縮刷版2017年3月中旬号


【3月20日】 いやあ、まさかここまで支離滅裂だったとは山口敬之氏。TBSの元記者で安倍晋三総理と仲が良いってことくらいは知っていたけど、その安倍総理が例の森友学園に100万円を寄付したかどうかって話について、振替用紙の名前が消されて上から修正されていたって状況について、羽鳥慎一モーニングショーに出演しては籠池理事長の側が安倍総理も寄付をした学校だからってんでその後の寄付とかいろいろを、有利に運ばせようと画策したんじゃないかなんてことを政府関係者の弁を採る形で話してた。聞いて浮かんだのが映画「この世界の片隅に」で、憲兵が呉の港をスケッチするすずさんを引っ立て、間諜行為だと糾弾し「悪辣かつ狡知に長けた女」と批難しているのを聞いて、吹き出すのをこらえていた義姉の径子と義母のサンの姿。まるで当たらない予測を蕩々と述べる憲兵を相手に、笑うに笑えなかったあの心境がとってもよく分かった。

 ここしばらくの籠池夫妻の言動を見てパーソナリティってものがつかめてきたら、1年半も前の段階で今を考え偽造の振替用紙を作っておこうとか考えるほど、狡知に長けた悪辣な人間だとはとても思えないだろう。名前を残して後の寄付とか証人とかを有利に運ばせたかったというなら、実際の名簿に名前が記載されていなければ意味ないじゃないか。修正した領収書をいちいち引っ張り出しては太陽に透かして見せてほらここに名前がらうでしょう、安倍総理ご夫妻から寄付を頂いたんですよと説明していた訳でもなく、それがあることをあの時点まで誰にも話していなかったことから、普通に頂いたものだと感じ、それをそのまま処理しようとして名義の面でひっかかり、だったらと直して入金したという、ただそれだけのことなんじゃないかって考えるのが流れとしては自然だろう。

 つまりは自分に正直で、それが世間的にちょっとばかり規範から外れてても信じるもことのためには突っ走ってしまう性格の人たち。悪辣に奸計を巡らせるのではなくストレートに間違いをしてしまうだけの人たちが、その時点で信じる人たちに囲まれ嬉しいお祝いをもらったという説明に、矛盾を感じることもなかなかに難しいんだけれど、それでは拙い人たちが、どうにかこうにか理由付けをして相手を悪辣かつ狡知に長けた人間だと見せかけたいと、親派を代弁者に仕立ててテレビに送り込んで喋らせる。でもそのあまりのベッタリぶりに、世間もこれはやっぱり無理なんじゃないかと思い始めている。その意味で籠池夫妻が自分たちにとって不利になることでも、洗いざらいさらけ出した意味はあった。彼らは信じる正義のために真っ直ぐで、そして回りは信じる正義などないその場しのぎの言説に溺れているといった構図を、追究すればもう大変だけれど誰もがああそうだったのかと信じるフリをしていたりするからさらに厄介。このまま潰されるかそれとも。今週が山だろうあな。

江波光則さんにとって「我もまたアルカディアにあり」に続くハヤカワ文庫JAからの観光となる「屈折する星屑」(早川書房、740円)はタイトルの英訳がZIGGY STARDUSTでつまりはデビッド・ボウイで、中身の方でも地球に落ちてきた男ならぬコロニーに落ちてきた女ってのが登場する。その女、別のコロニーが戦乱に巻き込まれたため亡命してきたレディ・スターダストことジャクリーン・サイラスの登場に際して、ヘイウッドというまだ少年が巻き混まれる形になり、そしてパートナーの少女も失ってしまう。ヘイウッドはホバーバイク乗りとしてコロニーの中を飛んで競争し、時には命も張ってきたけれどもその一件を機に空を飛ばなくなる。

 もう立ち直れなくなったのか。そんなヘイウッドに兄の敵と因縁をふっかけるオーグルビーという男がいて、ヘイウッドとはライバルだったヴィスコンティを撃墜して大怪我を負わせ、ほかに何人ものホバーバイク乗りたちを葬り去る。そんな中でだんだんと自分を取り戻していくヘイウッド。コロニーの外に出て事故に遭ったきっかけとなった照準器に秘密があって、それがきっかけをもたらし空に舞い戻ったヘイウッドはオーグルビーと対峙する。一方でコロニーの外では資源を巡って宗主国間の争いもあったりする。遠い世界の壮大な紛争と近い世間の些末な諍い。その隔絶がやがて近づき重なっていって……。置き換えれば廃墟化と過疎化が進む街で不良たちが狭く自分を主張し、世間がそれを潰そうとし、それでも矜持は貫く青春物語を、遠い宇宙に漂うコロニーを舞台に描いたSFって言えそう。表紙絵の少女はけれども。そしてやがて。そんな含みもなかなかに染みる。とりあえずレディ・スターダスト最高。踏みにじられたい。

 せっかくだからと横浜まで出向いて赤レンガ倉庫で開催中のラーメン女子博をのぞいたらチケットを買うのにも長蛇の列だったんで諦めて、歩いて石川町まで行ってギャラリー元町で開かれているkamaty moonさんの個展を再訪。いろいろと売れていたりしてタペストリーはもう売り切れてはいたけれど、大きめのものもまだいくつか残っていたから好きな人は行って手に入れるのが良いかもしれない。いつかあの独特のキャラクターをフル3DCGでもってモデリングして動かして欲しいなあという気持ちがあるし、フィギュアそのものをストップモーションアニメーションで動かしたら格好いいなあとも思うけれど、後者はそれ用に作るのも手間暇がかかるんで個人では無理か。キャラクターを起用したフィギュアアニメーションのスタジオが作るとかってのが良いかなあ、ライカスタジオとか。いやそれはさすがに。会期は26日まで。クリエイティブとキャラクターに関心があるなら行って損無し。サーバルちゃん作ってくれないかなあ。

 帰りは横浜中華街を散策、関帝廟にしても媽祖廟にしても入り口で供える線香を買わないと参拝すらできないあたりがしっかりしているというか、あるいは日本の寺院と違って賽銭といったシステムがないから入場料代わりの収益源としているのか、不明だけれども中国で大昔に幾つかお寺を観た時に、別に線香なんて買わなかったから横浜中華街独自のシステムなのかもしれない。違うかも知れない。まあ京都とか奈良のお寺だって入場料をとっているところはあるから、関帝廟も媽祖廟も来て入ってくれる人がいるならとそういったシステムにしたのかも。そこまでして見なきゃいけないかっていうあたりはちょっと迷うけれど。中華街を通り抜けながら結局中華料理は食べず。横浜ラーメン女子博もパスしていったい何しにいったんだ。まあ見ているだけでお腹いっぱいになれたから良いってことで。ダイエットダイエット。


【3月19日】  200メートルってことはだいたい「トップを狙え!」のガンバスターと同じくらいのサイズ。それが屹立しては迫ってくるんだから並の軍隊ではかなわない。ってことで帝国を率いる王はその巨人の塔を回避して皇国を討ち滅ぼして10年くらい。あぶれてしまった巨人塔はけれども破棄されるにはしのびないというか、とある理由があってそのまま残されホテルとして再利用されることになる。そんな設定を持っているのがSOWさんによる「ホテルギガントキャッスルへようこそ」(ダッシュエックス文庫)。そうとは知らずとある騎士に救われた思い出を胸に農民からどうにか頑張って騎士見習いまでなったコロナという少女が、軍隊のリストラにあって兵舎を追い出されて行く当てもなく、草でも食べようかとしていたおころに通りがかった男から、紹介状をもらって巨人塔へと出向く。

 千人の騎士がこもって戦ったそこなら騎士として自分を立たせる仕事もあるとたどり着いた場所でコロナが見たのは、巨大なホテルとして大勢の宿泊客を集め賑わっているギガントキャッスル。そこでレイアという名のチーフコンシェルジュに紹介状を見られ雇われ働くことになったけれどもホテルの仕事なんて経験もなく、サービスが何かも分かっていない。それでも騎士になると決めて学んだ騎士道の多くに込められた、誰かのために自分を犠牲にしてでも正義を貫く気持ちが、お客さまのためなら何でもやるといったホテルマンのモットーとも重なって、起こる困難を失敗しながらもどうにかこうにか乗り越えていく。呪われた鎧に人嫌いの竜に暴れる鉄の兵士たち。もちろん最後はレイアが出張ってきたけれど、その過程でコロナの必死な努力が効いてくる。たとえ目標は違っても誰かのために頑張る尊さ、大切さを教えてくれる物語。4人の主要なホテル運営の責任者で、まだ出てきてないっぽいのは誰だろう。先も気になる。

 声優アワードの主演男優賞に神木隆之介さん、そして主演女優賞に上白石萌音さんと、新海誠監督の長編アニメーション映画「君の名は。」のコンビが選ばれたことはそれでとってもめでたいことで、最もヒットした映画をしっかりと声の面から支えてともに、中身が瀧くんであるところの三葉なり、逆に中が三葉であるところの瀧くんをそれぞれがしっかり感じ取って演じたことが、入れ替わりという状況に説得力を持たせていた。方言になったり標準語になったりと大変だったはずだけれど、それも軽々とこなした演技力はやっぱり賞に相応しいと断言できる。

 もちろん異論もあって、「映画 聲の形」で西宮硝子の声にならない声を発してみせた早見沙織さんこそが主演女優賞に相応しいといった思いも一方には浮かぶ。そして「この世界の片隅に」ののんさんも。広島であり呉の言葉をしっかりと演じきってあの時代のあの場所に生きた女性のふわふわとしながらもしっかりと自分を見つけようとしている女性を現出させた。誰が受賞しも当然という中で、ひとりしかとれない場所にひとりだけ選ばれたことを、残念ではあっても間違いとは思わない。声優ではなく俳優? いつからそんな身分制度が生まれたんだ。アニメーションに登場する声を演じて評価されたなら、それは声優アワードを受けるに相応しい。それだけのことだろう。

