縮刷版2016年6月上旬号


【6月10日】 根が真面目なんでメンタル面が崩れやすいとか、妹が幸せな結婚をしたのに自分は出来ないことに焦っているとか、揣摩憶測でもってあれこれ語られていた小林麻耶さんの不調が妹で歌舞伎役者の市川海老蔵さんに嫁いだ小林麻央さんの長い煩いから来る心労らしいと分かって週刊誌とかネットメディアの“報道”なんて、証拠も無ければ調査もない、憶測の類推でも格好がつくんだと世間に知れてしまった感じ。まあでも狼狽えたような崩れ方をしていた降板初期ならまだそうした憶測も通用したけど、スポーツ新聞が小林麻央さんの闘病をスクープした日の前日に、パニック障害だのスピリチュアルに傾注だのと書いたオレンジ色の夕刊紙とかの抜けっぷりは笑えないレベルに来ている感じ。

 スポーツ新聞みたいにいったい何が起こっているんだと調べて、もしかしたらと分かっていればちょっと書けなかっただろう話。そうしたジャーナリズムとしての基本を置いてもアクセスが稼げるネタなら週刊誌からでもネットメディアからでも引っ張ってきてはぺたぺたと貼り付け記事に仕立て上げる、まとめサイト的でバイラルメディア的な振る舞いを、少なくとも新聞社系の夕刊紙がやってしまって平気なところの今の新聞の、あるいは週刊誌報道とかスポーツ新聞の報道をそのまま垂れ流すテレビの衰退の理由なんかがあるのかもしれない。落ちていく一方だものなあ。韓国中国の悪口で今はしのいでいたって、それで稼げる収益なんて限定的だろうし。やれやれ。

 それはそれとして市川海老蔵さん、気丈だったなあ。別に会見んかしないで理由を言ってそっとしておいてとい言えば世間も納得するんだろうけれど、ちゃんと会見してメディアに説明して追撃を止める。身を張った言動は過去、スキャンダルにもまれつつも立ち直ってきた経験が生かされているのか。親も亡くして自覚が芽生えたか。こうした経験が役者として、どうプラスに働いていくかをちょっと見たくなった。もちろん寛解してもらうのがベストではあるんだけれど、状況としての厳しさも鑑みるならあとはどれだけの幸せを互いに与え続けられるかってところ。そうした2人の歩みが同じ病に悩み苦しみ戦っている人たちに、希望を与えるのだから。メディアもだからキツい厳しい辛い哀しいじゃなく、明るさと楽しさを漂わせて今を精一杯に生きる人たちを、応援して欲しい。でも悲劇にしてしまうんだろうなあ。それが稼げるって信じているから。やっぱりやれやれ。

 「わたしリカちゃん、小学5年生の11歳ですっ」「をいをい」って全力で突っ込みが入りそうな予感もしないでもなタカラトミーの「リカちゃん」シリーズの新商品「Licca Bijou Series」。宝石を意味する言葉を名前に持っているだけあって、キラキラとてちょっぴり大人なファッションに身を包んでいるんだけれど、それがあまりに完成しすぎていて見てもあんまり子供って感じがしない。ふわふわなウェービーブロンドをたなびかせたドレッシーなリカちゃんに、ボブカットでライダージャケットを白いワンピースの上に羽織ってブーツを履いたリカちゃんと、どちらもジェニーって名前で通用しそう。でもリカちゃん。そこが面白いというか、意外というか。

 想像するならジェニーが子供でもハイエイジの子が単独で遊ぶファッションドールなのに対して、リカちゃんは親子で楽しむもので、そんな親が子供を介して自分でも好みのファッションを楽しめるリカちゃんって位置づけなのかも知れない。あるいは完全な大人でもリカちゃんというブランドを楽しめるものって位置づけとか。はっきりとは分からないけれど、でもそうやって新しい層を開拓しながら長い歴史を持った人形を売っていこうとする考えは玩具として正しいかも。毎年切り替わるキャラクターを追いかけ、玩具を就くって売っていくのもそれはありだけれど、そればかっりになるとやっぱり玩具屋としてアイデアで子供を面白がらせようって魂が、削れていってしまうから。そこがタカラトミーの味かなあ。

 日本でもそうだけれど、大手のメーカーではなく中小企業というかそれこそ工房といった単位で職人たちが技術をぶち込んで作っている品々があったとして、それを世間に届けるためのチャネルがないのが問題になっている。売る手段がないというか。それで技術の継承がうまくいかずに廃れていってしまう伝統工芸がどれだけあったことか。大手の商社とか企業とかが間に入って売る肩代わりをすればいいんだけれど、得てしてそういうところは大量に扱ってコミッションを稼ぐのが商売だけに、少量限定な職人による工房の品々を扱うことは避けている。

 だから売れず後に残せないという悪循環。国が出てきて補助金とか入れ販売も面倒見るとかすれば良いんだけれど、そういうところに使う金はないみたい。票に繋がらないから。そんな状況をもし、打破するとしたらネットによる喧伝と配送が有効かもしれないけれど、果たしてうまくいくのかってたりが課題。ってことで日本のアマゾンが新しく始めるらしいイタリアの職人が作った品々を売るマーケットプレイス的なサイトの運営の発表があったんで代官山へ。あまりに自分のライフスタイルとかけ離れた人間たちがいっぱいいる地域で息が苦しくなったけれど、それはそれとして発表では手作り万年筆とか陶器とかカシミアのニットとか写真なんかが紹介されて、イタリアから持ってこられて日本向けに売られるらしい。

 すでに英国や米国やドイツで同じイタリアのサイトがオープンしているけれど、日本で果たして誰もが知ってるブランドじゃない、渋さと品質で鳴る工芸品が売れるのか。結果によっては世界各地の似たような品々を扱うサイトが出来て、中には日本の工芸品を世界へと持っていくチャネルも出来るかもしれない。そうなれば一気に史上も広がり事業継承の芽もふくらむんだけれど。個人的には軸を手で削り出していた万年筆がちょっと気になった。パーカーだモンブランだシェーファーだといったマスプロ品にはない味があるんだよなあ。あとは書き味が良ければグッドなんだけれど。

 織田・信長が遂に登場したのは良いけれど、それで羽柴・秀吉はどうなってしまうんだという疑問も残して巻を閉じ、次へと繋がっていきそうな川上稔さん「境界線上のホライゾン9(下)」(電撃文庫)。柴田・勝家が起こした賤ヶ岳の戦いに向かった羽柴の面々が、滝川・一益の名代となった丹羽・長秀やら舞い戻って30分だけ柴田勢についた前田・利家やら、やっぱり気になってしまった不破・光治やらを相手に戦いを繰り広げたけれどもそれぞれに今までにないパワフルさって奴を見せてくれて、これでどうして過去に武蔵勢に押されてしまったのかがちょっと分からなくなって来た。それだけ武蔵が強いってことか。ハッサン・フルブシの対前田幽霊戦士団掃討力なんて掟破りだものなあ。

 意外だったのが不破の戦いぶりで、いわゆる現地会計ってことで役職者ではあっても前田・利家とか佐々・成政なんかとは比べられないポジションでしかない文系女子が、最上・義光を相手に結構な勝負をした可児・才蔵を相手に互角以上の戦いを見せて退けるまでのことをやってしまう。その後は駆けつけた加藤・嘉明だとか脇坂・安治だとかとの乱戦もあって再戦がかなうんだけれどそれでもほとんど互角の相打ちといったところ。御市がバーサーカー化して向かってきたのにこれはもうダメと思いつつそれでもと前に出た場面でも、防御の力があれば凌いでいたかもしれないなあ。

 それくらいの使い手だった不破に対して、佐々の方は武蔵勢を相手に奮闘しては袋だたきというかハイダメージというか。まあ多勢に単身で戦ったんだから仕方が無いとはいえ、それでも勝つのが襲名者であり役職者であり五大頂。それが役職者ではあっても襲名者でもなく学生に過ぎない武蔵勢に倒されては、やっぱり立つ瀬がないだろう。そこが主役補正された武蔵勢。役立たずな御広敷まで武器を携えペルソナ君ともども奮戦したりと見所も多数。でもMVPはアデーレ・バルフェットかなあ。よく頑張った。鈍重なだけかと思った奔獣があんな大活躍を見せるとは。今後にも期待したいんで、王様はアデーレの機動殻をちゃんと直して上げてね。


【6月9日】 「シン・ゴジラ」に出演する俳優さんたちの一覧ってのがネットに上がってて、主役級には簡単なプロフィルとか添えられそうでない人についても生年月日なんかが書き添えられていて、そうかこんな人が出るのか手塚とおるさんとか「ラブ&ポップ」にも出演していたなあ庵野秀明監督好きだなあとか思いながら見ていった先にあった「マフィア梶田」という名前にまずびっくり。よく「ラブプラス」の発表なんかに来ていて長身で強面のビジュアルでありながらも美少女たちに萌えまくってて凜子推しみたいな感じであちこち喋っていたのを見てたっけ。

 それだけでも結構な昔になる訳で、そんな当時からなおいっそうビジュアル的に進化を遂げて横幅が増えて頭の輝きも増してもうリッパに歌舞伎町とかにいても大丈夫そうな雰囲気で、「ラブプラス」っていうより「龍が如く」の人となっていたマフィア梶田さんだけにてっきり40歳には達しているだろうと思い込んでいたら何とプロフィルには1987年生まれとあった。ってことは今年29歳か。誕生日前っぽいんでまだ28歳。僕より1回りじゃきかないくらいの年齢差があったりする。

 つまりは僕が大学4年生も後半にさしかかって就職に卒論に一所懸命だったころに生まれた赤ちゃんが、今はあの風貌でゲームメディアを闊歩し、東南アジアでゲリラのようなこともあり、そして「シン・ゴジラ」に出演する。何が何だか分からない。でもま「ラブプラス」のころに大学を出るか出ないかでライター稼業に入ったんだとしたら、今の年齢も分からないでもないか。サングラスとか革ジャンにごまかされていたけど案外に中身は分かったのかもしれない。単純に年齢をごまかしているだけかもしれない。どっちだろう。そして「シン・ゴジラ」ではいったい何をするんだろう。ゴジラと戦う? それはあっても不思議じゃ無いかなあ。勝てそうだし。

