縮刷版2017年12月中旬号


【12月20日】 安室奈美恵さんが出場すると決まり審査員も名前があがってNHK紅白歌合戦は放送に向けた準備が着々と進んでいそうだけれど、そこに「どうぶつビスケッツ×PPP」が出場するって話はまだ聞こえて来ないから、やっぱり相当なサプライズとして準備されているんだろうと思って良いのか悪いのか。「シン・ゴジラ」とのコラボだって発表されてないのにむちゃくちゃハマっていたからあるいは突然のコーナーで楽屋リポートとか寸劇とか幕間とかに「すっごーい!」の声とともにフレンズたちの乱入なんかがあったりしたら面白いなあ。そしてNHKが「けものフレンズ」の再放送を行うことになったらさらに。それはさすがにないかなあ、アニメーションが有名になることをもう徹底して排除しているような節があるし、印象として、直感として。なんでだろう。

 いったい誰が担当するんだろうか、やっぱり秋元康さんだろうかといった憶測も飛んでいた2020年の東京オリンピックの開会式なんかの演出に、映画監督の山崎貴さんが挙がったといった報。なるほど今の映画業界でコンスタントにヒット作を生み出している映像クリエイターではあって、選出されて不思議はないもののフィルムの中に幻想と虚構のビジョンを作り出すことに長けた映像系のクリエイターが、リアルな開会式といった場面を演出し切れるのかといった懐疑も少し浮かんでしまう。1998年の長野オリンピックの時は総合演出を劇団四季の浅利慶太さんが手掛けた。浅利さんは舞台の人だからリアルな開会式にはうってつけの人選だった、その内容はともかく。

 山崎さんはCGクリエイターとしてモニターの中、スクリーンの上に幻想と虚構のビジョンを生成することでは国内でも有数。でもやっぱりリアルな舞台となるとその力量は未知数で、いろいろと言葉も浴びていきそう。まあでも2008年の北京オリンピックで開会式を担当したのは映画監督のチャン・イーモウさんだったりした訳で、臨むビジョンさえ提示できればそれをリアルな舞台へと転じて映し出すチームが集まり空間を山崎さんならではの幻想と虚構のビジョンへと変えてしまうだろうと思いたい。そこに佐藤嗣麻子さんも加わりダークで淫靡で絢爛とした演出になるんだけれど。血しぶきが飛ぶような。それはやっぱりさすがに無理か。

 声優の大木民夫さんが亡くなられたとの報。押井守監督による長編アニメーション映画「GHOST IN TheSHELL/攻殻機動隊」で荒牧大輔の声を演じたことがやっぱり世間的には知られているようだけれど、個人的には「灰羽連盟」で長老めいた話師の声を演じたことがやっぱり強く印象に残っている。物語の中での役割と風貌が、その声にとってもマッチして聞こえたからなのかおしれない、理知的で包容力があって厳格でもあって。そんな古老といった声を演じられる方だった。たぶん今の時点でも。そういった唯一無二の声優さんたちがお歳でどんどんと亡くなられていくのが少し寂しい。存命なのはミスターXにしてキング・ブラッドレイの柴田秀勝さんとかニャロメの大竹宏さん、そして2代目バカボンのパパの富田耕生さんといったあたりか、聞けばすぐに分かるその声をまだしばらくは聞かせて頂きたいと思いつつ、改めて大木民夫さんへの感謝を述べよう。ありがとうございました。

 辛口で知られる東京新聞(中日新聞)夕刊のコラム「大波小波」が不思議と褒めていたから、SEKAI NO OWARIでピアノなんかを弾いている藤崎彩織さんが書いた小説「ふたご」が第158回直木賞にノミネートされていても徹底的におかしいという気はしなかったけれど、そこでも次により期待とかいった言い方をされていたことから考えるに、まだ早いにもかかわらずデビュー作で直木賞にノミネートされたのは今後いろいろと議論を呼びそう。たり得るのか、たり得ないのか等々。まあそこは読んでみて考えようと買ってみたけど読む時間はあるかな。ほかでは彩瀬まるさんが「くちなし」でノミネート。よく聞く名前だけにありそう。ほかは門井慶喜さん「銀河鉄道の父」かなあ。

 芥川賞の方はもうさっぱり。唯一として宮内悠介さんが「ディレイ・エフェクト」で挙がっているけど掲載誌が「たべるのがおそい」って日本ファンタジーノベル大賞を受賞したこともある西崎憲さんが編集をやっていて書肆侃侃房ってところから刊行されている文学ムックってあたりがちょっと異色。でも木下古栗さんとか町田康さんの小説が載ってたりするから中身としては文芸誌級。そうしたところに書いてそして選ばれるといった現象は、ネット小説が発行されてベストセラーになるのとはまた違った、現代ならではの文芸のあり方なのかもしれない。受賞したら面白いよなあ、でも宮内悠介さんには直木賞を取ってエンターテインメントの人でもあるんだと見せつけてほしいからちょっと迷う。ほかはやっぱり前田司カさんか、「愛が挟み撃ち」。どんな小説だろう。ちょっと気になる。

 のんちゃんだのんちゃんだ、「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」の大ヒット記念トークイベントがあって「映画秘宝」でクボのコスプレ姿を披露してくれたのんちゃんが登場するとあって見物に。普通にチケットを買おうとも思ったけれど仕事として入ったのでそれでのぞいてきたのだった。ユニークなのはクボという人形のフォルムにとことんまで近づこうとしていたことで、人形なんで足がとても細く出来ているのに近づこうと頑張っそうだけれど人間だもの、あそこまで細くはならないし、髪型だって束が垂れ下がる科にjにはならないけれど、そこを衣装やメイクでもって近づけていったからこそ、「映画秘宝」2018年1月号でのあのそっくりコスプレになった。偉いなあ。

 というか別に今ほど口コミでもって「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」が人気になるのを見越していた訳ではなく、映画公開時期から考えるにほとんど知名度がない中をどうやったらヒットするんだろうか、それよりどれだけの劇場で公開されるんだろうかといった不安もいっぱいあった時期に企画も行われたんだろう。けれどもそうしたマイナーな映画を選び、劇団☆新感線のパンフレットなんかも見ながら和テイストの雰囲気を出そうとしつつ、けれども新感線とは違う「KUBO」の雰囲気を保つために兼ね合いなんかを考えたという。

 そうやって頑張った結果もあって、こうして大ヒット記念上映が公開から1カ月も経って行われ、なお続映といった感じ。のんさんが主演をした「この世界の片隅に」にも似た現象が起こっている。やっぱりのんさんは女神様なんだ。でもそうした活躍をネットメディアは報じてもスポーツ新聞とかはだいたいスルーで、そして在京キー局は完全無視を決め込んでいるところにこの国の闇なんかも見えてくる。本当に不思議。まあでもそうした仕打ちを気にしないくらいに仕事で溢れていて、当人としてもやりたいことをやれているって感じ。抜け出たからこそ得られた自由で伸びやかなポジションをこれからも最大限に生かして、最高ののんさんを見せてくれたらそれだけでファンは大喜びだろう。次はムキムキなコスプレに挑戦したいとか。何を演じるのかなあ。どんな感じになるかなあ。ちょっと楽しみ。


【12月19日】 身内や知人の不幸とは無縁の暮らしを続けてきた身には、家族や友人が不幸と呼ばれる事態に遭って覚える感情をなかなか理解しづらいけれど、想像すると心情はやはり厳しく、諦観の一方で傷心も引きずり上へ下へと行き来するのだろう。と、小嶋陽太郎さんの「悲しい話は終わりにしよう」(KADOKAWA)を読んでまず思った。長野県の松本市に育ちそのまま地元の高校から地元の信州大学に進んで自宅から自転車で通う市川は、入学して広崎という男子と知り合い吉岡という女子とも知り合う。

 とくにサークル活動を始める訳でもなかった市川は、東京出身の広崎のアパートで漫画を読みビールを飲んでいた日々。やがて広崎はフォークソングをはじめライブを行うようになっていき、市川は免許を取ったり在庫をカウントするアルバイトにいそしむようになる。女子の吉岡は快活で明朗で、市川と広崎と会えば話し飲みもするけど、いずれとも恋仲にはまだならない。けれども少しずつ惹かれたり惹かれられたりする関係になっていき、若者にありがちなトライアングルの形成と崩壊が感じられる。

 そんな市川のパートとは別に、物語では佐野というパートが繰り返し綴られていく。そこでは中学生の佐野が印刷機を売っていた父親に自殺されつつも、鬱屈はせずに日々を過ごす中で奥村という同級生と仲良くなり、彼がひとり続ける放課後勉強倶楽部で集い、語らうようになる。これもちょっとませた中学生の日々だけれど、奥村には母親が事故死した過去があった。もうひとり、沖田という少女も加えた佐野のパートは両親がそろって会社員なり公務員なり自営業なりの家に生まれ育った子供たちといった定型ではない、だからといって異色とはいえない境遇に生きる少年や少女の日々が描かれる。その日々が次第に壊れていく。

 一方の市川のパートも思い思われる複雑な関係が市川の心情を揺らし広崎の決断を促す。吉岡は抱えていた揺らぎに苛まれて関係が壊れかける。そこに佐野のパートが至った道が重なるのか、それとも。そして無関係に見える2つのパートが1つにつながり、道が開ける。経験のない身に佐野の苦しみ、奥村の葛藤は感じづらいし、市川のような青春の迷いも記憶の彼方に忘れられている。それでも小連ねられた2つの時間軸の物語から、逃げず立ち向かえば良かったと知り、だから逃げずに立ち向かったのだと知れる。傷ついたのだからまた傷ついたって平気なはずなどないし、傷つけたって良いということもない。振り返りかみしめて立ち上がり、迷っても失敗してもその都度に改めて這ってでも前へ進め。その言葉が実録か虚構かは分からないけど、小嶋陽太郎の「悲しい話は終わりにしよう」は確実に迷う心を何処へと導く。何処かへと。

