縮刷版2016年7月下旬号


【7月31日】 凄まじい。そして恐ろしい。すでにして第1巻の「バビロン1 −女−」(講談社タイガ)で見えていた魔性の片鱗が、じわじわと染み出してはクライマックスで一気に破裂して世界を阿鼻叫喚の渦へとたたき込む。否、当人たちは悲劇とも残酷とも思わずただ快楽の中で誘われて自ら死へと突き進んでいくだけ。だからこそ傍目には恐ろしく、そして凄まじい描写として目に映る。そんな野崎まどさん「バビロン1 −死−」(講談社タイガ)。新域なるこれまでとは違った法制度も可能となる特区のような場所を作ろうとする政治的謀略の逆手を取るように、新域の長となった男が自殺を合法化するとぶち上げ、そして60人以上の者が庁舎から飛び降りて命を絶つ。

 そこに至るまでの間、東京地検特捜部の検事、正崎は謀略を知らず奇妙な事件を追っていて幾つもの死を減る。それこそ使っていた事務官すら死へと誘われ失った果て、辿り着いた場所で目にした光景に愕然としながら、背後で蠢く1人の女の存在に気付く。曲瀬愛。1度だけ取調室で時間を共有したことがある彼女が、どういった方法か分からないけれども大勢の死に関わっている可能性がある。だから新域の長を止めようとする捜査の裏側で、女性が絡んだ犯罪捜査に長けた刑事を使ってその行方を追わせていたが捕まらず、それどころか返り討ちに遭ってしまう。

 いったいどうやて。どのようにして。そんな疑惑にふっと浮かぶ可能性が、新域の長にと自殺法に反対する政治家たちとの公開討論が行われた公営の放送局を舞台にして一気に顕在化する。その惨憺たる光景。その驚嘆すべき展開。1人の仲間の気力を振り絞っての告白が曲瀬愛による誘惑の凄まじさを浮かび上がらせる。それこそ幼少の頃から同級生たちをモヤモヤさせ、診断した親戚の精神科医を欲情させたその資質が異能のレベルにまで高まって、行き違う人のすべてを誘い導き送り込む。死の淵へ。あるいは「2」の最原最早が行ったように、世界を操り人心を操る才能を生み出そうとする実験から生まれた“怪物”なのかもしれない。そんな曲瀬愛がどうして正崎だけを生かしたままにしているのか。衝撃のラストのその先に来る、何か裏のありそうな戦いの行方が今は気になる。そもそも瀬黒陽麻は本当にそうなったのか。続きが読みたい。出来るだけ早く。

 数学については詳しくないし、興味があるかというとそれほどない。ただ、数学をめぐるさまざまなエピソードは面白く、どんな定理やら予想やらがあってそれにどれだけの数学者がどれだけの時間をかけて挑んできたか、なんて話が積み重なっている状況に、どうしてそこまで数学にのめり込めるのか、といった関心が浮かぶ。それが何か世界の困難をするりと解決してくれる数式なら、解かれて欲しいと誰もが思うし願うだろう。でもそした証明やら定理やら予想は、提示はされても何かに役立つといった類のものからは遠い。一種のクイズみたいなもの。でも数学者たちは解きたいと願う。解くことに人生を賭ける人までいたりする。どうしてそこまで。そんな疑問のいったんに、近づけてくれる物語が、王城夕紀さんの「青の数学」(新潮文庫NEX)だ。

 数学オリンピックの予選へと向かう途中にひとりの少女、京香凜と出会った栢山という少年は、予選には落ちて入った高校でもとりあえず数学を解くことに勤しみ、前に知り合った数学者っぽい人物から紹介を受けた古本屋に行きつつ、学校にもあった数学研究会にも入って、それまでたった1人の会員だった少女とか、生徒会にも参加している別の少女なんかとも交流しつつ、ネット上にある数学専門サイト「E2」にアクセスしながら、そこで行われる数学による決闘にも関わるようになっていく。

 優秀な生徒が通う学校でも5人しかメンバーになれず、負ければ退会して勝った者と入れ替わる「オイラー倶楽部」という会のメンバーを相手に決闘しては引き分け、そこのトップも参加した合宿に行って対戦したり共に解いたりする日々。そんな日々の中で少年は問われ問いかける。どうして数学に挑むのかを。そこに数学があるからなのか。解き明かす快感があるからなのか。誰にも出来ないことを出来る優越感が欲しいのか。人それぞれだけれども実学とは離れた栄誉くらいしか与えられない数学に、それでも挑む理由めいたものは何となく伝わってくる。

 そんな若い数学好きたちを驚かす事態。栢山がかつてすれ違った、そして数学オリンピックで2年連続金メダルをとっていた京香凜が、「E2」上で10ある難問の9までを解いてみせ、最後の10番目に挑もうとしていた。彼女はいったい何者なのか。彼女が栢山に向けて発した数列の秘密は。解くと自殺でもしたくなる? そんな曲瀬愛じゃないんだからとは思うけど、今だ正体が見えず謎めく京香凜の言動に振り回される数学好きの少年少女を見ていると、そこに何かあるかもと思えて来る。何かあるんだろうか。続きが読みたい。続くかな。

 東京国立博物館で開かれている「時をかける少女」を始めとした細田守作品と日本美術との関係を考える展示が今日で終わりってんで上野公園へ。なるほどあちらこちらに立って「ポケモンGO」をプレイしている人がいっぱいでいつもより2割増しくらい人が多いような気がした。それだけのために来て帰るのかついでに国立西洋美術館に寄ったりするのか屋台で何か買ったりするのか分からないけれど、人が来ない場所に人が来ているという“事実”から次に何か進められばともに意義のあるものとなるんじゃなかろーか。たとえ彰義隊が壊滅した場所でも恩賜公園でも公共の場所。人が集まったところから、何か始めることを考えようよ。

 一方で、侵入者が悪さをするかもと北海道大学では構内からポケモンを追い払おうとしているけれど、日頃から学生以外も普通に入っている公共の施設がプレーする人だけ追い出すってなんかつまらない話。来てもらった上で提供できる知識なり経験が、北海道の底上げにつながり大学の地位向上にもつなげられると思えば良いのに。他の大学のたとえば帯広畜産大学だとか札幌大学だとか諸々の北海道にある大学とも共同して構内ポケモン100匹制覇、とかやれば大勢が来てそこから親近感が生まれ優秀な学生も集まるようになると思うんだけれど。頭のカチカチな人が今は上にいるのかなあ。もったいない話。

 東京都民「これで東京は物理的ではないにしろ表現規制で文化は焼け野原になり親学推進で保育園より家で育てろ的風潮が増し江戸しぐさが職員に奨励され国より先に有事条例が制定され小笠原に自衛隊が派遣さっるかもしれないが、良いんですか?」自衛隊幹部「仕事ですから」。それは冗談としても上に立った者の意思はじんわりとだけれど都庁全体に広がっていって、諸々にライティーな政策が打ち出されては困る人たちが結構出てくるんだろうなあ。これが自公相乗りで他の政党なんかも関わった候補だったらその綱引きの中で縛られ大手を振っては歩けなかったけれど、党に逆らい議会にも挑戦状を叩きつけての当選だからかつての小泉純一郎総理のようにやりたいことをやるだろう。そして残る焼け野原。都民じゃないけど日本全体の文化に関わることだけに、ちょっと困ったなあという気分。どうなることやら。


【7月30日】 しかし「シン・ゴジラ」、暴れ回っている場所が場所であるにも関わらず、皇居とそして天皇陛下の存在についてまるで触れられていない気がしてならなかった。皇居についてはバトルの場所が場所だけにとばっちりが及んで不思議はない。銀座有楽町で大暴れしながら皇居に被害が及ばなかった1954年の「ゴジラ」の場合、時にB29による東京大空襲の飛行ルートをトレースしたからだ、という話も出回っているけれど、それは違うという調査もあって意図は不明ながらもやっぱり戦後間もない時代、皇室に対する配慮もあったのかと考えられる

 その後も触れられることのなかったシリーズへの敬意を鑑みて、「シン・ゴジラ」としても皇居は避けたかと思われるけど、ただ今回の場合は国家存亡の危機に対して国家がシステムしてどう対処するかといったことを、行政の中枢たる総理官邸を舞台して描いていこうとしているだけに、法律の改正においても総理大臣という職務の代行においても国というものの存在を決断するその意思決定においても、天皇の存在が混じるなり取りざたされて不思議はないのに、まるで触られていないので第1作にも増して気になってしまう。それで説明があると何を言っても憶測が混じるので、語らずそういうものだで押し切るんだろうけど、やっぱり気になる部分。あるいは次回作があれば語られるかな。目の前にいるだけに。

 すでに1回、試写で観ているけれどもフィルムがもらえるってんで劇場まで出向いて川原礫さんの小説を原作としたアニメーション「アクセル・ワールド」の劇場版となる「アクセル・ワールド INFINITE∞BURST」を観る。実を言うと原作もメタトロン戦あたりまで読んであとはと塩漬け状態だったんで、どこまでついて行けるか分からなかったけれども前半はテレビシリーズの総集編で、黒雪姫とハルとの出会いからシアン・パイル戦を経て赤の王と協働しての災禍の鎧討伐編へと至ってまずは一段落。そして映画では本編とも言える新たなストーリーへと突き進んでいく。

 舞台となっているのは東京・渋谷の代々木第一体育館周辺で、そこでちょっと前にあった体操の試合で少女がひとり怪我をした。そして切り替わって領土戦を挑むメガ。ネビュラスとプロミネンスの共同チームの前に突然起こった奇妙な事態。全員がネットからはじかれ「ブレインバースト」にアクセスできなくなっていた。何かある。そして浮かんだ神獣級エネミーとしてメタトロンと並ぶニュクスの存在だった。

 封印されていたはずのニュクスがどうして復活したのか。いずれにしてもこのままでは、誰も「ブレインバースト」にアクセスできずバーストリンカーでなくなる。立ちあがったメガ・ネビュラスは他のレギオンにも声をかけるが賛同はなく、仲間たちで暗雲に立ち向かおうとする。そして始まる激戦で、加速世界に集う者たちによるオールスターキャストによるイベントムービー的な展開があってこれは東宝チャンピオンまつりか、それとも東映まんがまつりかといった楽しみ方ができる。とりあえずグリーン・グランデ格好いい。喋らなくても顔だけでも格好いいし喋るともっと格好いい。神室町が似合いそう。

 そんな感じで進んでいくストーリーは、本編から外れた番外編というより時間軸は繋がっているし原作者の川原礫さんが脚本にも参加しているからいずれ本編に吸収されることになりそう。売れに売れて世界中にファンがいる「ソードアートオンライン」よりも実は原作的に「アクセル・ワールド」の方が好きなんで、テレビシリーズが止まってしまっているその先を見られて嬉しかった。そういうファンも結構良そうな感じ。これを機会にテレビシリーズも復活を遂げて第2期と行きたいところ。ハルが変じてしまいそうになる災禍の鎧戦と四神戦、そして聖獣メタトロン戦。それだと2クールでは足りないかな。ようし第3期だ。