 そんな「シン・ゴジラ」のフィギュアなんかも出ていた東京おもちゃショー2016のバンダイブース。アクションフィギュアっぽく関節が動いてポーズとかとらせられそうな、前々から出ているゴジラのフィギュアシリーズの最新作もあったけれど、そうしたシリーズとはまた別に、背びれみたいなのがぴかぴか光り鳴き声だとか、放射熱戦を発射する音なんかが鳴る「輝響曲」っていうちょっぴりゴージャスな仕様のものも出るみたい。原型とかしっかりしていて格好良さは抜群。ただ置物としてい楽しむなら、通常のシリーズでなおかつちょっと前にビジュアルが出ていたように、体の裂け目みたいなところから赤いのが見えているのが良いかなあ。強面で。エヴァ初号機みたいな色のもあったけど個人的には弐号機バージョンが欲しかった。片方の目がアイパッチで塞がれていればなお結構。出ないかなあ。

 「東京おもちゃショー2016」ではとりあえずタカラトミーのブースで「タイムボカン24」の玩具関連の発表会を見物。篠崎愛ちゃんが出てくるってことは聞いていたけれど、過去のタイムボカンシリーズを手がけたアニメーション監督の笹川ひろしさんと、そしてレベルファイブを率いて「妖怪ウォッチ」なんかを爆発的なヒット作にした日野晃博さんがアニメーションのキャラクター原案だとか、メカの原案なかを担当しているからと登壇したのにはちょっと愕いた。

 笹川さんは前に「ヤッターマン」のリメイクが行われた時にも見かけたし、インタビューなんかもしたことがあるけれど、その時も結構なお歳で現場の一線にこれからどれだけ立てるんだろう、なんて心配も浮かんだ。でも2016年になって年齢もなりながら、かくしゃくとして話もしっかりとした姿で登壇しては、40年以上も前に作られた作品が今、またこうやって蘇ることへの喜びを話し、そして「現代アニメの妖怪である日野さんと一緒にお仕事ができる、日野さんがタイムボカンに関わってくれることにドキッとした。本当に驚異的な出来事だと思いました。嬉しいです」と満面の笑顔話して、日野さんというはるか後輩に敬意を示す人間の大きさを見せてくれた。

 「どんな広がり方をしていくか、その成り行きが楽しみです」というのはやっぱり日野さんが「ダンボール戦機」とか「妖怪ウォッチ」を通して子供たちに新しい遊びを広め、作品としてヒットさせた経歴を買ってのことで、40年前へのノスタルジーでは無いところに「タイムボカン」が浸透していく可能性に期待している雰囲気がたっぷり。そんな日野さんはといえば「本当にもったいないお言葉。こうやって声を掛けていただいて、笹川さんとアイデアを出したり企画させていただいたりで大変に光栄です」と恐縮した態度で、レジェンドともいえるクリエイターへの敬意ってものを見せていた。子供の頃に見ていた番組を作っていた人が前にいて、自分を頼ってくれる。クリエイターとしてはこんな喜びはないだろうから。

 とはいえやっぱり気になるのは、作品自体の出来って奴で「タイムボカン24」、時間旅行はテーマになってはいるけれども歴史ってものを別の方向から見直すような「歴史発見」系のストーリーが軸になるみたい。もちろん史実を追うと言うより歴史を面白がるという意味で。そこから歴史への興味を抱けそうだけど、妙な歴史修正主義だけは入れないで欲しいもの。笹川さんなら大丈夫とは思うけど。あとメカはやっぱり「メカブトン」が登場するけど、車輪じゃ無くて足がついてておまけにロボットに変形し、なおかつ別のメカと合体していろいろな形態になるみたい。蜘蛛とくっつくと拳骨になるのはびっくり。必殺技として出てくるのかお仕置きに使われるのか。そこが楽しみ。

 お仕置きと言えばマージョ様ならぬビマージョ様というのが出るそうで、そのコスプレを篠崎愛さんがして登場、むっちりしてた。むちむちしてた。とても良かった。ワルサーとグロッキーは前々からのデザインを踏襲しているけれど、声だけはたてかべ和也さんも亡くなられているし八奈見乗児さんもご高齢だし、変えてくるだろうなあ。「夜ノヤッターマン」みたいに平田広明さんと三宅健太さんだったら格好いいけどそれだとビマージョを喜多村英梨さんがやる訳にはいかないし。かといって能町みね子さんでも……。ってことで目下の興味は三悪のキャスティング。秋からの放送を今は楽しみにして待とう。日野さんが関わるからにはゲームにもなるのかな。そこも気にしていこう。

 デジタルハリウッド大学の公開講座でアニメーターで演出家でもアルりょーちもさんの話を伺う。最近だと「亜人」なんかで演出に関わっていた人。あれでも「亜人」って3Dで作ってて、バリバリとすっげえ動きを描くりょーちもさんとは真逆の作品じゃんって思われそうだけれど、そういった個人の得意技とは別に新しい分野に関わることで何かを学べるってことも考えて、ポリゴンピクチュアズが手がける3Dを使った2Dルックなアニメーションの制作現場に入れてもらったらしい。すっげえ前向き。そして未来志向。

 そんなりょーちもさんいよれば、「亜人」で1話分に関わる人員と、2Dの作画アニメのそれとの差はずいぶんとあるらしい。それって2Dが少ないかって言うと逆。2Dだと原画動画演出彩色等々がずらずら並ぶけど、3Dの「亜人」だと10数人。それであれだけの作品を作ってしまうんだから愕くばかり。ただし、初期設定にかける時間と費用は2Dの比じゃ無く3Dの萌芽凄い。それは制作するにあたって最後までを見通して、しっかりと段取り決めなておく必要があるから。最終的にどういう絵が、映像が欲しいかを考え舞台を設計し、カメラワークを決めモーションキャプチャなら演技してもらい場合によってはセリフを先取りして素材を作り、つまんでリールを作りポスプロして撮影もしたりしてと、事前に相当な段取りを決めておく。

 これが2Dだと、コンテがあればカットを巻いて原画さんいにあとはよろしくとやって、集まったのを作画監督が修正して動画に回し撮影やら効果でえいやっと整えるようなことが可能になる。3Dでは無理。誰が欠けても動かない。それだけに全員がエキスパートでいる必要がある。ただ、そうなることで3Dの現場では、できっちりとスケジュールが組めるしクオリティもコントロールできる。舞台とか動きとかライブラリにして応用できる。作っていくことでコストも下げられる。土日も休める。良いところづくめ? 工程でいえばそうだろう。だからりょーちもさんは、そんな制作環境を持った3Dのアニメーションが、1度2Dのアニメーションを席巻してみるのも面白いかもといったことを話していた。

 滅ぼすとか対抗するという意味じゃなく、3Dならではの制作環境やら作品作りへの意気込みやらを感じ取ることで、2Dにある悪い部分が改善されつつ良い部分が見えて来て、それを取り入れのバスことで2Dのアニメーションが大きく改善するってことらしい。無駄が減り工程も管理されアニメーターの働く時間も少なくなって生産性は上がり給料は増え……ってことになるかはともかく、クオリティは上がっていくんじゃなかろーか。っして3Dにも2Dの良いところが還元されて共に高まっていけると。今は出遅れている3Dの表情付けだって、手がける人に演技への意識が出て、モデルを動かす技術が溜まればちゃんと出来るようになるとのこと。もちろん2Dの手描ききの良さはあるけれど、1度3Dを経験しておくことで得られるものもありそう。だから「亜人」をやったりょーちもさんが次、何を作るか? それが楽しみ。


【6月8日】 2008年にはまだJ1にいたジェフユナイテッド市原・千葉が、ナビスコカップに出場していてフクダ電子アリーナで川崎フロンターレを観に行った6月8日。もしもこれがリーグ戦の期間中だったら、J1の試合は日曜日ではなく土曜日にあってそちらを観に行った翌日に、秋葉原へと出向いて歩行者天国をぶらぶらと歩いていたかもしれない。その前週も秋葉原に行ってコスプレイヤーがくつろいでいる姿を見ていたくらい、時間があったらだいたい秋葉原に行っていた。そしてもしかしたらあの事件に遭遇していたかもしれない。そう思うと自分にとってあの事件は、あり得たかもしれない悲惨を偶然によって避けられただけのことであって、決して他人事とは思えないなかった。あそこに血まみれで倒れていたのは自分かもしれない。そんな思いにとらわれた。

 だから翌日、秋葉原に行ったし翌年もまた翌年も、6月8日には秋葉原に行ってソフマップの前に積み上げられた花束に向かって手を合わて黙祷している。今年もやっぱり行って黙祷。ソフマップの壁面にはカメラマンとか記者が張り付いてはやって来る人たちから話しを聞こうとしていたけれど、秋葉原的ではないビジュアルのおっさんに聞いたところでハマった感じは出ないのか、誰も寄ってこなかったのは喜ぶべきか哀しむべきか。見渡しても以前のように献花台を取り囲むような人垣はなく、通りがかっても振り向いて近寄って手を合わせる人もほとんどいない。

 風化、というよりは8年も経って秋葉原に来る人たちの世代も巡って、国籍も広がってあんな事件があの場所であったってことを、知らない人たちが増えたんだろう。中学2年生が修学旅行で来ていたとして8年前はまだ小学校に入る前。同じ頃合いに僕がテレビで観ていた浅間山荘事件のことを僕は覚えているけれど、フルタイムで生中継された浅間山荘事件とは違った秋葉原の事件のニュースを、ほかに娯楽も多い時代にテレビに釘付けになって観ることもないだろう。そんな世代がこれからどんどんと育ってきて、秋葉原の交差点にたたずんで黙礼する人も少なくなっていく。そんな気がする。

 ただやっぱり、当事者にとっては永遠に忘れることができない事件。ソフマップ前から少しヨドバシカメラの方へと歩いたマクドナルドの前にある植え込みに、ひっそりと花束が2つほど置かれていた。あの事件ではたしかひとりがその場所で亡くなっていた。事件の後にはそこに慰霊の花束を置く人も多くいたけどだんだんと、記憶から下がってソフマップ前に集約されてしまった感じ。でもたぶん、覚えている人はいてその場所にひとつの思いがあって花束をおいた。誰に観られずとも自分にとって大切な場所だと思って。そういった記憶を決して忘れることなく引き継ぎつつ、自分だったかもしれないという思いを引きずりながら僕も可能な限り、6月8日はあの場所に立ち続けることだろう。自分がそう、向こう側にいた可能性にも思いをはせながら。合掌。

