり徳間康快さんでありといったメディア王的人物であるにも関わらず、この日本でなかなかニュースとして大きく報じられていないのは未だに旧態依然としたメディアの序列に捕らわれているからなのかもしれない。個人的にはネットにつなげるようになって自分のホームページも立ちあげてこっち、ヤフーをポータルサイトとして常用したことはないしトップページにおいたこともない。gooが出来てgoogleが出来てからそうしたキーワード検索のサイトをトップに置きつつブックマークでもってダイレクトに、よく見る情報にアクセスしていた。だからヤフーのありがたみも感じていないし、将来も有望だという気持ちもない。

 井上さんの尽力なのか情報検索だけに止まらず、ネットから情報をピックアップして並べ届けるエディトリアルの機能を強め、そこに相談ごとであったり調査報道であったりといった機能も乗せてサイト全体の質的向上を計ってきた。ネットに蔓延る乱暴で差別的な言説の排除に動いているのも嬉しいけれどもその割に、差別的で下品な記事の多いメディアから良く記事を引っ張って載せているのはいかがなものかと思わないでもない。それもいずれ変わるとしたら当該のメディアも干上がるだろうなあと思いつつ、一方でネットが真面目さだけでは食べていけない状況にあって、下品に流れやすいなかで孤高を保ちリテラシーに訴えて果たして存続し得るか、ってあたりがとても気になる。

 そうなった時に長く事業を引っ張った井上さんならどうするか、って話になるんだろうけれども無念にも死去。すでにヤフーは引いて後を宮坂学さんい任せてはいるけれど、創業に携わった人の理念というのはやっぱりそれなりに重いものがある。合理的で功利的なオーナー的存在の孫正義さんがどういった考えを持って今後を差配していくか、ってのも考えつつ、そうした中でヤフーがポータルであり、またメディアとして屹立しては正しく真面目なネットを、すなわち社会を築く働きをしていってくれれば良いんだけれど。個人としてはインタビュー等で井上さんと話したことはなく、それはちょっと心残り。ドワンゴの川上量生さんはまだ携帯ゲームを作っていた時に取材したっけ。そんな黎明期にうまく立ち回っていたら僕も億万長者になれたかなあ。無理だなあ、才覚以前に情熱がないから。日々をつづるのが精一杯。だから今日もこうやって呟き続ける。

 空母による打撃群だなんて昨今、一気に取り沙汰され始めた言葉が来週にも出てくるっていったいどれだけ今を取り入れているんだと思った「正解するカド」だけれどもそうした脚本はとっくの昔に上がっていただろうから、ある意味で未来を予見していたと言えるのかも。ただしそうした打撃群が向かうのは北朝鮮とかではなくてこの日本。カドを得てそして2つの球体から無尽蔵にエネルギーを引き出せる装置を幾つももらった日本に国連がちょっかいをかけてきて、全部差し出せと良いそうした国連管理はカドの主の意向に沢内と渋ったら攻撃も辞さないとなって以下来週。いったいどういうスタンスで世界に臨むのか、ってあたりがこれからのテーマになっていうんだろう。ファーストコンタクトの正しさではなく、人類が和をもって貴きとなす世界を築くための正解を探す物語、ってことになるのかな。面白いなあ。

 そして今日も今日とてニコニコ超会議2017へ。昨日は見られなかったところを回ろうととりあえず超・超人スポーツのコーナーへ。何かバネのようなものを足に取り付け、透明の風船をかぶった人たちがぶつかり合っている絵面があって、どんな感じかを確かめにいったらなかなか始まらない。まずは足にバネを取り付けるのに時間がかかっていて、そして着けた人が立ちあがって自立して歩けるようになるまでが大変そう。風船を被ってぶつかり合うなんてとてもとても。そんなこんなでティーチングに時間がかかって回転が悪かったのか、午後には受付中止になっていた。アトラクションには向かないかも。でも防御という守りの部分、そして走るという攻めの部分をそれぞれ強化した人間がぶつかり合うという意味では超人スポーツなのかも。いつか試してみたいけど、そう思った人が立てずに困っているのを見ると自分も同じ目に遭いそうだなあ。まあそのうちに。

 その隣はドローンなんて扱いづらそうなもので遊ぶブースだったのに、割とサクサクと進んでいたのはPARROT社の簡単に操作できるドローンだったからなのかも。使うボタンは始動があって上下があって前後左右があってそして着陸があってとそれだけ。聴けばすぐに動かせて、それでクイズに答えて高い場所に置かれた回答の上にドローンを置くだけで、制限時間も1分だからそりゃあサクサク進むわなあ。どこが超・超人スポーツなのかは分からないけれど、普通クイズといったら手元のボタンを押して解答するもので、それをドローンでやるならある種、手足の代わりにドローンを使っているって言えるかも。いつかだから手足の延長としてドローンが家庭内を飛び回り、欲しいものを取って戻って来るようになる未来もやって来るかも。

 超トークだか何かのコーナーでニコニコ生放送の雑談配信者が並んで津田大介さんとか東浩紀さんとかを相手にトークしていたプログラムで客席からやっぱり有名な人ばっかり取り上げてネットらしくないとか文句が出ていたけれども有名な人がネットでもやっぱりアクセスを稼いでい有名になっていくのは「ほぼ日刊イトイ新聞」が登場して糸井重里さんというビッグネームが多くのアクセスを集めそして遂に上場まで果たした時から分かっていたこと。ただし糸井さんはそのネームバリューの下でユニークな人材を発掘して紹介していた時期もあったから、ある意味でテレビが無名の新人を発掘して面白がらせていた時代のような機能は果たしていたかも。

 今はどのメディアもアクセス大事で有名人にそれを頼って結果、有名人ばかりが有名になっていくトートロジー的状況にあって無名が世に出る機会はない。そういう意味でニコニコに発掘と育成の編集者的意識がないことに、苛立ちを覚える人がいても不思議は無い。でもそれがどうしたってのは無名で20年やって来て、書きたいことをこうして書き連ねてきた人間の偽りもちょっとはある本音。そりゃあ有名になれれば嬉しいけれどもそうなるための道はいくらもあって、それに向かって努力をしてこなかっただけのこと。出来る範囲でやりたいことをやり続けていて、満足できないのならやならない方がましってことで、そんな境地へと到るまで新しい人たちは10年書き続け、喋り続けなさいと言いたいけれど、でもやっぱりちょっとは浮かばれたいかも。老後もあるし。人間って複雑だ。

 そして観た楽日千秋楽の「超歌舞伎 Supported by NTT 『花街詞合鏡』」は既に1度観て知ったストーリーだけにどこに気を張れば良いかも分かって観ることが出来て、そんな余裕の中で所作でありセリフでありバトルでありといった要素要素をしっかりと味わうことができて楽しめた。間延びとか感じなかったのは演出を煮詰めたからなのかどうなのか。比べてみれば分かるけれどもそれもまた手間がかかるんで後回し。とりあえず終盤にかけて言の葉を集めて現れた八重垣紋三の屹立似合わせ、立ちあがってペンライトを振り回すことができて良かった。本当は全員があの瞬間に総立ちになれば良かったんだけれど、2度目でないと分からないかなあ、やっぱり。

 いわゆるカーテンコールも終えてジャージーな「吉原ラメント」でもって終わったはずの舞台の幕が開いて、まだまだだろう? これが欲しかったんだろう? って感じに中村獅童さんが現れ「千本桜」を始めたところで場内はもう大乱舞。立ち上がりペンライトを振りコールをし、それに答えて役者たちがステージから降りて場内を駆け回って盛り上げる。歌舞伎の中に脈々と息づく傾くスピリッツを存分に表したクライマックスが、本当の歌舞伎座では味わえるとはちょっと考えられないけれど、こうやって新しいものと融合させながら次の時代を作っていく可能性はないでもない。そういう時代に中村獅童さんが自信を持って進んでいける、そのお手伝いを観客たちは出来たんじゃなかろーか。ともあれ最高だった超歌舞伎。「千本桜」に合わせて2人の小さい禿がユニゾンで躍っていたのは可愛かったなあ。


【4月29日】 誕生日が早い山下達郎さんが64歳になって同じ昭和28年生まれの難波弘之さんはまだ誕生日前だから63歳で、そして昭和29年だけれど2月生まれの伊藤広規さんが同じ63歳という還暦を過ぎたトリオが入りながらも3時間を超えるライブをやってしまうところがやっぱり凄かった山下達郎さん。それを言うなら74歳にしていったんステージに上がったらほとんど休まず水も飲まずに2時間近くを演奏して、歌って高いところに上がったりするポール・マッカートニーさんも凄いけれど、そうした年齢に比例しての活躍ぶりって裏に新しい人たちがその座にとって変わっていくことの難しさがあり、若い人ファンたちが長く同じアーティストを愛し続けることの難しさなんかがあったりするのかもと考える日々。

 行けば分かるけれどもポール・マッカートニーも山下達郎さんもファン層はもうグッと上に上がってきていて、それこそ50歳くらいから60歳70歳といった辺りがライブ会場を埋め尽くしている。その割にはトイレに立つ人が少ないのは達郎さんの場合は長丁場になると踏んで水分補給を控えているからだろうとして、つまりはやっぱり長年のすべてお見通しなファンが通い続けているってことになる。そうしたファンに例えば今の若い層に人気があるアーティストがなっていけるのか、って辺りがひとつ謎でやっぱり40代から50代へと向かう過程で消えていってしまうのか、同じ世代のファンをひきつれ進んでいくのかがちょっと見えない。