 ここで俳優もやっている2人が受賞したからといって、声優が蔑ろにされたってことはなく、むしろ同列に比べられたってことで、来年はいわゆる声優をメーンとする人がとれば、それは俳優が演じても声優という人たちが演じても、良ければ共に評価されるフラットでイーブンで権威もある賞だってことになる。受賞を目指したいという動機も生まれる。だから頑張って欲しいと表向きには思いつつ、これが声優さんという存在をハンドリングする手間ってのを考えて、選ぶ側に何か思いめいたものが働いたのだとしたら、それはそれで面倒な話でもあるなあと妄想なんかを膨らませる。

 神木隆之介さんと上白石萌音さんなら登壇してもアップでドカンとスポーツ新聞は掲載できる。特別賞ののんさんも同様。でも……。当日のレギュレーションがどうだったかは分からないけれど、イベントに登壇する声優さんを報じる際に浮かぶモヤモヤが、報道というものと少しぶつかる場合なんかが取り沙汰されている中で、万事オッケーな俳優さん女優さんが登場して、ただでさえ知名度もある上に露出も多いとなったらそっちに気持ちも傾く、なんてことがあるのかないのか。そこは不明。ただの邪推で当たってないことを願おう。まるでウエブに顔が映らなくても、彼らが絡んでいるというだけで報じられファンも食いつく集団もあるしなあ。画像は不要で行けば良いだけのことなのかも。とりあえずこれが何か過渡期だとして、下降線へと向かう過渡期じゃないことを祈りたい。

 大洗で行われている海楽フェスタで「ガールズ&パンツァー」の最終章について発表があったそうで、年末の12月9日を皮切りにして全6話を劇場で公開していくってことになったらしい。「宇宙戦艦ヤマト2199」や現行の「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」なんかでもとられている手法。「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」のルウム編もたしか何話かで公開されるんだっけ。どれもバンダイビジュアルの手掛ける作品ってことで、そうやって何話かを劇場で順次公開していく作品が増え過ぎた結果として、「宇宙戦艦ヤマト2201 愛の戦士たち」と「ガールズ&パンツァー 最終章」が最終話あたりでごっちゃになって、迫る白色彗星帝国をみぽりんたち大洗女子学園の戦車道部とそして黒森峰ほか仲間たちが戦車並べて迎え撃つという展開にならないかと妄想している。そういやあ最近、ヤマトとガルパン、いっしょに上映してたしなあとも。さてはて。

 明日でいったんん、上映が終わるってんでイオンシネマ幕張新都心まで行って「ガールズ&パンツァー劇場版」のULTIRAでセンシャラウンドな上映を見に行ったら、ちょうど「ガールズ&パンツァー最終章」の上映が12月9日の封切りと同時にスタートできるってTwitterの中の人が登場して喜んで報告してくれた。おめでとう。最初の上映こそ遅れたけれどもその後、最良の環境を用意して観客に提供してきたことが認められたか、そうした努力の甲斐あって観客が動員できると運営側を説得できたか、分からないけれどもいずれにしても劇場の努力が顧客も喜ぶプログラム編成に繋がるといった実例を、ここで見せられたって感じ。

 家でテレビで映画を見たり配信で見たりできる時代、映画館もチェーンによる画一的な配給では行き残れない、それぞれが独自のマーケティングで企画し展開していくことで打破できるんだってこと。ライブエンターテインメントの時代ならではの事例でもある。こういう現場の活動に、あとは配給側がどれだけ機動的に柔軟性を持って応えていけるかが大事なんだろうなあ。決まりだからと映画を出さないとかでは稼げないよってことで。そして久々に見た「ガールズ&パンツァー劇場版」はやっぱり面白かった。ULTIRAで前目で見ると湯船につかった大洗女子や聖グロリアーナやプラウダや知波単の洗車乗りたちの、湯面から下もうっすらだけど見える感じ。丸みの下の部分とか。先っぽは……描かれてないからそれは無理か。いずれにしてもやっぱり見て感動、そして感慨の作品。いつかまた上映されると信じてその時を待とう。


【3月18日】 日本武道館での公演を前にした早稲田での学園祭あたらりから割と見て来た方だけれどもきゃりーぱみゅぱみゅさん、ライブに行っても別に普通に並んで入ってグッズを買ってライブを観て帰ってくるだけなんで、ファンクラブの長的な人間に会ったこともなければ誰かも知らず、当然に何かを頼ることもない。というか、ファンクラブのベテランだからといって事務所と何か親しいわけでもないし、事務所から便宜を図ってもらっている訳でもない。チケットを買うのにファンクラブの長を通さなくてはいけないなんてこともなく、無視すれば平気で無視できる存在。そんな気もするんだれどなぜかファンクラブの重鎮として中年男(って言える歳でも僕はないけれど)が暗躍しては、淫行以下の最低な行為で逮捕されていた。

 いったい何を言って誘ったのか。あるいは何がその中年助平男を権力者めいた存在に見せていたのか。その男に嫌われたらファン活動ができなくなる、なんて話も回っていたけれど、ファン活動なんて自分が好きでライブに行って、プレゼントだって箱にでも入れて渡すくらい。あとはバスツアーめいたものに参加する? そこでも参加者の関係は他のファンとイーブンであって古株だからって運営側に優遇されるものでもないだろう。それともそういう優遇があってまとめ役でも依頼していたというなら話は別だけれど、そういった声は聞こえてこないから中年男の活動はある程度の集団で何かする時のまとめ役。そんな程度だろう。

 ただそんな程度でも自分よりはるかに上の歳だとそれこそ中高生は仰ぎ見て、そのまとめ役としての力に頼ってしまうこともある。逆にいうならそのまとめ役を通さなければ何もできないと思い混んでしまう可能性もある。だから事務所はそういう動きを察知して、勝手な代紋を振りかざす輩を排除すべきだったけれども外で勝手にやられていては気づかないよなあ。その辺り、どうだったの調査をちょっと待ちたいところ。ツアーはまだ続くし東京地区でもNHKホールなんかのライブが残っているんでそこで、健全な運営がなされることを願おう。ファンクラブの仕切り直しもあって良いかもなあ。

 うーがおー。それを幕張メッセで叫ぶためだけに1万円近いチケットを買うのもどうかなあ、って思ったけれども第10話「ろっじ」でサーバルちゃんがぼろぼろと涙を流した顔を見て、これはもう応援しにいかなくてはいけないとチケットを買って朝も早くに起き出して、幕張メッセに到着してはサブにあたるROARステージのあたりをぶらぶら。でもまだしばらく始まりそうもないんでDJビクターロック(a.k.a片平実)のプレイをながめつつロッカーに荷物を預けつつ、サーバルちゃんのおめんを取り出しふところに忍ばせステージ前まで行ってまずはワン!チャン!!ステージってのを見物。何かコンテストめいたものから出てきたグループが演奏していて最初はAUSTINESていう細身のボーカルでメロディアスにロックを歌うグループが出てきてこれはなかなか良かった。キーボード女子の声も混じって耳に心地良い。

 そしてヒップホップだけれどビートを聴かせるじゃなくシャカシャカとハイハットが響く上で流れるように歌うSILYUSって個人が歌唱してこれは不思議な雰囲気だった。海外の新しいヒップホップの潮流だそうでビートに乗せるんでもパワーで引きずるんでもないリズムとリリックでどう乗れば良い? って観客が戸惑う音楽。J−POPはそれを取り入れ歌にしてしまっているけれど、ストレートにやっているのは珍しいそうでこれからの注目株って言えそう。そして登場のkoboreは活動が東京なんでファンも結構鋳たみたい。もうギターが響く直球のロックでパワーがあって勢いがあって歌もメロディアスで人気が出そう。来年はROARかメーンのステージに現れる? そんな予感。

 そして登場のどうぶつビスケッツ+PPP。リハーサルの段階ではまだ観客も少なくどうしたものかと焦ったけれど、本番ともなるとコーナーいっぱいに来場者があってそれなりに盛り上がりを見せてくれた。フェスに来てくれる人はやさしい。歌ったのは弐曲で「大空ドリーマー」をまずはPPPが歌い、それからどうぶつビスケッツの3人を呼び入れ「ようこそジャパリパークへ」。ちゃんといっしょに「うー、がおー」も言えたしコールもあって盛り上がった。サイリウムを持ち込んでいた人もいたかなあ。ちょうと真裏あたりで「ばってん少女隊」が大きなステージで演じていて、その盛り上がりにはまだ及ばなかったけれど来年はあのステージに立って万人を前に「うー、がおー」をやって欲しい。というかやるだろう。信じてる。そのまえにテレビシリーズの結末を見届けないと。

 CDを買ったお渡し会でジェンツーペンギンのジェーンこと岡村響華さんのサイン入りポスターを受け取ってからCoccoさんのライブステージへ。ファーストアルバムを持ってるくらいに好きだったアーティストだけれど、それこそ10数年、気にしていなかったら休養を経てまた活躍し始めているようで、昨日もテレビ番組に出てTHE BOOMの「島唄」が好きって話をしていた。でもライブではそこで着ていた沖縄の衣装ではなく体にまとわりつくブーケのようなロングドレスで登場しては、あの大ヒット曲「強く儚い者たち」をまず歌って気持ちを一気に20年前へと引き戻す。その後も映画「式日」に使われた「raining」のように、1990年代にタイアップとかで歌って耳になじみのある曲を何曲か。MCを入れず歌の間は体をほぐすように腕を回し腰を捻ってまた向き直り、歌い始めるといった感じ。シンプルでそしてパワフル。改めてすごいシンガーってことを実感させられた。良いものを見た。

