縮刷版2017年1月下旬号


【1月31日】 明けてナムコ創業者の中村雅哉さんの訃報が英国のBBCやフランスのル・モンド紙、そしてアメリカのCNNやロサンゼルス・タイムズなんかで紹介された中でニューヨーク・タイムズはネットだけだろうけれども長文でその偉績を辿ってどれだけのことを成し遂げた人なのかを語っている。日本でも日本経済新聞がベタで40行くらいの評伝を添えただけで、他の一般紙は訃報だけか添えて20行の評伝くらいだったのに、本国でもないアメリカのエスタブリッシュな新聞がそれだけの分量を割くっていうのはつまり、アメリカにおいてゲームであり「パックマン」といったものの存在感が強くあり、またそうした文化をゲームであっても、あるいは世界に影響を与えたゲームだからこそ認め称揚する意識が強くあるからなんだろう。パイオニアへのリスペクトも。

 任天堂の山内溥社長と比べつつ同様に自分ではゲームを作らなかったけれども、中村雅哉さんの場合は自分でゲームを試してそれこそ1日に23時間でも遊び続けたといった話を紹介している。もちろんあんまりゲームをやりすぎることの弊害も。そして事業拡張にも余念がなくて飲食物を括ったフードテーマパークをあちらこちらに作ったりした話も紹介しつつ、それらの多くが「パックマン」ほどの成功を得られず今は閉鎖か売却されているって話も添えていた。日本のメディアでだって書いていないようなことだけれど、その毀誉褒貶を含め紹介することで見える人物像って奴もある。だから書く。当然だろう。

 凄いのはそれをアメリカのメディアが外国の記者の筆によって書かせ載せていること。昨日の今日で書き上げられていること。多分長くウォッチしている記者がいるんだろう。あるいはデータベースがしっかりしているか。そういう部分で彼らのジャーナリズムとしての足腰の強さが見て取れる。日本はといえば当時を知る記者なんてとうに現場におらずもしかしたら会社からも離れてしまっているかもしれない。ご都合主義の人事とそしてリストラによって現場からストックの知識を持って警鐘できる記者がいなくなり、フローな情報だけを日々拾って流していくだけのレポーターだけが残って毎日を瞬間だけとらえた新聞を作る。これでは未来はないんだけれど、そんな未来を切り売りしなくちゃいけないくらい、今が厳しいんだろうなあ。大変だ。って他人事じゃないんだけれど。やれやれ。

 「この世界の片隅に」をプロデュースしたジェンコの真木太郎社長が刊行しているアニメーション業界誌の「アニメビジエンス」がグッドスマイルカンパニーの安藝貴範社長やとらのあなの吉田博高社長らを招いてグッズ作りの状況について話してくれたイベントでは、外に出せない話が連発されて業界の大変さって奴が窺えたけれどものそ中で、安藝社長と真木さんとの間で「この世界の片隅に」のすずさんをねんどろいど化することで話がついたのは朗報というか、あの元絵からして不思議な頭身を絶妙なバランスで見せているすずさんを、ねんどろいどのような立てるよりひっくり返した方が安定する頭身に直して出せるんだろうかといった不安がもりもり、興味も津々。

 ねんどろいどの原型師たちの腕前を考えるなら、見て可愛いフィギュアになるだろうことは確信できるけれど、初音ミクみたいな小体大顔の可愛さで愛でるキャラクターでもないだけに、服装からスペアの顔から手足やら雑草やらまな板やらがどうなるかが気になってしまう。顔は目を烏の足跡のようにギュッとさせたものが出るのは当然として、白塗りにして口紅も差したデートの時の顔もあるんだろうか。あって欲しいなあ。腕は……ってこれはちょっと寂しいからずっとついたまんまんで。晴美さんのミニフィギュアとかも添えられたら良いなあ。シリーズ化されたら周作さんもあったらなあ。径子さんももちろん、ってそれじゃあ一家全員だ。いっそ出そう北條家模型。原型なら栩野幸知さんが作ったのがあるからねえ。どうじゃろうねえ。

 アメリカ合衆国の司法長官は日本で言うなら法務大臣で、内閣にあって総理大臣の遂行する政策に沿って動くのが当然でそうでないなら罷免するだけっていう理解からすれば、トランプ大統領が出した大統領令を例え憲法に反するかもしれないと考え司法長官代理が拒絶して良いはずはなく、その更迭も流れとしては当たり前のうちにはる。だからもう仕方がないんだけれど問題は、傍目にも真っ当には受け止められない乱暴な大統領令が出されてしまうアメリカの状況で、だかこそ“良心”に従いその権限で司法長官が止めたものの職制から支えきれなかった。

 あとはだから司法の現場が三権分立の原則に則りこれは拙いこれは意見だといった判断を、続々と下してぶっつぶしかないし、立法の議会がちょっとアメリカ自体がヤバくなると判断して却下に動くしかないんだけれど果たしてそうなるか。なるんだったら候補の時点で下ろされているけどそうはならず大統領にまでなってしまった現実を見るなら、すべてがトランプ大統領の思うがままになっても不思議はない。移民を受け入れないどころか宗教の自由すら奪うようにイスラム教徒を登録制にさせるかもしれず、その次はカトリックなりプロテスタントなりをのぞくあらゆる宗教が登録制にされてやがてスペインの移民イタリアの移民韓国の移民中国の移民として日本の移民も登録制にされて分断され何かあったら即座に隔離される、いつか見た過去のような近未来が訪れる可能性もあったりする。フィクションではなく。凄い世界がやって来て、そんな時代に生きている。

 もっとも、トランプ大統領下のアメリカで起こっていることは、そのまんま日本の安倍政権下でも起こりかねないんじゃないかなと、ちょっとづつ思い始めている。元より難民にも移民にも厳しい国だけに、外国からの入国を絞りつつ、国内からの追い出しを強めたって不思議は無い。壁はつくらないけれども沖縄や八重山の軍備を増強する動きは既に出ている。情報によって脅威を煽りつついかにも封じ込めが成功しているように国内では見せかけさらなる増強へと突き進む。ほかの予算を振り向けて。そんな言動を絶賛する新聞がいて司会者がいて番組もあって一部の声もクローズアップされる中を安倍政権は総裁任期延長でもって権限を強めていった果て。起こる何かを想像するといろいろ迷う。

 そして日本ではアメリカのようにメディアによる良心からの批判、理性からの抵抗は当てに出来ない。安倍総理の政策を批判するようなメディアがすでに大まかな意味で存在していないように、何が起こっても国益といった言葉を掲げた政権に対して、尻尾を振るだけになってしまう。中には媚びをふりまいて成り上がろうとするかもしれない。というかすでに媚びまくっている。こんな翼賛記事のような。「首相官邸のフェイスブックに掲載された映像をみると、ダバオの人々が日の丸の小旗を振り、絶叫調の声を上げて歓迎していた。選挙運動でもこうはいかない。日本語を学ぶ教室では、キラキラとした顔で日本語を話す学生が安倍首相夫妻と交流する様子が映っている」。

 おいおい、官邸が批判するような写真を敢えて選んで載せるはずもなし。プロパガンダを無邪気に讃える口調ってまるで北朝鮮じゃないか。でもそんな意図はないんだろう。我らが偉大な総理大臣を讃える人たちがいるのは当然。そんな心理か。そしてポスト安倍総理について語る口調で、結果として安倍総理の偉大さを世間に印象づけようとする。「すると他の心配が出てきた。ほかにこんなことができる首相は日本にはいないのではないか、と。3月の自民党大会で党総裁任期は3期連続9年まで延長される運びだ。現在2期目の安倍首相が来年9月の総裁選に出馬して当選すれば、平成33年9月まで『安倍時代』が続くことになる。しかし、『安倍後』の時代は間違いなく訪れる。『安倍後』を担う首相は、誰であっても大変に違いない」。

 何もしてない安倍総理を何かしたかのように持ち上げた果ての翼賛絶賛。おそらくはポスト安倍が善政を敷いてもそれを認めないだろう。あるいは偉大なる安倍様の元老のごときご威光を添えて讃えるんだろう。新・国父とか言い出すかも知れない。批判する者には「野田氏は今回の4カ国訪問に関しても、こう難癖を付けた」「かねてから安倍政権を批判している元外務省局長の孫崎享氏の言葉として『“対中包囲網”は構築できない』と断定する意味不明の展開だ」といった具合に、「難癖」とか「意味不明」という形容を添えて相手をネガティブなものとして印象づける。

 公正中立を旨とされるジャーナリズムにあってあからさまな贔屓ぶり。でもそれが愛でられ尊ばれる中でさらなる翼賛を重ねていっては今が春を謳歌する。でもいつかそれも崩れるときが来る。望まない形でポスト安倍が来たとき、すべてはひっくり返される。その時は? 逃げ切っているんだろうなあ、そして残された若い人たちは、染められた頭を柔軟に振り向けられないままどうしてなんだと絶叫しなあら燃え尽きていく。日本の1番長い日に宮城へと乗り込んでいった無謀のように。まったくもってやれやれだ。


【1月30日】 片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」が庶民の戦時下における日常ばかりを描いていて、庶民においての戦争責任を描いていないといった意見があって、けれどもあの戦争において今を普通に生きている人たちが、その時点で何か戦争責任を感じる状況があったのかといった疑問があって、だったらそんんあ生活を描いた映画において、彼らのレベルにおいての戦争責任なんて取り上げようがない。そして「この世界の片隅に」について言うなら終わりがけ、玉音放送が流れた後にポンと大韓民族の旗が掲げられたのを横目にすずさんが、外地から来た食べ物でもって生きていた自分たちを自覚するセリフが出てくるところに、戦争というものが一方的な被害ばかりでないことを感じ取ることもできる。そんな映画になっている。

 だから、庶民の戦争責任を描いていないじゃないかといった「映画芸術」458号での荒井晴彦さんによる批判は、原作も含めたその作品全体を否定する言葉でもあり、また十分に読み切れていないといった判断も成り立つんだけれど、そういうことを言ったところで映画という表現手段を通して、作家は庶民であっても戦争責任を描かなくてはいけないといった意識を持っている感じがある人に、通じるはずもないから仕方がない。話は永遠にすれ違ったままで、そうした認識の人がだから「この世界の片隅に」を大いにあしざまに言うのも仕方が無い。ただ、「映画芸術」という映画に関する批評誌を主宰していて、そして日本映画のベストテンとワーストテンを実施している主体ならば、自身の意見とは別に多くの意見が「この世界の片隅に」を認めてベストワンに推し、ワースト評のマイナスを置いてもトップを維持したことに対して敬意は払うべき。それが客観性を持ってジャーナリズムを運営する雑誌の心意気って奴だろう。

 だから、残念なのはそうしたランキングの主催者が、この後に及んで編集後記的なコラムの場を使って「もう、ベストテンを止めようかと思った」と書き「理由をどう付ける? 得票が少な過ぎるとか。一位は何点以上じゃなきゃダメなんて、急には決められない。アニメと実写は一緒に扱わないというのはどうですか。アメリカのアカデミー賞はそうじゃないですか。『風立ちぬ』扱っちゃったし。ベストテンは止めました、ワーストテンだけにしますと宣言してしまえば」と言った具合に、1位に「この世界の片隅に」が来ることをあれやこれや阻止できないかと模索したことを、平気で書いていること。結果として与えたんだからひとつの矜持ではあるけれど、作品の個人的な好悪によって基準を動かすことを検討してしまえる心理を、主催者が表沙汰にしてしまってはやっぱり公平性を欠くだろう。それも含めた賞っていう位置づけも可能だけれど、やっぱりどこか収まりが悪い。