 しかしやっぱり「アクセル・ワールド」を見てしまうと「ingress」だとか「ポケモンGO」といったARで話題のゲームがどうしても時代遅れに見えてしまう。そりゃ「ブレイン・バースト」は2040年頃に誕生したゲームで今から20年以上も先の技術が使われているんだろうけれど、ウェアラブルを使って脳を刺激して加速した感覚を与えることさえ除けば、現実の世界にレイヤーを設けてそこを舞台にした陣取りゲームおよび対戦格闘ゲームといった概念は、やろうと思えば実現できない訳ではなさそう。街を歩いてプレーヤーがいると分かればスマホなりウエアラブルグラスを通して相手を確認、あとはボタン操作で対戦格闘、そして戦績を重ねてレベルアップ。それが楽しいかというと分からないけれど、ポケモンを集めるだけなのに飽きてしまった人には次ぎにそうしたアバターを与えスキルを与え対戦へと導くような展開があっても面白い。

 アニメーションやライトノベルの原作のように現実が加速しフィールドに自分が没入した感覚になれるには「ソードアートオンライン」でのナーヴギアの技術がさらにウエアラブルレベルまで進化する必要があるんで、来るならむしろ没入型のMMORPGの方がさ気かも知れない。これもまたVRヘッドマウントディスプレーを介したネットワーク型の多人数対戦RPGを開発することで半歩進めることができるだろう、って考えると2000年代半ばから、そうしたARとかVRについて書き続けてきた川原礫さんは時代の先駆者であって、もしかしたら伊藤計劃さん以上に2010年代のビジョンを予言していたのかもしれないけれど、エンターテインメントとして消費はされても時代を変える概念であり思想とSFなり文学なり社会学方面で認められてはいない感じ。そこがやっぱりライトノベルの不憫さか。まあ良い、僕たちは知っている。だから讃えつついずれ来るそんな時代を待ち望もう。

 前にバングラデシュでの襲撃事件で政府が被害に遭われた方の名前を発表しなかった古都に対して社会部長が異論を唱えては、自分たちの商売のためじゃないかとフルボッコを食らっていた新聞が今度は社説に当たるコーナーで、相模原での障害者施設襲撃事件で警察が被害に遭われた方々の名前を発表しなかったことに対して論陣を張って発表しろと行っている。「実名を報道するか否かは取材の結果で決める。まず取材がなければ、真実へは一歩も近づくことができない」といった辺りとか、権力が情報を隠蔽して自分たちの都合で出し入れしかねない懸念も含んでいて、その主張に賛意を見せたい部分もないでもないけれど、でもやっぱりメディアスクラムとかセンセーショナリズムへの批判が渦巻きつつ、それに対処できていない状況でこれを言うから批判が起きる。

 「報じる側の集団的過熱取材(メディアスクラム)には強い批判がある。深く反省すべき点も多々ある。それでも、取材をやめるわけにはいかない」という最後の1文とか、反省はするが改善はしないで突っ走るぜ俺たちは、って言ってるととられかねない。他がどれだけセンセーショナルに行こうとも自分たちは矜持を守るといったところで、取材を受ける側にとっては同じメディアであって、そこに区別なんて付けられない。かといって次長派が積極派を留め置くことも不可能。そこには言論の自由も絡む。だから最初から明かさないか、あらゆるメディアは実名での報道を辞める、事件発生から一定期間は取材を自粛するといったルールを作って、徹底していくしかないんだけれど、そういった具体策への提言もない。だからどうしても間が抜けてしまう。

 「怒りや悲しみ、被害者への愛情や思い出、容疑者への反論を直接聞き、伝えたい。そのための取材である。容疑者の供述や妄想に満ちた手紙の文面が、当事者に否定されることなく社会の記憶に残る事態は耐え難い」とあるけれど、文面は当事者でなくても否定はできるし、現に被害者たちに寄った団体が声明を出している。出していないのは真っ先に呼びかけるべき総理大臣であってそっちへの非難をするのが先だけれど筆は向かわない。怒りや哀しみの声は必要かもしれない。でも愛情や思い出は必要だろうか。それが涙を誘うんだ、っていうのは読者の勝手であってそうした声に寄っているメディアが被害者のためだと言っても説得力は無い。

 でもメディアはそうは思わない。朝日新聞までもが記事で被害者名が公表されていない状況を取り上げて、名前を公表しないままで良いのか、それで哀しみや憤りが伝えられるのかといった論調を醸し出そうとしている。被害に遭われた方を取り上げ、その人が名前を明かしたことを記事にして「一人ひとりの声を聞くうちに、『息子が生きていてくれただけでいい。恥ずかしいなんて言っていられない。隠してもいられない』と思うようになった。29日の朝日新聞の再度の取材に実名を承諾し、写真も提供した」と書く。なるほどそういう人もいたかもしれない。そう考えた家族もいたかもしれないけれど、そうは思わない家族もいる。だから断ろうとしたら、こうした記事が出て名前を出すことが正しいかのような空気が作られている。自由ですと言われたところで、前例があってそれに煽られれば人は流される。そうしたいがためのアリバイ作りと言われても仕方が無い。

 たとえハンディをかかえていても、それで社会に隠れるようにして生きる生き方は遅れてるんだ、なんて空気を作られてそうは思っていない、そういった勇気は無い、そういうことが言える助教ではまだない社会に生きている人たちが受けるプレッシャーは半端ない。誰かの勇気を称揚し、そうする正義を吹聴する一方で苦しみと痛みに苛まれる人たちがいることに、まるで配慮されていない口調がどうにもこうにも鬱陶しい。権力が情報を隠蔽することへの懸念といった、実名公表の必要性にすら触れていないこの朝日新聞の記事は、どこかの新聞の社説よりもさらにたちが悪いものだと言えるかもしれない。身体障害者しかりLGBTしかり。勇気を称えるのは結構だけれどそれを錦の御旗にされるのはまっぴらごめん。そういう自由すら与えてくれない押しつけの正義とどう戦えば良い? 都度都度に意見を言っていくしかないんだろうなあ。


【7月29日】 必ずしも先発として起用されるわけではないけれども、常に自分は今も日本代表に入ってワールドカップに出るくらいの気持ちで体を作り続け、試合に臨み続けずキングこと三浦知良選手にすべてが倣えとは言えないまでも、試合に出られないのならそれがどういうことかを考えつつ、やれる最大のことをやるのがプロのサッカー選手であり、スポーツ選手なんだろうなあという気持ちを一義的に起きつつ、飛び込んできた岡山湯郷Belleで起こった宮間あや選手や福元美穂選手らの退団申し入れと、監督代行の辞任といった内紛劇を見て、起用法に異論があったからといった理由で練習をボイコットしたり、4人も一気に退団したりといった行動のどこかに、共感を阻むようなささくれがあるような気が少しする。

 ただ監督が選手の人格を否定するようなことを言ったといった話も流れていて、そうしたチームにいられないというのも分かるし、女子サッカーの場合はプロである選手は一握りで、あとは仕事をしながら参加している感じでそこにプロフェッショナリズムを求め過ぎるのもちょっと違う。全人生をかけて挑んでいるのに否定されたらそれは辛いわなあ。ただやっぱり女子サッカーの世界を代表する選手であり、日本代表のキャプテンも務めた選手がこうした内紛めいたことで古巣に異論を唱える姿には、やっぱりなかなか気持ちを向けにくい。どういった事情があったのか、それはよほどの事情だったのかといったことが明らかにされることを願いたいけれど。

 しかし岡山はこれから大変だろうなあ。幼い頃から選手を養成してそのトップクラスが何人も試合に出られないでいるくらいに選手層が分厚い日テレ・ベレーザですら澤穂希選手や大野忍選手らが一気に抜けてINAC神戸レオネッサに移籍してしまったあとは、戦力的に立て直すのが大変そうでINAC時代を作ってしまった。古手の選手がほかにもいっぱい残っていたから引き締まってはいてもやっぱり試合は戦力。それがベレーザに比べてさらに乏しい岡山はいったいどうするんだろう。まあそれでも想定しつつ試合は進めていたそうだし、辞めることを表明した選手は結構なベテランで世代交代の必要性も言われていた。ここで一気に推し進めつつ立て直していくことで、また輝けると信じたい。Jリーグの傘下に入らず地元に支えられて頑張るチームは、ちょっぴり秋風が吹き始めた女子サッカーにといって必要だから。

 「内閣総理大臣ほか、主要閣僚全員の命を賭けても僕はゴジラに勝てないかもしれない」「賭けてから言いなさい」。なんてセリフを國村隼さんの出演を見てふと思い立ったけれども「シン・ゴジラ」、大筋において間違っていなかったというか、そんな感じに國村さんは頼もしげで慈愛も胆力も兼ね備えた好人物の統合幕僚長として描かれていた。そして呼応するように長谷川博己さん演じる対策の中心人物もその先輩格にあたる竹野内豊さん演じる官房副長官もそれぞれが信念を持って事態を見つめつつ自分が思う最善を尽くそうと努力し時に策も巡らせるやり手だった。総理大臣にしてからが逡巡はしてもやっぱり決めrうとなったらちゃんと決める覚悟を持った人として描かれていて、つまりはそうした人の強さが最終的には全てを決めるんだってことを、教えてくれた映画だったような気がしないでもない。

 見て人は有事法制がどうとか省庁間の壁がどうとかいった話をしてもっと事態に備えた法律を準備しなくちゃいけないよ、それを今の日本は自らが危機にあるんだと認めて推進しなくちゃいけないよってな感じに受け取りキャンペーンを張る人も出てきそう。権力の側にそういった思惑が浮かびそうだけれどもでも、そんな権力が自分の意見もなく誰かの意見を聞くでもなしに自分の立場に汲々として批判を恐れ右顧左眄している状況で、権力にすべてを委ねる法整備だなんて危なくてしょうがない。誰とは言わないけれども日本史に残るような凶悪で悲惨な事件が起こっても、困難に立つ被害者の側に寄り添うことなく予防拘禁に傾注するような政策を作りかねない人間たちの下で。

 可能な犯意でいろいろと想像できる叡智があって、常識にとらわれず判断できる人材がいて、そうした人材の具申を受けて行動できる決断力を持った人間が権力にいてこそ成り立つ法制度の整備を進める前に、まずは権力者たちも官僚たちもジャーナリストもすべての人も自分自身を磨くべき。そして決断して想像して判断しつつ最善を選び取れるようにするべき。映画を受けて意識をそういう方向へと持っていって欲しいけれど、世間は表面しか見ないからなあ。ともあれいろいろと考えさせられた映画。最後のショットのアレは何? 気になったのでもう1度見に行こう。あとはこの「それで作戦名はどうするのかしら?」「カッチン作戦で」「カッチン作戦? 迫力ないわねえ」「良い作戦名だ」「えっ」とかも最高だったし(そんな場面はありません)。

 ミーアキャットだミーアキャットだ、ミーアキャットが間近に見られるってんでセガ・ライブクリエイションが横浜で運営しているオービィ横浜って体験型テーマパークに行ったゴジラがいた。ちがうグリーンイグアナだけれどごつごつとした表皮とガバッと開く口がまるでゴジラ。立ちあがって火でも噴くんじゃないかとちょっと期待してしまった。それはさすがになかったけれど。元々はBBCっが持つ動物に関する膨大な映像資料と、そしてセガが持つインタラクティブ技術を合わせて動物に関する知識を得られるテーマパークとしてオープンしたオービィ横浜だったけど、今は子どもが滞在して楽しい場所になっている感じ。それならと実際に動物に触れるコーナーとして「アニマルスタジオ」が造られた。

