縮刷版2017年11月上旬号


【11月10日】 日経は場所も限られるから名前だけだったけれど、座間の事件で被害者の身元が判明したと言ったニュースで新聞各紙は全員を写真入りで報道、もちろん実名。おそらくは被害者の親族の了解を得ているとは思うけれど、事件の性格から被害者のパーソナリティに自死への願望なりが取り沙汰され、また性的被害の可能性も報じられている中で、そうしたら情報を付随されて名前を喧伝されてしまうことに親族として果たして納得がいくのかがすごく気になる。

 酷いのは日刊スポーツで、家の前に親族が「今後とも本人及び家族の実名での報道、顔写真の公開、学校や友人親族の職場等への取材を一切お断り致します」という張り紙を出しているのを、わざわざ撮影しては誰の家の前に張り出されていたかをしっかりと実名入りのキャプションと見出しで報じている。張り紙の方は末尾の親族名を黒で塗りつぶしてあるから、あるいは出稿段階で配慮をしたのかもしれないけれど、記事化で実名を入れてはまるで台無し。それより以前に悲しみの感情を報じる記事で敢えて実名を入れる神経がどうにもこうにも理解できない。

 相模原での養護施設での事件は、その施設の性格から被害者のパーソナリティにおいてプライバシーが先に立ち、県警としても自分たちから報じることを避けた。それでもメディアは調べ上げ、また一部から匿名で忘れられて行くことへの不満を拾い上げて被害者の実名報道の正当性を印象付けようとしていた。そうしたら認識に力はあってなびく人がいても不思議はないけど、問うべきは匿名であってもその死を悼み生への想像を惹起できるような報じ方はないものか、と言ったこと。フィクションお悲劇にだって涙できる想像力が、実在の事件で失われた命の断たれた生に共感できないはずはない。

 ましてや未成年も含めた少女たちのプライベートに及ぶ今回の座間での事件で本人が特定できてその生を傷つける可能性もある報じ方、そういった状況に娘たちを向かわせてしまった親たちへのいらぬ誹謗中傷を招きかねない報じ方を極力、というか徹底して避ける必要があるにも関わらず、どこもかしこもドカンと顔写真を掲げて報じてのける。普段はリベラルな顔をしている癖に東京新聞なんてどこよりも大きく写真を載せて、そのパーソナリティも詳細に報じてた。そうやって人間を浮かび上がらせることによって悲しみの感情を増し、犯人成り犯罪への憤りも増すといった意見あろう。一方でいらぬ詮索も呼んで生活を無茶苦茶にしてしまう。どうすればいいか、ってことをきっとこれからも考え続けるんだろう。今はただ亡くなられた方々に心からの哀悼を。親族に心からのお見舞いを。

 そうか30年も経つのかマックスファクトリーが創立してから。秋葉原で10日から始まる「マックスファクトリー設立30周年 オメデトMAX展示会」の内覧会が9日にあったんでのぞいて来たけど「マジンガーZ」あたりから始まって「聖戦士ダンバイン」とか「新世紀エヴァンゲリオン」とか「バトルアスリーテス大運動会」とか「太陽の牙ダグラム」とかもう多彩なキャラクターをしっかりとした造形でフィギュアにしていて、メーカーとして海洋堂はまた違った確かさを発揮していたんだってことを改めて知る。どこか求道者的な雰囲気がある海洋堂とかと比べるとラインアップはポピュラーで、作家性より作品性を活かしているといった雰囲気。だから見てああこれだといった感じが強く出る。そんな気がした。

 「スポーン」のマクファーレントイズが大流行してアクションフィギュアが流行って海洋堂がリボルテックで世間を驚かせた後を追うように、バンダイがフィギュアーツなんかを出す一方でマックスファクトリーもfigmaを出して横並びな感じがしたけれど、今現在でアクションフィギュアのラインアップを定期的に出しているのはfigmaが1番。その源流にあたる「涼宮ハルヒの憂鬱」の長門有希とそしてSOS団の面々がずらり並んでいるのを見るに付け、時流を組んですばやく商品として出していく機動力も今の成功へとつながっているのかもと思った。まあ組んだグッドスマイルカンパニーが企業として製造から販売に至るラインをしっかり整えているってこともあるんだけれど。

 そんな展覧会で面白かったのがPLAMAXっていうプラモデルで出されたMAX渡辺さんの模型をモデラーが魔改造して並べたもの。ジャミラとかいたりヒーローとかいたり妙な感じになているのもあったりと勝手すぎるくらいに勝手な改造が施されていたけれど、顔はしっかりMAX渡辺さんになっていて造形力ってものを感じさせられた。これだけ勝手にされて当人、怒らないものなのか、でもやっぱり造形されるのは嬉しいのかも、モデラーだけに。新作もあったりしてそれらを見るのが何と無料というのが嬉しいところ。物販もあったりしたけれどデニムのエプロンとか何に使うんだろう。やっぱりエアブラシを吹くときには必須なんだろうか。そこまでのモデラーじゃないからなあ。ともあれ見て損なしの展示会。行くのだ。

 あーあ。石原慎太郎さんがずっとコラムを連載していた新聞に、最近連載が見当たらないからどうしたのって話を振られて答えて、対立している小池百合子さんが都知事に就任したあたりからかその後からか、どこかからかで編集局長が小池都知事に阿ってちょっと石原さんに連載を休んでくれないかと行ってきたとか。それってつまりはお前さんは小池都知事を讃えるのに邪魔だから引っ込んでいろと言ったに等しい話で、そんな無体な話はないと絶縁を申し出たという。なるほどそうだったのか、ってまあ何となく想像はついていたけれど。

 石原さんの連載が果たして良いのか悪いのかって話は別にあるものの、少なくとも長年に亘って1面でコラムを連載してきた人に対して、立場を現在の都知事より下に見るようにして押し出そうとすればご本人は腹を立て、聞かれれば経緯だってぶちまける。その時に被る悪印象を考えるなら、しっかりと礼を保って義を重んじで、引き下がって欲しいと願えばあるいは事情はそうと忖度しても、ぶちまけはしなかったかもしれない。けどそうしたケアすら出来ないまま、阿った挙げ句にそれを明かされてしまうというのがリスク管理上とても拙い。でもそうした方面への想像を働かせることができないまま信頼と評判を落とす結果を招いてしまった訳で、そんな積み重ねが今のギリギリを越えてしまったような状態なのかもしれない。参ったねえ。

 PKを与えてしまった1点目と2点目はまだ守備の位置をどこに置いてどこからプレッシャーをかけるのかが分からない中でカウンターを決められそうになって慌ててしまっただけって言えるけれど、3点目についてはカウンターではあっても数は足りていそうだった中でそれでも1の矢2の矢3の矢といった具合にブラジルの選手たちが真っ直ぐ突っ込んでいってはもらいかわして出し入れて奪うといった感じで鮮やかすぎて、これをやられてはかなわないと思うと同時にこれがやれれば良いのになあとも考えたサッカーの日本代表対ブラジル代表。後半は相手も緩めたかそれとも日本の守備が落ち着いたか得点を与えず、逆に日本が浅琢磨選手の鋭いドリブルによってブラジルを押し込める展開もあって、これが前半から出来ていればと感じたものの出来ないからこその日本だとも。その溝を半年かけて埋めていくのがワールドカップで日本が上に行くために必須だと言えそう。良い経験、出来たかな。


【11月9日】 2017ユーキャン新語・流行語大賞のノミネートが発表になって30個ある中に「けものフレンズ」が入ってうーがおーな気持ち。「すっごーい」とかいったセリフなんかが入る可能性も考えたけれど、それだと分からないのでセリフも含めた現象を引き起こしたという意味合いからタイトルとして「けものフレンズ」に肩代わりさせたんだろー。問題は受賞したとして誰が出てくるかってあたりで、アニメーションの貢献を大とするならたつき監督しかあり得ないし、そうでなければ福原慶匡プロデューサーになるんだけれど全体とするならKADOKAWAあたりの誰か。それか中心にいる吉崎観音さん。でも誰が出てもいろいろささくれ立ちそうなんでここは取らずに終わるか取って手打ちを見せつつ第2期への嚆矢とするなりして欲しいもの。期して待とう。

 想像するならやっぱり「35億」が強いかなあ、ブルゾンちえみさんによるギャグのセリフで今年の始めからテレビに出るようになってそのまま1年を走りきった。途中で終息してしまうギャグも多い中で普遍性を持ち得たってことなんだろうなあ。でも来年はどうなるか。「ダメよ〜、ダメダメ」の日本エレキテル連合は受賞をした翌年から敢えてギャグを封印する形になってすっかりテレビから遠ざかってしまっているし。ブルゾンちえみの場合は引っ張り続けてテツandトモの道を歩むか。議員サマのパワハラセリフとなった「ちーがーうーだーろー!」は耳に痛いんで受賞はないか。田中圭一さんの著書からとられた「うつヌケ」にもちょっと期待。社会一般でいくなら「インスタ映え」かなあ。受賞とともに陳腐化して欲しいもの。僕はそれより「けものフレンズあらーむ」映えを狙ってます。いつでもどこにでもサーバルちゃんな。

 朝からモーニングショーで「シン・ゴジラ」の特集。取り上げた玉川徹さんが自分は「シン・ゴジラ」が大好きで3回も見たと話していたけど、それって10が足りないか、あるいはケタが1つ足りていないと思ったファンもきっと大勢いるんじゃなかろーか。アニメーション映画なんで5回はまだまだ、10回でようやくで20回30回と重ねて見ていく人も大勢いるから。とはいえそこは一般ピープルの玉川徹さん、30回は大げさでも5回くらいは見ていて欲しかった。それくらいでようやく全体像も掴めるし気になってたい部分のロジックも分かるというもの。だから3回を自慢するなんて通俗だねえと思わないでもない。ただ普通は映画を1回見るののが一般だとするなら3回は多すぎるって判断になるんだろうなあ。