 アニメーションだからいっぱい観に来たっていうことも言っているけれど、初期において「この世界の片隅に」はアニメだから逆に大勢が見に来ようとはしなかった。そこをどうにか突破して、アニメだからといって観て損はない作品だということを知ってもらって増えた観客に対して今度は戦争責任をそこに感じることをしなくて良いシュガーな作品だから観に来たんだろうといったニュアンスの言葉は観客に対する侮辱でしかない。観る人がすべてにおいて戦争の悲惨さ、そして戦争を始めた事への責任を回避したい気持ちで「この世界の片隅に」を称賛している訳ではない。NHKのクローズアップ現代がそうした文脈でまとめたと言っても、それは全てではないし、たとえ大半であっても別に戦争責任を感じさせ、戦争の悲惨さをグロテスクなまでに感じさせる言葉を失えとは言っていない。映画人なら、あるいは表現者なら成すべきはそうやって得られた観客を、次ぎにどこへと導くかであってこれはシュガーだ、空っぽだと捨てては先に続かない、って思うんだけれどそういう言葉も通じないのかな。売れないと言われるけれど売れても言われる、それが表現というものなのだ。

 グレートベンさんの正体が細かすぎて分からないけどこそっと背後で動かし仄めかすのが時間的にもやっとだったんだろうなあ。それくらいにぎっしりだった「リトルウィッチアカデミア」のテレビシリーズ第4話。ハリー・ポッターじゃないけど世界敵に人気のシリーズがあってそれが100年にもわたって書き継がれていて365巻が出るって時に初めて作家が人前に顔を現したけれどもそれを観に行きたかったロッテに災難。アッコがお腹が減ったからと勝手にタルトを食べてしまってルームメイトもとばっちりをくらって外出禁止になってしまう。でもそこでへこたれないのがアッコやスーシー。配達便に紛れ込んで外に出ては作家の集まりへと出かけていってそこでロッテが作品に関するクイズ大会に出て最後の2人まで残る。

 ロッテが相手にしたのがグレートベンといって時計塔のふん装をした人。以前から通信でロッテとコミュニケーションをとっていたらしいけれども正体は不明。そしてクイズに勝利したロッテに手渡されたのが万年筆だった、といった展開から100年にもわたって書き続けられたことの真相とか、書き続けることで得られる反響に作家が潰れてしまいそうになる可能性なんかが示され作家って奴も大変だって分かってくる。それでも褒めてくれる人がいれば書き続けられるのも作家ってことで。ロッテはどうして自分で書こうとしなかったんだろう。読者として楽しめないから、ってのもまあ心理か、書く人は書きたいから書くんであって読みたいから書くのとはちょっと違うってことで。いやでも自分が読みたいから自分で書くって人もいるかなあ。そこもまあ人それぞれか。

 書きたいから書くし書けなくなったら書かないのがやっぱり作家ってものなのかもしれないけれど、書けなくなっても書かされるのなら書いてしまいたくなるのも作家という位置に憧れるなりひとたび上がった者の心理ってことで、そうやって書いたところで書きたいものがかけているかというと分からない。だから読んで人によっては面白くないと思い自分自身でもそう感じながらも書かないとは言わない、そんな迷いと逡巡と模索の中に置かれている今の文学状況に、敢然と蹴りをぶちこむ少女が現れた。鮎喰響。15歳の高校生が書いた小説で編集者を感動させ新人賞も獲得していくんだけれど、そうしたステップに当の響はまるで興味を持っていない。どんなものが書けるのか。あるいは誰がどんなものを書いたのか。その基準でのみすべてを判断する。そんな基準から外れて情動で迫ってくる者には一切の関心を示さない。

 文壇の大御所であろうと週刊誌の記者であろうと書いているものが面白ければ褒め、だめなら欠点を堂々といってのける。それで自分が作家として不利になるかどうかは考えない。そんなことで通じるのか、といった部分で大きく者を言うのが書いた物の素晴らしさ。それを読んだ作家は自分が殴られたとしても認めざるを得ず、デビューからしばらく足踏みしていた作家は読んで自分の才能に見切りを付けて作家を止めて後、幸せな人生を歩んでいく。新人賞の選考委員を務めた作家ですら読んで自分がファンとなって挨拶されると嬉しくなるといった具合。書いたものが全て。そんな作家ならではの感性を取り戻させるか強く感じさせる世界ってのが一方にあるけれど、でも社会はなかなか回らず響が振るう暴力は見とがめられてしまう。そんなギャップをどう生きる? その果てに何が待つ? 筒井康隆さんの「美藝公」のように映画がすべての頂点に位置する世界なんて存在しない。文学もしかり。でもそんな世界に生きている響のこれからが気になる柳本光晴さん「響 小説家になる方法」。読んでいこう、この続き。

 昨夜あたりから噂が流れてはいたけれど、今日になって発表されたナムコ創業者の中村雅哉さんんお付保う。1月22日には亡くなられていたようで、しばらく経っての発表はまずは近親者のみでの葬儀を終えて混乱を避けようとしたものなのかどうなのか。いずれにしても日本にゲーム産業が生まれた当時から存在して業務用、家庭用の両面からゲーム業界を引っ張ってきた会社がナムコ。そのトップで在り続けて「パックマン」であり「鉄拳」であり「リッジレーサー」といった数々の世界的なヒット作を送り出してきた。その存在なくしては日本が世界に冠たるゲーム大国に発展したかどうか、危ぶまれるくらいの大立て者と言えるだろう。1990年代に入ってからはプレイステーションの登場にいち早く支援を見せて一緒になってゲーム開発に取り組み、プレイステーションの立ちあげに力を尽くした。今のプレイステーション4があるのもあるいは中村雅哉さんの判断の賜と言えるかもしれない。

 バンダイが最初はセガとくっつこうとして反対もあって果たせなかった後を継ぐように、ナムコがバンダイと合併をしてプロパティと技術力が結びついたバンダイナムコというひとつのグループへと発展していった。そこに至る過程でどういう判断があったかは分からないけれど、現在に残るゲーム企業群の一角として存在感を保っているところを見る限り、判断は正しかったと言えるだろう。2010年あたりから表に出るようなことがなくなり、体調が心配されたけれども2016年12月24日の誕生日を迎えて91歳になって約1カ月。世界中から惜しまれながら世を去った。「この世界の片隅に」のすずさんと同じ年に生まれた企業人は片渕須直監督も仕事をした「エースコンバット」を送り出して逝く。謹んでご冥福をお祈りしたい。


【1月29日】 もはやマッドといった形容にならざるを得ないくらいに、やったら拙い政策をガシガシと執行させるための大統領令に、福家書店での芸能人のサイン会のようにサクサクとサインしまくっているアメリカ合衆国のトランプ大統領。とりわけ移民の問題に関する制限だとか、イスラムに類する国からの入国禁止だといった政策は、やったところでテロ対策には何にもならずいたずらに反感を買う上に、ビジネスなり文化なり人道といった面に多大な悪影響を及ぼすことが明白であるにも関わらず、テロ対策という金科玉条を掲げてそれに従わないものは反アメリカだといったレッテルを貼る構えを見せつつ、振りかざそうとしているからちょっと厄介。

 それは移民や入国がそのままアメリカの治安に悪影響を与えていると信じている人、そう信じたがっている人たちを刺激して国内にも分断から差別から混乱を引き起こしていきかねないし、実際に空港で働くイスラムの習俗を持ったファッションの人に対する暴力事件が起こっている。それが真っ当かどうかは関係ないし、暴力を振るいたい人への理由付けになっているならさっさと改めれば良いんだけれど、トップからして説明を省いてどこかに敵を想定して、責め立てることで自分を正しく見せようとする気質の持ち主だから改まらないどころか酷くなる。

 さすがに裁判所は分かっているのか、それが連邦法にのっとり拙いことだからか、移民の入国禁止に関する大統領令を差し止めたみたいだけれど、本気で大統領が暴れれば裁判所だっていずれ靡くし議会もそうなる。ならないまでもトップが吠え続けることで刺激され、暴れ出す人が現れそれが火種となって騒動がおこり、それを理由に本格的な分断へと至らないとも限らない。そうならないためにはトップをすげ替えるしかないんだけれど、何しろなったばかりで誰も止められないのがやっぱり厄介きわまりない。かといって暴力で止めたら同じ事。だからやっぱり立法府が、そして司法府が三権分立を保持して跳ね返し続けるしかないんだけれど、そうまでしなくてはいけない人物が、大統領になってしまう国だからなあ。いずれのみ込まれていくのかもしれないなあ。

 コメディに見えて案外に深かった「亜人ちゃんは語りたい」のアニメーション。亜人だけれど人間として社会にも暮らしている存在を世界はどうやって観るべきなのか、亜人だからとその特質を褒めそやすのも貶すのも何か悪いような後ろめたいような気もするし、かといって人間だとして同等に扱おうにもやっぱり亜人だから同じとは行かない。バンパイアは太陽の光に弱いし血だって飲まないとやってられない。デュラハンは顔が外れっぱなしだから手がふさがっている。雪女はやっぱり暑さに弱くてそてして、人によってはそうした亜人としての特質をもって他人と接することを厭い引っ込み思案になっては、相手の興味を受け止められずに壁を作ってしまう。それが無理解を生んで反発も招いてしまう。

 だったらどうすれば良い、といったところで亜人であることも認め人間であることも理解するといったところ。つまりはそれぞれの個性をそれぞれのものとして認め理解し相手にも分かってもらうといったところか。それは亜人に限らずすべての人間において重要なことなんだろうけれど、群れてまとまり壁を作っては敵をみつけて見下し自分を安心させようとするのもまた人間の性質なんで難しい。そうした部分について改めて気づかせてくれるアニメーションとして、あるいは原作の漫画も含めて「亜人ちゃんたちは語りたい」は末永く読み継がれ観られていく作品になって欲しいような気がしてきた。それにしてもやっぱりデュラハンの町京子の佇まいと顔の作画が素晴らしいなあ。抱えた立体物でありながら表情が漫画的アニメ的。凄まじい作画力だよなあ。

 ゲネプロを観て奇跡の舞台だと思った去年の再演と分かって、これはやっぱり本番も観ておきたいと思い慌ててチケットを確保し出かけていったZeppブルーシアター六本木での「ライブミュージカル『プリパラ』み〜んなにとどけ!プリズム☆ボイス2017」の千秋楽。当日引き替えでもらったのは最後列だったけれど、それほど広い会場でもないから最後列からでも十分見えるし、通路も目一杯に使ってキャストが登場してくれる舞台だから、最後列でも背後をドレッシングパフェの3人がかすめていって間近で観られて嬉しかった楽しかった。そんな感じに観客を楽しませる要素も100倍増しだった上に舞台の上でも歌や踊りが去年の1000倍増し。跳ね回り踊り回って歌い回るi☆Risのメンバーとそして出演者たちの躍動を同じ空間で味わうことが出来た。楽しかった。

 アニメーション「プリパラ」の第1期を思わせるストーリー展開で、すでにアイドルとしてデビューし人気も出てきた真中らぁらが原宿ではなく六本木のプリズムストアに紛れ込んではそこを任されていた青井めが姉ぇと青井めが兄ぃの最初はアクシデント、そして途中からは策謀に巻き込まれてそらみスマイルを結成し、ドレッシングパフェとも知り合ってそしてファルルとも近付きながら起こるとっても大変な出来事。誰もが不安に怯える中で歌が、歌こそが人々を勇気づけると願って歌いそして観客席も巻き込んでいって盛り上がるフィナーレといった展開は、観ているだけで手に汗握りどうなっちゃうのかとドキドキし、そしてよく頑張ったと安心をして感動して感涙して感激のままに手にしたペンライトを振りまくる。そんな舞台になっている。

 そして冒頭から途中から幕間の前から後からフィナーレから、i☆Risというよりそらみドレッシングによる歌があり踊りがありそらみスマイルとドレッシングパフェのそれぞれのユニットによる歌唱があってファルルも歌いそふぃにはソロもあったりと、「プリパラ」なファンならテレビで観ていただろうあの場面が立体になって舞台の上に出現したと驚きながらも大喜び。そしてi☆Risのファンなら自分たちの好きなアイドルが自分たちの好きな「プリパラ」のキャラクターとして目の前に現れて演技してくれるという至福の時間を過ごすことができる。そんなライブミュージカルならではの場面の間にはストーリーがあって掛け合いがあって、笑いへと持っていくような流れがあってアドリブでもって出演者を試す場面も多々あって、昨日来た人でも今日はいったい何をしでかすか分からないといった興味を抱きながら舞台を見ることができる。