 ミーアキャット意外にもウサギがいてインコがいてカメレオンがいてフクロウがいてミミズクがいてと盛りだくさん。ウサギは触れられるしハリネズミにだってタッチOK。ただし手に手袋は必須。だって痛いから。時間制で入って30分だっけ、そんな時間にいろいろな動物と触れあえるけれどもやっぱり見たいのはすっくと立つミーアキャット。眺めているとウロチョロしてなかなか立ちそうもないけれど、時々岩の上にのってフッと上を見上げたときに立ちあがるみたい。上で手のひらを動かすとそれが気になって立つのかな。いずれにしても横浜では希少な動物おさわりパーク。あるいは珍しい動物カフェ。「横浜ブルク13」で「シン・ゴジラ」を見た後に、真ゴジラを見に行くつもりで寄ってみてはいかが。

 阪大の石黒教授と東大の池上教授というたぶんアンドロイドとか人工生命とかの第一人者がコラボを組んで作り上げたという今までとはちがった人間らしさを持ったロボット「オルタ」ってのがお披露目されるってんで日本化学未来館へ。ニューロンがバチバチしているとか環境から非線形で条件を拾って関数をあてはめ動かしているとか意味がまったく分からなかったけれども、とってもランダムでありながらそれでもフッと人間らしさを完治させる瞬間を持たせるような動かし方をしているらしく、なるほどぐにゃぐにゃとタコ踊りをしているように見えながらもこれは人間、あるいは生命かもしれないなあと思わせた。

 人間を模して動きを近づけようとすればするほど無理が出て、それでも追いつかないギャップから不気味さが出る。「オルタ」の場合はそうしたアプローチではなく、人間というか生命が持つランダムな揺れみたいなのを表現することができるロボット、あるいはアンドロイドといったところなのか。表情は誰にも似てなくて体も構造が剥き出しになっていて、それでいて人間っぽさを漂わせるのはなぜなのか。仕草なのか視線なのか。そういった人間らしさを感じるポイントを考える上でもいろいろと役に立つらしい。まあ文楽人形だって表情は固定で関節だってあまり動かないのに動かす人が巧く動かすとものすごく表情豊かに見えるもの。そうした人間らしさとは何かってのを、対話から考えていくみたい。期間中もだからいろいろな人の反応を見つつロボットへの影響なんかも探っていく感じ。1週間経ったら見に行くかな。いきなりダンスとか踊ってたりして、マイケル/弱ション級の。

 取り仕切っていたSF大会でのオープニングアニメ上映をきっかけに作られたダイコンフィルムに端を発してガイナックスとなりゴンゾが分かれたりカラーが立ちあがったりした果てに、そんな系譜に連なる庵野秀明さんと樋口真嗣さんによる「シン・ゴジラ」が公開された日に、やっぱりSF作家の豊田有恒さんの事務所「パラレル・クリエーション」を拠点にして集まったSFファンがクリエイターとなっていろいろとやんちゃをしていな中から出てきた出渕裕さんやゆうきまさみさんがメンバーとなって立ちあがったヘッドギアが送り出した「機動警察パトレイバー」がリブート。1970年代から80年代のSFファン気質がクリエイティブに向かっていった成果が30年40年経って大きく花開いたなあって印象を抱きつつ、そんな人たちの活躍をずっと見てきた目に浮かぶ感慨と、一方でそうしたクリエイティブの戦列に加われなかったふがいなさへの慚愧が入り交じった、そんな1日。暑かったなあ。


【7月28日】 炎上しているなあ。とある新聞記者が相模原の障がい者施設が襲撃された事件に関して、警察が被害に遭った人たちの名前を発表しないとしたことに対してツイートして、「匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります」と書いていて、どうして実名でなければ事件の重大さが伝えられないのか、それはメディアの側の売ろうとする意識の発露であって、被害者の気持ちを蔑ろにしているんじゃないかといった非難を浴びている。もう集中砲火。メディアスクラムといって大勢のメディアが集まりくんずほぐれつの取材をして、迷惑を被る人たちが出る問題が顕在化している中で、さすがにこうした物言いは火に油を注ぐようなものだった。

 ただし、ここで注意したいのは、匿名発表と匿名報道はイコールではないってこと。発表においては権力側は情報を包み隠さず明かさなければならない。それは権力が情報を隠蔽することで、強いたげられる誰かがいるかもしれないから。メディアはだから公開を求めていくけれど、そうして得られた情報について、必ずしもメディアが明かす必要は無い。人権等に配慮して匿名で報じつつ、相手の理解を求めながら取材も行い、誰かといったことを公表せずとも、その人生が断たれた哀しみを伝えつつ、生きることの意味を訴える。そんなメディア環境があれば良い。

 けれども、残念ながら今のメディアにとって、権力による発表はイコールお墨付きだという逃げの感覚があり、どこよりも速く“人間ドラマ”とやらを伝えて読者の情動を誘い部数に、アクセスに、視聴率につなげたいという商売っ気があって、被害者の人権に配慮しつつ理解を求めるといったプロセスが吹っ飛んでしまっている。メディアスクラムが発生してもみくちゃにされる被害者の親族も現れる。だから、権力がメディアのそうした行為を誘発しないよう、匿名発表もやむなしということになっているという、そんな事情を噛みしめていれば、迂闊に権力による匿名発表は自分たちの商売の邪魔だなんて感じのことは言えなかっただろー。言葉足らずというか。そのあたりも含め、考えるきっかけを作ったと言えば言えるのかな。今後の言葉に関心を向けていこう。

 フロリダでの乱射事件の直後に会見して「『事件は米国民すべてに対する攻撃で、平等と尊厳に関する基本的価値観への攻撃だ』と述べ、少数者への嫌悪やテロ行為で米国の価値観が揺らぐことはないと強調した」(朝日新聞)オバマ大統領。事件が何によって引き起こされ、それがアメリカにとって不可欠な、というより人間の社会にとって大切な自由と人権を揺るがしかねない問題だという認識を持って、それを否定するような言説の台頭を牽制し、意識から立て直しを求めようとした。それが国を率いる者の使命であり、ひとりの人間としての信念だといった雰囲気。強いなあ。リーダーとはこうあって欲しいというひとつの形。  対して安倍総理は「『多くの方々が大変な不安を感じている。事件を徹底的に究明し、再発防止、安全確保に全力を尽くしていかなければならない』とした上で、塩崎厚生労働相ら関係閣僚に対し、施設の安全確保の強化策や、精神障害者の措置入院後の追跡調査について、見直しも含め早急に検討するよう指示した」(読売新聞)とか。違う。あまりに違いすぎる。人々が、とりわけ障がい者の人たちが不安を感じているのはどうしてか。それは弱者に対する脅迫的な言動が台頭して野放しになっているからで、そうした自由と人権に対する挑戦ともいえる行為をまず嗜め、感化されないように呼びかけこの国が寄って立つ基盤を立て直そうとすすべきだろう。

 それなにのに、談話から浮かぶのは障がい者施設の警備の問題であり、何らかの犯意を持ったものの隔離と監視の強化といった方面から事態を押さえ込もうとしているといった雰囲気。人権に対する挑戦であり自由に対する攻撃であって、そうした思想が垂れ流されている状況を憂慮し国民は絶対に感化されてはいけないといったメッセージはまるでない。まあ当人が、弱者を脇に寄せて格差を作り、その間を分断することによって上が下に対して溜飲を下げ、自分の地位を保とうとする雰囲気を作って、自らの地位を安泰なものとしている感じと見なされている総理大臣だから、格差や差別を糾弾するような言葉は言えないのか、それともそういう問題の所在に今だ気付いていないのか。こんな総理大臣を強いとおだてて持ち上げるメディアに情報の表面を埋め尽くされているこの国の未来やいかに。やれやれ。

 横須賀へ。「艦隊これくしょん−艦これ−」が流行り「蒼き鋼のアルペジオ」が流行り「ハイスクール・フリート」が流行っても今だ足を踏み入れたことがなかった横須賀だったけれども、そこに「艦これ」の店がオープンするとあってこれは行くのに絶好機と、朝から横須賀線を乗り継ぎ向かったものの大船で止まり、逗子で止まって乗り換えていく面倒さを思うとあんまり横須賀行きにJRは使わない方が良いのかもしれないと反省仕切り。とはいえ京急で横須賀中央に乗り付けると、きっと行かなかっただろうヴェルニー公園を歩きながら岸壁に泊まる自衛艦を眺め潜水艦がいるのに気付くこともなかっただろうから、これはこれで良かったのかも。眺めると艦艇が並ぶ港。大昔に体験入隊で行った舞鶴とは違った明るさもあって、好きな人は好きになる光景かもしれない。

 横須賀といえば米海軍なんだけれどゲートで仕切られた奥にあって建物が少し見えるものの港自体は山地の向こうに隠されていて艦船の姿が見えないようになっている。なるほど関係者らしい人は歩いているけれど、街全体に基地のある街って雰囲気が漂わないのはそうした配慮があるからなのかどうなのか。見られて戦力が露見することがないような立地ってこともあるんだろうけれど。そんな米軍基地の前を抜けて記念館三笠がある三笠公園へと辿り着いて三笠を見物する。でかいなあ。

 これも大昔に護衛艦の「あまつかぜ」ってのに乗ったことがあったけれど、現役の艦艇だっただけに人もいっぱいいてぎゅうぎゅうだった。三笠は戦艦だし旗艦でもあるんで甲板は広く艦内の部屋も広くってちょっとしたホテル。って“大和ホテル”ほどの広さはないんだろうけれど、当時の海軍の中枢を担った船だけのことはある。これに人が乗って動いていた時はどれだけの偉容だったんだろう。いわんや大和は。見ることのできない光景。見たいかというとそれはつまり軍備が整い軍事が行われることが前提だけれど、そうでない状況で戦艦というものが運用されて偉容を見せるような事態が、起こる可能性を想像してみたくなる。やっぱり戦艦道を作るしかないのか。「ハイスクール・フリート」みたく女学生が運用して日本を護る状況が来るべきなのか。

 そして横須賀中央駅の方へとあるいて途中で、目的の「艦隊これくしょん−艦これ−」から給糧艦の伊良湖をモチーフにした「酒保伊良湖」が着々とオープンに向けて準備中なのを確認してから、ネットで調べて横須賀海軍カレーを食べさせてくれる「横須賀海軍カレー本舗」へ。あれやこれやメニューがあってライスの上にソーセージがずらりと並んだ島風にもちょっと心ひかれたけれど、ことはとりあえず見た目が美味しそうだった海軍ではなく海上自衛隊の「はちじょう」にちなんだ「掃海艦はちじょうポークカレー」を食べたらやっぱり美味しかった。

 濃いめのルーにはチーズが練り込まれてさらに濃厚に。それがライスとマッチしてカレーを安倍テイルって感じにさせてくれる。コロッケもさくさく。牛乳もついて値段は1630円とお高めだけれど、こういう機会でもないと食べないものだけにここは奮発。でもメニューにあった島風カレーが気になったんでまた行こう。とはいえここでカレーを食べると今度は「酒保伊良湖」で食べられないか。内覧会に行ったらちゃんとメニューにあって横須賀海軍カレーらしく牛乳がついていた。味も良さそうだったけれど果たしてどうなんだろう。今日オープンだからそのうちリポートも出てくるかな。昼だけでなく夜もやっててお酒も出るみたいなんで、泊まりがけで行くような機会があったら寄って飲んでいたいなあ。アメリカ海軍さんも来てたらそれはそれで面白いけど。いるのか艦娘ファン。いるだろうなあ絶対に。


