縮刷版2016年6月下旬号


【6月30日】 タカラトミーがリリースを予定しているオンラインで楽しめる本格的なトレーディングカードゲームの発表会に来ていたコスプレイヤーさんが、可愛い上に服を作り込む情熱も高くてこれからどんどんと一般メディアにも出て行って、超売れっ子になるのかなあと思ったら別の意味で一般メディアに出てしまって仰天。御伽ねこむさんというそのコスプレイヤーさんを「ああっ女神さまっ」を描いている漫画家の藤島康介さんが嫁に迎えてなおかつ妊娠までいているという話で、会見に出てきた時にはすでにその胸をその胸をその胸をそのお腹にそのお腹にそのお腹にといった思いが浮かんでいろいろと妄想も浮かぶ。どんなコスプレが決め手になったのかなあ。ベルダンディとかもやっていたのかなあ。しかし50歳を過ぎても漫画家さんならコスプレイヤーさんと一緒になれるのか。漫画さんになりたいな。なれないよ。

 「ミッドナイト東海」よりは「星空ワイド今夜もシャララ」から「オールナイトニッポン」で、「どんどん土曜大放送」なんて知らずむしろ「土曜天国」って感じのCBCラジオっ子だったから宮地佑紀生さんのラジオパーソナリティとしての雰囲気を、ほとんど知らないんだけれどそれでも名古屋を中心としたラジオ人としてとどろく名前は、つボイノリオさんとか新間正次さんとか板東英二さんに負けず劣らないくらいのもの。というより今なお現役ってところはつボイノリオさんと並んで凄くって、関東でもこれだけの重鎮はいないだろうとすら言えそう。そんな宮地さんが放送中に共演者を蹴り殴ってラジオ番組が打ち切りに。いったい何があったのか。キレやすい年頃だったのか。心が揺れる年代でもあったのかもしれないなあ。でなければ本番中にキレるなんてことはない。それともずっと見逃されてきた? いずれにしても大きな名前が消えていく。暴食事件を起こしたのだから当然とはいえ、ラジオ界としてはひとつの時代の終焉として、寂寥感も漂うかも。

 コンテンツ東京の特別講演でピクサーからカメラオペレーターって役職のサンドラ・カープマンさんて人が来てカメラのセッティングについて話していたんだけれどもとても専門的で話についていくのが大変だったけれどそれでも何となく分かったのはピクサーがフル3DCGのアニメーションを作っている上でカメラの位置とかレンズの種類とか動かし方とか画面の見え方のとてつもなく注意を払って人材も投入しているってこと。日本だったら演出の人がそうした見え方を設計した上で3Dのアニメーターが作っていくことになるんだろうけれど、ピクサーではとりあえずできあがったレンダリング前の3Dのモデルが動いている様子をチェックしてそこでカメラを細部までチェックして見え方に違和感がないかを調べて直しを出すらしい。

 サンドラさんが言っていたのは見せたいキャラクターより先にカメラが動いてはいけないといったことでキャラクターが動いてカメラが追いかけていくようにしないと、カメラが先に動いてそれにキャラクターが追従するような形にするとどうにも観客は見るのに困ってしまうらしい。キャラクターが右に動いていたものがカメラが切り替わると左に動いていたりするようなカメラワークへの指摘は当然として、キャラクターより先に動かすなというのはつまりピクサーが映画を観ている人たちの視線をキャラクターという見せたいものに集中させ、その動きをちゃんと追えるようにしなければと考えているってことか。

 CGモデリングしているんだから引きだって回り込みだって自由自在でそれこそ歩いているスターをパパラッチのカメラが追い回し待ち受けるようなカメラワークだって簡単に作り出せるけど、それをやってしまってはキャラクターを追ってストーリーを愉しむ映画としては拙い、ってことなのかも。「映画はクイズであってはならない。観客が集中していることが出来るようにする」。観客ありきというスタンスから組み立てられているからこそ、見ていてストレスを感じることはないんだろう。急に早くするようなカメラワークも御法度でスムースに動かすことが重要ってことで。

 あと見せたいものがあるときはちゃんとそれを見せるような動きの操作も入れておく。そうすることによって見ている側は落ちているプライアなりかかっている看板にも、パッと意識を向けつつそれでいてスムーズに進んでいくストーリーを頭に入れておけるのだ。引きや寄りも効果的に使うことが大切で、ほんのちょっとの寄り、それこそ気にならないくらいの微細な動きでもそこに人は写っているキャラクターへの感情を喚起されつつ次のシーンへと移っていける。見てもほんとうに分からないくらいのちょっとした寄り。それが人間の繊細な心理を動かす。そのことを感じ取り指摘して直していった積み重ねが、どこを取っても完璧にコントロールされた影像になるんだなあとピクサーやディズニーの作品を見て思うのだった。

 被写界深度もちゃんと考えておくことが肝要で、手前をくっきりとさせ奥をぼかしすぎたら見せたいものが見えなくなった。そのあたりをちゃんと直して奥も見えるようにいじる。その場面で繰り広げられているストーリーに必要な絵とは何なのか、それはどんなカメラによって表現できるのか、ってことを常に考え実行していかないと務まりそうもない仕事。というか日本でそうした作業がどこまで行われているのか、ってことだけれど奥までくっきりと描かれた3DCGとかなかった訳じゃないから以前は、手探りだったんだろう。それが今では変わってきていると信じたいし、そこまでやるかとサンドラさんの話を聞いて帰っていろいろ試してみているのかもしれない。

 ただやっぱり微細過ぎたのと、違いを対比して映すようなことがなかったこともあって、どこがどう違いそれがどういう効果を呼んだり、見ている人の気持ちに違和感を覚えさせないでいるのかが完璧には分からなかった。理解にも間違いがあるかもしれないんでこうした講演を広げたようなピクサーのカメラワークってものを、検討前と検討後の影像なんかも並べつつ効能を説明してくれているような本なり映像教材なりがあったら勉強になるなあ。それが無理なら個人個人がピクサーやディズニーのフル3DCGアニメーション映画を観て、どうしてここまで完璧なんだろうとそのカメラ位置やフォーカス、動き、寄りや引きの使われ方なんかを考えてみるのが良いのかも。心地よい場所には秘密がある。それを体感でまねられるアニメーターが日本にいたら、これからのCG映画にも期待が持てるんだけれど。

 コンテンツ東京では昨日は見られなかった先端技術コンテンツ展のコーナーを行ったり来たり。車をぼこぼこにする爽快感が楽しかった作品をデジタルコンテンツエキスポなんかに出していたデイジーが、これも去年のデジタルコンテンツエキスポに出していたLazy Armsってのを出していて人が動くと前にぶら下がった長いもみたいなのがぐのぐにょとうごいて色も変わるインタラクティブ性に、アートとしての可能性なんかを感じてみたり。人の動きをアームの動きや色や音に変えることで生まれる身体性の拡張と変換。それをうまく文脈に乗せればパフォーマンスの広がりを見せられるかもしれない。デイジーでは取り込んだ顔が小さいキャラの顔に張り付きそんなキャラがいっぱい箱庭みたいな世界を歩き回る作品も面白そうだった。箱庭世界を愛でるアートとして広がっていくのかな。

 あと「みならいディーバ」ってリアルタイムに人の動きを読み取ってキャラクターに反映させ、それでアニメーションを作ってしまう作品の正統な後継者ともいえる作品がいよいよ登場する模様で、そんな人の動きをキャラに反映させる「きぐるみライブアニメーター・KiLA」ってシステムのデモンストレーションが行われていた。追随性も良くてしっかりと動くところがちょっと新しくなっていたかな。鳴り物入りで登場しては何の成果も残せなかったNOTTVにあって唯一、誰もがその終焉を惜しみNOTTVの価値は「みならいディーバ」を送り出したことだと言われていただけに、そのスピリッツを受け継ぐ「魔法少女?なりあ☆がーるず」の登場は喜ばしい限り。放送も近く始まるみたいで、予定調和にならないその展開をしっかりと見守りつつ、次にどういう可能性があるかを考えよう。男性キャラ版とか欲しいよね。


【6月29日】 とある新人作家の作品を募るコンテストで「異世界転生物」と「異世界転移物」が禁則事項になっていたことがちょっとした話題に。運営元がそうした「異世界転生物」と「異世界転移物」をわんさか生み出した総本山的な小説投稿サイトで、そこでの人気競争を勝ち抜いて編集者に目をかけられるために、誰もが競い合うように人気作品の後追いを続けていたらいつしか「異世界転生物」と「異世界転移物」ばかりとなって、それがまたアクセスを稼いで周囲もそれになびいていくというスパイラルが起こった結果、「異世界転生物」か「異世界転移物」でなければ作品にあらずといった空気すら生まれてしまった。

 必然的にそうしたサイトの人気を見て、刊行へと持っていく出版社から出る本も「異世界転生物」とか「異世界転移物」といったジャンルの作品がいっぱい。店頭の平台に並ぶ本を持ち上げあらすじを見ると、「転生」「転移」といった文字が目に入ってどれがどうれだか分からなくなる。そんな状況を生み出す母体となっているサイトもこれはちょっとヤバいと思ったか、似たようなのばかりの中で全体が地盤沈下していく可能性を鑑みたかそうした作品をちょっと抑えて、他の可能性をもっとみんなで探ろうよ、ってことになった感じ。

 SFでもアクションでも異能バトルでもハーレムでもスポーツでも、定番といったジャンルは他にもあってそうした作品が増えてもそれはそれで二番煎じの横行が心配されるけど、あらすじをみて「ああ転生」「また転移」といった思いを浮かべてそっと戻すようなことは、僕に限っていうならなくなるんじゃないのかな。やっぱりどれもこれも同じジャンルって、中身が例え大きく違っていてもやっぱり手を伸ばしづらいから。「異世界落語」くらいに突飛でなおかつ読めばじっくりと落語について学べるくらいの奥深さと面白さがあれば別だけど。

 問題は今、動いている版元がそうした流れを受けて舵を切れるかかってところか。ファミ通文庫なんて6月の新刊が全部異世界ものだもおなあ、SFとかアクションとか青春とかまるでなし。そういうのも出ていたレーベルがこうもファンタジーで異世界に染まってしまうくらいに、編集の現場っていろいろ大変なのかもしれない。その辺り、しっかりと見越している感じがするのがKADOKAWAのノベルゼロ。SFもあれば法廷物のミステリもあり伝奇もあってアクションもあって、そして異世界だってちゃんとあるけど転生というより戦記物。そんなちょっぴり古いけど今となっては新鮮なジャンルが出てくるから、どれも読んでみたくなるんだよなあ。仕掛けた人は分かってる、オヤジ心を、ってそれ分かったら商売ちょっと大変かも。どうなんだろう実際。