 ジェフ千葉の選手もいないんで興味も薄れているサッカーの日本代表がキリンカップで試合をしたそうだけれどボスニア・ヘルツェゴビナを相手に1対2で敗戦してキリンカップとやらを逃したとか。4チームが出て総当たりではなくトーナメントとか意味不明なマッチではあるけど、9月から始まるらしい2018年のワールドカップロシア大会への出場を決める予選に向けて、いろいろと選手の資質もみたい試合でそれに見合ったプレーぶりを見せた選手がいなかったことが、ハリルホジッチ監督の怒りを読んでいるとでも言うんだろうか。

 守備への意識とか最後まで気を抜かない戦いぶりとか、基本以前の問題で困っているところが見え隠れするだけにハリルホジッチ監督もいろいろと悩んでいるなじゃなかろーか。これがオシム監督だったら何年か日本で監督やってプレーぶりも知悉した上で、どう刺激すればどう動くかを知っていた。それをやったから底上げが出来て南アフリカ大会での躍進もあったけど、ザッケローニ監督にはそれがなく、アギーレ監督がたたき直そうにも時間がないままハリルホジッチ監督へと渡され、ここまでプロサッカー選手としての基本が滞っていたかと驚いているかもしれない。

 まあ香川真司選手や本田圭佑選手や岡崎慎司選手といったベテラン勢は分かっているんだろうけれど、その下の世代に引き継がれてないからなあ。まあまだ時間はあるし、とりあえずリオデジャネイロ五輪でのU−23の戦いぶりを確認した後で、チームに必要な選手を呼び、チームに必要な戦術を植え込み意識を改めて臨むってことになるのかな。夏休みなんてなさそうだな。

 英国ではとっくの昔にマーガレット・サッチャーが首相となっているし、ドイツでもメルケル首相が誕生して女性でありながらも先進国の政治を率いてそれなりの評価を得ている。アジアに目を転じればフィリピンにアキノ大統領がいて韓国にパク・クネ大統領が誕生してと、女性が一国を率いるケースは増えていたのに、民主主義をリードするアメリカ合衆国はまだそこまでの変化は来ていなかった。それがいよいよ変わりそう。

 ヒラリー・クリントン前国務長官がどうやら民主党で大統領候補として指名される見通しで、これで共和党から出てくるあろうドナルド・トランプ候補に勝てば、栄えある合衆国大統領の地位に女性として初めて就くことになる。黒人として初の合衆国大統領となったバラク・オバマに続いて起こった大きな変化。それが政治に、経済に、社会に、世界にどれだけの動きをもたらすかは分からないけれど、気持ちとして大きく解放されたことは確かだろう。

 オバマが大統領になったからといってマイノリティへの差別が減った訳ではないし、黒人を白人の警察官が射殺したからといった一件が騒動へと発展するケースも出ている。ヒラリーが大統領になって女性が“解放”されるとも思えないけれおもただ、そうした方向を遺棄せざるを得なくなる。それはアメリカ国内のいならず、世界へと波及して日本にも及ぶ。そんな結果が何を生むか。初の女性首相か。それがいわゆる右寄りな可能性もないでもなく、厄介さは漂うもののそれでも変わらないよりかはまし。もちろんトランプ候補が未だに戦っている意外もあって先は見えないけれど、そうなった時から先にいろいろ期待を抱きながらどうなるかをみまもりたい。

 チーム8が観られるってんで朝日新聞のデジタル部門が始めるバーチャル甲子園の発表会へ。バーチャルなんて就いているからVRヘッドマウントディスプレイでも使って甲子園の大会をマウンドから全天周で見渡せるような中継でもするかとうとそうではなくて、全国の地方予選から何試合かをネットのアプリを介して中継するっていうもの。それぞれの県では放送とか紹介はされていてもそれ以外の地域からは映像とかは観られず試合結果も追いかけるのは面倒くさい。それをポータル化した上に試合のネット配信を付け過去の試合のアーカイブ配信も行うことで甲子園ファンを引きつけようって感じになっている。

 それもこれも夏の全国甲子園野球大会を主催している会社だから出来ること。もちろん炎天下で試合とかすることへの批判めいたものはずっと出ているけれど、一方でそうした甲子園の試合を大切なコンテンツとして観て楽しんでいる層もいる。そうしたファンを掴んで引きつけるサイトとして価値はあるし将来性もありそう。難しいのが映像の袖手だろうけれど、そこは朝日放送を拠点に全国のテレビ朝日・朝日放送系が確保してアップしていくんだろう。ネットワークを持った会社は強いなあ。フジテレビ系も何かやれば良いんだけれど、春高バレーってそこまで緻密に取材しているんだろうか。していたってコンテンツとしては弱いのか。やっぱりネット時代は富むところがさらに富み、持たざるところは落ちていく二極分化が進むんだろうなあ。チーム8は観たけど誰が誰やら。でも方言しゃべってた子たちは可愛かった。人間ちょろい。熊本弁とかしゃべるバーチャル女子にヨロめくのも分かるなあ。


【6月7日】 質の高いプレーを見て、自分のプレーに何が足りていないのかを知ることは重要だし、決勝のような晴れ舞台に立って満員の観客に囲まれながら、プレーを見せる喜びを、たとえスタンドからでも感じ取ることは、プレーヤーにとって将来に大きな励みになるだろう。だから、高知県で行われる高校野球の県大会の決勝に、県下の高校の野球部に所属する選手たちが出向いて行って、県内の高校生では最高峰となるプレーを観戦すること自体は否定しない。そのために高校野球の団体が、決勝大会の外野スタンドを無料で開放するというなら、受けてのぞきにいってみるのも悪くない。むしろ自分にとって勉強になって良いかもしれない。

 ただ、それは学校が部員に対して強制するような類のものではないし、ましてや高校野球の団体が義務として野球部員に観戦するよう要請するのは筋が違う。そうやって押しつけられて見た試合のどこに喜びを感じて感動を覚え、自分たちのプレーに繋げ後生へと野球の楽しさを語るような要素があるだろう。炎天下、はるばる遠方から自分たちの練習を脇に置き、あるいはすでに引退を決めて次のステップに向けて動き始めていたにも関わらず、駆り出されて見せられる自分たちとは無関係の学校、将来の敵とも言える学校の試合にストレートな感動なんで抱けないし、応援なんて出来るはずも無い。

 そんなネガティブな集団を外野スタンドに招き入れていったい、どんな効果があるというんだろう。「やる気を引き出せる」とか行ってる関係者もいるみたいだけれど、むしろ逆効果なんじゃなかろーか。日刊スポーツとかは3年生は自主的に観に行っているけれど1年生や2年生は練習があって行けないという、だから強制がありがたいと関係者が話しているって書いている。だったらその日は練習を止めればいいだけのこと。それで行くも行かないも自由にすれば、自主練習をする者、観に行って糧にする者といった具合にそれぞれの目的にかなった行動を選べ、自主性の育成にだって繋がる。

 なんてことはちょっと考えれば分かるのに、強制万歳と言える大人たちの、とりわけ高校野球に関わっている大人たちの思考のねじれっぷりはいったい何なんだろう。いや、30年前ならそれもありだったけれど、今の時代にはそぐわないといったところ。これがサッカーだと大きな大会があればそこに地元の学生とか、あるいは登録選手とかについては安価なり無料で試合を見られるように日本サッカー協会なり、各都道府県にある協会が配慮をして見に来てねってプレーヤーを誘う。そうやって試合を見た中から、自分もいつかあそこにと思い頑張る子供たちが生まれている。そういう成果を横目に前時代的な強制を行い、それが教育と考える思考が変わらない限り、聖域化された学校なり部活動でいろいろと問題が起こり続けるんだろうなあ。やれやれ。

 「サブカルとはAKIRAであり、AKIRAとはサブカルの権化といっても過言ではないやつ!」。それは果たして真理なのか、それもも誰かの勝手な思い込みなのかは分からないけれど、あれだけの分厚さを持って判型も大きなコミックの単行本が6冊も並んで、本棚なりベッドサイドのカラーボックスなりを埋めている部屋の主が、いわゆる純文学的でフランス映画的で純粋にまっすぐな文化系だと言って良いかは迷うところ。一方で漫画は好きだけれど、美少女がくんずほぐれつしていそうなハーレム漫画とか、学ランのヤンキーたちが拳で語り合うような学園バトル漫画をいっぱい並べて読みふけるような人間を、サブカルと言えるかというとこれも難しい。

 だから「AKIRA」が分水嶺になりメルクマールになる。クールでスタイリッシュでエキサイティングでサイバーな漫画を敢えて選んで部屋に置き、読むか読んでいるふりをしている人間をど真ん中のサブカルと言うことによって、サブカルがひとつの形質を持って世に可視化され、そこを起点にどこまでがサブカルでどこからオタクか、あるいはパンピーなのかを見極められるといったところか、違うのか。分からないけれどもともかくサブカルとは何で、そして何がサブカルなのかを考えさせてくれる作品であることは確か。それが「しにがみのバラッド。」のハセガワケイスケさんによるメディアワークス文庫初登場作品「いのち短しサブカれ乙女。」(570円)だ。

 北海道から上京して女子大に入り、寮に入居した樋口愛李という女子がひとりで部屋にいたところ、扉を叩いてとてつもない美少女が入ってきた。それがノアちゃん。引っ越しそばを新入りが配るのとは逆に、先に入寮していたらしいノアちゃんはB5サイズで厚みも2センチくらいある長方形の平べったいものを引越祝いとして愛李に手渡した。それが「AKIRA」の単行本の第1巻だった。でもどうして。と愛李が思ったのも当然だけれど、そこでノアちゃんが言ったのは「ピンときた」「コレしかない」といった理由。ってまるで理由になっていないけれど、ノアちゃんは愛李はサブカルではないかと想い、問い詰めそして彼女の期待に応えたいとサブカルに頑張ると応えた愛李は、そのままノアちゃんの下でサブカル修行を始めることになる。

 そして始まるノアちゃんによるサブカル講釈。例えばサブカルはきのこであり、サブカルはお寿司であり、サブカルはベレー帽であり、サブカルはヴィレッジヴァンガードでありといった具合。そこで間違えてはいけないのが、ノアちゃんはサブカルではあってもサブカル女子ではなく、ましてやサブカル糞野郎ではなく、愛李にもそうはなって欲しくないと思っていること。もちろんキモヲタも。というかサブカル糞野郎とキモヲタは鬱陶しいことでは共通で、たとえ罵りあってはいても傍目には「千葉vs埼玉」であり「栃木vs茨城」のようなもので、どっちも同じように見えるらしい。そうなのか? そうかもな。