 「政府はアニメや映画のPR作品の制作にかかる費用の半分以上を補助する制度を新たに設ける。国内の映画祭などで一定の評価を受けたクリエイターに対しては、海外のコンテストに参加して上映するための費用の半分を補助する」それをするのがクールジャパン機構の仕事じゃないのかねぇ? とカリオストロ伯爵だったら良いそうだなあと思った政府によるコンテンツの海外展開に関する支援策。もちろん日本の映像作品が海外に売れるためにPRの映像を作り流して見てもらう必要はあるけれど、このネット時代にディストリビューションの壁ってのは空間的にも時間的にもどんどんと縮まりつつあって、あとはだから言葉のローカライズであり映像的な現地化の費用が問題になるのであってそこをどうにかするかと思ったらそうでもない。

 でもって日本で賞をとったら海外に出していくって日本より先に海外の賞に出す作品はどうするんだといったところ。最初に見せろって映画祭だってあるだろうに日本で見せたら持ってけないじゃん。あといくら海外で賞ばりばり取ったってそれが日本での制作活動支援につながらないことが問題な訳であて山村浩二さんとか和田淳さんとかもう大変そう。そういった世界的な作家への支援をこそ先にすべきなんじゃないかと思ったけれどきっと違うところから違う財布へお金を入れて欲しいって話があったんだろうなあ。商社的なところとか。それでもないよりはましだと思ってこれから世界に羽ばたく才能と作品がここから出てくることを祈りたい。

 なんというか。河野太郎外相がよく海外に行くこともあって専用機があったら便利だねって話をしたら、それを拾って安倍総理におねだりしただなんて見出しを添えて記事を書いた新聞があって、それに対して河野外相が「『おねだり』などという、ふざけた言葉をメディアが報道に使うのは、私にはちょっと信じられない」と批判したといった記事が載っていたけれど、それが当該の「おねだり」だなんて言葉を使っていた新聞のサイト。ウエブによくあるアクセスを稼ぐための釣りとして見出しだったら下品な言葉があっても不思議はないとはいえ、それでも下品なことには変わりがない上に記事では本文にも「おねだり」だなんて使ってあったから河野外相も怒って当然といったところだろう。そうした反論を拾って記事にして一時サイトのトップに掲げて釣るという姿勢がまた根性入りまくっていて腰が砕ける。そうまでせんとあかんのやろか、あかんのやろなってことで。やれやれ。

 テレビアニメーションの「UQ HOLDER!〜魔法先生ネギま!2〜」は第12話でもってとりあえず放送は終わりってことになるのかな、原作の漫画は読んでないけれども「ネギま!」から3年A組の面々が出てきては喋ったり脱いだりしていて前のを観ていた人には懐かしさも漂っただろうけれど、声がところどころ不安定だったのはやっぱりいきなり引っ張り出されたからか違うのか。それも分からないけれどもいわゆる不死者のナバーズたちが束になってもかなわない相手を刀太の記憶の中にいる面々が戦って退けたってことでこれじゃあ不死者いらないじゃんってならないかが心配。闘技場にいなかった面々とかどんな能力持ちか分からないまま終わってしまう訳だし。そのあたりはやっぱり第2期を意識しているってことなのかな。大人の雪姫とかエロさ抜群だし未分化の九郎丸も魅力的だしそのあたり、登場する第2期があれば見たいかな。

 3回目くらいとなる「ガールズ&パンツァー最終章」第1話はやっぱりアヒルさんチームの磯辺キャプテンが八九式中戦車の上で、止まる戦車に釣られて腕を前に伸ばした恰好で体が前倒しになるシーンと、そしてBC自由学園の隊長のマリーがこちらは逆に発信する戦車の上で後ろに体をのけぞらせるシーンが大好きで、物体の移動と人体の重さといったものがそこにしっかりと描かれていることに感心してしまうしなにより可愛らしい。作り手もきっとそうしたリアクションを意識して2つの動きを入れたんだろう。第2話でもそんな微妙だけれどもキュンと来る動きがあることを期待したい。あとはオープニングに出てくる西住まほが家で飼ってて劇場版で連れ歩いていた犬が本編にも出てくるか、か。無駄はしないはずだからきっと出てくると思いたい、黒森峰チームの隊長とかで、やっぱりエリカでは不安だからとまほが指名して。あり得るかなあ。なくてもエリカならまほの犬ならと下につきそうだなあ。


【12月18日】 余命3カ月どころか来年になったら大林宣彦監督、新作映画の撮影に入るそうで今度は「花筐/HANAGATAMI」と同じ九州でも熊本を舞台にして、熊本在住のSF作家、梶尾真治さんによる「つばき、時跳び」を映画化するというからSFファン的にはヒャッハーといったところ。過去に梶尾さんの作品では「黄泉がえり」が映画化され「この胸いっぱいの愛を」も映画になっているけれど、大林宣彦監督という異才を得たことで時空を超えた物語はいったいどれだけの輝きときらめきを放つものになるのか。80歳近い人間が作ったとは思えない瑞々しさに溢れていた「花筐/HANAGATAMI」を観るにつけ、新作への期待もふくらむばかり。あとは無事、撮り終えて公開されその舞台挨拶に来られること。祈ろう。そして信じよう。

 アニメーション版「血界戦線」の第1期に登場したブラック&ホワイトが久々に登場した「血界戦線&BEYOND」は、単行本では第1期の最終刊にあたるミシェーラと婚約者のトビー・マクラクランにとりついたDr.ガミモヅを相手にした戦いの前半が繰り広げられて明るくて聡明なミシェーラとどこまでもいい人そうなトビーに向かってへたれっぽさが漂うレオが可哀想に見えてくる。でもその能力があってこそライブラはブラッドブリードこと吸血鬼の一族の真名を突き止め封印できるし、ほかヘルサレムズ・ロッドが崩壊しそうな事件も幾つも解決できた。まさにヒーローだ。

 たとえそれが妹の目を犠牲にして得られた「神々の義眼」のおかげであっても、それを使いこなせる意志を持ったレオはやっぱり強靭で、だからこそ世界の救世主たりえるのかもしれない、ライブラのほかの誰よりも、クラウスですら及ばない。あの堕落王フェムトですら助けたものなあ。だからせめていい連れ合いに巡り会って欲しいけれど、そんな相手はいないものなあ、ライブラには。医師のルシアナ? 偏執王アリギュラ? やっぱりビビアンがお似合いか、あのヘルサレムズ・ロッドでずっとハンバーガー屋を営み続けていられるだけに、案外に凄い能力を秘めていたりするのかも。

 新海誠監督の「秒速5センチメートル」に登場する遠野貴樹と篠原明里の間に、もしも月ロケットという共通の興味があったらどんな展開となっただろう。七瀬夏扉さんの「ひとりぼっちのソユーズ」(富士見L文庫)を読んで浮かんだのはそんな想像。母はロシア人で父はJAXAに務めているユーリアという少女は、ロシアの血を引いているからかアポロ計画のサターンではなく旧ソ連から受け継がれているソユーズロケットで月に行くことを夢見てる。近所に暮らしてユーリアと知り合った僕はそんな彼女に感化されていく。

 あまり外に出たがらず、体も強くはないユーリアによって僕は周辺を回りながら情報を集めて伝えるスプートニクと名付けられ、時に部屋にこもって共に宇宙について語り合うような子供時代を送る。やがて小学校にあがってもユーリアは日本人としての名ではなくユーリアと言い続けるものの、やがて高学年になるに連れてお互いの意識にズレが生まれ始める。僕は駆けっこで金メダルをとり、これが月だよと言ってユーリアにあげたかったけど、彼女は僕が自分から離れていくと思ったみたいで文句を言い、そこから口げんかが始まって行き来が途絶えたまま中学校へと上がる。

 そこでも口をきかなかった2人だけれど、高校に行く時にユーリアは父親についてロケットの発射場がある種子島に行くことになる。アニメ「秒速5センチメートル」では貴樹が移り住んだ島で、そこで彼はサーフィンをする少女と知り合い、遠く離れて暮らす明里とは縁遠くなっていって、それでも忘れられず種子島を振り切って戻った東京で再会することなく時間を過ごしてひとりで沈む。対して「ひとりぼっちのソユーズ」で僕はユーリとメールを交わし始め、そして種子島へと行ってユーリアとの再会も果たす。積極的で前向き。それはやっぱりロケットという共通の話題がずっとあったからなんだろう。

 もっともユーリアは体が弱く、自分が本当にやりたかったロケットに乗って月へと向かうことはできそうにない。それどころか……。そんなユーリアに変わって僕は自分が宇宙飛行士になって月へとユーリアを連れて行くと決意する。短距離は向かない長距離が似合うと高校の陸上部で綺麗な先輩に誘われても曲げず、金メダルをとりたかった100メートル走にこだわりつづけ、そして宇宙飛行士をめざし続ける。そんな一途さにキュンとなるストーリー。すべてはハッピーエンドではないけれど、僕は前を向き続ける。

 タイトルには「ひとりぼっち」とあるけれど、ユーリアも僕も決してひとりぼっちではない。支え支えられて目指した38万キロの彼方の地できっと巡り会うことだろう。そうあって欲しいしそうあるべきだといった思いにとらわれる。カクヨムで連載されたストーリーからその第1部を抜き出し加筆したということは、残る第2部と第3部にはまた違ったストーリーが描かれているということ。それは僕とユーリアの話なのか、それとも別の誰かのストーリーなのかは読んでいない今は不明。ただこうして第1部が加筆されて出てきたなら、続きもきっと文庫として加筆され構成されて出てくると信じて刊行を待とう。まさかラストは桜散る踏切で「One more time,One more chance」が流れるなんてこと、ないよね?

