縮刷版2017年3月上旬号


【3月10日】 「破邪大星ダンガイオー」が流行るかなあ、なんて思ったりもした韓国の朴槿恵大統領にする弾劾裁判で罷免決定。暗殺された場合を除けば、歴史の上で任期途中に辞めた大統領はいないってことでその最初に自分がなるのは嫌だと思っていたような節もあるけれど、結果として歴史の上で誰もいなかった弾劾による罷免という不名誉を被った訳で、これはやっぱり名誉を重んじ韓国の人にとって、耐えがたい事態ってことになるんだろうかどうなんだろうか。高いプライドが辞任を邪魔していたってこともあるんだろうし、憲法がそういう仕組みになっていなかったってこともあるのかもしれないけれど、そうした先を見通す目もなかったか、あるいはまさか罷免に到るとは思っていなかったか。いずれにしても事態は動いて大統領選が行われ、そして次の誰かが決まる。日本との関係は。韓国の人の幸せは。北朝鮮への警戒は。いろいろと動きそう。1度くらい現場、見に行ってくるかなあ。

 現場に行った方が良いというのは、直接報じる者としてはある程度の意味を持つけれども、そうやって集められた情報なり報道なりを受け、まとめて世に発信していくメディア側の人間、あるいは編集者までもが現場を逐一踏んで状況を把握し、自説を補強していく必要があるかというと、これは難しいところ。いろいろと集まってくる情報を吟味し、また日々に勉強もした上でロングスパン、あるいは少し身を引いた立ち位置からジャッジしていくこともまた必要な訳で、そこで重要なのがやっぱり知識である判断力であり想像力。それがなく一過性の情報を一方的に浴びていながら、編集側の立場で、あるいはコラムニスト的な一言居士として何かを発信していくことには、相当な慎重さが求められる。

 とあるコラムニストだか編集者だかジャーナリストが、これまで沖縄について発信してきたことは全部間違っているから撤回したいといって話題になっているけれど、現場に行って見聞きしてようやく気づいたのかってことの方がちょっと驚きで、そういう程度の認識しか持てなかった人が、物事をジャッジして情報を流し、あるいは自分から発信して世の中を動かそうとしているこのメディア状況の方を、先に考えてみる必要がありそう。ずっと東京にいたって、入って来る情報から沖縄が米軍に安全保障や経済面で頼る部分を持ちつつも、危険といった部分で基地の恒久化にはやっぱり忸怩たる思いを抱いて、苦悩しながらも今できることをしているといった心情を、深くでなくても想像によって察知してさえいれば、あからさまな侮蔑にも似た批判はできなかっただろう。

 そうやって、離れていながら上がってくるプロフェッショナルのリポートを吟味し、一方で外交なり軍事なり経済なりといったファクターも加味して、どれを真っ当と認め、どれは到っていないと落とすかを判断できる人が編集者なりキャスターなりコラムニストなりとして活動していけば良いだけのことだし、過去にもそうやって頑張ってきた人はいた。なのに今、現場こそがすべてみたいな論調で、学習から到った結論をも否定するような雰囲気が蔓延っていくのはちょっと到らないような気もしないでもない。沖縄にしても福島にしても大阪にしても、あらゆる場所で起こっている出来事には、多面性があって判断に迷いつつも貫かなくてはいけない信義はある。そこをつかみ取っていく知性、想像力、判断力を発信者となるべき人は養っていって欲しいもの。だけれどやっぱり世間はスパッとした物言いが受けるんだよなあ。どっちつかずの両論併記は金にも数にもならない。そんな世界をまずはどうにかする道を探りたいけれども、さてはて。

 やっと見つけた鳩見すたさんの「占い師 琴葉野彩華は占わない」(アスキー・メディアワークス)は、電撃文庫じゃなくメディアワークス文庫でもなく四六のソフトカバーで、おまけにイラスト表紙だからラノベじゃなくキャラノベでもなくネット小説系と思われそっちに置かれてしまいそう。じゃあ何かというと実はとってもちゃんとした系ミステリ。元探偵という経歴の美女が占いという表向きで依頼者を観察して悩み事への真相へと迫るリーディングの鬼みたいな連作集になっている。そして待ち受けている強敵との戦い。人の心を操る悪魔のような相手に過去、傷つけられていたこともあるヒロインだけに逆転への執念と不安のようなものが漂い緊迫感を顔し出す。

 1つ1つの独立した短編に見せつつ、伏線めいたものを張っていって最終的に1本の長編的なものへとまとめてすべてを解き明かすといった仕掛けが巧みで面白い。とりわけラストの強敵との戦いで、勝利へと到る過程での仕込みが深くて、彩華さんという美人で元探偵の占い師の持つすごみって奴を見せられた。そして決して折れず曲がらない意思の強さも。ローソンのサイトとかで連載されていた不思議な成り立ちを持つ作品で、置き場所もバラバラで見かける機会も少なそうだけれど、読んで損なしの1冊なんで見つけたら必ず手に取ろう。「ひとつ海のパラスアテナ」では海に覆われた惑星で少女が旅をしながら自分を見つけていくSFを描いてちょっと惹かれた作家。シリーズは中途で止まっている感じもあるけれど、こうしてミステリでまた世に出てくれたのは嬉しいところ。どっちに行くにしても追いかけていこう。

 いよいよ始まった東京アニメアワードフェスティバル2017を見るために池袋へ、って去年までは日本橋が会場だったけれどもかき入れ時にTOHOシネマズ日本橋をがっつり使ってしまうのは大変だったか、あるいは新宿に移転するのもやっぱり場所的に大変だったかで池袋へと転じていくつかの映画館を使うといった形に。おかげでメーンの会場がなく受付がWACCA池袋の中に置かれて、前は劇場の中にしつらえられていたアニメ功労賞部門の受賞展示もそこの建物にひっそりと置かれてちょっと人目に触れず勿体ない感じ。今回はスタジオジブリ作品の“色”を作った保田道世さんとか宮崎駿さんの後を継ぐかと思わせながら早世した近藤喜文さんとかが受賞していて、行けばその偉績に触れられるんで近くに行った人には是非、立ち寄って欲しいもの。

 そんな会場で受付をすませてオープニングセレモニーまで時間があったんで池袋を歩いて、新文芸坐が会場のひとつになっているのを発見。懐かしい名画と並んで短編アニメーションやら長編のコンペティション応募作品が上映される不思議な光景はこうして池袋に移動していなくては拝めなかった。ちょっと面白いかも。そしてメトロポリタンプラザの自由通路で始まったオープニングセレモニーを見物。スリムさが変わらない神山健治監督が登壇をして「キューティーハニー」の主題歌で知られる前川陽子さんらとテープカットをする姿を拝む。生で聞いた「キューティーハニー」はとても良かった。やっぱりアニメソングの名曲。これを「ひょっこりひょうたん島」から遠くなく歌った前川さんも驚いただろうなあ。前川さんはアニメ功労部門でも賞をとっていて今までそうした賞とは無縁だからと喜んでいた。そういう意味ではしっかりと拾い上げて名誉を讃える賞として意味があるかも。贈賞式では何か歌ってくれるかな。行けないけれどちょっと興味。

 こんなにもダメな人だったのか。自分が司会をしているテレビ番組がやらかして、問題になったけれどもそれのどこが問題かを知ってか知らずかまるで謝らず、そうやって所属する会社とは違うことを言うのも言論の自由だと言い募り、そうした主張を自分が所属する媒体で書こうとしたら没にされたといって、怒り心頭でそれを外でぶちまけている。曰く「私が他のメディアで何を語ろうと、もちろん私の自由だ。にもかかわらず、私の意見が本紙の論調と異なることを理由に処分するのは、言論の自由に対する侵害である」。でもなあ、所属する社員のただの愚痴を公器に載せられるものでもない。何より自分がしでかしたことへの自省がまるでない。「お前が他のメディアで何を語ろうと、もちろんお前の自由だ。だからといって、お前の意見が世間の良識と異なっているなら、それを理由に処分するのは、言論の責任に対する必然である」、だろ? 還暦を過ぎてそこに思い至らない人が、ちょっと前までトップにいられたその媒体の状況がやっぱりどこか妙。ただしこうやって自浄作用が働く分だけ真っ当かも。どこかは……。それは言わぬが花ってことで。やれやれだ。


【3月9日】 芸術選奨が発表になって映画の部門で「この世界の片隅に」の片渕須直監督と、「シン・ゴジラ」の庵野秀明総監督が共に受賞となっていた。これは凄い。というかめでたい。1本2本当たったところで、ポッと出の人がもらえるってものでもなさそうな賞けれど、そんな賞を新人賞ではなく文部科学大臣賞として2人とも受賞。過去に作ってきたものもの確かさがあり、そして「この世界の片隅に」と「シン・ゴジラ」が共に素晴らしく、2016年を代表する作品として認められたってことだろう。興行収入が爆発的だった新海誠監督でも良い気はするけれど、年齢的にいきなり大臣賞って訳にもいかないからなあ。ちなみに新人賞は「淵に立つ」の深田晃司監督でこれも納得。良い映画をちゃんと選べる賞だったってことで。

 「まりもっこり」ってキャラクターがあって阿寒湖あたりに生息するまりもをモデルにしつつちょっぴりエロい風体を与えて苦笑を誘いつつ、まあこれくらいなと人気になって今もそれなりに売れている。だったらと同じ下品狙いで作られた「きりちんぽ」というキャラクターがあったそうだけれども、そこらへんに勝手にわいて食べもしなければ愛でもしないまりもと違ってモチーフになっているのが秋田名物の食材きりたんぽ。ひとの口に入るものが男性器と重ねられてはたまらないと抗議があって、「きりちんぽ」というキャラクターは引っ込められたらしい。

 まあそれなりに真っ当な流れ。もしもそれがポークビッツやウイニーに例えられたら、印象づけられるのは迷惑だってメーカーだって言っただろう。だからあからさまにそれを連想させるような「サヨナラ、きりたんぽ」の場合はタイトルだけなら無難だけれども設定として男性器を切除する女性の復讐話みたいなのがあって、それがきりたんぽと重ねて語られているから男性器ニアイコールきりたんぽとして印象づけられる可能性がとっても高い。そうなったら今後、きりたんぽを食べようとする時にどうしても男性器が浮かんでしまう。秋田県が抗議するのも当然だろうし、撤回したテレビ朝日も対応として真っ当だろう。