 というより昔のようにひとりのアーティストなり周辺のアーティストなりにしっかりと食いついて、どこまでも聞き込んでライブにも通って活動をし続ける限りは追い続けるといった状況が、今の音楽を取り巻く環境から生まれて来るかってあたりがなかなか掴みづらい。アルバムという形態があってそれを買ってはすり切れるまで聞き込んで、世界観を取り入れていく積み重ねで育まれた信心にも似たアーティストへの感情。それが今の音楽は単曲で聞いてそれもアルバムではなくネットから聞いてといった状況で、シーンを彩る音楽としての愛着は湧いてもクリエイトしたアーティストへの強い同調は生まれない気がしないでもない。そして気がつくと次の楽曲へと気分は移っていくという繰り返し。結果下の世代が着いてこられない中を、しっかりとファンを掴んだ上の世代がどこまでも続いていくというのが今のポール・マッカートニーであり山下達郎さんのライブの盛況なのかもしれない。どうなんだろう。

 そしてやって来た幕張メッセでのニコニコ超会議2017ではとりあえず「けものフレンズ」関連をあちらこちらでチェック。超アニメエリアでは「さばんなちほー」がほぼ再現されていたけど、1組数分では寝転がったたり狩りごっこをして遊んだりは出来ないから、せいぜいがパネルと記念写真をとるくらい。まあそれでも雰囲気だけは味わえるんで行って寄れる人は寄ろう。あとグッドスマイルカンパニーでねんどろいどのサーバルが色つきで展示。なかなか再現度が高かった。あとアクリルキーチェーンもあってサーバルとジャガーとカバとコツメカワウソがいた。アライグマでもフェネックでもPPPでもないところがニクい。カバさんジャガーさんファンとしても嬉しい。買おうかな。いつ出るのかな。

 野尻抱介さんたちがやってる乗合馬車がジャパリバス化しているのを見つつスタジオジブリの鈴木敏夫さんが巨大なシートに大書をするのを見物に行ったら宮崎駿監督がいた、じゃなくってそっくりな人で前も庵野秀明監督と川上量生会長との対談に来てにらみを利かせていたっけ。とにかく15年くらい前の監督に風貌がそっくりで、見る人が見ても間違える可能性は大。ブースにやって来た鈴木敏夫さんもギョッとしつつ近寄って握手を求めていっしょに写真を撮るっていた。やっぱり宮さんには頭があがらない? そんな鈴木さんが描き上げたのは「となりのトトロ」のまっくろくろすけ(ススワタリ)で、片方の目を楕円にかいてしまってバランスが悪くなったのを、どうにか修正して描き上げた。会場にでっかく飾ってあるんで行って見るのも一興。落款は宮崎駿監督デザイン。もちろんそっくりさんじゃない方。

 そして向かったイベントホールで「超歌舞伎」。去年はあの名曲「千本桜」をテーマにして「今昔饗宴千本桜」を演じて大喝采を浴びただけに、今年はどんなパフォーマンスを見せてくれるのかというのと同時に、NTTがどんなテクノロジーを提供してどれだけの新しい演出を見せてくれるのかって興味が湧いた。スタンドに陣取って見ようとすると席がとれずに後の方になりそうだったんで、あらかじめチケットを買ってアリーナにあたる桟敷席に座って、そして始まった「花街詞合鏡(くるわことばあわせかがみ)」は澤村國矢さんが登場してちょっと過去の話を演じ、それから中村獅童さんが登場して初音ミクとともに口上を述べ、そして始まった物語は半透明のスクリーンに背後から投映して初音ミクを浮かび上がらせる手法は前のまま。ただよりくっきりとして境目とかで色が変わることなくずっと見やすくなっていた。

 モーションだとか表情だとかも長足の進歩で、ネットで見ていた人にはもう人間か初音ミクかなんて関係ないくらいのなまめかしさを感じさせたんじゃなかろーか。あいにくと席が正面ではなくはっきりとは見えなかったけれど、上のモニターに映し出されたニコニコ生放送の様子では、ARでもって演出が足してあってより迫力の舞台になっていた。そして物語は遊郭を舞台に傾城の花魁、初音太夫を取り合う男達の間に持ち上がるバトルへと向かっていってそこでライトセーバーが煌めくは、梯子を使って上に登るわといったさまざまな演出がこらされていた。手から発射したエネルギーボールを映像でもってスクリーンに投映するとかも。まあこれは去年もあったっけ。

 そして注目のイマーシブテレプレゼンス技術 Kirari!を使っての演出は、去年は1人がブースの中に入って正面から撮影されたものを、スクリーン上に3体同時に映し出し、分身の術としていて見せていたのが今年は特定のブースは用意されておらず、中村獅童さんと澤村國矢さんが舞台の左右に離れて立っては、それぞれがカメラで映されつつ人物だけを切り抜かれる形で中央のスクリーンに登場していた。それも近くに寄って戦うような感じで。つまりは舞台上では離れて立って振りをしている2人が、スクリーンの中では近づき戦っているという寸法。あるいは出したスタンドが殴り合うといったところか。ってことは「ジョジョの奇妙な冒険」の舞台なんかにも使えそう? ちょっと観て観たいかも。

 Kirari!については今年のNTTの技術フォーラムで、人物部分だけを切り抜いて転送する技術ってのを見せていた。演者が話している場所は背後に違う人とかがいて物も置いてあったけれど、それがスクリーンでは人物だけが切り抜かれて投映されていた。そんな技術を使った今回の「超歌舞伎」。分身の術がその場で行われていることに気づけたら、結構驚いたんじゃなかろうか。演目については誰もが知る「千本桜」のはじけるような感じとは違い、「吉原ラメント」が最後にかかった場面でちょっと、感情の盛り上げに及んでいなかったところがあってそれを中村獅童だんが頑張って煽っていた。明日の千秋楽も見るけれど、そこまでには終盤にグッと高まるような空気を作って舞台に臨んで来ると思いたい。それをやれる人だから、中村獅童さんて歌舞伎俳優は。

 VR関係もいろいろあって、民進党のブースには「VR蓮舫」なんてものがあって糾弾されるらしいけれど水着写真集を持っているぼくにはそうした責めはただの快楽でいsかなさそうなんで、きっと動揺しないかそれとも好きすぎて動揺するか。あした人がいなければやってみよう。あと超まるなげひろばにあった赤ちゃんの育成シミュレーショができるVRが面白かった。リアルな人形にHTC Viveのコントローラーを仕込みバーチャルだと人間がいるように見せる上に、その顔が自分の顔から生成されたものになっていて、ちょっと自分に似ているかも感を味わえる。そうやって子供への愛情を感じさせ子作りに挑ませ少子化を防ぐ国策VRか? でも相手がいないとどうしようもない。そういうVRはないものか、ってVRでは子作りはできないからなあ。やれやれ。


【4月28日】 最初はお札が出品されてクレジットでの支払いを現金化するために購入されていたけれど、それはさすがに拙いと中止になって次ぎに換金性の高いものがいろいろと出て、パチンコの特殊景品なんてのも出てきたけれどもこれなんてどこの交換所でも交換可能なものでもなし、流動性が低いのに出品されたのはあるいは大喜利のネタだったのかもしれないけれど、やっぱり禁止された次ぎはいったい何が出てくるんだろう。金の延べ板か。それもやっぱり禁止なのかな。

 そういえば1998年ごろ、鳩ヶ谷市にある印刷会社がテレホンカードではもう先がないとイラスト入りのカードに金の板を0・25グラム貼り付けたものを売りだそうとしてたっけ。貴金属店に持っていけばちゃんと時価で取引してもらえるというものだから今の相場だと1200円くらいになるのかもしれない。それに加えた絵柄のプレミア性も乗って需用もあるはずって社長の人はいっていたけど、果たしてどれくらい普及したんだろう。もらったことはなかったなあ。今はテレカの代わりを図書カードが果たしているといったところ。家にもらった分が何枚かあったはずなんで、どこかの貴金属店に持ち込んでみるか。

 アニメの「カブキブ!」はどうにかこうにかメンバーもあつまり歌舞伎同好会として発足してそして教頭先生が持ち込んで来た案件として夏休み中に老人ホームを慰問して歌舞伎を見せることになったという。もうそんなに期間が経ったんだという驚きもあったけれどもその間、座学もあれば芳先輩による発生の訓練もあったんだろう。あとは丹羽花満ことハナちゃんによる踊りの所作なんかの指導も。とはいえ夏の盛りに飛び込んで来た案件に、演出のために走り回って来栖黒悟は大変そう。そして迎えた本番でぶっ倒れたところにさっと入って「三人吉造廓初買」のお坊吉三を演じたのは……。

 というところで以下次回。まあ誰が演じているかは分かっているけど、そこで持てる歌舞伎の資質が少し垣間見えるってところかな。御曹司はまだ合流せず。それは文化祭のあとかその先か。いずれにしても興味はあっても触れる機会のなかった歌舞伎を教えてくれる良いアニメ。原作の小説を読めばもっと詳しく知れるんだろうか。今ならアニメーション版のカバーもついてくることだし揃えてみるかなあ。そうするとアニメの先を見る楽しみが少し減るけど、芳先輩の格好良さと丸ちゃんの意外に大きな胸とか観てるだけでも楽しいから展開を知っていても大丈夫かな。ちょっと考えよう。

