縮刷版2017年2月上旬号


【2月10日】 そういえばアニメイト吉祥寺が移転するってんで内覧に行ったけれども、まさかサブカルの総本山的な吉祥寺PARCOの中に入るとは。地下にブックセンターがあったりして漫画とかサブカルを充実させていた記憶もあるし、漫画なんかをモチーフにしたスタイリッシュなTシャツを売ってるショップもあったような記憶もある。そしてスタイリッシュなファッションの店もいっぱいある中にアニメイト。それはオタクであり腐女子といった濃い層が集う場所でもあるんだけれど今はとりわけ女性層は、ファッションもちゃんと決めつつアニメーションのキャラクターがいっぱい描かれたグッズも集めて透明なカバンに入れたり、リュックにぶら下げて平気で歩いている。そんな時代だからこそPARCOもアニメイトの出店を受け入れたんだろう。これがとらのあなだとちょっと違うかもしれないし。

 まあとらのあなの場合は同人誌から来た店なんでそうした方面によくある低年齢層には厳禁なイメージをさすがにPARCOといえども取り入れる訳にはいかないか。あるいはゲーマーズだともうちょっと男子のファンに寄っているからやっぱりイメージがちょっとずれる。アニメイトってところが絶妙なんだろう。だってエレベーターを降りた店頭に並ぶのは「アイドリッシュセブン」であり「あんさんぶるスターズ!」であり「ツキウタ。」であり「ユーリ!!! on ICE」といった女性層に人気のキャラクターばかり。そういうファッショナブルに腐女子をやっている層なら吉祥寺PARCOでも別にそんなに違和感はなさそうだし。渋谷PARCOだったらちょっと分からないけれど。

 お客さんにしても今まではちょっとだけ歩いて道路を渡った線路際の建物にあって狭くはないけど奥に長くて什器なんかもギッシリで観るのも大変なイメージがあった。これが1.5倍になったフロアでジャンル毎、キャラクター毎に区分けされた棚を観ながら買い物できる。嬉しい移転だったんじゃなかろーか。どうやら初日は待機列ができるくらいの人気だったみたいで、併設してあるカフェでクリームの上にキャラクターを鮮やかなカラーでプリントするラテも注文している人が多かった。大豆のシートにプリントして被せるものとは違ってしっかりキャラが描かれているだけあって、ストローをぶっ込んで崩すのもややためらわれるけど、食べれば美味しいラテで値段も500円なら、ふらりと寄って注文しては繰り返し、キャラをコンプリートするくらいやってしまうだろう。「ツキウタ。」で10人、「おそ松さn」で6人。1日じゃ無理か。でも3日なら。太りそうだなあ。

 JAEPOだJAEPOだ、ジャパンアミューズメントエキスポ2017が開かれるってんで幕張メッセへと行ってはあちらこちらを見物。「ボンバーマン」ならぬ「ボンバーガール」があったり「電車でGO!!」がビッグで電車の運転室みたいな筐体になって登場していたりと、昔ながらの名前を生かしつつ進歩しているゲームがあったりした一方で、VRなんかを使ったものもあちらこちらに。例えばバンダイナムコエンターテインメントはお台場で運営していた「VR ZONE」にあったアクティビティを幾つか持ってきては接していて、オペレーターさんなんかに置いたらどうとかアピールしていた。あるいは明日から始まる闘会議2017で来場する人に体験してもらうって感じなのかも。

 そうそう、今回のJAEPOはいつもは1日だった一般公開日を2日に延ばすと同時に闘会議だなんて何万人もゲームズ機が集まるイベントといっしょにやることになって、いったいどれだけの来場者が押し寄せるのかがちょっと見えない。去年は業務用ゲームのコーナーをおいてそっちも遊んでねって感じだったけれど、今回は各社がばっちりとブースを構えての対応だから、商談用のものは下げつつ目一杯遊んでもらえるものを並べて幕張メッセをひとつのゲーセンにするくらいの勢いでアピールするんだろう。その効果は人数でいうなら軽く5倍はありそう。スマートフォン向けとかコンシューマー向けなんかをメーンに触っている今時の若いゲーマーが、業務用って面白いかもと興味を持つきっかけになるかもしれないなあ。どういった賑わいを見せるのか。闘会議も行って見てこよう。

 VRでは多分中国の会社が出していたものがユニークというか、前に進んでいきながらバトルするタイプのものなんだけれどそこでどこまで進んでいったらリアルな場所が足りなくなる。そこで足下にすり鉢みたいなのを置いてそこで歩いてはすべってずり落ちるような仕掛けを施し、歩いているんだけれど前には行かないようにしつつバーチャル空間では進んでいると感じさせるようにしていた。なかなかのアイデア。ルームランナーは置けても方向が1つだし動力もいる。でもこれだと勝手にずり落ちるんで八方ともオッケー。前のめりになるのを胴回りを囲んだ輪っかで止めているから大丈夫。これが流行ってきた暁には、お前そこで何をじたばたしてるんだって人たちが、広大なスペースを駆け回って闘っているゲームが生まれて来るんだろうなあ。それもまたひとつのビジョン。

 しばらく眠っていたようだけれども「ビブリア古書堂の事件手帖」が起き出して、実写とアニメーションの映画がそれぞれ作られることにきまった感じ。シリーズ完結編となる第7巻も間もなく刊行だそうで、それでひとつ盛り上がったあとにいったいどういうキャスティングで実写が撮られ、誰のキャラクターとか監督でもってアニメーションが作られるかに興味が移っていくんだろー。前にテレビドラマ化された時は栞子さんを剛力彩芽さんが演じていろいろと話題になったけれど、それは剛力さんというよりは周りのキャラクターの性別を変えて人気事務所のタレントを当てはめたりした無理もあったから。ストーリー自体はちゃんとまとまっていたんで文句はないけど、やっぱりオリジナルのストレートな長髪で眼鏡の栞子さんが動いたりするのを観たい。だからこその主演女優でありキャラクターデザイン。どうなるかなあ。大輔はやっぱりEXILEかなあ。

 実写映画「咲−Sakiー」を観た。だいたいにおいて「咲−Saki−」だった。ここで言う「咲−Saki−」とは小林立さんの漫画版というより普通に観ていたアニメーション版で、そのイメージで現れては動いて喋る登場人物たちが、出会い麻雀を打っては競い合い、信頼し合って成長していくストーリーのその先に、得意な手とそして特異な能力を持った少女たちが現れては戦い競い合って共に高め合っていくストーリーが、そのまま実写映像となって描き出されていた。だからアニメーション版を観ておおまかなキャラクターの配置や性格、そして特異な能力などを見知っていればほぼほぼそのとおりの光景が繰り広げられていると分かりつつ、それが2次元のアニメーションではなく実在する少女たちによって演じられていると分かってストレスなく、多少の記憶を掘り起こす感じで懐かしさも覚えつつああいたいた、こんな少女もいたしこんな能力の持ち主だったと思い出しながら観て行けた。ハギヨシはさっぱり覚えていないけれど。

 原作だと、そして漫画だともっとおどおどとしつつ時に芯の強さものぞかせる西住みほにも似た雰囲気の宮永咲が渡辺美波さん演じる実写版の咲となるともうちょっと、ピュアな感じはとれて初々しさが前に出て底にある麻雀にかけてのふてぶてしさは下がってしまう感じだけれど、そうした比較も違和感にはならない範囲でしっかり宮永咲だったし、本当だったらもっと突き出て誰をも圧倒する胸の持ち主の原村和が、設定として胸に脂肪があるとされながらもそれほどの突き出しを感じさせない実写版ではありつつ、それでも現実における女子高生の大きな胸とはこういうあたりだといった了解をさせるくらいには、演じた浅川梨奈の胸は前に出ていた、ように見えた、かもしれない、そこは心がそう見せた、頑張って、うん。

 ほか、片岡優希を演じた廣田あいかさんはまるで声優さんのような声を出して幼そうに見えつつしたたかでタコスが大好きな優希を見せてくれたし広島弁が出る眼鏡のまこも山田杏奈さんがちゃんとなりきって見せてくれた。悪手でも好手に変えてしまう不思議能力を持った部長の竹井久も古畑星夏さんがちゃんと見せてくれた。そんな5人の(1人足りないが仕方が無い、男はいらないこの映画)清澄高校の面々に負けじと他校の面々も原作漫画であり、アニメーション版「咲−Saki−」に出てきたキャラクターをしっかりなぞって見せてくれた。

 とりわけ幼げでそして恐ろしい天江衣を演じた菊地麻衣さんはしっかり天江衣だった。幼げな口調をまだ12歳とかそんな辺りの菊地さんを起用することでしっかりと再現。それでいて難しい言葉をうなるように吐き出すようにつぶやき周囲を圧倒する存在感を見せてくれた。ほか、ステルス桃も含めてテレビから抜け出てきたような少女たちが卓を囲んで見せる麻雀がまた緊張感のある展開を外さず、役とかまるで分からず流れなんかも掴めない、麻雀素人ですら引きつけられる展開を作りだしていた。

 スポーツだったら速いか遅いか、点が多いか少ないかですぐにきまる結果を麻雀は、その場その場で点数が入れ替わり主役も入れ替わることで誰もが一瞬なりとも主人公になれる。そうすることでキャラを出し入れして飽きさせず、ドラマもつけて関心を抱かせつつ最終的には宮永咲と天江衣との対峙に収めてクライマックスへと至らせる。途中、積み上げてきた数々の手が伏線のように積み重なって高くて大きい手を作らせ、それで逆転の構図を描き出す。

 分かってなくても分かるその流れ、スポーツのルールなんてしらなくても肉体のぶつかり合いが必死さを分からせるスポーツの中継なり、それを題材としたアニメーションと同様に、麻雀という一種の頭脳スポーツの誰が強くてどこがポイントなのかを何と話に感じさせる。ああそこでそうくるか、そしてそうなりそう至って大逆転が起こったか。それさえ分かれば流れもつかめてそして感動も得られる。そう思う。

 とりあえず県予選で終わってしまって全国大会はそもそも漫画でどこまで言ったか分からないから果たして映像化はあり得るのか想像もつかないけれど、とりあえずまとまってクライマックスからエピローグもあった県予選で十分に「咲−Saki−」という作品の醍醐味は味わえた。少女たちがそれぞれに事情を抱えながらも麻雀という競技に向き合い自分を成長させていく、あるいは誰かを導いていく展開を楽しみつつ噛みしめて、そして次のステップへと進んだ清澄高校がどんな麻雀をするのかを、想像して楽しむのも悪くない。こうして映画を観た頭には、漫画だけでなくアニメーションだけでもない、実写版「」咲−Saki−」の役者の顔も浮かぶようになっているのだから。ただしハギヨシは除く。


