縮刷版2016年9月下旬号


【9月30日】 そして明けてみればサンリオのキャラクターが登場するアニメーションからも降板となりそうな長谷川某。TOKYO MXなんかでやっていた、企業のトップと会って喋るような番組も2つが9月末に終了になっていて、これは果たして偶然なのか急に決まったことなのか分からないけれど、炎上なんて別にしなくても良いんだ自分はレギュラーが8本もあるからと豪語していた時から間を置かず、次々と仕事がはがれて落ちていくのを見るとどこか憐れにすら思えて来る。

 とはいえここに至るまでに引き返すチャンスは何度もあって、例えばBLOGOSが掲載を取りやめたあたりで自省をしてこれはやっぱり拙いことになっていると考え、ごくごく一部の自業自得と決めつけた相手に対する誹謗を人道的に拙かったと気付いて引っ込め、剽窃についてもすんなり認めて謝っておけば状況も収まりはしなくても最悪の結果は避けられたかもしれない。けれども言いたいことは変わってないけど誤解があったようだったと、悪いのは読み間違えている世間だといった感じの主張をくり返してこれはダメだといった空気を呼んでいった。

 最終的には引っ込めたものの「殺せ」といった言葉をを使った意図については引っ込めた様子はなし。そうした分断して悪者を仕立て上げていく手法そのものへの薄気味悪さを覚えていた世間はこれは根本から謝っている訳じゃないと気付き、いつまた同じことを言い出しかねないとった不安もこれありで、もう使えないとなったんだろう。ほかも同様。とはいえ未だ首都圏ではレギュラーの番組があって、そこは使い続ける様子。それもまたひとつの表現の自由だけれど、それと引き替えにする信頼とか共感といったものをどうするのか。そこが今は気になっている。ネットの方ではBLOGOSから過去記事がまとめて消えてブロガーとして排除されてしまった感じ。まだgooとかで書いてはいるけれど、それもどういう扱いになっていくか。まだまだ騒がせてくれそう。

 2番じゃダメなのかと聞かれて、そこで1番じゃなくちゃいけない理由をちゃんと説明できていれば、分かったそれなら予算をつけてスーパーコンピュータで1番を目指してくださいとなっただけの事業仕分けの席上で、1番でなくちゃいけない理由を上手く言えなかった当該部局の無様がなぜかすり替わり、1番を目指すべき事業において2番で結構だろうと傲慢に言い放った無知な人間だといった印象が、強められて広められてしまった状況が今も続いているようで、国会だなんて真っ当な大人が大勢集まっているはずの場で、当てこすりのように自分達は1番を目指すといったことを言って、民進党に一泡吹かせたつもりでいる政府自民党の政治家たちの、傍目に見てとてつもなく無様で滑稽な感じに、これが今の政治なのかとため息が出る。

 そこでだったらどうして1番じゃなくちゃいけないのかと聞かれ、お前ら本当に答えられるのか。たんに気持ちが良いからとかそいういった下らない理由しか言えそうもない気がするけれど、そういった理詰めの冷静な攻撃ですら嘲笑の中に居ず漏れさせる自民党のニヤけたおっさんみたいな尊大さと、それを支持するメディアの連携がこの国を真っ当から遠ざける。メディアだってどうしてあの事業仕分けの場で2番じゃだめなのかを問うた意味くらい知っているだろうに。そして1番でなくちゃいけない理由を言えなかった無様さを認識しているだろうに。そうした事情は添えずに政府与党の尻馬に乗って野党を叩くだけ。そのぐずぐずに濁った政治とジャーナリズムの結託が続く限り、この国が浮上することはあり得ないだろう。困ったなあ。

 いよいよ引退かあ。コノミヤ高槻に所属する女子サッカーの丸山桂里奈選手が今シーズン限りで現役を退くそうで、これで2004年のアテネ五輪になでしこジャパンの名前を初めて背負って参加した選手で残っているのは、海外で活躍を続ける安藤梢選手とそれからボンバー荒川恵理子選手くらいになってしまったのかな。どうなのかな。とにかくドリブラーとして凄まじくって最前線でボールをキープしごりごりとやるそのプレースタイルは、終盤に相手が疲れたところで大きな武器となっていたっけ。

 言い替えればスタメンとして出場をして90分間を走りきるタイプではなかったって言えるけれど、そうした役目を負った大谷未央選手や澤穂希選手が試合に全力で臨めたのも、切り札とも言える丸山選手の存在があったから。ちょっぴり気分が先走っている感じもあってフィットする時としない時があったように記憶しているけれど、試合に出れば鋭い視線で最前線から相手をにらんでいたその表情を何となく覚えている。笑えば可愛いのに試合では怖かったなあ。

 日本体育大学を出て入ったのが今はなき東京電力女子サッカー部マリーゼで、けれども辞めて海外を経てジェフユナイテッド市原・千葉レディースへ。当時はまだそれほど強くなかったチームで1番くらいの知名度を誇ってくれていたっけ。ただ試合にはそれほど出ていなかったような。やっぱり切り札といった扱いだったのかも。東日本大震災の影響でマリーゼが廃部となった時には、前の職場とそして所属チームの苦境をどう思ったか。そこからグッと落ち着きも出てきたような気がする。ロンドン五輪を経て5年も現役を続けてくれた訳だから。

 でもさすがに33歳は女子サッカー選手では結構な年齢。ひとつ区切りを付けたかったのかも。とはいえ見た目は最高でプレーの室だって代表クラス。そんな人を放っておいてはもったいない。リオデジャネイロ五輪出場を逃したなでしこジャパンの復活に、何か貢献をしてくれると思いたい。勝負パンツを配るとか。確か青だった。まずは次のワールドカップに向けて動き始めたなでしこジャパンが、内外に存在をアピールできるような立場でいろいろと言ってくれたら嬉しいかも。それとも違う分野に出て行くかな。モデルとか。いやいややっぱりサッカーを捨てずにコーチングとか学んで欲しいかも。これからも活躍、期待しています。まずはお疲れ様でした。

 東京駅の丸の内口南の前に国際郵便局が建っていたとこにあるKITTEの地下で、チェコフェスティバルってのが開かれていると聞いて見物へ。「アマールカ」とか「もぐらのクルテク」なんかを扱っている会社がブースを出していてグッズなんかを置いていたけど、その横にヤン・シュヴァンクマイエルの作品のポスターが並んでいてこれが凄かった。現地版。おまけに「アリス」なんかチェコ語版と英語版とドイツ語版なんかがある。見知った少女が狭い家の奥からのぞいている写真でもなくイラストってところが渋い。ほかにも「オテサーネク」なんかはちょいグロな画像とイラストのコラージュだったりとセンスは良くて部屋に飾ったら結構受けそう。飾る場所なんてないんだけれど。僕の部屋にはもう。

 聞くとシュバンクマイエルのところを探して持ってきたそうで、当のシュバンクマイエルのはないよないよと言っていたらしいけれども、親戚だか誰かから聞いて探したらやっぱりあったらしい。それだけ貴重な品。おまけに値段が1枚3000円は海外のポスターにしては安いんじゃなかろうか。額にいれて飾っておきたいけれどもやっぱり部屋にそういう場所はなく、いつか飾るような部屋を手に入れる未来も見えないだけれに迷うところではあるけれど、散逸する前に揃えておいて誰かにインテリアとしてプレゼントするとかいった使い道もあるのかな。亡くなればさらに価値も……ってそれは悲しいから言わないけれど、でも世界が認める監督の貴重なポスターを、手元に置いておいて悪いことはないだろうから1枚くらい買っておこうかどうしようか。買うなら何が良いだろうか。考えよう。10月1日まで開催。


【9月29日】 Spotifyって世界最大の音楽ストリーミング配信サービスが日本でサービスを始めるって発表会見に出るために行った恵比寿で、ついでだからとニューアルされた東京都写真美術館で開かれている「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展を見る。海とか劇場とかをモノクロの中に写したり、風景を再現したジオラマの中に剥製を置いて撮ったりして、1枚の画像の中に時間とか奥深さを表現してきた写真家だったはずなのに、今回の展覧会では<今日、世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>というタイトルで、様々なオブジェを置いて政治家たちの足跡だったり、戦時下だったり、裸のラブドールが寝そべる部屋だったりとさまざまな空間を構築しては、それぞれに文章を添えて、展示と関わりのある現状が未来へと続いた場合に人間に何が起こるかといったビジョンを示している。

 そんな展示が実にSF。とてつもなくSFだった。<今日、世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>という共通の書き出しを持った文章は、例えば政治家だったり善人独裁者だったりカーディーラだったりコンテンポラリーアーティストだったり遺伝子学者だったりロボット工学者だったりジャーナリストだったりとバラバラだけれど、それぞれに自分の初見で世界がどういう道を辿って滅びへと向かっていったのかを綴っている。その滅びへと至るプロセスが、今をとらえ未来を伺うSFとしてのビジョンに溢れている。1編1編がショートショートSFとして読めるくらいに想像性に富んでいる。

 それが全部で33編。てんでばらばらの道を辿りながらも滅びへの道程を思弁してのけた欠片が、ひとつに合わさって重なった時に人は、もはや確実に滅びへの道を歩んでいるのかもしれない、いくら時間を遡って変化を加えても、滅びるしかほかに道はないといった、多元的宇宙の絶望的状況すら見えてくる。そんな総合としてのSFにもなっている。書いたのはいずれも杉本博司さん。それが展示室では浅田彰さんだったり宮島達男さんだったり原研哉さんだったり増田宗昭さんだったり川村元気さんだったり極楽とんぼ 加藤浩次さんだったりといった人たちが、それぞれに関わりのある人物の言葉を代筆している。書かれたビジョンにそうした属性を持った人間の筆跡が重なることで、より“らしさ”を持った文章になる。そこが少しアートっぽい。

 どの文章を見ても実に胸に迫るビジョンが綴られている。理想主義者は理想という名の免罪符を得てあらゆる非道を尽くした結果滅びるのだと言い、ジャーナリストはささいな悪を論って政治家を糾弾し続けたことが才気ある政治家を排除し凡庸な政治家に世を任せた挙げ句に滅びるのだと言う。漁師は糧としてきた生物が人間より進化を遂げて人間に反撃を繰り出した結果として滅びると言い、コンピューター修理会社社長は激しい磁気嵐が訪れ電子器機が使えなくなって滅びるのだと言う。虐げたロボットの反乱によって人間は滅びると書くロボット工学者。爆発的な人口の増加が何かをもたらしたのか生殖能力を失って人類は滅びていくと書く遺伝子学者。民主主義の衆愚をどうにかしようと良き独裁者に任せたことがやがて腐敗の上に立つ卑俗な独裁者を生み出して人を滅びに導いたのだと善人独裁者は書き開発の果てに汚れきった宇宙から地球へと廃棄物が降り注いで人類は滅びるのだと宇宙飛行士は書く。