 蓮見景夏さんの「アイレスの死書1」(オーバーラップ文庫)が面白い。真犯人が分からないまま未解決に終わった事件の記録が書物「死書」となって存在し、他人に影響を与えて同じ事件を再現させる世界。大図書館という組織があって、そうした「死書」に取り憑かれた人々を探して殺して「死書」を回収していた。担当するのは「史書記」と呼ばれる特殊な能力の持ち主達で、自らに「死書」を取り憑かせてその力を借りて犯罪の再現を行う者たちを狩っていた。同じ憑かれていても犯罪に走るか、力に変えるかは当人たちの心の強さか、あるいは別の何かか。例えば「史書記」のひとりのアリアスは犯罪者の死体が大好きで指を切り取って持参したり、パートナーだった史書記が木っ端微塵の爆破されたその死体を瓶に詰めて持ち歩いている。

 主人公ともいえるレイン・ジークも犯罪者には容赦がなく、対峙すれば爆破し手足を切り落として命を奪うくらいは平気でやる。それでしか取り憑かれた者は倒せないにしても、呵責や躊躇もないその対応こそがある種の意思の強靱さであり、だからこそ「死書」の憎悪に引っ張り込まれない部分でもあり、そして史書記たちの壊れた部分であるともいえそう。そんな史書記にあってなぜか他人を攻撃できず傷つけられもしないライカ・フロインハートという少女が本作のヒロインで、その身に帯びた呪詛のために疎まれながらも「死書」を浄化する聖女としての力であり、とある「死書」に由来する異能が発動さえすれば容赦なく力を振るって相手を屠る史書記としての強い力といったものを持って勤めを果たそうとしている。

 そんな彼女とレインがペアとなって挑む討伐の物語になるかと思いきや、ほぼ同期の史書記たちがひとつ街に集められたところでD・C・アドラーなる人物から送られてきたメッセージに従って7人いる史書記たちがひとり、またひとりと殺されていく。誰が犯人か。メッセージを送れるということから7人のうちにD・C・アドラーがいるに違いない。けれども誰か分からない中で、疑心が暗鬼を生んでレインがD・C・アドラーだと疑われて残った史書記たちに追われる羽目となる。個々の異能をふるってのバトルという楽しさがある一方で、どんな異能を振るえば百戦錬磨の史書記たちを追い詰め殺害できるのか、といった謎がある。

 1人の史書記が身に帯びることができる「死書」は1冊が限度で、それ以上と欲張れば呪詛に冒され身はひからびながらも死ねない体になってしまう。そんなリスクを抱えているだろう人物はいるのか。そこまでして身内ともいえる史書記たちを殺して回る理由は。ライトノベルにあって次々とむごたらしく史書記たちが惨殺されて、ヒロインの身にまで惨劇が襲うといった展開の派手さもあって最後まで何が起こっていて、誰が犯人で、そして理由は何かといった興味を引かれる。その結果は? 生き残っているのは誰? 驚きの結末が待ち受けている上に、これから先、いったいどんな“冒険”が繰り広げられていくのかにも興味が向かう。呪詛をはらって死を与える、あるいは生き延びるといったテーマも残して描かれるだろう続きを、どんな猟奇な犯罪者たちがその「死書」を誰に憑け、どんな犯罪を起こすかも含めて観ていきたい。

 一般人は対象ではないという共謀罪とやらについて法務省の盛山副大臣がけれども嫌疑がかかっている団塊で一般人ではないと言ったとかで、けれども嫌疑がかけられる前の人間は誰もが一般人であって、それを疑うことで調べて嫌疑をかける訳で、つまりは一般人はあまねく嫌疑がかけられ共謀罪の対象となり得るってことじゃないかといった疑問が浮かぶ。トートロジー的というか。そういった無茶を平気で口走ってしまって頭悪いんじゃないのと世間に思わせることすら厭わず通したい法案なのか、それとも頭が悪いからこんな法案が生まれ通ってしまおうとしているのか。難癖じゃなく議論をして論破し叩きつぶして欲しいけれど、平気なんだから平気なんだというトートロジー的答弁をトップからして平気でしていたりするのが今の政権だからなあ。先が思いやられる。

 せっかくのプレミアムフライデーだからと山下達郎。すでに市川で観ているんでセットリストは頭に入っているし、どこに行っても良いお客さんだというのもいつもの事で次ぎに行く大宮でもきっと同じようなことを言うんだろうけれど、それでもやっぱり神奈川県民ホールは長くライブをし続けている会場で、慣れもあるのかリラックスして演奏していた感じだし、伊藤広規さんのベースも市川より切れていたような印象を受けた。まあいつものとおりだっただろうけれど。何を喋り何を歌ったかはこれから行く人のこともあるから詳しくは言わないけれど、やっぱり1980年代から1990年代半ばくらいまでの懐かしい曲が多いなあというのは演奏していて本人も納得の楽曲ってことななろうなあ。新曲が秋に出るみたいなんでそれが次のツアーの定番になるか、ちょっと気にしていこう。


【4月27日】 1週間ではやっぱり行ける日も限られてしまって結局、1回くらいしか観られそうもないキネカ大森での「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」の上映。でもそれでも観れば思い出すあの懐かしさやら嬉しさやら寂しさやら喜びがない交ぜになった感情。いつかまたどこかで上映される時があればそれを味わいに映画館へと足を運ぼう。何度観てもいろいろと思うところがある作品だから。これも以前から言ってはいるけど今回も観て改めて、最後に現代へと帰るユウタを送り出すおばあちゃんが、家の玄関前には出てきてもユウタがトラックに乗って出発するところまでは来なかったことが気になった。お別れなのに。足が悪いといったってそんなに遠くはないのに。

 それはきっとあの家が、現実から地続きの過去であると同時に人間の生死の境目にある中陰に位置する場所に経っている家でそこにユウタは蛍じいによってとりあえず留め置かれてそこでしばしの癒やしを得たものの、現世に戻るとなってそっちに根っこがあるユウタは家を出られたけれど、黄泉津平坂へと連なる中陰にいて世話をする者はそこから出ることができない。だからユウタを送り出してお役御免となって出て行かず、そして顔すらもシルエットになって個性を消したといった解釈を改めて浮かべてみる。事実かどうかは分からないけれど、でもちょっと印象に残るシーンなんでいつか観る機会がある人は、そこに何かを感じて頂けたらこれ幸い。

 贈賞式があった第16回女による女のためのR−18文学賞で大賞と読者賞を受賞した白尾悠さんの「アクロス・ザ・ユニバース」が小説新潮の2017年5月号に掲載されていたんでさっそく読む。なるほど15歳とか18歳とか、進路に直面している世代で未来にいろいろとで希望を抱き、自身にも勉強なりコミュニケーションといった才能があると自認しているけれど、親だの世間だのといったものへの体面があり、そして主に親からのこうしなくてはならないといった抑圧もあって、可能性に反してどこにも行けそうもない絶望感と閉塞感に喘いでいる人にストライクな作品だった。出て行きたいと叫び、やってられるかと暴れたくなるけどそれが出来ない狂おしさが漂いだして、胸が苦しくなった。

 思うのは、人生は親のものでも誰かのものでもなく自分ものものだってことで、誰が何を言おうとも自分がやれそうなこと、自分がやりたいことがあるなら迷わずおもねらないでやってみたって良いってこと。暴力だとか拘束だとかいったものなど多感な世代には重くても、10年経ったら何の価値もなかったと分かる。でもその時に選べる道は狭まっている。今しかないんだから今やるしかない。そのためには戦い退け無理なら逃げ出せと訴えたい。ただやっぱり先立つものはお金ってことで、言い出したくても言えない状況があるんだろうなあ。それは勉強少女も自由なギャルも同じなんだなあと思った。とりあえず死ぬな、生きろと言っておこう。

 選考委員がそろって変態教師が良いと訴えた友近賞を受賞した伊藤万記さん「月と林檎」は、高校で女子野球のピッチャーとして活躍していた少女が故障で元のようには投げられないと分かって治療もあってしばらく野球を離れてる中で出会った美術教師との交流を描いたストーリー。挫折した弱さを癒やして欲しいと縋った相手が、実は弱さに美を見いだす人間だったという意外を悲嘆しつつ、その身を捧げても誰かの美を支えたいという意識の持ち主だったと分かってその行為の凄まじさに戦慄する。聞いて女子高生はどう思っただろうなあ。姉思いの良い先生って思ったかなあ。それはけれども重すぎる思い。自分だったらどう受け止めたかなあ。やっぱり逃げ出したかなあ。その意味ではど変態で、そしてど純粋だった美術教師。場合によっては心臓だて差し出したのかなあ。

 2日で品物がほとんど尽きたもののお渡し会のために全世界から商品がかき集められて、ちょっとばかり持ち直していたかに見えた新宿マルイアネックスの「けものフレンズSHOP」だったけれども、最終日となると仕入れもせずに売れたら売り切りといった感じでアクリルキーホルダーとか缶バッジの類はなく、あって陶製コースターのイワビーと皇帝とフルルとあとゾウとオカピくらい。ほかにマグカップがあってサーバルちゃんのさばんなに立つ姿を使ったジグソーパズルがあったくらいで、これはもう買う物がないと今回は見学だけに留める。「けものフレンズBD付きオフィシャルガイドブック」は1巻2巻とも並んでいたけど既に持っているからこれもパス。それでも立ち寄っていろいろ勝っていく人はいたんで、人気の程は未だ衰えていないとは分かった。テレビ東京の社長も再放送したらと現場に行っているそうで、そうしたところからお金も入って次作への土台も固まれば、またショップ展開もあると思ってその時を待とう。

