縮刷版2016年7月上旬号


【7月10日】 気がつくと伊勢志摩は鳥羽で繰り広げられていた第55回日本SF大会「いせしまこん」で第47回星雲賞が発表になってメディア部門で「ガールズ&パンツァー劇場版」が受賞したとか。SFか? って問いにはSF好きとしてSFだろうっていう言葉で返したくなるものの、既にしてメジャーとなっている作品で無理にSFの範囲に入れて喧伝しなくても、そしてSF好きがこれは俺たちの作品なんだと悦に入らなくても良いような気がしてそれならあんまり世間が認知していない「放課後のプレアデス」とかに賞を挙げて今一度の盛り上がりが欲しかったかなあ、という気がしないでもない。

 というかこれまでだったらそういったある意味での“王道”に転んでいたものが、今年はなぜかガルパンに向かったのはつまり今のSFファンの“気分”では、映画になって大ヒットして話題にもなったガルパンをこそ王道と認めているってことなのかも。「マッドマックス 怒りのデスロード」よりも。これはちょっと面白いかも。そうなると来年はいったい何が来るかなあ、ってまあおそらくは新海誠監督「君の名は。」だと思うけれども「コンクリート・レボルティオ 〜超人幻想〜」もSF好きしそうなだけに候補として挙がるかな。日本SF大賞にだって挙がって欲しい気も。最近映像作品から日本SF大賞出てないし。

 その意味では自由部門で星雲賞に輝いた水玉蛍之丞さん「SFまで10000光年」「SFまで10万光年」のうちの「10万光年」にSF大賞の芽なんかもこれで出てきたかも。より濃度を増して紡がれるSF話が並みいるSF小説を押しのけて受賞する、なんてことになったら面白いんだけれどここはやっぱり特別賞かなあ。小説に関しては早川・創元にあらずんばSFにあらずというか。見知った範囲での読書体験からそういう傾向になるのも分かるけれども参考作にすらライトノベル系は来ないんだからちょっと寂しい。頑張って紹介しているんだけれどなあ。まあ良いそうした枠外で盛り上がり人気になってメディア展開もされているんだから。権威より人気ということで。うん。

 「クジラの子らは砂上に歌う」が掲載されている「ボニータ」の2016年8月号を拝領したら中に「天顕祭」や「WOMBS」といった作品で知られる白井弓さんによる読み切り短編漫画「イワとニキの新婚旅行」が載っていた。読むと異星に支配されて500年、世界各地で支配者は土着の神話や宗教を再現することで統治を安定させていたという。そしてとある地域では、王子が妻をめとりに荒地へと赴いて、そこで1体の岩の巨人と出会う。その巨人の名こそニニギノミコトが妻をめとった伝承に現れる2人のヒメのうちの1人。王子のニキは決まりだからとその巨大で醜い巨人を妻とし、新婚旅行へと出かけようとする。

 クラークの「幼年期の終わり」に代表される異星人による人類統治の物語に、神話の再来によって精神的社会的な安定を目指すという要素を付け加えた形がひとつ目新しい。川上稔さんの「境界線上のホライゾン」では文明を再起させるために人類が歴史を再現する展開があるけど、それと似通っている部分も感じられるかな。それだけ人類は過去に美しさを見るというか。そんな設定の上に、美醜というものへの感性が、情愛によっても描かれる。美人は一生飽きないけれどそうでない人も見慣れれば一生大丈夫? 歳とるとあんまり関係ないんだよ。

 興味深いのは王子のニキで、願えば幸福と安寧の中に通俗の“美“を得続けられるにもかかわらず、なぜか表層の“醜”を傍らに伴って歩き続ける。運命を彼に押しつけ死んだいった兄への反発か、あるいは生来の優しさか。来る危機の中で逃げた兄の真意を知り、体裁にこだわる弟に攻められながらも、ニキは遠ざけることなく逆に気持ちをその巨人へと向かわせる。吊り橋効果なんてものではない、共に戦場をくぐり抜けた同士的な感情か、それとも。いずれにしても2人が選んだ道に喝采。他の地域でどんな統治がなされ、そこに神話的な寓意が新たにどう覆されるか、あるいは繰り返されるかも読んでみたいかも。

 そして見た「ベルセルク」は映画で見た「黄金時代編」から続く「断罪編」だけれど映画を作ったSTUDIO4℃ではなくGEMBAって会社とミルパンセって会社がアニメーション制作を担当。ほとんどが3DCGによって描かれていて「亜人」みたいなヌルっとした質感をちょっとだけ感じさせる。でも元の劇画っぽい斜線を生かしつつハードな描線でもって描かれているから弱々しさはなくスピード感も重量感もあって楽しめる。ポリゴンピクチュアズでもなければサンジゲンでもない会社が2Dライクな3DCGアニメーションを作れるんだと思ったけれど、GEMBAって過去に士郎正宗さんの作品を手がけたデジタル・フロンティアの関連会社だからCDには慣れていそう。2Dライクだってこうして作れるってところを見せてくれて、ポリゴンかサンジゲンかって感じだった戦線を改めて引っかき回してくれそう。サンライズ荻窪スタジオから抜けた武右ェ門だってあるし。

 学研から出ていた「ガールズ&パンツァー劇場版コンプリートブック」を読みながら大洗女子学園とその他高校生連合チームが大学選抜チームを相手に戦った試合で途中まで、迷路においてカメさんチームのヘッツァーが1輛撃破するところまでで大洗女子学園が残り22輛だったのに対して大学選抜は9輛と、大差がついていたことを改めて確認。その前後で島田愛里寿があっちのチームはボコみたいにボコボコにされても立ち向かってくるとか言っているけど、ボコボコにされているおんはどっちなんだって気がしないでもなかったり。とはいえ自分が出れば形勢逆転は必至という自信の表れでもあるんだろう。

 事実その後に吶喊をしては知波単とアヒルさんチームの連合を木っ端みじんに粉砕し、ウサギさんチームも撃破をしてたちどころに大洗女子学園側を削っていく。最初から出ていれば楽勝だったかもしれないけれど、そうやって追い詰めれば今度は西住みほ&まほの姉妹チームも黙ってないだろうからあるいは互角の戦いに? それはないとしても油断をさせつつ引きずり込んでは変幻自在を見せつつ最後は王道。そんな島田流と西住流を良いところ取りしたみほ&あんこうチーム流って奴が高校生という身を勝利へと導いたのかもしれない。これで日本の戦車道は変わったか。それを描く物語をいつか。どこかで。

 そしてたぶん劇場では当面これが最後になるだろう「ガールズ&パンツァー劇場版」をイオンシネマで。最初の大洗戦の最後くらいに眠気がクラッときたけれど、閉鎖が決まってさまようあたりからパッチリと冷めて犬の散歩から帰ってきたまほがみほを見てニコっとするところとか、二号戦車の操縦席から顔をのぞかせたまほのきょとんとした表情とかを改めて味わうことができた。観覧席に座って脚を閉じない西住しほの豪快さも。そしてやっぱり幸せになれるエンディング。シャボンが降ってこないのも寂しいけれどそんな4DXも含めて遠からず、劇場に帰ってくると信じたい。でないとヴォイテクの向こう側に見えるケイのホットパンツも拝めなくなってしまうから。あれは良いものだから。

 2009年の8月29日に行われた衆議院議員選挙で麻生内閣は敗北して民主党へと政権を交代させた。その前の参院選で過半数を失い政権の舵取りが難しくなって、そその苦しさをカバーするべくよりライトな方向へと走った挙げ句、に中道すらも根こそぎ失っていってしまったのが、そうしたものを厭う風なり空気なりへと至ったって考えも可能だって8月30日付けの日記に書いた。でもってそそんな原因がその選挙で一掃されたかというと、より濃さを増した形で居残ってしまい、あとはひたすらに先鋭化して極端化してくだけだろう。そうなってしまってはもはや取り返しがつかないって書いた。

 そして7年たってだいたいそうなっていて我ながらしてやったりというか、取り返しが付かないんだからもうどうしようもないというか。もしもあの時、メディアの妙な煽りに世間が動かされないでどうにかこうにか麻生内閣が延命して、暫くやって谷垣さんから高村さん岸田さん与謝野さん甘利さん石破さん辺りへ繋いでいれば、この国は先鋭化されたものが立ちあがって勢力を得ることはなく、それなりにリベラルな中で中道を行っていたかもしれないと思わないでもないでもない。ただやっぱり地震は来るわけ、でその時の対応がどうだったかも含むとこの国はとも思ったりすり。歴史にifはなくそして未来は今が決める。だから今を常に問うしかないのだ。今を。


【7月9日】 「今年の2月中旬だったと思います。朝から興奮していた先生が『我こそは革命的ブロードウェイ主義者同盟である。生産! 団結! 反抑圧!』と叫びながら廊下を飛び歩いていました。週末によほど良くない集会に出ていたんじゃないでしょうか。政治的中立から逸脱した言動だと思いますので取り締まってください。ダズビダーニャ」。なんてコメントをあのフォームから投稿したとして、自由民主党は果たしてこんな教師を政治的中立性から逸脱していると認めて探し出そうとするだろうか。案外に世間に疎いポン酢の集まりなだけに、これは拙いと立ちあがってくれたら愉快きわまりないけれど。

 発端は自由民主党がインターネットを使って学校教育における政治的な中立性が損なわれているかもしれない教師の事案をチクってくれと募ったこと。空欄を埋めてポチリとやるだけで具体的な名前と場所が送信されては権力側の手に渡る。それがあくまで調査だと行ったところで権力側が本当に何もしないかなんて確信はなく、口でそう言われたところで何かあるかもしれないという“忖度”も働き現場では何も言えなくなってしまうという萎縮効果が起こる。それを狙ってのものだとしたら自由民主党も策士だけれど、そこまでの深慮遠謀もなく単純に、ダメなものはダメだからチクれと呼びかけたんだろうなあ。

 だから密告そのものの萎縮効果が問題にされ、また他人のプライバシーを実際の検証もなく聞き取り調査もしないで勝手に送るような真似を公党のそれも政権政党でありながら奨励してしまう。なおかつそうしたことを指摘されても止めようとしない。最初は「『教育の政治的中立はありえない』、あるいは『子どもたちを戦場に送るな』」だったのが、ここから「子どもたちを戦場に送るな」が消えて「安保関連法案は廃止にすべき」に差し替わり、それもやっぱり批判されたら「教育の政治的中立はありえない」だけになった。これで大丈夫と思ったんだろう。

