縮刷版2017年4月中旬号


【4月20日】 いやいや。だってサイト内の検索窓でキーワードとして「関東大震災 第2編」とぶちこんでも、削除されたと言われる「1923 関東大震災報告書 第2編」そのものはヒットせず、図版なんかも見つけることができない。あって委員会めいたものの中で提出された構成案みたいものの説明ばかり。そうした書面や議事録はサイトの中に残してていても、肝心の報告書だけが削除されている状況に、どうしてサイトリニューアルの都合でリンクが切れているだけなんて言い訳ができるのか。そんなことがウエブサイト作りの上で割と普通に起こるとはちょっと思えない。

 そもそもリンク切れというなら、入り口となるページがあってそこに記述があるのが普通で、クリックしたらエラーが出るものだけれどそんな記述はどこにも見つからない。あと「1923 関東大震災 報告書 第1編」はちゃんと残っているのに第2編だけがないってのも不思議。それすらもサイト上からどうやればたどり着けるか分からない。無関係なものは残しつつ、ページそのものを書き換えデータそのものもヒットしない状態にして置いて、削除じゃありませんリニューアルの都合で見えなくなっているだけですと言って世間い通じると思える役所も、言い訳をまるっと信じて削除したと報じた新聞を非難する御用なメディアもいろいろ厄介なところに来ていそう。でもそれが通ってしまう今の情勢。正直者が間抜けを見る悲しい時代。やれやれ。

 とか言っていたら夜になってごそっと報告書関係を列挙したページが復活してそこから「1923 関東大震災報告書 第2編」へと行けるようになっていた。もう昼過ぎまでそうした報告書のインデックスをごそっと削っておいて、それが想定だと2週間くらいは続いていたのが朝日新聞による報道があったとたんに復活。サイト運営者が昨日辺りから不眠不休で復旧作業でもしたんだろうか。前と同じようなページレイアウトを作るの大変だったかも。サルページしてきてソースをコピペですませた? でも前と第2編のアドレスがちょっとだけ違っているところを見ると、改めてアップしてタグも打ち直したのかも。そこまでして元通りにするならメンテナンスもリニューアルもする必要なかったのに。だからやっぱり消して言われて戻したって可能性が大きいよなあ。だからこそ朝日の報道に文句は言っても抗議はしない。できないんだろうなあ。アサヒガーと真っ赤になって煽ったどこかの新聞だけが阿呆を見た感じ。吠えるのが仕事だからそれはそれで良いんだろうけれど。やれやれ。

 これは面白い。神野オキナさんによる「軍師/詐欺師は紙一重」(講談社ラノベ文庫、660円)は、少年が異世界へと引っ張られて危機にある国を統べるまだ少女から頼まれ、持てる知識を活かして軍師となり、女騎士をパートナーにして戦場へと向かい策略を駆使して圧倒的な軍勢を翻弄するといった展開で、なるほど他に類例もありそうな作品がまた出たかと思わせながらも細部のディテールが詰められていて、奇跡だとかチートだとか偶然と言った要素で片付けられない、リアルな危機への現実的な才能によるリアリティのある対処が繰り出されて、読んでいて呆れずむしろ引き込まれる。

 主人公の語利カタルはゲーム会社を経営していた父親の突然死で借金まみれになって家も財産もすべて失いそうになる。明日から路頭に迷う身だった彼が、祖父の残していた謎めいたリモコンを操作し本棚の隙間にある空間へと入り込むと、そこには不思議な部家があって家になっていてそのまま異世界へと来てしまった。そしてやって現れたミノタウロスやドワーフから祖父がその国で軍師として大活躍したことを聞かされ、なおかつミノタウロスとドワーフの間にあった問題も解決して信頼を得て、そこに迎えに来た女騎士に引っ張られて王宮へと行き、若い女王や母親で元女王の摂政から祖父と同様に軍師となって国に迫る危機に対処して欲しいと頼まれる。

 いつも家にいなかったけれどもカタルにはいろいろと教えてくれた祖父がいて、カタルや父親の前に時々現れては金を残して助けたこともあったという。けれどもしばらく前が行方知れず。そして起こった父親の突然死に困っていたといった家族関係のバックボーンが割としっかりと描かれているところは、カタルという人間が異世界に行ってどう世界を見つめ、自分を分かって行動するかといった原理を支えていて、言動に唐突感を与えない。逃げても誰にも憚らないところと残って軍師としての仕事を全うし、元の世界へと戻る意志をカタルに持たせているところも、異世界へと来たカタルが単なるスーパーヒーローではなく、そして偶然にもうまくことを運んでしまうようなチートでもないと感じさせる。

 つまりは普通の人間であり、そして知恵と知識で難局を乗り越えていかなくてはならないという、物語のレベルを現実へと近づけ想像の余地を与える。だからこそ軍勢を率いて進軍してきた敵の女将軍を向こうに回して、カタルがどんな手段で戦うのかといった展開に、自分なりの考え方をぶつけることができる。詐欺師とタイトルにあるからには口八丁手八丁で翻弄し、言質をとって退かざるを得ない状況へと追い込むのか、それとも知略をめぐらせ地勢を把握して、退くことが妥当と認めさせた上でそれを決断するための機会を与えるのか。力と力のぶつけあいでも知恵と知恵のめぐらせ合いでもない、カタルの側からすれば相手の国情を把握し周囲の国々が抱く野望を感じてバランスをとりつつ、軍事的政治的経済的な情勢をすべて加味して、相手が退ける状況を作り出す必要がある。

 相手にしてもそこでカタルを殺害なり拉致して軍事力を削ること、いっきに攻めて占領した上で別の国と対峙するといった可能性を選ぶべきか否かを、カタルが見せるカードから判断する必要がある。そんな状況を作り出すために、しばらく前からカタルの側ではさまざまな情報戦を繰り広げる。その策略はまさしく諜報戦。知らず絡めとられてそうだと思わされるようになっている。現実の世界を舞台にしたスパイものにも応用できそうなアイデアの数々を、異世界ファンタジーという物語の上で繰り出してみせたあたりに作者の才知が伺える。

 詐欺師というほどに騙しのテクニックは使わないけれど、ブラフは繰り出す、場合によっては自分の身すら損なっても構わないといったカタルの戦術は結果として相手を騙す。それでいて騙された相手も体面を保たれ自意識も満たされるといった不思議。こんな人間ばかりだったら世界ももっと穏やかに、そして戦争になっても泥沼になることなくスムースに進んでいくんだろう。とりあえずひとつの危機は脱したけれども世界は混沌として別の国の動きも気になる。そんな中でカタルは祖父にも負けない軍師として君臨し、無事に元の世界へと戻れるのか。というかかつてないほどの勝利を幾度も得た祖父とはいったい何者だたのか。女王であり元女王の美少女で美女といった見た目の裏にあるしたたかさも気になるところ。造形の行き届いたキャラクターたちが織りなす知略と謀略と策略のストーリーが、続いてくれることを願いたい。

 最初の戸田に行ってそして最後のNHKホールで見たきゃりーぱみゅぱみゅのホールツアー。見知った曲に最新の曲を入れつつあんまり喋らず歌とダンスをぶっとおして2時間で24曲といった具合に音楽ライブとしては充実の内容になっていて、それが最初からハイテンションだったし最後もしっかりと歌いきっているあたりにアーティストとしての成長も感じられる。新曲なんかも混ぜ込んでそれもカップリングも含めた2曲が入ったりして練習も大変だっただろう。それをやり切った。大きく成長したって言えるかも。

 人気がどうとか言われていたけど当日券も出たもののNHKホールはほぼほぼ満席。あの大きな会場を2daysで埋められるだけの人気は持っているし、ライブを観たらまた観たくなるのも実際のところ。そうやってテレビのアイドル的立ち位置からアーティストとしての変化をしばらく続けていくのかな。MCではライブハウスでセットもおかず衣装も着ず髪型もいじらないでダンサーと自分だけで歌い踊り続けるライブをやりたい、一方で世界観を整えてその中にどっぷりと浸ってファンも含めて盛り上がるライブもやりたいって話していた。どっちも面白そう。観たいけれどもチケットとれるかなあ。今回のライブが取りやすかったくらいだし大丈夫かなあ。ともあれしばらくは付いていこう。


【4月19日】 絞り出すように叫ぶように歌ったニノの巧いとは言えないけれど、凄いとは言えるその声に耳を奪われこれは見なくてはと「覆面系ノイズ」の第2話を見てユズとモモとニノが出会い分かれた過去が語られそして今またとりあえずユズとは再会へ。実はモモともすれ違っているんだけれど育ってしまうともう分からないのは世の常って奴で、相変わらず小さいユズとは違って大人になってクールになったモモが果たしてイノハリにどう絡んでくるか、ってところが今後の展開になっていくんだろう。っていかイノハリってどう見ても奴らなんだけれど本編ではまだ語られていないんで知らないふり。実際に原作読んでないから知らないんだけれど。あのビジュアルの眼帯ツインテールは中身ユズなんだよなあ。ずっとやれば良いのになあ。

 あんまりニノの歌声に感動したんでゲーマーズに寄ってin NO hurry to shout:としてリリースされた「ハイスクール[ANIME SIDE]−bootleg」と「スパイラル」のカップリングCDを購入。ハイスクールはミオウがボーカルをっってた奴で、つまりは高垣彩陽さんでCDもいっぱい出している人だけに巧いし安定している。大して「スパイラル」のニノの歌はあのシチュエーションでのニノの感情に添えて歌ったかのように荒々しい。それもワンコーラスだけじゃなく最後まで荒々しくてよくもまあ声を出し続けられたものだと感嘆する。早見沙織さんといったらふわふわと可愛い声の人だから大変だったんじゃなかろーか。それともこっちが地? ライブ行きたいなあ、早見沙織さんとしても、イノハリとしても。