 そして回った東京ドームで観たポール・マッカートニーのライブ「One On One」は印象として「Out There改2」といった感じて重なっていない楽曲もありながらもトータルの流れとかステージ上の配置とか演出は、前回ツアーを踏襲したものが多かった。背後のディスプレイに映し出される映像なんかは見せ方を変えてはあったけれど、同じ素材をちょっと変えて加工してあるだけのものもあって既視感は否めなかった。最初の出だしで「A Hard Days’s Night」をやったり途中で「Love Me Do」を入れたりと、ビートルズファンにとってはバイブルとも言える作品を演じて嬉しかったに値がない。ただビートルズナンバーは「Out There」でも結構あったし、差し替えてある程度かなあとも思えなくもない。まあそれでも評判の良かったセットリストや演奏が、数年を経てちゃんと引き継がれて再演されたこと、それ自体は良かったんで改2で良かったんじゃなかろーか。

 ポール自身はあんまり着飾らずユニオンジャックが描かれたヘフナーのベースも使わず定番感があって落ち着きのある雰囲気の中を老練ともいえそうなステージ運びを見せてくれた。煽るところは煽り日本語を喋る部分も結構多くして会場が全体に暖まるようなMCで引っ張ってくれた。その意味では優しいライブ。わざわざ来日してくれたってことからも東京ドームなり日本武道館でのライブが今は気に入っているってことなんだろー。それとも「けものフレンズ」を観られるうちに日本にやって来た? それはさすがにないか。前回にも増して両サイドにそびえる縦型のディスプレイも、ミュージシャンたちの背後に置かれたスクリーンのような横長のディスプレイも解像度がめちゃ良くて、家でテレビでBDのライブを観ているようなくっきりさでステージの真正面にあるスタンドに座っていた僕からもよく見えた。映画だって上映できそうなクリアさ。そうした機材が劇場ではない広場などでのライブビューイングを増やしていくきっかけになるのかも。


【4月26日】 書き続けることしかないんだろうなあ、それでしか作家としてはデビューできないしデビューできても作家として続いていけない。1作2作を知名度で出してもらえてもそれでどうにかなる世界ではない。他のバリューが乗っかって作家かもしれない的な存在として命脈は保てても老いて棺を覆われた時に残るのは作品だけ。それがあってはじめて後生に作家だったと認知されるとするならば、新潮社が手掛けている第16回女による女のためのR−18文学賞から登場した新しい2人は今まさに作家となりつつあってそして、長く作家であり続けられる存在のような気がする。

 大賞とそして読者賞も受賞した「アクロス・ザ・ユニバース」を書いた白尾悠さんは過去3年続けて応募してそれなりのところに作品が来ていたそうで、去年は最終選考にも残って選考委員の辻村深月さんに印象を残していたという。そして今年は最終選考前に2作が残っていて、どちらを上げるかで逡巡もあったというからなかなかの才能。そうやって受賞したという2人の女子高生が東京へと行く話は側聞するなら百合とかではなく青春の1ページをしっかり描いたものらしい。残念ながら残らなかった1作は50歳くらいの女性2人の話だそうでいったいどういうジャンルか、ってことすら言うのも難しいくらい、人物造形もしっかりとしてコミカルさも持ったお話を描ける人らしい。

 過去に他の新人賞にも応募し残った経歴もあるとうからなかなかの書き手。そういった作品をかき集めればすぐにでも短編集とか出てきそう。それはどれだけのものなのか。とりあえずは「小説新潮」の2017年5月号に受賞作が掲載されているから読んでみるのが良さそう。そして凄いのは友近賞を「月と林檎」で受賞した伊藤万記さん。何と夜釣十六さんでもあった、って直接は知らないけれども太宰治賞を「楽園」で受賞した人、っていうからどこかで名前は聞いていた。仲間から情報やらアイデアを集めたものをとりまとめて小説にしたのが伊藤さん。そうやって書ける才能を今回は単独でぶつけての受賞となった。いやその前に萩尾望都さんが選考委員をやってるゆきのまち文学賞も受賞しているとか。ライトノベルでは割とある総なめ系を現実にやって来た。

 そんな受賞作の「月と林檎」はどうやら変態ものだそうで三浦しをんさんに友近さんという変態を語らせて一家言を持った2人がそう言うからにはとんでもない変態が登場するんだろう。だからといってギャグでもエロでもグロでもないところがあるらしい。いったいどんな話なんだ。これも「小説新潮」2017年5月号に掲載されているそうだからさっそく読もう。太宰治賞の「楽園」もちょうど単行本が出たけれど、なぜか男性作家のコーナーになった。「小説新潮」2017年5月号の顔出しを視ると立派に女性の作家。だから違うんだけれどそれとも夜釣十六といった集合知になると男性性が前面に出ていたりするのか。そっちもやっぱり読まないと。いずれにしても将来有望な作家の登場。これからの活躍を気にしていこう。

 復興大臣という立場でありながら、東日本大震災の中心地が首都圏ではなく東北で良かったといったことをボロリと行ってしまった今村雅弘衆議院がやっぱり大臣を辞任。発言の直後に挨拶に断った安倍晋三総理が即座に否定しお詫びまでした以上は、閣内に止まることは無理だったって言えるけれどもそうした差配に対して派閥の親分が、「人の頭をたたいて、血を出したっていう話じゃない。言葉の誤解があった場合、いちいち首を取るまで張り切っていかなくてもいいんじゃないか」と言って擁護したというからこれもまた炎上しそう。

 なるほど経済的な損害額として首都圏が震源地にならなかったことは低減には繋がったけれど、だからといって東北で地震が起こって「良い」とこにはつながらない。不幸中の幸いではあってもとてつもない不幸であることには変わりないといった強い意識の表明なくして、経済上の多寡で良い悪いと言ってはやっぱり拙いだろう。そして真意は違うとかいったところでそれを復興大臣という、復興事業のトップにある人が言ってしまったことがやっぱり致命的。たとえ思っても口には絶対に出さないか、誤解されないような言い方を考えるかしていない以上は、真意がどうとか言っても世間には通じないし人間としても通用しない。

 それを当人が分かってないならまだしも、派閥のボスが分かってないのは仲間全体に対して被害が及ぶ。たとえ配下を守ろうとしたのだとしても、そこで見せて良い親分肌ではない。泣いて馬謖を斬るくらいのことをしないと、しめしがつかないと思うんだけれど。現在ただでさえ総理総裁の勢力が一強となっている状況で、多の勢力が自らの権勢を削ぐような真似をし続け、なおいっそうの“一頭”独裁を助長しそう。それを狙って失言予備軍を大臣に就けてはミスを咎めて切り捨て自分は誤り他派閥の勢力を削いでいく、なんて政略はないと思いたいけれど、これでまた総理だけが権勢を高めていくんだろうなあ。やれやれ。

 ちなみに復興大臣がエヴァのネクタイをしていることに、エヴァの絵描きの人が異論をとなえていたけれど、でもどこかの毒カレー事件で犯人とされた人がミキハウスのトレーナーを着て取り沙汰されても、ミキハウスは別に何も言わなかった。大臣だってきっかけはともかく今は好きでそのネクタイを締めているのかもしれない。そうした“ファン”が罪人だから着けてくれるなとうのはちょっと寂しい話。だったら背広のメーカーも靴のメーカーも着けてくれるなというのか。裸でいろというのか。それはそれとして発言はちょっと考えて欲しかった。即物的な言説が多くなりがちなネットって、やっぱり人間の表層がぶわっと浮かび上がるなあ。注意注意。

 えっといつ以来になるんだろう、大平晋也さんが登壇しての新・文芸坐でのオールナイト以来ってことになるかもしれない「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」の劇場での鑑賞は、細部までもうくっきりと覚えていて次ぎにどんな展開があってそこでどんな音楽が鳴るかも完璧に覚えてしまっているのに、そんな筋立てのいちいちに反応してはああこの表情が可愛いなあ、ああこの仕草が切ないなあ、ああこの展開が泣けてしかたが無いなあと思えてしまう。初見での驚きも凄かったけれど繰り返して見て身に染みたその細部へのこだわりと、そこからあふれ出る情感がよりいっそうの共感を誘っているってことになるのかもしれない。

 「この世界の片隅に」も「マイマイ新子と千年の魔法」もそんな作品だし「REDLINE」もタイプは違うけどそうだった。今なら差し詰め「夜は短し歩けよ乙女」あたりか。あのシーンへと繋がるこのシーンを見るにはこのシーンも見ておかなくてはといった連続がある映画がやっぱり好きだし素晴らしく思う。「ねむり姫 〜知らないワタシの物語〜」とか「ものへの手紙」はそこが……。いや嫌いじゃないんだけれど。繰り返し繰り返し見られるし観てみたい、そんなアニメーション映画が今後もいっぱい生まれて来ることを願いつつ、しっかりと覚えられて繰り返し上映されてBDにもなることを望みたい。「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」がデジタルリマスターされてDCP上映なんかされてそれをULTIRAとかTCXの巨大なスクリーンで6・1チャンネルとかの立体音響で包み込まれるように視たいなあ。


【4月25日】 前後の文脈がどうとか言わずこれは即座にアウトを宣告して退場させるべきなんじゃないのか今村復興大臣。ちょっと前に自主避難した人への自己責任を云々してしつこく突っ込まれて切れてしまった姿を見せて、あとになって拙かったと言ったことがあったけれどもあれはまだ相手の執拗な質問に対する苛立ちととられ、世間に納得の雰囲気も起こったりした。でも今回は違う。あの東日本大震災が首都圏ではなく「あっちの方だったから良かった」と言う大失言。どう受け取ろうとも東日本大震災が東北で起こってくれて良かったと言っているに等しい。