 じゃあサブカルは違うかというと違っているとるからノアちゃんはサブカル女子をファッションと唾棄し、サブカル糞野郎にも同様の魂の無さを指摘して、自信は魂を持ったサブカルであり続けようとする。浅野いにおの漫画はそんな区別をつけるための分水嶺でもあるみたい。なるほどサブカルの登竜門であって引きつけられるのは分かるけれど、そこで暗黒面にハマるととたんにサブカル糞野郎へと堕してしまう。ファッション性をのみ見いだし、読んでいる自分が可愛いなり格好いいだなんて思ってしまうことで起こるサブカル糞野郎への堕落を、それでも我慢して読み続けるかそれとも置いて別のを選ぶか。そこにサブカルであることの難しさがあるのだとかどうとか。いやそんな大げさな。でもまあきっと本当のサブカルではないサブカル糞野郎にしてキモヲタな自分だから、ノアちゃんの言う覚悟めいたものが分からないのかもしれない。勉強しないとサブカルを。この本を読んで一生懸命に。

 2005年に「BLOOD+」に関連した講演があるってんで行った東京大学の安田講堂の裏手辺りを11年ぶりくらいにのぞいたらローソンができていた。2005年には出来ていたそうだから結構経つけど、かつての安田講堂攻防戦なんかを見知った目にはやっぱり新鮮というか、これがあったら立てこもった人たちも飲食は万全で、発売日には少年マガジンだって朝日ジャーナルだって買いに行けたよなあとも思った。朝日ジャーナルってコンビニに並んだっけ。まあそれをいうなら安田講堂の直下に東大の生協も今は入っているんだけれど。

 そんな東大で何かビッグデータを活用したライフスタイル認証実験ってのを始めるって発表があったんで見物。買い物に行ってもお金を出したりクレジットカードを見せたりして決済してもらわなければ終わらない買い物を、たとえば入って商品を持ち出して外に出た時点で決済が終わっているようにはできないか、って話し。それなら個々の商品にICタグを付け、無線で精算をすれば良いだけなんだけれどその過程で誰がそれを持ち出そうとしているか、っていった認証が必要になる。

 持ってるクレジットカードの情報もいっしょに飛ばして決済する? それも大変そう。あるいは持ってるスマホが決済の端末にもなって支払いが終わっているとか。それでも本人と確認できるのか。セキュリティ的に万全なのか。読み取りにミスは生じないのか。ってあたりを詰める必要がこれからはありそうで、その前段としてネットでのショッピングなり電子チラシの閲覧時に、データを集めていくような試みをするらしい。参加するのが凸版印刷の電子チラシのシュフーだったり、小学館の漫画サイトのマンガ・ワンだったりとサンプルがちょっと見えないところもあるけど、今は名前が挙がっているのがそれだけで、いずれもうちょっと増えて大規模な実験が行われるようになるのかも。

 でも究極は人間にバイオチップを埋め込み、マイナンバーと紐付けして口座と連動させつつ商品をICタグなり画像認識でサーチして、持ち出したらその場で決済されるようにするのが万全なんだろうなあ。そうした買い物データも勉強のデータも仕事のデータもお使いやお手伝いのデータも全部サーバーに蓄積され、行動はカメラによってすべて把握されて、妙な動きをすれば、あるいは騙そうとすればすぐにサーバーから官憲に連絡が行って取り締まられると。でもってそうした罪が重なれば、生きている価値なしと街頭から光線が発射されて消去される。それ何て「PSYCHO−PASS」って感じだけれど、ロシアとかじゃあ街頭のカメラから行動を監視して予防措置を講じる動きもあるとか。あとは個人と紐付けし、シビュラシステムと直結すれば良いだけ。買い物の便利さを切り口に、だんだと日本にも全面監視の時代がやって来るのかも。


【6月6日】 雨ざあざあ降ってない。そして見た「真田丸」の沼田裁定回、出るたびにミスをしでかし立つ瀬が無くなっていた片桐且元に晴れ舞台が回ってきて、パワーポイント……ではなくフリップでもなく巻物的な図面を見せて豊臣秀吉に沼田城を状況を説明する大役を得たものの、話しが長いと秀吉に突っ込まれてショボーン。この後、秀吉が死去してからは豊臣家の家老として采配を振るい、関ヶ原の戦いでは西軍に付いたにもかかわらず、徳川家との調整役を務めて生き延びる片桐だけれど、迎えた豊臣末期、方広寺の梵鐘に刻まれた言葉に端を発した家康による豊臣攻めで間に立って調整役に奔走したものの、豊臣方から疎まれ家康側に付き、そして大坂の陣を越えて、さあいよいよ浮かぶ瀬もあるかと思ったところで死去。やっぱり最後までついてない。

 けれどもそこに至らず死んでいった石田三成や加藤清正といった秀吉配下の同輩たちに比べれば、それなりに充実した人生を送れた方なんじゃなかろーか。脇坂安治や加藤嘉明のように子々孫々が残った七本槍仲間もいるだけに、突出して幸運だっとは言えないかもしれないけれど、少なくともこうやって歴史に名を刻んで大河ドラマにも登場できた。それも何度も。そしてきっと最後まで。途中で次々にナレーションによって沈められていった面子に比べれば、これはこれで幸運と言えるだろー。言わないと。

 そんな沼田裁定で、真田信繁と向かい合って言葉を尽くした北条方の外交僧、板部岡紅雪斎を演じた山西惇さんがまた迫力の演技。顔を歪め真っ赤にして怒り恫喝。でも陰では自分は戦をしたくないんだと信繁に告げ、そのために言葉で戦っているのだとも言うあたりに知性が滲む。そんな山西さん、昔は「ムイミダス」とかその辺で、古田新太さんやら生瀬勝久さんあたりと競い合って莫迦やってた若い小劇団の役者だった。そこから20年以上を経て良い味を出せる俳優になったって感じ。それは生瀬さんも古田さんも同様か。これで顔を売り名前を知ってもらって山西さん、すでに名脇役だけれどさらに大きな役が回ってくるかも。

 他にもそんな役者がいっぱい。顔が良くて名も知られたアイドル系で固めずとも、面白ければ視聴者は呼べてそこでファンにして次へと送り出せる。そんな装置としても機能している「真田丸」。三谷幸喜さんの手腕ってことになるのかな。一方で既に名は知られていても、今までの印象とは違った役を演じてもらって新しい境地に繋げる例ではやっぱり北条氏政役の高嶋政伸さんが凄そう。どちらかといえば生真面目な好青年といった雰囲気があった若い頃から、けなげな弟って役も演じていた中堅を経ていよいよベテランの域にも入ってきた昨今、この大河ドラマで権力者であり貪欲で傲慢さも持ちつつ雅やかな部分も持った関東の雄を演じて北条といった存在が、あの時代にどれだけ強大だったかを見せている。

 狂気にも似たその雰囲気はきっと次の役作りにも使えるだろう。犯罪者とか。政治家とか。ただやっぱり、あれだけ周囲が危機感を覚えて、次々と秀吉に臣従している中でひとり突っ張って、突っ張り切っては最終的に北条を滅亡へと導いてしまった北条氏政の判断が解せない。遠く離れた越後にいた上杉景勝でもちゃんと見極め秀吉に付き、遅れながらも秀吉の力を感じて真田昌幸も臣従しつつ、家康の下に入ることをのんだ。描かれなかったけれども西の方では島津が同じように秀吉に臣従したにもかかわらず、北条だけが残って突っ張り抜こうとした。

 状況が見えていなかったんだろうか。城の堅牢さに自信があったんだろうか。いやいやそうした局地戦の戦術で乗り越えられるとは思っていなかっただろうから、戦略として伊達を味方に付け家康も引き込み東日本に対抗勢力を築こうとしていたのかも。あるいは弱みを見せると多士済々な家臣たちに北条早雲の下克上よろしく立場をひっくり返される恐怖があったのかも。そうした思案をしている時間を与えない秀吉の動きが速くて力も強かった。誰も味方を得られないまま突っ込んでいった小田原征伐によって北条は滅亡。そこへと至る展開がしばらく「真田丸」で楽しめそう。久々の戦に信繁や信幸や昌幸がどう挑むのか。宮廷が舞台の法廷劇めいた昨今から一気にアクションへ、スペクタクルへと舵を切って視聴率、また上がりそうだなあ。

 えっとそうか口が開いて歯が並んで喉の奥へとつながっていて、そこからあれやこれや食べたりする訳じゃないのか、織口乃理子先生。真怪のひとりとして、峰守ひろかずさん「絶対城先輩の妖怪学講座八」(メディアワークス文庫)に久々に登場しては、頭の後ろにあるその口のケアを絶対城阿頼耶とは友人の杵松明人にしてもらっているけれど、別に噛みついたりはしないで絶対城が用意した薬のおかげで、だんだんと口が小さくなっていることを確認してもらっているといった感じ。そして絶対城が言うには、真怪であるという一種のエナジーが周囲にそれを口と見せているだけで、写真にとれは口に似た突起といった程度らしい。

 幽霊の正体見たり枯れ尾花。でもそんな枯れた花が人を惑わし多くを拐かせば立派な幽霊として存在してしまう。人間という高度な認識力をもった装置だからこそ起こる現象。そこに人間のエナジーも載ればさらに大きなことだって起こるのかもしれない。ダイダラボッチとか。そう、第8巻となった「絶対城先輩の妖怪学講座」でメーンとなるのはダイダラボッチ。発端は巡り巡って手に入った像だけれどもどうやらこれがダイダラボッチらしかった。それも女性の。どういういわれかをさぐってどうやらとある孤島にルーツがあるらしいとなって、絶対城がその像を持って島に渡ったものの突然の音信不通に陥る。

 心配して下級生として絶対城にこき使われている湯ノ山礼音や杵松、そしてその島に研究所を設けて火山の研究をしているらしい男が婚約者という織口らが島に渡って絶対城と再会したものの、突然の神隠しに遭ったかのように絶対城がいなくなってしまう。いったい何があったのか。そして何が起こっているのかを探った果てに浮かぶ、島を思う女性の強い願いが後生に伝わって今も残っているという不思議。現実に起こりえる中で枯れ尾花ではない妖怪を実在のものとして描くシリーズならでの意外な展開を楽しもう。

