縮刷版2016年5月中旬号


【5月20日】 試写を観てひとつ思ったのは、菊地成孔さんの暴れるようなフリージャズを大音響で聴かせるミュージックビデオとしても最高だなったてこと。叩きつけられるように響き切り裂くように成るサックスほかの音色がデブリでいっぱいの空間を戦慄で満たしつつ、その間隙を縫って飛ぶモビルスーツの速さと重さを彩って空間を緊張と昂揚に溢れた戦場へと変える。一方で甘いポップスが響く、ジオン公国軍にあってサイド4のあった場所に陣取り地球連邦軍の進行を牽制する師団のスナイパーたちの陣。どこか乱れながらもそれだけに人間っぽさを漂わせながら、強い意志を持って国と自分と仲間たちのために戦おうとしている。

 そんな場所に切り込んできたフリージャズの旋律にして戦慄が、宇宙を血で染め破片で満たして戦争というもののシリアスな現実、撃たれれば爆発し刺されれば砕けて塵と化す残酷を描き出す。そんな映画かもしれない「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」。正史としてのテレビシリーズ「機動戦士ガンダム」を大樹とするならそこに葉っぱほどの影も落とさないように思える局地戦を描いてはいるけれど、恨みが憎しみを呼んでさらなる恨みと憎しみを招く戦場の連鎖を、止めようとしても誰も止められない非情さが浮かび上がって歯がみしたくなる。

 大状況ではきっと戦略としてあるんだろうけれど、戦術のさらに最先端で起こる小競り合いには殺し殺される以外の道は見えない。まるで出口の見えない状況に置かれた地球連邦軍とジオン公国軍のモビルスーツ乗りたちが、対峙して浮かべるのはただ相手に勝ちたいという思いだけ。そんな強い感情がほとばしるスクリーンを破壊的な音楽が満たして観る者たちを興奮の坩堝へと引きずり込む。見終わってもそこにあるのは平穏か。「機動戦士ガンダム」では終わった戦争が「機動戦士Zガンダム」でまた始まったように、「サンダーボルト」の世界でも戦争は続くだろう。そして憎しみの連鎖が繰り返される。地球連邦軍のイオ・フレミングにも、ジオン公国軍のダリル・ローレンツにも与することができない感情をどこに持っていけば良い? 対消滅にしか向かいそうにもない2人の未来に救いはある?

 そんなことを思いながらひとまずの終幕を見る。未来は? っていった真面目な感想の一方で、ツンとして背伸びして頑張っていながらプレッシャーに負けそうになって立ちすくむ地球連邦軍のクローディア・ペール、最愛の人を失いながらも戦場にとどまり親のために兵士を刻む眼鏡の女科学者カーラ・ミッチャム。キャリアがあって意思も強そうだけれど弱さも見せる2人の女性の存在にビジュアル的にもマインド的にも惹かれてしまうのだった。どっちが良いか。どっちも良いなあ。そんな『機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」。6月25日イベント上映スタート。始まったら劇場に観に行こう。巨大なスクリーンを前に宇宙に身を置くような感覚になって大音響で浴びるフリージャズはきっと最高だろうから。

 ゾンビ物が苦手なのでチョロッとしか観ていなかった「鋼鉄城のカバネリ」をようやく1話まるっと観たけれど、浮かぶのややっぱり“古い”っていう印象で、それは当時は最先端だった「オネアミスの翼 王立宇宙軍」を今観た時に醸し出される、緻密なんだけれどどことなく野暮ったい感じにも似た“古さ”なんだけれど、そう感じるのが過去を見知った人だけでなく、今時の若いアニメファンにもあったりするのは、やっぱり今時のデザインとは違ったところがある、って頭が理解しているからなんだろうか。同じように鉄道を突っ走らせながら戦う「ブブキ・ブランキ」では浮かばなかったその感覚が、単純に美樹本晴彦さんの絵柄から来るものなのか、衣装なんかも含めたものなのか、ストーリーも込みなのか興味があるけど、だったら今時の絵柄であの末世にあえぐ人類の戦いを描けるかっていうと悩ましいところ。その意味では展開にマッチした絵柄なのかもしれない。

 電撃小説大賞の応募作品からの拾い上げらしい成田杣道(なりた・そまみち)さんという人の「異邦の探求者 −イストワールド・エトランゼ−」(電撃文庫)が面白い。アリス財団なる組織があって離れた場所にある空間をつなぐ実験をしたら失敗して世界中のあちらこちらで異変が起こるようになった。そんな場所は「疵」(トレース)と呼ばれるようになって周辺には異能の力を持つ者たちが現れるようになった。そんなひとつ、占いの力を持った者たちが生まれた「占都」にやって来たのが、了次・A・スキップハートという男子とルート・M・エトランゼという少女。了次は実は「疵」の発生に巻き込まれた際に特殊な能力を持つに至って、今はライナーとして「黒の協会」のエージェントとして活動しながら、魂を奪われ眠り続ける姉を元通りにする方法を探している。

 相棒のルートも異変が起こったザ・デイの被害者だけれど彼女の場合は実験の場となったエルミの村ごと消えてしまって異次元に飛ばされ、そこから幽霊のように現実世界に姿だけが現れるようになったエトランゼ。現実世界の人間からは干渉できないその存在は、味方にすれば強いけれども中には人間に敵対する者も現れ危険視もされていた。ルートに関しては陽気で前向きで了次といっしょに仕事をしながら、いつか戻れる日を思っていたという、そんな2人が「占都」で挑むことになったのは、占い師たちが次々に誘拐されるという事件。誰よりも強い力を持った「希世の占い師」を求めた行動なのかそれとも。事件に挑んだ了次とルートは、「コルクマン」という異能の力を持った敵と対峙しながら、その敵の正体へと迫る。

 大きな科学的実験によって変容した世界という舞台がまず魅力。その影響で異能の力を持ちながら肉体的なハンディも了次、そしてエトランゼとして記憶を失い思いだけを残しながらも今は了次といっしょに行動するルートといったメインどころに加え、同じように異能の力を持って「欧科連」というところに所属しているライナーのχ(カイ)、そして了次たちの面倒を見ることになった宿屋の少女で占い師の見習いらしいミァンという少女といったキャラクターたちがそれぞれに思いを抱き、願いを持って行動していて引っ張り込まれる。それは敵となるコルクマンも同じ。惨劇を引きずりその影響を受けながらも今を生きようとする者たちの足掻きを楽しもう。了次と姉との関係に少しの進展はあるけれど根本の解決はまだ先。次はどんな冒険があって、そして了次とルートはそれぞれの願いに近づけるのか。続いて欲しいなあ。

 寝なかった。頑張った。そんな「GARMWARS ガルム・ウォーズ」の日本語版の舞台挨拶付き上映。既に2度観た英語版から大きく印象が違わないのはもとより台詞が圧倒的に多いわけじゃなく、あっても必要最小限で状況を語り進行を示すといった役割で、そこに感情の機微とか入ってドラマチックなシーンを作り出すような台詞じゃないからってこともある。それでもコルンバの女兵士カラと、ブリガの戦闘員の男スケリグという登場人物が出会い語らう場面なんかはデート一歩手前の初々しさなんかがあったりして、そんなシーンを演じる声にもちょっとした機微があった感じ。

 舞台挨拶で押井守監督はそのシーンを演出する時にやっぱり初デートを意識させ、間合いもとりつつ演技してと行ったらしいから英語版でもそんなニュアンスが出ているんだろうけれど、日本語による声優さんの演技によってしみ出る感情ってのがやっぱりあるのかもしれない。押井守監督によれば日本語版は英語版よりも優しくなっているとのこと。それはそうした伝わりやすい言語による意味を感じながら感情も読み取れる台詞があるからなんだろう。だからこそ改めて英語版を観てそうした役者の英語による演技と表情にも耳を傾け目を向けたいところ。TOHOシネマズ六本木ヒルズでは英語版の上映もあるんで、是非に足を運んで見比べよう。

 舞台挨拶では押井守監督、この作品を自分にしては珍しく大上段に振りかぶって振り下ろした作品だって話してた。ファンタジーならではの世界を作ってその中で人はどこから来てどこに行くのかなんてことを描こうとしていると。思えばなるほどそういう作品って過去、あんまり作ってこなかったし近年は原作物ばかりでファンタジーなんてあり得なかった。もしかしたら『天使のたまご』以来のどファンタジー。そして壮大なスケールを持った作品として押井守監督のフィルモグラフィ上に大きな軌跡を残すかもしれない。

 振り返ればあれはいつだろう、赤坂プリンスホテルだかで「デジタルエンジン」の構想が発表されて「スチームボーイ」とともにこの「G.R.M. THE RECORD OF GARM WAR」が世に問われてどんな作品になるのかと胸を躍らせたものだったけれど、それから流れた幾年月。大友克洋監督の「スチームボーイ」はどうにか形になったけれど、「G.R.M」はどうにもならないままで「AVALON」でひとつの形を示して手じまいした感じもあった。でも諦めていなかった。押井監督によれば諦めたことなんて1度もなかったという。すべて資料が回収されてデータもHDDごと破棄されながらも溜め込んで隠し持って企画を温め続けてきたらしい。あるいは八王子だったかの美術館で公開されたプロップなんかはそうやって守り抜かれたものだったんだろうか。図録に収録されないものなるほどなあ。

 でもそんな意気に答えたプロデューサーがいて、どうにか完成にこぎ着けられたことを押井守監督は感謝していた。石川光久さんと鵜之澤伸さん。会場にはそういえば鵜之澤さんらしき人もいたっけか。そんな2人の尽力に応えられる成績が出せるかは判然としないけど、それで落ち込むことはないと押井守監督が言っていたのはそれだけ出し切った作品への確信があるからなんだろう。10年経っても劇場で、スクリーンで上映され得る作品。時流に乗らず映画として澄み切った作品。それを送り出せて満足ではあるんだろうけれど、でもやっぱりみたい次。だからこそ僕らは税を収めに劇場に通い、次の税の対象を世に送り出してくれるよう、態度で示そう。次はやっぱりアニメーションが良いなあ。


【5月19日】 その集中力の10分の1でも勉強に振り向ければ、学年で下から5番なんて成績にならないのにと机くんがぼそっといったのを横で聞いて、奏ちゃんがヒッと横を向いて涙をにじませる描写の間合いも最高なら表情もグッド。そして声優さんの演技も。もしかしたら第1期の「ちはやふる」のアニメーションで1番2番を争うくらいに好きなシーンが入った第二十首「くもゐにまがふおきつしらなみ」がTOKYO MXで放送されてやっぱり山内重保さんの絵コンテから来るのかもしれない、下から見上げるようにして画面に主さを見せるところとか、いしづかあつこさんの演出から来るのかもしれない、誰も彼もが生き生きとして青春している感じとかにグッと来る。