【2月9日】 いろいろと頭を整理するために、試写で実写版「サクラダリセット 前編」を観る。ほぼほぼ原作通り。もちろん省かれたエピソードもあって猫好きの野ノ尾盛夏とか出てこなかったりと登場人物も整理されているけれど、基本線となっている管理局が囲っている咲良田市を見通す魔女の話、そして浅井ケイを振り回してはいなくなったりもした相麻菫の話は通して、予想通りの場所で前編が終わって、いったい何者なんだから、こいつは何者なんだへと昇格して物語を支配する。全体に淡淡としていたけれど、それは原作も同じなので異能を持った者たちが集まり対決したり補い合ったりする後編は、いろいろと激しくなりそうな予感。

  キャスティングについては、「ちはやふる」でどことなくちゃらくなった真島太一を作っていた野村周平さんが演じた浅井ケイは、生身の役者だけあって小説から受ける無機質で無感動な雰囲気がやや溶けて、ウエットな心情を抑えた無表情さが逆に内心の逡巡や葛藤を感じさせるようになっていた。黒島結菜さん演じる春埼美空も寡黙系というより純真系で、そんな2人の間に通う感情が映画では見えたような気がした。そして相麻菫。演じた平祐奈さんは原作のショートカットではなくロングのふわっとした髪型で、活発さというより神秘性が増していた。役者からそうしたのかストーリーからそういう変更を加えたのか。後篇を見れば分かるかな。

 他の役者では、写真を破って中に入る力を持った老人の佐々野宏幸を大石吾朗さんが演じていて、「コッキーポップ」世代としては懐かしかった。今も美形。というかまだ70歳なのか。「コッキーポップ」は30歳前後でやっていたんだよなあ、それでいてあの落ち着き。良い役者だったんだ。魔女は加賀まりこさんでもう心底から魔女だった。命じたものを消し飛ばせる能力を持った村瀬陽香役の玉城ティナさんは眼鏡が似合っていた。そしてミッチーは後篇から登場なんでどんな演技かは不明だベイベ。きっと企みつつ画策しつつも内心を見せないイケメンっぷりを見せてくれるんだろう。こりゃ叶いそうもないけれど、でも勝たなければ先はない。どうする浅井ケイ。そこが見どころ。

 そんな実写版「サクラダリセット」の前篇と後篇を監督したのは深川栄洋さんで、前に橋本紡さんの「半分の月がのぼる空」を映画化した人で、観た人によっては色々な反応があったけれども僕はこの映画版が後半の改編めいた部分も含めて大好きなので、同じようにふわっとして淡淡と流れる「サクラダリセット」前篇の雰囲気はまずまず良かった。そして後篇はスペクタクルなシーンも必然としてあるし、丁々発止のやりとりもあったりするんでスリリングで激しい展開なんかも観られそう。それを深川監督がどう表現するかもお楽しみってところか。前篇とは違った雰囲気になっているというし、それを観てから総じてどういう評価かを決めたい。

 朝も早くから六本木へと出かけて「モアナと伝説の海」の監督が来日するイベントを見物。ジョン・マスカー監督とロン・クレメンツ監督というコンビはそれこそ「リトル・マーメイド」とか「アラジン」といったディズニーの長編アニメーションでも屈指の作品を送り出し、最近でも「プリンセスと魔法のキス」なんかを手掛けたディズニーきってのクリエイターたちなんだけれど、そんな人たちが来日するたびに宮崎駿監督はどうよって聞くのは何か正しいのかなあと思ったりもした。もちろん2人とも宮崎駿監督の作品を見てはいるだろうし尊敬もしているんだろうけれど、讃える言葉を聞いて僕たちの宮崎駿監督はやっぱり凄いと悦に入るような方向に行きかねないだけに、ちょっと注意が必要かも。

 まあそれは報じる側の心構えであって、彼らを出汁にして宮崎駿監督を讃えるんじゃなく、宮崎駿監督のヒット作とも通じる雰囲気が「モアナと伝説の海」にはあるってことを書いていけばそれはそれでお互いのリスペクトにつながりそう。たとえば自然との関わりが密接で、そして強い女性キャラクターが出てくるという。すでに公開されている予告編なんかを見ると「モアナと伝説の島」では南太平洋に浮かぶ島々がモデルとなったような場所で、海に愛された少女が島を出て冒険の旅に向かうってストーリーが繰り出される。その海の描かれ方、そして決断するヒロインの描かれ方は宮崎駿監督の世界観とヒロイン像に重なる。宮崎駿監督の作品が好きな人はだから「モアナと伝説の海」を観ても満足できる、ってことになるかな、絵柄が違いすぎるけれど。

 しかし本当に凄い「モアナと伝説の海」の水の表現。透明感があって水族館にある水を観ているようだけれどそれが生き物のように動いてモアナを助けたりもする。いったいどうやって描いているんだろうか。秘密があるんだけろうけれど、一方で人海戦術にも似たクリエイターの投入によってエフェクトアニメーションの部分を強化したってこともあるみたい。その人数は約50人。ディズニーアニメーションでもかつてない規模の人間がとりかかり、それも自動化できるところは自動化した上で細かい表現にかかりっきりにさせたとか。そうやって生まれた映像があれなら日本で同じものを作ることができるのか。出来なければやっぱりそこは日本独自の3DCGを追究していくのが良いのかも知れないなあ、「けものフレンズ」みたいな。いやそれは。そして自然の表現は2Dに任せる。「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」みたいな。それは本当。

 なんちゅうかワセダクロニクル、社団法人共同通信を株式会社共同通信を曖昧にし、電通と電通PRを曖昧にして世界を支配する広告会社の電通が、通信社の共同通信を金で操り製薬会社の広告めいた記事を載せさせた的構図を1度ぶち上げて世間の関心を誘ったところから引けないのか、電通とは名前がついてはいてもPR会社に過ぎない電通PRがお仕事としてPR活動をしたことを、それが国の仕事であって、そして命に関わる内容なんだからお金をとっちゃいかんだろう的ニュアンスの記事を持ってきた。国とか公的機関の活動のRPでお金をもらう待ってんなら、政府広報とか載せてる新聞を含めた媒体だってお金もらっちゃまずいってことにならないか。それも記事として無償で載せろって話にしたいのか。無理を曲げて取り繕っている感じ。あまり走りすぎると折角の告発の揚げ足を取られかねないんで、もっと慎重かつ冷静になって身近なペイドパブとか提灯記事とか挙げて欲しい。テレビ局の番組や事業を報道バラエティで紹介するようなたこ足食いも。やらないだろうけど。

 ガチンコかあ。というのはデジタルハリウッド大学でのアニメビジネスフォーラムで「ダイヤのA」をプロデュースしているAT−Xの人の話を聞いて思ったこと。いわゆる2.5次元って奴だけれどもアニメーションの声優がそのまま出てくる訳ではない舞台版では、キャラクターのイメージがどこか漫画ともアニメーションとも違った、舞台版ならではの役者の存在感が前に出てそれで引っ張っていくところもあったりする。ところが「ダイヤのA」の舞台版ではそうした色を徹底的に消して、アニメーションからそのまま抜けてきたような佇まいであり言動を役者がするようにしているという。オーディションで選ばれるのも雰囲気や背格好や性格までもが似ている役者。だから演じてまるでアニメーションのキャラが実在しているように見える。

 なおかつ舞台で使われる打球音とか捕球音といった効果音のすべてをテレビのアニメーションで使われているものにして、音楽も別に作らずテレビアニメーションと同じオーイシマサヨシさんが手掛けOxTが演じているというから目だけでなく耳でもアニメーションを観ていることが、そのまま目の前に繰り広げられているような感覚になるという。よくメディアが変わるとそうした展開を逆手にとって役者が地を出しメタな部分から舞台版を評するようなことをやって笑いを取ることも起こるけれど、そうした余興を一切許さないことで緊張感あるカンパニーの空気がどこまでも統率されていく。ユルんだり歪んだりしないから安心してずっと浸っていられる。だから今度の4月も含めて4度も舞台化されるくらいの作品になったんだろう。

 実は実際には見ていないけれども映像として見せてもらった感じでは、ステージ上が2段になってて上と下で攻守を演じ分けるような演出が行われているらしい。アニメーションなら画面を分割して見せられるけど舞台ではそうはいかないところを、工夫によって視覚的にもアニメーションならではの空間の操作を行っている。そんな舞台で演じられる野球は誰もが真剣。バットを振る速度も速くボールを投げるフォームお強い。そこに演じているような雰囲気はない。投げる打つ走るをしっかりと舞台の上で見せることによって野球というスポーツが持つスピード感と力強さをちゃんとそこに現出させている。これもまたどこか冷めた視線で舞台を感じさせてお腹いっぱい感を出さないための工夫か。いつでも行けば真剣勝負を堪能できる、そんなガチンコ感がなんか心をワクワクさせた。

 とはいえ聞くとやっぱり観客の99%は女性だそうで、実際に漫画を読んだりアニメーションを観たりしている男性のファンは舞台にはなかなか足を運んでくれないらしい。すでに女性のものとして定着している場に踏み込みづらいってこともあるだろうし、これは演劇に共通して言えることで平日の昼間とかに来られる男性はなかなかおらず、畢竟演出が女性向きになってしまうこともあって足を遠のかせている。だた逆に言うなら男性ファンを開拓する余地はまだあって、市場を広げられる可能性も持っている。ならば時短とかハッピーフライデーとか言われている状況で、平日に男性が昼間から2.5次元の舞台を見るような気分をどこか、煽って織り上げれば市場全体が広がっていくこともあるかもしれない。やらないかなあ、男性が平日の昼間観て楽しめる2.5次元。って何だろう、やっぱり美少女ハーレム物? 会社帰りの背広がそれを観る? 何て素敵なクールジャパン。


【2月8日】 そして観た「けものフレンズ」第5話をずっと「ごはん」だと思っていたからどこにいったい食事のシーンがあったんだろう、ジャパリまんは食べていたけど捕食って感じじゃないと訝っていたらどうやら「こはん」だったようでなるほどと納得。走り出したバスがとりあえずはラッキービーストによる自動運転だと説明されたご一行、でも自分で運転もできると聞いてやってみたいと運転席に飛びこんだサーバルちゃんは、ハンドルを握るでもなく猫手パンチをハンドルに繰り出し右に左に操作をする。動物って指を開いて握らないんだなあ。そこはちゃんと描いている。でもお茶を飲むときどうしてたっけ。忘れたんで確認しよう。