 人口が増えすぎて資源がなくなり滅びると書く一方で、人口が減りすぎて文明を維持できなくなって滅びると書く、そんな多様をさまざまな立場を借りて書き綴っていった杉本博司の、本当の人類の未来に対するビジョンはづいったものなのだろう。そこが知りたい。やはり滅びるのだろうか。そんな展示とはまた別に、以前から続けていた<劇場>シリーズを新たに発展させた<廃墟劇場>シリーズを世界で始めて披露。それは使われなくなった劇場の舞台にスクリーンを置き、1本の映画を上映してその時間を露光して真っ白に輝くスクリーンが暗い廃墟をうっすら照らしてみせた写真。もちろん上映されている映画はまるで借らないけれど、添えられた言葉から映画の中身が分かるようになっている。

 「羅城門」「渚にて」「無常」「博士の異常な愛情」等々。やはりどこかに絶望と崩壊、滅亡と終焉を予感させる作品群。それらが最後にかかって廃墟とともに、人は終わりを迎えるのか、その先に新しい何かを生み出すのか。3階の展示も含めていろいろと考えさせられる。そんな終末のビジョンはだからやはりSFの人間に、見てもらい読んでもらって多彩で多様なビジョンの奥底に、どんな未来を思い描くべきなのか、そこには滅びないで済むビジョンはあるのか、それはどんな人間がどんなプロセスを思い描けば成立するのかを、ループの檻の外側に飛び出す物語なんかも思い浮かべながら、考えてみると面白いかもしれない。ともあれ行くべし、SF者は。見ればこれだって日本SF大賞の候補にしたって良いと思えて来るから。

 いやあ面白いぞSpotify。ってAmazonのプライムミュージックくらいしか音楽のストリーミング配信サービスは使ってないけど、楽曲数が豊富で日本のアーティストなんかも割と入っている感じ。あとパソコンで使っていてそしてタブレットからアクセスすると同じところからスタート。まるで無線で繋がって連動しているかのようで、部屋を移りながら違うデバイスでそれぞれに立ちあげて連続したサービスを受けていられる、あるいは同じラジオを聴いているような感覚を味わえる。そういった細かい仕様とあと、プレミアムだと音質の良さ、そして自分が持ってるローカルな楽曲との一体性なんかも含めて作り込まれたプラットフォーム。それをプレミアムなら月額980円で利用できるなら悪い話じゃないけれど、問題はネットの環境が我が家では貧弱なことか。容量無制限のポケットルーター、買おうかなあ。

 テレビ大阪の番組をついに降板となった長谷川某。そのことについて触れた自身のブログでこんなことを書いている「ネット上では、テレビ上と違う言語が飛び交っていると思っています。なかなか実際に口に出すときつい言葉も、ネット環境では意外と受け入れられたり…」。え? ネットでは確かにテレビとは違う言語が飛び交っている。それは決してネットだら許されている訳ではなく、ギスギスとした空気を呼び込み諍いを生み差別的な雰囲気を作って社会を侵食してあまり良くない状況へと至らせている。だからネットだからといってそういった言説を認めないようにしようと様々な法律が作られ、そしてプロバイダーへの開示請求なんかも行われてキツい言語、すなわち誹謗と悪罵でしかない言語をなくして行こうといった方向に動いている。

 言葉を使う最前線に立っているジャーナリストを自称しアナウンサーとして立つ人間が、そんなことも知らないのかといった驚きと呆れがひたすらに浮かぶ。「私はそもそもそんなにキツイ言葉使いをしない人間です。ですが、ネットの世界で一人でも多くの方に訴えたい、という思いが強すぎて、今回は大失敗してしまったのです」。むしろテレビのような場所ではき出せない思いをネットという空間で吐き出していた、憎悪をまき散らしていたととられたって不思議はない。だからこそそれを本性と見て、そうした言動を行う人間はテレビとう公共の場において発言をするに値しないとテレビ大阪は切った。当然のことだろう。

 「本心を言うと、さすがにテレビ上の発言ではなく『ネットのブログのタイトルの文言』が、テレビ大阪の仕事を『降板』というところまで発展するとは夢にも思ってはいませんでした」とか「私はネットはネット、番組は番組で使い分けているつもりでしたが、そういう訳にも行かなかったのでしょう」とか。そういう訳にはいかないこと、どこで何を喋ろうとも同じ人間ならのだから、それは個人の資質や思想に密着したものであってついてまわる。テレビに出ている時はネットでの悪罵は関係ないなんてことはあり得ない。そんな当たり前のことにすら頭が回らなくなっているところに、どこか心身の欠落が見える。

 この期に及んで「スポンサーへの大量の攻撃の呼びかけもあったと聞いています」といったことも書く。もちろんあまり手として美しくはないけれど、一方でなぜそいういうことが起こったかへの考えを及ぼそうとしないのか。そこが不思議。そして妙。でも当人にはそうした理解が不可能なのかもしれない。可能だったら最初の段階で開き直りそれを続けようとはしないだろう。どこかで踏み間違ったのではなく、最初からそうだったのだろう。だとしたら悔い改めることは不可能だけれど、そこは大人と割り切って立ち直ってくるのか。ほかのテレビ局はどういった判断を下すのか。しばらく様子見。


【9月28日】 ようやくやっと最終章「亜人−衝戟−」を観た。最大の見所をいうならそれ、米国防総省からオグラ・イクヤの行方を捜索に来たエージェントのひとりで、マイヤーズという女性のスラックスのお尻部分にくっきりと浮き出た下着のラインの表現。それは適度な柔らかさを持った臀部を覆った布地の際(きわ)の部分が、ゴムによって絞られながらも覆われなかった部分はほんのりとふくらみ筋になる、そんな状況がスラックスをはきながらも分かるるようになっていて、なおかつ弾力性まで感じられるようになっている。

 それがマイヤーズの登場するあらゆるシーンで、お尻が見えるたびにしっかりと表現されている。角度をかえてもちゃんと残る下着のライン。いったいどれだけの労力をその表現に注ぎ込んだのだろう。想像するだけで胸が熱くなる。僕がやりますと手を挙げたクリエイターが、とことんまで突きつめてポリゴンを積み重ねていったのだろうか。スカートよりもむしろスラックス姿の女性の後ろ姿に感じるだろうある種の感情を、ここまで捉えた映像は実写、アニメーションを含めてこれが初であり、そして現時点において最高峰であると断言できる。素晴らしいぞポリゴンピクチュアズ。心からの喝采を贈りたい。

 これに比べると下村泉のシャツ姿でもって目を奪ってやまないあの三角形に盛り上がった胸の表現は、それ単体においては何て立派なんだろうといった感情で僕たちの心を捉えてやまないし、触れられるものなら触れてみたいといった思いをかき立てるけれども一方で、あれだけの立体物を仕込みながらもどうしてシャツの前のボタンが留まるのだろうか、といった疑問も浮かんでならない。そういう風にカッティングされているにしても、あまりの大きさを収めるに足るものなのだろうか。そこにビジュアルとしての好奇と、そして現実としての懐疑がない交ぜになって今ひとつ、気持ちを向かわせない。

 あるいはその下にある状況を垣間見ることによって納得も得られるのかもしれないけれど、「亜人」のシリーズでは終始、シャツに覆われたままで下がのぞくことはない。ポリゴンによって柔らかさを表現可能なことは数々のゲーム(「DEAD OR ALIVE」とか)が証明しているけれど、そうした方面にポリゴンの密度を割かずシャツを大きく三角形に盛り上げる形状に留め起き、内部を想像させるより全体のフォルムで魅せることに特化したのだとしたら、それもひとつの判断だろう。実際、それを見たさに、つまりは下村泉を目当てに第一章から見続けたようなところもあるのだから。

 といった話はそれとして、ストーリーとしてはおそらくは原作の漫画からも大きく離れて、佐藤による殺戮のゲームを相手に画策しつつ攻撃もしつつ犠牲も払いながら悔い悩み、逃げようとして逃げられないぜ立ち向かっていくといった永井圭の覚悟と決意を、描こうとしたものになるのだろう。そこに戸崎優による自分の地位と恋人の生存をかけての戦いがあり、そんな戸崎に恩義を感じて付き従う下村泉の切ない姿があり、とことん莫迦だけれど真っ直ぐな中野の突進ぶりがあってそれらが重なり束ねられて物語を決戦へと向けてドライブさせていく。

 都心部に居座り世界に恐怖をなしかねないゴジラを相手に術を持たない日本政府といった「シン・ゴジラ」の状況と似つつ、知恵を巡らせ要求も突きつけてくる怪物・佐藤の存在に対して日本政府が匙を投げ、米軍によるジェノサイド含みの対佐藤作戦が巡らされるといった展開もあって、そこでの日本政府の描かれ方になるほど違いはあると思ったものの、それをメインで描こうとした「シン・ゴジラ」と、とことんまで佐藤による死地を自ら作って戦う様を描こうとした「亜人」とは違うから気にしない。迫る時間の中でいったい、どれだけの戦いを見せてくれるのか。蛋白だった永井圭がどこまで本気になれるのか。そもそもどうだったから彼は本気になったのか。

 毒ガスが詰まったミサイルですら誘いの道具として打ち捨て、とことんまで追い込まれるゲームを楽しみたい佐藤と、とことんまで追い込まれてしまって戦いに向き合う永井圭との共通性と差異性を感じながら、見ていくのが良いのかも知れない。3DCGによるキャラクターの表現は第一章の頃からずっと良かったけれども、なおいっそうなめらかになり、且つアクションも派手になって楽しめる。佐藤の対亜人舞台を相手にしたCQCなどいったいどこで覚えたのかといった凄さだけれど、それを3DCGによるモデリングで描ききっているのも凄い。モーションキャプチャからのモデリングだろうか。そこが気になった。でもやっぱり見所はマイヤーズさんのパンツのライン。そして下村泉の揺れない巨乳。間違いない。絶対にだ。