 本当かなあ、とか思いながら聞いたネットフリックスのバイスプレジデント兼ジェネラルカウンセルという役職にいるジョセフィン・チョイさんの講演inコンテンツ東京2016。いわずとしれたネット映像配信サービスの旗頭で、2015年の夏だかに日本に参入してくるや次々とオリジナルのコンテンツを制作したり、日本でも有数のアニメーション作品を世界に持っていったりして存在感をじわじわと高めつつある。そりゃあアニメだとバンダイチャンネルがあるしAmazonプライムにも結構な話数がそろっているし、AbemaTVは番組編成がユニークでちょっとした旧作は最近の作品なかを楽しめる。ネットフリックスとアニメについては五分五分の戦いを演じていると言えるだろう。

 ただ、ネットフリックスはそうした映像配信サービスの中でトータルでの存在感がとても強い。とりわけドラマ関係ではオリジナル作品とか有力作品がそろっていて、それが映画にも勝る魅力を放ってつい見たいと思わせる。好例がピース又吉さんによる芥川賞受賞作品「火花」のドラマで、単発のドラマではもちろんなく30分枠の連続ドラマともまた違った、1本1本が映画のようなクオリティで作られていてそれが10本という長さでもって分厚く物語が描かれていく。2時間なりのコンパクトな映画にだってまとめられそうな作品だし、もし映画化だったらそうなっていただろう。でもネットフリックスは連続ドラマにした。それも4Kクオリティの。

 映画として公開したいとか、テレビドラマとして放送したいといったプラットフォームの思惑が、時間を決めフォーマットを決めてしまっていたのが過去の番組制作。けれどもネットフリックスはインターネットを介していつでもどこでも見られるという状況を作って、そうした制約をとっぱらってしまった。クリエイターが時間とかマーケティングとかに縛られず、本当に作りたい物を作ろうとする。それをネットフリックスは支援する。そうやって生まれたものが世界中に配信されることによって、誰か見たい人のところに届いて話題になり、それを受けて人気が広がっていくという好循環が、今のネットフリックスの躍進を支えている、ってことなのかもしれない。

 だからネットフリックスが見るのはほんとうに素晴らしい脚本かどうか、ってあたりであとはクリエイターにそれを作り上げるだけの信念があるかどうか、ってことらしいけどそんなに好条件で誰も彼もが作っていって、採算に乗る作品を提供し続けられるのか、ってあたりが冒頭に掲げた本当かなあといった思い。いくら世界が市場だからといって数万人しか観てくれなかったらやっぱり採算はとれないだろうし、クリエイターの思いばかりを受けていたら誰も理解できないような作品だって出てくるかもしれない。作品数が増えてくればやっぱり埋もれてしまう物だって出てくるだろう。そういう懸念を理想で払っていけるのか、ってあたりが注目のポイントかもしれない。

 ただ目先では「マルコ・ポーロ」とか元朝の中国を舞台にした内容で日本人でも面白そう。子供が行方不明になる事件の裏に何か潜んでいそうなドラマもあった。そんな作品が最先端のクオリティで登場してくる環境を、それも世界中で同時に見られるような環境を作ったことがひとつ、勝利を掴む上で大きな要素なのかもしれない。いずれこれに乗らなければ世界中に届かなくなるのか、それとも他のプラットフォームが台頭してきてそちらに乗るのが良いのか。いずれにしても日本が世界に向けて発信していくときにはどれかに頼ることになるんだろうなあ。そこは残念だけれど、その分をコンテンツ作りにかければあるいは、日本でチマチマ稼ぐんじゃない、世界でドカンと稼いでいける作品も出来てそうした資金がクオリティも押し上げていくのかも。黒船到来は日本のコンテンツ産業に、アニメ産業に何をもたらす。これからの1年、ちょっと観察していこう。

 昨日のライブは見られなかったけれどもビョークが手がけたVRコンテンツが見られる体験会があったんで東京ビッグサイトを出て日本科学未来館へ。実験的で先鋭的で心身に突き刺さるような音楽を手がける人、ってくらいしか印象がないんだけれどもそれだけにVRでどんなことをやってくれているのか、興味があってのぞいたいという次第。そして作品は1つはスマートフォンのVRヘッドマウントディスプレイを使ってビョークが海岸で歌っているのを見るコンテンツ。途中で2人になったり3人に増えたりして左右に現れるんで回転する椅子に座って身体ごと回して追いかけていける。

 ぐっと迫ってくるとビョークの胸が顔にあたりそうになる。突き出せばその胸に埋められるかも、って思ったところでそこは虚空。VRならではの間近さが、今までにない音楽体験、1対1に近い音楽体験をくれる。ビョークの口の中から外へと出たりして歌声を聞くコンテンツはなかなにグロテスク。歌い手の身体性を自分に重ね合わせられるという意味で、究極の1対1でありパーソナルな体験だとも言えそう。リアルなライブでは不可能だけれどVRなら出来る。

 これを経験していくうちに気分は本当にアーティストになっている、って人も出てくるかもしれない。そしてVRヘッドマウントディスプレイを外した時にふと我に返るのか、それとも引きずったままになるのか。そこがVR時代の到来とともに問題になっていくんだろう。もう1つはHTCのVRヘッドマウントディスプレイ「Vive」が使われていて立ち位置なんかから見える景色も音楽が聞こえてくる方向も変わる。ちょっと凝っててユニーク。なおかつ映像で女性がどんどんと巨大になって見上げるようになるのが面白かった。「境界線上のホライゾン」で身長3メートルの島・左近を加藤・清正が見て「パンツ」と思った理由も分かった。それしか見えないもん。相手にするとなると……勝てる気がしない。びょークファンでホライゾンのファンは行くと良いかも。


【6月28日】 クイズ番組の収録に参加して、人相鑑定みたいなことを競い合う内容でそれでちゃんと最後まで残っていたにもかかわらず、番組を見たら途中で脱落したことにされて、画面からも姿がただひとり消されてしまって人相鑑定みたいな課題で1番ヘボだと思われかねない状況を突きつけられて、それで起こらない人相鑑定を生業にしている人はいないだろう。明らかに営業妨害だし、人間性に対する誹謗ですらある。それなのに、そうした細工をしたテレビ局は単なる演出であって、捏造ではないと言って罪を認めようとせず、態度を改めようとしない。

 演出はもちろんあっては悪いものではないけれど、それは了解の上で本筋を変えない範囲で行われること。途中を変えて存在した人間を消したものは演出とは言わず捏造としか言い様がないにも関わらず、それを認めない上にそれで逃げ切れると思っているところが不思議というか、頭がどうかしてるんじゃないかとしか思えない。そんなポン酢っぷりが日本のテレビへの信頼を削り、結果として真剣から醸し出される面白さも削って衰退を招いているんだろう。これは収まる話ではなく、消された人から提訴され、大問題化されていくこと必定。そういう予測すら立てられない赤坂のテレビ局に絶望を覚える。せっかくお台場を抜いたにもかかわらずここで躓き湿気っていくんだろうか。夜のニュースも仏頂面のおっさんを出して視聴率下げて、テコ入れに懐かしい元人気女子アナを引っ張りだそうとしているくらいだしなあ。やれやれ。

 凄まじい本が出ていたのでこれはもしかしたらJリーグから発禁処分を受けるかもしれないと思い慌てて確保する。ドラガン・ストイコビッチの人生を描いた「悪者伝説」に始まり、イビチャ・オシムの足跡を追った「オシムの言葉」や、世界と日本で活躍する様々なサッカー関係者に取材した「蹴る群れ」といったノンフィクションで、上から目線ではない市井の視線からサッカーに関わる諸々を書き綴ってきた木村元彦さんによる最新作「徳は弧ならず 日本サッカーの育将 今西和男」(集英社)。

 サッカーの元日本代表であり、サンフレッチェ広島を東洋工業の時代から作り上げてきた今西和男さんについて書かれた本だけれど、その後半生、FC岐阜に関わる部分でJリーグという組織が持っている、あるいは持っていた官僚的で居丈高な言動を取り上げ告発している。それは「Jリーグによるクラブへの人事介入」。具体的にはFC岐阜の運営会社で社長を務めていた今西さんと、GMだった服部順一さんを引きずり下ろしたことで、理由は運営が巧くいっていない上にその改善に「消極的」だったとライセンス発行を担当するJリーグの部署が判断したから。それで運営元の岐阜県に働きかけて知事を動かし解任に持っていった。

 本当に経営がヤバくて、そして今西さんや服部さんにチームとしての体制整備とはまた違ったスキルが求められる経営といったスキルが足りていなかったのなら分かるけれど、どうやら徐々に改善は進んでいたらしい。今西さんが来る前のチーム設立の経緯から、大垣市にある西濃運輸を蔑ろにして西濃財界からの協力が得られにくいようになっていて、そしてチーム事態のガバナンスも酷くて、選手はダラけファンサービスをまるでせず、地域にいっても貢献へのスタンスをカケラも見せない不遜な態度を見せていたことから、チームは瀬戸際へと追い込まれていた。それを今西さんが解きほぐし、服部さんも走り回って地域の理解も得て、そして最大の懸案だった西濃運輸との関係改善も果たして田口義嘉壽会長と話が出来るまでになった。

 間に入ったのは、今西さんが大学時代に同じ研究室で学んだ後輩で、岐阜県の体育協会にいた人物だからモロに今西さんの人徳と人脈が結びつけた縁。そして服部さんが言葉を尽くし礼を尽くして田口さんに窮状を語りビジョンを語ったからこその理解。それが実を結ぶかもしれないと思われた時期に、Jリーグは、なぜか執拗に今西さんと服部さんの解任を勧めていった。いったい何があったのか。今西さんの人脈としてJリーグなり日本サッカー協会の誰かに怨みを買っている、といったことはなさそう。だからもっと機械的で独善的に、Jリーグのライセンス発行という権限を握った部署の誰かが、その存在感を示して権威を誇示しようと蠢いた結果で、その生け贄に今西さんと服部さんが挙げられた。そんな印象が漂う。