 その後にまたDJビクターロック(a.k.a片平実)のプレイを聞きつつ時間も時間だからと退散、ドラゴンアッシュもあればサカナクションもあってとビクターのロックの本流を聞かずにどうしてといえば山下達郎さんがあるからで、なければ最後まで聞いていたかった。ビクターってサザンオールスターズでSMAPな印象があってロックってイメージがなかなか出てこなかったけれども、音楽業界のこれからを考え若い人たちをどんどんと取り入れ出していこうって活動をしばらく続けてサカナクションを始めいろいろ出てきたって感じ。だからこそこうしてロック祭りと銘打ったイベントを開催できて観客も集められる。作り上げる音楽。引っ張り上げる音楽。それが成されているうちはレーベルとしてまだまだ存在感を発揮していけるだろうと思いたい。どうぶつビスケッツ+PPPもいるし。ロックだし。

 そして市川市文化会館へと回って山下達郎さんのツアー初日。自分も歳だしお客さんも歳なんで時間を短くするって言ってたったの3時間10分くらいしかやらなかった。でも中身はギッシリで僕が好きな1980年代とかの曲をいっぱいやってくれるからとっても嬉しいし聴き応えがある。あとは……それは言わない、言って聞いて驚いて欲しいから。とにかく面白いツアーになっていた。また行きたいし1回くらいなら行けるけれどもそれ以上となるとチケットが。まあ頑張ろう。グッズはパンフレットととり・みきさんによるタツロー君がいっぱい描かれた缶入りクッキーを所望。パンフレットをひらいたらとり・みきさんとヤマザキマリさんの「プリニウス」コンビがコメントを寄せていた。とり・みきさんは長いけれどヤマザキマリさんもファン歴長かったとは。いつかその歌声で達郎さん、やって欲しいなあ。


  【3月17日】 16日の夜にテレビの放送で紹介されて混み始める前にと、16日午前に出かけた国立新美術館でのミュシャ展では、大作にして門外不出とも言える「スラヴ叙事詩」が20点、はるばる海を越えてプラハ市立美術館からやって来ていてもう圧倒的な迫力に呑まれそうになったけれど、個人的にはミュシャといったら「ジスモンダ」から始まるサラ・ベルナールの公演ポスターであって、そこに描かれたミューズ、サラ・ベルナールの美しさや凜々しさと、それらを取り巻くデザインとの融合から感じられる先進性であり革新性を堪能できたのがまずは嬉しかった。

 あらゆるポスターが来ている訳ではないけれど、主要なものはあってそこにミュシャがデザインの世界で繰り出したアール・ヌーヴォーの神髄を感じられた。次はポスター主体の展覧会も見てみたいところ。それともカメラのドイの創業者が寄贈した堺市の美術館に見に行く方が速いのかな。ただやっぱり迫力の「スラヴ叙事詩」は、描かれているストーリーなり背景を知ればさらに楽しめるかもしれない。買ったカタログを読み込めばそのあたりも分かるだろうから、次にいくまでの勉強をしたいところだけれどテレビでの紹介なんかもあったから、これから毎日が大混雑になってしまうんだろう。

 だったらいっそ戻ってからプラハ市美術館へと出向くか。それが出来ないからこその日本での公開大歓な訳で悩ましい。そんな「スラヴ叙事詩」を見て思ったのは、生ョ範義さんだなあ、ってことでミケランジェロ張りの肉体を持った人物像が広大な空間い配置され、ひとつの構図を醸し出しているのは小松左京さんあたりの小説で、生ョさんが描いた表紙絵を感じさせる。表情とかも生ョさん。というかミュシャが培ってきた技術なり伝統を、生ョさんも取り入れて描いたってことなんだろう。加藤直之さんぽさもあったり佐藤道明さんっぽさもあったりして、ある種の源流めいたものも感じられた展覧会。やっぱりまた行くか。

 島根県の松江市に行ったのはもう15年も前のことで、玉造温泉で日本SF大会が開かれるってんで飛行機で松江空港まで飛んで、そこから松江市内に入ってしばらく市中を散策して、小泉八雲さんの暮らした記念館を見たり松江城の近くまで行ったりしたらとてつもない豪雨に見舞われて、背負っていたリュックに入っていたノートPCが雨にやられて使えなくなってしまったという苦い記憶。それでも風光明媚でお城の周りにある壕の美しさなんかもあって街としては気に入ったし、温泉も楽しかった。いつかまた行ければと思いながらも15年。なかなか行けないでいる。

 いつ行こうか、ってもしかしたらこれがきっかけになるかもしれないイベントが「怪談のふるさと松江」とも絡んで現地であの茶風林さんが怪談を朗読してくれるってもので、過去にも行われて東京あたりから大勢が飛んでは松江を観光したそう。なんで「サザエさん」の2代目磯野波平を演じている茶風林さんがってそれは怪談が好きだからで、もうずっと「怪し会」ってのを開いて松江でも怪談の朗読を行っているとか。怪異蒐集家の木原浩勝さんとも昵懇で、その流れで木原さんとそして「秘密結社鷹の爪」のFROGMANさんが繰り広げている「平成松江怪談」のアニメーションに、茶風林さんが参加して新しい作品が作られた。

 その発表会があって見物に行って見た怪談は、絵がFROGMANさんだから見て恐怖を誘うようなものではないけれど、ストーリーからジワッと怖さがにじみ出るところがあって面白かった。うわっと驚かせるようなものならそれこそ稲川淳二さんが繰り出している怪談なんかがあるけれど、木原さんのは実話として集めたものだけあって生活の中にふわっと開く裂け目みたいなものからのぞく、闇のようなものが感じられてジワッと怖くなる。出歩かなくても家にいるだけで迫ってくる怖さっていうか。それだけに聞けば今を考え直して怖さを振り払うために何をすれば良いかを考えて観たくなる。公開された「指の輪」ってのも粋すぎた怪異への接近を諫めるような話。木原怪談が持つ魅力に溢れてた。

 そんな木原さんが、できたてホヤホヤというか昨日経験したこととして話してくれた怪談がまたジワッとくるというか、家で仕事をしていると怖いからもっぱらファミレスで仕事をしているんだけれど、座った席が磨りガラス越しに対面の席があって、そこにどうやら3人くらい人が来たみたいだと感じ、そして見ていたウェートレスもやっぱり3人だろうとコップを3つ、持ってきたら座った人から2人ですよと言われてコップを1つ持ち帰った。それはなにだと木原さんがのぞくと2人しかいない。自分だけが間違えた訳ではないのはウエートレスさんの行動からも分かる。だったらいったい誰だったんだ。ジワッ。そのファミレスがどこかは言わないけれど、行くならちょっと注意しよう。自分ですらそこに存在しているか、分からなくなってしまうかもしれないし。

 「しのぶふる」になってたなあ、って印象の末次由紀さん「ちはやふる34」。3年生になって高校選手権も終わって3年生は引退となって綾瀬千早はいったい進路をどうするかって迷ってる。そりゃあクイーン戦に挑戦したいけれども成績は悲惨で年末に向けて繰り広げられるクイーン戦に向けてかるたなんかとっている余裕はない。けれども出たいといった気持ちの中、強くなりたいと周防名人が出向いている東大のかるた部に出入りもしてたりする千早。その一方でクイーンこと若宮詩暢は周防名人と出たテレビが評判いなって、タレントめいたことを始めたもののそこで行われる台本通りの扱いに心がだんだんとしおれていく。

 誰かとかるかととることがなく孤高を気取っていたけれど、そこにしのびよる不安の陰。そして出かけた先生の教室でも今ひとつ自分を発揮できずに悩んだ果て、周防名人に電話をかけるところまで追い詰められる。でも出なかった周防名人。すれ違ってしまったのを見た綾瀬千早が、わざわざ詩暢ちゃんが電話をかけてくるくらいのことがあると訴え周防名人を京都へと向かわせる。そして訪ねた詩暢の家。連れ出された場所で詩暢はかつての自分、孤高に向かう前の自分のような少女を見つけてひとつ、新しいフェーズへと踏み出す。そんな成長の物語を後半の軸に、かるたというものが学業とも、そして職業とも両立しない難しさってものを描き、それでもかるたに勤しむ者たちの決意って奴を浮かび上がらせる。人生に無駄なことなんてない。そんな強いメッセージを放つ巻。ここから先、いよいよ頂上を目指す話が繰り広げられていくんだろうなあ。どこへ行く千早。どこに向かう詩暢。そして太一と新。待とう続刊。瑞沢高校かるた部が文化祭で始めた野球拳の行方とともに。

 放逐された漂泊の民が居場所を求めようとして果たされた歴史が過去に決して多くはないのと同様に、泥クジラの民たちが安住の地を得るのはやっぱり難しいようで、アモンロギアの地へとたどり着いた泥クジラは、そこの王とあって居場所を得ようとしたものの印しつきの異能をあてにされ、帝国を相手に戦う尖兵として使われようとして、拒絶しようにも先乗りをしたスオウら無印の者たちが人質にとられて身動きがとれない。アモンロギアの事情も分かるけれど、それで民をバラバラにするのはやはりできない。かといって逃げ出すのも難しい状況で、チャクロが決意しオウニが立ちあがった先、アモンロギアと泥クジラの関係はどうなるか、そして帝国の魔手はどこまで迫ってくるのか。アニメーション化にも期待がかかるけれど物語としての先はまだ見えず、混沌の中に足掻く者たちの苦闘が続く。漂泊の民が得るカナンの沃野は果たして何処に。追い続けようその旅路を。