 本放送の時もあの、綿谷新がかるたをしているシーンで水の中に沈んでいるように重く粘っこく、そして新だけがしゃあしゃあとかるたをしている雰囲気なんかは山内さんのコンテから来ているのか、それともいしづかあつこさんの演出によるものなのか、分からないだけに知りたくなったけれどもちょっと前の総集編的な回、いしづかあつこさんが絵コンテを担当した第十六首「をぐらやま」とかで運動会に勤しむ瑞沢かるた部のキャッキャとした姿を見るにつけ、コミカルさも含んだ場面設計はいしづかあつこさんの得意とするところで、重厚なレイアウトとか雰囲気作りは山内さんの仕業かなあ、なんて解釈している。違うかもしれないけれど。

 他にも「美少女戦士セーラームーンCrystal」の第3期で監督をしている今千秋さんが第二十三首の「しろきをみればよぞふけにける」では絵コンテを担当しているし、第2期では大御所の川尻善昭さんが何本も絵コンテを担当していたりしてなにげにゴージャスなスタッフが参加していたアニメーション版「ちはやふる」。その割にはアニメーションの専門誌で取り上げられることもそれほどなかったし、関連ムックがいっぱい出てきてそうしたアニメーションとしての技術的な部分、演出的な部分、何より特徴的な音楽的な部分とそうした諸々を統合する音響的な部分なんかに迫っているってこともない。今となってはファンミーティング的なイベントが開かれてそれに出たことが貴重な経験にすら思えてくる。

 1期と2期を併せて放送分だけなら全50話。漫画の単行本についていたおまけも含めて51話と1年間放送されたくらいのボリュームがあって、作品のバリュー的にも高校生活がテーマと行った内容的にも、夕方に普通に放送されて過ぎ去っていったような作品だけれど、実際に放送されたのが深夜ってこともあって今も存在を不思議と知られてなかったりする。ちょっともったいない。違う、ものすごくもったいない。せっかくの実写版の人気を受けて、こうして放送もされてパッケージのボックスも発売されているんだから、どこか改めて特集してくれたら嬉しいんだけれど、そんな気配はまるでない。今さらだものなあ。

 だから願うのは、第3期なりの放送で、2年生になって近江神宮での大会を終えてから富士崎へと出稽古に行ったところまでが第2期だったから続きは猪熊遙によるクイーン戦、そして真島太一の離脱に綾瀬千早の落胆といった展開になってちょっとかるたの活躍から離れてしまうけど、それを経てのクライマックス。漫画連載の終幕に向けて企画していってくれないかなあ。問題は今もまだ瀬戸麻沙美さんに千早のような声が出せるのかってあたりか。だって最近の瀬戸さん、西絹代とか樋口一葉みたいに小林ゆうさんばりのハスキーがかったポンコツ女子がメインになっているし。さてはて。

 すでに9人でのワンマンライブ的な活動はなくなっているとしたら写真であっても集合した姿を見せてくれるのはこれが最後となるのだろうかμ’s。前にも「ラブライブ!」特集を打って完売して増刷までされた「CUT」が2016年6月度号で再びμ’sを大特集。メインとなるのはもちろん3月31日と4月1日に繰り広げられたファイナルライブのリポートと、それを受けてのμ’sの面々へのインタビューでそれぞれにライブでどんなことをしていたかを踏まえて訪ね、感想を聞き出していく腕前に、清水大輔さんっていうライターのμ’sに対する執念のようなものを観た。

 もちろんそれは愛情もあっての執念で、読めばそんなに知らない人でもメンバーがそれぞれに何を考えμ’sとして活動し、そしてあのファイナルライブのステージに立ったのかが感じられる。分量も凄いし情報量も凄い。そして思いも強いインタビュー。あやかりたいなあその力量に。さらに凄いのは音楽そのものにも言及をしていることで、μ’sの楽曲すべてで作詞を手がけた畑亜貴さんといっしょにμ’sの音楽をさまざまなカテゴリーに分けて解説してもらっている。

 そうやって分けられることも凄いし、作詞家本人と対話できるところも凄い。勉強していっただけでは追いつかない知識量は“好き”が根本にあって興味もいっぱいあって、それで真正面から挑んで知って吸収していったプロセスがあるからなんだろうなあ。いったいどれだけの熱量をμ’sとそして「ラブライブ!」に賭けたんだろう。それが終わってしまってこれから一体ライターは何に情熱を傾けていくんだろう。結構すぎるボリュームの特集すべてをひとりで執筆してのけた先、専門家として経つにもご本尊は既になし。とりあえず本でもまとめてから次に挑む対象を見つけていくのかなあ。それは何? 関心を持って眺めていこう。

 今こうしてライトノベルとかに関していろいろと書いていられるのも、就職していったんは遠ざかったおたくな刊行物なりアニメーションなりへの関心が、30歳前後で蘇ってきたからで、それでいっぱいアニメを観たりライトノベルを読んだりして、日記に書いて感想文も書いていたら声がかかって書評の仕事もするようになったといった感じ。そしてそうやっておたくに戻って来るきかっけを作ってくれたのが、1995年の4月から半年間放送されたテレビアニメーション版「天地無用!」だった。

 日曜日の夕方放送ってこともあって、ビデオを持たない身でも見やすかったってこともあるけれど、そこで繰り広げられた往年の「うる星やつら」的なハーレム設定と、そして和テイストの美術、岡山から宇宙へと広がっていくスケールなんかに惹かれいっぺんにファンとなり、長岡成貢さんが手がける音楽にも興味を持って再発売されたCDボックスなんかを予約注文して買い求めた。その「天地無用!」でギャラクシーポリスのメンバーとして登場したのが美星というキャラクター。可愛いけれどもどこかヌけていて相棒の清音から叱咤されるけど、お構いなしにひょうひょうと生きている姿に天地を取り巻く魎呼とか、阿重霞といったヒロイン中のヒロインといった面々とはまた違った愛らしさを覚えたものだった。

 その美星の声を担当していた水谷優子さんが死去。51歳だなんて僕と1歳しか違わない年齢での訃報は寂しいと思う以上に残念で悔しく、どうして病魔はこうして大好きな人を奪っていくのかといった憤りに身もだえする。「機動戦士Zガンダム」のサラ・ザビアロフで声は聞いていたはずだけれど、今に通じるその雰囲気を存分に味わったのはやっぱり「天地無用!」のテレビシリーズ。後、さまざまなシリーズが生まれもちろん本編ともいえる「天地無用!魎皇鬼」へも遡って、それぞれに美星という役で聞かせてくれた声は、個性的な面々の中にあって没せずしっかりと耳に届いて今も残っている。第4期もスタートが決まった中での訃報。どうなるんだろうという不安もあるけど今はただ、そのお仕事に敬意を払い、その声を偲んで黙祷しよう。今までありがとうございました。


【5月18日】 過去に何度かどこかで見たことはあったけれども伊藤若冲、大行列で見るまでに何時間だなんて経験をしたことはなかった記憶。それが今回は東京都美術館に長蛇の列で今日なんか320分待ちだから5時間20分も待たなければ入れない、なんて事態になっていたらいし。午前11時くらいでそれってことは午後4時過ぎまで入れなず入ったところで閉館までいくらもないからほとんど見られないも同然。それなのに行列を作る方も方だし作らせる方も方。とはいえ来られる方はこの日しかなかったという人もいただろうから、それで入れるかどうか分からなくても、ひたすらに待つしかないってことなんだろー。

 こうした大行列が出来て大混雑ができる展覧会なんかだと、民間では入場時を指定したチケットを発行することがあって、例えば森アーツセンタギャラリーでの荒木飛呂彦さんの展覧会もそんな感じだったし、三鷹の森ジブリ美術館は開館からずっとそうやって日時指定のチケットを販売している。時にそれを早めに抑えてオークションなんかで売りさばく輩も出てくるけれど、捕まって罰せられたりする中で多くはびこるなんてことには至らない。そもそも平日なんてそんなに混むものでもないから、取ろうと頑張ればそれなりに取れる。けれども伊藤若冲展は平日で5時間超待ち。収まっても3時間以上は並ぶ行列が出来てしまうのは、やっぱり運営に無理があるとしか思えない。早急に改善すべきなんだけれど、だからといって今更日時指定のチケットも販売できない。

 当日朝に整理券なんて配るとそれを求めて大量の転売屋が押しかけ整理券を確保した上で売りさばこうとするから誰かが損をする。それでも入りたい人はいるだろーから利害関係は一致していると言って言えないことはなくても、公共の施設における公平性にはそぐわない。やっぱりだからひつらに朝早くに行って並ぶしかないってことで、せめて並んでいる人たちに対して、上野公園に集まるヘブンアーティストの人たちが、パフォーマンスを見せて待ち時間を楽しませて上げるとか、世界遺産になるらしい国立西洋美術館に座っている考える人が立ち上がって応援に行くとか、上野動物園にいるハシビロコウが行って微動だにせず立ち続ける極意を教えるとかして、長い時間を過ごしてもらえるようにして欲しいもの。それこそが東京都知事のやることだ。絵、好きみたいだからさ。

 というか舛添東京都知事、なんか政治資金で絵なんかをオークションから購入していたらしくニュース沙汰になっている。ホテルで家族も引き連れていった際の費用を会議費にしたのは、ほんとうに会議もやっているならまあ許せるし、湯河原の別荘に公用車で行って週末を過ごすのもそこで仕事をしているなら許容の範囲。前々都知事の石原慎太郎さんがいろいろと使いまくっていたことに誰も腹を立てないのなら、舛添都知事の散在だって気にせずするーするのが筋だろう。でも絵画の購入となると理屈が立たない。資料代ったって何の資料なんだ。別に文化財の保護とかに政治家として取り組んでいた訳じゃない。海外のお土産にするったって国会議員だった当時にそういう必要があったとも思えない。単なる趣味。それも筋とか良くなさそうな雑魚集めを正当化できる理屈が見つからないんだけれど、どう釈明する気なんだろう。ここが1番引っかかって辞任、なんてことになる気もしないでもないけれど、果たして。