 オレンジ色のニクい看板を掲げたサイトに話題の長谷川某が俺はいっぱいレギュラーがあって炎上させなくたって大丈夫だと言いつのったコラムが載って、おいおいちょっと前まで衆目を集めるために炎上させたと言っていたじゃないかと突っ込みたくなる気持ちを一方におきつつ、それにしてもこの後に及んでこんなコラムを載せるとは、隣国の悪口ばかりを好んで載せてた媒体らしいと思ってよく見たら、gooのサイトから転載していたものだった。でもってそっちのサイトを見たらら当該のこらむが削除されてて読めない状況。やっぱりさすがに拙いと思ったんだろう。良識的。乗せ続けてスポンサーに降りられてはかなわないから。

 そんな掲載するには問題があると見なされたコラムを、本元が消えてもなお載せ続けているところにアクセスが稼げれば悪口だって平気なオレンジ色らしさを感じていたら、日が変わってそっちも削除されていた。BLOGOSの方も転載しなくなり、これで文字でもって何かを書く場所が自分のブログくらいしかなくなった感じ。追い詰められているなあ。でもテレビの方は未だ仕事が続いている。公共の電波を使った場所にしては不用意だけれど、ああいった場所は制作者は世情に疎くて視聴率がどうかしか気にしてない。でもこの一件でダメージを受けて視聴者が離れるとか、世情に敏感なスポンサーが動けば有無を言わさずに切ってくるだろうから、そのあたりをまずは注目。

 荒木飛呂彦さんによる「ジョジョの奇妙な冒険」のシリーズで圧倒的に好きなのは第2部で、ジョセフ・ジョースターという少年が仲間を得て強敵を相手に戦い抜くその展開は、スタンドという目に見える異能力がまだ存在しない舞台で己の肉体と練り上げた波紋と、そして知略でもって不死身とも言える敵を倒していく逆転劇が楽しくて連載中からのめりこんだっけ。続いて第3部ではスタンドという技が発明されて異能バトルの要素が強まったものの、その種類の多彩さを楽しみながらアジアからインドから中東エジプトを経て進んでいくロードノベル的展開に、次への期待を煽られ毎週の掲載を楽しみにしていた。

 そんな2作が実写映画になったらいったいどんな凄いビジョンが繰り広げられるだろうと思いつつ、世界が舞台で西洋人がいっぱいの漫画だけに無理だと思っていたところにジョジョ実写化の報。そこはやっぱり日本の映画だけあって日本を舞台に日本人たちが活躍する第4部が取り上げられていて、嫌いじゃないけどスケール的にはやぱり第2部第3部には及ばない、箱庭の中でのバトルといった面持ちをもったシリーズが、邦画というドメスティックなカテゴリーで映画化されるのも半ば必然といった印象。主演が誰で他に誰が何を演じたところで、アニメーション版で感じさせてくれる漫画が動いて声までついてヒャッハーな感覚を、超えることはないと今は思ってる。そんな予想を良い意味で裏切ってくれると良いけれど。「テラフォーマーズ」と同じ三池崇史監督だもんなあ。どうかなあ。


【9月27日】 国会の所信表明演説に望んだ安倍晋三総理大臣が、演説の途中で拍手めいたものを促しては、それに自民党の議員が呼応し立ちあがって拍手をしたという一件。さっそく、鳩山由紀夫が総理となった所信表明演説で、与党議員が立ちあがって拍手したのを忘れたのかといった声が起こり始めているけれど、政権交代によって野党から転じて与党となり、総理大臣となった党首が所信表明演説という仕事をひとつ、終えたところで労いの拍手を送ったという行為であって、そこには何か世論を誘導し、空気を作って染めていこうといった意図はない。

 対して安倍総理の臨時国会における所信表明演説での拍手は、世に数多の職業があるにもかかわらず、そしてそれらが人命を守り安全を守り家庭を守り社会を守っているにもかかわらず、ことさらに領土の防衛にあたる存在をのみ挙げ、持ち上げた言葉に対して賛同の拍手を総理大臣自らが求めたものであって、己の思想に対して与党議員を巻き込み称賛させるといった行為は鳩山由紀夫の場合とまるで違う。己の思想への共感を強制しているとも言えるし、なおかつ“兵隊さん”という存在へのことさらな称賛を求めているものでもあって、だから誰もが気持ち悪いなあと感じるのだった。 これって間違っているかなあ。でもホント、これを喜んでいると遠からず弱者から拍手を浴びて戦地へ、あるいは死地へと送り込まれないぞ。

 水天宮あたりが最初だったっけ、そんな記憶も薄れさせる20年という歳月の間に六本木ヒルズだとか赤坂ミッドタウンといったハイソな場所に本社を構えてスタイリッシュな社員が群れ集う会社へと急成長を研げやヤフージャパン。そのどこかで最初は小さかったボートに乗っておけば今ごろ巨大な客船の1等船室辺りで左うちわの生活を送れたかとうとそういう場所で何か出来るほど要領も良くなく誰かとのコミュニケーションも面倒がる人間だから、きっとボッチになって船からこぼれ落ちていただろうからひたすらに、興味のあるものについて書き続けてこられた今の立場の方が金回りはともかく精神的には良かったとは思う。あるいはそう思いたい。

 とはいえ赤坂プリンスホテルの跡地に立った巨大なビルの中に構えられた新しいオフィスを見学するにつれ、やっぱりこうしたハイセンスな会社でスタイリッシュに仕事をしている自分もあって良かったかなあ、なんて思えなくもない。だって衆議院議長公邸を見下ろしながら仕事が出来るんだぜ。あるいは食事だって取れそう。そんな環境に今からたどり着こうたって絶対に無理。せいぜいが地べたを這いずり回ってネタをとり、字にして満足するのが関の山の人生から見れば、もう羨ましいとしか言いようがない。

 もちろんそこで働いている当の社員にとっては日々是競争の世界で、議長公邸を見下ろす間もなく仕事に明け暮れているんだろうけれど、それでもちょっとした心のゆとりが仕事に繋がり給料に繋がる連鎖は、ただ落ちていくだけの実には手を伸ばしても届かない高嶺の花。今から世の中に出る人にはだから、やっぱり狙うならそういう会社にしておけよと言ってあげたい。とりわけ新聞だとかいった旧態依然としたメディア企業はもはや仕事の可能性でも給料でも、そうしたネット企業にかなわなくなっている。かろうじてプライドだけは満たされるけど、それでお腹はふくれない。20年前にひとつ決めておいたらそれから10年で、その後の30年を暮らせるだけの金も手にはいったかもなあ。とか考えるとやっぱり道はちゃんと選ぼうと言っておこう。

 さてそんなヤフージャパンの新オフィス、フリーアドレスになっていて机がギザギザの島状に配置されていて自分のロッカーから荷物を出しては好きな場所に陣取り仕事ができるらしい。といっても何かプロジェクトに参加しているなら、それの関係者が集まる場所に行くことになるだろうけれど、それが解散したなら次は別の島に入って仕事をしつつ、あるいは他のフロアで誰か見知らぬ人とすれ違って、新しいアイデアなんかを得るような環境になっている。これはちょっと羨ましい。いつも同じ場所で誰かと肩付き合わせている安心感と裏腹の堅苦しさから開放される。資料を溜め込んだり仕事を遺したりといったことも難しいからいろいろ引きずらないで済む。そうした環境だからこそ生まれるフレッシュなアイデアが、仕事となって給料に跳ね返るという連鎖が働けば生きていて毎日が楽しいだろう。

 とはいえそうした環境ですら生まれるボッチ社員とかどうするんだろうという疑問も。居場所がなくて隅っこで何か仕事をしているふりをして1日を過ごす。フロアを変えて転々としながら、それでもいるような痕跡だけは残しておく。いつしか幽霊とも壁紙とも思われる伝説の存在に……ってそれはさすがに上司も人事も許さないか。ただやっぱりフリーな環境を与えられ、それにうまく乗っていける人ばかりが才能のある人とは限らない。引きこもりで口べただけれど才能はある、そんな人にも居場所と仕事が与えられる環境が、作られればちょっと面白いかな。

 っていうか、都心も都心に8000人とかの社員をどかんと集めて、フリーアドレスで自由に仕事をして通勤も新幹線の利用を認めて15万円まで支給します、いずれは週休3日も導入するかもって言うくらいなら、紀尾井町まで通わずとも横浜のとある一角にしつらえられたスペースで、スカイプでもVRでも使って情報を共有しコミュニケーションもとりながら、仕事は単独でこなして終わったら即座に家に帰って家族と遊ぶなり、近所にある海で泳ぐとかフットサル場でスポーツするとかいった生活を、可能にすれば良いのにとも。東京に集中しなければできない仕事って訳でもないんだろうに。徳島に仕事場があれば年に2回のマチアソビで宿をとったりする必要もなくなるのに。そういう時代もいずれ来るかもしれないけれど、今はまだ集まって何かをするのが効率的にも収益的にも良いんだろうなあ。そこが変われるか。そこを変えれるか。様子を見よう。

 試写室で観た「RWBY VOLUME2」日本語吹き替え版が面白かったよ。すでにネットでは全12話が公開されてて日本語字幕も付けられているからストーリーそのものは追えるし展開もアクションも目に入っているけれど、大きなスクリーンでもって繰り広げられるアクションと、それらを見せるキャラクターたちが日本語の吹き替えでもってピッタリの声で喋ってくるから、字幕を目で追う必要もなく物語の世界へと入っていける。そこで行われていることをじっくりと眺めることができる。

 声についてはもうピッタリというか、すでに「RWBY VOLUME1」でよく集めたなあというくらいにマッチした声が当てられていたけれど、1年を経ての登場にもかかわらず早見沙織さんも日笠陽子さんも嶋村侑さんも小清水亜美さんも、それぞれのキャラクターを全力で全霊をかけて演じているようで懐かしさ以上に存在として伝わってきた。ルビー・ローズがそこにいる、とかワイス・シュニーが可愛くなっちゃっている、とか。そうワイス。恋する乙女? になっているのかどうなのか。ティーンだから日本で言うほどの濃い恋愛とはまた違った気軽なステディ的関係なのかもしれないけれど、あれだけ高飛車でつんけんしていた娘もそんな一面を見せるなんてと思ってしまう。