 そんな数万人が犠牲になって今な大勢が避難生活を続ける状況を「良かった」と肯定する言動を、撤回したかどうかにかかわらず口にしてしまった時点でもはや人間としての存在を認められなくなるだろう。東北の人にとっては自らにふりかかった不幸を、支えてくれるはずの大臣が「良かった」と言った訳でそんな言葉をいったいどうやって受け止めれば良い? 怒るしかない。嘆くしかない。そう思えば言ってしまった大臣はもうこれは大変なことをしてしまったと即座に辞して山にこもるべきなのに、「まだ及んでいない」とか言って辞任の考えを否定する。及んでないって及びすぎなんだけど。それすら分からない人が復興という人の心を探って支える職務にある。それは無茶だ。だからやっぱりすぐにでもすげ替える必要があるのに安倍総理は……。今回ばかりはかばいきれないとなるのかそれとも。

 リビングとかベッドとかでだらだらと見ている時に映る古舘伊知郎さんのトークだったら何と話に聞き流すことはできても、ラジオ番組に自分から積極的にチャネルを合わせて古舘さんのオールナイトニッポンを聞く層っていったいどんな辺りなんだろう。プロレスファンとかではないだろうし、ニュースステーションというプラットフォームを外れた古舘さんが政治の話をしたってバックボーンはなく影響力もない。だから聞いて溜飲が下がるということもなさそうなのに、そんな番組が存在して聞いている人がいるとするなら同世代が同じおっさんとして世間に対する愚痴を聞き、共感するってことなんだろうなあ。もう還暦から団塊といったあたり。

 それならミュージックステーションに出演した「どうぶつビスケッツ×PPP」に対して批判を繰り出したって不思議は無い。あの世代が神と崇めるタモリさまにぶっ込みいじろうとして袖にされた莫迦者どもといった認識なんだろうけれど、実際にテレビを見ていてそんなに袖にされたといった印象もなく、好々爺然として普通に受け答えをしていたて感じだし、それを見ていた周囲も別にはしゃいでいるとは思わなかったんじゃなかろーか。竹原ピストルさんはレコード会社も同じビクターなら鬱陶しいとは思わないだろう。けれども古舘さんはそんな竹原さんを持ち上げる引き合いに、「どうぶつビスケッツ×PPP」を出して下げてみせた。やり口としてどうにもこうにも俗っぽい。

 自分が推したいアーティストを持ち上げるにはそれが唯一絶対でなくてはならず、だとしたら周囲にいた誰かを貶めるしかないとして、いっしょにいた若い人たちを下げたといった論法は、そこの一抹の真実があれば通用することもあるけれど今回はまるで事実と違った状況を勝手に組み立て繰り出しては誹謗に近い言葉をぶつけてしまった。ただでさえ話題の作品でそこに出演している人たちだけにすぐさま検証も入って違うと見抜かれた。そんな可能性にもはや想像も及ばないんだろうなあ、自分が言いさえすれば真実になるという驕慢。それが権力に向かわず弱者に向かってしまったこともどこかうら寂しさを感じる。そんなユニットの中心にいる声優さんが、古舘さんにとって因縁あさからぬ新日本プロレスリングと実は同じグループに所属しているってのも皮肉というかユニークというか。それすらも分からないくらいに離れてしまっているんだろうなあ、世間からも業界からも。やれやれ。

 「食べないでくださーい」「食べちゃうよー」ってな感じのやりとりが見えた気がした渋谷ヒカリエで26日から始まる恐竜ショー「DINOSAUR LIVE『DINO SAFARI』」のゲネプロの一幕。前にテーマパークEXPOで見たことがある、着ぐるみなんだけれどメカニカルな仕掛けがはいっていて人が巨大な恐竜を中から操作し自在に動かし生きているように見せかけるという、ON−ARTが開発した恐竜メカニカルスーツがさらに進化してゴールデンウィークの渋谷に登場。巨大なティラノサウルスとかトリケラトプスが登場しては闊歩し走り回って吠えて噛みつくど派手なショーは、子供だったら恐怖に震えそうだし大人でも映画「ジュラシックパーク」を思い出して映画に入った気分、あるいはタイムマシンで過去へと飛んだ気分にさせられる。

 本当によく動いて着ぐるみ感はまるでなし。8メートルあるティラノサウルスでも40キロないそうで、それでも1人が中に入って操作をして動かしているから大変は大変だけれど、そんなメカニカルとか素材の工夫が恐竜をあたかも生きているかのように見せてくれる。本物の恐竜なんて人類の誰ひとりとして見たことあんてないのに、気がつくとそれが恐竜でありそれこそが恐竜なんだといった気にさせられる。本物の恐竜が見たらどう思うかは不明だけれど。50分ほどのショーだけれど迫力はたっぷりで勉強にもなって面白いイベント。後方の座席に腰掛けるよりはフロアに敷かれた芝生の上に車座になって、歩いてくる恐竜を下から見上げるように待ち受けるのが良いだろー。噛みついてきたって大丈夫。牙はあれえ柔らかくって気持ち良いから。本当だってば。

 そして届いた「けものフレンズ BD付オフィシャルガイドブック2」ではインタビューに美術監督の白水優子さんが登場しては例の第4話「さばくちほー」に登場したスナネコが、飼育員の解説のバックで登場している時に床にカバンちゃんとかサーバルちゃんとかジャパリバスとかボスとかの落書きをして寝ている場面で白水さんが絵を描き足したってことが明かされていた。あれがあったからこそ熱しやすくて冷めやすいスナネコでも、カバンちゃんたちとの出会いはとっても心に残って思い出になったんだって感じられ、そんなつながりがさらなる繋がりを読んで広がり世界を包み込んでいく優しさってのが感じられて、作品をいっそう好きになった。それを監督ではなく美術の人が、そう思って付け足して監督もオッケーを出す。少人数がライブ感を持ちつつ意識を共有しながら作り上げた作品だから出来たんだろうなあ。

 これがきっちりと分業されていると直そうにも動かず設定だって起こし直さなくちゃいけない。忙しい中を大人数が少しずつ分担をして作り上げていくアニメーションが普通になっている中で、少人数がそれなりのクオリティを保ちつつ、物語世界を考えどう見せるかってことを話しあいながら作っていけたことが「けものフレンズ」という作品を、あそこまで奥深くて広がりも大きな作品にしたんだろう。驚くことに作画監督の伊佐佳久さんとかは京都にあるゲーム会社ってことはつまりあそこかな、それを辞めてまで「けものフレンズ」作りに携わってくれたとか。白水さんも同様。同じ京都の美術系大学を出たチームがそろって作り、今なおirodoriメンバーとして揃っているなら同じクオリティ、より以上のクオリティで次を作ってくれそう。期待して待とう。そのために応援し続けよう。


【4月24日】 そしてやっぱりエスカベイト社では娘のクレア・ホウジョウを除いた面々がそろってエバートランサーだってことが判明した「ID−0」。それが事故によるものか別の理由によるものかは分からないけれど、法律的にはヤバいらしそんな状態に置かれてお尋ね者にならずに会社を運営していられるのは社長のグレイマンが過去にそれなりに軍の重鎮か何かだったってことがあるのかな。あとはそれぞれが一騎当千の強者でちょっとした法律違反なんかは簡単にくぐり抜けられるだけの技の持ち主だという。

 そんな面々の中に飛びこんでくる形になった、ミクリ・マヤに続く惑星連盟軍のアマンザ・ボルチコワ中尉はなかなかな肉体を誇っているけどそれで靡く肉体の持ち主もいないところが残念なすれ違いというか。あのI−MACHINEの大きさではいくらグラマーでも人間相手に何かできるとは思えないし。それとも仮想空間でいろいろ接触とか可能なのかな。いちおうはイドを除いて自分のアバターは用意してたみたいだし、それが仮想空間で別のアバターと接触を持てるかどうか、ってあたりが気になってきた。ともあれメンバーがまた加わってエスカベイト社はどこへ向かう? そして仮面の男の正体は? オリジナルなだけに先が読めないのが良い。追い続けよう最終回まで。

 そして目覚めると「けものフレンズ」が新しくゲームになることがブシロードから発表されていて、NEXONから出ていたゲームの復活ではなく新しいゲームだそうで最初のを思い続けるファンにはちょっと残念だけれどアニメーションから入ってきた人にはその雰囲気を引き継いだゲームが出てくることを歓迎しそう。ブシロードだけにカードゲーム的なものになるんだろうか、「Chaos TCG」のブースターパックとしての「けものフレンズ」はイラストも説明もなかなか微に入り細を穿っていて、読んでいるだけでのあの世界が思い出されるのだった。それだけの“編集能力”で作られるゲームなら面白いものになるとは思うけれども、果たして。

 そしてもうひとつ、こっちはネルケプランニングから「けものフレンズ」が舞台になるって発表があってサーバルちゃんの尾崎由香さんを始め「どうぶつビスケッツ」とそれからペンギンアイドル「PPP」のメンバーが声も一緒に登場することになるとか。あとオカピの出演も決まっていたけどカバンちゃんは見えず。内田彩さんは人気者だからやっぱりここは登場しないまま、まだ平穏だった「ジャパリパーク」でそれぞれが日常を送るなかで出会ったり助け合ったりするストーリーになるのかな。まあこれもアニメーションとは似て非なるパラレルワールド的なものとして受け止めよう。アニメにあったSF的な奥深さを期待するカテゴリーでもないし。