【3月16日】 そして情報が出始めた梅田阿比さんの漫画「クジラの子らは砂上に歌う」のアニメーション化情報。監督が「四月は君の嘘」を手掛けて評判をとったイシグロキョウヘイさんで、「たまゆら」の飯塚晴子さんがキャラクターデザインを務めてJ.C.STAFFがアニメーション制作ということはまずもって万全安心の夫人。その世界観を大きく損なうことなくしっかりとアインメーション化してくれることだろう。脚本も横手美智子さんだし。音楽の堤博明さんは「クロムクロ」だからこれも聞いた感じに合ってた印象。個人的には舞台版の主題歌が強烈だったんでどこかで流れて欲しい気がするけれど,それは別物と思い今はアニメがどこまで描かれるかを想像しながら放送を待とう。あとは声、誰になるかだなあ。

 アニメーション部門は「この世界の片隅に」が受賞、ってな感じに予定校を書いて臨んだ第20回文化庁メディア芸術祭だったけれども、期間外だったのか優秀賞とか審査委員会推薦作品とかにも入ってなくって、だったら何が大賞かと見たら新海誠監督の「君の名は。」だった。興行的にも内容的にも順当で、講評に当たった審査委員の高橋良輔監督「映画館の前に私と遜色のない大人たちがいて何人もチケットを買っている。この作品には力があるんだ」と感じたとか。そして「ここまで日本のアニメーションが来たんだな」という感想を抱いたそうな。

 そこから高橋監督、「私のアニメーションの出発は『鉄腕アトム』で、テレビアニメで21分くらいの内容なんですが、200枚を目指していたものが少ないと900枚くらいになった」と過去話。「このくらいでテレビシリーズを着くていったのが出発ですから、私の中にはどこかアニメーションは絵をていねいに描けば良いものではないだろう、内容をやっぱり面白くしろよと」いった思いがあったとか。「アトムは4年間で200本の作品があるが、内容が実にバラエティに富んでいる。今のアニメ状況を作ったアトムの中に、こんあモチーフを持ち込んで良いんだというのがあって、アニメーションの広がりを作った作品でした」とアトムにひとしきり敬意を示す。

 それが「君の名は。」とどう関係があるかというと、「アニメーションは中身であって、丁寧に作れば良いんじゃない。面白く作ってくれよという思いが強かった」。見た目の良さで人気になっているだけなんだろう。そんな思いも見る前にはあったのかもしれない高橋良輔監督だったけれど、「君の名は。」については「内容に伴うクオリティがあり、堂々たるメディア芸術祭の大賞作品だと思っています」というから見て気にいったってことだろう。そんな大先輩の言葉を新海誠監督が、直接聞けば嬉しかったかもしれないけれど、お昼の「SUGOI JAPAN」には登壇してもこちらには来ず、コミックス・ウェーブの代表の人が来て受け取っていった。ちょっと残念。まあ良い、当人に会っても聞くこともないんで次に出来る作品を応援していこう。

 講評では高橋良輔監督、優秀賞の「映画 聲の形」について触れて、「例えば山田尚子さんがつくられた『映画 聲の形』は京都アニメーションでつ作られました。京都アニメーションはおよそ日本のアニメーションの経済的なことを言えば20年間を支えてくれた。可愛い女の子たちが出てきて、その何気ない日常をエンターテインメントに仕上げた。それが日本のアニメーションを取り巻く環境を助け、出版も助けてくれた」と褒めそやした。1つのアニメーションスタジオについて高橋監督が、ここまで踏み込んで言うのってちょっと珍しい。というかスタジオと作品とアニメーションの状況をしっかり結びつけて語れるってところが面白い。富野由悠季監督にはここまでの状況認識、ないだろうから。する必要を感じていないっていうか。

 なおかつ高橋良輔監督、「映画 聲の形」については「今までの京都アニメーションの作品から1歩も2歩も出たのではないか。作り手というのは同じ地平にいつまでもいられない。1年経てば1年進歩する。日本のアニメーション界は少し停滞気味で絵のクオリティが上がっているが、内容はどうなんだという声があった。2016年はないようも充実していた」と絶賛した。きっとお気に入りだったんだなあ。だったらどうして大賞に……とも思ったけれどもやっぱりそこは興行収入も含め多くの評価軸があっての結果かなんだろう。ともあれこの2作がが入って良かった。

 優秀賞にはブラジル映画の「父を探して」も入っているしなんか結構なまとまりぶり。審査員推薦作品には京都アニメーションによる女の子たちの日常劇の「劇場版響け! ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」も入ってた。あと商業だと「甲鉄城のカバネリ」とか「終物語」とか「モブサイコ100」とか「僕だけがいない街」あたり。「この世界の片隅に」は来年回しって感じかなあ。エントリーしてないってことはないだろうから。審査委員会推薦作品でインディペンデントだと円香さん「愛のかかと」とか岡崎恵理さん「FEED」、そして先生の山村浩二さん「サティの『パラード』」が入った。 個人的には山田裕城監督の「風の又三郎」が入ったのが嬉しい。これを機会に上映されて欲しいと思うのだった。あにめたまご2016の1本で3DCGなのに優しい映像が素晴らしいのだ。

 意外だったのがエンターテインメント部門で、普通はゲームだとかデジタルを活用したイベントめいたものが入るんだけれど今年は映画「シン・ゴジラ」。特撮怪獣映画だけれど映画として日本アカデミー賞最優秀作品賞なんかも獲得していて、何を今さら感も漂うもののそこは文化庁メディア芸術祭、メディア芸術といった意味合いを「シン・ゴジラ」に当てはめモーションキャプチャーでもって人の動きを読み取りデジタル化して3DCGで描いていったって部分、そしてiPhoneなんかも駆使して撮影を行い今までにあい映像に仕立て上げた部分なんかも評価したんだろう。それは1本の映像インスタレーションでもあるってことで。あとは内容か、政府をおちょくるようなストーリーは批評的で風刺的。つまりは芸術的だものなあ。

 でもエンターテインメント部門は新人賞の岡崎体育さん、寿司くんさんに持って行かれたって感じ。当人たちが登場しては喜びつつ次に東京五輪に出たいとか行ったりしてユニークな立ち位置を見せていた。あのミュージックビデオの「MUSIC VIDEO」は何と制作費が6万円でうち3万円が交通費だったとか。最少人数でってつまりは岡崎体育さんと寿司くんさんにマネージャも加えた3人で作ってそしてあれだけの完成度。だったらとてつもない金額をかけたら何ができるのか、OK Goだって腰を抜かすような作品ができるかっていうと、そこはアイデアがあって作品として歌って聞かせつつ映像を見せたらどれだけインパクトがあるかを考えるチーム。大金ありきってよりは結果としての大金をかけてユニークなビジョンを見せてくれると信じたい。9月の展覧会には来てパフォーマンス、見せて欲しいなあ。

 言われた話をそのまま書いたら名誉毀損の幇助にだって捉えられかねないと考えるなら、時の為政者がちょっと露見したら拙い筋へかつてお金を寄付していたって話が出てきたとして、それをそのまま相手の言い分だからと載せることを少なくとも一般紙と呼ばれる面々はしないだろう。なおかつ為政者の側はそんなことはないと否定していたりするにもかかわらず、一般紙と呼ばれるメディアがこぞって金額までも含めて記事として掲載してきたのは、表だっては否定があっても背後ではそれを確たるものとして認めるに足る情報が出回っている、ってことになるんだろうかそれとも誰かが言ってることだからと無責任にも載せてしまっているんだろうか。そのあたりが少し気になる。時の為政者は真っ向否定でも、こうまで包囲網が狭まってくると次はどんな言い訳を考えるか、その猶予期間が今ってことになるのかな。一両日中に動きがあるかな。


【3月15日】 壁にボスから映し出されたミライさんにはまだグッとは来なかった。ああそうか、こんな顔をしているのかと、スマートフォン向けのゲームをやっていなかった身として確認をして、ジャパリパークのガイドとして頑張っていたんだなあと改めて思った。でも、そんなミライさんがボスか何かに向かって話しかけている後に、ひょこっとサーバルちゃんが顔を出した瞬間にグッと来た。ああ、やっぱりいたんだ、ミライさんにもサーバルちゃんが。でもきっと今ごろは……。手前にかばんちゃんと旅をするサーバルちゃんがいる以上は、そこは過去の世界であって記録として残っただけ。そのサーバルちゃんが今もいるとは思えない。ミライさんも。そんな過ぎ去った時間を思って泣けてきた。

 そこに乗ってきた、過去のサーバルちゃんとミライさんの会話で、大きなセルリアンをぱっかーんしたようって話が出て来ているのを見聞きして、かばんちゃんと旅をしているサーバルちゃんが涙を流し始めたのを見、て釣られてじんわりと涙が出てきた。その瞬間によぎった思い。過去の世界でサーバルちゃんとミライさんはいろいろと頑張ったんだろう。けれども現状のジャパリパークはあちこちが荒れて施設は廃墟となり、ミライさんのような人間はどこにも存在していない。流れた時間。過ぎ去った命。そんな状況を背景にしつつ、過去のサーバルちゃんが経験しただろうことを、今のサーバルちゃんがもしかしたら引き継いでいるかもしれないといった可能性が浮かんで、悲しみを乗り越え今に到って振り返る過去を思って泣けてきた。