 言いたいことのために実は無関係な事象を持ってきては、その上っ面だけを引っ張ってほらそうでしょ、だからそうなんですといった具合に文章を組み立ててみせるのを、どこかの新聞がせっせとやっては牽強付会も過ぎるだろうと世間に思われ足を遠のかせている感じ。おかげで経営はひどいものだけど経費を削ってどうにかこうにか黒字を出して経営陣は安泰。でもそうやって抜本的な改革を先延ばしにしていくと、いつかどこかでパチンとゴム紐が切れるように経営が破綻してしまうんじゃいかなあ、なんてことも思いつつ読んだスポーツニッポンのコラム。曰く「浦和戦のスタジアムで感じる違和感 バックパスになぜ拍手?」って感じで浦和レッドダイヤモンズが最終ラインでゴールキーパーにボールを渡すプレーをあげて、逃げであり攻撃にかける情熱が足りず子供たちに示しがつかない、それがACLでの敗退に繋がっていると書いている。

 何という与太。さっそく浦和レッズの試合を見ているサポーターの人から、ミハイロ・ペトロビッチ監督の戦術として最終ラインでボールを回しつつ前線がファイトしてそこにボールを送り攻めていくというものがあって、そしてビルドアップの過程で相手がチェックに来たらディフェンスなり中盤をを戻すんじゃなく、ゴールキーパーにボールを渡してそこからディフェンスラインへとボールを渡し、新たな攻撃の組み立てを行うという。つまりはゴールキーパーは最終ラインのひとりであって一種のリベロ。ディフェンスラインでのボール回しの一種と言え、決して逃げではない。

 ミハイロビッチの師匠筋にあたるイビチャ・オシムさんもゴールキーパーをフィールドプレーヤーのひとりとして位置づけ、攻撃の起点にしたプレーを見せようとしていた。ドイツのノイアーのように飛び出して守り攻撃へと繋げるゴールキーパーを褒め称えてもいた。つまりは世界標準になりつつある戦術で、それを浦和レッズも取り入れてるだけだと言える。ただし、これを遂行するにはゴールキーパーが手ではなく足を使ってボールを受けてパスを出しフィードも行えるだけのキック力っが求められる。浦和レッズの西川周作選手はそうした足技に長けたゴールキーパー。だから最終ラインで前に出てボール回しに参加できる。

 そうしたチーム事情とそしてミハイロビッチ監督の戦術を普段から取材していれば、決して掛けないことをスポーツニッポンの記者は書いた。ACLで日本が負け続けていることへの批判、それは日本に攻撃のための情熱が薄いという理解、その象徴としてのバックパスへの批判を。でもACLで日本が負けているのはJリーグが参戦に配慮した日程とかを組まないからで、根性で勝てとは行っても資金も日程も与えないそうした組織への批判をまずは行うべきなのに、相手が怖いのかそうしない。そしてチームに理由を求めバックパスを多用する浦和レッズに情熱がないと難癖を付ける。恥ずかしいなあ。でも当人にはそうした声は届かないだろう。それが日本のマスコミって奴だから。夜郎自大。それで食べていられた時代も、すでに過去のものとなりつつあるのに……。さてどう出るか。次に書く文章を待とう。無視かなあ。


【6月5日】 遅れて「真田丸」の5月29日放送分を見て茶々と阿茶局と北政所の会話シーンで聞こえなくても鳴り響いている「ゴゴゴゴゴゴゴゴ」といった音に耳をふさぎたくなる。それは子を産んだことのない北政所が子を産んだばかりの茶々に対して抱いたものか、同様に子に恵まれなかった阿茶局が茶々に対して浮かべたものかは分からないけれど、最も大きく鳴り響いていたのは天下人の豊臣秀吉の子を授かって今が我が世の春とばかりに思っている茶々の世を圧倒する音なのかもしれない。

 それは棄松のその後でいったん途絶えるけれど、でもすぐ拾松が生まれてこれを何としてでも守らなくっちゃといった危害が豊臣秀吉に生まれ、豊臣秀次の排除へと向き逆らう者への果断な処置へと向かってそれが豊臣家内部に亀裂を招き、最終的な滅亡へと至るといった史実への萌芽が、あのシーンでも見られたといったことになるのかな。一方で天下統一のために残る最大の敵、北条との関係でも進展があって氏政上洛の条件として真田家が持つ沼田城を北条に明け渡せといった要求に、応えられない真田の声も受けて秀吉の前で意見陳述の機会が設けられる。

 本当だったら真田昌幸に北条氏直が出て徳川家康が見聞に入るのが筋だけれど氏政も氏直も来ずだったらと昌幸も出ず家康もそれならと本多正信を寄越して会場には昌幸の名代の信繁と北条の名代の板部岡江雪斎が居並ぶ代理戦争。いったいどんな言葉のやりとりが行われるかは次週に任せるとして、ここで山西惇さん演じる雪斎と向き合う信繁が古田新太さんで秀吉が生瀬勝久さんで正信が升毅さんだと違う番組になったかもなあとちょっと思ったり。懐かしきムイミダスな未確認飛行ぶっとい。そんな関西小演劇世代が朝ドラで大河で活躍してる状況が何か面白い。そして小演劇から出てきた役者を逃さず起用してくる三谷幸喜さんの手腕も。まだ見ぬ成田長親とか、誰が演じるのかなあ。ちょっとワクワク。あと甲斐姫とか。出るのかなこの2人。

 そうか葉っぱを土に差すと根が生えてやがて大きく成長するのかマンドレイク。滅多に穫れない珍しい草なはずなんだけれど、弘前あたりではきっと土壌がマンドレイクの成長にマッチしているんだろうなあ。そうやって増えていったマンドレイクがあちらこちらの庭で「オオオオオオオオオオ」と呻いている様子はさぞ猟奇的というか、魔術的な気も。でもって時々犬とかが引っこ抜いてしまって叫び声を聞いてひっくり返ってしまった犬の死体があちらこちらにごろごろと。それもまた実に悪魔的。恐ろしい町だ弘前市。そんなことはない。

 ってな訳で「ふらいんぐうぃっち」では倉本一家の奈々さんの仕事が絵本作家だと判明。動物になりきっていろいろな声を出す井上喜久子さんの芸達者ぶりに簡単しつつ、前週に喫茶店で千夏がキツネに出逢ってコンコンではなくヴァウと犬みたいに鳴くことを知った話が前振りとなって続いてたりと、構成の面でも単発で終わらせず全体を1つの作品にしていこうっていった意図が見えて面白かった。マンドレイクもその意味では第1話からの流れが効いているって感じだし、犬飼さんの再登場もそうした繋がりのひとつだし。

 そんな犬飼さんが犬の顔をしてヌッと現れてもまるで動じない奈々さんお胆力恐るべし。でもってブルキナファソで「ブルキナファソ」と日本語で書いてあるTシャツを買ってくる茜のお土産選びの下手さ加減もまた恐ろしいというか、千夏にあげたあのお面はいったい何の用途を持った面だったんだろう。呪術だったらヤバいけど、魔女だしその辺にはちゃんと配慮をしてあるか。圭にはいったい何をあげるつもりだったんだろう。折り紙の呼び出しでも起きなかったところはなかなか剛胆。というか無頓着か。そのあたりは奈々さん譲りかな。ともあれいろいろと出そろって、あとは順列組み合わせからいろんなエピソードを楽しめそう。マンドレイクが抜かれる日は来るか。犬飼さんが犬を辞められる日は。運び屋さんの再登場は。気にして待とう、残り話数。

 アグレッシブ烈子がやって来ると聞いて東京スカイツリーの下にあるテレビ局のショップが集まった一角へと見物に。やがてスカイツリー直下の広場から歩いてきたアグレッシブ烈子は表情も可愛らしく尻尾をふりふりしながら集まって来た人たちの写真撮影に応えたり、ショップにおいてあるアグレッシブ烈子のグッズを勧めたりしていたけれど、これで動員が重なって理不尽な要求も食らって怒りのゲージが吹っ飛んだ時、表情が豹変しては手にマイクを持ってデスボイスでもってデスメタルを歌い出してくれるのかどうなのか。そういう2面性を持ったキャラをこうやって立体化する難しさってやっぱりあるかなあ。ぐでたまは別の意味で無理があるけど。自分で動けず台車に乗せられ移動するんだイベントとかで。KIRIMI.ちゃんはちゃんと自分出歩けるのに。まっすぐ歩くと顔がぶつかって大変だけど。

 もちろんヘイトスピーチのためのデモなんてものをやるのが最大の問題であって、そういうのが法律的であろうと良心的であろうと認められない状況が来ることが最も喜ばしいんだけれども世間には、それを言いたくてウズウズしている人がいて、それを言うことでもってイライラを発散している人もいたりして収まる気配はなく、だから集会やらデモの自由なんかを掲げて官憲に申請を出して断られもするけど認められもして路上に出ていこうとする。そうした手続きを踏んだ“言論”に良心を求めて辞退を願うのは難しく、だったらと体を張っての抗議に出る人もいる。

 そこでもやっぱり段取りといったものがあって欲しいと願うのは、そうしなければいずれ法律も良心も無視をした嘲り合いから殴り合いへとエスカレートしかねないからであって、そうなった時に世間はヘイトの側だけでなく、ヘイトに対抗しようとしている人たちもそのやり口の段取りを無視した荒っぽさから、同じ一党と見て嫌悪を示して排除を使用とする。結果、どちらも消えてなくなるかというとやっぱり言いたい人たちは何をされても言い続けるだけという状況が続き、それに対するカウンターの手段は支持を失って相手の跋扈を許してしまう。

 公園での集会が禁止され、そして路上でのデモは許可が下りて実行されたもののすぐに押さえ込まれた川崎の例はともかく、渋谷でのターゲットを名目でも共産党に絞った相手に対してそれでも封印しようと許可の判然としない行為に出るカウンターが行われたことについては、デモの側だけでなくカウンターの側にも何をやっているんだろうといった疑問が向けられた。それは結果として共倒れではなく相手の跳梁を許してしまうことに繋がりかねない。必要なのは理性であり相手だけでなく周囲も含めた説得。そのためにもっと言葉を尽くして欲しいんだけれど、なぜか血気ばかりが先走る。どうしてなんだろう。いろいろと厄介。