 南京事件の真偽以上にあったことが確実視されている関東大震災における朝鮮人とか中国人といった人たちへの攻撃を、それでもなかったことにしたい層がいてあれやこれや文章を書いてはそうしたことをなかったことにしたいメディアで取り上げられていたりするけれど、良識と常識の計って事実は曲げられないと多くのメディアが取り上げないでいたりするのは矜持といったところだろう。けれども政治が率先してなかったことにしたようで、内閣府のサイトに掲載されていた、関東大震災におけるそうした虐殺行為を取り上げた報告書の、「1923関東大震災報告書第2編」ってのがアクセスできなくなっていて、どそうした行為の真偽を投げかける人たちがいて、引っ込めたとった報道がされていた。

 いやいやサイトの改装中でURLのアドレスが変わったんでアクセスできなくなっているだけですよ、って擁護の声もあったりするけどお上が作る公的なサイトでそうした時間差での出たり消えたりするような状況が生まれるとは考えにくい。虐殺について触れられていない報告書の第1編はアドレスもそのままにサイトに残っているのに、それに02を付け加えただけの第2編が消えてしまうのはやっぱり以上。ルール的に他のあドレスに移したなんて考えにくいだけに、やっぱりばっさりと切ったとしか思えない。だからそうした事例集とかがまとめられたサイトからも見出しが消えていたりする。

 なるほど日本人が悪く言われることが耐えられないって人がいて、いろいろ言ったんじゃないかって想像はできるけれどもそれで引っ込めたところで、こうして大騒ぎになることは目に見えている。でもやってしまうところにそれを許してしまう政権の、政府の空気って奴があるんだろう。もっとも国内で在留の外国人に向けられたこうした敵意は、外国にいる日本人に外国の人たちがいつか向けて来ないとも限らないもの。自分たちの振る舞いを事例として噛みしめ、逆に自分達に降りかかる災難をどう防ぐかって意味でも閲覧に処して多くに見てもらうべき報告書だろう。それを引っ込めたということは、海外に在留の邦人から生き延びる機会を奪ったってこと。どっちが非国民的か。分かりそうなものだけれどとにかく他人の生命よりも自分の快不快が基準になっている人たちが、政権を牛耳りこの国を動かしている。どこへ向かうか。どこへも迎えそうにもない。痛いなあ。

 半島の北にある例の国にもし、空爆が行われたらたぶん、この国の政治もテレビもネットも熱に浮かされたようになって快哉を叫び当然といった空気を醸し出すことになるんだろう。例の国が政体として行ってきたこと、それへの批判は確かに万人が認めて批難し得るもの。その政体への攻撃を誰が留め立てできようといった気分に誰しもが駆られる。でもそんな空爆がマクロに政体を撃つものであったとしても、ミクロに見ればそこにおそらく人の死というものがつきまとい、それは政体とイコールで結びついたものばかりではない。いわゆる国民であり民間人であり一般人でありただの人もいるだろう。

 独裁体制の下で政体と一体化しているように見えても、そう認識されても国民は民であって官ではなく軍でもない。そうした人への攻撃と、そこから生まれる死に対して熱に浮かされたこの国で何かを果たして言えるだろうかと考えた時に心が暗澹となって来る。こんなことがあった。1999年3月からしばらく、コソボ紛争に関してNATOによるユーゴスラビア空爆が行われた時、ドラガン・ストイコビッチが、シニシャ・ミハイロビッチが、ゾラン・ミルコビッチが、そしてロマーリオまでもが空爆に反対するメッセージを試合の中で掲げて世界に訴えた。

 それは果たして政体を支持して政体への攻撃を非難したものであったのかというと、違って市民が空爆によって被害を受けることへの憤りを示したものだろう。けれども同時に、空爆を受ける理由を持った政体を合わせて批難しなければ、それは政体への支持に過ぎないとも取られかねない矛盾をはらんでもいた。それでも市民に、民に被害が生じ得る空爆という手段を認めて良いか。それしか他に道はないのか。コソボの人たちへの救済という、これも大義であり人道という綺麗な言葉を掲げられてなお空爆は止めるべきだと言い続けるためにどんな信念が必要なのか。考え出すといろいろとわき上がる夜。熱に浮かされ空気に流され大義を掲げた果てに過去、何が起こったかも改めて問いつつすべきこと、できることはなにかを探る。

 いつの間にか日本に進出していたらしい、民泊とはいわずにバケーションレンタルと世界ではいうシステムを展開しているホームアウェイが瀬戸内で宿泊施設も含めた観光資源の再開発を行っている団体と提携するって話を聞きに虎ノ門へ。いつの間にかできていたアークヒルズ千石原森タワーの中に入って聞いた会見いよれば、瀬戸内DMOという団体があって瀬戸内海の7県から出資やら協力を仰ぎながらクルーズだとか宿だとか食だとかのプロデュースを行っていて、そこが作る民家を改装した宿をホームアウェイのチャネルで情報提供していくとか。世界につながったチャネルだけに海外からの旅行客も期待できそう。

 興味深いのは純粋な民泊ではなくちゃんと旅館の認可を受けたものとして展開すること。周囲との軋轢もなく利用者も気兼ねとかせずビジネスライクに利用できる。それでいて民泊的な広さ安さも享受できるならこれは使う人もいるだろう。問題はだからそうした宿が今後どれだけ提供されてくるか、そこで外国からの人をお出迎えできる人材がどれあけいるかってことだけれど、AIが発達して言語の壁がなくなり、IoTが発達してリモート管理も可能になればそうした人手もコストもかからなくなる。気軽に使えてサービスも良く安心感もあって。そんな時代が来れば出不精の僕でも出かけてみたくなるけれど、瀬戸内海にそれほどしてまで行きたい場所があったかなあ、呉くらいか、あとは徳島マチアソビ? 我ながら偏っている。高知県は入れてもらえなかったんだなあ。瀬戸内海に面してないものなあ。


【4月18日】 乙女からの返事編が書かれた小冊子をもらうために湯浅政明監督の「夜は短し歩けよ乙女」を観に行って3度目となる映画を見て思ったのはやっぱりミュージカルのシーンで「紅 kure−nai」の第6話「貴方の頭上に星が輝くでしょう」。片山憲太郎さんのライトノベルを原作にしながらキャラクターの設定なんかをちょっと変えてあって毀誉褒貶あったけれども、映像の凄さと展開の淡々としつつもギョっとさせられるところもある部分が好きで毎回楽しみにして見ていたっけ。そんな「紅」の第6話が原作無視とかいったレベルじゃなくすごかった。

 ミュージカル。何かアパートの住人たちで舞台をやることになって、その練習の最中からいきなり音楽が奏でられてセリフがとことん歌でもって語れるおとになる。歌詞になんか変換せずにセリフがそのままってあたりが「寄りは短し歩けよ乙女」を見て思い出すことになったのかもしれない。あれもセリフを歌っていたからなあ。でもって改めて見たら旋律は同じ繰り返しでセリフはまるで意味不明。でも何とはなしにその世界観に通じるセリフが唐突に歌われそれも歌いそうにないキャラによって歌われて踊りまで着いてたりするその画面に、これはやられたと当時驚き感嘆した記憶。長さもそんなにないんだけれど、思い出されるくらいに強烈な印象を残したんだろうなあ。また見たいなあ、「紅 kure−nai」。というか小説版、今いったいどうなってるんだっけ。

 「ID−0」はオープニングテーマが佐咲紗花さんで2009年に第3回全日本アニソングランプリで優勝をして、翌年にはデビューを果たして秋田から夢のアニソン歌手へって感じで脚光を浴びつつ、やっぱり声優シンガーの強さに推されて活動はしつつも活躍はといった感じがどこかにあったけれど、それでもめげることなくいろいろなタイアップを歌い続けて来たこともあって、ちゃんと今もこうして新番組のオープニングを歌える立場を確保した。すごいなあと純粋に讃えたい。

 事務所がランティスのグループ会社で社長も影山ヒロノブさんだから伝手はるとはいっても、それで評判が悪ければ仕事なんて回ってこないのがこの世界。元よりパンチの効いた歌いっぷりで耳を惹いていた歌声が、なおいっそう強まっている感じ。歌詞はデビュー作となった「星彩のRipieno」の時から自分で書いていたから今回も歌いやすい歌詞を自分でつけられたってことも奏功しているのかな。もしかしたら自分で歌詞を書けるということも仕事を依頼しやすい状況にあるのかも。

 同じアニソングランプリ出身だと翌年の河野万里奈さんも決勝で敗れた春奈るなさんもちゃんと今も活動中だし、その翌年の鈴木このみさんはアニサマにも出場を重ねているくらいの実力派。声優アーティストのキャラクターソングが評判を取りやすい構造にあって、LiSAさんとかMay’nさんとかアーティスト系でもちゃんとしっかり活動を続けている。武道館公演だって成し遂げる人もいる。もちろん水樹奈々さん田村ゆかりさん茅原実里さんといった声優もやり歌も歌う人たちもいてアニソン界を盛り上げてくれている。そうした人たちの活躍があればまだまだアニソンも安泰、といきたいところだけれど音楽全体の沈滞に勝てるかな。そういう意味でもアニソン専門ストリーミングサービスのAniUtaは立ちあがったんだろう。入会してみるかなあ。何が聴けるかなあ。

 ハリウッド映画の「ゴースト・イン・ザ・シェル」が公開されたこともあって押井守監督の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」からこっちいろいろと作られたアニメーション版「攻殻機動隊」をまとめたような「攻殻機動隊 PERFECT BOOK 1995→2017」って本が出ていたけれど、そこに「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」や「攻殻機動隊ARISE」の草薙素子はいても、プレイステーション版ゲームに登場した、北久保弘之監督が手掛けた草薙素子の姿はない。

 講談社って士郎正宗さんの原作漫画を出している出版社から出たにも関わらず、そして帯に「草薙素子船員集合」と書かれているにも関わらずこの仕打ちってのはいったいどこにネックがあるんだろう。ビジュアル的には士郎正宗さんの漫画に近く、デジタルな雰囲気は現在にいたる「攻殻機動隊」のアニメーションでも古さにかかわらず群を抜いている。それなのに触れられていないのは誰かがこれは違うと認定でもしているんだろうか。士郎正宗さんは好きそうなのにオフィシャルでは触れられないというのはどこかに巨大な壁でも存在しているんだろうか。いろいろと謎。こういう時こそ封印作品に挑む安藤健二さんの筆が突っ込んで行ってくれると面白いんだけれど。LDには収録されているしネットにも上がっているんで映像は見られないこともないけれど、やっぱり“正史”の中に位置づけられて欲しいもの。それだけ歴史に残る映像だから。