 説明がある訳ではない。というか、ゲームに関しての説明はテレビシリーズでは一切されていない。ふわっとは知っていてもゲームの内容についてはまるで知らないといっても過言ではない。けれども、ジャパリパークには過去があったことは分かっていて、それが今は廃墟となるくらいに時間が経っていることも分かっていて、そんな世界でフレンズたちはサンドスターが当たって現れ、セルリアンもそんなサンドスターによって生み出される世界だと分かっている。そこでどうかなって今のサーバルちゃんが存在し、かばんちゃもいたりすることを知っているから、そんな文脈の中に描かれた瞬間のシチュエーションが涙をもたらす。連続テレビアニメーションの強さであり、しっかりと描いてきた脚本の勝利、なんだろう。「けものフレンズ」。最高だ。そして最強だ。このまま突っ走って行ってくれると信じて来週も、その次も見よう。その前にビクターロック祭りで「うー、がおー」をやって来よう。あのサーバルちゃんの涙を見たら、以下にゃいかんだろう。なあおい。

 そんな「けものフレンズ」のブースが「ニコニコ超会議2017」に登場するとかで、いったい何を再現しているのかに今から関心。「さばんなちほー」がモデルになるらしいから、あるいは草むらの中を走り回りながらサーバルちゃんに追いかけられたり、サーバルちゃんとなって追いかけたりする狩りごっこを楽しむのかもしれない。それともバオバブの樹を爪を立ててよじ登るとか。水の中から「だーれー」と現れるカバに驚くとか。いろいろ考えられるなあ。派手なアトラクションにはなりそうもないけれど、あの世界が体験できるならそれはそれで行ってみたい見てみたい。きっとどったんばったん大騒ぎになるだろうけれど、それでものぞいてみたいなあ。

 安里アサトさんの「86 −エイティシックス−」もSFだったけれどもこれもまたSFであるいは電撃文庫はSFライトノベルの復権を狙っているのかとも思った電撃小説大賞選考委員奨励賞受賞の藻野多摩夫さんによる「オリンポスの郵便ポスト」(電撃文庫)は、地球からの移植者によってテラフォーミングされながらも謎の隕石群によって破損し、内乱も起こって地球との連絡が絶えて200年とかってスパンが過ぎた火星を舞台に、滅びへの道を避けられない人類が精一杯に生きている中、そに投函すればどんな願いもかなうという、それこそ標高2万7000メートルはあろうかというオリンポス山のどこかにあるポストへと、手紙を投函に行くことになったエリスという少女の郵便配達員と、自身を捨てに行きたいというくろという名のサイボーグというかもはや人造人間となってしまった男との道中記。舞台設定だけでとっても強いSF感が漂ってくる。

 途中にH・G・ウェルズの「宇宙戦争」の場面だとかが挟まれたり、軌道エレベーターの逸話が挿入されたりと作者のSFへの関心もとっても高そう。テラフォーミングされながらも重力の問題があって大気が地表に根付かない状況が続き、あと100年もすれば大気がなくなってしまって滅ぶだろう世界のビジョンにもSFならではの寂寥感って奴が感じられる。少女だけれど訳があって体の一部が機械になっている上に、長い時間を眠っていたという過去があったりするエリス、地球でちょっとした犯罪を犯し、火星へと放り込まれて体を機械に交換しながらテラフォーミングに従事したクロといったキャラクターの造形も結構深い。

 そんなエリスがが純真というより真正直な性格で、サイボーグ相手に苦言めいたことを言ったりするのも面白い。そんな2人が旅をしながらオリンポス山に思いを馳せる少年と語ったり、火星を混乱に陥れたテロ組織のリーダーと邂逅して戦ったりした果て、エリスの両親が何をしていたかといったエピソードが挟まれ、地球はいったいどうなっているのか、そもそも火星を急襲した石群はいったい何だったのかといった展開もあって、火星が早々に回復する可能性への諦観めいたものも浮かんで来る。それでも諦めることなく生きていく気持ちを抱き、可能性を信じる思いも浮かんで、今すぐにではなくても遠い将来に火星が再び復活する日を夢見たくなる。そうなっていくプロセスを描くストーリーがあっても良いけれど、今はひとつの思いが叶えられ、そしてわずかでも可能性が芽生えたことを喜び、夢の中に繁栄の赤い大地を思いたい。傑作。

 ポリゴン・ピクチュアズが長編アニメーション化した「BLAME!」が弐瓶勉さんの原作を当人の監修の元で再構成して、1本の作品として楽しめるようになっていることは分かったけれど、そうやってまとまった作品を観て思ったのが神風動画によるこれもフル3DCGアニメーション作品「COCOLORS」との世界観に類似性。「BLAME!」の方は機械が暴走をしてそれをネットへのアクセス権限を持たなくなってしまった人類では止められない、って状況の中、どんどんと追い詰められていく人類が危険を承知で冒険い出ては数を減らして衰退の一途を辿っている。そして「COCOLORS」でも人類は衰退に向かう中、地下に暮らす者たちの一部が地上で有為なものを探して生き延びているけれど、それも枯渇しかかって後はジリ貧といった状況に追い込まれている。

 どう足掻いても滅びるしかない文明の果ての人類に、「BLAME!」では一種の救世主めいた存在が現れ希望をもたせる。とりあえず安全圏に身を置いた人類もいてジリ貧ではあっても一挙の崩壊はなくなった。「COCOLORS」は危険こそないものの資源が乏しくもはや滅びは避けられそうもない。果たして今の人類にとって訪れる未来はどちらの姿なのか。救世主を用意しておけばあるいは未来、大変な目にあっても生き延びられるかもしれないけれど、取り尽くしていくだけの現状は「COCOLORS」の未来を想起させる。知恵を持って道具も使いながら滅びを呼び込みその運命に従う人類は本当に霊長の存在なのか、それとも。2つの滅びから考えたい。どっちに向かうかも含め。


【3月14日】 デザインフェスタで見かけたのが2008年くらいだからもう見知って9年くらいになるKamaty Moonというディーラー名の造形作家が横浜の元町にあるギャラリー元町で展覧会を始めたってんでとりあえず見物に。造形作家として活躍しているというよりは趣味の延長のように作ってはイベントで販売をしていて、あとはキャラクターのデザインを少しとそしてちょっと前にバルト9で生アフレコに生音楽で上映された神風動画のアニメーション「COCOLORS」の中でデザインを手掛けた程度。でもイベントに出せばしっかりとした造形物が売れていくからちゃんと暮らしは成り立っている。

 そんなクリエイターが作る作品は動物をモチーフにしていて少しだけ擬人化されていて、そしてスチームパンクのファッションをまとっていてとってもクールでスタイリッシュ。だんだんとファンも増えてイベントに出展すれば朝からいっぱい詰めかけ高いけれども売れていく状態になっている。腕前はもともとあったけれども発想がとにかく素晴らしくって、意外なモチーフを組み合わせたりして背中に飛行装置を背負ったオオカミだとか、芋虫に乗ったハムスターだとかってのが今回の個展にも登場してはさっそく赤札売約済みになっていた。格好いいからなあ。芋虫であっても。男系も良いけどフェネック夫人とかスタイリッシュで妖艶で、欲しくなったけれどもちょっと手持ちが。いつか買ってあげたいと思いながらも今回もながめるだけに。でももしかしたら……。連休にまた寄ってみよう。

 それはいったい誰ですか? といった反応でスルーしようとしたら前から会っていたでしょうと言われ、そういえば10年くらい前に会った程度で最近は全然と言ったら、2年くらい前にも会ったと言われてとりあえずスルー。そして顧問弁護士になっているでしょうと言われてなっていません知りませんと逃げようとしたら、夫が代表の弁護士事務所が顧問めいたことになっていて、そして裁判絡みの書面には自身も連名で名前が書かれてあって、これはもう言い逃れは出来ないと思ったら、自分は確認していないと言って逃れようとした。でもそれは名義貸しになってしまうから弁護士としていかがなものかと問われてしまう。

 あまつさえ弁護士として出廷した記録まで出てきて、これでももう逃れられないと覚悟をしたと思ったら、10年ほど前にいやなことがあってと言い出す始末。それで世間が同情すると思ったのかどうなのか。でもそうやってクライアントについて悪し様に言うのもやっぱり弁護士という職業にとっての倫理にもとる。そもそもが過去に会って仕事をしたこともある人を、知らない存じないと言って退けようとする弁護士が、果たして弁護士として仕事していけるのか。専門化ではあっても客商売。そういった理解を及ぼす前に否定して守りたいものがあったってことなんだろう。

 それは防衛大臣という立場においても同様で、明確に虚偽の答弁を国会という場でしておいきながら記憶になかったのだから虚偽ではないだなんって言い訳を通そうとする。それで通るならトンデモな命令を下して戦地に人を送り込んで大勢の命が奪われて、その責任を問われていやいや覚えてないから関係ないと言って通ってしまう。もちろんそれは無理そんな防衛大臣なんて怖くて仰げない以上はやっぱり嘘を言って平気な顔で忘れていただけなんですと言う防衛大臣を据えておくのは拙いだろう。当人だって拙いと思っているのかどうか。普通は思うんだけれどそうやって言い逃れをしてまで守りたい何かがあった。それはプライド? それとも自分が退くことによって迷惑を被る誰か? 分からないけれども少し前なら内閣だって飛んでいた事態がまあまあよしなにで丸く収まる。こんな日本になってしまった。誰がした? 参ったなあ。