 まあしゃあなしだ、日本SF大賞の候補昨選びに投票する権利を持っている人たちが、ありとあらゆるジャンルをまんべんなく読み、あるいは観た上でこれだといったものを選び上げることが可能って訳ではなく、自分の観測できる範囲において認識されたものからよりSFらしいものを選んで挙げるのが通常で、そうした結果として第38回日本SF大賞の最終候補作品として「けものフレンズ」が入らず、小川哲さん「ゲームの王国」、藤井太洋さん「公正的戦闘規範」、飛浩驍ウん「自生の夢」、荒巻義雄さん「もはや宇宙は迷宮のおゆに」、そして柞刈湯葉さん「横浜駅SF」が入ってもとくに不思議はない。

 不思議はないけれどもだったらより広く知見を募りたいと、一般からエントリーを募っているのはなぜって気にならないでもない。半ば冗談だったかもしれないけれども設定として深いものがあったからこそ「けものフレンズ」をSFとして推す人がいた訳で、一般エントリーでは最多得票を集めながらも本選には上がれず論議の対象にされないのは、やっぱりちょっと寂しい気がする。まあそれでも日本SF作家クラブが選んで与える賞ならその範囲においてSFだったと認めることがこの場合は正しいんだろう。僕は僕で僕SF大賞として「けものフレンズ」と「ID−0」を強く候補に推して共に賞を与えるつもり。受け取ってもらえるかは知らないしあげるトロフィーもないけれどそこは気持ちで。「ID−0」のBDそろそろ買おうかな。


【12月17日】 録り溜てあった「Just Because!」を3話分くらい一気に観て、小宮恵那が夏目美緒に泉瑛太をデートに誘って良いかを訪ねて「ダメ」と言われながらも写真の応募をOKしてくれたお礼とか何とか言って誘って行った先で、瑛太がスマホで録った恵那の画像をそのまま瑛太の待ち受け画像にしてしまったことがもたらすハプニングとか、張られた伏線とその影響でもって揺れる美緒の心情とか恵那の罪悪感とかが滲んできて、キュンキュンとしながら眺めてしまった。

 でもってそれにバレンタインデーが絡んで手作りのチョコレートとか作ったもののすれ違いとか鉢合わせとか誤解とかが諸々あって結局瑛太に美緒も恵那もチョコレートを私そびれるといった展開に、何て罪作りな野郎なんだと瑛太への憤りを抱く一方で、そうしたすれ違いを自然な流れの中に乗せてみせる鴨志田一さんによるシナリオワークの巧みさか、あるいは演出の巧さって奴を感じたりもする。こうまで観ていて緊張感を得られるラブストーリーってついぞなかった。このリアリティとそしてサプライズの連続なら実写ドラマでだってやって楽しめるかもしれない。下手に役者とかいじらなければ。

 そんな美緒と瑛太とあと恵那の関係がぎくしゃくとする中で、森川葉月と相馬晴斗との関係はうまくいっているようで断れてしまったようで、それはけれども感覚を置いて気持ちがしっかりとしたものか確かめようとする提案であって、そこさえ乗り切ればあるいはハッピーな日々が待っているかもしれないと期待させる。遠距離の恋愛は厳しいけれども続けばきっと。相馬は大丈夫だろうなあ。あるいは森川さんもあれでまじめだから思いは貫くか。残るはいよいよ受験。ここにも待ち受けるサプライズ? あるいはすれ違い? その果てにくるエンディングの気色に今から気持ちを向けて待ちたい。ハッピーだろうか。ハッピーだと良いな。

 かずきふみさんという主にゲームのシナリオで活躍しているらしい人の「機巧銃と魔導書(グリモワール)」(GA文庫)が鋭かった。各所から転生してくる世界があって地球人類だと異能が発動するらしく、自分の姿を消せる力を得たタナカはダンジョン潜りでモンスターに見つからずマップを書き換えお宝をゲットする活躍ぶりで稼ぎつつ、趣味に走ってのぞきもやって更衣室で美女のパンツを手に取り口へと入れていたら、そこに踏み込んで来たのがクラウ・ソラスという集団のメンバーだった。

 哀れ捕縛され異能を使えなくされパンツが老女のものだと聞かされたタナカは改心してクラウ・ソラスのメンバーへ……とはならずそこでタナカは本編から退場。そして主役は日本からその世界へと来たらしい両親から生まれたキョウヤという少年が引き継ぎ、その世界で生まれ育ったフィヨルという魔導書を読む力を持った少女とともに異能がらみの事件を扱うクラウ・ソラスの仲間と活動していく。そして2人の女性が殺害された事件に挑むキョウヤらクラウ・ソラスだったがなぜか事件そのものがなくなりキョウヤの記憶からも消えていた。

 もっともただフィヨルだけは魔導書に書かれたことをすべて知る能力があって、書き換えられる前と後の出来事をすべて覚えていられたことで、何かが起こっていると感じ取り、それをクラウ・ソラスに告げて誰が何を狙って起こしていることなのかを探り始める。繰り返される殺人とそしてリセットに誰が狙われていて、誰がリセットしているかを追いかける、それも推理からの探索だけれど、その先に別の事件が浮かびその真相で恐るべき事実が浮かぶ。それはキョウヤの出自と交友に深く関わるものだった。

 ハッピーエンドが常套のライトノベルジャンルにあって、とても苦く悲しい展開があって慟哭に悶えそうになる。幸せの絶頂にあって断たれる思いへの同情に涙する。悔しかっただろうなあ。それを思った残された者の思いも含めて浮かぶ憤りが、これから起こるだろう戦いの中で力になって、断罪を成し遂げると思いたい。とはいえ敵は強大そう災厄の30人といった言葉から続く因縁の闘争にキョウヤはどう挑み、そこにフィヨルはどう挑む? 最高の物語が幕を開けた。あとは続いてとお願い。それだけがライトノベルで1番不安なところだから。

 新聞で報じて問題があるように見せかけ政治家が受けて役所を締め上げお説後もっともと絞るマッチポンプ的スパイラル。学問の自由に手を突っ込み考えるだけで非国民扱いする道筋がマジ作られようとしていることにガクガクブルブル。徴用工をめぐって韓国側の主張に同調する研究者らに、文部科学省が助成金を交付していたって話を伝えた新聞を読んで「(自民)党文部科学部会は14日、文科省幹部を呼び説明を受けた。珍しく迅速な動きを見せたが今後も激化する歴史戦に対応できるかは見通せない」って話。つまりは気に入らない言論があったら親派の政治家に告げ口してお灸を据えて潰そうってスタンスにとられかねないマッチポンプのスパイラルを、言論機関が堂々とやってしまっているところがどうにも恐ろしい。いつか自分に返ってくるとは思わないんだろうか。思わないから歴史戦だなんて国内向けのマウント取りを繰り返し続けられるんだろうなあ、海外ではまるで相手にされてないにも関わらず。やれやれだ。

 ガンプラを作ったのは1980年に最初のガンプラが発売されたころと、あとは東京に出てきて暇だったお正月、まだ部屋の床が見えたころにマーク2のMGを買ってきて3日がかりで作った時くらいなんで、詳しいとはいえないんだけれどそれでも世界のガンプラビルダーにとって夢舞台であることくらいは感じられる「ガンプラビルダーズワールドカップ(GBWC)2017」の世界大会決勝戦表彰式があったんでお台場へ。9月に立った「機動戦士ガンダムUC」の立像を初めて間近に観て脚が長いなあと思ったけれど、それでもヒョロッとはしていないところにバランスの絶妙さがあるんだろう。

 さてワールドカップの方はオープンコースで世界一に輝いたフィリピン代表のマーク・メディアヴィロさんがやっぱりトップオブトップなんだけれど、日本人的にはジュニアコースで日本代表となった畑めいさんが、6度の挑戦でようやく世界一に輝いたことの方がやっぱり大きなトピックとなった感じ。2011年から5年連続で日本代表になりながらも世界の壁は厚く、そして去年は代表にもなれず再起をかけて挑んだ今年、ジオラマを整え迫力を感じさせる造形でもって念願にして悲願の世界一をつかみ取った。もうこれで一芸入試で大学だって行けそうだけれど未だ中学2年生で来年は高校受験。しばらくガンプラはお預けにして進路が決まって激戦のオープンコースに戻ってきて欲しいもの。待ってるから。

 そして栄えあるガンプラモデラーの世界一に輝いたのは、昨年もファイナリストだったフィリピンのマークさんで、その「エネミー・スポテッド」という作品は、ガンダム・バルバトスやバルバトス・ルプスなど複数のガンプラから部品を選んで組み合わせることで巨大なメカをくみ上げるミキシングビルドという手法が使われている。とにかく巨大。そして異形で邪悪な感じだけれど一方でスマートで美しい。そうした構成の妙味を評価されたってところだろう。世界チャンピオンとなったことで来年は追われる立場となるけれど、他の参加者にチャンスを与えたい」という考えから来年は自らハードルを上げ、「アッガイとプチッガイを使って作る」とか。ガンプラ屈指の可愛らしさを持ったプラモデルからどのような作品を作るのか。ちょっと楽しみ。


【12月16日】 毎日映画コンクールのノミネート作品が発表になって、アニメーション部門と大藤信郎賞のカテゴリーでは宮嶋隆太郎さんの「AEON」、矢野ほなみさん「染色体の恋人」、伊藤圭吾さん「Helpress void」、鈴木沙織さん「大丈夫だよ」、谷智子さん「闇の絵巻」と東京藝術大学大学院の修了作品がたくさん入っていた。そして教授をしている山村浩二さんの「怪物学抄」も入って師弟対決。ちょっと面白い。そんな中にあって多摩美術大学の影山紗和子さん「地獄めたもる」も入っててこれなんて絵巻が動く感じで凄くってちょっと応援したい。