 ナムコがまた新しい施設を作るってんでイオンモール幕張新都心へ。前は仮面ライダーとかがいっぱい並んでた施設ががらりと様変わりをして、フードコートから見えるオープンスペースになってそこに何やらトランポリンめいたものが並んでいる。といっても丸い台のようなものではなくって底上げされたような面をブロックに区切ってそこが四角いトランポリンになったという感じで、その上を大人が跳ね子供が跳ねて自由に飛び回っている。目を向けるとそっちは長方形のフィールドがトランポリンで仕切られ、その上を飛びながら手にしたボールをぶつけ合っている。トランポリン上でプレーするドッジボールといった感じ。

 さらに目を横に向けるとそっちでもトランポリンになった床の上で人が跳ねていて、真正面に映像が見えている。飛んだ分だけ前へと進んでそしてゴールを目指すと行ったもの。高く飛べば飛ぶほど距離の伸びでグッドがエクセレントになるそうだけれど、でも実際、やってみるとうまく飛べない。というより真上に飛べない。だんだんと前後にずれていってしまう。トランポリンの選手って真上に飛んで様々な技を決めてはまた真下に落ちてしっかりジャンプを繰り返しているけれど、それがどれだけ難しいかがよく分かる。そして体力を使うかも。50秒ほど飛んだだけで足はもうぱんぱん。さらに1分続けたら立てなくなって足から崩れ落ちただろう。トランポリンは勝手に飛ばされるものではないと分かった。

 向こうをみればそこはフリークライミングのための壁やら木やらがいろいろと設置されていて、子供たちが手でホールドすなわち取っ手部分に指をかけてはするすると上に上っていく。四角い柱を並べてだんだんと高くしていくその上も怖がらずに歩いて上へと上っていく。ちゃんとロープで体を固定して落ちたりしないようになっているから、親も安心して子供を遊ばせられそうだし、親自身だって自分で試してみたくなる。そんな施設。名を「TONDEMI」というくらいに飛んで上って遊べる施設は、子供向けに限定しないで小学1年生くらいからの子供が親といっしょになって運動できるようになっている。

 ナムコといったらキャラクターでありゲームだけれど、そうしたものを使わずただ体を動かす、それも楽しく、且つ安全に運動をできる施設として作られた「TONDEMI」はキャラクターだVRだといったものを前面に打ち出した他のナムコの施設とは対極を行くようだけれど、カジュアルにスポーツする、それも普段は余りできないフリークライミングでありトランポリンといったものにちょっとした遊びの要素も加えて楽しめるようにするといったアイデアそのものがひとつのIP。ヒットすれば新しいカテゴリーとなって施設も全国に増えて行くんじゃなかろーか。3メートルほどの高さに渡された1本橋やらネットやらタイヤやらをつたって渡っていくのも楽しそう。そしてバランス感覚を鍛えられそう。やって見たかったけれど足がぱんぱんだからと遠慮。怖いからじゃないぞ。鍛え直してまた行こう。


【4月17日】 「学芸員はがんだ」発言は撤回はしたようだけれども山本幸三地方再生担当大臣による学芸員のみを論っての暴言は、根底に学芸員の仕事への誤解があってそして観光というもうひとつの命題において邪魔になっているといった理解もあったりするんでそこをしっかりと糺しておかないと、またぞろ学芸員悪玉論を言い出しかねない。学芸員の職責として文化財を分類して価値付け守り次代に伝えるということがあって、その合間に公開をして観光客を募ることも必要なら保護が行き届いた状態での公開とかが必要。それにはお金が必要でそこを現場の工夫ではなく地方再生を担う大臣が予算をぶんどって振りまくことが求められる。

 あるいは人気キャラクターとのコラボレーションなんかが聖地巡礼的な観光客を増す可能性があっても、そこで学芸員のレベルでは版権元の交渉なんて難しといった時にセンター的な役割を国が果たして権利の利用促進を働きかけるといったこともあって良い。つまりは大臣は現場に振るだけの傍観者じゃなくて、自身が文化財の観光活用を担う当事者だという意識を持つ必要があるってこと。でも自分の頭で考えたことだけが正しいって意識では、それを通そうとして言うことを聞かないんじゃなく聞けない学芸員へとまた、批判の矛先がまた向いてしまいそう。だからこそ学んで欲しいんだけれど、そういう能力がある人かな、ちょっと様子見。

 あの広大な宇宙に放り出された小さな人間の体ひとつを見つけて回収するまでの苦労とか考えると、ミクリ・マヤはやっぱり結構重用されているような気がする「ID−0」。企業とつるんでいた教授にハメられてボディをI−MACHINEへと移したまま、エスカベイト社に拾われそしてボディと再会して見渡したらそこにいた人間はクレア・ホウジョウくらい。あとはバーチャルでいちおうの人間型のアバターを見せた社長やリックやカーラだったけれど、それが肉体と一緒かって補償はないし、イドにいたっては肉体を失ってI−MACHINEに転送されたままで生きていることが判明。それは果たして人間なのか否か、っていう神学論争にも考えが及んだけれど、ここは一応は人間といった理解の下に進めるとしても、いわばヒーローともいえるキャラに美形の顔が存在しないというのもちょっと珍しいかもしれない。

 ともあれエスカベイト社に拾われ働くことになったミクリ・マヤにさっそく仕事。現れた巨大な衛星の中に潜むオリハルト鉱石を探し当てては外に持ち出し母船に収容したら得体の知れない少女が1人ついてきた。いったい人間かそれとも違うのか。謎が謎を呼びつI−MACHINEの原理を発明したらしい男性の若い頃と今とがアバンで描かれていたりして、そんなテクノロジーが生まれてから広がった先に何か目的でもあったのか、それともテクノロジーの発展が結果として何かとんでもない発見をもたらしたのか、いろいろ見方はできそうだけれど今はただ、才能はあってもどこか抜けてて学校から見捨てられお尋ね者にまでなってしまったミクリ・マヤがどんな試練を乗り越え宇宙の秘密を掴むのか、ってあたりを物語の軸と考え追いかけていこう。

 しかしフル3DCGなのに人物もロボットもしっかり馴染んで見えるサンジゲンのアニメーション制作技術はますます進歩している感じ。「ブブキブランキ」の時からすでに造形だけなら2Dっぽさをしっかり感じさせてくれていたけれど、「ID−0」では表情やアクションでもぬるっとした感じがなくて普通に2Dのアニメーションっぽく見てられる。これは東映アニメーションも「正解するカド」でも同様で、「楽園追放」あたりの頃から大きく進んだところを見せてくれている。ポリゴンン・ピクチュアズについてはテレビシリーズはないけれど、代わりを映画「BLAME!」があって「シドニアの騎士」から進んだクールな3DCGアニメーションを見せてくれている。ヤオヨロズのようなふんわかとした3DCGもあって少数ながらも精鋭が作って面白い作品を送り出せることも分かってきた。この分野、ますます面白くなっていきそうだなあ。

 そして新宿マルイアネックスの「けものフレンズSHOP」はケロリン桶すらも品切れとなって遂に売るものが主題歌「ようこそジャパリパークへ」の通常版CDのみになったという。まるで旧ソ連のスーパーマーケットのごとくに広々とした店内の一部に単品が置かれそれを大行列して買っていくような光景が、行けばみられるというかあんまり見たくないというか。並んでさえいればいくらだって売れるのにそれができない苦渋は主催者だって感じているだろうけれど、でもやっぱり行って何もなかったお客さんがとっても可愛そう。たつき監督も行ってポストカードとか置いてくれているみたいだけれど、ここはせめて製作委員会も何か動いてたとえばコンプティークにくっついていた紙のお面を束で積んで自由に持って帰ってもらうくらいしないと、作品の価値に関わってくるんで是非に。それが作品を模した廃墟の再現だって笑っていられるのも1日2日だと思うから。

 そんな勢いがもしかして流れ込んだら池袋にあるニコニコ本社で18日から始まる「TVアニメ『けものフレンズ』×nicocafe」の企画もメニューが1日2日で暗い尽くされて、3日目くらいからは中央に大きなたらいを置いて水をはって自由に飲んでもらうくらいしかほかになくなってしまうかも。30分おきくらいにカバがざばっと上がってきては「だーれー?」って行ってくれたらうん、ちょっと嬉しいけれどやっぱり食べたい様々なメニュー。かばんちゃんのカレーとかもう最高。サーバルちゃんのドリンクも耳が可愛い。そして「ジャパリカフェののどがよくなる紅茶」とか、トキが聞いたら喜んで通い詰めて浴びるように飲みそう。でもってそこで試しに歌って……かばんちゃんほど人間ができてないんできっといっぱい倒れるだろうなあ。CDに入るトキの歌、どんな感じになるんだろう。今から逆の意味でドキドキ。

 推定無罪原則に則るならば一切の批判的言辞が難しくなるとはいえ蓋然性として容疑者としての色が濃い人物に対して批判的に報じることはある程度はしかたが無い。とはいえ予断と偏見をどっぷりと濃くして世間に振りまくような報じ方はやっぱり拙くって、その性向なり感覚なりを論っては真実かどうか確かめようもなく、当人も反論できない形で論ってばらまくやり方はどうにも苦手。なおかつそれが性癖に近いものの場合は人権侵害の可能性すら考えられて神経がささくれる。さらい言うならそうした報じ方で性癖のひとつとして論っている対象を、別の部署では商売として展開していたりして右手と左手のまるで違ったやり口は、正直さに欠けるとも思えてくる。最近はそうした分野を稼ぎ頭だとみなして、似た企画を出せと発破をかけている。社運すらかけている分野を一方では蔑視し軽視して叩いている。報道と事業の間に壁があるのは悪いことではないけれど、批判する対象から金を集めてそれで食べてる報道側に、気恥ずかしさはないのかとは問いたい。それが正直なジャーナリズムという奴だから。