 そんな風にメディアの側から下人間の言がまたトンデモなくて腰が砕ける。曰く「教育勅語のどこが悪いというのか 毎日新聞よ、無知と偏見の他者攻撃はみっともない」。でもねえ、教育勅語で引っかかっているのは「一旦緩??急??アレハ義勇??公??ニ奉シ以テ天壤無窮??ノ皇運??ヲ扶翼??スヘシ」とう文言であって、これを素直に読めば「もしも緊急事態になったら正義の心でおおやけのために奉仕することで、永遠に続く皇室の運命を支えなさい」ってことであってすなわち皇民として戦って死になさいってことでもあって、だから第2次世界大戦後の日本国憲法下で、国民主権が確かめられている状況においてまるでそぐわないものだといって、教育勅語が否定されるのもなるほど当然といった流れだろう。

 もちろん戦後の国会でも教育勅語をそのまま使うことは衆参両院で否定されている。そんなに道徳を歌いたいなら別に教育勅語に頼らなくても自分たちが自分たちの言葉で作って伝え諭せば良い。それだけのことだ。なのに教育勅語をありがたがる人は、そういった批難がされることに何故か腹を立てて罵倒を交えて反論を繰り出す。毎日新聞が教育勅語を今さら持ち出す人たちへの真っ当な指摘を繰り出した途端、「無知と偏見の他者攻撃はみっともない」っていった文章を書いてきたとある新聞の論説委員兼編集委員もいたりしたけれど、これがまったくもってブーメラン気味に自分へと跳ね返ってくる言葉だったりしたからどうしたものかといった感じ。

 持ち出してきた現代語訳にはなぜか皇室のために命を捨てろといった訳がない。そして道徳的な部分だけを持ってきてこれは良いものだから良いんだと言い放つ。どこが問題になっているかを知らずスルーして思いだけをぶち上げ、印象操作でマウントを取ろうとする。いつものことだけれど、それを繰り返して平静としてる心理がどうにも面倒くさい。戦後の国会で否定されているといった意見には、そのころの国会なんてGHQに支配されていた訳だから無効といったような解釈を振りかざす。だったらそんな時代に検討されたサンフランシスコ講和条約も無効なのかって言うともちろん無効だ敗戦なんて認めないって言い出しそうだから困ったもの。

 まあ案外にそれは本音で日本は戦争には負けておらず国体という名目を借りた己が自尊心はしっかりと守りたいといった心理がそこにあって、反対するような意見が出てくれば反射的に牙を剥いてしまう。そんなところだろう。でもだったら今上陛下が教育勅語を臨み皇室のために命を捨てることを臨んでいるのか、というとううん、分からないけれどもちょっと反対のような気はする。讃えるべき筆頭の天皇陛下の御心に棹さしてでも守りたい皇室より出た教育勅語、っていった矛盾を平気で内包してしまえる人たちが、保守を名乗り国のためとか言う滑稽。誰もが気づいているのに当人とその周辺だけが気づかない。参ったなあ。

 アニメーション音響革命、って言葉がまさしく当てはまりそうだと思った「BLAME!」ってアニメーション映画のドルビーATMOSによる上映会。場所がイオンシネマ幕張新都心でいつも「ガールズ&パンツァー劇場版」の9.1ch上映とか、「この世界の片隅に」のULTIRA上映とかを見に行っている劇場だけれど、ATMOSを駆使して音の空間まで作り込んだアニメーションを観るのは初めてっていうか、作られたのがそもそも初めてなんだからそれも当然。つまりは日本初お目見えの場所に居合わせて体験したそれは凄まじかった。そして素晴らしかった。まるでその場にいるかのごとくに四方発表から音が現れ包み込む。むしろその場にいる感が強く出て、映画館にいることを忘れてしまってそれが当たり前と感じてしまって驚くより先に馴染んでしまう。

 そして気がついて自分が映画館にいるということを思い出す。スクリーンは前しかないから見えるビジョンは前だけ。けれども見えない場所にあるだろう何かを音がしっかりと表現できている。よくも作ったものだけれど、それはもともとが3DCGのアニメーションで空間を設計して人物なんかの配置も決めて映像を作っていくからで、そうした場面をまず教え、脚本を渡して音響監督の岩浪美和さんらに音を作ってもらっていくから、画面として描かれていない場所も含めて音が作られそして切り取られた画面に会わせて音が響く方向なんかも決められていく。そして前後左右に上も含めて音の発生源を設定できるドルビーATMOSに載せられる。完成した映画を観ればだから見えていない横とか後にも音が回って空間全体が作られる。その場にいるように思うって寸法。3DCGのアニメーションとATMOSは実はとっても相性が良いってことになる。

 そんな音響の設計でもって作られた映画は、原作をおそらくは相当につまんでひとつのシーンを作りだしたって感じ。人間を助けるはずだった機械が人間の管理下を外れ暴走し始め、そして管理権限を持った人間がいなくなった状況で機械は管理権限を持たない人間を侵入者として排除するようになる。そして街をどんどんと拡げていく機械に圧迫され、排除する機械にも虐殺された人間たちはかろうじて居場所を見つけて細々とくらしているという、そんなある集落から食糧を探して狩りに出た一行が管理者のマシンに見つかり襲われた際に、旅人らしい男と出会う。何かを探しているらしい男を招きそして彼が探し当てたものから分かったひとつの事実と浮かんだ可能性。ジリ貧の中で起死回生を狙った冒険が行われるもののそれは悲劇を招き寄せる。けれども……。

 2コンパクトにまとめられた中に人類の未来と暴走する機械の恐怖、それでも生き延びる可能性が示される。観終わって得られる感動もあり、そして先へと繋がる期待も。どうなるかは分からないけれど、単体でも十分に見て感動できる作品。それがドルビーATMOSで作られている。アニメーションの音響に起こる革命は、同時にSFアニメーション映画のステップも1段上げる。見るのは必然。それもドルビーATMOSで見てこそ。通おう5月に公開された映画館へ。2週間の期間限定は厳しいけれどもしっかりとスケジュールを頭に入れて、上映する映画館をチェックしておこう。


【3月13日】 昼に片渕須直監督が「この世界の片隅に」の上映後に登壇をしてあのほんわかとしつつシリアスでもある映画の解説をしていた夜に、ネットで「BLACK LAGOON」の第2シーズンが上映されて、6話にわたって繰り広げられた日本編での途中から見ていたらついつい見入ってしまった。それは鷲峰雪緒がボウリング場で脱がされて下着だけになるって場面だったからでもあるけれど、そこから先、ロッカールームに非難した雪緒とロックが対話している場面で、薄暮の中からどっちつかずの立場にいるロックに対して雪緒がすでに闇へと足を踏み入れたことを明かして批難する、そんな部分からだんだんとロックが自分というのを見つめ直す心境が感じられて引きずり込まれた。

 あそこでひとつ、問いかけをされたからこそビルのガレージでロックがバラライカにひとつつっかかり、けれどもひとつの逃げ道を用意して生き延びてそしてバラライカが香砂会へと乗り込んでそこで気が変わったかのように会長らを射殺してのけるきっかけを作った。薄暮の中で人を闇へと誘う悪党へと進化を遂げたロックは、だからロベルタ逆襲編でまだ真っ当なファビオラから空砲をぶち込まれるくらいの悪事を平気でやれるようになてしまった。銃は撃たず人も殺めない。けれども人を誘い落としてしまう。その手でのみ戦い命を張るレヴィの方がよっぽど純粋に見えてくる。そういう意味でも重要なエピソードだったんだろうなあ、日本編は。

 見ていてなるほどと思ったのは、そんな香砂会での騒動から抜けだしたロックがレヴィを伴い雪緒や銀次との決着をつけに行く場面で、ある種の任侠的な様式美があった漫画の原作に比べてロックたちは決着とかはお構いなしに早々とロシア船に逃げ込もうとしていたところを銀次と雪緒に邪魔されて、ロックだけが拉致されたところをレヴィが追いかけ追いついたことで否応なしに戦わざるを得なくなった点。抗争の場面にいた男性と逃げた女性が何時間も外を歩いて一方の当事者でもあるヤクザの娘と舎弟に出会って勝負する、なんてことが法治国家では起こりえない。それでも描かなくてはいけないシチュエーションを法と常識の範囲内で可能にする改変だってこれは言えそう。非合理を改め合理の中に治める片渕マジック。見ればほかにもそうした場面がいっぱいありそう。見返すかなあ、DVDも単品のBDもBDボックスもあるんだよ。

 70本近くは入っていたけどそこに東映動画がなかったりしてちょっと謎めいた東京アニメアワードフェスティバル2017の特別上映「アニメーション大国の誕生〜アニメーションが“アニメ”になった時代 」。1917年に国産アニメーションが登場してからちょうど100周年を記念して、日本のアニメーション史を振り返った映像で、とりわけテレビにアニメがいっぱい出てきた1970年代の作品をずらっと並べて振り返ってみたけれど、そこには「マジンガーZ」も「銀河鉄道999」も「宇宙海賊キャプテンハーロック」も「魔女っ子メグちゃん」も入ってなくて、「宇宙戦艦ヤマト」も取り上げられていなくって日本動画協会であっても触れない、触りづらい部分があるんだろうなあ、なんてことをちょっと考えた。

 もっとも、そうしたある意味で重要なピースが欠けていても70本近く並んだ作品はどれもがしっかりと僕たちの心に残っている作品ばかり。とりわけタツノコプロが作ってきた作品は「科学忍者隊ガッチャマン」のようにスタイリッシュなSFもあれば「昆虫物語みなしごハッチ」のように人情ものもあれば「タイムボカン」のようにギャグっぽいものもあったりして実に多彩。それもだいたいがオリジナルといったところであの時代、企画して通して放送されて、それが見られてスポンサーもついてといった好循環がしっかり出てきていたことが分かる。今だってもしかしたらオリジナルを見てこれはと思われる可能性だってあるはずなんだけれど、インタビューに登場していた黒田昌郎さんはプロデューサー陣が原作付きでないと数字がとれないと思い挑戦しようとしてないってことを指摘していた。