 その点、ルビーは相変わらずお子様だけれどその分、戦闘では頑張っているからそれで良いのだ。その戦闘がまた凄い。モンティ・オウムが「RWBY volume1』で見せた、寄せ木細工でもって巨大なオブジェを構築するような綿密で計算されつつそれでいて意外性しか感じられない長い戦闘シーンはちょっぴりなりを潜めているけれど、その分をそれぞれのキャラクターたちによる肉弾戦でもって描いて補ってくれる。それこそカンフー映画でも観るような格闘戦に、魔法というか異能の力も乗って他にあまり観ないようなバトルシーンを描き挙げた。ブレイク・ベラドンナの能力ってあんあ風に使うんだ。そりゃあローマン・トーチウィックくらいではかなわないよなあ。

 とにかく見所の格闘戦。時にチーム戦ともなったりするその展開はやっぱりクライマックスへと繋がる列車上での戦いなんかが山場だけれど、冒頭に食堂で行われるバトルなんかが実はもっとも楽しくもっとも迫力があってそして意外性もたっぷり。まさかそこでそれが投げられるか。それをそれで受けるのか。というか何で食堂にそれらがある? 日本人には分からない感性。というかアメリカ人だって分からないかも。でも面白い。そんな異質な感性が日本人になじみ深いキャラクター造形と混ざり、日本の声優の声も乗って楽しくてスリリングなバトルシーンに仕上がった。要注目。

 これも既に公開されている「RWBY VOLUME3」の展開を知っていれば、今はまだ健気に頑張っているチームRWBYの4人にちょっぴりどころではない苛酷な運命が待っていることは分かっている。それを思うと空しさも浮かぶけれど、その頑張りが挫折を越えた先に花開く。そして世界に幸福をもたらす。そう信じるしかない。「RWBY VOLUME2」に続きこれも日本語吹き替え版として公開される『RWBY VOLUME3」を観て観て観まくって、そして来たるべき「RWBY VOLUME4」の日本語版上映の日を待とう。ちゃんと「RWBY VOLUME4」が作られると信じつつ。作られないと世界の誰も納得しないから。


【9月26日】 25日まで開催されたICAF2016で、各校の選抜プログラムから面白かったものを投票して選ぶ観客賞の1位に、東京造形大の顧傑さんによる「I CAN SEE YOU」が輝いた模様。アーチェリー場で起こる見えない相手とのアーチェリー合戦がスピード感も凄まじい上に展開がスリリングで魅せる。いったい何が起こっているのか、そしてこれから何が起こるのか。そんな興味で8分くらいあるアニメーションに見入ってしまうんだけれど、前に見たバージョンはもうちょっと長くて柱の後ろに隠れたところを、何本も矢を打ち込んで貫通させるようなシーンがあったように記憶している。削ってシェイプアップしたのかな。それが飽きる手前の緊張感を生み出し観客賞に繋がったのかもしれない。

 そして2位が武蔵野美術大学の見里朝希さんの「あたしだけをみて」。フエルトの造形でもって人が動き表情が変わるところが素晴らしい。あとストーリーも。倦怠期のカップルに訪れる身上の変化が表情になって現れるのだった。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016でも観客による人気投票の3位に入ってたし、これからあちこちで上映される可能性のある作品。今は何を作っているんだろう。そして観客賞3位は東京工芸大の卒業制作で見て感動した狩野洋典さん「ノアの□(ハコ)庭」。しんみりとしてグッとくる作品で見るたびにいろいろ浮かんで泣けるんだけれど、断片過ぎてそこから想像を膨らませるのはSF慣れしてるかしてないと難しいかも。

 東京アニメアワードフェスティバルの中で行われた「YOUNG POWER〜卒業制作TOPセレクション〜」でも「ノアの□(ハコ)庭は、海外から来たアニメーション作家にストーリーとか設定の脆弱さを指摘されてたし。かといって長編にして設定を詰めると齟齬もでるから、断片の雰囲気で泣かせる話、一種の寓話としておいておくのが良いのかな。ちなみに上位3作品はいずれもこの「YOUNG POWER〜卒業制作TOPセレクション〜」に入ってた。その意味では粒ぞろいだったとも言えそう。観客賞4位は金沢美術工芸大学のgammyさんによる「papa」でデザインセンスが抜群。格好いいお父さんがグラフィカルに描かれていた。なるほど。

 第5位は広島市立大学の拓海さん「ミチズ」。引かれ並んだ道の上を並行して動いていたブロックが道筋の違いで分かれてしまてから先、動くブロックがどんな冒険をするかが描かれていて最後まで手に汗握った。会えて良かったなあと思わされた。意外に多摩美術大学の岡崎恵理さん「FEED」は入らなかったみたい。広島アニメーションフェスティバルで国際審査委員賞を受賞したくらいに凄いんだけれど、芸術方面の凄さなんでインパクトが響く観客賞だと遠いか。かといって同じ多摩美の冠木佐和子さん『夏のゲロは冬の肴』を各校選抜に入れるとあの凄まじい世界がすべてかっさらっていってしまうから迷うところか。

 東京藝術大学大学院も円香さんの「愛のかかと」とか、小川育さん腸詰めがあちらこちら動き回ってミステリアスな経験をするストップモーションアニメーション「I think you’re a little confused」を各校選抜に持っていかなかった。見れば分かる面白さなら小川さんだけれど、そうではなくて山中澪さん「物語たちへ」の絵柄の可愛さと展開や音響の革新性を買ったのかも。いずれにしても多摩美と東京藝大院はやっぱりハイレベル。それらを抑えて観客賞を受賞した5作品もだからやっぱりハイレベル。日本のアニメーション、頑張ってるぞ。

 薄気味悪いというか。だんだんと得体の知れない空気が広がっているというか。安倍晋三総理大臣が国会の所信表明演説で、警察や自衛隊や海上保安庁の仕事に言及をした際に「現場では夜を徹し、今この瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務に当たっている。今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけて国会議員に拍手を促し、受けて国会議員たちが起立して喝采して安倍総理も拍手したという。なるほど頑張っている人たちを讃えることは構わないけど、それは広く国民すべてが頑張っている訳で、ことさらに警察や海上保安庁や自衛隊だけを取り上げる理由にはならない。

 それとも領土を守る仕事こそが何をおいても崇高な仕事というのなら、それは安倍総理がそう考えている現れてってことになる。1秒たりとも時間を遅らせたくないと頑張っている交通機関の仕事をしている人たちにも、火事の現場に少しでも早く駆けつけて国民の財産を守っている人たちにも、一刻を争う現場で患者の命を救おうと不眠不休で働いている医師や看護師たちも、安倍総理の中では序列として下になるのか。それは哀しい話だし、一国を率いる総理大臣として拙い振る舞い。でも当人にはそれが当たり前なんだろうなあ。いずれ遠からず日本を守ってくれた特攻隊員や軍人に感謝の気持ちを示しましょうと呼びかけ、国会議員が起立して喝采を送る状況が出てくるだろう。やれやれだ。

 最初の年が庵野秀明監督で、そして去年が富野由悠季監督だった東京国際映画祭におけるアニメーションの特集上映、今年は「映画監督 細田守の世界」として「バケモノの子」の細田守監督をピックアップするみたい。そのラインアップ発表があって、当然のように10周年を迎えた「時をかける少女」から始まり「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」と流れる長編映画4作品の上映があるけれど、それ以前に細田守監督が携わった「デジモン」2作品とそれから「おジャ魔女どれみ ドッカ〜ン!」の40話「どれみと魔女をやめた魔女」が上映されるのは嬉しいところ。さらには村上隆さんの作品としてルイ・ヴィトンのために作った「SUPERFLAT MONOGRAM」も上映されるからこれは貴重。貧乏なんで店舗に入れず見られなかったあの作品を、大きなスクリーンで見られるなんてこれまでもなかったし、これからも無かっただろう。頑張ってチケットとろう。プレスで見られる訳じゃないだろうし。

 ポップチューンだなあ、と思ったカラスは真っ白のニューアルバム「バックトゥザフューチャー」はひねくれた旋律とかなくってどれも聞きやすくノリも良くって心に響く。ファンクというよりグルービーな雰囲気も高まっていて聞いているだけで心が躍る。もっとも「すぺくたくるごっこ」に入っている「ハイスピード無鉄砲」なんてポップでグルービーでちょっぴりファンキーだったからそれに戻ったとも言えるのかも。それでもラップが入ったりしてちょっぴり進化は伺える。そして何よりヤギヌマカナさんの歌声がささやきを抜けて前に出てくる観じ。可愛らしいのに突き刺さる。そんな声がいっぱい聞けるアルバム。ここから一気にブレイク、しないかなあ。そうしたらライブハウスじゃなくってホールで座席指定で聞けるのに。今度もまたライブハウス。でも行くけど。のるぜ。


【9月25日】 まさかそこまで底抜けだったとは。透析を行っている人たちに対する暴言が問題になったフリーアナウンサーの長谷川某がJ−CASTニュースに登場してはいろいろと言い訳しているんだけれどもこれがまるで言い訳になっていないというか。とりわけ他のサイトからの剽窃が取りざたされた部分について、文章は誤字誤記も含めそのままなのに「本記の中でそれほど大事なところでもなかったので、いわゆる部分引用に。単なるコピー&ペーストではなく、改行をしたりして『自分の著作物』という形にした」と平気で答えていたりすること。これでビジネス著作権検定の初級合格を常日頃からアピールしているんだからたまらないというか。ビジネス著作権検定の主催者にとってすごい迷惑な話なんじゃなかろーか。

 連絡がつこうとつかなかろうと正当な引用ならば認められるというのが著作権の分野であって、どこからどう引っ張ったか、それはあくまでも従であって自分なりの主があるのかどうかっていった条件を満たせばとりあえずは認められる。けれどもそのまま引っ張ったものを改行したものを、自分の著作物といったらそれは大いに間違いだし、誤記誤字も含めて引っ張ったものを自分の著作物と言ったら逆に恥ずかしい。なのにそうしたことへの反省や自省はない。あまつさえたいした部分じゃなかったからと削ってしまっている。だったら最初から使うなよ。