 害獣駆除か治安出動か害獣駆除かといった判断とその際の立ち回り方に関する話も前々から話題になっていることで、分厚い資料集とか読めばどういった議論が戦わされていたかも分かるからある意味で周知の内容だったけれど、一般の人が見るワイドショーの場でいったいゴジラはどういう扱いになるのかを、改めて問い直すというのは勉強になったかもしれない。立憲民主党を立ちあげた枝野幸男代表が政権にいたころに感じた立ち回りなんかあしっかり再現されていたと話していたけど、それだけに決定的な違いが気になったとも。それはやっぱりあのシーン、迫るゴジラから逃げようと総理大臣も官房長官も防衛大臣もまとめて同じヘリコプターに乗って撃墜されてしまうというもの。リスク分散を考えたらあり得ないというのは皆、感じていたけど改めて指摘があって納得がいった。庵野秀明総監督らがそれをどう言いくるめていたかはちょっと知らない。

 なぜこのタイミングなのかがさっぱり分からないのだけれど、想像するなら音楽という文化がパーソナルなものになっていってかつてほど流行歌がなくなりさまざまなシーンで音楽が使われることが減っていく中で、そうしたシーンからの上がりを糧にしていたJASRACの運営にもいろいろとガタつきが出る中で、取れそうなところを探しては取りに行くという動きが活発化。それが例えば音楽教室での演奏へと向かって教育という現場での極めてパーソナルな演奏からむしり取ろうとする動きへと向かって現場との軋轢を生んでいる。そして映画業界。過去何十年にも渡ってそれで動いていた仕組み、あるいはそうでなくては動かなくなっていた仕組みに手を突っ込んでガタガタ言わそうとしている。

 なるほど洋画1本につき配給元から18万円を受け取ったらあとはもうもらえないというのは少ないような気がするけれど、それを増やしたかったら配給元の上がりから一定率を抜き取ることを考えるのがまずは先。でも大手の企業が並んでいたり厄介な海外の系列が並んでいるのを気にしたのか、興行の側すなわち映画館から上映したらいくらか寄越せという方針に切り換えてきた。海外ではそうだと言うけれど肝心要のアメリカについての例示をしていない中、欧州ではそうだといった意見で突破しようとするのがまずは無茶が過ぎる。

 あとはそうしたお金を払わない中で長く興行をやって来て、利益を出せる水準になっている世界から一定額ではなく、売上の1%なり2%を抜けば途端に興行の現場は立ちゆかなくなるだろう。つまりは映画館が廃業となって映画が見られなくなってJASRACもアガリを得られないといった構図。まさしく角を矯めて牛を殺すの図式なんだけれど、そうした文化を殺しにかかることを音楽学校の件も含めて平気でやってくるのが今のJASRAC。クリエイターに還元だなんて行って管理していない外国の楽曲が使われている洋画の著作権料を聴取して、どうやって当該の著作権者に還元分配するんだか。まるで意味が分からないけれど、それを至極当然のように語ってしまえるところに疎まれる原因があるんだろう。とはいえ権力の走狗でもあるだけにどうなりかが心配。名画座での洋画はお金が払えないから音楽抜きの上映なんてことになったりして。

 過去が変われば現在が変わってしまうから過去を変えるのは問題だけれど、過去を変えたからこそ今があるのならそれはやっぱり過去を変えなくてはいけないのかもしれない。この場合はどちらだろう。伊吹契さんによる「スノウラビット」(星海社FICTIONS、1500円)という小説で、太平洋戦争の終結からまだ間もない1950年ごろの東京に暮らす警察官の青年、伊瀬顕彦が数年前から知り合っている探偵事務所の若き所長という貝嶋やちるという女子から、かんざしを買えと進められて値切って買ってまずはちょっとした社会貢献を果たしたと思いつつ、歩いていたら今までとは違う場所へと紛れ込んでいた。

 そこは徳川家光公が滑る江戸の吉原。花魁道中の前に出たことを咎められ、追われる羽目になった顕彦はどうにか逃げた先で白笛という名の花魁に助けられ、お礼にと持っていた簪を渡すことになった。その後、また元の時代へと戻った顕彦は貝嶋からどうやら時を飛び越えるリープをしたのではないかと聞き、そして白笛という花魁が顕彦と別れてから数カ月後に足抜けをしようとして捕まり処罰されてしまったことを教えられ、どうにか白笛を助けたいと願い過去へと何度も行くようになる。その際に貝嶋から吉原のしきたりなどについて教えられ、現代の細工で作られた櫛を持ち込むことで金に換えて花魁に近づこうとする。

 そんな頑張りの中で、見世をもう年季奉公から解放されて出たというか、歳を重ねて居場所がなくなり小屋で身を売っていた女と知り合い、また吉原に出てきた木訥な浪人と最初は喧嘩になったものの警察官として覚えた剣道の突きを繰り出し実は弱かった浪人を退け、なぜか押しかけて来た彼を弟子にしながらチャンスをうかがう顕彦。そんな周辺にリボルバーの拳銃を使った殺人事件が頻発して、未来から別の誰かも来ているのかもしれないといった不安を抱くようになる。

 果たして顕彦は白笛を死ぬ運命から解き放てるのか。そしてその後は、といった展開から浮かぶ未来が過去へと干渉し、過去が未来を換えていくループの図。自分が行って助けたから自分が生まれ自分が行って助けることになるような円環が浮かぶ。それはひとつの帰結点ではあるけれど、誰かの代わりに誰かが不幸になることになってしまうのは心根として受け入れがたい。雁字搦めの時間の折から誰もが幸せになれる道を探って歩く展開が、あるいは続く物語があるのなら描かれて欲しいのだけれど。いつも元気な貝嶋やちるのその“正体”を知ってそこに至る健気で不安な日々を思い涙しつつ、今ふたたびの出会いがもたらされることも願って待とう、この後の展開を。


【11月8日】 何かアヤシゲなところが仕切っているのかと思ったら割と大学なんかが絡んでいてそしてJALとファミマがオフィシャル・パートナーに名乗りを上げたというから驚いた上に、発表会にはNHKだとか民放キー局各局がずらりとカメラを並べて取材に来ていてニュースにもなっていた感じで、それなりにしっかりしているのかとも思いつつ旗頭になっている東大院卒の天文学博士の女性社長という要素に引きつけられているだけなのかもとも思ったりして、やっぱりどう評価したら良いのか迷っていう民間宇宙企業、ALEによる「SHOOTING STAR challenge」すなわち人工流れ星プロジェクト。

 夢だとか希望だといった言葉が飛び交った1部はさておき技術的な説明があった2部を聞いていて、衛星を飛ばして太陽同期軌道で地球の上を回しつつオーストラリア上空あたりで流れ星の元となる粒を放出するとそれがだんだん高度を下げて広島上空あたりで圧縮断熱から光を放って数十秒間輝き続けるといった展開に、技術的な確信はそれなりにもっている模様。衛星の姿勢制御だとか放出のタイミングだとかいった難題もあるし放出時の反力なんかを気にする気にしないといった問題も考慮しているみたいだし1粒ずつ出していったものがその際の操作で直列でなく横なり斜めなりに編隊を組んで光を放つようにするのも大変だけれど出来るといった話。そうは簡単ではないとは思いつつ、東北大学出の繻エ聡文CTOなりキャノン出身の蒲池康チーフエンジニアなり、それなりのキャリアを積んでいる人たちが研究開発に勤しんでいるみただからきっと来年の打ちあげ時までにはきっちり仕上げてくると思いたい。

 そんな2人に比べると社長で東大卒で院まで出ているの岡島礼奈さんの言葉がやっぱりどこかふわふわしていたのが気になった発表会。というか天文学博士で星については専門であっても航空宇宙工学についてプロフェッショナルって訳ではなくて、人工的に流れ星を作りたいという一種のドリームを打ち出しはしたけど、その実現に向けては工学の人たちの力を借りて自分はスポンサー獲得に努めるといった役割分担をしているのかもしれない。いろいろと聞かれていたけど具体的な答えはしていなかった感じだし。

 まあ夢を打ち出しそれに大勢を引っ張り込めるのも才能だからそれはそれで。ただやっぱり実際にどれだけのものが見えるのか、ってのが気になるところで、本当に軌道から正しい方向に粒を打ち出してもそれが圧縮断熱で燃えて輝くかどうかっていう保証は実はそれほどなかっりするし、どれだけの輝きになるかってのも想像がつかない。シミュレーションして分かることなのかってのも気になるところで、当日の空を広島から見上げても何か空を小さな光点が横切った程度で終わったりしそうな予感がちょっとしている。

 1986年に地球に近づいたハレー彗星も前評判の割には当日あたりになっても尾なんて見えず彗星そのものがほとんど見えなかった記憶。大学から車で渥美半島の太平洋岸に行って真っ暗な中を空を見上げて雲みたいな感じにたなびくハレー彗星らしき存在を見たような記憶があるけれど、それがハレー彗星だったのかどうかは定かではない。そんなガッカリを誘うかどうか、ってのも今から注目してたりする。ちょっと意地が悪いか。まあ別に自分がお金を出したものでもないし、頑張ってやって凄かったらすごいと思うだけ。それが高層大気の研究だとか再突入の研究につながるのなら嬉しい限りでそこから新たな知見が得られ、日本の航空宇宙工学の発展なり地球研究の進歩なりにつながってと願って成り行きを見守ろう。

 言ってる自由民主党も大概だけれど書いてる毎日新聞も意味を理解して書いているのかどうかが怪しく思えてしまう。例の大学授業料の無償化について卒業してから年収がそれなりにもらえるようになってから“出世払い”で返してもらうという話。そもそも無償じゃなくて借金に過ぎないこの仕組みをさすがに毎日新聞も“無償化”とは書けず“出世払い”と聞こえの良い言葉を引っ張ってきたけれど、250万円だとか300万円くらいになったら返してもらうってそれ、普通に就職して大卒初任給の平均をもらって賞与とかつけば超えてしまう数字であって、つまりは卒業した翌年か翌々年から返済が始まるって考えた方が良い。奨学金といっしょ。そして奨学金よりも多くもらっているケースもあるから20年が期限といってもそれなりの返済額が毎年のしかかってくる。