【7月27日】 ずらりと並んだ鉄道会社の連名が、3行しかない本文とあいまって異様な感じを醸し出していた、国内の主要鉄道会社による「ポケモンGO」を鉄道施設で遊べないようにしやがれってな要請分。なるほどホームで歩きながらスマートフォンをしてどこかにポケモンが湧いていないかを調べる人とかいたら危ないし、階段を上り下りしながらスマホを操作する人もやっぱり鬱陶しい。それが「LINE」とかの操作でも同様に鬱陶しく、規制を願うならそういうアプリが階段の上り下りとかでは動作しないようにしてと頼んでとも思ったけれど、そういう動きがなかったのは「ポケモンGO」ほど鬱陶しさが切迫していなかったからなのか。乗降の流れに沿って動きながらの操作は歩みをノロくはしても流れを乱さない。「ポケモンGO」はゲームの都合で人が流れに逆らって動き立ち止まる。危険度も高いだろう。

 ただ、それはマナーの問題であって必ずしも階段やホームを歩きながらプレーする必要はない。そして駅なんかにあるランドマークは「Ingress」の時代からポータルにされて「ポケモンGO」でも様々なステーションになっていたりして、その近所で遊ばないっていう手はないし、遊ばないっていう人もいないだろう。そう考えると鉄道会社が呼びかけるべきはポケモン発生の除外ではなく、ホームや階段の上り下りでのスマホ操作の厳禁であり、流れを止めるような立ち止まりだとかたむろの解消であって、それを果たした上で駅に人が来てくれる材料として、「ポケモンGO」を利用すれば良いんじゃなかろーか。そう考える余裕がないのかなあ、何かあった時に責任を問われる身としては。世知辛い世知辛い。

 「ポケモンGO」といえば昼のワイドショーで「ポケモンGO」をやっている人を侮蔑すると発言して顰蹙を買っていた漫画家のやくみつるさんが、テレビ東京の朝の番組に出て水道橋博士さんと“対決”しては互いに侮蔑合戦を繰り広げつつ擁護派、否定派と言った対立軸を立てて持った才知を繰り出し持論を披瀝していた模様。見ていないからその空気が和気藹々としたものか、ぴりりと緊張感に溢れたものかは分からないけれど、番組公式Twitterに上がった写真は反目しながらプラカードを持ってポーズを決めたもの。見れば発現が社会的な暴言にとられてしまって炎上していたやくみつるさんに、芸人として水道橋博士さんがぶっ込んで芸能的なブックの形を整えて、その上でメタ的に意見をぶつけ合い、見て人がそれについて考えるようになればっていった意識が感じられる。

 そこが水道橋博士さんの時宜を見ての芸人的ポテンシャルって感じだし、受けてブックへと状況を戻したやくみつるさんのギャグ漫画家としての機転って奴なんだろうけれど、そうした2人のタクラミを受け入れられないくらいに世間は厄介な状況になっていた模様。スポーツ新聞なんかを中心に水道橋博士さんが反論したといった形で、社会的暴言に社会的諌言がぶつかり合って火花を散らしているようなクソマジメな空気へと引っ張られている。折角の水道橋博士さんのアクションもこれで台無し。芸人と漫画家が真面目な顔をしてフザけているのにそれを楽しまず彼らに仮託しつつ責任を押しつけようとする。なんだかなあ。マジメとフザけの境界が入り乱れた結果、あるいはマジメをフザけた言葉で報じてきた結果、フザけをマジメに取ってしまう人が増えてしまったのかも。芸人もギャグ漫画家もタイヘンだ。

 混んでいるという「ジブリの大博覧会」だけれど、混むに値する内容があるかというと映画のポスターがいっぱいあって、宣伝材料とか関連グッズとかがずらり並んで、懐かしいなあと思わせてくれる一方で、原画とか背景画とかいった作品的な資料についてあまりなく、アニメーションを学ぶ展覧会というよりスタジオジブリの映画の宣伝はこう行われているといったことを知りに行く展覧会。それを見て一般のファンが楽しいかというと微妙ながらも、ジブリだからということで内外から女性も来れば子供も来てカップルも来る。そういうコンテンツになっていたんだなあ、スタジオジブリって。

 だからこそ、そういうコンテンツを護り育んでいくのが大人の責任って奴だけれども、ご存じのとおりにスタジオジブリは開店休業といった状況で、宮崎駿監督は長編からひいてしまってもう出てこず、高畑勲監督も新しい作品を作り出せる年でもない。プロデューサーは外にでて他の作品を手がけている。「レッド・タートル ある島の物語」はジブリが出資か何にかしていたってれっきとした海外のアニメーションであって、それをジブリ映画と言って展覧会に入れてしまって良いかというと微妙。僕たちが見てきたジブリ作品、僕たちが感じてきたジブリ風味、それらをなお継承していく構えのない中で、過去の残滓にすがり、過去の影響を披瀝する展覧会に未来を感じることがなかなかできない。もったいないなといも思う。

 どうしてこんな風になってしまったんだろう、って言えばやっぱり他に新しい監督を作れなかったことか。いやいや「借りぐらしのアリエッティ」や「思い出のマーニー」の米林宏昌監督はとても上手な監督で、「アリエッティ」はともかく「マーニー」は格段の進歩でジブリらしさが感じられつつ、未来も伺えるアニメーション映画を見せてくれた。ああいった作品を宮崎アニメという文脈に頼らず喧伝しては、大勢の観客を集めてきたのがジブリのプロデューサーだった訳で、それが衰えたからこその解散、ってことになるのかもしれない。クリエーターの次代もプロデューサーの次代も生めなかったというか。それはやっぱり細田守監督のスタジオ地図にも起こることなのか。ずっと一人で作品ごとにチームを組む新海誠さん方式が良いのか。いろいろ考えた展覧会。ポニョの大きな像が半魚人だったのは個人的にナイス。あれが本性なのだから。

 言論であってもそれが明らかに間違っていたり、誰かを誹謗中傷しているものなら訴えられるリスクは当然あるし、そうした誹謗中傷の対象となっているのが、権力という部分では一般の人より相当に高い国会議員であっても、与党の政権にいある者であるとか幹部といった立場でなければ、誹謗中傷に対して振るう権力なんてほとんどなく、だったらと公権力なり司法なりに頼って悪いことではない。その前段階で話し合いが付けば幸いではあるんだけれど、そうでなければ訴え出ることでオープンな場で司法の判断を仰ぐ。それが解決には最善だろう。

 というか、公器と目される新聞紙面において発表された文章ならば、それを言論と認めつつ同じ言論でもって対峙するといったこともアリだろうけれど、個人が開いているSNSなりの場でもって、公器の看板を背負った人間が書いた悪口雑言を言論と認めることは難しい。その一方で、背負った公器の看板が公衆にはある程度の信頼性を持ち伝播力も持って語られていく。これを止めるにはやっぱり国会議員であっても司法を頼らざるを得なかった。そんな理解も出来そうな自称全国紙の人間による参議院議員へのfacebook上での悪口雑言を、議員が名誉毀損だと訴えていた裁判の地裁判決が出て、これはダメだってことが認められた。

 本人を名指しした訳ではないけれど、それと明らかに分かる言い回しでもってあげつらっては、誰かに聞いた話しとして、その人物の過去といった事柄を書いて非難する。受けてその人物に該当する国会議員が事実無根だと言って争った裁判の結果からするに、その文言が誰かを特定することはたやすく、そして書かれた内容が当人とは無関係だったといったことも立証された模様。なおかつ、それが名誉毀損に当たるくらい酷い内容だったということも。結果を受けて国会議員は喜び、負けた全国紙の人間は主張が認められなかったと言ったらしいけど、いったいどんな主張をしていたのかが気にかかる。その人物のことを書いた訳ではないといいうことか。あるいは本当に書いた内容に該当する事態があったということか。

 でも、負けたということはどちらも反論らしい反論が出来なかったんだろう。特定個人の話じゃないという言い訳は、だったら誰のことなんだという話になって別に誹謗が及びかねない。書かれた内容が本当だという言い訳も否定されてなお、立証する新たな材料を出せるとは思えない。どこまで争っても勝ち目には薄い裁判を、それでも続けることが妥当かどうか、って考えるくらいなら最初の段階で謝って言い訳をしていただろう。そこで踏みとどまれなかった問題が、個人に起因するものか所属する集団の習い性なのか。気にはなるけどこの敗訴した人間は、前にもこれは公器の紙上で噂話として虚偽を報じて裁判を起こされ敗訴した経歴があるからなあ。懲りてないというか学んでいないというか。目的のためなら虚偽でも報じてOKってな空気が、周辺に漂っているんだろうなあ。

 というか、例の国際問題になったソウル支局長の一件だって、権力が言論を摘発して刑事裁判として裁く妥当性については無罪とされたものの、その裁判の過程で伝聞を拾いそれが虚偽だと認めつつ虚偽ではないと証明することもしないまま報じて、大統領の名誉に傷が付くような結果を残したてtことが、裁判の上で認められてしまった。控訴しなかったから確定した事実として残っている訳で、そうした体質を一方に抱えつつ言いたいことが言えたからOKだといった空気をバックに英雄として迎え入れられ、講演に執筆に勤しんでいるから何というか。そういう風土にあれば、誰だって嘘でも一発かましてやろうってなるんだろう。また起こるだろうなあ似たような事態。やれやれだ。


【7月26日】 ぼんやりと目を開けて見たテレビに凄まじいニュースが。神奈川県にある障害者の施設に刃物を持った男が侵入しては、入所している人たちを次々に刺していってその時点で15人もの死亡者が出たとのこと。その後増えて19人にまで達し、怪我をしている人も大勢いて、30人殺しの津山事件には及ばずとも戦後で最悪の刺殺事件になってしまった。体や心に障害を抱えていて、身動きもとれず意思表示も難しい人たちを狙った犯行は卑劣にして外道。いくら自身に優生学にも似たような信念があったとしてもその信念を認める訳にはいかず、そうした信念が広まって影響を受ける人が出ることも鑑みて、世間は徹底した弾劾を行うべきだろー。

 そして犯した罪へのつぐないも。心神耗弱が言われているけれど、それはどちらかといえば狂的な信念によって育まれたもので、正常さが間違った方向に伸びた結果のような気がする。だとしたら責任能力はあるし、責任をとることだって覚悟していたのかと思ったら、衆議院議長を相手に出した手紙には自分の行為は認められるべきで、保釈され大金すら与えられて当然といった文言が書いてあったとか。それすらも心神耗弱の結果と言うならそれは違う、やっぱり間違った信念が育まれた結果で、許してはいけないし認めてもいけない。

 ただ、そうしたことへの罪の意識を果たして感じてもらえるようになるのか、といった辺りが難しいところ。それも含めてどういう人物でどういう心理だったのかを突きつめていくことも、同じ過ちが繰り返されないために必要だろー。暗闇の中を迫る足音が次々に刺していき、声もあげられず逃げ出せもしないまま命を奪われていった人の無念を思うと心が痛む。冥福を祈りつつ二度と繰り返されないために何が必要か、今回のように犯行を仄めかすようなことをしていた人物が、チェックされるような体制なりそうした思想を持つに至らないような教育なりを、整えていって欲しいと切に願う。合掌。そして傷ついた人たちの早い快癒を祈念。

 一時、大ブームとなりながらもその後、ちょっぴり潮が引き気味で存在感がないなあと思っていたらケータイ小説。「小説家になろう」とか「エブリスタ」といった投稿サイトの台頭もあって消えてしまっていたのかと思ったら、しっかりと残ってサービスを維持し、新しい作品もどんどんと生み出して存在感を保っていた。渋谷の方でそんなケータイ小説の代表格とも言える「魔法のiらんど」から生まれた作品を表彰する「第9回魔法のiらんど大賞」の発表会があったんでのぞいたら、女子ばかりが何十人も集まっては受賞した作家を祝福しつつ、自分もそんな列に加わりたいって意欲をのぞかせていた。