 あと学生では東京工芸大学から星夢乃さん「YOMTOPIA」もノミネート。たぶん大藤賞狙いだけれどそこにはふくだみゆき監督の必殺わき毛アニメーション「こんぷれっくす×コンプレックス」が立ちふさがるのであった。これは強いぞ。いわゆる商業作品では「きみの声をとどけたい」の丁寧な作りを推したいけれど、アヌシーで最高賞を獲得している湯浅政明監督の「夜明け告げるルーのうた」がやっぱり強いかな、それかアニー賞にノミネートされた神山健治監督「ひるね姫〜知らないワタシの物語〜」なんかも。あとアニメたまご2017に参加していた作品なんかもあって幅広い毎日映画コンクール。「BLAME!」が受賞して記念上映とかされた欲しい気もするなあ、もちろんドルビーアトモスで。お願いしますイオンシネマ幕張新都心様。

 まったくもって信者ではなく「時をかける少女」だとか「転校生」だとかを劇場で見たこともなく原田知世を追いかけたこともまるでなく、それどころか過去におそらく1度だって劇場へを足を運んで見たことがないような気がしている大林宣彦監督の最新作となる「花筐/HANAGATAMI」をふと観に行こうと思ったのは、本人が肺がんを宣告されて余命3カ月だから、これが最後の作品になるかもしれないといった感傷的な理由ではなく、舞台が太平洋戦争が始まる直前ぐらいだったからだったりする。

 これは片渕須直監督が長編アニメーション化したこうの史代さんの漫画「この世界の片隅に」とも重なる時期で、あの映画では漫画風のキャラクターが漫画的な仕草を見せつつも服装や生活や風景といったものは徹底したリアリズムの上に描かれ往事の暮らしといったものを忍ばせてくれた。漫画的だからこそ、アニメーションだからこそ醸し出されるのほほんとしたビジョンが、戦争が迫りやがて始まりながらも銃後の変わらない日常といったものを余計に平穏に感じさせ、だからこそジワジワと締め付けられていく暮らし、そして始まった戦争による爆撃や銃撃といったものの恐ろしさを浮かび上がらせ厭戦への気分を醸し出した。

 そんな「この世界の片隅に」とほぼ同じ時代、すでに日中戦争には突入していてもまだ、市井の生活にまでは戦争の影が及んでない状況下で、佐賀県にある唐津で大学予科に通っている青年たちと、彼等に関わりのある少女たちの関係を軸にして、不安や諦観や反抗や虚心といったものを浮かべ、迷いつつ生きている感じを見せようとした物語が「花筐/HANAGATAMI」。それはリアリズムとは正反対に、実写ながらも幻想と虚構が混じり演劇的な見せ方で、いったい何が起きているのか、次に何が起こるのかといった興味を引きつけ続けて観る人の目を離さない映画に仕上がっていた。

 中心になるのは両親をアムステルダムにおいてひとり帰国した榊山俊彦という青年で、常盤貴子さん演じるおばさんと、その夫だった男性の妹にあたる矢作穂香さん演じる美那が暮らす屋敷に時折顔を出しながらも、寮に入って予科に通い始めてそこで突出した同級生と出会う。1人は満島真之介さん演じる鵜飼で、美形で寡黙で強靭で教師に逆らい教室を出て海岸でたばこを吸い犬と教室に持ち込んで授業を受けるといった破天荒をやらかす。もうひとりは長塚圭史あん演じる吉良。修行僧のような風体で脚が悪く杖をついて歩いているが知識は豊富で哲学文学から言葉をつむいで俊彦に聞かせる。

 どこまでも明るくてあっけらかんとしつつ意思といったものを持たない俊彦は、そんな2人に自分にはないものを感じて憧れ、あっちに行きこっちに行ってといた具合に走りつつ2人と友人関係になっていく。あるいは2人をつなぐ媒介になる。そこに吉良とは出身の島が同じという門脇麦さん演じる千歳や、唐津で豆腐屋を営む家に生まれた山崎紘菜さん演じるあきねなども加わり、そして彼女たちとは同級生だった美那も交えた交流が繰り広げられる。まるで華族の社交のようだけれども場所は唐津で美那は貴族令嬢ではなく鵜飼も吉良も軍人や学生といった立場とはほど遠い。それでもあの時代ならではの知識に貪欲で世界の探求に熱心で絶望に憧れる若者たちといった振る舞いで恋心を覚え好奇心を示して関係をクロスさせていく。

 そんな渦中にあってもどこか傍観者然として憧れた鵜や吉良の振る舞いを眺め引っ張られていくノンポリの青年といった雰囲気を、俊彦を演じた窪塚俊作が実に良く出している。ずっと阿呆な笑顔と言動を通し続けるのは大変だったかも。前後でまじめな顔となったそのギャップに演技の幅を感じさせられる。物語はそんな将来に不安と自信を抱え絶望と虚無を覚えている青春らしい普遍さを持った日常が、やがて迫る戦果の中で教師の出征も経てだんだんと身に迫る戦争の影によって塗られていき、死といったものを突きつけられつつ今をどう生きるのかといった非日常の空気に染まっていく。

 そのあたりは、最後まで日常の延長として戦中を生きて終戦直後に違和感を爆発させた「この世界の片隅に」とは違って、厭戦と反戦のメッセージをそこに醸し出したい意図を持った映画といった感じではあるけれど、それでもあからさまではなく半ば当然といった空気の中にそれでも痛みを覚える人の存在、悲しみを訴える人の存在を配置することで、反戦であり厭戦といったものへと意識を向けさせようとしている。とはいえ最後は海を埋める軍艦に空を埋める爆撃機のシルエットを置いて戦争といったものを図として示して反戦の意識を強く出そうとしてしまったところに、これが最後だからここで言わずにどうするんだという大林宣彦監督の“遺言”としての意図があったのかもしれない。それも仕方がない。映画とは監督にとっての個人的な思いの表明でもあるのだから。

 ただ全編を通してどこまでも鬱陶しく反戦のメッセージが放たれるということはなく、戯画的で演劇的で漫画的ですらあるロケーションに演技にカメラワークがあって、そこは昔変わらぬ大林宣彦監督作品だと思わせる。その上で役者たちは求められた役割を愚直なまでのこなして大林宣彦監督の世界を現出させる。阿呆さを貫く俊彦に美丈夫を誇る鵜にニヒルさを漂わせる吉良。演じる長塚さんなんていったい何歳で予科の学生を演じているんだ。どんどんと父親の長塚京三さんに似てくるその口調や佇まいはとても学生ではないんだけれど、でも旧制高校の雰囲気といったものを感じさせるから不思議というか、その意味では絶妙のキャスティングともいえる。

 そして矢作穂香さん。結核で余命いくばくもない中を生きる彼女の絶世とも言える美しさにまみえるだけでもこの映画に行く価値はある。叔母にあたる常盤貴子との百合にもにた関わり合いがところどころに描かれて目にもまぶしい美しさを見せてくる。逆に俊彦と鵜、あるいは鵜と吉良といった男同士の中にも漂う友情敵なものを超えた感情。それは憎しみとも裏腹かもしれないけれど、漂う男色の美に目を引っ張られる腐女子もいそう。門脇麦の病的な雰囲気を漂わせた美しさ、TOHOシネマズの告知で観るお嬢様然とした姿とはまた違った山崎紘菜の町娘敵な明るい姿もともに見物だ。そして柄本時生。現代の美意識では不細工に位置する彼が当時の世界ではお調子者の人気者といった役回りと見事にこなして緊張感の漂う関係の中に緩さと暖かさを紛れ込ませる。良い役者。そして良い役。

 そんな感じで繰り広げられる3時間近い映像の、どこからも目を離せないくらいに引きつけられる展開、引きつけられるビジョンに瞠目する。唐津くんちの協力を仰いで撮影された祭りの場面の絢爛としたあの空気が数年後、戦争の中でどう変わっていったかにも興味が移る。それはやはり「この世界の片隅に」に描かれたようにジワジワとものがなくなり、色がなくなっていくような感じだったのか。そこを飛ばして一気に戦後へと飛んでしまって、ひとり残って老人となった俊彦が慟哭にむせて終わりとなってしまったところだけは、「花筐/HANAGATAMI」へと抱く不満かもしれない。

 晴れて大メディアでテレビ業界とか担当できて番組とかいっぱい紹介をして文化の振興に一役買える立場にありながらも大新聞社が掲げる記事を使った戦争とやらの片棒を担がされて大変かと言うときっと、そうした片棒を担ぎたいからこそその立場になって案外に大喜びをしているのかもしれない。でもやっぱり筋を間違うとそれはただの偏向に過ぎずその場所では通用しても遠からず大崩壊が来た暁に魂を捧げたものとして見做されるからご用心と言っておきたい。

 沖縄を取り上げたテレビ番組に対してBPOが重大な問題があると指摘した一件で、なるほど外のメディアが取り上げないことに挑戦することをBOPは認めてはいるけれど、それは偏らず捏造などせず公正さが維持されてのことであって、それがまるでなかった番組の挑戦を認めた訳ではないにもかかわらず、「放送姿勢は評価」と書いて間違ってはいなかった印象を世間に振りまくのはちょっと違う。そう分かっていながら誘導し、専門家といいつつ完全に当該の番組寄りの人を引っ張り出してコメントをもらうのもやっぱどこか筋がズレている。そうと分かってやっているなら問題だし、分かってないならなおのこと大変だけれど、分かってやって開き直っているならもはや処置なし。そうやって頑張ってご褒美をもらって心に何ら恥じることはないと信じて生きてくださいとしか言えない。たとえ世間は違っても。とうかもはや興味も持たないか、そこん家がそうなのは“常識”だから。参ったなあ。


【12月15日】 ボンクラなので時として頭のいい人たちの足を引っ張り迷惑をかけているかもしれないけれど、ボンクラであることくらいは理解して極力そうした事態を起こさないよう身をぎゅっと縮めて生きている人間にとって、ボンクラでありながらもそうと自覚しないで突出しては、頭のいい人たちが考えたまっとうなことを邪魔して成功するはずだった計画をぶちこわし、大勢の命すら奪ってしまうような振る舞いがどうにもこうにも鬱陶しく思えてしまう。憎んでいるとすら言えるかもしれない。