 いったい僕は1年に何回くらい東京ビッグサイトに足を運んでいるんだろうかと、数えるのも面倒だから数えてないけど今月に入ってからでも結構行っているような気がする東京ビッグサイトへと行って今日は「教育ITソリューションEXPO」を見物。といってもメーンはビッグサイトではないTFTホールの方で開かれている「学びNEXT」ってコーナーで、そっちではもっぱら子供のプログラミング教育に役立ちそうな教材とかスクールの案内を見物する。まずはヒューマンアカデミーでここん家はまず未就学児童あたりからを対象に、メカニカルなロボットめいたものを組み立てるカリキュラムを提供している。あの高橋智隆さんが監修した“ロボット”を作るという講座を通して学べるどう組み立てればどう動くかという機構。あとはセンサーの組込。そいうやってものが動く楽しさを覚えた先で、今度はセンサーもバリバリ搭載してプログラミング可能なボードも積んだ本格的なロボットを作る講座に進んでいく。

 そっちは千葉工業大学でロボットを作っている古田貴之さんが監修。円柱のようなロボットの3方に自在に転がる車輪がついていて前後左右にロボットが動く。搭載しているのは他にセンサーか何か。そうやって障害物を避けて進むロボットなんかが作れるようになるのかな。始めて3年くらいでようやく修了生も出始めたようで、進むのはやっぱり工業高等専門学校とか工学系のスクールか。果ては工学部とかに行ってモノ作りに励むんだろう。それってでも、いわゆるインターネットビジネスに求められるプログラミング技術なのか、っていうと少しズレはあるけれど、でも誰もがネット上に新しいサービスを通ってもうける訳じゃない。暮らしに必要なモノを作り出すビジネス、生活に必要なシステムを提供するビジネスに関わっていく。

 そうした実在するモノがこれからどんどんとネットに繋がっていくようになる中で、どうやったらどう動くのかを知り尽くしている工学系で制御系の知識を持ったプログラミング技術者ってのが必要になっていくだろう。いわゆるIoT(モノのインターネット)の時代が求めるモノをプログラミングする技術、すなわち世界をプログラミングして手の中より自在に動かす技術を持った人材を育て、送り出すという意味でこうしたヒューマンアカデミーとか、学研がブロックを組み立てロボットを作るアーテックと組んで行っているプログラミング教室なんかは結構な役割を果たしていくんじゃなかろうか。アーテックなんて数年前から出していたけどブースはそれほど大きくなく、知育玩具的な扱いだったのが今回はプログラミング教育への政府の傾注もあって、ブースにNHKとかが取材に来るほど。そういうビジネスを着想する力も含めて、何かを生み出していける人材は求められていて、そこにこうしたプログラミング教育が意味を持つ。そんな感じか。

 それはDeNA創業者の南場智子さんも講演で話していたことで、就職希望者の面接なんかをやっていて東大早大慶大なんかがやって来るけど最後に何か質問がありませんかと訪ねると、そこでその場でいったいどういう質問をするのが“正解”なのかを探してしまうという。でも必要なのはそうした空気を読んで今に収まる受け答えをする人材ではなく、そこには存在しないものを考え、作りだし、世に送り出していける人材。なるほど問題解決力には優れていても問題そのものを提起できる人材を日本は作ろうとしてこなかった。カリキュラムの問題もあるだろうし横並びを尊ぶ風土ってものもあるかもしれない。でもこれからはそれでは世界とは戦えない。

 南場さんが以前に日本にいたルース大使の奥さんと話していた時に、子供がすごいコレクションを持っていて、どうしてそれを学校で見せないのかと聞いても親がこれはプライベートなものだたかと言って話がかみ合わなかったという。趣味を学校で自慢なんかしたら先生に没収され同級生からはいじめられるのが日本。でも米国は違う。Show & Tellという習慣があってそれぞれの生徒が自分の自慢を学校に持っていって皆の前でしゃべることをするらしい。そうやって自分の思いを語りパッションを世に伝える訓練をしながら大きくなっていった大人が、個性を伸ばす教育の中で培った創造力を発揮して世界にプレゼンして来るのに日本が引っ込み思案で横を見ながら妥協を図って勝てるはずがない。そんなところからも変えていかなくちゃといったことを南場さんは話してた。

 そのひいとつがプログラミング教育だけれど、これもただプログラムの方法を教えるだけじゃなく、目的を持ってやろうとしている。武雄市なんかですでにDeNAでは、小学生を対象にしたプログラミング教育のテスト導入を始めているけれど、そこで重要視しているのが、アプリやゲームは自分出作れるものだと自然に考えられるようになること、プログラミングを知ることで、より豊かな想像力を働かせることが出来るようになること、それを楽しいと感じて、もっと学びたいと思ってもらうことだという。自分で何かを作り、それが動いて喜びを得る。なおかつコンテストみたいにして賞賛を得つつ、負けた者が悔しさを感じながら次はと頑張るような空気を作っていくことで、自然とプログラミングへの関心が沸き、なおかつそれで物を動かしてみようといった興味を浮かべる。

 そんな教育を今すぐにでも導入したら20年後、この国はすごいことになりそうなんだけれども相変わらずに腰が重たく足も遅い政治に行政が、プログラミング教育の重要性に気づいたところで何を導入するか、何をすれば良いかで迷いつつどれを導入するべきかで逡巡もして公平性という名の責任逃れに汲々としながら、先延ばしにしてしまう可能性がありそう。電子教科書なんて今の技術をもってすればすぐにだって導入できるのに、法律だとか何だとかいってそれが正規のものにはなかなかならない。プログラミング教育だってカリキュラムだ教材だといって選定だ何だとやり始めたら、10年経っても動きはないだろう。だったらだ。国など相手にしないで個人が子供をそうした教育に向かわせるしかないのかも。「学びNEXT」にはそんな取り組みがそろっていたので気になる人は行くと吉。ソニー・グローバルエデュケーションってところが手がけている、アーテックを使ったロボットとか未来のソニーの柱に育つかもしれないし。


【5月17日】 ケニー・ロバーツとバレンティーノ・ロッシかなとは思ったけれども、残るひとりはやっぱりフレディ・スペンサーあたりだろうか。そしてそんな世界を戦うGPライダーたちですら、名前を知っている上に先輩と呼ぶ来夢先輩の存在がますます謎めいてきた「ばくおん!」。学校内でレースをするなんて無茶をやった上に女子高生たちが賭けで盛り上がるなんて普通、出来ないだろうけれどもそもそも女子高生がバイクに乗って飛ばしている作品なんだから何があっても不思議はないか。300万円を賭けた校長先生は負けてしまったけれど、来夢先輩にも理由があるみたいなんでそこは納得かあるいは別に機会を作って稼ぐのか。ってか一緒にオートレース行けば良いだけなんじゃ。もしや出入禁止とか。それくらい稼いでいるものなあ。

 デザインフェスタVol.43ではあと、キャラバンズっていうCGでモデリングをやっている会社が出展していて、そこで独自に作った「クムム」というキャラクターのグッズなんかを展開していた。愁眉はフィギュア。何でも3Dプリンターでパーツを成形しては組み立てたもので、ほとんど加工しなくてもそれなりのデザインに仕上がってしまつところが3Dプリンターの性能の向上って奴を感じさせる。あるいはもとよりCGのモデリング会社として完璧なデータを作って3Dプリンターに送り込めたのかも。

 そうやって出来たフィギュアは7000円。高そうだけれど実は赤字だそうでブ、ース横にも「本日の赤字商品」だなんて看板を出して笑いをとっていた。いや笑い事じゃないか。でも他人さまのデータをいじって返すだけだとどうしても企業としてのモチベーションが下がってしまう。持てる技術とそして発想を、オリジナルのキャラクターとして形にして世に広めたいって意味でもデザインフェスタのような何でもありの場がベストだったんだろう。今でこそ世に名前のとどろくザリガニワークスも、デザインフェスタでいろいろと出して評判をとって出世していった感じだし。後に続くかキャラバンズ。そしてクムム。模様眺め。

 造形ではワレモノロボットというブースがあって、そこが陶器でもってメカっぽい恐竜を作って出していたんだけれど、最近はそこに動きを加えようとしているらしい。例えば置いてあった恐竜。手に取ると尻尾がジョイントで繋げられていてジャラジャラと動く。でもビスを打ち込んで止めたような後はない。なぜならすべてのパーツが粘土で作られ組み合わせられた上で焼かれたもので、取り外しとかは出来ないようになっている。粘土どうしがくっついちゃったりしないのか、釉薬がかかり過ぎて固まっちゃったりしないのか、って心配もあるけれど、そうした問題をクリアしてどうにか作り上げたものらしい。金属の自在置物にも似た不思議。あちらは究極の工芸に彫金が施されたものだけれど、こちらは工夫がフォルムと良い感じにマッチして玩具として、置物として良い味を出している。ちょっっぴりお高めだけれど、いずれ自在置物のような価値が出るなら、ちょっと試してみたいかな。

 ほかに見たものだとなると屋というところが作っていたカエルのがま口の巨大なのがなかなか。背中に背負って歩きたい。それからCOSUMI GINNっていうブースが出していた犬とか猫の顔を羊毛で作ったバッジも。キャラクターに寄せるんじゃなくってリアルな犬とか猫の写真を見ながら、違った色の糸を指して描いていくという手法で、本当に生きているかのような表情を持った犬や猫とかが小さいバッジになってできあがる。かつて飼っていたけど死んでしまった愛犬愛猫の写真を持ち込み作って欲しいという人もいるとか。その毛を混ぜることもするらしい。一生を最愛のペットといっしょにいられるようになる作品。人間でも出来るのかな。顔は描けるみたいだけれど。

 あとは「不純粋数学」っていうサークルが面白かった。売っていたのは数式とか公式とかが描かれた缶バッジだけれど、オイラーの定理にしてもルート3にしても円錐の体積の導き出し方にしても、デザインがしっかりされてて着けていてかっこいい。そして美しい。でもちゃんと役に立つ。胸とかにつけて数学の試験会場に入って分からないところを見て解くとか出来そうだけれど、有名になったら入り口で「不純粋数学」のバッジは持ち込み禁止って言われて没収されるようになるかも。それくらいに有名になるのかな。オイラーとか青柳碧人さんの「浜村渚の計算ノート」シリーズにも登場するから、本のおまけとか公式グッズとかにして売ると盛り上がるんだけれど、いかに。