 そんな制度を評価して毎日新聞は「子供の進学に備えた親の貯蓄を、消費に回すことも期待される施策だ」なんて書いているけどとんだポン酢ぶり。親が払うお金は少なくなっても、卒業してから子供の収入が返済にとられて消費に回らなくなるだけだろう。なおかつ厳しい年収の中からやりくりしていたら、結婚とか子作りにも影響が及んで踏み切ろうとする気を削がれてしまう。ただでさえ婚期の遅れが言われ少子化が言われる中で若い世帯の収入を増やし消費を増やして支えるべき政府が若い世代からむしり取っては経済的にも社会的にも大打撃。そんな可能性を官僚出だっていそうな自民党の政治家が分からないはずはないし、そそれなりの学歴を持った新聞記者が想像できないはずもない。それともできないのか。だからこの国はこんな風になってしまったのか。そうかもしれないなあ。参った参った。

 出来たばかりのTOHOシネマズ上野で「けものフレンズLIVE」の上映会があったんで見物に行く。6列目くらいでまあ見やすい上に上映後の出演者によるトークも聞きやすくて楽しく過ごせた約2時間。ライブの方は豊洲PITで昼と夜とに行われたうちから夜の部をピックアップして冒頭のコツメカワウソとマーゲイを演じていた人たちによる前振りから入ってアンコール前までをカットせず流したといった感じ。現場でも見ていたけれども曲数のそれほど多くない中を舞台「けものフレンズ」のメンバーや楽曲も入れてつないでいって楽しく賑やかなライブだったことを改めて思い出した。かばんちゃんが登場して歌う「きみのままで」とかサーバルとアライグマとフェネックのどうぶつビスケッツ院よる「ホップステップフレンズ」はやっぱり良い曲。CDではなく舞台で歌われるものを聴けてとても良かった。DVDはやっぱり買おう。

 トークイベントではフレンズ化してないファッションで並んでいるので尾崎由香さんくらいしか視認できず、そんな尾崎さんも電車で通っているというからフェネック役の本宮佳奈さんもコウテイペンギン役の根本流香さんもジェンツーペンギン役の田村響華さんもそのままではやっぱり街4人掛けのシートで前に座られても分からないような気がする。かといって扮装してたらバレバレなんで難しいところ。口調でもって特長を出してくれたら嬉しいけれど、別に普段からそういう喋りをしている訳ではないからなあ。難しい。そんなトークの最後の12月発売の「フレ!フレ!ベストフレンズ」のPVが流れてなんかテレビアニメーション「けものフレンズ」の12話からつづいていった展開を思わせる光景だった。もしかしたら第2期の主題歌になるのかな。っていうか第2期はちゃんと出来るかな。出来て欲しいな。もちろんたつき監督で。切なる願い。

 やっぱり早く誰かがどうにかしないと暴言が暴力を読んで取り返しの付かない事態を招きかねないと思わざるを得ない。某作家とか某美容整形医とかが韓国でアメリカのトランプ大統領を面会した元従軍慰安婦という女性を論って差別的な言葉をぶつけていたりするけれど、あの戦時下の外地における慰安婦って半分くらいは日本人でもあった訳で内地だったら大半がやっぱり日本人で、食えず仕方なくそちらへと足を踏み入れてしまった少女たちも含めた我らが同胞にも向かって侮蔑的で差別的な言葉を吐いていることに他ならない。黙ってはいても親族にそうした出自の人が周囲にいたりする可能性も鑑みるなら、人前で公言することは避けるべきだし思うことすら改めるべきなんだけれど、目の前の気に入らない存在を貶められればそれでスッキリできてしまう心性が、気配りなんてものを放り投げても汚い言葉を吐かせてしまんだろう。やれやれだ。まったくもってやれやれだ。


【11月7日】 「千人針だよね」といった反応がネットを駆け巡ったサッカー日本代表の新しいユニフォーム。来年のロシアでのFIFAワールドカップ2018ロシア大会でも着用するユニフォームだから後生に残るものになるはずなんだけれど、見た目のかつてない珍奇さにこれを買っていいものかと迷うファンとか出てきそう。まああごの下に赤い□が入ったユニフォームだって登場時は異常としか見られなかったけれど、着ているうちに馴染んできたから千人針もいずれきっと慣れるんだろう。

 選んだ日本サッカー協会の側では一応は「刺し子柄」ってことになってるし、赤糸が基本の千人針とは違って白糸だから刺し子柄でも正しいといえば正しいんだけれど、戦う姿勢を見せてのぞむ試合に着用するならむしろ千人針の方が勢いとして相応しい。だったらいっそ赤い糸にしてしまえばもっとそれっぽくなったかも。アウェイを白地にして赤い糸を通すとかすればそっちを買ってしまいそう。どうだったっけアウェイ。なでしこジャパンも基本は同じ柄だけれど衿の所の色が男子は赤なのに対して女子はピンク色になっていて、青地に対して尖ってない感じでこっちの方が馴染みそう。2018年は大きな大会もないんで着る機会もないけれど、ワールドカップを目指し始めたら買って応援に行くかなあ。

 めてモビルスーツで宇宙に出るということがどれだけ不安で恐ろしいかを体感させてくれるVRだったよ「機動戦士ガンダム 戦場の絆 VR PROTOTYPE Ver.」は、4人対4人で対戦するものでそれぞれジオン公国軍側、地球連邦軍側に別れてまずは作戦会議。その時に自分が何に乗るかを決めるんだけれどやぱりジオン公国軍となれば乗りたくなるのかザク2(S)、すなわシャア専用ザクって奴で真っ赤な機体で戦場に出ては手にした対艦ライフルでもって迫ってくる地球連邦軍の戦艦を打って当てて沈めれば勝ち。すなわち勝利を左右する重責を担う。ただしそれは文字通りの責任であってうまく操縦できずに戦艦に迫れず撃っても当たらないまま、地球連邦軍から発信してきた白いモビルスーツことガンダムにビームライフルで狙撃されて破壊されたらミッションがこなせなくなってしまう。

 そこで復活はできるけれども戦場から遠のきその間に戦艦はジオンの陣地へと迫ってそれで地球連邦軍の勝ちに。素早い移動と的確な射撃、そしてガンダムやガンキャノンの接近に対して戦い退けるだけのスキルってやつが赤いモビルスーツを駆る人間には要求される。それだけの覚悟を持っていなければプレイをして失敗をして撃退されて敗北への道を辿った時、恥ずかしさに心は痛みを覚えるだろう。そうはなりたくなければ緑のザク1を選んでザク2(S)の護衛に周りガンダムやガンキャノンを退けて勝利に貢献すべし。それがジオン公国軍側に大切なことだ。

 だったら地球連邦軍側は。こちらもやっぱり誰もがガンダムでビームライフルを操り遠くに見える赤いザク2(S)を狙撃し破壊しては戦艦をジオン公国軍の陣地へと近づけ勝利に貢献することをしたがるだろう。けれども赤いザク2(S)に乗るのと同様にこちらも今度は小さくて点のようにしか見えない、そして見方のガンキャノンと交じって見分けが付かない赤いザク2(S)を見つけてはビームライフルで狙撃して落とす必要がある。ジオン公国軍側を持って大きな戦艦を狙っているのとは訳が違って、本当に遠目にしか見えないザク2(S)を素早く見つけてしっかり狙わなくてはならない。

 そしてそんな狙撃の間にもザク1が襲ってきてはガンダムの邪魔をするから大変。かわしつつ狙って撃って外せばザク2(S)は手にした対艦ライフルで地球連邦軍の戦艦を撃って沈めて自分達を勝利へと誘ってしまう。だからガンダムを選ぶのにも相当な覚悟がいる訳で、それができなかったらガンキャノンを操りガンダムを守ってザク1やザク2(S)の邪魔をするしかない。そうしたバイプレーヤーとして活動するのも決して悪いものではないし、そうやっているうちに操縦を覚えて次は赤いザク1(S)だ、あるいは白いガンダムだとなっていくのが良いかも知れない。

 とにかく本当にモビルスーツ戦を、それもアーケード筐体でメインの地上での戦闘と違って前後左右とそして上下も含めて移動して戦う宇宙でのモビルスーツ戦を楽しめる「機動戦士ガンダム 戦場の絆 VR PROTOTYPE Ver.」。最初の体験ではきっと誰もが本当に自分が宇宙へと放り出された気分になろうだろう。そして「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」で登場してジムで宇宙へと出て行った新兵たちの不安と恐怖を味わうことになるだろう。デブリが散らばった宇宙空間での戦いは、そんな「サンダーボルト」も意識したとか。今一度作品を見返してからVR ZONE SHINJUKUへと足を運んでみても良いかも知れない。期間限定でのテストプレイなのでそれを逃すとしばらくは店頭に出てこない可能性もあるので自分こそがシャアである、あるいはアムロであると自慢したい人は、それがハズレで冷たい視線を浴びても気にせず開き直れる神経の持ち主はかけつけ選び戦って勝て。あるいは散れ。

 恵比寿ガーデンホールで発表会があるんで新宿から恵比寿へと出向いてガーデンプレイスへと入ると、恵比寿駅からずっと歩いてきて地下に降りてまずは目にする一角から店が消えていた。靴やさんとか服屋さんとか子供の服屋さんとかいろいろあったのに。潰したままにするのか改装するのか。オシャレな街には変わりがないけどそこに来て高級ブランドを買う場所ではなくなっているからなあ。かといって地域のためのスーパーだとか雑貨だとかを売ってペイするとお思えない。曲がり角に来ているのかもしれない。元より駅からとてつもなく遠い場所。こうなるといっそ「劇場版ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」の聖地としてコスプレとAR戦を楽しめるようにするしかないのかも。それもまた違いすぎるか。

 時間もあったんで東京都写真美術館へと入ってまずは「総合開館20周記念 TOPコレクション 平成をスクロールする 秋期 シンクロニシティ」って展覧会を見物。原美樹子さんとか朝海陽子さんとか金村修さんとか野口里佳さんとかいったあたりがならんでアラーキーに大道に紀信にといった世代からは確実に変わっていることは実感する。けど本当に若い世代となると実はあんまり分からないのだった。というか違いをくっきりと感じさせる写真家ってどれだけいたっけ。それはそうした場所へと向かうための登竜門となっている「写真新世紀展2017」をのぞいても分かるけれどもポートレートに風景といったあたりが中心で、グッと来るものがあまりない。