 なおかつ黒田さんは動かさずに喋りばかりといったことも。これにはちょっとエッと思って今のアニメって無茶苦茶動いているとも思ったけれど、想像するならそれはただ動かさざるを得ないから動かしているだけであって、アニメーターがこれを動かしたいんだといった必然の気持ちからどう動かすかを吟味しこう動かそうと描いているものではないって意味なのかもしれない。魂がこもっていないというか。何もない真っ白なところにおいたものが動いて人に感動を伝える。そんな原点を忘れてしまっていることへの警鐘。同じ映像では「タイムボカン」シリーズの笹川ひろしさんが、初めてアニメを作って自分たちの描いた絵が動いた感動を強調していた。そんな純粋な気持ちを思い起こさせ、オリジナルの企画を作り通す気概を求めてもいた映像。多くに見てもらいたいけれど、これだけの作品を集めたからには簡単には上映はできないんだろうなあ。ちょっと勿体ない。それだけに何が語られていたかを伝える意義はあるだろう。ってことで記事にはしたけど、読まれるかなあ。

 第22回AMDアワードの発表会を見に行く。22回のうちの20回くらいは取材しているけれども1回目からずっとヒラのライターってのも何というか甲斐性の無さが炸裂しているというか。20年も経てば当時のヒラの編集部員も編集長から編集担当役員になってたって不思議はなく、そんな人たちが選考委員とかもやっていたりしてプレゼンターとして登壇しているだろー。その一方で、未だ現場で書き物に勤しんでいるというのも我ながら格差社会だと感じるけれども偉くなって何も書けなくなりどこにも行けなくなるのもつまらない。なので現場に張り付き出かけていくのを趣味にしていると、言い訳にでもすれば心もちょっとは安まるかな。それで給料が上がっていれば良いんだけれど、逆に下がり気味ってのが……。景気回復まだかなあ。

 いやいやコンテンツ業界的には回復基調にあるのかどうか、今年のAMDアワードは優秀賞が12作品もあって去年の8作品から5割増し。10作品まで選べるのになぜか8作品止まりだった去年がちょっと不思議だけれど、10作品を上回って選ばざるを得なかったのが今年とも言える訳で、それだけ拮抗する作品が多かったし、実際に受賞したものはどれも素晴らしくどれも凄くどれも重要でどれも面白い。「ガリガリ君」の値上げのCMなんてよくもまあ作ったなあってもの。それが3回くらいしかオンエアされていないにもかかわらず、ネットで拡散されて大人気となった。アイデアの1つがあってそれを広めるプラットフォームがある現在を、象徴した作品って言えるかも。

 それは優秀賞に入った「この世界の片隅に」も同様で、加工の部分は別にしていわゆる3DCGは使っていないアナログな映画だけれど、初期の段階で資金を集めるためにクラウドファンディングというデジタルネットワーク上のコミュニケーションツールを使い、しそて映画の評判を広げるためにSNSという口コミのツールも多用した。そういう意味ではデジタルのネットワークがあって成り立った作品とも言え、デジタルコンテンツオブジイヤーとも言うAMDアワードを受賞して当然なのかもしれない。世界がネットでの配信を見た「PPAP」ともども。そんなAMDアワードのの1位はこれもデジタルがアナログとゆうごうした「超歌舞伎 今昔饗宴千本桜」。ニコニコ超会議2016で見て大感動しただけに受賞は当然だけれど、それをしっかりと審査員もくみ取って260億円のアニメーション映画でも、80億円の特撮でもないこの作品に与えた。その意味ではしっかりと賞が機能しているとも言えそう。江並直美賞がなくなって寂しさもあるけれど、これからも意義のある作品を選び賞を与えて世に広めていって欲しいとお願い。きっと見に行くから、やっぱりヒラで。


【3月12日】 どうしてあんなにエロいのか、ってことがよく取り沙汰される神山健治監督による「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の草薙素子だけれど、東京アニメアワードフェスティバル2017で開かれた「神山祭 in TAAF 2017」って上映会の中でこの「攻殻機動隊S.A.C」とそして「精霊の守り人」「東のエデン」の第1話が上映されてそれを神山監督とプロダクションI.Gの石川光久社長といっしょに観るというイベントが行われて、そこで神山監督の口からいろいろと明らかにされた。つまりは視線誘導。あるいはウケ狙いであってそれでグッと引きつける必要性が勝負の上であったというのが理由らしい。

 頃合いとしては押井守監督による「攻殻機動隊/GHOST IN THE SHEL」の続編「イノセンス」が作られていた時で、スタッフなんかもそっちにとられて大変な状況にあったという。神山さんにとっては盟友の西尾鉄也さんからも監督を引き受けるのはやめておけと言われたほどのプロジェクトを、それでも話が書きたいと受けて自身、52本の映画を作った気分だと言ったくらいにのめりこんだ作品を、是が非でも成功させるにはやっぱり草薙素子にハイレグになってもらう必要があったというか。そんなところ。

 でもって試写がスタジオジブリであって鈴木敏夫さんに観てもらったら「尻が出ている」とかいったコメントが帰ってきて、神山監督は「しめたと思った」という。ああいった年齢の人が観てもグッと来るキャラクターがいるなら視線誘導は成功したようなもの。ただでさえ女性が1人くらいしか出ない作品ばかりを作っていることもあって、物語性に定評はあってもキャッチィではなかったりするところに、とてつもない爆弾を落としてひきつけることに成功した。観てもらえさえすればあとは物語で引きつけられる。作画は途中、ガタついたところもあったように記憶しているけれど、通して観れば社会を描き政治を描き外交を描いて今を描いた。傑作になった。その為の尻であり股間。英断だったなあ。

 そんなエロティックな話ばかりではなくって、もっとクリティカルに実は草薙素子の声は田中敦子さんではない人に決まりかけていたのを石川光久社長がやっぱり田中さんで行こうと良い、そして結果として神山監督も呑んで田中さんに戻したといった話は逆に言うならいったい誰が演じることになっていたのか、ってあたりに興味が及ぶ。2002年のころにああいった声を出せる人って誰がいたっけ。三石琴乃さんってことは絶対無いだろうし。山口由里子さんならそれっぽいけど違うだろうし。私気になります。

 声でいうなら「東のエデン」で早見沙織さんと木村良平さんはともに丸が3つついた男性女性で唯一の声優さんで、そんな2人が2009年の放送から8年が経った今ではトップ声優として大活躍をしている。観る目があったんだなあ。「東のエデン」は上映だれた第1話の「王子様を拾ったよ」を久しぶりに観てやっぱり面白いというか、このあとどういう風になっていったんだと改めて思ってまた見返したくなった。映画の後篇が会話劇に終始して結論も見えずううんと唸った記憶はるけれど、でもやっぱり1本のストーリーとしてあの時代から未来をとらえ、そしてまさに今をとらえていた。先見の明をもって描く神山健治監督が、だから「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜」で何を描いているかも興味が浮かぶところ、ってすでに試写では観ているけれど、公開されたら改めて考えて観たい。自動運転、っていつごろ普通になるんだろうかとか。

 プレスで入るのも面倒なんで普通にチケットを買って東京アニメアワードフェスティバル2017の特別招待作品「この世界の片隅に」の上映を観る。12回目くらいなんでほぼほぼストーリーも分かっているんで細かい映像を観るのを主にして、江波へと渡る海岸の岸壁にニワトリが2羽いて地面を突いているのを発見したり、リンさんの首に赤い紐が掛かっているのを今さらながらに発見する。あれは何かを吊しているんだろうか。はずしたたすきを首に懸けているだけなんだろうか。ちょっと気になった。そして上映後は叶精二さんと片渕須直監督のトークがあって、「アルプスの少女ハイジ」なんかのキャラクターデザインで知られるアニメーターの小田部部洋一さんが、3コマ打ちでちゃんと人が歩けているのが凄いと叶さんに言っていた話が紹介された。

 普通だったらどうしても、重さが感じられない部分が出てしまって人が歩いているようにはならないらしい3コマ打ちでのアニメーション。でも「この世界の片隅に」では着物が多くて、あとすずさん自身がせかせかしていないこともあって、あまり高く脚を上げさせないでゆったりとした動きにしたことが3コマ打ちながらもちゃんとそこに重さが出て、人が歩いているように見えたらしい。ある程度は狙っていたんだなあ。だから小田部さんという大先輩に褒められ片渕監督嬉しそう。富野由悠季監督からは着物の柄がCGではなく手描きだってことに驚かれてもいて、あらゆる作画をそこにぶっ込み動かす力も添えて世に出した、まさに日本ならではの2Dアニメーションの極北って言えるのかも。

 そんな意識がどこから出ていたか、っていうとあるいは片渕監督が講師として参加しているアニメーションブートキャンプってワークショップで目指した、アニメーションをどう動かすかって検討からそれを実践しようとしたものだって言えるのかも。この特別上映会が行われた東京アニメアワードフェスティバル2017のフェスティバルディレクターを務めている竹内孝次さんは、テレコム・アニメーションフィルムの人片渕監督が「名探偵ホームズ」に参加した時のラインプロデューサー。そしてアニメーションブートキャンプもやってる関係で、ずっと付き合いがあったらしい。