 というかあのブログでは自分の主張を補完する材料として結構なウエートを占めていた。それを削ってもなお主張が変わらないというんだから不思議というか。タイトルも変えたというけどだったらどーしてBLOGOSが転載を続けるために改善を求めた時に応じなかったのか。自分ではまるで問題だと思っていない現れで、今になっていじったところで根底にある差別的な意識は変わっていないと見られても仕方が無い。というか実際に「切るべきは切らないと、守るべき人を守れない」という思想を今もって堅持し喧伝しているからなあ。たとえフリーだろうとその本音とやらが社会にそぐわないのならご退場頂くしかないのだけれど、そんな本音がまかり通る社会になりつつあるのがまた厄介。暴論のご意見番としてこれからもメディアに出続けては、暴論だからと言い訳しながらそんな暴論に世界を染めていくんだろう。参ったなあ。

 帰宅して倒れるように寝てしまって感想が書けなかったICAF2016での京都精華大のプログラムとして見た、石井章詠さんって人が監督をした「だいじょうぶ」というアニメーションが凄かった。学校でどちらかといえば孤立気味の女の子。いじめられているというよりは引っ込み思案で口べたなのか問われても自分からすぐに答えられないところがあって、なかなか友だちが出来ずにいる。そんな女の子が世界とどうにかふれ合っていくきっかけと、別の女の子との出会いなんかから描いた作品は、テーマもなかななに深かったし、何よりアニメーションとしてとても動いていて凄かった。

 それこそ商業作品かと思わせるような原画であり動画でありレイアウト。鉛筆とか色鉛筆めいたもので淡淡と描かれたキャラクターや背景は崩れもしておらずしっかりと動いてまるで商業作品を見ているようだった。というか作り方も大勢が参加している商業作品風。東京藝大大学院の生徒がどちらかといえば個人のアニメーション作家として作品を作っているっぽいのと比べると、スタンスの違いが垣間見えるようで面白い。そういえば「フミ子の告白」や「rain town」の」石田祐康さんも作家でありながら商業の監督っぽい仕事をしていて、そのまま商業の監督になたっけ。石井監督も実際に商業アニメーションの制作会社に進んだみたい。これからどんな作品を作ってくれるのか。楽しみ。

 京都精華大学ではICAF016で見た斎藤圭一郎監督による「イタダキノサキ」とゆー作品も面白かった。ベタっと塗り絵とうか絵本のように塗られた絵柄だけれどもその中身はたぶん、水位が上がって追い詰められた人類が食料にも事欠き奈良が祈りを捧げているような世界を舞台にしたファンタジー。ひとりが飛び立ってそして魚などを食らって“進化”していった果てに巨大な竜か何かと戦い、そして巨大な木になって豊穣な実をつけ食糧難を救う。スピード感があり飛翔する感じも出ていたアニメーションが良かった。これも商業的な作られ方。監督は何をしているかな。もしかしたら商業に進んだのかな。そうした分野で活躍できる監督なり演出家なりアニメーターを生み出すのが京都精華大なのかも。いろいろあって、面白い。

 姿形は異形であっても心はあって愛情もあったと思いたい夕凪浪愛離さん。その最後にそっとさしのべ頭をなでた手を天河舞姫は振り払わず、そして遺した時計を飾って墓碑銘の刻まれていないお墓を作って上げたところにきっと、その真意を感じ取っていたんだろう。そんな「クオリディア・コード」の最終話、八重垣青生がどこかおどおどとしていた態度を引っ込め眼鏡も外し、凜堂ほたるが登場する前までは神奈川で姫に続く次席として四天王の一角を占めていた実力を発揮し千種妹とタイマン張ってたところが見物だった。

 でもカナリアの歌声もあって地球人が優勢になってアンノウンは退避。崩れ落ちる塔の中で朝凪求得に救われていたけどこの後どこに行くのかな。そこが気になった。というか作画はとてつもなく気になって、愛離との戦いに意味不明の静止画が挟まれたりしてあそこは何だったのかドキドキしたけど全体として意外性のある展開と、そして千種兄を中心とした声優陣の頑張りで引っ張ってくれた感じ。ライトノベル作家の脚本は毀誉褒貶あるけれど、賀東招二さんとかも含めて良い方に転んだって言えるかな。あとはパッケージでどこまで作画が直るかだけれど。毎月発売のスケジュールで果たして直されているかなあ。これは買うしかないかなあ。

 こちらも終わった「ハオライナー 一人之下 the outcast」は結局、主人公だったはずの楚嵐の存在が後ろに下がって謎の少女、宝宝が少女どころじゃない年齢だったことが分かって萎えるかというと美少女だからそれはそれで構わない。ただやっぱり心の所在が不明でどこから来たのか、そもそも人間なのかといった疑問も浮かんでその謎が、解き明かされないままでとりあえず終わってしまうのが納得いかないというか、もったいないというか。おそらくは第2期も作られるんだろうけれど、それがちゃんとTOKYO MXで放送されるか分からないしなあ、ネット配信だけになってしまったらちょっといやかもなあ。それにしても楚嵐の爺さんっていったい何者だったんだろう。そして楚嵐自身の秘密は。そんな辺りがちゃんと解決される第2期の放送。期待しないで待つとしますか。ハオライナー、次期はどんな不思議アニメを放送してくれるか。そっちも期待半分、不安半分。


【9月24日】 ここまで厄介な人だったとは。例の透析患者に対する暴言で問題になっているフリーアナウンサーの長谷川某。とあるページからのまるまるカット&ペーストも指摘されたにもかかわらず、更新されたブログでもってそのことに対する言及はまるでなし。おそらくはコメントにも相当数、寄せられたとは思うんだけれど動じることもなく持論ばかりをぶちまけている。おかしい部分があると指摘したブログに対して、取材しろよ自分の足でと書いたその手が取材ですらない剽窃を行っているにもかかわらず。もしかしたらそれをその頭の中では取材と呼ぶのか。材料を取る。そういうことなのか。だったら盗在とでも書けば良いのに。

 そして更新されたブログで、言葉狩りがどうとか言っているけ中身が言葉というものを使って勝負する職種の人かと思えないようなすり替えぶりで読んでいて頭がグルグルしてくる。「殺せ」という言葉の正当性を訴えているけど、そこで挙げられたのが元社長といかいう人による「死ねよ」といったツイート。でも死ねよとうのは相手に対する罵倒であって、誰かの行為を促すものじゃない。周囲を扇動するように「殺せ」と言うこととはまるで意味が戯画って居るのに、同列に並べて自己弁護をはかろうとする。どういう感性なんだろう。というか言われても改められない性格なんだろうなあ。ネットの界隈によく居る無敵の人タイプ。それがネットに止まらず、テレビにも出られてしまう時代が今なんだろう。やれやれ。

 せっかくだからと東京国際ブックフェアで開催された電撃文庫でいろいろ立ちあげた三木一馬さんと、作家で「俺の妹がこんなに可愛い訳がない」「エロマンガ先生」の伏見つかささんと、そして「エロマンガ先生」に出演が決まっている声優の藤田茜さんによるトークイベントを見物に。朝の10時半だなんて作家は寝ていて編集者も死んでいそうな時間、そしてオタクにとっては深夜に等しい時間であるにもかかわらず、会場がぎっしりと埋まるくらいの人が集まったのはそれだけライトノベルとうジャンルに注目が集まっているのか、声優の藤田茜さんを見たかったからなのか。実際に可愛かったからなあ、そして清楚に見えたからなあ、藤田さん。

 でもその読書歴はなかなかユニークで、人生に影響を与えたライトノベルとして上げたのが角川ルビー文庫から出ていた「好きなものは好きだからしょうがな」。いわゆるBLって奴で原作のゲームがあってそれについて触れられるとピーが出そうになるくらい、ヤバめの内容なんだけれども小説は全年齢だから読んでも構わないといえば構わない。ただし属性は露見するけど。そんな小説を中学生の時代に読んだことが、いくつかの小学校から生徒が集まってきて関係がぎこちない中学校で他から来た生徒と仲良くなれたきっかけだったとか。そして面白い世界があると読み耽った結果、今にいたるということで、職業にもなったからにはやっぱり人生に意味があったんだろう。BLが。そういう人、結構居ると思うなあ。

 伏見つかささんが人生の転機として上げたのは意外にも小河正高さんの「お留守バンシー」で、確か電撃文庫の大賞も受賞した作品だけれどこれが応募された年に伏見さんも応募していて、でも落ちてそれから読んでラブコメというものの面白さに気付いたことが後の「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」ほかラブコメ作品の執筆に繋がっている感じ。これは確かに人生の転機かも。伏見さんがデビューするきっかけになったのは、応募作だけど受賞しなかった「十三番目のアリス」でこれはラブコメではない異能バトル系。多分「灼眼のシャナ」に近い作品だろう。その路線を転じてラブコメにして500万部の大ヒット。電撃文庫を支える看板作家になったし、他のレーベルにも広がるラブコメブームを作った。もしも「お留守バンシー」に出会っていなかったら、今とは違ったラブコメのフィールド、ライトノベルの世界が広がっていたかも。ありがと「お留守バンシー」。そして小河さん。今も書いているのかな。

 そんな2人と三木一馬さんがこれからライトノベルを読もうという人に是非読んでもらいたいと挙げた作品もあって、たとえば三木さんは上遠野浩平さんが講談社ノベルズから出していた「殺竜事件」に始まる“事件“シリーズをピックアップ。自分のレーベルじゃなくお抱えの作家でもなしに純粋に読書経験から挙げるところが本気な感じ。ファンタジー世界のファンタジー的ルールでミステリをやるという、ある意味で米澤穂信さん「折れた竜骨」へも連なるジャンルのひとつの出発点とも言えるかもしれない。とりわけ第2作目「紫骸城事件」をおすすめしてた三木さん。確か読んだけどどんな話だったっけ。読み返すか。

 伏見さんが挙げたのはあの古橋秀之さん「冬の巨人」で最初は徳間デュアル文庫から出て長く絶版となっていたのが最近、富士見L文庫から復刊された。あの壮大にして遠大な設定を降り注いでくるビジョンの凄さはなるほど永遠級の傑作。伏見さんは「ブラックロッド」に始まるシリーズも挙げ三木さんは「いつか爆弾が落ちてきて」なかも挙げておすすめしていたけれども問題は、どれも読みづらいってことなんだよなあ。本気でどこか叢書としてまとめないだろうか、古橋秀之さん。それ以前に新作を書いてよとも。最近何か書いたっけ。秋山瑞人さんと双璧の書かないけれども書けば凄いライトノベル作家。復活を。現役に。