 そんな人間にとって「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」は見ていてなかなかに胸につかえるものがあっていろいろと困ったというか、どうしたものかなあといった感情が浮かんでもやもやとした。なんか曖昧だけれど多くは語れないからそんな感じ。言うことを聞かずに突出したあげくに仲間を大勢死なせてしまって恥じないとか、あり得ないんだけれどおそれでもなお突出しようとする精神とかまるで理解不能。あとは状況をしっかりと確かめず、思い込みだけで仲間を危険にさらしたあげくに見方のトップを死地へと向かわせてしまうとか。そうした展開を見るにつけ、最初から頭のいい人たちがしっかりとした計画を立てて他に道なしとしてくれれば良かったのにと思う。

 その点、「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」はあのデス・スター開発を阻止するために他に道がないという決死の作戦へとメンバーを追い込み、覚悟の上で働かせてはその生き様ってやつを強く激しく描き出した。そこに無駄はない。もちろん誰も死なずに住めば最高だし最良だし最善だけれど、そうもいかないとなった時にどれだけ納得の展開を得られるか、ってところが重用になるとしたら「ローグ・ワン」はとても良かった。大して「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」ではそこがやっぱり引っかかった。

 まあでも人間とは多くがボンクラであって莫迦なことを繰り返しては失敗しながら、それでも次こそはと頑張って生きている。その姿を反面教師にしよとして出来ない後悔もかみしめながら前を向いて歩くという、多くの人間に共通の認識を与えてくれるって意味でもああいった、ボンクラ祭りな展開もあって悪いものでもないかもしれない。ボンクラが最後まで生き残っていたりするし。その意味ではボンクラ最高ってことか。ほか、語るべきことがあるとしたらルーク・スカイウォーカーを演じたマーク・ハミルは最高の爺さんだったしプリンセス・レイアのキャリー・フィッシャーもこれが最後とは思えない生き生きとした老将軍ぶりを見せてくれた。

 ケリー・マリー・トラン。ローズ・ティコという若い整備士を演じた彼女は姉妹を失いながらも反乱軍の中に自分を置いて託された使命を果たそうとするし、無駄死にを防ごうとすらする。自己犠牲の英雄ばかりが尊ばれる風潮に釘を刺すって意味でも必要な役を演じて見せてくれた。ベニチオ・デル・トロ。凄腕ハッカーのDJ役はどこか怠惰で信頼がおけそうでやっぱり裏切り者といった揺れ動く役をフフンといった雰囲気の中に見せてくれた。きっとまた絡んでくるだろう、ボバ・フェットのごとくに、ランド・カルルシアンのごとくに。

 そしてアダム・ドライバー。アンガールズの山根のごとくに特徴的な顔立ちで葛藤しつつ自尊心を爆発させる若者といった雰囲気を全身で見せた。あれが超絶二枚目だったら反感しかわかないけれどそこはアダム・ドライバーならではの切ない存在感を醸し出してくれた。ここから30年が経ってマーク・ハミルのような老獪な役になっていけるか、ハリソン・フォードのように情念を内に秘めて生きる老練をみせてくれるかも興味があるけれど、その特徴的な顔立ちを生かした時にインテリ、時に荒れる若者って奴をスクリーンに見せていって欲しいなあ。でも当面は「スター・ウォーズ」シリーズでの活躍に期待。もう仮面は被らなそうだし、あの顔がずっと見られると思うとなかなかに楽しい。

 前に新宿バルト9で生声とそして生音楽によってアニメーションを上映するというとてつもないイベントが開かれた神風動画の「COCOLORS」が音楽や声が普通に入ったアニメーションとして下北沢トリウッドで上映され始めているってんで見物に行く。前に見たときは目の前で声が紡がれ音楽が奏でられる緊張感も含めて堪能したけれど、改めてアニメーションとして見た場合でも神風動画らしい3DCGなんだけれどゲームムービーっぽくなく動く感じがとても良く、そしてクリアな映像にズレるかもって不安なく聴けた音声や音楽も重なって、物語の世界がグッと迫ってきて強く感動させられた。

 何かの影響で降灰が続きそして人々の体も蝕まれていく世界、地下に暮らす人々から地上へと出て物資を回収する部隊が選抜されていたけれど、何年か経てだんだんと人は減っていき、当初はまだ子供だったアキが回収部隊に入ってからも仲間のシュウは消え他の友達もいなくなって住民たちの姿も見えなくなる。そんな滅び行く世界にあって地下で想像力を巡らせていたフユに迫る死期。地上を見たそうなフユのためにアキは地下から連れ出そうとするが……。決して幸福は訪れそうもないどん詰まりの世界で思いを貫く尊さってものが染みてくる。同時に今がそうした世界へと向かい始めた次期かもという想像も。避けるために何が出来る? 隠さなくても空を見せ続けるために何をすべき? そんな思いを抱えて下北沢の坂道を駅へと歩く。

 もう完全に底が抜けたという感じで、それでも少しは残っていた矜持すらかなぐりすてて、自分たちが気に入らない勢力を根拠もなしに勘ぐりと憶測でもって批判し誹謗し侮辱して恥じない体制になって来たというか。四国にある伊方原発が阿蘇山の大火砕流によって埋まる可能性があるからとりあえず、本訴まで運転を差し止めるといった判断が広島高裁で下されて、それに対してどういった法理論がくみ上げられているかを検証していちいち反論するのがメディアの役目であるにも関わらず、とある新聞が1面コラムという場で判決を下した裁判長を名指しで「原発をめぐる裁判では、これまで判断が分かれてきた。運転差し止めを決めた裁判官は、左派メディアからヒーロー扱いされる」と前置きした上で「晴れて仲間入りを果たした」と書いてきた。

 本当にヒーローになりたかったかどうかは本人に聞いてみなければ分からないことで、それができなければ出された判決のロジックを読み解くことで正否を判断するしかないにも関わらず、きっとそうだったんだろうといった雰囲気を作り出して批判の矛先を個人に向けて攻撃する。あまつさえ当人が退官後の活躍を期待して誰かに阿る判決を下したんだろうといった勘ぐりも付け加えて「今月下旬に退官を迎えた後、どんな活躍をされるのか」とまで書き添える。ついでに「前川喜平前文部科学事務次官の顔が目に浮かんだ」とも書いてこちらはずっと個人攻撃を続けている相手も含めての批判へと結びつける。結果、煽られた誰かが個人を挙げて攻撃するような事態が起こったらどうするのか。判決という一種の言論に憶測と勘ぐりと侮辱といった言葉の暴力をぶつけることしかできないメディアが存在し得る状況に今という時代、言葉が軽んじられる風潮の究極を見る。これからも続くんだろうなあ。やれやれ。


【12月14日】 ぐっすりと眠って起きたら当然のようにクラブワールドカップの準決勝は終わっていて、開催国枠のアル・ジャジーラが奮闘したもののレアル・マドリードに2対1敗れて3位決定戦に回って本田圭佑選手も所蔵する北中米代表のパチューカと戦う模様。そしてレアルは南米代表のグレミオを相手に昔ながらの欧州代表対南米代表で世界一を決めるトヨタカップを演じてくれそうでこれはちょっと楽しみ。どちらも名のあるビッグクラブだし優れた選手もいっぱいいる。なおかつ開催地は極寒の12月の日本ではないアラブ首長国連邦だ。暑さならきっと現地のマネーで対処されているだろうから、寒風が吹きすさぶ横浜スタジアムよりは良いコンディションで試合ができるだろう。期待しよう。ってかどうして日本のスタジアムは暖房設備を整備しないかねえ。観客に冬は来るなと言っているに等しいよなあ。

 そうか重ならずすれ違ってしまう関係にある2人を描いた物語だったのかと公表された岡田麿里さん初監督作品「さよならの朝に約束の花をかざろう」のストーリーを見て思う。日本だと八百比丘尼として永遠の若さを保ちながらも心だけは老成していく女性が新たに出会った若い男性と親しくなりながらもだんだんと年老いてやがて死ぬ男に寂しさを覚えるような設定。赤松健さんの「UQ HOLDER!」なんかでも永遠を生きる雪姫がいずれは成長していくだろう刀太に抱いていた思いなんかも重なりそうだけれどこっちでは刀太は吸血鬼となったから一緒の時間を歩めてあるいは雪姫はホットしたのかも。ひとりぼっちは寂しいから。逆にだから「さよならの朝に約束の花をかざろう」ではそうした違う流れの時間を生きる2人がどうやってわかり合い認め合うかが気になる。公開されたら観に行こう。井上俊之さんに平松禎史さんとアニメーター陣も豪華すぎるし。川井憲次さんの音楽も気になるし。

 どうでも認めたがらないライト層の人たちがいることは感じていたけれど、米軍のヘリから窓枠が小学校に落下するという日本が攻撃されたに等しい事態にも日本の見方ではなく米軍の見方をして移転しない小学校が悪いんだといった論調を繰り出してくるからいったいそれのどこが愛国者なんだろうといった懐疑が浮かぶ。それともライト層の人たちにとっての愛する国に沖縄は入っていないのか。そんな可能性すらあったりしそうでどうにもこうにもやりきれない。だいたいが小学校が移転しないのは別にレフト層が妨害したからでもなんでもなくって、過去に移転を検討したものの国はお金を出してくれず、そして米軍によって移転先が用意された一方で今の場所は召し上げられるという“等価交換”を提案されたからだったりする。