 だからやっぱり欲しい小説化。スピンオフ的なものよりはまずはしっかりとあの世界の前提なんかも踏まえつつ言葉によってじっくりと構造を明らかにしていくようなハードSF的ストーリーを読んでみたい気がする。もちろん表層の楽しげな雰囲気も取りこぼさずに、ってことになるといったい誰が書くのが適任なんだろう。「正解するカド」の脚本なんてもうきっと書き上げているだろう野崎まどさんが書いたら、「ファンタジスタドール イヴ」みたいに楽しさの背後にある細かくて重厚な設定を前史的なものも含めて描いてくれそうだけれど、途中で人類のその後を描くディストピアハードSFになりそうでちょっと怖い。でも読みたい。本当の適任は誰かを考えるのも面白いかも。「かめくん」の北野勇作さんとか、ニコニコ超会議2017でジャパリバスを走らせる野尻抱介さんとか。飛浩隆さん冲方丁さんも良いなあ。頑張れ角川。あるいはハヤカワ。

 せっかくだからと新宿マルイアネックスへと回って「けものフレンズSHOP」を見物。初日に行ったから夕方でもまだそれなりに品物はあったけれど、その後にぐわっと減って空っぽになった棚を埋めようと雑誌が来てブロマイドも並んだ上にジグソーパズルとかノートとか新製品も加わって、まあそれなりに買う物はあった。ケロリン桶とか。キタキツネはなくギンギツネだけだったけれども1つ所望し、フォーチュン缶バッジとノートとシロサイのアクリルキーホルダーを買って3000円ちょいで福引きも回して参加賞めいたしおりを1枚。今度はコウテイペンギンだった。ペンギンが5人であとはサーバルフェネックアライグマにカバンちゃんだとペンギンの出る率が高いなあ。まあ良い嫌いじゃないから。期間中にあと1度くらい行けたら良いかな。

 「テラフォーマーズ」のノベライズも一段落したのか藤原健市さんが新しくダッシュエックス文庫で「ノウ無し転生王の双界制覇」を刊行。とてつもない魔法の力と知識を持ちながらも魔力を貯める機能を失い知識だけは残ったものの魔法使いとしては役立たずの黒陽錬。ただその際にお姫さまを助けたこともあって3年後、新しくできた魔法の学校に入学を許され通い始めたものの基本、魔力が1では役立たずと思われ小馬鹿にされる。そこで魔法の知識を活かしてちょっかいを書けてきた陰陽師あがりの少年の攻撃を退けたものの、魔力は尽きて続く攻撃には耐えられそうになかった、そんあ時。3年前に助けたお姫さまが出現して聖騎士になったと言って黒陽錬を守る。

 しばらく前に世界が別世界とつながり、そこにある魔法の発達したブリタニアから来たお姫さまが助けられた恩義を感じて黒陽錬を婿に迎えると大宣言。そして始まった同じ学校での生活で、助けようとしつつお姫さまを暗殺しようとする動きから黒陽錬と、彼の中にいるある存在とが連携しつつ守って言ったりするストーリー。王家における継承権争いの凄まじさって奴を突きつけられる。そんな2人の物語に絡むのが、なぜか女子なのに男子寮に入って黒陽錬と同じ暮らすになった江井紫苑音や黒陽錬を昔から知っているらしい千羽アリス亞梨子ほか。300年は生きているのに童女の姿をした学園長とかも含めて女子ばかりってのがいかにもって感じ。

 とりわけ紫音は女子バレする展開をすっ飛ばしていきなり裸を見せつつ学園長の了解はもらっているから黙っていてねと頼み、魔法莫迦で女子にドギマギとかしない黒陽錬もそのままスルー。お約束とかすっ飛ばしつつ、お姫さまを狙うテロと対峙しつつ黒陽錬の最弱無双が幕を開ける。「魔法科高校の劣等生」の司波達也みたく魔法の力は弱くても知識と発動の工夫などで補っているあたりの格好良さには惹かれるし、それを自慢せず魔法の知識の探求にだけ邁進する朴念仁ぶりも面白い。お姫さまの積極的アプローチと、そして新たに与えられた公爵の地位、さらには実質第2位の継承権とかにも興味を示さないでいたとして、周囲は放ってはおかないだろうそんな状況で次ぎはどんな魔手が伸びるのか。それをどうかわすのか。面白いので続いて欲しい。

 どことは言わないけれどすごい新聞。他の新聞が直接は関連付けず慎重に報じた空港からの現金持ち出しの件を、前日の現金強奪と直接絡めて韓国人の犯行扱いする見出しで1面トップで報じるという、現時点では誤報とも言えることを堂々とやっておいてその後に無関係だってことが色濃くなってきたにも関わらず、訂正するどころか今度は1面下のコラムでもって「4人の韓国人が福岡空港から国外に持ち出そうとした7億3千万円は、事件とは無関係なのだろうか」と書いてのける。だからとりあえず無関係だって帯封の違いも含めて取り沙汰されているじゃないか。謝れないのってネットの中にいる人たちだけじゃないんだなあ。メンタリティは似てるけど。っていうか韓国人ではなく米国人が持ち出して捕まって果たして1面トップで報じ今も報じ続けるか、ってあたりも含めて意識に潜む感情が漏れ出しているのも厄介。それを認めず自覚もしないで条件反射でやってなおかつ追い打ちもかける人たちが、筆を握っているうちはジリ貧も避けられないだろうなあ。やれやれ。


【4月23日】 現れた平和島静雄……じゃなくて弥勒寺優夜がその物語のラスボスであって主人公ではないってあたりに、「Re:CREATORS」の設定を考えた広江礼威さんの思惑ってのが感じられた第3話「平凡にして非凡なる日常」。正義感に溢れたヒーローにヒロインばかりが顕現をしてマスターを得て戦うような展開では何が正義かが問われるところを、ラスボスを引っ張ってきて世界に対して斜めからの見方を与えてそこで物語世界から顕現した者たちは決してヒーローでもヒロインでもない異物で、どうやって居場所を得つつ何をすべきかを己に問い直させるきっかけを与えている。自分は正義だと信じ切って物語世界でもないのに暴走する輩ほど厄介な存在はないから。魔法少女の煌樹まみかみたいに。

 彼女の場合はそのヒロインとしての属性であり正義感から軍服の姫君なる未だ立場も目的も分からない存在に靡いているようだけれど、そうやってしでかした結果が現実的な大破壊。それで捜索されて捕縛されないあたりにいったい日本の警察は何をしているんだと思わなくもないけれど、それもまたひとつの物語世界の出来事ってことで都合がしっかり回っているんだろう。あとセレジアが登場する物語を書いた松原崇が原作を少し書き足して、そこにまりねがイラストを添えて少しばかり設定を改編しても顕現したセレジアにはまるで影響が出なかった。

 となると創造主とはこの場合、原作者やイラストレーターではなくそれを受け取って楽しんだユーザーなのかもしれない。その能力で顕現をした面々はだから、誰が召喚したかを探っていくことになるのかな。そんな辺りが展開に広がりを与えていろいろと想像させる。セレジアは誰が読んだのか。まみかの創造主は。ってところで気になる第1話冒頭で線路に飛びこんだ少女。その妄想がまとめて顕現した? ってことになると魔法少女も姫騎士も悪漢のラスボスも全部しっかり遊んでたってことになるけれど、そんなにジャンルが手広そうなキャラでもなかったし……。いろいろと気になる展開。ちょっとした描写もしっかり伏線と数えて追っていくのが良さそう。今期でやっぱりこれがトップか。「ID−0」に軍配があがるか。「正解するカド」もあるしなあ。何て豊富な春アニメ。「けものフレンズ」が終わってもこんなに楽しめるアニメってすっごーい!

 北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれないってんで、首相官邸がそんな時は地下とか建物の中に批難するか、物陰に隠れて地面に伏せて頭を隠しすか窓から離れるかしなさいって言っているけど、ミサイル発射から着弾までそれほど時間もない中で、発射された情報を日本政府がつかめなかったら、いくら警報を出したところでその時にはもう着弾してるって可能性の方が高いし、そうやって飛んできたミサイルが核弾頭だったり毒ガスでもまき散らしたりした日には地下に批難しようが道路に伏せようがまるで効果が無い。「この世界の片隅に」ですずさんが教わっていた、焼夷弾の消し止め方とか時限爆弾の可能性とかの方が当時においてよっぽど科学的で為になったんじゃんなかろうか。

 だから政府がすべきことは、しっかりと確実に発射情報を得ては迅速に伝える大勢を整えること、そして批難可能な地下施設の整備なんかを進めることで、それなくして手にした竹槍で撃ち落とせというに等しい役立たずの避難方法を布告したって意味はない。さらに言うならミサイルがどうやっても発射されないシチュエーションを外交によって作り出すことが題字だろー。話し合いによって何がネックになっていてそれをどうやって解消へと導くか、ってことでそれが恫喝に屈することになるならそんな恫喝をさせな状況にその国を持っていくために、地道に動いていくことが肝要。それを平和ボケっていうなら、ミサイル発射の可能性に言及するのは、今の準備もされていない状態での戦争が何をもたらすかをまるで想像してない戦争ボケの言。どっちもどっちとはいわずに、最前とは何かを探り探求していくことでしか、「この世界の片隅に」に描かれたようは悲惨は防げない。ってことをあの映画から学んだはずなのに、人間は本当に懲りないなあ。それが人間なのかなあ。

 八薙玉造さんの新シリーズ「魔法使いは終わらない 傭兵団ミストルティン−七人の魔法使い」(ダッシュエックス文庫)が面白い。かつて全盛だった魔法だけれど、銃器が広まり大量に揃えて撃てば爆裂魔法のめぐみんだって弾を避けられずに穴だらけにされる時代が到来し、魔法で栄えた公国も滅亡する。そんな公国の姫で爆裂……じゃない火の魔法を使えるリオだけが生き延び反抗するもジリ貧。そこに現れたシャノンという男がリオを傭兵団に引き入れようと画策。やがてリオの故国だった場所を攻めようとする大軍勢と対峙する。