 藤田茜さんは「彩雲国物語」だからとってもマッチ。これもビーンズ文庫だから藤田さんにとってはライトノベルってこうした女子向けの小説もカテゴリーに含まれるし、世間一般の感覚もそういうものなのかもしれない。それが分かったトークイベント。藤田さんによる「エロマンガ先生」のセリフ朗読もあって朝からとってもリッチな気分を味わえたイベントだけれど、中で「このライトノベルがすごい!」にとってもよく似たタイトルと、どこかで見たようなイラストがボケた形で出てきたのは面白かったというか。まあそれだけ意識されているってことで。だったらもうちょっと支援、して欲しいなあ。1位の人がインタビューに出てくれない状況、やっぱりちょっと居心地が悪いから。

 そんな会場を出てツーリズムEXPOジャパンものぞいて東美濃あたりの紹介コーナーで「映画 聲の形」のポスターが飾ってあったのを見かけて大垣市にとってこの作品がとても大切なものになっていることを感じる。大垣観光協会が作った「聲の形」に登場するスポットを漫画の絵といっしょに掲載した「聲の形」に登場するスポットを漫画の絵といっしょに掲載したパンフレットも作っていたし。原作の頃から人が来ていたけれど、映画を観てきっといっぱい人が来るようになるだろう。そんな状況を歓迎してくれそうな予感。橋の上から鯉に餌をあげるのはどうなんだろうとは思うけど。大丈夫なのかな。これは養老町になるけど養老天命反転地も見てみたいし、帰省したら行ってみるか、大垣に。


【9月23日】 ICAF2016の各校選抜プログラムではあと、多摩美術大学の岡崎恵理さんによる「FEED」の完成度がとてつもなく高くてインディペンデントアニメーションとして世界のアニメーション映画祭に持っていっても相当に戦えるんじゃないかと思ったというか、すでにファントーシュ国際アニメーション映画祭とか広島アニメーション映画祭なんかに出品されて、広島では国際審査員特別賞を受賞していたりと数々の栄冠をものにし始めている。そうした看板があってもなくても観れば凄いと分かる作品。繰り広げられるビジョンとそして仄めかされる含意に翻弄される時間を味わえる。

 迫る白と黒の巨大な生き物のようなものは昼と夜の象徴か。それらが手にした木を植え替え、地面の下では誰かが木を育てては地面の上へと付きだしている。どこかの家では子供たちが床下の収納庫に箱詰めされたハンバーグを取り出しては食べている。その箱にはカレンダーのように食べる日付が書かれてあってそして足りなくなってくると母親か保母さんか誰かが肉をこねて焼いてハンバーグを作りそれを箱に入れ、日付を張って床の下に収納している。ヤギがいて何かを食べていたりもする、そんな情景が繰り返される中から繰り返されつつ過ぎていく日常といったものが漂ってくる。

 子供たちは管理されているのかどうなのか。あるいはそうした施設で定期的に定時に食事を出されたような記憶をえぐった作品なのかもしれないけれど、さまざまな含意を考えつつ流れていく全体を眺めているだけれ、不思議と時間が過ぎていく。難しくはないけれど難しくも出来る作品。言葉もいらず映像だけで見せられるってところも国際的な映画祭で引っ張りだこになる理由なのかもしれない。とはいえ日本語のセリフが入った「ズドーラストヴィチェ!」だっていろいろと賞はとっているからあんまり関係ないのかな。もう1度くらい観たいんでICAF2016のどこかで観るか、さもなくばTOKYO ANIMA!でまた国立新美術館に来る時に見よう。TOKYO ANIMA!は折笠良さん「水準点」の上映もあるし。

 「クロムクロ」は恐らく残り1話となって、地球での決戦はひとまず終わったものの244年後だかに襲来するエフィドルグ本体を相手にするため地球では激しい軍拡競争が起こりそう。その鍵となるのがエフィドルグから奪ったクロムクロなんだろうけれど、乗れる人間も限られる中でそれをどう扱うか、ってあたりで乱暴な勢力が温和な勢力を駆逐して、ムエッタを囲い半ば薬漬けにして言うことを聞かせようとする一方で、由希奈の母親は研究所をお払い箱になって家で半ばフリーター。そんな中で剣之介はムエッタに“故郷”を見せたいといろいろ画策している感じで、クロムクロをかっさらいゼルも伴いゲートを超えて行こうとしている感じ。それを阻止できるか否か、ってあたりが最終回になるのかな。迫るエフィドルグも殲滅できれば言うことはないんだけれど、それは第2期のお楽しみとして引っ張るのかな。ともあれ最終回、楽しみ。

 これは致命的だろうなあ長谷川某。「殺せ」といった不穏当な発言でもって転載サイトから転載を拒絶された事実が自身、主義主張を変えてまで掲載を続ける意志を持たないことを表していて、すなわち差別的な言説を是としている思考の持ち主だってことが満天下に知れ渡ったけれどもそれでも言論は自由であって、なおかつ本当の目的は政府や官僚の無策だといった主張に一定数、惹かれ賛意を示す人もいて、それを拠り所に主義主張を曲げず続けていこうといった姿勢も伺えた。

 でもそんな言説の拠り所にしているのが自身の取材の結果ではなく、誰かのサイトからの転載だったと露見して、取材しろよと吠えていた口にブーメランが突き刺さる。糖尿病で障がい者になった人に来るらしい特典を挙げた文言。「映画館の利用が常に半額(者1人同伴も半額)」「公共交通機関の利用料の半額(者1人同伴も半額)」「タクシーの初乗運賃の無料チケットが貰える(1枚1枚にに利用期間の設定有り)」。どこか日本語としておかしい部分があったりタイプミスがあったりするけれど、それが別のサイトでもまんまそういったタイプミスが存在していたことが突き止められた。

 つまりは転載。というより完全なるコピペ。切って張って校正すらしていないその態度に、たとえ主義主張の本意がどうであってもやり口として完全なまでに間違っている。そんな剽窃すらも主義主張のためには当然というなら、ちょっと前に2chへの転載を目的のためには正当と訴え批判された“記者”にも並ぶ悪辣さ。弁明したって通らないけれど、それすらしようとしないのは、無理だと分かったのかそれとも何か上手い言い訳はないかと考えているからなのか。今後の出方に注目。あとはキャスターとして出演を認めているテレビ局とかの対応とか。コピペ盗作した人間が司会の番組を続ける覚悟、テレビ局にはあるのかなあ。

 何か面白いものがあるかなと全日本模型ホビーショーへ。去年は結構見かけた「蒼き鋼之アルペジオ」関係があまり見えなかった代わりに「ガールズ&パンツァー」が劇場版の成功とそ、そして最終章の制作決定を受けて結構賑わっていた様子。個人的にはハイテックマルチプレックスジャパンから出る「ガールズ&パンツァー劇場版」のラジコン戦車がなかなか良くて、4号戦車やプラウダ高校のT−34/85やサンダース大学付属高校のM4シャーマン75ミリ砲搭載型なんかを買い集めては街を走らせ戦わせたい気分。3万円と値段は張るけどサイズは大きいし何より動く。塗装を直しフィギュアも載せればそれなりに雰囲気も出そう。問題は走らせる場所も置く場所も僕の部屋にはなってことなんだけれど。ダージリン様御用達のチャーチル歩兵戦車は出ないかなあ。

 去年に比べて増えていたのは「マクロス△」あたりか。フィギュアもあったしバルキリーなんかも登場。でもどちらかといえば歌姫への注目が集まっている作品だからフィギュア方面がこれから賑わってくるのかな。空系だと「紫電改のマキ」とか「終末のイゼッタ」なんかのプラモデルが登場。あと「ガーリー・エアフォース」とか。これまでは「ストライクウィッチーズ」が空系として存在しつつも擬人化なためにあんまりミリタリー的には盛り上がってこなかった。実機が登場する作品が増えてくれば戦艦に戦車といったプラモデルなり模型に続いて戦闘機のプラモデルにも注目が集まることになるのかな。コルセアとかメッサーシュミットとか紫電改とか雷電とか。飛行機ものは作って楽しく飾って格好いいから流行って欲しいなあ。

 100億円を突破したらしい新海誠監督の「君の名は。」。過去にそれだけいったアニメーション映画は「千と千尋の神隠し」と「ハウルの動く城」と「もののけ姫」と「崖の上のポニョ」と「風立ちぬ」くらい。すべてが宮崎駿監督の作品でなおかつスタジオジブリの作品。米林宏昌監督の「借りぐらしのアリエッティ」は92・5億円だからこれがポスト宮崎駿監督の最前線だった訳だけれども、「君の名は。」はこれを抜いて最前線に躍り出た。そういう意識が新海誠監督にあるかは別にして、世間はやっぱりそう見るだろうなあ。それだけに次がどうなるか大変そう。とりあえず目標は「風立ちぬ」の120億円だけれどこれは10月上旬には届くだろう。「崖の上のポニョ」の155億円あたりがとりあえずの目標になるのかな。「シン・ゴジラ」も100億円に迫ってくればアニメーションと特撮の2本柱が東宝に立つことになるけれど果たして。

 ようやくやっと「映画 聲の形」を見る。結絃は誰にも渡さない。それはそれとして思ったのはこれは聾唖者という特定の生きづらさを持った人間を取り巻く周囲の無理解を描いた映画というよりは、ひとりの無垢な存在を鏡として、それに周囲が自分を映して跳ね返ってくる自分の足りない部分や、疚しい部分なんかを感じ取っては嘆き悶え、開き直りもしつつそれでも耐えられず悩み考えた果てに、自分なりの最善を選び取ろうとする映画だった。そう思った。

 小学生のクラスに転入してきた西宮硝子は耳が聞こえず喋りも拙く周囲がいろいろと教えて上げないと着いてけないところがある。だったら教えてあげれば良いじゃんというのは分かった大人の言う言葉。子供はそうしたちょっとした面倒が特別に思えて厄介になってついつい排除してしまいがちになる。それが流れとなると突出して排除へと向かう者も現れる。石田将也がそうだった。

 目立ちたかったのかそれをやることがクラスの総意だと考え役に経ちたかったのか。子供だからいろいろあるんだろうけれど、相手の気を惹きたいといった可愛い感情はあまりなし。というより硝子自身にそうした誰かに媚びるとか、逆に誰かを厭うといった感情めいたものをあまり出させないで純真に、大変な身上だけれどどうにか着いていこうとしている無垢な存在として映画では位置づけている。