 ただそうした状況を考えもしないでタイトルを決め企画を作った人の頭がどうなっているか、そして最初はそれを良いと感じてドラマ化にまで持っていったテレビ局側の認識がどうなっているかが気になるところ。誰も止めなかったのか、ってあたりに企画者の辣腕ぶりめいたものも伺える。言われれば諾々。そんな関係なのかなあ。ともあれ変わっていったいどうなるか。テーマは変わらないならほかに何に例えるか。ちょっと気になる。渡辺麻友さんがどうやって切り取るのかにも。手に持つのかな。そして先っぽにキスとかするのかな。「愛しのウイニー」とかって。それちっさーいって意味か。言われた方はショックかな。

 せっかくだからと内覧会で見た新海誠監督作品「君の名は。」展の会場へとまた出向き、グッズなんかをあれこれ物色。高いものを買うお金もないんで缶バッジを2つとそれからゼブラの「マッキー」を1本。裏に「君の名は。」という文字が入っていて、それだけでもグッズにはなるんだけれどラベルをはがすとそこに驚きがあってなおいっそう、グッズとしての面白さが見えてきた。やっぱりこれで卒業式の日に先輩から書いてほしいだろうなあ、そこに書いてある言葉を。それか下級生の女子に書くとか。そういう使い方が生まれればもう最高なんだけれど。「あほ」でも「バカ」でも良いし。缶バッジはてっしーと高木で回したガチャは瀧と兄ちゃんキャラばかり。欲しかった奥寺先輩は出なかったけれど、ガチャのプレートは中身三葉と考えると……でもついているからやっぱりそれは瀧ってことで。次は出すぞ奥寺先輩。

 そして昨日は入り口だけのぞいて退散して来た「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」を見物。まだ美大に入るまえの絵があってやっぱり巧いけれども傾向としてはどこかシュールレアリスムといった感じ。そして戦争を経て戻ってきてからの戦地の絵やら貸本漫画やら紙芝居やらの作品がならんで、どれもしっかりとした描線で細かく描かれている上に、ディテールも確かで相当な画力の持ち主だってことが伺える。それで片腕、もうなかったんだから凄いすごい。見て思ったのはいわゆる美少女とか美女の絵が抜群に巧いってことで、デフォルメとかした絵にはならずそのまま美人画として通用しそう。でもどちらかといえば戯画化されたものを描くようになってそれが主流と思われてしまったのは勿体ない。水木しげる美人画集とか出たらちょっと見たいかも。

 バナナを食べてお腹を満たして挑んだ作品で裕福になっても描くことは辞めず、そして世界を歩いた水木しげるさんが集めた仮面とが像とかも並んでいてなかなかの迫力。中に呪術とかかかっているものもありそうだったけれど、あの歳まで生きたってことはそういう悪いものはついていなかったって見るのが正解か。それとも水木さんの周りに既に居る妖怪たちがそうした海外の呪詛なんて退けたかも。そんな展覧会の出口付近にフォトスポットがあって、漫画の中に入って立つと横に水木さんの言葉が出るようになっている。僕の場合は「他人との比較ではなくてあくまで自分の楽しさが大切なんです」と至言が。時流に流されず流行に後乗りしないで自分が面白いと思ったものを面白いと言い続ける。モットーにしている言葉を頂けて自信がついたので、これからも自分勝手に面白いものを推していこー。

 なんだろうこの「お前が言うな」感。「ただでさえ『マスゴミ』といわれて久しいメディアは、いよいよ読者から底意を見透かされ、軽侮の対象とされていくのだろうと悲しくなった。最近の新聞各紙やテレビのニュースの扱いに関してである」。そんなことを書く論説委員兼編集員が所属するメディアが日々、1面トップにどれだけ日本の一般市民と無関係の記事を掲げているかを分かっていればとても出てこない言葉だろう。北朝鮮がどうとか韓国がどうとか。国民の暮らしにまるで関係ない。最近は関西もそんな記事が増えて来て東京べったり。地域に密着していた関西ブロック紙的位置づけからそれなりに売れていたものがこれからいったいどうなるか。あそこが崩壊したら後がないっているのに。ちょっとやれやれ。


【3月8日】 服だったのか! といった衝撃が全世界に走ったおそらく深夜の午前2時前。翌朝が早いにもかかわらずリアルタイムで見たいと録画してあった「境界のRINNE」の第2シーズンを振り返って観つつ時間を過ごし、そして始まった「けものフレンズ」の第9話「ゆきやまちほー」は冒頭から豪雪の中をサーバルちゃんが逝きそうになっていて、何てシリアスな展開かと思ったら本編へと入ってとりあえずバスを動かし雪山を走るピクニック。でも途中で雪でスタックし、けれども取り出したクローラーで雪でも平気で乗り越え向かおうとした源泉の側で吹雪に見舞われ、歩き出していたかばんちゃんとサーバルちゃんが凍死寸前までに追い込まれる。やっぱりシリアスか?

 でもそこはかばんちゃん。かまくらを作って急場を凌いでいたらキツネが習性どおりに顔から突っ込んできて、ギンギツネとキタキツネの百合コンビに引かれるように源泉へと向かって、そこでフレンズたちでは作れないような源泉からいろいろと取り出す施設が並ぶ様を見る。ギンギツネは博士に教わったからなのか、源泉からお湯を引っ張る方法を知っていたみたいで、ただ湯の花が詰まってお湯が流れなくなっていたからか麓ではお湯が止まり、地熱発電でもやっていたからかゲームもできなくなっていた。そこで登ってきて湯の花を取り除いていたら現れたセルリアンの大群が、サーバルちゃんかばんちゃんキタキツネギンギツネの一行をのみ込もうとする。

 絶体絶命! ってきっとそれまでだったら思ったところをかばんちゃんが機転を利かせてハイスピードで山を下りられるようにして、とりあえず全員無事で事態は終息。でもああやってセルリアンが現れるとフレンズとしていかんともしがたくなる状況が、過去にもいっぱいあったんだろうなあ。そうやって食べられたフレンズがどうなるか、ってあたりにも言及があったけれど、これは設定にも絡む話なんですべてが終わってから改めて検証しよう。我に返ったボスから出てきたミライとかいった名前の意味も含めて。

 そして復活した温泉に入るフレンズたち。そこに加わろうとするかばんちゃんが服を脱ぐ。そしてフレンズ立ちが気づく。これって脱げるの? 脱げたんでした。体毛とかが変形して服のように見えているんじゃなく、人型になってそして動物の特長を残した服を着ていたのでした。そうだったのか。だったら今までずっと着っぱなしだったのか。下着とかどうしてたんだ。食べたら出るものはどうやっていたんだ。下着は脱げると分かっていたのか。まあそういうところを突っ込まないのもフレンズ。いずれにしてもフレンズは動物が人間化したものだと分かって、そしてセルリアンとの絡みでどうなるかも伺え奥深さが一気に増した「ゆきやまちほー」。そして向かう海でかばんちゃんとサーバルちゃんは何を見る? そのまえに第10話「ろっじ」で誰と会う? 来週が楽しみ。今度は早朝だけれど頑張って見るぞ。リアルタムで見るぞ。

 実況とかに参加することなく感想をながめることもしないで寝て起きて、早朝から満員電車に挟まれ潰されながら銀座へ。松屋銀座で8日から20日まで開催される新海誠監督作品「君の名は。」展の内覧があってそれを見物に行ったもの。新海誠監督自身の登場はなかったけれども長野県とか岐阜県で先に開かれていた展覧会に増しての資料が勢ぞろいして、作品の成り立ちから絵コンテの緻密さから作画監督のレイアウト修正から美術の細かさからいろいろ「君の名は。」という作品に関するクリエイティブな作業を間近に見て取れる。

 まずは企画書。最初のタイトルが「夢を知りせば(仮) −男女とりかえばや物語」で、小野小町と古い平安時代の物語を交えた中に今に通じる設定なんかも含まれていたってことが見えてくる。そして絵コンテ。細かくて精密で観ているだけで映画のシーンが思い出されるというか、こっちが元なんだからすでに映画のシーンを頭に浮かべながら絵コンテを固めていったってことが分かる。時々写真を挟んだりするのも新海さんらしいところ。そして美術設定。キャラクター設定。それぞれのクリエイティブがしっかりと発揮された集合体としての映画だったってことが分かるだろう。

 組紐を作る組台が置いてあったりして、これで組紐を作って口噛み酒を作ればもう気分は宮水三葉。でも誰かに自分を知ってもらえることなく数年を彷徨って、ようやく出会えるといった苦労を味わうことになるから、自分を彼女になぞらえるには相当な覚悟が必要かも。ただ瀧くんの財布は使い放題ってことで、IPRIMIって松屋銀座の中にあるイタリアンレストランで提供されている「憧れパンケーキ」を食べて散財するってのも三葉の特権かも。映画の中で瀧くんになった三葉が高校の同級生たちと行ったカフェで食べたパンケーキ。値段に驚いていたけれどもそこは夢だからと平気で散財してた。その経験ができる? ただし現実の財布は自分ってことを忘れると後で大変な目にあうからやっぱる注意。映画はどこまでもフィクションってことで。

 メニューはほかに駅弁として食べていた味噌カツがプレートになって登場。あと瀧くんになった三葉が同級生達のお裾分けで作ったコロッケサンドなんかもIPRIMI流にアレンジされて並んでいるんで、1度ならず2度3度と通って全部味わい尽くそう。そしてグッズはTシャツやらポストカードやらバッグやらポーチやらネックレスやらポスターやらを幅広いけれど、個人的にこれはクールとおもったのがゼブラのマッキー極細。ただのペンではありません。「君の名は。」のオリジナル仕様。これを持って誰か先輩に好きですと告白し、そして名前を手に書いてもらうとかって儀式が卒業式なんかで流行るかも。お返しにと自分の名前を先輩の手に描ければ恋も成就、と。あるいは先輩に顔に「あほ」って書いてもらう? そして「バカ」ってお返しに書くという。そんな儀式が行われたら楽しいなあ、卒業式。ちょっと期待。

 スマートフォンのディスプレイ越しに見えるピカチュウだけれど、手を伸ばしたところで触れることは絶対にできない。それはARでそしてディスプレイの中にだけ現れる存在だから。もしもディスプレイが人間の眼に直接投影されるようなもので、そして現れたARのピカチュウでも美少女でも触覚を再現するデバイスを手なんかに装着して触れればしっかりと感じられるようになったとしたら、いったいどれだけの楽しさを味わえるよになるんだろう。あるは空間に映像を投影できる装置が開発され、それにやっぱりARグローブを介して振れられるうようになったら。きっと楽しいゲームが街中で繰り広げられるようになるだろう。岬かつみさんの「ウィザーディング・ゲーム」(スニーカー文庫、620円)に登場する「ブレイブワールド」のような。