 いや、優秀賞となったトロン・アンステン&ベンジャミン・ブライトコフってアーティストによる映像作品「17 toner hvitt」が何か雪原を鎌でひっかいていたり雪洞にもぐっていたりする人々が映し出されていて極地めいた場所での制約された静謐な行動への関心を引きつけられはしたけれど、これって映像で写真ではないものなあ。溝渕亜依さんによる「ID」て作品はインスタグラムでかわいい子を探してその子たちの真正面からのポートレートを取って並べる作品は、選者が澤田知子さんだという時点でその呪縛の範疇にあって突き抜けていない。良く集めたね良く撮ったねよく並べたねといった関心は持ててもその先で自分をぶちまけた澤田知子さんを超えて行かない。だかあ選んだ? 自分を負かせないから? そうではないけどでもやっぱり次が厳しい。

 好き、と思えたのは佳作に入った宮下五郎さんの「WINDOWS」で、走る中央線快速だとか特快だとかの車窓をとらえて中に立つ人揉める男女疲れたおっさん胸がガラス越しに見えてキュッとくる女性なんかが見えている写真を集めていて、都会に暮らす人たちの日々ってのがそこから感じられたのと、それを横長で車窓を切り取るようにして映し出していたパターンの集積がちょっと気持ちよかった。ただおそらくは勝手に撮っているだろうから写っている人たちなんかを鑑み写真集かはなさそう。昔だったらそういう街撮りの写真も普通に本になっていたけれど、昨今はSNSで拡散されてこれ自分だと言われ騒がれるリスクもあるから難しい。見るならだから東京都写真美術館で。

 フロアを買えて「長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」もざっと眺める。デビューしたあたりからずっと見てきた写真家で家族が裸になって戯れる写真の当時としての主張の強さはエポックメイキングではあったけれど、好きかどうかと言われるとちょっと生々しすぎて敬遠しているところがあった。お案じガーリーな写真家だったらHIROMIXの方に気持は傾いていたかなあ、コンパクトカメラでぱちぱち撮っても巧いし大きな写真機で街を撮ってもどこかに当人の空気感が漂う。アーティストのポートレートにも引かれるものがあったっけ。最近はどうしているんだろう。

 同時に木村伊兵衛賞を獲得した蜷川実花さんだけはそのコマーシャルに展開可能な毒々しい色合いでもって今なお最前線。「TOPコレクション」の方にも作品があってトリを飾る感じに並べてあって、いかにもな蜷川実花さんぶりを放ってた。変わらない強さ。でも同時にどれをとっても変わらないといった印象。そう思うと写真家としての立ち位置で定点を見続けながら少しずつズレて来ている長島有里枝さんは、覚悟として写真家をやり続けているのかもしれない。アメリカを写したシリーズとか自然をとらえた縦長のシリーズは良かった。これから20年、どんな写真を撮っていくんだろうか。眺めていたい。


【11月6日】 そして見た「クジラの子らは砂上に歌う」は罪人である過去を清算するために泥クジラごと砂の海に沈むことを決断した長老会だったものの、謎めいた少女ネリに引き込まれるようにして飛び込んで来たチャクロとリコスがヌースファレナに矢を射かけようとしている自警団に立ちふさがったことでハクジ以外の長老会が揺れ動いていったん停止。そして来たる帝国の軍団を迎え撃つことが決まってそこにオウニも乗って以後、本格的な戦いへと向かって動き出すことになった。そこでは団長のクールな戦いもギンシュ姉さんのちょこまかとした戦いも見られそうでちょっと楽しみ。

 もちろん苛烈な戦いになるようで舞台「クジラの子らは砂上に歌う」とは違って漫画がリアルに描かれることもあって大勢の死とかが出てきて心を痛めそう。でも逆にオウニのような凄まじいサイミア使いの暴れっぷりと、そして敵方ではリョダリの無茶苦茶さが画面いっぱいに描かれることになるだろうから、アクションとして存分に楽しめそう。そんな果てに掴んだ解放の先、サイミア使いの印し持ちがどうして短命なのかが分かってもなお、彼らは泥クジラに居続けることを願うのか否か。進んでいる漫画の方で突きつけられているテーマのその先が今は気になっている。いつかたどり着くことになっている平穏へと、向かう足取りは紆余曲折いして山あり谷あり。その過程を今はしっかり追いかけていこう。

 2016年の11月12日に日本で映画「この世界の片隅に」が公開されてもうすぐ1年。興行収入得が26億円を突破して長編アニメーション映画ではなかなかの数字を叩き出し、それよりちょい前に公開されて23億円を稼いだ「映画 聲の形」や250億円という驚異的な収入を稼いだ「君の名は。」に続くように、アベレージで10億円20億円稼ぐ劇場アニメーション映画が出てくるというか、劇場でアニメーションを観るというスタンスが情勢されて後に続く作品が出てると思ったら、これが案外に出てこない感じ。

 12月に公開された「ポッピンQ」は中学生の卒業までを描いて終わっていたはずの物語に、続編作るぞエンディングがついて興を削がれたし、今年3月公開の神山健治監督による「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜」は監督のネームバリューで走るかと思ったらあまり爆ぜなかった。4月公開の「夜は短し歩けよ乙女」と5月公開の「夜明け告げるルーのうた」を立て続けに発表した湯浅政明監督の2本は好きでそれぞれ3回以上は見たけど、世間的には果たしてどうだったか。10億円には届いていないんじゃなかろーか。

 ポスト「君の名は。」として期待された「打ち上げ花火、下から見るか横から見るか」なんて5回は見たけど、封切り日にスポーツ紙がぶち上げた興行収入40億円は確実だなんて報道は欠片もあたりはしなかった。雰囲気だけでいい加減なことを言って煽るだけの輩が、メディアの要として存在し続ける映画宣伝の陥穽が見えた感じもした。これも3回は見た「きみの声をとどけたい」も口コミこそあってもそれほど浮かばず。結局、アニメーション映画の活況に続いたのは「ソードアート・オンライン−オーディナル・スケール−」と「Fate/stay night[Heaven’s Feel]」くらいで、言ってしまえば原作好きのマニア向けだったりする。

 あっと、米林宏昌監督による「メアリと魔女の花」があったっけ、でも出身母体のジブリほど稼げたかとうとそうでもないし、前作「思い出のマーニー」にも及ばなかった。アニメ映画が一般層も巻き込みジブリ化してく道はまだ遠いというか、果たしてジブリ化する必要そのものがあるのかどうかというか、いろいろと考えさせられるこの1年。今もなお舞台挨拶に回って作品を推し続ける片渕須直監督の凄みを改めて感じつつ、そうやって自分の作品を世に広めようとする意識なしに、流れに沿って見てもらえるかもと思うことの間違いにも気付かされた。「ノーゲームノーライフ ゼロ」はどれくらいいったんだろう。これも3回見たって。

 まあ、いくら2016年にアニメーション映画が見られたといったところで、口コミで「この世界の片隅に」は見たけれど「ひるね姫」とか「ルー」とか「きみ声」とか見たという人が多くいる訳ではないし、それらを自分のものとして見る義理もない。同じアニメーションとは言え別作品なのだから、傾向が違えば見なくて当然な訳で、自分と関わりのある見知った原作のアニメ化なりを観に行く人が多くて当然だろう。ただそれでも願うなら、2016年の活況を経て染まった1%でも2%でも残って、オリジナリティの高いアニメーション映画を見続けようと思ってくれれば嬉しなあ。岡田麿里監督作品「さよならの朝に約束の花をかざろう」とか原恵一監督の新作、細田守監督の新作が控える中、これらが10億円20億円をコンスタントに稼ぐ社会の到来を願いたい。

 日本の実業家が日本の空を飛ばしたいと言って復元し、日本へと持って来て飛ばした零戦がもう面倒を見るお金がないんで売りたいといっている話。見てくれは零戦でも素材とかはロシアで復元のためにあてがわれたものだったり、エンジンも零戦が積んでいたものではなかったりしてレプリカに近い雰囲気もあるんだけれど、それでも一応は零戦ということで心躍らせながら日本の空を雄飛する姿をながめていた人もいたっけ。それがちょっと傾いては日本の誇りと訴え尊ぶライト系がいて、逆に兵器が空を飛ぶなんてと毛嫌いするレフト系もいて、飛ばすこと自体が厄介になっていたことも実業家をしてこれ以上面倒を見る気を無くさせてしまったのかもしれない。

 不思議なのは2013年8月末に所沢の航空記念公園で行われた、これは本物の栄エンジンを搭載した零戦のタキシングを観に行ったことがあったけれど、ちょうど宮崎駿監督の「風立ちぬ」が公開されていて堀越二郎による零戦の開発ストーリーが話題になっていたこともあってか、右だ左だといったイデオロギー的に問題視する声はなかったし、か逆に称揚とかする声もなくて純粋に映画にも出てきた昔の戦闘機が今も動いてエンジンを回しながら動く姿を堪能していたっけ。

 それから4年。零戦が空を飛ぶにことに批判の声が上がりつつ、一方で大和魂の称揚めいた声もあがってぶつかり合うようになったのは、世間の空気がそうしたライティーに傾きカウンターとしてのレフティーも沸き立って、分断された中を罵り合っている状況を映したものかもしれない。これがある以上は実業家の零戦も普通には売れなさそう。カレー屋も始めたホテル屋さんとか美容整形外科医さんとかではライトに傾きすぎて普通に観てもらえなくなるし。かといって靖国が買うとも思えないし。飛ばせなきゃ意味がないものだけに所沢に持って欲しいけれど。さてもはても。

 そういえば「国威発揚を文化を通じて行っていく」という言葉に引っ張られるようにして、文化功労者として表彰されたアーティストの杉本博司さんに国粋的だとかアートを政治に利用する態度だとかいった批判が浴びせられているようだけれど、そのコメントを全文読むと国威発揚というタームは最後の最後に出てくるもので、そして国家という概念を形作るものとして杉本さんが挙げているのが縄文文化。「私は日本文化の特殊性は、その豊かな自然に囲まれて過ごした縄文の1万年によるのではないかと考えるようになりました」と言い、森を壊さず木を切らないまま自然を大切にしていく感性をこそ日本人の特長で、それを広げていこうと言っている。