 漫画家志望の女子高生、華村奈々帆が投稿した漫画が、賞には漏れたもののそのストーリー性を認められ、奈々帆が憧れている羽美原律華という漫画家の原作者として起用したいという話になった。呼ばれて編集部に赴くと、そこにいたのはなぜか学校の同級生。超イケメンであるにも関わらず、告白されれば時間の無駄とばかりにすげなく断り続け、いつしか2次元に等しい扱いにされていた海野律という男子だった。どういうことか。つまりは彼こそが奈々帆にとって憧れの少女漫画家、羽美原律華だったとうこと。編集者からはその原作を書いてもらうかもしれないと言われ、喜んで受けたかというとさにあず。興味を惹かれながらも憧れて想像していた少女漫画家と、現物とのギャップに思い悩み、金で引っ張ろうとする態度に反発を覚え、同じ学校に通って一緒に活動するのは無理でしょうと考え断ろうとする。

 けれども一方で、その絵ではなかなかデビューもおぼつかないところを、原作者としてペアとなってデビューできるかもしれないという希望もあり、自分のストーリーを欲してくれているといううれしさもあり、てその繊細なタッチなら自分では技術が追いつかず描けなかった自分の物語を形にしてくれるかもしれないとも考えて、羽美原律華の原作者になることを引き受ける。そして学校では2人はつきあっていることにして、周囲を驚かせながらも2人して次の連載に向けた物語作りを始めるといった展開の菱田愛日さん「海野律は今日もズレている!! 2次元系男子は少女漫画家でした。」(ビーズログ文庫、580円)。どこかありがちな設定に見えるけれど、読むとこれはなかなか深いかもって思えてくる。

 それはたぶん、展開に浮ついたところがなく、とんとん拍子に物語りが進んでいくようなことがなく、あり得る範囲でそれもプロフェッショナルの現場として、リアルでシリアスな状況で物語が進んでいくから。海野律が奈々帆に出してもらった原作に異論を唱えるシーンとか、あまりに素晴らしい絵に奈々帆が引っ張られ、その絵をいくらでも見ていたと心のどこかで思いながら紡いだ原作となっていて、描いてもイラスト集のようになてしまうことが指摘され、漫画というものがただ美しい絵を並べただけでは出来ないってことが示される。奈々帆が当初は自分の実力で描ける範囲でしか原作を作れなかったことにも、絵と物語が併存する漫画という表現技法の特徴がにじみ出ている。そうした理解があるところに、絵の天才と物語の俊英が組んですぐ、傑作が生まれるとは限らない現実の難しさってものを感じさせられる。

 デビューに向けて動き出した海野律と奈々帆が作り上げた原作に、編集者のシュウさんが異論と唱える場面なんかも、漫画というものの世界で生きていく大変さが見え隠れ。すでに傑作を描いてファンも多くいる羽美原律華という少女漫画家が、新たな原作を得て描いた漫画がもしも失敗した場合、厳しい視線がその原作者、すなわち奈々帆に向かって彼女をダメにしてしまうと海野律は考える。だから売れ線を取り込んだ原作にしようといった話になって妥協を見せるけれど、それにシュウさんは納得しない。律にとって欠かせない存在だったその姉を知るシュウさんが、過去を引きずり続けて飛び出せない海野律を大きく羽ばたかせるために必要なのは何かを考え、奈々帆というピースを与えて目指したもの。そこにクリエーターが限界を突破していくために必要な何かが見える。

 そうなるまでには紆余曲折もあって、反発があり双方がこれで良いんだと妥協に陥ろうとする展開があって、それも仕方がないことかなあと思わせるけれどでも、その先にあるだろう新しい地平をつかむために、分かりやすい妥協も停滞の安寧におぼれることもあってはいけない。海野律に欠けていたものと、それを補って余りある奈々帆の才能が組み合わさって生まれた新たな世界。それは本当に世界を変えるのか、ってあたりは気になるところではあるけれど、永遠の停滞におぼれてその才能を細くしてしまってはもったいない。挑戦がもたらす未来をつかむために必要なことは何か。それを感じさせれくれる物語。読めば誰もが思うだろう、自分の限界をこれる大切さを。それをもたらしてくれる女神の降臨を。


【5月16日】 デザインフェスタVol.43で見たものあれこれ。何か遠目に丸尾末広さんみたいなおどろおどろしいイラストレーションが飾ってあったのが見えたんで近づくと、まるでエッチングようなタッチでナチスの将校めいた人たちが猟奇的な面持ちに振る舞いをしている場面が描かれていた。あとは鎧甲を身に着けた武士とか。どうやら小倉枕さんという人の作品らしく、ブースにおられた当人に伺うとエッチングではなく全部が手書きの1点ものだというから驚いた。A4サイズくらいの用紙にびっしりと引かれた細かい線によって表現されていて、普通のケント紙なんかでは描いているうちにヨレヨレになってしまうから、ちょっと固めのトレーシングペーパーに丸ペンでもって墨汁を使い刻み込むように描いているらしい。

 それだけの作品を仕上げるのにいどれくらいの時間がかかるのか。なおかつ同じものは2枚と作れない非効率ぶり。エッチングにすれば原板さえ彫り上げれば何枚だって刷れるんだけれど、そのための作業や刷りだしのための設備を考えると、手書きの方が1枚だけなら費用はかからず時間も短い。あとはやっぱりイラストレーションであり絵本的なストーリーの1枚として描いているから、慣れた画材で描く方がやっぱりうまくいくんだろう。そうやって描かれた作品はナチス的なシリーズは猟奇的であり耽美的であり退廃的で、それこそ荒俣宏さんの伝奇物の挿絵とか「月蝕歌劇団」の公演チラシなんかに使われていたって不思議はない気がした。モノクロなんで色味がないからチラシはちょっと違うかな。でも雰囲気は感じてもらえると思う。

 甲冑のシリーズの方は今はやりの戦国武将とはちょっと違った雰囲気で、選ばれている題材も鎮西八郎為朝だったり巴御前だったりとやっぱり戦国とは離れている。これは小倉枕さんが平安末期から鎌倉時代にかけての大鎧が好きで描いているからだそうで、だったらと大河ドラマ「風と雲と虹と」の話をしたらそれがきかっけのひとつになっているって話してくれた。ってことは世代はたぶん同じくらい。あとは「草燃える」とか「平清盛」とか。そこい出てくる大鎧はなるほど大袖やら草摺やらが平たい上に大きく体を覆っていて、そこに刻まれた細かい模様が武者の全身を美しい線でもって彩るようになるから見ていてどこか整然とした感じが出る。カラーなら色味もあるけどモノクロだとそうした線がどこか幾何学的な雰囲気を醸し出して画面にピシッとした整いを与えて美しさをもたらす。

 だから好んで描いているそうで他にも平知盛あたりがあったかな、そんな作品をこれからも描いていきたいそうだけれど次はどこで見られるだろう。ちょっと追いかけていこう。イラストレーションではTORA_GRAPHICSってところがモノクロでもってポージングがやたらとかっこいい女の子のイラストを描いていてTシャツとか欲しくなったけどサイズ切れでちょっと残念。雰囲気としては「ヘルシング」の平野耕太さんで、ガッと両足を踏みしめて立つ人物を下から舐めるようなポージングでもって、身にボンデージともパンクとも言えそうなファッションをまとわせ手に武器なんかを持たせている。そして表情。傲慢とも残忍とも言えそうな顔立ちのキャラクターが見る人に強烈なインパクトを放つ。誘いかけてくる。

 当人もやっぱり平野さんは意識しているみたいだけれと、表情とか等身とかファッションなんかに独自性はあるから路線を曲げずに突っ走って、クールなんだけれども沸々と血が滾るようなキャラクターを、とりわけグラマラスな女の子たちを描き続けていって欲しいもの。こちらも次があったらまた行こう。逆に癒やし系では道草という名前のブースが出していた苔のテラリウムが実に良いほのぼの感。蘚苔類って言えばどこか薄暗くてじめじめしたとこにビッシリと生えている雰囲気もあるけれど、そんな苔をガラス瓶の中に入れ、種類を分けつつ植えていって起伏を作り出す。それは苔で行うガーデニングのよう。自然をぎゅっと凝縮したような風景がそこにあって、盆栽とはまた違ったミニチュアな宇宙ってものを感じられる。2週間い1度くらい水をやれば2年は保つとのことでモノグサな人でも安心。夜に眺めてその世界へと入り込んでみてはいかが。

 欧州の方でもサッカーのリーグ戦が続々と終わりを迎えていてイングランドのプレミアリーグでは既に優勝を決めているレスターの下にアーセナルが滑り込んだ模様。ここ数年は4位が続いて3位に挙げつつチャンピオンズリーグの出場権だけはアーセン・ベンゲル監督の就任以来、ずっと獲得し続けていてそして巡ってきた今季も、2位へと成績をあげたもののそこはやっぱりビッグクラブとして優勝を義務づけられているチーム。FAカップを逃しただけに是非ともリーグ優勝は欲しかっただろうけれども岡崎慎司選手が所属するレスターが突っ走りすぎた。監督の力ってこともあるだろうけれど、岡崎選手の貢献もあり選手たちの旬もあってと幸運が重なったんだろうなあ。来年はだからどうなるかちょっと不明。とはいえアーセナルだってウェルベック選手がけがで戦線を離脱し、ロシツキ選手は退団と選手層が入れ替わる。育てるのには定評があっても大物を獲得するのは苦手なチームだけに勝利に繋がるストライカーは手に入れられるのか。岡崎慎司選手とか、入ったらどんな感じになるかなあ。

 サクッと気軽に読めるものをと求めた伊藤ヒロさんの「ラスボスちゃんとの終末的な恋愛事情(ハーレム・ルート)」(GA文庫)がパターンを踏襲しつつそれを踏み越えていくような愉快さがあって1巻2巻を一気に読んでしまった。とある少年の母親がかつて勇者だったそうで、多元宇宙から攻めてきたクトゥルーめいた魔王の種族と対峙しつつこれを退けたついでに、息子ができたららそちらの娘と結婚させようって話になってそして10余年。生まれ育った息子が朝目覚めると、ベッドの中に得体の知れない者が添い寝していて慌ててひっくり返すと中から全裸でそれなりな巨乳の女の子が現れた。彼女こそが東大の魔王。そして多元宇宙を支配する権力者。いわばラスボスともいえる存在が、押しかけ女房的にやって来て始まるドタバタは、続いて銀河帝国の少女とそして四国に拠点を置いた妖怪の親玉のヤンキー娘も巻き込んで少年の奪い合いが幕を開ける。