 原作の漫画を読んだのはもう前でディテールは何と無く分かっていても細部まで覚えていないので、そこまで無垢な鏡のような存在として描かれていたかは記憶にない。少なくとも「映画 聲の形」の硝子はほとんどのシーンにおいて怒らず嘆かず憤らないで自分をどちらかといえば卑下した存在に見せている。そんな硝子に対していじめの感情を向けたところでそれは相手には届かない。届いてはいてもそう感じさせないからこそ自分へと跳ね返って身を苛む。

 将也はそんな反射した自らの刃に傷つけられて小学校時代を悲惨に過ごし、中学校に進んでも似たような境遇が続いた果てに臆病になっている。死のうとすら思い詰めている、そんな高校時代をメーンにして時間が流れ出した物語で、硝子と再会した将也は過去を悔いつつ自分の過ちをどうにか振り払おうとしている。でも過去を詫びろとも言わず怒りもしない硝子を相手に将也の思いはどこか空回りする。前はいじめる側として刃を向けて鏡に反射して傷ついた。今度は自らの至らなさや情けなさを映してその事実だけを改めて感じて行き場を失い彷徨い続ける。

 将也に限らず彼の小学校時代のクラスメートたちもやっぱり硝子という無垢の鏡を相手に引きずっていた過去の自分を映しては、その持って行き場のない気持ちに怯えている感じ。佐原は逃げた自分を取り戻そうとして明るく振る舞うけれども踏み込めないし、川井は自分にまったく非はないと思い込んではいるけれども、そうやって誰かに責任を転嫁した自分が硝子の鏡によって跳ね返って来て八方美人的な立場を世に晒し、必然として認識させられる。

 植野はいじめていた自分を恥じてはいないし開き直っているのとも違って受け入れようとはしているけれど、それでも硝子の時に自分を悪者にするような態度に苛立ち、そんなことに苛立つ自分自身の拙さを見せつけられているようでさらに苛立つ。誰もが自分自身の拙さ足りてなさ弱さを感じさせられ、そこからさあどうしようかと考え足掻く物語になっている。

 あるいは既に死んでしまった誰かの存在を虚像として起きながら、過去を振り返り今を見つめるような物語としても描き得たかもしれないけれど、そこに聾唖という存在を載せて社会的に実在する課題として突きつけてみせたことで、当事者たちだけではなく広く大勢の人たちが自分だったらどうだっただろうか、といった考えるきっかけが与えられた。そんな気がする。

 途中から硝子自身が無垢な鏡という座を降りるというかすこしズレて過去を嘆き悲しみ迷っていたことも描かれて来る。ただ鏡のままだったらひたすらにいじめた自分、無視した自分、逃げた自分への慚愧ばかりが募って、それをどしようもできないやるせなさに悶えただろう展開が、硝子のそうした姿を見せことで、最底辺のそこから始め直すことが出来た。だからこそのホッとできるエンディングを得られた。後味の悪い思いを抱いて映画館を出ることがなくなった。そんな展開が上手いなあと思った。

 硝子はだからああいった描かれ方で良いと思うし、そうなったことで誰もが弱者に同情するとか上っ面の上から目線での理解を示すとかいった優しい見方で感動を与えられるのではなく、弱くて卑怯で愚劣な自分を感じ取り、そこから這い上がっていこうとする決意を抱かされる、井戸の底から空を見上げるような思いを自ら認めて爆発させる映画になった。自分のこととして寄り添える映画になった。そんな感じがする。

 そうした理解が正しいかは分からないけれど、少なくとも自分にとってはそんな映画だった。痛いし辛いし哀しいけれども目を背けてはいけない。むしろその身に将也を入れて背けている視線をしっかり前を見られるようなものにするために、何をしたら良いのかを考えるきっかけにしよう。得られるのは感動ではない。滂沱してもそれは浄化ではない。決断し、踏み出す意志。それを得るためにまた行こう。可愛い結絃ちゃんを見に。それかい結局は。


【9月22日】 晴れていれば遠出も考えたかれども雨なんで、近場だけで抑えようと学生たちによるおもに卒業制作のアニメーション作品を集め上映する「ICAF2016」を見に国立新美術館へ。ダリを見ようと並ぶ人を横目に会場に上がっても、これから来るかもしれない学生の作品を見ようとする人はそれほどいないのか行列はなし。時間が来たんで会場に入ってしばらくすると、それでも講堂に人がいるなあという感じには入ってきた。新海誠監督じゃないけど未来の才能、探すには最良のイベントだから、ICAFって。

 そして見たのは各校選抜プログラム。参加している28校からわずかに1作品だけが選ばれ上映されるってことで、誰をとっても未来の山村浩二さんとすら言えそうな東京藝大大学院だってたった1人。だったら円香さんでしょう「愛のかかと」の思ったら違って、4人が同時に喋るのを撮りつつ絵を動かしてのける力技を見せた山中澪さん「物語たちへ」だった。1度見たことがあって凄いけど中身よく分からないなあと思ったけれど今回もちょっと喋りが分離されず重なって聞こえてしまう。4方向から流した方が良いのかなあ。ヘッドフォンだと角度とか変えてあるのかなあ。

 そんな格好選抜プログラムで東京工芸大学から選ばれたのが大好きな狩野洋典さんの「ノアの□(ハコ)庭」で、見てやっぱり涙ぐむ。スクリーンで3度は見ているしネット上で10度以上は見ているけれどもその健気さ、その将来を思うと泣けてしまうのだった。観客賞、取れるかなあ。でも今回は誰もがめちゃ、レベルが高くて競争激しそう。例えば尾道市立大学の小寺優輝さんの「mis U」は、どこかの研究室みたいなところでロボットが目覚めて、その視点からロボットを作った博士による世話焼きを眺める作品かと思ったら違ってた。物語性も意外性抜群。あとキャラのロトスコープっぽい動きも良かった。どういう人なんだろう。今何やっているんだろう。

 それから東京造形大学の顧傑さん「I CAN SEE YOU」も必見。春にTAAFの学生選抜上映プログラムでも確か見た作品だけれど、アーチェリーによる見えない誰かとの撃ち合いが凄まじい。スピーディーな上に迫力もたっぷり。でも少し縮めたかな? 柱すら何本も矢をぶち込むことによって貫いて迫ってくる描写があったように記憶しているんだけれど。海外のアニメーション映画祭で海外作品として上映されてそうな作品だったのが、京都精華大学、ダリア・ポドベドさんの「WILD WILDE ARCTIC」。北極開発と戦う白熊ほか動物たちの活躍が愉快だった。

 ストーリー性では京都造形藝術大学の内田彩香さんの「クレヨンがおこった!」も童話的作品として子供に見せたい作品だった。子供の手から離れてしまったクレヨンが、小さくなって捨てられてしまった欠片のクレヨンたちと出会い助けを借りて元の居場所に戻るストーリー。寄り集まったクレヨンの欠片で描かれた線が虹の架け橋になる展開がとても綺麗。優しさでは神戸芸術工科大学の宮元彩香さん「ぽちはな」が愛犬との離別を描いてキュンと来た。動きも表情もとても良かった。

 優しい作品ってことでは、指導に片渕須直監督の名前が見えた日本大学芸術学部の松實航さん「私はワタシ」も情動を誘う作品だった。ADHDかもしれない少女は授業中でも空を見たり部屋が片付けられなかったり。やろうと思っても別のことに夢中になってしまうと忘れてしまう。そんな自分を自分は普通だと思っているのに周囲はそう見てくれない歯がゆさや寂しさを、みんなの支えで乗り越えていく姿が優しい絵柄に描かれていた。当事者の側から描いている、っていうのも良かったかなあ。日芸は他の作品もあるけれど、やっぱり片渕さんが指導しているのかな。まとめたプログラムも見てみたいな。

 そのまんまNHKで流れていそうだったのが女子美術大学の喜多村香菜子さん「TABEMONO−MATOPE」。擬音を吐くキャラと食べ物をまとめハムエッグだとかいったキャラにして、それが重なり合い出てくるシーンがオムニバス的に連なる。ついつい見入ってしまう。シリーズ化も出来そうだった。クリハラタカシさん「HAPPY BOGEYS」をちょっと思い出した。どこのアニメーション制作会社に行ったんだろう。気にあった。デザイン性抜群だったのが金沢美術工芸大学のgammyさん「papa」イラストとしても立ちそうな男性のキャラクターが変幻しつつ大人になっていく姿を優しい色味で表現してた。グラフィックデザイナーとしても活躍しそうだなあ。ってか本名なんだろうか。

 そんな感じに28本の各校選抜を見終わって出ると別室でICAFレトロスペクティブとして過去の作品を上映していて、それが2012年で久野遥子さん「Airy me −full ver.」ってのを上映するってんで入ってキムハケンさん「MAZE KING」から見続ける。どれも見たことがある作品だけれどやっぱりセレクトされるだけあってどれも面白い。菅沼花会さん「オンリーマイマドンナ」とか喋りと紙芝居と展開も破天荒さがやっぱりとてつもなく破壊的。面白かったんだよなあ。今何をしているんだろう。この年はししやまざきさんもいれば冠木佐和子さんもいてと内外のアニメーション映画祭を総なめにしている巨頭が並ぶ。そんな人たちを生み出したICAFってやっぱり凄いけど、生み出しながらも後が続けられるかが大変なのも実際。「一杯の珈琲から」の森田志穂さん、ちゃんと作品作っているかなあ。

 久野遥子さんについては大丈夫そうで岩井俊二監督による「花とアリス殺人事件」に携わってロトスコープディレクターなんかを務めている。ただ抜群の作画力をそしてアニメーションさせる力、それを多彩なカメラワークで表現する創造力にあふれていた「Airy me」のようなオリジナル作品とは違って、お仕事として求められるものとを作らなくてはいけないというのがひとつの壁なのか。それでも自分らしさに溢れた作品を作っているようだから大丈夫なのか。いつかその才能が全編にあふれた作品を見てみたいなあ。「Airy me」の衝撃今一度、って感じに。いつか新海誠さんみたいになる日まで。