 というか、教育の政治的中立っていったい何だろう。教育っていうのは政治も含めて現状が正しいか間違っているかを認識できる力を養わせるもので、そうしたプロセスにおいて何が正しく何が間違っていたかを歴史をひもとき教えるなり、現在進行形の事例から考えさせるなりする必要がある。でもそれは時の政権においてやっぱり痛いこと。だからといってそれを政治的な中立性から逸脱しているといって教えることをせず、考える力を育ませなかったら、社会は間違いを正す能力を持たない人たちであふれかえって滅びへの道を突き進む。それで良いのか。良いんだろうなあ、今の自分たちさえ安泰なら。それを“愛国”だのと行った看板を掲げて繰り出す陳腐。笑うしかない。

 仮に政権が転じて与党が野党となった時、それまでと正反対の教えが学校教育で行われるようになって、時の“政治”に対してど真ん中を行く者だから“中立”だと言われた時に、かつての与党や何の反論する根拠も持てなくなる。中立とは現在ただいまの状況においてセンターを行くものではない、そこにも偏りはあると考え両極について触れつつ何が妥当かを考えること。そのための教育を政治的中立から逸脱と行ったら歴史なんて教えられなくなってしまう。そういう理屈とそしてやっぱり密告という、権力が行使しては絶対にいけない仕組みを平気で繰り出す傲慢さから、これは速攻に是正されなくてはいけない事態ではあるけれど、でもこうやって衣の下の鎧をチラ見せする積み重ねが、既に相当な意識をスポイルしていると思うともう手遅れなのかもしれない。やばいなあ。マジやばいなあ。

 残っていたら買おうかと思い越谷レイクタウンのドクターマーチンのアウトレットをのぞいたけれど、先週見かけたサンプルの靴はなくてやっぱり見つけた時か買い時なんだと後悔。それもまあ仕方がないと諦めつつ電車で移動しながら地本草子さんの「子どもたちは狼のように吠える1」(ハヤカワ文庫JA)を読んでうなる。こりゃあハードだ。そしてシリアスだ。たぶん近未来の日本領になっているサハリンで裕福な事業家の子として暮らしていたセナだったけれど、父親の考え方が誰かの怨みを勝ったのか強盗に押し入られて殺害され、そして息子だったセナは誘拐されて収容所めいた場所へと送られる。残された妹のことが心配でならず脱走しようとしたけど捕まり所長のところへ。そこで文字通りに尻の穴をかっぽじられるような仕打ちに合うものの脱走することは諦めない。

 そして牢獄のような場所で知り合った、こちらはロシア人としてサハリンに逃げてきたニカという少年と組んで収容所からの脱走を試みる。逃げても追われる仕掛けがあり、銃器で武装し体術も会得した監視人たちもいる状況をどうかいくぐって逃げるのか。裏切り者もいそうな中で自分しか信じようとしないニカをセナは納得させ、義兄弟のような関係を結んで裏切らないと誓い合った2人は計略を巡らし準備も整え、そして幸運も味方してどうにか脱走に成功する。けれども追っ手は諦めない。ヤクザの息がかかった収容所を逃げ出したことで逆に矛先が向いて激しく駆り立てられる。相手には日本人の生体認証機能すら左右できる立場の者もいる。権力と暴力に刃向かえば生きていけない場所で、それでも2人は戦って生き抜こうとする。

 冷徹で冷静で信じた者しか信じないところがあるニカは世話になった叔父を殺害された憤りを晴らそうとして戦いに臨んでしっかりと勝利を勝ち取る。そのためには誰かを利用することだって平気なところもある。言ってしまえば純粋な悪。対してセナは心をこちら側に残しつつ、向こう側に足を突っ込んでいっては脆弱な立場を省みないで突っ走り、仲間を危険に陥れ無関係な者の命を失わせそれで自分が悪いと嘆く繰り返し。そして同情という名の依存心で自分を保とうとする。何て厄介。けれども、そんな奴だからこそ結果として周りを振り回しながらしたたかに生き延びていくんだろう。オリガを捨てたニカのように純粋な悪すら迷わせながら。そんな生きた災厄のセナが、このあとどれだけ周りを不幸にしながら自分を貫くかに注目。第2巻が待ち遠しい。

 そして到着した科学技術館で「Tシャツラブサミット」をぶらぶらと。そんなに数はなかったけれどもデザインフェスタで見知ったサイケなTシャツの「OTACCIMAN des PLIME」とか世界遺産×女子高生という取り合わせが愉快な「リボン色の世界遺産」とか見物しつつデザインフェスタ常連の「ちくわぶ」なんかも眺めつつ、とりあえずナスカの地上絵と女子高生の取り合わせというTシャツを購入して帰宅。途中に国立近代美術館へと立ち寄って詩人の吉増剛造さんによる展覧会をのぞいてそこに並んだ中上健次さんの「軽蔑」他の直筆原稿に書かれた文字の独特な端正さに見入る。ミャンマー文字みたいに丸いけどちゃんと日本語の漢字でひらがなでカタカナが小さく連なる合間に挿入があって、それを読んで活字にした編集者は偉いなあ。でもそうやって1字1字が刻まれるように連ねられていった言葉は読むととても端正。なおかつほとばしる熱情。食い入るようにして見たくなる。改めて中上小説、読んでみたくなって来た。


【7月8日】 いったい何が起こっているのか。黒人が身分を証明できるものか何かを懐から出そうとした仕草を見て、銃を取り出そうとしていると早合点し、白人の警察官が射殺するという事件が、パターンは違っても似た構図ものとしてまた起こってしまってアメリカの社会は震撼。とりわけ黒人の社会は、憤りも含みつつ追悼も行いながら抗議の動きを見せていて、そんな動きを牽制するなり見守るようにしていた警察官が、何者かによって狙撃され射殺されるという事態が起こってしまった。それも何人も。

 いったい誰が撃ったのか。単純に義憤を感じた告示による白人警察官全体を狙った攻撃というなら惨劇は惨劇として哀しみつつ、構図としてそういうこともあるかといった理解は及ぶ。ただ何人もとなるとこれは組織的に起こされた一種の反抗であって暴力というよりもはやテロ。その背後にいったいどんな意識があるのかが気になる。抱えていた不満が事件によって膨らまされて、これが機会だと突っ走ったのかそれとも、黒人と白人の間に深い深い溝を入れてアメリカという社会を大きく動揺させようとする謀略が巡らされているのか。

 後者だとしたら主体は誰かって話にもなっていろいろと先が心配。つまりは似たようなことが頻発するって可能性があるから。そしてこういう分裂がもたらす混乱を背景に強いアメリカを標榜し、それもWASPなアメリカってドリームを再び見せようとする人間が、真っ最中のアメリカ大統領選で息を吹き返して勢力を膨らませて一気に当選、なんてことになったりすかもしれない。そうなったら世界はイギリスのEU離脱なんかに比べものにならない混乱に陥りそう。それを狙った謀略? まさかとは思うけれど、何が起こるか分からない世界だし、何を起こすか分からない人物だからなあ。ともあれ沈静化を願いたい。切に。心から。

 なんでまた急に石田純一さんが東京都知事選に出るなんて話になったんだろう。前々から国会議事堂前だっけ、そうした反安倍政権デモへの参加なんかもしていて政治方面に関心を示しているところを感じさせてはいたけれど、それと東京都知事になるって話はまったく別。政策において何か具体的な提案ができる感じもしないし、新しい発想で東京都を新しく作り替えるような雰囲気もない。もしかしたら靴下禁止条例でも作って冬でも靴下無しにさせるかもしれず、一方で不倫は文化だといって愛人だろうと正妻だろうと若いつばめだろうと自由に恋愛してオッケーな雰囲気を作ってくれるかもしれない。でもそれは都政とはあんまり関係ない。

 だったらそのまんま東さんが県知事に向いていたかというと結果はともかく大学院とかに通って政策を勉強していたし、橋下徹さんは弁護士だから法律には通じてた。横山ノックさんはあれで参議院議員だっけ、そういうものを努めて政治への関与をしていたから知事としてもまあやれたけれど、石田純一さんいそういうのはないからなあ。まあ誰かのお思い付きでふっと名前が出てしまって大騒ぎになっているだけで、受けて野党統一候補ならって言ったのもそれは無理だろうから自分は出ないよって示唆なのかもしれない。とはいえこういう候補が取りざたされるくらいに確実な球が浮かんでないのも事実。とりわけ民主党なりが推す候補が。後出しじゃんけんったって知名度もないまま選挙戦に入ったら負けるのは必定なんだけれど。誰にするのかなあ。経歴詐称で当選しても即退任なんて人だけは止めて。

 今日もきょうとて第3回ライブ&イベント産業展へ。VR関係をとくに見てメディアフロント・ジャパンのブースで「高所恐怖SHOW」に負けず劣らない高所の一本橋渡りアトラクションとかを体験し、ソニー・ミュージックコミュニケーションズのブースで「夢みるアドレセンス」の360度パノラマ映像によるライブをVRヘッドマウントディスプレイ越しに見て目の前に迫る美脚に興奮する。小林幸子さんの日本武道館でのライブをVR中継した頃はまだ暗くてよく分からない部分があったけれど、360度映像を撮るって決めたライブは明るさも良くて奥までくっきり見える上に、追随性も高くって振り向けば観客席が間近に見える。まるで警備員の視点だけれど警備員はステージを向けないからVRだけの特権。こういう映像が増えてくればライブに行かずとも楽しめるコンテンツとして新しいジャンルを築きそうなんだけど。

 会場では「仮面女子」の皆さんがチラシを配ったりして世界に向かって大アピール。時々会場を巡ってVRを体験したりしつつ、そういう姿を見せて存在を訴えていた。ライブもあちらこちらのステージに引っ張りだこで、メインだけでなくダスキンが展開しているステージに立って仮面を被って外す早業を見せたり、トイレットペーパーを発射する装置を使ったりして場を盛り上げていた、って来ているのがビジネスのおじさんばかりなんで拍手もなければコールもなく、そんな中でひとり手を振るのもはばかられたんで小さく拍手をして楽しむ。しかし「仮面女子」、今いったい何人いるんだろう。若手もいれて相当数。それで回していけるのか。そのための展示会への出展か。自分たちが展示物。その心意気に拍手。