 無職王アーサーを名乗る少年が仲間たちと作ったARゲームが「ブレイブワールド」。妹も巻き込み絵を描かせそれなりな期待を持っていたらゲーム会社が全部の権利を独り占めして少年達は叩き出された。怒り心頭、けどどうしようもなかった彼らや彼女たちは仕様が変わっていないゲームに参加してはかつて知ったる場所とばかりに暴れ回ってランキングの上位12人までを占め、古いアパートがある地域をAR上では城に見立ててそこにこもって上位進出を狙う参加者たちを日々撃退している。そんな無職王アーサーのところに現れたのあアリアという名の不思議な少女。円卓の暇人に加わったけれども実は彼女には秘密があった。

 本体のないAR。そしてスパイ。そんなアリアを知らず仲間にして攻撃をかわしていた彼らのゲームに少し変わった要素が加わる。ARCANAと呼ばれる謎のカードを使うことで発言するテクノロジー。それはどこか魔法じみていた。というよりほとんど魔法だった。ARを現実のものにしてしまうような。そんなARCANAをめぐって起ころう騒動に巻き込まれていく無職王アーサーや、ナイスバディだけれど自分に自信がないまみこさん、凄腕ハッカーで何か裏がありそうなツバサたち。ARやVRが暮らしの中にとけ込んだ世界にちょっとした魔法が重なって現れる未来のビジョンを楽しめる作品。ARCANAを巡る戦いがこれから繰り広げられていくとして、狙いは何? そして目的は? そんな楽しみを得つつ続きを待とう。


【3月7日】 5分番組なんで録り溜めしておかなくてもサクッと見られるのが嬉しい「超・少年探偵団NEO」は、明智小五郎が怪人二十面相の仕掛けによって分解されてしまってさあ来週どうなる? ってあっさり復活してくるんだろうなあ、1週遅れで椅子にされてたくらいだし、あんまり二十面相の都合に合わせて動くことはなさそう、ってか一応はヒーローなんだし退場はないってことで。そんな「超・少年探偵団NEO」で最大の驚きは、ネコ婦人がかつて怪盗ネコババで婆さんだったこと。それが二十面相のふりかけか何かで歳が削れて若返った。これ凄いじゃん。普通に売れば大もうけじゃん。そうはしない二十面相。ただひたすらに怪人で明智小五郎をイジることに邁進している。そこが良いのか悪いのか。ともかく来週も見よう。

 これも見て録り溜めずに消している「弱虫ペダル NEW GENERATION」は小野田坂道たちが2年生に上がって入ってきた新入生たちから1人、インターハイに出場するだろうレギュラーを決めるレースが始まって2年生だけれども弟の入学もあって頑張ってるところを見せたい兄の杉本照文が朝晩のローラーを欠かさず回して体力をつけてそして挑んで1位を目指すも果たして……ってところ。新1年生から悪事を誘われても乗らないところはやっぱり真面目なんだなあ、格好はつけていてもズルをしてまで勝ったらプライドも損なわれると分かっている。その真面目さがあれば3年次には、ってそこまで連載は進んでいるんだろうか。いずれアニメに描かれるだろうからこれも順々に見ていこう。

 さよなら、さよなら、さよなら。って見出しが躍るんだろうなあ、テレビ朝日系列の「日曜洋画劇場」の枠消滅。淀川長治さんがご存命なら寂しがったかもしれないけれど、逆に今の映画の隆盛を見るにつけ、テレビで映画なんて観ている場合じゃないと理解を見せてくれたかも。映画館へと足を向ける以外は、テレビで映画をかけてくれなくてはなかなか映画が観られなかった時代とは違って、今はレンタル屋に行けばそれこそ100円で映画が1本借りられるし、1000円も出せば映画のDVDが買えてしまう時代。それでも2時間をテレビの前に座って、あてがわれる映画を観るかどうかっていった判断もあるんだろう。

 とはいえ編成によっては日本テレビがスタジオジブリとか細田守監督のアニメーション映画をかける度に高視聴率を叩き出すくらいにドル箱ともいえる映画番組。わざわざ借りたり買ったりしなくても、待っていれば放送されるという能動的なスタンスで映画を観るのもまた楽しいもので、そこにいったいどんな作品をぶつけてくるのか、編成側の意識と視聴者の意識が切り結んでぶつかり合う楽しさってのもあった。観たいものだけ観るんじゃなく、誰かが見せたいものもたまに見て発見をする。そういう機会を作らないと人はなかなか新しいものへは気を向けないものだから。まあゴールデンでの映画番組は潰えても、休日の昼間なり深夜なりに変わった映画を放送してくれるあんらそれはそれで。吹き替え文化もちゃんと残してくれればなお結構。そしてデジタルで復活させた淀川さんの解説までつく、ってそれはやり過ぎ? でもちょっと観てみたいかも。「この世界の片隅に」を解説する淀川さんを。

 ようやくやっと佐島勤さん「魔法科高校の劣等生21 動乱の序章編<上>」(電撃文庫)を読んで司波達也が困難に巻き込まれようとしていて次がちょっと大変そう。ただでさえ北海道あたりに新ソビエト連邦か何かが攻め込んで来ようとしていたりして、マテリアルバースト使いの達也に動員がかかるかもしれないといった危機感が漂う一方で、魔法師への反感に対して対策を練ろうと十師族とそれに続く師補十八家の若手が介して何やら相談。そこであろうことか深雪を広告塔に立てるとか言い出す輩がいるから達也が瞬間、マテリアルバーストを発動して吹き飛ばす……ってそれでは誰も生き残れない。やんわりとたしなめたら空気を読まない奴といった雰囲気が漂い孤立しそうで、それを北アメリカ大陸合衆国がかぎつけていた。攪乱が起こるか紛争が起こるか。でもまあ四葉の当主が睨めばほかも黙るしかないってことになるかなあ。問題はむしろ侵攻か。世界の完全平定なんてあり得ず、深雪と達也の死亡もあり得ない状況で、どこを帰結にすれば良いか見えづらい作品だけに紛争の時代をしばらく描いていくのかなあ。次出るのははいつだろう。

 アップアニーってアプリ市場の世界的な調査をリポートを行っている会社が世界でトップの52社を表彰するってイベントがあって恵比寿まで。誰も「オーディナル・スケール」で遊んでいなかった。トランプに見立てて13×4のカードにあてはめていくランキングでは1位にテンセントが入り2位がスーパーセルだっけ、3位が中国のネットースといった具合ではあったけれどもミクシィ、LINE、バンダイナムコエンターテインメントが6位、7位、8位に入ったりしてほかにも会わせて16社、日本のパブリッシャーが入っていたりするところに日本のアプリ市場における存在感が分かるか、っていうとこれもなかなか微妙なところ。ほとんどが日本市場での売上だから。

 それだけの規模で上位に入ってしまえるくらに日本のアプリ市場は大きくて、そこで大勢のプレーヤーが存在でき、そして世界において結構な比率を占めてしまえるくらいに、世界の市場はそれほど大きくないってことも言えそうで、そんな中でもはや大きな拡大も見込めないだろう日本市場ではあと、食い合いつぶし合いが始まるだけ、って想像もたってしまう。ただ逆に言うなら世界にまだまだ出て行くチャンスもあるってことで、「ポケモンGO」のような日本発のIPが巨大な市場を作り出す可能性も見せられもして、そうしたIPを行かす方向での海外進出なり、スマートフォンの普及に伴う世界への進出なりを決められたところが、これからの世界でのイニシアティブを握っていくってことになるのかな。そんなことが分かって面白かった。来年は誰が表彰されるか。同じか。変わるか。ちょっと注目。

 例のアパホテルに対する在日中国人たちのデモについてコラムを書いた、歌舞伎町案内人として知られる帰化日本人の李小牧さんに会いに行ったんだから、当然あなたはデモについて何か関与し譚ですか、違うんですかと問いただすのかと思うだろう。でも違った。「『先日のアパホテル前のデモに、あなたは関係してませんか。そう思って来たのですが』男性はこちらを一瞥し、また目を閉じると、もう帰れという口ぶりで言った。『産経新聞は中国の悪口を書くから嫌いだ。デモには関係していない』」。以上。そこから先、食い下がって証拠を示して黒幕じゃないかとやるわけでもなく、ただそういった印象だけをほのめかして「反アパホテルデモの背景」といった記事を出す。これはいった何だろう。

 どこかの総理大臣が、大阪にある幼稚園と親しいかどうかを問われて国会という場でありながらもそれには堪えず印象操作だ何だと喋って喋り倒していたりするのを、咎めもせずにむしろそうした認識を肯定するかのように質問者を批判するような記事を書いている同じ媒体がこっちでは、証拠もなにも示さなず、そして当人を前にして糺しもしないで逃げ出すように場を後にしては印象だけで黒幕然とした雰囲気を醸し出す。どっちもどこか何かがズレているような気がするし、他の媒体だったらそうしたズレをおかしいと指摘するのにここん家は、言いたいことが言えさえすればそうしたズレは気にせず、むしろズラしてでも言いたいことを言おうとする。何というアバンギャルドでシュールな言論。いつか日本のジャーナリズムを振り返る研究が出た時に、こうした言論が何をもたらしどうなったかが、きっと語られることだろう。それくらいに凄まじい言論ってことで。やれやれ。


【3月6日】 「けものフレンズ」の第1話から第8話までの一挙上映であらためてエピソードを振り返って見て、どうして自分が第1話で切らなかったかを考える。まずは奇妙なモデリングと動きが人によってはクオリティの拙劣さを言われたCGだけれど、「みならいディーバ」とか「魔法少女?なりあ☆がーるず」なんかを見ていた目にはどこか見慣れた動きと表情で、その作品性をもってクオリティは語れないと分かっていたことがまずひとつと、そしてカバと出会って分かれる時に、カバがなんどもサーバルたちに念を押す演習が面白くって見て楽しめると感じたことが大きそう。