 昨日ピコ太郎をやったからといって今日はやるとは限らない。それはテツ&トモかもしれない。他のギャグかもしれないといった興味から毎日、通った人もいたかもしれない。ゲネプロで観たあれはそして千秋楽ではなく、まったく別のそれとなっていたのも事実。なおかつ身構えつつしっかりと受け止めより面白い舞台にしようと吐き出してくキャスト達の頑張りもあって、観て寒さも呆れもなくただひたすらの嬉しさと楽しさがあった。素晴らしいぞi☆Ris。そのまんまコントを取り入れたテレビ番組にだって出られそう。っていうか作らないのか。AKB48だけがアイドルユニットではないし、コントをやって面白いアイドルユニットでもない。そんなことを確信させられた。

 もちろん歌わせても踊らせても素晴らしいアイドルユニット。役になりきり役を超えようとする頑張りを周囲が支えスタッフが支え観客も支えて作り上げられた舞台が、回を重ねる毎にパワーアップしていった果てに迎えた千秋楽にきっと今のすべてが込められていたに違いない。終わってレオナを演じていた若井友希さんが涙ぐんでいたのも分かる。もう明日からこのカンパニーでは芝居ができない寂しさ。舞台っていうエンターテインメントにはつきまとう離散を哀しかったのかもしれないけれど、でも去年だってきっとそうだった、来年もあるとは思わなかった、DVDだって出なかったその舞台が1年を経てこうやって再演されて今度はDVDも出る。ならば来年だってまたあるかもしれない。ストーリーが同じとは限らないけれど、違う舞台でも新しいキャラクターを交えつつ素晴らしい舞台にしてくれるだろう。だからある。絶対にあると信じて待とうライブミュージカル「プリパラ」の帰還を。ファルルもちゃんと出してあげてね。


【1月28日】 争奪戦に敗れてチケットがとれず「虐殺器官」の舞台挨拶付きのプレミア上映会は断念したものの、情報を見るとレーティングがR15+になったそうでまあそうりゃそうだ。銃でもって人が撃たれて血が吹き出ては穴が開く。あるいは銃を持った子供が現れては撃たれて次々と倒れていく。刺激的で衝撃的なシーンの連続をPGでも12歳未満に見せるのはやっぱりちょっとキツいだろう。そして15歳以上でも人がバンバンと射殺されていくシーンの連続に、人ってこうもあっさり死んでいくんだという理解を持ってしまいかねない。何しろ「虐殺の文法」について描いた映画。映像事態が持つ虐殺への誘いが感受性の豊かなミドルティーンにどんな影響を与えるか。そこを後で聞いてみたいなあ。

 早起きをして次世代ワールドホビーフェアへ。登場しているプロパティにおおきな変化はなく、敢えて言えば「ヘボット」がコーナーもあってちょこちょことした人気を獲得し始めているといった感じか。あとは「デュエルマスターズ」に「ポケットモンスター」に「ベイブレード」に「森羅万象」に「マインクラフト」に「妖怪ウォッチ」。「マインクラフト」なんかは新しいと言えば新しいし「妖怪ウォッチ」だってまだまだ新参の部類ではあるけれど、半年経てば忘れ去られるアニメーションとかと比べて何年の残っては人気を持続させている、逆に新しいものが入ってこられない子供の玩具の世界ってものの厳しさを感じた次第。「Nintendo Switch」だって新型ゲーム機だけれど結局はマリオだものなあ。次のキャラ、次の遊びが前なら何か見つかったのに。その意味でも子供の遊びの世界は厳しくなっているのかも。新風を送り出してブームを作れない子供向けのホビー誌の世界ともども。

 「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」の宇田鋼之介監督が登壇すると聞いてかけつけた練馬での「アニメコンペティション練馬2016」表彰式では、今年が第1回というキッズたちを対象にしたアニメーション作品を表彰する賞に入った人たちの作品がまずは上映されて、今時の子供たちがどんな風にアニメーションをとらえているかを感じ取る。とりあえずみんな絵を動かしたいという思いがあって、それをアニメーションという形にして表現しようとする意慾を持っている。そんな意慾を具体的に形とした時にたとえば題材だったり、あるいは絵柄だったりに特長が出ていて何を見て来たか、何を見せたいかっていった気持ちが感じ取れる。

 入賞作品では例えば岩波祐希さん「リスさんのまるたわたり」は並んだ丸太の上をリスが走って行くというアニメーションで、横スクロールに進んでいく感じを絵で描こうとしている。1枚1枚すべてに丸太を描かなくてはいけないだろう手描きの原動画がいっしょのアニメーションを通じていったい何を得たか。分業制にすれば良いという教訓か。さすがに小学1年生ではそこまで感じられなかっただろうけれど、でも絵が動くことへの興味ははぐくめただろう。「お着替えジャンプ」の板倉朱優さんはジャンプして上のフレームから消えて戻って来ると変わっているというアニメーションがフレームというものの存在を意識させたかも。見えてる世界でジャンプしたってそれはずっと見えている訳だから。

 とっても可愛い加藤綾乃さんの「いつのまに!」はもじゃもじゃ頭に取りついた鳥が卵を産んでしまった。そのあとどうなるの? ってのが気になった。廣住葵さん「クルクル回るバレリーナ」は自身がバレエをやっている経験で1人を中心に周囲の4人が移動しながらそれぞれがくるくると回る複雑な動きを描ききっていた。知ってる動き、興味ある動きを絵に描いて嬉しかったなら、それが原動力になって次はこれを描いてみようってなる。そんな経験を子供のうちからしてもらえるという意味でこのアニメコンペティション練馬2016」にはとてつもない意義があるように感じた。ここから10年後、あるいは20年後のスーパーアニメーターが出てきたら面白いなあ。ちなみにほかの賞も含めて全員が女の子。この世代の男の子って絵を描くのがまだ恥ずかしいんだろうか。それとも遊ぶ方にばかり行ってしまって創ることへの興味を男の子は失っているんだろうか。気になった。

 優秀賞は2人いて安島菜桜さん「青虫の成長」は幼虫から蝶へとかわるメタモルフォーゼが描かれていた。一瞬、隠されカットが変わるような演出も。そう描くことで分かりやすくなるという感覚、驚きを与えられるという感覚を改めて考え直すことで意図をより明確にした演出ができるようになるんだろう。大浦愛瑛さん「お花から…」。ねり丸が現れた。これも一種のメタモルフォーゼ。アニメーションの醍醐味ってやつを味わいながら創った感じがして良かった。教育長賞は山本彩可さん「ネコとフーセンで世界旅行!!?」は回転して場所が日本だったりニューヨークだったりに切り替わる舞台設定の工夫が良かった。そして最優秀の浅野由妃乃さん「宇宙を飛び回る猫」は猫の表情が素晴らしかった。角度があって立体的に見える顔の表情から真正面を向いて手前へと走ってくる猫の表情。簡単に走らず見せたいものを見せようと描ききった情熱は、アニメーターに不可欠なものなんじゃなかろーか。自身もアニメーション作りがしたいって話していたからきっと将来、大きく名を残すだろう。それにしても巧かったなあ。

 そんな未来のアニメーション作家なりクリエイターに向けて、登壇したスタジオ・ライブ社長でアニメーションクリエイターでもある神志那弘志さんは描く時にはやっぱりキャラクターがどんな気持ちかを考えて描くよって話をしていた。哀しい気持ちを持ったキャラクターを描く時は顔が哀しくなり、苦しいときは苦しくなる。そんな顔を時々は鏡に映して見ながら描いていくことで、心理が滲む表情を持ったキャラクターが絵なのに表れ動き回るんだろう。そこに声も着くから万全。そうやって日本のアニメーションは平面に奥行きを持たせてきた。今はとにかく勉強する場所がなくていきなり現場で仕事を任されうまくいかないなあと思いやがて潰れて離れてしまう悪循環が起こっている。そういう状況をどうにかしたいとも神志那さんは話してた。スクールみたいなこともやっているけどそこに政策も乗せて、1年2年を修行しながら生きていける組織なんかを、国とか自治体が設置する必要もあるのかも。若手アニメーター育成支援制度も稼働はしているけれど、規模がやっぱり小さすぎるから。

 キッズアニメとは別に1分アニメってものを取り上げるコンテストもあって、こちらはプロアマ問わず30秒から1分30秒の映像を募るってものでわたなべさちよさんという人が「音のおもいで」、そして小林香鈴さんという人が「幸運なクマと不運なクマ」で優秀賞を獲得した。「音のおもいで」は線画で人を動かすインディペンデントにあるアニメーションで、カセットから引っ張り出したおじいさんの声をヘッドフォンでおばあさんい聴かせる家族の話が短いなかに描かれていた。ほのぼの。音の処理も良かった。「幸運なクマと不運なクマ」は多摩美での課題として作られたものらしく三題噺的なお題に沿って2匹のクマが出会い踊るアニメーションが軽快なテンポの中、和田淳さん的な線をメインとした繊細な作画で描かれていた。絵柄も動きもとてつもなく巧くて才能の片鱗を感じさせたから今後、卒業制作とかで作ってくるものを注目したいところ。タマグラやっぱり凄いなあ。

 区長賞らしい吉元琢也さん「石神井公園のワニ」は音楽の転調というか不協和音的なものでヤバさを感じさせつつ池から二足歩行で上がってくるワニをとらえ何が起こるかと期待させて意外な展開へと落とす流れが最高。どういう経歴の人なんだろう。「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」のスタッフリストに動画で同じ名前の人がいて、所属しているらしいTROYCA会社は石神井にあるからあるいは。毎日見ている光景なのかも。ってことはノンフィクションか。行けばワニに会えるのか。ちょっと興味。最優秀賞のCODO「うたうせみ」は絵本みたいな世界で蝉がデュエットしているけれども最後は冒頭に出てきた子供に網でかっさらわれていた。昆虫の世界というファンタジーに子供の夏休みというリアルが重なり驚きとともに世界の構造を感じさせる。何人かのチームらしいけどどいういう作品を作っていくんだろう。気にしていこう。

 終わったあとに宇田鋼之介監督に「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」のDVDにサインを頂き積年の思いが叶う。映画を追いかけてあちらこちらへと行ったものなあ、練馬にも行ったっけ、Tジョイの大泉学園とか、ご当地だけあってシールプリント機があったんだ、撮ったけどどこにいったっけ、良く覚えてない。宇田さんはトークで自分ひとりで作るアニメーションもあるけれど、大勢が才能を持ち寄って作るアニメーションの良さも訴えていた。商業的なものではあるけれど、そでもそれぞれの個性や才能がきらめいて驚き御表現へとつながっていく。1人では限界のある発想も広がる。そういう意味でやっぱり1度はインディペンデントアニメーションの人もスタジオワークを経験するがの良いのかも。コミュニケーションが苦手でも気にせず自分を貫くことが題字とは神志那さん。才能があれば認めてもらえる、かもしれない。まあ演出はやっぱり人としゃべれた方が良いみたいだけれど。


【1月27日】 マンガ大賞2017の候補作に入っていたんで読んで観た桑原太矩さんによる「空挺ドラゴンズ1」(講談社、600円)だけれどううん、「風の谷のナウシカ」のような世界で「ダンジョン飯」をやろうとして、状況設定に振り回されて気味で、まだ世界を描き切れていないというか、そもそも世界なんてないかもしれないというか。遠い昔から空を飛んでいて人に害をなしつつも貴重な資源でもある龍を狩る捕龍船と、その乗組員たちがいて、かつてはならず者達の集まりだったみたいだけれど、今は一種の職業的な組織となっているって感じ。そして、龍も捕龍船も希少になっていったけれど、それでも未だ現れる龍を追ってクィン・ザザ号は空を飛んで回っている。