 してそしてアクセルか何かを踏んだかして突っ込んでいった湖畔に建ち並ぶ謎の木々。それはビーバーがログハウスを建てようと集めていたものらしいけれど、どこかでもらった大切なログハウスの絵なり写真を濡れないようにビニールシートにいれて観ているあたりの賢さを感じ、そして観ただけで設計してしまえるような才能も感じたものの根が臆病なのか考えすぎなのか、失敗したらどうしようって意識が立ってなかなか着工できない。そうこうするうちに何日か経ってしまって材料代もどうするかっといった問題が。博士にジャパリまん3カ月分と言っていたけどそれってどれくらいの費用なんだろう。そもそも博士って。そういったワードが唐突に出てくるあたりにやっぱり世界への不思議が感じられる。

 それはラストに近いところで考え過ぎなビーバーには模型を作ってもらってそしてすぐに何でもやってしまう直情径行なプレーリードッグに実行をお願いする振り分けをして見事に立派なログハウスを湖畔に建てさせ、プレーリードッグが住んでも天井が落ちてこない洞窟も作らせたかばんちゃんは何のフレンズなんだろうって話になって、考えることが得意なフレンズってワードが出てきたところで「ホモ・サピエンス」って種類がぐわっと浮かんできたけどそこへとはすぐに直結さえないご一行。というかラッキービーストだって判定しているならそれがどういう動物かくらい分かっていそうなのに、そういうところは答えないのがやっぱりどこかに不穏を抱いているのかも。次はさてはてどこに行く。そして何が出てくる。期待して観ていこう。主題歌を歌いながら。

 そんな「けものフレンズ」の3DCGなんだけれど妙に佇まいとか仕草が可愛らしいフレンズたちの映像を作っている監督のたつきさんが、自主制作でアニメーションを作り続けてきたirodoriってところの人だとやっと気づいてなるほどと納得。サンライズの荻窪スタジオが手掛けていた森田修平監督の「FREEDOM」とか片山一良監督の「King of Thom いばらの王」なんたを手伝って2Dライクな面持ちを持ったキャラクターを3DCGで造形して動かし喋らせることに腐心してきた人。そんな人が作っていれば観ていて安心の映像ってのもよく分かる。

 そして監督の人とかスタジオの人とはirodoriとして自主制作アニメーションを作ってクリエイターズワールドに出展したり、DVDに焼いてコミティアなんかで販売していたのを見かけて話したこともあったっけ。もちろん記事にもした。そんな人がこの冬で1番の注目作品を手掛けているってことに驚きながらも嬉しさが浮かぶ。ここまで来たんだなあ。すぐにでも話を聞きに行きたいけれども、今となっては行って書く場所もなし。相変わらず速すぎて注目が集まる前にこっちが手出しできない場所へと追いやられてしまう事態が続いている。変わり種ガチャだっていっぱい取材したのなあ。まあ仕方が無い。個人としての愉悦は残るんでそれがお腹の足しにはならなくても、今へと至る道のどこかに何か貢献できたと思い混んで今を喜び、明日へと向かうのを応援しよう。すごいねー。やったねー。

 ベンカンかあ、配管継手の大手としてそれこそ家々から工場まで広い範囲に配管部品を供給しているメーカーが、何を思ってた新しい分野に挑戦しようと考えたのか、新たに始めたのがブロックづくり。といっても壁を作るブロックではなく玩具のブロックで、配管部品の形を仕組みを応用してパイプの形状をした円いブロックをいろいろ作って売り出した。その何も「チューブロック」は基本的に繋ぐ部品に曲がっていく部品に分ける部品があってそれが3種類のサイズがあって接ぎ手の数が違っていたり曲がる角度が違っていたりといろいろな部品がそろっていて、それらを集めて組み合わせることによって実に多彩な形を作り出せる。動物もあれば人間もいてロボットだって可能でロケットだって作り出せる。巧い人がパーツに糸目を付けずにくみ出せばそれこそ城だって町だってガンダムだって作れるかもしれない。

 そんなブロックを最初はクラウドファンディングでもってそろりとマーケティング活動を行って手応えを得て、各種展示会に持ち込んで反応を探りながらどうにかこうにか去年の秋に商品化した模様。今はまだそんなに知名度はないけれど、出自の面白さとそして何よりブロックとしての面白さから知られれば結構な人がくいついて、あれもこれもと作って粋そうな予感。パステル調だったり黄色かったり黒かったり白かったり赤かったりとパーツの色もどぎつくなくってシンプルなのも作ったものがポップになるよう働いている。考えたなあ。1つ2つ買って作って試してみたいところ。そういえば前もばねの会社が小さいブロックを作ってそれでスマホケースとか名刺入れとかいろいろ作れるようにしてたっけ。持てる技術を新しい事業に展開していく動き、この世知辛い経済状況の中で今後も続いていくかなあ。

 もう15年以上はデザインフェスタに通い続けているけれど、だんだんと大きくなって入れ替わりもあったりして出会えない出展者さんも結構あったりする。そして面白いものをデザインフェスタとかそれ以外の展示会なんかで見付けて、今までデザインフェスタに出ていたって聞くと出ていたって帰ってきたりして、見逃したなあって後悔もするけどそれでもどこかで出会えたことは僥倖として、ここから繋いでこうと思うのだった。そんなひとつにインターナショナルギフトショーのアーティストビジョンってコーナーで出会えた。うえたに夫婦、ていう名前で活動している人による「ビーカーくんとそのなかまたち」。いわゆるビーカーのキャラクターだけれど他にもいろいろな理科の実験器具がキャラクター化されている。

 フラスコもいればメスシリンダーもいて遠心分離機なんて装置もあってろうと台やら電子マッチや駒込ピペットや炎色反応やら……ってそれ器具じゃないじゃんって思わないでもないけれど、そうした理科室にありそうな実験器具とか関連したのが精緻に、そして可愛くキャラクター化されていて観ているだけで理科室に入り込んだような気になれる。百葉箱親分なんてのもあるぞ。作っているのは今は独立しているけれども前は化学系の研究員だった人でそれだけに器具への知識も愛着もある感じ。何しろあの「子供の科学」の誠文堂新光社から絵本を出し、「子供の科学」誌上で「ビーカーくんがいく」って連載も持っているから本格的って言えそう。グッズなんかは手作りしたり独自に作って頒布しているようだけど、いずれおおきな所と組んで盛り上がりそうな予感。それだけのポテンシャルを秘めている。学校教材との連携とかもありそうかなあ。そんな期待を抱かせてくれるキャラを推しても世間でブレイクした時には僕はもういない。それもまた人生だ。嗚呼。


【2月7日】 やっぱりなんにも分かっていないし、変わってもいなかった元アナウンサー氏。千葉一区から衆議院議員選に立候補するって表明をしたけれども例の人工透析患者に対する暴言を謝罪するかのように思わせて、根本の部分で人の命の軽重を、というよりすべてに重いそれの生殺与奪の権限を政治が持っているかのような見解を相変わらず示して、さっそくニュースの見出しにとられている。だってそこが1番重要だから。政治でも誰でも人の命をそこで奪って良いかどうかの判断を出来ないんじゃないのっていう疑問に対して、持論を譲らず「自業自得の線引きをするのが政治」だと発言する。つまりは彼が政治家になったらそれは自業自得だからと命を奪われる事態が起こり得るってことだ。

 今はまだ享楽の果てに体を壊した人かもしれない。でもいつか心が弱くて働けなかった人、家が貧しくて学校に通えなかった人も自業自得と切り捨てられるかもしれない。歴史的な経緯があって日本国籍を取得するのに躊躇いがある人たちも、それは決断しなかったお前達が悪いといって切り捨てられるかもしれない。弱さには原因があるし曖昧さには理由がある。そうした背景を、あるいは蓄積を省みないでそれが政治だからと即断即決で切り捨てられていく未来を、もたらそうとしている者が国政の場に立ったらいたいどうなるか。応援している人もいつ自分が自業自得と切り捨てられる側に回らされるかもしれないというのに。でも今さえ良ければの心理が持ち上げてしまうんだろうなあ、海の向こうの自由が危ぶまれている国のように。

 ほかにもいろいろ露呈している元アナウンサー氏。幕張新都心が空き地だらけですよと言い放っては千葉市長からどこが空き地ばかりですか、ちゃんと計画があっていろいろと進んでますよと突っ込まれている。最初はネットニュースだけ見て判断しないで欲しいよと、そうは言ってないようなニュアンスを漂わせていたけれども出席していた人から聞いてそういったと確認したと言い換えされ、実際に映像を見たらちゃんとそう言っていたことも分かってなんかぐだぐだになっている。すぐにちょっと言い過ぎましたと謝れば良いのに、一般論として皆に空き地ばかりって思われているよと言っているけど、少なくともこれからの国政を担う人間なら現状がどうで将来がどうかを確認し、その計画に間違いがあるならそえるくらいじゃないと通らない。デマで不安を煽って注意を向けさせるアジテーターと変わらない。いや実際にそうなのか。

 IRすなわち総合リゾートを幕張メガフロートに建設してその寺銭でもって潤う企業からの税収が千葉一区の教育を無料にしますよって誘いも一方で、カジノという人の欲望を誘い絶望を生むこともある装置からの収奪が背後にあって、そんなお金で教育されて果たして人間として真っ当に育つのか、って疑問も浮かぶ。それなら千葉市長が進めているように、AIでありIoTでありドローンといった未来のテクノロジーを集積し、産業を振興して税収を確保する方がよほど日本の未来になる。目先に走って聞こえの良い話ばかりする。そんな人間がそれでも受け入れあれ国政に出て行ってしまったら果たして未来は。海の向こうの心配ばかりしている場合じゃないよ、本当に。

 フライングゲットを狙いまずは訪れた池袋のP’PARCOにあるタワーレコードだったけれども見当たらず。それならとアニメイト池袋店に行ったもののやっぱり並んでいないのは未入荷なのか売り切れたからなのか、判然としなかったけれども聞くのも憚られたんで店を出て、目的地に向かう途中にここならと入ったとらのあな池袋店でようやく発見して確保できた「けものフレンズ」のオープニング「ようこそジャパリパークへ」のCDの初回限定版。10センチのバッジがついているってことで開けて見たらどうぶつビスケッツ×PPPver.でつまりはジャケットと同じでうん、これでオッケーとは思ったもおの2つあるとコンプリートしたくなるのも人情。とはいえほかに見当たらず。売れているのかなあ。プレス枚数が少ないのかなあ。