 ただでさえ返還を求める空気の中にあって交換であっても明け渡すことに住民の感情は納得できなかった。だから首長も強く言えなかった中で小学校が老朽化してそこで授業が続く以上は改修は必要ということになって留まったといった経緯があるんだけれど、そうした事情すら斟酌せずに留まって部品が落ちてきて子供たちが傷つけばそれで反基地の宣伝になるからを移転をさせなかったなんてデマゴーグを振りまいている人たちが一定数いて、それを支持する人たちも結構いるから世界は難しい。そんなデマをどこかの新聞がかつて検証もしないで広めたことがあって、事情に詳しい沖縄本土は別としてレフト層を批判できれば材料は問わない本土の人たちにつよく信じ込まれているから厄介極まりない。

 だからきっと訂正もなくこのまま一部に沖縄ヘイトであり沖縄デマが残っては、安全という誰もが求める幸福すら認めない空気が広がってこの国を分断するんだろうなあ。参ったなあ。というかTOKYO MXが放送した番組「ニュース女子」で沖縄の基地反対運動を取り上げた回について、PBOから「重大な放送倫理違反」だという今までで数例しかないくらいに厳しい判断が繰り出されたけれど、それを聞いてもなお沖縄の真実は別にあると信じている人たちは結構そう。というかそれを信じて中間を募って語らうことで居場所を得ていたりするから、間違いだと認めてしまってはそこにいられなくなるってこともあるんだろう。すがり寄り添うメディアも含めて。

 PBOでのそうした判断について会見があった中でそのメディアはマスコミが伝えない基地反対派の真実を伝えようとした、その意図や姿勢について質疑はなかったのかと聞いたとか。あるいは義のある行為だから行き過ぎは行き過ぎとして行為は正しいと言いたかったのか。でもPBOは事実の裏付けがないと一蹴。そりゃそうだ。けどそのメディアは言いたいことのためにあることないこと引っ張り出すのが習い性だから、言ってる意味ももしかしたら分からなかったのかもしれないなあ。ともあれこうした判断が出たからといってTOKYO MXが、あるいは制作元のDHCテレビが「ニュース女子」という番組を止めるとは思えない。いつかきっとまた似たようなことを繰り出してくるんだろう。その時にTOKYO MXを含めた放送局がどういった態度をとれるのか。そこが問われる。

 12歳で父親とセックスして兄ともセックスをした織原ミツキという少女と幼馴染みだった田中文紀はその後も奔放に誰彼となくセックスをし続けるミツキに振り回され続ける。セックスしても1回限りで後に付き合うことはなく、むしろ手ひどく退けることもあって恨みも買いやすく、迫ってくるものストーキングを繰り返すものが相次ぐなかでミツキに親しい田中文紀ことマンキーは、ミツキをセックスをしたい先輩に呼び出されてボコボコにされそれで空手を覚えたマンキーが今度は逆にストーカーをボコボコにするといった繰り返し。そうやって中学の3年間を終えて高校に進学する時、いっぱしの不良扱いされていた田中マンキーは誰も自分を知らない場所に行こうと一念発起して勉強をしてその近隣では最高の高校に入学する。ところが。

 勉強をしているようには見えなくても常に学校で1番だったミツキも同じ高校に入ってそこでも続くボディーガード的な毎日。スマートフォンを与えられて呼び出されては助けに入る。それはマンキーを空いてくれているバスケットボール部のマネージャーが傍らにいてもお構いなし。そうやって行った先で殴られ骨折をしてバスケットボール部の1年ながらのベンチ入りも妨げられたマンキーはミツキを怒鳴って追い払って縁を絶とうとするものの絶てずにいるのがちょっと分からない。やっぱじミツキが好きだったのか。幼馴染みとしての親近感から守ってあげなくてはといった思いが浮かんだのか。童貞を捨てたいという自分のはけ口に求めたのか。そのどれも重なりつつどれでもない思いがあったのかもしれない。

 どこまでも奔放でセックスをし続けるミツキはやがて本物のヤクザに絡まれ助けに入ったマンキーはドラム缶に詰められ海に沈められようとする。そうまでされてもやっぱり駆けつけるマンキーはひとつの出来事が終わって気付く。ミツキがどうしてそこまでセックスをしまくる少女になってしまったのかを。それが真実かどうかも実のところは分からない。本当にセックスが好きだったのかもしれない。ただどうやらミツキはセックスが好きそうではないところにやっぱりマンキーが気付いた秘密があるのかもしれない。それに早く気付けていたら人生は変わったか。そして2人は健全な学生として歩みやがて一緒になれたのか。そう思うと少し寂しくなる。せめてミツキが自分を偽らず思い切り走り続けられたことを願うし、マンキーがこれからをしっかりと歩き続けられることを願う。それが2人にとって大切なことだろうから。そんな鳥畑良「ハードボイルド・スクールデイズ」(ノベルゼロ)は超弩級青春小説。


【12月13日】 微睡みながら見ていたサッカーのクラブワールドカップ準決勝となるグレミオ対パチューカは南米代表のグレミオが勝ち上がって次、レアルマドリードと対戦するはずなんだけれどそっちは試合が前なので、ひょっとしたら欧州代表が開催国枠のチームを相手に苦戦するとかあったりするのかも、いつかの鹿島アントラーズ対レアルマドリードみたいに。でも最後はレアルがスパートをかけてアントラーズを引き離して決勝へと進んだから今回も順当に欧州代表と南米代表との旧来からのトヨタカップが見られると思いたい。本田圭佑選手はパチューカで3位決定戦へ。そこへレアルが来るってことは……やっぱりないよなあ。さてもさても。

 グリコを1粒食べたからといってそれで300メートル走れるというものではなく、逆に300メートルを走った人にはグリコの1粒が栄養の補給になるといった関係なんだけれども子供にはやっぱり力を与えてくれる存在として印象づけられているんだろうなあ、グリコキャラメル。さや師の喫茶店にイケナイ落書きが描かれたノートを忘れてしまったココノツが1500メートルほど離れた喫茶店へと駆けていく、そのかたわらをほたるが併走をして共にグリコを食べていくといった展開の先、実は4粒しか入っていないグリコでは先に行けないところをほたるの犠牲によってココノツだけは喫茶店へとたどり着き、さあノートを回収しようとしたら時既に遅かったという、そんな「だがしかし」。再放送なのにやっぱり面白いなあ。第2期にも期待だ。

 1981年はもうすでに高校生になっていたから「週刊少年ジャンプ」はあまり読んでいなくて「週刊少年サンデー」に寄っていたんで連載が始まった「キャプテン翼」はほんとんど読んでおらず、そして1983年から放送されたテレビアニメーションも高校から大学へと進学する過程で見るには少しキッズより過ぎたこともあってやっぱりほとんどみておらず、従って大空翼と若林源三との関係がどういったもので岬くんとか石崎くんがどう翼と絡んでくるのかもあまり知らなかったりするんだけれど、それでもそうした名前が浮かぶくらいにはサッカー漫画として認知はしている感じ。そしてひとつのエンターテインメント作品として見たときに、世界へと出て行っては大勢の子供の心を捕らえ、それが後に大物プロサッカー選手へと育っていったといった話に日本の物語が持つ普遍性といったものを感じたりもしている。

 そんな「キャプテン翼」が3度目となった2002年から15年ぶりにテレビアニメーション化されるとあって記者発表会を見物に行く。登場したのはキーちゃんこと北澤豪選手で今はカンボジアとか世界を回ってサッカーを子供たちに教えているんだけれど、行く先々で翼に会わせてくれないかと頼まれるらしい。つまりはそれだけ実在性を信じられているし、それ以上に存在を知られている。そんなプロサッカー選手、実物を見たっていやしない。せいぜいが本田圭佑選手くらい? それでもミャンマーとかカンボジアの子供が知っているとは思えないし、欧州の子供が憧れる存在でもない。翼は違う。名こそ変われ世界中のサッカーキッズの憧れとして存在し、繰り広げられるスペクタクルは子供たちにとって格好のお手本となっている。

 それほどまでに強力な「キャプテン翼」が今再び、とうより4度目のアニメーション化となって日本で放送され、世界へと出て行った時にいったいどれかでの子供たちが歓声を上げてプレーに熱中し、そして5年後10年後に凄まじいばかりのサッカー選手となって世の中に出てくるかを考えると何か面白い。1981年の漫画だけに古くさいイメージがあるじゃないのといった声も出そうだけれど、そこは現代に合わせてパンツはピチピチではなくなっているし、スマートフォンとか携帯電話とかも出てきて試合なんかで使われそう。スウィーパーちうポジションも今は古いから変わっているかな、リベロか攻撃的センターバックかそういった感じに。

 一方で原作にあった強烈なシーンはとことんまで減作に忠実に描かれていくとか。子供たちが真似したら大変と思われるシーン筆頭のキックしたボールをバスの下を通すようなシーンもちゃんと描くとか。そういった原作準拠が今回のアニメ化で高橋陽一さんが求めたこと。見てすぐ真似するような子供はいないだろうけれど、難しいシュートに挑戦をしてクリアするような向上心をそこに見て、学ぼうとする子がいればちょっと面白いかもしれない。PVも出来ていてバスのシーンはしっかり登場。それでいてキャラクターのビジュアルも動きも決して古びては見えないところにちょっと変化が激しい原作の漫画とは違って、理想のポジションを追求していけるアニメーションの良さも見える。今見ても多く放送されているサッカーアニメと遜色ないビジュアル。これなら今まで未見だった僕でも見て面白いと思えるかもしれないなあ。2018年4月放送スタート。時間は夕方だろうか。