 それだけならありがちだけれど、G8の首脳たちが地球の危機だとばかりに少年とラスボスたちとの行方を心配し、日本に来てファミレスで会議をしながら厳重監視をして少年の行為を糺して導こうとする。監視の目も行き届いているようでラスボスたちのちょっとした言動で株価が乱高下して商品が売れたりもするといった具合。美少女ハーレム物をエスカレーションさせつつ周辺の事態も大げさにして戯画化し次ぎはどれだけのバカバカしい事態が起こるのか、ってな楽しみで引っ張っていってくれる。3人以外のラスボスも現れ、さらに大宇宙の意思めいた厄介な存在も暗躍。狐の妖怪と思われたラスボスの意外な正体判明してと、ズレてひっくり返っていく展開に大笑い出来る。前髪で目の隠れた美少女も現れラスボスと判明して鮮烈に加わって次、いったい何が起こるのか。というかエンディングは何か用意されていくのか。想像できない大団円を楽しみにしつつ読んでいこう。

 真田信繁は大坂夏の陣で戦死して、そして淀君は豊臣秀頼とともに大阪城で自刃するという結末が歴史的な必然である以上、それは結ばれる関係ではないし、間男として信繁が罰せられる訳でもないことは分かっていても、奔放すぎて小悪魔っぷりも板についてる竹内結子さん演じる茶々が、信繁を誘うたびにこれで信繁の命も風前の灯火かって思えてくる。それくらい怖い茶々とそして豊臣秀吉。とはいえ茶々がいったい何を望んで城の中を歩き回り蔵の中に入ったのか、そこで何を見たのかを感じ取った秀吉が、欲望だけではなく自責や後悔もはき出しつつ茶々を幸せにすると慟哭混じりに言ってのけたことで、茶々の絶望すら枯れ果てた心にちょっぴりの火も灯った感じ。でもそれが崩壊の序曲と言ってのけた「真田丸」。茶々の奔放さをこれで収めず、秀吉を煽り石田光成を走らせ真田信繁を引き寄せては豊臣の血脈に終止符を打つべく、突っ走っていく展開にする気なのかも。怖い怖い。


【5月15日】 周辺に何人も魔女が現れて、人を動物に変えてしまう魔法とかカラスを呼び寄せる魔法とか、ほうきで空中に浮き上がる魔法とかを見せていたらそりゃあ子供だったら魔女ってかっこいいと思い、なってみたいと憧れるものだろうけれど、でもそれをいうと魔女たちがあんまり大歓迎をしないのは、魔女の世界には何か人間として生きていくことに比べて、ハンディみたいなものもあったりするんだろうかどうなんだろうか。「ふらいんぐうぃっち」。木幡真琴にしても茜にしても日常生活は人間と変わりがないし生活だって普通にやっているしなあ。むしろ人間よりだらだらしている感じだし。

 というか茜と真琴の二人が姉妹ってことは両親がいて、母親あたりは魔女だったりしてそうで、つまりは結婚して子供を作って家業としての魔女を継がせていくって感じに、人間と変わらない人生を歩んでいたりする。そんな魔女に倉本千夏がなろうとするとでも、魔女として生きるとなると人間として生きることが難しくなったりするかっもなんて話になって、親とちゃんと相談して決めないといけないだなんて固いことを茜も真琴も言い出す。人生を、人間をかけるくらいの決断が求めらることなのか。それにしてはお気楽に魔女をやっているしなあ。なっちゃなっちゃえと奈々さんが千夏をけしかけるのも分かる気がするなあ。

 あるいは人生のどこかの段階で、真琴のように、そして茜のように、犬飼さんのように家を出て独り立ちしなくちゃいけないって決まりがあるのかもしれない。「魔女の宅急便」のように。それを魔女の家に生まれ習俗に慣れていない子供が決めていい話ではないって思っているのかもしれないけれど、でも真琴も茜もお気楽そうなんだよなあ。そんなに大変なのか魔女。そんなあたりもいずれ明らかになるのかな。というか木幡家と倉本家って親戚な訳で、それで魔女として生きているのと弘前で暮らしているのと違いが出るのってどういうことなんだろう。倉本の家には魔女はいないんだろうか。そんな謎も抱えつつ、見ていこうこの続き。オープニングでまだ出てないのは椎名杏子とひなさんか。いつ出てくるんだろう。

 大森藤ノさんによる「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか?」の第10巻が出ていたので買って一気にラストまで。ウィーネって知性を持っている竜の少女が現れて、同じように知性を持ったモンスター【異端児】たちのもとへと送り届けたベルたちだったけれど、ぽっかりと開いた穴が気になるのとそれからやっぱりどういう扱いを受けるのかが心配だったらベルくんは、ひとりダンジョンへと潜って人間と【異端児】のモンスターたちとが一緒に暮らせるような世界の訪れを願っている。でもそうした知能を持った【異端児】を狙って狩り売り飛ばす勢力が現れウィーネたちをおそって何人かの【異端児】たちを殺害。起こった仲間たちが大暴れを始めて18階層にある街を壊滅させて地上からの追討を受ける羽目となってしまう。

 とはいえモンスターみたいにただ暴れるだけではない【異端児】たちを相手に戦うのも難しい話で、事情を知っているウラヌスあたりは殲滅とはいかず捉えて解放させようと画策していたみたいだけれど、怒り心頭の【異端児】たちはおそった相手を壊滅させるためには間に入った人間も含めてぶっ飛ばそうとする。もはや人間vsモンスターの大戦争しかないのか、ってところで飛び込んでいったベルくんが、その博愛を全面に出して戦いながらも説得をしてどうにかウィーネに迫った時、その額にはめられていた制御のための宝石が外されウィーネは暴走を始めて地上にまで行ってしまい、そこでアイズ・ヴァレンシュタインを含めたロキ・ファミリアと対峙することになる。

 ウィーネを守りたいベルがとったのは、自分の獲物だから手を出すなという言葉。街が大きく破壊されている中で身勝手な宣言は大きな反発を買う。ウィーネの件がとてつもない悲劇とそして奇跡を経て集束しても、地上に出たモンスターたちは今も戻れずあたりを徘徊し、自分勝手なところを見せたベルには批判の目が集まってかつてのような誰からも愛される存在ではなくなってしまった。何よりアイズとの反目が強まってしまったことは、成長の原動力にアイズへの憧憬があったベルにとって大きな影響をもたらしそう。そんな可能性を含みつつ、人間とモンスターとの本格的な関係を模索する展開を見通しながら続くストーリーでベルとアイズとの間にどんなやりとりがあるのか。そこが目下の関心事。辛い展開にはならないと良いけれど。

 今日も今日とてデザインフェスタVol.43へと出向いてはあちらこちらを散策。キングコングの西野さん本人も立っていたりして絵本の絵を展示していたブースの隣で黙々と絵を描いていたJoshuaさんという人のブースに近寄って、何を描いているのかを見たら文字だった。正面には曼荼羅のような模様があって黒い背景に銀色でペイントされていて、よくよく見ると様々な文字が躍っている。そしてだんだんと周辺に目を移して、両サイドに立つ壁を見ると、そこにはリプニツカヤとか大山倍達といった言葉が、中央の曼荼羅みたいな模様から放射線状に広がって伸びている。とてつもない集中力とそして執着力でもって描かれたプリミティブさも漂う作品。凄まじい。

 聞くと天地諧謔からの歴史をそこに描いているそうで、だから周辺には目下の関心事なんかが言葉で紡がれているという。ただやっぱり個人で描いているのでアニメの言葉とか漫画の言葉、テレビで見たことといった具合に自分の関心事が中心になってしまうので、周囲からどんな言葉を描けば良いかを募っているとのこと。そんな言葉がこれから何ヶ月かかかって載せられて完成した暁に、どんあ風景がそこに広がることになるんだろう。何でも描いている銀のマーカーで、7ミリのものが生産中止になって中央部分を描けないということらしい。買い占めてしまったようだから補充も難しいらしいけれど、どこかの倉庫に眠っていたらそれを使って中央をさらに緻密に飾ってくれるのかな。そんな奇跡、起こらないかな。

 そんなデザインフェスタVol.43ではユークスに今はいて新しいプロジェクトを動かしている「ラブプラス」のおとうさんこと内田明理さん、いわゆる内Pが来場していて別にやってるプロジェクト「つんでれチャネル」から生まれたキャラクターのグッズなんかを販売していた。並んでいるのはもっぱら生み出されてこれから属性なんかをみんなで考えていこうってことになている女の子たちだけれど、中に混じって内Pさんをモデルにしたグッズがあって、それが1番減っていたのはやっぱり当人が目の前にいて買わないのは悪いと考えたからなのか、すでに内Pが最もメジャーなキャラクターになっているからなのか。やっぱりそこは「ときめきメモリアルGirls Side」を手がけて女性からも愛される内Pだけに、デザインフェスタに来る女性ファンのハートもがっちり捕らえた模様。せっかくだからと最後に残ったコースターを1枚、買ってサインも入れてもらう。家宝にしよう。なるかな。


【5月15日】 “決定的瞬間”って奴を押さえるためにカメラマンはあらゆる手段を駆使して撮影のタイミングを計り、撮影できる角度を測ってカメラを手にしてその瞬間を待ち続ける。あるいはその瞬間に近づくために隙間に体をねじ込み床を這いつくばってでも前に出る。それが習性であって、あとはそうした行為が身に危険を及ぼすもであり、周囲を危険に巻き込むものであったなら自重し自省すべきといった判断が加えられ、適正で適法な範囲から“決定的瞬間”ににじり寄ることになる。

 そうやって撮られた“決定的瞬間”は、犯罪だったらそれが為された瞬間であり、事故だったらそれが発生した瞬間であり、状況だったらそれを1枚で言い表せるだけの構図なり登場人物なりが写っている。だから認められ称えられる。そういうものだ。翻って朝日新聞が卓上に小さいカメラを置いて撮ったという、舛添東京都知事がマイクに囲まれながら机に向かって苦い表情を浮かべている写真。それはなるほど苦しそうに見えるけれど、もしかしたら苦しいのではなく思考を巡らせているだけかもしれないし、お腹が痛いのかもしれない。