 そして2番まで聞いた「ようこそジャパリパークへ」はやっぱり名曲。歌詞も変えつつ展開も踏まえつつ合いの手は入れつつなミュージックがだんだんと盛り上がっていく感じがとても良い。最後はいっしょになって「ハイハイ」って叫び出したくなる。一緒に入っている曲「大空ドリーマー」はどこかで使われるのかな。もう使われていたっけか。ともあれ確保したイベント参加券が使える日にちゃんと開かれることを今は期待。あとはどうぶつビスケッツのコメントが入っている通常版を探してゲットだ。買うのか? そっちは買う。そういうものだ。うーがおー。

 そして駆けつけて劇団スタジオライフによる萩尾望都さんの漫画「エッグ・スタンド」の舞台化発表会見へ。あの萩尾望都さんが登壇するんだからこれは行かない訳にはいかない。気になったのは「エッグ・スタンド」という第二次世界大戦中のナチスドイツによって占領されたフランスのパリを舞台した漫画が、ある意味で太平洋戦争中の日本を舞台にした「この世界の片隅に」と同じ時代を扱っていて、それぞれに日常でありながらもどこか制約を受け抑圧もあったりする中で懸命に生きている人たちを描いていること。そういった共通項を踏まえて萩尾望都さんが「この世界の片隅に」を読んでいるか、あるいは映画を観ているかを尋ねてみたかったけれど、そういう時間はなかったんでそれはいつかまた。

 でもある意味で“もうひとつの世界の片隅”を描いた作品として、萩尾望都さんは知らなくても映画で「この世界の片隅に」を観た人には読んでもらいたい漫画だし、観ても平ら委舞台って気もしてきた。そしてもうひとつ、今という時代と重なる部分を70余年前のフランスなり日本なりに感じ取ってそこから今という時代が第二次世界大戦中でホロコーストを引き起こすドイツや、太平洋戦争で本土を焼け野原にされる日本のような悪い方へと向かわないための道筋を、あるいは信念を見付けて欲しいって気も。製作発表会でスタジオライフの脚本と演出を務める倉田淳さんが作中で語られる、中にヒヨコが入ったまま生まれずに死んでいくタマゴの描写を引き合いに、どこかの大統領によって強固に守られる国がそのまま腐っていかないかって話をしていた。

 つまりはアメリカ合衆国でトランプ大統領による保護主義と排外主義を差してのことだろうけれど、そういう不安を抱かざるをえないくらいに今、世界は急激に窮屈さを増している。そんな偉大にこの「エッグ・スタンド」が舞台化されて注目を集めることにはやっぱりおおきな意味があり、意義もありそう。本来だったら許可をもらった10年くらい前に倉田さんが脚本を書き、演出をすれば舞台化もされていたかもしれない。ただその時は人気の萩尾望都さんの作品がまた1本、舞台になったってくらいで済まされていたかもしれない。でも10年が経って激変した世界は「エッグ・スタンド」の時代へと逆行するような空気を醸し出している。今こそ、今だからこその舞台化ってことも言える訳で、それだけに倉田さんの筆も演出もきっと冴えたものになるだろう。これは観に行かざるを得ない。

 キャスティングがまた絶妙で、殺人を繰り返す少年ラウルを松本慎也さん、山本芳樹さんが演じてそんなラウルの面倒を見るキャバレーの踊り子ルイーズを曽世海司さんと久保優二さんが担当。曽世さんなんていったいいついらいの若い女性役だろう。20年前に「トーマの心臓」でスタジオライフの舞台から出た曽世さんだけに原点に返りつつ新しいものに挑む作品として意味を持ちそう。そしてレジスタンスのマルシャンを演じるのはどちらかといえば妖艶な女声役が多かったイケメンが多かったりする岩ア大さんと笠原浩夫さん。松本さん組のノワールがスタジオライフのある意味でのビジュアル的な看板で固め、山本さんのルージュチームが技巧派を揃えた、っていったら両者に失礼だけれど、そんな差異も楽しめそう名だけにこれもやっぱり両方観たい。頑張ってチケットとろう。そして世界の片隅に生きた人たちの息づかいを感じよう。


【2月6日】 アニメーションを対象にしたアニー賞が発表になっていて、公開規模の大きいメジャーな作品ではやっぱり「ズートピア」が受賞。そしてインディペンデントでは原恵一監督の「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」や「君の名は。」がノミネートされていたものの受賞を逃し、とはいえ一応はスタジオジブリが関わっている「レッドタートル ある島の物語」が受賞して、ニュース的にはジブリがってことを言えたみたい。もちろん日本でのコンテ作りとか高畑勲監督の助言とかあるけれど、資本はだいたいがフランスで監督はオランダ出身。それを同じジブリ作品と言って俎上に載せて書かなくちゃいけないくらいに、ジブリって看板が持つ世間的な伝播力は未だ高いと言えそう。通じちゃうものなあ、ジブリが取ったで。

 でもそれは日本のアニメーション界にとってどれほどの意義があるかというとまた別の話で、そこにクリエーターとして誰か関わっていたならまだしも看板を貼っただけといった雰囲気。興行成績も今ひとつだったし、そういう看板での神通力は少なくとも興行の面ではだんだん薄れてきていると言えるかも。だからこそ新しいクリエイターを送り出さなきゃいけないのにジブリはやっぱり宮崎駿監督を持ち出しそうだし、メディアも新しい人をなかなか取り上げない。だからこそ国内で今、盛り上がっているアニメーション映画のブームを受けてこんな作品があったし、こんなクリエイターがいるって紹介していけばいいものを、今のこの瞬間の話題にすがって報じて終わりって感じだからなあ。「君の名は。」も「この世界の片隅に」も。

 とはいえ、そうした過去の苦渋を知っている片渕須直監督あたりはしっかりと波及も考えているようで、インタビューなんかで答えて必ず他の作品があったことを挙げている。嬉しい限り。あと民放が徹底的に削ってきた主演ののんさんをどうにか露出させようとしたか、歴史あるキネマ旬報ベスト・テンの表彰式で読者選出監督賞の受け取りをのんさんい任せて壇上に引っ張り出した。監督賞は片渕須直監督が受け取り作品賞は真木太郎プロデューサーが受け取って、その流れで片渕須直監督が2個目のトロフィーを受け取っても間に合ったところを、敢えてのんさんに受け取ってもらった。

 これで壇上には3人が並び受け答えには必ずのんさんが入る。実際に民放のワイドショーでは片渕須直監督の背後に佇むのんさんがしっかり映っていた。話もアフレコの時の様子でのんさんをしっかり立てていた。記念撮影でもしっかり映っていて、そこには主演助演の男優女優も並んでいた。ザ・芸能界の中心を行く人たちといっしょのフレームに入ったその映像なり画像から、のんさんだけを削るなんて無理。やればやったで何か言われるだろうからやらない。そんな画策からのんさんが世に露出していくことが“解禁”されればいっしょに映画も広がって、そうやって得た発言権が新しいアニメーション映画と、新しいクリエイターの認知に繋がれば嬉しい。でも今度は宮崎駿監督が片渕須直監督に置き換わるだけって可能性も。そこを突破する方策を、いろいろ考えていかないといけないのかも。

 アニー賞ではウィンザー・マッケイ賞に押井守監督が選ばれていて授賞式に行ったみたいで帽子を脱いだ姿を珍しく見た。でもって功労賞的な賞へのあれやこれやを喋ったみたいだけれども個人的にはやっぱり「スカイ・クロラ」以降、劇場でかかる長編アニメーション映画を撮っていないのが残念で、早くどこかのプロデューサーが押井税を納めて企画し作らせるだけの配慮を示して欲しいと思ったけれど、いったい何を撮れば誰もが感心を示すのかがちょっと分からない。「スカイ・クロラ」だってどうして森博嗣さんのあの小説をって思ったものなあ。でも出来たらすばらしかったんで、そうした意外な組み合わせから凄いものを送り出す才能を、このまま埋もれさせないで欲しいと願おう。何を作って欲しいかなあ。

 救いを持たせて終わりを心地良いものにしがちなエンターテインメントにあってのっけから絶望的な状況へとヒロインを叩き込み、そこでの幸福を求め足掻く姿を描いてあったりして読んで心にズキッと来た諸口正巳さんの「常夜ノ国のノ天照」(エンターブレイン、1400円)。訳あって左目の眼球を失いまぶたも傷つけられ、いつも眼帯をしている火野坂暁という少女が絶望しながら鉄道に乗って目覚めると見知らぬ場所。降りてそこにいた少年からりんご飴をもらい舐めた時に異形の者たちに襲われ、あらがっていたところに緑色のジャケットを着て帽子を被った男が現れ助けてくれた。名をオースティン・ミニ・クーパーS。まるで英国の自動車みたいな名前だけれどもそのとおりに自動車で、長く乗ってもらったことで付喪神となってその地、常夜へとやって来た。

 そして暁に語るには世界はシロギツネとクロギツネの下で2分されていて、良い者たちがいて悪い者たちがいてお互いに殺し合っている。ミニ・クーパーSは良い側で他に<良い飴屋>やら<良い鍋屋>やら<良い人形屋>やらがいてそれぞれに力を振るって戦っていた。そんな地に天照、一種の女神として召喚された形の暁だったけど、何も口にしなければ元いた世界に戻れた者をひと舐めりんご飴を下に触れさせただけでもうダメで、残る一生をその地で過ごさなくてはいけなくなった。なおかつ悪い奴らが集まるニシ町を焼き尽くす力を持った天照を捕らえて喰おうとしているニシ町の襲撃も止まず、暁はヒガシ町の住人たちと共に戦線へと身を躍らせる。

 元いた世界で信頼していた相手から邪険にされた哀しみがあり、元いた世界に帰れないという絶望があり、そして戦いではどんどんと味方が倒れていく悲惨もあってなかなかなにシリアスでダークな気分にさせられるけれど、そんな中でいつも飄々として暁のピンチに駆けつけるミニ・クーパーの愛された自動車ならではの実直さにジンと来る。そりゃあ暁も惚れるはず。もう1台、ハコスカというのも登場してしばらくはニシ町について暁を狙うもののそこは自動車、誰かに乗ってもらってこそ嬉しい身がただ世界を滅ぼそうと画策するニシ町の元締めと若と呼ばれる少年の謀議に嫌気を抱き、暁を助けようと疾走する姿も格好いい。エンスーならずともオールドカーの性根の良さに惹かれる設定。そんな戦いを経て悲劇も味わいつつ希望も灯ったこの先、常夜はどうなっていくのかい興味。そう言う続きが描かれる作品でもないだろうけど、ちょっと読んでみたいかも。