 そしてこれも昨日に続いてアソビシステムによるステージをこれまた最前列で見物。TEMPURA KIDZが歌っていたのは「マスクマスク」って楽曲らしくて、問題ないとか関係ないとか絶好調といった部分で間の手を入れたくなったけれど、周囲でやっぱり誰もやっていないので小声で入れつつ手も小さく。P→★ちゃんは相変わらずに舌を出しての顔芸が良かったけれど、あれだけ激しく動きながらの舌だしていつか噛まないかが心配になってきた。やのあんなさんも良い曲だよなあ。どんなタイトルか調べてみよう。DJとして登城したUnaさんは本職はモデルなだけに超きれい。DJでは煽っていたけど会場がビジネス人では冷えっぱなしで大変だったかも。次は乗ってる場面で見てみたいかも。どんな繋ぎをするのかな。

 アニメーションではなく実写で映像化される羽海野チカさんお「3月のライオン」はすでに神木隆之介さんがピッタリの雰囲気で主役の桐山零を演じることが分かっていたけど、他の役者も続々と決まってきてまず年長者の島田開八段に佐々木蔵之介さんが起用されて、細面なところが雰囲気としてこれまたピッタリ。ただ島田八段は胃痛持ちになるくらい繊細なのでふてぶてしさを最近出してた佐々木さんがどう演じてくるか。そこに興味。棋士ではあと名人の宗谷冬司役に加瀬亮さんで寡黙そうなところがマッチしているか。零の師匠の幸田柾近は豊川悦司さんで人はよさげだけれど無神経なあたりがこれも雰囲気出しているか。。

 主要な役ではあと二階堂晴信が決まってなくて、これが松山ケンイチさんだと「聖の青春」からの横滑りになってしまうけど、神木さんと年齢が釣り合わないんでもうちょっと若手のそして小太りの誰かになるのかな。そんな二階堂をポドロと見て懐く三姉妹の末っ子の川本モモは新津ちせちゃんが演じる模様。前に「ミス・サイゴン」でタムを演じて子役の子。そこでは喋ってなかったけど、きよらの卵のCMで喋っている声は可愛くて巧み。これで当時5歳くらいなら6歳になった今はさらに上達して滑舌も良く朗々と喋るかな。それはないか。いずれにしても凄く楽しみ。長姉は倉科カナさんで次子は清原果耶。渋い配役はやっぱり演技で選んだのかな。そこも含めて注目していこう。公開いつだっけ。


【7月7日】 ZABADAKのというより平針小学校出身者としては共に同じ平針小学校にいたことがあるくじらの杉林恭男さんとヒラバリーズというユニットを組んで活動していた吉良知彦さんが亡くなったという知らせに、1度はちゃんとステージを見ておきたかったという思いがまたしてももわもわ。村田和人さんの時にも思っただけにやっぱりお金に糸目は付けず見たいアーティストは見ておくべきかもと改めて意を決する。でもやっぱりお金がない。ZABADAKは大学の同期がなぜかカセットに録音して「ウェルカムトゥザバダック」を渡してくれたなあ。聞いてストレートではない音楽が耳に残ったけれどハマるほどではなかった。ひねくれていない耳にはまだ早かったのかも。改めて聞き直してみるか。合掌。

 冷やし中華の日でポニーテールの日でカルピスの日で浴衣の日で、もちろん七夕でもあってだからなのか川の日でもあるんだけれど、それが「ドリカムの日」になってしまったそうでDREAMS COME TRUEの皆さん(といっても2人だけど)は先達への敬意を表すために浴衣を着てポニーテールを結い冷やし中華を食べてカルピスを飲んで河原に行って空を見上げて天の川を挟んだ織姫と彦星の幸せを願いつつ「7月7日、晴れ」を歌って差し上げてくださいな。それで初めて7月7日記念日の仲間入りって認めて上げたいけれどもきっと世間は来年には「ドリカムの日」なんて忘れてポニーテールの日だといってポニテ画像を集めてさらすんだろうなあ。そういうものだ。

 録画が溜まっていくばかりの7月期のテレビアニメーションだけれど1作だけようやく見られた「DYAS」はそうか「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」の宇田鋼之助さんが監督でシリーズ構成か。どこかひ弱でそれでいて性格はまっすぐで褒められれば嬉しく助けられればめいっぱいに感謝する少年がひとり。なぜか金髪ロン毛のいけ好かない野郎に目を付けられ、呼び出されていった先で不良に絡まれボコボコにされるのかと思ったらこれが全然違ってた。

 金髪ロン毛はとても良い奴で、先輩か誰かが転勤で遠くに行くためにフットサルができなくなるため、これが最期という試合で人数が足りなくなったのを聞いて同じクラスであたふたしていた柄本つくしを誘ったみたい。そして誘った相手に自分がはいていたかも知れないスパイクを貸して試合に臨んで見せるつくしのへたくそ加減に怒らず呼んだ自分が悪いと悩む。さらにはサッカー部に入って自分は前からやっていから平気でついてける練習に、とてもついていけずに途中で気絶したつくしにどうしてこれだけ厳しいんだから止めておけと言えなかったんだと迷う。

 他人思いで繊細で優しさもあるナイスガイ。それがあのチャラい外見に入っているんだから見る人は最初大いに戸惑うかも。でもきっと見ていればその性格にも慣れどれだけの選手かも分かってくるんだろう。でもつくしはオープニングじゃ大活躍しているけれど、今はただの素人で、根性だけはあっても技術がついてこないし体力もない。そんな最底辺からどうやって這い上がっていくのか。そこにはどんな心の持ちようがあるのか。他人への依存ではなく自分の心底からの感謝。それを知って自分も打算とか関係なく、頑張ってみようと思える。そんなアニメーションになるのか。これは毎週ちゃんと見ていこう。

 なんだか暑くなりそう中を起き出して第3回ライブ&イベント産業展って展示会を見に幕張メッセへ。昨日からやってはいたけれども国際文具展とかを見に東京ビッグサイトに行ってたんで回れなかった。同じリード・エグジビジョンが主催しているイベントで、それが東京ビッグサイトは全館を使い幕張メッセも相当規模で繰り広げられているといった具合に、見本市の運営にかけてはもはや国内で右に出る存在がいなくなってしまった感じ。20年前からここまでの急成長にはいったい何があるのか。見本市が新しいメディアとして有効で、そしてバーチャル全盛であってもリアルに人と人、人と製品を結ぶ場として意義があるという思いを抱き信じて突き進んできたから、なんだろうなあ。

 そんなリアルの重要性ってのを、ある意味体現しているともいえるのがライブでありイベントで、そうしたものがこれから伸びていくだろうっていう勘所もあってこうした過去に例のない展示会を立ち上げるに至ったのか。初回は一昨年に東京ビッグサイトで開かれていたけれどそんなに目立ったのはなかった。それが去年、幕張メッセに舞台をうつして規模もグッと広がり巨大なモニターが並び新しいプロジェクションが据え置かれ、アソビシステムの中川悠介代表が講演を行ったりして見て面白く聞いてためになる展示会に成長していた。今年はさらに規模も広がり新しい試みもいくつか。その代表がアソビシステムによるスペシャルステージってことになる。

 照明とかLEDとか映像とか上から花を降らせると言った演出に必要な機材とかサービスってのを様々な企業から仰ぎつつ、アソビシステムが抱えるアーティストやモデルを見せるといったステージは、アソビシステムにとってのショウケースであると同時に出展企業にとっても自慢の技術を見せる場であり、それを見に来る観客にステージ演出ともどもアピールできる機会になっている。そんなセッティングをいったい誰が考えたのか。アソビシステム側かリード側か。いずれにしても新しいアイデアをちゃんと形にして見せるだけの実行力があるのが羨ましい。

 さてそんなステージを最前列から見物。まず登場したTEMPURA KIDZは前に代官山で観た時のようなキレキレのダンスを披露しつつメロディアスで耳に残る歌も聴かせてくれて改めて面白いユニットだなあと感じた。やっぱりもう何度かステージを見ておくかなあ。そして歌系ではやのあんなさんというモデルでシンガーの人が出てきてこれも良い歌を聴かせてくれた。会場はビジネス目的の人ばかりでノリとかあんまりだったけれど、最前に位置した者としてはやっぱり声援を送ろうとして腕を振り拍手をして盛り上げたつもり。でも小さすぎたかな。また聞きたいと思ったので探して出る場所に行ってみよう。ほか、モデルさんが歩きDJがプレーして30分ちょっとのステージは終了。全体に短いけれどもまあ、顔見せにはなったかな。

 そんなステージの前には講演を何本か。ディスクガレージっていう日本のプロモーターではとても大手の会社で社長を務める中西建夫さんが登壇して日本のライブエンターテインメントが今とっても隆盛になっていることを聞きつち、やっぱり問題になっているのが東京への一極集中であり、2016年問題といわれる会場不足といったもので、だからといって地方に小屋を作りそこで演奏して稼げるかというのもアーティストのお家事情から難しいこともあって解決策が思い浮かばないのだった。これは音楽に限らず産業の、そして国作り全体の問題だからなあ。アメリカみたいにニューヨークがありロサンゼルスがありシカゴがありミネアポリスがありニューオリンズがありって具合にはならないものなあ。

 それからアニメーションやら漫画が好きな身の上として興味のあった2.5次元ミュージカルについて、立役者ともいるネルケプランニング会長で日本2.5次元ミュージカル協会の代表理事も務める松田誠さんが登壇した講演を聴いてやっぱりキャラクターという強力なハブを持っているからこそ、そこに感情を移入しつつどうしたらそんなキャラクターが生かされる世界観を舞台の上に作り出せるかってところが重要で、それができているから人気になっているんだなあってことを理解する。例えば「弱虫ペダル」。あのハンドルだけ手にして舞台をかける姿が傍目に妙だと話題になったけれど、それをストーリーの中で見るとちゃんと自転車レースをしているように見える。役者の熱と展開の妙がそこに脳内のロードレースを見せる。引き算によって省略の中に見えないものを見せる演劇という場に合わせ演出した成果、ってことになるんだろう。

 ただ、キャラクターがしっかりしているからファンが喜ぶということは、キャラクタークターや原作のイメージを壊すような舞台になってしまった場合、ファンの落胆はより大きなものになってしまうということ。作り手も演技者もそうした期待に応えようとアイデアを出し合い、懸命に演じているからこそ、誰もが納得する舞台ができあがる。ブームを受けて作品数が増えていく中で、2.5ミュージカルの中にも原作人気にあてこんだだけの舞台が作らる可能性も皆無ではないけれど、それがブームに冷や水を浴びせる結果を招いては本末転倒。そこは日本2.5次元ミュージカル協会という組織が中心となって、しっかりとした内容の作品を送り出そうとする意識を、業界全体に強く持ってもらうようになることが大切だと言えるかも。