 ミカというのはクィン・ザザ号の乗組員で、手に武器を持って龍を仕留める役を担っている。捕鯨でいうなら銛打ちみたいな存在で、腕もよくて強くて危険な龍を仕留めては地上へと降ろしてさばいて油を摂り肉もバラして売って金に換える。龍を1頭仕留めれば結構な額が入るというあたりも捕鯨に似た仕事。そんな彼らが世間に差別されながらも続けていた龍を狩る仕事が、あるいは龍の存在も含めて世界の生態系に影響を与えかねないような設定があれば面白かったし、一種の危険な職業として忌み嫌われながらもそこに生きる者たちの矜持が見て取れたら感銘も受けた。でも龍がどうして未だ存在しているかといった話はなく、嫌われてはいても賎民のような扱いは受けてない。

 龍を狩る。その目的としてミカが龍を料理して喰らうといった方向へとストーリーを向けてあるため、世界と龍との関わりなんてものへと話は向かわず、ちょっと変わった食い物を喰らう様子を見せて面白がる「ダンジョン飯」、あるいは「トリコ」的な要素が前へと出てきてしまう。だからといって妹を助けにダンジョンに入って、仲間を得ながら冒険をして、危険にどう挑むかといった推測の要素を持った「ダンジョン飯」のような1本通った筋はまだない。「トリコ」のような大冒険もないからどこに未来の楽しみを見つけて良いのかがまだ見えない。「風の谷のナウシカ」のようなタッチで女子とか可愛く強そうなのは嬉しいけれど、やっぱりストーリーで読ませて欲しいところ。第2巻でどこまで踏み込まれているかに期待しよう。

 とある映画雑誌の主宰な人が大嫌いだと何かで言っていたような「この世界の片隅に」が、その映画雑誌のベスト10で第1位になったって話が流れてきて、たとえ1人が嫌っても、そしてご近所を総動員してワースト評を入れてもほかの大勢がこれは凄いと認めまくれば足も引っ張られないということが証明されてまずは善哉。過去にその雑誌では誰もが1位と認めた作品が下位に下げられたりして、特殊映画評論家から突っ込みが入って良いわけなんかをしていたけれど、今回ばかりはその手も通じなかったって感じか。ライバルとも言えるキネマ旬報と同じ作品が1位になるのは、ちょっと珍しいかもしれない。

 だからといって主宰の人が考えを改めるかというとそうでもなく、ぼやきとともに批判を繰り広げているだろうから、雑誌が発売される30日には買って読んでどんな選考の状況だったかを確かめよう。とはいえ、とある映画雑誌の主宰の人が「この世界の片隅に」に苛立ちを覚えている理由も分からないことはなく、直接的に太平洋戦争であったり広島への原爆投下といった悲惨を描いておらず、戦争への反意をのぞかせていないことが、見る人があの戦争を悲惨と捉えられず原爆投下を悲痛と捉えられない状況を生みかねないといった懸念なんかは、「この世界の片隅に」という映画を挙げて、戦争を描いていないから良いんだといった声で称賛し、本当にあった悲痛や憤りを描かないことを是としてしまうような空気を招きかねない事態への、ひとつの警鐘として傾聴すべき部分がある。

 広島にある平和記念館から被爆者の酷い状態を写した人形が撤去されたりした状況も、悲惨を直接見せないといった配慮がやがて悲惨はなかったといった認識を招きかねないと批判された。そういった状況への呼び水として「この世界の片隅に」が利用されかねないと、心配してくれているなら認めるにやぶさかではない意見。でも主宰の人だから単純にヒットしているものは大嫌といった天邪鬼な心理が働いているだけかもしれないから、やっぱり雑誌を読んで確かめるしかないかなあ。ちなみに伝わってきたランキングだとベスト10には「シン・ゴジラ」も「君の名は。」も入っておらずともに「この世界の片隅に」も含めてワースト10に入っている感じでそこはやっぱり曲がってない。そんなランキングでベストの1位に入ったから、やっぱり驚くしかないよなあ。

 灼眼のシャナはメロンパンに眼がなかったけれど、こっちの強い美少女はパンケーキがお好みらしい。というかそれまであまり食べさせてもらってなかったのが、いきなりパンケーキなんて食べさせられたから驚いてしまったのか、どうなのか。主に富士見ファンタジア文庫とか最近ではMF文庫Jで書いている細音啓さんが、KADOKAWAのノベルゼロに登場。「ワールドエネミー 不死者の少女と不死殺しの王」(700円)では世界を混沌に陥れる怪物たちを追って始末し続けているハンターがいて、中でもノア・イースヴェルトは他に例のない力を持っていて、大敵(アーク・エネミー)と呼ばれる強敵中の強敵を幾つも倒してきた。そんなノアがとある街へとやって来て、大敵がいると教会に告げるもハンターとはそりが合わない教会のシスターは信じようとしない。

 その場は引いたものの、シスターの妹えはやりシスターのシルヴィが街に出ると、怪異(エネミー)によって傀儡にされた人間たちが現れ襲ってきた。そこでシルヴィがシスターすなわち戦闘員としての力をふるって殴り飛ばし蹴り飛ばしてはみたものの、油断をつかれて絶体絶命のところに現れたのがノア。彼を伴い大敵が潜んでいそうな教会へととって返して傀儡にされていた姉を助け、追っていたのとは別の吸血鬼を倒して後、シルヴィはシスターとして教会に止まることはなく、聖歌隊(ピルグリム)と呼ばれる教団にあってエネミーを狩る専門の組織に所属することもなく、ノアにくっついて修行をしたいと申し出たら断られそうになったところを、食事と掃除の当番をすると行ったら受け入れられた。理由はノアが連れていたエルザという少女がそうした当番をしないから。

 というか、最強のハンターにどうしてエルザのような少女がくっついているのか。それはエルザの正体に理由があって、ノアとは因縁の関係らしいけれども殺し合いにはまだ至ておらず、2人して旅を続けている。そんな2人のためにシルヴィが作ったパンケーキがことのほかエルザにヒットしたようで、同行を認められて王都へと行って女王に会ってそこで隣国で怪異が現れたという話を聞かされ、王都が脅かされているかもしれないと知って急行する。怯える王子を説得し、現れた大敵を相手に繰り広げるバトルの先、次なる大敵を求める旅が描かれていきそうだけれど、それがどういう形をしているのか、そしてどこまで倒していくのか、ほかの教団が持っているエネミー相手の戦闘組織とのいざこざは続くのか、といった辺りがどこまで描かれていくのかを、続きが出たら読んでいこう。

 乗っていた自転車が故障して、怪我をしていろいろと仕事や生活に支障が出ているっていった話は幾つもあるけれど、そうした事象を幾つか並べた上に悪いのはメイド・イン・チャイナだからどいった感じに見出しで煽っている記事があって頭が痛くなる。なぜって前輪が脱落して載っていた人が半身麻痺という大怪我を負った自転車はビアンキのブランドで、作っているのは台湾の工場。そしてギアが空回りして怪我をしたという自転車のそのギアはシマノの製品、シャフトが折れて転んで靱帯を損傷したといった自転車はブリヂストン製で、いずれもとりあえず中国製とは関係ない。にも関わらず、記事では自転車の9割が中国で作られているとかいった話を添えて、いかにも中国製は危ないといった流れを作り上げている。

 普通だったら個別の事象でどれだけ中国製に問題があるかを調べ、実際に中国製がどれだけ危ないかを報じるべきなのに、そうしたことをやらないのはやったら記事にならないから、なんだろうなあ。あとは中国のワルクチなら受けるといった判断。前も千葉の河川敷に人が入り込んで問題になっているという記事を載せ、中国人が入り込んでいるような流れにしていたけれど、その根拠は通りがかったおじいさんが中国人じゃないのと言ったということだけ。それで他国のワルクチに仕立て上げてしまうような記事ばかり書いていると、そうやって誘導すれば良いんだという考えに染まってまともな判断が出来なくなると思うんだけれど、それよりも稼ぎたいアクセスってことなんだろうなあ。困ったなあ。


【1月26日】 ニューズウィークが伝えるところによると、アメリカ合衆国とメキシコとの国境沿いに立つフェンスによって野生動物の行き来が阻害され、オセロットやボブキャットといった動物たちの交配や生存に大きな影響が出ているか、これから出てくるだろうといった感じになっている。ブッシュジュニアが大統領だった時代にフェンスがぐわっと作られてからだいたい10年とちょっと。森林を道路が横切るだけで横断できなくなる野生動物だっていっぱいいるのに、壁で遮ってしまってはもう絶体絶命としか言いようがない。遠くに通路を設けるとかしたところで、そこまで遠回りをする野生動物なんていない。行けなければ行かず、そして死滅する。そうやって少なくない野生動物たちが絶滅してきた。

 そんなアメリカ合衆国とメキシコとの国境沿いに、既にあるフェンスに加えて壁も作るとトランプ大統領が言い出して、命令まで出してしまったというからいったい動物たちはどうなってしまうのか。隙間をくぐり抜けられた小さい動物や昆虫もこれで行き来は不可能に。いったいどれだけの生命が奪われるのかを考えると、環境保護団体が声を上げて不思議はないけれど、そうした声に対してもアメリカ第一主義においてアメリカ国民こそが第一であって、税金を払っていない動物や昆虫に配慮する気など毛頭ないと言うんだろうなあ、トランプ大統領は。それをやると決めたら引かず、そしてやり続けることでしか支持を集められないスパイラル。結果、どうなるかって考えると先行きが暗くなる。あれだけ日本の捕鯨にうるさいシーシェパードは何をやっているんだ、ってシーシェパードは海専門だから陸には来ないか。そういうものか。さてはて。

 在京のスポーツ新聞から映画担当が投票して決めているらしい第59回ブルーリボン賞が発表になっていて、作品賞を「シン・ゴジラ」が受賞してそして監督賞を「この世界の片隅に」で片渕須直監督が受賞していた。アニメーション関連だと宮崎駿監督が「千と千尋の神隠し」で受賞したことはあっても監督賞はとれなかった。片渕監督の監督賞受賞はだからブルーリボン賞始まって以来のアニメーション監督による受賞。キネマ旬報ベスト・テンに続く感じで実写の監督に互してアニメーションの監督が評価されたことはやっぱり、時代のひとつの変わり目と捉えるべきかそれとも「この世界の片隅に」が優れていたということか。

 そんな受賞に当たって片渕須直監督は、ダブルVサインをスポーツ報知で見せつつもコメントで「のんちゃんのナイーブさがリアリティーを生んだ」と添えて、主演の声優を務めたのんさんの貢献を多大と賞賛。そしてサンケイスポーツでものんさんについて触れ、「実写に近い、女優として演じている雰囲気でとらえていただいた」賞賛してた。過去のアニメーション作品が積み重ねてきた貢献についても、これまでの受賞の中で触れて配慮を見せてきた片渕監督らしい。一方でのんさんのことについてしっかりと紙面を割いて書き記している新聞各紙も、ここでなら触れられるし触れておかねばって矜持があったのかもしれない。テレビだときっと片渕監督が喋ってもカットだろうなあ。どうだったんだろう。ちょっと気になる。

 しかし「シン・ゴジラ」と「この世界の片隅に」の躍進の間で2016年最大のヒット策にして日本映画では歴代2位の興行収入記録を打ち立てた新海誠監督の「君の名は。」が割を食っているというか、作品賞としてはアニメーション映画だから推しづらく、監督賞になると片渕監督か、「シン・ゴジラ」の庵野秀明総監督と樋口真嗣監督の方に傾いてしまう。だから特別賞といった形に収まるんだけれど、これってどこか“おまけ”感があるからなあ。毎日映画コンクールのアニメーション映画賞はだからひとつのタイトルだけれど、ジャンル内での評価であって一方で大賞を「シン・ゴジラ」、日本映画優秀賞を「この世界の片隅に」が受賞しているのを見ると、やっぱり脇といった印象になる。残る日本アカデミー賞でどこまで評価を受けるか。やっぱりアニメーション映画賞止まりかなあ。ちょっと勿体ない。