 これはやられた。脱帽だ。コーエーテクモグループのコーエーテクモウェーブが新しい業務用のVR筐体を開発したってんで見物に行って、いったいどんなVR技術を使っているんだろう、やっぱりHTC Viveみたいなものだろうかと思っていたら何と搭載していたのがプレイステーションVR。それが筐体にセットされ動く椅子やら吹く風やら触れる何かやら香匂いやらと連動して臨場感って奴を醸し出すらしい。VRアトラクションというと装着に誰かがついていないと大変で、台が動くなら安全のためにも見張っていなくちゃならず人手がとられるけれど、この筐体なら自分ひとりで装着できて見張りも不要。オペレーションする側にとってはローコストでVRを導入できるだろう。なおかつコンテンツもホラーゲームにジョッキーレースゲームに「真・三國無双」と引きが強そう。本格的に動き始めればあちらこちらで長蛇の列ができるかな。ちょっと注目。


【2月5日】 今日が最終日だと昨日分かったんで慌てて国立新美術館へと行って「第19回ドマーニ・明日展」を観る。目当ては折笠良さん。今回の毎日映画コンクールで「この世界の片隅に」が受賞した大藤信郎賞を去年「水準原点」で受賞した折笠良さんのコーナーがあるってんでこれは観ておかなくてはと行って入場し、まずはとほとんど最終に近いコーナーへと急いで観たのがロラン・バルトによる論考を文字で描きながらもそれがアニメートされるっていった作品「Notre chambre /われわれの部屋」で、前に東京藝大院の終了制作で作ったオスカー・ワイルド「幸福の王子」を文字で描きつつ動かしてのけたシリーズと重なる、あるいは集大成といったものになっていた。

 その論考自体が美術なり評論なりの世界でどれだけの意味を持っているのかは分からないけれど、「幸福の王子」がどちらかといえば物語だったのに対してちょっと違ったアプローチがそこにあったかもしれない。凄いといえば凄いけど、面白いかと言われるとちょっと。ただひとつの手法として確立された感もあるんで次は日本語の文章のたとえば村上春樹さんを動かすとかやったら世間受けはしそう。でもやる意味があるかは分からない。上映されていた「水準原点」はやっぱり心に染みるというか、岸へと近付いていく波のような造形の変幻の中に浮かぶ言葉。そしてのまれてまた波となる感じから世の無常ってやつが漂い出る。こういうのを評価するから大藤信郎賞は凄い。久野瑤子さん「Airy me」とかも。それが今回は長編アニメーション映画だった訳で、弾かれたインディペンデントな短編アニメーションが拾い上げられる賞があれば良いけれど。TAAFかなあ当面は。

 他の作品では金子富之さんという、元は日本画の人らしいけれども今は南アジアや東南アジアの神獣めいたものをモチーフにしてどこかプリミティブな雰囲気を持った絵画を描いている人の作品に見せられた。インドのミティラー絵画にも似た緻密さでもって彩色も行われたおおきな絵は正面に立つと睨まれ引き込まれそうになる。これが絵の力って奴だろう。ほかでは岡田葉さんって人の絵が良かったかなあ、ざっくばらんに描きつつ彩色しつつしっかりとモチーフを捉えている作品は明るくて楽しげで、絵ってこうやって描いても良いんだって思わせてくれる。もちろんそう似せるまでにはしっかりとしたデッサン力があるんだろうけれど、観て窮屈なよりは開放感がある方がやっぱり良いから。もっと観ていたかったけれど時間もなく、今日でおしまいなんで残念。いつかまた個々に展示されていたら観に行こう。

 観ていたかというと始めは観ていて途中まではちゃんと観ていた記憶があるけれど、それからどうなったかというと少し記憶もおぼろげになるNHKの人形劇「プリンプリン物語」。強烈だったルチ将軍という独裁者に支配されたアクタ共和国でのエピソードが終わっていったい、プリンセス・プリンプリンと仲間のボンボン、オサゲ、カセイジンにプリンプリンとはずっといっしょだったモンキーが、どんな旅路を辿ってどこまで行って、どんな結末を迎えたのかになるとちょっとはっきりとは覚えていない。そもそもプリンセス・プリンプリンは自分が生まれた国にたどり着けたのか、お父さんとお母さんには会えたのか、そもそもプリンセスだったのか。話の根幹となる部分について知らなかったりする。

 でも、デビューの翌年から「プリンプリン物語」のヒロイン、プリンセス・プリンプリンの声を演じて3年間、600話以上をいっしょに走った石川ひとみさんが、イベントに登場してまだプリンセス・プリンプリンの旅は続いていると話していたから、放送された人形劇でしっかりとした結末は描かれておらず、プリンプリンもボンボンもオサゲもカセイジンもモンキーも、未だにどこかの国を訪れては奇妙な人々との間で騒動を起こし、すばらしい人たちと出会って導きを得ているのかもしれない。そんな物語が今またテレビで人形劇として描かれたりしたら嬉しいけれど、そのためには「プリンプリン物語」がどんなストーリーだったのかを振り返り、観ていく必要がある。

 そして問題は、長くそんな「プリンプリン物語」のストーリーで大切な始まりの冒険が映像として残っておらず、振り返りたくても振り返られなかったことだけれど、長い調査の果てにようやく、失われていたと思われていたエピソードが発見され、綺麗に整えられた上でアーカイブスとして収録されると同時に一般にもお披露目されることになった。そんなイベントが埼玉県の川口市にあるSKIPシティ彩の国ビジュアルプラザにあるNHKアーカイブスの映像ホールで開かれて、行ったらこれが凄かった。もう本当に凄かった。入ってまず目に飛び込んできたのがルチ将軍の巨大な頭と、脇を固めるヘムラー大佐にステッラに軍曹ほかアクタ共和国の皆さんたち。当時の人形が引っ張り出されて飾られて、映像とともに迎えてくれて、観ているだけで当時の記憶が蘇って来た。

 そう、僕はこのアクタ共和国編は観ていたんだ。何しろルチ将軍のキャラクターが強烈で頭が巨大な上に知能指数は1300。独裁者でやることなすこと酷くて観ているとどうにもこうにも憤りが浮かんで来る。今となってはどこかの超大国の大統領に就任した人にも重なる独裁ぶりだけれど、当時はどちらかといえばナチスドイツの影響も過去にいたキャラクターとして、2度と生んではいけないという気分を抱かせてくれた。もしも今、このアクタ共和国編が放送されたら世間は現在進行形の独裁と独裁者を思い出すだろうなあ。「世界で1番優れた民族、アメリカアメリカ合衆国、大統領令絶対移民は反対アメリカアメリカ合衆国」だなんて歌いそうだものなあ。

 そんなアクタ共和国編がイベントでは導入部に近い部分がまるまる1話と、そして流れを追うダイジェストが30分くらいで放送されてはあの国でいったい何が起こっていたか、革命を起こそうとした2人がどうなったか、そしてルチ将軍は何者だったかが示される。悲しい結末は本当にそうだったんだろうか、って気になったけれどそこは上映されず。どうやらそおはまだ映像が発見されていなのかな。ともあれ大半が見つかって感動を爆笑の展開は蘇った。いずれアーカイブスとして公開されるそうなんでそれを待ちたいし、限りなく完全版に近いDVDボックスの発売も期待したいところ。アクタ共和国編があってこその「プリンプリン物語」って思う人も結構いるだろうし。

 そんな上映を観ていて思ったのがルチ将軍を演じる声が最初はまだぎこちなく、そしてだんだんと突拍子もなくなっていくこと。演じてるのはもちろん神谷明さんだけれど、一方でボンボンというお調子者の二枚目を演じていたりする訳で、もう一方で時に甲高く時に居丈高な独裁者も演じてのけたその技に、当時は声優って凄いなあと思った。後に「キン肉マン」や「北斗の拳」や「シティハンター」でイケメンの少年に止まらない声を演じるようになっていった、その原点があるいは「プリンプリン物語」のルチ将軍にあるのかもしれない。そして緒方賢一さん。アクタ共和国で軍曹を演じた緒方さんが会場に「天の声」として参上しては、第1部で石川ひとみさんといっしょに上映を進行したり、キャラクター・ベストテンを引っ張った。

 このキャラクターベストテンで10位に軍曹が入ったのはご愛敬として、1位がプリンセス・プリンプリンなのも当然として2位がカセイジンだったのが少し意外だった。誰もがやっぱりルチ将軍と思っていたけどカセイジン。あの「ルールールールー」という耳を回して予言する不思議さと妙な落ち着きに惹かれた人が多かったのかも。仲間はボンボンもオサゲもモンキーもしっかり入っていて、他はペドロに花のアナウンサーにランカーといったところはつまり定番メンバーってことで、そんな面々を石川ひとみさんが物真似して紹介する場面もあれば、軍曹がさんがやりたいと言って真似する場面もあった。そんな軍曹さんによるランカーの真似は滝口順平さんを緒方賢一さんが真似るという、声優レジェンドによる“共演”として記録に残るかも。共に剽軽なところがありながらも滝口さんはドスが利き、緒方さんは抜けがあってとある意味で対局。でも根底は似ている2人の入れ替わり。もしかしたら今、滝口順平さんを替われるのは緒方さんをおいて他にいないのかもしれないなあ。

 花のアナウンサーが出ずっぱりな感じもあったギャグを集めた映像が流され、そして歌がフィーチャーされた映像も紹介された第1部に続く第2部では、石川ひとみさんがそんな歌をライブで披露。メーンテーマに始まって「おかあさんのうた」やら「おとなってへんね」やら「わたしのそこく」やらボンボンが歌った「そら」やらを披露。途中にはあのヘドロを演じた眞理ヨシコさんが現れては名曲「ヘドロの歌」や「世界お金持ちクラブの歌」を聞かせつつ、「オー・シャンゼリゼ」「枯葉」「愛の賛歌」と本格的なシャンソンも歌ってくれた。芸達者。そんな人が3年間もランカーの秘書としてペドロを演じ続けたって意味でも凄い番組だったと改めて思った次第。