 それはさすがにないとしても、瞬間の表情を切り取って心理まで言い表すことは不可能だ。人間は常にりりしい顔をしている訳ではなく、様々なに変化をさせている。その一瞬には変顔的な表情も混じるかもしれない。どんな美人だって可愛い子にだって、ある瞬間にはとてつもなく不細工になっていることはある。それを切り取って不細工だとか動揺しているとは言えない。そういうものだろう? なのに朝日新聞は、そんな写真を挙げて味方が「東京都知事の苦しい釈明を、言葉なしで伝えきりました。GJ! 」ってツイートでもって応援してのける。

 でも、言葉があったからこそその弁明が苦しかったかどうかって言えるもの。あるいは本当は別に苦しくはなく理路整然と応えていたものを、さも苦渋の心理でもって虚言を紡いでいたかのように印象づけるために「苦しい弁明」であることにして、そういう状況にふさわしい一瞬のヘン顔を抜き出してそこにツイートという形で「苦しい弁明」と添えて誘導しているだけかもしれない。1枚の写真はなるほど雄弁に真実を語ることもあるけれど、同時にさまざまな虚言の可能性だって持っている。だから言葉によってどんな誘導だって可能だ。

 もしかしたら一瞬の変顔かもしれない写真を、ある意味ちょっぴり卑怯な手を使って撮影して引っ張り出し、それに援護射撃のように「苦しい釈明を、言葉なしで伝えきりました GJ」ってツイートでもって支える、そのツイートがまさしく言葉であることに気づいていないとしたら、味方のツイート主は相当に厄介。どこか裏技的な撮影方法を称え、それが“決定的瞬間”とはちょっと言えそうもない一瞬の変顔を挙げて、苦しい釈明を苦しい言葉で語ろうとするくらい、裏のある都知事だって印象づけようとする行為を、果たしてジャーナリズムと言えるのか。

 だからここで主張すべきは、変顔による誘導ではなく、紡がれた言葉の精査。それは別にやってはいるんだろうけれど、だったらその結果も添えてなおかつその表情が何を語っている時に出たものかを、紐付けて語るべきだった。そういう配慮もなしに、日本屈指の新聞に所属する人間がヤッタゼイベイベとツイートで叫んでは、早速突っ込まれている。それは適正に撮られたか、だまし討ちみたいな撮り方だったんじゃないのか、といったやり口に関するものが多いけど、そういう撮影もあるし、それでつかめる“決定的瞬間”はある。けれどもこの場合はどうだったか。そこへの疑問をまず自覚し、なおかつ被写体の意図をねじ曲げていいないかを問い直す。それがない。日本のジャーナリズム、全体にユルんで来ているなあ。

 今日も今日とてデザインフェスタVol.43へと出向いてまずはkamatymoonさんを見物。ちょやさぐれたガンマンなタスマニアデビルにハイエナにワニが大口開けて屹立しているフィギュアとかもうクールでスタイリッシュで格好良くって、お金があったら3体まとめてお迎えしたいくらいだったけれども貧乏にはかなわず。そうこうしているうちにワニは売れたみたいで別にアリスのシリーズだとかドードーとか、オオカミなんかも順調に売れていったみたいで相変わらずの人気ぶりに8年9年前くらいから様子を見てきた身としてその活躍ぶりに喝采を贈る。

 出てはそれなりに売れても何年か経つと行き詰まって消えていく人もいるデザインフェスタで作り続け、且つ腕前も上げつつグレードアップしながら大きくなっていく人は多くはない。でもいない訳じゃない。そんな仲間入りを果たしてさらに、これからもっと大きな舞台で活躍してもらいたいところ。神風動画が手がけている何かの映像にガジェットとかパンキッシュなプロダクトデザインで参加しているみたいだし、いずれキャラクター性も含めて映像化されていって欲しいもの。そうなると作品、もっと高くなってしまうか。今のうちに買っておくかなあ。イケメンゴリラとか本当に格好良いんだよ。

 そして会場をぶらぶら。オリジナルのタロットカードをウェイト版だから小アルカナも含めて全部デザインしたものを売っている人がいて、凄かったので冊子を買ってサインをもらったり、架空のではなく未発見の昆虫の絵を描いている人がいて、そのカタログみたいな本を売っていたので買ってポスターをもらったり。そんな中で見かけたのは女子高生と世界遺産が一緒に描かれているという、ちょっと意味不明だけれど説得力は抜群で破壊力も十分なモチーフのTシャツを売っていたバラ色のクマタローさん。「リボン色の世界遺産」というシリーズは昨年秋のデザインフェスタVol.42でも見かけて紹介したけど、今回はパターンも増えて肩にエンブレムも入ってゴージャスさが益していたので、1枚所望させていただく。どこに着ていけば良いんだ。

 選んだのはモンサンミッシェルでもピラミッドでもなくギリシャのパルテノン神殿。でもなぜか前で女子高生が片足を挙げて両手を絡めて手に串に刺して焼いた魚を持っていて、脇では焚き火を囲んで女子高生がしゃがみ込んで魚を焼いている。野宿かよ。組み合わせも意味不明ならシチュエーションも意味不明だけれどそのギャップがまた素晴らしく、見ていていろいろと物語が浮かんでしまった。イタリアあたりから泳いで渡ってきたけど全財産を沈めてしまって仕方なく、エーゲ海で取れた魚を食べている、とか。いやそれはさすがに。ほかのシリーズも見るほどに妄想が浮かんで仕方がない。ニコニコ動画の視聴者とかに大受けしそうなモチーフだけれど、問題はそこに届いているかが見えないところかなあ。

 なんでバラ色のクマタローさん、今回のデザインフェスタVol.43で繰り広げられているニコニコ生放送によるデザフェス紹介イベントに引っかかるよう自分のブースをハッシュタグ入りで紹介していたけれど、果たして届いたかな。そんなニコ生ではリタ・ジェイさんをメイン司会においてリポーターが各所を回ったり、参加者をニコ生のブースに呼んだりして手広くイベントを紹介していた。そこに現れたのが我らが和装侍軽音楽集団MYST.の面々。甲冑を身に着け手に槍も持って座って活動を宣伝していた。

 スタッフの人が事前にCDなんかを手に入れ音楽も流していたから、あるいは演奏している場面に誰かが言ってリポートをして、その姿を紹介していたかも。見た目は甲冑の兄さん姉さんが歌っているのはハードなロック。そのギャップがニコ生のユーザーに受けて存在が知られるようになれば、いずれ「ニコニコ超会議」の超歌ってみたに呼ばれ「ニコニコ超パーティー」でも披露してやがては紅白歌合戦に……なんて妄想も膨らむけれどまずは存在の認知から。デザフェスでは知らぬ者ない存在だけれど、その楽曲の良さを知ってもらって何かの主題歌として使われて欲しいもの。「夢を見る間に抱しめて」。これを聞かなきゃデザフェスは始まらない、終わらない。

 莫迦なのか、それとも莫迦のふりをしている阿呆なのか。五輪の会場決定に影響力を持っている国際陸連の前会長がいて、その息子とやらが関与しているシンガポールの会社に日本から五輪誘致の名目でもって何億円かの大金が支払われたらしいとフランスで取りざたされている問題。いやいやそんなお金は聞いたことがないけどもしかしたら下っ端が勝手にそれで票のとりまとめをしてくれるかもしれないからと手間賃を渡したかもしれないんで、ちょっと調べてみるわとでも言っておけば良かったのに、何を考えたのか萩生田官房副長官もJOCの竹田恒和会長も、ちゃんとした相手で力になってくれるというんで契約をしてお金を払いましたと言ってしまった。つまりは適切な支払いだったと満天下に公言してしまった。

 でも、入ってくる情報によればシンガポールのその会社はオフィスが公営住宅にあって担当者という者も何か影響力がある感じではなさそう。つまるところは業務に関するコンサルタント料を支払ったところで、何か具体的に仕事をしてくれそうにもなく、実際に仕事をしたかも定かではない会社をちゃんと仕事も出来るしやってもらったし、そのためにお金を支払うことで契約も結んで契約書もあると竹田会長は言ってしまい萩生田官房副長官もお墨付きを与えてしまったら、とてもそうじゃないことが1夜にしてバレてはしごを外されてしまった。

 これで本当に契約書がなく、シンガポールの会社がいかにもトンネル会社でペーパーカンパニーだった場合、竹田会長も荻生田官房副長官も、何を根拠に自信たっぷりなことを言ったかが問われる。あるいは嘘をついたのかと。これでまともな組織だったら、相手がどんな会社かを調べ上げてお金がどこに回ったかを確認した上で、どういう対処を撮るべきかを危機管理のプロが入ってまとめあげ、偉い人に罪が及ばないように、そして日本があくまでだまされたかのように装うために誰が何を言うかを振り付けておくだろう。でも今回はそのトップが先に適正だ適法だと口走ってしまった。騙されただなんて言い訳はもうできない中で明るみに出るだろう金の行方。そこでどういう決断が下されるかが目下の見所か。やれやれな事態。


【5月13日】 やっと見た「ジョーカー・ゲーム」は新京から奉天を経て大連へと向かう列車の中で起こった事件に挑むD機関メンバー。あんなに子供たちと接触してあれやこれや動き回らせて、スパイとバレないのかがまずは不思議だし、それ以前に連絡を取るはずだったロシアからの亡命希望者が殺害された現場に居合わせて動揺しているところを犯人に見られたら、それこそスパイだって自分からバラしているようなものになっていたけれど、そこは段取りの中で消化されて窮地に追い詰められたD機関のスパイが、機知でもって脱する逆転のドラマって奴を楽しませてくれた。そうか鳩は燕より早いのか。

 ただ気になったのは陸軍の暗躍で、結城中佐を嫌う面々がD機関に変わる組織を立ち上げた様子。中野学校か何かかなあ。けどそれって陸軍のそれも特定個人の面子の問題でしかなくって、日本全体における利益ってものを考えたらD機関を潰す理由なんてまるでない。にも関わらず自分たちに都合の良い組織を作ってD機関を排除しようとするところに、日本というか軍隊の視野狭窄ぶりって奴が見え隠れ。もちろんこれはフィクションなんで実際とは違うんだろうけれど、組織あって国なしで、個人あって組織すらない体質がはびこったあげくに誰もが自分のためだけに行動し、そして崩壊したってところが実際なんだろうなあ。それは今もなお進行形。どうなっちゃうんだろうこの国は。