 例のフジテレビ元アナウンサーは性懲りもなく第3弾をブログにアップ。でも中身はといえば自省も自制もなくって相変わらず、1型以外は自業自得だと言ってるに等しかった。それが現場の医師の感触なんだと正義の代弁者的に語っていた。ふと浮かぶ社会の昏い感情を掬い集め増幅して煽る態度はどうにも厄介で、自分が言いたいことのために役立つ材料しか集めず、声しか聞かない人に反論を言ったところで聞く耳は持たれない。自身、過激な言葉によって炎上させることが本質的な問題点を浮かび上がらせると言うけれど、結局のところは分断して片方を貶めることで自分達を安全圏に逃れさせ、溜飲を下げているだけ。そうやって高められた弱者への不満と猜疑心は、次に違う弱者へと向かってそしていずれそちら側に落ちる自分に突き刺さる、ってことを分からないんだろうなあ。

 さすがにヤバいと転載していたサイトは前の2つを削除したけど、それは本人が訂正も削除もする意志がなかったからだろー。そこまで頑なな信念を持った人間が、別に何かを書いたところで果たして転載はすべきか否か。結果として反社会的な思想を持った人間へのアクセスを増やしかねないのなら、そこでいったんん、関係を切るのがメディアとしての態度だろう。当人は当人で自分のブログを立ちあげそこで言いたいことは言えるのだから言論の自由は保障されている。転載によってメディアがそうした自由な言論に対する責任を負いたくないなら載せなければ良い。それだけだ。個人のサイトでなら何を言おうが責任はすべて自分にかかってくる、って今はプロバイダー責任法もあるのかな、さすがに個人サイトではそれは及ばないのかな。それで稼げるかは知らないけど。広告の掲出すらもやがて止められるんだろうか。

 そりゃあ時の氏神として出てきて対立しがちなBJリーグ側とJBA側をまとめあげた手腕は評価するけれど、それだって世界のバスケットボール界から追放されかねないって瀬戸際まで追い詰められた危機感がJBAの側にあったからで、それがBJリーグにだって良いことではないといった認識も重なって、統合へと向かわざるを得なかった上での時の氏神。他の誰がやっても上手くいったわけでもないけれど、ゼロから動かしたって訳ではないから川淵三郎さんを日本のプロバスケットボールリーグの立役者、って持ち上げるのはちょっと違うかなあ、って気はしてる。それよりもやっぱりBJリーグを立ちあげ、旧弊な実業団系リーグとそれを支えるJBAを相手に戦ってきた人たちの苦労に喝采を贈りたいところ。Bリーグ発足、超満員の代々木第一体育館での試合にいったい何を思ったか。


【9月21日】 「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ! 無理だと泣くならそのまま殺せ! 今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」という、タイトルだでも差別的な意識がボコボコとわき出ているブログに続いて、「繰り返す! 日本の保険システムと年金システムは官僚から取り上げ民間に落とせ!」と書く元フジテレビアナウンサーの長谷川某。自分は官僚が作った不良品の保険システムと戦っているだけなんだと英雄を気取っているけれど、その保護の網から蹴落とす人たちへの気兼ねや慈愛の心は欠片もなく、ただひたすらに自業自得とののしるばかりで読んでいて心が痛くなる。

 でも本当にそうなのかといった疑義は山ほど出ているし、昨今の貧困問題が結果として自業自得にならざるを得ない状況も言われているにもかかわらず、そうした声にはまるで耳を傾けようとしない。ひたすら持論のためにそういう事例だけをことさらに論い、掲げてはほら見たことかと誹ってみせる。一部の突出をそれも虚飾で飾って自分達の敵だと攻撃する。でもそこに本当は壁なんてない。境目なんてなくて両側を行ったり来ているだけ。いつ非難され排除される側に落ちるかもしれないという創造力が、まるで欠けた思い上がりが非難されていることに、気付いてないのか気付こうとしないのか。どっちにしたって厄介きわまりない。

 ただ、さすがに今回ばかりは、たとえ自業自得とのレッテルを貼った相手であっても、生きる権利を生まれながらに持った持った人間を相手に「死ね」と言った以上、その人権侵害も甚だしい言葉への責任はつきまとうだろう。あるいはメディアが責任を果たさせるだろう。そういう社会状況であって欲しいけれど、だたしたらこれまでの暴言の数々で、とっくに排除されているよなあ。でも未だに生き残っては暴言を吐きまくっている状況が、この社会の末世ぶりを示しているのかもしれない。自分は正義の尖兵として働いているつもりでも、実は権力の走狗として弱者を攻撃して切り捨てているだけ。そしていずれは切り捨てられる弱者となって、叫ぼうとも縋ろうとも排除されていく。そうなってからでは遅いのに。自分だけは大丈夫だと思っているんだろうなあ。やれやれだ。本当にやれやれだ。

 間もなく発売となるらしい小嶋陽太郎さんの「こちら文学少女になります」(文藝春秋)を一足先に読んだら面白かった。まずタイトルに引っかけが。「……になります」とあるけれど「これからそうなっていくんだよ」って意味かというとそうじゃない。どちらかといえば「であります」といった意味で、そうしたニュアンスの齟齬がちゃんと作品の中で使われていて、編集者という仕事が言葉に対して抱くこだわりめいたものが漂ってくる。そう編集者、この「こちら文学少女になります」は編集者が主人公の作品なんだけれど、それは「文学少女」ならではの文芸ではない。漫画だ。漫画の編集者だ。

 つまりは過去にあった「編集王」とか「重版出来」にも描かれていたような、新米の女性漫画編集者がぶちあたる様々な壁ってものを描いては、どことなく破天荒な仕事ぶりが、業界に良くある馴れ合いや固定観念なんかを暴き立て、漫画や編集の本質に迫っていくといった内容。漫画好きだけれど漫画が作られる場面については想像でしか知らない人たちに、そうかこんなに大変なのかといった感心を与え、面白がらせてくれる。本当は文芸志望だったのに、漫画雑誌に配属された新人女性編集者の主人公。大御所を怒らせ童貞の妄想で描いたエロで人気の漫画家の人気を落としとダメな仕事ぶりをいきなり見せる。

 看板漫画家の担当にもなったけれど、その漫画家には著作権エージェントがいて自分はただ原稿を受け取るだけ。単行本の装丁も右から左にデータを送っては装丁家から案をもらいエージェントのオッケーをもらうだけというからまるで仕事をしていない。漫画嫌いな自分だからそれで良い? それはやっぱりダメ。どうして漫画を読まないのか。過去のトラウマがあって突破できな自身の壁を、漫画編集の仕事を通して突破していく成長のドラマを楽しめる。嫌われたはずの大御所漫画家とのやりとりとか、相手の矜持と自分の思いがぶつかり合っても反発せず、高め合おうとする方向に行くのがとても良い。

 自堕落に見えたり自分勝手に見えたりするほかの編集者たちが、実はそれぞれに漫画に強い情熱を傾けていることもうかがい知れるストーリー。そんな環境から漫画って生まれて来るんだ、面白くないはずないじゃないかと思わされる。もうひとつ、著作権エージェントなる存在の仕事ぶりにも触れられるのが面白いところか。コルクとか電脳マヴォとか漫画家を契約を結んで売り込みをするエージェントが生まれているし、電撃文庫のやり手編集者だった三木一馬さんも独立してエージェント業を立ちあげた。そんなエージェントの先駆けとして、三浦しをんさんあんかを世に出したボイルドエッグズが行っている新人賞から小嶋陽太郎さんは出てきた。それだけに身近にいるエージェントの仕事ぶりも交えつつ書いたのかも。とはいえ小説の人だから漫画の編集者は知らないのに、結構踏み込んで書けている。そこはだから小島さんの調査力と描写力のたまものだろう。面白い1冊。

 強いお母さんだなあ、とまずは思った古波津陽監督の「ハイヒール革命」。真境名ナツキさんといういわゆる“ニューハーフ”の人がどういう人生を辿ってきたかを振り返ったドキュメンタリーを、役者による再現ドラマ的な部分も交えて描いた作品で、その中でまだ中学校だった当時、自分は男の子の格好で学校に行くのが嫌だけれど、それを学校で言おうとしても先生たちからは鼻で笑われ大悩み。けれども母親は、自分の子供がそうなんだと理解し、校長先生と談判し教育委員会とも話し合って子供が女子の制服で学校に通えるようにする。もちろんそこで自分の主張を貫けと、子供には諭すんだけれど親がそういうスタンスだからこそ子供も言えた。親の理解あっての突破だと思うとまず、その理解を心底より讃えたくなる。

 高校だけは行けとも言って定時制高校へと進ませ、そこでもいっしょに行って事情を説明しようとする。理解だなあ。それ以上に理解が進んでいたのが定時制高校の方で、先生は女子として通い、女子といっしょに体育も部活もやることを認め異論をはさまない。クラスメートたちも自分達の仲間として引き入れていっしょく部活動もする。とっても理解のある周囲。だったら本当にのびのびと生きられたかとうと、逆に自分自身はどっちななんだろうという思いも浮かぶみたいで、男としては弱いけれども女としては強かったりする自分の曖昧さ、どちらかに押し込めることの悩ましさから学校に溶け込めなかったことを打ち明ける。

 女らしさであり男らしさ。その両極に自分をおかなくちゃいけない場合に起こる、それは本当の自分なのかというギャップ。そういう身体で生まれて来て、けれどもそういう心を持った自分はどっちかではなくどっちもでもあり、どっちでもないという存在。それを認めるにはまだ日本は、あるいは世界は成熟していないんだろうなあ。だから自分を極端に寄せざるを得ない。世間もそうした極端に寄せた存在をのみ認めようとする。難しい。自分がなりたいものになる。なりたいものになれる。そういう世界の訪れを心から願う。

 あと興味深かったのは、真境名ナツキさんが中学では親に、そして高校では仲間に認められ過ぎていることで、依存の傾向があって自分のなりたい自分をよく分かってないかもしれないと思えた部分。ひとり戦い勝ち取ったものではないその立場から、抜け出せる時は来たのかな。パートナーの人とは対等になれたのかな。そのパートナーの人が自身、性同一性障害を乗り越えて早くに自分の胸を削り、男性として行き始めたらしい人だっただけに、超えてきた壁が強さとなってにじみ出ていた。そんな人だからこそ、どっちつかずを良しとしている相手に歯がゆさを覚えていたんだろうけれど、自分で立つことをまだ知らないとそういう歯がゆさに気づけない。ただこうやって映画になって露わになった自分に向き合い、何かを感じたのかもしれない。今の真境名ナツキさん、どんな感じなんだろう。ちょっと知りたいかも。


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