【7月6日】 7月期のアニメーションの新番組がどんどんと始まっているけれど、まだまともに1本も見られていないのは、アニメーションに対する愛情の欠如というよりは、見ている時間すら寝ていたいといった怠惰の増長なんだけれど、そうした感情をガラリと変える瞬間もきっとあるから、今はとりあえずひたすらに録画だけしておこう。「クロムクロ」だって学園祭の回までずっと撮りだめておいただけだった。それがなぜか見てこれはと思い見返した訳だし。逆に「ハイスクール・フリート」は1話で見て何か気になってずっと見てしまった。「文豪ストレイドッグ」もそう。たぶん見ていて安心できて楽しいものに気が向くのかも。今期はどれがそれに当たるだろう。

 ネタでも拾えるかと、先週に続いて東京ビッグサイトへと赴いて「第27回国際文具・紙製品展 ISOT」とか「第8回ベビー&キッズEXPO」とかいった展示会をうろうろ。まず見かけたのは一種の粘土だけれど塊ではなく細かい粒物で、それが粘着性をもって繋がっているといったもので握って引っ張りまるめて形を作って遊べるようになっている。くっつければもとの大きさ。色も多彩でちぎってはって絵みたいのも描ける。ちょっと前だと手に付かない砂が海外から入ってきて話題になって、バンダイとかタカラトミーといった玩具メーカーが商品として扱うようになったけれど、その後を継いで子供の玩具として広まっていく可能性がありそう。

 「第7回DESIGN TOKYO」のコーナーでは、広島から来ていた八橋装院って会社が手がけた「FUKUNARY feat. MIKASA」ってブランドがなかなかな味。MIKASAっていうのはあのボールのMIKASAでバレーボールやバスケットボールで知られている会社で、そしてブランドではそうしたボールの素材を使ったバッグとか財布なんかを作って、世の中に広めようとしている。バスケットボールなんかはあの独特の表皮がまんまバックパックや手提げ鞄になっていて、丈夫そうな上にデザインもクールでスポーツウエアじゃないカジュアルでもフォーマルでも持って似合いそう。

 バレーボールは昔の白一色と違って黄色や青が使われるようになっていて、そしてブランドではそんな素材をトートバッグとかウォレットなんかにしていて身体にいかにも馴染みそう。青一色とか黄色一色で見てすぐにこれがバレーボールって分からないかもしれないけれど、切り返しを入れて色を変えてボールに似せるのは、スポーツ的に面白くてもデザインとしてどうかってことになって、単色にしたらしい。それはサッカーボールが元でもいっしょ。昔ながらの五角形と六角形が混じった白黒のボールをそのまま使ってもファッション性は上がらない。白なり黒なりを単色で使いつつ五角形と六角形の繋がりを添えてらしさを残す。そうした工夫からスタイリッシュなバッグになっている。

 どれもなかなかクール。どれも欲しいけど人目を引くならバスケットボールで派手さならバレーボールかな。スポーツ素材ではミズノが柔道着の素材とかグローブの革とかでバッグを作っていて、これも結構スタイリッシュだけれど、ちょっぴり実用に寄っていたんでそれとは違う人に受け入れられるかも。東京だ代官山あたりのセレクトショップに入っているそう。あるいは今後浸透していくかもしれないんでその名前「FUKUNARY feat. MIKASA」をチェックだ。

 他にもマトリョーシカの絵付けをしている人を見たりして、それから富山から来ていた白エビのかき揚げ丼を食べたりしてから会場を出て渋谷へとまわり「エブリスタ」が主催して開いたウエブ小説の現在を説明するセミナーを見物。「エブリスタ」だけじゃなく「小説家になろう」とそして「カクヨム」という小説投稿サイトの新旧上位がそろい踏みして、そして「WEB小説の現在」を刊行した飯田一史さんも交えて近況を語ったり取り組みを紹介していた。分かったのは似ていてもやっぱり雰囲気が違うことで「なろう」はやっぱり異世界物が多くあってPCからのアクセスが依然として多いこと。「エブリスタ」はジャンルが広くてファンタジーにやや弱く恋愛なんかが結構多い。

 「カクヨム」は出版社のKADOKAWAが運営していることもあって、そこで掲載されたものが出版されてこその収益というモデルになっているらしい。広告だけの「なろう」とは決定的に違う部分。そして「カクヨム」はジャンルをあらかじめいろいろと設定して、そこでコンテストも行ったことで異世界とか競争率が高そうな分野を避けた人とか自分が書きたいジャンルがあると感じた人が応募して、バリエーションを持ったラインアップになって来ているという。どこが正しいって訳じゃなく、自分にマッチし読者がいそうなところで書くのがやっぱり1番で、読者も自分が好きそうな作品があるところに行けば良い。そうやって様々なプラットフォームが並び立ってウエブ小説を偏りのあるものではない賑やかな小説の空間へと高めていく。

 ベストセラーも続々出ているしティーンから20代30代といったミドルエイジまでがウエブ小説を読みそれとは知らずウエブ連載から書籍化されたものを読んでいる時代はもはや不可逆的で、やがてそれが主流になっていくといった見方もできそう。読み手にはもはやウエブだからダメとかレベルが低いといった発想はなく、そして最初に読む本がウエブだという世代の増加でそうした認識はさらに強まっていくんだろう。版元だってそういうユーザーを受けて変わらざるを得ない。ウエブ初の小説を出すことに自然と力を入れていく。ただメディアだけは旧来の版元による旧態の書籍をのみ認め持ち上げ、書評とかしてウエブ小説は書籍化されても避ける傾向にある。文庫やソフトカバーが多いせいもあるけれど、それが読書の主流になっている時代に狭い範囲を持ち上げ互いに権威化してなれ合うような時代がいつまで続くのか。そのこだわりがメディア事態の存亡にも関わってくるんだろうなあ。早く気付けば変われるかも。

 タブロイドの夕刊紙とはいえ日本新聞協会に名を連ねている媒体が、そこに所属する記者ではなくてジャーナリストという肩書きの外部の人間による記事を掲載しているんだけれど、それが参議院議員選挙に立候補している与党の候補者に対して選挙を妨害するような言動があり、また暴力沙汰まであったといったセンセーショナルな内容。あるいは言論と民主主義に対する暴力による攻撃だといった味方すらできる内容なんだけれどどこか落ち着きがないというか、土台がぐらついているというか。

 記事によれば議員とその周辺が言うには駅頭で政策を訴えていたら若い人たちに取り囲まれていろいろ言われプラカードも掲げられ、そして握手に言ったら手を跳ねられたといったもの。批判する相手に無理矢理手なんかさしのべて拒絶されるのは半ば当然で、それを暴力と言って良いのかって問題がまずあるし、仮に暴力的な行為だとしても日常生活の中で起こりえる接触で、傷害事件だとして警察に届け出る類のものかといった疑問も浮かぶ。先に“手”を出した訳だし。難しいのはそうした行為が本当にあったのかどうか、ってところが見えない点で、一方の証言はあってもカウンターを仕掛けた側が具体的にどういった勢力で、そして何を目的にやったのか、そもそも本当にやったのかといった検証gあない。

 それがないと一方が攻撃されたといった内容に過ぎず、そうした攻撃をされた側に同情を集め、攻撃した側とその背後にいるだろうと想像される勢力に対して、批判を浴びせるような偏った内容のプロパガンダに終わってしまう。そして検証がない以上はプロパガンダととらえても仕方がないようなそんな内容を、どちらかといえば被害者側にシンパシーを醸し出しているフリーのジャーナリストが書き、さらにそれを一般紙の看板を掲げて運営されているサイトに載せてしまうのはちょっと拙いような気がする。

 タブロイドならまだ良いってことでもないけれど、少なくとも転載するならそこにしかるべき調査があり、やっぱりやっていたんだという証明があってしかるべき。でもなさそう。可能性としてのプロパガンダに荷担してしまっている。もとより全体がプロパガンダじみているから今更だけれど、可能な限り矜持は見せていかないと、またかといったあきらめと呆れの中にだんだんと信頼を失い、お笑いとして受け止められていくようになりかねない。言葉の重みと価値への想像を、もっと働かせないと先はないんだけれど。そんなものとっくになくなってる? そうかもなあ。やれやれだ。


【7月5日】 なろう系とは限らないけれどもファンタジーばかりになってしまって読んで既視感に塗れないかと不安も浮かんだファミ通文庫だけれど、「B.A.D」シリーズの綾里けいしさんによる「幻獣調査員」は気がついたら異世界にとかいった設定でもなければ、そこで現代の能力がっていったチート物でもなくってしっかりとした土台があってその上に繰り広げられる少女と不思議な仲間たちによる冒険とそして啓発の物語になっていた。少女が連れ立っているのは蝙蝠と兎の頭をした男のような姿をした何者か。そして辿り着いた村で襲ってくる飛竜と向き合う。

 畑を焼いて家々も潰すけれど人は殺めない不思議な竜の襲来に、フェリ・エッヘナとうい名で「幻獣調査員」をしている少女は村人にいったい何をしたのかと問いただす。そして浮かび上がった村人による夜盗を相手に助かりたいがための非道な仕打ち。聞いて少女は憤るものの「幻獣調査員」としてはとりあえず、飛竜を捉えて村人に引き渡すかどうかを逡巡する。けれども連れ立っている兎頭のクーシュナがひとつの行動を取り、そして飛竜は自分の思いをぶちまけに山へと飛んでいく。

 命が惜しい、身内が可愛いという思いは人間の誰にでもあってそれで他人を傷つけてしまうこともある。認めたくはないけれども人間の世界で認めざるを得ない残酷を、けれどもどうにかすり抜けようとしてフェリはあがいてクーシュナは従う。飛竜をあっという間に取り押さえてしまうクーシュナという存在が、専門の「幻獣調査官」ではない少女に付き従っている理由が、挟み込まれる“闇の王”が生まれ引きこもってはある少女とふれ合いながらだんだんと外に興味を抱いていくエピソードと絡めて明らかにされる。その帰結に起こった悲劇の先に訪れた、奇跡が新しい旅をもたらした。

 フェリとクーシュナとそして蝙蝠のトローによる旅はがそれ。バジリスクが生まれると予言された村にいっては飄々と事態を解決し、怯える人間たちの滑稽さを見せる。ひとりの漁師に恋情を抱いているようなマーメイドとの対話では早くに死んでしまう人間と永遠を生きるマーメイドとのすれ違う時間がもたらす寂しさ、ぬくぬくとした安寧にまかれ生きていると人はそこから脱しようとするものの、最後には戻ってきてしまうというある種のノスタルジーを浮かび上がらせる。