 ひとつの神話の誕生に居合わせているのかもしれない。それは作品が話題となって世に名を知られて語り継がれるようになるといったことでもあるけれど、それとは別にとある世界、とある国と国とが対立から和解、そして共に手を結んでの繁栄へと至った物語を、奇跡と認めて、その経緯を一種の国作りの神話として語り伝えていくという、そんな始まりに居合わせているということでもある。岩本ナオさんの「金の国水の国」(小学館、593円)という漫画に描かれた物語は、たとえ架空であっても、たとえ漫画であってもそこに感銘があって教訓もあって、そして未来を示す教唆が見えるという意味で立派に神話としての価値を持つ。なおかつエンターテインメントとしての面白さも。

 隣り合わせの国が戦争をしたのに神様が仲裁に入って、交易で栄えながらも砂と岩ばかりで水に不安なA国と、森と水に恵まれながらも産業が育たないB国との間でそれぞれに人をやりとりするよう言いつける。内容は、A国からは1番美しい娘をB国に嫁にやり、B国からは1番かしこい男をA国に婿にやれというもので、A国では国王の妾の末娘サーラがB国からの婿を迎えることになったけれど、着いた輿を開いたらそこに犬が寝ていた。そしてB国では建築に通じた学者の息子ナランヤバルがA国からの嫁を迎えることになったけれど、こちらに来たのは猫だった。A国の王もB国の族長も神様の言いつけを聞かなかったということになる。ところが、そうやって犬を迎えたA国の姫、サーラは騒動になるし犬も殺されてしまうからと父王に告げ口をせず、犬といっしょに暮らし始める。ナランヤバルも気にせず猫を飼い始める。

 そんな2人が出会ってしまった。国境で、ルクマンと名付けた犬を連れて歩いていたらルクマンが穴に落ちてしまった。困っていたところに通りがかったのがオドンチメグと名付けた猫を連れたナランヤバル。ルクマンを助けて親しくなったサーラから、家に来て助けてくれと頼まれ着いていってそこで彼女がB国から婿を送られた姫だと知り、それが犬だったことも知る。けれども黙ったままナランヤバルはサーラの姉たちが直して欲しいと言っていた時計の修理に赴き、そこに入り浸る元役者で顔立ちの良さから登用されたらし左大臣とも知り合いになって、2人でオアシスが枯れかかっているA国をどうにかしようと計略を巡らせる。一方でサーラも迷い込んだB国でナランヤバルの父と知り合うものの、ナランヤバルに妻がいると信じてしまう。

 そこだけはちょっとすれ違った2人だったけれど、互いに才能を信じ優しさを信じていきながら、対立していたA国とB国の橋渡しをして2国が共に栄え続けるための道を探ろうとする。そして得られたひとつの奇跡。犬を送り猫を送った策略が、けれども心の綺麗な2人を会わせて国を近づけ平和と繁栄をもたらした。だったらこれから嫁は猫を送り、婿は犬を送るべきかといった教訓にはならないけれど、対立していてもわかり合える部分はあるといった教訓は得られそう。何よりサーラという姫の、誰よりも優しくて感性が豊かで開明的なキャラクターが良い。ちょっぴりふっくらしているけれどそこもまたカワイイところ。ナランヤバルもあれで建築や土木に通じて国を立て直す。才能って意外なところに眠っているんだなあと言うのもまた教訓。こんな風に近づき生まれる平和を繁栄が今後にあれば、「金の国水の国」は神話の雛形として語り継がれることになるだろう。

 リード・エグジビジョンの社長と言うより日本展示会協会の会長として会見した石積忠夫さんが2020年の東京オリンピックとパラリンピックで東京ビッグサイトが長い間使えなかったり狭められたりして展示会が大変なことになるんで東京都知事を始め政府や官庁に誓願をしていくと話してた。当然に出たどうして近隣とか他の地域じゃいけないのか、といった質問にはすでに一杯一杯で、たとえ隙間があったところでそこでは狭くて規模のおおきな展示会は開けない、そして東京から遠く離れた地域だとディスプレイとかに関わっている中小や零細の企業が、その間、仕事を失って職人もいなくなって立ち直れなくなるって応えてた。なるほど。そして曰く、築地の市場がしばらく閉鎖になるといったら誰もが大騒ぎするのに、そこでビジネスがおこなわれている展示会場が閉鎖されるということに誰も騒がないと訴えていた。しかり。

 コミックマーケットやコミティアのように文化の中心地としても機能している東京ビッグサイトだけれど、展示会というのは中小企業にとってはそこが商談の場であり情報収集の場であってなくなるとビジネスにおおきな影響が出る。他でやるというならそっちに出ればって声もあるけど、地方でおこなわれる同人誌即売会がコミックマーケットのような規模にならないのと同様に、そこに出る人は減ってしまうし行く人だって減ってしまう。それもまたビジネス機会の損失であって、やっぱり東京という場で、せめて近郊で同規模の展示会が開けるようにして欲しいっていうのも分からないでもない。でも現実は見た目重視の小池と知事がそうした要望に応えてメディアセンターを動かすとも思えず代替施設も建てられるとは思えない。都民が騒がないうちにひっそりと展示会は死滅して中小企業も倒れ、けれどもひとり小池都知事だけは栄冠を手にするんだろうなあ。保てばだけれど。それにしても困ったねえ、展示会業界。どうするんだろう。


【1月25日】 宮崎駿監督と、スタジオジブリの名前が世間に広く通っていることは認めよう。だから米アカデミー賞の長編アニメーション部門に「レッドタートル ある島の物語」がノミネートされて、それがたとえほぼほぼフランスとかで作られたアニメーション作品であって、スタジオジブリはプロデュース業に徹しただけのものであっても「スタジオジブリ作品」として世に紹介され、それで世間の関心が作品に向くことは決して悪いことではない。あとはそこからオランダ出身のアニメーション監督してマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットの名が知られ、次に繋がれば万々歳なんだけれど日本では、すべてがスタジオジブリの手柄であって、ひいては宮崎駿監督の目利きといった範疇に収めてやっぱり宮崎駿監督は凄いんだといった称賛の積み重ねへと向かってしまう。

 金曜ロードショーで1月27日に金曜ロードショーで放送される「耳をすませば」の予告が日本テレビなんかで流されているけれど、そこに書かれているのは「脚本・宮崎駿」であってそして「ピュアな思い出がいっぱいつまったスタジオジブリ作品」という文字だけで、近藤喜文監督の名前がどこにもない。ナレーションにも出てこない。なるほどテイストはジブリで宮崎駿監督を思わせるけれども過去、多くの作品に関わってきて次のジブリを背負って立つと期待もされながら急逝した、近藤喜文さんの監督作品であって、映画が監督かプロデューサーのものとするなら誰を置いても名前を出さなければならない人が無視されてしまっている。これはちょっと寂しい。

 もちろん宣伝として宮崎駿監督の名前を出してスタジオジブリ作品であることも訴えて関心を誘うことは間違っていない。ただ、そこで宮崎駿監督なりスタジオジブリに引かれて目を向けた人に、近藤喜文という名前を知ってもらえる大きなチャンスであるにも関わらず、それを出したら人が逃げるとでも思ったかのように触れようしていないのがどうにも悔しい。ビッグネームに頼ることは間違いではないけれど、そこから次の名前を世に知らしめる過程を怠って、ビッグネームにのみ縋り続けている状況が、次の才能が世に出る機会を奪っている。そんな状況がずっと続いて「ポスト宮崎駿」なんて言葉を虚しいものにしている。

 というか、宮崎駿監督の下でずっと仕事をしていた片渕須直監督でさえ、「この世界の片隅に」を作ろうとして大いに資金調達に苦労した。過去に手がけた「アリーテ姫」なり「マイマイ新子と千年の魔法」で、前は宮崎駿監督の演出補だった経歴を訴えつつ、作られたものの素晴らしさをもってその才能を認め、世界にこれは凄いと喧伝していれば次に何かを作る時の苦労はもうちょっと和らいでいただろう。でもそうはしなかった。ジブリ以外はないものとして扱われたに等しかった。売るためにビッグネームに頼りビッグネームばかり持ち上げていると、次に売るものがなくなるってどうして分からないんだろう。分かっていても目先のお金が欲しいんだろうなあ。そうやって日本のエンターテインメントは、そしてメディアは滅びていくんだろう。やれやれ。

 そんな米アカデミー賞では原恵一監督の「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」も新海誠監督の「君の名は。」も残らずちょっと残念。「Kubo and the Tow Strings」が残って「コララインとボタンの魔女」とか作ったライカの新作が日本で注目される可能性も残ったけれど、やっぱり「ズートピア」あたりがかっさらっていくんだろうなあ、あるいは「モアナと伝説の海」か。「モアナ」まだ日本ではまだ公開されていないけれど、予告編とか見ると海の表現が素晴らしくって、またひとつ技術を進めたなあといった印象を抱いた。日本のフル3DCGのアニメーションであの表現力に迫るまでいったいどれくらの時間がかかるんだろう。まず無理として日本独自の3DCGを追いかける、ってのもやっぱりひとつの手かもしれない。「けものフレンズ」みたいに。

 まるでモデリングされたフィギュアが動いているようにしか見えなくても、そのゆらっとした動きにキャラクターとしての性格や背景、そして声優さんの声が乗ると途端に活き活きとした存在に思えてくるから不思議というか。なおかつ「けものフレンズ」には世界観への不穏な予感もあって次にいったい何が起こるのかっていった興味をそそられる。第3話となった「こうざん」では電池を充電してから戻ってバスを動かそうとしていて、その前に立ったサーバルちゃんをボスが無言で無視するようにバスではね飛ばす。人間らしいカバンちゃん以外は眼中にないといった感じ。そこからのぞく世界の断片にいったいどうなっているんだろう、なんて想像が働く。山上にあったカフェに誰もお客さんが来なくても待ち続けたアルパカ・スリの健気さも、考えようによっては滅びた世界でひとり待つ虚無を表しているしなあ。カバンちゃんを追いかける2人組もまた出てきて追いついた時にいったい何が起こるのか。ワクワクしながら見ていこう。次はどの廃墟がエンディングに出てくるかも含めて。

 「ACCA13区監察課」はモーヴ本部長がドレスアップをして胸元がくっきりでジーン・オータスでなくても心ドキドキ。対面で座って食事をしていて、そこに目がいかない訳にはいかないけれど、でも相手は上司な訳でじろじろと見ていたらやっぱりとがめられそう。それとも見た分だけ仕事をさせる気か。それもまた策士といったところ。この時点でモーヴってジーン・オータスの“正体”は知らないんだったっけ。ジーン自身も自分が何かを気づいていない中で、周囲ばかりが蠢いているのはグロッシュラー長官というよりはやっぱりクヴァルム枢機院長なんだろうなあ。そしてもちろん王様も全部知っていると。そんなに会いたかったのか。会いたかったんだろうし、会えてひとつ良かった。次はちょっとアクションもありそう。原作をもう読んでしまったけれどオープニングにエンディングが良くストーリーもスリリングで何よりモーヴ本部長が素晴らしいからこれも見ていこう。ブルーレイBOXも買うかな。

 願うのは憎らしいくらいに強くて寄る者をばったばったとなぎ倒して優勝回数を重ねていくような横綱であって、そんな感じに稀勢の里関がなってくれれば嬉しいんだけれど年齢からすれば30歳は強さの曲がり角、ほかのモンゴル出身横綱が停滞気味の中で相対的な強さを見せてこの数場所、トップを維持して横綱に推挙された感じもあるだけに、来場所以降も優勝争いに絡むような強さを維持できるかってあたりがまずはひとつのポイントになりそう。それが日本出身の力士であればなおのこと嬉しいかなあ。そうでなくやっぱりちょっと負けが込んでしまうと、逆に日本出身であることが重荷になってしまうから、今はあまり言わないようにしたい。琴奨菊関も優勝から一気に行くと思ったら負けが込んで遂に大関陥落。そうならないことをお願いしたい。さらには次の日本出身力士の活躍を。いるかなあ。逸材。