 これって現在の政府とかがやっている自然を壊し地方を破壊し社会を分断し格差を広げる政策とはまるで違う。国威発揚とは現行の政体を称揚するものではなく国粋主義的な感性の発露でもなく、それらに背くプリミティブな精神を世界に知ってもらおうって感じで、むしろ現在の政策とか日本全体が向かっている方向性を批判しているようにも思えるんだけれど、強烈なタームがピックアップされて広められると、あの杉本博司さんですら国家的アーティストにされてしまうから不思議というか。世界の廃墟となった劇場を撮り、真っ暗な海岸を撮り、「今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない」で始めてさまざまな職種や立場の人間たちが滅び去った世界を振り返る文書を綴った人間が、開発に勤しむ現行の社会を称揚しているはずがないじゃないか、って思うんだけれどそこまで深く考える人はいないか。だからこそ知られて欲しいロスト・ヒューマン展。またやってくれないかなあ。


【11月5日】 愛知県であんまきといったら知立にある藤田屋の大あんまきで、最近は国道沿いの本店に限らず地方にも出店があって、コンビニめいたところでもパックされたもんが売ってたりして、昔に比べて食べやすくなっているけどそんなひとつかと思った「ブラックサンダーあんまき」は、豊橋に本拠を置くお亀堂ってところが出していたみたい。食べれば中がザクザクとしてブラックサンダーならではの食感が味わえるとか。特に愛知に地縁がある訳でもないブラックサンダーがどうして豊橋のあんまきと組んだか。分からないけどちょっと面白いし美味しそう。名古屋に帰省する際に豊橋に寄って買っていくか。それまで売っているかなあ。

 なんだかなあ。そしてやっぱりなあ。浜松オートレース場で行われていたオートレースのスーパーグレードという最高峰に位置する全日本選手権、その準決勝というレースを前に出場していた森且行選手を、昔同じSMAPで歌い踊っていた3人のメンバーが訪ねたという話が妙な美談として伝わっている。でも、「この日のレースは最下位の8着に沈んだ森。3人が訪れることは事前に知っていたという。周囲には黙っていたが『ソワソワしてない?』と、他の選手から焦りを指摘されていたことを明かした」ってニュースを聞くにつけ、いらぬ訪問が森選手を緊張させたことが分かって来てやるせない気持になった。

 さすがに周囲の選手には言ってなかったみたいだけれど、それでも「『周りの人が気付くくらいの焦りがあったんだ』と香取」と報道にあるくらい、当人のガチガチ感は相当なものだった感じ。結果、SGへの優出は果たせず、そして今日行われた一般戦でも最下位に沈んでしまった。もしも元メンバーが来なかったら、緊張することなくレースに臨んで勝ち、かけていた人を潤わせたかもしれないのに、予期せぬ要素でそれも避け得た要素を受け入れ結果を狂わせた。これがどうして美談なのか。これにどうしてオートレースファンは余計な手出しによって外れをつかまされたと怒らないのか。まったく訳が分からない。そういう話も伝わって来ない。ジャニーズへのタブーとは別の意味で、メディアには元SMAPへのタブーがあるのかもしれないなあ。

 「リメンバー・パールハーバー」は誰がどう言い繕うとも日本軍による真珠湾への奇襲に対する批判であり、絶対に忘れないという怨みの言葉であって、そこに日本とアメリカ合衆国との関係を新たに築き直そうとする意図などない。そしてもちろんアメリカ人のとりわけハワイに暮らす軍人や真珠湾の軍港で働いていた人たちの関係者が、奇襲によって知人なり親族の命を奪われたことをいつまでも無念に思い続けて「リメンバー・パールハーバー」と言い、それに応えるゆにしてアメリカ合衆国の長たるドナルド・トランプ大統領が同じ気持ちを吐露して「イメンバー・パールハーバー」と訴えることに間違いは無い。ただし。

 その怨みをぶつける相手である日本への来訪を直後に控えた時点でそれを言うことはどこか違うし、そうしたことを言った相手を手放しで歓待するスタンスもやっぱり違う。怨みと怒りを口にしたその身で当該の国へと行ってその為政者と、そしてそれは戦争に大きく関わった者の孫であるといった経歴の持ち主を笑顔で握手をしてゴルフを始める大統領を、いったいアメリカ国民はどういう目で見れば良いのか。場当たりの同情をして鼓舞をしたその先で、手の平をくるりと返して恨むべき相手に笑顔を向けるリーダーなんて信じられないし、信じたくもないだろう。

 一方でさっきまで自分たちに怒りをぶつけ、怨みをぶつけていた相手を日本はどういう顔で迎えるべきなのか。外交的には講和条約によっていったんの解決が見られた問題を、今なお繰り返して叫ぶ相手を笑顔で迎えたら、それは外交的に過去のあれやこれやを今に持ち込んで良いってことになる。だったら戦前から戦時下へと続いた併合、にも関わらず繰り出されていた差別的な扱いを、その後の条約によっていったんは収めたと思っている相手の韓国が、アメリカと同じように日本への怨みを口にすることを、終わった話と批判するのも違っている。アメリカが言えばスルーで韓国が言えば怒るその心性がどうしようもなく厄介だ。

 すぐ鼻先で侮蔑とも言える態度を取られたこの国のライティな人たちが、全力で批判の狼煙を上げないという状況もやっぱりどうにも不思議でならない。むしろ街頭で星条旗を掲げ、ウエルカムトゥジャパンといった言葉を英文で綴って掲げながら演説しているライティーな人たちがいたりする状況はいったい何なんだろう。それが愛国なのか。ちょっとよく分からない。むしろ愛安倍だろう。だとしたらどうしてそこまで安倍総理を愛するのか。それはアメリカ合衆国ではない別の方面に敵を作ってもらって、それを非難することで溜飲が下がるからなんだろうなあ。悪罵のはけ口。それが日本の国を分断して囲い差別していく連鎖を呼んで、いつか自分たちが排除される側に入るかもしれないというのに。やれやれだ。

 中途半端に発達した科学は魔法にはまだ及ばないにしても、魔法の要素を必要としないで魔法的なことができてしまう科学はやっぱり捨て置くことはできないといった雰囲気が漂う時代。どちらかではなくどちらも取り入れることによってもしかしたら、世界は大きく発展していくのかもしれない。そんな可能性を感じさせる物語が尾野灯という人による「群青の竜騎士1」(ヒーロー文庫)。扶桑という国の貴族の子ながら国を出てテルミアという国の空軍に入り複葉機を飛ばしている結城文洋が、三都同盟という敵対勢力との交戦を続ける中でそんな敵対国のひとつで貴族の家柄に生まれ、魔法の優れた力を持ったレオナという少女と出会う。レオナは戦闘の最中に堕ちて文洋が暮らすアパートの大家にして長命のエルフ、ローラに拾われていた。

 三都同盟との戦闘はテルミアという国を守護する竜が起きて起こって向かってくる敵を粉砕したためいったん中止に。そんな中でレオナは故国で策謀に巻き込まれて戦場へと出されあわや戦死という状況に追い込まれてて、そして弟のルネが今も故国に残って権力者から圧迫を受けているといった話をレオナから聞かされた文洋は、知人で貴族で軍人の男の助けも借りながらレオナの弟を救出に向かう。そのために必要なパスポートめいたものを取得するため文洋はローラと結婚し、レオナを養女に迎えるというから結構な大技。それが進んでしまうところが展開の早いネット小説上がりといったところかもしれない。

 見た目は若くても実際は結構な歳で、なおかつずっとそんな容姿が続くローラが人間に過ぎない文洋を夫に迎える心情はいろいろと想像したいところ。見送る悲しみはあるだろうし、文洋に置いていく寂しさを味わわせる悔しさもあるだろう。それでも一緒になったのはレオナを助けたいという意識とは別に、やっぱり文洋に感じるところがあったのかも。いったい文洋の何がローラを引きつけた? ちょっと知りたいところ。ダークエルフの飛行機乗りも引きつけてしまうあたりに日本男児的な雰囲気を持った文洋の実直で真っ直ぐな気質ってものが効力を発揮しているのかも。冒険を経てもルネは得られず、それでも三都同盟との戦いは続く中、決戦へ望んだ文洋たちの行く末は。そしてルネの行方は。読み終えてさらに先を想像すると楽しい1冊。続きを待とう。


【11月4日】 映画「この世界の片隅に」を海外に普及させるべく片渕須直監督やご一行の海外渡航を支援しようクラウドファンディングに応じた人たち向けの報告会がいよいよ開かれることになって、その第1回目が横浜市教育会館で開かれたんで見物に行く。題して「『この世界の片隅に』海外渡航報告会」にはアニメーションにおける英語の指導なんかをよく行っていたり、海外への展開を手伝っていたりする兼光ダニエル真さんが登壇して、片渕須直監督とともに海外での受け止められ方、海外におけるアニメーション状況などを解説していた。

 世界的にあまり興味を持たれていないだろう、日本における太平洋戦争かの地方都市に生きる少女の物語なんてものを世界に広めるには、やっぱり相当の背景説明も必要なんだろうけれど、そうしたことを記者向けにやりつつ貧しく厳しい環境に生きる女性の物語といった、これは世界に共通のテーマをしっかり描いたことで世界に広まっていったみたい。それはやっぱり作品が持つ強さってことなんだろう。メキシコでは戦争が長く行われていないから戦時下といったおとへの想像が薄いみたいだけれど、一方に貧しさがあって母親が自分に食事を作ってくれた思い出を元にすずさんの調理シーンを見た女性がいた。分かるんだろうなあ、あの苦労。

 報告会の内容は海外での映画祭とか現地での公開へ参加された片渕須直監督やのんさ真木太郎プロデューサーの映像や海外での反応を伺う映像を流していく感じ。詳細は今後の報告会で見る人もいるだろうから割愛。フランスでは上映の後にカルチェラタンのシアターか何かで語り続ける人たちが捉えられていて、その中にいて質問に答えていた女性の背後に「夜明け告げるルーのうた」のポスターがあった。こっちも売れて欲しいなあ。今回以後も続く報告会では、参加されるメンバーも変わっていくかがちょと感心。今回は司会の山本さんもいれて片渕監督と真木プロデューサーと兼光ダニエル真さんの4人。東京では監督が海外から映像で参加されるんだっけ。つまりは現在進行形で海外渡航は続く。その先に何がある? オスカーーーーーー! だとイイナ。