【4月16日】 前日の話。通りがかったららぽーとTOKYO BAYの通路えAVIREXがバーゲンめいたことをやっていたので見たらMA−1より薄手のL2−Bに幾つか出物が。ひとつはフライングタイガースって日本を相手に戦った米軍の義勇兵のエンブレムがついたもので、シンプルな格好良さがあったけれども日本のもろ敵となるとちょっと心も穏やかじゃない。もうひとつは袖にやたらと国旗が並んでそれも上下に並んでいて、どこかの副大臣が見たら腰を抜かしそうだけれども昔誰かが地中海を船でめぐって寄った国の国旗を貼り付けた名残らしい。とてつもなく派手だったけれども派手さが許されるのもおっさんってことでこっちを購入。半額くらいは安いかなあ。どこかに着ていこう。でもイスラエルの国旗もあるからパレスチナには着ていけないか。行かないけど。

 そして見た「アトム・ザ・ビギニング」は天満博士がまだ若い天馬午太郎としてこちらもまだ若いお茶の水博士ことお茶の水博志といっしょにロボットを作り上げたらそれがAIというか知性を持って動き始めて大活躍した、って展開。それを見ていた得体の知れない縦ロール美女。そして眼鏡のロボット少女がこれからの展開に絡んで動き始めたアトムのプロトタイプみたいなロボットをめぐって引っ張り合いを繰り広げる、ってことになるのかな、気にはなっていたけど原作読んでないんでそのあたりはちょっと不明。ただ眼鏡のお茶の水蘭ちゃんが喋るし堤茂理也は腹黒で、妹の堤茂斗子は声がみかこし小松未可子さんでちょっぴり腹黒そうな感じなんでどう関わっていくかに興味。天才の茂理也もより紙一重な天馬とお茶の水がいずれ気になっていくんだろう。だって主役はそっちの2人なんだから。楽しみだ。

 そして見た「Re:CREATORS」。第1話ではただのファンタジーやらゲームやらの受信無垢なヒロインたちが飛び出してきただけの話に見えて、広江礼威さんっぽくないなあと思ったものの、第2話ではあれでどっこい性格はまっすぐでも純真でもなくどこかぶっ飛んでいるあたりがやっぱり広江礼威さんっぽいなあと思えてきた。おそらくは創造したのが巻末漫画で学園ものと化した「BLACKLAGOON」のロベルタみたいな三つ編みお下げの眼鏡女子ってあたりから、顕現したヒロイン達の性格がどれもねじくれていて当然かもと思い始めている。しかし少年、あれだけお菓子をたかられてよくもまあお小遣いが続くもんだ。そして街中でバトルを始めた魔法少女。気づいてあわあわしても平気でぶっ壊すあたりがやっぱり捻くれていた。新登場の男もやっぱり悪辣さ満開。そんな癖のある奴らが織りなす現代を舞台にした魔法バトル。大騒ぎになるだろうなあ。楽しみだ。

 そんな広江礼威さんの「BLACKLAGOON」のコンビニ系冊子が出ていてロックがレヴィたちラグーン商会に拉致されて人質にされた最初の話とそれからロックが仲間に加わってすぐに陳に追いかけ回されてレヴィが八艘飛びをする話が収録。あとは未だ続きが描かれているのか判然としない最新エピソード「The Wired Card」の前半パートが収録されてて久々におでこ眼鏡の中国人美女に出会えたけれども取り囲まれた彼女たちがその後どうなったかは「サンデーGX」を読んでいないから分からないというか、読んでいたって分かるんだろうかといった感じ。そして巻末に「BACK IN BLACK SYNDAY GX 5 19 FRY」。もしかしたら連載再開? それならやっぱり読むしかないけれども、果たして。

 Jリーグでで最年少ゴールが誕生したってんで見るとあの、バルセロナでもって育成されたものの若いうちから囲っちゃ駄目とかいった規定があって上でプレーできず日本に戻ってFC東京に入った久保建英選手が試合で放ったとかで、流れて来た映像を見たらなるほどゴール前を固めるディフェンスの間を縫うようにドリブルしてはゴールラインに近い場所から角度のないシュートを放って見事にゴール。そのテクニックは褒め称えられるに相応しいけれどでも、背景に見える観客席がいかにも寂しい。熱狂的で知られるFC東京のサポーターが詰めかけていない試合って何だとよく読んだらU−23チームとして参戦しているJ3でのゴールだった。

 つまりは言葉は悪いけれども2軍の人たち。カテゴリー的には3部の試合で相手もセレッソ大阪のU−23という2軍を相手にした試合でゴールを奪ったことを持って、Jリーグ最年少記録を更新したと受け取ることの名称的には合致はしても感覚的にはとてつもない違和感を覚えざるを得ない。あの森本貴幸選手が東京ヴェルディの選手としてジェフユナイテッド市原・千葉を相手にゴールを奪ったのはれっきとしたJ1での試合。そうかそのころは両チームともJ1だったんだと遠い目になることはさておいて、チーム数も絞られ選手的にもトップがそろっていた試合で奪ったゴールを、拡張されたJリーグに参加している2軍の試合で奪ったゴールと同列でとらえ讃えることに、ファンとして嬉しがってもスポーツメディアがこぞって絶賛してはやっぱり拙いと思うのだった。

 サッカーの五輪代表で散々っぱら騒がれた選手がその後に上のチームで活躍できずに消えていくのはよくある話。甲子園のスターがプロ野球では通用しないことも同様であって、ただし甲子園のように青春の代名詞としてカテゴライズされ独立した人気も誇る場での一瞬の煌めきを、尊ぶことはあって悪い話ではない。サッカーのJ3は積み重なったプロサッカーリーグの下のカテゴリーであって、そこに単独で所属するチームは地域密着なり発展途上といった見方から独立したチームと言えるものの、U−23は組織的にもトップチームより下に位置する。そんなチームで相手もやっぱりU−23のゴールをJ1でトップチームに入った選手のゴールと同列に位置づけるようなことを、スポーツを語る筆がやってはやっぱり拙いような気がしてならない。

 でもやっぱりメディア的にはスターが欲しいんだろう。その名前で記事を書く方が楽なんだろう。だから若い打ちから久保建英選手を追いかけ続け、ゴールが出たといってかき立てる。その一方でJ2町田ゼルビアで試合に出ていた加藤恒平選手が今は海外で活躍しているのを上げて、Jリーガーにもなれなかったと報じるテレビのスポーツ番組があったとか。でも加藤選手、Jリーガーになってたじゃん。この扱いの違いはつまり自分たちの“物語”でもって簡単に基準が上がりも下がりもするということ。時に厳しく、けれども正しくスポーツを伝えていかないと、スター選手がいなくなった時にスポーツそのものが衰退し、スポーツメディアだって共倒れになってしまうんだけれどなあ。その時はまた別のスターを作り出すだけか。やれやれ。

 口が軽いというか。言葉に対する責任感がカケラもないというか。そんな大臣ばかりをずらりと揃えて暴言極限を垂れ流しては世間をブルブルさえている安倍内閣からまたぞろ暴言を吐いて批難を浴びそうな案件が。山本幸三地方再生担当相とやらが講演でもって地方の観光振興において“ガン”になっているのは学芸員で、観光マインドが足りないんで一掃すべしとか吠えたらしい。おいおい学芸員ってのはそもそも観光協会の人間じゃなくって文化財やら美術品やらを整理し意味づけし価値付けするのが仕事であって、そうやって出そろったものを喧伝するのは宣伝だとか広報とかの仕事。そしていくら宣伝いんあるからといって文化財の価値をねじ曲げたり、毀損するようなこともしないのが文化を守り育む学芸員の職責として、同じ政府の文部科学省から認定されている。

 そんな他省庁が所管する資格を“ガン”だと貶していったい何様か。それってつまり「誰野何某法相は16日、娯楽を生かした裁判に関する質疑の中で『一番のがんは裁判官と言われる人たちだ。娯楽マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ』と述べ、法律に縛られすぎてスカッとする判決を出さない裁判官を批判した」みたいな話だろう。その職責を曲げてでも金儲けにつなげろって平気でいい、仕事への理解も文化への関心もまるでない人間が大臣をやっていられる安倍政権。これで突っ込まれても撤回せず自分の認識がと突っ張ってはさらに問題になって菅官房長官あたりからたしなめられ、ふんぞりかえって頭を下げる面堂スタイルを見せてそして一件落着とするんだろう。そうやって舌禍が何件も見過ごされてきた。綸言汗のごとしなんてどこ吹く風の風潮は、いずれ不信を招いてこの国のそれでも美徳だった正直さを損ない、地の底へとたたき落とすだろう。その首謀者は誰か? それこそ学芸員が石に刻んで永遠に残すべきだ。絶対に。


【4月15日】 相手の頭が良いとこんなにもファーストコンタクトは楽なのかと思った「正解するカド」第2話。だって現れた何者かはいきなり人間の姿となって現れ日本語めいたもので意思疎通を計り始めた。たぶんそれは音声言語としての日本語ではなかったかもしれないけれど、だんだんと覚えていったみたいだし習慣習俗についての理解もしてくれた。その意味でのファーストコンタクトは相手がそもそも意思疎通できるかどうか分からない中で模索していくファーストコンタクトシミュレーションをすっ飛ばしているけれど、問題はその後、そもそも異次元から来た彼が何を目的にしているかを想像し改名し“正解”することにあってその“正解”の定義も含めたネゴシエーションが見どころになっていくんだろう。とは思うけれども果たして。まあ見ていこう。

 ミュージックステーションにどうぶつビスケッツ×PPPが出演をして世界のタモリさんに向かって「すっごーい! タモリさんはイグアナのフレンズなんだね!」をぶっ込んで大いに話題になったりもして社会性を帯びてきた「けものフレンズ」には、学術的関心も向けられるようにんって「#けものフレンズ考察班の死」のような批評も出てきた模様。それはそれで面白いことだけれど、読んで僕の肌感覚とはちょっと合わないというか、そもそも深読みをして探求をする考察班と、「すっごーい」「たーのしー」といった雰囲気を楽しんでいる共感派なんてものを定義して、対立させていたりするのかがちょっと分からない。