 リオが姫で正義に真っ直ぐだけれど敵は容赦なく、炎で焼き滅ぼすところが鉄球姫級の猛々しさ。シャノンの言うことはとりあえず信じているか信じ込むことにしているようで、実は騙されていて利用されているだけなのかもしれないと感じていても、味方するに値すると感じた以上は逃げず怒らずに共に戦う柔軟さも持っている。あまりないヒロイン造形。決してダクネスみたいにアホの子ではなく、信念を持って愚直を貫いているあたりに目新しさを感じる。ほかに氷を扱う魔法使い、鉄に強度を与えられる魔法使いが前線にリオ姫とシャノンと前線に立ち天候を操ったり癒やしを与えたりする魔法使いもいる傭兵団が、クライマックスで2万5000人とかいう大軍にリオら4人で対峙する会戦が圧巻。どうなってしまうかって興味を誘われる。

 そんな中でシャノンは知恵を巡らせ戦術を組み立て、魔法使いの能力をうまく組み合わせることでどうにか序盤戦を耐えては相手を本気にさせること成功する。そうやって敵を誘いつつ、本当だったら逃げる気満々だった雇い主すら戦場へと引きずり戻して、圧倒的な勝利へと向かっていくところにシャノンの軍師的才能を観る。でも魔法使いかは未だ不明でその出自にも大いに秘密がありそう。たぶんとっても高貴だった家柄で、そして父母や兄弟姉妹を殺され、復讐に内心を滾らせるといった感じ。そんなシャノンと、純粋で強いリオとがいつまで組んでいけるのか。政略的に興亡が確定してる情勢を数人の魔法使いが戦術の積み重ねで逆転できるのか。結果も含めて先が気になる。完結まで続いてと願おう。

 ううん。沖縄で売れている2紙に内容的に対抗する新聞を違う島から本当へと持ってきたっていう、自分が編集局長を務めている新聞の完全に宣伝でしかない上に、ライバル紙を批判だけする一方的なコラムを夕刊紙に掲載しただけでなく、一般紙の看板背負ったサイトに記事として堂々載せてしまえる神経がいかにもというか。まあそれはそれとして、気になるのがとあるサイエンスがハッピーな例のあれの影響が媒体にジワジワと浸透してきているってことか。ハッピーにサイエンティフィックな例のあれの影響がじわじわと広がってたりする。そんな空気。

 この本島に持ってきたって新聞も近いって言われているし、掲載した全国紙が持ち上げている若い女性の活動家なんかも関わりが取りざたされている。アメリカで吠えている親父とか、それを支える日本の団体とかも同様。フランスのアングレームで開かれている漫画のイベントに出ようとした集団もそうだったりして、それが拒絶されてもめた時に憤り応援したのもここん家だった。そこまでベッタリなのが思想的に近いからなのか、金銭的に潤うからなのかは不明だけれど、不偏不党とか中立公正といったキーワードなんてどこ吹く風、公器だ木鐸だなんて何それ美味しいの的スタンスを貫いていつまで社会が許すのか。そこがちょと気になるなあ。来年は迎えられるかなあ。

 20代の櫻子さんが40歳の観月ありささんになっていて、高校生の正太郎少年が26歳の大学院卒業生という設定になっていたりする状況にヤバさは感じていたけれど、それなりに凜として傍若無人で才能はあって明晰な櫻子さんという骨格標本師の役を演じて観月ありささんにそんなに違和感はなく、高校生だった正太郎が大人になってそれでいて子供の気分を脱しきれないガキになっていても高校生の正太郎が見せていた愚直さめいたものは残っていたんでそういう意味で、オトナバージョンの「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」としてドラマ版を受け入れることはできた。

 原作はアニメのように舞台が北海道ではなく警視庁の管轄下なのに狐の死体が見つけられる森があるとか、そこに誰も入り込まないまま半年が経って白骨死体が発見されるとか、あり得なさげではあってもまあ架空の東京なんだろう思えばそれで理解できないこともない。ただ正太郎を櫻子さんが正太郎とは呼ばずひたすら少年と言い続けるのって、櫻子さんの死んだ弟のことが理由にあったんじゃなかったっけ。そうした人格に関わる設定に関わるところは原作やそのファンに正直ではないし、違うストーリーへと仕立て上げるのもどこか正直さにはかける。

 それでもまあ作られた物語はミステリっぽかったし見ていて飽きることもなかったんでドラマ化としてはまあ合格。企画しキャスティングも含め決めたテレビ局とプロデューサーは誹っても、出演者とスタッフはあんまり悪く言いたくないなあ。結局のところ誰を出すかに縛られそれがどう見せるかに関わってくるテレビドラマの企画段階のあれこれが、こういう怪物めいた作品を生み出してしまうんだろうなあ。そこをどうにかしないとずっと変わらないまま沈滞していくんだろうなあ。やれやれ。


【4月22日】 出会ったと思ったら相手が勝手に人間の形になってそれから頭脳をひっかき回すようにして知識を得て戻して一気に意思疎通を進めてしまった「正解するカド」は、相手が意思疎通の可能な存在かどうかも分からない中で知的生命体であると仮定し、それならどういったコミュニケーションが可能かを探るところから始めるファーストコンタクトシミュレーションとは段階が全然違ってる。だから果たしてファーストコンタクトものと呼んで良いのか迷うところではあったりする。

 けれどもそこは、大学の演劇界に突如スターが現れたと見せかけて、そこで全てを滅ぼしまったく違う話へと持っていって、人類の進化の可能性を伺わせた「2」を書いた野崎まどさんが脚本を手掛けている作品。それが本当に意思の疎通を行っているのか、もっと別の意図があって人間に近いインターフェイスをとりあえず起きつつ、その根底にある考え方は人間とはまるで違ってて理解不能で、意思の疎通なんて図られていなかったなんて展開も待ってたりするのかも知れない。コンタクトしているようでお互いが鏡に向かって躍っているだけだという。だから良いように進んでるように見えるけど、肝心なところで何も通じず大変な事態に陥るという。果たして実際は? 観続けるしかないなあ。

 SFマガジンで15年以上、ライトノベルの紹介をしていたってSF界隈から特に存在を認知されている訳でもないんで、今回の日本SF作家クラブの一般社団法人化が会員の人たちにとってどういう意味を持つかも、周囲の人たちにとってどういった影響があるのかもまるで想像はつかないけれど、営利事業がやりやすくなるってことはありそうで、それで歴代会長のブロマイドとか作って売り出したりするかもなあ、なんて思ったけれど売れ線は新井素子会長くらいだろうから商売としては厳しそう。

 クラブのサイトに掲載されている作品をまとめてアンソロジーとして出す、ってこともありだけれど電子版ならまだしも紙版だとコストもかかるし、出してくれそうな版元との相談もありそうでやっぱり大もうけにはほど遠い。自費出版では儲からないし。まあそれで儲けずとも会員の会費とかでまかないつつ日本SF大賞のよーなイベントを実行しつつ、法人として対等な関係になった法人から協賛金をもらいやすくなる、って効果はあるのかもしれない。あとは健康保険か。

 日本推理作家協会が参加している文芸美術国民健康保険に団体として加盟できれば魅力ある組織ってことで会員も増えて会費も潤い運営も盛り上がる、ってところでだったら一般社団法人となって会員は増えるのかってあたりがひとつの注目点か。親睦団体として全員一致、とは最近はいかなくても憲法改正なみの率で賛成があって初めて入会が認められるといった状況が変わって、理事の裁可と一部会員の推薦で加入できるとなれば違ったベクトルで可否が決まることはなくなるだろう。問題はだから理事に誰がなるかってことで、会長の一存では決まらないそのポジションをめぐってもうひと山、解決すべき事態が起こるのかな。どっちにしたって遠い世界の話なんでひとまずは成り行きを見ていこう。

 目も覚めたんで鷲宮神社よりは近いと電車を乗り継いで東武動物公園へ。いつもは通過するその駅を降りて西口からさて歩こうかと思ったらちょうどバスが止まっていたんでそれに乗って一直線、東武動物公園へとたどり着いてそこでちょっとだけ並んで切符を買って、すでにオープンしていた園内へと入る。動物がいない。まあそこは公園でもあってアトラクションが幾つかあって動物園はその先で、てくてくと歩いて観覧車の下をくぐって見えてきたのがまずはフラミンゴ。そしてしっかりとフラミンゴのフレンズが。そんな感じにそこかしこの動物を見せるケージに「けものフレンズ」のフレンズたちのパネルが置いてあったり立ててあったり貼ってあったりして、それらを探して回るだけで結構な時間が過ぎてしまった。

 朝1番で来た人たちは、動物とフレンズとのコラボレーション缶バッジが目当てらしくてそれに行列をしていて、こっちもそのまま並べば1つ2つは買えたけれども並んで時間を潰すのも勿体ないんで遠慮して、カバを見てヒグマを見てショウジョウトキを見てといった具合にあちらこちらのケージを回って動物とフレンズをいっしょに見ていく。ああいった場所にいわゆる萌え擬人化されたキャラクターが貼られているのって傍目にはどうかっていった声も出そうだけれど、そこは「ケロロ軍曹」で馴らした吉崎観音さんだけあって、動物の特長をとらえつつエロくならず可愛らしい範疇に治めたデザインが本物の動物とマッチして、良い雰囲気を作りだしていた。あれなら親子連れの母親が見ても眉をひそめることはないだろー。ちょっとエロいカバはずっと奥に置かれていたし、ってそういう理由があったかは知らない。