 高橋陽一さんの今も元気な姿をみかけた一方で、「名探偵コナン」の青山剛昌さんが病気療養のためにしばらく連載を休むとのこと。劇場版の「名探偵コナン」は毎年のヒット映画としてしっかりと存在を確立し、それに合わせて長期化はしていてもテンションを落とさないまま漫画の連載も続いていたけれど、やはり結構な長さを描き続けるには心身ともに厳しいものがあったのかもしれない。病気の種類とか病状とかはまるで伝わってはいないけれど、しばらく休めば復帰できるものと信じて休養へと送りだそう。その間は別の誰かがタイトルだけを借りる形で「名探偵コナン2 タイガアドベンチャー」という漫画を連載すれば良いんじゃないかな。なんだタイガアドベンチャーって。
BR>  夜は夜で来年の2月に開かれるゲームの祭典「闘会議2018」の発表会を見物に行く。いろいろなゲームの大会が行われたりはやりのゲーム実況が繰り広げられたりしてはゲームファンを盛り上がらせるイベントって感じだったけれど、今回からeスポーツという余所がどっかんと乗ってちょっとオフィシャルな雰囲気を持ったイベントへと変わっていきそう。CESAとかが前にeスポーツの団体を統合して設立するって発表を行っていて、それが来春にも出来るといったアナウンスがあったことを受けて、「闘会議2018」の主催にその新団体が名を連ね、なおかつ日本では諸々あって開催が難しかった高額賞金の大会も行われることになるらしい。

 それにはまずはプロライセンスの発行が行われるとかで、「鉄拳7」とか「ウイニングイレブン2018」なんかでプロが誕生することになるらしい。すでに格闘ゲームのプロゲーマーって日本にもいたりするけれど、海外の大会で稼ぎ支援してくれるスポンサーからお金をもらうだけじゃなく、その手でこの国で賞金をもぎ取ることができるといった意味合いは、日本で暮らすプロゲーマーにとって大きな前進になるだろう。ただどういったたち位置にいる人たちがプロなのか、って線引きが難しいだけにそこに企業側の論理だけでない、何かオフィシャルなレギュレーションでも作られることになれば落ち着くんだけれど。

 それんしてもAMDこととデジタルメディア協会が1000万円もの賞金を協賛するのが謎。いやデジタルコンテンツの振興を目指す団体として、eスポーツが隆盛すればそれだけコンテンツにしてもデジタル機器にしても普及が進んで会員企業の利益になるし、総務省管轄の団体として国の産業振興にも貢献できる。あるいは未だゲームの発売元が賞金を出すのは景表法で雁字搦めになっていて、風営法とかの枠にもかかるところをどうにか第三者の団体が供出することでくぐりぬけ、高額賞金を実現しようとしているのかもしれない。いったいどの大会にどれだけの金額があてられるのか。最高の戦いで得られる賞金額はどれくらいか。ちょっと知りたいところなんで「闘会議2018」に向けてどうなっていくかを見守ろう。


【12月12日】 そして「ガールズ&パンツァー最終章」第1話は興行通信社が調べた週末興行ランキングで仮面ライダーとか「DESTINY 鎌倉ものがたり」とか「オリエント急行殺人事件」に続いて4位に入ったとかで、59館という制限の中でそこまで食い込むために相当なアベレージを達成したもよう。興行収入得も1億5000万円近くまで来てこれからさらに上映館数も増えていくと10億円くらいは行きそうな気がするけれど果たしてそこまでたどり着けるか。全6話で100億円とかいったらそれはそれでちょっと感動。逆に尻すぼみにならないとも限らないけれど、第1話のできを見れば毎話驚きを仕込んでそしてラストに大逆転を持ってくるのは確実なんで、逆に尻上がりに増えて行く可能性だって少なくない。全6話で「君の名は。」を抜いたりして。そうなったらニュースだよなあ。

 あと1カ月でだいたい放送開始1年だと思うと感慨深いものがあるけれど、それに向かって記念行事的なものが動いているといった感じがまったくないのはやっぱり例の一件が尾を引いているからなのか。年末年始にテレビなりネットなりで一挙放送があっても良いし、劇場を使った一挙上映があったって悪くはない。実際に放送中から放送直後まではそうした一挙上映イベントが頻繁に行われてはファン層をじわじわと増やし、今へとつながるブレイクのきっかけをつくった訳で、その流れを今一度と思うのならばコンテンツを仕切っているところが率先して動いても罰は当たらない。

 でも動けない。なぜならそうしたコンテンツを仕切っているところにとってアニメーション版「けものフレンズ」を転がすことがどこかアンタッチャブルになっているから。そんな気がしてならない。上映イベントなどの動きがないのがまずひとつ。応援イベントすら行われないような状況は、つまりそうしたイベントに集まるのがほとんどアニメーション版を観てからファンになった人たちだから。そうした人たちの期待に応えるにはアニメーション版の情報が必要になるにも関わらず、前面に押し立てて盛り上げるようなことがどこかしづらい状況にある。そんな雰囲気が感じられない。

 そしてグッズについてもアニメーション版をベースにしたものがほとんど出ていない。キャラクターが描かれたTシャツなんかも作られながら店頭になかなら並ばない。「けものフレンズLIVE」の上映会が行われたTOHOシネマズ上野とかで観てからこっち、店頭に並んでいるのを見たことがない。一番くじのようなショップでも景品くじ引きも、スマートフォン用アクリルスタンドとかで少しアニメの絵柄が使われていたものがあったものの、今は描き下ろしといってアニメーション版とは違ったキャラクターメインの絵柄になっている。コンビニエンスストアで展開されるキャンペーンもグッズは原案に近いものばかり。そこには大勢のファンを引きつけたアニメーション版ならではの雰囲気はない。アニメーション版に描かれてスタンダードとなっているキャラクター同士の関係性もあまり反映はされていない。

 それでいてたとえばアライグマとフェネックの関係のようにアニメーション版を引っ張るような売り方もあって一定しないところに、送り手もなにが肝心かは分かっていながらそれに完全にはすがれない壁のようなものがあるのかもしれない。いったいそれは何なのかを突き詰める立ち場にはないから何とも言えないけれど、このままでは漫然と1周年が過ぎてそしてキャラクターのバラマキだけが行われて話すられていく気がしてならない。そうはさせないためにもアニメーション版のあの雰囲気、あの関係性を改めて思い出させる動きをファンから起こすべき、なのかもしれないれどクリエイターではないから応援画像も応援映像も作れないのがもどかしい。せめて1周年を気に毎週同じ時間に見返して、その感動を言葉にして紡ぐことでもしようと思う。1カ月後からスタートだ。

 東京へと(千葉だけど)引っ越した1990年の夏に幕張メッセで「ファルマコン’90」という現代美術の展覧会が開かれて、つい先日にはプリパラのライブが開かれたような巨大なホールがパーティションで仕切られてそこに現代美術の絵だとか彫刻だとかがごろんと置かれているのを、ほとんど観客もいない中で見ていくという不思議な光景が繰り広げられたことをなぜか今でも覚えている。そこで見た草間彌生というアーティストのペニスが生え繁った椅子だったかゴムボートだったかの作品に見ほれ、当時はまだ牛込にあったフジテレビギャラリーに個展を見に行った記憶もやっぱりあったりする。ほかはたしかフランク・ステラか。カタログを見返せばもっと多くの現代アーティストが作品を寄せていたことが分かるかおしれない。

 そんな中に1人、アートともイラストとも落書きともとれそうな乱暴な絵を描いている人がいたことはくっきりと覚えている。名をジャン=ミシェル・バスキア。なぜ気になったかははっきりとしないけれどもそうしたポップなアートが例えばキース・ヘリングだとかいったグラフィティ系のアーティストの系譜として気になったのかもしれないし、高校大学と呼んでいた「POP−EYE」であるいは名前を見かけていたからかもしれない。ただし1990年にはすでになくなっていて、新作も出ないままこれからは埋もれていくだけなのかと思ったらまったく逆に、どんどんと値上がりをして123億円といった値段で取引されるようになってしまった。それはまあバブルが過ぎるけれども数億数十億は確実にするアーティスト。買っておけば良かったなあというのはあとの祭りだし、その当時でも買える値段ではなかっただろう。

 いったいどうしてそれほどまでに有名になってしまったのかを考えても分からないけれど、精神がそのまま映し出されたような激しさがあり、かといってサイケのようにおどろおどろしくはなく乱暴だけれどまっすぐな感じが漂っていて、見る人の心を熱くしたのかもしれない。若くしてオーバードーズでなくなったという人生も、音楽でいうところのシド・ビシャスでありジミ・ヘンドリックスでありジャニス・ジョプリンでありといった天才たちの夭折の系譜に名を連ねさせ、象徴として位置づけさせたのかもしれない。ゴッホとはまた違った天才にして先駆者。そうしたバスキアの生き様を、そして作品を似たようにパッションで描くアーティストの代名詞にした漫画が登場した。かっぴー原作でnifuni漫画の「左ききのエレン」(集英社、400円)だ。

 朝倉光一という26歳の青年がいて目黒広告社というところで駆け出しのデザイナーをしている。先輩に活躍しているクリエイターもいてその下でプレゼンの資料を必死に作ってどうにかコンペを通ったら経験不足だからと外されたりもして、不満を感じながらもそれでも自分の才能を半ば信じつつ、半ば疑いもしながら次の仕事へと取り組むことは欠かさない。そんな会社での日々に、混ざるように描かれるのが高校時代の日々で美術部に所属しながらもあまり描こうとはせず、それでも才能は信じて美大に行き広告代理店に入って格好いいデザイナニーになるといった夢はそれなりな自身とともに持っていた。それを1枚の落書きが打ち砕く。

 「横浜のバスキア」。美術館の壁にスプレーによって落書きされたグラフィティを見て光一は自分などとてもかなわない天才だと気付く。というよりその絵を天才と気付いてしまったところに光一のある種の才能が感じ取れたりもする。見る目はあっても自分の才能はまだまだ達していないという多い。だったら誰が描いたかを確かめたいと学園祭で誘いをかけるものの現れなかったその人物を、光一のことに関心を抱いているさゆりは知っていた。山岸エレン。さゆりとは幼馴染みで父親は画家で自身もずっと絵を描いてはいてもそれが絵描きの道に向かうものにはなっていなかった。けれども父親が自殺し、その才能を信じていたエレンの目に他の多くの絵がひどく下手に見えてしまったことで彼女の天才が爆発する。