 「ダンジョン飯」にも出てきた水に棲む馬、エッヘ・エーシュカも登場しては少年少女を儚げで美しい馬体で誘って水へと引きずり込んで肝臓以外を食らい尽くす。あまりに凶悪なその存在に娘を奪われた男が願う復讐を、変わって成し遂げる犬がどうにも健気で愛おしい。フェリに任せてクーシュナが戦えばあっという間に片付く敵でも、自分の気持ちを治めるにはやっぱり動かざるにはいられなかったんだろうなあ、男も、犬も。それは復讐の連鎖を生みかねないかもしれないけれど、取り上げられた憤りが別に向かうよりは良いのかも。人間って難しい。

 そんな感じにどことなく寓意を含んだ連作という形式は、時雨沢恵一さん「キノの旅」にも似た後生だけど、あそこまでダークでシリアスでもなく、人が持つ優しさのようなものが描かれ読んでいて後味が悪くない。フェリという存在に秘められた謎もなかなかに興味深いところ。もしかしたら今の旅がどこかで潰えた後にも、新たな存在を得て旅はまた続いていくのかも知れない。それに闇の王、クーシュナが慣れていればだけれど。あと全編を通してあまり存在感のないトローが、とても大きな働きを過去にしていたことも分かって嬉しくなった。取るに足らない存在なんていない。そう教わる物語。読んでいっしょいに旅をして、そして学ぼう、幻獣の不思議さと不気味さを。

 もはやお台場のテレビ局にチャンネルを合わせること自体が、人々の習慣から外れていってしまっているのかもしれない。あるいは感性の逆を行くとか。長寿番組であると同時にお台場のテレビ局きっての高視聴率番組であったはずの「サザエさん」が、ここに来て視聴率の低下にあえぎ、ついに9.9%だなんて一ケタ台に落ちてしまったらしい。ちょっと前に7%台とかあっただろうって言われるけれど、それは「笑点」の桂歌丸師匠退任とそして新司会の発表というビッグニュースがあったから。なので実際はまだまだ視聴率を維持しているかと思ったら、案外にジリジリと下がっていたらしい。

 そして裏番組に大きな事件もなく、強力な作品もない中で10%割れという事態に。そこにBSプレミアムで地上波より先に放送されている「真田丸」の影響がどれだけ絡んでいるかは分からないけれど、15分しか重なってないならその後は回復しても良いし、本当に見たければ地上波に「真田丸」を回して「サザエさん」を見るはず。そうはならないところに不穏な影が漂う。そしてそこまでしてあの局にチャンネルを合わせるという習慣が、だんだんと衰退しているのかもしれないって想像が浮かぶ。離れてしまってふっと我に返り、もう戻る必要がないと思ってそれっきり。そんな印象の局になってしまったのかもしれない。これは将来が大変だ、って笑ってられる状態でもないんだけれど。やれやれだ。

 バングラデシュで起こった襲撃事件の被害者を日本政府がメディアに教えないのはケシカランと、全国紙を自称するメディアのそれなりに地位のある人が1面で堂々と意見を述べては、何様だとフルボッコを食らっていた件。もちろん政府が何でも秘密というのはあまり良いことではなく、出せるなら正確な情報としてそれを出した上でメディア側がそれを報じるべきかを判断し、今はちょっと難しいなら止めておくのもひとつの道筋だったんだけれど、そういう良識をメディアに求めるのは犬にお預けを覚えさせるより難しいことだったみたい。

 政府から情報をもらえなかったメディアは、一応は独自取材でもって情報を集めて取材に走った。あるいは政府関係者からブリーフィングでもされた情報があったのかもしれないえkれど、そうやって赴いた先で遺族の感情に馴染まない取材をして外務省からお前らもうちょっと配慮しろよってお達しを受けてしまった。もちろん国やら権力やらが出してくる制約を乗り越えてでも報じるべきことは報じる。それが知る権利を付託されたメディアの存在意義ではあるんだけれど、そういう言葉を隠れ蓑して知る権利という言葉だけを一人歩きさせて、権力ではなく弱者のプライバシーを暴き世間を煽り立てて来たからこそ、偉い人の言葉を誰も支持せず非難を浴びせた。

 そうした非難にメディア側では違うともそうかもしれないとおいった反応は見せていないけれど、内心で違う自分たちに間違いはないと言いたかったかもしれないところが、現実にはやっぱりメディアが暴走しては、故人の身内に迷惑をかけてしまい、政府があらためて慎重な取材を求めた。つまりは政府がとった情報統制が正しかったことをメディアが自ら証明してしまった格好。自分たちで自分たちの首を絞めている。こんな無様をさらして偉い人はそれでも知る権利が大事と言えるのか。言わなきゃいけないとは思うけど、それならまずは態度で示さないと。それとも自分たちは情報を丁寧に扱った、暴れたのは別のメディアだと責任を押しつけるのか。そう言ったところで繰り出していた言葉がまさしく事件とは無関係のプライバシー破りだっただけに、誰も信じないだろう。そしてメディア離れは進んでいく。本当にやれやれだ。

 「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」を見ていて気になった場所があって、クライマックスでの戦闘シーンでイオがフルアーマー・ガンダムを駆ってサイコ・ザクに乗るダリルを追い詰めようとしてるシーンでイオが「このジャズが聞こえた時は…」って喋っているんだけれどそこで流れているのはジャズではなくてポップス。つまりはダリルが大好きだという曲なんだけれどどうしてそんな矛盾が生じたのかが「V−STRAGE」ってバンダイビジュアルのPR誌に乗ってた松尾均衡監督と小形尚弘プロデューサーとの対談で明らかにされていた。音楽はつまりはどちらが優勢か、そのシーンを牛耳っているかを示すものでイオが追い詰めているようで勝つのはダリル。だからポップスだという説明。

 いわゆるシーンを彩る劇伴ではなく、イオを象徴するジャズとダリルのアメリカンポップスを使ってそれがそれぞれの聞いているオーディオ装置から流れてくるといった設定にして、劇中で当てはめていった作品。その流れで言うなら戦闘シーンでも映るモビルスーツとキャラクターが聞いている曲を流すのが筋だけれどそれだとどうにも切り替わりが激しくとっちらかる。じゃあどうするか、ってところでイオが優勢ならジャズでダリルならポップスってことになったらしい。そう思って改めて見返すと、いろいろと発見があるかもしれない。

 ってことで夜に開かれたサンライズのプロデューサーがずらり並んで対談するイベントが付いた上映を新宿ピカデリーで上映を鑑賞。いきなり切り替えるんじゃなく、そこでポップスが流れている必然をダリルの回想から作ってそして覚醒へとむすびつけていた。そういう風に音楽を使うためにコンテを切ったとしたらたぶん、作り続けてきて音楽を映像にどうはめるかという間合いがしっかり取れていたんだろう。他のシーンでもいったん、それが流れる必然を作ってからバトルシーンへと転じてたりしていて、キャラクターが切り替わるたびにジャズとポップスがころころ変わるようなことにはしていなかった。面白い使い方。テーマソングを流せば良いってもんじゃない、ってことを教えてくれる作品。この後似た使い方をする人、出てくるかな。


【7月4日】 「ONEPIECE」の第82巻が出ていてやっとルフィたちがドレスローザのあとに辿り着いたゾウの国を出て、連れて行かれたサンジを迎えにホールケーキアイランドへと向かっていく展開になって、戦いの連続とは違っためまぐるしい展開の中に盛り込まれている様々な情報量に連載を読んでいた時とはまた違っていろいろと気付く。各国首脳たちがコマで並んだページの最後のコマにのぞく葉巻だけなのはいったい誰。って考えた時、過去に葉巻を吸っていた人物が浮かぶけれどそれはクロコダイルだったりスモーカーだったりするからなあ。海軍はさすがに違うとすれば奔走したクロコダイルがどっかの王として復活していたか。

 それはステリー王ってのにも言えそうで、まだ幼かったサボかルフィやエースと一緒に暴れていた時に、家にやってきた子供が確かステリーだった。どこか凡庸そうな顔立ちだったけれどその凡庸さと金持ちならではの傲慢さを備えて大きくなったのかな。顔は見えなかったけれどちょっとは精悍になったのかな。あとサンジを世話しているファイアタンク海賊団の中におかみさんんってのが出てきてそれが前にスリラーバークでルフィたちといっしょに戦っていたローラ海賊団を率いるローラにそっくりだったりする。

 ローラがビッグ・マムの娘らしいとは言われていたけど、そんなビッグ・マムの周辺にいるこの女性もビッグ・マムの娘で、ファイアタンク海賊団の頭目カポネと結ばれ海賊団ごと傘下に入れたってことになるのかな。まあ物語が続いているからそのうち説明もあるだろう。その時まで覚えていられるかどうかあやふやだけど。「週刊少年ジャンプ」関連では「BLEACH」がいよいよ終わりに近づいているみたい。未だ黒崎一護とユーバッハの戦いが続いて周辺では死神とクインシーのバトルが続いているけれど、残り単行本で1巻分で完結となると連載も残り数話ってことになるのかな。「俺たちの戦いはこれからだ」的帰結ものぞいたりするけれど、果たして。

 アメリカで開かれているANIME EXPOの会場から日本のアニメーションに関する情報が続々。新海誠監督の最新作「君の名は。」のワールドプレミアがあったようで3400人が5分以上もの拍手を浴びせて讃えたらしい。っていうか3400人ってコンベンションホールならではの収容人数。日本でこれをやろうとしたら東京国際フォーラムのAホールくらいしか屋内の劇場ではなさそうだし、そこで映画の上映が可能かどうかも分からない。専用劇場だと1000人くらいが最大。その意味で世界の檜舞台であり得ない観客数から喝采を浴びるプレミアをやれたANIME EXPOに持っていったのは正しいのかも。

 そしていよいよ「フリクリ」の続編制作も決定の様子。GAINAXから権利をプロダクションI.Gが引き受けたあたりから何かやるとは思っていたけれど、米カートゥーンネットワークと組んで本格的に制作を始めるみたいで、キャラクターに前と同じ貞本義行さんが関わり、そして音楽も前と一緒のthe pillowsが担当するとあってこれは期待が持てそう。問題は鶴巻和哉監督がスーパーバイザーで総監督が本広克行さんってあたりか。あのエッジが立った世界観とか展開は鶴巻さんあってのものだったからなあ。あとは脚本の榎戸洋司さんか。その辺りの参加具合を見つつ出来を予想してみたい。エンディングもやっぱり本谷有希子さんなんだろうか。相変わらず美人だけれどあの時のベスパ少女の雰囲気、出せるかなあ。