 最後はやっぱりな「ハッピーアドベンチャー」を歌って締めて3時間半以上。当時と変わらず澄んだ声で楽しげに歌ってくれる石川ひとみさんの巧さも輝いた。そんなとてつもないイベントを無料で楽しめたってのもやっぱり凄い。でもこの凄さを行った人たちだけで味わうのも悪いんで、是非にまた、今度はNHKホールで本格的な上映と、そして出演者を集めたコンサートを開いて欲しいなあ。聞きたいよ会いたいよルチ将軍に。花のアナウンサーに。ベベルとマノンに。たぶん皆さん今でもちゃんと声、出せるだろう。そしていっしょに集いたいだろう。緒方さんも最後に登場して楽しそうな表情を見せてくれていたから。オサゲのはせさん治さんは亡くなられたし、ランカーも無理だけそこは緒方さんが物真似で演じるということで。是非に。絶対に。


【2月4日】 チェコのクラブでクラヴィスがビールを飲んだ辺りで意識が途切れて、気がつくとインドの上空から降下しようとしている場面だった。何が起こったか分からないかというと普通に眠ってしまっただけだけれども映画「虐殺器官」は戦闘シーンは緻密で迫力もあってなおかつグロテスクで目が離せなくなるものの、その間をつなぐシーンには会話が多くそれらが説明口調で精神が衰えているとついつい脳の活動を停止させられてしまう。それはもししたら映画のセリフに睡眠の文法でも仕込まれているからなのかもしれない。そんなことはないだろうけれど。

 試写ではそれでも全部見ているからストーリー自体で抜けはない。ただやっぱりエンディングからその先、小説ではエピローグにあたる部分がばっさりと切られているんでいったい世界があの後どうなったのか、というよりそもそもクラヴィスはどうして訴えられていて、そこでいったい何を話したのかがまるで映画からは理解できない。放り出されたような気分にさせられる上に理屈っぽいセリフの連続では人によっては飽きもするかおしれない。目を向ける美少女もいないし。

 ただ通して見ればやっぱり突きつけられてくる言葉が人を誘い煽って“虐殺”へと向けるメカニズム。頭に器官があろうと遺伝子レベルで組み込まれていようと、そうしたものが発動する暇もあたえず人間は扇情的な言葉によって煽られ、扇動的な言葉によって猜疑心を増大させられ不信と不安の中で弱い者にたいする暴言を口にしては安心しようとしている。そうした言葉がひとりのものから大勢の意識になりつつある現在、何かが起こりかねないといった心配が漂う。関係がないのに中国が悪いと仄めかすような記事とかが、木鐸を任ずる新聞の題字の下に載る時代。煽られた心理は燎原の火のように広がって心を赤く染め、やがてその手を血に濡らさせるようになるかもしれない。そんな時代を描く映画。もう1度くらいちゃんと起きて通して見たいけど、なんか暗いんだよなあTOHOシネマズ日本橋。過激過ぎる内容なんで暗くたのかなあ、気のせいかなあ。

 ステゴロで殴り蹴るのが憧れを誘って受けていたんじゃないのかプリキュアシリーズって思っていただけに、最新シリーズの「キラキラ プリキュアアラモード」では肉弾戦を封印したっていった話が流れてくるにつれ、それってプリキュアなのかと思いつつ一方で今のプリキュアらしさて何なんだろうとか考えつつ、シリーズが長く続くとやっぱり不思議な現象が起こるものだといった認識を改めて抱く。っていうかもはや「仮面ライダー」だってライダーとしてオートバイに乗って走って闘わなくても良い時代。ロケットで宇宙に出ようが車で走ろうが「仮面ライダー」と頭に着ければそれはライダーな訳であって、変身ヒーローの代名詞的な言葉として認識しつつ仮面のヒーローが活躍しくれれば後は問わないっていったことになっている。

 ならばプリキュアだって初期の「ふたりはプリキュア」の頃から続いた、魔法だのアイテムだのを使わずパンチにキックで敵を倒す基本はもはや基本ではなく、2人組だっていうのはとっくに消えて複数の少女たちが変身をして集団で戦う展開があればそれはプリキュアなんだといった認識に落ち着いているのかもしれないそして肉弾という戦いの手段はやっぱりちょっと見せて良くないといった想いが親の世代なんかに流れていると、そうじゃない方向へと行きましょうってなる。そんな現れななのかもしれないなあ。それだったらもうプリキュアというシリーズ名も辞めて魔法のなんとかめいたタイトルで新シリーズを立ちあげれば、この先の10年を戦えると思うんだけれどそこで躓くと後が続かないって不安もあるんだろうなあ、だからプリキュアという何すがる。それはいつまで保つのか。これからの数年を眺めていこう。また肉弾戦が復活するかも知れないし。「ブートキャンププリキュア」とか「ピクピク プリキュアマッスル」とかってタイトルで。

 少年と少女の不思議な出会いが描かれている田辺屋敷さんの「追伸 ソラゴトに微笑んだ君」(ファンタジア文庫)。野球部を辞めてボーッとした毎日を送っていたマサキって少年が、近況報告がてらに祖母に「彼女を作る」と古い年賀状に書き、不足分の切手を貼ってどこかさび付いたポストに投函してからしばらく。新学期が始まって学校に行くと自分だけが知らないハルカという少女がいて、成り行きからカップルを演じるようになった。クラスの誰もがハルカはずっといると言っている。いったいどういうことなのか。おまけにマサキが古い年賀状に好みの髪型を書くと、ハルカの髪型もそのとおりになっていたから驚いた。神様でもいて世界を望みどおりに変えているような、俺TUEEEEE系ファンタジーに見えなくもない。

 ところが、だんだんと浮かび上がってくるのは時間が絡んだSFといった雰囲気。伝承めいた謎のポストの存在と、古い年賀状というアイテムを通して今がどこかと繋がって、そして今に至っている関係からマサキの手紙の言葉がハルカに跳ね返って来ている。そして起こった哀しい出来事。それもどうにかできるのか。動くマサキだけれど古い年賀状は残り少なく、そこでやり方を間違えたら取り返しのつかないことだって起こりえる。どうすればどうすればマサキは最悪の今を最善へと変えられるのか。そんな方法をいっしょになって思索したくなる作品。守備範囲外の恋愛ファンタジーに見えて見かけによらずSFな作品があるなあ。飽きずにもうちょっと手広く読んでみるか。

 ULTIRAだULTIRAだ、イオンシネマ幕張新都心で片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」が巨大なスクリーンと圧巻の音響設備を持ったULTIRAで上映されるってんでさっそく見物に。入って3列目くらいに座ると視野いっぱいにスクリーンが広がる迫力で、TCXなんかともまた違った迫力でもって身に迫ってくる。そして音響は片渕須直監督が自ら調整を施したという9.1chでこれはいったいどんなサウンドになるのかと耳を澄ませて驚いた。風のごうごうと吹く音が聞こえてくる。たとえばすずが手伝いでのりを干す場面。あるいは松葉を集めに行って水原さんと出会う海を眼下に見下ろした高台のシーン。そこでごうと吹きびゅうと吹く風の音が背後に鳴って自分もそんな風を浴びているような気にさせられる。

 爆弾が落ちてきたり戦闘機が飛んだり機銃が掃射されたりといったおおきな音、爆発系の音も響くのは当然として、そうした自然を表現する音がしっかりとつけられていた。これまでは耳に届かなくても肌身に感じられていて、それがちゃんと耳に響いてなおいっそうの臨場感って奴を醸し出す。ほかにも細かい音が聞こえてくるようになっていたULTIRA9.1ch。加えて見上げるように浴びせられるようなスクリーンはエンディングが終わった後のクラウドファンディングに参加した人たちの名前が流れるその下で描かれる絵物語を、それこそ劇場にある中規模くらいのスクリーンで見ているような気にさせる。隅々までじっくり見えて伝わってくる心情も増大。結果として今までの千倍も万倍も泣けてきた。こういう効果を味わいにまた観に行こう。「マイマイ新子と千年の魔法」の上映もあるし、ってか「ガールズ&パンツァー劇場版」の上映おあるのか。通おう。


【2月3日】 ここんところ話題のJASRACによる音楽教室からの著作権料徴収の話で、法理的ではなく情緒的に言うと、それで潰れたり事業縮小したりした音楽教室が出たり、月謝が高くなって通いづらくなって生徒が減ったりした先に、JASRACが飯の種にしている音楽そのものを作る人たちが減って、自分の首を絞めかねないのに今の収入に走って臆しない姿勢がどうにも物寂しい。大局観を持って物事を見て、これは悪手だと感じ取って抑えるだけの度量がもう、日本人から喪われていたりする現れなのかもしれないなあ。今さえ良ければ後はどうでも。信頼を売ってアクセスを稼ぐどこかの新聞のようだ。厄介だけれどもで、本気そうだしこれはしばらく揉めるかな。

 発売された「キネマ旬報」の2017年2月下旬号で2016年第90回キネマ旬報ベスト・テンの結果が掲載されていて、そこで読者選出賞も片渕須直監督の「この世界の片隅に」が受賞していてなんか本当に制覇しつつある感じ。すでにベスト・テンの第1位を獲得して日本映画監督賞もアニメーション映画作品の監督としては初めて片渕須直監督が受賞するといった報が流れてファンを喜ばせてはいたけれど、こと人気投票になるとやっぱり「シン・ゴジラ」か「君の名は。」に向くと思っていただけにちょっと意外。というか圧倒的な観客動員数を誇りながらもどうして「君の名は。」がトップに来ないのかがちょっと分からない。

 これで日本アカデミー賞の最優秀アニメーション映画賞まで逃すとちょっとこの国の映画産業も不思議な状態に陥ってしまう。良い物が受けるとかいった認識が生まれてしまうとか。いやいや確かに「この世界の片隅に」は良い映画だったから観客もだんだん増えて行ったんだけれどそこには口コミによる拡散があり従前からの片渕須直監督らによる草の根の浸透作戦もあっての動員数。それなくして良い映画だからと世に出したものの受けず引っ込んでいく作品が、このあと続出したらちょっと悪い影響も出かねない。むしろ「君の名は。」こそ良い映画だったからこそ受けたんだといった文脈を、ここでつけてあげないといろいろと冒険的でもあるオリジナルのアニメーション映画が引っ込んで、またぞろ人気シリーズやキャラクターの作品ばかりになってしまう。

 数字があるならやっぱり1番といったものを、数字だけでなく賞でもって讃える制度って映画界にはあったっけ。音楽業界だといろいろと力学が働く日本レコード大賞に対して数字が物を言うゴールドディスク大賞があって棲み分けはできているけれど、映画って観客動員数ナンバーワンになったものを讃える仕組みがあんまりないんじゃないかなあ、日本映画製作者連盟賞とかあったら良いのに。あったっけ。あと良い映画だけれど埋もれてしまっている映画への視線が、片渕須直監督がキネマ旬報のインタビューで「」と話すようにあちらこちらで訴えても、なかなか浮かんでこないような気も。