【6月4日】 九州とか四国とかが順繰りに梅雨入りしていく日本列島だけれど、東京はまだ晴天で吹く風も心地よい日に、これからそれほど遠くない梅雨入りを先取りするかのような映画を観る。「雨女」。椅子が動いて煙りが出て霧が顔に吹きかかり雨が降って風も吹き匂いも出るという、ほとんど遊園地のアトラクションに近い体験が映画館でできる「4DX」のシステムのために造られた4DX専用の映画で、監督したのは「呪怨」が世界で大ヒットした清水崇さん。きっとあらゆるギミックを駆使して怖がらせ驚かせにかかってくるに違いない。足とか掴む装置なんかも付け加えたりして。

 ってことはさすがにないというか、すでに試写を観ているからどこで何が起こるかってことはだいたい知ってはいたんだけれど、そうした展開をあらかじめ知りつつ改めてどういうシーンで何が発動するかってことを確認しながら観ていくと、なるほど人間っていうのは動く映像から感じられる心理を、ピタリと刺激するようなアクションが重なった時にそれが映画館での作り物であっても、ギクっとするんだなあといったことが見えて来た。登場人物が足を掴まれるシーンとか、観客は別に足をぎゅっと掴まれている訳では無く、なにか風みたいなのが吹き付けられるだけみたいなんだけれど、それを足下で蠢く何かだと感じてしまう。雨も画面の中に土砂降りになっている訳ではないんだけれど、顔にぽたりと水滴が降りかかるだけで相当な雨だと感じてしまう。

 加えてゆらゆらとした椅子の動きがカメラによる視点の移動と重なって、それを観ている登場人物の気持ちにシンクロして、恐怖なり猜疑心といったものがわき上がる。ホラー映画の場合はそうした怖がらせをこれまで映像だけでやって来たけれど、そこに4DXという仕掛けが加わったことで、今までとはまた違った“ホラー映画”を世に送り出せるかもしれない。すでにある劇場映画を4DX使用にして怖さを加味するといったやり方ももちろんあり。一方で4DXのギミックをあらかじめ想定して、ストーリーを作り画面を作るってやり方も増えていくのかな。「雨女」の場合はとにかく雨を降らせるといったことが目標だったし、次は霧吹きを多用して全編でスプラッタが繰り広げられる映画なんかを作るかも。その色も赤にして。白い服では来ないでください的な映画として。

危篤といった報から間を置かずに、プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリが死去。カシアス・クレイといった名で戦っていた時代は知らないし、キンシャサでジョージ・フォアマンを相手に奇跡の大逆転を演じた試合も見てはいないけれど、その名前はボクシングの世界に燦然と輝き、偉大にして不世出のボクサーだといった認識を知らず植え付けられていた。だからあのプロレスラーのアントニオ猪木とプロレスのリングで戦うとなった時、いったいどんな戦いを見せてくれるんだろうか、やっぱり凄いパンチに対して猪木がキックを見舞い卍固めを決めてギブアップを奪うんだろうかといったワクワク感で着けたテレビに誰もが驚き、同時に落胆した。

 アリはパンチを放ってなかったし、猪木は体をぶつけて卍固めにいくようなことはしなかった。もう最初から猪木はアリの足下に転がり、ふくらはぎに向けてキックを放つような感じで最後まで通して、そこに力と力、技と技のぶつかり合いのような格闘は見られなかった。後でいろいろレギュレーションがあって、不利と感じた猪木がそうするしかないと寝転がってキックだけを放ったといった話も伝わってきたけれども真偽は不明。ただ、感じとしてやっぱりまともに食らえばアリのパンチは凄まじく、だから間合いを取る以上に寝転がってパンチを避けるしかないのかなあと子供心には思った。

 もしもガチでぶつかり合ったらどっちが勝ったかは今もって不明だし、そもそもがガチだったからこそ猪木はアリのパンチを避けて、寝転がり続けたのかもしれない。そして両者にとって少なくとも、あの試合が茶番でもなければやらせでもなく、エキシビションでもなかったことは後々まで2人の交流が続いていたことでも分かる。いつか再戦をとも思ったけれどアリは体を悪くして、1994年のアトランタ五輪では聖火ランナーの最後として登壇しながらその震える手でトーチを持った姿を全世界に見せて、病の重さを感じさせた。それから20余年。生き続けながらもやはりきたその死をもって、ひとつの時代が終わったような気がする。あとは猪木の訃報を聞いて、決着めいたものを感じるんだろうなあ。それがいつになるか分からないけれど。元気だものなあ、猪木。

 知性とか、理性とか、品性といったものの存在を、疑ってみたくなるような、そんな言葉が看板の1面コラムとして掲げられ、ひたすらに唖然呆然としている朝。まあ、いつものことなんだけど、今回はまた支離滅裂ぶりが際立っていて、どういう思考からこういったロジックが出てくるのかを分析したくなる。って実際のところは、我らが安倍総理を批判する野党議員をこき下ろしたい、って1点から肉付けして行っただけなんだろうけど、しうした見え隠れする裏を気にせず自分の思うがままに書いて世間にみっともなさをさらけ出して、なお平然としていられるところがひたすらに凄い。

 例の北海道で子供が置き去りにされた一件を取り上げたのは、前日にオバマ大統領が広島で歴史的な演説を行ったことを翌日のコラムでにまるで触れなかった前週よりは進歩かもしれないけれど、そうした話題から大人のしつけがなってないって話に持っていく流れがとにかく八艘飛び。そして野党議員が安倍総理を批判する言葉を勘違いも交えて持ち出した事を批判し、こうした国会議員が多い事をあげて、事もあろうに子供に潜入されたり、演習で実弾を配ったりとミスの相次ぐ自衛隊に入れて鍛え直せという超展開へと持っていく。時流を踏まえれば言えないことなのに、野党議員を批判したいという1点さえ叶えば、他のロジックが支離滅裂だろうと、牽強付会が甚だしかろうと気にしない。

 だったら国会でヤジを飛ばして議長から窘められ、あとで撤回するようなことを繰り返している安倍総理はどうなんだって話しにもなるし、不倫して辞職した与党の国会議員とか贈賄を疑われてとりあえずは不起訴になったけれど、いずれ検察審査会の方から話しを持ってこられそうな前の大臣とか与党にだって品行方正とは言えない議員がごろごろしている。そうした人たちこそを率先して自衛隊に放り込み、国を率いる選良として立ち直ってもらおうといった話にするかというと、まるで考えてはいなさそう。だって野党を批判することが目的なんだから。北海道での一件もそのための材料。だからそのことにたいする批評も解決策もまるでない。そんなものを書く方も載せる方もどこか何か大切なことを忘れているんじゃないかって声も起こりそうだけれど、当事者とその周辺にはまるで聞こえてなさそうで。やれやれ。

 ささきいさおさんと水木一郎さんの競演を、2010年代も半ばを過ぎて生で見られる幸運を喜びつつもそんなささきいさおさんによる「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌が聴けた理由が、「スーパーロボット大戦」の最新作となる「スーパーロボット大戦V」に「宇宙戦艦ヤマト2199」が登場するからっていうことに、どういった顔をしたら良いのかちょっと分からないといった人が結構いそう。だってロボットじゃないし。戦艦だし。それを言うなら「宇宙戦艦ナデシコ」だって出てるじゃないって話になるけど、そこから引っ張られているのはもっぱらテンカワ・アキトが操縦するエステバリスだから戦艦がメーンじゃない。だから出ても大丈夫。

 でも「ヤマト」は違う。宇宙戦艦。そして波動砲。星すら吹っ飛ばす威力を持った武器を搭載して参戦したら、チートになってしまいそうだけれどそこはガンバスターだって登場して普通に戦っているゲーム。ヤマトもそれなりのパラメータになって突出するようなことにはならないと信じよう。そういえば水木一郎さんと水樹奈々さんが並んで歌っていたなあ。貴重な機会。これが見られるのも何でもあるの「スパロボ」のおかげ。ありがたいありがたい。でも1本もやったことないんだよなあ。Vはやってみようかなあ。


【6月3日】 幻の銀水晶ごと魂まで持って行かれたちびうさの心臓が止まってしまって事実的にはご臨終。でもそこはちびうさだけあって、まもちゃんと手をつなぐことによってエナジーが供給されて生体は温存されるみたい。つまりは植物人間的な状態だけれど魂を取り戻してくればちゃんと生き返る。そこはやっぱり常人と違うといった感じで話しが始まった「美少女戦士セーラームーンCrystal」の第3期。カオリナイトがいよいよ立ち上がっては妖怪変化となってセーラームーンたちの前に立ちふさがり、ついでに倒したはずのウィッチーズ5も復活して1話限りのやられキャラではなかったところを見せてくれた。担当した声優さんたちもこれで気持ちも晴れただろう。

 でもそこはやっぱりやられキャラ。籠絡したはずのセーラー戦士たちに対して残ったセーラームーンと、自分たちは自分たちの道を行くと言って離れたセーラーウラヌスやネプチューンやプルートたちが現れ味方となって力を貸して、セーラー戦士たちを取り戻してカオリナイトもウィッチーズ5も闘滅する。なんだこのツンデレちゃんたち。とはいえ敵はまだまだ強大。見てくれこそミストレス9ではあっても中には土萌ほたるも存在する訳で、真正面から滅ぼすのにはためらいもある。そんな戦いをどう凌いでいくのか。ってあたりがこれからのクライマックス。オープニングもももいろクローバーZに替わって堀江美都子さんとはまた違った雰囲気を聞かせてくれる。エンディングはタキシード仮面の一人舞台。音楽的にも楽しい第3期を最後まで注目したい。

 想定には、すでに別の場所で失われていたのをそうでないようにカムフラージュするため、ありもしない躾を言い出しそして置き去りにしたまま消えてしまったと言いつのっているんじゃないかといったものもあったけれど、初期の段階でそうした味方を警察がとらず、自衛隊まで駆り出して捜索に当たっていたところに事態の信憑性も感じられたといったところ。そうなるといったいどこに消えたのか? ってのがポイントになっていたけれど、まさか5キロも離れた場所まで行って、そこにあった自衛隊の施設に入り込んで寝泊まりしていたとは、当の自衛隊だって気付かなかっただろう。演習場だから普段使うものでもないし。ともあれ無事で良かった良かった。心にトラウマとなって残ったり、親への不信が募ったりしないことを願おう。