 やれやれ。政府が情報を統制しまくること、それについての違和感と危機感をメディアとして持つべきなのは分かるし、公表を求めていく必要性も理解できる。だから本来は政府は極力情報を公開しつつ、その取り扱いについては釘を刺すなりメディア側の良心に基づいた自制を求めて、結果として統制をしたのと同じような状況になることが望ましい。でもメディアはそれを護らない。出された情報はそれが受けると思えばどれだけでも出す。だから情報を絞って教えなかったにも関わらず、そうしたスタンスに対して全国紙を自称するメディアの偉い人が異論を開陳したものだから、何をいってやがんだと燃え上がった。

 これで政府がもっと重要な外交的密約なり、国民の権利を奪うような企みなどを包み隠して明かさないこと、公開請求でできた文書に異常なまでに黒塗りが多いことへの疑義を普段から唱えたなら理解もされただろう。けれどもそちらにはお国のため政権のためといったスタンスを見せて、黙りを決め込んでいたりする。そしてお涙頂戴のストーリーでアクセスを稼げそうなネタで制限がかかると、もっと出せと訴えるその矛盾した態度が、権力への異論というジャーナリズム的スタンスへの賛同より、パパラッチ的ニュアンスとしての批判を多く招いている。書いた人は本当にここまで炎上するとは思わなかったなろうか。そこがちょっと気になる。

 ただやっぱり、言い分のそこかしこに拙さがのぞくのも炎上した背景にあるのかも。「例えば」といってとある人物を挙げてその人には「婚約者がいた。結婚に向け慎重に行動していたはずだ」って書く。こういう事実かどうか分からない憶測やら先入観を読んでお涙頂戴のストーリーを作られ、犠牲者のプライバシーやら遺族の生活やらを損なわれることが嫌だから、頼んで政府に情報を出させなかったんじゃないのかとすら思えて来る。けれどもそれを管理だと突き上げ、上っ面のストーリーを組み立て遺族の許可があったかどうかも示さないまま報じてみせる。たまらない。

 「『事実』を積み重ねることで、国全体で共有すべき教訓も見つかるのではないか」。そうだけれどそれは匿名の印象論であっても指摘はできる。実名でプライバシーまでほじくり返して並べる必要はない。リアリティがない? それも書き方だろう。取材さえしっかりやってディテールが整っていれば、そこに事実性を感じて教訓を得ることができる。そうじゃないというメディアはつまり取材力も文章力も乏しいことを、自ら認めてしまっているとも言える。墓穴を掘ったなあ。せめてもうちょっとプライバシー侵害へのいたわりと、自分たちのもうけではない知る権利への奉仕といった理由付けでもあれば世間も了解できるんだろうけれど。あるいは逆にゲスでもおまえらが知りたそうだから俺たちが暴いて流してやるぜって開き直りの悪名があれば了解はできなくてもそうですかと理解は及ぶんだけれど。やれやれ。

 「真田丸」。面白い。大名たちが厭戦ムードを吹き飛ばすために物売りに扮して余興を見せたものの豊臣秀吉自身は落ちている士気を強く実感。どこか虚無感すら漂うその気持ちにふっとはいって来た息子秀頼の誕生が、今度は絶対に護らなくてはといった気持ちにつながり豊臣秀次の粛正へと向かうんだろうか。まあ側室いっぱい作って新しい女も得ようとしてとやりたい放題なところがあって、それでいて秀吉にびくびくしている軟弱ものだからその立場にいたって天下は護れなかっただろうなあ。だから粛正もやむなしか。「ドクターX」スペシャル。これも面白い。フィギュアスケーターの難病を大門未知子が手術で治そうとしたら薬をメインにしたい病院長の横やりで手首を骨折。落ち込んで出奔するもイノシシ鍋で回復して一気に挽回。スッと胸が空く。

 そんな高視聴率ドラマを見ているといわゆるアイドルで顔が良いだけの人間を男性も女性もメーンには据えずどちらかといえばゲスト的な役として使うくらいであとは演技ができて存在感がある役者を並べて展開でもって見る人を引きつける。ジャニーズ事務所から岡本健一さんが参加するくらいの「真田丸」は小劇団あたりを出たベテランをわんさか並べて競い合わせてもう楽しい。「ドクターX」もビートたけしさんに西田敏行さんに橋爪功さんに岸部一徳さんといった癖のある役者が並んで競い合う。あと遠藤憲一さんも。そんな役者の存在感を浴びていると顔が良いとか人気だからってだけでドラマを見るのがつまらなくなる。それが主流となっていった今、相変わらずトレンディーな役者を固めて雰囲気で誘おうとしたって無理なんだけれど、そこが変われないんだよなあ、お台場TV。だから今のていたらく。再起の目はあるか。


【7月3日】 もう何10回になるんだろうか10何回に止まっているんだろうか、数えることすら面倒になっているくらいに見ている「ガールズ&パンツァー劇場版」をまたしてもイオンシネマ幕張新都心の9.1chで見てエンディングから醸し出される開放感と幸福感に酔いしれる。何度見たってストーリーが変わる訳ではない作品で、セリフも含めて場面を噛みしめるように見ることになるんだけれどそれでも楽しくて嬉しい。あのラストへと至る必然として確認しながら見ていける。

 それはTVシリーズも同様で、一挙上映もほぼほぼ知ってるストーリーを噛みしめるように見て行けた。だから別に新しい発見って訳じゃないけどやっぱり気になったカール自走砲の持ち込みで、直前まで大洗女子学園が8両だけで30両を所有する大学選抜と殲滅戦をすることになっていたにも関わらず、ああいった相手があるていどまとまって分かりやすい位置に来たときに使える武器を、わずか8両でゲリラ戦してくるかもしれない相手のために用意するのって不思議にやっぱりとらわれる。

 それだけ島田亜里紗が聡明で用心深かったのか、それとも他校の転入を予測なりあらかじめ母親経由で聞かされていて、堂々の勝負にしようと思い用意したのか。分からないけれどもあっさりと増員を受け入れたのもあらかじめ知っていたからって思えないでもない。でもってそれで展開が引き締まった訳だから気にしない。あと乙女のたしなみの戦車道を束ねる団体のトップがおっさんっていうのも不思議。そこはスポーツ団体みたく偉い人の天下りポストで実質は専務理事が仕切っているのかな。いつか誰かに分析して欲しいもの。

 余りに暑いんで家にいたら焼け死ぬと起き出して冷房のきいた電車に飛び乗りひとまず涼しい場所でざっと仕事の体裁を整え、それから銀座へと回って段ボール戦車で知られる大野萌菜美さんによる展覧会を見にチーパズギャラリーへ。前に寺沢武一さんの展覧会もやってた場所で、入るとあったよ戦車がいぱい。ティーガーにティーガー2に4号戦車に3式にマチルダ2にチャーチルまで。それがいずれもしっかりとしたディテールをしていて、「ガールズ&パンツァー」に登場して走っている姿そのものといった感じを醸し出していた。あるいは本物以上に本物っぽいと言う感じか。

 段ボールを切って貼り付けただけでどうしてプラモデル級のディテールを作り出せるのか、っていうのがたぶん大野さんの腕の見せ所で、会場で売られていたティーガー戦車のキットを組み立てると、一応は外観としてそれなりなものを持った戦車ができあがる。でもそれは段ボールを張って組み立てただけ。そこからカッターナイフか何かで切り込みスリットなんかを入れ、パーツを作って貼り付けていくことで本物らしさをもったディテールへとアップする。それをプラモデルの戦車の組み立て図なんかじゃなく、ガルパンのムックに載ってる三面図とか外観図なんかから判断して行っている。それであそこまで似てしまうんだからやっぱり観察力と造形力が凄いんだろう。あるいは空間把握の能力が。

 それはミレニアムファルコン号とかR2−D2といった映画に出てくるメカの造形にも生かされていて、いかにもそれらしく見えるように作られている。これがアートだとざっくりとしたディテールを簡単なパーツを使って作りデフォルメされた中のリアルさって奴を見せて段ボールですっていった言い訳も感じさせる作品になるんだけれど、アートでありながらも模型としての正確さもそこに載せたい意向なのか、そこまで突きつめるのもアートとしての形なのか、そういったラインでどれもこれも作られていて見てすぐに何かが分かる。もちろん模型としての精密さはないけれど、それらしさを極限まで高めようとした思いと、そのためにとられた手法が見えてこれは良い物だと支持したくなる。この路線を突きつめ精緻な段ボールアートに向かうのか。ワークショップを通じたホビーの領域に向かうのか。展開を見守りたい。

 銀座ではスパンアートギャラリーで開催中の山上たつひこさんの画業50周年を記念した展覧会をのぞいて生原稿を見てその精緻な筆致にあらためて漫画家って凄いなと感動。そんな生原稿がセットで売られていたりして欲しくなったものの金はなし。「JUDOしてっ!」の扉絵とかカラーで塗られて本当にきれいで家に飾っておきたくなった。美少年が描かれているし。でも36万円は今は出せない。江口寿史さんに50万円以上は出したことがあるけれど、「ストップ!ひばりくん」の大空ひばりが描かれているカラーイラストだったから出した。それだけの思い入れが山上さんにはちょっとないんだ。これが「超人ロック」なら。ってロックも50周年か。そしてSFを描き続けている訳か。そっちもそっちで凄いかも。

 そして戻って三越前の交差点で行われた安倍晋三総理と参議院議員選候補の朝日健太郎さんによる街頭演説を観察。やっぱり朝日さん大きいや。路上を歩いている時も頭が2つ3つ抜けている。手を挙げると普通の人ではハイタッチしたくても届かない高さ。そこに飛び上がってハイタッチするのもまた楽しいってことなんだろう。そんな演説の場にはやっぱりSPがいっぱい来ていて、中に女性のSPもいて黒スーツにポニーテールの髪型というスタイルが結月あさみさん「恋するSP 武将系男子の守りかた」の表紙絵にもなってる女性SPに雰囲気がそっくりだった。まさに絵に描いたような女性SP。そういうものなんだなあ。

 とある国家の女性大統領が大きな事故の起こった時間に官邸で誰か男性と密会していたんじゃないかといった、セクハラ紛いの言説を出所不明の証券筋の噂として拾ってコラムに書いたら名誉毀損だと訴えられ、刑事裁判にかけられそれは権力が言論を裁くことになって世界的に拙いんじゃないかといった裁判所の冷静な判断が働いて、刑事事件としては無罪になったもののこれが民事だったら虚偽の誹謗として負けていたかもしれない事態を引き起こし、なおかつ自身の裁判であれは根も葉もない誤報だったことを認めてしまっている人物が、今度は一国の元総理が北朝鮮のスパイの工作を受けていたかもしれないってコラムを書いた。