 まさに自分たちさえ逃げ切れればといった感じの、東京オリンピック招致に関連しての国際陸連前会長に対する裏金問題。捜査によって着々と、日本にある銀行の口座から支払われていることが明らかになって、その名目が東京オリンピック招致というから傍目にはもう明白な買収金。なるほどそんなあからさまな賄賂をあからさま過ぎる名目で入金なんてしないだろう、なんて思われがちだけれども明らかになるとは思っていないルートだったからこそ、そういう手抜きがあったとも考えられ、けれども明るみに出てしまってさあ大変ってことになっているんじゃなかろーか。

 なおかつ異常なのは、そうした裏金問題に対して、現在の東京オリンピックを仕切っている組織委員会が、それは招致委員会の話であってウチらは無関係だよって声明を出したこと。理屈の上では確かにそうだけれども招致委員会が転じて組織員会になってる感じでそこに切れ目はあっても断絶したものとは言えないし、同じ日本という国で東京オリンピックに関わった者ならそれは一枚の板の上にいると言える。知らぬ存ぜぬなんて言い訳が世界で通じるはずもないのに、平気でそれを言ってしまうところに危機感のなさが漂うというか、あるいは心底からの逃亡意欲が見えるというか。いずれ明らかになってその中心が露見した時、責任をとるのは誰なのか。国なり集団が一体となっていたならそれはもはや開催の資格なしといった形で表明する必要があるんじゃないのか。ちょっとドキドキ。

 大畑伸太郎さんの新作が並んでいると聞いて東京国際フォーラムで開催中の「アートフェア東京2016」を見物に。ユカリアートのブースにたどり着くとそこには夜景の東京タワーを窓越しに遠くに臨む絵があって、その前に少女の人形が立ってそれから少年というか動物の擬人化されたような姿をしたキャラクターがイスに座って窓に絵を向け手にろうそくを抱えるように持っている人形が置いてあった。平面と立体を組み合わせて背景と人物による情景を形作るシリーズだけれど今回は、夜景の向こうに東京タワーがライトアップされて輝く様と、そしてうつむくようにした子供が手にしたろうそくが子供の顔や体をボッと照らす様が重なって、今まで以上に遠近の空間を味わえる作品になっていた。

 平面の作品もあってこれは得意な雨の夜の街にたたずむ少女といった感じ。最高だったけれどすでに売れていたのはやっぱり大畑伸太郎さんにとっての代表作的モチーフと、見る側も感じているからなのかもしれない。思えば遠くデザインフェスタだとかGEISAIだとかで見て好きになったアーティスト。それからもう軽く10年以上は経っているけれど、しっかりと作品を作り続けて海外でも評価されているところはなかなか凄い。イラストレーションの世界にいても不思議はないのがアーティストとして立っているのは、頼まれて描くんじゃなく、内在するものをそこに定着させようとする能動的な思いがちゃんとあるからなんだろうなあ。次にどんな作品を見せてくれるだろう。ミヅマアートギャラリーでグループギャラリーの総合展みたいのがあって、そこに作品が並ぶそうなんで観に行こう。

 前に近藤智美さんの作品を買ったArt Lab TOKYOにも立ち寄ると紹介されたのがアーティストといった感じからは遠く、ギャル前回だった近藤さんとは正反対の雰囲気を持った女性。聞くとセルフポートレートを寄せている牧田恵実さんという人で、見たら2枚が溶接された金属の衣装を着たボンデージ的な立ち姿で、2枚が座ってすっぽんぽんで股間に花を置いたヌード姿だった。この人がここまでするのかという驚きがあったけれど、今描いているという作品を携帯の画像で見せてもらってさらにびっくり。チョモランマの前に屹立しているマラというか。そんなの展示できるのか。ちょっと無理かもしれないなあ。

 探すと自身のサイトがあってそこに並んだ過去の作品にはなるほどしっかりとアフリカにあるバオバブの樹がくわっと屹立しているような作品も。つまりは前々からそうしたモチーフを描いている人らしく、けれども普段は楚々とした格好というギャップが凄まじく、そして口からついて出るエロワード前回のコメントがさらなるギャップを読んで人間への興味を誘い、作品への関心をいや増してくれる。秋にまた東京で個展があるみたいなんで今度こそは観に行こう。エロスとタナトスとファルスをパッションが渾然一体となったそのエネルギッシュな作品を全身に浴びて元気になろう。問題はちゃんと展示できるかか。年齢を示せる証明書必携の展覧会になるかも。

 アーティストではあと、飛び出すサイネージを出していた松枝悠希さんが面白かったしちょっと欲しくなった。正方の画面からアクリル板を押し出すようにいていろいろなモノが飛び出してくる作品を作っている人で、たとえば絵の具がぎゅっと飛び出つつ背後に色がぶちまけられているシリーズなんかがあったけれど、今回は○に斜線をいれて○○禁止といった記号を背景にして、そこからさまざまなものを飛び出させて禁止の標識を立体的に表すような作品を並べていた。たばこを前に出して禁煙とか、自動車を出して駐車禁止とかカメラを出して撮影禁止とか。逆に○だけを置いてWi−Fiの記号を前に出してWi−Fi使えますといった感じ。いろいろと応用が利いて実用性もあって、雑貨屋さんとかガチャポン会社とかがまねしそう。

 ただそうしたグッズとしてではなく、アーティストとしてアート作品を作っている松枝さんだけにそこにはユーモアがあり思想もあるといった感じ。放射性物質が入ったドラム缶を飛び出させるとかいった具合。自撮り棒をぐっと突き出させた作品なんかはアクリル板で覆えず棒だけ飛び出ていた。そこはだから変化球も投げて個性を出すといった寸法。禁煙標識なんかは買ってオフィスにおいても良いし、家に飾って自分の戒めにしても良い。このシリーズで突っ走るか他に向かうか、分からないけれどもデザイン性にアーティスト性を混ぜて作り上げられたひとつの境地。その思索の行方を見守っていこう。ほかには石黒賢一郎さんという人がなぜか1分の1サイズのジェットパイルダーを作っておいていた。コアファイターの1分の1なら見たことあるけどジェットパイルダーは珍しいかも。これがまた良い出来で。誰かのコレクションになる前に見ておくのが吉。


  【5月12日】 まず浮かぶんだのがは横浜F・マリノスと浦和レッドダイヤモンズとの関係で、方や日産自動車がだんだんと出資を減らしつつはあっても、未だ主要株主であるJ1でもとりあえず名門のサッカーチームで、こなたやっぱり三菱自動車工業が過半数の株式を持っている名門にして常勝のサッカーチーム。その親会社どうしが一緒のグループになった時にふたつのチームを持っているのは規約的に大丈夫なのか、ビジネスとして保有している意味はあるのかといった問題が浮かんでいろいろと選択を迫られそう。マリノスについては日産自動車が持ち株を減らす代わりに、マンチェスター・シティなんかを運営しているシティ・グループに資金提供をして、そこがマリノスの株を持つような感じにして、世界的なサッカーグループが形成される流れにマリノスも組み込まれているから、スポーツビジネスユニットとして独立して、日産は単なるスポンサーへと引いていくって可能性はある。

 浦和レッズについてはその比率も下がっているとはいえ、他に戦略として世界との連携を図るような動きはないから、ここで三菱自動車がひいてしまった時、他にローカルのスポンサーを得るの得ないのとなってだんだんと体力が下がっていき、それに伴って選手層も薄くなって常勝の体質が崩れ、一気に崩壊なんて可能性も浮かんだりする。たとえば東京ヴェルディのように。読売新聞社と日本テレビ放送網っていう企業がバックについていた時は、あれだけ隆盛を誇ったのに選手が引退といか移籍をしたこともあってちょい、弱まった時に読売が引いてしまって一気に弱体化。そしてチームは一時、J1に復帰したもののその後はずっとJ2にいたままで、なかなか強豪として復活する気配が見えない。

 それはジェフユナイテッド市原・千葉も同様だけれど、ここはまだ古河電気工業とJR東日本が折半で付いているから規模としての適性は保たれている。でも浦和レッズから三菱自動車が引いたら果たして代わりを務める大企業なんかいるんだろうか。いっそ三菱重工業が昔のようにサッカーチームを引き取るとかすれば、それこそ丸の内グループの名門復活ってことになるけれど、それが出来ないからこその三菱自動車による運営でもあった訳で、今更戻すってこともあるのかないのか。そこのあたりも含めていろいろと影響を考えてみたくなる日産自動車による三菱自動車への支援話。日産がどこまで三菱への影響力を深めるか、どこまでグループ化を進めるかってところが気になるけれど、日本にとっては合理化の果ての工場閉鎖とか確実にありそう。いい話ではないだけに行方が気になる。政策の関与も。

 音楽がパッケージから配信へと移って失われていくものにはひとつにアルバムという概念があって、並びもふくめてひとつながりの時間を、あるいはひとつの塊としてストーリーなりコンセプトに沿った音楽を作り上げ、アルバムに収めて視聴者へと届けていたものが、今はひとつひとつの楽曲がバラされ単体としてキャッチーか否かで判断されるようになって、アルバムという概念が消えてしまった。そしてもうひとつ、そのアルバムを飾っていたレコードジャケット、あるいはミュージックジャケットというものも同じように音楽がネットから配信されるようになって楽曲が単体で受け止められるようになって全体を包み込むパッケージというものの意味合いも薄れていった。必要なのは楽曲のタイトルであり演奏者なりのデータといったもの。ライナーのようなものはネット上に別にあげて参照すればそれでOK。

 なんて状況が海外では起こっていたりするのかな、未だにアルバムといった概念は残っているようでCDからネット配信にはなってもそれぞれのアルバムめいたものに四角いアイコンとしてのジャケットは付いてくる。とはいえその裏側にどんな仕掛けがあったりするのかといった楽しみはすっかりなくなってしまった海外に対して、CDが未だ音楽メディアの王様として残っている日本では、レコードジャケットなりミュージックジャケットがそれなりの存在感を持って語られ、その出来不出来が音楽の売り上げにも関わってくるくらいの意味合いを持っている。だからデザイナーも頑張るしアーティストもいろいろなアイデアを出して競い合う。その集大成ともいえそうなイベントがミュージック・ジャケット大賞ってもので今回、6回目を迎えたその発表があったんでのぞいてきた。

 栄えある大賞は第4回で準大賞にも入っていた星野源さんが、新しく出した「YELLOW DANCER」で受賞。何が凄いって言えないけれどもまあ、一般投票もあるってことでアーティストの人気にも寄ってはいるんだろうけれど、アーティスト本人が描かれていないにもかかわらず人気を得るってことはそれだけ引きつけるものがあったんだろう。準大賞は忘れらんねえよ、ってグループだかによる「犬にしてくれ」で犬が可愛いところが人気となったか。同じく準大賞はDrop’sの「WINDOW」。丸い穴が開いてて触れると中が回転して見えるものが変わってくる。仕掛け絵本のような仕掛けジャケットなんてデジタルじゃあ、無理だものなあ。やってやれないことはないけれど、それは違うものになってしまう。