 あとはやっぱりそこかしこにのぞく廃墟の香り。ジャングル地方へと向かう案内図が錆びていた上にジャパリパークのマップを誰も開けた形跡がなく、それをかばんちゃんが開けて中からマップを取りだしたことにサーバルちゃんが驚いていた展開に、世界設定における不穏さというか不安さを覚えたってことか。ビジュアルには慣れていて動きもユニークで展開も良くそして設定が奥深そう。そこに加わった第1話ではエンディングに使われた主題歌「ようこそジャパリパークへ」の歌詞、「けものはいてものけものはいない」にガツンとやられた。何て優しい世界観なんだと感じた。

 これで切る要素はないと思い、1週間を経て第2話も見て分かった廃墟となったジャパリパークの恐ろしさ。そこを行く記憶喪失気味の少女の正体。フレンズたちの優しさや前向きさも乗ってもう今期のナンバーワンだと確信したってところかな、いやナンバーワンってのは第1週でもすでにそう感じていたから直感が確信に変わったといったところ。その辺りから世間も気づいて追いついて来て考察が生まれ愉快に楽しむ層も乗ってもうどったんばったん大騒ぎ。あとはこの勢いがラストシーンまで続くかが気になるところだけれど、そこはたつき監督が騒動に流されることなく決めたことをやり抜く決意を一挙上映会で語っていたから、安心をして見守っていけば良さそう。第9話、どこに連れて行ってくれるかな。

 「ゼロの使い魔」の完結編となる第22巻がヤマグチノボルさんの名前で出てちょっとの涙に暮れる一方で、松智洋さんの名前を冠しつつStory Worksとの連名になっている「メルヘン・メドヘン」(ダッシュエックス文庫、600円)が出てこちらも本人亡き後のシリーズ刊行を涙ぐみつつ喜ぶ。割と現実が舞台になったラブコメ作品の多かった松智洋さんにあって珍しく王道に近い魔法少女のファンタジー。それも本がテーマになっているとあってライトノベル的な要素をガッツリ取り入れている。とはいえしっかり松智洋さんらしい家族の物語もあって、もしも当人が書いていたらどういった展開になったのか、って興味も浮かぶ。「異世界家族漂流記 野生の島のエルザ」にも似たシリアス系になったかな。

 さて「メルヘン・メドヘン」は母親と死別して残された父親が編集者の女性と再婚し、義母と義姉を得た鍵村葉月という少女だったけれども元より引っ込み思案で妄想癖があって、人に話しかけるとパニクって逃げだし本の世界に浸らないと立ち直れない。そんな彼女が母親の残していたらしい1冊の本を見つけたことから生活が変わる。それは「原書」と呼ばれる不思議な力を与えてくれる本で、葉月は「シンデレラ」というとても強力な「原書」を使う「原書使い」となって同じような「原書使い」の少女達が集い競い合う舞台へと引っ張り込まれていく。

 本来は世界を脅かす敵を相手にしている「原書使い」だけれど、そんな中でも力を競い合うことがあって葉月は日本にある魔法学園に所属して、「かぐや姫」の原書を扱う少女らとともにヘクセンナイトという競技会に出るための資格を争うことなる。もっとも闘争壁があって奥手の葉月は自分ではなく原書の力が求められているといった理解から自分の居場所を定められない。家も義姉や義母との距離感に悩んでなかなか自分を出せないけれど、そんな葉月に理解を見せて誘う姉とか母親の姿に心を持ち直し、また自分にしかできないことをやるために魔法学園へと戻っていく。本から出てくる力の種類、その多彩さが重なり合い、ぶつかり合う展開を楽しめる。そして家族を得て友人も作って居場所を得ていく少女の成長も。続くとしてどんな戦いが出てくるか。それはどんな本がテーマになっているか。続きを待ち望もう。

 日本アカデミー賞での最優秀アニメーション作品賞受賞であるいはと思ったけれども片渕須直監督の「この世界の片隅に」は興行通信社の週末観客動員ランキングで残念ならが10位以内には戻れず。「君の名は。」がそれでも10位以内には止まりつつ9位まで来ていたから、もうちょっと踏ん張れば逆転もあり得たかもしれないと思うともう数週間、アカデミー賞が早ければ良かったかもと残念でならない。まあでも15位くらいにはいるみたいだし、興行収入で「映画 聲の形」を追い抜いた可能性もあったりして、これで両雄として支えつつ「君の名は。」の激走と合わせた2016年の日本アニメーション映画の金字塔として、末永く名を残していくだろう。

 そんなランキングで1位に入ったのもやっぱり長編アニメーション映画。ご存じ「映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」で本家アカデミー賞を受賞した「ラ・ラ・ランド」を2位に下げての1位獲得となった。やっぱり人気は底堅い。そして3位にもしっかりと「劇場版ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」が残って長編アニメーション映画でサンドイッチに。10位以内に3本も残っているって状況はやっぱり今の日本映画の隆盛がそこにあるってことを示している。「モアナと伝説の海」はそこにどこまで食い込んでくるか。「ひるね姫」は。そんな3月になりそう。

 気がついたらお台場のダイバーシティ東京プラザ前に鎮座していた機動戦士ガンダムの立像が公開を終えて撤去への作業に向かっていた。最初に同じお台場の潮風公園に立ち、それから静岡県は東静岡駅前に立ってと流転しながら見つけた終の棲家かと思ったけれど、恒久の施設ではなかったようでとりあえずのお披露目は終わりとなった模様。次もまあどこかに立つとは思うけれど、それも終の棲家とはならないだろうかなああ。一方でお台場には機動戦士ガンダムUCからユニコーンガンダムが立つとかで、きっと乃村工藝社あたりが関わって作っているんだろう。初代に比べて変形のギミックもあるモビルスーツだけに、完成したものがどんなアクションを見せるのか、スリットは開くか、角は開くか、そんな辺りに関心。暴走とかしたらどうしようとか。

 視聴率は20%近くあって社内的には万々歳なのかもしれないけれどもフジテレビの「アナと雪の女王」のテレビ初放送、本編だけで稼いだ評判はエンディングでもって地に落ちているのを知らないふりしてはしゃぐようならやっぱりあそこはといった気分が広がって、次はもうないってことにもなりそうでちょっと心配。でも転がり落ち気味なところって、外からどう見られているかようりも中でどう見られているか、あるいは一部からどれだけ話題になっているかだけで自分たちの位を決めてしまうことろがあるんで、内に向かって鼻高々になっている傍らで、世間との気分の乖離が生まれて気がつくと深い穴の底にあるちょっとした頂きで下を見下ろし笑っているだけになっていそう。どこかの新聞もそんな感じだし。どうなるかなあ。どうしようもないんだろうなあ。


【3月5日】 始まったらしいので国立新美術館で草間彌生さんの展覧会。すごい人出。四半世紀前とかによく曙橋にあったフジテレビの中にあったフジテレビギャラリーで展覧会が開かれていたけれど、当時はそんなに人も来ず行列ができるなんてことはなかった。そんな頃に買っておけば今はといった話は枚挙にいとまが無いとして、だんだんと知られてこうして個展に大勢が詰めかける画家になったことは喜ばしい。まずはいった室内には一定のサイズで描かれた方形の絵が壁一面にはられてなかなかなに壮観。そして若い頃のシュールレアリスムでもどこかミニマムだったのがだんだんと性的な妄執を形にして吐き出す感じになっていって、そこに強迫観念めいたものも滲んで一時の草間彌生さが見えてくる。

 やがて解放されたかのように明るい色が散らばり始めて今のイメージに近付いていくといった感じ。カボチャにしても赤やオレンジといった派手なドットにしてもキャッチーだけれど、どこかニキ・ド・サンファルの後年にも重なって見えて女性アーティストの晩年はそうした、抑えていたものをすべて吐き出すように無自覚の感性がわき出てくるものなのかなあ、とも思ったり。それらはストレートに観る人たちを驚かせ、刺激して引っ張る。だからこうまで人気になったのかなあ。陰茎がボートから生えている作品とかではまだだったのかなあ。いずれにしても今はまだ現役の画家がこれからどこに向かうかにも関心を向けていこう。

 フジテレビで「アナと雪の女王」が放送されて、直前の盛り上げ番組で今が旬過ぎる安倍総理をもって来て、これまた旬以上の細君が励ましてくれたとかいったコメントを言わせたりして、それちょっとタイミングを外しすぎていないかと行った声も起こったらしいけれど、本編の放送が終わってエンディングにMay J.さんの「レット・イット・ゴー」が少しだけ流れたと思ったら、あとは子供たちが歌うものになって、それは子供とその親をエンディングまで引きつけておきたいテレビ局の思惑と、そうしたところに自分が加わる子供たちの喜びを考え、ちょっと夜が深すぎるものの明日は日曜日、ちょっとばかりの夜更かしも良いかと思わせる。ところが。

 それに止まらず「めざましテレビ」の軽部真一アナだとか、よゐこの濱口さんだとかがテレビに登場して歌ったり、映画「帝一の國」を宣伝するかのように菅田将暉さんが登場して歌ったりしたとかでおいおい、それって視聴者関係ないだろ、視聴率を狙って「アナと雪の女王」に便乗しているだけだろうって思われたみたいで非難囂々。ただでさえ本編でのエルサとして歌う松たか子さんの「レット・イット・ゴー」に押されて寂しい状況にあったりしるMay J.さんの立場を追い込みつつ、感動のストーリーをぶちこわすようなおっさんどもの顔だの歌だのをぶつけてくるセンスってのがちょっとよく分からない。それが楽しいと思えてしまう思考回路も。

 それともそうやってフジテレビ内でぐるぐる回して関係者をイジってみせたような映像が、視聴者にはおおやっていやがると受けると信じているんだろうか。バラエティ番組の中でスタッフを呼び出してイジって受けていたのは1990年代半ばまで。野猿のように本気で音楽をやってそれなりの成果を上げたのならまだしも、ただ内輪でぐるぐる回している様を見せてそれを外部が喜ぶと思えてしまえる心理がいったいどこから来るのか。かつての成功体験ってことになるのかなあ。でもそれだって四半世紀もむかしのこと。それがどうして未だに残っている、ってことの方が興味深い。現場だって相当に入れ替わっているはずなのに、どうしてガラリと変わってこないんだろう? ああそうか上が入れ替わってなければ同じか。そこが変わったら果たして変わるか、というと今を同じ感性で育った人がところてんのように上に座るだけで、同じ感性が成功体験のないまま繰り返されて劣化していくだけなのかもしれないなあ。