 非道なのは、そうやって今西さん服部さんの解任をプッシュしたJリーグの事務局にいる人間が、即座に今西さんのパスを取り上げスタジアムの選手たち関係者たちがいる場所に入れなくしたこと。チームのために貢献して体裁を整え人脈も作り大勢から尊敬もされた人物だけに、解任されてもしばらくは引き継ぎのために止まらせておくのが普通のやり方。それなのにJリーグでは「社長、GMのAD証回収」を「必ず実施してください。必ずです!!忘れてはいけません!!」とメールに書いてバラまいた。人情のカケラもないどころか、チームのアイデンティティを踏みにじる行為を、本来ならチームの発展を支えるべき立場の人間がやってのける。なおかつそうした行為の責任を部下に押しつけ自身は認めず、逃れたまま他の団体へと横滑りして地位を保つ人間もいたりする。人として許されるものではない。

 そんな仕打ちを食らいながらも、今までいっさいの愚痴も非難も今西さんは口にしていないというから芯が強いというか、男気があるというか。だからこそ過去、東洋工業時代から名前を変えたマツダ時代、プロ化したサンフレッチェ広島時代、そしてFC岐阜の時代も含めて大勢の若い選手たちと出逢い、育て導いて送り出し、たとえクビにしても恨まれずに慕われ続けているんだろう。そんなエピソードも満載。グッときたのは桐山周也くんというU−13に所属していた少年が、遠征先で海水浴に言って亡くなってしまったという、それこそチームの存続に関わる事件があっても今西さんとそして服部さんは誠心誠意、礼を尽くして良心に謝り続けたこと。その心根は今も続いて13番は全カテゴリーで永久欠番となり、命日には追討の行事も組まれそれに良心が怨みや憤りも示さず参加しているという。

 憎悪の連鎖は何も生まない。木村元彦さんが旧ユーゴスラヴィアでの取材を通じて感じ、オシムとの対話からも感じただろう真理がそこでは実践されている。その根っこにいる今西和男さんという人物がいたということを、この本が改めて教えてくれる。そんな本を木村さんが書くことになったきかっけが、訪ねてきた電通のスポーツ局にいた部長さんによる口説き落としだったとうことが面白い。電通といえばどちらかといえば体制側で、サッカー協会なりと結託して官僚めいた組織運営をしていそうな雰囲気だけれど、その部長さんは岐阜県人として、FC岐阜で今西さん服部さんに対して行われたことが許せないといった義憤から、木村さんに今西さんのことを書いてと頼んだ。

 結果、こういう本ができあがってそして、電通がJリーグのマーケティングパートナーになってしまった今、部長さんの立場はどうなるんだろうと思うけれど、2020年の東京五輪に向けて重要な仕事をしているみたいだから、Jリーグがどうこうできるものでもないだろう。むしろJリーグをどうこうして欲しいもの。そんな礎にこの本がなっていくか。なっていくべきだけれど。それのしてもこれだけの功績を残しながらも今西和男さんが、日本サッカー協会の要職に就かずむしろ虐げられているところに、実力や人望とは違ったベクトルが組織というものにはあるんだと思い知らされる。そうしたギャップを無くすことこそが今、ちょっとずつ下がり気味の日本のサッカーを盛り上げるために必要なんだけれど。変わるか。変えられるか。変えてくれるか。見ていきたい。

 1970年代の後半という一時期を、たぶん一生懸命に読んでいた漫画雑誌は「週刊少年チャンピオン」で、「ブラック・ジャック」を筆頭にして「花のよたろう」やら「750ライダー」やら「マーズ」やら「魔太郎がくる」やら「ブラック商会変奇郎」やら「ローティーンブルース」やら「夕陽が丘の総理大臣」やら「るんるんカンパニー」やら「百億の昼と千億の夜」といった作品なんかを従兄弟が買っていた週刊誌を読ませてもらって愉しんでいた。近隣の本屋なんてまだなく立ち読みも出来なかったから、漫画雑誌は誰かが買っているものか床屋に置いてあるものを読んでいた。

 あとは町内会で行われていた廃品回収で集められたものが中心。1976年とか77年あたりの「週刊少年ジャンプ」はそうやって集まった束から抜いて読んでいたっけ。ちょうと「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が始まった頃だった。「週刊少年チャンピオン」に浸っていたのはそれよりちょっと前、「がきデカ」が始まって一世を風靡した頃で、そのあふれかえるようなギャグの束に小学生高学年だった頭は完全にヤられたことを何となしに記憶している。以後、「マカロニほうれん荘」で鴨川つばめさんが出てきて「すすめ!!パイレーツ」で江口寿史さんが出てきてギャグ漫画が少年漫画のメーンストリームを突っ走るようになった、その中心に「ガキでか」はあったと思える。

 けれども一方で、「がきデカ」以降の山上たつひこさんの足跡といったものをあまり追っていないのは、中学生になってSFに興味が向いたりラブコメが隆盛を誇ったりしてギャグ漫画への関心が薄れたから、なのかもしれない。その後も「週刊少年チャンピオン」は読んでいても読むのは「すくらっぷブック」だったり、ギャグでもパロディがメインとなった「るんるんカンパニー」だったり。そして「週刊少年サンデー」へと興味がうつって「うる星やつら」や「タッチ」といった作品に流れていく。以後は少女漫画に青年漫画とめまぐるしく覇権も移り変わって現在へと至る。

 そんな漫画少年時代を思い出させてくれた「文藝別冊 総特集 山上たつひこ」には、幻と化して幾年月の鴨川つばめさんが言葉を寄せ、とり・みきさんが出逢いを振り返る漫画を寄せ、あの萩尾望都さんまで「こまわり君」を描いて山止たつひこさん、すなわち「こち亀」の秋本治さんについて触れつつ「こまわり君」の凄さを讃える漫画を寄せていたりして、改めて山上たつひこさんという漫画化のすごみが浮かんで来る。圧巻が高橋留美子さんによる高校時代の思い出漫画。昂揚がふっと冷めると陥る気分が良く出ていた。そこに出てきたそれらは今、どこにあるのだろう。オークションに出れば高値が付きそうだなあ。


【6月27日】 櫻井翔さんのお父さんで前の総務省事務次官だった櫻井俊さんが出れば当選確実とも言われていた東京都知事選挙だけれど、当人に出馬の意向はなさそうで自由民主党的に誰を推すべきかって辺りで三々五々の四分五裂した議論が行われているようだけれど、そこに飛び込んできたのが石原慎太郎さんが都知事をやっていた時代に副知事として活動していた竹花豊さんが出馬するとかしないとかいったニュース。副知事時代には青少年健全育成条例だっけ、そんな感じで表現規制を推し進めて出版業界なんかを戦々恐々とさせた人だったりする。

 あからおもしも都知事に就いたら今度こそ本格的に表現規制を進めて東京都から出版社が裸足で逃げ出す事態も起こるんじゃないか、なんて話も今後出てくることになるかもしれない。ただ一方で、東京ビッグサイトの社長に就任をしてそれでコミックマーケットが厳しい制限を受けたかというとむしろ逆で、クールジャパンの顔として持ち上げられもてはやされる傾向が強まる中でコミケ開催に向けていろいろと手を尽くしていた感じ。東京オリンピックに向けた改装なんかも進められるだろう中でコミケなり他の展示会との共存光栄を模索していた節がある。

 というか施設の社長なんだから国がどうとか言うより先に施設として最大限の利益を追求する義務がある。そうした立場にあって行うべきはコミケとの対立ではなく協調で、だから問題も起きず無理もなかった。おそらくは。それも今の立場だからであって、これが東京都知事という立場になった時に今度は別のプレッシャーを受けて表現に対する規制へと向かいかねないのは、当人の主義主張というよりはよって立つ基盤の違いによるものか。東京都に出向した時は警察庁の先触れとして警察の代弁者的に振る舞わざるを得ず表現規制へと向かったし、副知事時代もそれが引き継がれた。

 そしていよいよ都知事という立場になって、果たして警察の下で言うことを聞くのか、逆に警視庁より上に立って自分の思いを実現へと向かわせるのか。問題はそうした“自分”っていうものが見えないことなんだよなあ、それが官僚という組織の中で立場に従い前例を踏襲しながら動く人種の特徴でもあるんだけれど。果たしてどう転ぶのか。そもそも出馬はあるのか。いったい誰が出てくるのか。そんな関心を引きつつ待たれる告示。いつだっけ。

 どっちから読んで良いのか分からなかったけれど、通し番号順でJA1233の「僕が愛したすべての君へ」から読み続いてJA1234「君を愛したひとりの僕へ」を読むのが良いのかもとそうした乙野四方字さんの新刊2冊。ずっと滞りなく一直線に続いているように思われがちな人生という奴だけれど、実は平行世界が存在していて誰もがちょっとづつそうした世界線をズレながら人生を送っていたことが判明する。そんな現象の渦中にあった少年が、少女“たち”と出会う物語。それがこの2冊に共通して言えることかもしれない。

 主人公は高崎暦という男子で、まず「僕が愛したすべての君へ」の中で瀧川和音という少女と出会う。最初はクラスメートとして接し、まるで接点がなかったものが相手の身の上に起こったことを解き明かすといった口実で、徐々に関係を深めていく中で問題が発声する。いつしかつきあうように暦と和音だけれど、目の前にいる和音が昨日自分が告白した和音ではなく、ズレて別の世界から来た和音だったとしても自分は彼女を好きでいられるのか。その間にはパンを食べるかご飯を食べるかの違いしかない平行世界だけれど、それでも人は同じと言えるのか。気にしなければ済みそうで、気にするととてつもなく深く刺さってくる。

 平行世界が存在するなんて知らなければ起こらなかった問題だけれど、僕たちは知ってしまった。それを認識するようになってしまった。だからこそ起こる懊悩が高崎暦を捉え逡巡させた果てに、まさしく「僕が愛したすべての君へ」といったタイトルにふさわしい解決の道が示される。さらにもうひとつ、大きく離てズレも大きくなる平行世界で起こった事態が暦を迷わせる。それは我が事なのか無関係なのか。例えどこかで自分が、あるいは最愛の誰かが悲劇に見舞われていても、それに同情するべきなのか違うのか。平行世界が存在する世界だからこそ起こりえる種々の問題を噛みしめつつ、自分ならどうしたのかを考えよう。