 心の赴くまま。手の動くまま。描かれた作品が見た光一を打ち振るわせる。いつかそこまで近づきたいと思わせる。けれどもそんな思いがエレンの軌跡と交わることはなく、光一は美大に行きデザイナーとなって広告会社でクリエイティブの職に就く。それはとても幸せなこと? 美大に行った誰もがクリエイティブな才能を発揮するとは限らない社会で十分に幸運なことだと言える。さゆりも上位1000人に入れるような才能で十分といった考えで光一の行方を見守っていた。けれどもエレンは違う。今という時代に語れて10人のアーティストに入れなければ意味はない。というより自分が自分を出せなければ意味がない。

 ある意味で商業デザインの秀才でもある光一と、アートというジャンルに括ることすら当人にとっては迷惑かもしれない天才のエレンとのまるで交錯せず、対比すら困難な生き方といったものが描かれていく。そのどちらが自分に近いのかといえば、職種はまったく違っても日々を決まり事の中で精一杯に自分の能力を出して生きている光一に誰もが自分を重ねて見るだろう。そして同時に秘められているかもしれない、秘められていたと思いたかった才能だけを誰にはばかることなく溢れさせて生きていける天才への憧れも覚えるだろう。音楽のジャケットを頼まれ描いた絵が不満と言われたとき、絵が選ばなかったんだと言い放てる天才になりたい。だったらと絵に会わせて音楽を変えさせる天才になってみたい。それはどんな境地だろうか。嬉しいのだろうか。誇らしいのだろうか。

 それも違いそう。ただ描き、ひたすらに描いて描くことでしか自分を保てないのが天才というもの。逆に自分とう存在のどこかを切り崩して毎日を埋めていくのが秀才であり凡才といったその他大勢の人間たち。そんな差異を突きつけつつ、だったら秀才で凡才がそれぞれの範囲で才能を信じ、挫折しながらも賢明に毎日を生きる姿を描いたのがこの「左ききのエレン」の今のところの内容と言えそう。もっとも天才がただ秀才の逆説的な引き立て役で終わるはずもない。いずれ爆発的な才能を迸らせ、暴力的な振る舞いによって光一たちを襲うはずだ。その時にいったい何が起こるのか。ああはなれないと絶望に沈むか、ああはなりたくないと羽ばたくことをやめて日常に足をつけるのか。続きを待ちたい。ネットに上がったがっぴーによる原作の漫画をお預けにして。


【12月11日】 そうかアモンロギア編もやるのかテレビアニメーション「クジラの子らは砂上に歌う」。帝国を退けてやや一服の泥クジラの上で繰り広げられる水浴びでは、ギンシュ姉さんがなかなかな胸元を見せてくれてはいたけれど、そんな暮らしぶりを見て裸族だと思ったロハリトたち一行によってシィデラシア連合王国へと導かれていく泥クジラはサイミアに興味を抱いたアモンロギア公に捕らえられそうになるという、そんな展開までは描かれているけれどもチャクロが後に書き記したような安住の地へと至る旅はまだ遠そう。そこまでは描かれずとりあえずアモンロギアへと導かれまでと、そして途中で見かけた幻にまつわる過去の物語、「光の隣 壁の空」を番外編として描いたりするのかな。そもそも1クールなんだっけ。そこすら知らないけれども今期のアニメーションでは「宝石の国」と並んで群を抜いた世界観を持った作品だけに、続きが溜まったらまたアニメーション化するようにして最後まで描かれてって欲しいもの。期待して付き合っていこう。

 そうか寅は丑をかばって卯の凶刃に貫かれるのか。あの丑なら自分でも避けられただろうってつぶやいていたけれど、丑の方は助けられたのは初めてだと言っていたから助けられたという意識はあるってことで、それを言って寅の行為が無駄ではなかったと安心させようとしたって可能性なんかも浮かんだけれど、そういった気を回すようなタイプでもないからそれだけ自分をゾンビに変えてまで勝利を狙った卯の攻撃が凄まじかったってことだろう。結果として寅はここでリタイア。自分を丑に殺させてゾンビになることは防いだ格好。そして残るのは子と丑だけ? 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支が振り返ったら後から順に退場して行ってる格好だから、優賞するのはやっぱり子ってことなのかなあ。ゾンビになったけどバラバラにはされてないように思う申とか復活の目とかあるんだろうか。そんなアニメ「十二大戦」。CGスタジオが作った2Dライクなアニメーションでも郡を抜いて良い出来。これもその意味では今期の傑作に入るかも。

 男子も女子も日本代表が試合をしているようで女子は初戦の韓国にとりあえず勝ったようでまずは善哉。東アジアでは中国と北朝鮮の方が強くて韓国の女子はまだまだだったけれど、日本代表のなでしこジャパンが以前のような圧倒的な力を出せない状況にあることもあって拮抗した感じになっている。だから勝てたのはまずは喜ばしいことで、続く試合も勝って弾みをつけて2019年のワールドカップに向けて戦力を積み重ねて行って欲しいもの。東京オリンピックは地元開催だから出られるだろうけれど、そうでなくても出られるだけの実力はつけておいて欲しいなあ。男子は主力選手がいない状況なんで来年のワールドカップ本番に向けた新戦力探しができれば良いってことで。川俣選手とか久々に見たなあ。

 ULTRAという巨大なスクリーンとそして6個のウーファーという設備を備えたイオンシネマ幕張新都心の8スクリーンで「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」を観ると登場した巴マミさんの巨大な胸が巨大過ぎて巨大なスクリーンからのはみ出すんじゃないかと思えてくるというのは本当のことだけれど、それ以上にたとえばClarisによる「カラフル」が流れるオープニングでマミと鹿目まどかと美樹さやかと佐倉杏子が4人で楽しげに躍っている中央でひとり絶望に悶えている暁美ほむらの姿がくっきりと見えて、すでにストーリーと結末を知っている心に狂おしいばかりの感情が浮かんでくる。

 そして本編ではマミとほむらとの激しく動く銃撃戦の一部始終を隅々までくっきりと見て取れ起こっていることが小さなスクリーンで観るよりも何割かは理解が進むしなによりやっぱり実際の空間で実在の魔法少女たちが空を自在に飛び回っているような感覚を味わえるところがすばらしい。ほかにもただでさえクローズアップの多い蒼樹うめさんデザインによるあの顔立ちがスクリーンいっぱいに描かれるという不思議な光景。海外のアニメーションにはないデザインでありレイアウトが日本でしかありえない贅沢な環境で上映されて日本に生まれて日本のアニメを観られて良かったといった気分になれる。

 そんな環境的な喜びとはまた別に、久々に観ることができた「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」は悲劇の果ての喪失によってかろうじて得られた平穏が、そのまま続いているようでどこか違和感がにじみ出てきてそしてあらわになるその世界の構造へと至る過程に、「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」から営々と刻まれてきた閉鎖空間で繰り広げられる安寧への懐疑、その正否についての問いかけがあって自分ならどっちを選ぶのかといった懊悩に浸ることができる。

 たどりついた真相からようやくの解放へと至るはずだったストーリーが、とてつもなく強烈な、それこそ魔女になるくらいでは収まらない情念が滾って世界どころか宇宙までおも塗り替えてしまって得られたその境地ははたして幸福なのか、それとも恐怖なのか。たった1人だけ真相を知って孤独の中に立ち続け、そして戦い続けるその糸がいつか途切れてしまわないのかといった感想を持ってひとまずの幕を終えられる

 でもやっぱり改めて思う。まだ終わっていない。これで終わってはいけない。1人の不幸、1人の懊悩、1人の絶望の中に得られたつかの間の平穏を平穏として永続させることはやっぱりダメだ。ならばいったいどんな道が考えられるのか、ってあたりでいつかやっぱり続きが作られるべきなんだと思うけれど、それだけの気持ちとか余力とかがあるかどうかは知らないし、そういった構想があるかも分からない。ただやっぱりあって欲しいと改めて思ったので、映画館はもっと再上映の機会を作って多くの人に改めて見せてそうした思いを再燃させてスタッフを、制作会社を動かすことを考えてみてはいかが?

 ううん、この件で1紙だけがやたらと突出しているけれど、ある種の美談だったらほかのメディアが全国紙だってワイドショーだて追いかけないはずはない訳で、それでもどこもついてきてないところに少し不思議な感触を覚える。というか事故現場で人助けをして跳ねられたという美談の核となるその人助けが本当に行われたのかは、曹長の奥さんのフェイスブックにそう書かれているだけであって、それが警察の検証なり助けられたという50代の日本人の直接的な言葉で語られてはいなかったりする。そして奥さんのフェイスブックには、は曹長はまったく無関係に現場を通りがかっただけで、そこで事故を起こしている車を見て助けようとしてはねられたってことになっている。無関係の人間が助けに飛びこみ事故に遭ったらそれはとても悲しいことだ。

 でも実際は、事故現場で止まっていた車に追突をして自分も止まって降りたところを後続車にはねられた。その時にあるいは前方で横転していた車に人がいると見て助けようとしかもしれないけれど、そうした事実が警察なり助けられた50代の日本人なりから未だに具体的出てきてないところに、この案件の果たして触って良いものかどうかといった不安が立ち上る。どうして書いている新聞は警察に聞かないんだろう。そして50代の男性から直接コメントをもらおうとしないんだろう。そこがどうにも分からない。書いている新聞にとってはこれだけの美談なのに米軍憎しで書かない沖縄の地元紙はおかしいぞって訴えることが目的であって、細かいことはどうでもいいのかもしれない。ただやっぱり他が追いかけようとしないのは、触るに相応しい案件ではないといった状況があるんだろうか。そこが明らかになった時、どっちがどれだけダメージを負うかを考えるとなかかなにピリピリとした気分になるのであった。


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