 BSにしたってネットにしたってそれなりに新しいことをやろうとしえいる人はいるとは思うけど、浅野ワイドショーや午後の譲歩番組、夜のプライムタイムに挙がってこられない壁ってのも気になるところ。同じ玉でもラジオだとヨッピー吉田尚記アナウンサーがアニメにロックに落語にIoTで最先端を追いかけ紹介し、商売にまで結びつけているのに。出版の方でも極端なライトを切って保守でも真っ当なところを置くようになったのに。それを言うなら新聞も1990年代が変わるどころか濃さを増して差配をし、結果はご覧じろになっているからなあ。メディアの変わり身って難しいのかもしれないなあ。人次第? それは言わないお約束。

 そういえばこれもお台場TVらしい厄介さを醸し出しているなあと思った、4月から始まるテレビドラマ版「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」。20代の女性のはずの九条櫻子さんが御歳40歳の観月ありささんになっていて、「おいおい」と思ったけれども見かけはまだまだお若いから、20代後半という設定でいくのかと思ったら作中で「少年」の館脇正太郎が、Kiss−My−Fit2の藤ヶ谷太輔さんに決まっていて「おいおい」感が超アップ。29歳。それでも高校生くらいをやる人はいるけど設定からしてまるで違ってた。

 なんでも「藤ヶ谷演じる館脇正太郎は、大学はおろか、大学院の卒業が近づいても進路が定まらず、やむなく就職活動を始めるも、就職浪人…。揚げ句、二年目でも希望の企業には入れず、大学の就職課の紹介で『博物館職員』に」。それ「少年」違う。そして少年らしい多感さと純粋さで櫻子さんを開放しつつ花房にも惹かれてしまう正太郎ともまるで違う。もちろん年齢を相対的に上げて立場を変えつつエッセンスを遺して作品として良いものにすることは出来なくもない。でもこの件は、観月ありささんの連ドラ連続記録だの、ジャニーズの人気タレントの出演だのといった雰囲気が見えてしまって、お台場TVならではのキャスティングありきな態度が透けて見えて嫌になる。どうしたものか。どうしようもないんだろうなあ。だからどんどんと…。やれやれだ。

 「初音ミク×鼓童」のライブにも興味を惹かれたけれども既にチケットを抑えてあったんで「けものフレンズ」の1話から8話までの一気見とそしてキャストによるトークイベントを見に南青山へ。そしたら監督のたつきさんも登壇してキャストの人からいろいろと質問を受けていた。ひとつ驚いたのが第8話の「ぺぱぷらいぶ」でPPPがダンスしていたシーンはモーションキャプチャではなく、作画陣が手で描いて動きをつけていったってことで、それでいてちゃんとペンギンのアイドルが踊っている風に見えることがちょっと凄い。振り付けが決まるのを待っていたら作画間に合わないから先に作って、それを生身のアイドルが踊ってもちゃんとそう見えるものにするのってどれだけの手間だろう。そういうところに手を抜かない熱量が、全体を支えているんだろうなあ。

 あとサーバルちゃんがジャパリパークのマップが入っていた箱を開けられなかったり、ジャパリバスのハンドルを握って運転ができなかったりしたのはそれをやっている誰かを見たことがないからで、そこで例えばかばんちゃんが箱を開けている姿を見せれば次からはちゃんと開けて取り出すことができるようになるだろう。だったらジャパリカフェでカップの取っ手をフレンズたちがちゃんと握っていたのは、ってところでそれは誰かやっていたのを見ていたからだそうで、それがあの場にいたかばんちゃんなのか、別に図書館でそういう仕草を写真か何かで見たアルパカが壮士向けたかはちょっと不明。まあだいたいのところで決まっている程度なんで、話半分にしつつそういうところがあるなあと思い見ていくのが良いのかも。次は科学技術館の上映&ライブだけれどチケット、とれるかなあ。祈ろう。


【3月4日】 東京藝大院アニメーション専攻修了制作展では「染色体の恋人」の矢野ほなみさんがこれからのシーンを作っていきそうと思った。シシヤマザキさんとか幸洋子さんとかいったアーティスティックでちょっぴりの猥雑さも持った作風で、エンターテインメント性も持ちながらメッセージ性も持った作品を作っていく人、といた感じ。この「染色体の恋人」では女性同士の同性愛者の姿を描き、点る愛情から生まれる憎しみまでを見せつつ、そうした人たちが現代にしっかり生きているんだなあってことを教えてくれた。

 1年生次では矢野ほなみさん、牛乳を巨神が流す「牛乳の麓」って作品で山の上に巨大な女神が立つインパクトのあるビジョンを魅せてくれた。そこではやや観念的だった展開にストーリーが乗ってメッセージが加わった。これは世界で強いだろう。次はどんなテーマに挑む? とても楽しみ。そして山崎萌花さん。とっても萌え萌えな風貌だけれどその作品「There was a man」はメイキングを見て驚く凝った作り。見たところグラデーションにレイヤー重ねて動かしたモノトーンのアニメーションだけれど、実は紙から切り出したものをストップモーションでつないでる。それが妙な生々しさを醸し出して腕と男の関係を感じさせる。技法と作風で要注目かも。

 技法って意味では岡田梨奈さん「cosmopolite」が鉱物のフロッタージュを重ねたり、切り抜いた紙の上から液まいて変色させた下の紙を並べたりして作り出す偶然と作為の産物が織りなす変幻がユニークだった。というかメイキングみないどどう描いているか分からない。突きつめていくのかな。去年は落語家の噺を絵にして動かした井上幸次郎さんの「Opening Sesame」は蕩々と紡がれるラップに合わせて奇妙なものたちが蠢き踊る。ストップモーションアニメーション? ラップの言葉に聞き入り目も引かれた。今後はPVの方面で活躍しそうな才能って感じだった。

 その井上さんと並んで数少ない男性のひとり、伊藤圭悟さんの「Helpless void」は暗闇に佇む男を真正面やや上方から捉え、その手が首にまわった線を引いてやがて首を引きちぎって転がり落ちた首が変幻する様に現代の闇に流れる怨嗟を見た。妄念と変幻というアニメーションだからこその作品かも。もうひとり、。宮嶋龍太郎さん「AEON」は去年の「RADIO WAVE」とはまた違った、立体感のあるオブジェクトの変幻を描ききってて引きつけられた。テクニックはありそう。ただこうした男子は女子があっけらかんと繰り出してくる社会や風俗と切り結ぶストーリーに比べて、スタイリッシュでクールな方向へと傾いているようにも思った。それも悪くはないけれど、作家となると少しズレてしまうのかも。折笠良さんやキム・ハケンさんらに続く才能、出てくるか。

 暗闇で作業をする美女のメイキングに魅せられた高谷智子さんの「闇の絵巻」は梶井基次郎に題をとった人形アニメーション。闇に人形を浮かばせる映像、作れるものなんだなあ。谷口ちなみさんの「少女ノスフェラトゥ」と同様に赤が鮮烈。鈴木沙織さん「大丈夫だよ」もうごめく造形物に見入ってしまう。心象が形になるになった世界。お・ゆんじぇさん「pit−a−pat」は淡くかわいいイラストレーション風の絵が動いて流れて表現される悲しみの世界がよかった。最後、栗原萌さんの「Mind Room」フエルト造形のストップモーションアニメーションでキャリア女性の崩れていく心理を変幻するフエルトの背景や人物で表現していた。リン・マンイさん「Silent Smile」とも重なりそうなテーマ。やっぱり女性は考えていて、切り結ぼうとしているなあ、今と。そんな印象。

 第40回日本アカデミー賞でもうひとつ“意外”があったとしたらそれは「シン・ゴジラ」の最優秀作品賞受賞で、こればっかりは特撮ではなく実写の「怒り」か「64」あたりが獲得すると思っていただけにやっぱり興行成績という看板は無視できず、東宝作品といったバックグラウンドも踏まえて受賞に相応しいといったロジックが組み立てられたんだろう。キネマ旬報ベスト・テンでも2位に入っていたし、怪獣による格闘へと持っていかずに一種の災害として扱い、対応する政治家たちの言動でもってこの国の政治状況を活写するポリティカル・フィクションとしての要素を、作品性と認めて評価したって言えるのかも。

 世の中の雰囲気がこうなると見越しての設定だったのか、今はそうした方が面白いといった勘だったのか。いずれにしても今もって世間が注目される汚職めいた事態が発生して日々、大騒ぎになっているにも関わらず、健全化に向けた身動きがとれないでいる政治状況への痛烈な皮肉とも言える作品が、こうやって栄えある日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞したことを受け、今の政治はもっと国民のためを考え動かないと、「シン・ゴジラ」で真っ当に国のことを考え動き、理知的に判断を下していく理想の政治家像を知った人たちから、なんだこいつらはをパージされると思った方が良いだろう。それが「シン・ゴジラ」に賞を与えた最大の意味なら選考委員、凄いなあ。果たしていかに。

 東京2020公認プログラムってことはつまり2020年の東京オリンピック/パラリンピックに向けて意識高く日本の文化を世界に発信していくぞ系のイベントだってことで、それがポップでサブでオタクなカルチャーにどっぷり浸っている人間に楽しいものになるはずがないといった先入観がまずあった。そして「This is NIPPONプレミアムシアター」だなんって大仰な冠がついて日本の文化を世界に発信する気満々なイベントが、僕たちの大好きな文化をまともに取り上げてくれるはずがないといった先入観もやっぱりあった。

 そんな意識超高い系イベントが鼓童といういかにも世界受けしてそうな日本文化の代表格を引っ張り出し、そして初音ミクという大人のおっさんの年寄りが考える日本のクールジャパンってこれなんじゃね的ガジェットに食指を動かして引っ張り出しては組み合わせ、さあ「初音ミク×鼓童」でございます寄ってらっしゃい見てらっしゃいクールジャパンはこれでございといった上から目線で紹介するイベントになりはしないか、いや絶対になているといった先入観が直前までつきまとった。

 ごめんなさい。「This is NIPPONプレミアムシアター スペシャルライブ 初音ミク×鼓童』はとてつもなく素晴らしくてとてつもなく凄まじい、今の日本をある意味で代表しているヴァーチャルアイドルの初音ミクと、これも日本を真正面から代表している音楽ユニットといえる鼓童が、お互いをリスペクトする形でガッチリと向かい合って手を組んだライブイベントに仕上がっていた。ボーカロイドのファンが見ても納得の面白さであり太鼓というちょっと縁遠かった文化に触れてその響きわたるビートを腹で感じて凄いと思うイベントになっていた。鼓童のファンが見てもステージ上にマジカルミライよろしくスクリーンに投影される形で現れては自在に踊り、消えては衣装を買えてまた現れる初音ミクという存在、そこより繰り出される不思議な音色だけれど素晴らしい旋律と歌詞を持った楽曲に触れてこれがそうか最先端なんだと喜べる、そんなイベントだった。