 そんな展開から平行世界の存在を知り、遠く離れれば何が起こるかも知った上で読むことになる「君を愛したひとりの僕へ」は、どちらかといえばハッピーな展開に彩られていた「僕が愛したすべての君へ」とは正反対にちょっぴり暗鬱とした展開が繰り広げられる。そこで同じ高崎暦が歩む人生は「僕が愛したすべての君へ」とはまるで違っている。まず和音は出てこない。違う少女が出てきてそして、彼女に絡んで暦が背負うことになった後悔を晴らすために、すべてをかけて挑む様子が綴られる。そこにあるのは平行世界という存在を移動するだけでなく、過去に戻って後悔の根を断とうとするための方策を探る展開。科学的設定によって時空を超える可能性が示される所がSFとしての味になっている。

 興味深いのは、暦が全人生をかけて取り組んだことが果たして有効なのか否かといったこと。ひとりを愛しようとした高崎暦の人生につきあわせた誰かもまた幸せだったのか。狂気と紙一重の執着が無駄に終わらなかった可能性にホッとする。そして読み終えて見えてくる、2つの物語の重なり。交差点に言った老人の暦を待っていたのは。その彼に起こったことは。読む順が逆ならそれを分かった上で起こる出来事を追体験することになる訳で、それで得られる感動はどうなんだろうかとちょっと思った。同じようなタイトルの2冊がセットになった作品なら入間人間さんの「『昨日は彼女も恋してた」と「明日も彼女は恋をする」があってこれもパラドックスの問題に挑むSFだけれど、順不同なところはタイプがちょっと違うかな。並べ読んでみるとライトノベル作家の語り口と物語力の凄さが分かって良いかも。

 強いなあドイツ。EURO016でスロヴァキアを相手に決勝トーナメントの1回戦を戦って3対0で撃破してベスト8へ。シュバインシュタイガーとかポドルスキーといったかつて知ったる名前の選手を出さずとも、エジル選手にボアテング選手にマリオ・ゴメス選手トニ・クロース選手とそして2010年のワールドカップ南アフリカ大会得点王のトーマス・ミュラー選手といったあたりを並べゴールをポジション自在のノイアー選手が守って完璧な得点と完璧な守備を誇って見せた。相手がゴール前を固めてもちゃんと崩して得点する。動き出しが良く誰もが走ってボールを受け取ろうとするその連動を見ているとサッカーって本当に頭のスポーツなんだって思えて来る。出して走って受けて出して。そんな試合が多い日本とは大違い。それが通用してしまう場所から出ないと未来、ないような気がするんだけれど果たして。

 終わった「ハイスクール・フリート」はクライマックスに武蔵戦を持ってきてドンパチの楽しみを味わわせてくれたから良かったと言えば良かったけれど、通じてみればあの得体の知れない病原体はどこから生まれて誰がはびこらせたのかといった辺りがちょっと分からず、世界的な謀略といったものに発展する可能性を見せつつ見せないまま終わってやや消化不良。日本近郊で生まれたのだとしてもその過程が不明だし、世界のどこかに伝播していないとも限らない中で話しを丸く収めて良いのか。そこに今も迷ってる。ただ地域限定で見るなら主人公たちに試練を与え成長もさせつつ幾つものイベントも見せて毎週をしっかり愉しませてくれた。その上で総力戦。決断もあって見せ場もあってちゃんとまとまったと言えるかも。録画はしても見ないアニメが多い中で毎週ちゃんと見た作品。それだけ楽しかったのかなあ。続きはあるのかなあ。


【6月26日】 「ガールズ&パンツァー」のテレビシリーズ一挙上映を観て改めて気付いたのは、西住みほのお姉ちゃんのまほが例えみほと再会しても、非難がましいことを何も言っていなかったなあってこと。脇にいる逸見エリカが全国大会の予選の後とかでみほと出逢って悪態をついたり、いろいろな場面で悪口を言ってもそれにうなずきもしなければ相づちも打たずに無言でやり過ごす。母親のしほから問われても擁護に回って自分は自分だがみほはみほだと言い、プラウダ戦の途中で立とうとしたしほをまだ終わっていないと諭す。

 そういうところを見るとまほは、本当に妹が大好きなんだと分かるけど、それに気付かずみほに対して悪口を言いまくって、まほの心証をどんどんと悪くしていくスパイラルにハマっていくエリカが、傍目で見ていてちょっと可哀相な気がしてきた。それが出たのが劇場版でのみほが提案した作戦名とか、みほが打ち出したチームワークとかについて悪態をついた時に直接すぐさままほ否定されてしまったシーン。しょぼんとなるエリカが不憫でならなかったけど、最後に頼られエンディングでは一緒に笑顔。その大好きが報われたかな。いつかそんなエリカが率いる黒森峰とみほの大洗学園との戦いを見てみたいなあ。

 こんなアニメーションが見たかったという願望を最大公約数で満たすとき、それはこんあアニメーションが面白いと思ってきたという記憶が再現され凝縮されたものとなる。そりゃそうだ、人はまったくのまっさらな中から格好良さなんて作り出せない。生きてきた中で経験した作品なり体験から自分なりの格好良さを記憶して並べていく。そして自分が思う格好良さを表現する時に、そうした記憶がサンプリングされて蘇ってくる。

 だから「僕たちの見たいメカアニメ」なんてタイトルで企画が募られ意見が求められ作品が作られた時、そこに現れるものが既視感に彩られていて何の不思議もない。「新世紀エヴァンゲリオン」であったり「ラーゼフォン」であったり「創聖のアクエリオン」であったり「蒼?のファフナー」であったりといった人類が得体の知れない敵に迫られ絶望的な状況に陥った時に、資質を持ったパイロットが現れ普通では動かせないロボットを操縦して世界を救うといったストーリー。もちろんそれぞれにひねりがあって設定も異なりキャラクターも多彩で作品として独立してはいるけれど、それは10数話あり20数話といったストーリーの中で描かれ形作られていった世界観があるからだろう。

 これが単体で20数分のアニメーションとしてこうした作品群の持つテーマ性を詰め込まれてしまうと、エッセンスだけが残ってそれが他の作品のエッセンスと重ねって既視感を生む。フジテレビジョンとDeNA、そしてエブリスタが参画して企画した「僕たちの見たいメカアニメ」として完成して放送された「RS計画−Rebirth Storageー」はその意味で僕たちが見て嬉しかったメカアニメーションにはなっていたけれど、本当に僕たちが見たいのか、って問われると悩むところ。これなら他のを見ていれば良いって話しになうるから。

 ただキャラクターに魅力はあって記憶と引き替えにしている部分もありがちだけれど面白い。そうした設定を伸ばしつつ世界観を構築し物語を添えることで既視感から抜け出すことも可能かも知れない。そういう展開があるのかどうか。分からないけれどもこれ単体ではやりとげたという達成感しか生まず未来に繋がらないので、企画者たちは大きく広げるために何か、打ち出していってほしいもの。映像が無理なら小説でも漫画でも。でもメカアニメのための企画だし、やっぱりアニメーションにして欲しいなあ。長編の。あるいはシリーズの。

 気がつくとJリーグの第1ステージが終わって鹿島アントラーズが優勝を飾っていたけれど、そんな大きなニュースが世間的にまるで話題になておらずイチロー選手の3000本安打達成に遠く及ばない認知度に落ちてしまっている感すらあって気分も萎える。どこぞのJリーグの偉い人たちが、ステージを分ければその都度優勝争いがあってメディアの注目も集まって、取り上げられてテレビ中継なんかも行われて盛り上がるとかホザいていたけど結果はこのていたらく。優勝を争う試合の地上波でのテレビ中継はなく代わりにラグビーのテストマッチと陸上の日本選手権が放送されていた。

 地上波とJリーグとがどういう契約になっているかは知らず、もしかしたらスカパーがメインになっていて既に地上波での放送が不可能になっているのかもしれないけれど、それで一般の人が気軽にサッカーの試合を見られる機会を減らしているにもかかわらず、2ステージ制によってJリーグを盛り上げるとか、いったいどの口がいうのか。ACLでの低迷に対してチームを叱咤する割に日程の変更とかをせず、金も出さず根性を出せとだけ言ってハードなスケジュールで稼働させ、疲弊させ敗退させるような真似をしでかす集団だから、こういう状況になっても不思議はないけれど、分からないのはそんな愚策ぶりをメディアがまるで報じようとしないこと、だったりする。

 どこぞの集団が放映権を高く買ってくれるから、それで外国人選手を呼べば盛り上がるって胸算用をする偉いさんの言葉は伝えているけど、その試合が人目に触れる場所で放送されないでいったいどう盛り上がる? 有名選手を呼ぶなら補助をするって仕組みはビッグクラブの優遇にしかならず不公平感が色濃く問題もある。なんて突っ込むかと思ったら、一緒になって浮かれているスポーツメディアに未来はなさそうだけれど、それでサッカーまで衰えていっては困るから、ファンは頑張ってスタジアムに脚を運ぶなり、放送されるチャネルを頑張って見て盛り上げていこう。でないと2020年を過ぎて日本代表が世界の檜舞台に立てなくなることもあり得るから。すでに若い世代では立てなくなっているしなあ。

 1度、試写ではみているけれどもより大きなスクリーンで見たくて新宿ピカデリーへと出向いて「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」を鑑賞、なるほど菊地成孔さんが話していたようにいわゆる劇伴って奴が鳴らず音楽はジャズだったりアメリカンポップスといった楽曲に限られていて、それが戦闘シーンに鳴るんだけれども高揚感だったり焦燥感だったりといったものを表していて、映像の邪魔にならずそれでいて引っ込まないで一体感を持った作品として見ていけた。アメリカンポップスとかが鳴る宇宙空間がラジオからアメリカンポップスが流れる場所へと繋がるあたりは、そうした劇伴を使わない決めごとを映像としてどう表現すればベストになるかを考えての演出なんだろうなあ。そういった部分も含めて新しさのある作品。なおかつ戦闘は派手で美女たちもどこか肉感的。大人の雰囲気を味わえるガンダム、っていったところか。もう1度くらい観に行くか。その前にBD、届きそうだけど。