 商売的に今の旬に乗りたいと「この世界の片隅に」を取り上げるメディアは増えても、だったらいったい過去にどんな良い作品があって忘れ去られているのかを検証するメディアは聞かず。このままではスタジオジブリと宮崎駿監督のバリューが片渕須直監督なり、新海誠監督にすり替わっるだけに終わってしまう。そうならないためにも映画の人たちは、アニメーションの人たちはやっぱり今の旬に乗っておきたい感じなんだよなあ。過去の作品を取り上げたってそれで読者が、あるいはアクセスが増える訳でもない。今ならまだ片渕須直監督と「この世界の片隅に」というワードで客は釣れるから、そのバリューを利用して自分が好きだった作品を混ぜて取り上げ認めさせる活動を、ライターさんなり編集さんには企んでほしいもの。ほら、あるでしょ不遇に終わった名作たち。盛り上げてBD発売まで持っていって先見の明をアピールしようぜ。

 ううん。TOKYO MXで放送された「ニュース女子」が沖縄のデモ活動について調べもしないで書いて批判を浴びている件で、TOKYO MXに抗議に行った人たちがいるみたいだけれど、そんな集団にとある自称全国紙から取材に行った記者がいたらしい。でもって参加していた1人に話を聞こうとしたら「『右翼新聞だからダメだ』と断られた」と書いている。読めば相手が左翼的で取材拒否も平気な乱暴者って雰囲気だけれど、問題はこれ、本当にあった話なんだろうかってこと。何せありもしなかった区役所による自衛隊の立ち寄り拒否を書いてすべての区役所から抗議を喰らった記者だから、方向付けのためにはなかったことだって書いて不思議は無い。あったとしてもこれはジャーナリストとしての身の処し方だけれど、意見が欲しかったら断られても別の人に話を聞くもの。それをしないで断られた話だけを書いて相手をそういった勢力だと印象づけるのは、「ニュース女子」がやって問題になった手法と同じだろう。それを検証めいた記事で重ねてやってしまうところがやっぱり似たもの同士ってことなのかも。やれやれ。

 サンリオエキスポ2017があったんで見物に行く。コラボレーションが増えたなあという印象。まずはDLEの「秘密結社鷹の爪」とか「パンパカパンツ」とかとサンリオキャラクターのコラボレーションがあり、「コロコロコミック」に登場したさまざまな漫画のキャラクターがサンリオのデザインによってこれまでとは違った雰囲気になっていたのがあり、さらには「美少女戦士セーラームーン」がマイメロディとコラボレーションをするみたいで看板が立っていた。どういう風にかは分からないけど可愛いものにはなりそう。もちろん単体でもハローキティがBEMASとコラボしスタイリッシュなデザインになったり、シナモロールがシュタイフのぬいぐるみになったりと長い時間で培われた信頼が新たな意匠をまとって登場してくるケースもあるけれど、逆に新しいキャラクターの勢いに乗りつつ相手にも歴史から来る安定感を与えるといった交流も、積極的に行われていくような感じ。今後もあれやこれやと登場してきそうだけれど、どんなコラボレーションがあるかなあ。「けものフレンズ」と「SHOW BY ROCK!!」とか……はさすがにないか、いやでももしかして。

 「SHOW BY ROCK!!」といえばリアルなシンガンクリムゾンズが復活の予定で5月に音楽ライブを開き10月にミュージカルの舞台を踏む予定。去年も今ごろにブルーシアターでもってミュージカルの公演があったけれど、今回はネルケプランニングが制作に入って本格的な2.5次元ミュージカルになるって感じなのかな。場所も渋谷のAiiAシアターだし。出演者も去年と同じ4人らしくてサンリオエキスポ2017の会場に来ていていろいろ話してくれていたけど、とにかく同じメンバーで再演できるのが嬉しかった感じ。結束力でもって相当な舞台が期待できそう。あとロム役の滝川英治さんがさすがの大胸筋ぶりを見せてくれていた。喋るときも腕に力が入ると大胸筋がピクピクッと動くんだ。いやあ触りたい。でも触れない。そこが残念。まだ2割の筋肉だって言ってたんで舞台ではさらにスケールアップした大胸筋を見られるだろう。今年は観に行こうかな。


【2月2日】 地下にある迷宮へと向かう際の音楽が余計に不穏さを増しているなあと、「けものフレンズ」の第4話「さばくちほー」を見返して思った一方で、真ん中あたりでアメリカの動物園にいるおねえさんにスナネコについて話してもらっている時、画面では寝ているフレンズのスナネコがいて、その周囲にある砂にかばんちゃんとサーバルちゃんとバスとラッキービーストが描かれているのを発見してちょっとグッと来た。あれだけストーリーで熱しやすいけど冷めやすく、すぐに興味を失ってしまうと説明されてたスナネコなのに、出会った面々を覚えてああやって落書きする。それくらいに楽しい思い出だったんだろう。でもまた会うとは限らない。会えるとも。そんな世界の不穏さを思いつつ、みんなが一緒になって遊べる日が来ると良いと思うのだった。どうなっていくのかなあ。来週も楽しみ。

 将棋のA級順位戦で第8局が行われたみたいで無敗でトップを突っ走っていた稲葉陽八段が渡辺明竜王に敗れて1敗となってそのまま独走での名人位挑戦がなくなった。次に森内俊之九段に敗れてそして羽生善治三冠が屋敷伸之九段に勝つと三敗で並んで挑戦者決定戦へ。だったら稲葉八段が森内九段に勝てば良いんだけれど今3勝5敗で下には休場となっている三浦弘行九段を除けば下には2勝の佐藤康光九段がいるだけ。もし佐藤九段が最終局で広瀬章人八段に勝って3勝6敗になると、稲葉八段に敗れた森内九段も同じ3勝6敗となって順位から最下位となってB級に陥落しかねない。だから稲葉八段には勝って4勝5敗としておきたいだろうから、やっぱり最終局を過ぎて7勝2敗で並んだ稲葉八段と羽生三冠の決定戦から羽生三冠の復位といった流れになるのかどうか。今季も獲得賞金1位だった羽生三冠だけにその目も強いかなあ。2月25日という“将棋界で1番長い日”は本当に長い日になりそう。

 ジョークドキュメントBBS放送局の司会かな、やっぱり個人的に藤村俊二さんを濃くたっぷりと観たのは。名古屋の中京テレビで夜に放送されてたローカルのバラエティで、日常の身の回りにあるものを濃く深く解説していくシュールで洒落た番組だった。そんな内容に相応しいのが見かけは紳士だけれどどこかにアヤシい感じも秘めた藤村俊二さんというキャラクター。真面目にしているようでヒョイと下らないことを言ったりする感じが濃すぎる多極のバラエティにあって一服の清涼剤のような感じだった。番組からは小西博之さんも登場して小学生か誰かを相手に真面目だけれど妙な先生を演じてた。その感じが欣ちゃんに認められて東京に出て今に至る。その意味では恩人かもしれない藤村俊二さんが死去。「黒執事」のタナカさんは晩年でセリフも少なく感じ取るのは難しかったけど、初期にはそれでもセリフがあって殺伐とした中にふわっとした空気感を与えていた。もう味わえないその雰囲気。寂しいけれども黙して見送ろう。合掌。

 日本ではネットでライトな方面に大人気の元アイドルが本を出したからといってサイン会をやろうとしたら、抗議の電話ががんがんとかかって来て会場の方が引いてしまって中止になってやれ言論弾圧だ、これ条件を無視した横着だといった具合に悪口の応酬が行われていたりするけれど、アメリカの方ではさすがスケールがデカいというか、オルタナ右翼のアイドルとして人気の英国人作家、マイロ・ヤノルプスがカリフォルニア大学バークレー校で講演をしようとしたら反対する学生が大勢現れ、暴動めいた事態になって文字通りに炎上し、講演は中止になったというから過激というか。大学がらみだと日本でもライト方面に大人気で都知事選にも出た今は党首が企画に呼ばれて行こうとしたらやっぱり騒動になってお引き取りを願ったっけ。もし行われたとしても炎上はしなかっただろうからやっぱりアメリカは凄い。それが正当化どうかは別にして。今でこうなら本格的に政権が動いて非道に非情な政策が乱発されたらもっともっと燃え上がるかもしれないなあ。しばらく行くのを止めよう。行く用事もないけれど。

 ブラックと見るかグレーと取るか完全無欠のホワイトと言い切るかは立場によっても意図によっても変わってきそうなワセダクロニクルとやらによる共同通信が記事化にあたって製薬会社からお金を受け取っていたんじゃないか報道。文字面だけ見ると共同通信で日本最大の通信社であり電通というこれも世界的な広告会社が入ってメディアが広告によって支配されているんだ的反応を呼びそうだけれど、内実を細かく見ていくとそれぞれにちょっとづつ主役となる会社が変わってくる。製薬会社からお金をもらってPR活動をしていたのは電通でも子会社でパブリックリレーションを専門に請け負っている電通PR。そしてそこが声をかけたのは株式会社共同通信で、いわゆる通信社として活動している社団法人共同通信ではできない営利事業を行う会社として設立された。

 その株式会社共同通信が間に入る形で、製薬会社から電通PRにこれをもっと世間に伝えて欲しいと頼まれた情報を仲介したところ、一般社団法人共同通信はなるほどこれはニュースにする価値があると判断して取材をし、記事にして配信したら幾つかの地方紙に掲載された。そこで株式会社共同通信から一般社団法人に対価が支払われていたら問題だけれどそれはない、といったコメントが出ていたりする。でも株式会社共同通信が儲かれば社団法人共同通信だって儲かるんじゃないのという点は資本関係はともかく経理関係が別ならそこはない。というか出来ないからこそ株式会社共同通信を設立した訳で、一般社団法人共同通信は加盟料とそして配信の対価で喰っているというのなら、株式会社共同通信との間が切れていると言っても嘘ではないかもしれない。

 そういった登場人物たちに対する吟味をした上で流れを見ると、製薬会社はPRして欲しいと依頼して対価を電通PRに払い、電通PRはそれに見合った仕事をしようと株式会社共同通信にアプローチをして対価も払い、それを受けて株式会社共同通信も一般社団法人のPR業務を行い成功報酬を得ただけ、って言えなくもない。それのどこに問題が? って言った時に同じ共同通信とつくならそこは分けた方が良いだろうという大物OBの意見も利いてはくるけれど、黒かと断定できるまでには至っていないと言われる可能性もなきにしもあらず。そこをだから報じた側は電通であり共同通信といった世間に知られた名前を前面に出し、事情を背後に下げつつ報道が金で買われてた的な短絡を印象づけようとした、なんて言われて果たしてどう答えるのかワセダクロニクル。そこで今後いろいろ揉めるかもしれないなあ。二の矢三の矢がどう飛ぶかに興味津々、っていうか他の新聞社とかに金で記事が買われている話があると飛び火したらどうなるんだろう。ちょっとドキドキ。