 思ったのはボカロ曲と太鼓とがこんなにマッチするんだということ。元より人間では追いつけなくらいにハイテンポなものが多いボカロ曲あけれどそれを和太鼓を始めとした鼓童のバチさばきがぴたりと追いかけ引っ張りドカンと響く。どちらもビートが売りな音楽なだけに組み合わせればうまくいく。でもどう組み合わせれば互いに引き立ちそして混ざり合うかを考えて実行にうつした企画者がここはやっぱり素晴らしかったと言えるだろう。セレクトされた楽曲も多くが知って聞いて嬉しいベストな曲であると同時に、鼓童を加えたアレンジでそのズンズンと響きドコドコと鳴り渡るビートが楽曲の良さを倍増しするようなものになっていた。

 これをあるいはCDなどで効いても重なり具合は素晴らしいと感じるだろうけれど、太鼓が音を出すために振るわせるのは空気であってスピーカーやヘッドフォンの振動板だけではない。その場にいてこそ響く太鼓の音色が振るわせた空気を腹に、顔に、全身に感じながら音の中、音楽の渦中に身を置く気分を味わえる。もしも躊躇している人がいるならはっきりと言う。これは見ておくべきだ。絶対に現場で見ておくべきだ。もしもNHKホールでの3月4日と5日の公演を逃したとしても、いずれまた行われるだろう企画だと信じる。その時こそ行けよ絶対、どこでも必ず。

 マジカルミライのような、初音ミクなりボーカロイドの歌唱がメインの出し物となりがちなイベントでは、投影されたボカロたちの歌唱にどこかバンドが合わせている感じがあって、そこに妙な主従関係が醸し出されていたけれど、この「初音ミク×鼓童」は初音ミクの歌唱のバンドがしっかりと音を載せ、そこに鼓童がビートを加えて分厚さを増すと言った具合にすべてが噛み合い、主従ではなくトータルでひとつのステージを作り上げるといった感じになっていた。誰が欠けても足りなくなるステージを、誰もが懸命に盛り上げてしっかりとした時間を、空間を作り上げた。

 伝統芸能だからといって鼓童が初音ミクを見下ろすようなことはないし、見上げるようなこともなくともに盛り上げる仲間と言った風情で終始、楽しそうに演奏してくれた。鏡音リン・レンの楽曲では背後で踊るリンとレンのダンスに合わせて小さいシンバルのような楽器、チャッパを奏でる男性が踊ってぴったり合わせていたし、飛んで跳ねて盛り上げていた。伝統をやっても完璧なチームが革新に挑んで完璧にこなしてこれで面白くならないはずがない。その意味でも貴重でそして未来を感じさせるステージだった。

 筋肉を身に着けた太鼓の打ち手たちがミクコスでステージに現れ叩くようなステージだったらどうしようとかいった不安も抱いていたけれど、マジカルミライであり鼓童でありロックであってそれが合体して一体のステージを作りだしてくれた「初音ミク×鼓童」。繰り広げられる楽曲の素晴らしさも含めてこれは永遠に語り継がれるステージになるだろう。緑からピンク、そして黄色へとボーカロイドのテーマカラーを輝かせる特製のペンライトももらえるお得感ともども評判を呼び、再演もされてさらに大勢の関心を集めて来たる2020年の本番に、圧巻のステージを繰り広げて東京オリンピックの開会式を彩るだろう。その時こそ現場で見たい。ミクさんを。鼓童たちを。クールジャパンの神髄を。


【3月3日】 電撃小説大賞でメディアワークス文庫賞を獲得した斜線堂有紀の「キネマ探偵カレイドミステリー」(メディアワークス文庫)が面白い。単位に厳しい大学で成績が悪く、留年はほぼ確実といった状況にあった彼を教授が呼び出し、優秀ながらずっと引きこもっている学生を学校に連れてきたら、留年しないで済むよう取りはからうと告げる。誘い乗った奈詩閧ェ、昔住んでいたこともあって土地勘のあった下北沢の街を抜け、引きこもっているというその学生、嗄井戸高久が住んでいるアパートを訪ねると彼はしっかり部屋にいて、奈詩閧ノあれこれ映画のことを聞いてきた。

 アパートの2階をぶちぬいて住んでいる嗄井戸は、どうやら映画が好きそう。そんな嗄井戸高久に、「ドラえもん」しか観たことがない奈詩閧ェ臆面もなくそのことを話すと、ちょっとしたシーンからたちまちタイトルを当ててしまう。古今東西の名画ばかりではなく、子供向けの長編アニメーション映画についてもしっかりと知識を持っているらしい嗄井戸高久という男。対してまるで映画を観ていない奈詩閧ナは話が合うこともなく、すごすごと退散するものの留年がかかっているとあって再び下北沢を尋ね、どうにかこうにか連れだそうとするものの動かない。

 ところが、アパートの近所にあって奈詩閧燻q供の頃から知っていた名画座が、閉館間際から地主の急死で存続となった一件を聞いて興味を抱く。いったい何が起こったのか。それを考えた時に嗄井戸高久はあっさりと名画座の館主による殺人だと指摘する。奈詩閧ェ子供の頃によくあそびに行った館主の家が、いつも冷房でキンキンに冷えていたこと。その館主が最近、地主に北海道の蟹を贈ったこと。そんな情報を耳にして、アパートの部屋に居ながらにして推理し解決してのける。その1編を含め、「ニュー・シネマ・パラダイス」に「独裁者」に「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」といった作品を登場させ、内容などに絡めつつ起こる奇妙なできごとを嗄井戸高久が安楽椅子探偵よろしく、アパートにこもって映画の知識を繰り出しながら解き明かしていくストーリー。読めば映画の知識も得られ、観てみたいという気にさせられる。

 それだけならお店が舞台となって持てる仕事の知識を生かし、日常の謎を解決していくといった、人気の設定と大きな違いはない。この「キネマ探偵カレイドミステリー」の場合、嗄井戸高久がずっと部屋から出ないことに、大きな秘密があってそれが分かってグッとシリアスな空気が立ち上る。引きこもっているからには人嫌いなのかというと、人なつっこさもあって尋ねてきた奈詩閧フ状況を凄く気にする。ただ映画が好きという以上に、映画にしかすがれなかった状況。そんな嗄井戸高久の人生に心を貫かれて立ちすくむ。

 深い闇を抱え、それでも生き続けている嗄井戸を茶化し、けれども事情を知って反省し、友人になっていく奈詩閨Bここを起点に映画がらみの事件が描かれていくことになるのだろう。部屋で嗄井戸が推理し、外で奈詩閧ェ行動しってバディあるいは主従な関係で描かれていくミステリ。日常系ではあっても根底に不穏な動きもあり、奈詩閧ノは実際に命の危険すら訪れていた。嗄井戸の過去も絡んでシリアスな展開もありそう。次はどんな映画が材料となって、その知識を得られるのかにも興味を向けながら、絶対に書かれるだろう続きを待とう。

 次代のアニメーション作家を求めて東京藝術大学大学院映像研究家アニメーション専攻の修了制作展をのぞく。一年次の作品も見たかったけれどもそれは買ったDVDで確認するとして、修了生の作品を14本。うち男性が3人しかおらず、そして留学生らしき名前も3人いたりして最近の藝大アニメーションの雰囲気が感じられるというか。1年次に「あたしだけをみて」の見里朝希さんがいたりするから来年度に期待も持てるんだけれど大学院にまで行ってアニメーションを極めたい、って人に女性が増えているのは何か理由があるんだろうか。元より優秀だから? ちょっと誰かに聞いてみたい。

 そんな作品の中では中国の西安から来ている黄?睿さ(コウ・ブンエイ)さんの「SOUTH FOREST」が凄まじくって素晴らしく、見てて背筋がピンと張り詰め心打たれて絶句した。イスラエルと紛争状況にあるパレスチナ自治区のガザ地区にある動物園に食べ物を持って行く子供と動物との拘留の物語。そう聞くと心温まるけれども内実は、半ば朽ちた動物園で食べ物もなくやせ細った動物たちと、それ以上に日々の暮らしで苦渋に喘いでいる人間の子供の、共に絶望に満ちた交流の姿。与えたりんごを囓り子供に与えた猿の腕の中で目覚めた子供という幻想の中に見えた喜びは、現実では目を閉じたままの子供という悲しみに変わり、そして降り注ぐ爆弾の下、すべての動物たちが今を刹那と喘ぐ。この世界の片隅に実在する悲しみを思わされるストーリー。今期必見の1本だ。

 アニメーション好きだと梅村春香さん「yelp」が手描きで変幻するビジョンを魅せてくれて気に入るかも。どこか「Airy Me」のような雰囲気もあるけれど、半ばミュージックビデオだったあそこまでストーリー性はなく、ハムを食らう何かとか、うごめく小動物とかカーテンの向こうから顔をだすあれはウサギ? とかいった生き物たちが現れ蠢いていくといったビジョン。漠然としていはいるけれど、そんな中にも繋がりめいたものが見えて食べるといった行為への関心を惹起させられる。絵を動かそうとする気力に溢れているって意味で、アニメーターとして活躍していくのかな、どうなのかな。進路が気になる。

 1年性次で「まゆみ」という作品を出して喧噪の中に不思議な味を出していた谷口ちなみさんによる修了制作が「『少女ノスフェラトゥ」耽美さ漂う幻惑のビジョンの中に少年の焦燥、そして吸血をする少女の跳梁が描かれていて、そそられるビジュアルとともに魅せられる。モノトーンの中に差された赤が目をとらえる。笑い声がとってもわいい。こちらも香港生まれの留学生らしい林文?さん(リン・マンイ)さん「Silent Smaile」にもグッと来た。オフィスで働く人々は仮面の笑顔を貼り付けているけど内心は疲れ果てている。ひとり暮らしの女性もうまくいかない仕事、でも田舎の母親を心配させたくない思いに板挟みとなって苦悩しているけれど、そんなある日に起こったできごとが、少しだけ口元を微笑ませる。苛烈な日々にも少しの潤いを求めようって思わされる。アニメーション版「ひとり暮らしのOLを描きました」。見て社会人はホッと一息。