【6月25日】 1986年の日本選手権大会で室伏重信選手は70メートル20センチを投げて優勝。その年のアジア競技大会でも優勝して5連覇を成し遂げた時の年齢が41歳だから今の室伏広治選手と替わらない訳だけれど、その室伏広治選手がリオデジャネイロ五輪への出場権を争う日本選手権大会に出場したものの記録は64メートル74センチと振るわず、4投目以降に進める上位8人に入れず、ここで五輪への連続出場の記録は断たれてしまった。あるいはしっかりと練習を重ねていけばもっと記録は出たのかもしれないけれど、JOCなりの仕事もあって多忙の中で練習期間は3カ月。これではいかな鉄人といえども身体を造れなかったのかもしれない。

 室伏重信さんが現役の頃は、今の息子さんほど複数の仕事を掛け持ちするようなこともなかっただろうし、注目も今ほど高くはなかったからじっくりと練習に励めたのかも。とはいえ軽く80メートル台をたたき出していた全盛期の面影はなく、77メートルという五輪標準記録にも遠く及ばないとなるとやっぱり体力の限界という奴を感じているのかも知れない。そして室伏広治選手の引退表明。愛知県と絡みがあるアスリートとしてはトップクラスの実力と知名度を持っていた人だけに寂しいけれどもそれも人生。願うなら次の世代を育てて再び日本の陸上に、それも投擲競技で金メダルをもたらして欲しいもの。今までご苦労様でした。

 なんというか。世界史すら動かしかねない英国での国民投票によるるEUからの離脱支持派勝利という大事にあたって、新聞各紙は知性と名文を持った記者が筆を振るう1面下のコラムでもって取り扱い、その意味を世間に問うている。朝日新聞の「天声人語」は星新一さんのショートショート「マイ国家」を枕に引きながら自由であることに酔う男を上げつつ「国家の『誇り』を取り戻す代わりに英国と欧州、そして世界にもたらされる混乱。それを考えると、めまいがする」と書き、毎日新聞の「余禄」はEU本部にある土産物屋に置いてある、各国人の気質をあげつらった絵はがきを枕に「2度の大戦を経て築かれた物や金、人が自由に行き来する国際秩序が草の根の不満の標的となる今日である。政治はこれに対処できるのか」と懸念する。

 日本経済新聞の「春秋」は経済紙でありながらも「世界史のなかでナチスほど『民意』をよく問うた政権はなかった」と歴史を引いて国民投票という、情動に流されやすい手段を選んで勝とうと思って勝てなかったキャメロン首相の手腕を問い、「魔物のような『民意』を恨んでも遅い」と書く。憲法改正の国民投票という事態も見えて来た日本にとっては聞き捨てならない指摘。そうした関連性を持ってあるいはポジティブに語ることも出来たにもかかわらず、モノを言う新聞を標榜する自称全国紙の1面コラムは英国によるEU離脱支持派勝利という事態にまるで触れずに、公示から何日も経った参院選の状勢を書いている。

 さすがはオバマ大統領の広島訪問という歴史的な事態を完全にスルーし、オバマ大統領が伊勢神宮に遅刻したことをあげつらったコラムだけのことはある。それもひとつの矜持かもしれないけれど、ジャーナリズムとしてはやっぱりどこかズレている。それとも書くだけのネタがなかったか。分からないけれどもこの違いが経営の違いとなって現れないことを願いたいもの。いやもう既に現れまくっているんだけれど。ちなみに中日新聞の「中日春秋」もしっかりと英国のEU離脱について触れ「EUからの離脱と、国内の分断。『英国人は何をしたのか、闇の中に入ってしまったか』。そう自問する英国人も多かろう」と書いている。ブロック紙でもちゃんと書くくらいの事態。それを……。やれやれだ。

 早起きをして幕張メッセへと行って、「次世代ワールドホビーフェア’16 Summer」をさっと見物。ポケモンがあり任天堂がありレベルファイブがいてバンダイとかタカラトミーもいるんだけれど、どこか祭りって気分が足りてないのは今、まさにこれが旬といったタイトルが見えづらくなっているからだろうか。なるほど「妖怪ウォッチ」は今もって人気で、最新版が遊べるブースは開幕と同時に整理券がなくなるくらいの賑わいを見せている。でも、前と比べて熱気が伝わってこないと言うか、誰もが知っているタイトルから過ぎて、誰もが知っていたタイトルになりつつあるような印象。もちろん人気は続いていくんだろうけれど、社会現象となり国民的とまで言われた2年くらい前にまた、戻れるかというとちょっと分からない。

 「ポケットモンスター」も同様に人気はずっと続いているけど、1990年代末から2000年代初頭のあの興奮はどこへ。定番からちょっと上になってはいても社会を巻き込むムーブメントは過ぎている。それはつまり空気としてあるのが普通になっただけなのかもしれないし、実際に売り上げだってちゃんと立ってはいるけれど、社会を牽引するくらいのムーブメントを起こしてくれるタイトルがないと、次の時代がちょっと寂しくなるような、そんな気がしている。まあそれでも「ベイブレード」は新シリーズが人気のようだし「デュエルマスターズ」も大きなブースに人がいっぱい群がっていた。

 どちらも10年を超える定番。けれどもちゃんと保たれる人気をこそ、尊ぶのがこの少子化の時代にふさわしい玩具メーカーのあり方なのかも。そういう意味ではバンダイの存在感が薄いような。戦隊とライダーとプリキュアの玩具は毎年のように出ているけれど、そうした最新を追いかけるのに子供も親も疲れているというか、少子化も進む中で経る市場にすがりすぎているというか。いやいや、頭にねじをぶちこむとしゃべりねじを変えるとしゃべりも代わる「DXヘボット」は面白かったし、アイデアはまだまだ枯渇していない。これをメディア展開にも乗せて広めていくことで、次なる“定番”も生まれてくるのかも。あとはしっかり地道に長く育てる努力かなあ。バンダイはそこんところがいつも気になるんだよなあ。

 1時間くらいで会場を出てから歩いてイオンモール幕張新都心へと回ってテレビ版「ガールズ&パンツァー」の一挙上映を見物。全12話もあるし何度も観ているけれどもまるで飽きずに観られるこの面白さって何だろう。予定調和であってもそこに至る過程にドラマがあってアクションもあってそれを繰り返し感じたい、味わいたい、立ち会いたいって思わされるからなのかも。オープニングですら12回見ても見飽きないもんなあ。前半は眼鏡をかけていないねこにゃーの顔に焦点を当てて後半はぴよたんの巨大な胸に注目。そういう瞬間のきらめきを感じ取るためにまた見ようって気になるんだ。エンディングもちょっとづつ変わっているし新たな発見もあるし。アヒルさんチームの89式、乗ってる1人の胸が揺れてるように見えたよ今日は。大きなスクリーンだとそういう発見がある。また見たいなあ。機会があれば。

 家族の病気を明かし子供や家族のプライバシーに配慮して取材しないようにしてくださいよとお願いした歌舞伎役者の市川海老蔵さんによる要請に、そんなこと言われたって良いときには取材してくれと言うのに悪いときには取材するなと求めるのは間違っているし、読者の求めがあるから俺たちは取材しているんであって、それに文句があるなら読んだり観なきゃいいと言った週刊誌側の事情を忖度して紹介したジャーナリストがいて、あちらこちらから集中砲火を浴びている。もちろん原則として取材自粛要請があろうがなかろうが、必要なら取材するのがジャーナリズムって奴で、そういう根性を根っこに持ってたとえ鉄砲玉が飛んできたって突き進むという覚悟があるなら否定はしない。

 その上で、やっぱり病気の人やその家族にストレスをかけるて事態を悪化させては拙いと、塩梅を整えることもあるんだ理想を語ってくれているなら、同意の言葉も集まっただろうけれどもこの場合、そうした正常化に向けた意見が最後の方に綴られているだけで、ひたすらに週刊誌側のプライバシー上等といった声に荷担しているように思われていて損をしている感じ。なおかつそうは言っても現実に、ジャニーズ事務所であるとかAKB48であるとか能年玲奈さんであるとかいった、触れがたい対象についても取材するなよオーラを突破して突っ込んでいっては、芸能界の矛盾を暴こうとしている感じが業界にないから、誰もがそれは勝手が過ぎるだろうと憤る。そこに気付いていないのだとしたら、それが芸能界に負けずメディアが衰退している理由なのかもしれない。どうなんだろう。。


【6月24日】 せっかくだからと「第24回3D&バーチャルリアリティ展」を見に東京ビッグサイトへ。といってもお台場にあるVR ZONEみたいに最新のVRコンテンツが並んで体験できてヒャッハーってことはなく、3Dデータをどうやって作るかってところで立体物のスキャンに優れた装置なんかを並べたり、モーションキャプチャをどう行うかを実演を交えて紹介したりといった展示。目的も生産だとか管理といったところでエンターテインメント的な要素はなし。それでも最新の技術がどういう分野に適用できるかってのが分かって勉強にはなった

 。視線を追いかけてそれを可視化するアイトラッキングとかゲームにも使えるし、人間の意識と行動の分析に使える。それをどうサービスに取り入れるか、ってあたりが勝負になってくるんだろう。OculusRiftみたなVRヘッドセットも幾つか出ていたけれどもスマートフォンを挟み込む簡易版で、英国生まれの品がなかなかにクールで使い心地がよさそうだった。顔にあたる部分のクッションもヘッドフォンのパッドみたいでふかふか。それで価格は1万円程度だから玩具メーカーから出てくるものより良いかも。

 ただコンテンツは汎用のものでコントローラーに対応しているものも少ないんで、使用できる範囲は限られそう。仕様を共通化すれば済むんだろうけど、ここまで乱立するとまとまるよりは淘汰ってことになるんだろう。別の会社はあのZEISSが手がけたヘッドセットを出していた。値段は3万とか2万円とかちょっとお高めだけれど、そこはZEISSだけあって周辺までくっきり歪まず見えていた。光学器機メーカーの本気が出たVRヘッドマウントディスプレイってのがこれからトレンドになるのかな。

 死体が見えるとして、それは普通の人には見えなくて、そしていつか本当に誰にでも見えるようになるもので、そんな未来の死体が見える少女にとって、人生は果たして面白いのか辛いのか。見知らぬ誰かが遠からず死体となって、そこに転がるだけだと割り切れば、単純に未来を先取りしているだけだと思えるかもしれない。けれども、そんな見知らぬ誰かだって、さっきまで生きていた人間であって、それが死体になって転がって人生が断たれてしまうことに、何の感情も浮かばないという人間はなかなかいない。もしかしたら止められるかもしれない。そう思って頑張ってみたくなる。