 今日も今日とてインテリア ライフスタイルに行っておとといに見逃したコーナーなんかを観察。朝の「スッキリ!」でも取り上げられていて、おしゃれな雑貨がいっぱいある場所としてわんさか取材も押し寄せているかと思ったけれど、ご近所にあるテレビ局とか来ていた雰囲気はなくってせっかくのネタを見過ごしてしまうその腰の重さが、あるいは民放4位だなんて場所へと身を落とす原因になっているのかも。それとも取材に来てたんだろうか。まあいいや。そんな「スッキリ!」にも出ていたディズニーのプロパティを使った品々が集まるコーナーがあって、おとといはちょっと寄れなかったんで改めて見物。見て思ったのはギフトショウに出てくるキャラクター商品とはまた違った、キャラクターの使い方ってのが見えるコーナーになっていた。

 子供でも分かりやすくキラキラとしてキャラクターが前に出てくる感じのグッズが多いギフトショウに対して、インテリア ライフスタイルに並ぶ品々はベースとして食器なりタオルなりインテリアなり雑貨といったものがあって、そこにうまくマッチするような形でキャラクターを乗せ、いたずらにどちらが主張するでもなく生活の中で使って行けて、それでいて少しばかりキャラクターの雰囲気も楽しめるといった感じになっている。タオルなら描かれているのは原色バリバリなアニメーションのキャラクターではなく、シックにアレンジされたアニメのシーン。場合によっては真っ白なタオルに模様として描かれているだけのものもあって、見てすぐにそれとは分からない。でも使っている人にはそれがディズニーだと分かる。

 食器などにはキャラクターが描かれているケースが多いけれど、よくあるマグカップにプリントがされているといった感じではない。有田焼で有り九谷焼であり波佐見焼といった伝統的な陶磁器の工房から生み出される品々に伝統的な技法で描かれてあって持ってインテリア的な良さがあり、使ってもキャラクターとふれ合う楽しさがある。我戸幹男商店っていう石川県の木目工房が手がけた木の椀なんて薄く削られて軽くてシンプル。それでいてしっかりとダース・ヴェイダーのヘルメットをひっくり返したような感じになっていて見て楽しく使って落ち着く一品。伝統工芸とキャラクターとの融合が上手くいったケースといえるだろう。

 スワロフスキーをちりばめた貯金箱のマーベルキャラだとかスター・ウォーズキャラなんかはゴージャス系で、やっぱりスワロフスキーがちりばめられたハローキティなんかと同じ路線。田中貴金属が手がける純金のガンダム像なんかとあんまり変わらないけれど、そういう路線とは別に日本の伝統工芸とキャラクターのコラボっていうのは3月にあったアニメジャパンなんかでもコーナーが造られて結構な賑わいを見せていた。そうした伝統工芸品でもキャラクターが乗っていて目を背けないくらいに一般に、キャラクターといったものが広まっている現れでもあるし、そうしたキャラクターを巧みに取り入れてスタイリッシュな製品に仕上げるデザイン力も上がっているのかもしれない。オタク向けのグッズとは別にだれもが持っているオタク心をくすぐる品として、そして海外の人に日本の伝統工芸への感心と、そして自分たちも知るキャラクターの魅力でもって売れていく、そんなジャンルとして成長していくのかな。要注目。

 これからのタレントではなく既に活躍を始めている若きデザイナーさんたちが集まったコーナーもざっと見て、CARRYNESTという名前のバッグブランドに惹かれる。たとえばショルダーバッグなんかは中学校の時に使っていた白い帆布製の肩掛け鞄に雰囲気を似せつつ、フラップの部分が太めのメッシュになっていて遠目にもすごくかっこいい。荷室の部分もパソコンとか入れて持ち歩けるよう衝撃吸収素材で挟まれたポケットがついていて、そこにパソコンを入れつつ周りに関連アイテムを入れ身の回りの品を放り込んでといった具合に使えそう。

 オール帆布の真っ白なバッグだと価格も2万円を切っているから有名なバッグブランドの物よりも割安。それでいてクールでスタイリッシュ。黒い帆布のは会社勤めでも使えそうだしメッシュ部分がレザー製になればさらに高級感も増す。今はなぜかリュックが大流行しているけれど、いずれ背中に背負ったまま電車に乗るとかで人に当たって鬱陶しいって問題も起こって廃れそうな気もするだけに、次に来るのは肩掛けのスクールバッグ、そして原点としての通学鞄となってこれに、注目が集まったりするのかな。そうなると買えなくなるから今のうちにひとつ、どこかで拾っておくか。黒と白、どっちがいいかなあ。ちなみにイメージしているのは鳥の巣だそうで、すべてをやさしく包んで支えるといった意味。デザインしているのは野元宏治さんという人。これからグングンと出てくると思うからその名前に、これも要注目。


【6月2日】 だれも訳が分かっていないだろうけれど、それを言ってもまともな返事なんて得られないことも分かっていて、だから聞かないでいる繰り返しが重なって、訳が分からないことをやっても平気だと確信して、訳の分からないことをやっているならまだ良いけれど、きっと自分でも本当に訳が分かっていないのだろう。だから不安だし恐ろしい。安倍晋三総理大臣。

 そんな人間ならではの案件がまた1つ。消費税を引き上げるか据え置くかといった問題で、結果として引き上げの延期が決まったんだけれ、どその理由が意味不明というか、それにまつわる態度がちんぷんかんぷん。日本の景気が悪い。だから余計悪くさせないためにも引き上げない。それはひとつの判断だけれど、でもちょっと前まで安倍総理が打った経済政策が馬鹿当たりして、景気は回復基調にあると自分で自慢していたその口で、景気が悪いと言うからさっぱり意味が通らない。

 そんな状況に景気を追い込んだのは誰かといえば、他ならぬ安倍総理自身ってことになるんだけれど、それを突っ込まれるとアベノミクスは成功していて、しっかりと日本のファンダメンタルズを回復基調に乗せているという。だったらどうして消費税を引き上げないのか。それを言われると海外の調子が悪いという。でも見渡しても日本より悪い海外の先進国なんてどこにもない。隣国にだってない。この日本だけが突出して低迷を続けているにもかかわらず、それを言われると自分に責任が及ぶから海外が悪いと言い、アベノミクスは成功しているけれど、その足を海外がひっぱているんで仕方なく消費税の引き上げを先延ばしするという。

 まずもって日本が大丈夫という嘘、そしてアベノミクスが成功しているという嘘を隠すために違う理由を持って来るこの変態的な論理を、それでもだれ叩かないのはそうした嘘をひっくり返すことが常態化しているからだろう。サミットでも安倍総理は、今はリーマンショック時くらいに景気が悪くなっているっていった判断を示して、おいおいそれは日本だけの話だろうって世界中から突っ込まれた。そうしたら今になって慌てて、あれは私が言ったことではないと否定し、そして世耕官房副長官が自分が聞き間違えただけと言い出してボスの擁護に走っている。

 安倍総理が景気の判断をリーマンショック前くらいにひどいと認識したとなると、自分がそんな景気にしてしまった責任を負うことになる。そうじゃない、アベノミクスは成功しているという名文を保つために、世耕官房副長官が泣いた赤鬼の青鬼よろしく責任を被った格好。とはいえ青鬼はそれで居づらくなって出て行ったのに、世耕官房副長官はその職のまま。まったく訳が分からない。一国の総理が景気に関する判断を示した、その言葉だけで金融市場も大きく振れる。それが嘘だったなら嘘を言った責任をとらなくちゃいけないのに、そんな考えのまるで見えていなさそうなところに、ずっと続いている言葉の耐えられない軽さが見え隠れする。

 というか本当にそうした判断を示さなかったのか。日本だけでなく海外からの参加者も関連のブリーフィングをしただろう。そこで安倍総理の景気判断に関する認識も語られただろう。そしてリーマンショック前といった日本側の見解に、そんなことは言ってないという話は無くそしてそんな見解は不思議で的外れといった論陣が世界中から発せられた。だから会合の中で、日本の総理からそうしたニュアンスに近い判断は示されていたと考える方が真っ当。あるいは消費税引き上げの延期を含めて、そうしたニュアンスにしたいといった思惑でブリーフィングに混ぜさせた。それを非難され、世耕官房長官の言い間違いで治めようとした。そんところか。

 どっちにしても地に足の付いていない言葉だけが浮かんでは消える状況に、簡単にちょろまかされる国とメディアがこれから、さらに相次ぐだろう適当でその場しのぎで自分かわいさから出てくる軽口によってどれだけ振り回されるのか。そして国民がいったいどこに連れて行かれるのか。考えれば考えるほど真っ暗な未来しか見えてこない。でもどうしようもない。だれも突っ込まないから。それが普通になってしまっているから。慣れって怖い。その怖さにだれもが気付いたときはもう遅くって、この国はゆらゆらと砲弾の飛び交う下を漂いながら、降り注ぐ放射能に人がばたばたと倒れていくのだろう。困ったなあ。参ったなあ。

 これは凄い。いつものようにぬぽぽんとした女の子たちが登場しては、セーラー服だったりスクール水着だったり裸だったりになって歩いたり走ったり泳いだりする姿を楽しめる漫画にはなっている粟岳高広さんの「取水塔」(駒草出版)だけれど、そこに描かれているのはとてつもく遠大な時間と空間を持って語られる異星人と地球人との関係。つまりはコンタクトの物語だったりする。海岸縁に広がる地帯に散在する物体。岩とか土塊に見えるけど女の子がちが触ると動く。

 でもって後、それらの正体がだんだんと見え、女の子たちの血筋的に受け継がれた力を使命みたいなものも見えて来ては、異種生命体との交流があり企みが暴かれ宇宙が近づく。そのプロセスに大人たちとか政治家とか軍隊とか正義の味方なんてものを関わらせず、近隣に暮らしている女子高生たちをメインで関わらせ、その一族の大人たちはバックアップに回らせあまり出さない。舞台も静岡県は菊川とか掛川とか牧ノ原台地あたりを一体とした東遠地域を中心にして、遠州灘が広がる海岸と、茶畑が続く平地とそして小高い山くらいに絞って箱庭的な雰囲気を出している。