 ゲネプロを見たらあまりに良くて感動のあまりにチケットを買って普通に観に行ったものの、DVD化はされず記憶に留めるだけになってしまっていたあの奇跡のミュージカルが、また観られるなんて2017年は何て素晴らしいんだろう。テレビアニメーション「プリパラ」の世界がステージ上に再現されるライブミュージカル「プリパラ」が、2017年版となって六本木で再演。ゲネプロがあって観に行ったんだけれど去年観て感動した歌とか踊りがまんまあったし、ストーリーも同様に感涙もので観に行ったらやっぱりまたみたくなって千秋楽のチケットを買ってしまった。サイリウム持込オッケーというかないとつまらないんで今から電池を入れ替え準備しておこう。あとは「Make it!」のサビの部分の練習か。これを歌ってサイリウムを振って応援しまくろう。どんな光景が広がるかなあ。待ち遠しい。


【1月24日】 「仁義なき戦い」を見ていないからこれといった作品で覚えていないんだけれど、なぜか強く大御所といった印象が漂っていたのはやっぱり近衛十四郎さんの子として古き良き映画の時代から続くスタアの血を、ご本人も醸し出していたからなんだろうか。松方弘樹さん。2017年1月23日に没。俳優や女優の名前を僕は大河ドラマで記憶するケースも多いんだけれど、松方さんは渡哲也さんの代役として登場した「勝海舟」からしばらく登場せず、そして「勝海舟」は冒頭に少し見たかなあといった記憶でその頃はまだ、俳優の名前を覚える習慣を持っていなかった。

 だからやっぱり強く印象づけられたのは、何となく大御所然としていた松方さんが、「天才!たけしの元気が出るテレビ」に出始めて、顔をくしゃくしゃにして笑いながら涙を流していた様を見るようになってからかもしれない。それまでは「ルパン三世」なんてものを実写で演じた弟の目黒裕樹さんの方が役柄と一致していたものなあ。とはいえ以降も何か強烈な役で印象を残してくれたかというと、やっぱり出ていて演じているなあといったところ。あとはマグロを釣ってる人。それでも亡くなる直前まで現役で俳優にバラエティに活躍できたのは、「仁義なき戦い」当たりを転機として、役者としての存在感が強くあったからなんだろう。梅宮辰夫さん、北大路欣也さんも同様に。ヒット映画が人生にある、ってのはこれだけ役者にとって重要なんだなあと改めて。

 やれやれ。ネットでデマばっかり発信しているらしい人がまたしても、デマを流しては袋だたきに遭っているけど反省している様子は無し。きっと今後もツイートを続けては一部の信じたい人に信じさせ、その信じる輪でもって世間の一部に熱烈な愛好者を作って祭り上げられていくんだろう。でもしかしどうして引っかかるんだろう。ドナルド・トランプの大統領就任に集まった人が少ないということを示した写真があって、それは一部がトリミングされたものだといってちょっと引いてもう少し広い範囲をとらえた写真を提示して、ほらトランプに反対する人たちがデモをして聴衆を入れなかったから人が少なかっただけなんですよと書いているけど、見ればトリミングされた写真と、引いて全体をとらえた写真がまるで違うものだと分かる。

 一方にはテントがあってもう一方にはテントがなかったり。人がいる場所にいなかったり。時間がずれているなら人の移動もあったかもしれないけれど、同じ陽の同じような時刻でテントまで取っ払われることなんてない。つまりは別の日の写真で、一方は文字通りにトランプ大統領の就任式に人が集まっていなかった写真、もう一方はトランプに反対する女性たちが集まってデモをしていた写真。その2枚を並べてトリミングの前と後だとどうして言えるんだろう。違う写真じゃないか。でもやってしまうんだろうな。自分が言いたいことのためには“事実”なんて関係ない、って感じに。まるでどこかの自称全国紙と同じ。指摘されれば恥を感じて引っ込まざるを得ないのに、知らん顔して同じような自分本位のデマゴーグを続ける当たりもよく似てる。厄介なのはそういうデマゴーグでも信じたい人には“真実”になってしまうことか。ファクトチェックとかリテラシーとか関係無く。困ったなあ。

 続編が出ていた犬村小六さん「やがて恋するヴィヴィ・レイン2」(ガガガ文庫)はお姫さまを助けて国を救ったにもかかわらず、ルカ・バルカは身分の低さを厭われ追い出されては人造人間で妹にそっくりで戦闘力も高い少女を伴って王都を出て向かった先、大道芸代わりにと連れの少女に歌わせたらこれが絶世で人も集まった上に領主の歓心も誘って連れて行かれようとしたのに逆らって、逃げ込んだ場所にいたのがかつてルカ・バルカが死んでしまった妹と暮らしていたスラムで、文字を教わり本も貸してもらっていた旧友のジェミニだった。実は王子でありながら不興を買って放逐されたジェミニは、ルカ・バルカからエデンを滅ぼすという目的を口にされ、乗り気になってルカ・バルカがいろいろあって町を逃げ出してからも、その野望をいつか叶えようと虎視眈々としていた。

 そこに現れたルカ・バルカを巻き込んで、横暴な領主を殺害して住民達を蜂起させたジェミニ。もっとも敵は王国だけあって強くジリ貧となっていたところに、かつてルカ・バルカが助けた王女さまのファニアがやってきた。話し合いで済ませるか、自分の命を差し出せば許されるか、そんな算段を吹き飛ばすように蠢く嫉妬の謀略で、ルカ・バルカの命が危険にさらされる。さあどうする、といった展開はまだ大きな戦乱への萌芽を見せていないけれど、後に友人であり仇敵として並ぶジェミニとルカ・バルカの再会があり、探し求めているヴィヴィ・レインへと近づく道もでき、なによりファニアとのルカ。バルカがともに異なれどもひとつ思いを抱いて進む道も見えてきた。大きく動く世界がどんな戦乱を呼び、そこでルカ・バルカがどんな活躍を見せるかも含め、注目したいシリーズだけれど、ちゃんと続いてくれるかなあ。そこが心配。

 VOCA展で「のこそうヒトプラネスト」を見てこれは何だと衝撃を受けてから何年だ。入れ小細工のような複雑な構図の中に人が蠢いた半分と、そして巨大な顔の半分を合わせた作品のディテールがあまりに精緻な上に、イマジネーションがぶっ飛んでいていったいこれは何を描く人なんだと関心を抱いて以後、いろいろな場面で作品を見てそして「ヒトプラネスト」の複雑な構図の方の下絵とも言える作品を購入までしてしまった。近藤智美さん。元マンバにして監禁されながら絵を描いていった果てにアーティストとしてデビューした彼女は、自分をモチーフにして取り入れながらも内在する感情めいたものをそこに添えて描き挙げる作家として、エロスとタナトスが入り交じった雰囲気を世に醸し出していた。

 あまりに素晴らしいんでインタビューまでして記事にもしたけどその後、活動がしばらく見られないなあと思っていたらサンディエゴに行っていたりもしつつ作品を貯めていたみたい。そして2017年、アートラボではなくヴァニラ画廊の方で復活の個展1月23日からスタートさせたみたいでこれはとのぞきにいったら凄かった。内省的だったもんが外へとはじけ飛ぶ感じ。そしてことさらにエロを描かず人につきまとう欲望のようなものとしてそこに添えては社会の有り様を描き上げる感じになっていた。そんな現在バージョンの近藤智美さんの到達点が狩野一信が描いた五百羅漢像と現代のギャルとのコラボレーション。まずもって狩野一信の筆致を完コピするようにカンバスへと油絵によって定着させつつ、そこにキャバクラ嬢なりホステスを現代風の美人として描いて混ぜ込んで、旧世代の親父が新世代のギャルに翻弄される様を感じさせる。

 凄いのは、油絵具を使いながらも日本画のようにフラットな画面になっていることで、元より筆先のタッチを残さない作風だったけれども日本画のようなタッチをそれで再現できるとはよほどの腕前って言えるかも。もう1枚、こっちはマンバのギャルが五百羅漢に折伏されている様を描いた小品があってそれは確かアクリル絵の具が何かだけれど細い輪郭線から五百羅漢の表情から、狩野一信を真似つつマンバは今風といったハイブリッドなタッチでもって見る人を過去から現在へ、そして未来へと翻弄する。凄いなあ。ヌードになった女性の全身に英文が書かれている作品は英語を学ぶテキストを写したもっぽいけど、そんな英語は使わないとネイティブに言われて学習を断念したとか。耳無し方一のような全身への記述は無用の暗喩か。

 ほかにもデッサンあり巻物ありと多々ある中で、過去から現在までの歩みを双六みたいにコマに言葉で書き記してそれを曼荼羅みたいに配置した作品が凄かった。古い感じを出しつつ作られたのは最近。そんなフェイク技まで出せるようになったとは。書かれているテキストも抜群で読み耽ってしまった。夢日記みたいにイラストと文字が紙一杯に書いてあるものが壁一面に張られていて、読み込むといろいろ驚けそうだったけど細かすぎて読めなかったんでまた行こう。漫画もあったしねこぢるのトリビュートもあってと多彩な作品が多才ぶりを見せていた。会田誠さんとの対談もあるみたいだけれど定員に達して占めきられたみたいなんでそっちは断念。しばらくやってるみたいなんで通ってご本人がいれば会っておめでとうと言い、いなくても夢日記を読んでその内面に近づこう。


  【1月23日】 マンガ大賞2017のノミネート作品が発表されてて梅田阿比さん「クジラの子らは砂上に歌う」は残念ながら入らず。もう8巻まで出ていてそしてマンガ大賞は9巻が出た段階で資格を失ってしまうことになっていて、「クジラの子らは砂上に歌う」は2017年中に1冊2冊は出るだろうからこれでノミネートは永久になくなってしまった。これでも名前が挙がれば関心は持たれただろうし、読まれれば上位に食い込むことは確かだったと思っているのでちょっと残念。でもそこはアニメーション化の成功によって補い広く読まれる漫画になっていってもらおう。あるいは星雲賞、そして日本SF大賞の受賞を狙ってもらおう。推し続ける。

 こちらは推していた白井カイウさん原作で出水ぽすかさん漫画の「約束のネバーランド」はまだ1巻しか出ていないにもかかわらずノミネート。衝撃的な内容とそしてスリリングな展開で読ませる漫画だけにもっと話が進んでからになっても良かったとは思うけれど、これだけ先を気にさせる漫画、そして世界観が凄いと思える漫画はそうはないんで推したし推されて当然か。あるいは「ちはやふる」と同様に一気の獲得といくか。でも東村アキコさん「東京タラレバ娘」とか強そうだし佐村広明さん「波よ聴いてくれ」も笑えて泣けるし強敵ぞろい。ジャンプ系ではジャンプ+から来た「ファイアパンチ」が描写もグロテスクで展開も凄まじい上に謎めく世界観が興味を誘う。やっと出てきた氷の魔女の正体は? とか。これも強敵かなあ。

 「黒執事 Book of Atlantic」を見た。リジーがいたいけで可愛かった。以上。いやそれだけではなくアクションがあって回想もあってピンチもあって解放もあるといった具合にしっかり1本の映画として楽しんで見られる作品になっていた。とはいっても枢やなの漫画と、そしてそれを元にしたアニメーションとしての「黒執事」をある程度は前提として頭に入れておく必要はあって、「女王の番犬」をになっていたファントムハイヴ家が虐殺を受けて伯爵と妻は死んで息子のシエルも死の危機に瀕したもののそこで悪魔のセバスチャン・ミカエリスと契約をして復活を遂げ伯爵家も再興。そして自ら「女王の番犬」となって玩具会社を経営するかたわら汚れ仕事も負っている、といった感じ。いつかセバスチャンに魂を差し出すその日まで。