 帰って布団に潜って第40回日本アカデミー賞の贈賞式を日本テレビ放送網で見物。それまでにおそらくは情報とかも出回っていたんだろうけれど、情報をシャットダウンしてテレビの中継だけで成り行きを確認。人間に絡んだ賞が中心になるのは当然だけれど、それでも最後の方になって注目の最優秀アニメーション作品賞が発表になって片渕須直監督の「この世界の片隅に」が受賞した。うわーお。個人的には興行成績でとてつもない記録を叩き出した新海誠監督の「君の名は。」でも十分に値すると思っていたし、メジャー感のある作品を推したがる日本アカデミー賞ならそれも当然といった気持ちでいただけに、100館に満たない公開館数で始まった、東京テアトルというメジャーではない出資者による作品が受賞を果たして意外という気がまず浮かんだ。

 もちろん作品的には受賞も当然といった気持ちがあるけれど、そうした力学だけで決まるものでもない、ある意味で華を求められる賞なだけに驚きが浮かんだもの仕方が無い。ただここに来て、数々の映画祭やベストテンで賞を受賞しトップに輝き、公開館数も増えて作品としてのメジャー感も出てきているだけに、そうした追い上げが日本アカデミー賞の贈賞式とう場で追いついたといったことも言えそう。これが2カ月前だとちょっと早かった。その意味で長く公開をし続けながら、作品への関心を盛り上げ続けた映画館の人たちに厚い御礼を言って差し上げたい。ありがとうございました。もちろんそうした興行を受けて映画館に通い詰めたファンの人たちにも。ただこれはまだ通過点。もっともっと大勢の人に見てもらってこその作品だし、本家の米アカデミー賞における長編アニメーション映画賞受賞という大目標が残っている。その山は高いけれど、でも届かない場所じゃない。とりあえず今は祝いつつすずさんラベルのお酒を献杯しつつ、全米での興行の大成功を祈念しよう。お米一升あればどこまでだって行けるさ。


【3月2日】 東京国際ブックフェアが2017年は開催されないとの報。リード・エグジビジョンが長く手掛けて大人数でのテープカットでも話題を呼んでいたイベントだけれど、ブックフェアという割にはたとえばフランクフルトであったり、台北国際であったりといったブックフェアのように版権の売買なり、書店に対するセールスプロモーションが活発に行われる訳ではなく、出展する出版社が2割引で本を売って読書ファンが喜ぶようなBtoCのイベントになっていた。あまつさえ2016年は出版社の側の要望を入れたか、週末に開催を入れて一般客に喜んでもらおうとしていてなおのことBtoC感が強くなっていった。

 けれども大手出版社がこぞって出展して作家によるサイン会を開催する訳でもない状況では、BtoBの展示会ビジネスを展開したいリード・エグジビジョンにとってやる意味もない、って判断があったのかもしれない。そうしたニュアンスの強い電子出版だとかコンテンツだとかキャラクターといった展示会はすでにまとめて先に開催するようになっていたから、大きな問題は起こらないだろう。とはいえリード・エグジビジョンにとってテープカットに皇室が出席される貴重な展示会でもあった訳で、そうした繋がりを1回断つと次がなくなる可能性も。2017年の開催はないけれど、その代わりを小さくても開きつつ出席を仰ぎつつ、来年に繋げていって欲しいもの。とはいえ出版社がなあ、やる気あんまりなさそうなんだよなあ。

 そして読んだ「ヤングキングアワーズ」2017年4月号では「蒼き鋼のアルペジオ」で北良観のところに出向いたあれは伊400の方だっけかが話を通し、国が隠そうとしている場所に近付ことするハルナやキリシマといったあたりを牽制するべく、守るよりはあぶり出そうとした意識から画期的な作戦を提案していた。それが学園祭。いやあ学園祭。まさかこの物資不足の世界でいかに学園が舞台となっても行われるとは思っていなかったけれど、メンタルモデルの力でもって魚介類を調達し、開催できるようにしてしまうところに力技を感じる。そこまでやりたかったのか学園祭。メンタルモデルも。そして作者も。今はまだ日本にいるっぽい群像たちも登場するんだろうか。ちょっとワクワク。

 教育勅語を幼稚園児に暗唱させようと、愛国行進曲を幼稚園児に合唱させようと、それは私立の幼稚園における運営者の判断であって、それを受け入れるのが苦手だと思うならば、その幼稚園には通わせないことが第一だといった判断はまあ成り立つ。ただし、そこで繰り広げられているのが特定の国なり集団に対する謂われのない誹謗中傷であったり、科学的な根拠を持たないで行われる人間の肉体や精神を損なうような所業であったりした場合は、法律に照らして問題視されるべきであって、同時に教育機関とは相応しいとも言えなくなって、その存続に疑問が呈されることがあっても不思議は無い。

 さらには、特定の政治家ばかりを応援するなり、その政策を応援するような署名を実施するなりといった行為は、教育基本法における政治的活動への強制として禁止されていたりして、やっぱり糾弾はされるべき。そういった意味で、愛国幼稚園と特定の新聞あたりが持ち上げていた幼稚園への批判は批判として、存分に行ってもらいたいけれどもそこでいくら幼稚園なり学校法人なりを責め立てようとも、政府与党にその拳はまったく届かない。認可なりの部分で政治なり行政なりの関与があったとしても、地方自治体レベルの話で政権中枢には届かない。そんなことは分かっているのに、メディアの報道は幼稚園で行われている教育の酷さ、運営者たちの立ち居振る舞いの見苦しさを主眼を向けて攻撃するばかり。肝心な政権中枢の関与に迫るファクトを掴めず、提示できないでいる。

 そもそもが、そんな関与はなく圧力もなかったとうのが政権中枢あたりの言い分だろうけれど、いかにもなタイミングで小学校の設置認可が行われたり、登記があっちこっちに移動したり、大幅な値引きが認められたりする状況にはやっぱりどこか不思議なところがある。それはどうして起こったのか、ってところを徹底して追究していかないことには、ただただ経営者の不徳のいたすところで終わって、小学校が開校されず、幼稚園からも園児が逃げて経営が行き詰まって終わり、といった帰結に止まってしまう。とはいえ政治を絡めようにも、週刊文春あたりは誰とは分からない人間が、安倍晋三総理ではなく故人となった鳩山邦夫元総務相の関係者が動いていたような話をしつつ、鳩山側は関知していないといった帰結に落として故人に責任の一端を押しつけつつ、政権中枢に話が及ばないような空気を作りだしている。

 存命の議員の秘書がしきりに面会をしていたって話にしたって、メモから浮かぶのは学校法人の運営者の側のしつこさだけであって、政治家が何か動いたといった話には向かわない。本当にそうなのか、巧妙に情報が取捨選択されているのかは迷うところではあるけれど、挙がった政治家たちがたとえ潔白だったとしても、現実に起こった不可思議な土地の流れ、金額の変化といった部分にどうしても誰かの関与を想定してしてしまう。そうでなければああはならないといった想像は浮かぶ。その想像が実際と結びつかないところを今はあだから結びつけて欲しいというのが傍目から見た状況への見解。でもやっぱりメディアの報道は幼稚園ヘンじゃん話へと修練していくんだろうな。それが誰かの狙いなのか。その狙いに乗ってメディアも動いているのか。ここで終わりならそう想像するしかないのかなあ。

 お店ミステリ、ってジャンルがあるとしたらやっぱりこれが嚆矢になるんだろう三上延さんによる「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズの最新刊にして最終巻となる「ビブリア古書堂の事件手帖7 〜栞子さんと果てない舞台〜」(メディアワークス文庫)が登場。表紙の栞子さんがノースリーブのカットソー姿で胸が前に垂れ下がるくらいに実ってて目にも素晴らしく、そんな栞子さんといい仲になってAKIRA……じゃなかったそれはテレビドラマ版の主演だった、普通に五浦大輔ケシカランといった思いに囚われる。まあでも今はまだ触ってすらいないだろうけれど。そんな2人がぐっと近付くような事件が前にあって、そしてお互いに意識するようにはなってあとは栞子の狷介な親をどうやっつけるか、っていったあたりが鍵になっていたシリーズだけれど、そんな篠川智恵子とはまた違った厄介な敵が現れる。

 骨董屋を営む吉原喜市という老人は、栞子が探していた太宰治の「晩年」初版本を持っていてそれをまず、ちょっとした法外な値段で売りつける。約束があて交わないではいられなかった栞子に、吉原はさらにシェイクスピアのファーストフォ・フォリオのファクシミリ、つまりは複製本を持ち込んで来て幾つか挑戦のようなことを始める。まずは黒い表紙の1冊をちらつかせ、それをどうにか卑怯な手段をかいくぐって手に入れたら、今度は同じ複製本の青、赤、白といった表紙を持つものを古書市で落札しなければならないような状況へと追い込んでいく。それはひとつには栞子にとっては祖父にあたる男のしかけた罠であり、そんな祖父の下で苦汁をなめた記憶を持つ吉原の復讐でもあった。

 4冊もある複製本がどういう謂われのもので、そこにいったいどれだけの価値があるのかといった展開が、黒い複製本を読み解くうちに見えてくる。シェイクスピアという戯曲家に関する知識を駆使し、骨董にも近い西洋の本に関する知識も生かしてたどりついたひとつの結論。それを知った以上は動かざるを得なくなったけれども先立つものがなく、さらには母親の智恵子も関わってきて吉浦の企みも含めた複雑な状況の中で栞子は戦うことになる。

 傍らには本が読めず知識に乏しい大輔。それで勝てるのか、っていうところに本の知識ばかりが正義ではないといったニュアンスもまぶして大輔の存在を生かしているところが優しさというか。そうやって辿りついた結論に驚け、罠をかいくぐって勝利を掴むカタルシスに喜べる完結編。かつてない金額的スケールの大きさも楽しめた。次はもうないと思うと寂しいけれど、峰守ひろかずさんがスピンオフでビブリオバトルの話を書いてそこに栞子さんも登場する模様。ミステリというより青春小説になりそうだけれど、それでも得られる本の知識を栞子さんからのものとして、味わい自分でも試していこう。


【3月1日】 「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」でイオナや千早群像を漫画から飛び出してきたかのようなビジュアルで動かしたサンジゲンに、「亜人」でモーションピクチャーライクなぬるぬるとした動きに平たいスキンを被せて、2Dアニメとも3Dアニメともとれるような不思議なビジョンを見せてくれたポリゴン・ピクチュアズといった、2Dライクの3Dアニメーションを世に送り出す日本之アニメーションスタジオが半ば2強としてトップを走っていたかのような状況だけれど、ここで圧倒的な話題性をひっさげダークホースが飛び込んで来た。