 やっぱりこの国は、そして政治は内側から傷んで軋み始めているのかもしれない。まずはイバンカ・トランプ米大統領補佐官の来日に関連して日本国総理大臣が会食をしたという事例。なるほど現職の米大統領の娘ではあっても政府の中では一介の大統領補佐官に過ぎず閣僚ではない。そして閣僚であってもカウンターパートナーがいて国務大臣なら外務大臣であり国防大臣なら防衛大臣といったところが同格として相手をするのが外交的な秩序といったもの。にも関わらずただの大統領補佐官を相手に総理大臣がわざわざ店の前まで出て迎え歓待するという姿を世界にさらしてしまった。

 大統領の娘に傅くそのニヤけた顔を見て世界は何を思ったか。日本人は、そして国を愛する本当の保守ならその下卑た態度をこそ国辱と叫び責めるべきなのに、我らが安倍ちゃんのすることはすべて正しいと思い混んでいるあたりに支持者も含めてこの国の真っ当さの崩れようってものが伺える。そしてもう1件、大学の授業料無償化に関する話で、なぜか自由民主党では在学中は無償化するものの、卒業して稼ぎ始めたら取り立てるとか言い出した。それって無償じゃないじゃん、ただの借金じゃん。

 授業料が50万円ちょっとで入学金も合わせて4年だったら250万円ちょっとくらいを卒業してから返せとなって、10年払いなら年間25万で25年で利子とか入れたら15万円くらいになるかもしれない。それを年収が250万円になったら支払えといって年収からそれだけ払っていったい手元にどれだけ残る? 年を重ねて家族を持って子供も出来てやれ学費だ何だという時に、親の学費を実質的に返済している家庭が子供にどれだけの教育をしてやれるのか。そして下がる学力はそのまま国力の低下となるし、遮られる消費が経済の停滞にもつながる。むしろだったら完全無償にして卒業者にはガンガン稼いでもらって所得税とか消費背でがっぽり取ってそれを次世代の教育に回すべきだろう。目先の帳尻合わせしか考えない発想が日本から未来を奪う。でも政治家は今が安泰ならそれで良いんだろう。マジで滅びるなあ、この国は。

 安定した作画と展開を見せる「十二大戦」が本来はCGとかVFXを手掛けるグラフィニカというスタジオで作られていると思うともう、旧来からのアニメーション制作会社とは違う成り立ちで制作ワークフローも持ちながら日本人にとってベストマッチなアニメーションを作れるようになって来ているんだなあと実感する。それはポリゴンピクチュアズによる「亜人」とかサンジゲンによる「ID−O」なんかでも感じられていたことだけれど、どこか「亜人」がぬるぬるとした感じを残し「ID−O」がキャラクターの首の据わって無さを漂わせるのと比べると、「十二大戦」は普通に2Dめいた見てくれを感じさせる。別に「けものフレンズ」のヤオヨロズでありirodoriもあって百花繚乱の3DCG系アニメーションスタジオ。「COCOLORS」の神風動画なんて老舗もあるしこれからが楽しみ。そして頑張れ2D作画。崩壊が言われるアイドルアニメとかあるしなあ。

 「少年は荒野を目指す」のその後的な物語、って言えば言えるんだろうか、佐野徹夜さんの「この世界にiをこめて」(メディアワークス文庫)は。小説を書いているような少年がいて小説を書いていた少女と知り合ってその少女の書く小節が凄まじく素晴らしくって新人賞を受賞してデビューして騒がれる。けれども当の少女はそれで浮かれる性格ではなく続く作品を書こうとしていた最中に死んでしまう。残された少年はそんな少女にずっとメールを打ち続けるものの返事はない。あるはずがないのにある時、その少女からへ字が帰ってきて、そして2人しか知らないこともちゃんと言い当てる。もしかして生きている? それとも並行世界に行ってしまった? 謎が深まる。けれども……。

 真相はあってそれはSFではなく現実世界でのある事情。ライフハックともいえそうなそのなりきりぶりから作家だった少女に迫りなりきろうとした存在が見えてくる。一方で小説を書くには書いていたものの誰かの物真似が得意な少年は死んでしまった作家の少女の模倣すら平気でやれてしまうし、それを少女に見せることだってできる。見て少女は呆然としてしまう。それが死んだ原因? というか死因は明らかにされないところが少し謎めく。そんな少女の死を挟んで出会った少年と転入生の少女が、留まっていた場所から動き出して歩き出す物語。少女自身が自分を取り戻す「少年は荒野を目指す」とはだから違って、そして新しい。読んで思おう、作家になる覚悟の大変さを。なってからどうやって人を偽り世界を構築するかの凄さを。

 この下半期でSクラスに復帰していんだオートレーサーの森且行選手。でもG1もG2も撮りながらSGだけは未だとれずにいるだけに、浜松オートレース場で開催注の日本選手権で準々決勝を1位で走って準決勝に進んだのなら、そのれーすにおけるプレッシャーとそして決勝へと出たいという思いは相当なものだろー。そこに心理を揺さぶるような要素を入れないのが昔の仲間だと思うのに、元SMAPの3人が、AbemaTVていうネット放送の中で浜松オートレース場を訪ねて森且行選手を激励するというから驚いたというか、すこし寂びしかたったというか。

 それを嫌がる森選手ではないだろうけれど、気負って失敗すればSGへの道は断たれるし、実際にレースは8着という最下位に沈んでしまった。そんな森選手を良くやったと讃えて果たして本人は嬉しいか。というか明日もまだレースがあるオートレーサーにどうして外部の人間が会えるのか。オートレース界が認めたんだろうけれど、そういう特例は宣伝にはなっても選手たのめにはならないんじゃないかなあ。せめて決勝のその後まで、黙って待って欲しかった。でもそれだと番組の終わりに重なって行けないから、準決勝でも行ったんだとするならちょっとがっかり。本末転倒も甚だしい。せめて年末のスーパースター王座決定戦は邪魔しないであげてね。


【11月3日】 第30回東京国際映画祭での「映画監督 原恵一の世界」で最後のプログラムとなった実写映画「はじまりのみち」に関するトークイベントの原稿を書こうとして、やっぱり出演者の発言のウラをとらないとけないとAmazonプライムビデオでレンタルをして鑑賞。そしてなるほど今は亡き浜野保樹教授が大変だよ氷川さんこれで原恵一監督実写に取られちゃうよと言った意味が分かった。本当に映画だった。綺麗で強くて悲しみもあって嬉しくもなる映画だった。

 加瀬亮さんが演じる木下惠介監督のお母さん役を務めた田中裕子さんについて、原恵一監督が凄い凄いと言っていたシーンも見た。疎開するためリヤカーに田中裕子さん演じるお母さんを乗せて峠を登っていくシーン。途中で大雨になって跳ねた泥が顔についたのを田中裕子さんが舐めても良いですかと尋ねて来て、何でか原監督は分からないまま良いですよと言ってそのまま撮った訳だけれど、見て別にドバッとついている訳じゃなく、口の端についたかついてないかってところで、ちょんと舌を出してぬぐおうとする。何気ない仕草で見過ごしてしまいそうになるけれど、あればなるほど半身の不自由さんの中で精一杯に自分を整えようといった気持が感じられる。

 寝たきりだから浴衣で良いかと思ったらそれは違っていてたみたいで田中さんを怒らせてしまったかもと原恵一監督がビクついたという話でも、峠を越えて宿屋まで来た田中さんがリヤカーから身を起こして顔を木下惠介にぬぐってもらった時に沸き立つそのおかみさんぶりは、浴衣や寝間着の類では醸し出せない。しっかりと整えた着物に髪型だからこそ輝き、それを見て便利屋として荷物のリヤカーを引いて峠を越えてきた濱田岳さんもグッと来たんだと分かった。そんな濱田岳さんがラスト、去って行く時にいったん消えてそしてまた小さく見える場面で河童みたいに歩くのも分かった。先にはやらず遠くでやってそれを感じさせる。

 見て加瀬亮さんはパロディだと思ったそうだけれど、濱田さんが自分からやりたいといったアドリブだそうで、すぐにはやらず消えそうなところでちょっとだけ見せる奥ゆかしさと小粋さに改めて濱田岳という役者の凄さを感じ取った。布団をめぐって濱田岳さんと宿屋の娘を演じていた松岡茉優さん相良樹さんが引っ張り合いをするシーンもアドリブとかで、繰り出す濱田さんも凄いけれど受けて繋げる松岡さん相良さんも楽しいというか、すごい女優さんだったってことでそれが証拠に今回の東京国際映画祭で松岡茉優さんが「勝手にふるえてろ」の演技で東京ジェムストーン賞を受賞した4人のうちの1人に入った。新進の俳優を選び表彰する賞。おめでとうございます。

 原恵一監督がしきりに訴えていた加瀬亮さんドM話も面白かったけれど、その理由も映画を見て分かった。なるほどリヤカーを押して峠を越えていくシーンはもっと凄絶に加瀬さん演じる木下惠介や、ユースケ・サンタマリアさん演じる兄が痛めつけられるかと思ったら、割とすっと通り抜けていった感じ。加瀬さん曰く、挫折して戻った自分を見つめ直そうとしている時にもっと試練があってしかるべきなのに、それが出来ないのは残念、もっとやりたかったといった受け止めたことも何となく分かった。けど土砂降りを再現して水に濡れた中で震えながらも寄りは撮らなくていいのかと監督に突っ込んだのはやっぱりドMだろうなあ。役のために自分を追い込む。役者はだからみんなドMってことなのかなあ。それにしても改めて、「河童のクゥと夏休み」を大推ししていた浜野保樹さんの不在が返す返す残念。最新作のファンタジー映画を見て何をおっしゃっただろうか。そこがやっぱり知りたいのだった。

 イヴァンカさんが来るかどうかで混雑しそうな大手町界隈を抜けて神保町まで歩いていって「古書まつり」を見物する。途中で毎日新聞社が入っているパレスサイドビルを見たら壁面に世界の国旗が飾られていて綺麗だった。何かイベントがあったんだろうか。2020年の東京オリンピックに向けての何かかな。時代を経てもモダンさが残る建物だけにこういうイベントもよく似合う。竣工は1966年で前の東京オリンピックは見ていないのか。半世紀を超えていろいろ不具合も出ているだろうけれど、都内に残るモダンな建築のひとつで「傷物語」にも一部雰囲気が取り入れられている建物でもあるんでずっと残って欲しいもの。中の会社がどうなるか分からない? それは大手町にある某社も一緒かそっちが先か。