 というか、本当に女子ばかりで、年齢こそご主人がいたりする世代の人もいればまだ10代の女の子もいたりと幅は広いけれど、それでも女子しかいなかったのは顔を隠して男性が女性として活動するには「魔法のiらんど」は難しい場所なのか、授賞式の参加にそういったレギュレーションがあったからなのか。そういうところで差別するわけではないだろうから今、ケータイ小説というカテゴリーが女子の求める女子のための女子による小説になっていて、だから活動するのもリアル(世代には触れない)女子ということになっているのかも。本当に壮観だった。

 じゃあ小説はどうなっているのか、やっぱりベタベタならラブストーリーばかりなのかというとこれも違っていたようで、小説投稿サイトが異世界転生やら異世界転移ばかりに偏りがち(読者のニーズもあってだろうけど)なのに対して今回、大賞を受賞した花子さんという人の「奇人の頭を叩いてみれば1」(魔法のiらんど文庫)は、なるほどラブコメ系ではあってもキャラクターに癖があって、パターンから少しズラしていあって意外で驚きの展開が待っていて、ついつい読んでいってしまう。横書きに慣れていないにもかかわらず。

 名を戸島彦(としま・ひこ)という女子にしては変わった名前の少女が親の仕事の都合で転入した高校で、挨拶からしてどこか冷静で堅苦しく、とはいえ居丈高でもなく達観した風でクラスをギョッとさせる。思ったことは心に秘めずに言ってしまう性格で、相手から悪口を言われてもそれを受け取り落ち込まず逆に同じだけの批判をして喧嘩両成敗といってのけるような性格が、クラスで嫌われたかというとそうでもなく、ちゃんと友人めいたものも出来たし生徒会長をやっているイケメンからも関心を持たれた。

 そして、クラスでも問題児とされる5人組とも関わるはめに。暴れ出したら抑えが効かないイケメンの礼央という男子を中心に、弟の李央やその友人たちがたむろし全校生徒から恐れられている。退学にならないのは理事長の孫だから。それを嵩に着て暴れ回るということはせず、気に入らないことはやらないといった態度で第2視聴覚室にたむろしている。そこに迷い込んだ戸島彦。ちょうど兄にからかわれるように服をはぎ取られた李央と行き会い、相手が怖い人の一味とは知らず困っているとみて服を探して届けてあげたら慕われた。

 その後、寮に行ったら礼央を含めた一味がいて、彦とは同室らしい詩織という少女が部屋から出てこないのをどうにか誘い出そうとしていたけれど、とりあえずは引き取りそして寮を含めた彦での学校生活が始まっていく。どうやら礼央と李央とは三つ子の妹らしい詩織は、どうして部屋から出てこなくなったのか。その理由が生徒会長にあるらしいと踏んでいる礼央や李央たち。とはいえ確証はなく詩織も話そうとしない。彦は体面はかなったものの嘘をつけないまっすぐさで踏み込んでは、詩織にとってそれが結構なトラウマになっているらしいことを知る。

 一体何があったのか、といった辺りが恋愛が絡むミステリアスなストーリーとして続いていきそうで、そんな展開に妹を思うけれども、乱暴さが抜けない礼央が彦を連れ込み脅迫用の写真を撮ったりして、どうにか画像のデータを取り返して逃げ出そうとする彦との間に悶着が。そこでなぜか礼央の周囲のメンバーが彦に見方をしたのは詩織のことを思い、また彦が口だけではなく行動もまっすぐだということを理解したからなのかもしれない。そういう純粋さがワイルドな礼央を変えて恋愛に、何て行くのが普通のラブコメだけれどどこまでも直情的で野性味に溢れた莫迦な礼央にそういう機微はなさそう。

 ただ、純粋さでは負けない彼と彦とが諍いをしつつ、交わりながら学園で起こす騒動が、誰かを救うことに繋がっていきそうな予感があって、続きを読みたくなる。相手が怖くても臆さず、女子に悪口を言われても辞さずに自分を貫き堂々と反論しつつ相手をやりこめないで同じ土俵で勝負していこうとする彦の言動の痛快さが、弱さに流れたくもなければ強さに溺れたくない女子の間で共感を呼んでいるのかも。190センチの巨体だけれど、心は優しそうで彦に関心を持っている李央がどういう態度を見せ、それに李央がどう絡むかも興味。あともう1人、謹慎中なのか出てこなかったメンバーがどういう人間なのかも。続きはいつ出るかなあ。楽しみだ。

 「ONEPIECE FILM GOLD」をやっと見た、ナミのおっぱいが大きかった。んで物語的にはドフラミンゴを倒したあとではあるけれど、麦わらの一味が全員揃っているから今の連載よりもあとの時間ってことになるのかな、だってドフラミンゴ戦の最中に一味は分裂して、そのままサンジの結婚話まで至っているから。まあそれを言い出したらきっと負けになるだろうから、そんな瞬間がドフラミンゴ戦の直後に平行世界的にあったとうことにしておくか。それとしてニコ・ロビンのおっぱいが大きかった。歳も歳だけれど立派だった。

 そんな麦わらの一味がやってきたのが、全長10キロにも及ぶカジノ船のグラン・テゾーロで、黄金まみれの船をギルド・テゾーロって男が仕切っていて、自身もエンターティナ-として活躍している。その傍にいるカリーナって歌姫のおっぱいも大きかったけれど、どうやらかつてナミの泥棒仲間というか競争相手だったみたいで、それでなのかおっぱいも競い合うようにどっちもとても大きかった。そんなカリーナとともにテゾーロに仕えるバカラという女が迎えに来て、これまた大きなおっぱいを見せてくれて、そんなバカラに誘われカジノで大儲けして最後の勝負、テゾーロ相手の丁半博打でルフィは敗れゾロが捕まり一味は絶体絶命に。

 そこにあらわれたカリーナは胸元が大きく開いたシャツ姿で大きなおっぱいを見せつけつつ、瀬戸際に追い詰められながらもおっぱいは大きかったナミを誘って金庫から金を奪う話を持ちかける。他に道もなく乗ったおっぱいの大きなナミは、計画を立てたものの立ちふさがるおっぱいの大きなバカラに大きなおっぱいをしたニコ・ロビンも含め打つ手なし、ってところで終わらないストーリーの逆転と必死のドラマが実に良い。どうせ麦わら一味が勝つと話わかっていても、そこまでの段取り、そして起伏がうまいなあと思った。

 アクションは前の「ONEPIECE FILM Z」が凄すぎたから「GOLD」にオッと思うようなことはなかったけれど、標準は言ってたし何より意地のつっぱりあいのようなものが満ちていて楽しめた。あと誰にも見せ場があったのも良かった。黄金の牢獄で出会った2投身めいたギャンブラーとかにも。まさか声が北大路欣也さんだとはなあ。どうりでアニメ慣れしてないけれどお上手くて渋い訳だ。そしてサボも登場。あそこにいるってことは革命軍、本部を襲われても無事だったのか。やっぱりその後に本部に帰って襲撃を受けるという時系列なのか。コアラもあれでおっぱい大きいし。今度は参加して競い合って欲しいなあ。


【7月25日】 日本での配信開始から3日経っていろいろと経済だとか観光だとかを変える起爆剤になるって賞賛がわんさかと出ている「ポケモンGO」。ずっと前から存在していたけれどもこれで「AR(拡張現実)」というテクノロジーにも注目が集まり現実に情報を添えて見せるようなサービスがわんさか出てくるかというと、そうも言ってられないような気がしてならないのは案外に「ポケモンGO」がAR、すなわち現実を拡張しているものではないからなのかもしれない。

 だって「ポケモンGO」って地図上の上にその地域への関心とか感謝とかまるで関係成しにモンスターをバラまいてははい、自由に集めてくださいってやっているだけで、例えば寺院だったらいつ頃に立てられどういういわれがあったものか、橋だったらいつ頃作られどういう人たちが使っていたのか、海だったらどういう地域の伝承があったりするのかといったそれぞれの特性属性をまはるぜ結びついておらず、そうした地域地域に存在する“現実”をまるで拡張していない。というより逆にそうした地域を単なるポケモンの狩り場というゲーム上のルールでもって“蹂躙”している。あるいは覆っている。

 とても歴史があって謂われの多い神社仏閣に行ったところで、そこに現れるモンスターが現地の何かと紐付けされているわけではないし、古い建物に現れるモンスターがそこで営まれた人々の行為を代弁している訳ではない。森なら森で川なら川にちなんだモンスターが出てきても、それはいったん、ゲームの上で記号化された川であり森であり海であって、そこに記号的象徴的な川やら海やら森やらにちなんだモンスターが出現するだけ。狩ってふっと見渡して、ああそこはそういう場所だったんだと気付く機会をゲームが与えてくれる訳ではない。そこはだったら気付かせるよう、現地が仕向ければ良いという声もあるだろうけれど、無関係に“蹂躙”してくる現実に乗って現れた無関心な異人たちを相手にいったい何ができる? それでもすべき、という意見も捨てがたいけれど、そういう労力はどこか空しい。

 「ポケモンGO」の母体になっている「Ingress」にだって地域とは無関係にそこをポータルとして設定して誰もがやってきては戦い護っては去って行くようなやりとりがあった。それも当地にとっては迷惑な話だったかもしれないけれど、決して規模が大きくはなかった上に、ゲーム事態が現実の裏側にある別の世界、レイヤーを異にした世界で繰り広げられる侵略者と守護者との戦いという物語をそこに与えて、プレーする者たちに密やかで秘めやかな楽しみを与えていた。変化のない現実と戦争が行われている虚構。その重ね合わせという設定に現実を“侵食”する意図はなく、むしろ共存であり並立といった関係にあった。

 「ポケモンGO」はそこがちょっと違う。明らかに現実とは無関係な設定がなされ、現実に関心を持たない異人たちを招き入れては虚構のゲームによってその値を塗りつぶしていく。ゲームがはやって人数が増えれば増えるほど、そうした覆われる感じは強くなっていくだろう。そういった“浸食”であり“侵略”をSF好きな人間としてはそういう時代が来たんだと、ほくそ笑みながら眺めていたい気持ちはある。一方で厳然として現実に生きていかなければならない人間として、現実にある社会や暮らしや習慣や風俗や歴史や伝統や空気感を無視して蔑ろにしてしまいかねないそのパワーには畏怖すら覚える。そんな「ポケモンGO」をARの手本だとか、地域振興の起爆剤だと言っちゃいけないような気がするんだけれど、気のせいかなあ。柚ちゃんなら「気のせいじゃありません」って言ってくれるかなあ。

 そして気がついたらジェフユナイテッド市原・千葉の関塚隆監督が解任されていた。J2で昇格圏内にいるどころか9位に低迷していて今年もすでに昇格は無理目感が漂っていいるから仕方が無いといえば言えるんだけれど、去年の段階でチームを立て直して守備的に固く攻撃的に整った形に出来る感じじゃないと分かった時点で、選手を揃えるなり育成に絞るなりできなかったものかと思わないでもない。それは監督の責任というよりチームを預かるゼネラルマネジャーの責任だろう。与えられた戦力を育てながら強くなっていくタイプの監督でもないからなあ、関塚さん。