 それって深く考えながら見ていくか、とりあえず楽しく見るかのその場における濃度の差でしかなくって、共感派だってあの世界ってどうなっているんだろうといた考察班的察知がなければやっぱり楽しくなかっただろうし、考察班もふんわかとして優しいフレンズたちへの共感があったからこそその暖かい、けれども裏がありそうな世界に引かれていった。そうした作品が持つ様々な味の、その時点でどれを選んでどれだけ食べるかの違いしかないものを、対立した存在と定義してしまってはやっぱりつまらないと思うのだった。

 あとやっぱり4話の「さばくちほー」で評判ぐわっと来たってのも、ツイッター上に現れる言及数とかいった数字で見た結果であって、最初から、それこそ1話の「さばんなちほー」の段階から、廃墟かもといった背景への不安を抱いた人は僕に限らず多かった。そして2話の「じゃんぐるちほー」でのボスが知らなかった巨大な川の登場、そしてボロボロになって打ち捨てられていたバスといったものが、ジャパリパークの閉園となってもう長い時間が経ってしまった感じを強く示していた。そんな廃墟で人間にしか見えないかばんちゃんをボスだけが知っていて、そのボスが知っているパークが廃墟という論法から人間存在への不安もやっぱり感じられていた。

 そうした諸々の不安が決定づけられたのが、イグアナによって「絶滅してなかったのか」と言葉によって言及された第4話の「さばくちほー」だといった解釈からすると、そこで発見されたのではなくそこで確定されて、あとはだから世界はどうなっていて、フレンズたちは何物で、そしてカバンちゃんはどうなってしまうのかといった興味が増しての視聴拡大となった、って僕は見ているんだけれどこれはまあ、個人的な体感に寄りすぎなので数字というエビデンスを重ねつつ外部的にどう見えているかといったニュアンスを掴む意味でも論考は役に立つ。実際、「けものフレンズ」のショップに詰めかけている人たちは深い世界観よりも健気で可愛いフレンズたちの、楽しく暮らして頑張って生きている姿に共感して作品を好きになったって感じ。そこを入り口にして深い沼へとハマっていけば作品の寿命も延びるってことで。

 聞くとその「けものフレンズ」ショップは完売商品が続出だそうで、オープン3日目となる日曜日に果たして売る物があるのかが今は心配。それこそ共産圏のスーパーマーケット状態で広い棚に10アイテムくらいではちょっと寂しので、あとは店員さんが愛想を売るとかするしかなさそうだけれど、それを見て「すっごーい」「たーのしー」と喜べる優しいフレンズはさすがにいないか。整理券もらって並んでそれではなあ。どうするんだろう、お渡し会もあるというのに。そんなショップの状況を知ってか知らずか科学技術館おサイエンスホールで開かれた最終話上映会後のイベントで、ショップに行ってみたいと行っていたPPPの1人。整理券をもらって並んで下さいとプロデューサーさんには言われていたけど、それで入って商品を見て自分のがないのは人気だからと喜んでくれるかな。ああでも陶器コースターはPPPメンバーまだ残ってたんで売れてないと嘆くのか。それも明日には売り切れてしまうかなあ。

 そんな最終上映会で11話の「せるりあん」から12話「ゆうえんち」の流れでひとしきり泣いた後、登壇したトークではやっぱり出てきたミュージックステーションでのタモリさんとのやりとりで、売りあわせの段階では何を聞いてどう答えてくれるかといったことは台本にななく、どんな動物が好きかと聞くこともイグアナと答えてくれることも決まっていなかったそうだし、作品の面白さについて語るかどうかてことにもなっていたいみたい。そこを尾崎由香さんがぶっ込んでどんな動物が好きかを聞いて答えをもらってあの決めセリフ「すっごーい、タモリさんはイグアナのフレンズなんだねっ」へと持っていったというからやっぱり心臓が強い。それともタモリさんも自分の方でリサーチをして動物についてそう聞かれるかもって思っていたのかどうなのか。たとえそうでも表に出すことはないだろうなあ。仕事を頑張ってどうするが心情の人だから。ともあれ巧くいったあの展開が今後どう広がっていくか。8月25日のアニサマ登場まで間もあるし、その間に作品がどう転がっていくかも含めて展開を眺めていこう。もう1つ2つ、映像が動くと良いんだけれど。たつき監督も明言はしなかったけど何か企んでいるようだし。期待して良いのかな。


【4月14日】 夜にかけて埼玉県の三郷市で発生した火災で亡くなられた高齢のご夫婦がいたってニュースが流れて、男性の方の名前が塩山紀生さんとあって見てこれは「装甲騎兵ボトムズ」のキャラクターデザインを手掛けられた塩山さんかと不安になったものの、調べても火事で“無職”の男性が亡くなられたとはあっても、そのバリューからして本当にそうだとなったらネット中が大騒ぎになるにも関わらず、報道の方で具体的なプロフィールが添えられて来ない。だからもしかしたら同姓同名の別人かもしれないといった憶測も浮かんだけれど、年齢がご本人と同じなだけに同姓同名同年齢はさすがにないといった考えから、やっぱりそうかもといった暗然とした雰囲気が流れる。

 とはいえ、自分で警察署に問い合わせる訳にもいかず、関係者に当たるなんて不可能だからどうなんだろうかと怯えつつ、眠りそして日が変わって午後に入って、警察署に問い合わせてどうやらご本人らしいといった情報をつかんで、それを報じた記事が流れてほぼほぼ確報となって不安が絶望へと変わる。やがてサンライズも公式サイトで追悼分を流して絶対が確定。どうしてこんなことになってしまったんだろう、って残念さと無念さに身もだえする。安彦良和さんのどこかぷくっとして可愛らしくて格好いいキャラクターとも、湖川友謙さんのアメリカナイズされた雰囲気のキャラクターとも違ったクールさを持ったデザイン。「装甲騎兵ボトムズ」のキリコにフィアナといった大人の強さを持ったキャラクターたちがいたからこそ、リアルでハードなあの物語もよりくっきりと主題を世に提示できたんだろう。

 今の時点で大きく作品に携わってはおられなかったみたいだけれど、高橋良輔さんが「装甲騎兵ボトムズ」を手掛けられればすぐにでも駆けつけデザインを寄せるなりアイデアを出すなりしてくれただろう。その筆先がたとえ前ほど動かなくても、感性は錆びてはいなかったはず。だからこそまだずっと、存命であって欲しかった。残念無念。塩山さんといえば佐藤大輔さんの「皇国の守護者]シリーズでもイラストを手掛けられていたけれど、その佐藤さんも亡くなられてシリーズは途絶えてしまいそう。たとえ誰かが続きを書いても塩山さんの絵も付けられなくなった。人はいつか亡くなるとはいえ、それが今である必要なないのに……。そうはいっても時間は巻き戻らない。リセットできない。だから寂しさを抱きつつ、悲しみを覚えつつ祈ろう、塩山さんのご冥福を。ありがとうございました。

 萩尾望都さんの「スター・レッド」があり竹宮恵子さん「地球へ…」があり水樹和佳子さん「樹魔・伝説」があったあの時代に少女漫画として描かれたSFに触れた私たちが、今また感じるSF漫画の波動。人類と宇宙の未来を描き、生きる厳しさと愛する大切さを感じさせる物語として、吟鳥子さん「きみを死なせないための物語1」(秋田書店、429円)が刊行された。何かの理由から住めなくなった地球を脱した人類は、コクーンと呼ばれる宇宙に浮かぶ巨大な都市に暮らしていた。そんな人類から生まれたのが新人類のネオテニイで、宇宙に適応したためか寿命が極端に長く、中には数百年を生きるものもいるという。

 だからなのか成長もゆっくりで、20歳くらいになっても見かけは子供のまま。そして貴種としてコクーンの中でも優遇されており、大勢の関心の的にもなっている。監視カメラで姿を常に抑えられスターのような扱い。頭も良くていろいろと発明発見をしてコクーンの発展や経済にも貢献しているらしい。物語ではそんなネオテニイの4人が主要なキャラクターとして登場する。アラタとシーザーとルイは男子でターラは女子。そしてほかの3人が3世代目な中にあってアラタは始祖ともいえるネオテニイから直系の4世代目に当たっていて、周囲からかけられる関心も高かったりする。

 4人は出会ってまず友人めいたパートナーとなり、そしてキス程度のちょっとした性的接触も許されるだろう第2段階に入るかどうかといったところにある。優れた遺伝子の持ち主をくっつけ優れた子孫を残したいという思惑もあってか、互いを意識するよう似されられる中で、それを受けたり受けなかったりしつつ、好いた好かれたの行き違いめいたものも起こっているけれど、そんな中にあってひとり孤高を行くのが芸術家気質のルイで、監視カメラの目も届かない京都コクーンにある歓楽街で出会った祇園という名のこちらはネオテニイではない少女に惹かれてしまったあたりから、アラタたちの運命が揺れ動き始める。

 遅い成長のため家族や兄弟との間に時間のズレが起こる寂しさ。だから同じネオテニイたちの間に親しい関係を作らせ、共に同じ時間を過ごしていけるようにと仕向けてはいるけれど、それに従っていらえるほど子供じゃない。何しろ登場時にすでにアラタたちは20歳くらい。体は子供でも心は成長している彼ら彼女たちが出会う衝撃的な経験が第1巻ではまず描かれ、それが後にどうなっていくのかといった興味を誘う。刊行されている雑誌の方で物語は少し先へと進んだ時間の上で、20歳の時の経験が引きずられ再現されるかのように描かれていく。衝撃過ぎる経験によってアラタたちの心に刻まれた傷は深く乗り越えるのは大変そう。人類の未来もきっと万全ではないだろう。そんな中でネオテニイのアラタたちは何を思う? 何をしでかす? 閉塞的な空間に甘んじて生き続けるのではなく、飛び出して地球という世界も絡めた物語が広げられそう。そこに楽園はあるのか。それよりも愛をこそ育み尊ぶことを是として描くのか。読んで行くのが楽しみだ。