 何しろタイトルが「北朝鮮のスパイが『敵地』日本で接近した元首相、鳩山由紀夫氏の正体とは」だから、相当に踏み込んで北朝鮮のスパイが鳩山元総理の懐に食い込み、いろいろな工作をしてそれが日本の政策なりにとてつもない影響を与えているんじゃないかなんて想像も浮かんだけれど、読むといつになっても具体的な工作の話が出てこないし、それどころか鳩山元総理の話すら出て来ない。日本がスパイ天国だって話がまず語られ、そして北朝鮮のスパイだったらしい人物の話題となって、その人間が鳩山元総理とその息子をターゲットにしているといった話を、これも出所不明の公安筋からようやく引いて見出しの記述に辿り着く。

 ところが、そんなスパイが具体的にどんな工作をしていたのかについてはまるで書かれていない。対象ではあっても具体的なアプローチがなければそれはただの未遂に過ぎない。にも関わらず見出しに名前を挙げ、本文でも仄めかすことによって鳩山元首相がいかにも北朝鮮のスパイによる工作を受けていたかのような印象を醸し出す。さらには「その後、鳩山氏への工作がどうなったのか。康が平成16年4月、死去したため、今となっては確かめようがない」と結んで逃げを打つ。

 だったら鳩山元首相本人に工作があったのか聞けば良いじゃないか。そちらは未だ存命なんだからまずは聞くのが取材の常道って奴。でもやらずに仄めかして終わりって、大統領に取材を試みることなく噂話だけで誹謗して訴えられた一件と構造がまるで同じ。その時もどうして取材しないかったのか、って裁判で言われてた。そして虚偽だと指摘されて認めざるを得なかったにもかかわらず、似たようなことを繰り返す。懲りてないというか、もとよりそういう書き方が得意な人なんだろう。訴えられなきゃ良いけど。民事でやられたら今度は危ないかも。それすらも名誉と喧伝してまた本でも書くのかな。やれやれ。


【7月2日】 残り話数も一気に見て、とりあえず宇宙人たち、割と卑怯かもしれないと思ったりした「クロムクロ」。青馬剣之介時貞と戦って敗れ降参したように見せながらも、捕縛され中に入ったところで人質を取って逃げようとしては見つかり、戦ってまた敗れた果てに白羽由希奈を刺して玉砕しようとする卑劣ぶり。あるいはクロムクロを操縦している人間は等しく戦士であって、なおかつ裏切り者の敵でもあって、直面すれば殺し合うのが彼らの武士道なのかもしれないけれど、生き恥をさらすまいといった行為はやっぱり見ていて苛立つ。そういう瀬戸際の境遇に生きていることを示さないと、単なる美化に終わってしまいかねないんでそこはお願いしたいところ。

 声優さんではやっぱりホセ・カルロス・高須賀役の竹内駿輔さんが巧すぎるというか、それでまだ誕生日が今年来る前の18歳というから驚くばかり。「アイドルマスター シンデレラガールズ」のプロデューサー役とはまた違って、スペイン系だか何かであってなおかつ富山弁しかしゃべれないというあがり症の高校生、なんて難しすぎる上にひねりも乗った役を、年は近いとは良いながらしっかり演じて見せている。もしかして本当に富山出身なのかと思ったらそうでもなさそう。耳が良いのか口が回るのか。いずれにしても注目株。あと最近ボンクラな役が多かった瀬戸亜紗美さん、が荻布美夏って快活そうな女子を演じてて、ややトーンは下げいるけど綾瀬千早っぽい可愛らしさがそこかしこにのぞいてた。まだこんな声が出るんだなあ。だとしたら見たいなアニメーション版「ちはやふる」の第3期。

 ニコニコとして熱い中でも汗を拭くくらいで嫌そうな表情をまるで見せずにステージ上で手を振り、顔を向けて集まった大勢のファンたちに答えている。そして目の前にいる子供たちにもちゃんと笑顔を向けて、クイズ大会では当てられなかった子供たちにごめんごめんと謝ってみせる。まるでヒーロー。生きているヒーロー。自分がかつてウルトラマンダイナだったことを勘定にいれても、人前でそして人が見ていないところでも悪いこととか悪い態度は見せられないって思いが、もしかしたらあるのかもしれないなあ、つるの剛士さん。今回はウルトラマンではなくてトミカのハイパーレスキュー関連で特命隊長に任じられ、越谷レイクタウンにしつらえられたステージに登場。新製品を紹介したり歌を歌ってウルトラマン時代からのファン、そして羞恥心の頃からのファンとそれから今の子供たちの歓声を浴びていた。

 聞いているとどうやら育休明けだそうで、確か5人目とかの子供が生まれたのをきっかけに1カ月ほど仕事を休んでいたそうな。とはいえ家では朝の5時半から夜の11時まで家事のあらゆることをしていたそうで、それって休みじゃないじゃんって言えるけれども家庭にいるたいていは女性の人たちは、そんなことを毎日のように何年もやっている。仕事の時間が終わればあとはフリーな仕事人とは違ったすべての時間が家事にあてられるだろう境遇に身を置いて、理解したことで流行としてのイクメンではなく、真実としての育休の重要さをこれから発進していけそう。自分の経験を広めていきたいとも話していたし、そうやって自分を分厚くしながら年をとっていく。格好いい生き方。真似できないけど。イベントでは新曲も披露していたけれどやっぱり巧くて格好良かった。次はどこで見られるかな。

 しかしそんなつるの剛士さんの奮闘による、家庭の仕事の役割分担の平坦化への理解に冷や水を浴びせるような前の国会議員のコラムが、全国紙を自称する新聞が運営しているサイトに堂々、載ってしまうから叶わないというか、参ったというか。男性は外で仕事をして女性は家で育児をする。それが当然で女性が子供を預けて外に働きに出ることすらまかりならんといった考え方を基本にして、保育園落ちたとブログに書いて世間が湧いて国会も動いた一件に対してそもそも落ちたと叫ぶ人がおかしいといった批判を打つ。財源にも制限が有る中で必要な人から合格をさせていく保育園に落ちたなら、それはもっと必要な人がいたと思えと行った意見はまあ正論。もちろん必要が最小限過ぎて全然足りていない問題、または失政によって下流化が進み保護を必要とする人が以前よりも増えているといった可能性があって、そこを解決しないで漏れた貴女に責任があるといった言い方も拙いけど、そこさえ正されていくなら意見として聞いてやぶさかでない。

 ところがだんだんとおかしな方向へと論旨がズレていく。そもそも保育園に子供を預けるという発想が宜しくなくて、そうした保育園で行われるのは一種の洗脳教育で、それによって国を貶めるような人材が育ってこの国をしっちゃかめっちゃかにしているんだ、ってな言葉になるともう思考回路がショート寸前なんじゃないかと思えて来る。なおかつそうした陰謀を巡らせているのがとっくに消滅したコミンテルンで、それがここ最近復活してきているとすら言いつのっておいおいといった突っ込みを全国から浴びている。さらに進めてこれまでも、夫婦別姓、ジェンダーフリー、LGBT支援−などの考えを広め、日本の一番コアな部分である『家族』を崩壊させようと仕掛けてきました。今回の保育所問題もその一環ではないでしょうか」とまで書いてすべてがコミンテルンの陰謀なんじゃないかと示唆する。

 組織として存在してる日本会議が相手ですら、そこが謀略を巡らしているのだといった論調にそこまでの組織じゃないよって異論が入って来るのに、存在すら疑われているコミンテルンが事実存在するかのようにまずは書き、なおかつそこが謀略を巡らせて夫婦別姓だのLGBT支援だのといった活動を裏から動かしているのではといった、想像力の極北のさらに先を行くような思考を流して読む人を「ムー」の世界へと連れて行く。いや「ムー」は書き手は真面目を装っても、それを受け手が冗句と捉えて読むという一種のブックの上に成り立っている。前の国会議員によるコミンテルンの実在は本気の思考。だから怖いし恐ろしい。それを何の注釈も入れずに真実のものとして載せる媒体も。

 LGBTについては現場の記者たちが一生懸命に頑張って、良い仕事をしていたりして最近も東大で女性装をしている教授を取材しながら、その生き方と生きづらさを浮かび上がらせていた。そうやって筆によって理解を求めながら生きやすさを求めていこうとしている現場の記者活動に、上から冷や水を浴びせるようにして「LGBTへの支援は家庭を崩壊させようとするコミンテルンの陰謀である」といった具合に、ぶっ飛んだ想像を加え根拠のない憶測をまき散らす。何よりLGBTの家庭は「家庭」にあらずといったスタンスを見せて、当事者たちが得ようとしている幸せやぬくもりすら否定する。これには現場も萎えるだろうなあ。それこそ筆を持って立ちあがったって良いくらいだけれど、それをやって浮かばれる場所でもないのが寂しいところ。ただ見ている人は見ているから、自分の仕事に誇りを持って世に問うていけばやがて、見ているところが見ていたよと行ってくれるだろう。負けずに書き続けて欲しいけれども。さてはて。

 隣がアフガニスタンのパキスタンならまだしも、間にインドを置いて遠く離れたバングラデシュで銃撃事件とか起こるなんて滞在していた人もまさか思わなかっただろう。日本人の人が8人くらいで集まっていたカフェで何者かが人質をとって立てこもった事件の煽りで、1人は救出されたものの残り7人が安否不明に。果たして犯人がどういう思想によるものなのかは分かっていないけれど、地域的にイスラムが何らかの形で関わっていると取りざたされやすいこともあるし、世界中のどこにだってISの活動に接触があるとないとに関わらず共鳴を覚え、一旗揚げてやろうと思う人はいる。そんな鬱憤が吹き出た先に居合わせてしまった不幸ということになるんだろう。似たようなことは世界のどこでも起こっているし、これからも起こりえる。そんな時にどうするか。犯人は憎む。でも宗教は憎めない。そんなもやもや感がしばらく漂いそう。とりあえず無事であって欲しいと祈ろう。