 そんな感じにJ2で低迷している監督が解任される一方でJ1で降格圏に落ちて13戦勝ち星無しの小倉隆史監督は名古屋グランパスによって護られているという不思議。ここで変えても変わらないという判断もあるんだろうなあ。落ちてそこから這い上がる覚悟があるのかな。でもチーム力が下がっている中での降格は育成して戦術を徹底させて昇格から即上位進出とはいかないことは、ジェフ千葉や東京ヴェルディを観ていれば分かること。落ちたまんま上がれずJ2の中で上がったり下がったりし続けるチームになってしまいかねないだけに、早めの対策をして頂きたいところ。まあ千葉で名古屋の試合を観られるのも嬉しいっちゃあ嬉しいんだけれど。

 中笈木六というか、由麻角高介といったペンネームがふっとのぞく気がした神野オキナさんの最新作となる「リラム〜密偵の無輪者〜」(ノベルゼロ)。冒頭からとある国へと和平の考証に向かう船に乗った使者の護衛のサムライたちが、25人もまとめてシノビたちによって消されて和平に暗雲がたちこめ、そしてヒノモトというサムライたちの国から亡命していた第三王子が、亡命先の館に攻めてきた刺客を退け彼に忠誠を誓う北方の美女も敵を蹴散らし、駆けつけた王女のような立場の少女を巻き込んであれやこれやし始める。

 房中術という名のそれやこれやで王子は王女を喜ばせつつ精気を送って食を太くさせて病弱から救いつつ、居続けたその国に和平を持ちかけつつ戦争を仕掛けようとする謀略に王子は時に武芸、時に料理で立ち向かうというストーリー。女装もします。そんな世界の人々の行為を金に換算して表示するコンピューターみたいな機械が存在して、経済的な損得からすべての行動が決定されるという、ある意味で合理的な設定もありつつ、それを覆すような戦争で世界を転がす方がより儲かるといった悪魔的なささやきが裏で飛び交い人心を惑わし始めている。表面上で繰り広げられる激しいバトルと、背景にある世界を動かす何者かの思惑。それがこの作品を分厚く奥深いものにしている。

 もちろんシノビの徹底した戦いぶりは凄まじく、捉えられて拷問を受けた者が辿る運命も悲惨きわまりない。そうしたアクションがありバイオレンスもある一方で、かつて敵だったものを従えた北方美女と王子との関係も見せつつ、中笈作品で由麻門作品と言えばな両性具有も混じってあれやこれやな描写もたっぷり。主人公の立場は未だ不安定で世界は謀略にさらされ、ハーレムは現在進行形で作られていく展開はさらなる続きを必要としているので、神野オキナさんには是非に続きを描いてほしいもの。世界を陰から動かそうとしている存在と、主人公との因縁なんかも気になるし。いずれにしてもラブコメチックなものが中心になったライトノベルのレーベルでは出せない作品かも。ノベルゼロ、踏み込んだなあ。


【7月24日】 金曜日の深夜というか土曜日の早朝に目が覚めてテレビを付けたら「フォーミュラE」ってのをやっていた。それは電気で走るフォーミュラカーのレースで、見た目からしてF1マシンの小型版といったものがちょい狭いコースをギュンギュンと走って競い合う。結構なスピードも出ているようでコースの狭さとマシンの小ささもあってかGTマシンなんかよりも速度が出ているようにすら感じられる。調べると最高速は時速225キロメートル以下に抑えられているうというから、それが最高ではなくても200キロくらい出ている場面もあるんだろうか。いずれにしても電気自動車だからといって公演のゴーカートみたいな感じでは全然ない。どちらかといえば電池で走るミニ4駆くらいのスピード感、ってそれはちょっと速過ぎか。

 そんなマシンを駆るドライバーの名前にプロストがいてセナがいる。いったいどういうことかと調べたら、プロストはプロストでもニコラ・プロストでアラン・プロストの子供らしくセナの方はアイルトン・セナの甥っ子のブルーノ・セナで、そんな2人がいつかの因縁を消すかのように同じコースを走っている。まあこの2人には因縁はないんだけれどもアラン・プロストとアイルトン・セナといえば、幾度にも渡ってF1グランプリでの勝利を競い合い、そのためにつばぜり合いまで演じた関係。とりわけ1990年の日本グランプリでは、最初のコーナーで先に出たプロストのインを強引にセナがつくような形になって接触して2台とも止まり、それでセナの年間チャンピオンが決まった。

 自爆によってタイトルをもぎ取ったと非難されたセナ。確執はしばらく続いたけれおdも1993年のシーズンにプロストがウィリアムズで年間チャンピオンに輝きセナから祝福されてわだかまりは解消されたと思った翌年、セナがサンマリノで事故死。その直前に無線で会話までしたというから2人は頂点を極めた者たちとして、反目しつつもわかり合っていたんだろう。そんな2人の血筋にあたる2人が同じレースで競い当ているというのは、古いF1のファンにとっては涙ものだけれど残念ながら2人は年間チャンピオンを争う立場にはなくて、別の2人がファーストシーズンとなった前年と同様、年間チャンピオンの座を競い合っていた、そんな最終戦にとんでもないことが起こった。

 優勝を争っていたセバスチャン・ブエミとルーカス・ディ・グラッシが接触、というかブエミが1コーナーに入ろうとするところにディ・グラッシが突っ込みブエミはリアウイングが取れディ・グラッシは前輪が歪んでしまうという大破を被った。まさにセナプロ対決の再来。解説をしていた人たちも古手のF1ファンなり関係者が多いだけに、何てことあと苦笑交じりに話してた。ただ、これがF1だったらそこで終わってポイントか、あるいはこれまでの順位の差なんかで優勝が決まることろなんだけれどユニークなレギュレーションを持っているフォーミュラEは、ここから展開が大きく違ってくる。

 燃料となる電池に限界があるため、フォーミュラEでは途中でマシンを乗り換えることが義務づけられていて、そのためにもう1台がピットに用意されている。だからリアウイングが壊れても前輪が歪んでも、走り続けてピットに辿り着いてレースを再開できるんだけれど大きくロスしたタイムでは、ポイント圏内に入ることは難しい。でも降りない。なぜならフォーミュラEにはもう1つ、F1なんかと違ったところがあるから。ファステストラップをたたき出すとポイントがもらえるという。なんとまあ。だからブエミもディ・グラッシも、そのポイントを狙って今度はどれだけコースを早く走れるかを競い合うことになる。

 それさえ得られればリタイアしたって構わないというレースを果たしてレースと呼べるのか、タイムアタックに出る予選を決勝の舞台で2台だけがやっているだけじゃないか、なんてことも解説の人たちが話して苦笑していたけれど、それでもコースに出ると遅い車が走っていたりしてうまくいかないのが難しいところ。そういった紆余曲折も含めていろいろな角度から楽しめるってところで、フォーミュラEはもしかしたら今のF1なんかよりも面白いかもって思えてきた。レース自体、抜きどころがあまりないし、ワンメイクだから大きなパワーの差も出ない。それでもちょっとづつ生まれる技術の差でありドライバーの差が生むレースの機微を楽しめる。F1が地上波から消えてBSですら放送されない状況に寂しさを覚えていたけれど、フォーミュラEを観ればその寂しさも埋められさらに大きな興味も得られる。そう分かった以上は来シーズン、また放送があれば今度は最初から観ていこう。日本人レーサーとかも参加すれば良いのに。チームアグリが撤退したんだから代わりに日本のファクトリーが入っても良いんじゃないかあ。

 早起きをして幕張メッセの「ワンダーフェスティバル2016[夏]」へ。とりあえず中に入ってプレスの待機場所のそばで準備をしていた本の雑誌社による「水玉螢之丞作品集 ワンフェスのワンダちゃん」の販売ブースを訪ねて編者のさいとうよしこさんとかが巨大な看板に帯を巻くのを見物。本を模した看板だけれど板じゃなくって立体的に造形してきたところがさすがは世界の造形会社、海洋堂。長く貢献してくれたことに感謝してか、自社の本でもないのにこうして本の模型のそれも巨大なのとちょっと巨大なのを2つも作って差し入れてきた。こういうところが海洋堂の造形魂って奴なんだろう。

 それだけに冬のワンフェスで、一般向けのカタログの表紙絵がちょっぴりエッチなワンダちゃんフィギュアの本絵になったことに非難が集まったけれど、この夏のカタログで釈明していて模型として売りたい、そして模型の楽しさを知って欲しいという意識から作ったものを、トップに持って来るのは当然だといった主張をしていた。それもまた真理なだけに判断には迷うところ。水玉さん絵のワンダちゃんのマークを外したのも、ワンフェスでもって追悼の展示もして一段落して、それで祭り上げるようなことをしてはかえって水玉さんが望んでいないとその性格を鑑みて配慮したからとも書いていた。問われればちゃんと説明して了解を求めるかたくなさが、ワンフェスをなれ合いではなくガチの模型による勝負の場へと換え、今なお版権元から信頼されて続くイベントにしたんだろうなあ。

 そんな「ワンフェスのワンダちゃん」の本は後回しにして午前10時の開場とともにグッドスマイルカンパニーとかセガインタラクティブとかコトブキヤとか海洋堂とかもろもろのブースを取材して回る。とりあえず今なお「艦隊これくしょん−艦これ−」の人気は根強いようでどこのブースにも写真を撮る人で長い行列が出来ていた。映画もあるしアーケード版も始まって盛り上がって艦娘への関心が萎えていなんだろうなあ。あとは改二とか新しい造形も出てきてそれをフィギュアにしていくことで2度3度と盛り上げていけるから。同様に「刀剣乱舞 ONLINE」も人気があってこちらは女子のカメラ娘による行列が出来ていた。夏のコミケでは徳川美術館が企業ブースに出るけどこれも、所蔵している刀剣男子になってる刀剣のPRを兼ねられるからかな。1年以上が経っても続くタイトル。「ポケモンGO」はそうなれるのか。

 月曜日に見に行ったSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016が終わったみたいで、コンペティション部門の受賞作品も発表された感じ。アニメーション部門しか観てないけれども長編短編には海外からの参加もあって本当に国際なんだなあと思った。アニメーションはそのあたり、海外からの参加ってどうなっているんだろう。来たらやっぱりそっちが勝ってしまうのか。というかグランプリに輝いた「こんぷれっくす×コンプレックス」のふくだみゆき監督は、すでに実写も含めて活躍している人だけれど、奨励賞の2作、円香さんの「愛のかかと」も里見朝希さんの「わたしだけみて」もどちらも大学院なり大学の卒業制作だったりする。

 他のノミネート作品にもそうした卒業制作が割とあって、卒業後にも恒常的に作り続けている人、って小野ハナさん水江未来さんといったあたりだっけ、見渡してそんなにいないのだった。今回は入っていないけれど、卒業後もずっと活躍している印象があるシシヤマザキさんは、短編アニメーションとしての作品作りをしているって感じじゃ無いからなあ。つまりは卒業制作という一種の楽天地でないと、世界に対して戦っていける作品は作れないのか、といった問題がここにも立ちふさがる。同じ国際規模の短編アニメーションのコンペティションとして、TBSがやってるDigiCon6 ASIAっていうのがあって、そこ に集まるアジア各国の短編アニメーションの凄さとか観ていると、どれも質が高くて、それがどういうバジェットでどんな座組によって作られているかが気になるのだった。