 丸井アネックスに「けものフレンズ」のショップができるってんで朝に「夜は短し歩けよ乙女」の2回目を見てからかけつけたら人がいっぱいで、おまけに入場整理券方式だったみたいで1枚もらったらすでに夜から。しゃあないこれが人気になることだとその場は整理券を受け取って退散し、浜さんによるゲーム市場の解説なんかを聞いたあとでまた新宿へと向かってしばらく並んで入場したらブルーレイ付きガイドブックは残りが3冊になっていた。昼にはあんなに山積みだったのに。まあすでに持っているからそれは他の人に回してTシャツもサイズが切れてて買えなかったんで、缶バッジの第3期ってのを制限の5個まで買い、アクリルキーホルダーから好きなジャガーとハシビロコウが残っていたんでこれも買い、ジャパリマンのような形をしたビッグサイズの缶バッジも買って退散する。

 3000円以上あったんで福引きも回せたけれど当たらず、フルルの栞をもらう。そして道すがら缶バッジを開けたらジャガーにカバにコツメカワウソにアメリカンビーバーにコツメカワウソだった。ちょっとダブったけれどまあ悪くはないか。ジャガーがいたしカバもいた。第3期はだからテレビアニメーション版「けものフレンズ」に出てきたフレンズたちが中心になっているのかな。ってことはサーバルもカバンもいるのかな。分からないけれどももうちょっと買いましてみよう。とはいえしばらくは行列ができそうなんで空いたのを見計らって行こう。そんな時が来るかどうかは分からないけれど。だって3カ月前まではほとんど知られていなかったアニメにこれだけの人が集まるんだから。流行ってすごい。

 それはどうぶつビスケッツ×PPPが「ミュージックステーション」に出てしまったことでも証明されているか。いくらビクターエンタテインメントの力が強いからといって新鋭も新鋭の声優ユニットをねじ込めるほど力はない。でも出てしまったおんは出してみたいと思った番組側の意図があったからなんだろうなあ。もうひとり、ビクターから出ていたのが竹原ピストルさんてところも渋さ爆発。目利きがいるからこそ長く音楽番組として支持されているんだろう。タモリさんの分け隔て無く接する優しさもあるのかも。「すっごーい、タモリさんはイグアナのフレンズなんだね」て言われても起こらずニマニマ受け止めたりしていたし。そんなタモリさんのイグアナ化したフレンズ姿を見てみたいなあ。よしざきおにいさん描いてくれないかなあ。


【4月13日】 漫画版は読んでないけど眼帯少女が気になってはいた「覆面系ノイズ」のアニメーションが始まったんで見たら早見沙織さんがシャウトしていた、って役的にはニノによる歌ってことになるのかな。主人公の少女がいて幼いころから海岸とかで歌ってて、そして進学をしてオリエンテーションに登場したバンドを見ていたらつい歌声が出てしまって走り出したりをして、そしてバンドのボーカルが逃げてしまって代わりにはいったバンドでバンドの音だしとかお構いなしに歌い出す。その歌声がシャウト系。叫ぶように振り絞るように歌う感じをよくもまあ、演じつつ出せたなあと早見沙織さんに感心。普通に歌えば歌える人でもロックとなればロックで歌う。すごいなあ。

 バンドのギターが気になっていて、そして現れた眼鏡の男子も気になっているその女子がどういう感じでバンドに加わり前からのボーカルとの関係をこなして2人の男子と向き合っていくかが大きな展開になるのかな。日曜午後8時半から放送するとかすれば普通に女子中高生が見ただろうし夕方5時でも見ただろう作品が、真夜中にこうして放送されてしまうミスマッチはやっぱりどうにかならないものか。「僕のヒーローアカデミア」の第2期が土曜日夕方に放送されているのは悪くない。土日夕方のアニメ放送を“撤退”したTBS系列から日本テレビ系に移ったのも、そうした放送時間帯へのリクエストが叶うって理由があったのかな。

 たぶん読んでいるとは思うんだけれどどこまで読み継いでいったか記憶が薄れてしまっている「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」。アニメーションも始まって1話と2話を見て、魔法の詠唱がとにかく下手で短縮とかできないけれど、呪文への理解は深くて真っ当に使うことにかけては実はとてつもない才能を秘めていたグレン=レーダスって魔術講師と生徒たちとの関係が、どうにか良くなり始めたところに外部から敵が襲ってきてはその力の前におそらく退散することになるんだろう。そして浮かび上がるグレン=レーダスの過去とその力。いったい何があったのか。これから何が起こるのか。ってあたりで学園ラブコメの枠を出て、ちょっぴり問題はあるけれども俺TUEEEEEの雰囲気を出して敵をなぎ倒していってくれる展開を期待できそう。つらつらと見ていこう。

 行ったことないけれど京都国際マンガ・アニメフェスティバルこと京まふが今年も9月に開催されるそうで東京で発表会。昔は東京国際アニメフェアがあって今はAnimeJapanがある東京圏に比べると関西圏で新作アニメの発表会とかイベントとかってあんまりないだけに、秋番組を紹介できるイベントとしてそれなりに位置づけもあるんだろう。次で6回目を迎えるイベントには4万5000人の来場も期待されている。AnimeJapanに比べれば少ないけれども秋の観光シーズンまっただ中の京都に何十万にが集まるイベントができるはずもなし。これだけの規模でも開催されることにはやっぱり大きな意味がある。だから続いているんだろう。

 関東と違ってハンディがあるのはファンだけでなくクリエイターも同じで、持ち込みとかすぐに行けそうだしコミティアでも出張編集部が並んだりする首都圏のようにはいかない関西圏のクリエイター。そんな人たちに向けて今年もマンガ出張編集部を置くそうで、それも去年は土曜日だけだったのを日曜日もいれた2日間にして大勢の希望者を裁けるようにするみたい。ゲームイラストなんかのクリエイターも参加できる企業の出展も設けるみたいでこれを機会にプロへって人がいっぱい駆けつけそう。あとはそうやってプロに止まった人たちが関西に止まってグループを作り繋がりを作ってクリエイティブのかたまりを作りだし、それを求めてコンテンツ企業なんかも関西にやって来たり立ちあがったりすれば最高。京都アニメーションがありP.A.WORKSもあって地方からのアニメ作りが行われてはいるけれど、まだまだ一極集中は激しいから。それを変えられる礎を作れるか。京まふへの期待は大きいよ。今年くらいは行こうかな。

 東京ドームシティへと回って新しくオープンするギャラリーAaMoってののこけら落としイベントを見物する。ライゾマティクスリサーチの真鍋大度さんとそれから振付師のMIKIKOさんが作り上げたダンス・インスタレーションで雰囲気的にはリオデジャネイロ五輪から東京五輪へと引き継ぐイベントで見せてくれた、ダンスに光が絡んでプロジェクションマッピングなんかを重ねる演出を、コンパクトな中に凝縮させたといった感じ。キューブにマーカーが取り付けていて、ダンサーさんが推したりすると光が追随したり、パネルを持って歩くとプロジェクションマッピングがいっしょに動いたりといった具合に、センサー技術がダンサーやオブジェクトの動きをとらえて光でもって演出する。なかなに見ていて面白い。ダンサーだけだとただ踊り、ただ動くそのアクションそのものを楽しむしかないけれど、これだとダンサーにプラスされた光の動きが全体となって迫ってくるから。

 つまりはダンサーの動きそのものが可視化され、拡張されたインスタレーション。ダンサーにとっても自分の身体のみならず、拡張されていくそうした光なり映像なりをも感じて動かさなくてはいけないため、ただ力一杯踊れば良いってことにはならない。それってダンサーにとって苦痛なのか、それとも踊りの可能性を広げるものなのか。ダンサーであり振付師でもあるMIKIKOさんがそこに絡んでいる以上は、ダンスとしての可能性は何か感じているんだろう。それは肉体そのものではないサイバネティクス的な、AR的な、MR的な拡張も含んでの可能性。肉体原理主義者からの評価は分かれそうだけれど、真鍋さんもジャグリングなりバウハウスといったダンスを取り上げ身体を広げる、身体を枠組みの中で動かすといった模索に言及し、ずっと行われてきたことだといった見方を示していた。今はそれがテクノロジーになった。今回はとくに光。その現時点での最高峰とおアピールしていた舞台を見られるのは15日と16日の2日間だけ。時間とお金と席があれば見に行くか。

 ううん、「NHKが3日に放送した番組『ニュースウオッチ9』の中で、日本の国旗を中国の国旗の真下に表示していたことが13日、わかった。岸信夫外務副大臣は同日の参院内閣委員会で、独立国の国旗を上下に位置させることについて「下の国旗は下位、服従、敵への降参などを意味し、外交儀礼上、適切ではなく、あってはならない」と答えた」って書いている新聞があって、これが記事にされること、そしてウエブでトップにされてしまうことの厄介さについて考え込む。

 当該のテレビ画面は見てないけれど、「上空を飛行する中国機に対し、スクランブルをかける自衛隊機のイメージをわかりやすく示すため、両国の国旗と機体の画像を使って放送した。国の上下関係を示す意図はなかった」のならグラフィックとして間違ってはな。それで常に同じ位置なり日本を上にしなくちゃいけなくなったら、幾つもの国旗を配置するデザインなんてできなくなるんじゃないか。国旗を紹介する冊子も横長にしなくちゃいけないのか。そもそも日本が上なら質問もしなかったし答えもしなかっただろう。そう思うと浮かんで来る日本こそ至上の考え方。あるはそれを喧伝することで得られる特定層からの支持のありがたみ。これを見逃すといつか本当に日の丸を落としただけで厳罰を下されかねない社会が到来するかもしれないなあ。


【4月12日】 そして始まった「なつめフレンズ」こと「夏目友人帳 陸」はいきなり夏目が子供になってしまって意識もその当時へ。親戚の間をたらい回しにされ友人もらず常に怯えていた心に妖怪たちが忍び込んで余計に疑心暗鬼を生じさせていたからか、田沼も多軌も友人なのに信じられずに田沼の家を走り回る。でも捕まえて迷惑そうな顔をしないでいっしょにご飯を食べようとするあたりに信頼も浮かんでいった感じ。見えることを知っていても、というより見えるからこそ繋がれた友人もいた。それをもっと早く知っていればと思わないでもないけれど、それで普通に暮らしていたら田沼にも多軌にもニャンコ先生にも会えずに終わった。それはつまらない人生。だからやっぱり子供の頃の夏目はああじゃなくっちゃ。そして今がこうでなくっちゃ。面白かったなあ。今回も楽しめそう。見ていこう。