 論説副主幹がテレビに出て一方的すぎる情報を垂れ流してもう抗議を受けるようなポカをやらかすと、1面で謝罪記事を出して外部ジャーナリストによる検証コラムもスタートさせる新聞がある一方で、論説委員兼編集委員がネットの書いた言説で名誉毀損だと訴えられて敗訴しても謝らせず検証もえsず批判もしないまま地位は保全どころか上がっていったりするメディアもあったりするという、この言論の多様性が日本って奴なのかどうなのか。分からないけれどもとりあえず東京新聞はTOKYO MXが放送してしまった「ニュース女子」に関しては否定の立場を明確にした感じで、出演して結果として紙価に影響を与えた論説副主幹にも何かが及ぶことになりそう。ただ、当の論説副主幹が未だ自分の意見を外に出していないのが気に掛かる。やり過ぎだけれどバラエティーだから認めた、とは言えないだろうし言ってもそれでは通らない。自分もまったく内容に同感だったは火に油。やっぱり降りるしかないんだけれど、そんな番組をベタ褒めする層もいたりするから厄介というか。どっちにしたってこれもしばらく揉めそう。BPOの判断待ちか。


【2月1日】 りょーちもさんの「亜人」話以来になるのかな、久々のデジタルハリウッド大学でのアニメーション関連公開講座に新海誠監督の長編アニメーション映画「君の名は。」で美術監督を務めた3人のうちの1人、丹治匠さんが登壇したんで見物に行く。新海誠監督の作品では「雲のむこう、約束の場所」から「秒速5センチメートル」の美術を経て「星を追うこども」で美術監督を務めて田舎の村から地下の広大な異世界へと至る冒険の背景を作り上げた。想像力が豊かで自然への造形も深く何より暖かい。そんな世界を作れる人が「君の名は。」では何をしたか。興味があって当然だ。

 そんな丹治さん、「君の名は。」での仕事の段取りなんかを話していたけど、やっぱり最近のアニメーション映画らしく最初にだいたいのレイアウトを決めてから美術を描くとか。でもその場面。映画の割と冒頭で三葉と四葉が連れだって家を出て登校途中に階段を降りるシーンとかは、絵コンテを元にして描いた美術ボードが先にあってそこからレイアウトを起こしたらしい。そんな美術ボードに対して新海誠監督から「現代日本の田舎としての実在感」というコンセプトを元に修正依頼が寄せられる。そこは田舎だけれど現代の田舎。つまりは田舎らしい記号に溢れていてはいけないってことで結構難しい。実際に今の田舎に行かないと分からないかもなあ。

 そんな依頼と検討の結果、石段の上にブロック塀が置かれ、奥に鉄のフェンスがある構造へと変わった。すぐ下の街並みには電柱が立って電線が渡ってる。でも田舎らしくホーローの看板なんかも貼ってあるといったハイブリッドが現代で田舎って感じを醸し出す。あと雰囲気的には横に見える湖の奥にある対岸の感じとかを整えた。山の稜線の高さを下げて空をもうちょっと見える感じにした。美術ボードの段階だとやや朝焼けのような赤みがあったけど、そこを丹治さん、「朝のさわやかな田舎の風景なので、空の色とかを変えました。横から光が来ている感じも強調しました」。監督が求めるビジョンを察知して近づけていく力がやっぱり美術監督には必要なんだなあ。

 あと面白かったのは、映画のヒットを受けて登場した新規ビジュアルの作成過程で、湖を見下ろす山上で奥の方から差す光を浴びながら三葉と瀧が向かい合っている構図を丹治さんが描いて渡したら、それが「完成したものを見たらすごく光とかが足されて思ったより派手になっていました」とか。なるほど三葉と瀧の周囲に雲がたなびき、手前が光っているんだけれど「手前に光は来ないでしょう?」。ごもっとも。でもそれをやってしまう新海さん。結果として幻想的な雰囲気ってのが漂った。「矛盾しているんですが、美しければそれで良いんです」。美術監督の整合性よりクリエイターの感性が上回るならそれは認めるしかないのだ。映画はそもそもフィクションだし。

 あと、集団による作業から生まれるゆらぎのようなものの意義について、丹治さんは絵を描くペイントツールの上で使うラシの種類に触れつつ話してくれた。描く対象にマッチした線を出そうと、ブラシを工夫して作り上げ、それを他の美術スタッフにも勧め、共有することがある。ただ、他の美術スタッフが独自に作ったブラシを使っていても「タッチを整えるためという意味では、あまりブラシを統一しません」。理由は「それぞれに開発して使ってもらった方が面白くなるから」。ジャギーがでるような場合は整えるが、アナログの筆のように色々なタッチがあって、最終的に統一感が出るように見えれば構わないといった考え。もしかしたらちょっとした差からにじみ出るゆらぎが、絵に生命感を与えているのかもしれない。

 ズンと来たのは、あの東京藝大で油絵を専攻するくらいに優れた絵描きであるにも関わらず、自分にはやりたいことが何もないと分かったと話してくれたところ。「人は誰でも表現すべき物を持っていると思っていました。それでやりたいことを表現したいと思っていたら、なにもなかったことに気づいたんです」。それで愕然としたとか。でも人間、たいていはそんなもの。でもやっぱり「表現はしたい」という未練はある。だったらと丹治さんは、まずは商業的なところに行って映画の絵画を描いたり、絵コンテを描いたりするような美術の仕事をやっていた。そうしたら新海監督からも声がかかって、美術監督という道を歩むようになった。

 そんなことをしていれば、当然に自分でも作ってみたいって気持ちが湧いてくる。だから絵本を描いているとか。10年と言わず近い将来に丹治匠さんの作品としてのアニメーションか何かが出てくるかもしれない。あとこれは聞き忘れたけれど、新海誠さんならではの新海空を新海雲が流れ新海光が射すあのビジョンは新海誠さんならではの感性なのか、それとも丹治匠さんの感性なのか。絵コンテの段階でいろいろとレイアウトめいたものはとってあっても、レンズをどうして広がりをどうするか、どんなパースをつけるかは美術に任されている部分もある。でもやっぱり作品のトーンは監督の生理がにじみ出る。そんなところで監督の好みを察知し近づけつつ自分も出し、それを監督が取り入れて自分の作品としてまとめていくような”対話”がなされているのかも。いつかまた聞いてみたい、新海空は丹治空で新海雲は丹治雲なのかを。

 第2話あたりからだんだんと漂い始めた舞台となっている世界のどこか打ち捨てられた雰囲気が、ぐわっと濃さをました「けものフレンズ」第4話の「さばくちほー」。ようやく手に入れたバスに載って砂漠を越えていたら向こうから砂嵐がやって来て、とばされてきたスナネコを拾って向かったそのすみか。ひょいっと取り出されたジャパリまんを食べているところまではまだ良かったものの、そこから地下が現れハイウェイが出てきてそこをバスで走って行ったら巨大迷路に行き当たった。砂に埋もれたアトラクションに溶岩で塞がれた出口ってそりゃあ廃園としか思えないけど、暮らしているフレンズたちは元気だし前向きだし楽しそう。いったい何が起こったかは気にしてないし知っている感じもない。

 いや1匹、ツチノコだけは何か察しているようで、かばんちゃんを見てボスと喋ってる姿なんかも見てもしかしたらといった表情を浮かべていた。そして口にも。それがまた第2話あたりからかばんちゃんだけがボスと喋れる不思議から浮かんだ理由を補強するもの。いったいあの世界はどうやって生まれたのか。そして外の世界はどうなっているのか。外に世界なんてあるのか。アライグマたちはどうしてかばんちゃんを追いかけているのか。過ぎたちほーのキャラクターをまた出すための工夫ってだけでもないのなら、何かやっぱりおおきな秘密があるんだろう。そんな秘密が愉快な未来とともに明かされるなら良いけれど、不穏な雰囲気をより暗くするような展開になったら寂しいので、ここはどうかなってもしっかりやってる楽しさを、醸し出していって欲しいもの。そう願いながら見ていこう。

 もう5カ月近くが経っても未だに上映され続けていて興行収入も20億円を超えて、って意味では実は公開からまだ2カ月半で興行収入も20億円に届いていない「この世界の片隅に」よりも長編アニメーション映画的に、そして一般も含めた映画興行的にとてつもないことを成し遂げているんだと思う「映画 聲の形」だけれど世間の評判はヒットぶりで「君の名は。」に傾き作品性や賞レースでの評価されっぷりで「この世界の片隅に」に傾いて、ちょっと割を食ってる感じもしないでもない。ただ実際に20億円という数字を打ち立てていてそれだけ観てくれた人も多いわけで、提供した側も十分に満足は入っているんじゃないのかな。日本アカデミー賞の優秀アニメーション映画作品賞も受賞したし。ただそこから最優秀が決められる時に、やっぱり「君の名は。」か「この世界の片隅に」に集まる世評の間で印象が薄いままなのかもしれないなあ。そこはちょっと悔しいかも。

 できれば全部が全部、同じくらいに評価されて欲しいけれどもそれも無理ならせめて、観た者として同等に応援はしていきたい、ってことで新宿ピカデリーで開かれた、アカデミー賞の優秀作品賞受賞を記念した早見沙織さんと山田尚子監督によるトークイベント付きの上映を見物。満席の中で観た映画はやっぱり素晴らしくって原作からのアレンジぶり、そして映像としての美麗っぷり、音響の凝りっぷりは他の2作品に遜色はなく、こと音楽に関して言うならサウンドとして図抜けているかもしれないなあ、とも思ったり。RADWIMPSによるJ−POPのPV的なイメージがある「君の名は。」や、コトリンゴさんのニュアンスが感じられる「この世界の片隅に」とは違って牛尾憲輔さんの環境音楽的で現代音楽的なノイズ混じりなのに澄んだサウンドがキャラクターの心情も表す「映画 聲の形」はやっぱり冒険的だし実験的。それでいてしっかり聞こえて心に響く。これもどこかで評価されて欲しいなあと改めて。ブルーレイディスクの発売も決まって映画館からも引かれそうなんで、上映中にもう1回くらい見ておくかな。


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