 そこで淡々と紡がれていく接触から発見、そして目覚めを経てクライマックスへといった展開には、広がりというより奥行きがあって噛みしめるように読んでいける。同じ粟岳さんの「いない時に来る列車」の表題作は、滅び去ったような世界で切り取られた断片から追い詰められた今を確認しつつ、そこから未来へと可能性を探っていくような話しになっていた。「斥力構体」のシリーズは東遠あたりを思わせる地域を舞台にしながら現実が異次元と背中合わせになって、不思議が日常となった世界に生きる少年少女が描かれていた。「

 取水塔」の場合はもっと現実に近づけつつ、そこに重なった非日常を描いて少女たちに難題を突きつけ、それを乗り越えていく楽しみを感じさせる物語になっている。噛みしめるように味わいながらだんだんと進んでいくコンタクトとその先にワクワクできる。やって来たクライマックスで自分なら何を選ぶのか。そんな思いにとらわれよう。しかし凄い漫画だなあ。これだけのボリュームと構想を、同人誌で淡々と描き続けた根性にも喝采。

 アイデアだなあ。タカラトミーが藤田ニコルさんをイメージキャラクターにして送り出した「スマポン」という玩具があって、スマートフォンと組み合わせて使うもので立方体に近いキャラクターを専用アプリを導入したスマホの画面上に座らせると、上面の顔にあたる部分がドットになってキラキラと光って様々な表情を見せる。そして音声でさまざなか言葉を発する。非接触型のICでも仕込んであって無線でスマホから操作しているのか? とんでもない。「スマポン」にはそうした電子部品のたぐいはいっさい仕込まれていない。電池すら使われていない。だったらどうして? それは秘密。買って試して確かめよう。そのアイディアに今は脱帽。


【6月1日】 最初は見えない妖怪たちが後半から見えるようになって人間たちの傍らを行くオープニングが楽曲とともに大好きな「続・夏目友人帳」が始まって黒ニャンコ先生が登場、といっても中身は斑のような大きな犬ではなく主様と呼ばれる人間の姿をした高貴な妖怪。もしかしたら龍神とか何かかなあ。人間が好きで近寄っていったら封じられてしまったけれど、夏目が注連縄を切って封印を解いて脱出し、そして妖怪たちが人間を襲う算段をしていたのを聞いて夏目を引っ張り込んで止めようとする。黒ニャンコ先生姿で妖力は落ちても思考力は落ちないものなんだなあ。来週はレイコが子供の妖怪に仕掛けたある企みの回。人はすぐに死んでしまうけど妖怪はいつまでも生きる、その違い。成長を見届けられなくても企みがいずれ叶うと思ってレイコは逝ったのかな。

 プロダクトデザインといったら、古くは柳宗理さんがいてしばらく前だと深澤直人さんがいて、そして最近は佐藤オオキさんが大活躍といった感じだし、間を埋める人も挙げればたくさんいるけれど、そんな世代を追いかけるさらに下なるといったい誰がいるんだろうって、探して聞こえてくる声はそれほどなく、30歳前後で時代の寵児を呼ばれている人もあまり見当たらない。今38歳の佐藤オオキさんなら30歳前後でそれなりに、世界に活躍の場を見せていただけに、やっぱり今はデザイナー受難の時代なのかどうなのか、ってあたりを想像するなら、若い世代を引っ張り出して世に送り出すだけの機能を、企業なり社会が持ち得なくなっているのかもしれない。冒険は出来ないというか。

 それでもやっぱり人材は生まれてきているわけで、そういった人たちが次代に食い込もうとして様々なデザインを持ち寄っては、インテリア ライフスタイル トウキョウというイベントで発表してた。例えば狩野佑真さんという1988年生まれのデザイナーは、自転車の車輪を挟んで止める自転車型をした鉄製のスタンドを製作し、電球のガラス部分を吹くときに膨らみを少し増やしたり、失敗して歪んだものをそのまま使ったりした変わり種の電球を作って持ち込んでいた。あとは電球に小さい穴を開け、そこから水を入れた上で花なりを指してフィラメントに絡ませ立たせるスタンドとか。聞けば電球を作っている工房も少なくなっているそうで、個性的な電球はいつか作られなくなってしまうかもしれない。そうなる前に製品化となれば貴重な品となるのかな。

 狩野さんはスマイルプロジェクトというのを別に推進していて、ねじの頭をスマイルマークにしてそれに差し込んで回せる専用のねじ回しも作った上でセットで提供し、そしてねじを国内のみならず世界中のあらゆる場所へと広めていってはポイントを地図上に表していこうとしている。世界で笑うねじ。仕草としては簡単だけれどそれが個人の手を伝わって世界中に刺さっては、笑顔を振りまいていると思うことによってウキウキ感が浮かぶところに価値ががありそう。もちろん国宝の建物に刺すとか世界遺産にねじ込むとかしたらまずいけれど、許容範囲で観光地によくつり下げられる南京錠とか千社札のような意味合いで、広がっていけばちょっと面白いかも。見れば笑顔のねじ。ぶち込まれても怒るより先に笑ってしまうかも。

 機能美というか、形が良い上にしっかりと目的も果たせるプロダクトにはやっぱり味があるというか、鎌田達弥さんという、こちらは1981年生まれのデザイナーが出していたい「VAL」というアイテムは、何とペットボトルのキャップを回すための装置。栓抜きだとか缶切りだとかは食べるためには必要だけれど、握って回せば簡単に開くペットボトルのキャップにどうしてアイテムが必要なのか。それは人によっては握ってもペットボトルを回す力がうまく入れられなかったり、爪にネイルとかしていてペットボトルのふたを握れなかったりする人がいるからで、そうしたた人たちでも、この「VAL」を使えば3つの山とへこみがあるリングの中にペットボトルのふたをいれ、キュッと回すだけでふたを回して開けることが出来る。

 世の中にありそうだけれどなかったアイテム。見かけもシンプルな上にデザイン性も良く、それでいてしっかり実用にかなうといったあたりに優れもの感が漂うけれど、今はまだプロトタイプらしく商品化にはどこかが採用してくれるかを待つしかないらしい。これは残念。今ならデータさえあれば3Dプリンターで立体物でも作れてしまうけれど、ステンレス製のリングはちょっと無理。そうしたシチュエーションにあって目下、製造して販売してくれるところを募っているそうなんで、興味がある人は是非に。1人が1個、このボトルキャップオープナーを持ち歩いては飲む時に使ったり、家にある1・5リットルとか2リットルの大きいペットボトルにはめっぱなしにして、誰でも手軽にふたを開けられるようになったりすれば良いんだけれど。鎌田さんはハンガーの横棒が曲げられハンガーの形にされたラックも出展。特別な日に特別な衣装として選んだ服をそこにかけ、パンツを下げておける。明日はこれを着るんだって身構えを確かにする意味でも役立ちそう。これも含めて製品化、されるかなあ。

 簡単に済ませて良い話じゃない。とあるゲーム系のニュースサイトに【お知らせ】として、フリーライターの人と連絡がつかないので誰か知っている人がいたら連絡を取って欲しいといった呼びかけが掲載された。何でも4月に寄稿された記事の中で、とあるゲームについて書かれていて、そこで精神的にシリアスな内容の楽曲を聴いていたら染まってしまったみたいなことが示唆されていて、もしかしたら触発されてしまったんじゃないか? なんて印象を醸し出していた。とはいえそ、の記事の掲載は直近の5月25日で、なおかつ当該のライターがその記事以外の記事をニュースサイトに書いていた形跡がない。そんな程度のつきあいしかない人間を、今になってどうして探すのか。そもそも実在するのか。そんな疑問から、何かゲームを宣伝するための記事に見せかけた広告なんじゃないかといった声がすぐさま起こった。

 とはいえ、ちゃんとしたニュースを日々、掲載しているサイトがPRとか広告とかつけずにひとりの人間の失踪を伝える訳で、これをはなっからインチキだと切り捨てることも難しい。ニュースサイトというのはそれが信頼に足る情報だと誰もが共通に認識しているからこそ成り立つ訳で、だからこそ記事を出す方はそれが真実であること絶対として記事を並べる。そういうものだけに、掲載されている以上は本当に事件なり事故があったのか、なんて可能性も考えていたら明けて記事がまるっと訂正されていて、真相が明らかにあれていた。何のことは無い、当初の見立て通りにゲームを宣伝するための記事だったこと。そして失踪云々といった記述は消されていた。

 ただ、そこでニュースサイトとしての信頼性を大きく損なって、掲載された他の記事への信頼を失ったにも関わらず、お詫びの文言にそうしたことへの自省なりがまるでなく、「フィクション・企画である旨が抜けて」いて、そしてゲームの発売元のチェックも経ておらず「多くの読者の皆様に誤解を与えてしまったことを深くお詫び」しつつ発売元へも迷惑をかけたとだけ言っている。それはそうだけれどそれだけではない。媒体そのものの信頼性が大きく損なわれたままになっていることへの自覚がまったくない。そこが不味いし、これから大きく困ったことになっていきかねない。

 普通のニュースサイトにだって、記事広告めいたものが載ることはあるけれど、その場合、営業サイドがクライアントとの厳重なすりあわせを経て掲載文言が決まり掲載へと至るのが通例。それをやらなければ、何かあった時に責任を全部ひっかぶることになるからヤバくてやってられない。にもかかわらず、こういう事態が発生したということは想像するなら、現場の編集レベルでネイティブアドなりステルスマーケティングなり提灯なりが日頃から跋扈して、イケイケな感じで作られ掲載されていたってことにならないか。だから、今回も現場レベルで先走ったけれども知恵が足りず炎上したと。

 自衛隊を各区役所が追い返したといった事実無根の記事を掲載してのける某新聞に比べれば、社会を攪乱して誰かの名誉を傷つけるような“被害”は出ていないけれど、ニュースという少なくとも事実が掲載されるべき場と認識され、そういう共通理解の上に成り立っている媒体に、ネイティブアドなりステマなり提灯が紛れ込んでいるかもしれないという可能性が顕在化してしまったことを、編集側も会社ももっと重大事だと受け止めなくちゃいけないんだけれど、そういった自省がまるで見られないところに、現場がステマ上等ネイティブアド万歳な気分に染まっていることを感じてしまう。それがニュースメディアであってもネットなら当然となって認知されてしまう怖さを感じるならば、他のニュースサイトはうちはそうじゃないぞと盛大に拳を振り上げ、ここん家もここん家で事態をもっと切迫したものととらえ第三者委員会でも立ち上げ記事の精査をした方が良いような気がするんだけれど、果たして。


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