 ましてや見知った人間が、死体となって転がることが分かっていて、どうして止めずにいられよう。けれども止めようとして死体になって転がる場所に行くのを止めようとして止められず、見たままに死体となってしまう経験を何度も何度も積み重ねていった心はきっと、痛みにボロボロになって流す涙すら涸れ果ててしまうんじゃなかろうか。半田畔さんによる「風見夜子の死体見聞」(富士見L文庫)はそんな死体が見える異能を持って育った少女と、彼女の幼なじみともいえる少年の物語。まだ幼い頃に2人は知り合って友達になったけれど、幼い夜子の口から出てくる死体の話におののいたのか、凪野陽太はだんだんと離れていってそして高校で同じクラスになって“再会”を果たす。

 いや、もうずっと陽太の家が経営する食堂にやって来ては親子丼の大盛りなんかを平らげていた夜子という少女。そこに注文を取りにいって注文された品を運ぶことはしていても、会話が弾むようなことはなかった。けれどもそんな陽太自身が死体となって転がる可能性を夜子が告げたことから、2人の時間は再び重なるようになる。交差点に行くな。鳥を潰してそこで死ぬ。そんな“予言”を信じないようにして、けれども引きずられるようにして現場に行ってしまう陽太。あるいは“予言”そのものが死を引き寄せ運命を確定づけるような雰囲気すらあるけれど、だからといって告げなければきっと何も知らずに交差点に行って陽太は死んでいただろう。

 それくらいに強烈な夜子の死体視。何度も止めようとして止められなかったのもよく分かる。それに心をぼろぼろにされたことも。けれども陽太は守りたかった。だから告げて信じてもらえなくても運命を変えようとあがいて初めて、陽太を死体にしなくて済んだ。そこから2人は仲直り、はしないけれども運命を救われたこともあって陽太は夜子が誰かの死体になる運命を変える手伝いをするようになる。とはいえ美少女でも口は悪く陽太に向かって童貞だの包茎だのと口走る夜子。その悪口に耐えつつ彼女が幼い兄妹の死体になる運命を変えるためだと自分の家に2人を監禁する無茶も犯罪者にならないように交わしながら頑張る先に謎の男が。運命を変えようとする2人に先んじて死体になる未来を引き寄せ続ける。

 いったい何者? 最初は常に死体を見つける夜子が死神だと言われていた。けれども彼女は居合わせてしまっただけだった。すると本当の死神が? そんなオカルトめいた設定があるのかそれとも単なる偶然か。分からない設定を抱きつつ2人による救済と、そして運命との闘いはまだまだ続きそう。監禁して安心させようとしてもその監禁場所で着せている服に未来の死体が替わっていたりするくらい、運命は頑固で変えづらい。そこをどうやって凌いでいくのかもひとつの読みどころ。あとはやっぱり夜子って少女が口走る悪口か。それは酷いものだけれど言われているうちに快感も走ってくるから不思議というか。そんな物語。

 21世紀という時代から、さらに1000年の後にまで残る選択なのか、それとも一時の熱狂に過ぎないまま習練していくのか。英国で行われたEUからの離脱の可否を問う国民投票で離脱を望む人が過半数を超えたみたいで、残留のための材料としようと目論んでいたキャメロン首相を愕然とさせ、辞任を決断させてしまった。当人は辞めて済む話だけれど、英国にとっては未来を左右しかねない話だし、欧州のみならず世界だって揺るがしかねない問題を見切り発車でやってしまった責任は重く、これで世界が滅亡でもしたらその原因をつくった人間として、閻魔帳に名を刻まれて永遠に地獄で釜ゆでにされ続けることになるだろう。英国人にとっての地獄に釜ゆでや血の池地獄があるかは知らないけれど。針の山くらいはあるかな。

 しかし問題は、そこまでEUに所属し続けることが英国の人にとって苦痛だったということで、経済とか労働とか流動化して便利なこともあったように思えたけれど、どこか上から目線がつきまとう国だけに、自分たちの身の回りの悪化を他国のせいにして、そうでなければもっと良かったという願望が広まり、それが離脱を選択させたのかもしれない。そして離脱してみても経済は良くならず、流動化は阻害されてさらに悪くなった時、責任をどこに押しつけるのかってあたりが気になるところ。一部の人たちにとっては難民が押し寄せず求人にも余裕が生まれて潤った気分が漂うかもしれないけれど、限られた経済の中で回したところでいずれ滞る。そんな時に向かう矛先が海外だった時、植民とそこからの簒奪なんてことになるのかどうか。そういう時代ではないとはいえ、背に腹は代えられなくなった時に人は容易に暴走する。そうならないために必要なことは何か。考えたいけど思い浮かばない。困ったなあ。

 71年目にして実は違っていたんだって明らかにされるのって、遺族にとっても辛いことだろうけれど当人にとってはずっとそれを黙って英雄として生きてきたことが、果たして辛かったんだろうかそれとも当人としては自分も参加していたといった記憶にすっかり染まってしまっていたんだろうか。太平洋戦争の激戦地となった硫黄島で、摺鉢山の頂上に星条旗を立てた6人が戦中戦後に英雄とされて語り継がれたけれど、そのうちの1人ではない別の誰かが参加していたことが分かってちょっとした騒動になっている。

 その人は英雄と呼ばれないまま20年ほど前に没していたけれど、それをどういう気持ちでいたかがちょっと気になる。黙っていたのは言える環境ではなかったか、それともあの戦闘に参加した者の全員が英雄だという矜持があったのか。実際、6人のうちの3人は戦死した激戦を、戦ったすべてが硫黄島の英雄。なのに旗を立てた6人だけが偶像のように語られることに忸怩たる思いを抱いていた兵士もいたんじゃなかろうか。こうやって改めて取りざたされることで、偶像が落ちるのではなく逆に全員が頑張ったことを指摘され、なおかつああいった激戦地が生まれてしまった戦争という災禍について考え直すきっかけになれば、誰もが浮かばれると思うのだけれど、果たして。


【6月23日】 ロジャー・スミスでスティーブン・A・スターフェイズだなあ、とまずは思った「文豪ストレイドッグス」での森鴎外。飄々としてロリコンっぽさも見せつつ、時々放たれる殺気の正体はポートマフィアの首領だったってことで、中島敦を追いかけてきた泉鏡花をその雰囲気だけで圧倒していたけれど中島敦はそれにまるで気付かず。鈍感なのか。ポートマフィアにいたことがある泉鏡花に気配が感じられたのは、顔を見たことがあったのか、気配だけでも漂っていたのか。とはいえ別に隠れている訳ではなさそうで、潜入してきた組合(ギルド)のメンバーを返り討ちにしたメンバーの元に戻って労をねぎらっていた。そして横浜を血に沈めるといった宣言から始まる戦いの行方は? まずは組合vs武装探偵社ってことで、ちょっと楽しみ。

 マジック・マジャールと恐れられた時代は半世紀以上も前に過ぎ去って、長く停滞の時期にあったサッカーのハンガリー代表がEURO2016の場に登場しては快進撃を続けている様子。グループリーグの最終戦があって相手はあのクリスチアーノ・ロナウド選手を擁するポルトガルだったけれど、スピードで負けずテクニックでも同等以上、そしてパワフルなシュートで1点また1点をもぎ取っていってはポルトガルを寄せ付けない。とはいえそこはクリスチアーノ・ロナウド選手だけあって2点目3点目を返して最終的に引き分けで試合を終えてグループリーグ突破を成し遂げた。ここから本調子を挙げて優勝を狙うのか。それとも復活したマジック・マジャールが勝ち続けるのか。イングランドの陰に隠れていたウェールズが悲願を果たすのか。いろいろと興味深い展開にしばらくEUROから目が離せない。地上波の放送、とどれだけあるかなあ。

 ここしばらくは「彼と彼女のゲーム戦争」の人としてゲームがテーマになったライトノベルを書いていたけど元々のデビュー作は弁護士が主人公となった「タクティカル・ジャッジメント」だという師走トオルさんが、原点に戻って書いたといった感じの「無法の弁護人」は、新米で正義感が強い弁護士の本多信繁が、それゆえに車上荒らしの容疑で捕まった女性の弁護をうまく行えず、どうしようかといってたどり着いたのが「悪魔の弁護人」との異名を取る阿武隈譲という中年男。会った来た彼は嘘が見抜ける異能の持ち主だとうそぶきつつ、冤罪らしい事件の真相を法廷で暴いて検察をやりこめる。とても有能。ただしそうした真実の探求のために時折、違法なことをしでかすため正義感の強い本多は1つの事件で大逆転という弁護人としていの栄冠を得たものの、二度と会わずにいようと決める。

 けれども第2巻となる「無法の弁護人2 正しい警察との最低な戦い方」で本多は、大学が同期で1年先に検事になった井上という女性の弟が起こしたという殺人事件の弁護を引き受けるにあたって、事務所の所長の助言も入れつつ阿武隈と再びタッグを組んで法廷にのぞむ。屋上から清掃会社の社長が転落死して、その背中を井上の弟という前科持ちの男が押したらしいというのが事件のあらまし。そうだと警察で自供していた容疑者だったけれど、阿武隈や本多の接見を経つつ阿武隈によるちょっとした細工も功を奏して、検事をやっている姉の身分を人質にされるように自供してしまったことを明かし、本当は無実でむしろ社長の背中を引っ張り落ちるのを止めようとしていたことすら明らかにする。

 問題は防犯カメラに残された、容疑者が被害者の背中を押しているようにも見える映像で、これを容疑者は違う引っ張り上げようとしているところだと主張したものの、映像には押しているようにも見えるため判断が難しい。この鉄壁の証拠を壊すのはほぼ困難。それでも阿武隈と本多は証言者を揺さぶり、過去に実刑を食らっていたから殺人くらいやりかねないという固定観念をはぎ取っていき、そして一気に真犯人にまで迫っていこうとする。その過程での法廷戦術が実に鮮やかというか、相手が繰り出してくる言葉の裏を付くようにして容疑者に裁判員たちの同意が向くようにしたり、調査の先でちょっとした仕込みを行い、法廷でボロが出るように画策したりと、証拠品を並べ書類をながめて法廷で喋るだけの弁護士とは違った、信じた者のために邁進する弁護人としての姿がそこに描き出される。