 そんなアニメーションブートキャンプは、大学なんかでの講義とは違いより実践的で軽い球普通の球重い球を動きで描き分けるとかするらしい。ボウリングの球を絵で描いてそれだと感じさせるってどう描けば良い? とか。背景にボウリングを入れればそう錯覚はさせらるけれど、動きだけで重さは表現できるのか、ってなるとこれがなかなか難しい。「この世界の片隅に」ではそんな、描くことによって重さや動きを表現することを突きつめたとか。でもそうした、アニメーションとしての動きの表現の凄みについては、時代考証とか物語とかキャラ萌えとかミリタリーといった方面からでは分からないので、どこか動きの表現とその見え方について映像付きで1本、ドキュメンタリーにでも仕立てて欲しいもの。そういうムックを編集する人、いないかなあ。テレビ局でも良いんだけれど。

 とりあえず読み始めた電撃小説大賞銀賞の岩沢藍さんによる「キラプリおじさんとようじょせんぱい」(電撃文庫)はいわゆる筐体型ガードゲーム機でもって着せ替えアクションゲームをする小学生の少女と高校生の少年との熾烈なバトルといった風情。モデルとなっているゲーム機はあるけれどもそれについてはどこまでゲーム性に取り入れているのか、プレーしていないからまるで不明。ただ見かけによらずなかなか複雑な戦略を求められ、そして体力なんかも必要になるゲーム機だってことは伺える。版権元のおもちゃメーカーがどこまで認めたか、あるいはフィクションだからとスルーしているかは分からないけれど、もちろん認識はしているからそれで刊行された以上はちゃんと相互に理解があると思いたい。さていったいどこに決着するか。読んで行こう。


【3月11日】 昨日通りがかりに今朝から「Nintendo Switch」の購入できる人を決める抽選券を配るっていうのを見たんで朝早く起きて池袋まで行ってビックカメラで行列に並ぶ。ただ券を配るだけなのにどうして長蛇の列と思ったら何と券を何枚ももらったりする人、それを転売する人を防ぐためか1人1人の左腕に番号が書かれたテープを巻き付ける仕組みを導入していた。これなら切り取ってだれかに売るわけにもいかないし、1人が何枚ももらう訳にはいかない。腕に巻かれた状態でレジまでいかないと品物が出てこないから組織的な転売目的の購入は避けられる。

 まあでも実際に購入してから後に札束で買いたたかれる可能性はあるから、それはそれで購入者の自由ってことで。とりあえず順番が来たんで派手好きならではのネオンブルー&ネオンレッドのバージョンを購入希望として伝え、腕に抽選券を巻いてもらってから松屋で朝定食を食らい、そしてヒューマックス池袋に入って東京アニメアワードフェスティバル2017で「あにめたまご2017」を見る。プレスでも入れたかもしれないけれど、前に募集しているのを見て応募したら当たったんでそっちの席を空ける野も申し訳ないんで普通に一般として鑑賞。これでとりあえず1回目から全部劇場で観たことになる。

 とりわけ去年はそれまでTジョイだとかバルト9だとか角川シネマとかで開かれていた上映がなくなって、ネットとそして一部テレビでしか見られなかったんで東京アニメアワードフェスティバルでの上映が、劇場で観られた最初で最後の機会だったって記憶。一部その後に上映も行われた作品もあったけれど全部ではなかった。今回ももしかしたらって可能性があって応募をしていたら、4月にテアトル新宿で上映があるみたいでまずは一安心。あとはそこに見に行くべき作品があるかってことだったけど、4作品ともまた見たいと思わせる出来で安心。そして歓喜。これはぜったいに行かなくちゃ。

 まずスタジオコメットによる「ちゃらんぽ島(ランド)の冒険」は火山もあるけど普通にのびりとしている島には巨大なバオバブの木が生えていて、そこから何でも入った卵で出てきて人は働かずに楽して生きられるようになっている、って人といより動物をモチーフとしたキャラクターたちだけど。そんな島である日、大風が起こって何やら転がり落ちた後、現れる卵がすべて空っぽになってしまい島民たちは大騒ぎ。なおかつ大人達の一部うに怪しい動きがあって巻き起こる騒動の中、子供たちが島を守ろうと頑張って走り回るといったストーリー。大人の欲深さがちょっと目立つ。

 日常の風景があって自然のたっぷりな世界観があって、そんな舞台で起こるアクションがあってキャラの動きも表情もしっかり描けててなかなかのもの。落書きのような瞳をちゃんと動かし視線を合わせてどこを向いているかを分からせる、表情の芝居もちゃんとできていた。そういう部分での気付きが得られるからこそ若手アニメーター育成事業には意味があるんだろう。結局キツネとタヌキが悪者になっていたけど、でもそれは動物に似た何かなんでキツネもタヌキも拗ねないで。声は坂本千夏さんの少年系キャラの声がハマって楽しい。落合福嗣さんもそれらしさ発揮。子供たちに持て欲しいなあ。でも大人みたいに卵に頼りっきりになられても困るかなあ。

 続いてSTUDOO 4℃が送り込んで来た3DCG作品の「RedAsh −GEARWORLD」。といってもピクサーやディズニーライクの3DCGって訳ではなく、かといって「蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ」とか「けものフレンズ」みたいに」塗りが2Dアニメっぽくもない。例えるならNintendo Switchのゼルダ的というか。プレイステーションポータブルの「GRAVITY DAZE」的に水彩絵の具でベタっと塗った淡い感じの色使い。そしてストーリーはといえばナノマシンによって異能を得る人が居て、まったくナノマシンが入っておらずピュア種と呼ばれる人たちが暮らしている。

 特に階級とかがあって差別されている感じではないけれど、異能の持ち主はナノマシンが暴走するリスクもあって生きる上での不安がある。だからナノ種としての力を生かしてパラレルワールドに行って何か捕まえ金に換える仕事をしているけれど、そんなある日、ナノ種として仕事に行こうとした2人組の車にひとるの少女が飛びこんでくる。そして起こった大騒動。ナノマシンがあり異世界があってと設定が深いのは脚本が大河内一楼さんだから? 何より不思議な肌触りを持ったビジュアルと、これからまだまだ続きそうなストーリーが良い。というかこれ、やっぱりシリーズ化して欲しいよなあ。「デスビリヤード」が「デスパレード」になったみたいな可能性、あるかなあ。

 老舗の日本アニメーションが出して来た「げんばのじょう −玄蕃之丞−」はアニメっぽさが抜群。蒸気機関者がまだ走っていた時代、田舎に来た旅芸人の一座が実は……って展開に日本の習俗やら風景が感じられて楽しかった。韓国から日本に来ていて参加した人が自分は20代をずっと日本で過ごしたけれども、まだまだ知らない日本があたっと話していた。日本人だってなかなか分からない明治大正の日本の風景を描いたこと、とりわけ日常を描いたことでアニメーターたちに何かが溜まったと思いたい。「おぢいさんのランプ」もそういう作品だったものなあ、日常芝居と過去の日本を描く大変さ。それが面々を受け継がれていく。意味ある作品。

 ストーリーは長野県の塩尻にある桔梗ヶ原に伝わる伝承を現代に蘇らせたって感じ。アニメーションとしてはとても本当によく動く。そして踊りのシーンでの足踏みに力がある。フル3DCGで描かれるダンスなんかが話題にはなるけれど、見てどこか脚を踏みつける時の力強さが足りていなくて、どこか軽くて浮かびすべっているような感じを受ける。この「げんばのじょう−玄蕃之丞−」はドンと踏んだ感じに力が籠もる。プロデューサーに踊ってもらってそれを作画が見て、絵にしていったからかなあ。観察大事。信州塩尻の郷土資料館とかで上映していって欲しいかも。

 そしてSSS、スタジオ・ライブ、ワオ・コーポレーションによる「ずんだホライずん」はご当地キャラとしてしばらく前から話題になってて、確か阿佐ヶ谷アニメストリートにも来ていた東北ずん子をメインヒロインとしてフィーチャーしたアニメーション。ご当地を模した美少女たちが勢ぞろいして手を取り合い、戦いそして和解もしていくストーリーの上でずんだ餅やら納豆やらあんころ餅が作られる食われる。豆って大事だ。あと味噌もぶちまけられていた。キャラでは最後に餅神さまが全部持っていった。あのもちもち、ちょっと触れてみたいかも。ああ楽しかった。

 そんなあにめたまご2017を観終わって、会場を出て池袋のビックカメラに行ったら朝方もらった抽選番号が当たっていたので、せっかくだからとNintendo Switchを購入してそして戻ってサンシャイン通り手前にある宮城県のアンテナショップで震災の追悼のための記帳を行う。だいたい午後2時46分。すこしグッと来る。振り返れば2011年3月11日は最初の文化庁若手アニメーター育成事業を受けた「PROJETC A」が作られ劇場でかかって、それの上映最終日となっていた日で、「たんすわらし」が見たいなあと思いチケットをとっていたけど上映中止になった。

 理由はもちろん震災で、そこで起こった悲しいたくさんのできごとを6年という月日がどれだけ埋めたかは分からないけれど、こうして東北の復興を目指して作られたキャラクターがアニメーションとなって同じプロジェクトで上映される。巡り合わせと思う。だからこそ忘れず覚えて祈り支えて行ければとも思う。なのにどこかの総理は6年経ったんでもういいんじゃと記者会見を中止にした。出たければ何年経とうと続ければ良い。次になる総理が復活させても良いけれど、今の総理は今日という日に記者会見をやりたくなかった。どうして? それは……。想像はつくけどそれを行っても虚しいだけ。僕たちはだから祈り続ける。今日も。来年も。思いの続く限り。


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