【7月1日】 なんかふと見た「クロムクロ」の学園祭の回が面白かったんで、撮り貯めてあった第1話からをざっと見てきてなるほどそういう展開だったのかと理解。もうちょっとピリピリとした戦いが繰り広げれているかと思ったら、現代を舞台に過去から来たお侍さんが姫によく似た女の子とロボットに乗ってはかつて地球を襲い、今またやって来た鬼のような形のロボットに乗った宇宙人相手に戦うといった展開を持ちつつ、昔の人間が現代に馴染む大変さとかネット配信のアクセス絶対と危険地帯に突っ込んでいくガキのうっとうしさなんかが描かれてたりして、現代ならではのドラマが見られた。

 もちろんバトルもあって、敵がいったい何を目的に地球へとやって来てそしてクロムクロはいつから人類側の手に渡って、そして姫はどうしてあんな状況になっているのかって興味を誘う。落としどころが人類殲滅なのか地球の植民地化なのか別の何かなのか。7話あたりからまだ見てないんでそこに描かれているかいないのかも分からないけれど、そうした興味を満足させてくれる事を願いつつ、富山を舞台にして風光明媚な拝啓でもって繰り広げられる、悲惨さとはちょっと離れてはいてもどこかに命の奪い合いなんかものぞいて少女を戸惑わせる物語が繰り広げられていくかを見守ろう。しかし数百年前の人間にいきなりカレーとか喰わせて大丈夫なんだろうか。見た目はともかく辛さを持った食べ物なんてなかっただろうに。

 人工知能は人工羊のジンギスカン鍋を食べるのか。そんなことが北海道で研究されていたらちょっと興味深いけれど、コンテンツ東京2016って展示会で講演した、公立はこだて未来大学副理事長兼システム情報科学部複雑知能学科の松原仁教授のところで研究されているのは、星新一さんの名前が冠されたショートショートのコンテストに応募して入賞すること。条件に人類じゃなくてもオッケーってあってこれを受けて宇宙人の応募も始まっているものの、何光年もかかるため光の速度で届くのがまだ先だから来ていないといった所らしい、そんな間隙を縫って人工知能による応募があって、そして入賞こそしなかったものの一次は突破したことがちょっとした話題になっていた。

 折しも世間は人工知能ブームで、将棋ではとっくにプロ棋士が人工知能のソフトに敗れて、あとはラスボスの羽生善治三冠が果たして叡王戦を勝ち上がって電王戦に登場し、人工知能相手にどんな手を差すかといった所まで来ていて、おそらくはソフトが勝つんんじゃないかといった見通しも出ていたりする。何しろ今はプロ棋士が作り出した新手ではなく、GPS新手なりボナンザ新手といったコンピュータが生み出した新手が評価されてプロ棋士が使うようになっている。羽生三冠と森内九段との対局でも森内九段が、3七銀というコンピュータが繰り出して勝利した手を差して羽生三冠に勝利し、受けて羽生さんはそれを知らなかったんで知っていたら差していなかったと言ったらしい。つまりはコンピュータの差し手を必勝と認めていること。そこまで将棋では強さという意味では将棋が上に行ってしまった。

 でも囲碁ではさすがにプロ棋士を任すことはできないだろうといっていたらこの半年で状況ががらりと変わった。アルファGOの登場でまずはトップ近い棋士が敗れて囲碁ソフトの強さを示し、そして満を持して登場した韓国でもトップのイ・セドルさんが挑んで大敗を喫して、囲碁でも人間をコンピュータが上回ったことが証明されてしまった。中国にまだ1人残っているそうだけれど、たとえ挑んだとしてもその間いアルファGOも成長しているから勝てないんじゃないかと松原さん。直感的に盤面を見て大勢を判断する大局観は人間い特有だと思われていて、囲碁は先の手を計算して最善を選び出すものだったのが、今は囲碁ソフトの方が大局観を持って人間に勝ってしまった。あとは自ら創造性を発揮するようになるか、ってのがAIにおける課題になっているらしい。

 その実証例として松原さんたちが取り組んだのがショートショートの作成。無理と言っては何もできないと言っていた「はやぶさ」プロジェクトの川口淳一郎さんが、それは無理だと松原さんに言ったくらいに困難さが伴う人工知能による小説執筆という課題を、AIが見事にクリアして、そして入賞ではなくても1次突破を果たして人が読んで読めるものが出てきたってことを示した。それは確かに凄いけれど、ストーリーの組み立て事態は人間が考えて指示を与えていて人間8割にコンピュータ2割と言った感じを作った側では抱いている。100%だと胸を張って言えるものではないけれど、いずれ研究が進めば組み立て時代もAIが行い、それを読んで資格十分と思えるものがAI100%で書かれる日が来るのかも。

 そしてAIによって書かれた小説を読むと、今ひとつ人間には分かりづらい。どうして? それは既に人間を数でも立場でも圧倒しているAIのために書かれたものだから。なんてブラックも本当になる時代が来るのかも。そう遠くなく。そんなコンテンツ東京内「AI・人工知能ワールド」の特別講演で松原教授の次に登壇したのがQosmoって会社の代表取締役で工学博士でもある徳井直生さん。ライゾマティクスとか電通が携わったアイルトン・セナの鈴鹿サーキットでの走行をデータから可視化してサウンドと光によって蘇らせるプロジェクトにも関わっていたそうだけれど、今回は「AI・人工知能でコンテンツ制作はどう変わる? 〜人工知能とクリエイターが共存共栄する未来〜」ってタイトルでもって最近関わったAI絡みのプロジェクトなんかを紹介してくれた。

 ここで徳井さんが言う「AI」とは何かとてつもない神秘性を秘めて人間を超越した能力を見せてくれるものっっていうより「賢そうに見える仕組みをもうちょっとで実現できそうな仕組み」といったニュアンスで、人間が考えたことのちょっと先をいくお手伝いをしてくれるものといったことになるのかな、だから自動運転なんかが現実化してセンサーと状況判断が結びついて完璧な運転ができるようになったものは、それは現実であってAIとは言わない、って定義らしい。

 略語もオルタナティブ・インテリジェンスであったりエイリアンズ・インテリジェンスといった感じに人間の模倣とは違う、未知なる物との邂逅を促してくれる存在といったところ。そんな徳井さんが今、取り組んでいるプロジェクトのひとつが、ブライアン・イーノの新作「THE SHIP」に映像を付けるものだけれど、いわゆるPVとは違って「奢りとパラノイアという両極端の感覚の狭間を波のように行き来してきた人間の歴史」というテーマに沿って、AIが現在のニュース写真を元に過去の歴史的な写真から資格的情報を元に回想していく、といった物になっている。

 そこでユニークなのが、人間とは違ったAIならではのフラット性で、たとえば人間が傷ついた画像があるとそれに関連してつり上げられた魚が現れ、黒人が四つん這いにされて何人も並べられている画像から、座れるという連想なのかその形状からなのか、ベンチの画像が選び出されてくる。過去のコンテクストによる判断は人間のものでAIには関係ない。そんな見てたや連想のズレが、逆に見えていなかった本質を見せることがあるのかもしれない。そういった感じのアルゴリズムによって選ばれていく画像はイラクでの戦争の画像が環境破壊を選び津波の被災地を選びといった感じになって夢想が広がっていく。

 コンピュータが見る夢。それが人間の常識や先入観を覆して当たり前の感覚を破壊し見たくなかったものを見せるのかもしれない。これなんかは割とシリアスだけれど、80年代とか90年代のレーザーカラオケが歌詞とは無関係な観光地とかの映像が使われていたことに着想を得て、そうした映像から逆に歌詞を生成して音楽に合わせて無理矢理歌ってみたらどうなんだ、ってプロジェクトも紹介していた。ギターを弾く男性の映像があればそれが愛のメロディーとなり韻を踏んで雨のキャンディーとなる。松原さんのAIによる小説執筆とはまた違ったAIによる歌詞生成の突飛さが、あるいは人間の常識を覆した愉快な楽曲を生み出す時が来るかもしれない。

 さらに別の「2045」ってイベントもあってAIにDJをやらせるといったものだそうで、ミックスとか選曲とか場を読むことをAIがやっては時々にふさわしい音楽をプレーする、って可能性を探っている。その場にいる人のitunesに何が入っているかとかも提供してもらい、動きの様子もセンサーによってキャッチして場の空気を読み来場者の嗜好も読んで繰り出すAIによるDJプレーが、果たして人間を上回るのか。

 そこで真鍋さんはAIの力を最大限に引っ張り出そうとする方向を目指しているけど、徳井さんは人間おDJと対決させて、お互いの切磋琢磨がさらに凄いDJプレーをもたらす可能性を感がえている所に一緒にプロジェクトをやっていても、ちょっとづつ違ったAIへのスタンスが見える。AIが何かを繰り出す。それを受けて人間が返す。さらにAIが戻した相互作用から他らしい物が生まれるといったステップを踏みつつ進めているQosmoのプロジェクトから、次にいったいどんな面白くてためになるAIが生まれてくるのか。ちょっと楽しみになって来た。

 大丈夫、じゃないよなあ。とある全国紙を自称するメディアが1面の看板コラムで「たとえ『架空の伝統』であっても、『傘かしげ』は見た目も美しい。改めて平成のマナーとして、定着してほしいものだ」って言い分で、「江戸しぐさ」に出てくるマナーを奨励していたりする。それが道徳的に効果があることなら認めようってのは、「江戸しぐさ」を推奨する人たちにとってひとつの常套句。でも“平成のマナー”と言い換えたって、源流に虚構がある異常はおいそれと推奨する訳にはいかない。「江戸しぐさ」を教科書とか道徳の教材から削除し、徹底的に滅菌した上で繰り出すならまだしも、そうした耳に心地良い「江戸しぐさ」と紐付けられてしまっている状況では、推奨は「江戸しぐさ」そのものの認知向上にも繋がりかねない。

 虚構の歴史でも心に訴えるならそれは正統だって、隣の国がそう主張して反発しているメディアが同じ事をやってのける。この独善がメディアとしての価値を毀損していることにいい加減気付かないといけないのだけれど。無理かなあ。そういえば最近は、出所の怪しげな元陸将のブログの言葉を真に受けて、ドッグファイトに近い状況が中国軍と航空自衛隊の間で繰り広げられたって話を大々的に飛ばしては、正式な会見で否定されまくってもなお元空将の言葉を引きつつ事実として書いている。なるほどスクランブルはあったかもしれないけれど、チャフだのフレアだのを撒いて離脱したとかって実際にあったらそれこそ一大事、防衛省だって隠さないだろう。でもそういうことがあっらしいとう元空将の話を、そのまま事実であるかのように書いてしまっている。言いたいことのためには細部は無視。それが習い性になっているんだよなあ。大丈夫、じゃないよなあ、やっぱり。


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