 そうもうまく転ぶのか、って疑問も浮かんで、それは小説だからといった答えも出そうだけれど、そうした段取りの良さも含めて読んでスリリングな物語をテンポ良くスッと読んでいけるのが良い。青柳碧人さんの「判決はCMのあとで ストロベリー・マーキュリー殺人事件」のように裁判員裁判がショー化されてしまった社会で起こる事態を描いている訳ではなく、こちらは陪審員制度が導入された日本の裁判を描いたパロディ筒井康隆さんの「12人の浮かれる男」的な風刺性もないけれど、それでも裁判員裁判でどういう手練手管を使うことで、裁判員たちをグッと引きつけられるのかといった提案もあって面白い。

 どうせ犯人は容疑者だろうといった思い込みをひっくり返し、実はといった具合に裁判員たちを驚かせるような阿武隈の話しの持って行き方や証拠の見せ方なんかは、確かにそうされれば驚き気持ちも流れるかもって思わされる。プレゼンテーションのテクニックとしても使えそう。エンターテインメントであり、弁護人という仕事におけるマニュアルであり、裁判員が何を求めているかを感じさせる作品。1つの事件だけを引っ張って1冊にしてしまってユルみもないところが凄いけど、次はもうちょっと入り組んだ展開の中に1つの裁判が別の裁判なり、主人公たちの人生を揺るがすような奥深さがあっても良いかもしれない。だからこそ続きを期待。

 「小説家になろう」もそうだし「カクヨム」も同様で、いわゆる小説投稿サイトって奴をほとんどチェックしておらず、そこでどんな人が人気になっているのか分からないままどこかでデビューして大人気となって、そうしたところ出身だったと気付く程度の知識しかないんだけれど、それでも存在くらいは知っていて、一般小説の新人賞が高年齢化しつつあり、そしてライトノベルの新人賞もなかなか売れなくなっている時代に、最初からユーザー層を持っているこうした小説投稿サイトが持つ役割が、大人たちの見えないところでグングンと高まっているって認識はある。

 「E★エブリスタ」も同様で、「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」がアニメーション化されて大人気にもなったりした小説投稿サイトとしてじっくりと活動を続けて早6年。それを記念するイベントがあってのぞいたけれども集まっている人たちは総じて若くて、書き手として、あるいは読み手として大人たちが勝ったり読んだりしている小説とは違ったところでしっかりと、カテゴリーを作って市場にもなりつつあることを感じさせられる。異世界ファンタジーが跋扈し過ぎて今からだと読むのも大変そうな「小説家になろう」とは違って、恋愛小説とか一般性を持った小説も多く投稿されている感じで、ティーンはもとよりライトノベルを卒業はしたけどいきなり大人のミステリーだの時代小説にはいかない人たちの支持を得て、広がっていきそう。

 そんな「E★エブリスタ」が協力する形で新しいレーベルが立ちあがるみたいで、買う側にとってはまた新レーベルかお小遣い大丈夫かって不安もするけど、異世界転生ファンタジーばかりが積み上げられつつある中にあってミステリーを中心としたキャラノベで固めるような雰囲気があって、ちょっと期待してしまう。三交社ってところから9月9日に「SKYHIGH文庫」として創刊、ってことは今流行の四六のソフトカバーではなく文庫ってことか。作家陣にすぐ知っているって名前はないけれど、本としてまとまるからには読んでおかないと時代から取り残されるかもしれないし。そうでないかもしれないけれど。あと「E★エブリスタ」ではアニメーションの企画も動かしていて、「メカつく 僕たちが見たいメカアニメ」ってプロジェクトから生まれた作品が6月25日の深夜に放送されるみたい。こういうオリジナルの企画が生まれ広がっていくことで、ジャンルが豊穣になればいいけど競争激化の果てに希薄化して購入意欲を萎えさせては逆効果。そうならないためにも関心を惹くような企画を是非に打ち出していって欲しいなあ。


【6月22日】 祖父が内閣総理大臣を務めた鳩山一郎さんで、兄の鳩山由紀夫さんも総理大臣になっている血筋の良さとそれから東京大学法学部卒という頭の良さ、いろいろと寄り道もしたけれどだいたいにおいて党人派として与党の自由民主党に所属していた立ち位置の良さからもうちょっと、大物政治家として活躍しては内閣総理大臣の座を射止めても不思議が無いような雰囲気だったにもかかわらず、担ったのは法務大臣に労働大臣総務大臣文部大臣といったところで外務経産財務といった主要なポストには就かず、総理大臣のレースからはずっと外れていたような感じがする鳩山邦夫さんが死去。67歳とはなかなかに若い。

 あるいは政党をあちらこちら渡り歩いた経歴が厭われたのかもしれなず、タイミングをどこか外してしまっていたのかもしれない。渡辺美智雄さんとかもそんな感じで総理大臣の椅子には座れず、河野洋平さん谷垣禎一さんは共に自民党が野党に甘んじていた時の総裁を任されやっぱり総理大臣にはなれなかった。振り返れば父親の鳩山威一郎さんも総理大臣にはなれなかったけれど、大蔵省で事務次官まで務めた大物官僚で政治家に転身しても参議院議員だったから総理大臣になるという思いは最初からなかったのかもしれない。それでも外務大臣にはなっている。一族でもトップクラスの優秀者を見せながら、それでもトップには立てなかった一方で、学歴的に今ひとつの総理大臣が今の政治を仕切っていたりする状況にどんな思いを抱いていたのか。そこがちょっとだけ知りたいかも。合掌。

 そんな今の総理大臣の厄介なメンタリティがまたひとつ明らかに。朝日新聞が書いただけならまだネガティブな印象を醸し出そうとした誘導かもって思われるかも知れないけれど、共同通信も配信したりしてよほど目に余る行状だったんだろう「報道ステーション」での収録に関する安倍総理の振るまいは。党首たちによる討論があった模様だけれどその途中に散々っぱら自分の言葉を投げて途中に誰かの発言に被せるようなこともした様子だけれど、それで話がまとまらず野党の方からまだ時間が欲しいねえ、なんて話しになったとところで約束の収録時間が過ぎているのにとぶち切れたからたまらない。

 いったいどれだけ押したんだ、10分が、15分かと思ったらわずかに1分。歩くところを早足にすれば取り戻せそうな時間であるにも関わらず、飛行機に乗り遅れるんだとか言って声を荒げたそうで、それを見ていた政治記者たちもこれはちょっと目に余ると思ったんだろう。だから記事にした。それが今後の収録の中で自分を拘束しようとする振る舞いをあらかじめ牽制しておくための策だったら、まだ意味も分かるけれども普段の行状から単純に、自分の思い通りにならないことには腹が立って、ついつい感情が出てしまう性向が、ここでも出てしまったって考えた方が良いんだろう。

 国会でも時々見せるキレっぷり。感情を抑えられずに声を荒げたり、ヤジを飛ばしたりといった行状をたびたび批判され、その都度謝りながらも繰り返すところに何か心理的な穴みたいなものを感じないではいられない。そんな不安定なマインドを持った総理大臣にこの国を任せておいて大丈夫か、って意味も込めての報道なんだろうけれど、親派は大総理様の貴重な時間を1分たりとも奪うとはと擁護に回っているからこれまた厄介。いつかはがれるその化けの皮、って思いながら終わらないその政権でいったい何がこれから行われるんだろう。考えると夜、練られなくなっちゃう。ユーロ2016見るから寝ないけど。

 「生存賭博」(新潮文庫NEX)が出たばかりの吉上亮さんがこちらでも新刊を。「磁極告解録 殺戮の帝都」は説明するなら超電磁バトルアクションといった感じ。関東大震災からしばらくたった復興途上の昭和の帝都に跋扈するテロリストと戦う組織の暴走を抑える組織が財閥にあって3人が所属。“磁律”という新技術というか、一種の異能を繰り出してテロリストとも戦っていたと。ところが、そんな“磁律”を軍事力として発展させながら行方不明になった軍人が、再び現れ悪を成そうと暗躍して、彼に見いだされ捨てられ、悪事に手を染めていたが今は特検群と呼ばれる組織に所属する仁祈生がその謀略に立ち向かう。

 この“磁律”というのがなかなかに多彩で、戦いの最中に損傷した祈生の腕を補い形にして動かせるようにもできるし、フィールドのように展開して守りとか攻めとかに使ったりも出来る。あるいは機械を動かすようなことも。ただ、生来のものだったはうzの“磁律”を人工的に人に与える技術が生み出されたことで、統制下にあった“磁律”使いが外にも広がり、それを使ってテロが横行し、暗殺も起こって帝都は混乱に陥る。そんな状況に心情では反権力でも今は財閥に与して戦っている祈生は、旧敵を追い詰めるために帝都を書けて自らの“磁律”を振るう。

 小林多喜二への拷問めいたものが行われそうになりながら、救出されたりする一方で井上準之助が暗殺され、三井財閥総帥の団琢磨も暗殺されるといった具合に歴史の上で起こった出来事が違う形でなぞられ進んで、昭和という時代を現実の昭和のように軍国めいた方向、そして大東亜での覇権狙いといった方向へと進めていく。そんな状況下で傀儡国家として立ち上げられた満州に追いやられることになった祈生たち特検群と主人ともいえるお嬢様は、これからどんな戦いを繰り広げるのか。歴史に従えば崩壊へと向かう帝国の歴史の中で“磁律”といったものがどう使われていくのかに興味。だからこそ続きが書かれて欲しい。

 キャラクターでは関東大震災の時に弟を救えなかった嘆きも抱え、無法者に肩入れしていたものが、今は財閥に買われている祈生という存在がなかなかに奥深そう。彼を慕う少女の正体とその力の行方がこれからの展開の大きく関わってくるのかな。同じ特検群に所属する男装の麗人にして磁律使いの虎徹もがなかなに格好いいけど、その肉体の秘密を知ると見る目も迷うかもしれない。「風の谷のナウシカ」のクシャナみたく「我が夫となるものはさらにおぞましきものを見るだろう」的な。どうしてそこまでして生きるのか? もう1人の仲間のアメリカ人も意外な正体があってあの時代の昭和史がてんこ盛り。戦後が舞台の峰守ひろかずさん伊藤ヒロさんによる「S20−2/戦後トウキョウ退魔録」ともどもお読みあれ。