 っていうか、これまでいくら自分のところの主張だとかに難癖をつけられようと、泰然自若と構えていた築地の新聞社もいよいよ堪忍袋の尾が切れたか、社会面を使って反撃に出てきた感じ。大手町の某社が1面にあるコラムでマルタの女性ジャーナリストが政府を糾弾したせいか、暗殺されてしまった事件を挙げて「日本人で良かった」という滅茶苦茶な前振りから入って、日本を貶めるような記事が載る日本のメディア事情がどうして国境なき記者団から報道の自由がないと言われなくちゃならないんだと書いていた。いやいや、だって日本を貶めるような記事といってもそれは普通に人権への抑圧に対抗しての言説であって、そうしたものとは別に政府等々への権力に対する取材が滞る実態があるだけのことななんだけれど、それは制約されて当然とでも思っているのか某社はそこには突っ込まないで、政権批判を日本批判などと曲解して悪罵を投げる。

 そうした言説そのものを、過去に記者を白昼殺害されてりる築地の新聞社が何てこったと批判して誰も異論はないんだけれど、そこで真正面からぶつかり合っても相手はいやだっておたくはサンゴがどうしたとか慰安婦問題がどうとかいった、過去にあっても今は解決しているか、または難癖に過ぎず論破されてもそれを認められない言説を並べて相対化をはかるだけ。だからあくまでコラムのネット版につけられた見出しを問題視し、そうやって差別を煽動するような扇情的な見出しをつけて平気な心性、それがネットで拡散される危険性、それによって差別のハードルが下がってしまう恐怖なんかにスポットを当てて警鐘を成らしている。どうしてネットでそんな言説が広まってしまうかも含め。それはそれで重要なことで、根っこにあるアクセス至上主義への諫めとなれば良いんだけれど、何を言うかとこれからもアクセス稼ぎの見出しをつけ、アクセス狙いのネットまとめをやり続けるんだろうなあ、取材もしないでツイートを並べただけの。やれやれだ。

 到着した神保町では三幸園の屋台で唐揚げ串を囓ってから本の雑誌社の屋台へと行って池澤春菜さんによる中国茶の本をご本人の前で購入してサインを頂き、大森望さんがピンクのTシャツを着ているのを見つつたれカツ丼の店がいつの間にやらできている不思議に首をひねり、早川書房の屋台でサイン本が並んでいるのを見てから創芸社の屋台で「RAIL WARS! −日本國有鉄道公安隊−公式ファンブック」を半額で購入。出ていたんだこんな本。アニメーション化に会わせた感じだけれどもバーニア600さんのイラストとかいっぱい載っててそれに引かれて読み始めた人間にはたまらないものがある。ありがとう「古書まつり」。探せば楽しい本もいっぱいあったかもしれないけれどもすずらん通りを抜けて古本を見て回っていたらフィリップ・K・ディックの「銀河の壺なおし」を見つけてそうか新訳が出たんだと手に取ったけど、見ていた表紙と違っていたし役者も大森望さんじゃなく汀一弘さんという人だった。なんだろうこれ(知ってるくせに)。


【11月2日】 隔世の観ありといったところか。1980年代に日本でPCといったらまずはNECのPC8801があって富士通のFM−7があってそれぞれに存在感を放っていた記憶。別にパソコンに興味はなかったけれどもそれでもチラシなんかに掲載されてて使うとどんな感じだろうかといった興味は誘われたし、FM−7なんかは「SFマガジン」で大原まり子さんあたりがコラムを書く時にゲームを遊ぶプラットフォームとしてFM−7を紹介していたような記憶がある。これとシャープのMZシリーズを入れた8ビットパソコンが御三家と呼ばれてしばらく日本の市場を席巻し、そして世界へと日本のPCが出て行く原点にもなった。

 そしてNECはPC−9800シリーズの投入によって一気に日本におけるPC市場のデファクトとなり、一方で富士通では当時は異例とも言えるCD−ROMドライブの搭載を実現したFM−TOWNSを出して世の中を湧かせていたっけ。もちろんマッキントッシュというPCが日本に蔓延り始めてヤングユーザーとかをそっちに引きつけてはいたし、その後にPC/AT互換機とWindows3.1の登場がガラリとデスクトップPCやノートPCの市場を塗り替えるんだけれど、少なくとも1990年代の半ばまではNECと富士通は日本におけるPCのリーダー的存在だった。シャープはちょっと特殊だったかなあ、メビウスシリーズとかは好きだったけど。

 そんな両翼のうちのNECが先にPC事業を中国から興ったレノボに実質的に売り渡し、そして今度は富士通もレノボとPC事業の合弁会社を作って実質的にPC事業を売り渡した。残るはシャープだけ、ってそれは8ビットパソコンの時代でWindowsの時代にシャープなんて薄型ノートPCのメビウスなんかが目立ったほかは盛り上がらず、そして親会社ごとホンハイへと売り渡されPCなんて今はどうなっていることやら。残るはパナソニックとVAIOくらいしかなくなってしまっていることに、栄枯盛衰って奴を感じざるを得ない。まあレノボは中身はIBMから続くThinkPadで日本の大和で生まれたものであってその意味で血は受け継がれていると言えるけれど、IBMそのものはアメリカの会社だったしレノボは中国の会社。その意味で日本がPCで世界を席巻できているかというとそうでもない。

 やっぱりデルにHPあたりが上を行くんだろうけれど、それでも今回の合弁設立がスケールメリットをもたらして富士通なりNECの残されたブランドを大きく世界に羽ばたかせるか。そう、不思議なことに事業は統合してもレノボはNECのブランドも、富士通のブランドもしっかり残して展開していく。発表されたばかりのWindows Mixed Realityも特に統合はしないでレノボブランドのヘッドセットを出し、富士通からもヘッドセットを出していくみたい。無駄な気もするけれど、そうやって競い合うことによって生まれるメリッとがあると思っているんだろう。そのあたりはおおらかだし大局観もある。アプリなんて2社が作ったっておいつかないなら3社4社とくっつけていくことだってあるかも。ともあれ一つの時代の終焉を見つつ新しい時代を予感させるレノボと富士通によるPC事業の統合会見。10年後のPC地図はどうなってる? PC自体がどうなってる?

 「レイセン」の再来というよりは「戦闘城塞マスラヲ」の続きといった趣がある林トモアキさんの「ヒマワリ」第5巻。前の「レイセン」でメガフロントを舞台に起こされたテロの首謀者的な少女が逃げて生き延びて4年だかが経ってそしてヒマワリとして現れたのを見つけた川村ヒデオとミサキ・カグヤが捉え第2回聖魔杯へと引きずり込んで始まったヒマワリとミサキ・カグヤのバトルはあれで精霊でもなく魔人でもない強化人間に過ぎない2人の苦戦とか見られてなかなか愉快。ヒデオはウィル子とかノアレとかマックルイェーガーを引き連れ参加しているからまあいざという時は強いんだけれど、元より積極性のあるタイプではないから共に苦戦をしたりと大変そう。ただヒマワリたちを襲った危機にはノアレを発動させて収めたりするところが見かけによらず格好いい。そして名護屋河睡蓮とシシルのキリングマシーンたちも参戦して始まる戦いの行方は何処? 「マスラヲ」同様に聖魔杯を得て終わりとも思えない展開の帰結が「ミスマルカ興国物語」の再会へとつながってくれるとこを祈りつつ読んでいこう。

 せっかくプレスパスもあるし、これが最後のプログラムになるからと覗いてきた、第30回回東京国際映画祭の企画「映画監督 原恵一の世界」の「はじまりのみち」上映後のトークイベントが、原監督のアニメーション監督から見た“実写あるある”話とあと“役者すげえ“話が積み重なって面白過ぎた。実写の現場を知らない原監督がまず迷ったのがかけ声で、何をどう言ったら良いか分からず聞いて、とりあえず松竹流で「よーい、はい」になったという。カットは「カット」。そしてリテイクを重ねるかどうかを判断しないといけないのが実写ならではで大変だったと。アニメーションなら上がってきたカットを明日見れば良いかと棚に突っ込んでおけるけど、実写映画は瞬時に判断してリテイクするならリテイクを言わないと回らない。でもそれって何が基準になるのか。自分を持っていないとちょっと出来ない。

 天気待ちというのもアニメーション監督からしたら普段は経験しないこと。雲が流れる中で、撮っている途中に太陽が雲に陰ってしまわないようタイミングをはかるなんてことは、すべてをコントロールできるアニメーションではないから。ただ「その時間がものすごい静寂なんです。加瀬さんはじっと集中していて、僕らは雲が切れるのをみなで空を見ている。照明さんがだいたい言うんですが、あと4分で晴れます、あと1分です、といって助監督がみなさん、そろそろご準備下さいという。あれは本当に実写でしか味わえないですね。しーんとした時間と、急にオンになる瞬間」。そういった経験を味わうとやっぱり実写に浸っていたくなるのかな。もう簡便と思うのかな。

 天気の判断をしなくちゃいけないのもアニメーション監督とは違うところ。雨が降りそうでカメラマンは雨雲レーダーとか見つつ降るというけどラインプロデューサーは降らないかもしれないから準備をしようと言ってオトナの口げんか。横で聞いていた原監督だったけど2人が向いて「監督判断を」と来てこれは困った。でもベテランのカメラマンが言うんだからとそちらを信じて撤収し、バスの中で降ってきて「やったああ!」と。組の全責任を負う実写の映画監督って胆力がないとできそうもないなあ。

 生身の役者を相手するのもアニメーション監督とはちょっと違う。そして原恵一監督によれば「田中裕子さんには本当に驚きました。実写の監督とキャストって、衣装合わせの時に初めて会うんですが、俺が何か無意識に田中さんに失礼なことを言っちゃったみたいで、怒り出して怖かった」。何を言ったかは分からないけれど、その後に田中裕子さんが何にこだわっていたかが分かって感心したという。「俺、田中さんに何かされるかもいしれない。50過ぎの男が人前で泣くかもしれないと覚悟して行った」という原監督だったけれど、「田中さんの方が全部正しかった」そうな。