 「PENTAXがなければCONTAXを使えばよろしくて」byアントワネット。いやそれもう無理ですから。リコーイメージングが個人向けカメラ事業から撤退するかもしれないといった報道で、今はリコーのブランドになってしまったPENTAXがなくなってしまったらPENTAX使いとして困ってしまうと思って浮かんだアントワネット様の警句。とはいえすでにCONTAXブランドのカメラは日本から消えてしまって久しく、移ろうにも移ることはできないしそもそも高級さでCONTAXの方が上。ケーキを食べられないからといって代わりに食べるブリオッシュとは正反対だからそもそも警句は成り立たない。

 だからといって他に乗り換えようにもNIKONだCANNONだといったメジャーブランドに乗りたくないから敢えて選んでいるところがあるPENTAXブランド。OLYMPUSのOMシリーズはミラーレスだからちょっと違うしコニカミノルタから引き継いだSONYでもシステムは組みづらい。富士写真フイルムもSIGMAもちょっと論外といったところで、NIKONやCANNONに続く真っ当なカメラのブランドとしてPENTAXは存在していた。それがなくなってどこに行ったら良い? って悩むユーザーも結構いそう。今さらNIKON? 今からCANNON? 嫌だなあ。とりあえずコメントは否定になっているけど、現状を思えばラインは縮小されていくし、売れなければSIGMAやTAMRONからの対応する交換レンズも出なくなる。いつか離れなくてはいけないのならいつ離れる? 今が見極める時なのかなあ。でもK−1欲しいなあ。

 「マインド・ゲーム」でも「カイバ」でも「ピンポン THE ANIMATION」でも「Kick−Heart」でも、枷を外し始めるとどこまでも増殖して歪曲して駆け上がって深淵に潜って、煌めいて淀んで渦巻いて爆発するビジョンへと向かってしまうところが感じられる湯浅政明監督にしては、不思議と人体は判別できて表情も観測できて物語も追跡可能な中にあったのたテレビシリーズの「四畳半神話体系」。中村佑介さんというイラストレーターが描くキャラクターや色調を原案に持ってそこに完璧ではなくても筋を追うように雰囲気をなぞらえ、私でも明石さんでも樋口清太郎でも誰でもしっかりと存在を保ちながら、京都という街を舞台に大学生たちの青春が描かれた森見登美彦さんの原作小説が持つあわあわとして飄々とした日常と、そこから半歩踏み込んで見える幻想をアニメーションにしていった。

 もっとも元が森見登美彦さんであり中村佑介さんであったこともまた、外さずとも枷など最初から存在しないかのように奔放で、どこに連れて行かれるか分からない物語の中でだんだんと変幻していく小津のようなキャラクターも取り込んで、毎週の展開へと見る人を引きずり込んでは激しく揉んで、そして次週へと放り出してさらに揉みくちゃにしていった。気がつくと最初と最後で大きく変わった雰囲気に、知らず馴染んで自分があった。毎週放送というテレビシリーズの持つ間隔を持たせた連続性がそんな変幻を許したとも言える。

 「夜は短し歩けよ乙女」の場合はどうだろう。原作は森見登美彦さんで、キャラクター原案は中村佑介さんと「四畳半神話体系」と同じ土台の上に立てられた長編アニメーション映画で、93分というそれほど長くはない時間のうちに上下左右へと枷を大きく外して観る人を引っ張り回して振り回しては疲れてしまうし、キャラクターの顔や頭身が大きく変わってしまってはやっぱり心が追いつかない。だからなのかキャラクターは仮装はしても基本は同じ姿形を持って描かれ続ける。舞台も異世界や裏世界などに行かず基本は京都の中心部。祭りが行われ酒場が連なり学生たちがたむろしてといった感じの現実的な空間を使ってその上で、登場人物たちを徹底的に歩かせる。「夜は短し歩けよ乙女」というタイトルどおりに。

 OBの結婚式で違うテーブルを囲んでいた酒が好きそうな黒髪の乙女を遠巻きにして、偶然を装い何度もその前に現れるといった行為を通して自分に感心を持ってもらおうとしていた「先輩」だったけれど、学園祭事務局長やパンツ総番長の後押しにもかかわらず自分を出せないまま二次会へと流れる黒髪の乙女を見失い、そして黒髪の乙女の夜を徹して四季を貫く歩行が始まる、それを追うように絡まるようにした「先輩」の歩行も幕を開ける、といったイントロダクション。そこから「四畳半神話体系」にも登場した樋口先輩や羽貫さんが現れ黒髪の乙女に関わってきては彼女を押し出しあるいは引っ張られていくような展開に、後を追う「先輩」も絡まってきて重ならずけれども離れもしないまま進んでいく。

 そんなストーリーの何という「君の名は。」ぶりか。もちろん黒髪の乙女には三葉のように意識を持って「先輩」を追うようなスタンスはなく、ただただ酒を求め知り合った人を助け旧い絵本を探して歩いているだけだけれど、そんな先々にだんだんと濃さを増して「先輩」の存在が感じられるようになり、最後はむしろ超意識的に「先輩」のところへと向かう。その間、「先輩」は見えないところでいろいろと努力をし、けれども報われないまま自分ひとり闇に沈んでいじけている。そのいじけを振り払って自分を露わにできるかがひとつの大きなストーリー。自分が傷つきたくない最近の男子の代表例として描かれているようなキャラクターではあるけれど、そんな「先輩」が最後の最後で発した言葉の裏側にいったいどれだけの奮闘があったかを思った時、それで良い、それで良いのだといった気持ちも浮かぶ。でももっと早く言ったらどうだとも。願をかけてパンツを買えなかったパンツ総番長のあの積極性を見るとそんな気もしないでもない。

 そんなパンツ総番長をめぐるエピソードも本編のサイドであり中軸でもある物語として目を引きつける。学園祭で向かい合って座った誰か美少女の頭の上と自分の頭の上に同時にりんごが落ちてきて、そして浮かんだ恋心。それでも分かれて今に到って忘れられないその思いを、どうにか告げようと画策した出し物がまた格好いい。それがストーリーの中ですっと現れては登場人物たちを巻き込み絢爛とした雰囲気の中に繰り広げられる。そしてサッとバラけてまた現れ。学園祭というどこか現実離れした展開でも許される状況をそこに持ち込み繰り広げさせた原作の妙味でもあるけれど、そんな展開を日常がフッと変化しても不思議のないアニメーションという表現で描いたことでなおいっそうのシームレス感が生まれた。もしもこれが実写だったら。ハリウッドならCGIを使ってうまく合成しそうだけれど、日本ではなかなか難しそう。あるいは最初から非日常の上に築かれる日常なり非日常を可能にする舞台なら、この題材も“実写化”できるのかもしれない。

 そんなパンツ総番長とりんごの君との“再会”がそのまま行っても良かった気がするけれど、そこに現れた鯉の君の歌のうまさにそっちが良いなあと揺れる心も当然か。新妻聖子さんだもの、巧いはずだよその歌声。ただ描かれる紀子さんという存在もまた美しくてなおかつ大学演劇部の舞台監督的な強さも感じさせる造形で見ていて気持ちを引き寄せられた。紀子さんに限らず羽貫さんもプリンセスダルマも直子さんも、女性の造形がすっくとして強情そうで意志があってと見て惚れ惚れする格好良さ。原作にもある強さだろうけれどそれを絵にして動かし声を乗せて見せた監督やスタッフの力量に拍手を贈りたい。

 めまぐるしく背景は変化し季節までもが移りながらも一本道を歩んでいくストーリーを、アニメーションという表現技法を使って変幻自在に示しつつもキャラクターはすっくと立って存在感を保ち、そして黒髪の乙女の歩みというレールにしっかりと意識をとらえさせてラストまで連れて行く。だから見ていて驚き面白がって笑えても、振り飛ばされて置いてきぼりにされることはない。そこが映画というひとつの空間で93分なりの時間をもらって楽しませるエンターテインメントにしっかり、湯浅政明監督が意識を向けてきた現れなのかもしれない。

 久々のゲンロンカフェでコニー・ウィリスをめぐって翻訳者の大森望さんと、「この世界の片隅に」の片渕須直監督が対談をして「ブラックアウト」と「オール・クリア」といった「この世界の片隅に」と同じ第二次世界大戦下のこちらは英国を舞台にしてその時代の雰囲気とかを緻密に描き出した作品の凄さ面白さを語り合う。コニー・ウィリスはいったいどうやって調べたのか。そこは文章だから書き飛ばせる部分もあるんだろうけれど、でも制服が紺色ではいけなくて黒だといった話をどこかで知って書いてるはず、ってあたりから広島や呉を調べ上げ戦時下の日本人の暮らしを緻密に描いた片渕監督の関心もコニー・ウィリスに向かっていった感じ。

 もちろん「リンカーンの夢」から「ドゥームズデイ・ブック」「航路」といった作品も読んではいたそうだけれど、自分がやっている時代とどんぴしゃなところを持ってきたのには驚いただろうなあ。壮大なパズルを作っている感じ。周囲のピースを徹底的に調べて構築し、その中をやらなくて良い自分の想像力でパズルを作っていくといった感想は、読めばなるほどと思うかもしれないけれど、実はまだ「ドゥームズデイ・ブック」しか航時史学生シリーズは読んでないんで、改めて時間を作って読み込みたい。会場では片渕監督と浦谷千恵さんが飫肥に文章と絵を寄せた「ブラックアウト」と「オール・クリア」が打っていて共に上下で計4冊が持ってきた分完売となていた。既に持っているだろう人たちが買っていった感じ。それだけ片渕監督のサインの価値もSFに知れ渡っていったってことだろう。嬉しいなあ。今回は買えなかったけれどいつかまた機会があれば。


【4月11日】 浅田真央さん引退決意の報。すでにソチ五輪の後で1度、実戦を離れて休養をしてそれから復帰した経緯もあって、そして復帰後はそれほど優れた成績を収められてなかったこともあって引退そのものに喪失感はなく、来るべき時がようやく来たんだなあといった感慨くらいしか浮かばないんだけれど、世間的メディア的には超大物選手の引退といった感じに大々的に受け止められている。女子のフィギュアスケート選手として一時代を作っただけに、ねぎらう意味も込めてこれまでの活動を振り返るのも当然といったところなのかもしれない。