 そんな作品に混じって特別賞に輝いたのが鈴村健一さんによる「月と太陽のうた」というアルバム。アーティストは言わずと知れた声優の鈴村健一さんで「空の境界」の黒桐幹也を演じていたり、最近では「おそ松さん」で意外なイヤミなんて役も演じたりと大活躍している人気声優。だからこその選出かというとアルバムは、月と太陽が描かれているだけで本人はまるで登場していない。そして鈴村さん自身が男性声優で圧倒的な人気かというとやっぱりそこは「おそ松さん」でいうなら六つ子を演じた面々が先に来て、ほかに宮野真守さんのような長身のイケメンが来たりするから鈴村さんがトップにあがるってことはなかなかない。つまりは音楽として評価され、アルバムとして評価されパッケージとして評価されたって現れ。それも多くのミュージシャンたちに混じって。そこが面白い。

 鈴村さん自身は第4回でも準大賞に輝いていたりするから“常連”ではあるんだけれど、それだって大勢のミュージシャンに混じっての受賞。声優なんだから顔を出しておけば良いとか、アニソンなんだからアニメの画像を使っておけば良いってことになりがちな中で、しっかりと、パッケージのコンセプトを作り音楽やタイトルに合わせたデザインで勝負する。それが多くのミュージシャンに並んで鈴村健一さんをその場に立たせた理由なのかもしれない。そんな受賞は発売元のランティスという、どちらかといえばアニソンが得意で声優もいっぱい出している会社で、そっちに傾きがちなデザインにそうじゃない方向性を与える意味合いも持ちそう。そりゃあμ’sでアニメや声優と無関係のデザインは出来ないけれど、所属しているアーティストによってはその雰囲気も加味しつつ、新しい挑戦を可能にする受賞ってことになるのかも。そんなランティスにあってデザインを手がけているクリエイティブルームのチーフプロデューサーが15日午後3時からトークイベントを開催予定。興味深いんで聞きに行こうかな。


【5月11日】 選挙に勝つこと、そして参議院議員として主義主張を訴えることが目的と考えるなら、それに向かってあらゆる戦術戦略を駆使することは当然で、だから世間に一番知られている「高樹沙耶」という、かつて使っていた芸名を改めて引っ張り出して掲げることの意味は分かる。ただ、そうした芸能界での煌びやかな名前を捨てて「益戸育江」という本名へと戻り、自分のやりたかったナチュラリストとしての活動を始め、じわじわとその支持者を増やしてきたことを思うと、そこで本当になりたかった自分を偽って、虚名で改めて世に出ようとする意識のどこかに、濁りのようなものも感じられて気分がカラリとは晴れない。今の自分を見て欲しいのなら、やっぱり「益戸育江」として世に活動を問うて欲しかった。でもそれだと当選せず主義主張も言えないのなら仕方がないのか、別に参議院議員にならずとも行える活動はあると指摘するべきなのか。とりあえず選挙の結果を見て考えよう。

 参議院選挙といえば「みんなの党」を作って党首となったものの、健康食品の会社から8億円を借りていたことが暴露され、熊手を買ったとか通るはずのない言い訳をしたら相手の会社からさらに突っ込まれて窮地に立って党首を降り、父親の地盤を受け継いで盤石だったはずの衆議院議員選挙にも落ちてしまった渡辺喜美さんが今度の選挙でおおさか維新から立候補するという話。なるほど保守の第三勢力を目指しているといった意味合いで思考に一致はするものの、そこで「雑巾がけから始めたい」とか言われると、いったい何のために議員になりたいのかって訝りも浮かぶ。

 高樹沙耶さんはナチュラリストとしての活動があり、医療用大麻の認可といった主義主張を通すために議員になろうとしている。けれども渡辺喜美さんが言う雑巾がけってつまりは人数合わせでもかまわないっていうスタンス。議員になるために議員になろうとしているようにしか見えない。もちろん主義主張もあっての立候補だろうけれど、その職において何を為すかを先に言わない人を、どうして送り出したいと思えるか。知名度に頼って招き入れる党も党だけれど、ここん家は先に不倫問題が噴出して自民党からの立候補話が消えた人を、その後に改めて招き入れようとしていたくらいだから、主義だとか主張だとか人格といったものより先に知名度を尊ぶのも当然か。そうやって媚びて当選したあげく、主張が対立して離党し新党結党とかする可能性もありそう。そんなフラつきを渡辺美智雄さんが見たら何というか。そんなのばかりだ息子世代。

 「3月29日の記者会見で返済不要の給付型奨学金制度を創設する考えを表明したな、あれは嘘だ」ってことになるんだろうか安倍晋三首相。行きたくてもお金がなくて大学に進学できない子供たちのために、返済義務のない給付型の奨学金を作るって満天下に公言しながら、今になって財政的な問題があるとか、高校を卒業をしてすぐ就職する子供との間に不公平が生まれるとかいって制定を先送りする考えでいるらしい。いやいやだって大学に行きたいけど行けないからお金が欲しいって話で、行かずに就職する人と比べるのが間違いだろう。就職する人でも行きたかったら応募し成績など条件が満たされたら給付すれば良いだけのこと。それで救われる人の大勢いることの方が、不公平だといって作らず救われない人の大勢出ることに比べてどれだけ有意義か。

 結局はやる気がないのに口だけって話。結果、日本の知性は下がって国力も落ちていく。誰が本当の売国さん? まあでも今の政権が目論むのは、そうした貧困にかこつけて餌をちらつかせ、自分たちが望む方向へと労働力を持っていくことだからなあ、たとえば軍備とか、あるいは軍需とかも? 在学中に予備自衛官補となることを義務づけ、卒業後に一定期間を任官するような仕組みのかわりに給付するとかいった制度がしれっとここで登場してくるなんてこと、ちょっと想像してみた。いわゆる経済的徴兵制って奴。状況から本気で導入する考えでいるのかもって思えてきた。

 制度といったあからさまなものではなくても、道筋として作っておけば選べずそういった方向に進まざるを得ないという。そんな追い込みをだんだんと強めていくのかも。一方で大学の職業訓練校化も進んでいるようで、学生に数百時間の実習なんかを義務づける見通し。でもそうやって派遣された先で事業者が学生に賃金を払う訳ではなさそう。つまりはただ働きの単純作業労働者が生まれるだけ。何の役にもたたない経験を経て、就職となって単純労働に就くだけの人間をいっぱい育てたところで、製造業は衰退し農業もTPPでずたずたとなった日本に働き口なんてあるはずもない。そんなビジョンも浮かぶ中で進む無為な政策。けれどもおちない支持率。何が何だか分からない。

 柊が登場してこれで、ずっと従っていた笹後と瓜姫の出番が減ってしまうと思うと不憫で仕方がないけれど、その面の向こう側にいったいどんな顔があるのかと想像させ、高い可能性を感じさせるところに人は惹かれてしまうものなのかもしれない。目だけを隠した笹後よりも、全部見えているけれども時々凶悪になってしまう瓜姫よりも、割れた部分から目だけ見えた柊の方が人にはきれいに思えるのだ、って最後の駅を歩く場面では仮面、外してたよなあ、だから普通に見えていたのか。そんな「夏目友人帳」は最初のシリーズから何話目か。傑作選ということは続く二期からも放送があるのかな。1期からだと人と妖怪との親しい関係が描かれた話が拾われていた感じ。2期は結構怖い話もあるからそういうのが選ばれるとか。分からないけどとりあえず、柊がいっぱい出てくれれば嬉しいかも。風呂場でお湯をかけられびしょびしょになった柊とか。あれ第何話だったっけ。

 東京ビッグサイトで開かれているIT関係の展示会をざっと舐めてから、Zepp Tokyoで久しぶりに開かれたSCANDALのライブを見物。ステージと客席との距離が近いこともあるけれど、ステージに大がかりなセットも組めないかあるいは組まない中をドラムとベースとギター2本というシンプルなロックバンドの構成でもって分厚いサウンドを作り上げるロックバンドっぷりを見せてくれていて、ちょっと遠くなってしまっていた存在が今一度、グッと身近に感じられるようになった。そんなライブ。メンバーでは名古屋組のHARUNAとMAMIによるギターの重なり具合から生まれる音は、実に多彩で時に激しく、時にメロディアスに鳴り響いて空間を音楽に染める。

 大坂組からTOMOMIのベースは底の方からドライブ感をもって響いて空間を振動で満たして心を揺さぶる。そしてRINAのドラムが激しく強く響いて全体を支えつつバンドを引っ張ってく。聞くほどにこんなに巧いドラマーだったんだと思わされること請負。そんな4人がそろった完全なるアンサンブル。完璧なるロックバンドとしか言い様がない。そんな感じだった。日本武道館をこなし横浜アリーナだって満杯にできるくらいの実力を持ったバンドが派手な演出と物語性のあるMCなんかを交えて一種のエンターテインメントとしてライブを行うことも悪くはないし、そうやってSCANDALは広くアピールして大きくなって来た。

 これからもそうした大きなハコで演る時にはそれなりのセットとストーリーでもって引っ張る必要もあるだろうけど、ライブハウスという狭いハコでそれをやっても意味がない。聞かせるのはただただ音楽だけで良いとなった時、物言うのは演奏の実力であり歌唱の迫力。そのどれが欠けても間延びした空気になってしまうけれど、SCANDALは抜群の演奏にしっかりとした歌唱でもって場を作り、支え引っ張り連れて行ってくれた。これほどまでのバンドになったんだなあという感慨と、このセッションが海外へと出て行った時にどう受け止められるかといった期待で胸がいっぱいになった。

 秋からの海外ツアーでも似たような規模で演るなら、今から予行演習も兼ねたライブハウスでのツアーとなったのか、2016年問題で大きなハコが取りづらくなっているのか、はっきりしたところは分からないけど今回のライブハウスでのツアーはロックバンドとしてのSCANDALの凄みを存分に味わえ、そして一体感のある空間を身に存分に浴びられるという意味で希有なものになっているんじゃなかろうか。結成から間もなく10年。成長してたどり着いた地平を目の当たりにせよ。そしてこれから向かうはるか彼方の高みを想像せよ。


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