 それは加瀬亮さん演じる木下恵介監督のお母さんを演じる田中さんの役へのこだわり。「病気のお母さんだから浴衣ででれば言いと思っていたら、田中さんはちゃんとした着物を着たい、半身も不自由だから下はパッチを履く、ちゃんと髪も整えたい。確かにそうなんです。いつも家の布団でずっと寝ている人が、蒸すことの久しぶりの旅行で、ちゃんとした格好をしたかった。ああ、すごいなあと思いました」。その役がどういうシチュエーションに置かれているかを考えるのが役者。監督の頭の中で作りだした絵でも違っていれば違うと言う。アニメーションでは絵は何も言わないからそこが違うと言えるかも。

 「出発の時、夜空を見て、便利屋を待っているシーンで田中さんのアップがあるんです。実写の現場では、マイクで声を拾うためフレームに入るぎりぎりのところまでマイクを構えるんですが、田中さんの顔の上にマイクが来たら一端です。すいません、マイクをどかしてもらえますか、月が見たいんです。感動しました」。 感情を高め自分を追い込みその場にふさわしい役になりきるために徹底する役者の姿を目の当たりにして原恵一監督は何を思ったか。そこがちょっと気になった。もう1点、田中裕子さんの凄みを話した原恵一監督。「雨の山越えのシーンで 田中さんの顔に泥が付くんです。あれは脚本で書いたんですが、田中さんが監督、って呼ぶんです。顔に付いた泥をなめても良いですか? と言って、意味が分からなくて良いですよと思わず言っちゃった」。

 その顔の泥を誰がつけるかで現場で揉めたんです。俺はいやだと。そうしたらセカンドの助監督が泥飛ばしは得意ですと言ってくれて、紙コップに泥を溶いて、リアカーを引きながらああここだというタイミングで泥を飛ばしたら、田中さんが舌でぬぐおうとするんです。それでオッケーをかけました。でも意味が分からなくて、帰りのロケバスの中で何であんなことを言ったのか考えて、俺なりの答えを思いつきました。田中さんとは答え合わせをしていないんですが、田中さんは片手しか使えなくて、その手で傘を握っています。そこに泥がついたりしたら、立派な店のおかみとしてそのままだと格好悪い。使えるのは舌だけ。それで顔を斬れに為ようという理由だと思い至りました。田中裕子恐るべしと思いましたね」。あれだけのベテラン監督でも実写の現場は初めてで、生身の役者の声だけではない演技を見るのも初めて。そこで生身の役者から教わったことが今後の監督人生でどういう影響となって出てくるかが気になっている。


【11月1日】 朝から「サザエさん」方面が騒がしいようで、経営が大変なことになっている東芝がいよいよフジテレビで毎週日曜日に放送されているアニメーション番組「サザエさん」のスポンサーを降りる検討を始めたって話が伝わるにつけ、次にいったいどこがなるのかといった推測や、いっそ昭和の残滓に過ぎないその夢物語的な番組は止めてしまおうといった提言なんかが沸き立ってネット上を賑わしている。自分が代わりにスポンサーになると手を上げたイエスなクリニックもあるけれど、日曜日の夕方のお茶の間に美容整形のCMなんか流して見ている層にどれだけアピールできるか分からない中でのこうしたアピールには、目立てば勝ちめいた心理が垣間見えてちょっと気分が暗くなる。番組を応援したいんじゃなく、自分を応援したい気分が見えてしまうってこともあるし。

 まあ電通だとかフジテレビもいくらお腹が空いたところでマッチングの噛み合わない起業を誘うことはないと思うけれど、だったらどこが入るかというとまず浮かぶのがソフトバンクで豊富な資金力を発揮し白戸家という家族ものを展開してきた実績なんかも鑑みて、今に必要な企業ということで国民的な番組の応援に収まって不思議はないような気がする。あるいは同じ家電系からソニーが入って最先端のデジタルオーディオだのデジタルカメラだのゲームだのを宣伝するって可能性もあるけれど、それだと磯野家がデジタル化されてちょっと雰囲気変わってしまいそうだから違うかな。ホンハイ? サムスン? 海外系はさすがに乗せられないか。だったらどこが。ここはいろいろと話が広がりそう。

 逆にもう時代も変わったと止めてしまったとして、その後に何を入れても「笑っていいとも」を打ち切って「バイキング」を入れて苦しんで今も浮上しきれずにいるトラウマを引きずった中で新しい企画なんて浮かぶはずもなさそう。「おじゃまんが山田くん」を復活させるとか「ちびまる子ちゃん」を1時間枠にするとか考えたところでやっぱり「サザエさん」の抜けた穴は埋められない。金科玉条の存在にしてしまったツケがこういうところで回ってしまっている感じ。でも引きずっていられないならやっぱりカラリと諦めて、1年くらいで終わるつもりで新しいことに挑戦していって欲しい。「母と子のフジテレビ」から続く旧態依然をここで打破して次へ。それが例え奈落の底であっても、ってそれは困るかお財布的に。さてもどうなる。

 「劇場版 はいからさんが通る 前篇 〜紅緒、花の17歳〜」を試写で見た。素晴らしかった。若い頃にリアルタイムで見ていたアニメーションに対する良き記憶って、改めて見てこんなんだったっけって思うことも多々あって、だから見返したくないんだけれどそれでも見返してやっぱりとガッカリしてしまう。その意味でいうならこの映画は、昔見ていたテレビシリーズの「はいからさんが通る」に抱き続けている良き印象が、そのままの形で現れたような感じになっていて。当時見ていたのはこれだったんじゃないかとすら思えるくらいに完璧に自分にフィットした。

 花村紅緒は最初から早見沙織さんで伊集院忍少尉は最初から宮野真守さんで、蘭丸は最初から梶裕貴さんのように思えてきたけど花村少佐はやっぱり永井一郎さんって印象が強いかなあ。横沢啓子さんの元気なイメージを早見沙織さんはしっかり引き継ぎ、そして森功至さんのイケメンな感じを宮野真守さんは完璧以上に嗣いでいた。蘭丸は前は杉山佳寿子さんだったけれど女声でも少年っぽい声と男性でも少女っぽい声は見事に重なって蘭丸という役を蘇らせていた。環も前は吉田理保子さんで今回は瀬戸麻沙美さんとこれも完璧な引き継ぎ。そうした声からのイメージとエピソードが繰り出されるテンポがまんま前のアニメーション、あるいは大和和紀さんの原作コミックを感じさせてくれる。

 これで見返すとやっぱり相当に違っているのかもしれないし、逆にもっと同じなのかもしれないけれど、見ないでいる今は理想の思い出が現実になったという喜びにどっぷりと浸れる。なおかつテレビシリーズでは描かれなかった、関東大震災の中で紅緒が少尉と再会を果たすクライマックスがアニメーションとして描かれる。これなども見てもしかしたらテレビシリーズで描かれていたのを再び見たような印象を覚えるかもしれない、あまりの“再現”ぶりに。そんな時は来年だけれど今は公開される新編だけれど本家の「はいからさんが通る」をしっかり受け止めよう。あの音楽が流れてきた時んかもう涙ものだから。ちなみにエンディングでは早見さん歌う竹内まりやさん作詞作曲の「夢の果てまで」。ポップスというより歌謡曲に近いテイストが大正を描いた昭和のアニメの雰囲気をまた醸し出してくれるのだった。

 なんか「AIBO」の新型が発表されたそうで見たらまるで犬だった。違うよこれじゃない感がぞわぞわ。僕達は別に犬みたいな姿をした犬の代替品としてのロボットが格好いいと思ってた訳じゃ無い、空山基さんのデザインによる人工的なロボットであってそれが犬のような愛らしさも見せるところに惹かれ、新たな友人としての存在をそこに感じた。目はなくボディはごつごつとしていて色も灰色というおよそ犬らしさにかけたそのデザイン。でも売れた。そういうものだと認識していたからだ。でも新型「AIBO」はどこまでも犬に似せようとした。犬であろうとしてそしてけれども決して犬ではないそのマテリアル、その反応をさらけ出すことになる。受けるギャップは見てくれが近い分大きくなりそう。代替物として及ばずオリジナルとしての輝きもないものをどうして作ったのか。ちょっと意見したくなったけれどそんなことが言える身分でもないから遠くから遠吠え。わおーん。河森正治さんバージョン、ここからは絶対でないよなあ。

 “キラー・クライン”ことジョン・ゲイシーに“シリアル・キラー”ことテッド・バンディ、そして“ミルウォーキーの食人鬼”ことジェフリー・ダーマーといった名うての大量殺人者たちを過去、報道だとかノンフィクションだとかモデルにして描かれたフィクションなんかで見知っていると、それが日本で今起こっていることに特段の驚きといったものはなく、阻止されなければ起こり得たことだといった気持もあるからワイドショーのように考えられない事態だと騒ぎつつ煽って、視聴者を集めるようなことはしたくないしする気もない。ただアメリカと違って国土は狭く人工だって半分でそして相互監視の目も行き届いた近代国家の中で、こうした大量殺人を犯し得たとことの方が興味津々。何か関心の埒外に置かれるタイミングがあり、そして殺害されに人が近寄ってくる状況があってのことなのか。日本もまたアメリカの用に濃く変わりつつあるのか。いろいろと想像してしまった座間の件。

 これからしばらくはテレビなんかは猟奇だ何だと騒ぎ周囲に聴き込んでは勝手に“異常”のレッテルを貼っていきそう。そうしたレッテルの中にテレビとかがネガティブにとらえがちな趣味嗜好も入って居心地の悪い思いをする可能性なんかもあるのかも。でも騒いだところで真相にはまるで迫れない。どうしてそういったことをしでかしたのかといったプロファイル分析が一方にあり、またどうして露見しなかったといった社会システム上の陥穽の追究が一方にあってようやく次の事件を防ぐ手立ても生まれるってもの。冷静かつ慎重に事態を把握しては解明へとこぎ着けていって欲しいけど、目先の視聴率が大事なテレビとか週刊誌にそうした冷静さは求めるべくもないか。やれやれだ。しかし本当に9人か。まだいるんじゃないのか。ってあたりはとても気になる。しばらくは報道から目が離せそうにないなあ。


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