 ってつまりはヤオヨロズで「けものフレンズ」でたつき監督なんだけれど、振り返ればたつき監督はサンライズの荻窪スタジオ、すなわち大友克洋監督の「スチームボーイ」を作るために立ちあげられたデジタルエンジンがスタジオとなって幾星霜、歳月を経た上でサンライズ荻窪スタジオとなって他が2Dで行くところを3DCGによるアニメーション表現の探求に努め、「FREEDOM」を作り「いばらの王 King of Thorn」を手掛け「コイ☆セント」を世に送り出しては3DCGであるにも関わらず、2Dライクなビジュアルのアニメーションを世に問い続けてきた。

 つまりは先駆者でありながらも「009 RE:CYBORG」で神山健治監督を擁してサンジゲンが名を高め、宮崎吾朗監督を呼んで「山賊の娘ローニャ」などを作り上げたポリゴン・ピクチュアズが耳目を集めて、そこにサンライズ荻窪スタジオへと森田修平監督を送り込んだ神風動画なんかも入って繰り広げていたレースに、サンライズ荻窪スタジオで「FREEDOM」や「いばらの王 King of Thorn」にCGアニメーターとして携わった後、自分達の工房のirodoriで自主制作アニメーションを世に問い続けていたたつき監督が、抜擢されて作り上げた「けものフレンズ」が加わっては、評判という意味でどれよりも上へと行ってしまった。

 これをサンライズ荻窪スタジオの逆襲であり復権とみるか、たつき監督の才能の賜とみるか、吉崎観音さんのキャラクターの可愛らしさあってと見るかはそれぞれだけれど、2Dライクな3DCGアニメーションが評判になってどんどんと作られるようになるってことは、日本の独自さもあってちょっと今後に期待ができそう。どれもこれもピクサーだディズニーだじゃあつまらないから。ほかにもスタジオ4℃が頑張っているしサンライズ荻窪スタジオから出た人たちによる武右衛門も力を持っている。「COCOLORS」の神風動画だって黙ったままではいないだろうから、今後も競い合って日本ならではのアニメーションと作り続けていってくれると信じよう。でもやっぱり「けものフレンズ」が当面の1番だ。

 そんな「けものフレンズ」の第8話「ぺぱぷらいぶ」は作品内のペンギンユニット「PPP(ペパプ)」が次回予告から離れてようやく本編に登場してはライブを繰り広げた回で、ハーレムモノの温泉回なり水着回のようにファンサービズ的な雰囲気もあったけれどもそんな中にPPPってペンギンのユニットが過去にもあってそれも2つあって現在は3代目で、ロイヤルペンギンのプリンセスが図書館の資料などから復活させたって話からアニメーション版「けものフレンズ」の舞台には過去があってそして現在があって、活動が途切れては文献から復活させるくらいに時間も経っているってことが伺える。廃墟めいた描写がそこかしこに出てきたのもそういう理由かって見えてくる。

 あとジャパリパークの回りは海になっているってことも。見渡しても平原しか見えず山だってあるジャパリパークにそもそも果てなんてあるのかが分からないけれど、それだけ広大な場所が海によって隔てられた島っていうのも結構な設定。どれだけのパークなんだろう。そして誰が作ったんだろう。何のために。今はどうして。浮かぶ疑問にはきっとかばんちゃんが海まで言ってヒトを探す中で答えを出してくれるんだろう。そういった設定への解釈も得られつつ、再結成されたアイドルが気持ちの違いからちょっと停滞して、けれども思いをひとつにして歩み出す感動があり、そんなアイドルたちを見守るマーゲイちゃんのアイドルおたくぶりも楽しかった。ものまねも得意なフレンズだけれどそれにすら意味があったとは。考え抜かれた設定とストーリーをエンターテインメントで包んで見せてくれる作品。終わった時に得られる喜びは感動はどれくらいだろう。今からワクワク。

 第23回電撃小説大賞で大賞を獲得した佐野徹夜さんの「君は月夜に光り輝く」(メディアワークス文庫、630円)を読み終える。発光病なる体が光ってだんだんと弱っていく病気に罹って余命幾ばくもない渡良瀬まみずという少女が、学校には通えていないものの同級生になって、届け物にやって来た岡田卓也とう少年に自分のやりたかったことをやってもらう。遊園地に行ったり初恋パフェを食べたりバンジージャンプを飛んだり。まみずが大事にしていたスノードームを持ち上げて落として割ってしまった負い目もあってか、そんな無茶をそれでも岡田卓也はだ諾々とこなしてく。メイド喫茶で働くことはさすがにメイドではなく調理担当だったけれど。

 そんなまみずとのふれ合いから岡田卓也は彼女への感情を高めていくけれど、遠からず確実に来る離別に心を揺らすようになる。誰が好きなのかといった恋情がすれ違い、諍いも生まれてしまうけれど、波風を超えて落ち着いた先で迎えるその時。その悲しさをひとつの軸となったストーリーが、まみずのいない世界を生き続ける岡田卓也や彼の友人の香川という少年がちが抱く死と生への感情を浮かび上がらせ、迷いがちな思春期に前向きな気持ちを与える。

 現存する難病ではなく、発光病なる架空の病を想定したのはその時まで比較的、体力も意識も持たせて流れるように去って行くシチュエーションの中で言葉と心を交わさせたかったのかもしれない。そういった状況を欲しいがために都合良さげな病を作り、感動のために命を終わらせる展開を好ましいものとは思いたくない気持ちがある。ただ、この「君は月夜に光り輝く」は、離別の悲しみを描くことにのみ主眼が置かれている訳ではない。残される側、そして生きていく側にこそ迷いがあって悩みがあって、身内の事情から生への絶望もあったところに死を前にして常に前向きな少女を置くことで、生きている者にこそ生き続けろと訴えている。それを狙ったのだそすれば、このシチュエーションにも納得がいく。ラストの1行へと向かって進むまみずの独白、受けての岡田卓也の心情に、笑みつつ泣こう。

 そこは凍てつく真冬の公園だった。そしてナチスの将校と踊り子たちがダンスをする賑やかなキャバレーになった。孤独な踊り子が暮らす6階の部屋になり、屋根裏部屋から出られる屋根の上となって、見下ろすパリの風景が目に映った。ヴィシーの街並み。駅頭のカフェ。権力者のベッドルーム。そして春へともう少しの冬の公園。たった1枚の板の上にさまざまな場所が現れ、風景が見えて人々の息づく世界が生まれた。

 男性ばかりの劇団として知られるスタジオライフがが、あの萩尾望都さんによる短編漫画「エッグ・スタンド」を初舞台化。戦中のパリで出会った少年マルシャン、踊り子のルイーズ、レジスタンスのマルシャンという3人の虚無に漂い、怖れと憧れに揉まれ、苦渋に苛まれる姿が決して大きくはない舞台の上を使って演じられた。舞台上に置かれているのはとても簡単な小道具。それこそギムナジウムの部屋を立て込んだスタジオライフの看板公演「トーマの心臓」とはまるで違ったシンプルなセットであるにも関わらず、公園でありキャバレーでありアパルトマンの部屋でありといった、幾つもの場所になってそこでラウルが彷徨い、ルイーズが走り、マルシャンが慟哭してそして悲劇へと突き進んでいく。

 なんという巧妙な演出。横に広がり縦に伸びて下にも広がる空間をシンプルな舞台装置の上、動く人々の体と視線と言葉で「エッグ・スタンド」という漫画に描かれた物語の世界を余すところなく見せてくれた。真冬のパリ、ナチスドイツに占領されて解放まではまだしばらくある、抑圧と倦怠の中にあったあの時代のパリが、シアターサンモールの舞台の上に立ち現れた。そんな舞台の上で、戦争という非日常が日常となった世界で虚無に冒される人心が繰り出される。それはまさに今という時代を問うものだ。

 生きているはずなのに死んでいるように思えてしまう心。それは生きているけれど死んでいるのと同じ世界の息苦しさがもたらす。果たして今の世界はどうなんだ。自分たちはちゃんと生きているのか、それとも。生まれ得ずカラの中で黒くなったひよこ。それが僕らではないのかとスタジオライフによる「エッグ・スタンド」の舞台が問う。ギムナジウムに集う少年たちの耽美さで好評の「トーマの心臓」や、心に刺さる親子の情愛が素晴らしかった「訪問者」、SF仕立てのミステリアスな展開が良い「11人いる」、あの壮大な原作をよくぞ再現したと驚いた「マージナル」とはまた違う、萩尾望都作品の2.5次元化でありながら、単体の演劇としても完成された舞台に仕上がっていた。

 これでまだ初演。10年以上前に舞台化の許可を得ながらも取りかかれなかった演出家の倉田淳が、満を持して挑んで描き作り上げた舞台は生まれながらにして完璧さを持っていた。ここからさらに公演を重ねれば、すでに十分にある奥行きと立体感はさらに深まり、展開のメリハリもついて心をよりとらえる舞台になっていくだろう。初演の初日ということで、舞台にはラウルを松本慎也さん、ルイーズを曽世海司さん、マルシャンを岩ア大さんとスタジオライフきってのベテラン勢が固め演じて息の合ったカルテットを見せてくれた。永遠の少年、松本慎也さんも、1997年3月1日の「トーマの心臓」でのバッカス役が初舞台だったという曽世さんも、妖艶な女性を演じてはスタジオライフでも屈指でありながらうらぶれたレジスタンスの男を演じた岩アさんも、目一杯の仕上がりを初日から見せてくれた。

 ここからさらに舞台を重ね、役をどんどんと身に入れていったらどんな演技になるのだろう。そしてノワールチームのそこかしこで役を得ながら舞台をこなしつつ、ルージュチームではラウル、ルイーズ、マルシャンを演じる山本芳樹さん、久保優二さん、笠原浩夫さんがどのようなカルテットを見せてくれるのか。そんな楽しみが初日から生まれて来た。もっとみたいし、違うチームも見てみたいし、何年かを経ての再演もまた見てみたくなる劇団スタジオライフ公演「エッグ・スタンド」。その時、世界が抑圧に苛まれ息苦しさの中で生きているか死んでいるか分からない気持ちを重ねに行くのではないことを祈りつつ、今はこの初演が成功裏に終わることを願いたい。


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