 改正風営法の施行を前に、マナー向上を呼びかけるキャンペーン「PLAYCOOL」の発表会見が道玄坂であってのぞくと「クラブとクラブカルチャーを守る会」会長のDJでヒップホップMCでもあるZeebraさんらが登壇。文化的な面からも経済的な面からも夜通しクラブでダンスが可能になることの意義深さを語った一方で、マナーを守ってクールに遊ぼうと呼びかけていた。 改正風営法の施行で夜が広がり遊べる場所も増えて文化が盛り上がり経済も広がるけど、酔客が増えゴミのポイ捨てが横行して居づらくなっては意味がないの。そこをどうするか、ってところが折角の改正を意味のあるものにするのだから。

 もっとも、上から目線であれれするな、これしちゃダメでってやっても世の中はなかなか動いてくれない。むしろ反発すら食らうかもしれない。そういう意識を誰もが若い頃は持ちがちなものだから。なんでZeebraさんや他に出席した飲食店の運営者、クラブの運営者といった人たちは、そうした振る舞いがカッコ悪いものなんだといったマインドを広めていこうって話してた。粋に憩うぜ。だからPLAYCOOL。そういうこと。でもって格好いいアニキ(たぶんアネキも)の姿を見せていこうってことで、ナイトアンバサダーが任命され、DJたちによるによる朝の清掃も行われ、そんな彼ら彼女らの「背中で教える」言動によって渋谷を昼も夜も粋な街にしていこうとしている。

 それは世間におもねることでもないし大勢に媚びることでもない。自分たちがめいっぱいに楽しめる場所を守るために必要なこと。権力の強引な介入ですべてが取り締まられることを避けるための方策。そう思えば誰もがやろうって気になる。だからうまくいって欲しいし、他の地域や他のジャンルにも広がって欲しい。例えばアニソンのライブとか。そう言う場所に現れた厄介さんたちの問題が最近クローズアップされた。周囲の迷惑を顧みないで暴れ、出演者すら困らせることもある厄介な振る舞いが、当人たちにはCOOLと思われている節がある。そんな思考の捻れを解し、実はカッコ悪いことだって感じてもらうためにどうするか。粋なアニキの背中を見せるか。考えたけれどアニソンイベントのクールなアニキやアネキってどういう風貌かがちょっと想像ができないのだった。やっぱりモラルを説くしかないのかなあ。


【6月21日】 ここでは優勝できないからって感じに地元のクリーブランド・キャバリアーズを出てマイアミ・ヒートへと移って念願のNBL優勝を成し遂げ連覇も果たしてこれならずっとそこにいたって良かったものを、やっぱり地元に栄冠をとキャバリアーズにで戻ったレブロン・ジェームズはやっぱり男気のある奴なのか。ずっと出たままでは引退した時に帰りづらいって判断もあったかもしれないけれど、それだってプロの世界だから気にしなければそれで済む。

 でも戻った。生まれ育ったオクラホマ州がやっぱり空きなのかなあ。ミキサー車とか走ってそうだし。いやそれは違うミキサーだ。とはいえキャリアの全盛期を地元だからとキャバリアーズに戻ったところで、プレーオフにも出られないような弱小チームだったら当人にとって利益がない。そこをちゃんと勝てるチームにしてあったところがレブロン・ジェームズを今一度振り向かせたことに繋がったのかもしれないし、だからこそ2年連続のファイナル進出、そして去年の雪辱を果たしての優勝という栄冠に繋がったんだろう。

 こうなるとマイアミ・ヒート時代も果たせなかった3連覇に興味が移るけれどもシカゴ・ブルズがマイケル・ジョーダンを擁して2度成し遂げ、最近ではシャッキール・オニールを擁したロサンゼルス・レイカーズが成し遂げてからこっち、成し遂げたチームは無くコービー・ブライアントがいたレイカーズと、そしてレブロン・ジェームズ自身によるマイアミ・ヒートの連覇が最高だったからなかなか大変そう。レブロン・ジェームズは6年連続でファイナルに立った訳だけれど、連覇がやっとで優勝は3回と結果は半々。歳も歳だし来年どうなるか分からないけれど、楽しみだけは引っ張ってくれそうなんで来年もNBAへの関心を抱いていこう。

 「ハンドレッド」でいよいよ敵のボスともいえるヴィタリーがリトルガーデンに潜入し、大破壊をを繰り広げるかと思ったら倒し損ねたアンドロイドのメイメイによってボディガード代わりの3人の人工ヴァリアントから引き離され、単身でリザのところまで言ったら待ち構えていたジュダルによって銃で撃たれてハイさようなら。なんという雑魚感。あそこで自分自身を人工ヴァリアントにしてすべてを破壊するくらいの大技を見せるのが悪役ってものだけれど、元カレに騙されていたと分かってキレて返り討ちに遭っただけという、そんな計画性の皆無な人にリトルガーデンも脅かされていたと思うとちょっと寂しい。まあヴィタリーには原作だと再度の出番もあるようなんで、それで救われたってことにしておくか。あんまり救われてないけれど。あの貴重なおっぱいも無くなってしまったみたいだし。

 「ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」の人ってよりは個人的には「戦国スナイパー」の人といった感じの柳内たくみさんが、ファンタジーではなくSFに挑んだ「IOTA 戦術機巧歩兵 彼女は危険な戦闘兵器」(宝島社)が登場。ストレートの銀髪をもったホットパンツみたいに脚を剥き出しにした美少女とかが描かれている表紙絵にまず惹かれ、そして読み始めてその美少女のどこか達観していて苛烈な運命にありながらも減らず口を叩きながら戦うスタイルにグッと惹かれる。

 名をリブというらしい美少女は人間ではない。いや、もしかしたら人間かもしれないけれどもそれは脳だけで、身体は自衛隊が密かに開発していた戦術機巧歩兵(IOTA)の最新実証機。近未来、東京湾岸の埋立地に出現した無法地帯で起こる犯罪を捜査し突入する仕事を請け負っている。そして向かった先で現れた美女との戦いでボロボロになりながらも脱出したリブは、意識を薄くさせたままで高いビルの上から廃棄された工場へと落下する。そこにいたのがまだ年若い北機壮士という名の技術者。リブを拾い調べそして使われてる技術に気付いてひとつの行動に出る。

 そんな幕開けから始まるストーリーは、機械の身体をバラバラにされて売り払われてしまい、そして残された脳まで廃棄されるんじゃないかと怯えながらも手足を持たずどうしようもない状況に焦燥するリブの心理が綴られ、いっしょになって焦り慌ててしまうけれどもそれではヒロインは務まらないとフィクション的に安心しつつ、壮士がいったい何を知っているのかといったところから辿って、彼が少年の頃に天才的な技術者として生み出したある技術が、リブに使われていて彼女を動かしつつ、その命を限りあるものにしているのだと知って引き込まれる。

 脳と機械を結びつけるようなその技術が実用化されていれば、人は永遠の快楽をも身に得て生き続けられるようになる。ただその技術には欠陥があって異常蛋白が脳にたまってアポトーシスを引き起こすことが分かった。だからいったんは葬られた技術が、それでも使われていたリブはいつか自分の命が止まる前に、自分の唯一の生体である脳がいったいどこから来たのか、親はいるのかを探ろうとしてる。けれどもそんな脳ですら、人工的に作り出されたものかもしれないという可能性、あるいはうっすらと刻まれた記憶すら、誰かのものを転写されたかもしれない可能性が浮かんでリブを迷わせる。生きていくことに絶望感すら与えてしまう。

 それでも、少しの希望をもって戦いの場に戻り、再び現れた人工生命で倒しても簡単に再生してくる美女と少女を相手にした戦いを繰り広げながら、警察内部で繰り広げられていた謀略を退け進んでいく。そのスピーディーでスタイリッシュな戦いの描写がなかなか。武器や魔法が飛び交うファンタジーや剣と鉄砲がメインの時代物とは違った、SFならではのサイボーグと生体アンドロイドとのバトルを楽しめる。いったいどうして敵はあそこまで再生力が強いのか。その意識はどうなっているのか。いろいろと関心が浮かぶ。そもそも誰に作られたのか。その謎がラストに明らかになる。

 人工冬眠の装置から現れた女性。MIT時代に壮士と関わりがあって彼が作り出した技術を大きく育てようとしつつ失脚したはずの彼女がどうしてそこにいるのか。どうして人工生命体を従えて犯罪組織を率いているのか。その体内に仕込まれている爆弾のようなテクノロジーが、ブレイクスルーを迎えることはリブの限られた生命を未来に繋げる意味も持っている。そんな状況が浮かび上がって、ずっと引きこもっていた壮士が戦いの場に復帰し、そしてリブは運命を切り開くための戦いに邁進していく。そんな続きが描かれるだろうと思っているけれども、果たして。

 六本木ヒルズで開催中の「六本木クロッシング2016展:僕の進退、あなたの声」ってのをちょっと見て、もうちょっと身体性をえぐり出すような展示があると思ったら、メーンの展示として紹介されていた片山真理さんって両足が義足になっている女性アーティストの作品が、目立ってあったくらいであとはどちらかといえばメッセージ性を作品に載せて語るといったものが多かった印象。木村伊兵衛賞を受賞した石川竜一さんによる沖縄のポートレート集もそこに移っているのは身体だし、発せられているのは声だけれども全体としてはやっぱりポートレート集。沖縄という地に生きる今の標準といったものを総体として見せているといった感じ。

 野村和弘さんの「笑う祭壇」は自分でカップにボタンをすくって投げてオブジェの上に載せられたら勝ちみたいなゲーム性があったけれど、そこに自分の身体性を見いだすというより観客を借りて作品を彩らせるといったインタラクション。結果は参加を経て積み重ねられたボタンの山として表現されて、そこに過程としての身体の関わりはあっても表現としての身体は見えていない。あるいは声も聞こえてこない。まあ何かしらタイトルは付けつつ今が旬のアーティストを見せる展覧会って考えれば、それはそれで面白かったって言えそう。

 文化庁メディア芸術祭にも参加していた長谷川愛さんによる、同性でも子供が持てる可能性を遺伝子的に考えビジュアルで表現して、それがもたらす影響なりを考えていく作品は、倫理や科学や文化といった方面からのリアクションを受けてどこに向かうかいろいろ想像させられる。ユニークだったのが志村信裕さんによる「見島牛」で、1950年代とかの離れ小島に暮らす人々の生活を撮ったものかと思ったら、バリバリ現在の島を8ミリカメラで撮ったものでザラついた映像と山口の方言が時代感を後退させて時間を融解させて不思議な気分にさせられた。あと牛が可愛かった。他にどんな映像を撮っている人なんだろう。ちょっと注目。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る