 ってな前提がひとつあって父方の叔母にあたるフランシスが嫁いだミッドフォード侯爵家があってそこの娘にエリザベスという少女がいてシエルとは婚約者の関係にあって、そんなリジーが家族で豪華客船に乗り込むと、そこに何か調査のために乗り込んだシエルとセバスチャン、そして蛇を使うスネークもいたといった案配。喜ぶリジーはシエルと晩餐会とか楽しんでいたものの、シエルには仕事があってとある結社の集会に潜り込むと、そこで死んだはずの人体を復活させて動かす実験が行われていた。

 若くして死んだ少女を蘇らせる実験は見事に成功したかに見えたけれど、そこで少女は近くに居た母親を喰らい周囲にも毒牙を伸ばそうとする。そこに駆け込んできたメガネの男は実は死神で、動く死体となった少女の首を潰して動けなくして、因縁もありそうなセバスチャンともバトルを繰り広げた後で時間だからとどこかへ行く。そして起こった船倉に置かれた棺から死体が現れ動き出しては船員も乗客も喰らうとう事態。シエルを探していたリジーも巻き込まれそうになるものの、そこはセバスチャンの登場もあってどうにかしのいだと思ったら、別の船倉により大勢の死体が置かれていてそして動きだし、かくして豪華客船は殺戮の坩堝と化す。

 襲ってくるゾンビのような死体とのバトルがあり、そんな事態に増える人間の死体から抜け出る魂を駆りに来た死神たちとのバトルもあってと忙しいセバスチャン。そんな過程でリジーに迫る動く死体にシエルは怪我をして動けずセバスチャンも助けに行けない絶体絶命の状況でいったい何が起こったか。予告編にもあった絶望的なシーンの次に繰り出される展開にまずは驚こう。あとは意外な伏兵も潜んでいては、ラスボスとなって登場してあのセバスチャンの瀕死に近い状態まで追い込む展開にも。セバスチャンは無敵でシエルも主人公として死ぬはずがないからこその安心感もあった展開がちょっとグラつき、どこへ向かうか気になって目が離せない。

 意外な展開を何枚も重ねて最後まで引っ張る構成力があり、時折ギャグめいた展開も挟んで気分を緊張から解したりするゆとりもあって楽しい映画。シエルとセバスチャンとのなれ初めも語られ、リジーの少女時代から今までの成長も語られてとキャラクターに関する事情も知れて改めて「黒執事」という作品の全体像とは言わないものの、おおまかな概況を知ることができる。過去に放送されたテレビシリーズとの整合性とか、どうなっていたんだろうと思わないでもないけれど、あまり覚えてないから気にしない。いずれにしてもミッドフォード家最強。以上。これは絶対。

 何か目新しいものでもないかとのぞいた国際宝飾店で見かけたジュエリー絵画ってのが素晴らしかった。神戸にあるジュエリーカネミが作っているもので、手塚治虫さんや池田理代子さん、そして最近では高橋留美子さんの漫画やイラストレーションを元絵にして、そのカラーを全部宝石によって“塗って”いる。元絵の輪郭線を転写した上で、色の違う宝石を細かく砕いてそれを置いて色づけしているってものだけど、単色の部分はもちろんグラデーションになった部分とかも色は転写では出していないから、職人が経験と判断でもって色を変えている。それがちゃんと原作者のお眼鏡にかなう感じになっている。そこが凄い。あとは粒子のサイズを変えて描かれたものによって風合いを変えてみたり。値段は結構高いけど、陽に当たって焼けるようなことはなくそれこそ100年だって保つというからやっぱり凄い。何万円とかするジークレー版画も何十万円はするリトグラフも、色は変色するからなあ。それを思えばジュエリー絵画、コレクションに良いかも。でもやっぱり高いけど。

 ちょっと前に銀座にある広島県のアンテナショップで呉の酒蔵が作ってる「この世界の片隅に」のすずさんがラベルに登場するお酒を買って、東京スポーツ映画大賞か毎日映画コンクールかブルーリボン賞か日本アカデミー賞か何かとったら祝杯で栓を開けて飲むかと行ったら何と直後に毎日映画コンクールで日本映画優秀賞と大藤信郎賞をとり、そして東京スポーツ映画大賞で作品賞をとってしまった。これはいよいよ祝杯かもと思ったけれどせっかくなのでブルーリボン賞を待ってみるか。日本アカデミー賞はやっぱり「君の名は。」が強くてちょっと大変そうだし、独立系が取るのはなかなかないことだし。いっそ来年の米アカデミー賞あたりまで待ちたいけれど、それまでに北米で公開されてノミネートされるか分からないし。だからやっぱりブルーリボン賞を目安に。何か取ると思いたい。

 そんな「この世界の片隅に」は興行通信の週末観客動員数で1月21日と22日で7位に入って前週の8位からランクアップを果たした。公開11週目とう映画でそれも単館系のロードショー映画が今に至るまでランキングに残っていることが不思議なのに、そこは大きなシネコンに懸かり始めてそして賞レースでも検討していることから評判も高まり観に行く人が増えているってことなんだろう。それ以上に凄いのは「君の名は。」。2位から1位に上がっていた。「新宿スワン2」とか公開されたし「本能寺ホテル」だってまだ2週目だけれどそれを上回っての返り咲き。こちらもIMAXでの上映とか話題もありつつ賞レースでの“不遇”を気にして見直している人たちが出ているか、どうなのか。両作品のこれからにしばらく注目.


【1月22日】 テアトル新宿が「この世界の片隅に」を観ようとする人で連日満席となり、立ち見までで長蛇の列だってことも相当に話題になったけれども、決して大きくはない劇場だからすぐに満席になってしまうのもまた仕方が無いところ。単館系で他に都心部で上映されていなかった状況では、そこでしか観ることが出来ないと思いだれもがそこに駆けつけた。だから満杯になった。もう2カ月以上も昔の話だ。ところがご近所にある松竹の総本山ともいえる新宿ピカデリーで、「この世界の片隅に」の上映が始まってそいsて日曜日というかき入れ時のシアター1というもっとも大きなスクリーンが、午後の2回とも満席になるという快挙を成し遂げた。

 いったい何が起こっているかって、そりゃあ凄いことが起こっているんだけれどその凄さを過去に当てはめようとしてもおそらく例はないだろう。普通だったら単館系で2週間から1カ月公開されて、あとは全国の名画座でって言う流れになるものが、だんだんと上映館数を広げ都内にも丸の内にある東映の総本山での上映が決まってそれが1カ月以上も続いている。おまけに上映回数まで増えている。そして同じ新宿にあって客席数も多い新宿ピカデリーが公開に手を上げ、間近い封切り作品を差し置いて公開から2カ月経った作品をかける。それが満席になる。どちらも映画興行において異常な事態としか言いようがない。あるいは奇跡とも。

 それは最近になってテレビがこぞって「この世界の片隅に」について取り上げるようになったことが大きくて、あとはキネマ旬報のベストテンで1位になって片渕須直監督も受賞したこと、毎日映画コンクールでも日本映画優秀作品賞をとったことなんかが理由として挙がりそう。だから仮に公開直後に新宿ピカデリーのスクリーンで上映されていたとしても、あるいはバルト9でもTOHOシネマズ新宿でも良いけれど、大きなシネコンで上映されても口コミによるブーストが広がらず、テアトル新宿が連日満席だとか、泣く人が世代を超えて続出しているといった話しも広まらないままさっさと上映終了になっていた可能性がある。

 これが他の映画だったら、公開前にテレビなんかで取り上げられて、国民的と言われた女優が声優をつとめているって話で盛り上がってあるいはスタートダッシュをかけられて、並にのれていたかもしれないけれどそれがまったくなかったスタートで、公開規模だけ大きくても情報は行き渡らなかっただろう。小さいけれどもそこがしっかりと作品を上映し続け、作品の口コミが広がる時間を与えたからこそのムーブオーバー。その意味では上映当初を頑張ったテアトル新宿は素晴らしいし、他の封切りや初期の上映に手を上げた映画館も素晴らしい。クラウドファンディングの参加者は映画が世に出るまでを少しは支えたけれど、出た後は興行主の力もそこにあった。そういう繋がりが支えた映画って意味で、やっぱり歴史に残りそう。どこまで行くか。それが今は楽しみ。

 押井守監督の展覧会とか、加藤久仁生さんの展覧会を観に行った記憶があるから初めてではない八王子だけれど、そこにある映画館が間もなく閉館になってしまって、そんな映画館で見知った人が出ている上に現在的に重要な映画らしい「SHARING」が上映されていて、監督による舞台挨拶もあるってんではるばる遠征。途中、見かけた八王子ラーメンの店に入って食べたらこれがなかなかで、醤油系のスープに細麺が入ってタマネギもどっさりで、口にしっかりと染みつつそれでいてくどくない味わいだった。横浜家系とかとは違った感じ。というか八王子ラーメンっていうカテゴリーってそもそもあるんだろうか。また来たら他と食べ比べしてみよう。
 そして1月31日で閉館になってしまうニュー八王子シネマで篠崎誠監督の「SHARING」を観る。2011年3月11日のあの震災を語ることに資格はあるのか。そして語らずとも語れる方法はあるのか。いくつかの応えとして『シン・ゴジラ』があり『君の名は。』もあり、遠く離れた別の災厄としての太平洋戦争を語った『この世界の片隅に』もあった2016年だけれど、そんな話題作に混じってひっそりと、けれどもしっかりと上映されて今なお大勢の関心を引きつけているところに、もしかしたらこの映画が打ち出しているメッセージに響くところがあるのかもしれない。

 自分は2011年3月11日は東京にいて揺れる建物にいて机の上がぐちゃぐちゃになり、帰ったら家の中がぐちゃぐちゃになっていたけれど、それだけ。片付けて積み直してちょっとだけ電車が動かない不便は感じたけれど、数日後には普通に会社に行き、食べ寝て起きての繰り返しに戻った。テレビの向こう、雑誌の向こうで津波によって大勢が被災し命も失われ、東京電力福島第一原子力発電所が爆発して近隣の住民が避難を余儀なくされた。そうやって地元を離れた人、被災地から非難した人の少なくない人たちが直接ではない震災の影響で命を失い、あるいは命を断っている。そんなことをテレビや雑誌や新聞を通して知ってはいても、それで何か感情を揺さぶられはしても、それが誰かにとっての何かになるなんてことはない。極めてパーソナルな感情に過ぎない。

 そんな自分に、あるいはそんなような大勢の人たちにあの2011年3月11日の震災を語る資格はるのだろうか。語る意味を見出せるのだろうか。そんなの関係ない、感情が動かされたら、そして想像によって同情が出来たら、さらにはいずれ自分に降りかかるかも知れない未来だといった予想が自分を脅かすなら語って伝え、そして未来の災厄を回避することへと繋げれば良いといった考え方もできる。戦争を語るに戦争を経験していなくてはならないということはない。

 そもそも学んだ歴史学は遠い過去に起こった出来事を文献から、遺跡から考古して考え理解し教訓を得て今に伝え未来につなげる学問だ。ただ、誰の手も届かないそいうした過去ではなく、数年前、大勢が直接経験もして哀しみも得た震災を語ることはまた別なのではないか。それを勝たれる人がいるうちは自分の同情など何の意味も持たないのではないかといった葛藤も一方にはある。そんな迷う気持ちをまさしく物語にして映像にして見せてくれたのが、篠崎誠監督の「SHARING」だった。

 主人公と言えそうなのはふたり。ひとりは大学で社会心理学を教えている瑛子で、授業のかたわら2011年3月11日の震災発生以前に、災害なり事故を予見していた経験を持つ人たちにインタビューをしている。一方では冷静に、後になって得たさまざまな情報を自分の記憶と思い混んでしまって、そして自分自身が何も出来なかった歯がゆさとも合わさって予知をしていた、それを止められなかったといった意識になっているのだと考えている。ただ一方に、そういった罪悪感を自身も持っている節があるのだと後に見えてくる。