 さばんなちほーめいた場所に行くとシロサイがいたけどフレンズは元気でも本物はずっと横になって寝ていて起きてくれなかった。キリンはやっぱり大きいなあ。あとシマウマ。フレンズが草むらにいたけれども立っているフレンズは縞が縦ではなく横になるから建ちならぶ草との保護色にはならないという。いやそういう問題でもないけれどもちょっと目立ってた。サバンナの王ともいえるライオンは別にいてそこで群れを作ってた。フレンズは女子なんだけれどたてがみとかあるのは雄ライオンで、その特長を踏まえているってことはフレンズは元雄なのかどうなのか。ご近所にはあとチーターもいたけどジャガーはいなかった。ちょっと残念。

 飼育員のおにいさんおねえさんによる解説もあったみたいで、せっかくだからとコツメカワウソのコーナーに登壇したくどうおねえさんを遠巻きにして解説を聴講。というかぐるりと囲んで大勢の人が来ていて近寄れなかったのが実際で、その賑わいに改めて作品がもたらした人気の程を知る。東武動物公園の動物の解説が行われることがたぶん稀なら、こうやって大勢がつめかけケージを取り囲むってことも稀。そうしたマッチングを3カ月放送されただけのアニメーションが作り上げてしまったことに改めて「けものフレンズ」という作品の広がりを感じた次第。そして3カ月あれば歴史は作れるんだということも。妥協せず惰性にならず面白いものを作り続ける意味をこれで大勢が感じてくれたら、テンプレートの繰り返しみたいなアニメばかりが続くってこともなくなるかな、いやまあテンプレものは見ていて安心できるから嫌いじゃないんだけれど。


【4月21日】 たつき監督ほか、スタッフが登場して「けものフレンズ」について語る「フレンズの会」というイベントが4月29日にあるそうで、その日は幕張メッセで「ニコニコ超会議2017」が開幕していろいろと取材もしなくちゃいけないし、記事も書くだろうから夜8時からとはいえ行くのは大変そうと思い、予約サイトを横目で見つつもそれでも押さえておくかと正午のスタート時間になって尋ねたら予約開始が始まっていなかった。どうも準備が整わず後刻スタートとなったらしく、それならと手を休めてしばらくしてアクセスしたらいきなり予約が始まっていて、取ろうとしたけど抑えられずにどうやら完売。人気の程を改めて感じ取る。

 ところがその開始は違ってて、本当は午後2時からのスタートってことで仕切り直すのかなあと思いながら午後2時過ぎにまたアクセスしたら、どうも完売の状態が続いていたようで誰もそこでは購入できなかったって印象。システムを運営していた側に不手際があったっぽいけれども真相は不明だけれども、現状としてさっそく転売されるチケットが大量に出て、それこそ劇場の座席数の半分近くとかが売りにだされている状況にこれはちょっと拙いなあと不安に駆られた。

 いつか開かれたサイエンスホールでのイベントもそんな感じに転売勢に買い占められて当日に空席が出たという。抽選ですら起こりえたことが今回は先着で、なおかつ10席まで購入可能とか無茶な設定もあって即座に買い占められた感じ。さすがに運営もこれは拙いと見て善後策を考えているようだけれど、普通に買ってしまった人もいる訳でノーカウントにはできないだろう。どうするんだろう。ライブビューイングをやるか。回数を増やすか。いずれにしても様子をみていこう。どっちいしたって今回は超会議優先。いっそ海上に設置された「さばんなちほー」で寝転がりながら見られるようにしてくれた。夜遅いからそれも無理かなあ。

 呼ばれる身でもないんで純粋にお仕事として記事にするために第37回日本SF大賞の贈賞式へ。今回はSFマンガの「WOMBS」で「天顕祭」の白井弓子さんた大賞を受容し、特別賞は「シン・ゴジラ」で庵野秀明総監督、樋口真嗣監督、尾上克カ准監督が受賞とメディア芸術系ばかりが登場。小説どうした、って意見もあるけれどもこれだけ真正面から奥深くSFをやられてしまっては活字SFとてちょっと及ばない。当然至極の受賞と言えるだろう。

 そんな受賞作ではやっぱり凄まじい作品と言えそうな「WOMBS」は、異星を舞台に新たな移植者から居住地を守るため、女性たちが子宮に人間とは違う生き物の体組織を宿らせ、空間を飛び越える能力を手に入れて戦うといった凄絶無比な設定で、選考委員の高野史緒さんに「戦争と妊婦という、対極にあるものをSFならではの発想で結びつけてしまった。こんな大ネタがまだ世の中に存在したのかと驚いた。それを最後までまっとうしたのも凄かった」と言わしめた。単純に着想の素晴らしさだけでなく、それを物語として最後まで描ききったことが評価されたって言えるかも。そうした作品を雑誌連載がなくなっても支え刊行させた小学館も素晴らしい。

 そして登壇した白井弓子さん、「私が最初に衝撃を受けたSF漫画が光瀬龍先生原作、萩尾望都先生作画の『百億の昼と千億の夜』でした。恐ろしい時間の流れと足下から地面がなくなってしまうような孤独感、スケール感の中に放り出されたような気持ちは忘れられません」と挨拶して、今のように素晴らしいSF漫画を描くようになったきっかけが、第27回日本SF大賞を受賞した萩尾望都さんにあったことを訴えた。「その読書体験をスタートとして長い時間をかけてやっと紡ぎ出せた自分の作品『WOMBS』で先生と同じ賞を頂けた。本当に光栄に思います」とも。憧れの人と同じ舞台に立って同じ賞をもらえる。これはやっぱり嬉しいだろうなあ。会場に萩尾さんが来られていればなお良かったけれど。

 白井さんが僕とは2歳くらいしか違わず子供もおられるってことを知ってちょっと驚いたけれど、漫画としてのSFの重厚さを感じ取ってそれを表現しているあたりに同じ世代として同じような萩尾望都さんや竹宮恵子さん山岸涼子さん山田ミネコさんといった辺りを読んできた雰囲気を感じられた。とはいえ妊婦がバケモノの子をはらんでそれへの憎悪を抱きながら戦っていくという展開は、子供が読んだらお母さん何描いているんだろうって驚いたかもしれない。自分たちにたいする愛情よりも、もしかしたら憎しみの方がまさってて、利用するだけ利用していつか放り出そうと思ってたんだ、なんて感じ取られたら親としても立つ瀬が無いし、子としても生きていて良いんだろうかと悩みそう。

 それについて白井さんは「子供たちがどういう気分でいるかは私には分かりません。ただ、私の心も体も子宮もあなたたちが幸せになるためのものです」と話してくれた。これは異生物を邪険にしがちな内容の奥にある、宿した者への情動めいたものを感じてねって事なのかな。怪物は怪物じゃないしそれを愛する気持ちは間違っていない。そんな結末があったからこそ読み終えて人間の非道ではなく踏み間違えた申し訳なさと、そこからの快復を願う心根の優しさを感じ取れたと言えそう。そんな白井さん、近作では「ミステリーボニータ」で「機械仕掛けの神話」シリーズを執筆中。最初の「イワとニキの新婚旅行」では、異星を舞台に王子が安定した統治のため、慣習に従って醜い巨人を妻にめとって新婚旅行に出かけるというという、不思議な設定のストーリーを読ませてくれた。最新作はなぜか兵馬俑が登場。いろいろ描ける人なんだなあ。これからも読んで行こう。いつか大長編をまた描いてくれると期待しつつ。

 特別賞の「シン・ゴジラ」からは樋口真嗣監督が登壇。これまで日本アカデミー賞最優秀作品賞やメディア芸術祭エンターテインメント部門大賞なんかを受賞して、受賞慣れしていると思いたくもなるけれどもそこはSF好きにとっては神様たちが集う日本SF作家クラブの主催する文学賞。「映画関係者が多くてリラックスできる場ではなく、読者として先生とお慕いしている人たちばかりでアウェイ感がある」って感じに恐縮した表情を見せてくれた。

 そんな樋口監督、「『シン・ゴジラ』は作っている間、SFのふた文字をまったく意識しませんでした」とも。それでよくまああれだけのSFになったと思うけれども、そこは怪獣が現われた東京という仮構を、徹底して突きつめ不完全なら書かない態度で臨んだことで、仮構ながらもリアリティを持った世界が描写できたからだろう。空想して科学するのあSFならそれを地で行ったとも。だから特別賞であっても日本SF大賞は当然ってことで。そんな贈賞式を庵野秀明総監督やっぱり欠席。SFはホームだと思うけれどもやっぱりある種のポリシーか。まあ贈賞式に振り回されるより、じっくりと次の作品に時間を使って欲しいからファンとしてはこれで良いのだ。

 やれやれ。とある全国紙を標榜する新聞の4月21日付1面トップが実に凄まじいというか。福岡で韓国人が大金持ち出そうとして空港で捕まったけど、それは7億円くらいで前日に発生した3億円とかが強奪された事件との関係ははっきしれいていなかった。そして逮捕された人物は関与を真っ向否定している。単なる偶然かもしれないにも関わらず、新聞は見出しでもって韓国人が3億円とか強奪したかのように強く印象付けていた。推定無罪なにそれおいしいのどころの話じゃない。韓国人へのいらぬ偏見も煽りそうだけれど、そうした意識を感じないどころかむしろ確信犯的に抱いてこういう見出しで報じてくるところに、ジャーナリズムとしての基本を外して平気な空気って奴を感じるのだった。参ったなあ。


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