 卒業制作というある意味で別天地からの応募ではないとしたらどういう人が何を目的に作っているのか。それは日本にも適用可能な仕組みなのか。ベルリン映画祭で準グランプリに当たる銀熊賞をとった和田淳さんだって、新作を世に出すのは大変そうだし世界のアニメーション映画祭を総なめにしている山村浩二さんだって、新作を出すまでに結構苦労している。それが観られる環境もなかなかない。そういう状況を変えようとして頑張っている人がいるんだけれど、なかなか成果が見えてこない。ネット時代、自由に誰もが映像を発信できるようになって、これで短編映画なり短編アニメーションに一気に市場が生まれるはずとか期待していた時期もあったけれど、観る側に観ようとする気概が育まれず、そこにお金を出そうとする意識が満ちない状況はどうやったら変えられるのか。なんてことを考えたのだった。受賞した作品はどれも傑作なので受賞は当然なのだけれど、それに匹敵する作品を誰もがずっと作り続けること、それなくしては文化の豊穣はないのだよ。


【7月23日】 プレイステーション2の発売日に秋葉原の早朝、どこの店にも大行列が出来て秋葉原という街の風景が一変していたことはあったけれど、それは過去にも小規模であったことだし後にもやっぱり存在した。なおかつ風景が変わったのはそのひとときだけで日中から翌日翌々日と続くこともなかった。それが「ポケモンGO」ではまったく違う。提供が日本で始まってから2日目の秋葉原。万世橋の上にいつもだったら外国人が、流れる黒い川を見下ろしていたり、古めかしい欄干に興味を持って眺めていたり、上を走る電車との構図に感嘆していたりといった風景しか見られない。

 それが、今日は欄干を世にして何人もの人が手にスマートフォンを持って立ち、なにやら操作をし続けていた。普段は秋葉原になんて来そうもないカップルもいて内心、リア充爆発しろといった声もあちこちから飛んでいたかもしれないけれど、そんな人でも秋葉原に集めてしまう「ポケモンGO」というゲームの機動力、動員力にはやっぱり今は頭が下がる。他の普段は誰もいない場所にも大勢が集まり、夜になってもたむろする人たちが現れているとか。狙って強盗その他が現れないかが今は心配ではあるけれど、数がまだいるうちは大丈夫だろう。もうちょっと経って落ち着いてから、いったいどんなプレースタイルになっているか。そこに興味が向く。

 集めるゲームは得てして集める過程に気分は高まっても、ある程度集め終わった時にどこか気が抜けて続ける意味を見失ってしまう。だったらといってレアなキャラをどこかに潜ませるなりしたところで、それを探してやり続けるだけの気分を抱き続けられるかどうか。それだけの“価値”をプレーに見いだせるかどうか、ってあたりが人気キャラクターに誘われて、半ばブームに気持ちを押されてプレーしている人たちのこれからを決めそう。課金してでもレアキャラを集め切る意味はあるのか。というかそういうスタイルのゲームをナイアンティックはともかくポケモンと任天堂は認めるのか。そうなった時に架空のゲームが現実になって浮かれている気持ちが萎えないのか、等々。

 「Ingress」が求道者たちによって自分はそこまで行った、どこまでも行くといった自賛の気概に支えられ、そして周囲にそうした気概を讃える風潮もあってプレーしている人は今もずっと続けている。そうした人たちの足が作り上げたポータルでありマップといったものを流用して形作られている「ポケモンGO」だけれど、そこから先の充実を招くだけの求道者を誘い込めるものなのか。見渡して周囲に誰もやっている人がいなくなり、いい加減図鑑も埋まってそれでもトレンドの逆風にさらされることなく、歩き続けられるかといった辺りから、どうなるのかをちょっと考えてみたくなる。1カ月後、万世橋の上にどれだけの人がいるかを、とりあえずは見極めよう。

 しかしなあ、こういうところにジャーナリズムを守り続けようとする気概と、バイラル化して瞬間の利益を稼ぐ方に傾く気分との差が出るんだろうなあ。「ポケモンGO」で自民党の党本部が「永遠の与党」といった説明になっているという話、「Ingress」をやっていた人はすぐに誰かがそういう説明を着けたんだね、って分かって「Ingress」の“資産”を流用して立ち上げた「ポケモンGO」の立ち位置とその課題めいたものに話を向けていく。分からなくてもいったいどうして、ってなれば調べてそうかと思う。そうした探求こそがジャーナリズムであり、世界のもつれを解きほぐすことに繋がると分かっているから朝日新聞はちゃんと調べて書いて、今後の対応についても言及した。

 でもそうした取材力を持たず、というより人はいても取材現場に張り付かせるだけのお金がもうあまり残ってなさそうな自称全国紙は椅子に座ってパソコンを立ち上げそこでの噂話やまとめを見ながら受けそうなネタを拾い集めて記事に仕立てて一丁上がり、といった感じにならざるを得ない。自民党本部が「永遠の与党」となっている、って騒動があればそれイケるといった具合に引っ張ってきて民主党が嘆いていると話を広げて、政治的ゴシップにするけれど、でもいったいどうして「永遠の与党」だなんてことになっている? という疑問には答えない。

 そんな記事を、というかまとめサイト的文章を読んで人が思うのは、「ポケモン」は任天堂(本当はポケモンであり「ポケモンGO」はナイアンティックだけど)という図式から何考えているんだといった批判。違う「Ingress」勢の遊びだと言わないまま、無実の罪を着せて構わない姿勢はちょっと拙いんだけれど、そういう意識も今はないんだろう。稼げれば勝ち。だから海外のメディアから噂話を集めてまとめて一丁上がり、なんて記事も載る。これならまだ、自分の足でプレーしてその面白さを実況する方はよほどか増し。目で見えた世界から感じることもあるだろうから。とはいえこの騒動に乗ろうと遊んで終わりなのもまた問題か、日頃から歩いて街で本当に問題になっていることが、アクセス稼げないと没にされる可能性を示している訳だから。貧すれば鈍する。それが真理ってことで。やれやれだぜ。

 午前中に起きられたのでいえやっと川崎市民ミュージアムへと向かって「『描く』マンガ展 〜名作を生む画技に迫る―描線・コマ・キャラ〜」を見る。大分から始まって高崎だとか豊橋だとかに巡回しているけれど、見に行く機会がなかなかなかったのがようやく首都圏の行き慣れた場所に来てこれは行かないわけにはいかない。でもって到着した会場にいきなり飾られた、石ノ森章太郎さんによる手塚治虫さんの「鉄腕アトム」の原稿というレアあのか奇跡なのか分からないような原稿。よく新人に描かせていたそうだけれど、それでそっくりに描いてしまうところが石ノ森さんの凄さなのかもしれない。それでも見る人が見れば違っているらしいのも驚き。切り取られたコマが構成し直された漫画に貼り付けられているのは手塚さんがその画を認めていたことと、そして常に描き直しをしていたことの現れか。やっぱり神様。

 竹宮恵子さんのずらりと並んだ作品はやっぱり美しく目にも豪華だったけれど、気になったのは陸奥A子さんの作品で漫画的劇画的物語的な雰囲気を醸し出すそれまでの漫画から一変して細い線で柔らかくそして軽やかにキャラクターを描いてほわっとした雰囲気を作り出す。美麗ではなくところどころ肩の力が抜けたようにほげらっとした顔立ちになるキャラクター。その親しみやすさがパッと明るい笑顔になった問いに盛り上がりを読んで目を離さない。こういう辺りがあるいは1980年代のほわっとしたラブコメの文脈を生んでいったのかもしれない。かがみ・あきらさんとかもろ、陸奥A子さんのトーンの影響を受けているしさえぐさじゅんさんも絵柄的に似た雰囲気。そんな2人も含めたあの時代のフォロワーたちが、美少女漫画誌やアニパロ誌で活躍して作った空気が今の漫画やアニメーションにも影響を与えているとしたら、その源流としての陸奥A子さんをもっと知る必要があるかもしれない。読み返してみるかなあ。

 そんな演劇が京都でずっとロングランされているとは知らなかった「GEAR」。セリフがなくパフォーマーやマジシャンや諸々の人たちが体と仕草でもって描いていく物語から醸し出されるSF的ファンタジー的な世界観を、言葉にしようと考えた人がいて文章を菅浩江さん、絵を山田章博さんが手がけた「GEAR Anotehr Day 五色の輪舞」という本が出て、そのサイン会が横浜であったんで川崎から回って参加。たぶん久々に見かける菅さんとどこかで見てはいるんだろうけど話したことはない山田さんというSF的ファンタジー的に神がかっている2人からサインを頂けたのはまずもって僥倖。中身はまだ読んでないけど読めばきっとみたくなるんだろうなあ、演劇も。そうだ京都に行こう。いつ? それが問題か。暇ならあるが、金がない。


【7月22日】 お姉様などと慕ったふりをしてミラーサは、雪姫にそっくりなムエッタと共に国連の黒部研究所に侵入を果たし、柩石の存在を確認してから手柄を独り占めしようとしてムエッタを刺して黒部ダムの底へ。生きているかどうかは分からないけど大気圏からだって飛び込んで来られるスーツを着込んでいるんだから、ダムに落ちたくらいで死ぬようなことはないだろうとは思うけど、その衝撃で過去の記憶を取り戻し、青馬剣之介時貞との関係も蘇って2人でクロムクロに載り敵と戦おうとするのかそれとも、時姫からはきっと遠い子孫になるんだろう白羽由希奈に全てを任せて、敵との戦いを見守るのか。いろいろ案は浮かぶけれどもどれが正解で間違いでも、予想できない展開になりそうなんで期待して見ていこう「クロムクロ」。ソフィー・ノエルは止まってくれるのかなあ。

 信州大学に通う巾上岳雪は、バイト先にいた成績不振の女子高生、矢諸千曲の家庭教師をやることになって彼女をとりあえず信州大学に入れるA判定の成績にすることを至上命題とし、それが出来なければ辞めると言ったというか、内心ではとっとと辞めたくで無理な条件を出したといった感じだったけれどもそんな家庭教師の果てに模試が有り、結果も出たらしいのでそれを聞こうとしたらなかなか話さない千曲。そして2人でなぜか松本城へと行き、天守閣に昇っていたところで地震が起こって天守が崩れ落ちたような感覚を味わい、気がつくと松本城の天守閣にいた。着物姿にちょんまげ頭で。

 時は1686年。鈴木伊織という松本藩の武士に自分が重なって、巾上としての記憶はもちろん鈴木伊織という武士の知識なんかも持った状態で目覚めた巾上は、松本城に伝わる二十六夜神伝説の主ともいえる神様の姫がそこにいて、それが鈴木伊織になった巾上とは違って、セーラー服のままで飛んできた千曲だと知る。そして伝説で二十六夜神様に供えられるはずの餅が来ず、なおかつちょうどその時代に起こった貞享義民で多田加介とう名の農民が立ちあがっては退けられ、磔にされながら年貢を下げて欲しいという願いを込めて「二斗五升!」と叫びその声が、松本城を傾かせたという伝説の現場にも居合わせる。

 どうせだったら止めたいと願い、鈴木伊織がそのために奔走しながら馬が倒れて藩主の減免の許可を伝えられずに加介を処刑させてしまった歴史上の出来事も変えたいと願いながらも巾上の奮闘はかなわず、歴史通りにおしゅんという名の16歳の少女も含めて大勢が磔になり獄門になってそして「二斗五升!」の声は起こって松本城は崩壊する。それに巻き込まれたはずの鈴木伊織=巾上が目覚めると今度は明治の世にいて着物にちょんまげ姿で、そしてまた過去に戻って貞享義民をどう抑えるかを模索するくり返し。タイムスリップからのタイムリープで起きてしまった悲劇を止めようとあがく物語ならよくあって、最近でも辻村七子さん「螺旋時空のラビリンス」がそんな話だったけど、この六冬和生さんの「松本城、起つ」(早川書房)はそんな自力の努力で時間の壁に挑み突破するような話にはならない。