 瑛子は震災で恋人を失っていた。出張で宮城に行っていたらしい。そんな過去を引き摺りながら生きている瑛子にとって、もしかしたら予知した人たちのその言葉を、どこかで信じて伝えていれば彼を救えたのだといった後悔があるのかもしれない。それとも自分自身が予知をしていた? それはちょっと分からない。そんな雰囲気も醸し出されているけれど、どこまでが現実でどこまでが夢で、醒めてそしてまどろんでいるかが繰り返されて、まるで白昼夢の中で予知夢を見せられているような気にさせられるから。

 もうひとりのヒロインは大学生で演劇をしている薫で、卒業公演を控えて練習をしているけれどもそれが2011年3月11日の震災を演劇として演じること、その是非について薫を交えた3人が討論するような内容で、そしてそこでの男優の批判めいた見解が、やがて真実になって座は崩れて薫ひとりが取り残される。そんな薫は震災での被災者になって津波に流され波間を漂う身になる演技を繰り返し重ね考えているうちに、自分自身がそんな経験をした、あるいはそんな経験をした誰かが本当にいるかのような感覚にとらわれ夢に見る。

 真実に迫った夢に薫は瑛子にそれは真実か。それとも妄想か。学者の立場で妄想かもととらえる瑛子に真実だと反発する薫。とはいえ一方で真実かも知れない、過去につながる奇跡があって欲しいともその境遇から願う瑛子の分裂した心が彼女に涙を流させる。薫は演技をやりきって喝采を浴び、どこか憑き物が落ちたような表情。けれども電車に乗って彼女は観る。少女を。手に蝶の痣のある…。

 もしかしたらそれは願望が見せた妄想かもしれない。リアルな社会でシリアスを探求するなら、後悔と希望が見せた願望にも似たビジョンなのかもしれないけれど、そういった気持ちになってしまえるくらいに人は、2011年3月11日のことについて考え込むことができる。そういった態度をこうやって映画にすることによって、想像によって震災をイメージし、語り伝えることも可能なのではないか。そう思えてくるし、やっぱり違う、今はまだ直接の経験、直接の言葉にこそ重みがあると思うべきかといった問いかけも浮かぶ。どちらかではなく、どちらでも。いずれにしても記憶され、語られ受け継がれていくことにこそ、今は意味があるのだと思いたい。すべてが語られなくなり、ただ記録の中にだけ記されたものになってしまってから語りつつ、それをどう位置づけるかの困難さもまた歴史が証明しているのだから。

 そんな映画の公開後に篠崎誠監督と、薫を演じた樋井明日香さんが登壇してトークを繰り広げ、最後に地下場面で電車の中で薫が手に蝶の痣がある少女と出会うシーンはシートの色が同じ電車を待って何時間もホームで過ごしたって話をしてくれた。大変だったそうだけれど少女を演じた新津ちせちゃんはずっと集中力を保っていたと褒めていた。偉いなあ。そのシーンで役柄では少女の叔母さんにあたる女性が驚いていたのは薫が震災で娘を置いて流され亡くなった姪に生き写しだったから? なんて解釈をしたけど本当はどうだろう。そんな解釈を確認するためにもまた観たいなあ。閉館前にもう1度くらいニュー八王子シネマで観てこようかなあ。


【1月21日】 着座で畏まっている客席を前にいきなり前置きもなくフリージャズをぶっ放して、かちんこちんとした雰囲気をなかなか崩せずどこか舞台と客席との間に温度差も見えた「機動戦士ガンダム サンダーボルト」のサウンドを演奏する菊地成孔さんのライブだったけれど、どんな相手でも腕でねじ伏せるジャズプレーヤーたちの熱が次第に解かし始めたか、あるいはトークを挟んで客席との間にあった壁も解けたか終幕に向けてだんだんと盛り上がっていった感もあった。ただやっぱりビルボードとかブルーノートといった場所で、雰囲気も含めて聴きたかったなあという気分。前にあったそうだけれど第2シーズンも始まるそうで、それの楽曲もまとめて演奏するライブが開かれたら、今度こそチェックして観に行こう。

 何でも第2シーズンではピアニストに桑原あいさんという、ポスト上原ひろみさんとも言われる目下大注目の若手ジャズピアニストが弾いているそうで第1シーズンの大西順子さんに続く話題性抜群の起用にこれはもう1枚のジャズアルバムとして聴くべきサウンドトラックになっているのかもしれないと思ったり。というかまだ第1シーズンのを買ってなかったんで改めて聞き直すか、ブルーレイディスクは持っているんだけれど。ちなみにライブでピアノを弾いていたスガダイローさんもバークリーを出て上原ひろみさんと同期で渋さ知らズとかでも弾いていた凄い人。「戦闘中(激戦状態)用」での演奏とかもう右に左に指を動かし奏で叩くような演奏が、菊地さんのサックスと真っ向ぶつかり迫力のサウンドを作りだしていた。いずれMTVで放送されるみたいなんで見逃すな。これはカットされないよねえ。

 そんなライブを観に行った一方で、新宿ピカデリーのスクリーン1という、600席近くある箱で「マイマイ新子と千年の魔法」が上映されるという快挙には、音楽を担当した村井秀清さんとスキャットワークで魅了したMinako“Mooki”Obataさんも登壇したとか。思えば7年とか昔に公開された時は上の方の箱でそんなに大きくはなく、そして「機動戦士ガンダム サンダーボルト」のフリージャズにも増して不思議きわまりないスキャットという音楽で映画の素朴な日本の風景に明るさをリズムを与えてくれた人たちも、それほど注目はされていなかった。サントラCDも出るには出たけど、あれはクレセントスタジオという音楽を作った会社のほとんど自主制作盤に近いもの。サイン入り色紙がもらえるってんでオンラインショップで注文したら、翌日には届いたという速さから大量の注文をさばくような雰囲気にはなっていないことが窺えた。

 つまりは映画の方と同様に、売れてなかったか、売れそうにもなかった音楽だけれど、それがこうして7年を経て「この世界の片隅に」という映画の大ヒットもあって「マイマイ新子と千年の魔法」という映画とともに省みられて、音楽への関心も高まり始めている。そんな状況で今、ふたたびこうやって映画館で音楽を聴いてもらえる村井さん、Mookiさんの喜びやいかに。映画公開当時に渋谷のタワーレコードとか、東京ミッドタウンのデジタル関連グッズ販売店とかでイベントが開かれMacBookを駆使してスキャットを重ねていくMookiさんの作業とかを観たり、音楽を聴いたりして過ごしたっけ。でも取材に来ていたようなメディアはほとんど皆無。もしも今、ライブを開けばきっと大勢が観に行くだろう。やってくれないかなあ。「この世界の片隅に」のコトリンゴさんも一緒にだったらなお良いかも。そしてトリはNELLさんの「Red fraction」。活動を休止しているけれど、片渕須直音楽祭を機会に復帰とか、あったら嬉しいなあ。Mookiさんの双子のスキャットも一緒に。

 そんな間にドナルド・トランプがアメリカ合衆国の第45代大統領に就任したとかで、演説なんかも流れて来たけど、内向きに景気の良いことは言ってはいても具体的にどするか、ってあたりでやっぱり蹴躓きそう。国内で製造業を振興しても人件費が高く技術だって伴わず、コストだけ高くて品質も揃わない製品が出てきては高値で販売され、高い人件費の恩恵がまだ届かない大半の国民の誰もそれを買えないまま在庫ばかりが積み上がるという悪循環に陥りそう。かといって人件費を抑えれば今度は消費に回らない。そうしたバランスは一朝一夕では整わない。にも関わらず仕事はある、給料は上がるといった耳に聞こえの良い部分だけ訴え世間から支持を集めて大統領選に当選できたトランプは、実行の段階でさてどうしたものかと思いそう。

 でも言ったことはやってしまって消費はガタガタに。税収は下がり教育も福祉も公共事業も全部がパーになるという悪夢を、見ないためにどう経済顧問が舵取りをするかってところが今後の注目点になるんだろうなあ。TPP離脱は結構だけれど国内だけですべてをまかなえる国にはもう、なれなんいだよアメリカも。とか言って日本だって、口ばかり達者な総理大臣がいて、あれもやるこれもやると言いながら「それは嘘だ」がおまけにつくのが普通なくらいに有言不実行な状況が続いている。やってガタガタになる以前にガタガタを直そうとそもないんだからこちらも問題。でも世間受けする部分でだけ、威勢の良いことを言って支持を集めているから厄介きわまりない。トランプ大統領の威勢の良さにも感化され、同じような煽り上等のスタンスで政権運営をしていった挙げ句に共倒れとなって、そして厳しいけれどもやることはやるロシアと中国が世界を席巻、なんて未来も見えていろいろ大変そう。どうなるかなあ、世界。

 御殿山にあった時代に何度か言ってからどれくらいの年月が経ったんだろう。ソニーネットワークコミュニケーションズすなわちSo−netが今は品川シーサイドにあってそこで八谷和彦さんが所属するペットワークスが目下制作中の「PostPet VR」を体験する機会が持たれたんで金曜日にのぞきにいったらこれがなかなか良い物だった。すでに記者発表でどんな内容かは聞いていたけれども聞くとやるとでは大違い。VRヘッドマウントディスプレーを装着して見ると目の前にモモがいる。大きさはだいたい60センチくらいでこっちがしゃがむと目の高さくらいになってじっと見てくる。

 右手に追随する形になっているようで、コントローラーを持った右手を動かすとそっちを向いたりするし、離れて振ると近寄ってくる。現実の犬や猫でも可愛いのにそれがモモ。可愛くないはずがない。仮想の空間でそうしたキャラクターを愛でるって意味なら「サマーレッスン」も同様だけれど、モモっていう決してリアルではないひとつのアイコンとして存在したキャラクターがいること、それがかつて「PostPet」という電子メールソフトの上で自分の分身のように、あるいは友だちそてい存在していた思い出が、親近感を超えた愛着ってものをそこに生まれさせる。たぶんドラえもんでも同じような気分を味わうのかなあ。

 ただしモモの場合は「PostPet」というコミュニケーションの媒介になるキャラクターで、VRでもネットワークを使って自分が移動するような仕組みをこれから入れていくらしい。スマートフォンにインストールされた「PostPet」に自分がVR空間から飛んでいくとか、そこで相手がスマホを取り出し撫でると自分が撫でられている感覚を味わうとか。電子の妖精さんにもなれるし、電子の盗人にもなれる。そこにダイレクトな言葉のやりとり、あるいはLINEのような短文のぶつけ合いとも違うコミュニケーションが生まれる。キャラクターや世界を介したコミュニケーションの面白さの、次のフェーズを見せる作品。早く登場しないかなあ。

 埼玉県の戸田から始まるきゃりーぱみゅぱみゅのホールツアー初日を観る。これからの人のために詳細は明かさないけど割と聞き慣れた曲も在り最近の曲もあってそして「原宿いやほい」もあってとバリエーションに富んで楽しめる。繋ぐMCは適度であとは楽曲がみっしり。ダンサーはキャップにハットにぬいぐるみにハイヒールを全身に着けたり、カクテルのタワーを前に置いて踊るという無茶をあっさりやってのける巧みさで、スピーディーに迫力たっぷりのダンスを見せてくれた。やっぱり本物は足の筋肉がちゃんと張っててステップにキレがある。これがCGのダンスになるとやっぱり浮いてすべっている感じがしてカツッとしたキレが減じてしまうんだよなあ、ダンスを売りにしていたアニメーション映画とかもそうだった。足音をSEで入れるだけで印象も変わると思うんだけれど……。それはともあれきゃりーぱみゅぱみゅの今ツアーは面白い。今度はNHKホール、最終だからきっと熟成されたステージを見せてくれるだろう。期待して待とう。


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