 振り返ればトリノ五輪に3カ月ほど若すぎて出られなかったのがずっと影響したというか、借りに誕生日が3カ月早くてトリノ五輪に出る資格があって日本代表として出場していたら、全日本選手権なんかの成績から見て金メダルを獲得した荒川静香選手よりも上に行って堂々の金メダリストになっていた可能性もないでもない。でも出られず次のバンクーバー五輪はキム・ヨナ選手に敗れて2位。ここで3カ月分、あるいは1年分くらい成長していた浅田真央選手が挑んでいたら勝てたかもしれないと考えると、生年によって多少なりとも翻弄された選手人生だったと言える。そんな気もする。

 それでも世界選手権で3回優勝は立派な成績。たとえ五輪での金メダルはなくても、十分に国民を鼓舞した栄誉ある選手だとして讃えて良いんじゃなかろーか。それが五輪だけに偏りがちな世間の評価軸をズラしてアスリートの活動全般を讃え国民全体の意識を向上させる道だから。安倍総理には決断を。でも批判されることもありそうなだけに、そうした自分へのネガティブな感情を極端に嫌う性格だと、決断できないかもしれないなあ。ともあれお疲れ様でした。名古屋に帰って後進の指導にあたって暮れると名古屋のフィギュア王国も盛り上がるんだけれど。ちょっと弱体化している女子の底上げを頼みます。

 経過については詳細な検討が成され、それで評価も下されるだろうけれども傍目に見て思い浮かべたのがトム・ゴドウィンによるSF短編「冷たい方程式」。米ユナイテッド航空がオーバーブッキングだか従業員を乗せる必要があっただかいった理由から、旅客機に乗っていた乗客のうち4人ほどを選んで機外へと放り出そうとした一件、空気なりエネルギーの量が厳密に計算された宇宙船とは違い、旅客機の場合は多めに人を乗せて飛べないことはなかっただろうけれど、それだときっと連邦航空法に違反するのだろう、だから誰かを減らす必要があって、最初は半ば指名みたいな形で選んで求めて何人かは応じたけれど、最後の1人が医師で明日の診療があるからといって応じなかった。

 そして強固に抵抗をしたため警察だか空港治安当局だかが乗り込んできて拘束しては引きずり出そうとして、通路を引っ張られていった果てに戻ってきて流血をした姿を見せる映像がネットに出回って、これはヤバいと大手のメディアも取り上げ始めた。今後大きな騒動になりそうで、会社自体の経営にだって影響があるのかもしれない。普通だったら裁判で多大な賠償を要求されたって不思議はないけれど、過程において駆け引きがあってそれで決まった段階で、医師が無茶を言った可能性もないでもないだけに、断言するのは経過が明らかになってからにしよう。

 それにしても分からないのは、たとえ厳密なルールに則って誰かが犠牲にならなくてはならなかったとしても、真空の宇宙に放り出される訳でもなく、命に関わるような大問題ではない。だからば誰か応じそうなものなのに、1人が抵抗をして連れ出されるまでに到った段取りにどこか拙さがあったような気もしないでもない。4万円とか8万円とかって結構な金額の補償と、その夜に泊まるホテルと翌日の搭乗を約束されるなら、降りて一休みしたって良い気になるのは、ふらふらとしている根無し草だかrなのかも。忙しい人たちは1時間たりとも無駄にできないのかもしれない。日本でこんな機会に行き当たらないものかなあ。そしたら降りて短い休暇にするのに。そもそも飛行機乗らないから無理か。

 やっと見た「カブキブ!」は、原作こそ読んでないけれども予想の範囲にあって学園が舞台の部活もの。「響け!ユーフォニアム 〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」がヒットする中で、各社のキャラクターのベル系文庫レーベルが「ビブリア古書堂の事件手帖」のヒットに習うようにお店が舞台の探偵物を出し始めたのと同様に、変わり種の部活物を模索していった中から生まれたといった理解でいいのかな、それとも「カブキブ!」の方が早かったっけ、原点は「Free!」になるんだっけ。ともかく舞台は高校で、進学した少年が大好きな歌舞伎を学校でもやりたいからと同好会の立ちあげに奔走する話。そして見つけた梨園の御曹司や演劇部の宝塚や、日本舞踊の名取に本物の歌舞伎俳優をこれからどうやって勧誘していくかってのが、アニメでのメーンストーリーになるんだろう。

 そのうちの宝塚は男役が似合う女子なだけに歌舞伎の世界にどう混ぜ込むかに興味。見た目が麗しくも格好いい女子が男装をするのか女形になるのか、ちょっと気になってきたんで小説版を読んでみるかな。オープニングだと衣装作りができそうな眼鏡女子も参加しているみたいだけれど、第1話には出ていないからこれから出てきて引っかき回してくれると期待。演劇部の部長で空手が得意な彼女も関わってくるんだろうか。ともあれこれは観ていくのが楽しそうな作品。「フレーム・アーム・ガールズ」なんかも世界の危機とか行かずにプラモデルめいた美少女たちが、ふんわか戦う空気感が良くて毎週追いかけたくなっている。「けものフレンズ」とか「幼女戦記」みたいに圧倒的な物語性を持った作品はないけれど、毎週観たくなる作品が多い今クール。楽しめそう。

 10がオンラインだったから「ドラゴンクエスト11 過ぎ去りし時を求めて」は、スタンドアロンのパッケージソフトとして楽しむ「ドラゴンクエスト」として実に8年ぶりってことになるのか。発表から10年間待たせた「ファイナルファンタジー15」に比べれば、発表から発売までは2年くらいだし、間にオンラインの「ドラゴンクエストX」があってそちらも結構な人気となっていることからすれば、久々って感じはあまりはないんだけれど、それでもやっぱりプラットフォームごとに1作めいた感じになってしまっている状況は、スマートフォンのゲームが日進月歩の中でユーザーに揉まれ、進化し変化していることと比べると、どこか重たい感じがしないでもない。それで500万本とか売れれば単体で元はとれるんだろうけれど、かけた期間で割ると実入りもそれほどでもないからなあ。難しい。

 前の「ドラゴンクエスト9」が500万本近く売れたように、果たして「ドラゴンクエスト11」が同じくらい売れるんだろうかといった疑問にも繋がってくる話。なるほど、ブランドとしての価値はまだあるし、遊べば面白いんだろうけれども遊ぶためにはプレイステーション4なりニンテンドー3DSなりNintendo Switchといったハードが必要で、そして遊ぶ時間も数十時間から100時間といった重厚長大さに、あれから8年が経ってスマホ全盛となった今のプレーヤーたちが乗れるか否か、ってあたりをちょっと見極めたい気もしないでもない。あとは過去作の要素が入っていて懐かしい人には懐かしい設計が、新しい人にどれだけ受け入れられるんだろうかといった部分も。懐かしい人だけが遊んでも200万本くらいは行きそうだけれど、それで良いのかどうかっって問題がある。

 「ぱふぱふ」がすごいと言われても、今の10代にはちんぷんかんぷん。そんなアピールで届かないまま10年が経った時、もはや「ドラゴンクエスト」のプレーヤーは50代以上が8割とかってなっていやしないか。それでも売れればオッケーなんだろうけれど、やっぱり代替わりをして永遠のタイトルになって欲しい気もするからなあ。「ゼルダ」がNintendo Switch版で成し遂げ、また「マリオ」あたりは常にアクションゲームの最先端として大勢が飛びついているように「ドラゴンクエスト」も代替わりしていけるのか。最新作はその試金石になるのかな。Nintendo Switch版が出たら遊んでみるかな。まだ開けてないけどNintendo Switch。

 日経と読売がそろって今さら教育勅語はないでしょう、って書いている中で1紙だけが孤高にも「教育勅語論争 理念読み取る力こそ育め」と不思議な理論を繰り出して、教育勅語を擁護して来ているのは単に逆張りこそが活路といった商売上なだけなく、そう言い続けないと心が保たないくなっているからなんだろうか。「『朕惟フニ』と、明治天皇が国民に語る形で書かれていることや、冒頭に続く『我カ皇祖皇宗』のくだりをとらえ、『国民主権に反する』などと批判するのが、今日、どれほど建設的だろうか」とって言っているけど、国民主権に反するものはいついかなる時であろうと廃止続ける覚悟がなければ、いつか主権は蔑ろにされて、何者かによって虐げられて踏みにじられる。

 そして、いたずらに権力を振り回すのが皇室とは限らかったりする状況が今あって、だからこそ国民主権を改めて確固たるものにすべきなのに、そうは考えないところに、皇室の名を借りたどこかに権力を委ね従うべきだといった思惑でもあるのだろうか。そして読売が「『皇祖皇宗』以来、連綿と続いてきた『国体の精華』の維持を教育の根源とした。危急の大事には、皇室・国家のために尽くすことを、天皇が国民に求めている」としっかり、文面からその主旨なり現代との不整合ぶりなりを読み取って論じているにもかかわらず、理解できないのか理解したくないのか、「とくに批判の的となるのは『一旦緩急アレハ』と、義勇奉公を説く文言だ。国の危急のとき、国民がそれぞれの立場で一致協力するという意味に尽きる。戦後日本で置き去りにされてきたことに、目をつむってはなるまい」と書いてしまう。

 ここでも教育勅語の時代に、何を主権の位置に置いて臣民が一致協力させられたかが書かれていない。主体を奪われ雁字搦めの中で連れて行かれたことへの自省があれば、こんなことはとても言えないんだけれど、教育勅語は正しいという結論を絶対に譲れない地点から論じなくてはいけないから、皇室・国家のために尽くすといった主体の部分を隠してでも、国民が自主的に命を投げ出すような空気を醸し出さなくてはいけないんだろー。皇室・国家といった対象を掲げて言うことを聞かせようとした戦前よりも酷いロジック。だから通用するはずがないのに、掲げ続けなくてはいけないし書き続けなくてはいけない。大変だなあ、って対岸の火事でもないんだけれど。やれやれ。


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