 得体の知れない宇宙人だか異次元人だか超越者だか何かが蛾のような格好で天守閣に現れ血栓を除去して血の流れをスムーズにするような医療行為を時間に対してしているような会話が繰り広げられる。時間ならぬ時管が詰まった先は腐って滅びてしまうといった説明。そして時様体を持ってきては新しい時間につなごうとかいった差配の中に巻き込まれ、マーカーとして21世紀から17世紀へと巾上や千曲は連れてこられたらしい。そして他の何人かも。そんな彼ら彼女たちが蛾のような何かの思惑を強制されるといった感じでもなく、自信でどうにか突破しようとあがくものの上手くいかない積み重ねが、人間というものの小ささであり限界めいたものを感じさせる。時間は人間には荷が重いのかもしれない。

 それでも可能な限りあがいて動いて走り回って加介やおしゅんちゃんたちに課せられた運命を変えようとする鈴木伊織や千曲たち。どうしても行き違ってしまう様子にどうして気付かないんだよと言いたくなるけど、神様のようなポジションにある千曲とは違って鈴木伊織は一介の武士で無茶は出来ず能力もない。そんな身でも足掻きのけた結果、ちょっとだけ世界が動いて幸せのようなビジョンが見えてくるにつけ、諦めないで続けることは悪くないと思えて来る。タイムパラドックスに挑むとか時間の牢獄を突破するとかいった過去に類例がある話とは違い、また現代人が過去にいってチートする話とも違った、狭い範囲、歴史を壊さない中で最前を願う者の頑張りを描き、その有りように共感を誘う物語。松本城、見に行きたくなってきた。

 お台場といったら既にナムコがダイバーシティ東京に「VR ZONE」を設置して、居ながらにしてロボットを操りスキーで滑降し高所でネコを助けるアトラクションを登場させて、VRの聖地と化しつつあるけれども、それとはまた違ったVRの楽しさを味わえるアトラクションがセガ・ライブクリエイションの運営する「東京ジョイポリス」に登場。その名も「ZERO LATENCY VR」は何もない空間がVRヘッドマウントディスプレイを着けるとゾンビに攻め込まれる廃墟となり、プレーヤーはそこで手に銃を持って動き回りながらゾンビを相手に戦い救出ポイントを護ることになる。

 つまりは自在。どこでもって訳ではないけれど、自分が行きたい場所へと右へ左へ前へ後ろへと移動し、ぐるりと見渡しながら迫ってくるゾンビを相手に撃ちまくれる。操作によって2階へと上がることも可能で、その時に傍目にはずっと止まったままなのに、VRヘッドマウントディスプレイを着けている身にはエレベーターに乗って上へと上がり、さっきまでいたフィールドを見下ろすような格好でゾンビを狙撃しまくることができる。一緒にプレーできる6人が、コンビネーションをとりながら前や後ろを警戒し、そして何人かが上に上がって狙撃をしてゾンビを撃退するような、チームプレーも可能なゲーム。これは据え置き型で装置によって動きを感じさせるVRでは味わえない楽しさだ。

 もちろん「VR ZONE」にあるVRはどれも素晴らしくって、ちょっとした可動の調整によって人間の体はいとも簡単に騙され重力を感じては、居ながらにして加速と滑空の世界に身を委ねることができる。そうした体験は「ZERO LATENCY VR」では出来ないけれども代わりに自在性があり、チーム制があってその空間をまったく別の場所にして、それでいて実際の空間を存分に使った遊びを楽しめる。サバイバルゲームのビジョンに「アクセルワールド」の加速世界を重ねたような感じ? まああそこまで世界全体が追われている訳でなく、室内がせいぜいだけれどいずれマーカーが全世界に埋め込まれ、位置情報とか映像情報と結びついて世界中のあらゆる場所が「ZERO LATENCY VR」のフィールドになる可能性だってある。そうなった時、、「ポケモンGO」とはまた違ったARであり加速世界でありVRの遊びが登場して、僕たちを現実と重なった別の世界へと誘ってくれるだろう。そうした近未来のビジョンを感じられるゲーム。やれば分かる未来の遊びと社会のあり方が。


【7月21日】 新シリーズを見る気力が湧かない中で、続きならだいたい世界観も分かっているからと「アクティヴレイド −機動強襲室第八係− 2nd」を見たらメンバーに異動があって主役の片割れだった瀬名颯一郎が名古屋の清掃会社の社長になっていたけれど、優柔不断なんか体より頭が先に動くパターンなのかボンヤリとした立場にいるところを、下にいる専務のアビゲイル・マルチネスが仕切って会社はとりあえず順調そう。だったら居場所があるのかないのか、不透明な中で起こった東京での事件い呼ばれ民間からの協力という形で復帰し相変わらずの腕前を見せていた。

 ダイハチの内偵といった役割だったものがだんだんと仲間になっていった花咲里あさみは大阪に行ってダイクの創設に関わり派手な踊りでアピールしていたけれどもなぜか途中で出てきた時は、清水の舞台でゲラゲラ笑っていただけでいったいどうしたものか。意味不明ではあるものの登場しているならいずれダイハチと重なることもあるんだろう。そうした旧メンバーに加えて美少女が登場、名をエミリア・エデルマンという金髪さんはポーランド警察からの出向らしいけれども過去、ウィルウェアが解除できずに閉じ込められた経験から、長くウィルウェアを着られないポンコツになっていた。

 そんな人をどーして寄越すかなあ。それも謎だけれどとりあえず瀬名とそれから主人公の黒騎猛の導きによってどーにか立ち直っていくんだろう。さらにもう1人のポンコツが。鏑木まりもは視線恐怖症の気があるらしく直接他人の顔が見られない。ゴーグルを着けてAR的に人間の目線を塗りつぶせばどうにか立ち直るけれど、勇んでゴーグルを外すととたんにへなちょこになってしまうところがやっぱりポンコツ。東京を救い日本を救った英雄な割には人材、集まらないのかなあ。脳に別人格をしみこませる技術をちょっと使われ大丈夫そうだったけれど猛に影響も残ってそう。そんな伏線をこなしながら東京を狙う勢力との戦いが続いていくのか。見ていてお気楽な作品だけにこれは楽しく見ていけそう。

 「人生に、文学を。」問題は尾を引いてあちらこちらのネットメディアが主体の日本文学振興会に突っ込みを入れているけれど、どうにも糠に釘というか危機感が薄いというか、まさかそう取られるとは思わなかったなんて迂闊なコメントを出しては、文学なら想像力を養えて人生が豊かになるぜっていった趣旨を繰り出していながらも、まるで想像力が欠けていてそれでよくまあ日本文学振興会を名乗っていられるなあ、なんて突っ込みを受けていたりする。アニメを莫迦にするつもりはなくて、想像力を養わせるって意味でアニメもあるけどそれだけじゃなく文学にも興味を持ってよって趣旨だった、なんて言い訳しているけれど、だったら下に続く文章は何んなんだってすぐさま言われそう。

 なぜって本文ではこう書かれている。「読むとは想像すること」で、「想像しなければ、目に見えるものしか知りようがない」「想像しなければ、自ら思い描く人生しか選びようがない」。つまりは読むことが最上位。それも文学を読むことを欠いては人生なんて想像できないだろってことを言っている訳で、そこにアニメが入り込む余地なんてさらさらない。まあこれが仮に単に(アニメか?)って部分で終わっていたとしても、アニメで想像するのかお前らって話になって、それも余計なお世話で何が悪いかって憤りを呼ぶ。加えてああいった矛盾しか感じられない言い訳が出てくると、本当に事態の厄介さを分かっているのかって話になってくる。改善策は考えているみたいだけれど、それなら直木賞と芥川賞の宣伝でしかない部分も変えて、文学全体に広げなければ巻き込まれた形でアニメや漫画のワルクチを言ってしまった形になってる他の文学関係出版社も納得しないだろう。どうなるか。どうもならないかなあ、そんな危機感があればそもそもあんなキャンペーンなんか始めないだろうし。やれやれ。

 そんな芸術のランク付け競争が今も残る日本とは違って芸術の都パリにあるルーヴル美術館はさすがというか。漫画とそれからバンド・デシネを展示するルーヴル美術館特別展「ルーヴルNo.9 〜漫画、9番目の芸術〜」が7月22日から六本木にある森アーツセンターギャラリーで始まるんだけれど、その内覧会に登場した出版制作局副部長で展覧会の総監修を務めたファブリス・ドゥアールさんは「芸術に序列はない。芸術はただ単に芸術なのだ」と言って漫画も堂々と展示して憚らない気概ってものを示している。漫画が展覧会に出展されるようになってずいぶんと経つ日本だけれど、どこかに漫画を他の芸術とすりあわせて文学性だとか画力だとかいった部分で善し悪しを決め、だから展示して良いんだといった言い訳をしようと身構えている部分がある。

 送り手にそんな意識はなくても受け手にまだ残る以上、説得の言葉として用意しておかなくちゃってことなのかもしれない。でも、ルーヴルではもう漫画は芸術なんだから他に理由なんていらないよ、っていったコンセンサスがとれている。あるいは内部にあったとしてもそういう言い訳をせずとも他の芸術と並べて恥じ入らないだけの覚悟はできている。そこが面白い。まあルーヴルってのは元からそういうところがあって「常に生きている。進化し続けている」というドゥアールさんの言葉にもあるように、コンテンポラリーも平気で受け入れそれを吸収して言っている。大騒ぎになったピラミッドだってもはやないと寂しいランドスケープになった。今はまだ外部に違和感をもって捉えてられている漫画も、やがてあって不思議はないものになっていくんだろう。『モナリザ』の横にバンド・デシネ。『サモトラケのニケ』の横に漫画。そんな感じ、ってそれはないか、時代が違いすぎるから。

 まあでも「物語絵画、連続絵画と呼ばれる芸術の伝統の古い歴史があって、バンドデシネの作者たちはその流れを引き継いだ担い手だ。BDの作者はラファエロやルーベンスだ」とまで言ってしまうからそうした19世紀絵画の横にバンド・デシネが並んでも不思議はないかも。「もしもブリューゲルやミケランジェロが現代に生きていたら、きっとバンド・デシネを描いていただろう。芸術として絵を描く作業は同じだから」。聞いて嫌々漫画はもっと別のスキルがいるから一緒にしないでという声も上がるかも知れないけれど、とりあえずは歴史的とされている画家たちとフラットに漫画家たちを捉えていることは分かる。だからこうしたルーヴル美術館の紹介するような漫画を描いてと漫画家たちに頼み、それがこんな展覧会になるんだろう。フランスって凄いなあ。日本でこういうことは出来るかなあ。

 そんな展示ではやっぱりエンキ・ビラルの絵に目が向いたかなあ、「ティコムーン」って映画を観たのはもう20年近く前になるけれど、その立体感のある塗りと独特のビジョン、そして何よりキャラクターの顔立ちが好きでずっと意識していた。そんなエンキ・ビラルの絵を間近に見られるんだからこれは凄い。あと作品ではヤマザキマリさんの「美術館のパルミラ」にちょっと感動。シリアにあって長く親しまれてきたパルミラ遺跡が内戦の中、ISによって破壊されて遺跡をずっと調査してきた考古学者も殺害されてしまった。その思いをシリアに暮らしたことあある自分の使命だと筆を取り、パルミラの遺跡を描き今ルーヴルに行けばパルミラの遺跡の一部を見られることを紹介して、ルーヴルが持つ多様性を称揚していた。機を見て敏に描き、義を見てしっかりと成す漫画家。やっぱりヤマザキマリさんは強いなあ。


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